さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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海の器  vol 12  UPRES UN REVE

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   APRES UN REVE

  潮騒のかくも愛しきふたたびは
    いつか知られず海に寄れかし
     

 くるぶしを包んで泡立つ波の、ひんやりと重い碧は、東雲の光を映してしらじらと透きとおってきた。山の鳶が馬のいななきのように鳴きあげ、繰り返し響くその叫びは、浜鴫や、遠くの山鶯まで誘って朝と真夏の訪れを知らせる。
 踏みしめるたびに砂は次々と踵に崩れ、波のリズムと同じ速さで重心を移さなければ倒れてしまいそうだ。寄せては返す波紋に目を凝らしていると、単調な潮騒を伴う際限のない砂の崩壊感と銀色の波模様が、立ち尽くす朱鷺をさらさらと水底へ運んでしまうかのようだ。
 水の冷たさが膝上まで這い上がってきたので、朱鷺は顔をあげた。すると、おだやかな入り江の湾曲ときらめく帆影、空に舞う鴎が一度に見え、暖かい生の感覚が戻ってきた。
 真夏が来る。
 梅雨の澱みはどこかに行ってしまい、彼方にひろがるまばゆい光は、重い夜の蓋をやすやすと持ち上げて駆け足でやってくる。辺りはまだ色彩のない銀青色の明暗だけだが、朝じめりの大気はもうさわやかだった。
 浜辺にはサーフィンを楽しむ人影がちらほら行きかい始めた。低い光線は彼らのどぎついスーツや帆を無彩色のシルエットに変え、蛍光色の騒々しさは、白い波の背びれにまだ霞んでいる。
 水を吸った砂に足音も消されていた。
 泳がないの?
 洒落た麦藁帽子を目深にかぶり、ポカリスエットの缶を両手に掴んで、ウラジーミルが派手なバミューダパンツにサンダル穿きで立っていた。
 帽子の縁から覗く瞳が、例によってはぐらかすように揺れている。彼はわざとらしいくしゃみをし、目の端で朱鷺を見る。
「夜が明けるね」
ウラジーミルのサンダルは水に漬かっていた。ちいさな貝殻が、彼の足の周囲で波にもまれてきらきら光る。
「泳ぎに?」
「いや、買い物、それに散歩。あすこのホテルに泊まっているので」
 ウラジーミルは顎をしゃくって破風だけ見える菫いろの建物を示した。朱鷺が何もいわないのに彼は歯を見せて笑い、両手の缶を振った。ふたりぶん。
 が、彼は一つを朱鷺に渡し、飲むようにと勧め、さっさと封を切る。
「待っているんでしょう?」
「でもないよ、彼女は寝坊だから。それに手が冷たくていやになった」
 ポカリスエットは彼の熱を吸って少しぬるかった。
 ぼさぼさの帽子、羽目をはずして胸をはだけたシャツ、むき出しのひょろ長い脚といういでたちにも関らず、腰に片手をあて、海風に額の巻き毛をなぶられているウラジーミルには、独得のみだしなみのよさがあり、彼の演出する中年男のだらしなさには程遠い。
 彼とホテルにいる女はとても若いのだろうか。朱鷺はウラジーミルが素肌にひっかけたアロハシャツをしげしげ見てしまう。シャツに寄せ集められた色彩はフォービズムの絵のように獰猛で、真っ黄色のハイビスカスが濁った青緑の棕櫚を威嚇している。彼はわざとこれを選んだに違いない。安っぽいアフターシェーブローションが匂う。
 彼はわざと自分を貶めようとしている。しかもそれはうまくゆかないので、ピエロに変装しそこねたシュヴァリエ、マノンにふりまわされる哀れなシュヴァリエのように精気がない。
「きみは」
 ウラジーミルは言いかけて朱鷺を振り返った。雲をつらぬいて陽が昇り、浜辺の熱気がふわっとたちのぼり、それと同時に、夏の海辺の色彩が、シンフォニー・オーケストラを奏で始める。
「僕のこどもたちは、きみを困らせた?」
 もってまわった台詞は、不首尾にも彼をせきこませ、ポカリスエットが飲み口からこぼれる。陽光を吸ってウラジーミルの背景の海は見る間に青く染まり、麦わらの黄色が後光のように彼の顔のまわりで黒い影をつくりながら輝いた。朱鷺はウラジーミルの気恥ずかしげな視線をとらえる。まなざしのほうが正直だ。
 が、ウラジーミルは瞼を手の甲で擦り、突然の少年ぽい仕草に媚をちらつかせ、後ろめたさを隠してしまった。
 こんなとき、何を言えばいいのだろう?
 朱鷺は吹き乱された前髪を撫でつけ、
「困ったことなどないわ」
 のらりくらりと核心の周囲を泳ぎ回るウラジーミルの物言いは、今不愉快だった。彼に好意を抱いている分余計に腹がたつ。あなたは冴と樹の父親としてわたしに話しているの? それともわたしの友人として?
 もっとも、こんな朱鷺のカテゴライズのほうが、人間性と自然の曖昧さに対する無理難題というものだった。朱鷺の苛立ちを見透かして、あっさりとウラジーミルは笑った。
「樹は気の毒なことをしたなあ。父親の我儘と母親のいいかげんが裏目に出た。こんな世の中ではあいつみたいなのは生きにくい」
 しらしらとウラジーミルは言葉をつなぎ、唇をほんの一瞬への字に曲げた。で、彼の白系ロシアの遺伝子による弓なりの輪郭正しい唇は、もう次の瞬間には上機嫌に、きれいな小舟のかたちにもどって、しっかりした顎の上で微笑しているのだった。
「田園交響曲なら――」
 さすがにそこで言葉を切った。
 朱鷺は瞬きもせず、一直線に寄せる長い波を見つめる。海の側でよかった、と彼女は思う。潮の匂いに記憶は紛れた。波のうねりにかきたてられる思いはある。それは朱鷺の足をすくう寸前で飛沫となって砕け散る。
 足元から鴫が可憐に鳴いて飛び立った。
「潮がふくらむ」
 ウラジーミルは呟き、冴はクラウスと結婚しない、と言った。

「こどもを生むなんて冗談じゃないわ」
「……」
「あたし、まだこどもなのに、育てられるはすないでしょう? 自信がない、勇気もない」
「クラウスが無理強いしているの?」
「まさか。彼はわたしに命令したりしない。ただ願うだけ」
「話し合いで解決できないの?」
「だめ。彼と話すと負けてしまう。朱鷺にちょっと似ているの。正論なのね。そして優しいわ。考えようによっては、それこそずるいやり方よ。彼に反対すると、こちらが意地悪で我儘な立場に立たざるを得なくなる、そういう話し方にうまくもってゆく。したたかね」
「ずるい? したたか?」
「わたしに自分自身を判断させる。まるで、きみは我儘女のままで年を重ねてもいいの?って言わんばかりの優しさ。いいわ平気よあたし我儘で、って啖呵をきっても、彼はぜんぜんへこたれない」
「クラウスはそんなに品行方正なひとには思えない」
「もちろん、四角四面ではないの」
「どんなかたち?」
「最初はBMWと思ったけれど、今は相当走り込んだボルボ」
「乗り心地がいいのね」
「あなた……ウラジーミルと同じことを言う」
「結婚したいと思っているのね」
――。

夏空を超えて樹はどこに行ってしまったのだろう。朱鷺の手に残されたのは、ずっしりと重いクーパーだけだった。蘭はそれを朱鷺に渡し、樹に返すように、と言ったが、もう彼はいなかった。
「シンガポールから空輸でウラジーミルにライターが届いたそうよ。あの子、ばかね」
 冴は樹の話題になると、クラウスについて話しているときのつやつやした幸福な混乱の表情をかき消して蒼ざめ、震えるのだった。
 夏の光を遮る帳の薔薇いろに包まれた冴の裸身には傷ひとつなかったが、肉体が傷まないぶんだけ、冴は自責の念に苛まれる。
「あの子は、あたしを罪悪感で泥まみれにして行ってしまった。痛めつけてくれたら、まだ気が楽よ。このお腹にすごい傷をつけるとか、顔をめちゃくちゃにするとかしてくれたら、あたしはまだ救われる。恨む余地があるじゃない。あたしたちは平等に傷ついたんだって思えるのに、樹はヒステリーさえ抑えて、ぜんぶ背負いこんで」
 冴は枕を抱いて呻いた。肌はもう焼けて、背中にほそい水着のあとが筋をつけている。この背中をクーパーが貫いたら、と朱鷺はふと想像し、軽い快感を感じてしまう。バターにナイフが突き刺さるように、冴の金いろの肌に、あの重い刃が沈む。血は初めそれほど出ない。隙間なく、ぴったりと肌に密着するから。クーパーを引き抜こうとすると、軽い抵抗がある。組織がねじれ、血管が静脈に沿って破れる微妙な手応え。待ち針の頭のように最初の血は鋼の周囲にぶつぶつ滲む。皮膚が内側へめくれこみ、それはペニスにひきずられるラビアのようにすぼまる。刃にぴたりと密着している皮膚。引き抜いたとたん、勢いよくほとばしる鮮血。黒い血。彼女の喘ぎ。
アクメのような絶望。
 そしてカタルシス。
(もしかしたら、冴も死にたがっていた?)
「何を考えているの?」
 冴はひっそりと息をころして尋ねた。自分の肌に触れてくる朱鷺の指先が冷たかった。何度となく繰り返された問いが、また冴の唇を動かし、だが今彼女は苛立ってはいない。
「あなたを刺し貫くこと」
 冴は首をねじって朱鷺を見た。サテンの枕の照り返しで、冴の顔の半分は薔薇いろ、もう半分がすみれ色に見える。顔の左右で表情が違っている。
 朱鷺はうなだれていた。起伏の少ない胸に、かたく、しまった乳房がすべすべした陶器のような光沢を湛えている。つん、と上を向いた乳首の味を樹は知っているのだろうか、と冴は想像する。得体の知れない妬ましさがこみあげてきたが、それは過去の自分に対する嫉妬かもしれなかった。自分は得がたいものを両手にしていた。なのに保ちきれなかった。
(朱鷺のせい? それともクラウスの?)
 誰のせいにしてもいい、と冴は自分を許す。理由は何でもいい。最初に激情があり、理窟や言い訳はあとからのろのろやってくる。いっそ全部壊してしまおうか。
「正直ね」
 冴は片手を伸ばし、朱鷺の喉を掴んだ。同じことをする、と朱鷺は身悶えをしたが、冴は朱鷺のおさげの髪をずるずるとひきよせ、人形をいじめるように手足をからめてしまう。
「あたし、樹に似ている? あたしを見るとあの子を思い出す? そうでしょう」
 冴は朱鷺に馬乗りになり、膝で彼女の腰をはさみ、乳首をぎゅっとつまんで親指とひとさし指でちりりと揉むと、朱鷺は悲しそうな顔をして冴を見上げた。
 朱鷺は、何かを克明に記憶していることができなかった。即物的な形象は独得の感受性に濾過され、曖昧にぼやけてしまう。直感のほうが優位をしめており、目鼻だちよりも、相手の内面を映す表情のほうが強い印象を刻む。
 姉弟そろっていたときは、このふたりはそれほど似ているとは見えなかったのだが、今では、とり残された冴の端々に樹の記憶をすくいあげることができた。髪の生え際、鼻と眉の付け根の、指で押し付けたような窪み、弓なりの眼窩の曲線や、女性にしてはすこし長い鼻筋の半ばで、作者がふと手を誤ったように軟骨がいびつになっているかたち。どういう遺伝子なのか、ところどころで皮膚の質がざらついている触覚までが、鮮明に樹の映像を呼び起こす。
冴を眺めているうちに、朱鷺は自分の感情の在り処がわからなくなる。哀しい、愛しい、寂しい、恋しい、つらい、せつない……
傷痕をひとつも残さず去っていった樹を、冴も朱鷺も憎めない。彼女たちが樹に対して共有しているあかるい寂しさは、たぶんいつまでも決着のつかないまま、感情の上澄みとなって漂うだろう。もし樹が還ってきたとしても、同じ物語を紡げるはずはない。
今は季節の変わりめなのだった。
潮の屈曲、季節と季節のあわいで競り合う風のさかいめ。大気に湧きあがる潮の匂いは変わらないが、風景は刻々と濃淡いろどりを変えてうつろう。この渚に樹がまた登場しても、彼は二十歳ではなく、冴も二十三歳ではない。わたしも、と朱鷺は心のまなざしで水平線を眺めた。その向こうに樹がいる。
(一年たっただけなのに)
 そう、去年の初夏、この海岸で冴に出合った。それから樹と。
冴は言った。
「なぜ樹と行かなかったの? 蘭さんに気がねして? あたしはあなたならよかったの」
 本心ではない台詞が冴の口をつく。もしも朱鷺と樹が結びついたら、あたしは嫉妬で気が狂ってしまうだろう。なのに自分はそうなるように仕向けさえした。ナゼ? 望んでいた、いる、と冴は混乱し始める。混乱はあたらしい汗となり、肉体のもっと奥深い部分で沸き返る。
 朱鷺のゆびがきた。
 冷たい。あたしを殺すことを考えているんだ、と冴は逆上する。けれども、生と死が楔形に交錯する頂点で、少女のほそい指は、柔らかく冴をあやつって無邪気に遊ぶのだった。内側と外側が反転し、傷だらけの心が皮膚感覚となって血を流す。朱鷺の指がそれを宥めてくれる。
 少女の膝に顔を伏せると、そのふたひらがひらき、柑橘類の香りのする雫が冴の手にこぼれた。そこは淡い薄紫をしている。すぐに濃い茜が昇るだろう。
(この半透明な華奢を樹は知らない)
 冴は疚しさをまじえた優しさで舐めた。毛細血管がまひるの明るさに透け、殺意も嫉妬も膜のような皮膚感覚に覆われ、ゆらゆらと漂う彼女たちの視界には、サテンのシーツの明るいさびしさだけが見える。

 きみの行動原理は何だい。
 陽射しが皮膚に突き刺さるようだ。朱鷺は帽子を持ってこなかったことを後悔する。ウラジーミルはシャツのポケットからハーフスモークのサングラスを出してかけた。すると三十年後の冴が現れた。
 朱鷺は着ていた長袖シャツを脱いで、頭からすっぽりとかぶり、顎の下でその両袖を結んだ。へえ、とウラジーミルはまじまじと彼女を眺め、
「インドの子みたいだ」
「あたしはヴィエトナムなんだって、蘭さんが言ったわ」
 それはほんとうだった。TV中継されたサイゴン市内を歩く娘たちの姿は、朱鷺と同じように手足が長く、首がほそく、胸郭は華奢だった。
「するときみは東シナ海から来たの?」
 ウラジーミルはふと口を噤み、飲み干したポカリスエットの空き缶を足元の砂に突っ込み煙草を銜えた。今の彼の雰囲気には似合わない、あるいは似合いすぎる重々しいダンヒルの、勿体ぶった発火音が潮騒に混じって聴こえた。
 海水浴の家族がはしゃぎながら砂浜をひとかたまりになって横切ってゆく。もう夏休みだった。母親らしい女が二人、熱帯植物のような水着を着ている周囲に、浮輪やビーチボールを抱えたこどもたちが跳ね回りながら海へ突進してゆく。彼らの周囲を毛のふさふさした犬が、こどもたちの歓声に負けじとばかりに、賑やかに吠えながらついてゆく。彼らの影は短く濃く、垂直に照りつけ始めた真夏の光が乾いた砂にハレーションし、家族客は、白い砂浜に原色の穴を開けるように降ってきた。
海だ、とこどもの叫び声が聞こえた。
「わたしは犬のようなもの」
 ウラジーミルは、煙草をくわえたまま横に微笑をひろげて疑問を表わした。
「あまったれで、飼い主にべったりくっついているちいさい犬」
「きみ、甘えん坊には見えないね」
 ウラジーミルは口をとがらせて煙を吐き、女の意見にめずらしくまぜかえした。
 朱鷺は返事をしないで、渚を駆けてゆく白っぽい犬を目で追った。暑さに弱い長毛種の犬は、母親たちがこしらえたパラソルの影にもうひっこんでいる。朱鷺には、あのシーズーの、赤い舌を出して、はあはあ喘ぐ声が聞こえるような気がする。それに、強い光線のために匂いたつあたらしい糠のような犬の匂い。健康な獣の陽にさらされた臭気は、母親たちのつけているパンケーキより強烈だろう。
「で、きみは蘭さん以外になつかない?」
 朱鷺はサングラスを見た。ウラジーミルは眼鏡を盾にして彼女の視線を受ける。しかし、彼女が見ているのは、グラスの縁に輝く赤と緑のプリズムだった。朱鷺は素直には応えなかった。
「冴が好き」
 ことさらさりげなく、そのさりげなさで、こちらの心の痛みを訴え、相手の軽薄な好奇心に釘をさすことができたらと願いながら言い添えた。
「樹も愛している」
 うん、とウラジーミルは煙を空に吹きだし、その向こうにもくもくと湧きあがる積乱雲を見つめ、しきりにダンヒルを弄ぶ。彼には雲しか目のやり場がない。
 ウィンドサーフィンを抱えた若者たちが三人、身体にぴったりした黒いスーツを着て傍らを過ぎてゆく。若者のひとりは背中のファスターを閉めず、チョコレート色の背中と肩が、着付けの途中の着物のように割れていたが、水滴にきらめく健康な皮膚の輝きは、その焦げた肌の下にこそ、ほんものの蒼白い、傷つきやすい皮膚が隠れているのではないかと思われるほど強靭だった。彼らが快活な呼吸とともに運んできた汗の匂いは、朱鷺の心臓を錐のように刺す。砂を含んだ髪の匂い。胸に押し当てられた頭からたちのぼった陽さらしの磯、防波堤の腐食した鉄の匂い。
 ……。
わたしは蘭さんといっしょにいる。
 でも俺ともいる。
 あなたが見ているのは、風景の中のひとつとしてのわたし。わたしだけを見ているんじゃない。
こわいのか?
 樹は冴と離れられるの?
 ……殺したい、殺せない。
 殺さないと離れられないの? だとしたら、殺したって冴からは離れられないわ。誰も身代わりになんかなれない。
 我慢できない、今のままで。
 ……苦しい。
 俺が死んだら、哀しい?
 ――。
「きみはあいつを送り出してくれた」
 ウラジーミルは帽子をいっそう目深に被りなおし、顔をぼさぼさの鍔の翳に隠してしまった。彼には稀な、揶揄も好奇心もとりはらった優しさがある。彼は自分でもその感情が恥ずかしいのか、帽子の青い翳の中で、ごくちいさな声でつぶやいた。
「僕はろくでなしで……」
 どおん、と真夏を揺るがすように大波が押し寄せ、渚ではいっせいに歓声と悲鳴が沸いた。潮が満ち始めている。岬へ湾曲しながら続く長い海岸は、あとからあとから押し寄せる海水浴客で賑わっていた。さまざまな色合いの水着や遊具が、画用紙にしたたる絵の具のように、とりとめない喧騒で夏を塗りつぶそうとしている。

血の気を失った頬が快楽の極みでやつれていた。
 冴は濃い睫毛を持ち上げ、何かを待ち望むように天上を見つめる。しかしそこにあるものはバロコの歪んだ唐草模様と、色褪せ始めた薔薇いろの絹だけだった。愛撫の名残が疼きとなって腰にわだかまる。それに終止符を打つ明確な痛覚が欲しかった。樹が消えて以来、感情の澱みが下腹部を圧迫している。クラウスに埋めてもらいたい、という欲求がじわじわとせりあがってくる。
(クラウスだけで満たされるの?)
 冴の後頭部から、誰かの鈍い声が響く。誰の声? 朱鷺? それとも累?
 結婚したら、朱鷺とはおしまい。樹が戻ったとしても、できなくなる。過去現在のポリガミーを未来のモノガミーと交換してあたしは安定を手に入れる? 
(退屈であたたかいクラウスのベッド)
 冴はクラウスに悪態をつくが、我ながら反抗の気力に乏しかった。彼女には毛むくじゃらのあたらしい男が必要なのだった。華奢な朱鷺にまたがることはできても、手足を伸ばしてのうのうと寛ぐことはできない。
 自分のしてきたことは何だったの、と冴は呟く。帰ってきて、行かないで。だが殺されるような裏切りをしたのは冴だ。後悔の余地もない。弟を追い詰めたのは彼女のほうだ。朱鷺が帰っていったあと、まだ裸の彼女がなお焦がれているのは、樹が彼女に刻みつけた感覚の残滓なのだった。体を交わしていなかったら、冴の悲哀はもっと違った涙になっていただろう。
 冴はサテンの枕に顔を埋めて泣いた。弟が失踪してからもう一ヶ月以上経ったが、まだどこかに彼の匂いが残っている。彼女の涙は素直だが貪欲だった。冴はもう前進することを決めている。上等にもボルボが用意されているではないか。それで、彼女は思う存分泣くことができる。
 枕許で電話が鳴り、留守番に切り替わった。
厚みのある声が冴の歎きを遮る。大きくて、いかにも教養のある、自分を信じている中年男の声が、とても自然に彼女を呼んでいる。虚勢を張らないのは真底強いからだ、と冴はうっすらと朱鷺を思い出す。
 コードレスの電話がオンフックになっていたのは偶然ではなかった。
 干潟に取り残された魚なら、水のいっぱい入ったバケツを選ぶだろう。後でどうなろうと……。
 食べられるとしても。
(肥らせたい。キャビアはどう?)
 鮫は嫌い。ふくらんだ……がいい。
 彼女は膝を抱えてベッドの端までころがり、胎児のような姿で受話器を抱えた。

「死ぬ死ぬと騒ぐやつほど長生きし」
 蘭はコンサート・グランドを拭きながら朱鷺を見ずにうそぶいた。
 半世紀以上も前の巨大なピアノは、丁寧に手入れをしてきたおかげで、古びて厳しくなり、この家の誰よりも悠然としている。調律師泣かせではあったが、音色はえも言われぬ風合いで、高音はリナシメントの王侯の肖像画さながら沈んだ光沢を放ち、音が割れ始めた低音は、人工の領域を超えて岩場に砕ける波のように震えた。それを蘭は、ルービンシュタインを真似て思い入れたっぷりに奏く。もちろん朱鷺の前で。観客なしにパフォーマンスするほど彼は素朴ではない。
 大丈夫さ、と蘭は手布をまるめて放り、ぬっと朱鷺を振り返った。
「今の柳句がわかるか」
 極まるときに、死ぬ、というだろう? 同じだよ。生きたいから死ぬ。
「茶化さないで」
「とんでもない。これは世界史を貫くアフォリズム。死の恐怖が人間を駆り立てる。全力疾走するのは後ろから狼が追いかけてくるからだ。恐怖がエネルギーの媒体よ。つまり、生は不可避的に死の補給を受けないとうまく働かない。あるいは鈍くなるんだ」
 だから、と蘭は楽譜を開いて言う。
「あいつは生き延びるさ。インドネシアの急成長は目を瞠るものだ。樹ならかしこく化けて見せるだろうよ。べつに日本〈人〉でなけりゃ生きていけないわけじゃない」
 それで、と蘭はアンコールピースのメンデルスゾーンを奏き始めながらつぶやいた。
「おまえも行くか。ここを離れて」
 愛撫のようなメンデルスゾーン。彼はもの言いたげに旋律を揺らし、決定的なドミナントに続く完全終止を避け、物語を先へひきのばす不完全終止を多用する。語りきれない、愛撫したりない想いがあるよ、とばかりにズブドミナントの和声が優しく繰り返される。カタルシスはあるようでなく、どこかものたりないほのめかしのまま、やがて曲想は消えてしまう。
(くじけたままの樹を、どうしてそのまま帰すことができたろう)
 朱鷺は黙って蘭の背中にしがみついた。
「いかない」 
 ズブドミナントのまま、ここにいる。
 蘭さんと。
 おや、と彼は眼をみはった。朱鷺のそのような表情は見たことがない。そうか、と彼は了解し、鍵盤から手をあげ、すっと少女の体温を自分の背中から離した。朱鷺は逆らわなかった。少女の胸と男の背中のあわいに、夏の大気がさらりとはいりこみ、ピアノの音が止むのを待っていたかのように、窓の外の楡の幹から甲高く蝉が響き始めた。
 それでも朱鷺は微笑を絶やさなかった。彼女は自分が必ず男に受け入れられるとわかっているからだった。
 漆の塗り目がマーブルのようにわずかに波打つ、微妙なつやの浮かんだピアノの表面に少女の淡い笑顔が映っている。竹内蘭は奇妙な気がした。自分は労わられている。彼は自分の真横に蔦のように垂れたほそい少女の腕を撫でる。薄く汗ばんだ皮膚の感触はとても快いものだった。
「焼けたな」
「すこしね」
 少女の腕を撫でる大きな手の甲の縮緬皺が前より増えている。手入れのゆきとどいたたまご色の手は柔らかく、まだ丈夫そうだが、亡滅の海はしのびやかに彼の肉体に漣を寄せ始めた。
「日焼けどめを使え」
 かぶれるから、と朱鷺は拒み、わたしはこのままがいいのと蘭の髪に触れた。短く柔らかい男の髪からは、レール・ジュ・タン、時の流れがほのかに香った。

                                                                海の器  了

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海の器  vol11  SOSTENUTE

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   SOSTENUTE

 木漏れ陽も君より響く歌のごと
   若葉晶(すず)しき森に生れなむ


 禁忌とは何だろう、と朱鷺は初夏の柿若葉を眺める。さわやかな黄緑の若葉は、海風にきよめられた空の青さを初々しく吸い込んで、目に見える速さで成長してゆく。若緑がやがてつやつやと濃さを増すと、葉の重なりの上に、花ともわからないほどつつましい柿の花が咲いた。
 クリームいろの柔らかい花弁はちいさいがふっくらと優しい。ささやかで、黄緑がかった白いはなびらは、誰の目もひかない。
 そんな地味な花なのに、秋の実りの豊かさ鮮やかさは、不釣合いなくらいだ。柿の木はみづからが花やぐエネルギーを削って次世代につなぐエネルギーを補償している。むかしの母親が我が身を倹しく控えて、こどもたちを育てあげたように、柿の花は葉隠れてあえかに咲き、散る哀しみさえ見せず、ひたすら秋の実生にいのちを注ぎこむのだった。
 いのちとは本来そのようなものだろう、と朱鷺は猫の鳴き声のような舵のチェロを聴きながら思う。八分の一サイズのチェロは、舵が憧れたメロウな音色には似ても似つかず、失恋した牡猫のエレジー、と言うのも上等すぎる歌をうたう。
 音程を奏きまくるならマシーンでもできる、と蘭はしばしば苦々しく吐き捨てた。
「はみだし、たゆたいもたれかかり、ときには逸る感情の流れを表現しなければ、音楽とは言えない」
 バレンボイムのピアノはいい、と蘭はうなるのだった。はみだし、たゆたう……。
 朱鷺は椅子に寄りかからず背筋を伸ばして小学生のようにきまじめな顔で窓の外の青葉を見つめている。膝には読みかけの本があるが、なにを読んでいるのか、どこまで読み進んだのかもう忘れていた。萌え出づる新緑にひたと目を据えて、きっちりと口許を結んだ表情は、それとは知らず樹に似ている。
 蘭さんがいなくなったらどうするの?
 頬がこけて、目ばかり大きくなった樹は、手入れを怠った庭木のようにふぞろいに伸びた前髪をかきあげて言った。蒼白い肌に唇だけが赤い。それも沈んだ、不健康な赤で、顔色の悪さのために、かろうじて赤みがさして見えるという、剥き出しの粘膜のいろだった。
 桔梗山の部屋に冴はいなかった。彼女は約束と時間に無頓着で、ことに後者への義務感がまったくない。待ち合わせをしてもたいていは遅れ、まれに早く来ているときは、ひどい憂鬱にとりつかれているか、あるいは躁状態で、あっけにとられるほど着飾っていたりする。朱鷺は何度も腹立たしい思いを味わったが、やがて、彼女の無頓着は一種の自己防衛なのだと察した。
 相対の関係では、否応なしにどちらかが受身にたたされる。それは流動的なものだったが、おおむね朱鷺のほうが冴を待つ側にまわった。待たれていると冴は安心するらしい。また彼女は能動する側でいたがった。能動は、彼女の価値観として優越に結びついている。好都合なことに、朱鷺は誰かを待たせることには苦痛を感じる性格だったし、受身の立場に抵抗もない。受容することとふりまわされるのは違う、と思っている。それで冴と感情の均衡が保たれている。
 時折、冴は無意識か、意識してなのか、朱鷺をふりまわそうとする。朱鷺をつまづかせ、唖然とさせたい、あるいは哀しませたいと意図しているかのような意地悪をする。盥に張った水を揺さぶって、したたか零してしまおうとでもするかのように、乱暴なやりかたをする。
…きっと、樹に対してもそうにちがいない。時折、あるいはしょっちゅうか。一定のわかりやすい行動パフォーマンスは、あたかも彼女のキャラクターに映しこまれた幼児期の記憶をさまざまなヴァリエーションで再現し,
年月を経てもなお不透明にわだかまる情動のカタルシスを、絶えず外部に求めているかのようだった。
「ひっくりかえしてしまう勇気はないの」
 冴は情けなさそうに、でも意地悪く朱鷺の乳首を噛んで囁く。蘭が朱鷺の小海老のような乳首をたいせつに労わっているのを知っていて、冴はことさら朱鷺の淡いろをいためつけるように前歯をたてる。
「こんな快楽は、ほかの子とでは手に入らないから」
 と、冷淡に、わざと神経を逆撫でするように付け加えるのだが、そうやって朱鷺をいじめればいじめるほど、冴の執着が強くなってゆくのが露わになるのだった。過去あるいは現在のネガな情動を投影する(ポジティブな情感ならシェアする必要はあまりない)苛みのたびに、その対象は自らの似姿になってゆく。誰と離れようとも、自分自身とは一生添い遂げるしかないではないか。合わせ鏡のように照り返す精神の似姿。
 朱鷺は、キッチンの古風な換気扇が羽虫のように唸り続ける煙草臭い部屋で、冴を待つことにした。退屈したら眠ってしまえばいい。
 部屋は相変わらず散らかっていた。化粧水の空き瓶がころがり、ジャンク・フードの食べ残しが流しに積んである。床のヘアピンやクリップを踏まないように気をつけなければならない。壁をくりぬいたクロゼットの扉が半分開いて、クリーニングのビニールを被せたままのドレスが、押し合いへしあいしながら腕や腰を突き出している。それらの衣装は時折まじる原色と、おおかたは無彩色だった。
 ソファも脱ぎ捨てた衣装とりどりに占領されている。アシンメトリーなデザインのパンツスーツは、誰かが陳列したように裾をひらき、ソファを我が物にしている。
 デッキ・チェアの坐り心地の悪さに閉口して朱鷺は寝台の天蓋をめくる。息を呑む余裕もなかった。アールデコの唐草がついたベッドの頭板にもたれ、樹がこちらを見ていた。

「二時に約束した」
 樹は片膝をたてて、長い手を膝頭に添えて頬杖をついた。
「わたしも」
 朱鷺は口をすべらせ、しまった、と思う。樹は唇の端をゆがめ、木炭を噛むように苦い顔になった。
「ひどいたくらみだ、どう?」
 樹をつまづかせたいのだろうか、と朱鷺は青年から顔をそむける。顔のやつれようがいたましかった。
 それにしても、なぜ樹の気配を察することができなかったのか、垂れ込めた薔薇いろの帷の奥で、樹は朱鷺のたてる物音やため息を聞きつけていたが、朱鷺はまったく気がつかなかった。不意打ちだ。
「樹はいつもわたしを驚かせる」
 朱鷺は逆三角形の窓を見ながら呟いた。久し振りに見る硬化ガラスには、上半分緑のスモークがかかっていた。緑の重しをかけた窓の透明な末端が青い海に突き刺さって見え、それは朱鷺の神経を鋭くさせた。
「俺のたくらみじゃない」
 樹はそっけなく否定したが、朱鷺の気持ちはわかっていた。とても過敏なはずのこのひとは、俺に対しては無防備でアンテナがはたらかない。何故だろう。
 答えは逆三角形の窓にあった。
 が、樹は自分自身に対してしらをきり、的のまんなかをわざと迂回して冴に話題を振った。
「あいつ、男ができたんだ。ドイツ野郎、スカンジナヴィアかな。ウラァが言った」
 朱鷺はさっと樹を見た。樹の顔を直視し、帷の薔薇いろの陰のせいで栗色にかすむ瞳の奥にウラジーミルに対する悪意があるかどうか測る。よかった、樹は父親を軽蔑してはいない、父親に反発するのがふつうじゃないだろうか。
(あきらめている、この子。なんてことだろう。ウラジーミルは父親じゃないわ)
「獣医だって。信じられるか? あの冴に犬や猫の世話ができるか」
 自分の寝床だってできないのに、と樹は枕の下から、ベージュのランジェリーをひっぱり出し、朱鷺に投げつけた。Eカップのブラジャーには、なまなましい煙草の焼け焦げが乳首の部分をくりぬいている。
「やめて」
 朱鷺はあえいだ。こんな屈折した憂さばらしは公衆便所の落書きよりいやらしい。樹はかすれ声で笑った。まだあるぜ。
 朱鷺の膝に紫のパンティが投げ出され、しなしなと床に落ちた。とりあげるまでもなく、膣の部分が焼き抜かれているのがわかった。焼けた繊維の匂いと、微かに、みだらな分泌物のなまぐささが来た。どちらも新しい。絹には染みがついている。卵の白身。…。
 いやだ。
 朱鷺は後じさる。蘭にあまやかされているせいで、朱鷺はこの種の悪意に免疫がない。性的な歪曲、それによって生じる感情の濁りは鳥肌がたつほどいとわしい。
「あなたがすることじゃない」
 朱鷺はいまにも倒れそうな感じだった。逃げ出そうとする肉体の感覚と、これしきのことは克服せよと命じる超自我に、両側からひっぱられて、姿勢はぐらつき、瞳の焦点が合わなくなる。
「何だよ、なにもしないさ。落ち着けよ。冴の陰謀なんか、くだらない」
 しかし樹は猫撫で声になっていた。ベッドのスプリングが軋み、
(世の中にはもっとひどいものがある。知らないのか。夜道に立っていて、いきなりジッパーを下ろす奴だっている。いきなり刺し殺す奴もいる…)
「誤解だって」
 朱鷺の瞳がふっと揺れ、次にぴたりと樹を見た。彼女のまなざしに怯えは消えている。
 朱鷺の瞳を見なければよかった、と樹は悔やんだ。砂が潮を吸い込むように、朱鷺は幾重にもたたまれた樹の心を読んでしまう。
「わかってるわ」
 朱鷺の声が遠くから響いてきた。樹のなかでせりあがってきたものは、この刹那に崩れ去り、水泡となって朱鷺のまなざしのなかに拡散してしまう。
 樹は朱鷺の眼と鼻のさきにいたが、ふたりの距離は、先程樹がベッドにうずくまっていた時より、はるかに――いつもどおりに遠ざかっている。
 うなだれたのは朱鷺のほうだった。
「いつも驚かせるのね」
 その囁きに籠もる安堵が樹の自尊心をちくりと刺す。人畜無害じゃない、俺は。
 が、凶暴にもなれない。
(今だって、やろうと思えばできる。押えつけて、他の女たちのように)
 樹は朱鷺の指の味を思い出し、歯の裏で舌を蠢かせた。冴の匂い…朱鷺の味だ。
(俺は羊じゃない)
 樹は朱鷺を憎むことで、つかまえようとした。憎しみは愛よりわかりやすい感情だ。そしてひとたび憎んだ相手は、滅多に自分から逃げては行かないのだった。愛の確保には忍耐が欠かせないというのに、憎悪はなんとたやすく自分に寄り添ってくれるものだろう。もう要らない、と押し退けても、やがては向こうからしつこくつきまとうようになる。
が、樹はまだそれほど愛と憎しみの経験を積んではいなかったので、安い酒で誤魔化すように、冴と朱鷺とを憎んでつかまえることにしたのだった。
手始めに彼は、頭を振ってふぞろいな前髪を瞼からはらいのけ、言いはなった。
「蘭さんが死んだらどうするの」

「レスボスを悪魔的だなんて言うのは、男の身勝手だ」
 フランソワ・リュペール・カラバンの作品を見ながら蘭は決めつける。
 蘭の知人の古物商が贈ってくれたアール・ヌーヴォーの写真集には、ガレやドームのガラス器にまじって、蛸の浮き彫りのついた化粧小箱に秘められた彫刻があった。
 「ふたりの女」というその彫刻は、朱鷺の眼を奪った。アール・ヌーヴォーの女たち、ことに彫刻の女性像は、十九世紀のがっしりと肥り肉だった現実の女たちとは異なり、すんなりとしなやかで、指先から爪先までの流れるような曲線は、バレリーナでなければ体現しえない美しさだが、カラバンの作品もその例に洩れず繊細だった。
 一人の娘が膝をひらいて寝そべり、もう一人が彼女の脚の間に顔を伏せて愛撫している姿は、「地獄の快楽」という解説にはそぐわないのびやかさ、ふくよかさに溢れていて、愛撫を享けている娘が、ほんの少しのけぞり、顎から首筋の線をすっきりと際立たせて、斜めに顔を傾けて放心している様子、下半身で重なった二人の脚の、なだらかで歪みのない肉付きなど、ミケランジェロやベルリーニの優れた作品のように晴朗だった。
「作家が邪な感情を抱いていたなら、こんなに美しいものは生れないわ」
 朱鷺は興奮気味だ。蘭は彼女の反応を面白そうに観察し、肯定とも否定ともつかない口ぶりで応じる。
「アール・ヌーヴォーというのは、女性を描こうとしたのではないよ。曲線の、コムポジションの理想を植物や人物に仮託したんだから彫琢を極めるのは当然なのさ。きわめて帰納的なものだ。具象の前に結果がある」
 蘭は梅鼠いろの、七十年代ふうに襟のとがったシャツを着ている。イタリアに住んでいたころのもので、組紐模様のような、カリグラフのような手のこんだ織り模様が浮き出されている。浮き織りの光沢のために暗色の鬱陶しさがないそのシャツは、蘭によく似合った。朱鷺はこっそりとそれを着てみたことがある。すると、蘭以外には似合いそうもない「地味だが華やかな」絹のシャツは、あつらえたように朱鷺に馴染んだ。物影から朱鷺の悪戯を覗いていた蘭は、その時ぬっと首だけ出して、鏡に映った朱鷺に言った。似合うじゃないか、俺と骨格が同じだからだな……。
「でも」
 朱鷺は強弁する。
「同じコムポジションで同じかたちを作っても、いやらしい作品はあるわ。何が描かれているかではなく、どのように描いているかが大切だと」
 そうだ、と蘭はくしゃみをした。初夏の風は蘭の鼻粘膜には刺激的すぎる。朱鷺はたちあがって窓を閉めた。蘭は頷き、話をもとに戻した。朱鷺は何事につけ納得したがる。
「性はあらかじめ倒錯を含んでいる。つまり、男どもには耐えられないのさ、女たちの愛撫がどんなにいいものか、直感的にわかっているので」
「嫉妬?」
「まあ、そうだ」
 蘭は中途半端な顔つきをする。彼は男だった。昔話だとしても、魅力的なフランス女の多くは、例えばココ・シャネルにローランサン、コレットも、そちらだったなあ…。
「男はたたかれると弱いんだよ。その、なんだ、自分の支配権を侵犯されるのがいやなんだ」
「男性は女性を支配する?」
「そのほうが平和だろ」
「どうして?」
「種の保存さ」
 それならわかる、と朱鷺はかしこく頷いた。文化は本能と離れて、ときおり逆走する。同性愛は文化のヴァリエーションだ。
「だからさ、男同士のいちゃつきには、ヘテロの男でも、まあ寛容なんだ。むしろ、知的レベルの高い男たちは、ほとんど潜在的にホモセクシャルとも言える」
「うそ」
「絶対に女が入れないからね。女を排斥した男の優越世界だ。欧米では石を投げればホモに当たる」
「レズビアンは?」
「レズというより、バイセクシャルのほうが適切だろう。富裕なサロンの女主人は、たいてい男女両方の愛人がいる。プルーストのころから、いやそのずっと以前から変わらないよ。人間は快楽追求において条件が許すなら限りなく率直かつ貪欲だ。別にそれがビザール視される世界じゃない」
「へえ」
「そうだ」
 なあんだ、と朱鷺は写真集に視線を戻した。蘭はもう言いたくないのだろう。彼が実態を知らないはずはなかったが、朱鷺に聞かせたくない、というニュアンスが露わだった。それで朱鷺はもう訊ねない。
「個人レベルにひきさげて、おまえの疑問をくくるなら、簡単にこうだ。つまり打たれ弱い男は、乱暴ってことなのさ」
 朱鷺は笑い出した。
「蘭さん、どっちの味方なの?」
「高みの見物。どちらにもつかない」
 だが、さらに蘭は言葉を継いだ。
「映画の『失われた時を求めて』で、シャルル・スワンは新聞を読みながら女の尻をまくっていたろ。男には機能的この上ないが、ロマンスのかけらもない、ただの処理だ。そんなふうに女を扱いたがるんだな」
「それが男の本音なの?」
 蘭は首をすくめた。文化は表層にすぎない、とつぶやき、ひそひそ声で、
「カラバンは憧れたんだ」
 朱鷺は念を押すように
「自分も愛撫されたかったの?」
 蘭は答えずに、かるく首をかしげ、違うことを言った。
「逸脱を許すわけにはいかない。社会構造が崩れてしまう。性衝動をおおっぴらに解放してしまったら文化は低迷する。獣に文化文明は不要。六十年代半ば以降の現代がそうだ。建築も音楽も、歴史を顧みれば一目瞭然だ、制約の厳しい時代において、高度に洗練された文化が地球上に燦然と屹立している」
「精神性が崩れていくとしたら、わたしたちは何を守るの?」
 踏み込んでくる朱鷺の瞳は澄んで大きく見開かれていた。言い逃れは彼女に通用しない。蘭はこういう朱鷺が好きだった。
 彼はにやりと笑った。
「てめえの女くらいだろ」

女はいくらでもいた。今まで自分は何を見ていたのか。映画館で、バーで、ハンバーガースタンドで、或いは駅の雑踏で、女たちは壁にもたれかかり、髪の枝毛を選り分けながら樹を待っている。シャドウに目張りされた視線が、ひしめきあう人波をさかのぼり、樹の血ばしったまなざしをすくいあげる。
 目があった瞬間、どの女も一様に上目遣いになるのはなぜだろう、と樹は思う。しかしそれは合図だ。顎をひき、ルージュを塗った唇を微かにひらき、白目を際立たせる。いつのまにか、そういう時、樹もまた顎をひくようになっている。顎をひいて肩をすくめ、だらしない足取りで近づいてゆく。自分のまなざしが粘ついている。ねばついた視線が絡み合い、そのままホテルの暗がりに転落してゆくのだった。
 金をくれ、と樹は初めてウラジーミルにせがんだ。金はいくらあっても足りなかった。ロワではまだ見習い扱いで、自活するので精一杯だ。これまではそれで不足なかったが、女たちは遠慮なく金をせびった。樹をひっかける女は、小遣い稼ぎに売春する主婦や学生の素人売春婦だ。なかには淫売目的ではない娘もいたが、ふらふらしている彼女たちは、樹が誘うとたやすく同意し、しかも貪欲なことは売春婦以上だ。からだを交わしたあとで食事とレジャーを要求し、家まで送れとほざく。面倒臭くなった樹は彼女をバーに置き去りにし、次からはいかにも水商売風体の女を選ぶようにこころがけた。
「病気には気をつけろ」
 ウラジーミルは、むしろ嬉しそうに目を細めて金の包みをくれた。
「ウラァこそ」
 樹はにやりと笑って父親を見返す。いやな笑いだと自分でも思う。自分のすさんだ表情が父親の灰色の瞳に映っている。
「冴はどうしてる?」
「さあ。ウラァのほうが知っているんだろ」
「あいつも不器用だからな。冴も樹も俺と奥さんの不器用なところばかり受け継いだみたいだ」
「そうでもないよ。まあまあさ」
「親父をなぐさめるな」
 ウラジーミルは下唇を突き出すように煙草をくわえる。端正を損なうほどではないが下瞼がたるみ、目許の笑い皺が増えた。年をとった、と父親を眺めながら、自分がウラジーミルに対してひどく淡白な感情しか抱けないことに気づいた。しらじらと稀薄な関りの自分たちは何だろう、と樹はウラジーミルの煙草入れからピアニシモを抜き出した。
「吸うようになったのか?」
 まあね、と樹は頷き、とてもさりげなく尋ねた。
「冴に男をあてがったのは…?」
 ウラジーミルのまなじりの皺がいっそう深くなり、口許には鉛筆で描いたような皺の括弧が刻まれた。毛先が銀色に褪せた長い睫毛をしきりにしばたたかせながら、ウラジーミルは両手を顔の前でぎゅっと組み合わせ、その影から片目だけ出して呟いた。
「まあいいさ。おまえも二十歳になったんだから。注意書きはケースにある」
 俺が指図することじゃない、と彼が呟いたとき携帯が鳴った。甲高い女の声が樹の耳まで聞こえた。本音は心優しい悪がりの色男は反射的に息子に背を向け、電話を片手でとった。
 樹はウラジーミルのピアニシモとライターをポケットにねじこみ、金を包んでたちあがった。さばさばした顔で父親をちらりと見て、
「恩に着るよ。いつか返す」
「ライターだけでいい」
 息子の背中を見送る作り笑いは、泣き顔のように見える。彼は送話口を塞ぎ、口の中で呟いた。
「初めての女がくれたんだ」
 が、彼はその女の名前も顔も憶えてはいないのだった。

 俺はどんどん濁ってゆく。女たちの股のあいだ、毛深い雑踏、汚れたネオンと油臭い雨のじたじたと降るベッドの中で。アスファルトに降り注ぐ廃油のように粘る雨だれが俺を溺死させる。油臭い女の股。どろりとした中華そばの快楽、冷蔵庫で黴ているチーズの穴が俺を誘う。ケチャップとまがいもののソース、得体の知れないミンチをつめこみ、がなりたてる音程の狂った歌声に合わせて膝を揺すり、俺に頬ずりする。
 あたしのこと好き?
次の瞬間にはこう言う。
 愛なんてめんどうくさいよね。
俺は真っ赤なホットドッグを喰う。感覚が麻痺して、俺はそれをうまいと感じ始めている。ただ刺激が濃いだけの、屑肉を練ったソーセージ。それが俺の欲情にぴったり合うから。体臭。べたべたと首筋にこびりつくホテルのローション。ポスターカラーのように騒々しいパルファムを、彼女は得意気に腋になすりつけ、ファンデーションでざらついた毛穴を密閉する。
 彼女はひどく高価なレースの下着を身につけている。ビルの谷間で排気ガスに汚れた蜘蛛の巣網のようなこまかい襞が後生大事に抱え込んでいるムール貝には、さっき喉へ押し込んだ屑肉の臭気が降りている。人間は喰ったものの匂いを放つのさ、香水なんて糞喰らえ。
 亭主とはもう五年もしていないの、としなだれかかる女。乳臭い胸。こどもを生んだ後のひきつれが荒れたアスファルトのように罅割れて光る。ハイヒールに踏み荒らされた床。俺は絆創膏を貼りつけるように、彼女の乳房にペニスをくっつける。湿布。傷だらけなのはどっちだ。ウィスキーとジン、なまぬるいビールの泡。憎悪の澱の精液が女の皮膚を汚す。若いのね。そうでもないよ。毛深いひとがすき。毛深いものは……存在感があるから。あたし昨日こどもを蹴飛ばした。泣くんだもの。
 女はいびつだ。いびつな女ども。体型補正のファンデーションの圧迫が肉体にぎざぎざした皺を刻み、肉の瘤をこしらえ、背骨を曲げる。変形した情欲。ラメ入りナイロンパンティに包まれた性器はべたべたしている。梅雨どきの繁華街のネオンのように、けばけばしい欲望でべたべた濡れる。汗、体液の悲鳴、冷たい寝具をまくっておそいかかる倦怠。正常位の恋愛、後ろからなら密通、肛門の倒錯。
 ねえ、と彼女は金を財布にしまってからねだった。またがらせて。いいけど……下からだと醜く見えるんだ。でも彼女はひるまない。
 はやく済ませてね、次の待ち合わせがあるの。ぜんぶ脱がなくてもいいでしょう? スカートだけめくって、ほら。いやだ、ちゃんとガードしてよ。俺はいらいらして女を殴ってしまう。なぐって、押さえつけ、パンティをむしりとり、ストッキングで手首を縛る。
暴れろ、逆らえわめけ。だが、彼女は、いく、と叫び、俺から快楽をむしりとってしまう。俺には何も残らない。うつろな射精が胆汁をかきまわしてこだましている……女の陰毛を数えるように、俺は冴と、冴以外の女どもとのセックスを数えようとする。

 さわさわ、と夜風が雨を含んで梢をそよがせる。間近に演奏会を控えた蘭は下準備に上京しまだ帰らない。ことによると御前様かも知れないが、泥酔して送られてくるような無様はかつてなかった。彼は若いころは相当に無頼奔放を通したようだが、朱鷺といっしょになってからは、決して羽目を外すことはなく、節制を守っている。とはいえ几帳面には程遠く、朱鷺と蘭との生活時間帯は半日ばかりずれていた。早寝早起きの朱鷺にひきかえ、蘭は夜仕事をする質で、雑文書きなどは夜更けに始まり、深夜映画を見ながら、あるいは録画のスポーツ・ハイライトに悪態をつきながらごそごそと夜明けまで続く。朱鷺はさっさと寝てしまうが、蘭は彼女が傍にいて逃げ出さない、どこへも行かない姿に安心するらしかった。そのせいか、彼はことさら朱鷺を早寝させたがる。
 ときどき蘭は、朱鷺の寝室のドアを開けて彼女の寝姿をうかがっている。朱鷺は扉の前にうすぼんやりと浮かぶ蘭の顔を夢の情景のように覚えていることがある。彼は安心しているのだろうか。しかし朱鷺の思い出す彼の表情は穏やかでありながら寂しげだった。
 蘭さんが死んだら、と朱鷺はこの家を包む森影の深い夜に目をこらす。生茂る葉の重なりのために夏の闇はしっとりと量感があった。それはね、樹。朱鷺はまぼろしの青年に応える。
「それでは樹、あなたは明日死ぬと言たらどうするの?」
 ざわざわ、と枝が揺れ、椿の山にひとかたまりの風がなだれていった。若葉に漉された海風はヴィヴラートで飾った弦のように、梢を抜けてゆくとき、豊かにクレッシェンドする。ひと雨ごとに季節は移り、萌え出るものと生い繁るものとの精気とで、森は匂いたつようだった。青葉の闇は何かをそそのかすように風を孕んでざわめく。
 では、わたしがもし明日死ぬとしたらどうするだろう。
 朱鷺は窓を閉じた。自分の問いにかき乱されてしまう。蘭が死んだら、あるいは蘭と別れ別れになったら、という質問は初めてではない。何人かがそのようなことを言った。
 悪意ある善人。 
 ひとことで蘭はそれらのひとびとを片付けた。無神経で親切な恫喝。親切で無神経な詮索。なんでもいい。彼らは、親子ほども年の違う蘭と朱鷺とが、来るべき未来に対してそれほど無神経だと思っているのだろうか?
 樹は好意を装いなどしなかった。敵意と悪意。が、むき出しの意地悪さは往々にして攻撃する側の危うさ脆さを露わにする。偽善のない樹の台詞は朱鷺の耳に、冴に対する情愛と等質の憐れみをそそった。彼は自分を欺けない。 
 傷口のような無垢、と蘭はかつて朱鷺をさばいたが、樹も冴もたしかにそのような部分を抱えており、ことに樹は相手もろとも自分も引き裂いてしまおうとするかのような攻撃をする。
 底意地の悪い人間たちは、繊細さに指をつっこみ掻きまわす。野花を摘み散らすように彼らは無遠慮に、舌なめずりしながら無垢を踏みにじる。……言葉を失い、放擲されたムイシュキン公爵。
 いけない、と朱鷺は目をつぶった。わたしは樹を助けてはやれない。大人になるということは、と蘭は言った。あれもこれも欲しがるのはがきだ。どちらかを選ばなければいけない。
 明日死ぬとしたら、と朱鷺は呟き、ピアノのある部屋に行った。内面にくぐもっているものをほぐさなければ眠れそうにない。
 大人になることを選んだ。
 朱鷺はパジャマを脱いだ。生成りのタンクトップとコットンの下穿きは、現代バレエの衣装のように見える。
 シューマンやブラームスはまじめすぎて性に合わない、と蘭は酸っぱい顔をするのだったが、朱鷺は好きだった。
 騒々しく跳ねてはだめだ、と蘭は言い、アダージオな動きに座敷舞の静謐を取り入れるように教えた。音楽の流れは単調ではない。もだれかかり、はみだし、ときには先を急ぎ、フレーズはアメーバのように伸縮しながら進行してゆく。
 言葉では語れない流れ、情感の陰影を簡潔で衒いのないムーヴメントに表現できたら、と思う。ダンサーの動きのすべてはその心からなるもの、というマカロワの言葉を朱鷺は噛みしめる。いや、ダンスだけではない。演奏も、絵画も、書も、ひいては家常茶飯の挙措すべて、そのひとの心の映しに違いない。なぜなら、心のないところにキャラクターは成立しないから。
 芸や舞台においては、心が日常雑多の枷を離れ、凝縮されて表現となる。
 若き日のブラームスは、朴訥なまじめさが言いようもなく優しく可愛らしい。遠い日々、もう還らない記憶、優しかったひと、離れていった何かへの愛惜が、音の粒に混じって気恥ずかしげに朱鷺を見つめていた。哀愁は日晒しの布のように風合いを和らげ、踊り手のムーヴメントを柔らかくする。
 はにかんで見つめているのは朱鷺だった。風に鳴る窓の外で、もうひとりの朱鷺が、ゆらゆらと踊る彼女を見ている。
あれはわたし、うちひしがれた……
「開けてよ」
 一瞬ののち、朱鷺は現実に立ち返った。蒼白い顔が見えた。
「返しに来たんだ」
 ぶっきらぼうに突き出されたオーヴァーコートはクリーニングの匂いがした。樹は朱鷺の目を見ない。
「きみ、寝ていると思った。早寝だと聞いたから」
「蘭さんを待っているの」
 口をすべらせ、朱鷺はしまった、と悔やむ。樹の周囲にたちのぼるアトモスフェルの濃さはただごとではない、とすぐに察することができたのに。彼の伏せた睫毛に、きらりといやな光を見て、朱鷺は思わず上半身を退くが、樹はすばやく手首をつかんでしまう。むしられた鳩の片羽根のように朱鷺の手はあがき、すぐにしおれた。
「離して、痛い」
 その声はもう落ち着いていた。彼女はとっさに暴漢の喉を一瞬の躊躇なしに突き落とす俊敏と訓練を隠している。だが樹はそれを知らない。樹は苛立ち、唇を舐める。荒れた唇に血の味。
「また懐柔するつもりか」
「……」
 まだピアノが鳴っていた。愛をうたう音楽は、青年が運んできたなまぐさい夜風に不調和だ。
「落ち着きはらって俺に肩透かしをくわせる。そのくせ俺から遠慮なしに偸んでゆくんだ。卑怯だ」
「何が」
 ぐいっと引き寄せられて朱鷺は自由な片腕で窓枠にしがみつく。肩と膝の関節のどこかが、続けざまに鳴った。
「言いがかりよ」
「ずるい」
 あなたに乱暴される理由なんかない、と朱鷺は言い返した、が、その声といっしょにに天地がひっくりかえり、二の腕までひきすえられ、痛みに抵抗をゆるめたとたん、かるがると庭先にずり落とされた。窓枠の縁でタンクトップの胸元がびりりと裂け、なおしばらく続いたこぜりあいの汗と風の匂いが青葉闇に乱れる。
 叢に押しつけられると樹の顔が真上にあった。闇を吸った眼窩は夜空より暗く、インクブロットの染みのような影が少女の怯えを測る。
「二ヶ月で二十何人かの女を知ったよ」
 嘲りをこめて樹は朱鷺の喉をつかんだ。
「誰でもいいんだ」
 朱鷺は叫ぶことも忘れて樹を見上げた。彼は隙だらけだ。セックスできる距離は、相手を殺せる距離なのよ。が、彼女は彼を傷つけたくない。もう傷だらけ、このひと。
 弟から離れて他の異性を求めていった冴を思う。あわれだった。なぜ肉親で愛し合ってはいけないのだろう。禁忌、という未来のなさに冴の脆弱は耐えられない。百年の孤独は悲劇で終わる。冴は無垢な悲劇より、芳醇なチーズと葡萄酒を選びたい。
 では樹は?
 そして朱鷺は?
 せめてこう言おう、プリミティブな神話ではなく、彼らにはオルゴールで飾られた御伽噺を用意しよう、と。
 健やかな同衾のあとの心地よい眠りのために。オルゴールのつぶやきはブラームスのアベマリアでもいいし、乙女の祈りの切れ端でもよい。もちろんモツァルトでも。
 何を守る。内部からひそひそと瓦解がしのびよる現代で、あなたは何を守るだろう。
 てめえの女くらいだろう。
 朱鷺は息を吐いて、からだの力を抜いた。
「気がすんだ?」
 こんなことで、と朱鷺は樹のはるか上空の星空を見上げた。人間でなかったらよかったのに、と時々考える。センチメンタルなまなざしに星空はことに美しい。今感傷で星空を眺められるなら、朱鷺が樹を選んだということなのだった。強姦ではなく。
「こんなことで」
 呻いたのは樹だった。感情失禁の涙が彼の頬を伝う。少女が彼から快楽をむしっていったのではないから。短い抵抗のあとに、労わられていることが、樹にはすぐにわかったから。柔らかい労わりは、時として自尊心には罵声より酷いこともある。
 栗の花の匂いがつんとたち、樹のこめかみを涙と汗が混じりあって流れる。
 沈黙は雨雲のようだった。
 もういいよ。
 青年は少女の大腿に飛んだ白濁を指でなぞる。自嘲さえできないこのざま、と樹はうつろな気持ちでからだを覆った。

海の器 vol10  Landler

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 LANDLER

 誇らかに君に敷かれむ蹄ある
   跳躍のごとく流星は見よ

 
 からだじゅう金褐色の剛毛で覆われた男に組み伏せられていると、人ならぬ獣と寝ているような気がした。モンゴロイドには決してない、古い葡萄酒のような厚みのある発酵臭だった。
 こんな匂いを幼いころにも嗅いだ、と冴は湯気のような男の吐息を喉に感じながら思い出す。
 ウラジーミルはそのころ星に夢中で、仕事の合間に、しょっちゅうあちこちへ観測に出かけていた。それはまたウラジーミルの感傷旅行に他ならず、旅は彼のはかない恋愛のピリオドであり、また新しい出会いへの準備期間でもあった。
 そうした旅に、彼はただ一度、娘を伴ったことがあった。
 高原の記憶はおぼろだった。降りそそぐ星空も思い出せない。だが、男のてのひらがあたたかく冴の膝をひらき、その旺盛な繁りと、どっしりした量感の腹が冴を圧し潰した時、彼女の記憶に蘇った真夏の草いきれは言いようもなく慕わしいものだった。
 あなたのはわたしには大きすぎるわ。
 冴が男の耳許でささやくと、彼は琥珀のようにつやのあるバリトンで、ありがとうと言う。声の大きさに冴は思わず身をすくめるが、彼はそれでも喉を押さえているのだった。
 はちきれそう。
 冴はまた、男の匂いをふかぶかと吸う。肌理のあらいゲルマンの肌の感触。胡桃いろのそばかすで覆われた背中や腕。そこからたちのぼるすばらしい暖かさが冴を驚かせる。あの高原のしたたる緑が幼い冴の眼を瞠らせたように、男は冴を驚かせる。
 厳しい山肌を覆う針葉樹と樺の林をきららかにざわめかせて光が溢れていた。乾いて爽やかな風が、下生えの少ない木蔭を抜けてゆくと、家畜の匂いが、早くも秋を兆す野葡萄の蔓に揺れ、まばたきするたび、草原の緑は燃えるような赤に染まった。
 草の匂いは冴の嗅覚にあざやかな赤い印象を刻み、さらに太陽の金色で縁取られ、そのまた向こう、コバルトの空にきれぎれの羊雲がゆっくりと流れていた。
 なぜ、このひとが、と冴はスタンドの明かりにまぶしげに瞬きしながらティシュペーパーを引き出す男を見つめる。仕草につれてりゅうりゅうと動く肩は、菩提樹の幹か、ブナの大木のような威厳があった。鍛えた身体ではない。まだ若さを失ってはいないが、喰い道楽は早くも彼の腹部をたるませ、詰め物の中途半端なぬいぐるみのようなふくらみが、下腹部に添って密生する剛毛に包まれている。
が、年齢とともに大きくなった身体に、彼はゆったりと自足しているようだ。それが冴には好ましく感じられる。
 なぜだろう? あの高原はこの男と寝るまで彼女の深層に沈み、浮かびあがることはなかった。漠然とした印象の記憶。鬱陶しい母親の支配圏から逃れ、気まぐれではあっても娘を甘やかしてくれる父親とふたりきりで味わった別世界の愉しさの感覚だけが、果汁の上澄みのように彼女の記憶にとどまり、冴の旅行好きの原因になったのかもしれない。ところがこの毛むくじゃらの男に触れたとたん、幼いころの、つやつやとした真夏の映像が、冴の意識の表層にころがり出てきたのは、まったくどうしたことだろう。
 冴の視線はクラウスに面映い。肉体をゆるしたあとの気楽に、彼はのんびりとくつろいでいる。そのくせ、つながっていた時の強引を少しばかり恥じているのは、ゲルマンという質実で剛健な血統をBMWのように体現しているクラウスには、冴はいかにも優美なので、どうしても自分があつかましく思われるのだった。
 しかし、クラウスは、交わりそのものには悪びれたところがない。
「痛かった?」
 男が労わるように冴を覗く。異人種間の違和も驚きも、素直な労わりに抵抗を失い、彼のもじゃもじゃ頭のなかに吸い込まれる。
 がっしりした顎と頬髯に覆われたこのドイツ人は、閨あかりには陽気すぎるオレンジのスタンドライトの中で、人の良い熊のように見える。瞳の潔癖な青は褪め、灯のままに金色に透けた。
「やぶけたかも」
 冴が意地悪く腰をひねると、男はベッドが揺れるような大声で笑い、大丈夫、もう何度も試したからといなし、太い腕で冴の細腰をひきよせ、首筋にキスをする。
「また食べたくなる」
「食いしん坊」
 だが、褐色のライトはほんとうに食欲を刺激し、冴と男の胃袋は悲喜劇込みのクライマックスに流れる二重唱のように、とぼけた音程を歌い始める。

 獣医で椅子のデザイナー、ペットの輸出入業者というクラウスを冴にひきあわせたのはウラジーミルだった。
 都会の地面をマヌカンの厚化粧さながら覆い尽くすアスファルトに、埃っぽい雨はじんわりと滲みこみ、しぶとい吹き出物ののような雑草が、人の眼につかない路の隅を罅入らせていた夜だった。
 ウラジーミルの設計した私鉄の駅舎が、某財団の建築賞をいただき、品川のホテルで催された受賞パーティーに、冴はふらりと足を向けた。もちろんウラジーミルは娘を招いてはいず、冴も行くつもりなど毛頭なかったし、だいいちTVの録画が入っていた。冴は準主役のつぎといった半端な役がらで、このところモデルをドラマに起用して話題を稼ぐ風潮に乗じた出演だった。
 あー、もいっかい。
 抑揚のない声が無意味にリピートを強要する。主演女優は演技よりはスキャンダルメーカーとして人気があった。彼女はスタジオに二時間も遅れて、しかもぼさぼさ頭にすっぴんで現れ、スタッフの渋面もどこ吹く風と控え室に入った。
 彼女はもともとやる気などなかった。セットの中央で何度か録りなおしを命じられるともうぐずりだし、監督にひともなげな口をきき、相手の男優が下手だとののしり、十五分の休憩が終わっても、戻ってはこなかった。彼女の逸脱をその場の誰もとがめず、進行表の真ん中の空白を、やっぱりね、と不機嫌と上機嫌のないまぜになった顔で了解しあっていた。待たれていたアクシデント。主演女優のやんちゃもまた、記されてはいないけれど、ちゃんとした芸能界の期待の枠におさまっていた。
自己演出はどうってことはないやらせの変形なのだが、気位の高い冴は、自分より器量のわるい人気者の人生劇場に出演するのがいやになった。ドラマの脇役はかまわない。だが現実は別だ。成功しなくったっていい。冴は自分の飢餓感のうすさを疾(と)うに気づいている。
主だった役者がそろわず、スケジュールも分解すると、冴はもう遊びに出るのも億劫な気がしてきた。どこへ行っても同じことだ。踊っても、歌っても、酒を飲んでも、ヴィエトナム料理がタイ料理でも、喉を過ぎれば同じことよね。え、これでは累婆ァのわがまま口癖そっくりではないか。おやこなんだもの、似てるわよね、似ていたくないところが似るのかも。ここにはあたしの信じられるものがないってこと。ここってどこ? さあね。
 少なくともファッションモデルの世界では信奉するものがある。美、という唯一絶対の神が君臨し、娘たちの過酷な競争を睥睨している。それは自然淘汰そのものだった。競争、凌ぎ合い、狩猟本能をかきたてる。何かを狩り立ててゆく快感がコレクションにはあった。
 注目されたい、有名になりたい、自分の魅力で、会場の男たち、女たちを圧倒したい。刃を研ぎあげるように、彼女はコレクションのたびに美しくなっていった。
 が、芸能界という日本古来の祭祀の庭では、逸脱であっても、身をかがめて大衆迎合幼児退行の神楽を舞わなければならない。それを延々と踊り続けるには、冴はどうやら、背が高すぎるのだった。
「いいわねえ、サエちゃん、スレンダーで」
 初対面なのにちゃんづけで呼ばれる不快感が、逆に冴に明朗な返答を促した。
「そんな…肌がぼろぼろですよ」
 すると、そのさかりを過ぎた美人女優は嬉しそうな顔をするのだった。二十代から三十半ばまで、肉感的正統派美女で売った彼女は、四十の声を聴き初めた近頃、十歳年下の弁護士と何度目かの結婚をした。スランプの時はこどもを生むのよ、というジェーン・バーキンのユーモアをそっくりそのまま自分のものとして記者会見し、毎回自然出産を実行していたが、生死を分かつ大騒動をくぐりぬけるうちに、なるほど彼女の精神は逞しくなり、肉体もまた、その堂々たるヴァイタリティーに比例して大きくなった。ちょっとやそっとのダイエットは、彼女の生の意志に追いつかない。
 今度生んだら、もう肥満よねえ、と彼女はのうのうと笑う。半生をドーランと原色の色恋沙汰で明け暮れた彼女は、恋愛スキャンダルの罪を測る天秤の、もういっぽうの秤に地滑り的母性を乗せて、世界の均衡をとりたがっているかのようだった。不倫も年の差婚も非難される。特に女が年下の男といっしょになるのは日本の風土にまだ馴染まない。いや将来もどうだろうか。処女信仰はさまざまな言い訳を伴うヴァリエイションを奏でながら、なお男の自尊心に都合よく決着をつけたがるのは、アジアならではの後宮願望に通じるのかもしれない。
 が、こどもをはらんでしまえば、それまでの非難ほとんどいっさいは、生めよ増やせよ母性のおおらかさになし崩しに逆転する。この地滑り現象は、遠くから眺めるならショウペンハウエルほど明晰な頭脳の持ち主でなくとも、奇妙なことだった。が、おそらくそれこそは本能なのだろう。理非善悪を超えた、種の保存のために、出産という免罪符がある。清濁併せ呑む豊穣のオトシマエに万歳。
 若く、出産未経験の精悍な肢体の冴に、経産婦かつ妊娠中の女優は嫉みを隠さなかったが、底光りのする彼女の視線に、冴はまったく怯まなかった。
 一緒の車でという誘いを拒む理由はなかった。迎えに来たのは若い夫で、チャコールグレイの三つ揃いをきちっと着込んだ青年は、時節柄か経済的な国産車に乗っていた。彼は鼈甲縁の眼鏡をずらすように冴の長い脚を一瞥し、器用に視線を暈してあいさつした。うしろを刈り上げて前髪を垂らした髪型と、仕立の良すぎるスーツ、ぴかぴかに磨きあげたトヨタは、彼を成人式を済ませたばかりの青年に見せる。あるいは見合いに出掛けるためにスポーツシャツを急いで脱ぎ替えてきたひとり息子。
 重いヴォリュームで夫の隣に両足を揃え、腰から乗り込んだ女優の仕草はさすがにエレガントだったが、なぜかそのエレガントは彼女を姥桜に見せた。夫はグレート・マザー然とした年上の妻にくびったけの様子だった。彼が冴を見るまなざしに憧憬はなく、不安げでさえある。外見では十歳という年の差もさして目立たず、無難に幸福なオーラにつつまれたこのふたりを見ていると、冴はどうしても樹のことを考えてしまう。
 ウラジーミルと累という、気まぐれと我儘、突飛と偏愛の組み合わせから、自分はともかく、どうしてあのような弟が生れたのだろう。
 ああ、樹、と冴は唇を噛む。うそなのよ、あたし、あんた以外の男とは寝ていない。
 まだ、という予感つきのひそかさはあったが。
 なぜ嘘をついたのか冴にはわからなかった。
いや、わかっていた。同性への興味を感じ出したのは弟と寝てからだ。レスボスは弟に対して罪悪感のない快楽だった、から?
 そして樹は姉の冒険を、異性でないという点で許していた。考えてみれば奇妙なことだった。相手が朱鷺だからだろうか。朱鷺以外の女の子を樹にひきあわせたことはない。罪悪感て、そもそも何に対してのものなんだろう? 冴は神を必要としたことがない。きっと樹も。そして朱鷺も。罪の翳りのない激情は鮮やかで透明だった。
 殺意、憎悪であっても。
 嫉妬さえ、あでやかな朱色ないしは紫色で屈託なく輝いた。
 冴は初めての女友達を思い出せない。食べかけのフランボワーズを女同士で交換して食べるように、日常感をひとまたぎ超える何かから、それは始まった。
 正直なところ、樹との性愛は快楽よりは苦痛だった。しかし、ある種の人間には、肌身を削る苦痛が生きていくために不可欠で、つかみどころのない幸福や満足などより、鮮烈な生の実感をくれる。精神を鞭打つマゾヒズムもまた、樹と冴に共通する生の原動力で、これがあればこそ、冴は欲望の芸能界で醒めた視線を保てるのかもしれない。神楽、神の庭である芸能。しかしインセスト・タブーは人間にとって、永遠に神話そのものではないか。神話を欲するのは人間だけだ。獣に神話はない。彼らは知性を持つ代わりに、なお神話を生きている…だから人は憧憬とともに野獣の情感を詩にうたう。
 では、朱鷺は?
 クレームシェルプレーズを食べ終わるように、わたしたちの愛もいずれ消えてなくなるだろうと、冴は車窓を流れる都会のネオンを眺めながら考える。雑踏、繁華街の蛍光、その場しのぎの快楽に濁った熱気の渦を眺めていると、朱鷺はもはやはるかに遠く、彼女の存在感は稀薄だった。
 寝心地のいい、絹とコットンのシーツね、あの子は。はだかのからだに巻きつけて眠るときもちがいいのよ、それだけよ、と冴は朱鷺にかるい罵りをつぶやく。が、そのおかげで逆に朱鷺の記憶が皮膚感覚となって四肢に蘇り、冴は身震いした。
 帰りたくない、と冴はこの車に乗ったことを悔やんだ。繁華街に紛れてしまえばよかったのかもしれない。何も得られなくても、いっとき身体を突き刺す刺激はもらえる。
 突き刺す、貫く、その単語で、ふいにまた異性への欲情がこみあげる。
(樹は朱鷺が好きなのよ。あたしは初めからわかっていた。朱鷺も)
 しかし、それ以上この考えを続けることはできなかった。欲望といっしょに思いがけない嫉妬と苦痛の予感が胸をつく。朱鷺と樹の同衾を想像するのは、あまりに自然でたやすかったので、身の置きどころがない気がする。
けれども、この苦痛を乗り越えれば何かから解放されるのかもしれない、と冴は車窓から眺めおろす夜景に目を瞠った。自分の想念以外に、何も見えてはいないのだけれど。
 いったい自分は誰を求め、誰に嫉妬しているのか、やめよう、くだらない、こんな。
 振り子のように揺れる心を、とりあえず落ち着かせる場所は、なんと朱鷺との微風のような愛撫の記憶しかなかった。これも執着。
 必要なときは適切な快楽を得られるだろうという身勝手な御都合主義に冴はなごんでしまう。朱鷺を人生から見失ってしまうのはとても残念なことだ。珍しい鳥のように、そっとしまっておきたい。
 愛をかたどるハート型は左右対称で切れ目がない。切れ目なく、しかし冴のコムプレックスに突き刺さるかたちをしている。円ならば果てしなくころがり、四角は動かない。だけどハートは突き刺さるさかしまのトライアングルだ。
 前の座席で、夫婦は自然分娩の計画を確認している。夕食の献立を決めるように熱心に、あけすけに交わされる避妊と受胎の計画は、首都高速にひしめく自動車の流れに逆らい、冴を疎外しながら過去の実績へ向かう。
多産と豊穣が剥奪された東京の真っ只中で、どうすれば自然に近い姿で安産できるか、真剣に検討している夫婦の車には、煙草の匂い消しのために花梨が置いてあった。
 薪割りがいいんですって。
 日曜大工じゃだめかなあ。……。
 これでは夫婦の会話に入り込んで気を紛らわせることもできない。あまったるい果実の匂いがひどく鼻につく。果物だけならともかく、女優はプアゾンを、亭主はアラミスをたっぷり使っている。冴はただのラヴァンドのコロンだった。朱鷺がそのほうがいい、と言ったからだった。
「新しい香水はひとくアンバランスなの」
 朱鷺は顔をしかめるのだった。匂いのエレメントが調和を欠いてばらばらで、嗅いでいると情感がちぐはぐになるという。冴はそれほど敏感な嗅覚を持っていないので、朱鷺の言葉をあっさりのみこみ、調合されない香料を時折用いるようになった。朱鷺の審美的な感覚は、まったく流行とは無縁で、むしろそれゆえに、ともすれば流行の波に呑まれそうな冴を納得させるものがあった。
 その冴のリアシートに、ヒーターの温風は遠慮なく香水とオーデコロンの匂いを吹きつけ、さらに古くなった花梨の発酵も蒸されて加わると、冴は胸苦しくなった。
 プアゾンには麝香が、アラミスには男性ホルモンがかなり強調されており、両者が身近く混ざり合うと、それはもう閨の気配に似ている。音程のよくない歌のような女優と亭主の会話を、冴はろくに相槌もうたずに聞き流していたが、それがお愛想など必要のない夫婦の出産計画だったのは、乗り心地悪さこの上ない匂いのこもる車内においては、ちいさなラッキーといえた。女優は、むしろ冴と自分たちの間に不透明な線引きをしたがっているようだった。
それなら車に誘わなければよかったのに。が、多少愛想がなくとも、見るからに育ちのよい、物腰にノブレな風情さえ漂う冴からは、おしなべてのアイドルよりはるかに、搾取できる果汁は潤沢に違いないと誰でも思う。それがどんな味なのか、啜ってみないとわからない絞り汁。秋波も無視も、女心のかけひきの微妙だ。年増の女優は、その仕事で新人の冴にだしぬかれていた。
演技ならともかく、一般的な美女に寛容は期待できない。媚態としてならば話は違う。そして偽の寛容のほうが、きっと芸能界では使いみちが多いはずだった。
「東京駅だった?」
 ようやく首都高の流れが動きだすと、女優は華やかに振り返った。冴はまた伸び始めた髪をかきあげ、とっさにウラジーミルのパーティ会場を告げた。車窓から偶然そのシティホテルが見えたからだ。
 もう一分も彼らといたくない。
 冴は父親の素性と受賞を話すと、派手な場所には目がない女優は、てらいなく羨望の色を浮かべ、冴からいくしずくかの甘い果汁を絞り受けた快感を隠さなかった。この子と仲良くするのは、人脈にまたひとつ箔つきの糸が加わること、と。父親が著名な建築家なら、演技は下手でも、冴の過去と未来のメンテナンスは万全だ。

 奴は坐り心地がいい、とヴァレンティノを着たウラジーミルが、ドライ・マティーニを差し出すふりをして囁く。見透かしたような青灰色の瞳は、いつものように半ば微笑、半ばは揶揄に潤んでいて、娘の女としての反応を寸分も見逃すまいとしながら、一方で父親の威厳をとりつくろおうと焦っているようでもある。ウラジーミルは不良になりきれない駄々っ子のまま年を重ねてゆく。
「感じのいいひとね」
 冴はすげなく応え、母親をエスコートする父親からそっぽをむいた。累は申し分ないマダムぶりを発揮して、にこやかに客たちに応対し、手振りもしなやかにグラスを薦める。笑止かあるいは当然か、会場にはヴィオリノを持ったサルヴァトーレが来ていた。
 即興演奏が始まると、冴はさりげなく〈坐り心地のいい〉男の隣に行った。紹介されたときに、男のごわごわした巻き毛に覆われたいかつい顔と、明朗な青い目の印象が、彼の持つプレノムのクラウスはサンタクロースの語源というかすかな知識と結びつき、そのあたりから冴は彼と寝たいと思ったのかも知れない。
 クラウスの顔はピンクいろで、こまかな皺がいっぱいあり、ほどほどに整えられていたが、じきに奔放に巻き上がってしまう厄介な剛毛が眉の上まで垂れていた。
 クラウスは大きな手で自分の垂れさがる巻き毛を撫でつけるが、バイキングが無理やりブラック・タイを着せられて、その着心地の悪さに癇癪を起こすように、彼の自由奔放な髪はすぐさま飛び跳ねてしまう。クラウスはばつがわるそうに鼻をひくつかせ、肩を触れるほどの隣にいきなり寄って来た美女を横目で意識してか、顔をほんのりいい感じに赤らめ、せつなく流れるクライスラーの間じゅう、自分の癖毛を押さえつけようとしていた。
冴は知らん顔して、サルヴァトーレが自己陶酔的に奏きまくるヴィオリノに聴きほれるふりをしていたが、おかしくてしようがなかった。
クラウスには不似合いな、洗練されすぎた地味な縞織りのビリドゥエはどうやらウラジーミルのものだ。胸ポケットからちらりと覗く赤い絹は、フィルム・ノワールのギャングのようで、ウラジーミルには憎たらしいほど似合うのだが、どうつくろっても野暮ったいクラウスの風体は、ライオンが殊勝に前掛けをしたような印象になるのだった。
(わかっていて、これを貸したんだわ)
 冴は、母親と並んで斜め前に立っている父親に抱きつきたくなる。ウラジーミルは好意を抱いている相手に、わざと喰ったような悪戯をしかける癖があった。
 それにまた上着のボタンを、クラウスはひとつづつかけちがっている。そのことに彼はまったく気がつかないらしい。クラウスが髪を気にして手をあげるたび、彼の体格にはちょっときつめのジャケットは、互い違いのボタンのせいで、失敗したフェイシャルパックのような深い溝が杉綾の生地にできる。手をおろす、消える、また腕をあげる、すると嫌な小皺が寄る。
 冴はおかしいのかいらいらしているのかわからなくなり、調弦の間にとうとう手を出して、彼の全部のボタンをはずし、いちいちをゆっくり嵌めなおしてしまった。ポーラスなジャケットには寝起き顔みたいな皺が寄ってしまったが、貝のボタンはおさまるべきところにおさまって、すっきりと七色に光り始めた。
 あっけにとられ、されるがままになっていたクラウスは、下唇をつきだすようにして、ありがとう、と日本語で答えた。へどもどしているニュアンスが妙に日本的だ。彼はヴェルモットをひとくち口に含み、自分より背の高い美女を見上げ、ようやく真っ赤になる。
しかし、彼の赤面は、ミラノの上着よりずっと魅力的だった。
 調弦のあとサルヴァトーレが再び抑揚たっぷりに奏きはじめると、クラウスはさっと耳をそばだてた。男の反応を意地悪く(こういうところはウラジーミルに似たのだろう)楽しんでいた冴は、肩すかしを喰った気がしてステージを睨んでしまう。
 これはレンドラー……
 音楽に心を奪われた彼は、ぼうっとした間抜けなまなざしを冴に向けた。
 クラウスの心が自分から逸れたのに気づいた冴は、何が何でもこの男を征服してやろう、と決める。

 両手に、従順に膨らんでくるものをつかまえていると、その暖かなピンク色が指先から全身にひろがり、いっさいの煩わしさが消えてなくなる気がした。クラウスは立派な男だった。彼は単純に歯切れよく振る舞い、冴は自分の主体性が奪われる口惜しさを味あわされたが、そんな頭でっかちな憤慨は、クラウスの胸毛と腹の間で砕けてしまった。それでいて、彼が冴に与えた彩りは優しい薔薇色なのだった。
 ヨーロッパの薔薇、マイセンの陶器に描かれた、親しみやすい石竹いろだった。樹との営みは、運命的に暗いヴァルールを免れない。緋色、蘇芳、臙脂……弟と分け合う快楽はそのまま同じ血の翳りで亡滅を垣間見せる。冴も樹も、お互いの罪悪感で快楽を補償しあう疚しさから逃れられず、一方で、手応えのないつるつるの鏡に向かって愛を誓う空しさに怯えた。樹とするのは自分とするようなもの、といつだったか朱鷺に囁いたが、他者を容れない睦み合いは、ガラス壜に閉じ込められた砂粒のように、感情の変転のままに際限なく行きつ戻りつしながら、その都度愛情を忖(はか)りあう息苦しさを伴った。
「おくさんは…?」
 冴は昂ぶったクラウスの上にまたがり、涙のような潤いに任せて腰を落とした。ぐ、と内側がひきつれる感じがあり、からだが徐々に割れてゆく。襞が剥がれ、粘膜がめくれ、もっと深い部分が男を包みこみ、吸い取りながら緋色の闇に落ちてゆく実感が冴の乳首をぎゅっとしこらせると、クラウスは深く息を吐いて、太い指でそれをつまんだ。
 ケルンに。でもこんなときにそんなことを聞くものじゃない。
 こんなときだから訊ねるのよ。だって、今が一番嘘のない時間だから。
「だめだ、冴。男はこういう時にこそ嘘をつくんだ」
 クラウスの瞳は悲しげに見開かれている。冴のなかで、彼はほんとに萎れてしまい、彼女は悪かった、という気持ちになるが、つかまえそこねた薔薇いろのほのめきは、まだクラウスの肌をほてらせていた。
 そんなことを言うあなたは……。
 しかし冴は言葉を失ってしまう。クラウスが目を閉じて冴の細い腰をつかんだからだ。ほっそりした末広がりの肌を撫で、まわした指でからだの割れている部分を掴んだからだ。
 真夏の草いきれの暑さが、からだいっぱいに頬張った感覚に重なり、冴の首筋のたてがみのような産毛がざわめく。低くうめいてクラウスは脹れあがってきた。おとなしやかな薄紅いろはいきなりほとばしる赤紫にせりあがり、肉体の奥深くまでクラウスの歌が反響しはじめる。
 冴の喉から洩れるかすれ声よりも、つながった部分の重唱はせつなく、狂おしげで、次第にクレッシェンドしながら冴を突き破ってしまいそうだ。
 紺碧の、クラウスの青い目がまた涼しげに冴を見ている。冷静なのね。冴は震えながら悔しがる。
 ちがうよ、きみがとてもきれいなので、僕は驚いている。こんなときの女はとても歪むんだ。いびつになるものなのに、きみは始めから終わりまでとてもとてもきれいだ。
 見ないで、叫ぶから。
 冴は青空に向かって悲鳴をあげる。男の眼の中の蒼穹に吊りあげられ、射抜かれ、風切り羽をもの悲しげに鳴らして墜落してゆく鳥が彼女の官能を象る。落下しながら冴は安堵していた。このひとはあたしを受け止めてくれる。あたしはアスファルトに激突したりしないだろう、と。
 天地がひっくりかえり、冴は男を受け入れる。アリエッタの余韻が冴を小刻みに痙攣させていたが、クラウスはまだ蠢いていた。冴はうっとりと、宙に泳ぐ自分のとてもすんなりした二本の脚を眺めた。たかだかと、男の軋みにつれて空を切る自分の脚はすばらしく長く見える。それは見る間に二つに折れて、ぶあつい男の背中にからみつき、視界から消える。
 そして、冴の深みに、なつかしい草の匂いが暖かく、何度も飛び散った。

 あたしには恋人がいる。
 日本のチーズは石鹸みたいだ、と肩をすくめるクラウスに冴は頬を寄せる。バーにBGMはなかったが、ふたりの間にはなやましいストリングスの残響があった。クラウスはクラッカーにスモークハムとチーズを乗せ、たっぷりとマスタードを塗ってパリパリと噛む。
さながら冴の告白を砕くように咀嚼する。
 冴は、彼が冴の告白を拒み、チーズを吐き出すのではないか、と危惧するが、クラウスは平気な顔で呑みこむと、黒パンにイクラを盛り上げ、冴に差し出した。クラウスの鼻の頭にぷつんと吹き出物が出来ている。それを見ながら、冴は同じ台詞を繰り返そうか、と考える。
 が、彼は胸ポケットから写真を裏返して出した。僕にもパートナーがいる。
 冴は眉も動かさずそれをつまみあげる。が、写真を見る前に、シガレットに火を点けずにはいられなかった。
 一瞥して冴は煙草を置いた。クラウスの瞳はショット・バーのペンダントライトの濃い黄色い光の下で、ふたたび青の色味を失い、ただ透明に暖かく見える。
 レオンベルガーのエレクトラ。これでもまだ仔犬なのさ。 
 金褐色のふさふさとした大型犬が、ゼラニウムの花壇の前で、クラウスと並んでいた。
「すてきなフラウね」
「あいにくフロイライン」
 冴の指をクラウスはすばやく自分の指で包んでしまう。それ以上の喫煙はいけない、と言わんばかりに、暖かく、クラウスは彼女を包んでしまう。
 きみの恋人は猫だろう。
 冴はちらっと朱鷺を思い浮かべ、微笑んで首を振った。
「猫は女友達。恋人は」
 おとうとなのよ、と冴は勝負を放棄するように言い捨て、ローズ・カクテルを頼んだ。クラウスは瞬きもせずまた冴を覗きこむ。色素の薄い瞳のなかにきらめく光の斑が樹と同じだ。さっと全身に鳥肌がたち、冴は椅子を降りた。砕かれた自己愛のような氷が、空になったグラスの中で溶けてゆく。
 が、クラウスは彼女の手を離さない。
 動物はそうだ。
「あたしは人間よ」
 クラウスはきっぱりと言った。
「僕は君が犬でも構わない」
 猫でも、と彼は小声で付け足した。

海の器 vol9 Claire de Lune

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Claire de Lune

 月の城裾ながく寝むまなざしは
   青い魚伏す珊瑚のやうに


「ヴァンカ」でのペルフォマンスを見た、と冴は鼈甲の吸い口のついたプラチナのシガレット・ホルダーに煙草を嵌め込みながら物憂げに言った。彼女はVa,という音をことさら丁寧に発音する。そのため弓なりのくちびるがすこし緊張に、泣き出すような、なにかをせがむような感じでつぼまり、口紅で縁どられた内側の粘膜がちらりと覗けるのがひどくなまめかしい。
 海沿いのテラスは閑散を通り越して人気がなく、惜しみない静寂をくれたが、季節はずれに熱帯植物の鉢がいくつも並んでいるラウンジの、夏の間だけ爽やかな印象を与える青と白、それにカドミウムイエローの取り合わせは、春浅いこの時期にはさむざむとしており、厨房の食器やガラスを砕くように冷たい。
 カウンターには木綿のエプロンをつけた男が所在なげにラッキー・ストライクを吸い、空調の具合が悪いのか、煙はいつまでも男の周囲にわだかまっている。湘南にはよくいる年がら年じゅう日焼けした風貌で、脱色してごわごわした髪を襟足で束ねている。これほどこんがり焼けていると、男の目鼻が整っているのかどうかは問題ではなく、彼を見る女は、いかにも精力的になめらかな褐色、丈夫で明朗な皮膚にのぼせあがるのだろうと思われる。男は皮膚の上にもう一枚、精悍な夏を身につけているようだ。それはいかにも筋肉質の彼に似合っていた。
 男の前には常連らしい娘が尻を突き出すようにスツールに坐り、だらしなく膝を組んでいた。男が灰皿に煙草を置くと、彼女は狎れた手つきでとりあげ、自分の口にくわえるが、見せ付けるような馴れ合いのジェスチュアは、きっと窓際の女たちへのひりつくような好奇心と警戒心のためだ。
 朱鷺と冴は場違いな感じで座っていた。海辺のラウンジはマリンスポーツを楽しむ若者たちがエネルギー補給するためのとまり木で、インテリアと呼べるほどの装飾もなく、傷だらけの床板や、白いペンキ塗りの椅子などすべて急ごしらえの感じがする。しかし、何が足らずとも、店は大きく海を抱いていた。客たちは、簡素な店内に目を向けることなどなく、ただうっとりと、青く輝く大海原に見惚れてしまうに違いない。
 その海を借景にして差し向かいに座る朱鷺と冴は、常連の娘にとっては、何か自分の居心地の良い日常への侵犯者に感じられる。ライフ・スーツから水滴をしたたらせて、あわただしくピラフやスパゲティをかきこんでゆく普段の青年たちとは違う空気を娘は感じ、いらだたしげに髪をいじる。
 気になってならないが、露骨に視線を向けるのは気恥ずかしく口惜しいので、娘は肩をいからせて男の吸いさしをフィルター近くまで吸ってしまう。そうして、アイス・ティーのグラスに後ろを映して、見たくもないがつい覗く、見まいとする抑圧のために、より臆病で執拗になったまなざしを注ぎ続ける。
 冴は、マンディアルグのヒロインのように頑丈なレザージャケットを肩にひっかけ、その下はレースのコンビネゾン一枚だ。銀灰色の繊細な唐草が肉体の起伏をなぞってはびこり、その花輪は、冴の両乳首の周囲で頽廃的に開いていた。
「どうしてあんな風に泣けるの」
 冴は煙草に火を点け、うっとりと吸い込んだ。彼女の先細りの手は、しっかりとした肩幅とは対照的に華奢で、磨き上げた爪はコンビネゾンと同じ銀色。真っ赤なルージュがただ一色、彼女の攻撃的な洗練をひきたてて光っている。
「本当にかなしいから。わざと涙を流すのではなく、わたしはむしろ泣きたくないんだけれども、物語のなかに入ってしまったら、もうそれっきり」
 冴は、どうしてあんなふうに笑えるの? とは尋ねないのだった。これほど美しい彼女にしても、寛容のメモリは高いとはいえない。が、その酷薄ゆえに彼女に注がれる周囲のリビドーの嵩が増すということを、冴はよく承知していた。吝嗇のほうが金はたまる。
「なりきってしまうわけね」
 と乾いた声で冴はつぶやいた。サングラスをかけた彼女の表情がつかみにくいので、朱鷺は不安になる。不安になると、朱鷺は自分の手を見る癖があった。冴とは逆に、朱鷺の手は、身体つきのかぼそさの割にはしっかりしている。爪もまるい。薄く華奢な薔薇色の爪は、マニキュアなしでも幼児のようにほのかな光沢がある。静脈の透けるてのひらは、ふっくらとして落ち着きはらっていた。だが左手首には、うっすらと剃刀の傷痕がある。このリストカッティングは蘭と出会う以前のものだ。いつだったかもう忘れた。傷つきながらも落ち着いた手。自分の肉体の一部が、自分自身の心をなだめてくれることはある。
鏡に映る自分の姿がうつくしければ、不協和音のひしめく現世を生きるためには、もうそれだけでかなりな果報にちがいない。もっとも、その果実をどのように味わうか、は当人の謙虚とかしこさに比例する。せっかく神のあたえたもうた果実を、だいなしにしてしまう逸脱は、世にまたなんと数知れぬことだろう。みづからの手首に押し付ける金属刃の愚かなヴァリエーションなど綴りだしたらきりがなかった。
「スケジュール、どう?」
 冴は売れっ子になりかけている。セクシャリテを逆手にとったパルファムのポスターはヒットして、街のそこかしこのウインドーで彼女の顔が冷たく笑っている。いや、睨みつけている。そして、カルメンはなぜか男の子が買う。それもガールフレンドへのプレゼントとしてではなく、自分がつけるものとして買っていくということだった。
 冴の声はとげとげしく続く。
「写真集が五月に出て、それからコマーシャル、CD―ROM バラエティーショーの出演依頼、ドラマに出ないか、とも」
 次第に朱鷺はこの場の息苦しさに滅入ってくる。まるで別れ話を切り出そうとして逡巡するカップルのようにぎくしゃくしていると朱鷺はレモネードの氷をかきまわす。溶けかけた氷が爽やかさとは無縁の水っぽい音で崩れる。冴はわざと乱暴に言葉を放り出す。青く冷たいラウンジに、冴の台詞は感情の末端からほつれ出た糸屑のように散らばり、その散乱をウェイターが職業的な無関心さで掻き集め、からのグラスといっしょにアルミの盆に載せて運び去ってゆく。そうして、朱鷺は何ひとつ冴の言葉を聞き取ることができなかった。
「メンズのショーだけれどマヌカンが着るの」
 冴は唇をひきしめて笑う。傲慢な笑いだ。新しい世界、新しい食卓で彼女はほしいままに美味を喰らっているのだろう。憧憬はもとより、賛辞、阿諛、秋波、上昇してゆく者への周囲の嫉妬も彼女の美貌を調味するだいじな香辛料だ。冴の視線は、今朱鷺を見ていない。この笑いが朱鷺には歯が立たない、ということも冴は本能的にわかっているからだ。
 だが、いたぶりたがっている。無関心ではいられないからいじめたがる。朱鷺の感受性に、冴の情緒は錆びた画秒のように突き刺さる。
(未熟な愛情表現)
 朱鷺は自分に言い聞かせる。愛情、と表現、のはざまに希望的観測の海風が吹き抜ける。何も期待しなければ恋は甘い、と蘭ならば皮肉るだろう。
 ガラス越しに太陽は固い円形に輝き、放射される光線が鋭角に海面を貫いている。愛の言葉の代りに相手をいじめてしまうひとがいる。自虐を伴う可虐は、不完全燃焼の炎のようにいやな臭いだ。
 海は青く、春の気配にやんわりと水平線を暈すなかに、ウィンドサーフィンの帆が、海岸で羽化した羽虫のように、いくつもいくつもひらめいている。その光景は、彼女たちの時間が綯い合わされた初めの季節をありありと思い出させたが、朱鷺は自分の身内を貫いてゆく感情の色合いがわからなかった。
 冴が怪我をした鴎のように感じられる。隅々まで念入りに磨き上げた姿とは裏腹に、彼女の額は乾き、こめかみや顎の皮膚のくすんだすさびは、薄化粧では隠せなかった。
 朱鷺の瞳が次第に曇ってくるのを見澄ました冴は、ディートリッヒのようにシガレットを斜にくわえるが、すべての仕草が撮影のコムポジションに決まってしまうのは、かえって彼女の存在を空虚に感じさせた。ロマネスクなポーズに精神がついてゆかない虚しさ。
 等身大のポスターと対峙しているような違和感を味わい、朱鷺はなんとかそれを払いのけようとするのだが、自分の心もまた稀薄にここから逸れだしてゆくのをとめられない。適度のデペルゾナシオンは、自己防衛に欠かせない。精神を象る言葉は自尊心の変形。朱鷺は詩句のような響きを持つ単語を口のなかでころがして自分を守る。
 目の前の冴が平面的に美しければ美しいほど、この場の情緒は遠近感を欠いて浮遊してしまうのだった。
 呼応するかのように、ウエイターがそそくさと片付けてしまった丸テーブルの光景は、出て行けよがしにうつろになった。なぜか紙のコースターを一枚だけ彼は残してゆき、グラスから滲み出た水滴がかたちを残してテーブルの木目に拡がり始めている。日曜大工であらっぽく打ちつけたような橡のテーブルだ。水滴の溶け出した円形が、降り注ぐ陽射しにゆっくりと輪郭から干上がってゆくのを、朱鷺と冴はしばらく黙って見つめた。ここの次に始めることはわかっている。

 レスボスの女はセンスがない。
 知っているの?
 俺は十代から芸人で、おまえなぞ想像もつかない社会の闇を見てきたんだ。
 センスがないなんて。
 つまり社会的な美度がないのさ。彼女たちはマージナルだから、おのずと身なりもそれにふさわしいものになる。自分たちははみだしている、とアピールせずにはいられない。サブリミナルにだろうがね。よくこんな衣装を売っているな、というしろものを着ている。
 じゃあ…冴は俗に言うレズじゃないのね。
 そうだ。
 あたしは。
 おまえは変わっているところなどどこにもないじゃないか。マージナルというのは社会に表だって楯突くことだが。
 冴を好きだ、ということと同性しか愛せない、というのは違うのね。
 ディートリッヒの言葉は的を射ている。男女の別は無関係、魅力的な相手を選ぶというのはね。リビドーの強さが問題なんだよ。同性を愛せる、というのは自分のなかに異性のまなざしが持てるからだ。あるいは…
 そこで蘭はすこし言葉を区切り、
 男性のまなざし、というのは女を人格から切り放して快楽と繁殖の対象としてのみあつかう、という残酷もある。物化だ。精神性など求めない。だが俺たちをなじるな。繁殖のために感情の黙殺はいくばく必須な手順なんだ。同性愛は繁殖を求めない。だから、もっともらしくこじつけるなら、快楽と精神の自然な調和ともいえる。
 自然? 生殖とは無縁なのに?
 インモラルもナチュレルの一部だ。世界はひろい。
 蘭は小鼻をひくつかせてお茶を濁す合図をした。朱鷺は対話をやめようとしたが、そこからさらに蘭は付け加えた。
 女は業が深いからな。自分のなかに異性のまなざしを持てるというのは、ある意味で自分自身の救済なんだ。わかるだろ、でなかったら、競争心しかない、もしくは優越と劣等のかけひきだけさ。

 冴の皮膚はブロンズのような匂いがした。
 三ヶ月もの間、お互いに連絡を取り合おうとしなかった依怙地を双方で恨んでいたが、朱鷺も冴も自尊心からそれを責めることができない。冴は自尊心を優越感にすりかえようとしていたし、朱鷺は現実逃避と紙一重の内向性によって自分のホメオスタシスを守る。けれども、いつもと同じように膚を合わせてしまうと、肉体は心よりはるかにのびやかに走り始める。
 解放は突風のようにやってくる。かたくなや傲慢を追い越し、なぎ倒し、もつれさせ、ふたりをたかみに押し上げる。初めのあって終わりのない快楽。内側を凌ぎあわない愛撫のもどかしさが、幾重にも幾重にもふりつもって空虚を満たし、違和は弛緩してゆく。
 朱鷺は両腕を冴の背中にまわした。冴が朱鷺を犯すような姿で腿が密着しているが、貫きの終止符は打たれないまま、ただ貝合わせの脈拍が、いつまでも愛のリズムを紡いで蠢いている。主導権をとりたい冴は、もどかしげに冴の肩をつかみ、シーツに押し付けるように上半身に体重をかける。この子を圧倒したい、と。
 ああ、と冴のこめかみに汗が粒となって滲む。勝手に動くのがわかるわ。
 ひとりでにしゃべるの。
 朱鷺は膝をあげて冴の体を股の間にはさんで揺さぶった。しめったミュルミュレが恥骨の下でくすぐるようにたぐまり、冴はゆっくりと息を吐く。
「朱鷺の髪は柔らかいから痛くない」
 そして薄目をあけ、わたしのせいで怪我をしないの? と尋ねる。冴はやさしい。触れ合いが彼女をやさしくしている。
「潤っているから」
 朱鷺はそれでもそろそろと自分の指を重なった部分に忍び込ませる。冴の尖りも襞も、朱鷺のそれより倍は大きいので、朱鷺は自分の器を守るより先に、冴の敏感な部分をつまんでしまい、冴はまた身震いする。
 何度いったかしら
 冴は指をほしがり膝をしめる。朱鷺は目をつぶり、わからない、と応える。いつもてっぺんから始まるが、どれが頂上で、どれが極めなんてわからない、と。
「朱鷺と逢ったあと変になる」
 朱鷺は冴の痩せてしまった背骨を撫でる。肩甲骨が目立つほどではないが、背骨の隆起がいたましく、てのひらのなぞる華奢な触感は、まるで我と我が身を愛しているような錯覚をくれる。
 朱鷺としたあと、とても…。
 冴のつぶやきに朱鷺は目を開け、彼女の瞳を覗く。瞳孔がひらきかけ、痙攣すんぜんの潤いに光る。つかめそうな長い睫毛、と朱鷺の記憶に繰り返し刻みつけられた、誰かと誰かの面影が、充血した粘膜の縁をかすめて浮かび、すぐ消える。
 朱鷺はおずおずとした微笑を湛えて冴を見上げる。いつもながら、この輪郭の濃い彼女と膚を合わせることにちいさな躊躇いがある。
肉体をかたどる光と影の陰影は、冴のキャラクターのいたるところで目に快い鋭角を描いていた。なんてきれいなひとだろう。
 けれども、しなやかな首を曙いろに染めて恥らうのはなぜか冴のほうなのだった。冴の抜きがたい性的なコンプレックスが彼女を怯えさせ、朱鷺ほどには奔放になれない自身を恥じ入らせる。こうして、いっときにせよ満たされることは、自分の空虚をあからさまにされる、と冴は感じ始めている。そのためにクライマックスがにじりよると、冴は挑戦的に荒々しくなり、朱鷺をしめころしたいような顔つきになる。あたしを揺さぶらないで、と。
 冴は逃げ腰になるが、同時に攻撃せずにはいられない。朱鷺を押えて冴は離さない。手首がちぎれてしまう、と朱鷺が訴えると、冴はひどく嬉しそうに笑う。箍を逃れた冴は、朱鷺もまたこのラヴァンドにとろかされた幾刹那にひきずりこもうとがむしゃらに跳ね、自分と相手との均衡をなんとか保とうとする。
 朱鷺が決して狡い表情をしない、ということが冴のひそかな嫉みだ。

「あたし、樹に殺される」
「……」
「わかっているのでしょう」
「わかりたくない」
「なぜ朱鷺はあたしたちをゆるせるの」
「それは真実だから、それも」
「真実ってなに」
「樹といる冴はほんとうに生きていると感じられる。曖昧に、中途半端に、ではなく、ほんとうに生きていると」
「生きることを実感するのが真実?」
「今のわたしにとっては」
「かしこい前置きつき〈わたし〉ね」
「今の、が?」
「逃げ道を未来に作る。あなたの年齢にしては上出来」
「冴はいくつ?」
「十月になれば二十三歳」
「わたしはこの春で十九」
「それなら過不足ないわ。朱鷺にとっての真実って快楽主義と紙一重、いえそのもの?」
「そうじゃない。快楽は痕跡をとどめない。その場かぎりの快感は毎日繰り返される食事や排泄と同じで、あとを残さないものよ。それが悲哀でも歓喜でも、生きている時の流れにはっきりと刻みこまれるものが大切なんだとわたしは感じる」
「苦痛であっても?」
「愛するって、傷つけあうことでもある。愛することは痛みのよう。植物だって太陽の光をいくらかは痛みだと感じているのじゃないかしら。でなければ、どうしてあんなふうにすくすくと変化したり、成長したりできるかしら」
「朱鷺のように考えられたらセックスは素晴らしいわね。わたし、あなたと逢ったあとで、いつも樹とするの。快感は倍加して……そして苦痛も倍になる。いつまでわたしはこれに耐えられるだろう、と。わたしたちには出口がない」
「百年の孤独」
「文学で茶化さないで」
「出てゆかなければ永遠に楽園」
「その言い方、蘭さんそっくり」
 いらついた冴は朱鷺の乳首をつまんでかるくひねる。朱鷺は薄く笑った。冴の指から朱鷺のからだの芯に疾走してゆく青年の残像。冴の愛撫の手つきは朱鷺と樹を隔てないだろう。ここに嫉妬はない。だから朱鷺はぬけぬけと言った。
「鎮痛剤よ、引用は」
 そしてそのあとで、眉を寄せた冴に向かって、
「あなたが哀しむのはつらい。あなたに悲劇は似合わない。だから」
「だから」
「樹は冴を殺さない、殺させない」
 冴はシーツをからだに巻きつけ、顎の下に頬杖をついてつぶやいた。
「あたしたち、ちゃんとお互いの年を言い合ったのは、もしかして初めてよね」

 すやすやと寝息をたててしまった冴の額に、じっと息をころして唇をおしつけていると、夕闇の冷たさが背中からひそひそと押し寄せてきた。冴は朱鷺よりずっと大柄なのに、愛撫のあとでは朱鷺に包み込まれるように眠る。
背中をまるめたその姿は偶然だが蘭の寝相と同じだ。恋人たちの思いがけない相似は、朱鷺のこころにいくらか罪深さを呼び、長い猫のような姿の冴の向こうがわに、彼女を所有している青年への息苦しい実在も、愛撫の最中より、今のほうがはっきりとせりあがってくるのだった。
 樹の眠りは冴よりも深いだろう。朱鷺は冴の男性用オーデコロンに包まれた体温の向こうに、カルメンの誘惑を緋色に纏ったドン・ホセを眺める。そうだ、このようにして冴はずっと自分のうしろに竹内蘭を見つめているのに違いないという確信が湧き上がり、朱鷺は自分の鈍さに呆れる。わたしは蘭の半身。そして冴は樹の。
 わたしたちの快楽が頽廃しているというのなら、それはこの交わりそのものではなく、互いの向こうに、手に入らない異性のまぼろしを描きながら愛を紡ぐことにあるのだろう、と朱鷺は海にさしのぼる朧月夜を眺める。心の視野に月光と樹とは等距離で眺められる。
 ……男女の交わりだって変わらないよ、と薄紫の夕月が応える。春の月夜は朱鷺の味方をしてくれる。
 まったく純粋な愛情などないだろう。君たちはお相手を選ぶのに、その社会的な能力、容姿、財産を測る。どれもみな、肉体を結び合う部分とは無縁なものだ。愛し合うために君たちが分け合うものは、じっさいにはほんの一部に過ぎないが、そこに至りつくまでには、とてもわずらわしく、また杜撰な計算行為をする。肉体の背後に虚妄なまぼろしを貯めこんでから物語を始め、見晴らしのよい高みにいるはずが、なぜか骨と腐肉にまみれた墓場とぬかす皮肉はいくらでも聞く。それともあれは冗談なんだろうかね? 
 初め柔らかだった月はぺらぺらと喋りまくるうちに底意地の悪い口調になり、聴きづらくなった朱鷺は、月明かりに向かって、もういい、と呟いた。朱鷺の険しい顔色に、月は上目遣いに、ひそひそとまとめた。
 ……交わりに理非善悪などありはしない。偶然と必然は表裏一体の運命なのさ
 運命、という言葉は多用されると安っぽくなる。使用頻度に応じて、居丈高な言葉は情感の裏打ちを失い、ポスターカラーさながらあっけらかんとした原色に近づく。朱鷺は月から顔をそむけた。
(出口のために愛するわけじゃない)
 死がふたりを分かつまで、というささやきが誘惑のように聴こえた。誰の声だろう。朱鷺自身の声だとしたら、どこかに姉と弟の神話的結末を待っている気持ちがあるのかもしれない。それは個人にはコントロールできないサブリミナルな意識層からくるのに違いない。タブーを侵犯した者たちのたどる、かくあるべき筋書き。しかしキャラクターとして無意識の水面上に浮かび出た朱鷺の心は、殺戮など毛ほども望んでいないということも事実だった。ひとは常に両義的な存在だ。意識は無意識によって支えられ、同時に相反するベクトルで互いを牽制する。抑揚の結果、勝利をおさめるのはどちらだろう。どちらでもない平和なFiniがあるのなら、タブーにしても、ゆっくり燃えるのがいい。
 月のおもてに虹がゆるくかかり、長い絹雲には、まだうすらかにたそがれがとどまっている。藍色に暮れた上空を、ジェット機が天体の破片のようにストロボを赤くきらめかせながら横切って消える。海づらには月光の澪が、水にひたしたリボンのように愛撫の余韻を映してゆらゆらと漂う。
 煙草と酒の匂いが濃い冴の部屋には香りがない。朱鷺は今、何かの花の香が恋しかった。春のいきいきとした土の感触を伝える菜の花や、つぼすみれのつつましい香気を、今ここで嗅ぐことができたらと願った。

 君はこの季節にシャツ一枚でバイクに乗るのか、と竹内蘭はポットから珈琲を注ぎながら樹のはだけた胸をちらりと覗いた。
「インフルエンザが流行してたくさんひとが死んだ」
 樹はキリマンジャロの香りを肺いっぱい吸い込み、海岸どおりをつっぱしるうちに四肢の末端までしみついてしまった排気ガスを振り払おうとする。寒くはなかった。指先が震え、爪先がじんじんするのは寒気のせいではなく、濁った騒音と排気ガスのせいだ、と彼は思った。くちの中で砂がざらざらする。
「道路みがきはたのしいか」
 蘭は絹をはった寝椅子にゆったりと背中を預けると、寛いだ表情に皮肉な口調で青年を揶揄する。樹はじっとおしだまり、クリーム抜きの珈琲をすすったが、蘭の厭味は疲れ果てた彼にとり、カフェインの苦さと等質の快い刺激となった。蘭はちくちくと容赦のないあらさがしの眼で青年を眺めるが、木綿のシャツに洗いざらしのジーンズという樹は、そっけない身なりのなかに、どこか育ちのよさが感じられた。誇示とは無縁の優雅がちからの抜けた腕、自然に投げ出した膝のラインに澱みなく流れている。
 優雅さは学べない、それは天性のものだ、とニジンスキーは言ったが、と蘭は初めて間近に見るむき出しの樹に感嘆せずにはいられなかった。青年はよくよく見ると、荒い顔だちのなかに爽やかな幼さを残していた。浅黒い頬は乙女のようになめらかで、こわい髭がこめかみから顎を青く翳らせているが、それさえも早すぎる老成を自分ではにかんでいるような地肌の桜色を際立てずにはいない。
 なるほど、これなら冴の相手にもなろう、と蘭はロココの風の薔薇色のカップに鼻の先を入れ、乾いた粘膜を珈琲の湯気で労わったが、その仕草は葡萄酒のブーケを愉しむように気取っていた。
「冴が男と寝ました」
 ざらめを入れるかね、という蘭の言葉と同時に吐き出された樹の呻きに蘭は目を剥いた。
 暫く沈黙が落ちた。かたかたと季節感が窓枠を揺さぶる。どこかで猫の恋歌が始まるのをきっかけに、蘭は神経質に耳のうしろを掻きながら、
「何故わたしのところへ?」
 うつむいていた樹はぎりっと目を上げた。動かした骨格のきしみが聞こえるのではないかと思われるほど苦しげに頭を振り、
「あなたじゃないか、と思って」
 は、と蘭は手を打ち合わせて笑う。が、樹はこの男が少しも笑っていないことを見極めていた。薄笑いしているのは樹のほうだった。かわいた微笑が彼の激情から遊離して浮きあがり、ぴくぴくと片頬を震わせる。
「それは、嬉しい誤解だが、そんなことを君に言うのは失礼だな」
 蘭の額に刻まれた皺を、樹は秘められた手紙のように読む。苦渋と老齢が動かしがたい威厳となった男の貌を、樹はぶあつい手紙の束か、重厚な装丁の書物のように凝視する。この男の欠点を見たい、と青年は憎む。ぬけぬけしたギャラントの仮面を引き剥がし、内側の卑屈を掴みだしたい、という憎悪が彼を昂ぶらせ、全身に殺気をみなぎらせてたちあがり、隠し持った白刃をジーンズから抜き出す。
 鋼のひややかなエッジが暖かく彩られたサロンの真ん中で喘ぐように輝く。握りしめた手から、憎悪はなめらかにクーパーのきっさきへ満ちて行き、苦い寝取られ男を凶暴な征服感で満たす。蘭は珈琲カップを手にしたまましなやかに身体をひねり、ほのぼのとたちのぼる湯気に斜に構えた貌を隠すように、樹をうかがう。その瞳がすうっと細くなり、一条の白い線になる。蛇の眼だ。樹は脅え、恐怖は必然的な殺意となって、青年はナイフを腰にひきつけて体重を預け、飛んだ。
 一閃をかわしたあとの蘭の身ごなしは凄まじかった。自然な攻撃欲求に憑かれた樹の虚空をきった肘の関節を、蘭は文鎮で殴りつけ、痺れと痛みで思わず樹が取り落としたクーパーを後ろへ蹴りとばした。
 ふざけるな。
 蘭の怒鳴り声はそのとき初めて発せられた。樹は逆上して殴りかかる。けれど、放心している朱鷺の毅然とした優雅とはうってかわって、憤怒に我を忘れた青年は隙だらけで、振りあげた拳はまたしてもむなしく円卓にぶちあたり、かるがると身をかわした蘭は、狙い定めて青年の膝を蹴りあげた。原色の苦痛が樹の全身を揺るがし、彼はなす術なく膝をついてしまう…。

 薄闇は刻一刻とヴァルールを深め、なだらかな暗さが慰安のように冴の眠りを抱きとめていた。朱鷺はするりとおきあがり、音をたてずにベッドから降りる。朱鷺をとおして自分とのしのぎ合いに疲れた冴のぐったりと放心した喉から洩れる寝息は、弱々しい夜のささやきのようだった。
 朱鷺はしばらく冴をみつめた。もう離れようか。お互いの影が深くならないうちに、さらりと別れようか、と。同性愛は往々にして気晴らし、レクリエーションになってしまう。慰安、退屈しのぎ、それでも差し支えはないが、朱鷺は頽廃した冴を見たくはなかった。芸能界の水にうまく狎れてしまえば彼女の行く先は見えている。世間的には成功だろうし、奢侈には事欠かない。
(でもわたしの好きなこのひとじゃない)
 朱鷺は痛みの感情なく、自分にささやいた。
 それにしても、かたちにはそれに応じた影が映るように、人間同士も生まれ持った器に相応の影を曳きながら人生を歩むのは自然の理とはいいながら、やはり不思議なことだ。   
 緑には赤が映り、黄色は青紫に翳る、という生理現象は、一瞬にして人間模様を解き明かすアフォリズムにもなる。
(冴、あたしたちはいつまでいっしょにいられるかしら)
 死がふたりを分かつまで。
 それはさっき聴こえた声とは違ったニュアンスだった。自分と冴とのことではない、と朱鷺は思う。たぶん…まひるのランチのあいまに、朱鷺と冴との間をかろやかに吹き抜けていった希望的観測の海風かもしれない。
 冴のような娘を、周囲はいかなる意味でも放ってはおかない。手に入るべきものは入り、縁のないものは、どれほどあがいても得られない、と蘭は言う。
 樹のための言葉ではないか、と朱鷺は目を伏せた。星屑がきらめきこぼれて、月はもうここからは見えなかった。海面に滲むあさみどりのルフレが、ひっそりと月の居場所を教えてくれたが、朱鷺はうなずいたまま、帆の白い影になって姿を消した。

「君はもっとかしこいと思っていたが」
「かしこくなんかありませんよ」
「まだわたしを殺したいか」
「いいえ。俺はあなたじゃないなんてわかっていたんだ。でも冴はあなたを好きだ。ただそれだけです」
「いい迷惑だ」
「冴は俺から離れていこうとしている。だけど俺はあいつを殺せない」
「だから代わりに?」
「殺すなら自分を殺せ。だいいち、冴はほんとうに君を裏切ったのかね。嘘をついたのかもしれないよ」
「まさか!」
「樹、愛のかたちはさまざまで、本人にもわからないことがある…すごい月夜だな」

 爆音が砂ぼこりを巻いてふくれあがり、沈丁花の香りを追い散らした。
「なぜ」
 樹はヘルメットのまま叫んだ。
「あなたとはうまい偶然で会うんだろう」
 朱鷺は岬に輝く我が家の明かりと、坂道を走り下りてきた樹とをかわるがわる見た。
「それ蘭さんのオーヴァーコート」
「借りたんだ」
 何をしたの、と朱鷺の視線が問い糾すのに、樹はヘルメットに表情を隠したまま、聴き取りにくい声で、
「蹴られて、肉を焼いてきた」
 エンジンが不平がましく唸り続け、何かせかされるような気持ちで樹はハンドルを握りしめ、まだひりつく鼻を啜った。
「喧嘩したの?」
 朱鷺の眼がまるくなると、樹は口をへの字に結んでかぶりを振った。ともすればこぼれる自嘲を相手に見せまいと、唇をひきしめる。
「かなわなかったけれど」
「どうして」
 どうして? 樹はどうしてだか思い出せなかった。結局俺はあのひとに会いたいから、あの人に殴られたいから、わざわざナイフを忍ばせて小田原から出てきたんじゃないか、と思った。
「俺は竹内さんが嫌いだ」
 朱鷺は樹を咎めるようにその手に触れた。手袋をしていない青年の手は冷たい。朱鷺がそれとは知らずに手の甲の傷に触れると、樹は息を詰めて痛みに耐える。その気配を察して、
「蘭さんに?」
 彼女の声には同情がなかった。その方がいい、と樹は顔を背けて苦く笑う。
「俺に触った」
 相手がきょとんとするので、樹はこれですこしばかり蘭に仕返しできると思う。それにしては姑息なやりかただが、朱鷺を今ここで強姦する気にはなれなかった。
(かまやしないんだけどさ)
 樹はついさっきまで厨房で肉を焼き、それを上機嫌で平らげる蘭の給仕をさせられていたのだった。なんていやな爺だと心中で罵りながら、力の劣る相手を傷つけずに屈服させた蘭の手練れは、樹を敗北感よりは感動で満たし、従順に洗練されたギャルソンを勤めずにはいられず、そうなると罵声は求愛にも似て甘美だった。
 できそこないのがきにしちゃ、焼きかたはいい、ポタージュがだめだ、と遠慮なく毒舌を散らしながら葡萄酒を傾ける蘭を、樹は抱きしめたい、とさえ思った。抱きしめて絞め殺したい。が、樹のような若者にとっては、それこそが親愛というものだった。
 青年は月光にぼんやりと浮かぶ朱鷺の首を測る。春らしく薄いスカーフのなかにほのかに透ける首はいかにも柔らかく、片手でたやすく握れそうだった。まだだ、と樹はつぶやいたが、その自制は優しさからではない。
「あなたが俺に触れたのは、今が初めてだ」
 朱鷺は驚いてしまうが、そう言われてそそくさと手をひっこめるのはきまりわるく、かといっていかにも特別な瞬間であるかのように重ねたままでいるのも心地が悪い。朱鷺のぬくもりを樹は腹いせのように味わうが、彼女の手はきっと冴を撫でたものだ、とふいに気づく。
 このひとはどうやって冴を愛するんだろうと彼はとっさに朱鷺の指を鷲づかみにする。
「あなたの眼の前で、いつだったか彼女の指を舐めた」
 そして、その指を貌に近づけると、脅えたような表情がありありと朱鷺の顔に浮かぶので、はっとする。桜の開花も近い夜気は、じっとしているとなまぬるく、樹の手のなかにつぼんだ指先から、このなまめいた夜風の中に、かすかに、けれど隠しようもなくたちのぼる惑わしがあった。
 樹はものも言わず、朱鷺の指をくちに入れた。やめてよ、と朱鷺は身をひいたが、男の力はまともに抗って勝てるものではない。熱い舌は無遠慮に朱鷺の指から冴の残り香を奪い去り、朱鷺は眩暈をこらえる。思いがけない粘膜の感触は、まだ火照った皮膚に強すぎる刺激だった。
「汚した」
 樹の呟きは、自由になった指たちより、奥深い部分をせつなく看破していた。
 いやなやつ、と朱鷺は両手を後ろに隠したが、樹の目を見ることはもうできなかった。

海の器  vol7 無言歌

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  LIED OHNE WORTE

 傷負ふて眸は潔(きよ)き
  無言歌と知れば愛(かな)しき心離れぬ

 
 ほっそりした長い首と、なだらかな肩をした婦人は、血色の悪い卵型の顔を憂いがちに傾け、蘭に向かって、お忙しいのは存じております、と繰り返し言った。
 彼女の薄い胸の中で、独白のように呟かれるこの言葉には、蘭が決して彼女の申し出を断わらないという、控えめで頑固な確信の響きがあり、傍にいる朱鷺をはらはらさせた。
 クリームいろのモヘアのアンサンブルに、カシミアのロングコートを穿いた彼女は、早春の空から脱け出した大気の精のようだ。真白な真珠のネックレスが彼女の華奢な首を飾っているが、その処女性の光沢は、さえざえとした一重瞼の光と響きあい、ふわっとした装いでありながら、春の花畑のなかに鋭くとがった硝子を見出したようで、思いがけない冷たさをちらつかせるのだった。
「お風邪ですか?」
 蘭は軽快に調律された声音で婦人を気遣う。語尾をかすかにぼかし、女性的なやわらかさと年長者の余裕を含ませた心地よい声は、婦人の黄ばんだ顔をかすかに暖め、その処世術のような用心深さを緩めずにはいなかった。
 母親は見目よく鼻をかみ、
「こどもを生んでから、体がすっかり変わってしまったみたいで」
 自分の体調の話になると、彼女は急に生気をとりもどし、感じやすい粘膜に対する漢方医学について、玄人はだしの知識を喋る。お喋りは彼女の血行をよくし、凍りついたモジリアーニの女から、クリムトの細長い金いろのマリアへと変貌していったが、抑揚なくいつまでも紡ぎだされる声は、蘭をいらいらさせたようだった。
「それで、坊やは」
 蘭は無造作に話を切った。甘草と桔梗根の目覚しい効果に夢中になりかけていた上品な母親は、微笑を溜めた蘭の表情があまりにおだやかなので、遮られた言葉を省みることも、いったん流れ始めた饒舌をおしとどめることもならず、ごくありふれた口調でこう言わずにはいられなかった。
「登校しようとするとお腹がいたくなって」
 彼女は、こどもの腹痛が、あたかも我が身を苦しめる痛みであるかのように、なやましく膨らんだ自分の腹部に触れた。朱鷺は母親の視線の隙間を選んで、庭で犬と遊んでいるこどもを見る。水仙と福寿草が、湿った庭土を飾り始めた陽だまりで、少年はふっくらした頬を犬にこすりつけて笑っていた。母親似ではないが、その年齢の男の子にしては整った顔立ちをしている。
 朱鷺の視線を敏感に察して、母親は長い首をめぐらし、こどもを見やった。
「父親がたまに帰ってくると甘やかして。でもお腹が痛いのはどうしようもありませんでしょう? 叱っても直らないし」
 と、同意を求めるように朱鷺を見る。朱鷺は少女のまま時を過ごしてしまったような母親にとまどう。彼女は決して若作りではないが、若く見えた。化粧や装身具でつくろってはいず、窓に向けた薄化粧の顔には、年齢相応の小皺が漂い始めていたが、彼女の落ち着きのない顔、感情を隠さない瞳の動き、思いつめた口もとは、まるでローティーンのように、意味もなく揺れている。
 彼女はスワトオ刺繍の白いハンカチをそっと額に押し当てたが、なめらかな皮膚には汗など滲んでいなかった。何かを持っていないと落ち着かない彼女は、そわそわとハンカチを弄び、膝の上にひろげ、また畳み、ふたたび拡げると、朱鷺の煎れた緑茶に手を伸ばし、音をたてずに口に含んだ。
 彼女の仕草はひとつひとつがとても慎重で、毀れやすい置物のように自分を扱っているが、そんな末端の神経質と容姿のたおやかさとはひどく不釣合いで、彼女は怖気づいた瞳をめぐらし、朱鷺と蘭の顔色を読もうとするが、それでいて他人の顔色を推し量ることなど所詮無理と諦めているようでもある。
「甘やかしているのでしょうか?」
 気抜けしたような声が、彼女の喉からぼんやりと押し出される。
 均衡のとれないひと、と朱鷺は眺める。
 母親としての困惑に満ちた言葉と、彼女の奥行きに乏しい表情とはどこかそぐわなかった。恵まれた主婦生活に降って沸いたこどもの反乱を、彼女はまだ実感できず、ただ放心するばかりなのか。
「舵、ご挨拶なさい」
 母親は唐突にたちあがり、窓を開けてこどもを呼んだ。冬風が無遠慮に吹き込み、暖かな室内の空気をどっとひっくり返し、蘭は思いきり顔をしかめた。彼は風が嫌いだ。朱鷺と同じように皮膚の薄い彼は、風に吹かれるとアレルギーを起こし、尖った耳に霜焼けができる。
 しかし、悩んでいる彼女は蘭の不快を気遣う余裕もなく、頼りなげな姿から急に険しい母親になり、声を張り上げ、躊躇っているこどもを叱りつけた。蘭の返事も聞かず、彼女はもうこどもを弟子入りさせるつもりでいた。

 年明けの蘭の会で踊ることになっていたので、朱鷺はメンデルスゾーンのピアノ曲を選んだ。ショパンほど華やかではなく、シューマンのように口ごもらず、そしてシューベルトのはにかみとも違う彼の音楽は、朱鷺のからだの柔らかさにほどよく調和し、フレーズの振幅も繊細でありながら、現世肯定的で踊りやすかった。歴史上の音楽家のなかで、フェリックス・メンデルスゾーンは、例外的に物心両面に恵まれた人生を送ったというが、朱鷺の触覚する彼の音楽の快さは、もしかしたらそのためかもしれない。
 フレデリック・ショパンの音楽はあまりにも透明で揺ぎなく、完全な骨格をしているので、自分の稚拙な舞踊表現が冒瀆のように感じられる。ショパン以外の作曲家たちが不完全だというのではないが、ポーランドの片田舎で、おそらくディアベルリやクレメンティの、混沌とした乏しい音楽の支流から、突然変異のようにロマン派を湧出させ、時空を超えて滔々と独自の音楽をみなぎらせたショパンだった。
 彼の音楽には夭折の天才のいたましさ、我が運命を見据えつつ芸術に殉じる透徹した響きがあり、朱鷺はショパンを聴くと、瑕僅もない水晶の塔を見るような思いがする。
 もしも、ショパンを踊るとしたら、朱鷺はリズムでムーヴマンを刻むのではなく、音楽に内在するフレーズに身を委ね、ピアノの妖精が、フレデリック青年のくるくる回る指先に戯れるようなパフォーマンスをしたい、と思う。
 音や、肉体の動きを言葉で置き換えるのは不可能に近く、踊ることによって肉体の線を歌わせ、内的なエネルギーを解放してゆく課程を文章表現しようとすると、いつも主観的な嘘臭さと曖昧さに悩まされる。
 言葉は知性の所産であり、分析し、筋道をつけ、限りなく細分化してゆくものだが、音楽や舞踊はその逆に、ばらばらになった想念を包容し、いったん原初的な情動にひきもどす。混沌と渦巻くエネルギーは、恣意に任せれば、ときには身を滅ぼすものだが、丹念な訓練の果てに、一連のムーヴマンとして歌い出すことが可能になる。
 しかし、朱鷺の望む表現と、肉体の限界は常に拮抗しており、第一次成長期を過ぎてから踊り始めた朱鷺は、目覚しいテクニックを身につけるかわりに、内的ムーヴマンを制限された動きのなかで、ささやくように、流れるように紡ごうとする。それが、朱鷺にとっての音楽となっていた。
 音楽を斉藤秀雄に師事する傍ら、上野の美術学校にてんぷら学生として通ったという蘭の絵は、イタリア留学中にさらに磨きをかけられ、ピアニストとしてよりも、画家として彼を知るひとが多いほどだった。舵の母親は、口をきかなくなった息子に絵をならわせようと考えたのだった。
「子守なぞまっぴらだが」
 蘭は親子が帰ってしまうとしぶい顔をした。あまりに無遠慮なので、朱鷺が思わず微笑んでしまうような渋面だった。
「恩人の娘だから断わるわけにもいかない」
 給費留学生の窮乏生活の頃、ウィーンで蘭を庇護してくれた金持ちの夫人がいた。舵の母はその女性の縁者で、さらに後年、蘭がロシアのキーロフで、エトワールのポルトレを描く職に在った時に、日本からのバレエ留学生として蘭と面識があった。
「それであんなにしなやかな姿を」
 朱鷺の羨ましそうな声に、蘭は、
「昔はもっときれいだった。しかし、キーロフというところは、これぞ天使か神の似姿かというような美貌がひしめいていたから、日本人というと可哀想なものだった」
 それに、あのひとはほとんど音楽がわからなかったから、と蘭は遠い目をする。
 音楽がわかる踊り手って……。
 朱鷺は何度か繰り返された質問を喉で呑みこむ。ナタリア・マカロワ、ヌレエフ、それから……。
 蘭の答えは短く、厳しい。芸術に対する彼の忠誠は潔癖だった。ごくひとにぎりの天才たち。音楽と戯れ、表現できるダンサーたちへの憧憬は朱鷺に受け継がれたが、それはまた朱鷺と蘭を隔てるはるかな道程を思わせる。彼の位置はとほうもなく遠い。日本とヨーロッパ、朱鷺とロシアのように隔たっている。

「絵なんか嫌いだ」
 舵はくろぐろとした瞳を大きく見開き、レオタードの朱鷺を見つめる。
 芸術的な感化を与えてくだされば何でもいいんです、と母親は市販の健康飲料を求めるように、蘭に曖昧な万能感を期待し、こどもは週に一度やってくることになった。
 多忙な蘭は、ものわかりのよい微笑みで母親を帰したが、こどもの世話は詰まるところ朱鷺に押し付けられた。
 教えてよ、と舵は掻きかけの絵をぐちゃぐちゃに丸めて立ち上がった。やけくそな仕草はこどもには似つかわしくない屈折した怒りが感じられ、喊黙傾向があると歎く母親の言葉とは、かなり違った印象を朱鷺は持った。
はっきりした怒り。怒りだけではなく明確な感情の振幅を舵は発散する。こどもらしい初対面のはにかみ、おそるおそる居場所を探し、がらんとしたピアノ室で、朱鷺がべつだん干渉するでもなく、ほったらかしに絵を描かせているうちに、たちまち雰囲気に慣れ、ぬくぬくと手足を伸ばし、机から転げ落ちて床に寝そべり、何事かつぶやきながら、半時ばかりクレヨンと格闘していた。
 朱鷺は、テープから小声に流れるピアノに併せてゆっくりウォーミングアップし、こどもにはしたいようにさせた。特別扱いはするなと蘭に言いふくめられていたし、そもそも朱鷺は、こどもを大人と異なる存在だとは思えない。こどもは未分化で稚拙、いたいけなもの、という考えを受け入れることはできない。未分化というのは確かだが、幼児でも二十歳の女性に勝るコケットリを持っている場合もあるし、十歳で世故に長けた視線をめぐらす子もいる。
こどもはちいさな大人だろう、と朱鷺は思っている。肉体の成熟や知識の獲得は、生まれ持った人格をそれほど左右しないような気がする。
いたずらに年齢を重ねても、なお未分化な大人たちを朱鷺は何人も見てきた。彼らは大きなこども、とでもいうのだろう。
 舵は、朱鷺の自在な動きに目を輝かせ、クレヨン臭い手で、柔軟体操をしている朱鷺の背中で握手した腕に触り、ためいきまじりに
「すごくやわらかい」
 いきなり触られて朱鷺は驚くが、舵の手は暖かく、山羊のようになめらかだった。焦げ臭い汗と埃、何かのジャンク・フードの匂いがこどもの髪からたちのぼる。まだ性別のない匂い。すっぱい砂糖のような、むっとする匂いは、強烈だが単調な感覚だった。
 朱鷺はそろそろとこどもの腕を持ち上げ、まず肩と二の腕を伸ばしてから、ゆっくりと背中にまわしてみた。
 痛い、と舵は口をとがらせる。残念ながら、この子は母親のしなやかさをほんの少しも受け継いではいない。骨は太く、すでに将来の頑健を思わせ、日焼けの季節でないのに少年の皮膚は褐色に光っている。
 舵は自分の腕が朱鷺より硬い、ということに誇りを傷つけられ、ぷっとふくれる。そのつぼめた口許はとても美味しいものを大事に含んでいるようで、朱鷺は思わず舵の頭を撫でてしまう。機嫌とりではなく、ただこの子が可愛いから、という朱鷺の愛撫に、舵は虫歯の口を開けて笑った。
 朱鷺の剥きだしの腕を舵はしげしげ眺め、静脈が肩まで見える、と言う。
「お姉さん、ハーフ?」
 いいえ、と朱鷺は否定するが、舵は疑わしげに朱鷺の茶色い髪を点検し、
「染めてるの?」
「もとから色が濃いだけ」
「目も茶色だ」
 僕のは黒い、と胸を張る舵は愛嬌がある。
 この子は好奇心旺盛だった。仔犬がそこらに濡れた鼻を押しつけて匂いを嗅ぐように、舵はだんだん大胆に朱鷺に迫り、観察しながら自己顕示を始める。
 どこが登校拒否なのだろう、と朱鷺は不思議だった。ひよわなところがどこにもない。たいていの大人でも蘭と相対すると、何か気後れしてしまうのに、舵は母親の前では憂鬱げに顔を伏せていたが、独りでやって来た日には、鈍感なまでの礼儀正しさで、きちんと蘭に頭を下げた。
 こん、こん、と硝子を叩く音に振りかえると、ダウン・ジャケットの蘭が庭先から手招きしている。
「散歩に行こう。一段落ついたから」
 言いつつ中を覗きこみ、目を見張る少年に向かって、
「焼き芋屋が来る。うまいぞ」
 とにやりと笑ってみせた。

 灼けた鉄の匂いを残して樹が冴から離れると、二人の皮膚をぴったりと密着させていた汗が、ぬるい空調に急激に冷やされ、いやな感触で腿をつたわって流れた。
 ブラインドを半ば下ろした室内は、曇った天気のせいで、夜明けか夕暮れのようなヴァルールに塗られ、なべての陰影を溶かしてしまう薄闇は、時間の感覚をも侵し、ものみな無彩色にかぎろう中で、姉弟の流す汗だけが苛烈に滴り続けた。
 誰と寝たって? 
 冴に喰い破りそうな視線を切りつける樹は一ヶ月あまり別れていた間に痩せて、頬骨がなぞれるまでに削げた。堰かれていた欲望はどれほど女を苛んでも宥められない、とばかりに樹の挑みは夜通しやまず、冴の粘膜はとうに感覚を失い、何度かおとずれた喪神はアクメなのか睡魔なのか、あるいは爛れるほど充血した肉の苦痛に耐えかねてのものなのか、もうわかりはしないのだった。
 言え、誰なんだ。
 樹は目を瞋らせ冴の乳房を握る。パルファムの撮影のためにダイエットした彼女の体は、鎖骨のくぼみが強調され、肉の落ちた胸に乳房の彫りが深くなったために、かえって挑発的だった。樹はぎりりと歯噛み、肉も千切れるばかりに爪を立てる。冴は悲鳴をあげるが首を左右に振るばかりで逆らわない。
 ふざけるな。
 樹は涙をためて冴の頬を打った。灰色のシーツに冴はあらあらしく投げ出され、はずみのついたまま寝台の縁まで転がる。樹はその髪をつかんでひきしぼり、自分のくちびるで相手を窒息させるように口を重ねた。
 けれども冴は打たれた頬の痛みに生気をとりもどす。粘膜の刺激に飽和しきったあとの皮膚の痛覚は、宿酔いの朝の迎え酒のようにかりそめの覚醒でちからをくれる。被虐と嗜虐が交錯する刹那、冴は目をあけたまま弟のくちびるを味わう。眉間に皺を刻んで苦しげに目を瞑っているのは樹のほうだった。
 冴は自虐に満ちた快楽への欲望に突き飛ばされ、粘膜が早くも乾いてこびりつき、かさかさした樹の股に手をすべらせ、分泌物のために毛先が細かい束になった生え際を撫でる。くちの中で絡み合った樹の舌が一瞬震えると、呼応するように蘇り、冴の指に寄り添ってくる熱さがあった。
「なぜ」
 樹の流す涙が冴の喉を濡らす。涙は厳粛にこぼれおちる。さながら射抜かれた聖セバスチャンの血のようにきよらげに。涙は冴の喉を潤し皮膚を清める。彼女の指は肉欲の籠となって哀しい青年をとりこめ、樹は逃れたいと願いながらも、誘いかける指の羽ばたきに抗うことができない。
 粘ついたくちびるが唾液の糸を曳いて離れ、
冴は予定調和のように弟の膝に顔を寄せる。
 血の昂ぶり、自分と同じ血の凝りが、このうえなく潔い、単純な姿で揺れている。潮の予感をまとう欲望にひざまずく冴は、ラ・マドレーヌのように敬虔な疲労に目の周りを黒ずませているが、本人も、樹も気づいていない。
 樹は涙に腫れた瞼をこじあけるように姉の襞をひろげ、えぐられた傷口、自分以外の男に汚されてしまった不浄の傷口に、ガーゼを押し当てるように舌を密着させ、ほんの少しの隙間もないようにしたいと願うが、腫れあがった肉の渦はふてぶてしく樹のくちびるからはみだし、彼は、この赤紫のラビアが、もはや自分から逸れてしまった姉の存在そのものを象徴するかのような絶望にかられ、ゆるせない、と呟く。
 絶望は瞬時に殺意にすりかわる。けれど、姉を殺すには樹の欲望はあまりに一途で烈しいので、破壊衝動はすぐさま内向し、膣の窪みに溺死するために、彼は鼻腔を、口を、昏い性器に沈める。
 汚穢と再生の戸口がつらなる赤紫の溝に、青年は近親相姦の罪深さと不貞の正当性を秤にかけるが、姉の舌に絡められた迸りがつきあげると、いっさいは空白になり、きりきり舞いしながら愛の煉獄に堕ちてゆく。あるいは解き放たれた翼に任せて虚無の宙(そら)へ昇る。おそらくその両方を、青年は一瞬にして味わう。
 朱鷺と寝なかったの? 
 撲たれた片頬を赤く染めた冴が、落ち窪んだ目で弟をなじる。まるで破るべき禁忌を破らなかった臆病な異端者を審問するように、彼女の声には迷いがない。その唇の縁に精液がこびりついている。冴が樹に息をふきかけると、自分から放たれたものとは思えぬ違和感に満ちた匂い、なまなましい排泄物の匂いが、確信をこめて樹を糾弾する。

 朱鷺と寝たい?
 ざらざらするコンクリートの壁に、素裸のままじかに寄りかかり、がっくりとうなだれた冴のうなじに、なめらかな日光が甘美な冷たい曲線を描いて影をつくる。僅かの雲間から太陽はおためごかしの吝(けち)な光を蒔き、空は動きのない鼠いろに凝り、鱗状の雲の縁が汚れた緑にけばだっている。空に圧迫されながらも海は明るみ、燻し銀の一枚板となって輝き、魚々子(ななこ)細工のこまかい波が、ひっきりなしに陰影を変えながら、風と時を刻んでいた。
 誰とした。
 樹のつぶやきが冴の膝に繰り返し刻み込まれる。寝た、誰と、なぜ、する、それからコロス。それから何の脈絡もなく、朱鷺。
そうした言葉たちは無限に寄せ返る波のように二人のあわいを行き交い、もはや言葉の意味を失ってしまい、ただの水素と酸素の結合体である水が、厖大に集まることによって、海という不可思議な象徴性を帯びるのとは逆に、恋人たちの軋みあいから吐き出された罵倒も詰問も、しだいしだいに感情の色を失って、ただの無意味な音のつらなり、あるいはただの口腔粘膜の振動にまで還元されてゆく。
そして今や、疲れ果てた彼らには、それが唯一のまぐわいの響き、二人の間を容赦なく削ってゆく時間を、二人だけのものに変えるまじわりの音律となっているのだった。
 樹は冴の膝に頭を乗せ、ぼんやりと視線をさまよわせた。無表情な石の壁が断ち切られたように天井へ折れていた。そこに嵌めこまれは硬化ガラスの前に、天体望遠鏡を据えて興奮気味に空を覗く父を見たのはいつのことだったろう、と彼は考える。
 脱出したい、と彼は願った。いつもいつも脱け出したいと思っていた。両親、姉、学校、まずい食事、不愉快な匂い、ざらついた感触、氷のようにつめたい海から。
(あれは三月、四月の初めだった。冴が俺を見捨てて出ていった。俺は海に飛び込んだ)
 憎悪、絶望、同時に苛烈な欲望が少年をうち倒し、押しひしぎ、ぬるぬるした岩場で、我が身を傷つけるような自涜をした。海は紺碧に冴えていた記憶がある。花曇りの、どんよりした天気だったが、樹の記憶では、その時、海はしみひとつない碧だった。死にたい、と願った少年の願望が色彩感覚を澄明にしたのだろうか。それとも殺意よりも忌まわしい残虐な幻影で母と姉を犯した射精の罪深さを際立てるために、彼の記憶は海を美化したのだろうか?
 樹は呻いて寝返りを打った。ごみだらけの床の、なにかの屑が彼の背中に食い込み、しばらく前から樹はその不快な痛みを小銭のように隠し持っていた。そのちいさな苦痛が、この出口のない、混沌とした場所から、彼をどこかに、何かにつなぎとめてくれるのではないかと。横を向くと冴の膝小僧が彼のこめかみを圧迫したが、過去の苦痛に我を忘れて
いた樹は、その女の感触にふたたび火種をかきたてられた。
 冴は目を閉じ、眉間にきつい皺を寄せて小刻みに呼吸している。傾きはじめた陽射しが彼女の剥きだしの顔を照らし始めると、苦悶に満ちた影が、皺が、乾いてこびりつき、しろい流れとなった涙の筋が油のように浮きあがる。その顔はもはやウラジーミルに似てはいず、累のおもかげもない。
「冴」
 樹は呼んだ。はっきりと意味を持ち、その背後にはかり知れぬ情念の痛みをこめて弟は姉を呼ぶ。
 冴は薄く目をあけた。げっそりと窶れた下瞼の曲線が、嵐のあとの海岸のように荒廃してたるんでいたが、この一時的なすさみは彼女の美しさの陰画であり、媒剤に洗われてじわじわと浮かびあがる画像の魅力をプレイマジナーレさせる。
 樹はゆっくりと腕を伸ばす。微速度撮影の植物の芽吹きのように、おごそかに、ゆるぎない沈黙のなかで腕は伸び、指がひらく。
 掌の双葉に包みこまれた冴は、なすがままにゆっくりとかがみこみ、弟の額に唇を押し当てた。くちびるは、山脈を旅するように樹の顔をたどり、自分と相似形のそれを見出す。女の性の雛形、男には畏怖と惑溺のふたひらが、こざかしい言葉の虚飾を捨て去り、また結び合う。
 許しなど樹は考えもしなかった。心の傷は癒えることなどない。ただ時間が降り積もり、それを押し隠してゆくだけだ。記憶はいつだってぱっくりと口を開け、彼を罠にかけようと舌なめずりする。
 前進する、怒涛のように前へ向かって進む意志だけが彼を生かしてきた。許すことなどできはしない。できないが、俺はこの裏切りによって、いっそう冴を愛するだろう、と樹は歯を食いしばる。殺意、それは一瞬のうちに翻転する貪欲な生の意志だった。
 が、冴の乳房が自分の腹の上におしつけられたとき、彼は姉のしなやかな鞣し皮のような皮膚とは異なる感触を味わったのだった。薄い、どこまでも柔らかい、みどりいろと薔薇いろが静脈のはざまで揺れる肉を。
 青年は狼狽して姉を抱いた。濃厚なカルメンの匂いがする髪を鼻に押し付けると、あわあわとした惑いは退いたが、にもかかわらず、可能態の物語は、ひそやかに樹の奥底で発芽しかけていた。

 BELLO COMO La LUCE
  A ME DACCANTO
IL SEGRET AMOR MIO
VEGGO TALOR ……
 
 朱鷺の歌声はそこで途切れてしまう。その先は記憶がふつっと切れて、昔聴いたソプラノの余韻だけがいつまでも心に響く。歌の文句は思い出せないが、磨かれた声の残響、それを耳にした時のあまやかな感じが、髪に結ぶには短すぎるリボンを手にしたときと同じような、もどかしさと嬉しさで心に揺れた。
 舵はゆっくり歩く大人たちに歩調を合わせるのに苦労する。こどもは無限のエネルギーを持っている。舵は、蘭と朱鷺の周囲をつかず離れず、ときどき、自分の勢いにまかせ、流木や藻屑の奇妙なかたちをしたのや、貝殻の変わったものを目がけて走ってゆき、それをつかんでまた戻る。走りかたは、こどもっぽくて不恰好だが、力強い。
 この子は貝や枯れ木が珍しくて走るのではなく、大人たちと一緒では発散しきれない熱量を消費するために駆け回る。そうして、ある一定の範囲を保って行きつ戻りつする少年の動きは、彼のしっかりした空間認識と、堅固な自尊心をほのめかすようだ。野性の幼獣と同じ用心深さ。母親のちぐはぐな警戒心は、この子には優性に伝わったのかもしれない、と朱鷺は舵をたのもしく眺める。
 蘭は丹念に焼き芋の皮を剥き、焦げたところや崩れた部分を取り除くと、ほくほくした柔らかいところだけを口につまみ入れる。蘭は淡白な味と優しい舌触りを好み、それは彼の色彩感覚と軌を一にしていた。
「その歌なあに」
 駆け戻ってきた舵は、ぽちゃぽちゃした頬を紅潮させ、片手に大きな天然軽石を握りしめ、もう一方の手には尖った巻貝のかけらを掴んでいる。汗ばんで赤ん坊じみた匂いが、言葉よりも雄弁に興奮を訴える。面白いよ、見て、この変なかたち……!
「昔の歌」
「聴いたことない」
「歌詞を忘れてしまったの」
 言葉なんていらないさ、と蘭は呟き、訓練されたベル・カントで歌い始めた。ラ、というたったひとつの音が奏でる抒情に、朱鷺と舵は魅せられる。やがて舵がつられて歌いはじめる。幼い声だが、音程は正しい。
 ほう、と蘭は目を剥く。
「おっかさんがソルフェージュでもしているのかね?」
 ううん、と舵はかぶりを振る。こどもの横顔を複雑な屈折がかすめ、それははっきりした羞恥の色となって舵を濁らせた。
 僕は音楽の才能がないって。
 蘭は、ちらりと朱鷺を見る。彼女はこどもの疼きを我がことのように感じる。母親はしばしば、自分に担いきれない影をこどもにおしつけてしまう。
 蘭は舵の手をとった。こどもの手はまだ小さいが、厚みがあって指もしっかりしている。
「ヴィオリノを奏け」
 珍しく蘭が相手の、舵の眼を見て言う。
 舵は射すくめられ、不安げな顔をした。
 方向を決断できない困惑。しかし蘭のそっけない口調にひそむ漠然とした暖かさは舵に伝わり、こどもの顔色もゆっくり暖まってゆく。
「学校に行かなくてもいい?」
「そんな取引はできない」
 蘭はたちまち不機嫌に鼻に皺を寄せたが、舵の心に灯った明かりは消えない。
 朱鷺はそんな二人から離れ、夕陽が舐めるようにオレンジいろに染めあげる海を見やった。太陽から遠い上空は、余りになめらかな海の反映のためにあざやかな青に暮れなずむ。
雲海からひきちぎれた雲が、びょうびょうと吹く風に乗って流れていた。沖合いに浮かぶ帆影がいかにも頼りなく、その浮舟の姿に自分と冴のなりゆきを想う。
 このまま遠ざかってしまうとしても、しようがない関係だった。ひきとめることなどできはしない。けれども、朱鷺だけが感じ取れ、またかき鳴らすことができる琴線もある。
 女たちの結びつきが、男女のそれに比べてゆるやか、ということはなかった。生殖を超えた官能が人類を野獣から進化させた動機なら、同性愛はきわめて抽象的なエロス、無、という究極の認識に至るエロティシズムではないのか?
 では樹は?
 あれほど無雑なまなざしを朱鷺は見たことがない。光るようにはりつめた絃のような。あの子にとって冴を愛することは、ひそかな死への願望かも知れない。混沌とした生に向かうには、あの瞳はあまりに潔く、揺らぎがなさすぎる、気がする。
「おい、どうした」
 いつのまにか蘭と舵は岬の突端にたどりついている。オレンジの鮮やかな残照に二人の影は青々と長い。蘭が手を振ると青い影は岩のくぼみに溜まった夕陽をからめとる網のように揺らめいた。
 我に却って駆け出し、蘭の影に踏み込む朱鷺の心は、しかし別なほうを向いていた。

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