さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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ラプンツェル・ダイナマイト  PTh2

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  ラプンツェル・ダイナマイト    PTh 2

 七月近く、夕暮れの四時を過ぎると、庭の半分を埋めた夕顔の花がぽつりぽつりと開きはじめる。
 獅子ケ谷住宅街の細道に面した煉瓦の門扉から玄関に通じる東南は紫陽花の群落で、こんもりした葉蔭花影に、夜にはアマガエルも歌う。南に向かって小さいバルコニーのある居間を境にした西側は、二階まで蔓を這わせて夕顔を栽培している。夕顔は亜珠子の好きな花だった。
 なめらかな白い絹を軽く絞ったような莟のふくらみがふと緩み、静かな影りのなかで吐息を漏らすように花弁を緩める。その瞬間ふっくらとした花の奥から清冽な水の匂いが立って、薄藍に溶け入り染めたかはたれに、夕顔の香りはほのかな明るさを添えるのだった。
「亜珠子さん、夕顔が咲いたよ」
 西南の一角は亜珠子の寝室だった。ピンクの薔薇で彩られたお姫様の部屋。眠れる薔薇の森の亜珠子。ラファエル前派の絵画のように亜珠子は花々の中で、やや不規則な寝息をたてている。
 寝たきり〈高齢者〉亜珠子は背中や腰、足に褥瘡防止のクッションをいくつもあてがっているが、無用の長物だった。
 癖のないしっとりした黒髪は毎日莉珠子と介護ヘルパーが交代でブラッシングし、週に一度、シャンプーしている。白髪の一筋もない。意識不明の時間にも黒髪はつやつやと豊かに伸び、今では爪先まで届く。平安時代の貴婦人のように、寝ている亜珠子の長い髪は中程で一つに束ね、枕上に流していた。
 たまさか亜珠子が両脚で立つと、彼女の肩から背中、足首に達する長い髪は、ため息が出るほどの艶を見せた。亜珠子を介護するヘヘルパーたちはきれいな亜珠子の身体に触れるのを喜んでいるようだった。
 ほんのりと桜色をたたえた象牙色の皮膚は全身きめ細かく、寝たきりにもかかわらず、手足の隅々まで柔らかく血が通っている。七十歳で生体時間を停止しようとしている亜珠子の肉体はすんなりと乙女のまま。廃用症候群の気配はなかった。
 莉珠子は小雨の止んだあとの張り出し窓を開け、ちょうど目の前に開いたばかりの夕顔のうてなに指を添えた。淡い香がする。それは花の匂いに違いないが、とても軽くさわやかなので、莉珠子は勝手に水の香りと形容していた。自分たちが夕顔と呼んでいるこの花も、ほんとうのところはヨルガオというのが正確らしい。だが源氏物語を好んだ亜珠子は、夏の暮れ方から夜明け方までつぎつぎと白い花を咲かせるこちらの花を夕顔と決めていた。
 夕顔は切り花には不向きだった。眠っている亜珠子に花の香を嗅がせてあげたいが、花を支える蔓をベッドまでひっぱるにはまだ短かった。これから十月、十一月の初冬までも生命力の旺盛な夕顔は着々と成長しながら何百もの花を咲かせてゆく。
 間もなく七月も半ばになれば、野川家は成熟した夕顔の蔓と花群にすっぽりと覆われ、屋根や壁を覆う夜目にもあざやかな純白の花の乱舞は近隣住民の眼を瞠らせた。
「ラプンツェルさん、亜珠子さん、もうじき御飯よ」
 花模様に埋もれて亜珠子の顔は陶器の人形のようだ。
高い塔のラプンツェルは魔女に閉じ込められたのだけれど、亜珠子の魂、意識を封印したのは奇異な病であり、老いだった。亜珠子の長い髪を伝わって魔女退治にやってくる王子はいない。
 長年直射日光に当たらないので色素が薄くなり、こめかみや瞼の静脈が透けて見える繊細は、セラフィストパメラの顔を思わせた。顎の小さい亜珠子の顔を莉珠子は両手で包み、頬の熱さを測った。このきれいな顔に自分が似ているのは悪くない、といつも思う。眠り続けているのに下瞼に指で押したような蒼い翳りがある。
「亜珠子さん、お、き、て」
「うん」
 やや受け口気味の下唇がかすかに動き、かぼそい声が来た。
「りっちゃん、どこ」
「夕顔が咲いたわよ。好きでしょ」
 返事はなかった。半開きの唇のなかで粒のそろった前歯が光って見える。笑っているのか。莉珠子は両手に挟んだ母親の頭をかすかに左右に揺すった。皺も染みもない白磁のような顔の中では、あちこち委縮して小さくなってしまった亜珠子の脳がふらふらしているはずだった。ころん、ころん、と頭蓋骨に小さな脳味噌がぶつかって、土鈴のような音が聞こえるのではないか。
 だが、莉珠子に揺さぶられても亜珠子はすうすうと気持ちよさそうに眠り続けている。
「あっちゃん、あたしのお父さん誰?」
 お父さんどこにいるの? 
 物心ついたころから何度亜珠子に尋ねただろう。そのたびに母親は空を指さし、
「莉珠子は天から授かったの」
 三歳の幼児でも納得できるはずもない答えだったが、お父さん誰、お父さんどこ、と莉珠子が問いただすたびに、亜珠子はみずみずと潤いを増し、少女の容姿に還っていったような気がしていた。
 莉珠子が十歳になるころには、ふたりは年の離れた姉妹にしか見えなかった。それから莉珠子の時間も遅く流れ始めた。それから亜珠子の失見当、記憶障害もひどくなっていった。
 そのころシーザーが母娘に手を伸ばしてきた。

「莉珠子さんは自分がお母さまと別々な人格だと思えない?」
「はい、でもそれは〈思えなかった〉と過去形です。十年くらい前までは。わたしは亜珠子さんと心のどこかでつながっていて、彼女とわたしはシャム双生児のように精神のどこかが癒着しているみたいだ、と思っていたんです」
 五時半にやってきた介護ヘルパーに亜珠子の世話を任せ、リアルキーパーを二錠口に放り込んで莉珠子は獅子ケ谷からタクシーに乗った。今日は午後三時に目を覚ましたから、
 九時までならどうにか覚醒していられる。だけど九時では丁度カウンセリングが終わる時間だ。そこから自宅へタクシーを飛ばして戻ってくるまでなんとか起きていたい。六時間プラス二時間だから、RK二錠。
(いっぺんに多量服用は好ましくない。頻脈または、躁状態もありうる。莉珠子の場合は鼻血かな)
 ひっひっひ、と喉だけで笑うポーンの底意地の悪い含み声が、紫の丸薬二粒を呑みこんだ瞬間莉珠子の鼓膜をかすめた。その笑い声に色彩の幻覚がつきまとわないのはラッキーだった。
「母子癒着ですね。莉珠子さんのように御自分の精神状態をはっきり自覚しておられたクライエントは珍しいかもしれません」
 エメラルドグリーンの孔雀レリーフの前に座ったパメラは、左手の人差し指で顔に降りかかる片側の巻き毛を一房はらりとかきやった。今日は首の後ろで金髪をまとめている。髪飾りは七宝に似た中近東のエナメルバレッタだった。
 スーツではなくクリーム色のさっぱりとした麻の袖なしワンピースを着ている。ワンピースの下には黒い薄物のブラウスを着て腕や腋の素肌は見せない。光沢のあるサッシュベルトは黒で、サンダルも黒。丸襟に胸元の開いた首回りにはサッシュとお揃いらしいオニキスの二重ネックレスを巻いている。今日のパメラの自己主張は黒と淡黄色。光と影。フレアースカートの襞はゆったりとして、光の領域のほうが闇より大きい。
 莉珠子は白地にこまかな青のドットのコットンワンピースを選んだ。クラシックな開襟デザインだから、子供っぽい水玉模様のわりにはフェミニンに見える。だがノースリーブからすらりと伸びた莉珠子の両腕は柔らかく細く、中年女性のものではなかった。
「母はずっと奇病にかかって、年とともにそれがひどくなる一方でした。若年性認知症。時間や空間がわからなくなり、物忘れがひどくなり、不安や不眠、妄言を言い募ったりしながら、落ちていきました。わたしはまだ子供だったけれど、母がおかしくなるのがはっきりわかったんです。ママ、おかしい、ほんとはこんなママじゃないはずって」
「そうですね、病気と本来の人格とは違いますね」
「ええ。だから悲しむだけじゃなく、わたしは亜珠子さんを割とクールに観察できたんじゃないかな。ママは憧れの対象、だいすきだけど、病んでるんだと。そして内面的には崩壊……言葉は悪いですが……していくのに、奇妙なエイジレス病も進行して、母の外見はどんどん若くきれいになっていったんです」
「時間を巻き戻すように」
「はい。もともとあんまり顔に老けが出ないひとだったと思います。画像の中で赤ちゃんのわたしを抱いている母は、四十一ですが、その姿も二十代後半くらいにしか見えません。
今は二十歳か十八か」
「はい、驚きました」
 パメラはにこっと笑った。船型に開いた唇の輪郭の中で白い歯列がきちっと揃っている。
「あたしと母は顔も体つきもよく似ています。性格はどうかしら。性格も似ているはずだったかもしれません。母の性格はわからないんです。だってわたしが物事の見きわめができるようになり始めたころ、母は認知症になってしまいましたから」
「大変でしたね」
「大変だったかしら。世間並みの苦労はしていないと思います。シーザーが現れて、あたしたちを経済的に保護してくれてました」
「シーザーとは?」
「最初彼は亜珠子さんの絵やオブジェを買ってくれたんです。亜珠子さんはアーティストだったから。絵の才能があったの。それから歌もうまかった。声がきれいで。小さいころ亜珠子さんはよく子守唄を歌ってくれました」
「すてきなお母さまですね」
「ええ。シーザーは…。シーザーはどうやって母に接近したのかな。すみませんわたし、今気づきました。シーザーがどうやってあたしたちを知ったのか、あたしはそのことを亜珠子さんから何も聞いてないわ」 
 うろたえて莉珠子は椅子から半立ちになった。そうだ、亜珠子の絵を買ってくれていたはずだ。だけどその芸術的パトロンが、いつからあたしたちの細胞を買い取ってサプリメント用クローンを増殖させる製薬会社になったのだろう。
「莉珠子さん、落ち着きましょう。わからないことはわからなくていいんです。話せることだけお話しくださいね。すてきなお母さまは幼いあなたに、フォーレの子守唄を唄ってくれたんですね」
「ええ、そう」
 座り込む。とたんにへなへなと両膝の力が抜け、ひどい睡魔に襲われる。母の子守唄が脳裏によみがえる。眠りをさそうガブリエル・フォーレの旋律。天使の音楽。睡魔と追憶のはざまで母親の声は薄紫。
「先生、わたし、フォーレって言った?」
 能無しポーン、RKの効き目なんて追憶よりも弱いじゃない。

 ペパーミントの香が鼻孔にあふれて莉珠子は咳きこんだ。いきなり強すぎる刺激だ。パメラのカウンセリングルームには、空気清浄装置からたちのぼるほのかなラヴェンダーミスト以外の匂いはなかったはず……。
 それに、パメラには体臭がなかった。初回面接のときに気付いたが、彼女は香水さえも使っていない。欧米人には稀な体質だ。東洋の遺伝子が入っているのかもしれない。
 むせかえった弾みに飛び起きた莉珠子は、今まで自分がベッドに寝かされていたことがわかった。白いシーツとタオルケット。白い壁。カーテン。
 ベッドは寝相が悪ければ転げ落ちてしまいそうに細長い。学校の保健室の寝台でも、もうすこしゆとりがある。だが清潔だった。ミントの香りといっしょに、胸元のタオルケットからフローラルな石鹸の匂いがする。洗いたての布の感触は安心をくれた。
「お水をどうぞ」
 きれいな声といっしょに白衣の腕がすっと伸びてきて、ガラスのコップを手渡した。ミントの葉がひとひら浮かんでいる。つん、と鋭く匂うが、さっきのミントグリーンの衝撃源にはちょっと不足だ。
「莉珠子さん、ほんとによく眠ってたわ」
「あなたはどなたですか。わたしはカウンセリングルームにいたはずよ」
 コップをくれた腕から視線を移すと、魅力的な顔があった。小麦色の肌をした晴れやかな表情で、斜めに体を退いて莉珠子を見下ろす視線がさわやかだった。
「パメラが昨夜あなたをここへ連れてきたのよ。面接中に眠り込んでしまったと」
「はい」
 そうだったのか。亜珠子の子守唄の旋律が記憶から立ち上ってきて、睡魔もやってきて、それで……。
「今、何日の何時でしょうか」
「昨日の今日で、午後一時。だいたい十六時間眠ってましたね。眠り姫さん」
「ここはどこですか」
「星と小鳥のクリニック。わたしはここの管理者兼勤務医の羽戸です」
 医師を名乗った女性はベッドに身をかがめて自分のネームプレートを見せた。
「ハト? 鳥の鳩。だから星と小鳥なの?」
「そうだと面白いわね。でも経営者は別」
 耳の見える栗色のショートカット。羽戸医師は三十代だろうか、小造りな顔にほどよく鼻筋がとおり、きりりと切れ長な目元が心地よい。女性自衛官か警察官募集のモデルにぴったりな顔立ちと雰囲気。頬骨のあたりに淡く雀斑が見えるのも健康的だった。莉珠子は反射的にポーンを思い出したが、顔にお茶漬け海苔を吹きかけたようなポーンと、羽戸医師とでは月とスッポンだった。
「ここは麻布なんですか」
「いえ、六本木」
「パメラが眠り込んだわたしをここに救急搬送したの?」
「彼女が自分の車で運んできたの。そしてカウンセリングの守秘義務には反するけれど、緊急事態だからと、あなたの持病も聞かせてもらいました。エイジレスとナルコレプシー。ほんとね、あなたは中学生、高校生にしか見えなかったし、見えませんね」
「パメラは」
「帰りました。あなたの住所を知っているけれど、送っていくわけにはいかない。だってお母さまも寝たきり、ターミナルに近いからと」
 莉珠子の問いに応える羽戸医師の声には情緒の無駄がない。かといって横柄でもなく、うろたえている患者への善意にあふれているのがわかる。
 受け取ったコップから水を飲むと、喉をすべり落ちるミントの風味といっしょに羽戸医師の声が初夏の木漏れ日のように莉珠子の鼓膜に入ってくる。ドクター・ハトの声はペパーミント・ウォーター。
「先生、おひとりでここを? 診察時間は」
「このクリニックの診察時間は原則夕方から深夜なの。特別な予約があったときは午前中診療します。医師はわたしのほかに二人。昨夜はたまたまわたしが夜勤だったの」
「夜勤が普通みたいなクリニックなんですね」
 莉珠子の何気ない言葉に、羽戸は笑顔のままかるく唇を結んだ。微笑にかすかな緊張が走った。が、声音は明るいまま、
「そう。ちょうど野川さんの眼が覚めてくれてよかった。わたしはそろそろ帰ろうとしていたところだったの。お住まいは獅子ケ谷でしたね?」
「はい。タクシー呼んでいただけます?」
 先生、ちょっと、とカーテンの後ろから看護師が顔を見せた。ひそひそした声で
「また、やっちゃいましたよ、あの子」
「ああ」
 羽戸医師は体ごと看護師のほうを振り返ると、さりげない声のまま、
「個室にグッズは置かないはずでしょ。何でやったの」
「それが、ミリペンなんです。尖端の細い、極細の青いペンを、こう、ぐさっ」

 タクシーは首都環状線の事故渋滞に会い、獅子ケ谷に戻った時は四時を過ぎていた。
車のなかでも莉珠子はうとうとしていたが、星と小鳥のクリニックで熟睡させてもらったおかげで、それほど眠くはなかった。長年の習慣で退屈になると目を瞑る。じきにするすると眠りに包まれる。眠りは触り心地のよい布のようだった。淡い眠りは透明な雨の膜のようであり、睡魔に襲われる時は、重厚なヴェルヴェットの質感だ。
 タクシーに揺られながら排気ガスとかすかな煙草の臭気を嗅ぎながらのうたたねは快適ではなかったのに、莉珠子はきれいな夢を見ていた。夢を見るのは珍しいことだった。ナルコレプシーという病のせいなのか、それとも莉珠子の体質なのか、彼女はほとんど夢を見ない。
 ドライバーに促されて自宅手前の四辻で降りると、驚いたことに家から十メートルほど離れた一角まで、夕顔の蔓が一本だけ伸びてきていた。朝顔よりも肉厚で濃い緑の葉が何十枚も螺旋状に繁り、ところどころで、白い中太りの筒のような莟がぽったりと咲きかかっていた。
「わあ、きれい、でもたいへん」
 隣近所の迷惑になるから、この蔓は切り取らなくちゃ。だけど今夜一晩なら、この細道に放置したっていいかもしれない。車は入ってこないし、夜目にも白く、大きい夕顔の花は人気の少ない路地に明るさをくれるに違いない。それに清冽な香りと。
 莉珠子の思案を読み取ったかのように、ふっと一つ花開いた。家から乗り出した蔓の一番壁際の花だ。じっと見ていると、いくつか呼吸を置いてまた咲いた。一ツ、二ツ、三ツ、何かを指折り数えて、ほっ、という安堵の息を吐くように、白い花が順々に、莉珠子の立っている四つ角まで咲きつらなってくる。
 一本の夕顔の蔓に、規則正しい時間と空間を置いて咲く白い花の絆(つな)は、眼に見えない誰かの足跡のようだ。
顔を上げると路地に面した莉珠子の家の西側ほとんど、夏の朱い西陽を浴びながら緑の蔓りに埋め尽くされ、夕映えを照り返す純白の花が壁面を飾っている。
 夕顔の蔓を渡って開花といっしょにこちらにやってきた誰かは莉珠子の家に棲んでいる亜珠子かもしれない。臨終近く昏睡している亜珠子が、生命力旺盛な夕顔に憑依して、莉珠子を迎えに来たのかもしれない。
 ゆらゆらと蔓の先端が莉珠子の爪先まで伸び、小蛇のように緑の鎌首を持ち上げた。
「よかったっ! 野川さん、いらっしゃったんですねっ」
 必死あらわな大声が飛んできて、莉珠子は我に返った。
「探したんですけどっ、お母さんが、ベッドにいないんですよお」
 叫び声は最後に「よおお」と半泣きにしぼんだ。夢うつつでふらふらしている莉珠子の右腕をむんずとつかんでヘルパーが、
「さっき、いつもどおりお宅にうかがったら、鍵が開いていて、それもいつもどおりだったんですけれど、あがって、お母さんの寝室に行ったら、どこにもいないの」
「え、え」
 莉珠子は数回大きく瞬きした
(タクシーに乗って六本木から武蔵野まで戻ってきて、車を降りたら辻まで夕顔が花を開きながら伸びてきていた。足もとで蔓のさきっぽがひょろりと首を持ち上げて)
 柊と山茶花の生け垣の真ん中の門扉の前に莉珠子は立っている。門扉は野川邸の南表に面しており、亜珠子の好みでアンティーク調の薔薇の楕円天井アーチが設けられていた。五月に見ごろだったピンクの蔓薔薇は梅雨も終わりの今は花弁を落とす休憩の季節で、庭の奥を占める紫陽花や、壁を這いのぼる夕顔に負けて印象が薄い。
 莉珠子はそのアイアンアーチの真下で立ちすくんでいる。
(いつここまで歩いたの?)
 タクシーを降りたのは夢だったの、それとも現実?
 ヘルパーは動顛まるだしに顔を紅潮させ、
「娘さんも探したんですけど、お部屋にもいなくて、失礼だとは思ったんですけど、お家の中じゅう探して、いないから出てきたら、こんなところに。外出してたんですか?」
「ええ、そうです。母がいない?」
「そうです。何年か前には徘徊がおありでしたけど、もうずっと寝たきりだったから」
「まさか。起きるのがやっとなんだから」
「ですよね。でもいないんです」
 いつもは適切な敬語を使うベテランヘルパーは、声もうわずってしどろもどろだった。
 自分の夢うつつは後回しにして莉珠子はあたふたと亜珠子の部屋へ行った。
 薔薇とフリルの寝室はきれいに片付いていた。荒らされた気配はない。セコムよりも完璧なシーザーの監視が守るこの家に犯罪の忍び込む余地はない、はずなのだが。
 数日前にヘルパーが夏物に取り換えたばかりの薄手の布団が半分めくれ、亜珠子は本当に姿を消している。数時間か、数十分前か、確かに彼女の寝ていた痕が窪んでいる。
 莉珠子はその凹みに手のひらをあててみた。ひやりとして体温は残っていない。亜珠子がいなくなったのは昨夜ではないかという気がした。セラフィストパメラのカウンセリングルームで莉珠子が眠り込み、星と小鳥のクリニックに担ぎ込まれた都心の騒動の間に、獅子ケ谷の自宅でも変事が起きた。莉珠子に事件があった時間に、亜珠子にも。
(だめ、こういう直観って亜珠子さんとの癒着強迫観念に違いないんだから)
 が、現実に亜珠子はいない。
「探さなくちゃ。ああ、もうそんなことは無くなったのに違いないと思ってGPSも切ってしまっているわ」
 亜珠子がまだ一人歩きできた数年前まで、認知症徘徊探知機は、起床センサーと一緒に寝室に備え付けてあったが、今はない。
「とりあえず事業所に連絡させてもらっていいですか。それから指示を待ちます」
「そうしてください」
 スマホを片手に廊下へ飛び出したヘルパーを見送り、莉珠子は亜珠子のベッドサイドの小机にちょこんと立っている水色の上着を着たピーター・ラビットを取り上げた。片耳をぴんと立て、もう一方の耳は斜めに折れている。短い両手にオレンジ色のニンジンをマイクのように握っていた。
「ハロー、ポーン。緊急事態よ。聞こえてるんでしょ?」
 莉珠子はニンジンマイクを握ったインタビュアー、ピーターにささやいた。
「寝たきりだった亜珠子失踪。でもあなたがたの監視カメラには映っているはず。彼女の居場所を教えて」
 ピーターはもちろん無言だ。このぬいぐるみの中にシーザーの盗聴器がひそんでいるのか莉珠子にはわからない。だが、どこであれ何であれ、莉珠子たちの一挙一動、ちょっとしたつぶやきの断片であれ、決して聞き洩らさないシーザーの監視に囲まれているのだから、ピーターでなくても、例えば亜珠子の口腔ケアをするライオンの歯ブラシをマイクにしたっていいのだけれど、うさぎのぬいぐるみの方が可愛げがあるのに違いなかった。
  ルルル、とピーターの後ろに置いてある子機が歌い始めた。オルゴール版〈渚のアデリーヌ〉
 いつもスマホかパソコンで世間とコミュニケーションしている莉珠子は、緊急事態のBGMには全くふさわしくないのどかなメロディが家電話の呼び出し音だということがとっさにわからず、自分が抱えていたうさぎのぬいぐるみが歌い出したのかとぎょっとしてしまった。人を喰ったポーンなら、アッカンべーの代わりにポール・モーリアを寄越すくらいの〈無視〉はありうることだった。
「もしもし」
「野川さんですか?」
 受話器の向こうから聞こえた声は、可憐な少女の声だった。今まで聞いたことのない声。
「どちらさまですか?」
 少女の声は困惑あらわに、
「あの、お母さんをうちにお預かりしてるんです」
「ほんとですか!」
この状況で嘘のはずはない。
「はい、本当です。でもお母さんですか?」
「ええ、あたしの母です」
 受話器の向こうの沈黙数秒。十九二十歳にしか見えない亜珠子。電話機を通して少女にに聞える莉珠子の声は十五歳だろうから、「ほんとですか?」と言いたいのはあちらのほうだろう。
「それで、あの、亜珠子さんは自宅がどこだかわからないっておっしゃるんです」
 少女はゆっくり言葉を探しながら話している。何歳なのだろう。娘の声ではないが幼女でもない。十二歳、十三歳くらいかな。
「彼女、喋れたんですか」
 莉珠子は自分の驚きのほうを優先してしまった。少女は怖気づいたように声を低めた。
「ええ、はい」
「電話番号も覚えていたのね」
「いいえ、ネグリジェの裏に書いてあったんです。名前と、住所。電話番号。だけど住所は薄くなっていて読めませんでした」
「ああ、そう」
 亜珠子の着ていた寝間着が昔のもので幸いだった。十年ほど前、まだ亜珠子が徘徊できる頃、全部の靴や衣類に油性マジックでネームを書いていたのだった。
「武蔵野市獅子ケ谷です。そちらは?」
「神奈川の鹿香市です」
 今度絶句するのは莉珠子のほうだった。武蔵野から都心を横断して湘南鹿香まで、亜珠子はどうやってたどりついたのだろう。徘徊する高齢者は信じられない脚力を示すこともあるが、数年来寝たきりの亜珠子の筋力では夜通し歩いたとしても……
「亜珠子さん、鹿香のどこにいたんですか、あなたが見つけてくださったの? ごめんなさい、そちらのお名前をうかがってなかったわ」
「風間めぐみと言います」
 すうっと気持ちの良い香りが聞こえた。色彩ではなく、莉珠子の語感の先端を掠めたのは、さながら六月の梅雨入り前の夏空に似た匂いだった。若葉のさみどりが空のセルリアンに溶け入り、夏をめがけて伸びゆく動植物の気配で光と風とが潤う匂い。
「今朝、おばあちゃんの家にいたんです」
 おばあちゃん、亜珠子も本当ならおばあちゃんだ。おばあちゃんの家におばあちゃんがいた。いや語呂遊びをしている場合じゃないぞ、と莉珠子は突拍子もない亜珠子の〈跳躍〉に何とか理性で対決しようとする
 少女のおばあちゃんの家も鹿香だろう。仮想現実のプロジェクション・ワープなら、獅子ケ谷からエベレストにだって飛躍可能だが、亜珠子は多次元立体投影じゃない。現実に西東京から海辺の街まで飛んだのだった。
(やっぱりポーンにすがるしかないか)
 シーザーの監視カメラに亜珠子の失踪顛末は記録されているはずだ。この電話もシーザー≒ポーンは聴いている。その前にまずは亜珠子を迎えに行かなくちゃ。
「これから母を迎えに参ります。ご住所を教えてくださいますか?」
またタクシーだ。RKを三錠飲んで鹿香までと帰路の覚醒を補強して、と。
「野川さあん、警察と消防に連絡してって」
 ノックなしにヘルパーが飛び込んできた。
「見つかったの」
 送話口を抑えて莉珠子はヘルパーに笑顔を向けた。が、彼女の笑顔はひきつっていたかも知れなかった。
「え、本当ですか。よかったあ」
「そう、本当ならすごいことよ」
「そうですねえ」
 本当のことは何も知らないヘルパーは額と首筋の汗を拭き拭き、気のいい笑顔を返した。
「どこらへんまで歩けたんでしょうね」
「ははは」
 まさか、神奈川の湘南よ、とは言えないので、笑い声でお茶をにごす。
「これから亜珠子さんを迎えに行きます。今日はすみませんでした。御心配かけちゃって。責任は全部こちらにあるんですから、事業所にもそう伝えてください。詳細は後日お知らせしますね。ありがとうございました」
 いかにも取り込み中というせわしなさをつくろい、目くばせでヘルパーを返した亜珠子は、もう一度受話器を持ち直した。
「ごめんなさい。今介護士さんが来てくれてたの。それで、そちらの詳しい住所をくださいますか。今から伺います。ごめんなさい」
「何も映ってなかったよ」
 電話にいきなりポーンが割り込んできた。
「えっ」
「亜珠子は眠っていた。昨夜の七時に彼女の寝姿が確認される。そこから深夜0時までシーザーの監視システムに何等かの障害が生じ、画像はグレーゾーンになっている。ハッキングなのかウイルスか不明だが、この異変にクイーンコンピュータが代替作動しなかったのも奇妙だ。莉珠子がインタビューするまでぼくにもわからなかった。ぼくは今スイスのユングフラウの前にいるんだが」
「シーザーもパーフェクトじゃないってことね」
莉珠子の嫌味にポーンはびくともせず、
「亜珠子が発見されたのは鹿香だって? 実に興味深い現象だ。この一件はエイジレス亜珠子の肉体に付加価値を与える。莉珠子、君の健闘を我が社は全力で応援するよ。あらゆる状況においてシーザーは無敵であり、彼に失敗などは存在しないのさ」

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六条御息所の魂

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    六条御息所の魂

 光源氏をめぐるあまたの女人のなかで、六条御息所は、よかれあしかれ際立った生彩を放っています。とはいえ、年下の源氏に執心し、生霊、さらには死霊となってまで彼につきまとう彼女を、ごくおだやかな意味合いで好ましく思うのはむつかしいかもしれません。
 いっぽうで、実家や男の庇護に依存した生きかたをせざるをえない源氏物語の繊弱な貴婦人群のなかでは、未亡人でありながら、みごとに経済的に自立しつつ、その才覚とは裏腹に、愛欲の面できれいごとでない本能のくらさをくまなく晒してしまう彼女に、好き嫌いは別として、直接的な感情移入が生じてしまうのも確かです。
 御息所のような美貌のマダム、あるいはキャリアウーマンタイプの女性を、わたくしは、たとえば、三島由紀夫の作品のなかに、連想します。うろおぼえですが、『近代能楽集』『美青年』『豊穣の海/暁の寺・天人五衰』などに描かれた誰それ……。
 三島由紀夫は、女々しい女性よりは、むしろ自我のはっきりとした母性的でおおらかな女性を、好んでいたのではないか、とわたくしは思ったものでした。
 

  露ながら光に沁むる夕顔の
     閨の奥処(おくが)に残す吐息よ
 

 六条御息所は「夕顔」巻で登場します。名門に生まれ、美貌で聞こえた教養高い女性であるにもかかわらず、若い源氏の心は、はやくもこのひとから離れかけているという次第が、素性の知れない街の女夕顔との情事と平行して語られます。
 おっとりと可憐な夕顔に、光源氏は理性を失って溺れてしまう。この巻に、御息所の直接の描写は多くないのですが、源氏と夕顔との情景を読んでいくと、しぜんに、夕顔の人となりとは対照的な御息所の姿が浮かんでくるのです。読者の心理を知りぬいたこうした機微、紫式部の天才的な表現力におどろくばかりです。
 「葵」巻で、御息所はさらに鮮明な印象を刻みます。葵祭の車争いで踏みにじられた自尊心と嫉妬から、生霊となって恋敵の葵の上を憑り殺し……という皆様ご存知のことと。
 わたくしは、この夕顔・葵の情景を古典朗読で何度か上演いたしました。よく知られている場面でもありますし、声の作り方も立体化しやすい劇的な光景だからです。こうした刺激の濃い叙述のときには、朗読の微妙な濃淡に、つとめて配慮いたしました。
 業ふかく、嫉妬やうらみに身を灼く女人であると同時に、高貴人(あてびと)としての誇りや反省、みずからの所業の浅ましさに涙する苦悩もまた、ただならなかったことでしょう。生霊登場の場面であっても、たんにおそろしい、強調した声音だけでは、このひとの,深い内面をつたえることはできない。この女人の愛や哀しみ、そして及ばずながら、気品をも表現できたらと。
 

  契りあればなほとどめえぬ息の緒を
      落ち髪に問ふ朝のはかなさ


 それぞれに才色備えた自分の恋人のなかで、六条御息所を源氏は、
「心ばせの、いと恥づかしく、よしありておはする……
 御気性がこちらが恥じ入るほどすぐれていて、深いたしなみをお持ちでいらっしゃる」
 と、男性から眺めた女性賛美としてはやや微妙な言い回しをし、ことに彼女の筆跡を「際こと……格別」であると、これは絶賛しました。
 男が愛撫し、情熱を傾けたくなる可憐な女人ではなく、また甘えて身を投げるというあたたかな母性とも違う……そんなニュアンスが、光源氏の言葉の端々からたちのぼってくるようです。
 そもそも若い源氏が、皇太子の未亡人御息所に関心を抱いたきっかけというのも、ふと手に入れた彼女の筆跡のすばらしさに感動してのことだったそうです。
 「梅枝」巻で、紫式部は、

 よろづのこと、むかしには劣りざまに、浅くなりゆく、世の末なれど、仮名のみなん、今の世は、いと、際なく、かしこくなりにたる……
(すべてのことが昔より衰えてゆく世の末だが、かな文字だけがこの現代でかぎりなく優れている)

 と仮名文字の水準の高さを誇っていますから、源氏の夫人たちも当然のように、とりどり達筆と造型された中で、さらに別格扱いされた六条御息所の手跡は、いったいどれほどの美しさだったのでしょう。
 紫式部の生きた時代は、藤原行成(ふじわらのこうぜい)が、後世神筆とあがめられる優美繊細な書を残して、現代の平仮名につながる世尊寺(せそんじ)流の源となり、紫式部自身もさだめて能筆であったようです。伝紫式部筆という手跡が現存していますが、まことにみごとです。
 ……わたくしは、源氏物語に登場する女人のなかで、最も深い愛欲に惑う御息所を、また並外れてみごとな書風のひとに造型した作者の意図を、浅からず思いめぐらします。


   時雨していや冷えびえと朱深む
     楓あかりに心(うら)吸はれつつ


 そのようなことを考え考えしながら、物語を読んでまいりますと、「絵合」巻の、
「筆とる道と、碁打つこととぞ、あやしう、魂のほど見ゆる」
 という言葉が目にとまります。
 ここでの「魂」という言葉は、「天分・才能」と一般には訳されるようですが、わたくしは「たましひ」という単語に、「葵」巻で生霊となって現れた御息所の歌、「空に乱るる我が魂(たま)を……」を想います。
 踏みつけにされた恨みと嫉妬に心の抑制を失い、肉体から遊離して葵の上に襲いかからずにはいられない魂……。時間的物理的な制約を凌ぎ、超現実の世界に飛躍するほどの激しい情念をも「たましひ」という言葉は含むものなのでした。
 興味深いことに、御息所からは遠く隔たった物語の後世、宇治十帖のヒロインのひとり、浮舟は名門美女そろいの源氏物語のなかでは劣った筋目の少女ですが、父八宮ゆずりの美形のほかには、貴婦人らしい素養も身につけず、筆跡も、恋人の貴公子薫の目からすると、まあ、なんとか見苦しくない程度……というかわいそうな彼女ながら、碁だけはたいそう上手であったと描かれています。そこにも、作者のたくらみがこめられているのだろうと思います。運命に流されてゆく浮舟……エゴイスティックな男たちの玩具になるばかりの窮地から脱出するために、宇治川に身を投げるという強行を果たしたかよわい彼女の外見には窺えぬ「たましひ」の強さが、そこにほのめかされているのかも。
 話をもとにもどしましょう。このような所感は、とりとめない連想にすぎません。
 葵の上の死後、御息所は源氏への未練を絶ち、「賢木」巻で、伊勢斎宮に立てられた娘に付き添って都を離れます。
 当時の通念としては女盛りを過ぎつつあった御息所は、たとえまた都にもどろうとも、この別れが男女の交わりの終わりになると自覚していたことでしょう。源氏も、むろん察していました。
 数年後、「澪標(みおつくし)」巻で帰京した御息所は、再び源氏と対面することなく、病を理由に尼となり、ほどなく亡くなりました。当時の尼僧は、すっかり剃髪してしまうのではなく、腰のあたりで髪を切りそろえ、これを尼削ぎと言いました。
 かつての愛人の病床を見舞った源氏が、物陰からそっと覗くと、

「心もとなきほどの火影に、御髪(みぐし)いとをかしげにはなやかに削ぎて、物に寄りゐたまへる、絵に描きたらむさま……
 ぼんやりした火影に、髪をたいそうくっきりと切りそろえて、物に寄りかかっている御様子は、絵に描いたようで……」

 という美しさに、心を動かされるのでした。
 愛の悩みを尽くして生きた御息所の早い晩年、女のいのちをかたどる黒髪を、絵のように「はなやかに削ぎて」という鮮明な視覚描写に、わたくしは御息所らしい美しさ」と、切実な心のありかたを感じます。
 髪の裾は、手入れを怠ればたやすく乱れてしまうもの。病身ではまして、普段よりしどけなくなるだろうのに、このひとは、張り詰めた心のまま、乱れを見せたがらない。
 その緩みのない、緊張した姿に、かつて理性の箍(たが)をはずれてあくがれ迷い、葵の上の産褥で焚かれた芥子の匂いを髪に沁みとおらせた生霊の無残な記憶、虚空に乱れ飛んだ己が魂への、ひそかな怯えまで推し量るのは……
 そしてまた、尼削ぎしても「いとをかしげ」たいそううつくしく揃うたというこのひとの髪は、病み疲れてもなお、つややかな豊かさを保っていたのでしょう。
 その黒髪に籠もる想いの深さゆえか、死後も救済には遠かった、とのちに。


  憂しや我眼蓋(まなぶた)重き長き夜の
      無明の闇に身を尽くしつゝ

アンドロメダ・マスカレード  チェリー・トート・ロードvol17

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アンドロメダ・マスカレード

 満席だ。立ち見も出ている。
 〈ラグレアブルアノ二ム〉開演十分前、茴と亜咲と豹河はもう舞台にいる。
 茴は黒のサテン生地に孔雀の羽根を裾回りに刺繍したドレスを選んだ。金ラメの深い裳裾に、孔雀の羽根のヘッドだけは刺繍ではなく本物。たくさんの孔雀の羽根を腰で束ねて深緋のサッシュで絞り、長い裾まで末広がりの、まるで極彩色の羽扇を重ねたようなデザインだった。
 片肌脱ぎに襟ぐりの大きい胸元もエメラルドグリーンの孔雀の羽根で飾り、あらわになった二の腕と首には、サッシュと同じ緋色のスワロフスキ―のクリスタルチョーカーとリングを嵌めた。茴は自分のほっそりした腕や鎖骨のかたちがきれいなのをよくわかっているので、豪華な孔雀の羽根でヴォリュームのない胸や腰をカヴァーし、見せるところは華やかに魅せる。髪はうなじを見せて高く結い、髪飾りもやはり孔雀の櫛を挿した。スカートに万遍なく散った金色のラメは上半身で規則的な青海波模様になっている。
 亜咲はワインレッドの衣装を選んだ。自分の肉体美をよく承知して、胸と腰をはっきり強調するシンプルなマーメイドラインだ。バレーボールのような胸のふくらみ二つを見せて、マリリンモンローばりに細い今夜のウエストは、あるいは秘密のコルセットのおかげかもしれない。お互いほとんど夜の蝶ね、と亜咲は控え室で茴にささやいたが、夜の蝶々なんて大時代な言葉いまどきわかるんだろうか、と心で思って茴は返事をしなかった。亜咲は髪を上げず、肩の上で大きく内巻きにし、長い黒真珠の二連ネックレスをつけている。イヤリングはバロックパールだった。『シェリ』のヒロイン、レオニー・ロンヴァルの太い首を飾った四十九粒の真珠より、亜咲の黒真珠はずっと数が多いだろう。
 マジック・ミラーの機能を備えた半透明なシェードで仕切られた向こう側で、客のざわめきがやまない。まだ照明があかるいそちらから薄暗い舞台は見えないが、茴たちのほうからは観客のさんざめきが透視できる。ギャラリーは高さの変わらない平土間を適当に仕切っただけの舞台空間だった。
 最初に茴の無伴奏チェロ組曲五番サラバンドから始める。万が一出しものが足りなくなったときの用心にと、あとからつけ加えた曲を意外にも豹河と亜咲は気に入り、出のつかみに弾くことに決まった。
「サラバンドの途中から俺が被ります」
 豹河は今日になって言い出した。出演者の着替えが終わった直前に、だ。
 茴は微笑した。否も応もない。彼がやると言ったらやる。茴は違うことを言った。
「あなたの衣装はロットバルト?」
「わかります? ガーネットの弟子から借りてきた」
 ベルベットのような手触りの、濃紺に黄金の羽根をつらねた両翼とタイツ。フルートを吹くために両手は翼のさきから出るようになっている。背面正中線に沿って恐竜の背びれに似た雲母いろのぎざぎざがついている。悪魔のひれはいったん腰でとまり、タイツの膝から下、ひかがみから足首にかけてまた続いていた。
  豹河の腰の大きさに茴はおどろく。自分よりはるかにしっかりした厚みとしなやかな起伏を青年の下肢は備えている。茴の骨格が普通の女性一般より華奢なのだとわかっていても、手の届く距離に見る溌剌とした異性の若い弾力はまぶしかった。櫂はどうだったろう、と考えようとしたが、これはどうもアリバイめいて茴自身に説得力を持たなかった。
 豹の胸前はインディゴ・ノイズとおなじようにざっくり臍の上までⅤの字に切れ込み、乳首をあやうく隠し、なめらかな胸板と腹筋を見せている。臍上ぎりぎりで節度を保ってくれたのは茴への配慮というものだろう。挑発しなければ豹のファンは不満だろうし、逆に茴や亜咲の友達は眼を剥く。あやうさとぎりぎり、影を見せずに欲望を喝破する豹河の表情は、贅肉がなく大きい。
 開演三分前。少しずつ、観客の気付かない速度で会場の照明が落ちてゆく。夕闇の気配がしのびよる。茜色の倦怠に気付かない観客の無駄話はやまない。
 一分前、はっきりと宵闇。誰が指示したわけでもないのに、話声は静かになる。溶暗はひとの視線を外から内面にいざなう。ざわめきが騒音からひそひそ声に移ったあたりで、観客の耳はぼんやりとした時計の音を聞きはじめる。一分は六十秒。チクタクでもカチコチでもない、水音でもなく、角を柔らげられた秒針の進む音。聴くと聞かないとにかかわらず、わたしたちが乗せられている世界の秤の進む音が聴衆の鼓膜を叩く。
 さあ、すっかり真っ暗だ。だけどプレーンシェードは上がらない。パフォーマーはガラスの壁の向こうがわ。突然藍色の光が帳に弾けて、正面いっぱいにアンドロメダ星雲がゆったりと旋回を始める。観客が座った白いギャラリーの壁や床に渦巻の銀河はひろがり、時を呑みこむ宇宙空間がl,espritaeriensを覆う。もう秒針の音はない。銀河の向こうから、時の流れに変わって、茴のサラバンドが始まった。

 鶸は苦しまずに逝った。
篠崎月さんの介助を済ませ、王船市民病院に茴がかけつけたときもう意識はなく、それから一両日、点滴や酸素吸入でベッドにつながれていたが、さしせまった死はあきらかで、また茴は苦しい延命をのぞまなかった。
最初に茴が見た病院の鶸の顔は、眉間に薄く縦皺を寄せていたが、茴はそっと指で母親の眉を開いた。半開きの口許は吸入器のためにいじらなかったが、臨終を告げられると同時に、茴はへの字のかたちを上向きの微笑に整えた。眉をひらきうっすらと笑った顔は、もっとも鶸らしく美しくなった。
  鶸もカトリック信者だったので葬儀は近所の王船教会ですませた。〈やすらぎ〉職員が参列し、妹夫婦と、それに幸府在住の鶸の兄姉もやってきた。鶸は作家としてまだ一応名前を保っていたから、懇意にしていた編集者も何人か来たが、茴はできるだけ簡素にと願い、新聞広告もすぐには出さなかった。
 櫂が亡くなっているので、親類縁者を狭くした葬式の参列者はほとんど女になった。
「鶸さんいいお顔で」
 着物の喪服の襟をさわやかに抜いた百合原が、ハンカチを鼻先に押し当て、絵のような仕草ですすり泣きながら、きれいな言葉をくれた。棺の中の鶸の顔は死化粧を厚くして、口紅を塗り眉を細く描き、皺もしみも消え、とりどりの花と折鶴に埋もれ、さながら能の女面のように清々として見えた。
 くしゅくしゅと陽奈は茴の脇で泣いた。鶸は陽奈を特に可愛がっていたから、衝撃は実の娘の茴や毬よりも、陽奈に大きかった。
「こんなに急に死んじゃうなんて。一言でも話ができたらよかったのに」
 陽奈は講義を休んで病院の鶸に付き添い、臨終後の湯灌を茴といっしょに浄めた。死顔のメイクも茴や毬ではなく陽奈がした。
「おつかれさま」
 亜咲は言葉を連ねず、ごく短く茴を労わってくれた。それが耳に浸みるように聞こえ、茴の頭のてっぺんが、亜咲の一言で天高く突き抜ける感じを覚えた。
(疲れていたんだ、わたしは)
 司祭の司式で聖歌を歌い、死者を悼む言葉を聞く。しめやかな葬儀の最中ずっと茴はぼんやりしていた。放心のはざまにこんな問いが湧く。わたしに悲しみがあるだろうか。鶸が施設に入ってから、すっかり楽になったと思っていたのに、今の自分の感情の淡さはどうだろう。
「お姉ちゃんありがとう」
 毬は言った。葬儀でも毬はちゃんと付け睫毛にアイシャドー、チークは濃いめだった。口紅だけ淡い。
(妹のメイクがしっかり観察できるということは、わたしは冷静なんだわ。悲しい?)
 茴の顔を見つめて、それからさらに毬は言った。
「ママは幸せなひとだったよね。実の娘にこんなに世話してもらえたんだから」
 茴は答えられなかった。悲しみの実感がわかない。〈やすらぎ〉の職員は一様に涙をこぼしてくれる。メダカちゃんもケアの合間に来てくれて、眼を赤くして茴に言った。
「鶸さん、うちで一番若くて美人だったのにこんなにあっという間に逝っちゃうなんて。ほかの入居者さんも悲しがってる」
「みんなにさんざんお世話になって」
 夜毎の鶸の愁訴や失認に、どれだけ職員は手こずったことかと茴は想像する。
「世話がかかるから施設に入るんだから当たり前よ。クリアなときはいい人だったし」
 メダカちゃんは涙をこぼしながら茴を労わってくれた。茴は言った。
「みんなに優しくしてもらって、母は幸福だったわよ」
 それはほんとうだった。
 全能の神の憐れみにより、マリア・ベアータ…鶸は帰天する。地上におけるいっさいの束縛を免れ、母にまつわる茴の罪悪感も鶸の魂といっしょに天に昇る。
 聖堂の前にまだ若木の桜がある。これは染井吉野だろうが、関東一般の開花よりずっと早く、ちらほらと咲き始めている。
 軽くなった、と茴は早咲きの桜を眺めて思った。七十前の死は早いが、鶸の状態は不可逆で、肉体はともかく心はゆるゆると壊れていくばかりだった。妄想や強迫神経に加え、認知症がひどくなったら、周囲への迷惑もさりながら、抑鬱や発作に蝕まれる鶸のほうが苦しいだろう。
 『恍惚の人』の舅はアルツハイマーで、最期は嬰児のような笑顔になって崩れていったが、鶸はそうはいかないはずだった。茴には鶸の行方が見えたから、水曜日に母親のケアに入るたび、自宅で介護していたころとは色合いの違う虚無感を湛えて鶸を見ていた。
 ターミナルは予想以上に迅速に、それこそ神の恩寵のような一撃で鶸に訪れた。
「これでよかったの」
 ぼそりとつぶやくと、ちょうど傍にいた毬と陽奈がいっしょに、
「茴ちゃんがいちばんしんどかったよね」
「お姉ちゃんにお母さん感謝してるよ」
 今日、虚無は青空の色をしている。せめて初桜の枝ごしに青い色を眺めたくて茴は樹下に立った。

 四十九日は〈ラグレアブル・アノ二ム〉を終えてからと決め、だとしてもイベントまでいくばくのゆとりもない茴は、チェロの傍ら母を天に送ったあと現世の手続きに忙しかった。この間ケアは休んだ。
 篠崎さんも湯浅さんも気がかりではあるし、人手が足りている福祉コミュではないけれど、冠婚葬祭は別だ。またそうでなくても「地域貢献人助けはお互いさま」の精神で主婦たちが集まるコミュニティの縛りはゆるく、ワーカー本人が体調を崩したり、子供が熱を出したり…といった割合些細な急の事情の際もかなり気楽に休めた。誰かの休みは別なワーカーが補う。これも助け合いの精神だ。一般企業ではとてもこうはいかない。
 気楽に参加し、束縛はゆるく、質の悪い職場でのいじめも、まあ、ない。反面、しっかりした企業が労働者に保証する労災や保険、年金などの福利厚生も、まあ、ない。ワーカーは分配金を共有するので雇用関係にある労働者ではない、という思想だからだ。
 長い眼で将来を見据え、家族を持とうとする若者が安心して長く働ける所ではないから、おのずとある程度暮らしにゆとりがある主婦たちか、男性ならば現役を引退した年金世代の、ボランティア半ばアルバイト半ばという善意がコミュ運営の頼りになっている。
 茴の休みはきっと向野ギャザリングが補うことになるのだろう。桜沢地区の福祉コミュヘルパーは他の地域に比べて多いほうだが、請け負う仕事に派遣の数はいつも追いつかない。家庭をちゃんと守りながら働く主婦たちはそれぞれ無理をしない範囲で、めいっぱい仕事を入れている。七十歳という向野ギャザリングは、コミュの役員をいくつか務めながら、自分もケアワークに行き、さらに休んだワーカーの穴埋めに走る。心身ともに丈夫なひとだ。
 〈やすらぎ〉の鶸の部屋を片付け、役場の手続きを済ませ、霊園に納骨し…形見分けも相応に。書きにくいボールペンで日記を書くように母の死が感情を離れて整理されてゆく。 
 自分はもっと悲しまなければいけないのではないか、と茴は時々考えたが、この起伏のないすべすべした気持ちのまま、神の手に母を委ねて安心していても構わないだろう。
 鶸の死の後、世界はいっきに春爛漫に突入していった。教会で青空を透かし見た早咲きの染井吉野から始まり、連翹、木瓜、杏、たんぽぽ、道端の犬ふぐり、しろつめくさ。温暖な湘南の大地にはしっとりした若緑が柔らかく広がり、雑草のなかでクローバーだけが可愛らしい姿でひとの注目を浴びる。桜前線が日々南から北へと登ってくる。
「今度の演奏会に友達連れてく」
 陽奈は言った。
「ありがと。どんな子?」
「ないしょ。見てのおたのしみ」
 陽奈がちょっとずるそうな顔をするので、茴はつついてみたくなる。
「それ、本命君?」
「なにそれ」
「命短し恋せよ乙女。この台詞はヘッドに音符つきで言うのよ」
「めちゃくちゃ懐メロだね」
「そうね、懐メロも懐メロ、ペトラルカだったか、ロレンツォ・デ・メディチだったか。でも中国の詩文にもたくさんあるの」
「古すぎる。懐メロ通り越して化石」
「心のルーツです」
 陽奈は肩をすくめた。この子の世代は文庫本をひらくよりスマホを撫でる時間のほうがはるかに多い。茴がダンテと言ってもトーマス・マンと言っても噛みあわない。これはこれでいい、と茴は娘を眺める。東西古典の大文豪を語って茴とぴったりうまがあうような二十歳だったら、そのほうがむしろ心配だ。
「カイトはどこにいるんだろう」
 茴は娘の気持ちを逸らす話題にした。ついでにキッチンに行って陽奈にココアを作ってやる。砂糖とヴァニラ。少女と妖精はお菓子が大好き。もうしばらく陽奈をここに、自分の傍にひきとめておきたい。甘いもので手なづけ、フリルやレースのいっぱいついたピンクのドレスを着せて。だけど陽奈はもうじき野暮ったいお人形ドレスを捨て、すっかり生えそろった長い羽を伸ばし飛び立ってゆく。

 イエスタディ。
どこにいましたか? 今日誰と会いますか、明日は? 昨日のわたしにわたしは戻れない。
 亜咲はビートルズを選んできた。
 茴のバッハに豹河は途中から被さり、短い舞曲は合奏してごく自然に二度、繰り返された。それから静寂。シェードの銀河は滲むように消えて、舞台に照明が灯り、するするとプレーンシェードが巻き上がった。
 中央にグランドピアノの亜咲、その手前左右に茴と豹河。ロットバルトの豹は亜咲の斜め前に黄金のフルートを構えて立っている。デヴィッド・ボウイふうに前髪をたてて額の生え際に黒と金の輪をインディゴ・ノイズの「神風」鉢巻と同じように飾っている。今夜の鉢巻のエンブレムは金色の眼の蝙蝠だ。
三人が姿を見せた瞬間、観客席から熱気のような嘆声が湧き、茴は〈ラグレアブル・アノ二ム〉の成功を確信した。芸もさりながら、舞台はまずパフォーマー登場の瞬間に客の心を魅了しなければ。見た目百とは言わないが、舞台の成功九十までは容姿で決まる。
 亜咲はすぐに弾きはじめない。いったん完全に沈黙し、二重奏のサラバンドの余韻を残す空間に、またひそひそと何かの雑音が忍びこんだ。
 車の排気音、エンジンの唸る音、駅に電車の入ってくる、あるいは出てゆく音。雑踏の騒音、急ブレーキ、御乗車になってお待ちくださいのアナウンス、おしあいへしあいしてひとびとが歩いてゆく繁華街の気配。靴音。笑い声。だよね、とか,マジ、とか、めちゃ、とか、アイスクリームのトッピングのように小さくて、感覚に鋭い単語。
道路と街にあふれるノイズの多重奏は出だしの秒針と同じように音質の角をまるめられ、あるいは空間のゼリーに包まれたようだ。ゼリーの塊の中に、時折ふいに「え、やば」という笑い声が原色で突出する。すぐにそれは引っ込み、またとろりとしたゼラチンの鈍さに全体が沈む。
 亜咲はピアニシモでイエスタディを弾いた。これにも豹河は途中からフルートを付ける。二人の間に打ちあわせがあったのかどうか茴は知らない。リハでは三人それぞれソロで通すはずだった。もちろん亜咲と豹の個性だからアドリブ乱入あり、という前提でだったけれど。
 イエスタディを全部しめやかに弾き終えてまたノイズ。今度ゼリーが包む音のかたまりは人間の話し声だ。子音が曖昧なので何を言っているのかはっきりとは聞き取れない。耳が慣れてくると、世界各国の言葉だとわかる。映画だろうか、ニュースだろうか、ラジオのパーソナリティの喋りか、あるいはネットの動画からか、いくつもの国の言葉が脈絡なく重なり、ピアノの休む沈黙を不透明な渦で埋める。
 それからまたピアノ。バッハのゴールドベルグ変奏曲。グレン・グールド風に? だがバッハは途中で止み、またノイズが入る。多彩なコラージュのはざまを人間世界の雑音を鈍くしたノイズがつなぐ。感情を揺さぶる旋律のはざまで、曇りをかけた騒音は無彩色に〈聞こえる〉。
 時を想うのは人間だけ。わたしたちの時間はひたすら前へ突き進む。人間が消えてしまえば世界に時間は消える。宇宙空間に燦然と輝く超新星も、ブラックホールも、銀河も、生成と消滅は直線の時間軸上ではなく、永遠に循環する螺旋軌道。始めも終わりもない。愛すべき人類を失った神は素粒子の天使団を従え、絶対0度の宇宙に孤独に君臨する。
 六十年代から八十年代にかけてのロックミュージックを亜咲は選んできた。亜咲にしてはメロウな演目で、パッチワーク技法にせよ、バラードを弾くときは中断せず、ジャニス・ジョプリンなどは無造作に切った。モダンのはざまには必ず、まずノイズとそれからゴールドベルグを入れるのだった。
 豹河は亜咲のポップス演奏に気ままに出入りしていた。豹河が旋律に侵入すると、亜咲は器用に伴奏にまわる。豹はバッハには触れなかった。ノイズを挟みながら亜咲のパートのラストは〈TAKE5〉 
その直前のノイズは何かがたたきつけられ、粉々に砕ける音だった。いくつもの、いくつかの、重く軽い破壊音。すべてゼリーの中だ。
 記憶の中に封じ込められた音の破片は、時間によってまるめられ、胸を突き刺す痛みを消して、わたしが砕け散ったその日その時の残響となって、会場にぬるく拡散してゆく。
 森、入って。
 出だしのスイングで豹の命令が茴に飛んだ。いきなり呼び捨てだ。茴は弓を握った。亜咲を見ると頷きながら笑っている。いいわよ、と茴は弦に弓を添えて高く肘圧をかけた。それを見た亜咲の鍵盤を叩く両手が、一段と高くあがった。
ジャズは初めてだが、聞き覚えがある名曲なのでコードでどうにかつけられる。掛け合いの呼吸は勘、音量はベタ弓で勝負。肘をかけて全部フォルテ、啖呵のようにフォルテッシモ。

「お母さんのことで大変な時期なのはわかってるんだけど、他にどうしても都合がつかないから悪いんだけど入ってもらえますか?」
 向野ギャザリングから電話が入った。〈ラグレアブル・アノニム〉上演直前の火曜日だった。篠崎さんのケアはパフォーマンスが終わるまでお休みということにさせていただいた茴だが、変わりのヘルパーが風邪で倒れてしまったということだった。鶸の死後のあれこれはひととおり済んでいたので茴は承知した。鶸を悼む香典やらお花など連日届き、チェロのお稽古以外はそれぞれへの香典返しをしたためるために、気持ちだけが忙しい。相続のことも早めに毬と相談しなければならないが、施設に鶸を入れるときに、いろいろな整理を済ませておいたから、揉める心配はなかった。
 鶸の急を知らされたのは篠崎さんのケアの最中だった。それから半月近く過ぎている。この週末はキリスト教暦では「枝の主日」にあたり、同時に茴たちの〈ラグレアブル・アノ二ム〉当日になる。「枝の主日」とはイエスのエルサレム入城記念日だった。
 三月下旬の朝、前回訪問のときより、篠崎邸の景色は木立や庭草に萌黄みどりがいきいきと繁りを増している。庭の黒土も飛び石を敷いた通路以外はびっしりと雑草に覆われ、緑のなかにしろつめくさやタンポポがたくさん咲き出ていた。チューリップと水仙の咲いていた花壇には、今日は水仙だけたくさん残っている。開花を終えたチューリップの茎と葉は雑草に紛れていた。茴はまた水仙を摘んで玄関に入った。
「おはようございます、月さん、お具合いかがですか?」
 月さんはベッドで寝息をたてている。カーテンを開けると、室内はいつものようによく片付いている。たぶん長いこと未使用のポータブルトイレは乾いて、臭気もない。
 窓からの光の射し方が前回と変わり、濃い明るさのせいでひっそりした月さんの寝室の印象が違って感じられる。明るさはより明るく、ベッドや家具の作る物影は、ユトリロの筆のように太い。
「聞こえますか、森ですよ、月さん」
 ああい、と月さんは眼をつぶったまま口を開けた。もう義歯は入っていない。ゼロ歳児のように歯茎だけで笑う。たぶん笑ってくれている。茴が来たので、声をかけたので、月さんは白く乾いた丸顔に笑顔を浮かべた。
「お顔を蒸しタオルで拭きますよ」
 ん、ん、と下顎が動く。掛け布団から両手の細い指が出る。爪が伸びている。あとで切ってあげよう。月さんの声が来た。
「おあよう」
「はい、おはようございます。ご飯召し上がりましょうね」
 物置と化したキッチンで蒸しタオルを作る。ついでに水仙を活ける花瓶を探す。青い信楽ガラスの器。
(ザシキワラシのメグが来ていたんだっけ、カイトと一緒に。あの日、振り返るとメグはいなかった。青い夏服のまま、このガラスに溶けちゃったのかな)
 脈絡のない連想が茴の頭の中をよぎってゆく。物悲しかった。空気の抜けた風船のように、見るたびに月さんの顔や体は小さくなってゆく。美少女のメグが幸福をもたらす妖精なら、月さんを早くどこかへ連れて行って、と茴は祈るように願ってしまう。身体介助は重労働だが、たぶん介助されるほうが苦しいだろう。それでもまだ病院でのチューブ漬けよりましだ。
(メグ? めぐみ、恩寵、グレイシア、ガラシャ。細川ガラシャというひともいたっけ。アメイジング・グレイス)
 あの子はほんとに天使なのかも、と茴は思った。まぼろしでも、死に近い高齢者の枕頭に天使が現れるのはすばらしい。
 蒸しタオルで月さんの瞼を拭く。鼻と口の周り、こめかみまで、薄くなった皮膚をいためないように拭いてあげる。睫毛はほとんど残っていない。
 ぱちりと月さんの眼が開いた。
「おかげんいかがですか?」
「まあまあよ」
 はっきりした月さんの答えに茴は笑った。月さんは大袈裟に眉間に皺を寄せ、いたずらっぽく言う。
「なかなかお迎えが来ないねえって、おじいさんにこぼしてたところ」
「夢ですか? 御主人見えたの。いいなあ」
「夢でがっかりしちゃったよ」
「御主人はいつも月さんの傍にいらっしゃいますよ」
「そうお?」
 満面に笑い皺を作る月さんは機嫌よさそうだった。朝ごはんの前に月さんのお下を交換しようか。茴はゴム手袋をはめた。ふと何かが窓をよぎった気がしてそちらを見ると、いつのまにか両開きの張り出し窓が開いている。カーテンを開けたときは、確かに閉まっていた。古いクレセント錠はどうなっていただろうか。レースのカーテンが春風をはらんでふくらんでいる。
 窓を閉めようと茴は窓辺に寄った。寝室の前は正面とは離れた中庭になっていて、ここにものどかな春の光があふれている。この庭を今までケア中にちゃんと見たことがなかったが、母屋の壁で隔てられた敷地いっぱいが天然の花壇のような小さい野原だ。
 あ、月さん。
 茴は心で呼びかけた。中庭の真ん中に介護用のピンクのつなぎパジャマを着た月さんが座っていた。クロッカスと水仙、たんぽぽ、フリージアにチューリップ、紫禁草の群れに囲まれ、月さんは痩せた背をまるめて顎を前に突き出し、よもぎか何かの若草を摘んでいるようだった。月さんの肩のあたりに紋白蝶とキアゲハが飛んでいる。
 その月さんの前に明るい茶色の野兎がいる。
 いえ、兎ではなくて。
「カイト! ミニチュアカイト」
 茴は窓から上半身を乗り出した。月さんの前に、兎の耳のライオンカイトは、かたちはそのまま、大きさは十分の一以下になって、ちょこんと月さんを見上げていた。月さんはミニカイトに、自分が摘んだよもぎを少しずつ食べさせている。カイトは仔山羊のように口を動かして月さんの手から草をもらって食べていた。ほら、と月さんはカイトに草をやる。カイトはぐいっと顔をひねってそれをひきむしり、ついでに茴のほうを見ると、ぴくんと片耳を中程で折って挨拶した。
 茴は室内を振り返った。月さんはベッドに寝ている。寝具の中からピンクの袖の細い片腕が上がり、茴の佇む窓のほうに向かって、おいでおいでと、手が動いた。
 もう一度茴は中庭を見た。
 春の野花がいっぱいだ。
 光に踊る蝶々と。

 照明が豹河ひとりに絞られる。
ピアノもチェロも消え、舞台には若い豹一頭、黄金のフルートを構える。上半身をやや前かがみにひねり、あらわになった胸と腹の筋肉を彫り上げるスポットライトを独占した濃くなめらかな影がまぶしい。汗ばみ、濡れた皮膚の上に、ところどころ光が七色のプリズムで走る。豹河は地肌の部分にも金ラメをまぶしている、と茴はそこでようやく気付いた。
 彼のフルートは何だろう? 聞いたことがない。洋楽でも邦楽でもない。アラブ、インド、アフリカ、世界の民族音楽のどれでもない未知の音程を自在に行き来する。茴は楽典をきっちり学んだわけではないが、単純に聴覚から、音楽のさまざまなハーモニーが綴る物語を感じるセンスはある。
 民族音楽でも西洋クラシックでも、一つの音の次に来る音は、まるでスタンダードなおとぎ話の展開のように、人間の心がこうあってほしい、そうだったらとても気持ちがいい、という普遍的な希求に適う。だから楽曲出だしの動機を聞けば、ほぼ全体の構図を予測することもできる。
 だが、豹河のフルートは次の音を予兆させない。
(Fで、その次はC? 今度はAで、さらに♯A)
 シェーンベルクの十二音技法の響きとも違う。また耳障りな不協和音でもない。体温を持たない音符の散らばり。音と音とがつらなって美しいハーモニーを醸しだす古典音楽の世界以前の、あるいはその世界の裏側にひそむ…
(これは宇宙空間を旅するいくつもの星の光が、億年隔ててすれ違う響き)
 茴は豹河のフルートを、すこしロマンチックに形容して耳を澄ませた。豹の吹き鳴らす一粒ずつの音には、互いに遠い距離感があった。人間感情に抵触しない音列は、ドビュッシーとはまた違うクールな慰めをくれる。
(G、C、E、♯GでA)
 豹の肉声を聞くようだった。自分は確かにこの青年に欲情している、と茴は疚しさのない自覚を溶暗の中で想った。恋でも愛でもない、ダイレクトなリビドーを彼の音色はかきたてる。
(嘘だわ、あたしはこの子に恋してる、今とても)
ピアノの前の亜咲もきっとそうだ。女なら、いや女性でなくても、彼に魅了されて当然だと思う。インディゴ・ノイズよりも、パヴォのリサイタルよりも、今聞くフルートソロはラグレアブルだった。
くらやみに豹河の体臭が濃くなる。彼のフルートと一緒にわたしたちは彼の匂いを〈聴いている〉
ふっと音列が途絶えると照明も豹も消え、真闇にノイズのゼリーが被さってくる。
ゼラチンに封印されているのは、今度はさまざまな音楽だ。ベートーベン、ビートルズ、Jポップ、演歌、民謡、スペインのカンテ・ホンドは魂に届く深い声で…ボサノバ、レッド・ツェッペリンに、リュシェンヌ・ボワイエ、カザルスの鳥の歌は茴への敬意かしら、それからショパンは亜咲? マリア・カラスも、あ、藤山一郎の軍歌まで。いやだ、最後は絶世の美女李香蘭の歌う蘇州夜曲のフラグメントってことにして、みんなみんな半透明な虹色のゼラチンの中でねっとりと輪郭をゆるめて溶け合う。混じり合う音楽のノイズ。わたしたちのきおくにごちゃごちゃとまじりあううたのこんとん。
するするとシェードが降りてくる。
  客席と舞台がまたハーフミラーで遮られると、淡い明かりがパフォーマーを照らし出した。三人は互いの顔を確認する。豹は最初にどちらの女を見ただろう? 亜咲の両目は潤んでいた。豹河だけが自分の愉しみじゃない、と言い切った彼女だが、中年過ぎて追い求める快楽の限界は女性のほうが早く知る。聡明であればなおのこと。サガンに戻ってふりだしだ。だが、人恋ふる心は泉のように、その人自身を潤してくれる。亜咲の濡れた瞳と唇。
 茴は弓を構えた。少しA線が下がっている。すばやく調節して豹の合図を待つ。
 客たちはシェードに新しいプロジェクションを見ている。生暖かい粘液と体腔、長い産道を螺旋に回転しながら地上に降りてくる嬰児の頭。赤ん坊の画像の上にアンモナイトの化石が被る。誕生のムーヴメントと貝殻の成長の軌跡は等しい黄金比。嬰児の顔がアンモナイトの中心から突出すると化石は消えて、今この季節、イースター直前の春爛漫、関東に踏み込んだ桜前線の光景が降誕のキリストのような赤ちゃんの顔の周囲を包む。花散らしの風に吹かれて虚空をぐるぐる旋回する花びらの渦もまた、銀河と同じ黄金比率で日本の春を覆う。
 クライマックスはトリオで。
「time to say goodbye」
 シェードのこちら側から客席に向かって、少ししゃがれた声で豹が言った。
何かが彼のハートを抑えつけ、たぶんそのせつなさが喉を締めた。誰? 茴は豹河の声の向こう側のシルエットに淡く嫉妬する。気のせいかもしれない、豹はフルートのソロに疲れて声が歪んだのかもしれない。そして茴の疼きも、きっと今このいっときだけのものかもしれない。舞台幻想にしても、恋に嫉妬はつきものだ。
観客は生まれたてのピンクいろの赤ちゃんと桜吹雪と、その上に重なる藍色の宇宙空間に輝く銀河の多重映像を見ている。
 豹河は前だけを見てeinsatzした。
 GO!
これまでのわたしにさよなら。
明日のわたしにわたしは会える。
   
                                                         (チェリー・トート・ロード 了)

メシア・エントロピー  チェリー・トート・ロードvol16

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   メシア・エントロピー

 三月に入るともう心は桜前線到来が待たれる。毎週火曜日、湯浅徳蔵さんケアのため蘇芳山にモノレールで登るたび、駅前ロータリーの桜並木の枝の莟が、あたかも春の大気をまとうかのように、先週よりもほんのりと大きくなってゆくのが目に嬉しく見えた。
 ネットで調べたら開花予想は弥生の下旬。まだ間がある。しかし桜の枝の樹皮は、つぶつぶした固い莟といっしょに全体にうっすらと鈍い紅色を帯びている。
  年々歳々人相似
  歳々年々人不同
 七世紀初唐の詩人劉希夷の長詩を、櫂は何故か諳んじていた。いっぱしの読書家ではあったが、それほど古典に興味のあるひとではなかったのに、「白頭吟」の有名ないくつかのフレーズだけ、酔っぱらったついでに呟くこともあった。何の感傷だったのだろう。彼はすっかり白髪頭になる前に逝ってしまった。
このごろは文芸誌をめくっても漢詩を血肉にした作品などあまり読めない。茴にしても唐代の有名な絶句律詩のいくつかを教養の一部にしているにすぎないけれど、ふだん忘れているフレーズが、この花盛りの季節の前後、静かに心に昇ってくる。
  今年花落顔色改
  明年花開復誰在
 湯浅徳蔵さんは今年必ず蘇芳山の爛漫を見られるだろう。だけど来年はどうだろう。
 首のリンパ腫の憎悪が速いのかどうなのか茴にはわからなかった。高齢者は新陳代謝が低いので癌の進行も遅いはずだが、二月下旬から衰弱は顕著だった。
「起きられますか」
「うーん」
 目をぱちぱちさせて徳蔵さんはにこっと笑った。顔じゅう皺だらけにして茴に向ける笑顔は無邪気で明るいが、起きられるとも起きたくないとも判断がつかない。無理してベッドから起こさなくていいから、という指示も出ているので、茴はゆっくりと電動ベッドの背中をあげて、脇のサイドテーブルを昼食のために引き寄せた。 
 徳ちゃんの顔は首の腫瘍のためにむくんで、皮膚がぴしっと張りつめたように丸みを帯びていた。徳ちゃんが茴の声かけに応じていろいろな表情を作ると、ここ数か月ろくに陽に当たらず、栄養不良で脆く薄くなった皮膚に無数の縮緬皺が寄る。
 ごほん、徳ちゃんが咳き込んだので茴はティッシュペーパーを二三枚あげた。腫瘍の膿が喉に出るのか、徳ちゃんは頻繁に黄色い痰を吐いた。他人の手で喀痰吸引を要するほどになったら、もう自宅介護ではおぼつかないかもしれない。
 昼食は息子さん手作りの1プレートランチではなく、レトルト介護食とラコール、経口補水液OS―1をその都度〈臨機応変〉に組み合わせたものに変わっている。レトルトのお粥や肉団子をプラスティックの器に移し、サイドテーブルに乗せてすすめると、徳ちゃんはげそげそに細くなった手首をパジャマの袖からにゅっと突き出して受け取る。スプーンもプラスティックだ。箸だけが以前と同じ塗り箸。
「あ、あ、おいしい」
「そう、よかったね、よかったですね」
 精一杯大きく口をあけて食べることを楽しむ徳ちゃんの笑顔は今もこれからも明るいだろう。だが、喉の具合が悪いので、徳ちゃんはせいぜいスプーンで三口か四口ほどしか食べられない。噎せるという感じではなく、レトルト食材を飲み込むたびに、ごろごろ、と徳ちゃんの口の奥で粘液が泡立つような音が聞こえる。何の原因なのか茴にはわからない。
 看護師だったらよかったのに、と思うことがこれまで何度もあった。介護では医療行為ができない。もっとも現場はそんなに厳密に仕切りできないこともあるから、茴自身どこまで介護でどこからが看護師の領分なのかはっきりわからない場面がある。じわじわと苦しんでいる徳ちゃんや、また月さんを見ていると、何と自分は無力なのだろうと思う。
(無力と思わないで、今できることをしなくちゃ)
 気持ちが滅入りそうになると、茴は自分に言い聞かせる。茴が笑ってくれると嬉しいというひとがたくさんいるのだから。
 レトルト食材が無理になった後に、ラコールをストローで飲んでもらう。とろみはついていないが、飲料なら喉も楽に通るようだ。ラコールが飲めるなら経口補水液はいらない。
「ラコール、おいしい?」
「へへえ、まあ」
 徳ちゃんは眉を寄せた。ストローを銜えたままの口許は笑っている。ミルクコーヒーのような匂いと色だが、味はさてどうだろう。
 こんな食事のあと、パジャマの胸をあけて蒸しタオルで手早く肌を拭く。下着は前開きに変わっている。寝ていることが多いので、背中や腰の床ずれなども調べる。赤みを帯びた部分にはアズノールを塗る。むくんで丸くなった顔に較べると、栄養不良の体の衰えは茴の目につらい。タオルで拭くと、脂肪の激減した肋や腰の黄ばんだ皮膚が、骨から離れてタオルといっしょに皺を作って動いた。

 美しいものを見ると命が伸びる、と茴は二十一歳のころ『源氏物語』の若紫巻で読み、当時はそれほどの感銘もなかったのに、心に残っていつまでも忘れなかった。視覚はともかく、美しい音を聞くと、その感動はリフレインしていつまでも記憶にとどまると知っていたので、若紫の印象がそれに重なったのかもしれない。介護という仕事に対して誠実であろうとするなら、茴は自分のためにこの職業を美化するまいと思っていた。
 利用者さん、高齢者さんからさまざまな学びやパワーをいただく。それは間違いないが、同時に、できれば日常避けていたいつらくむごいことを五感で体験しなければならない。さらにまた社会的には3Kの汚名が被せられ、よい資質を持ったケアワーカーが人生を拓くためには難しい問題が多い。
 福祉コミュがおだやかで険しさのない職場というのも、ここが報酬を活動の目的にしない非営利福祉団体だからだ。主婦たちの温和、やさしさ、思いやり、ケア時間を無料で延長して高齢者の心に寄り添おうとするおおらかも、経済行為の凌ぎを免れているおかげが多分にある、と茴は眺めている。
 一般の介護現場はどうだろう。さまざまな困難に介護従事者の心身が痛めつけられない社会であればよいのだが、ネットを覗いても身近な噂でも、社会貢献のやりがい以上に厳しい現実が介護福祉の未来を暗くしている。
徳ちゃんのケアを済ませた後、茴は家に戻らずそのまま鹿香翡翠房に足を延ばした。チェロの総ざらいもしなければいけないのだが、たった今目にし、手で触れ、ほんのすこしは心で分かち合った湯浅さんの老衰に、気持ちが萎えてしまった。雛人形を見るのは楽しいだろう。命が伸びるだろうか。
(それでは介護現場では命が縮むの?)
 そう考えたくはないが、どんなに元気な利用者さんと接するにせよ、タナトスの波が絶えず静かに聞こえる時間ではある。快楽について唯美主義を貫徹した三島由紀夫が老いを恐怖したのも無理はない。
(何を得られるか、ではなく、何を捧げられるか、そう思わないと挫けちゃうな) 
 自分の中から生のエネルギーが溢れて、老病の利用者さんに流れていく。他のケアワーカーとこんなことは話さないが、茴のひそかな実感だった。
 古都鹿香は観光客で混雑していた。二月の梅から始まり、三月はもう市内あちこちの古寺名刹に花を楽しむひとが押し寄せる。鹿香八幡宮では寒牡丹が最後の見ごろだ。二月下旬までが盛りというが、今年はまだ花の寿命が長いらしい。雛人形でなく寒牡丹もよいかもしれない、だが開花に疲れた大輪よりも、うら若い透姫子や気丈な百合原の守る翡翠房のほうがいい。そうだ、これも紫式部のつぶやきだった。「植物の花はよく見るときっと歪みや傷があるが、美しい女というものの魅力は〈際なき〉かぎりがない」と。
(どこだったろう? 野分巻だったかな)
 人間の女はいつまで花でいられるものだろう。まちがいなく透姫子は花だ。たとえるなら水仙か、杏か…。初対面の大島紬の清楚な印象がそのように想わせる。百合原も。
百合原と自分は同年代だから、彼女が花なら自分もまだ花と言えるかしら。介護を働きながら茴は老いをみつめている。避けがたい傾斜、凋落、愛のありか。キリストの愛は貧しい者病んだ者を包む。
 まだ自分を恃む奢りを魅惑と信じて日々を生きる亜咲や自分、百合原はどうだろう。茴以外はクリスチャンではないけれど。

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
 わたしは敵対させるために来たからである。 
 人をその父に
 娘を母に
 嫁と姑に
 こうして自分の家族の者が敵となる。

 マタイ34章が茴には不可解な真実となって心に迫る。「汝の敵を愛せよ」という御言葉は素直な感動とモーチベーションをくれる。だけれども、34章の糾弾はどういうことなのだろう。いつか懇意にしている神父に尋ねようと思っているが、理屈でわかっても、魂で受け入れられるかどうかわからない。エロスへの執着、嫉妬を醜いとも、またそのような感情の歪みから免れて、最後まで女性として美しくありたいとも願う自尊心が四十の声を聴いて切実に見えてきてから、この御言葉が茴の感情に食い入る。義理の娘に知られたくない葛藤だった。

 うらうらとした午後の弥生の陽射しは蘇芳山よりもまろやかで、上着を脱いでしまいたいほど心地よかった。小町通をしばらくぶらぶらし、賑やかな観光地の景色を眼に入れる。女性とカップルが多かった。働き盛りの男性はウィークデイにはふつう遊べないはずだ。徳ちゃんや月さん、矢田部さん、松井さん…利用者さんの誰彼に似通う観光客はいない。あたりまえだがいない。
 みんな自分の足で歩き、腕を組み、笑い、喋り、甘酒を飲んだり、クレープをぱくつきながら自由に遊んでいる。ほっとする日常だ。三十分前に自分が置いてきた徳ちゃんの光景が、このなごやかな日常の裏側に感じられる。
 翡翠房の前にもう一軒覗きたいアンティークドールの店がある。鹿香八幡宮に近い奥まった平屋で、さほど品数は多くないがジュモーの人形など、めずらしいビスクドールをいくつか所蔵していた。せっかく来たのだからと茴はそちらにまず足を向けた。翡翠房の後に立ち寄るのは面倒な気分になるだろう。どちらもひっそりした小家だが、手入れをした庭と、奥行のあるたっぷりした間取りの翡翠房のほうが、通りに面した展示室ひとつの西洋人形の家よりも華やかだった。
 小町通は駅前から離れて八幡宮に近づくほど、個性的な店が多くなる。お香や人形、文具、菓子、和紙、アクセサリー、ジュエリー、古書店、和服、陶器、鹿香彫りの店いろいろ、店の構えも凝って、並べた品物の値段も高くなるようだ。
 歩きながら、ふと陽射しを含んで漂う白檀の匂いに惹かれた。藍色の暖簾に紅白の飛梅が大きく染め抜かれている。凛としたたたずまいのそちらへ近づきかけ、途中で茴は立ち止まった。香店の隣は大きな文具店で、便箋葉書、封筒といった一般文具以外にも、日本各地さまざまな和紙の品揃えで知られていた。茴も一年に一度くらいは入る。普段使いの習字紙から高級料紙まで幅広く、見ても触れても楽しい。ちょうど、ひときわ明るい彩の少女が上半身を半ばうしろにひねるように振り返りながら、店から出てきた。
 橙色のショートコートに黒い膝上のミニスカート。キャメルのショートブーツにすっぽりおさまる膝から足がのびのびときれいだった。脚がきれいだなと感じるのと、それが陽奈だと気付くのと、どちらが先だったろう。自分が実母ではないと自覚する一瞬だが、実の母親でもすっかり女性になった娘を偶然街で見かけたとき、品定めのような視線をまず注ぐのだろうか。そうかもしれない。
 ひな、
 声をかけようとしてまた茴は停まった。陽奈の向こう側、文具屋の中から男が出てきて娘に寄り添う近さで笑いかけたからだった。反射的に茴はすっと人波に隠れた。陽奈より青年はだいぶ背が高い。陽奈が顔を仰向けてにこにこしながら何か答えている。もちろん声は聞こえない。陽奈はこの店で買ったらしい巻紙を大事そうに持っている。青年は青いダウンベストを着ていた。彼はすぐ後姿になってしまったので顔がはっきり見えない。
(予想本命君かな) 
 妙な具合に胸がどきどきする。が、青年のまた後から、もうひとり陽奈の友達らしい女の子が出てきて、二人に何か言いかけ、弾けるようにみんなで笑った。陽奈の友達はベレーのような毛糸の帽子をかぶり、白いダウンに赤いロングスカートを穿いている。その子はスマホをとりだすと、文具店の軒先でまず自分撮りし、それから青年を真ん中に挟み、三人で肩をくっつけて撮影した。
(声かけてもよさそうな感じなんだけど)
 茴が人ごみの中で迷っている間に若者たちは行ってしまった。
(別にあたりまえのことよね)
 中学、高校と陽奈の遊び相手に男の子は多かった。そのひとりを時々家に連れてくることもあったし、今年の正月のスキーだって女の子だけで行ったわけではないだろう。今見た男の子もそんなボーイフレンドの一人だと思う。それにしても、陽奈が家に男の子を連れて来た時には感じなかった今の寂しさは何だろう。カップルでもなく、女友達もいたのに、茴はまだちょっとどきどきしている。
(きれいになったわ、陽奈は)
 遠目に眺めて、家庭内の至近距離では気付かなかった手足のすこやかさと顔立ちのみずみずしさが周囲のワンサと比べて際立って見えた。最初自分の娘だと気付かずに、のほほんと視線を誘われたことへの驚きのせいかもしれない。
 春の光が小町通を八幡宮へ遠ざかってゆく陽奈の上にまぶしい。その光は道端に所在なくつったっている自分にも注がれている。汗ばんできた。さしずめコートをちょっと脱ごうかしら。
 
 翡翠房の庭先には姿のよい山桜が二本あって、陽当たりに恵まれ両方とも目の粗い竹箒を逆さにしたようにまっすぐで豊かな枝ぶりを空にひろげている。春空の青に山桜の枝が銀色にいきいきと光り、樹木全体が春を深呼吸しているようだった。二人連れ、三人連れの女性客ばかりが次々と翡翠房へ入ってゆく。ちょうど旧暦雛祭りのころだから、店は繁盛しているのだろう。
 それほど広くはないが、錦木の生け垣や庭石の並べ方の古風な庭の奥のほうに緋毛氈を敷いた縁台と赤い花見傘があって、そちらのほうに数人、やはり女性たちがさんざめいている。中にひとりだけ粋な黄八丈を黒い帯で着付けているのは透姫子でも百合原でもないが、翡翠房のスタッフに違いないと茴は好ましく眺めた。帯は喪服の帯か、黒繻子だろう。近寄って彼女の着こなしを鑑賞したい気がしたが、雛人形を見てから、と古めかしい千本格子を残した引き戸をあけた。
「や、また会いましたね」
 早々親しげに男の声が飛んできて、違和感に茴は驚いた。ここは女性しかいないものといつのまにか固定観念ができてしまっている。
(藪から棒に何よ誰?)
 いまどき古い形容だが、男の声は「藪から棒」にぴったりの頓狂な感じがした。そのすぐあとに
「いらっしゃいませ」
 控えめな声がして、いくつか並んだガラスのショーケースの向こうに透姫子が見えた。彼女は和服ではなく、春らしい水色のゆったりしたチュニックを着ている。ここの作家作品なのか、イヤリングとお揃いの天然石のペンダントを胸前に長く下げている。石は何だろう。透明感のある黄緑色のブロックだった。
「どうもお」
 また横から声が来て、茴は多少いやいやながらという気持ちでそのほうを見た。男は店の奥、天井から色とりどりの可愛らしい吊るし雛が垂れ下がり、古風な五段飾りの雛壇を壁に添っていくつも横並びに飾った薄暗がりに座っていて、声をかけた後に立ち上がってこちらに挨拶に来るでもなく、組んだ足の上のほうをぶらぶらさせて腕組みしている。
「またって、わたしのこと?」
「はいそうよ」
 男はまなじりを下げて笑い、片手でくしゃくしゃした赤毛を掻いた。
「失礼ですが、どちらさま?」
「銀座で会ったでしょ」
 銀座、ああ、東京スタコラーズの。
 茴は当日の出来事を脳裏に巻き戻して彼の姿を探すが、言葉を交わした何人かのなかに垂れ目貧乏ゆすりの記憶はみつからない。
「これわたしの父です。ずうずうしくて申し訳ありません」
 すまなそうな声で透姫子がやってきて、ちょこんを頭を下げ、茴はさらにびっくりした。仰天に近い。
「あなたの、おとうさん、まあ」
 親子というのはたとえ顔が似なくてもどこか空気がつながるものだと思うけれど。にやにや笑っている垂れ目貧乏ゆすりを茴は再三見た。清楚のせの字も彼にはない。椅子に深くもたれかかる猫背。着ているものはくたびれたデニムのジャケット、ジーンズ、年のころは六十代、半ば、かな。
爪先を小刻みに上下ゆらゆらさせている靴は、たいそうおしゃれな白と茶色のメッシュコンビだ。日本人一般の足にはなかなか合わない先細のデザインはイタリアだろうか。さぞ面倒くさいはずの網目のすみずみまで手入れが行き届いて、薄暗がりにも細かい革細工がつやつやしている。
 蓬髪にやすっぽい上着と気取った靴のアンバランス。悪がり、実はおぼっちゃま。デニムジャケットの下のコットンシャツは黄色。
思い出した。色は雄弁、おBなオヤジ。
「会場入り口で挨拶してらした方」
「そ、あなた渋い結城着てたでしょ。あの窮屈そうな着付けが忘れられなくてさ」
「……それはどうも」
「森さん、ジンさんはいつもこうなんです。気になさらないでください。あがってお人形をご覧ください。二階にもいろいろ可愛い子たちが来ていますから」
 二人のやりとりを見かねた透姫子がひきつった顔で割って入り、とりなす。
「ジンさんて」
「おいらジンさん、よろしくね。口は悪いけど女性の味方よ」
(味方? その〈女性〉はあたしにはあてはまらないってこと?)
 茴はむかつくが営業用スマイルで微笑んだ。「お父さんのこと、ジンさんて呼んでるの、透姫さんは」
「一昨年再会したんです。もうおわかりでしょうけど、我が道だけしか歩かないひとなので」
 察すればむつかしい経緯をすらすらと面白く透姫子は言った。
「ジンさんて呼んでくださいよ。女にはやさしいですから」
 そうかなあ、と茴は疑惑を伏せた営業用スマイルのままジンさんに会釈して、透姫子の勧めるまま二階に上がった。福祉の仕事をしているせいか、茴は自分の言葉遣いに気を遣う。むやみやたらに食いつくひとには近寄らない方がいい。普段、多少大袈裟かも、と自制するくらい、柔らかい優しい言葉で病人や高齢者に接するようにしている。
だが結局それは、壮年や若者相手でも同じではないかと思う。言葉は力をふるう。キリストは神のみことば、と称えられているではないか。プラスに働く愛の言葉ならいいが、暴力はだめだ。ジンさんはやばいな、と茴の心に警戒心がちょっと涌いた。
が、それなのに茴が二階に登ると、すぐ後ろからとんとん、と板を踏む足音を高く立ててジンさんが追って来た。
「え…何か」
「いや、これらの人形の由来をあなたに説明してさしあげようと思いましてね」
 ジンさんは顎を少し斜めに傾け、いつも笑っているような垂れ目をさらに細くして、やや横目に茴を見ると、ポケットから仁丹のケースを取り出し、手のひらに何粒かこぼしてぽんと口に放り込んだ。ガリガリ、と奥歯で粒を噛む音が聞こえる。
「はあ」
 要りません結構ですとも断れず、娘の透姫子がまた出てきてくれないかと念じたが、階下では新しい客が入ったらしく賑やかで、不良オヤジの監督どころではなさそうだ。
 半ば仕方なく茴はジンさんに従って、二階の雛人形、市松人形、現代作家の新作まで彼の長い説明を拝聴してまわった。
 ジンさんの薀蓄はじっさいたいしたもので、端々に山田徳兵衛の『日本人形史』を引く。現代の一点制作の球体関節人形作家の名前もぽんぽん飛び出し、茴はいつのまにか煙に巻かれ、すっかり感心してしまった。
 博識の披瀝の最中、ジンさんは自分の流暢に陶酔してしまうのか、とげとげした嫌なちょっかいも言葉に出てこないので、素直に気持ち良く聞けた。ただ、貧乏ゆすりの癖は講釈の間も止まず、Tシャツと同じ黄色い五本指ソックスをはいたどちらかの踵を、常に交互にかたかたと上下させている。相手をしている茴は自然に職業意識が働いた。
(もう少し目つきや様子がおかしかったり、高年齢のひとだったら、抗精神薬服用による副作用かもって思うところだけれど)
 しかし、多動性障害ではないようだった。
ぺらぺらへらへらと知識を並べる口車のなめらかさに、第一印象の悪さも払拭されそうになったころ、百合原が登ってきた。
「森さん来てるんですって?」
 階段を登りきらない彼女のあっけらかんとした声が下から聞こえた。そのあとでまったりとした濃い袖香の匂いといっしょに、あでやかな和装の本人が現れた。絨毯のような濃いペーズリー模様の更紗の小袖を着ている。趣味の着物らしく元禄袖だ。海老茶の綴れ帯に、大きな貝殻の帯どめをしていた
「小一時間もひっぱりまわされて、茴さん、ジンさんの長広舌にふりまわされちゃだめよ。庭でお抹茶点てるからどうぞ。ジンさんもういいでしょ。さんざんしゃべったでしょ」
「ちぇっ、うるさいのが来やがった」
 いたずらを見つかった子供のような表情で舌打ちしたジンさんは眼を細め、両手をGジャンのポケットに突っ込み、ぷいと踵を返して、またとんとんと階下へ降りてしまった。
 あっけにとられた感じで茴は香寸を見た。
 うさぎの国の女王陛下、百合原香寸は配慮はしても遠慮はしない。
「偏屈な女好きだから、森さん騙されちゃだめ。あのひとはあれで親切ではあるのよ」

 百合原に忠告されたが、ウォーキングオンリーマイロードジンさんのおかげで、この午後の自由時間はたいそう楽しく、湯浅さんケアの気疲れはとれた。雛人形はもちろん、お茶もお菓子も、翡翠房の女性たちの応対も快く、軽くなった気分で翡翠房から自宅に戻ると、中から玄関にぬっとカイトが迎えに来た。
「あらどこにいたの」
 カイトはいつものように何も答えず、湿った鼻先を茴の手に押しつけて甘えた。茴はカイトのしっぽを見た。赤銅いろの矢印がついた悪魔の尾。また血で濡れているかしら。
 茴の怯えた視線に気づいたのか、カイトの尾は宙を飛んで、ぴしりと茴の腿を叩いた。鞭でかるく叱責されたような気がする。鮮血はない。どこかに乾いた血痕は残っているかもしれない。餓鬼妖怪だとしても、何かを餌食にせずには生命を維持できないはずだ。
「あなた、いつまでわたしの傍にいるの?」
 リビングに上がり、冷凍庫からアンパンを取り出して解凍すると、話しかけながらカイトにやった。カイトはパン一個をひと舐めで皿から掬い取り、噛まずに飲み込む。返事はない。
「今日、陽奈に会ったのよ。男の子と一緒だった。女の子もいたけど。何だかこっちが変な気分になっちゃった。どう思う?」
 山盛りのパン皿にうつむいていたカイトは金褐色の眼をあげ、長い睫毛をゆっくり瞬きさせると口を半分ほどゆるく開けた。上顎口角に二本の長い尖った牙が光る。
「茴ちゃん、このままだといつかカイトに食べられちゃうよ。そのためにカイトは来たんだから」
 いきなり陽奈の声だった。陽奈はカイトの喉の奥からさらに言い募る。
「キリストは自分の体と血を契約のしるしに弟子たちに与えたんでしょ。司祭さまは言うじゃない。これはキリストの体、キリストの血。愛する者に自分を与えるって、食べさせるってことでしょ。カイトは茴ちゃんに愛されたくて、茴ちゃんを食べるためにいるの、このままだと」
「陽奈、あなたどこにいるの?」
「あたし餌食になるのいやだからね。カイトは可愛いけど、喰われるより喰うほうが」
 むう、とカイトは口を締め、牙が隠れた。陽奈の声もそこで途切れた。
 同時に、まだジャケットを着たままの茴のポケットの携帯にCメールが届いた。陽奈からだった。
「今夜みんなとばんごはんたべますいりませんごめん」
 帰りは何時になるのか、と質問を折り返そうと思ったがやめた。ばかなことをする子ではないし、もう二十歳なんだから。
 カイトがぐいぐいと胴体を茴の膝に押しつけてきた。茴はたった今キメラの口から聞いた陽奈の忠告とメールのなかみと何か係り結びがあるのかと思いめぐらしたが、心あたりはつかなかった。陽奈の声だったろうか?
(確かにカイトは陽奈の声でしゃべった)
 だがリアルタイムで陽奈は友達と楽しく遊んでいるようだ。須磨子さん宅にうかがった時のカイトは、隣室の須磨子さんの拡声器となっていた。今とは違う。
「わからないわね。あなたわたしを食べたいの? ほかの人も食べたの? わたしが死ぬのを待ってるの?」
 夭折の予感なんかちっともないけれど、と茴は膝元のカイトの背中をぽんと手でひとつ叩き、ようやくコートを脱いだ。四十過ぎてもう夭折とは言えないかも、それともまだ若死と惜しまれるかしら、と茴はリビングを通りながら櫂の写真を見た。四十代半ばで逝った夫は、まだ今の自分より老けている。それが嬉しかった。夫の遺影がいつか自分より若く見える時がくる。どんな気がするだろう。
何はともあれ、ラグレアブル・アノ二ムのために、もう一曲手に入れておこう。バッハ無伴奏チェロ組曲五番サラバンド。

水曜日の朝、篠崎月さんのケアには腰ベルトを準備した。汗まみれの奮闘が今日は起こらないよう祈りつつ、とはいえ重度の身体介護に予想外はつきものという心構えもベルトといっしょに持ってきた。
 モノレール松井駅で降りると、こちらも桃や紅梅が盛りだった。農家の居住まいを残す月さんの家の広い庭にも蝋梅や山茱萸、沈丁花などが気ままに咲いて、春おだやかな朝の光に馥郁と香っている。手入れを怠っているのは一目瞭然なのに、前庭の花壇にはチューリップや水仙がにょきにょきと咲いていた。
(月さんに見せてあげたいなあ、殺風景だから、あの寝室)
 花壇から水仙とチューリップを数本摘んで玄関に上がった。
「おはようございます、篠崎さん、森です。起きられますかあ?」
 声掛けして、窓の遮光カーテンを開けた。明るくなった室内はいつものようによく片付いている。今朝の月さんはちゃんとベッドに寝ている。すすす、と軽い鼾が聞こえる。
「月さん、ごはんにしましょうか」
 上半身をかがめて月さんを覗いた。浅黒かった顔がすっかり白くなったと思う。血の気がないというのだろうか。入院してから眉が薄くなり、染めなくなった頭髪は綿のように柔らかく、顔の回りでふわふわしている。上瞼と下瞼が目脂で糊付けされてくっついていた。その裏側で眼球が動いているのがわかるから、月さんは眼を開けたくても開けられないのかもしれない。
「月さん、お顔拭きましょうね。聞こえますか?。これお庭のお花、切って来たんです。いい匂いでしょ、ほら」
 茴が月さんの鼻に水仙を近づけると、
「はあい」
上下の義歯が入っていない口が開いて、欠伸のような返事が来た。月さんの声が呑気に聞こえた茴は、つい余計な冗談口をきいた。
「今日は脱走しませんでしたね。よかった」
 茴は腰ベルトをきつめに巻いた背中に無意識に片手をやった。これが活躍しないですむケアだと助かるんだけど。
半ば物置と化したキッチンでおしぼりを電子レンジにかけ、蒸しタオルを作る。その間に周囲のどこかから適当な花瓶を探し出し、花を活けた。毎日ヘルパーが入るから、誰か水を換えてくれるだろう。
 花瓶とおしぼりを持って月さんの寝室に戻りドアを開けると、そこにまたカイトが来ていた。カイトの傍にはもうひとり青い服の女の子が立っていて、ほっそりした上半身をかがめ、さっき茴がしていたように月さんの顔を覗いていた。
カイトは狛犬のように床に腰を落とし、少女の脇に控えている。茴が入ってゆくと首だけこちらへ向けて歯を剥いた。にっと笑った感じだった。
「お姉ちゃん、こんにちは」
 人なつこい笑顔で茴に挨拶する少女の両目はあざやかなセルリアン・ブルーだ。
「あなたはメグさんだっけ」
 茴はもう動揺しなかった。世の中に不思議が存在しないことのほうがおかしい、いつのまにかそんな気持ちになっている。
 こくん、と可愛い仕草で少女は頷き、また月さんを見て
「おばあちゃんをそろそろ連れていかなくちゃいけないの」
「あなたは天使なの? 月さんをどこへ運ぶの?」
「あたしはおばあちゃんに呼ばれて来たのです。行きたいところを知ってるのは月さんで、あたしはそれを助けるだけです」
「月さんに呼ばれた?」
「はい。あたしはどうして自分がここにいるのかわからない。今までも何度か、気が付いたら月さんの傍に来てるの」
 眼の色と同じ色の夏服を着た少女は、細い腕を伸ばして月さんの顔を撫でた。茴ははっとして自分の役割を思い出した。
「顔を拭くので、ちょっと離れてください」
 まぼろしと話すうちにも現実のケア時間は過ぎてゆく。
「カイトはあなたの知り合い?」
 月さんの眼脂を拭いながら茴はメグに尋ねる。
「この動物はお姉ちゃんの一部だわ」
「あなたもそう言うの」
「も?」
「紫羅も、そんなことを言った。あなた、銀座のパヴォで彼女?彼と並んでいたわね」
 応えがないので振り替えると、そこには誰もいなかった。メグもカイトも姿を消していた。メグが立っていた床の上には水仙とチューリップを活けた青い信楽ガラスがある。
(あたし大丈夫? 統合失調とかだったらどうしよう、幻影がちらつくなんて)
 世の中に不思議がないほうがおかしい、とさっき思ったそばから自分の正気を疑う茴。(でも精神て、きっとむしろ首尾一貫しない乱れがあるほうがナチュラルよね。かちんかちんに思い詰め、全然揺らぎがないなんて、それこそ狂信、パラノイア)
 ともかくケア中だ、ケア続行。既に二十分経過している。時の支配は狂気幻想にも及ぶ。
「おはよう」
 眼脂を拭いてしまうと月さんは両眼をむずむずと開き、大きく口をひらいて挨拶をくれた。
「気分いかがですか」
「ンー、ねえ」
 月さんはかなしそうな八の字の皺を眉間に寄せて、顔の前で痩せた片手を振り、サイドテーブルのほうを示した。介護用グローブやマスクの備品がある。失禁始末用のポリ袋や雑巾なども。しっかり者の月さんは茴に指示をする。
「マスクして」
はい、と茴は月さんの羞恥心を察してマスク手袋を装着した。羽根布団を剥ぐ。月さんはつなぎの介護用パジャマを着ている。腰の下に手を入れてみる。なまあたたかいが、シーツまで濡れてはいない。パジャマの中で留まっているようだ。
陰部洗浄をベッドでするのは初めてではないけれど、手際に自信がない。だけどやらなくちゃ。たくさんぼろ布がいる。ビニール袋と、それから。
 このおむつ交換に何分かかるかしら。十五分もっと必要だろう。月さんは朝ごはん食べられるかな。
陰洗用のボトルはどこだっけ、テーブルの下じゃなくて、たしかトイレか脱衣場か。時計を横目に見ながら小走りに廊下に出ると、エプロンのポケットの中で携帯が鳴る。ケア中だが三藤町の事務所からなので出る。
「あ森さん、やすらぎの事務です」
 本部事務所の電話番号は入居施設と訪問介護と共通だった。
「今ケア中ですけど」
 思わず切羽詰った返事をしてしまう。が、相手は茴よりも息せききった声で言った。
「鶸さんがね、さっき救急車で運ばれたのよ。朝からひどい頭痛がするって言ってたんだけどあなたが来るからって鶸さん我慢してたんだけど、さっきバターンて倒れたの。クモ膜下出血じゃないかって」

カノン・エアリウム  チェリー・トート・ロード vol15

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   カノン・エアリウム

 灰の水曜日はバレンタインデーのすぐ後に来る。受難節、レントの始まりの日だ。この四十六日あとにイースター。茴たちのパフォーマンス〈匿名の愉しみ/ラグレアブル・アノ二ム〉は復活祭直前の土日に決まっている。本番までもうほぼ四十日しかない。
 教会では灰の水曜日の特別ミサがあるが、働いている茴は毎年受けられない。今年は水曜日朝一番に篠崎さんのケア、それから施設の母の相手をする。母も洗礼を受けたカトリック信者なので、時々思い出したようにミサに行きたがる。灰の水曜日のことも覚えていて、雛祭りや端午の節句と同じ程度の季語として話柄にすることもあった。
「これ、今度のダイレクトメール」
 ラグレアブル・アノ二ムのカードを見せると、鶸は眼をほそめ、化粧気のない白い顔にきれいな笑顔を浮かべた。おしろいを塗らなくても肌は白く唇が赤い。病に倒れてから髪は短く切ったが、毎月美容院でヘアダイしてつやつやと明るい栗色に整えている。頭のかたちが扁平な短頭形ではなく、適度に長頭形なのでショートカットもよく似合った。
「こちら千尋さんで、もうひとり誰?」
「吉良豹河君。まだ少年ぽい青年。イケメンでしょ」
「うん、ロック少年ね」
「ジャズだって。でもクラシックも」
「へえ、髪がすごいわ。毛皮みたい」
「でしょ。亜咲がもう、夢中でもないか、ちょっと気がある」
 鶸は吹き出した。
「千尋さん落ち着かないのね」
「一生お姉さんか先生でいるって豪語してるわ。おばさんなんかいやだって」
「おばさんになりそうもないひとじゃない」
 毒のない笑顔を見せる鶸の左目だけが充血している。茴は気になって顔を近づけた。
「お母さん、頭痛する?」
「別に」
 幼児のように鶸はかぶりを振った。
「ものが見えにくいとかない?」
「もう老眼だからね。本も読まないわ」
 鶸は茴の凝視をよけて顔を背けた。病院へ連れて行ったほうがいいだろうか。麻痺はどちらだったろう、と茴がとっさに迷うほど、ほとんど体の麻痺は回復したが、修復されない脳血管のどこかが綻びたのかもしれない。もちろんただの眼の充血、夜間の不安衝動の際、涙に濡れた眼を強くこすったせいかもしれなかった。
 昔から鶸は自分の傍に誰かがいれば安定していた。家にいるときは茴か毬、ここでは「やすらぎ」の職員か。流行作家として全盛だった数年間は、何人もの編集者が入れ替わりに香枕の家に来ていた。
 不安発作、不定愁訴は身のまわりに人けがなくなると始まる。これは脳血管障害の認知症状とは関係ないのではないかと茴は内心思っている。若いころの鶸の写真を見るとタレント志願だった娘の毬よりもくっきりした目鼻だちをしている。さぞ周囲からちやほやされたことだろう。
誰からもかまわれなくなる恐怖が鶸を失調させる。脳血管が破れたあと、まだ施設に入らず、夕方から夜にかけては茴ひとりが自宅で介護しているとき、鶸は深夜になると形容しがたい声で泣き叫んだ。ひとりはいや、誰か来て、こわい、さびしい、お願い、おねがぁい…。隣室に寝ている娘が不眠症になるのもまるでお構いなしだった。
 体裁も恥もかなぐり捨て、慰めを求めてすすり泣く鶸のほうが彼女の本質なのではと茴は眺める。距離をおいて、淡々と眺めている。
「今日は灰の水曜日よ、お母さん」
「そうだったわね。すっかり忘れちゃった。このころになると、庭に春の小鳥が来るのよ。目白とか、鶯とか。今も来る?」
「家はひとに貸しちゃったわ。でもきっと来てるでしょう」
「そうか。それも忘れてた。もうぼんやりしてしょうがない。お父さんは元気?」
 茴は呼吸を呑んだ。五、六秒考えてから、
「お父さん? ここにいるじゃない」
 衣装箪笥の上の写真を指した。イランの手織りタペストリーを敷いた上に家族写真が飾ってある。父親の写真は黒枠の遺影ではなく夏の芦ノ湖を背景に鶸と並んで笑っていた。何の不足もない仲の良い夫婦に見える。
「これは昔のでしょ。ひさゆきはどこよ」
 ひさゆき、という名前が鶸の口から洩れたとき、茴は父の名前の漢字がすぐに思い浮かばなかった。一瞬、誰のことかと面喰ったほどだ。そうだった、鶸はもう長いこと、夫の名前を呼んだことがなかった。鶸の声と父親の名前が結びつかない自分の記憶回路を、茴は歪んだレールのように感じた。感情はいびつな軌道を走ることができない。どこかで覆ってしまって…。父の葬式の時、母はどんな顔、姿だったろう。
 とっくの昔に死んじゃったわ。我ながら根拠のない怒りがこみあげ、突き飛ばすように鶸に向かって現実を告げたい衝動を、茴は喉元でこらえた。ケアワーカーとして適切な回答を、適切な笑顔、やさしい声で言う。
「藤塚で元気に仕事してるわ。お母さんのこと心配してるよ。だけど会いたくないでしょ。お母さんのほうが」
「時間が解決するってこともあるかしらね」
 鶸はまぶしそうに眼をほそめて早春の日光がさんさんと輝く窓のほうを見た。

「これは夢じゃない、茴ちゃん」
 バレンタインデーを過ぎたら髪を肩の上で切りそろえた陽奈が真顔で言った。ジャン・ピエール・ジュネの『アメリ』のヒロインのような髪型だ。髪が短くなって前よりあらわになった顔は女優のオドレイ・トトゥよりおっとりとまるい。
「わたしはわたしで勝手にやるから大丈夫よ」
 荒い言葉の語気をやわらげて茴はつぶやいた。何を勝手にするのか考えの埒外だった。
 茴と陽奈は最近開館した得鳥羽エアリウムに来ていた。隣接の水族館はずっと前から湘南の観光スポットになっている。新しい別館エアリウムは列柱や前庭のないタージ・マハルといった第一印象だ。こじんまりとしているが、中央にドームを内包した白亜のすがたはアクアリウムとほぼ同じ。早春のくきやかな海の陽を浴びて、波のうねりを模した青と白のモザイク壁画がまぶしい。
 世界中さまざまな名所旧跡の大気をご堪能になれます、歴史に残る宮殿、神殿、霊廟、ピラミッドからマヤ・アステカの墳墓内陣の空気を臨場感とともに御体験できるエアリウム。さらにはお客様が追体験なさりたい思い出の季節、気候、場所の空気を可能なかぎり再構成してご提供いたします。
 エントランスからすぐにほのぐらい円形の展示室に入る。周囲の壁には隙間なく色とりどりのガラスの筒がびっしりと並んでいる。まるで密教の曼荼羅画面にそのまま入りこんだようだ。きらきら光るガラスの筒は試験管よりも太く、おひやのコップよりも細い。どれも金属の蓋が付いているので、解剖標本を保管する壜に似ている。ひとつひとつの筒の中には、世界各地、各時代の空気が詰まっていると係員が説明してくれる。
 大聖堂のように建築の中心真上に向かって、壁の一定の高さから円錐形の傾斜が伸びるギャラリーには茴と陽奈のほかに今十人ほどの観光客がいる。開館したてのエアリウムの職員は、まとまった数の客を集めては、再現された過去の空気を追体験する楽しみ方を、宣伝を兼ねて説明してくれるという趣旨らしい。
「この中に空気が入っているんですか?」
 客のひとりが周囲のガラスの列を指でさした。まるでピアノの鍵盤を指いっぽんでなぞるような手つきだ。エアリウムの学芸員は青と黄色の制服を着た若い女性で、にこやかに答えた。
「空気そのものが入っているのではなく、空気の記憶を封じ込めてあるのです。このアクリルガラスの中には、世界各地、各時代のオブジェから読み取った大気構成要素のチップが無菌状態で保存されております。お客様がどれかひとつお選びになって、個別ブースにお入りいただきますと、当館エアリウムのコンピューターマザーがチップを解析しブースのお客様の感覚器官に空気の記憶を提供させていただくということでございまして」
 まわりくどい説明も妙齢ウグイス嬢の美声で囀られると、それだけでいい気持ちになって納得させられる。
 陽奈が興味しんしんの顔付きで手をあげた。
「質問! つまり空気そのものを保存してるわけじゃないのね」
「さようでございます」
「過去のオブジェって何ですか?」
「たとえば、衣服などの繊維。また大理石の石や、当時からそこに生えていたとおぼしき樹木の細胞などから読み取ります。衣装の繊維などはオブジェとしてはとくにすぐれものでございまして、匂いや触感、織りかたや、その衣装をまとうていた貴婦人や貴公子の汗などの残留成分から、膨大な往時の記憶を再構成することが可能なのです」
「じゃあ、ミイラの髪の毛とか、土や砂も」
「はい。こちらにはツタンカーメン王のミイラはじめ、副葬品などの宝物から採集し、再構成した紀元前三千年のピラミッド内の空気を御体験できます」
 うわあ、と陽奈が眼をくりくりさせる。観光客たちも一様に、ほおお、と吐息を漏らした。嘘かほんとかわからないが、つまりは脳細胞にマザーコンピューターから電気信号を送って、その空気を味わったのと同じ感覚を味あわせる。つまり幻想。
「つまり、マザコンの子守唄ね」
 ぽろりと茴がつぶやくと、学芸員はじろっと冷たい横目をくれた。
「皆様どうぞお好きなエアをお選びください。当館のブースは百五十ございます。一回の入館につき追体験できるエアの本数は特に制限されてはおりませんが、空気を味わう、ということは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、さらに記憶や情緒を含めた全人格的時間体験となりますので、せいぜい三つ、できれば一つか二つの追体験になさったほうがよろしゅうございます。事後の情緒障害などの事例はまだ報告されておりませんが、タイムワープはドラえもんのどこでもドアでもないかぎり、大変エネルギーを消耗いたしますから」
 ドラえもんを引き合いに出しても誰も笑わなかった。
「あたし、これにする」
 わらわらと観光客の輪が学芸員の周囲からほどけて、レインボーカラーに発光している壁に散った。陽奈はほとんど迷わずひとつのエアを探し当てた。
「何にしたの?」
「マリー・アントワネット全盛期のヴェルサイユ宮殿」
「ええ、そんなのあるの」
「あったのです」
 陽奈が両手で握りしめたガラスの筒は鮮やかなマゼンタとワインレッドのマーブルが液体のように揺れている。まさにべるばら色。この着色はきっとエアリウムの演出だろう。
「オスカルはいませんよ」
「そんなことわかってる。あの金ぴか時代を追体験したいんだ」
 さて自分はどうしよう。茴はゆっくり曼荼羅の円陣を一周した。腰の高さから天井への円錐の傾斜が始まる一線まで、壁面に隙間のない膨大な色付きガラスの陳列は、さながらイスラム寺院のモスクのようにも見える。
追体験したい時代、記憶、一瞬か数分かのタイムワープが許されるとしてどこへ行こう。嗅ぎたい匂い、触れたい感覚、見つめたい光、聴きたい音あるいは声は。

 帰ってきちゃったのよぉ、と向野ギャザリングはおかしそうに告げた。
「有料老人ホームに入ったんだけど、何か不都合があって昨日から西香枕の自宅に戻ってるの。入居してまだ日が浅いから、家に住むのに支障はないんだけど、とりいそぎヘルパーに来てほしいって」
 一月に施設入居した松井須磨子さんは、無断で自宅に戻ってしまったという。
「お元気なんですか」
「自力ですたすた出てくるんだから元気でなくちゃ。まあ、彼女の性格ならそういうこともありと思うけど」
「そうですね」
 いじめにでもあったのかな? でなければ食事が合わないとか。だけど自宅で松井さんが食べていたのは、果物やパンの他は宅配弁当かコンビニの惣菜などだったから、施設の御飯のほうがずっとよかったはずだ。
まあ、我儘なひとだから、周囲といろいろ衝突はあったろう。独り住まいの孤独よりも集団の中の孤立のほうがやりきれないというのは推測できた。独りなら女王さまだけれど、集団生活ではともすると魔女にもされる。
「変則だけど、明日の午後行ける?」
「ちょうどまるまる空いてますから。ケア内容は同じですか?」
 三月近い木曜日、大気はしっとりと潤って松井さんの家に登る坂道沿いの梅林には、紅白の梅が満開で、蘇芳山から澄んだ鶯の声も響く。西香枕住宅地には、まだあちらこちらに畑があって大根や青菜など作っている。そうした菜園や家々の庭先の陽だまりに、菜の花に雪柳、たんぽぽ、木瓜などなどがゆったりと咲いていた。
(こういうのんびりした景色から離れて、施設に移るのはいやだろうな)
 目に映る世界中に弥生の土と陽射しの匂いが溢れている。気温は冷たいが、日光はジャケットを貫いて体の芯まで温めてくれる。小鳥のさえずりが絶え間ない。あれはミソサザイだろうか。施設だってお日さまも小鳥も来るだろうけれど。
「森さん、出てきちゃったの、またよろしくお願いしますね」
 松井さんはすべすべした顔に泣き笑いのような表情で迎えてくれた。前と同じくフリースのパジャマに毛糸のカーディガン、素足で居間の長椅子に寝ていた。BGMがわりのテレビが大きい音で鳴っている。茴が入ると、須磨子さんはぱちっとテレビを消した。
「合わなかったですか?」
「うーん、なんかねえ、疲れちゃって。四六時中回りを気にしてなくちゃいけないってやっぱりねえ。自由がない気がして。入居しているひとたちはそんなに悪くなかったんだけど、認知の人が多いから、噛みあわないっていうのか、話しをしててもあんまり楽しくないの。スタッフは忙しいでしょ」
「そうですね、しんどいですよね」
 溜息まじりにこぼす松井さんの顔はさっぱりとしてむしろ明るく、やつれた気配はない。体もしゃんとしているように見える。
「髪を洗ってもらえる? 施設にシャンプー持ってくの忘れちゃって参ったわあ。髪の匂いってあたしこだわりがあるから。施設の近所に売ってないのよね」
「あはは、そうですか」
 湯船に入る前に須磨子さんは頭髪から始めて全身を洗う。
「もっと強くこすって」
「こう、ですか」
「がりがり洗ってよ」
 全身の骨格が表面からたどれるほど皮下脂肪のほとんどない須磨子さんは、かたい頭蓋骨の形が薄い頭皮の下にじかに感じられる。髪の量が少ないせいもある。セミロングの髪はお湯をかけながら指で梳くと、ところどころに大きく地肌が覗く。力をこめてこすったら、皮膚がもろく破れてしまいそうな気がして、茴は須磨子さんの気に入る強さで洗えない。茴のぬるい手つきに、須磨子さんはシャワーの中で笑ったようだ。
「いいわ、あたしやる」
 がりり、と須磨子さんは指四本をほぼ直角にたてて、音が聞こえるほど自分の頭を掻いた。茴の洗い方でも十分汚れは落ちているだろうに、また改めてシャンプーをとり、くしゃくしゃと泡立てた。
「痛くないですか?」
 聞かなくてもいいことを、つい尋ねたくなってしまう。
「いい気持なのよ。リンスください」
 地肌と髪に丁寧に椿オイルを揉みこんで、須磨子さんはタオルを頭に巻いた。それから体を洗う。施設入居まで洗身は自立していた。
「森さん」
「はい」
「もういっぺんシャワー頭にかけてよ」
「は?」
「髪、あたし洗ったわよね」
「はい」
「心配だからもう一回洗う」
「今リンスをお使いになりましたよ」
「でも気になる」
 ざあっ、とシャワーの水流をさっきよりも強くして須磨子さんはもう一度髪を洗い始めた。がりがり、と指を直角にして頭皮をこする音がまたきこえる。
茴は須磨子さんの体から離れ、ヒーターで暖めた脱衣場で見守った。
(強迫神経症みたいだけれど、認知かな)
 気も強く口も達者な須磨子さんを、すっかりクリアだとは思っていなかった。これまではっきりした記憶障害や失認などは見られなかったが、頑なさや気まぐれ、短気など、人格の縁で綻びは広がってきていた。
 須磨子さんは何度も何度も髪を洗いなおした。洗いあげてリンスをつける。またシャワーをかける…。いつまで続くこの循環。
「松井さん、もう風邪ひいちゃいますよ。髪はぴかぴかですから」
 どこかで見かねた茴の口から妙な形容が飛び出した。反復強迫に憑かれた須磨子さんを無理やり制止したら、茴はこの風呂場で突き飛ばされるかもしれない。
「ぴかぴか? うまいこと言うね、森さん」
 須磨子さんは両手を頭髪に差し込んだまま、茴のほうをふりかえり、笑った。

 茴の報告を聞いたギャザリングは小さく唸ったが動じなかった。
「そりゃあなた大変だったね、寒かったでしょ。長いこと」
「ヒーターが脱衣場にありますからあたしはそんなに疲れませんでしたけど、松井さんこれからどうなるのかしら」
「どうって言っても本人が施設いやなんだから自宅でやってくしかないよ。洗髪で、その、何度も何度も皮がすりむけるくらいこするっていうのも、ヘルパーが付かなければお風呂には入れないんだから、命にかかわることじゃないでしょ。万が一頭皮が破れて出血とかそういう事態になって、痛くなったら松井さんだって考えるっていうか、おさまるかもしれないじゃない。痛いのはやだからね」
「はい」
「骨折とか肺炎とかに気をつけて、見守ってください。強引にすると、彼女なんか、まあ松井さんだけじゃないけど、認知症のひとは逆上することがありうるから、そこのところは臨機応変に、淡々と」
 老衰しても髪や肌のお手入れに気を使ってきた松井さんが気の毒だった。かわいそうだと思うのは失礼なのだろうが、洗髪のたびに十回も洗い直しが続いたら、そうでなくとも弱くなった地肌や髪はどうなることか。施設での入居生活はやはり相当のストレスだったのかもしれない。そこでいやいや使った安物のシャンプーが彼女の誇りを傷つけたのかもしれない。
 茴はそこで考えをやめた。余計な詮索というものだ。臨機応変、何が起こっても対処できるように柔軟な心で見守るのがいい。
 チェロを弾かなくては。
 自宅での演奏なら、音色、ディナミズム、アゴギグすべて、ほぼ自分の思い通りの表現ができる。だけど舞台に出たら、お稽古のときの半分くらいのレベルになるだろう。コロリ―ト、音色だけは練習よりむしろ舞台のほうがいいかもしれない。大勢を前にして肉体が緊張しても心は逆にリラックスするということが、茴のようなタイプにはあるらしい。家事と仕事の合間の四時間のお稽古では多いとは言えないが、これでめいっぱいだ。
陽奈が大学生になり、手のかかる夫がいないからこれだけの勉強時間が確保できる。福祉コミュの同僚同士の会話でも、大きくなった子供たちより、中年過ぎた夫のほうがよほど世話が焼けるということだ。
 疲れた気分転換にパソコンを覗くとPanthegrue550ga豹河と亜咲からメールが来ていた。二人ともラグレアブル・アノニムのクライマックスをどうするか、という問い合わせだ。
(アナーキー、フラグメント、偶然、ノイズ。ジョン・ケージをモチーフにするのは壮大すぎたかな)
 巨匠の名前を引用して、はったりのつもりはないが、豹河のインディゴ・ノイズを観た茴は、少しばかり気分が低迷した。あれだけのパフォーマンスは自分の力量ではできない。
(ユニークなアーティストと共演できるんだから。怖気づくことじゃないわ。若いのに吉良君は場数を踏んで弁えがあるし)
大道具もプロジェクションもダンスも使わず、演奏だけ、音響と照明効果だけで日常とは異なる次元へ聴衆を運ぶ。
出演者三人の色彩は揃っている。統一する主観的意図を追い出すにせよ、ソロの継ぎはぎ、パッチワークや平面コラージュでなく、音楽の幻想は立体が好きだ。
メールボックスを掃除しかけて茴は雑多なスパムの中に翡翠房通信を見つけた。暮に挿櫛を買ったときにショップ&ギャラリー翡翠房の会員登録し、それからランダムに催しの案内が来る。メアドはajadenaturalw
(あじゃでなちゅらるう?)
 メアドはネットのハンドルネームと同じくらい興味深い。個人なら個人の、集団なら集団を表象するエンブレムを察することができる。Jadeは翡翠だ。A翡翠ナチュラルW?
 弥生のぬくもり、春の花の気配が古都にあふれる今日このごろ、翡翠房の奥座敷にて、当方所蔵また拝借の古典雛人形の展示。新作人形および吊るし雛の即売を行います。古典人形は江戸期流行の享保雛、芥子粒大の可憐な芥子雛、さらには個人所蔵の、雛人形原型という立ち雛、御所人形など、日本各地の貴重な文化財を御覧いただけます。また吊るし雛は鹿香丹階堂の地域ふれあい作業所〈うさぎの国〉スタッフ制作です。華麗で可愛く、気品ある雛人形の世界にどうぞお越しください。季節の和菓子付お茶席も設けてございます。期間は新暦四月三日まで、皆様の御来駕お待ち申し上げます。
 なんとなく、麗句の多いこの文章を書いたのは百合原ではないかという気がした。行ってみようか。お稽古も気になるが、亜咲や吉良ともういっぺんラグレアブル・アノ二ムを詰めなければならない。打合せに亜咲がこちらに来てくれるなら、そのついでに翡翠房を覗ける。
合わせ稽古はどうしよう。茴のマンションにはピアノはないし、亜咲のところでも無理だろう。市民センターか教養センターの一室を借りるなら早く予約しなくては。
「吉良君のダンススタジオ拝借できると思うのよ」
 電話をかけるとあっさり亜咲は解決策を提示した。
「彼のお母さん、青山でスタジオ兼喫茶店をやってるの。夜はジュエリー占い」
「ジュエリー占い?」
「ネット見ないの、あなた。しょうがないわね。珠螺木ってマニアックな中国茶を出すところ。そこの地下でガーネットさん、お弟子さんとって教えてるから、教室の都合がつけばそこで合わせられるでしょう」
「フェイスブック?」
「そうよ。東京スタコラーズのホームページもあるわ。まだあんまりコンテンツないけどね」
「あなたこないだパヴォのライブに来なかったわね」
「うふふ、別な先約で」
 亜咲はしれっとした声で言った
「あそう、それはそれは」
 が、茴は少し亜咲をつついてみたくなった。
「吉良が好きなんでしょう、いいの?」
「ええ、好きよ。だけど彼だけが今私の愉しみじゃないから」
「ふるってるわね」
「正直なだけよ。あなたとは違うの」
「…何よそれ」
 色をなす茴に応える亜咲の声は晴朗だった。
「ありもしない罪悪感をこしらえて天使ごっこ。森茴はもっと邪悪でいいと思う」
 正直な女、と茴は思った。自分の奔放の弁護のために茴をそそのかしているのとはちがう。また茴をことさら聖女貞女に仕立てあげ、エロスの圏外ラベルを貼ろうとする姑息でもない。千尋唯由は若い妻の精神に佳いものを残して亡くなったのだな、と茴は想像する。とりいそぎの返事はこうしよう、
「おあいにくさま。あたしはフローレンス・ナイチンゲールのファンなの」

 アレグロアパッショナートで、アクセントを強調する音を上げ弓で弾け、という千尋唯由の指示は、時折茴にはきつかった。丸一年かけて丹念に弾きこんだが、サン・サーンスの作品特有の奇抜でテクノモルフィックなフレーズにさしかかると、身覚えの抒情で暗譜できていたはずの楽譜が記憶から飛んでしまうのだった。
 これはどういうことだろう、と茴はたびたび言い訳がましく千尋の前で小さくなってみせたが、千尋先生は弟子の不勉強を甘やかさなかった。一日中頭のなかで歌ってれば弾けますよ、といとも簡単に言う。泣き言こぼすならおやめなさい、むいてないよと。彼に弟子が少ないのはそのせいだったろう。
(森のささやきはどうにかなるんだけど)
 茴はチェロのソフトケースを右から左の肩にかけなおした。撫で肩なのでうっかりするとベルトが背中からずり落ちてしまう。薄いコットンシャツの上からケースのベルトが食い込む。重ね着してくればよかったのかもしれないが、真夏の炎天下でタンクトップの上からシャツを被るだけでも汗びっしょりだ。冷房の効いた車内に座っても、チェロを庇う気遣いのために涼しさを感じられない。
 もうじき恵比寿に着く。会場に入る前にそこらへんの喫茶店で何か食べよう。開演は午後七時からだから、五時に会場に入れば間に合う。亜咲と先生はもう入っているだろう。他の演奏者も。
 メトロを上がったところに世界チェーンのカフェがあった。ここでいい、半端な時刻だからそんなに混んでいない。ちゃんと禁煙コーナーもあるし、奥のほうは空席が目立つ。チェロを抱えて入っても大丈夫みたい。
 チェロを運んでいるときはとにかく自分よりも楽器の場所を探す。ガラス越しに確かめたとおり、店内は混んでも空いてもいない。入口付近の二人掛け丸テーブル二つは、ノートパソコンを開いた男性と女性がそれぞれ独占している。窓際カウンターには、荷物置きの椅子を一つずつ隔ててカップル、シングルが飛び飛びに座る。大きな人形を運ぶようにチェロを背中から胸に抱え直し、茴は体を横向きにして丸テーブルの横を通った。ぱたぱた、とキーボードを叩いている男が顔をあげて椅子をずらして通路を広くしてくれた。
「ありがとうございます」
 男は笑って頷いた。もうひとつのテーブルでパソコンを開いていた女性はノートを閉じ、茴が通り過ぎたあと席を立って出て行った。どちらもサラリーマン、ウーマンのようだ。この梅雨明けの夏空に、二人とも禁欲的なダークスーツを着ている。もっとも、店内の冷房は効きすぎるほどだった。電車の中ではずっとひたひた汗ばんでいたのに、カフェに入ったとたん、すうっと襟足に風が入った。コーヒーの風だ。本日おすすめのコーヒーは何だろう。
(何だったろう?)
 壁沿いの長椅子をとって、奥にチェロケースを置いた。楽器の背中を上にして弦を張った表板を庇う。
(わたしは何を飲んだかしら? 何を食べたかしら)
 運ばれて、いやセルフサービスでガラスケースから選んだのはたぶんブルーベリーのベーグルサンドとチーズケーキだった。甘いものが欲しい。演奏前にアイスクリームはお腹をこわすからだめ。飲み物もホット。コーヒーではなくミルクティだったと思う。
 陽盛りの香枕からここまでチェロを担いで来るだけで、もうかなり疲れてしまった感じがする。亜咲の運転する車に同乗してくればよかったのかも、と考えるのだが、呑気な亜咲はともかく千尋がこわい。要所を抑えてくどくど言わない彼の指示を一年経っても十分に消化できていない茴の気分は疚しい。するすると音符を鳴らす程度ならつっかえないで最期までとおせる。誤魔化すことも。
 頭のなかで楽譜を読んでいる。ケーキもベーグルも、ミルクティも、カフェの中に流れている有線放送も聞こえない。楽譜をすっかり暗譜してもどうしてどこかでまっしろになるの? 
 今夜弾く楽曲三つを頭の中で最初から最後まで三回鳴らすと三十分たった。弾いてもいないのに左手の指とてのひらが汗でべったりしている。背筋は寒い。くしゃみが出た。
 そろそろ出よう。場所の確認をして。
 バッグからフライヤーを取り出す。チラシには千尋の大きい顔写真と亜咲、それからチェンバロ奏者とソプラノのディーヴァ。茴も写っている。千尋の伴奏をするのは亜咲ではなくチェンバロ奏者だった。
 座っている奥から出口までの通路を確認する。ぶつからないでちゃんと通れるかな。さっきよりも店内は混みあってきたみたい。
 さっき道を開けてくれたサラリーマンはまだ残っている。アイスコーヒーをお代わりしたのか、グラスが増えている。まだノートパソコンを叩いている。どんな仕事なんだろう。サラリーウーマンが出て行ったほうのテーブルには子供連れの若い母親が座った。二歳くらいの男の子の足は椅子から床にとどかず、靴をはいたまま宙にぶらぶらしている。あの爪先でチェロを蹴られたらどうしよう。だけどそこを迂回しては出口にゆけない。
 茴はチェロを残したまま立ち上がり、親子の脇を抜けて、親切だったサラリーマンの方へゆき、彼がテーブルの端に置いたアイスコーヒーのグラスを少し内側へ押した。
「すみません。失礼ですが、チェロを運びますので、これがあぶないかもって」
 ああ、と男はさっきよりもはっきり笑顔を見せた。そのとき二十五歳だった茴よりも彼はだいぶ年嵩のように思えた。
「気が付かなくて申し訳ありません」
「いいえ、こっちが我儘なんです」
 茴はそれを意図していなかったが、幼児を連れた母親は茴と男のやりとりを見て、子供の膝をテーブルの下に入れてくれた。
 茴は男と、その隣席の母親に目礼して席に戻り,改めて楽器を運んだ。
 チェーン店を出ると、午後の油照りは頂点を過ぎたようだった。だが太陽を溜めこんだアスファルトの輻射熱は湿度を増して暮れ方にはさらにひどい。冷房でいったん涼んだ体温はまたいっきに上昇し、胸にも顔にも汗が滲む。顔をハンカチで拭いても布にファンデーションは着かなかった。まだわたしはノーメイクだったから。舞台の前には口紅だけ、下手な手つきで曳いていたころ。
ここから先は地図を頼りに歩いてゆく。タクシーに乗るほどの距離ではないと聞いた。チェロケースのポケットから、さっきのフライヤーを取り出し、信号やら銀行やらポイントを確かめていると、肩ごしに櫂が声をかけてきた。
「どちらで演奏されるんですか? これから?」
 ふりかえると、カフェの中で来ていた上着は脱いで肩に担ぎ、ネクタイもはずしている。白いシャツの襟が開いて、屈託のない顔と首筋に大粒の汗が光っていた。
 時間をさかのぼり再会できるものなら、その日、その時に行きたい。

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