さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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どこにでも扉

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   どこにでも扉

 クワバラさんは、いくらか嫌われ者みたいでした。有料老人ホーム「やすらぎ」の定員二十人の入居者さんの中でも二番目か三番目に年長者で、九十三歳の高齢のクワバラさん。この施設があたらしく出来てすぐに入居した古株です。
 嫌われている、と言ってはクワバラさんに対して失礼で、過度かもしれません。介護する職員の手にあまる粗暴なふるまいが頻繁にあり、認知症もかなり進んでいて、幻覚や幻視、幻聴もしょっちゅう。車椅子とベッドを職員の全介助で往復する日々です。
 こう書くと、クワバラさんは、さぞ老衰して、弱々しいひとのようですが、じつはその逆です。九十を超えたひととも思えないほど黒々としてたくさんある髪は、その一本ずつの芯がしっかりと太くて、中年女性の若さを残しています。お肌は、さすがに皺に埋もれてしまったけれど、よく見ると彫りのしっかりとした目鼻だちも上品で、若いころは凛々しいような麗人顔だったかもしれません。大正生まれにしては体格もよく、手足長く、骨太で、しかもかなりの長身です。
 高齢になって失見当するまでは、クワバラさんは陽気な、気の強い、わがままな反面、情のこまやかな女性だったそうです。
 認知症が進むにつれ、性格がひずんでしまい、腹をたてて気に入らない職員をぶったり、理由もなく唾を吐きちらしたりするのですが、一過性の混乱がおさまると、とても無邪気な笑顔を浮かべ、心許した相手には、まるで少女のように甘えたりする愛嬌あるひとなのでした。
 体格がりっぱなだけあって、食欲もなかなか旺盛でした。ただ、箸やスプーンなどはほとんど使えず、手づかみです。機嫌がわるかったり、失調していると、なかなか食べようとはしないのです。
「クワバラさん。朝ごはんデスヨ。」
「ヤダ」
「そんなこと言わないで。ほら、巣籠りたまご、おいしそう。きれいに作ってありますよ」
「アンタ、ジキニウソツクカラネ」
「うそじゃないですよ」
「ブス」
「……はいはい」 
「アンタミタイナノハ、ヤダヨ」
「まあ、そうおっしゃらずに。お口あけてくださいますか?」                 
「オトウサマガネ、オイシイオショクジヲヨウイシテルンダ」
「はい。牛乳一口だけでも召し上がってくださいな」
 午前八時「やすらぎ」の朝食時間。リビング兼食堂では、入居者さん十人が、いっせいに朝ごはんを召し上がります。今朝の献立は、青菜のポットに包まれた巣籠り卵、大根おろし、やわらかめに叩いたきんぴらごぼう、お味噌汁、ご飯、それにヨーグルト、という和食でした。  
職員のメダカちゃんこと亀田紀子さんは、根気よく朝ごはんをクワバラさんにすすめます。メダカちゃんというニックネームをもらうだけあって、亀田さんは小柄な女性でした。年齢はもう四十過ぎ。一昨年離婚して、女手ひとつでふたりのこどもを育てています。施設勤務は身心ともに重労働なのですが、メダカちゃんは小太りの丸顔に笑顔を絶やさず、きびきびと手際よく仕事をこなす働き者なのでした。
 トロミをつけ、適温にあたためた牛乳をスプーンで口元にさしだす、メダカちゃんの手首を、クワバラさんはいきなりむんずとつかんで、叫びました。、
「アソコニアカイ扉ガアルヨ」
「扉ですね。そこにあるんですね」  
「トビラダヨ。アソコニツレテッテヨ」
「朝ごはん食べたら行きましょうね」
 すごい力だなあ、とメダカちゃんは、つかまれた手首を、なんとかふりほどこうとしながら、クワバラクワバラ……クワバラさんが扉が扉がと騒ぎ出すときは嵐の前触れ、あぶないなーと思ったりします。
 案の定、クワバラさんは、みるみるまなじりをつりあげ、メダカちゃんめがけ、ぺっと唾を吐き、それだけでは腹立ちがおさまらないとばかりにいきなり、ガタン、と車椅子からたちあがりかけ、もちろん足腰は立たたないから、ぐずぐずと上半身だけ食器をならべたテーブルに前のめりに倒れそうになりました。
 わっ、と周囲の入居者さんは動揺しました。
「あー、だいじょうぶですよ」
 そこは先読みのベテランメダカちゃんは、クワバラさんの唾攻撃を、ひょいと小太りな体つきに似合わない機敏さでかわし、かわすと同時に、食器を置いたプラスティックのランチョンマットをスプーンを握ったままの片手で、クワバラさんのリーチ可動圏外のむこうがわへとぐいっとおしやり、もう片方の手で、憤激してたちあがろうとするクワバラさんの背中側のズボンのゴムをうしろにひっぱって、車椅子に彼女の重心をコントロールしながら無事着地させるというファインプレーで、ことなきを得ました。
誤解のないように申し上げますと、体重や姿勢を支えるために、高齢者さんのズボンのゴムをひっぱる、などは、正規の介護技術として、じっさい誉められたことではないのですが、やむをえない非常時にはなによりも安全優先で、現場ではやむをえない事態、というのは、かなりしょっちゅうあるのでした。
「まー、よかったわねえ」
 と入居者さんたちは、ほっとしてさんざめきました。  
クワバラさんは、まだぷんぷんしていて、車椅子の足踏み台から両足をはずし、ブレーキがかかっているにもかかわらず、床をしきりに蹴って、鼻息あらく、車椅子ごとどこかへ駆け出してしまいそうなせっぱつまった顔つきです。
(○○かな)
 と、メダカちゃんは、また先読みします。クワバラさんが、こんなふうに焦れるのは、たぶんおなかが苦しいからなのです。おむつはあててありますが、プライドの高いクワバラさんは、大きいほうのときには、ちゃんとトイレで済ませたがるのでした。認知症が進むにつれ、わけがわからなくなってしまう便意の兆す感覚も、まだクワバラさんにはちゃんとあり、ただ言葉でうまく表現できなくなっていて、いつもそうとはかぎりませんが、怒ったり、乱暴な行為をしてしまうらしいのでした。
「スイマセン、ちょっとクワバラさん、お部屋へおつれしたいんですが、その間、ここひとりで見ていてくれる?」
 とメダカちゃんは、早朝勤務の相棒に声をかけてから、クワバラさんの個室に入り、やっこらせ、と自分よりずっと大きいクワバラさんの体を、梃子の原理を用いて上手に便座へ移し、クワバラさんをすっきりさせてあげたのでした。だいじなことを済ませてしまうと、クワバラさんはにっこりと、天真爛漫な笑顔になりました。そうして、こんなふうに職員が自分の不愉快をわかってくれて、助けてくれた、とわかるクワバラさんは、その職員に、きちんと
「アリガトウ」
 とお礼を言うひとなのでした。

 介護福祉士のメダカちゃんは、酒癖のわるい御主人と離婚したあと「やすらぎ」から歩いて十分ほどの実家に戻り、お母さんとこども二人の、四人で暮らしています。
 メダカちゃんのお母さんは七十二歳で、自宅で小さな雑貨屋を営み、メダカちゃんの三十年後そのものズバリ、年をとってもあんまり皺の出ないつやつやした丸顔で、ころころと良く笑う楽天的で気さくなおばさんです。
 こどもたちは、上から中学二年の和子ちゃん、四つ離れて小学生の誠くん。ふたりともお母さん思いのよい子ですが、長女の和子ちゃんは、多感な時期に両親のすったもんだやつかみあいの大喧嘩をまともに見て育ったせいか、すこし内向的で、思ったことを周囲になかなかうまく伝えられない、という性格でした。でも、その分、和子ちゃんは、重労働で疲れるお母さんと、雑貨店のきりもりでいそがしいおばあちゃんのかわりに、弟の面倒をよく見るし、ごはんのしたくなども、進んでやってくれるのでした。  
「ただいまあ」  
「おかえりなさい」
 日勤から戻ったメダカちゃんが、玄関の引戸をがらりと開けるなり、台所から、トマトソースでお肉を煮込むいい匂いが漂ってきました。
「ラッキー、今夜はハヤシライスだね」
「はずれ。ビーフストロガノフです!」
 と誠くんが居間から大声で訂正します。
「ビーフ? でもこれポークの匂いだよ」
「半分くらいは牛肉使ってるよね、お姉ちゃん」
「ざんねん、豚100パーセント」
「それじゃやっぱりハヤシライスだ」
 エプロンかけた和子ちゃんが、おたまをにぎったまま、台所から出てきました。誠くんは、居間でテレビを見ながら宿題をすませています。メダカちゃんは上着を脱ぎながら
「テレビか宿題か、どっちかにしたら?」
「んじゃテレビ」
 と誠くんはあっさり教科書を閉じてしまいましたが、画面を見るでもなく、たたみにごろんと横になって、帰ってきたメダカちゃんにうれしそうに話しかけます。
「おかあちゃん、今日学校で作文書いた」 
「どんな?」
「将来の夢」
「へー。なに書いたの?」
「将来なりたいものは何かって」
「マコトは何になりたい? 宇宙飛行士」
「それは、ガキのころで、今はちがいます」
 横からカズコちゃんが口をはさみました。
「今だってガキよ」
「違うよ、俺もう少年だもん」
「少年とガキとどうちがうの」
 とカズコちゃん。
「少年には、ココロザシがあるんだって」
 ええーと、メダカちゃんは、塩せんべいをかじりかけて仰向けにひっくりかえりました。
「ココロザシい?」
「そ。タイシ」
「体脂肪率」
「ざけんなよ。俺、まじめだぜ」
 マコトくんはカズコちゃんをにらみつけました。カズコちゃんはにかっと笑って、舌を出しました。
「ゴメン。じゃ、まじめに聞く」
「フン」
 マコトくんはへそを曲げて口をとがらせ黙ってしまいました。
「ゴメン、おかあちゃんもあやまる。教えて教えて」
「俺、医者になりたい」
 おお、とカズコちゃんは拍手しました。
「マジで? すごい夢。宇宙飛行士よりジツゲン可能な難攻不落」
「難関って言ってよ」
「同じだってば。でもまた何で」
 メダカちゃんは、自分によく似た息子の童顔をまじまじと見つめて尋ねました。
「理由はねえ……」
 マコトはちょっと上目づかいにメダカちゃんを見あげて、
「まともな医者がすくないって、おかあちゃんが歎くから、かな」
 メダカちゃんは、口のなかのお煎餅を、音をたててごっくんと飲み込みました。
「あんたがりっぱなお医者になってくれたら、ほんとにありがたいけど」
 医者かあ、とメダカちゃんの頭のなかで、電卓がすばやくちかちかと、予想学費の数字をはじきだしました。
……モト旦那がイシャリョウ払ってくれても、うちの家計じゃイシャには遠い…。これからおばあちゃんの介護費用もかかるし……。
「おかあちゃん、うれしくないの?」
「そんなことない」
「マコト、もっと勉強しなくちゃだめよ」
「わかってるよ」
「うちには塾に通わせるお金なんかないからね」
 と長女のカズコちゃんは、ぴしぴしと遠慮なく弟に言葉を投げつけます。
「わかってるよ。ぜんぶ公立で行く」
「マジ」
「モチ。めざせ東大」
 ぶっ、とカズコちゃんはおおげさに噴出しました。
「がんばれ、弟」
「ところで、姉ちゃんは将来何になりたいの」
「あんたがお医者なら、あたしは看護師になろうかな」
「それ、いい加減すぎ」
「そうでもない。保育士もいいかも」
「お姉ちゃん、成績いいくせに。ほんとはなんだよ」
「ないしょ」
「ずるい。俺ばっかり言わせて」
「なんで? あたしはまだ具体的にまとまっていないんだ」
「おかあちゃん、ごはんの前にお風呂に入るからね」
 と、姉と弟のやりとりの途中でメダカちゃんはたちあがりました。
 カズコ、かわいそうだなあ、とメダカちゃんは内心ほろほろしました。無邪気にお医者になりたいと言うマコトくんとはちがって、もうずいぶん大人の修羅場を見てしまったカズコちゃんは、家計のありさまをわかっていて、気をつかったのでしょう。
 ほそぼそとはいえ自営業の実家があり、おばあちゃんが元気に働いているメダカちゃんは、普通に暮らしてゆけるだけ、母子家庭の介護従事者にしては恵まれていました。酒乱を理由に離婚した夫は、養育費のびた一文もよこさないかわりに、親権をめぐって争う騒ぎもなく、きれいさっぱりと音信不通が、かえってありがたく、メダカちゃんも仕事と子育てに日々追われ、さびしさを感じる風の吹き入る隙間もありません。
 とはいえ、こども二人を育て上げるには、いろいろ節約しなくてはならず、そんなメダカママの隠れた苦労を、カズコちゃんは、理解できるのでした。
(カズコは四大出してやりたいけれどねえ)
 あんまりガリガリ勉強するタチではないのに優等生のカズコちゃん。メダカママには似ない色白すらりと手足が伸びた細面は誰に似たのか、なかなかの器量よしでもありました。
「翻訳やりたいって、言ってたっけ」
 まる一日働きづめ勤務のあとのお風呂。メダカちゃんは大好きなラベンダーの入浴剤をたくさんいれて、ざぶざぶと顔を洗います。
「翻訳ってことは、外国語を専門にするってことだから、留学とか必要なんだろうなあ」
 こどもたちそれぞれ、良い子で幸せ、でもいっぽうで、片親家庭の母親として胸痛むメダカちゃんでもありました。

 朝勤、日勤、遅出、それから夜勤と、「やすらぎ」のメダカちゃん勤務シフトは、まずまず順調にまわっていました。ターミナルにさしかかった入居者さん数人いて、昼間はナースがいるから心配ないけれど、夜勤では職員対応となります。
 入居者さんの御臨終はさまざまで、御家族の希望と御本人の容態によって、病院へ運ばれたり、また施設で息をひきとる方もいらっしゃいます。
 重態で、高度な医療看護が必要でないなら、慣れ親しんだ「やすらぎ」で、と願う入居者さんがほとんどでした。
 クワバラさんは、この五月にめでたく九十三歳の誕生日を迎え、当日は息子さんとお孫さん、曾孫さんがお祝いにやってきて、クワバラさんの居室でケーキを食べたそうです。
 その日、メダカちゃんはお休みをいただいていたので、状況は人づてにしかわからないのですが、バースデーケーキを、息子さんの介添えで頬ばったクワバラさんは、たぶんパウンドケーキのかけらを喉につまらせて咳き込み、悶絶してしまいました。ただちにナースがかけつけ、ハイムリック法やら何やら、ありったけの適切な応急処置を済ませた後で、救急車で市民病院にかつぎこまれ、数時間後には、けろりとしてタクシーで戻ってきたそうです。
 この節、病院はどこも手いっぱい。ちょっとやそっとでは入院させてもらえません。クワバラさんも、白目を剥いてひっくりかえったわりには、威勢よく復活し、嚥下障害を懸念して、特別注文した刻み食の晩ごはんも、皿のすみずみまで舐めまわす食欲で、全部召し上がりました。
 しかし、夜になると、クワバラさんはご自分の臨死体験が思い出されるのか、ひどく不穏におなりでした。
「コロサレルヨー。コロサレルヨー。ヒトゴロシ。オトウサマタスケテタスケテ」
「マッカナ扉ガアルンダヨー、ソコニアルノ。ヤッテクルカラネー」
「誰が来るんですか、クワバラさん?」
「オニガクル」
「鬼なんか来ませんよ。大丈夫」
「アンタコロサレルヨ。バカナヤツ」
「大丈夫です。心配しないで。ちょっとオシモの交換をさせてくださいね」
「ウルサイネ。トンデモナイヤツダ、アンタ」
 コノブレイモノ、ぼかん、とクワバラさんの握りこぶしが飛んできて職員の頬に当りました。
「ひゃあ、いたい」
 と殴られた職員は大げさに顔をしかめます。クワバラさんは邪険にされると、ますます怒って反抗的になり、おむつを替えようとする職員の手につめをたてたり、両足をじたばたさせて手こずらせるのでした。
「いやねえ。クワバラさん。このごろまた荒れ模様よ」
連日、職員事務室では、クワバラさんの不穏ばなしです。
「とにかく力があるから、暴れだすと、もうたいへん」
「病院へ運ばれたのがショックだったのよ」
「ご家族は付き添ったの?」
「息子さんだけ」
「およめさんは来なかったんですってね、お祝いに」
「仲がわるいからねえ。嫁姑のカクシツっていうの。ここに入居されたのも、クワバラさんの介護をおよめさんがいやだって」
「よくある話じゃない」
「孫嫁さんは来たんでしょ」
「何にも知らないから。いっしょにくらしたこともないみたいだし」
 クワバラさんの居室には、入居当時の、今よりもずっと若くて髪の黒々とした、感情の確かな笑顔のクワバラさんと、そのご家族が、「やすらぎ」の応接室で撮影した写真がありましたが、そこにもおよめさんは入っていませんでした。クワバラさんの息子さんは、システムエンジニアだそうで、眉のきりっとした母親似の長身で、今も背筋のぴんと伸びた素敵な男性でした。美術館のキュレーター権イベントプランナーという不思議な職業のお孫さんはイマドキ茶髪のイケメン。その孫のおよめさんも、ご主人にふさわしく、メイクばっちり女優肌。アイドルっぽい美人です。何枚も何枚も、見るからに裕福そうなご家族の写真に、息子さんの妻はひとつも写っていないのでした。
「全部、いいってことは、まあないのよね」
 とメダカちゃんは、ルーティンワークでお掃除に入ったクワバラさんの居室で、その壁にかざられた美男美女を眺めて思うのでした。入居者さんの個室は、お風呂はついていないものの、壁紙から家具のいっさいがっさい、ご本人とご家族の希望するインテリアが入り、レイアウトも自由です。
 クワバラさんのお部屋は、本人よりは息子さんが揃えたのでしょうが、女性らしい優しいクリーム色の壁紙が張られ、深紅色の遮光カーテン、その下にはフリルレースの薄手のカーテン。部屋の片一方には電動式介護ベッドのほかには、クワバラさんは一度も使ったことなどないかもしれない薄型テレビ、デッキ、使い慣れた古風な桐の箪笥、鎌倉彫の小引き出し。それに、長鏡の立つ漆塗りのアンティークな化粧台。誰かのプレゼントらしいガラスケースに入った薔薇のプリザーブドフラワー。亡くなられた御主人の位牌と遺影のおさめられた、高さ五十センチほどの簡易サイズのお仏壇は黒檀で、埃が積もるのを嫌ってか、観音開きの扉はいつもぴったり閉まっていました。むかし、きっとクワバラさんがお化粧に使った古風な鏡台には、華やかな紫地に宝尽くしの友禅小紋の縮緬がかかっていて、全体としていかにも旧家の、由緒ありげな雰囲気でした。
 それぞれ高価に違いない調度の埃をハタキで落とし、床に掃除機をかけながら、メダカちゃんはちょっとさびしい気もしました。誰かと自分の境遇をくらべて、しめっぽい気持ちになるなんて、メダカちゃんのまっすぐな気性には合いませんでしたが、今後間もなく秀才になるかもしれない息子と、げんに優秀な娘を思うと、ほんのすこしぐらい、しゅんとしてしまうのでした。こどもたちの望む学校に行かせてやりたいけれど、ね。
「お金オカネってやだけど、さ」
 と、かしこいメダカちゃんは、そこらへんで愚痴っぽい考えを追い出し、都合よく鳴りだした別な入居者さんの呼び出しコールに応えて、ころんとした固太りの両腕をわっせわっせと振って、そっちへ駆けてゆくのでした。

 あくる日は夜勤でした。ちょうどクワバラさんのいるフロアづとめです。
「ひさしぶりで三階入るなあ。クワバラさん、どう?」
「低気圧。よくて前線」
「それくらいじゃ悪くないわ」
「あいかわらず機嫌わるくて、暴言多発、唾吐き連発よ」
「食事量は?」
「彼女は相手を見分けるからね。昼間は、若手の見慣れない子がおそるおそる介助したら、手から食器をたたき落としたって」
「…すご……」
「メダカちゃんなら大丈夫じゃない」
「だといいけれど」
 お夕飯のメインディッシュはロースカツにキャベツの千切り添え、人参の甘煮にグリーアスパラのサラダ、お味噌汁、ご飯……。
 お昼ごはんをあまり食べられなかったクワバラさんは、そのせいもあって、お夕食はぱくぱくと進んで召し上がりました。職員の介助も不要なぐらい、自分から積極的に手を出し、カツの油とソースで口のまわりをべとべとにしながら、とてもうれしそうです。人参の甘煮、サラダ、と手当たり次第につかんであっというまに食べきってしまい、最後に食卓に残ったごはんとお味噌汁だけは、職員が介助します。メダカちゃんの食介ではなかったけれど、クワバラさんの晩ごはんは難なくおわりました。
「オショクジハ?」
「たった今、全部召し上がりましたよ」
「オワッター?」
「はい」
「アンタ、アタマイイネ、オネエサマ」
「ありがとうございます」
「オカアサマトオトウサマガゴホウビクダサルンダッテオネエサマ」
「うれしいですう」
 機嫌の悪くないとき、クワバラさんは、ときにはこんなふうに職員を誉めてくれたりします。フロア勤務の相方は、メダカちゃんに目配せして、にやっと笑いました。
「今夜はババアじゃなくてオネエサマ」
「このままストレートに行ってくれると楽だなあ」
「イケるんじゃない。今夜はいい感じ」
「クワバラさんのおなかの調子はどう?」
「ちょっとゆるめ」
「え? 昼ごはんあんまり食べなかったんでしょ。なのに下剤ぬいてなかったよ」
「便秘すると、彼女荒れるからね」
 ……。
 夜勤は、各フロアに職員ひとりずつの泊まりこみでした。食事の後、就寝準備のナイトケアがあり、入居者さんそれぞれ、昼のお洋服から、パジャマに着替えます。必要な方は夜用オムツへ交換を済ませ、このときまで、クワバラさんは上機嫌でした。
「オジョウサマ、ソコニトビラガミエル」
「オジョウサマってあたしのことですか?」
 とメダカちゃんは、手際よくクワバラさんの汚れを清め、ぱっぱっとオムツのマジックテープをとめました。所用時間五分、漏れなしカンペキ。
「ソウヨ。オネエサマ。扉ハイクツモアッテネ」 
(もしかして、あぶない? でもご機嫌なんだけど)
「いくつもあるんですか? 扉」
「イチ、ニイ、サン……」
 四、五、六…とゆっくり大声で数えてクワバラさんは突然大あくびしました。
「ずいぶんたくさん見えるのね、クワバラさん」
「タクサンアル…」
 言いながらクワバラさんは、もう眠りかけていました。
 あんぐりと口をあけて、早くも高いびきのクワバラさんの寝顔をみつめて、ラッキー、とつぶやいたメダカちゃんでした…が。

コロサレルヨー、ヒトゴロシ、オニ、アクマ、クソッタレ…
 深夜0時すこし前。最初の見回りの寸前に騒ぎ出したクワバラさんの大声に、メダカちゃんは肩をすくめました。
 やっぱり、始まった。
 このフロアの入居者さんはほぼ全員お耳が遠くて、こういうときは助かります。クワバラさんはふつうでもかなり声が大きいのですが、不穏になると、きっちり閉めた個室のドアを突き抜けてリビングまで彼女のヒステリックな叫び声は聞こえてきます。
「はいはい、クワバラさん、だいじょうぶですよ、鬼なんか来ませんよ」
 とメダカちゃんはおおらかな笑顔で、ベッドのクワバラさんに話しかけました。
「こわくないです。メダカです。おなかのぐあい、悪いの?」           
 匂うな、とメダカちゃんはオシモの気配を察します。昼がほぼヌキで、夜にめいっぱい詰め込んだせいで、おなかこわれたかな?
 ひいひい、とクワバラさんはベッドの転落防止用サイドレールにつかまって、上半身を持ち上げ、こわい顔でメダカちゃんをにらみました。
「ヤダ」
「ごめんね、でもオムツ交換しなくちゃいけないみたいです」
「ヤダ、ヨルナ、イタイ」
「痛くしませんからね、大丈夫ですからね」
 と、やさしくなだめつつクワバラさんの膝を持ち上げかけたメダカちゃんに、クワバラさんは、いきなり、ガツン、と蹴りを入れました。
 わっ、と避けるひまもあらばこそ、全介助とはいえ、骨格しっかりとしたクワバラさんの膝小僧で、もろにアッパーカットを喰らったメダカちゃん、目から火花、そのまま床に尻餅つくぐらい痛かった。
「イタイヨー」
「痛いです、あたしも」
 痛いのはあたしだよ、クワバラさん、とメダカちゃんは、衝撃で自分の顎が外れるんじゃないかと思ったくらいでした。これだから油断大敵雨アラレ…。やっぱり扉がひらいたよ。でも仕事優先。とにかく落ち着け。クワバラさんに怪我ナシ。あー下痢だ。蹴り喰らって下痢の始末。まあ、こういうときもあるよね。うわ、すご。これじゃ騒ぐのも無理ない、とにかく陰部洗浄しなくちゃ。
「あばれないで、クワバラさん」
 オッケー、オッケー。
 メダカちゃんは、しんどいときにはいつも、こんなふうに自分に言い聞かせるのでした。オッケー、なんとかなるよ。
「苦しいんだよね、クワバラさん?」 
 と真顔でクワバラさんの眼を覗きこむと、眉をきつく寄せたクワバラさんの瞳はうるんでいて、その向こう側に、ちゃんとクワバラさんの心があるのが、なんとなくメダカちゃんには感じ取れました。すっかり失見当してるわけじゃないな、とメダカちゃんは、オムツをあてなおしたあと、ゴム手袋をはずして自分の両手をきれいにあらったあとで、そっとクワバラさんの両頬を撫でてあげました。
 メダカちゃんが心をこめてそうしてあげると、不穏なクワバラさんも、たいてい落ち着くのでした。みんながメダカちゃんのようにしているのかは、わかりません。でも、興奮し、総入れ歯を剥き出しに顔を歪めているようなときでも、メダカちゃんは、怖気づいたり、嫌がったりするのではなく、クワバラさんを優しい声と言葉で包み込もうとするのでした。そうして、いつもうまくいくとはかぎらないけれど、メダカちゃんの情愛は、クワバラさんにちゃんと伝わっているようなのでした。
 うりざね顔に中高のクワバラさん。すっきりとおった美形の鼻筋がひくっとけいれんしたか、と思うと、ぽろっと涙がひとすじ頬をながれました。
「あれー。クワバラさんが泣いた?」    
 おどろくメダカちゃん。気位たかい、大オジョウサマのクワバラさんの涙なんて、職員の誰も見たことがない。ほんとかな?
「クワバラさん、だいじょうぶ?」
 泣いたカラスはもう眠い。蹴りの痛みは消えないけれど、こちらの下痢は一過性。出すものを出して、身も心もかるくなったのか、がくんとクワバラさんは枕に頭を落として寝入ってしまいました。こういう急変も、認知症の方にはよくあること、メダカちゃんは、まだじんじんする自分の顎を撫でながら、
「これであたしも仮眠できるかも」

 メダカちゃん、メダカちゃん、とやわらかく呼びかけられてウシミツドキ。
 顎の痛みもうすらいだみたい、とねぼけまなこのメダカちゃんは、いやいや仮眠ベッドからおきあがりました。
「サトウさん? 何か緊急…?」
 別フロアの夜勤職員かと勘違いして、瞼より先に返事しかけたメダカちゃんは、まばたきして声をのみこみました。
 簡易ベッドのまむかいにソファ。それは昼間には入居者さんたちがリビングでくつろぐための長椅子。ふわりと座り、両手を揃えて膝におき、背筋ただしくそのまま優雅に会釈したのは、見覚えのある紫友禅の宝尽くしあでやかなお振袖。
「さきほどはごめんなさい」
「え、ええ?」   
 驚きのあまり口をあけたメダカちゃん。顎の打撲か、こめかみに激痛。いっきに眼が覚めました。眼が覚めきったのに、眼の前の美少女は消えない。ということは夢じゃない。
「痛いでしょうね、失礼しました」
 と帯と帯揚げ胸たかだかと結んだ少女は、困ったような顔つきでした。年のころは十七、八。前髪をあげて、うしろでひとつ束ねに赤いリボンを結び、背中にぱらりとたらした黒髪、まるでテレビドラマの主人公みたい。
「あの、あなた、どなた」
「いつもメダカちゃんにお世話になっております。桑原美紗緒です」
 メダカちゃんは、目をシロクロさせました。
何がなんだかよくわからないクワバラクワバラ…。
「桑原美紗緒って、クワバラさん?」
「フルネームで申し上げると、同一人物とは思えませんよね」
 ほほ、と美紗緒さんは白い手で口元を覆って笑い、ちらりと横目でメダカちゃんの動揺をおもしろがるように眺めながら、
「わたし、クワバラミサオ、生霊です」 
「イキリョウ?」
「ええ。もっと正確に言うなら、メダカちゃんにお世話になっているクワバラさんの、あの世の姿」
「なんですか、それ」
「ここで暮らしているクワバラさん、認知症ですっかり《私》を忘れてます。でも彼女が、失ってしまった人生の大部分は、私だったのよ。認知症は、この世からあの世へ渡る前の一時的な変化。そしてあちらがわでは、私はまた私に戻って、こんな姿になれるの」
「はあ」
 わかるようなわからないような……。
「クワバラさんは、まだ生きていらっしゃいますよ」
「だから生霊です。今夜、彼女はうっかりあなたに悪いことをしたわ。私、あなたがお気の毒で、申し訳なくて、謝罪したかったの」
「お気になさらず」
「いいえ。じつはね、彼女はもう半ば、あの世へ行きかけているの。でも、この世にいくつか残す思いがあって、それをどうにかしたいんです。じっさいには何をどうしたいのか、彼女の知性では、もう認識できないのですが、死が近いために、その執念が凝り固まって、今お眼にかかれるようなミサオの姿になっておりますの。生霊って、ひらたく申し上げると執念の凝縮みたいな面もありますから」
「えー。怖い」
 メダカちゃんはぞっと鳥肌をたてました。
「おそろしいばかりでもありません。今幽体離脱して美紗緒が現れたのは、あなたに済まない、ゴメンナサイ、という一念ゆえですからね」
 とミサオさんは涼しい顔でぬけぬけと言うのでした。ほんとうに、こうやって真向かいに見慣れてくると、すべすべした広い額からちょっととがり気味にほそくなってゆく顔の輪郭、女性にしてはきりりと強い眉、まっすぐな鼻筋、一筆書きのカモメを飛ばしたようにかたちよくうねる上唇といい、まぎれもないクワバラさんのものでした。
 クワバラさん、若いころはきっと美人だったろう、と思ってはいたけれど、ほんとにきれい、とメダカちゃんはほれぼれとミサオさんを見つめました。 
「仕方ないですよ。介護やってればこういうことは、しょっちゅう…でもないけれど、ええと、つきものですし。クワバラさんだけ特に問題があるわけじゃないですから」
「でもね、メダカさん、あなたの顎の打撲、ちょっとひどくて、万が一関節症にでもなったらたいへん。明日には青あざになってますよ。だからね、今夜は湯治にでもまいりませんか?」
「トウジ?」
「温泉療法です」
 メダカちゃんはまた眼をむいた。ミサオさんは切れ長な目を品よく細め、たのしそうに、
「ゆっくりお風呂に入りませんか」
「あたし、勤務中なんだけど」
「ご心配なく。実体はここに残してゆきます。メダカさんもあたしと同じように幽体離脱すれば、行きたいところに瞬間移動できます」
「そんな器用なこと!」
「あたしといっしょならできますわ」
「あたし高所恐怖症なんですが」
「眼をつぶってればわかりません。それともおいや?」
「おいやじゃありませんが、ゲンジツとは思えないです」
「わたし、脚があります、ホラ。幽霊じゃないから、両足みえますでしょ」
 とミサオさん、ソファからすっくとたちあがり、ちょいとお着物の裾をまくればどきんとする紅絹の裏。ほっそりと華奢な足首に白足袋、きらきら刺繍かざり鼻緒のお草履もよそゆき。
「そういう問題じゃなくて」
「何処へ行きましょうか」
 ミサオさん強引。しびれをきらしてメダカちゃんの手をにぎる。ひんやりとつめたい。でもしなやかな手の感触。
「そこらの銭湯でいいですよー」
「いまの時刻銭湯なんかしまっています。あなた、欲がないのね。箱根か熱海でいいかしら。あのあたりの温泉旅館とかホテルなら、二十四時間入浴可能よ」
「よくご存知ですね」
「中年過ぎてからしばらく、彼女は温泉マニアだったの」
 とミサオさんはひとごとみたいにクワバラさんの居室をながめました。ながめながら、ゆらゆらとミサオさんは宙に浮かび、華やかな友禅模様のお袖が、蝶々みたいにはばたいて、
「うそでしょ」
とメダカちゃん思わず逃げかけるが、ミサオさん掴んだ相手の手を離さず、ぐいっとひきあげるように、
「こわいんだったら眼を閉じて」
 わー!タスケテヤダコワイ。
 クワバラさんみたいに絶叫するメダカ。でもふんわりと伽羅の香たきしめた紫縮緬のお振袖でミサオさんに顔をつつまれ、あっというまにすぽーんと抜けて幽体離脱。
 ぴちゃーん、と湯煙ほのぼの。
「メダカさん、もう眼をあけてください」
 初夏の夜空に満天の星。都合よくも露天風呂。天然石を組み合わせたひろい湯船に、いつのまにかミサオさんとさしむかいでいい湯かげん。長い黒髪はくるりと手ぬぐいでひとまとめに、ミサオさんは肩までつかって上機嫌。
「ここのお湯はラジウムとか硫黄とか、とにかく打ち身とか腰痛肩凝り神経痛に著効があるの」
 とかとかとか、と効能並べられても、ショックで脳みそ真っ白なメダカちゃん。でもひたひたと漬かったお風呂、温泉なんか来たのは何年ぶりだろうね。
「ミサオさん、モチ肌ですねー。色白なのはわかってましたけれど」
 まあいいや。夢か妄想かわからないけれど、あたふたしたって、どうにもならないし、楽しむだけ楽しもうっと。
 メダカちゃんは両手に星空の移るお湯をすくってみました。くんくん嗅ぐと、鉱物泉の匂いと、何かの芳香剤のまじった、よい香がします。
「メダカちゃん。もっと深くお湯に漬かって。わたしたち幽体だから、溺死の心配ないの。顎からこめかみまで、よくあたためてね」
 ほら、と操さんは ぶくぶくとお湯のなかに沈んでゆきました。水面に手首から上を出して、おいでおいでをしているのが、けっこうブキミです。
 なるようになれ、とメダカちゃんも真似してお湯にもぐりました。あれ、ほんとだ。ちっとも苦しくない。わー。魚のキモチってこんな感じ? ミサオさんがお湯のあちらでゆらゆら笑っている。びじんだなー。スタイルいいなー。あー持病の腰イタよくなりそう。重力がないって気持ちいいな……。
「ここはどこなの」
 水中なのに声もはっきり視界もくっきり。それでいてあたまのてっぺんからつまさきまで、お湯にもぐった快さ。幽体離脱って便利だなあ、とだんだん非現実にはまってゆくメダカちゃんです。
「箱根の老舗。今は観光シーズンだから、うっかりすると宿泊客が途中で入ってきたりするけれど、知らん顔してくださいね。ふつうにお話すれば、向こうもこちらを同じ泊り客と思うだけですから」
「え、普通の人にもあたしたち見えるの?」
「はい。だってわたしたち幽霊じゃないの。
半分はこの世のものですから。でも、もう半分はあちらに行きかけている状態でもあります。だから、もしかしたら、人間じゃなく、幽霊に遭遇したりしますけれど、そういう時には、わたしに任せて、メダカちゃんは決して言葉を交わさないでくださいね」
「ええっ」
「世の中には善悪とりまぜて、いろんなひとがいますけれど、幽霊でも同じなの。この世に思い残しをしたひとが亡霊になって、ときどき、そこらへんをさまよっています。よい霊魂もあれば、タチの悪い霊もいます。それに、わたしみたいに実体がまだこの世にありながら、執念のあまりに生霊になって化けて出たりね。あの世の世界だって、いろいろバラエティなのです」
 クスクス笑うクワバラミサオさん。笑顔になると天真爛漫な、ああ、このひとはほんとにクワバラさんの延長、いや原型とわかるのでした。
 あら、とミサオさんはあわててお湯から浮かび上がりました。
「こんばんは、トヨさん」
「おや、クワバラさん、おひさしゅう」
 なんだか聴き覚えのある声だぞ、と水中からメダカちゃんが顔を出すと、たった今お湯に沈んできたのは三十前後の女性。ふっくらした二重顎、小鼻の脇のほくろに、メダカちゃん、はっと気が付いて
「もしかして、コバヤシトヨさん?」
「あら、カメダさん。まあまあ」
 コバヤシトヨさん。一年前に、「やすらぎ」から他施設に移転されたもと入居者さんでした。移転は御本人よりも、ご家族の希望ということですが、その理由は微妙でした。
「やすらぎ」は有料施設として過度に贅沢ではないものの、入居者さんひとりひとりに個人対応をこころがけるだけ、費用の負担は応分に安くはなく、老後を暮らす長年のうちには、ご家族の経済的な事情が変わることもあり、トヨさんの移転はそうした不本意な経緯のようでした。
「お元気でしたか? あなたにはほんとうによくしてもらったねえ」 
 となつかしそうに言われても、眼の前にはバレーボールふたつならべたみたいな大きな胸元、色っぽいお姉さんのトヨさん。メダカちゃんの記憶にあるのは、八十五歳のトヨさんです。
「ハイ、おかげさまで達者で働いてます。トヨさんこそ、リューマチのほうは」
「リューマチなんかありゃしませんよ。だってあたし、今は二十六ですからね」
「はあ」
「あたしはね、よそへいってから、すっかり寝たきりにされてしまったの。お風呂も機械浴でしょ。ジャアジャアシャワーで洗ってもらって、ハイおしまい。いちにちじゅうベッドに寝ているから、頭がぼんやりして、認知症もどんどん進んでしまって。自分でもあんまり情けなく、悔しい思いがこうじて、どうかして死ぬ前にのんびりお湯に入りたい、好き勝手にもういちど外出したいって思っていたら、いつのまにかこんなことを覚えて、ときどき飛んできてるの」
「あたしたち、幽体トモダチなの、メダカさん」
 とミサオさんが笑います。
「幽体離脱して、夜中に飛び回る認知症のひとって、じつはけっこういるの。もちろん昼間は覚えていません。死が近くなるにつれ、この世の引力が弱くなるのか、離脱しやすくなるようよ」
「みんな、ミサオさんやトヨさんみたいに若々しいんですか?」
「ええ。めいめい、自分のいちばん好ましい時代の姿。ある意味、長年の精神年齢の姿かしら。というよりも、認知症のひとが自分だと思い込んでいる心の年齢ね」
「いいですねー、そういうの」
 現実の高齢を受け入れられず、盛りのころの自分に頭のなかでタイムワープしている認知のひとたち。「やすらぎ」の入居者さんの何人かは、クワバラさんほどひどい失見当はなくても、御自分の年齢や、過去の出来事をもう正確に思い出せません。
「ええ。でも、失認した高齢者が全員、わたしたちみたいに飛べるわけじゃないけれど」
「どうやったら、幽体離脱できるんですか」
「わからないねえ」とトヨさん。「やっぱり執念だろうかねえ」
「トヨさんの執念て」
 トヨさんは、肉づきのよい頬に愛嬌たっぷりのエクボをうかべて何も言いませんでした。
余計なヒトコト、シツレイシマシタ、とメダカちゃんは視線をお湯に落としました。
「あたしは、あさってぐらいに、あの世へゆくんですよ」
 とトヨさんはあっさり言いました。
「もう、思い残すことはなんにもありません。ひるまのいやな点滴や酸素マスク生活ともおわかれ」
「メダカさん、あたしたち、そろそろ帰りましょう」
 じゃぶっと、お湯からあがるミサオさん。日本手ぬぐいで覆った胸からきゅっとくびれた若々しい腰、ながい膝。少女から大人になりかけのミサオさん、品よく見せないボディが、同性の眼にもまぶしく、みずみずしい。
……やだなあ、あたしなんておなかポッコリ、あちこちたるんで、恥ずかしいなあ。
 はやく、と急き立てられて仕方がない。えい、と浴槽のへりをまたいだ。
 と、同時にふんわりとひいやりと、絹の感触が顔を覆いました。伽羅の袖の香り。
「また次の夜勤のときにあいましょうね」
 と快活な少女の声でミサオさん。ミサオさんの精神年齢は、十七歳だったのかなあ。
 チリリリ……と枕元のベルが鳴って眼が覚めました。
 明け方四時。
(やっぱり、夢)
 とおおあくびして、ふっとかすかな顎の痛み。あら、たいしたことなかった、とメダカちゃんは念のために手洗いへ入って顔をたしかめました。トイレの芳香剤は、そこらの市販のジャスミン。それがいつもと違った匂いで急に鼻をつきました。
 まさか、と鏡をのぞくと、きれいな艶のある髪、顔。夜勤の夜は化粧もほどほど。でも人前に出るたしなみとして、眉くらい描くし、口紅だってひいている。仮眠の前に、かんたんたんに洗顔したはずだけれど、こんなにつやつやさっぱりしているのは変だ。
それにこの匂いはなんだろう。腕や胸元を嗅ぐと、はっきり硫黄の臭気に、濃い入浴剤を溶かし込んだ温泉独得の香りがこもっていました。
どきどきして、クワバラさんの居室を覗くと、九十三歳のクワバラさん。総入れ歯をはずした口をあんぐりとあけて熟睡です。部屋はきれいに片付いて、しんとしています。半信半疑で戻りかけたメダカちゃん。壁際の衣類ホックにハンガーで吊ってある日本手ぬぐいに眼がとまりました。それはミサオさんの湯上りの胸元を覆った晒し木綿。古風な楷書で、箱根湯元の○▽旅館のロゴ。まだ乾ききらず、じっとりと濡れて、メダカちゃんの全身に残る硫黄と同じ、露天風呂薬湯の匂いもまあたらしく、やっぱり幽体離脱は夢じゃなかったのでした。

以後も、クワバラさんは何事もなかったかのよう。喜怒哀楽、現実と非現実とが迷走し、彼女の機嫌と体調は天気図さながらくるくる変わる。でも、メダカちゃんを含めて、クワバラさんの不愉快や痛みに、せめて寄り添おう、軽減してあげよう、という優しい気持ちのあるひとには、きっとクワバラさんは笑顔を見せるのでした。
(ミサオさん、クワバラさんはもうじき、って言っていたけれど、そんな気配も見えないわ)
 とメダカちゃんは、勤務しつつクワバラさんのバイタルや日常の様子をそれとなくチェックしていますが、クワバラさんは、いっときの不穏もだんだんと落ち着いて、六月初めの梅雨入り前には、むしろ以前より安定し、静かに日々を過ごしているようでした。
 「やすらぎ」夜勤シフトは、コンスタントに各フロア勤務が定まるわけではなく、月ごとに、非常勤職員のスケジュール調整をしつつ組み合わせます。メダカちゃんの夜勤も、しばらく間をおき、次の泊まりは、十日後くらい、六月半ばも近くでした。
 しめやかな五月雨がしとしとと降りつのる深夜0時。最初の見回りで、なんとなくメダカちゃんは、クワバラさんのお部屋をいちばんあとにしました。何かがまた起こるかもしれない、起こってほしい、でもちょっとこわい。ミサオさん現れるかな、幽体離脱なんて、ありえない幻影。出てこなくてあたりまえ。証拠なんてなんにもない。髪や肌に残ったお湯の香りは翌日にはもう消えた。部屋に吊ってあった日本手ぬぐいだって、よくあるお店の御挨拶用品だし…。
 期待半分、怖いもの見たさ半分で、なんだか両手もふるえながら、そろそろと入り口をあけて、よびかけました。
「ミサオさん?」 
 あれ? なんであたしクワバラさんって言わなかったの? とメダカちゃん自身びっくりしましたが、
「はぁい」
 とさわやかに少女の声が返ってきて、メダカちゃんはおどろくよりうれしい気がしました。
 ミサオさんは、クワバラさんのベッドのすぐ傍に立っていて、今夜は振袖ではなく、夏らしく白い木綿のカッターシャツにすらりとブルージーンズをはいていて、どう見ても、ふつうのティーンでした。
「クワバラさんの息子さんに良く似てますね」
「違うわ、メダカちゃん。息子があたしに似ているの」
 とミサオさんは苦笑しました。
「顎の調子はいかが?」
「大丈夫でした。痣にもならないし」
「よかった。温泉の効能書きは嘘じゃなかったのね」
「ありがとうございます。ミサオさん、今夜はまたがらりとイメチェンね」
「はい。誰かに見咎められるとまずいでしょう。もう夏だし、袷の振袖はちょっと暑苦しいから」
「幽体でも厚い寒いは感じるの?」
「感じませんけれど、やっぱりTPOは弁えないとね」
 言葉のおしまいに、ちょっとツン、としたお嬢さまふうの語気がこもって、九十三歳のクワバラさんと重なりました。
「メダカちゃん、今夜も温泉行きますか?」
「もういいです。それより、どうしてミサオさん、幽体離脱して現れたのか教えてもらえる?」
「そうね……。メダカちゃん、あたし、前にもお伝えしましたけれど、あまり、この世の時間が残されていません。でも、おだやかに去ってゆくには、心残りがあります」
「ええ、それがシュウネン」
「そうなの。じつはね」とミサオさんは険しく眉をよせ、いかにも腹立たしげに両腕を組み、拗ねたような表情で壁によりかかりました。
「あたしが亡くなると、財産全部、息子が相続します」
「ええ」
「主人は婿養子でしたから、あたしが親から受継ぎ、ずっと長年住んでいた古い家も、あたしが死んだあと、息子はそれを潰してマンションを建てようか、なんて計画しているんです」
「……」
「日本家屋で、すっかりあちこち痛んでいるから、家のことはもうあきらめているけれど、あの家には、主人がこっそりあたしに残してくれたへそくりがしまってあるんですよ」
「へそくり?」
「そう。貯金じゃなくて、現金」
「どこに」
 とうっかり尋ねて、メダカちゃんはシマッタ、シツレイだったかしら、と首をすくめましたが、ミサオさんはいっこう気にせず、
「お茶室の炉の下に、穴を掘って埋めてあります。今でもかなりの多額よ」
「いくらぐらいですか」            
 ミサオさんが涼しい顔ですらすらと答えた金額に、メダカちゃんは腰がぬけた、いえ、ぬけないまでも、あいた口がふさがらない感じ。お金持ちってすごいなあ、それだけのへそくりを、無用心にも無人の家に壷の中?
「あたしは、老朽化した先祖代々の家屋敷はしようがないとして、夫があたしに残したお金は、一銭もよめには渡したくないのよね」
 とミサオさんは、きっと虚空をにらみつけました。まるでそこに、にくたらしいおよめさんがいるかのように。
「情がないったらありゃしない。かたちだけでも盆暮れのあいさつぐらいはするものを、あのひとったら、ただのいっぺんも見舞いにも来ないんだから。あたしがここに入ったのは、あたしたちの喧嘩でおろおろと板ばさみの息子がふびんで、まあ、だんだん頭もぼけてくるし、体も不自由になるし、どっちみちこんな意地の悪いよめの世話になるのは、まっぴらと決断したからよ」
 かーっと逆上してくると、見慣れたクワバラさんの表情がもろに現れるミサオさんです。まあまあ、とメダカちゃんはミサオさんをなだめて、
「そうは言っても、どうしようもないじゃありませんか。息子さんのオカネになると思えば、許せるでしょ?」
「息子は外で働いて、家内いっさいは悪賢いよめがしきっていますからね。家の整理もよめの手の内、だれも知らない壷に入った現金を、腹黒いよめがみつけたら、息子にも口を噤んでこっそり着服して知らん顔するに決まっています」
「うわー。ナマグサイエゲツナイ話」
「でしょ?」
「考えすぎじゃない?」
「あなたって、おひとよしねメダカさん」
 とあどけなく十七歳のミサオさんに決め付けられても腹も立たない。メダカちゃんはかえって笑い出しました。
「それじゃどうしたいの」
「メダカさんにさしあげたいんです」
 ええっと声も出ないほどおどろいた。
「あたしね、ここに入ってから、ずっとあなたに感謝していました。感情のコントロールができなくなり、職員さんや、あなたのこと、何度もなぐったり、かみついたり、蹴飛ばしたり。いやな言葉でののしったりしても、あなたはがまんして、それどころか、いつもとってもやさしくしてくださったわ。ここの職員さんみんなにこころから、感謝しています。
だから、オカネは、あなたの工夫で、ここの施設のよいように使ってほしいのと、先日あなたをうっかり蹴飛ばしてしまったので」
「あれは、もう大丈夫ですって」
「そう? でも、前歯の義歯が、グラグラしているでしょ。がつんと思い切りつきあげたから」
「よくわかりますね」
「歯の治療って、お金がかかるわ。それに、坊やと娘さんの学費のことで、メダカさん、悩んでいます」
「はあ」
「あたしの隠し財産の半分あれば、上等な差し歯を入れて、将来あなたが総入れ歯になったときも、まあ、悪くない歯をこしらえられるし、お子たちをなんとか学業成就させるくらいの費用にはなるでしょう。もちろん私学医科大は無理ですけどね。がんばれば」
「東大?」
 メダカちゃん、噴出しました。マコトがねえ、どうなるかなあ。嘘から出たマコトって言うけれど、三日坊主かも。
「娘さんの心は、もう大人ですし」
「ええ、カズコなら。ありがたいですよ、それは。でもあたしのしたことなんて、それほどたいしたことじゃないですよ、クワバラさん。仕事ですもん」
「……年をとって、さびしいのはねえ、メダカちゃん。こころから信じて情愛を注げる相手が少なくなることかもしれませんよ」
 と、ミサオさんはせつなそうに顔に降りかかる髪をかきあげました。息子も、それは可愛いけれど、あの子には、へそくりなんてあってもなくても同じなの。孫もね。みんな充分に暮らしていて、地から湧き出たお宝のありがたみなんてわかりゃしません。あたしのことも、いなくなれば、きっとじきに忘れてしまう。
「ともかく、あたしはもうじき成仏か、昇天か、この世においとまします。今夜、温泉めぐりしないのなら、あたしといっしょに古屋へ行って、茶釜を掘り、それを預かってくださいな」
 とミサオさんは気が早くて、メダカちゃんの手をまたぎゅっとつかみました。いやおうもない手っ取り早さで、ミサオさんは、ベッドの反対側の仏壇の観音びらきを開けました。
「ほら、こんなところからも行けるの」
 とミサオさんは、上半身からもやもやとした煙のような姿に縮み、金で縁取りされた両開きの扉に吸い込まれてゆきます。なかには御主人のお位牌や遺影があるはずだけれど、とメダカちゃんは及び腰ですが、しっかり握られた手の先から、雲をつかむようにメダカちゃんの現実感覚は淡くとけてゆき、すうっとミサオさんといっしょに異次元の扉をくぐってゆき……
 さて。
 幽体離脱したミサオさんとメダカちゃんが、旧家のかび臭いお茶室に出現し、降り積もった黴とほこりに咽せながら四角い炉を掘りおこし、そのもっとずっと下の土をかきのけて、苦労して掘り出した壷のなか、丹念に油紙に包まれてしまいこまれた何十年か前のお札というのは、紙幣ではない、御主人からクワバラさんへのお手紙の数々でした。たぶん上等の和紙で、墨くろぐろと個性的な達筆。厚紙にめんめんと綴られたのは、愛妻への思いのたけを尽くした数々でしょうか。
「あら、まあ、なにこれ」
 とミサオさんは手紙の束をひろげて、赤くなったり青くなったり。
「この家を出るころ、もうずいぶんぼんやりしていたから、お金を隠すことばかり考えて、こんなしくじりをしちゃったんだわ」
「しくじりじゃないですよ。お金よりももっとだいじな宝物です、こんなラブレター(でしょ?)クワバラさんにとっては、なによりも大切なものだから、こうなさったのだと思う」
「あたしったら、いつのまにか、それをお金だと思い込んでしまったのね」
ミサオさんは、恥ずかしそうにうつむきました。
「よめのことを、ごうつくばりだなんて悪口を言っていたけれど、主人の手紙をお金と思い込むなんて、あたし、いやね」
 この家にお別れするころには、たぶんかなり健康を損ね、失認もひどかったろうクワバラさんにとっては、きっと御主人の情愛のしるしの手紙が、現実的に価値のあるお札として、心に深く信じ込まれていたものなんだろうな、とメダカちゃんは推測しました。
「ゴメンナサイ」
 ミサオさんは、泥だらけになった顔をこすりながら、泣きそうでした。でも、御主人の思いの残るかけがえのないお手紙をしっかりと抱きしめて、ミサオさんの泣き顔は、バラ色に輝いているようにも見えました。
(やれやれ、ごちそうさまデス)
メダカちゃんは、さっぱりと笑い飛ばしました。
「このお札、いえお手紙へのシュウネンのおかげで、あたしはミサオさんに会えて、たのしい夢がみられたんだから、それでいいです。クワバラさんの幸せそうなお顔が見られたのもうれしいです。でも、とにかくあたしたち泥んこだから、お風呂に入れてくださいな」
「箱根湯本の露天風呂」
「どこでも。お銭湯でもオッケー」
「じゃ、これが最後の露天風呂。執念の消えたあたしは、もうこの世には出てきません。幽体離脱のエネルギーも弱くなるから」
「よかったじゃないですか。見も心もきれいさっぱりと。それどころか、とてもだいじな思い出をとりもどして」
「あなたって、欲がないのね。ちっとも残念そうじゃないのね」
「そうでもないけど、マコトもカズコも、分相応に人生をちゃんと生きていってくれたらそれでいいです」
「あなたらしい」
「これが最後なら、ミサオさん。あたし高所恐怖症なんですが、いっぺん、空を飛んでみたいです。飛べるんでしょ? 振袖じゃないとだめですか?」
「もちろんオッケー」
 海辺を望む星月夜、だったらよかったけれど、あいにくの長雨がしのつく。
「メダカちゃん、雨雲の上まで昇るわよ。しっかりあたしにしがみついていてくださいね」
 ミサオさんは急上昇しました。
 視界いちめん、さえぎるものない、きらきらと澄んだ星空。足元には日本を覆うぶあつい梅雨の雲の床。飛行機に乗れば見える光景ですが、こんなに全方向風いっぱいにはばたいて眺めることなんか誰にもできない経験。離脱した幽体ならでは、寒さも息苦しさも感じません。
「あ、トヨさん」
「まあ、クワバラさん」
 地上からふわふわと昇ってきた青く光る物体。その中心にいるのはコバヤシトヨさんでした。でも、彼女ひとりではありません。仲むつまじく、彼女にぴったりと寄り添う男のひとがいます。
「このひとと、やっといっしょになれました」
「おめでとう」
「ええ、生霊のあいびきも楽じゃありませんでしたよ。あたしが幽体離脱できても、このひとが、もう意識不明だったりして」
 なるほど、とメダカちゃんはトヨさんのシュウネンのありかを知りました。
「あたしは、あのあとすぐに亡くなったの。でも、このひとがすこし手間取りまして。本人が望まない延命治療なんかうけたものだから。でもね、昨晩ようやく、しがらみを抜けてね。ほんとにずうっとあたしのことを忘れずに、あたしを待っていたくれたこのひとと、これでようやく添い遂げられるんです。親が決めたお相手の夫と暮らして、離別もできなかったけれど、いろいろむつかしいことがありました。あたしは何十年たっても、このひとのことが、ずうっと好きだった。どんなに惚れていてもねえ、親が許さなければ、いっしょになれない時代ですから」
 とトヨさんは、さびしそうに、またうれしそうに、メダカちゃんに言いました。ちょっと恥ずかしげに腕を組んだ男性は、見た目で言うなら三十四、五でしょうか。
 トヨさんと恋人。長年の両思いを遂げて、あの世で夫婦かしら。ふたりの姿は見る見る溶けて、青白い人魂になり、そのまま星の一粒へと遠くへきらきらと流れてゆきました。
「すごいなあ。すごい大恋愛です」
 トヨさんさようなら、おしあわせにね、とミサオさんとメダカちゃんは、星めぐりの旅を終えて、あの露天風呂に沈みました。ふたりして岩風呂に勢いよくお湯をざぶりとくぐったせつな、目覚まし時計がなって、もう夜明け。
 執念の消えたミサオさんは、影もかたちもなく、それっきり。
 溺れもせずにお湯にただよう無重力の気持ちよさと、雨夜をつきぬけ、天高く自由自在に飛びまわったいちめんの星空。
 クワバラさんが見せてくれた、これはメダカちゃんだけの誰も知らない異次元の思い出。
 
それからまもなく、クワバラさんは、梅雨あけ前に亡くなりました。それはほんとうに突然の出来事でした。入浴中に、心臓麻痺だったのです。メダカちゃんの非番の日だったので、クワバラさんの最期を看取ることはできませんでした。なんでも、クワバラさんは上機嫌だったそうです。鼻唄まじりに、溺死防止のために、浅く湯を張ったお風呂に漬かっていて、歌い続けていた声がいつしかやんで静かになり、そのまま永眠なさいました。
連絡を受けて、メダカちゃんが施設に駆けつけたとき、クワバラさんのおきよめは済んでいて、ご家族も見えていらっしゃいました。あわただしい次第で、とるものもとりあえず息子さんは仕事さきから普段着のまま。いっぽう御主人の到着からだいぶ遅れて、ようやく初めて施設に顔を見せたおよめさんは、きちんと喪服を着ていらっしゃいました。万事隙のない着こなしの女性で、職員ひとりひとりへのお礼の御挨拶にもそつがなく、涙も適度にこぼして……つまり、欠点のまるで見えない、とてもきれいなひとでしたが、アラがなさすぎるというのも、かえって非人情な印象で、メダカちゃんは、クワバラさんが、このおよめさんを好かなかった理由が、なんとなくわかる気がするのでした
 クワバラさんのお顔はやすらかでした。
 メダカちゃんは、最期に、クワバラさんのかたちのよい唇に、化粧台にしまってあった、お気に入りだったかもしれない濃いめの口紅をひいてあげました。白粉に、口紅、香水やら……おしゃれだったクワバラさんの身をかざった小間物をおさめた引き出しの向こうに、がさりとなにかかさばるものがありました。引き出しを閉めようとしても、そのかさばりで、うまくもとどおりに閉まりません。あれ、とメダカちゃんはいったんその引き出しをぬいて、奥を覗くと、厚みのある重い紙の束。黄色い油紙に幾重にもくるんで、鼻をつく古屋敷に長年沈んだ黴と灰の匂い。まじって、かすかに、とても優雅な伽羅の香りはあの紫縮緬のお振袖のかしら。
 墨と万年筆で、しっかりと、またこまやかに綴られているのはきっと……開けてみなくても中身はわかる。
 メダカちゃんは微笑しました。この世への執念を閉めるだいじな扉があったね、ミサオさん。
 お手紙は、息子さんにお渡ししました。メダカちゃんの耳の底、クワバラさんの声がなつかしく残る。タクサン扉ガアルンダヨ。
 アリガトウ、オネエサマ、とも。

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蝶々の旅

Posted by 水市夢の on   0 comments   0 trackback

    蝶々の旅

「帰りたいよう。あたしは家に帰りたい。帰らなくちゃ。主人が待っているから」
 茜いろの夕焼けをぼんやりと眺めていた車椅子のマキさんは、今日もまた、ぽつりとさびしそうに言い始めました。
「御主人は、しばらくしたら帰ってきますからね。マキさんをお迎えにいらっしゃいますから、もうすこしお待ちください」
 有料老人ホーム「やすらぎ」のエントランスでは、毎日、夕方になると、マキさんと職員のこんなやりとりが、繰り返されるのでした。
八十七歳のマキさんには身寄りがありません。十年前、御主人と、「やすらぎ」に移り住み、その御主人は数年前に癌で亡くなりました。二人の間には娘さんがひとりあったそうなのですが、その娘さんはずいぶん昔に海外留学し、伝え聞いた話によると、現地で不慮の事故でなくなってしまったのでした。
 御主人が生きている間は、ふたりで仲良く支えあってくらしていたのですが、連れ合いに先立たれたあと、マキさんはがっくりと落ち込んで、いろいろ体の具合も悪くなってきました。
 もと公務員だった御主人は、きちんとした人柄で、自分の死期を悟ると、残されるマキさんが困らないように、いろんな手続きをしてから亡くなったので、マキさんは施設で、職員の介護を受けながら、おだやかに暮らしていたのですが、いくら職員が丁寧な対応をしても、マキさんの心に開いた穴がふさがるわけもなく、マキさんはだんだんと、日々、ぼんやり過ごす時間が多くなり、しだいに職員が話しかけても、はっきりとした受け答えができないくらいになりました。
「帰らせてよ」
 夕方になると、マキさんは繰り返し言い始めるのでした。口で言うだけでなく、職員の眼のとどかない隙に、施設から出て町なかへふらふらと出て行ってしまい、マキさんを探し出すために、みんなで大騒ぎになったこともあります。
 お医者さまは、マキさんを認知症と診断しました。
 マキさんは、その後何度か、施設から脱け出し、また連れ戻される、ということが重なるうちに、往来で転倒、肩足を骨折入院し、数ヶ月後に、「やすらぎ」に戻ってきたときは、すっかり足腰が弱くなっていて、車椅子でなければ動けなくなってしまいました。
「主人はいつ迎えに来てくれるんだろう」
「もうじきですよ」
「娘はブラジルからもうじき帰ってきてくれるんだけどねえ。あたしがこんなふうになってしまったのを見たら、歎くだろうね」
「娘さんはブラジルにいらしたんですか」
「そうなのよ。カーニバルの写真を撮りたいと言ってね。あの子は写真の勉強をしていたの。あたしも主人もそんな遠くの国にいくなんて、ずいぶん反対したんですよ。ひとり娘ですもの。でも本人はどうしてもやりたいっていうから、しぶしぶ出してあげたの。ながいこと世界じゅうまわったけれど、最近、帰ってくるって、電話があったのよ」
「それは、よかったですね」
 施設の職員は、それがマキさんのつくりあげた幻想だとわかっていました。娘さんが行方不明になったのは、何十年も前のことです。
マキさんの部屋には、御主人と娘さんの三人姿の写真が何枚も飾ってありましたが、白黒写真の娘さんはまだ二十代初めで、マキさんによく似た、すらりとした細面の、きれいなひとでした。娘さんが海外に行ったことは事実らしいのですが、それがブラジルかどうか、誰にもわかりませんでした。
「娘さんと御主人と、みんなでいっしょにおうちへ帰りましょうね。だからそれまで、しばらくのあいだ、わたしたちといっしょにここで待っていてください。もうお夕食になりますよ」
「あの子が撮ったカーニバルの写真をさがしてくれないかしら。ずいぶんにぎやかなお祭りね。あたし、それをどこにしまったのか、思い出せないのよ」
「晩ごはんを召し上がったら、いっしょに探しましょう」
 リオのカーニバルを、マキさんがどこで知ったのか、これも謎でした。マキさんは、お元気なとき、口数のあまり多くない、お茶やお花をたしなむやまとなでしこで、御主人の生前、そんな単語がこのひとの口から漏れたことはありません。
 テレビかなにかで見知った情報にせよ、マキさんのつつましい温厚な人生のなかに、ぎらぎらした仮面をかぶり、飾り物をこれでもかとばかり見せびらかし、昼夜ただ踊りまくる奔放な祭りのイメージが不意に飛び込んで来たのは、ちぐはぐでありながら、なんとなく納得できるような、不思議なつじつま合わせみたいでした
「マキさんは、きっといろいろがまんしていらしたのよ」
 と、年かさの女性職員が、そっとマキさんの隠れた想いを労わるようにつぶやくこともあったのですが、それ以上のことは、誰も考えませんでした。
 どこの施設もそうですが、職員はみんな忙しくて、一人の入居者さんの隠れた心のこまかなひだまで分け入ってゆくゆとりもありませんし、余計な探り出しは、失礼なことでもありました。
 
 認知症状が重くなるにつれ、マキさんの健康もそこなわれてきました。
 食材に好き嫌いがないとはいえ、あまり食欲旺盛なひとではなかったのですが、次第に食事を摂るのを面倒くさがるようになりました。転倒し、職員の介助を受けながらの車椅子生活を続ける一年ほどのうちに、マキさんは、自分で食事をすることができなくなってしまいました。
 職員が傍について、マキさんの手に箸を持たせ、ごはんやおかずを口に入れるように支えてあげると、少しずつ食べてくれるのですが、機嫌が悪かったり、さびしい想いにとらわれると、湯水さえ見向きもしないのです。
 マキさんは、どんどんやせてゆきました。
 おっとりと上品で、年をとっても若いころの整った顔立ちのあまり崩れないマキさんは、「やすらぎ」の入居者さんや職員みんなに好かれていました。こんなふうに手足が弱り、ほそぼそと、肩や腰の骨がいたいたしく目立つようになっても、マキさんは、ふしぎにきれいな肌や輪郭を保っているのでした。
 八十八歳はめでたい米寿というのに、マキさんは、ほとんどベッドに寝たきりでした。
 「やすらぎ」は、市の中心部から離れた郊外の、緑深い閑静な地区に建てられていました。マキさんの部屋の窓からも、四季おりおりに周囲の公園や住宅のお庭の、樹々の景色や空の風情など、眺めることができます。
「マキサン、サクラがサキマシタヨ」
「シンリョクガキレイデスネ」
「モウツユデス。アジサイモフクラミマシタ」
 マキさんの介護をする職員は、こんなふうにマキさんへの声かけをしながらケアをするのですが、心を閉ざしたマキさんの耳には、誰の声も言葉もたいてい、意味のない、ちりぢりばらばらな音のつらなりのようにしか響かなくなっていました。
 それなのに、夕方になると、マキさんはかなしそうに騒ぎはじめるのでした。
「主人が戻ってくるから、帰らなくちゃ。お風呂の支度や、ごはんを作らなくちゃ……」
 力のない腕で、なんとか上半身を支えて、ベッドからおきあがり、また出てゆこうとするマキさんに職員は困惑しました。
 マキさんのベッドには転落防止のために柵がとりつけられ、万が一、ベッドから落ちたときのために、床にはセンサーマットが敷かれました。
 なんとか起き上がっても、それ以上動けないマキさんは、柵につかまって、ときどき、しくしく泣きました。お医者さまは、そんなマキさんに、かるい安定剤を処方し、職員は食事介助のたびに、それをお粥や、ヨーグルトにまぜました。
 施設職員は、そんなマキさんを見守りながら、ためいきをつきました。
「お子さんでもあればねえ。さびしさもまぎれるんでしょうけれど」
「行方不明の娘さんが戻るって、たびたびおっしゃいますよね」
「もしご存命だとしても、六十台でしょう。マキさんが今の娘さんに会っても、自分の娘だとわからないかもしれないわよ。マキさんの記憶には、あの若い姿しか残っていないからね」
 セピアいろの半世紀も昔の写真には、地味な和服に帯を低めにきちんと締めたうつくしいマキさんと、まだあどけなさの残る二十歳の娘さん、お役人然としたりっぱな風采のご主人が写っていました。 
「娘さんはお母さん似だから、六十歳でも、きっとおきれいでしょうね」
「それでも自分の子だと認識できるかどうかは、別なのよ」
 それはほんとうでした。御主人の死や、孤独を受け入れられない、時間軸が現実とずれてしまった認知症のマキさんは、自分にとって居心地のよい記憶や夢のなかに漂っているので、鏡を見ても、マキさんには、それが今の自分だとわからないかもしれないのです。
 夜中、マキさんは、声をあげてうなされることもたびたびでした。
「ここはどこ? こわいわ。誰か助けて」
 駆けつけた夜勤の職員に、ひとりにしないで、と心の底から、ふり絞るような声で訴えるマキさんでした。

長い梅雨がいっきに明けて、真夏の太陽が照りつける季節になりました。
八月に入ったばかりの早朝、施設の入居者さんの食事が済んだばかりの時刻は九時前なのに、もうじりじりと陽はたかく昇り、生垣や植え込みの木蔭はくっきりと深く、空のまばゆい青のどこかで、油蝉が勢いよく鳴き出していました。
「コニチハ」
 箒でエントランス前の敷石を掃き掃除していた職員は、聴きなれないイントネーションを耳にして顔をあげました。
 濃い青と白の太い縦縞模様の袖なしワンピース、ざっくりと荒っぽく編んだツバの広い麦わら帽子の正面に真っ赤な花飾り。素足にサンダル。サンダルには、ちかちか光るビーズやカラフルな色糸の編み刺繍がいっぱいついています。帽子のつばに余るほど大きな赤い花飾りの翳から、まっくろに日焼けした女の子は、目をまるくした職員に、白い歯を見せて笑いかけました。
「ココニワタシノヒオバチャンイマス」
「え、なんですか?」
 職員は思わず聴き返しました。女の子の言葉のとぎれ方や高低は、ふつうの日本語とはぜんぜんちがっていたので、すぐには理解できなかったのです。ココニワ、タシノヒオ、バチャンイ、マス……
 たどたどしい言葉で、一生懸命はなしかける女の子は、物怖じせず、職員にぐっと顔を寄せて、額に汗をにじませ、繰り返し言うのでした。
「あ、そうか」
 何度目かで、職員はようやくこの子の訴えがわかって、事務室に案内しました。
「まあ、かわいい」
 居合わせた職員は、女の子を見て、うれしそうな声をあげました。ノースリーブの派手なワンピースから伸びた手足は長くてきゃしゃで、こんがりときれいな焦げ茶いろでした。
かぶっていた帽子を脱ぐと、日本人でもめずらしいほど真っ黒なおかっぱ髪が汗ばんで
ばらばらとほそい肩さきにふりかかりました。
玉のような汗のにじむ額やほっぺた、くびすじ、どこも同じように明るいなめらかな焦げ茶いろをしていて、丸顔なのに眉間からすっきりとおる鼻筋、白目の目立つおおきな瞳をふちどる濃い睫毛はゆびさきでつまめるほど長く、描いたような強い輪郭のくちびる。まるで外国土産のお人形のようでした。
 女の子はしきりに瞬きしながら、事務長さんに、同じ調子で
「ワタシノヒオバチャン、マキサン」
「マキさんの?」
 一同はあっと驚いて 顔を見合わせました。
つまり、この子はマキさんの曾孫らしいのでした。
「マキさんのご家族ってこと?」
「外国に行った娘さんのお孫さんでしょう」
「でしょうね」
「マキさんにも娘さんにもあんまり似ていないけれど」
「もちろん混血よ、すごい美少女ねえ」
「名前はなんていうのかしら。お父さんやお母さんはどうしたのかな」
「こっちの言葉はほとんど通じないみたいね」
「ブラジル語でしょ」
「ブラジル語って?」
「スペインとかポルトガル語を話すんじゃないの?」
「誰か、この子の言うことわかる?」
 誰もわかりません。かたことの日本語のほかは、女の子は甲高い声に身振り手振りをまじえ、いろいろ説明しているようなのですが
、そのジェスチュアさえなんだか女の子が踊っているようにも見え、みんなは言葉の通じないやりとりにとまどいながらも、目をほそめました。高齢者施設に、こどもの訪問はとてもうれしいものなのです。
「マキさんに会わせてあげましょうよ」
 さびしがっているから、と居合わせた職員は賛成し、女の子を手招きしてマキさんの居室までつれてゆきました。
 何歳ぐらいなのかな?と職員は女の子の姿をしげしげ眺めて考えました。声や顔つき、うすい胸や肩の感じは、まだ幼児のようでもあり、でも、背丈は日本人の同じ年頃のこどもよりずっと伸びている様子でした。
「あなた、お名前は?」
 歩きながら職員は、女の子に話しかけました。女の子は浅黒い顔に白い歯をにじませて笑い返し、小首をかしげ、はっきりと
「ジュンコ」
 と答えました。

 マキさんは、ちょうど職員の介助で朝食を済ませたところでした。たまごのおかゆに、すりつぶした介護食のおかず、ヨーグルト。それにチューブ詰めのゼリー飲料です。
 真夏に入って気温があがり、マキさんの食欲は、それまでよりさらにほそくなってしまったようでした。
 電動式のベッドの背にもたれて起き上がり、介助職員がスプーンですこしずつ口元に寄せる食事から、マキさんはともすると顔をそむけ、うとましげに手でおしのけることもあります。今朝もマキさんは、ずいぶん食べ残していました。
「あら、すくないわねえ」
 と女の子を連れてきた職員は、ベッドサイドの食膳の残りを見て声を落としましたが、女の子をふりかえり、
「マキさん、ご家族よ」
 マキさんのベッドの片側の窓は市民公園の森に面して、深い木蔭がさわやかにひろがっています。木漏れ日の光りが、マキさんのベッドにちらちらと揺れていました。ピンクの寝間着、肩まで長くのびた白髪をきれいに撫でつけ、朝の身じまいを整えたマキさんは、痩せてやつれてはいましたが、とてもきれいで、そして哀しそうでした。食事盆から顔をそむけ、夏の光りあふれる窓外を眺めていたマキさんは、職員の促しに応えて視線をゆっくりと入り口に返し、ぴったりと女の子を見つけました。
 もうずっと聞くことができなかった、芯のある、感情のこもったマキさんの声が、室内に明るく響きました。
「純子ちゃん、よく帰ったねえ」
 その瞬間のマキさんの表情の変化を、居合わせた施設職員ふたりの職員はあとあとまで語り草にしました。
「顔中におひさまが射したって、ああいう感じよ」
「曇っていた目がぱちっとして、ぼんやりしていたのが、突然にっこり笑って……」
「血のつながりってすごい。娘さんには全然似ていないのに、なんで曾孫だとわかったんでしょう」
 どうしてでしょう?
 どうして女の子の名前を、マキさんは純子
だと「おぼえて」いたんでしょうか。女の子はたぶん十歳は過ぎていましたから、マキさんの「やすらぎ」入居前に、「ブラジル」から、曾孫「純子ちゃん」誕生の報せがあったのかもしれませんし、そう考えるのがいちばん自然でした。
 純子さんは満面に笑みを湛えてマキさんにとびつき、マキさんはやせ細った腕で、純子
さんの背中や、つやつやした髪をいとおしげに撫で、よく帰ったね、ずっと待っていたんだよ、大きくなったねえ……と抱きしめました。

 ひとりぼっちだったマキさんの晩年に奇跡がはじまりました。その朝、純子さんはマキさんの食べ残していたお粥のさじをとりあげ、小鳥のさえずりのような声で、マキさんに話しかけながら、口元に寄せると、マキさんはうれしそうに、もういちど食べ始めたのです。職員の了解なしに、純子さんは、どんどん朝食をマキさんにあげてしまい、マキさんはむせることもこばむこともなく、ぜんぶ食べ終えたのでした。
 食事のあいだ、純子さんは、どこの何語かわからない言葉で、マキさんに語りかけ、おどろいたことにマキさんは、うなずいたり、首をふったりしながら、純子さんのイミフメイな言葉に、ちゃんと応じていたのでした。
 職員ふたりは目をまるくしました。
 マキさんの口からこぼれる言葉は、こんな並びでした。
「何かねえ……いつも探していたのよ。たくさん歩いて走って。どこにもたくさんある。
やだよ。いらないね。そう向日葵がね、夏だから……水が田圃にあふれていた。横断歩道でね、帯でなきゃだめよ。蛙の山でしょ。耳のうらから……」
 イミフメイ、まるっきり滅裂な単語の集まりとしか、職員には聞こえませんでした。でも、栄養失調で、すこしかすれたマキさんの声は、ひさびさにとてもはずんでたのしげで、純子さんのさえずりに相槌をうちながら、ふたりはながくながくおしゃべりしていたのでした。
純子さんが、日本語はほんのかたことしかわからないのはあきらかでしたから、マキさんが、ちゃんと理路のとおった言葉ではなそうと、きれぎれな単語の寄せ集めを口にしようと、どちらでもおんなじことでした。
 マキさんの声も女の子の声も、まろやかにやさしく、その夏の朝のひととき、マキさんの病室はふしぎな声音のやりとりであふれたのでした。
 純子さんは、それからほとんど毎日、「やすらぎ」にやってきました。時刻はまちまちでしたが、たいていおひさまが空高く上っている間でした。そうして、朝ごはんか昼ごはん近く。
 職員の介助では、なかなか食べてくれないマキさんでしたが、純子さんの手からは、よ
ろこんで食べました。いつも、ほぼ完食します。
 この子はどこから来るの? とみんな半信半疑、狐につままれたような気持ちになりましたが、なにしろ当のマキさんが純子さんを待ちわびていて、かてて加えて、施設職員は人手不足でもあり、いつのまにか、なんとなく、純子さんの食事介助は「ご家族対応」という了解ができあがってしまいました。
「おうちはどちら?」 
 あるとき、施設長は思いきって純子さんに尋ねてみました。なにか事故でもあったら、と自宅の電話番号などひかえておきたかったのです。純子さんは、長い睫毛をしぱしぱとまたたかせながら、かれんな声でさえずりましたが、やっぱり意味不明でした。
「困ったわねえ。純子ちゃんに何かあったら、親御さんにどうしましょう」
「それにしても、両親はどうしてここに見えないんでしょうね。連絡もせず」
 職員はそれぞれ奇異を言い合いましたが、純子さんがあまりに可愛らしいのと、マキさんの健康が、純子さん登場から目に見えて回復してきたので、いろいろあやしむより、なんだか、こんな不思議な再会を果たしたマキさんをうらやましく、またほほえましく思う気持ちのほうが強いのでした。
 純子さんは、ちゃんとした家の子らしく、お洋服も新鮮で、お行儀もよかったのです。
 ブルーと白のストライプのワンピースに、赤い花飾りの麦わら帽子。カナリア色のブラウスと白地に小さな紺の水玉模様のはいったショートパンツ、ある日は真紅のハイビスカス模様のひらひらドレスとか、目のさめるように、毎日とっかえひっかえ、無邪気な笑顔で現れました。
 だから、純子さんが来ると、「やすらぎ」の中に、明るい南国の花が咲いたようでした。
 純子さんはマキさんにつききりで、個室や、みんなの集まるリビングルームで、数時間を過ごします。純子さんは、みんなにやさしく、たのしそうで、ほんとに不思議なのですが、言葉はぜんぜん通じないのに、純子さんが笑顔で話しかけると、入居者さんもしぜんと笑顔になって、笑ったり、楽しくなったりしました。
 「やすらぎ」の入居者さんは、認知症ではないクリアな方もいます。そのひとりに、職員は尋ねてみました。
「純子ちゃんの言葉、わかるんですか?」
「わがんね」
 東北なまりの残る、九十歳のトミさんは、あっけらかんと応えました。
「どうでもええが。純ちゃんは明るくってやさしいから、それだけでいいさ」
「いい子ですよ」
 と、かたわらからもうひとりの入居者さんも言いました。
「言葉は通じないかも知れないけれど、心は、あの子、ちゃんとわかってるって、わたしたちの方もわかるんですよ」
 夕方になる前に、純子さんは帰ります。マキさんは、名残おしそうに、眉をすこし曇らせますが、以前のように帰宅願望で騒ぐこともなくなりました。車椅子で、純子さんを施設の出口まで送り、純子さんが、まだ陽射しの残る緑陰の向こうへ、手をふりながら行ってしまうのを、じっとみつめているのでした。
「純ちゃんの後をつけてみたいわね」
 などと、職員は冗談半分、でも半ばは本音な気持ちで言いました。
 混血美少女の純子さん、ほんとの年齢はいくつで、家はどこなのか、両親は、学校は?
「学校は夏休みってことでしょ」
「友達とあそばないで、小学生が毎日ここに来る?」
「小学生なの?」
「中学だっておなじことでしょ」
 施設長、事務長はじめ、みんな、ほんのちょっとの間、真顔で思案するのですが、なにしろ施設は忙しかったので、誰にとっても都合よく、幸せな偶然を、ことさらむつかしく考えようという気にはなりませんでした。
 
 「やすらぎ」の夜勤職員の何人かは、このごろ不思議なまぼろし見るのでした。
施設は三階建てで、一階は事務室や職員の休憩室、共同のレクリエーションルーム、リハビリルーム、大浴場があり、入居者さんは、二階と三階に、それぞれ自分の好みの家具を置いた個室で暮らしています。
 職員は夕方から翌朝まで、二階三階にひとりずつ泊まり、深夜と夜明けの定時見回り、併せておむつ交換などの介護対応をします。それほど重度の方は今の所いないので、職員は非常のアクシデントでもないかぎり、夜間に数時間の仮眠もとれるのでした。
 その晩、職員のワダさんは十二時になったので、フロアの巡回を始めました。電灯を落としたフロアはしいんとして薄暗く、昼間は見過ごしてしまう非常口の緑色の照明が、闇にポッカリと浮かんで鮮やかです。意識のしっかりした入居者さんは、自室の入り口にきちんと鍵をかけるので、ワダさんは、合鍵でそっと扉をあけて、入居者さんの安眠を確認する。その晩も、みんな穏やかに眠っていました。認知の歪みで、すこし妄想と混乱のある入居者さんなどは、眠りが浅くなると、ウワゴトめいて、しゃべりだしたりしますが、それはヒステリーでもパニックでもないので、職員はあまり気にしませんでした。
 ですから、深夜に、マキさんが泣き出すと、それはもう深刻に響き、職員も時折は、泣き止まないマキさんの愁訴に、ほとほと手を焼いていたのです。でも、純子さんが来てから、マキさんはすっかり安定しています。ワダさんはつぶやきました。
「家族の力ってことよね」
 寝たきりのマキさんの部屋には鍵はかかっていず、マキさんは、おだやかな寝息をたてて、よく眠っていました。あれ? 窓のカーテンがすこしひらいて、そよそよとレースが風に動いています。月明かりに揺れるカーテンの裾が、花瓶に活けたおおきな向日葵にまつわりついていました。向日葵は純子さんが持ってきたのです。今日純子さんは、今日大輪の向日葵を得意げに担いでやってきて、マキさんにあげました。向日葵は純子さんの顔ぐらい大きくまんまるで、純子さんの笑顔のようにさっぱりくっきりした黄色い花弁をみずみずしくぴんとひろげています。
「純ちゃんは、夕方に帰ったし、そのあと冷房をいれたから、窓はしめたはずなんだけど?」
 ワダさんは、マキさんの眠りをさまさないようにそうっと足音をしのばせて居室を横切り、窓に近寄りました。向日葵にまつわりつくカーテンを調えようとしたとき、ワダさんは思わず、キャッ、と小さな悲鳴をあげてとびのきました。向日葵にかぶさった月明かりに透けるレースの影から、ヒラヒラッと、何か、てのひらくらいの大きさのものが、ワダさんの顔めがけて飛んできたのでした。
 見たこともないほど大きな、金いろの蝶々でした。それはまるで、羽をひろげた小鳥か、熱帯の蛾のようにも見えました。蝶は窓から流れ込む夏の夜風にふうわりと、羽を閉じたりひらいたりしながら、空中に浮かんでいました。
 ワダさんの手の届くか届かないか、すれすれのところで、蝶々はゆっくり闇の中をあがりさがり、舞っています。黄金ひといろと見えた羽には、よく見ると、あざやかな濃い青い筋が葉脈のようにほそい縞模様になっていていて、先端が巻貝のようにくるりとまるまった優美な触覚も青く光っていました。蝶々が羽をひろげたりとじたりするたび、ぼんやりとした銀色のこまかな鱗粉がほのかに大気に散るのさえ見えました。月明かりと、常夜灯だけのフロアの、もののかたちのさだかには見えないおぼろな明るさに、大きな蝶々の全身は逆にきらきらと目立ち、夜空からこぼれおちた星のひとかけらみたいに、自然に発光しているようでした。
 蝶々は、驚いてたちすくんでいるワダさんをからかうように、その周囲をゆっくり旋回し、半ばひらいた窓から、悠々と夜空へ飛んでいってしまいました。
「あ、待って!」
 なぜかワダさんは、無意識に蝶々に話しかけていました。夜空に飛んでいった蝶のあとを追いかけて、窓にとびつくと、そこからは真っ暗な公園の森がひろがっているばかり。普通の家庭なら、もう寝静まっている深夜でした。公園と県道をくぎって、街灯の明かりが規則正しくともるさびしい闇夜、蝶々はもうどこにもいません。
 見間違いだったのかな? とワダさんは目をこすりました。幻覚? まさか…。
「揚羽蝶ではないし、なんだろう」
 どきどきする心臓をおさえて、マキさんのベッドを見やると、マキさんは規則正しい寝息のまま、仰臥位をやすらかに保って眠っています。自力で寝返りが打てるので、体位変換の必要もありません。
 あれ? とワダさんは目を凝らしました。
 マキさんの胸元から顔にかけて、何だか、うっすらときらめいています。顔を寄せてしげしげと確かめると、マキさんの夏掛けふとんの胸元、顎に、さきほどの蝶々のつばさからこぼれおちたのか、霧でふいたようなこまかな光の粉が、うすく残っているのでした。ワダさんは、おそるおそる人差し指で、夏掛けの襟まわりに残る粉をぬぐってみました。するとワダさんの指さきも、淡く光りました。
 驚いたワダさんは、マキさんが蝶々の燐にかぶれてはいけない、と気をとりなおし、顔をぬぐう蒸しタオルをとりにランドリーへ走りました。ですが、おしぼりをひろげてマキさんの寝顔にもういちどかがみこむと蝶々の名残とみえた淡いきらきらは、すっかり褪せて、何も見えなくなっていたのでした。

 また、別な夜のことです。サカモトさんのお当番でした。見回りにフロアを一巡したサカモトさんは、これといって異変のないことを記録しおえて、仮眠しようとしました。すると、どこかで、はっきりと、笑い転げる子供たちの声が聞こえてきました。入居者さんのヒトリゴトやウワゴトなんかではなく、はっきりと、まだ幼くて変声期前の澄んだ声。それもひとりではありません。しかもすぐ近くで。
「?」
 サカモトさんはおどろいて仮眠ベッドからおきあがり、声の響くフロアの暗がりに入ってゆきました。
「マキさんの部屋?」
 あれ? どうして鍵がかかっているの? マキさんは自分で内側から鍵をかけることはできません。ぴったりと閉まった扉の向こうで、にぎやかなこどもたちの声とマキさんの話し声がいりまじって聞こえます。
 サカモトさんは、急いで鍵をはずし、引き戸をほそくひらいて、中を覗き込みました。
 さんさんと輝く熱帯の太陽の下に、見渡すかぎり、目路をかぎりとあざやかな緑色の森が生い茂り、ひろがっていました。扉をあけたとたん、今まで間近にみたこともないようなシダ類の濃い匂い、太陽に絶えず熱せられながら育ってゆく樹木独特の、熟れた果実のようなほのぐらい湿度がどっとサカモトさんの顔にかぶさってきました。それは同じ夏といっても、日本の暑さとはくらべものにならない強烈な原色の暑さのカタマリでした。
 サカモトさんは腰がぬけそうでした。すこし離れた谷あいの棕櫚のような木に、おおきな暗緑色のアナコンダがぐるぐるとまきついていて、そのアナコンダの首に、寝間着姿のマキさんが、ちょこんと腰掛けているではありませんか。アナコンダの頭は、マキさんのおしりを支える椅子みたいにひらべったく、朱色の舌をちろちろとひらめかせていました。
「マキさん、たべられちゃう!」
 とサカモトさんは叫びたかったのですが、声もでませんでした。マキさんは、片手で棕櫚の幹につかまり、自力で上半身をしっかり支え、安定した座位を保っています。大蛇の頭に乗っかっていて、両足は宙に浮いているというのに、ちっとも怖がっている様子はなく、うれしそうにわらっているのでした。マキさんは、痩せて青白い両足を、ちいさいこどもみたいにぶらんぶらんと交互に揺すって、なにか歌をうたっているようなのです。たくさんのこどもの話し声と聞こえたのは、どうやら、そのマキさんの歌声なのでした。九十歳近いマキさんの喉から熱帯の森に歌いだされる声はかろやかに弾んで、無邪気で、それはたしかに、マキさんひとりの声ではなく、たくさんのこどもたちの声が入り混じっているのです。マキさんの喉を通じて、何人、何十人ものちいさい子供たちが、たくさんの小鳥のようにさえずりうたっているのです。
 マキさんの肩さきには、金いろの蝶々が舞っていました。あれ? 蝶々は、よく見ると、純子さんでした。純子さんの背中に金いろの羽が生えていて、ちょうどマキさんがアナコンダの頭に坐っているのとそっくり同じ姿勢で、蝶々の純子さんは、マキさんの肩にとまり、マキさんと同じように、ほそながい両足をぶらぶらさせながら、マキさんと声をそろえてうたっていました。
 熱帯の太陽はものすごく強烈なので、樹々の木蔭は、太陽のまばゆさのために、深く暗い穴が森のなかにひろがっているようでした。
まぶしさと暗さ、むせるような水の匂い、金いろの蝶々純子さんは、ふいにサカモトさんに気がつくと、マキさんの肩からとびあがってこっちに飛んできました。サカモトさんの眼の前で、蝶々はくるりととんぼがえりをうつと、次の瞬間人間の女の子の大きさに戻り、
でも、その背中には、半透明な蝶々のつばさがゆらゆらと残っています。
「歌いましょうよ」
 純子さんは、なめらかな日本語でサカモトさんに言いました。サカモトさんの手をひっぱって、純子さんは森へ誘いました。こわい、としり込みする余裕もあらばこそ、サカモトさんは、ふわふわと純子さんといっしょに空を横切り、樹々のざわめきと小鳥のさえずり、いろんな生き物の気配が、混沌とうずまくような深い森の奥へ招かれてゆきました。
 アナコンダの頭にはマキさんが坐っていたので、アナコンダは、サカモトさんのためにしっぽを提供してくれました。しっぽといっても、太い木の幹くらいあり、サカモトさんがまたがるのに十分でした。大蛇のしっぽにまたがるなんて、正気の沙汰ではありませんが、ここまで来ると、なりゆきまかせの好奇心で、サカモトさんは、怖さも消し飛んでしまいました。
 マキさんは、サカモトさんに、おっとりと
「日ごろ、お世話になっておりまして」
 と丁寧にあいさつし、
「純子ちゃんがブラジルに連れてきてくれましたので、こうして命の洗濯をしております。
あなたもよろしかったら、ごいっしょにいかがでございますか」
 と言いました。
 たくさんの、たくさんの小鳥たちの虫たちの合唱が、マキさんの喉から湧きおこりました。こどもたちの声、数知れぬ森にひそむ生き物の声が、マキさんの全身を揺すってあふれ、ざわめいて空にうねり昇るようでした。純子さんは、いつのまにか、蝶々の大きさにちいさくなって、マキさんの顔のまわりをとびまわっています。
サカモトさんも、いつのまにか、そんなマキさんといっしょに、声をはりあげて、歌い始めました……。サカモトさんの耳に、マキさんのおだやかなつぶやきが聞こえました。
「長生きはするものでございますねえ。なにもかもうとましくなって、はやく主人に迎えに来てくれるように、毎晩泣いておりましたのに、こんな幸せなめぐりあわせも、世の中にはあるんですねえ……」
 というところで、仮眠ベッドの枕元に置いた時計のアラームが鳴って、サカモトさんは目を覚ましました。
 時刻は四時。夜明けの見回りです。眼が覚めても、サカモトさんの胸は高鳴り、太陽と緑のエネルギー吹き上がるジャングルで、大声でうたった快さが手足のすみずみまで、じんじんとのこっていました。こんなダイナミックな夢を見たのは、サカモトさんは生まれて初めてかもしれません。こんな夢なら何度でも……ずうっと見ていたいなあ、とサカモトさんは、ついさっきまでアナコンダのしっぽにまたがって、遠い熱帯の森を眺めたことを、まるでほんとうにあった情景のように思い出しました。

 八月はあっというまに過ぎてゆきました。今年の夏も猛暑でしたが、純子さんは炎天下を、楽しそうにやってきて、一日の何時間かは必ず、マキさんといっしょに過ごしていました。
「いい曾孫さんよねえ」
「あんな子なら、あたしも欲しいわ」
 と誰もがうらやましがりました。純子さんは高齢者のなかにいて、退屈もせず、唄をうたったり、体操をしたり、言葉はあいかわらずイミフメイでしたが、数週間のうちに、ジェスチュアや声音、表情で、職員との気心も通じ合うようになっていました。
純子さんの訪問のおかげで、マキさんは歩けるほどにはならないものの、食欲は増し、栄養がゆきわたって、めきめきと元気になりました。
 真夏のあぶら照りの峠を超え、お盆が過ぎて、九月も近づこうというころ、はやくも台風が季節の変わり目を告げ始めました。
 純子さんは、ある日、すこし沈んだ顔で「やすらぎ」を訪れました。東シナ海で、台風何号かが発生し、日本の近海は大時化となり、遠くはなれた内陸の空をゆく雲も足早に走り、照りつける残暑の陽射しもどこやら黒ずんでいます。明日の晩か、明々後日には、もしかしたら台風が本州に接近、上陸するかもしれない、などとニュースもちらほら聞こえてきます。
 午後遅くになって「やすらぎ」のエントランスに入ってきた純子さんの髪は、時折前触れなく吹きつのる大風にもつれて、すこしぼうぼうしていました。着ているTシャツは汗でぐっしょり濡れて、素のままの背中にはりつき、きゃしゃなおさない肩甲骨が、うすい木綿生地をすかして、いたいたしいほどくっきりと浮き上がって見えます。
「あら、純ちゃん、今日は遅かったのね。マキさんのお昼は終わっちゃったのよ」
 職員は純子さんに話しかけました。すると純子さんは、にっと白い歯を見せて笑顔をつくりましたが、なんだかその表情はこわばっていて、泣き顔のようでもありました。
「帽子をなくしてしまったの。風で飛んでいっちゃった」
「あら、かわいそう」
 純子さんは、ウン、とうなずいてそのままずんずんマキさんの居室に向かいました。あれ? と職員は首をかしげました。純ちゃんは日本語で喋らなかった?帽子をなくしたって?
 でも深く考えるひまもなく、ちょうどポケットの呼び出しコールが鳴り、職員は、あたふたと、コールサインの明滅する入居者さんの居室に、走ってゆきました。
 その日の夕方、純子さんがいつマキさんの部屋から出て行ったのか、誰もしりませんでした。予報に急かされて、施設では、嵐を迎える準備をはじめ、庭先の植木鉢やアウトドア専用の椅子、テーブルなどを安全な場所に移す作業や補強仕事が増えて、そうでなくてもケアでいそがしい現場は、てんてこまいになってしまったからでした。
 晩ごはんの前、職員がマキさんの居室にゆくと、電灯もつけないうすぐらい室内で、マキさんは車椅子に座って、窓の外をぼんやりとながめていました。
 公園の欅の大木が、大風にゆさゆさと揺れ、
時折ふいに、ごおっと音をたてて強くなる風に、樹々の葉が、まるでひっ詰められた髪の毛筋のようにいっせいに同じ方向へ吹き靡きます。西の空には、真っ赤な夕焼けと黒々とした厚い雲とがくっきりと空を彩り、飛ぶような速さで千切れ雲たちが走ってゆく様子は、なんだか得体の知れない胸騒ぎのような光景でした。
「マキさん、純ちゃんは帰ったんですね?」 
 職員が何気なく尋ねると、マキさんは静かにうなずいて、
「そうなんですよ。しばらくは、あの子はここに来られないと、お別れを言いに来てくれたのよ」
 え? と職員はびっくりしました。マキさんの理路のとおった言葉を聞いたのは、ほんとうにひさしぶりでした。まだら認知症では、よくあることなのなのですが、混乱とクリアな状態とが混在していて、はたからは、そのさかいめがつかみにくいものなのですが、もう長いこと、マキさんとの言葉での対話は、できなかったはずなのです。
「怪我をしてしまったんですって。だから、よくなるまで来られないそうです。」
「それじゃ、治ったらまた純ちゃんは着てくれますね」
 驚きを隠して、職員はさりげなく会話を続けようとしました。
「ハイ、彼岸花が咲いてね、真夏の暑さがもういっぺん戻るころ、その彼岸花をなくした片腕のかわりにして、いっしょにブラジルに帰りましょうって、言ってました」
「?」
 マキさんは、すこしかなしげに眉を八の字に寄せ、それっきり、また押し黙ってしまいました。
 次の日、そのまた次の日にかけて嵐は「やすらぎ」の上空をゆっくりとわたってゆきました。
 八月もおしまいの数日で、台風は日本の真夏を幾分かわしづかみにちぎり、能登半島から日本海へと大股に歩み去りました。大風が行ってしまったあとの青空は、台風が湿度のよどみをむしりとった分だけ、すこし高く、透明になりました。
 残暑がぶりかえし、濃い夏空に、すこし元気のない入道雲が、またもりあがり、西風が吹いて、季節は移ってゆくのでした。
 純子さんは、マキさんの言ったとおり、それっきり「やすらぎ」に現れません。でも、嵐の前日にマキさんのクリアな台詞を聞いたのは、その職員ただひとりでしたし、最後の「彼岸花うんぬん」は、マキさんの混迷のヒトリゴトのように聞こえました。
「さびしくなっちゃったねえ。純ちゃんはどうしたのかしら」
「学校も始まったでしょう」
「外国に帰ったのかもね」
「ご家族はついにいらっしゃらなかったわねえ」
「何処に住んでいたのかしら」
 住所くらい確認しておけばよかった、施設長は後悔しましたが、あとのまつりでした
といっても、「やすらぎ」にはべつだん何の被害もなく、ただマキさんの容態は、ふたたび悪くなり、以前と同じように食欲もなくなってしまいました。
 どんよりとした残暑は、真夏の熱気よりも衰弱した高齢者にはつらいものです。マキさんは水分だけはかろうじて摂取するものの、食事はほとんど見向きもしませんでした。
「これは危ない」
 と誰もが思い始めたのは、九月の半ば近く。
朝になってもマキさんがこんこんと眠り続け、目覚めなかったからでした。
 規則正しい寝息をたて、マキさんは整ったきれいな表情で、眠りから覚めません。時折は、薄目をあけて、ぼんやりとあたりを眺め、またすぐに瞼を閉ざし、すこし口を開けて、ひゅうひゅう、とかすれた呼吸の乱れることもあります。そうこうするうちに体温はしだいに下がってゆきます。かと思うと、残暑きびしい日には、暑気をそのまま肉体に移して、びっくりするほど高温になったりもするのでした。
 日勤、夜勤ともに、職員はマキさんのターミナルを心構えするようになりました。
 マキさんの臨終には、ご家族がいない。それはさびしいことでした。
 また何度か大風が吹いて雨が降り、暑さと秋の涼しい気配とが、ゆるい綱引きをしながら日本列島の彩りを変えてゆきました。
 その晩の夜勤職員は、スガイさんだったそうです。
 スガイさんは、マキさんに、ゼリー飲料をほんの少しあげたあと、マキさんが全身汗びっしょりなので、蒸しタオルで、上半身ぬぐってあげました。もう九月も半ば過ぎというのに、じっとりと蒸し暑く、また台風でも来そうな気配でした。マキさんのケアをいちばん最初にすませたスガイさんは、他の入居者さんの睡眠を確認し、リビングに戻り、それぞれの記録を済ませたあと、ひとつだけ灯しておいた電灯を消して仮眠ベッドに入ろうとしました。
 ……すうっ、とね。闇夜が降りてくるみたいな感じでまっくらになったんですよ。電気を消したとかではなくて。電灯を消しても、非常口や、常夜灯の明かりで、あたりはすこしぼんやりと明るいでしょう。そうじゃなくて、映画館で映画の上映が始まる直前みたいにまっくらになって。なんだか変だ、と思いましたが、停電かもしれないと、じっとしていたんです。でも停電じゃなかった。だって、あたしの眼には、壁をいくつも隔てたお部屋で眠っているマキさんのベッドがはっきり見え始めて…。
 リビングからマキさんの部屋までは、他の入居者さんの部屋があります。それなのに、はきりとマキさんが透けて見えました。
 マキさんは眠っていました。マキさんの顔の上に、大人が両手をひろげたくらいに大きな金いろの蝶々がはばたいていましたが、その蝶々の片羽は、すこし折れてひしゃげていました。そのせいで、蝶々の飛び方は、ぎくしゃくしているようでした。蝶々はマキさんの顔すれすれまで降りてくると、よく光る青い、巻貝のような触覚で、マキさんの顔に触りました。すると、マキさんはぱっちり目をあけて
「純子ちゃん。待っていたよ」
 と言ったんです。その声もはっきり聞こえました。そしたらね、そのあと、ゆっくりマキさんの体が縮んで、輪郭が人間じゃなくなって、……いえ、怖い感じは全然しませんでした。マキさんはもう全身透けるように痩せていらっしゃいましたから、そのからだがもっと透明なガラス玉か、手毬みたいに小さくなって、からだの反対側の痩せて骨の突き出た背中のほうからは、蝶々の羽根が生えてきました。微速度撮影で、植物の芽吹きや、莟の開花、蛹の変態、そんな映像を見ることありますけれど、あんな感じです。変化する前は、変化したあとの姿を予測することができない全然べつなかたちから、もっと別なかたちへ移り変わってゆく。
マキさんの皺や骨が、どんどんかたちを変えていって、蝶々になってしまうのにあんまり時間はかからなかったと思います。いつのまにか、まっくらな闇の中に、純子さんの蝶々と、マキさんの蝶々が、仲良く跳んでいました。そのほかのいろんな家具や、扉や、壁なんかはぜんぶ消えてしまって、果てしない闇夜にはばたく蝶々だけ。わたしの眼には、金いろの蝶々だけがくっきりとあざやかに見えたんです…。
 蝶々は仲良く旋回していました。ゆっくり、闇夜のまんなかを。蝶々の向こう側に、こっちとは別な夜空がひらけていました。果てしない無数の光りの粒の寄り集まり……空気の澄んだ夏の夜の天の川みたいにきらきらした世界。だから、まっくら闇というわけではなかったんです。こどもの声が聞こえていました。ひとりじゃなく、大勢のこどもたちの声です。はしゃいで、はねまわっているような……たくさんの鈴を降り鳴らす、笑い声みたいな。小鳥のさえずりみたいな……。
そのあとまた突然、すうっと、幕があがるみたいに闇夜は消えた、とスガイさんは言いました。
 常夜灯のあかるさに、有料老人ホーム「やすらぎ」のリビングと廊下、入居者さんの個室の扉、仮眠ベッド、壁、家具調度……きちんと整った異変のないちいさな日常がスガイさんの視界へ戻っていました。
 スガイさんは、急いでまたマキさんの居室にゆきました。マキさんはやすらかに眠っていました。かぼそいものの、まだはっきりと呼吸があり、胸が上下し、静かに眠っています。スガイさんは、どきどきしながらマキさんの安否をたしかめ、仮眠ベッドに横になりました。
 そうして、夜明け前、四時の見回りに、マキさんの部屋を開けると、ベッドはからっぽでした。
 マキさんは消えていました。
 あわてふためいたスガイさんは、別なフロアの夜勤職員に応援を求めました。それからすぐに、施設長に緊急連絡……。警察、消防署、行方不明…徘徊?誘拐?
 マキさんは自力で歩けないはずでした。車椅子もそのまま、ベッドサイドに残っています。「やすらぎ」エントランスの鍵は二重で、しっかり内側からしまっていて、とうてい体の不自由な高齢者に開けることなど不可能でした。
 結局、マキさんは、しばしばある「迷子で行方不明になったまま戻らない認知症高齢者」のひとりになりました。ご家族がいないので、誰が責められることもありません。内鍵がかかっていたので、スガイさんの責任でもありません。
 純子さんはどこの国にいて誰の子? それもわかりません。蝶々や、熱帯樹林、天の川の夢は、それぞれの職員が、胸にしまっておいて、お互い口には出しませんでした。スガイさんの見たものだけは、職務上、施設長と事務長が聞きましたが、条理疑わしく、ありのままにおおやけに残せるものではないので、もっと味気ない、あたりさわりのない記述で記録簿に書き残されました。
 けれども、ワダさんも、サカモトさんも、スガイさんも、自分の見た夢やまぼろしをずっと忘れませんでした。自分では決して思いつかない、あざやかできれいなまぼろしや夢は、なんだか、それまでの人生で思いがけずみつけた宝石のようでした。

海と月のこども

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海と月のこども
 櫂は、五歳の男の子です。
 パパとふたりで、海沿いの小さな町に住んでいます。家族はパパだけ。ママはいません。ママは、櫂の妹を春に生んで、具合が悪くなり、赤ちゃんを産んだ病院で、その後、間もなくパパと櫂に見守られて亡くなったのです。
 生まれたばかりの妹は、ママのお母さん、櫂のおばあちゃんがひきとってゆきました。おばあちゃんは、櫂とパパの住む町から少し離れた町に住んでいて、ときどき櫂とパパの世話をするために来てくれます。櫂もパパが休みのときには、パパといっしょにおばあちゃんの家に遊びにゆきますが、ママが亡くなったばかりのころは、会社を休むこともそれほどむずかしくなかったパパはこのごろ、忙しくなって、櫂は赤ちゃんの妹に、もうずっと会っていません。
 ママがいなくなった部屋は、からっぽで寂しい部屋でした。幼稚園から帰ってくると、櫂は、空っぽの部屋で、テレビもつけずに、ぼんやりとパパを待っていました。テレビやラジオをつけると、耳に残っているママの声が聞こえなくなるからつけません。櫂は、たったひとりで、記憶に残っているママのなつかしい声とお話していました。
 玄関の扉をあけると、うすぐらい室内から、暖かくやわらかいママの声が聞こえるのでした。
おかえりなさい、櫂
 おかえりなさい…その声は、世界じゅうの誰よりも優しい声でした。ただいま、と櫂は心のなかで答えます。今日はね、幼稚園の花壇に朝顔の種を撒いたよ。
  早く芽が出るといいわね。
  うん。
 声に出さなくても、ママと櫂は、心の中でいろんな会話をしていたのです。櫂にはママの姿は見えません。でも、たしかに、誰かが
櫂の心の声に答えてくれて、それはたしかにママなのでした。
 パパは、なるべく早く帰ってこようとするのですが、帰宅はたいてい、櫂が眠ってしまってからでした。晩御飯は、冷蔵庫の買い置きのお弁当を、チンして、櫂ひとりで食べました。あんまりおいしくありません。
櫂は、いつのまにか、口が利けなくなってしまいました。パパがそのことに気づいたのは、櫂の症状が、かなりシンコウしてからだそうです。パパとおばあちゃんはびっくりして、櫂をあちこちのお医者さまに連れて行ったのですが、治りませんでした。お医者さまの声は、固くてこわくて、櫂は両手で耳をふさいで反抗したので、パパもおばあちゃんも、びっくりして、櫂を病院へ連れてゆくのをやめてしまいました。
ハッタツショウガイのカノウセイが…パパとお医者さまは、難しい言葉を難しい顔で交わしていました。パパは泣き出しそうに見えたので、帰り道、櫂はパパを慰めようとににっこり笑ってパパに抱きついたのですが、
やっぱり声は出ませんでした。パパ、ぼくだいじょうぶだからね、元気出して。櫂はそれを心のなかでパパに言ったのですが、声にはならず、パパの耳には聞こえなかったのです。
 
 夏が過ぎ、秋が終わり、また春になって、櫂はもう幼稚園にも行きません。みんなが櫂を仲間はずれにするので、幼稚園に出かけるふりをして、櫂はぶらぶらと家に帰ってきてしまうか、ときにはそのまま海辺へ出て、暖かい日は、ぼんやりと海をながめて過ごしていました。
 自宅に帰ると、櫂を心配するママの声が聞こえるのです。
  櫂、どうしてこんなに早く帰ってきちゃうの?
 姿の見えないママの声は、とてもかなしそうです。その声を聴くのがつらくて、櫂は、だんだんママにも話しかけなくなりました。
 晴れの日の海はゆったりと大きく動いて、浜辺に打ち寄せる波音は深くひろくざわめき、たくさんのママの声を寄せ集めたように聞こえました。ちいさい櫂は、浜辺の公園のベンチに膝を抱えて、きらきら光る水面をぼんやりとながめていました。
 波音のざわめきは、とてもたくさんの声が入り混じっていて、その全部がママの声なのか、それとも違う誰かの声も混じっているのかわからないのですが、ママのかなしい言葉はもうきこえなくなり、ただおっとりとうたうような、歌詞のわからない子守唄の合唱のようでした。
 海から櫂の家までは、すぐ近くでした。
 櫂は、パパがなかなか戻ってこない、眠れない夜は、ベッドをぬけ出して海へゆきました。
 眠れない夜に聞こえてくるママの声は、ときおりすごくかなしげだったからです。
 夏近いある夜、櫂はまた渚へゆきました。
 月のあかるい夜でした。満月がきらきらと空のまんなかでひかっていました。櫂が時間を潰そうとしたいつもの海辺のベンチには、その晩、見たこともないちいさい女の子が坐っていました。
女の子は、ベンチに深く寄りかかって、地面にとどかない足をぶらぶら揺すりながら、月を眺めていましたが、櫂に気づいて、
「あなた、だあれ、」
「……」
「名前を教えてよ」
 ぼく言葉が出ないんだ、と櫂は心のなかで答えました。
「ちゃんと話してるじゃない」
 女の子はませた口調で言い返しました。女の子は、櫂と同じくらいの年齢か、もっとちいさいくらいでしたが、おとなっぽいしぐさで、両肩にふりかかる髪をかきあげ、櫂に笑顔を向けました。
「話してる?」
「ほらね」
口を閉じた貝のようにひらかなかった櫂の喉が、なめらかにひらいて、声が出てきました。女の子は人見知りをしないあかるい笑い声をあげ、櫂のために、横にずれて座りなおし、
「ここに来て坐って」
「うん」
「わたしはカイよ」
「僕も」
「同じ名前?」
「僕の名前は、舟をあやつる櫂」
「わたしは貝殻のカイなの」
 貝は、つぶらな目をみひらいてしげしげと櫂を見つめ、いっしょに遊ぼうよ、といいました。
「何をして遊ぶの?」
「貝殻をひろうのよ」
「暗くて見えない」
「そんなことないわ、ほら」
貝が砂浜を指差すと、満月の光りが渚いっぱいに満ちあふれて、まひるよりもっと透明な明るさに包まれています。
「引き潮なの」
まぶしくなく、翳もなく、澄んだ波のあいだから、波よりも透きとおった光の反射で淡い光がまたさしのぼるように、月光と海は照り返しあい、貝はベンチからとびおりると、光る渚へ向かって、長い髪をなびかせてまっすぐに走ってゆきました。
「すごく長い髪の毛」
 櫂は女の子の後を追いながら、目をみはりました。貝の髪は頭のてっぺんから背中まで王女さまのドレスみたいにふわりと扇型にひろがり、一本ずつの髪が、光る絹糸のように潮風にもつれもせずきらきら、さらさらと流れるのでした。
「こんなきれいな髪の毛、ぼく見たことない」
「ありがとう」
 貝はぱっと顔をかがやかせて櫂をみつめました。
「あなたって、とってもすなおな子なのね」
「子?」
「そうよ」
「君だってこどもじゃないか」
 櫂は自分が貝よりも幼いこども扱いされたみたいでちょっとむっとしたのです。貝とぼくは、同じくらいの年だろ?
「わたし、ながいきしてるのよ」
 貝はつん、と横をむきました。月光は人形のような貝の白い頬をなめらかに縁取り、長いながい貝の髪の毛は、海と渚のおぼろな翳につつまれて、うすぼんやりと水色に滲んで見えました。
「ながいきって?」
「ねえ、貝殻をひろいましょう」
 ちょうど引き潮で、濡れた浜辺には、貝殻がたくさん打ち寄せられていました。それらは、まひるに櫂が見かける貝殻とはちがって、ひとつひとつが、磨かれたようにきらめき
ガラス細工のようでした。貝はそのひとつひとつを丁寧にひろいあげ、スカートのポケットにしまいました。櫂も、いっしょに貝殻をひろいました。ひとつ拾うたび、貝殻からきよらかな水が流れ出し、櫂と貝の周りには、貝殻からこぼれた水が虹色の飛沫となってしたたるのでした。貝殻から水が砂浜にしたたるとき、ごくかすかな音が聞こえました。それは、りんりん、りーんと鈴が触れ合うような響きでした。
 巻貝や、二枚貝、ヒトデの乾いたみたいなのや、でこぼこした石ころみたいな貝殻……「いろいろな貝殻があるね」
「これは、海の魂なの」
「たましいって?」
 貝は櫂の質問にはこたえず、うれしそうに、にこにこしていました。貝は、ママにはぜんぜん似ていませんが、ママのような笑顔でした。
「今夜はもうたくさんひろったからいいわ。明日の晩も来てくれる?」
 貝はスカートのポケットをふくらませ、満足そうに言いました。スカートにはポケットが二つついていましたが、濡れた貝殻をいっぱいに詰め込んで、いまにもはじけそうな風船みたいでした。
「ぼくも貝殻もらっていい?」
 貝はちょっと黙りこみ、困ったように小首を傾げました。しばらくまじまじと櫂の顔をながめて
「じゃあ、明日もきっと来てね。ひとつだけあげるわ」
「けちだなあ。だってぼくがひろった貝殻なのに、ひとつしかだめなの?」
「ひとりのひとに魂はひとつって決まっているもの」
「君はそんなにいっぱい持って帰るの?」
「わたしは、帰らない」
 貝はなんだかさびしそうでした。
「帰らないって?」
「まだ帰らない。いつかは帰るんだけど、それまでは、ずっとここにいるの」
「ここに?」
「そうよ」
「お家はどこなの?」
「ここよ」
 パパや、ママは?
 と櫂が口を開く前に、貝はくるりと背を向けて、小鳥のようにぴょんぴょんと走って行ってしまいました。ながいゆたかな髪が、あかるい月の光りにふわふわと輝いてひろがり、なんだか翼をひろげながら、砂浜を伝い飛んでゆく鴫や千鳥の姿に似ています。
「明日もきっと来て……」
 見る見る遠ざかってゆく貝の声が、櫂の頭のなかで、はっきり聞こえました。
 櫂の手の中には、巻貝がひとつぶ残りました。それは、きっとどこか遠くの南の国の貝殻で、いろんな飾りをトッピングしたアイスクリームのさきっぽのように、赤や、青や、紫、緑いろの筋が縞模様を描き、ところどころに、明るい茶色の斑点がスパンコールみたいに散っている、見たこともないほどきれいな巻貝でした。

 それから、毎晩のように櫂は海に下りて貝と遊びました。貝殻をひろうこともあれば、砂遊びをすることもありました。湿った砂を積んでお城をつくったり、ふたりでもりあげた砂山のまんなかにトンネルを掘ったりしました。
 貝と遊ぶとき、夜の海はいつも引き潮なのでした。昼間櫂は海辺にやってきて、貝を探したのですが、それらしい女の子はどこにもいずに、満ち潮の海は青く深いみどりや、濁った灰色にざわめいて、狭い浜辺の防波堤やテトラポットに襲いかかるような波しぶきをあげ、貝のいる月夜の遠浅のおだやかな渚とは、別な海みたいでした。
 また、引き潮の海でも、貝のいる海とはぜんぜんちがっていました。濡れた砂浜も波も、真夜中ほどのひろびろした感じはなく、いろいろなものがはっきりと見え、物音はやかましく波の合唱も濁って聞こえました。きれいな貝殻もみつかりません。空き缶やくだけたガラス、心ない誰かが捨てたゴミなどがちらばって、櫂の幼心にも、不潔でごたごたして見えました。
「同じ海じゃないみたいだなあ」
 と櫂は考えました。貝のいる海は、いつも風は凪いでいて波は遠くで静まり、お月様が中空にゆったりと昇り、ふたりのこどもをながめていました。流木や、藻屑みたいな残骸があちこちにおぼろな翳を作っていましたが、
半透明な月明かりのなかで、いろんなかたまりや翳は、ぜんぶうっすらと蛍のように発光しているのでした。
「貝殻をひろいましょう」
 幾晩めかの夜に、いつものように貝は渚へ降っていきました。そのうしろ姿を見て、櫂はびっくりしました。
「貝、君の髪の毛、伸びたね」
 貝と初めて会ってから、十日とたっていないはずでした。満月だったお月様は、ひとばんごとにほっそり痩せていって、今は三日月顔の頬がちょっとふっくらしているくらいです。腰のすぐ上にふりかかっていた貝の髪の毛は、いつのまにかどんどん伸びて、膝小僧に届いています。
 立っている貝の全身を、ゆたかな髪がすっぽりとくるみ、月光のかげんで、女の子をつつむ虹のマントのように見えました。
「もうじきあたしの背丈とおなじになるわ」
 貝は困ったように月を見上げました。
「どうして君と遊ぶとき、海はいつもひろいんだろう?」
 思い切って櫂はたずねてみました。
「この海は、ふだんの海とはぜんぜん違う。昼間の海はもっと……」
「もっと?」
「ちいさいし、せまい」
「同じ海よ」
「でも違うふうに見える」
「これがほんとうの海なんだけど」
「ほんとうの?」
「変わらない海ってこと」
「雨や台風はないの?」
「あるわよ」
「でも君と遊びはじめてから、そんな日はない」
「あたしがもうじき帰らなくちゃいけないから、海は静かにしていてくれるの」
「帰る? お家へ?」
 うん、と貝はうなずきましたが、また月をみあげて、おおきな目いっぱいに涙をためて言いました。
「あたしの髪の毛が、あたしの背丈と同じに伸びたら、あたしは帰れるんだけれど、もうずっとここから離れられないでいたの。でも櫂が来て、いっしょに遊んでくれたから、力がついて、貝殻が集まり髪の毛が伸びたの」
「?」
「この貝殻は海の魂なの」
「うん」
「人間が死ぬと、その魂はいろんなところへゆくの」
 貝は砂浜にしゃがんで、ひとつひとつの貝殻を丁寧にひろい始めました。雫がほたほたとしたたって、砂地に触れると、秋の松虫みたいな音がチーンと聞こえました。
「山へゆく魂もあるし、川をえらぶ魂もある。海が好きなひとは、海へ来るの」
「好きなところへ?」
「そう」
 ママはどこへ行ったのかなあ、と思わず櫂は考えました。ママはどこを好きだったろう。
「山や海で、魂はしばらく暮らして、いろんなものを波や風で洗い流してから、空に昇るのよ」
「お星様になる?」
「星や月になるし、もっと遠くに散ってゆくこともある。あたしは、海でくらしたひとの魂を集めて空へ運んでゆく」
「どうやって」
 櫂はおどろいてたずねました。
「君、空を飛べるの?」
「あたしの髪の毛は、拾い集めた貝殻なの、ほら、よく見て」
 貝は、自分のふさふさした髪の毛をひとたば櫂の手に渡しました。櫂がながい髪の毛を月明かりに透かすと、ほそい髪の毛はレンズのようにひかって、さまざまな貝殻たちの姿
がまぼろしのように浮かんだり消えたりしました。
「あたしを運べるくらいに、貝殻が集まったら、あたしは満ち潮に乗って空へゆける、でも」
「でも?」
「海をきらいな思いが増えると、潮が満ちる力がすくなくなって、貝殻も集まらない」
「海をきらいな思い?」
「大きな災害が起こって、海のせいでたくさんのひとが死んでから、海は嫌われるようになっちゃった」
 貝はうつむいて、涙をぽとりと落としました。砂浜におちた貝の涙は、ちりんちりんと、ふたつみっつ、涼しい音をたてて砂に吸い込まれました。 
「でも、災害は海のせいじゃないのに。人間は眠っているとき、何度も寝返りを打つわ。ぐっすり眠りこんでいても。海底や、大地だって、ゆっくり動いているのよ。あくびもするし、のびもする。それに、このごろ、大地ぜんたいが暑くなってきて、海の底の温度もあがり、寝苦しくなった海は、ちょっと寝相が悪くなった」
「ふうん」
 むずかしいことを言うなあ、と櫂は思いました。貝がぼくよりながいきしているというのはほんとうのことみたい…。
「海の底がずれたら大津波が起きて、たくさんのひとが命を失った。悲しみがたくさん打ち寄せる海になってから、あたし、もうずっとここにいたの。でも櫂が来て、あたしをほめてくれたし、いっしょに遊んでくれたので、安心した貝殻がたくさん集まってきて髪の毛がどんどん伸びたわ」
「貝殻が安心する?」
「こわがったり、不安になったりすると、貝殻は海の中に隠れて、出てこない。あたしが呼んでも、海の魂は出てこないの」
「ぼくが君を好きだと、安心する?」
 うん、と貝はにこにこしました。
「帰っちゃやだ」
 櫂は貝の腕をつかんで言いました。
「ずっといっしょに遊んでよ」
「また戻ってくるわ。いったん帰って、海の魂を送り届けたら、あたしまた戻ってくる」
「また会える?」
「必ず」
 貝は笑顔でこたえました。
「だから、貝殻をひろってね。そしたら、海が満ちてくるから。新月になる前に髪の毛が背丈より伸びたら、それで空を渡れる。潮が満ちて、あたしを押し上げ、魂の飛ぶちからで、あたしも飛んでゆく」
「間に合わなかったら?」
「集めた魂は、またちりぢりばらばらになり、海へもぐってしまう。新月の晩はまっくらで、空の道も見えないの。そうすると、髪の毛も短くなって、あたしはまた最初から海の魂をひとつひとつ呼び集め、貝殻をひろう」

 櫂と貝は、それから毎晩、砂浜で貝殻を集め始めました。お月様がだんだん痩せて逝く海辺は、すこしずつ暗くなってゆきましたが、貝のまわりには、おぼろな虹色の光りが集まって、それはちょうど闇夜を静かに照らし出すぼんぼりの灯りのようでした。虹色の光りは、よく見ると、貝の髪の毛から放たれていました。
「君の髪の毛が光っているね」
「そうよ。ほら、これは海の魂たちの光り」
 貝の髪の毛は、まるで裏返した二枚貝のように淡いきれいな、薄いあぶらのような、真珠のような、七色の光りを滲ませているのでした。
「貝の光りなんだね」
「うん」
 貝は、ふたつのスカートのポケットがいっぱいになると、貝拾いをやめました。そのあとは、いそいで駆けてどこかへ消えてしまうこともあれば、すこしだけ櫂と砂遊びをしてくれることもありました。
 ぽちゃぽちゃとした貝の手は、ほのかなピンクいろをしていました。そのちいさな手は砂や、泥で汚れても、櫂の両手とはちがって、いつのまにかきれいな桃いろに戻っていました。
 貝殻をひろっているときも、砂遊びをしているときも、櫂はもう前のように、心の全部が楽しいわけではありませんでした。なぜって、櫂が貝を好きになればなるほど、たくさんの貝殻が集まってきて、貝はもうじきいなくなってしまうからです。
 貝の髪の毛は、ぐんぐん伸びました。
 そして、三日月が、やがて夜空にきらりと光る猫のつめみたいにするどくなったころ、とうとう貝の髪の毛は、足首よりも伸びて、ながいながい髪の毛のさきっぽが、砂浜にさわさわと触れるくらいに長くなりました。
「これでいいわ。あたし、帰れる」
 貝は初めて会ったときのように、睫毛をみひらいて櫂をみつめ、にこにこしました。
 月あかりはすっかり衰えていましたが、そのぶん、貝の虹色の髪の毛は、おとぎばなしの仙女さまのように水の輪のような輝きを放ちました。
「海が満ちてくるわ」
 貝は、遠くの磯をながめて両手を振りました。まるで、誰かに合図するみたいです。すると、海のはての、どこか見えない、ずっと遠くで、あたらしい風のかたまりが生まれるような低い唸り声が聞こえました。
「行っちゃいやだ」
 櫂は女の子の手をつかみました。やわらかい、ちいさな暖かい手でした。
「ぼくひとりぼっちになる」
「ひとりじゃないわ」
「ぼくは貝といたい。いつまでも遊んでいたいよ」
「戻ってくるから」
「いつ戻ってくるの?」
 貝は、まじめな顔をして、櫂の顔を覗き込みました。
「櫂が大きくなって、おとなになって、いろんな出来事があって、いろんな心を知って、流れる時間のうらおもてを知ったあとで、もういちどあたしに会うわ」
「それ、すごく先のことだろ」
「櫂は表の世界で生きているときに、あたしとこんな風に遊んだから、櫂がここで生きているうちは、もう会えないの。でも、あたしは櫂に、海の魂をあげたわ。だから櫂は死んだら海に来ることが決まっているの」
 貝は両手で、櫂の片手を握りました。すると、櫂のにぎりこぶしのなかに、いつのまにか、貝からもらった巻貝がありました。赤や青、緑、紫の縞目に金茶いろの斑点がきらきらしている不思議な異国の貝殻でした。
「誰かの魂をもらったひとは、そのひとのために、亡くなったあとそのひとを連れて同じところへ来なくちゃいけなくなるのよ。山の魂をもらったら、山へ。川の魂なら川へ」
 ぼくは海と貝が好きだから、ちっともいやじゃない、と櫂は思いましたが、かなしくて言葉になりませんでした。涙がぽたぽた流れました。櫂の涙も、砂浜に落ちて、りんりん、ろーん、とまろやかな響きをたてました。
「これは誰の魂なの? そのひとはいつ死んだの?」
「それはあたしにもわからないの。その魂が生きているうちにまとったかなしさや忘れてしまいたいものが、すっかり流れて洗われて、もう雲や風や、水と同じくらいに透明になってしまったら、その魂は貝殻にかたちを変えて、あたしのところへ来るの。忘れたくないものを忘れないで、いつまでも波に揺られ、海に棲んでいるのが好きな魂は、この世の終わりまでそこにいるの。いたいだけいるのよ。
苦しいことなんて、なにもないから。そうして思い出の歌をうたっている。海や、風のうたう声が、櫂の耳には聞こえるのよね」
「そうだよ」
 櫂は興奮して叫びました。
「ぼく、ママの声も聞こえるんだ」
「櫂のママはどこへ行ったのかしら」
「ママはぼくの家にいるよ。ぼくママとお話できたんだ。でも」
「でも?」
「ママの声が、だんだんさびしく、かなしくなっていったから、ぼくここへ来たのかもしれない」
「きっとそうよ。誰かにひきとどめられて、海にも山にも行けない魂は、表の世界では、だんだん元気をなくして澱んで沈んでしまうの。ママは苦しいのね。何処にも行けず、苦しい思いだけが増えてくるから」
「どうすればいいの」
「櫂が元気になればいいのよ。ほら、これをごらんなさい」
 と、貝は空の真ん中をゆびさしました。貝の指のまわりで、闇色はぽうっと白く滲んで割れ、櫂のパパが映りました。
「パパだ」
「櫂を心配しているのよ」
 櫂のパパはちょうど、会社から戻ったところでした。家に帰り着いたら櫂の姿が見えないのにおどろいて、かばんを放り出し、道へ飛び出したところでした。パパの顔はくしゃくしゃに歪んで、疲れきっていました。外に飛び出しても、どこへ行ったらよいのかわからず、パパは右左をうろうろしていましたが、櫂のいる海辺とはぎゃくの、まだ街灯りの残っているほうへせかせかと歩いてゆきました。
「ママが、こんなパパを見たら、かなしいし、心配するわ」
「そうだね」
「ママもきれいな貝殻になって……でなければ山の魂になって、汚れたものを洗い流して、歌って、きよめられたいでしょう」
「ママはぼくのこと忘れちゃうの?」
「そのひとが心に抱いたきれいな思いは、魂になったあとも残って、それで光るのよ。魂の光はそのひとの心を残すの」
「そうだね、君の髪の毛光っている」
 櫂は、もうどうしたらいいかわからずに、ただ貝をひきとめたくて、でもひきとめられないこともわかっていて、せつなくて貝の髪の毛をつかみました。ふわん、と櫂の手の中で、髪の束は風船が弾むようにふくらみました。櫂は一瞬でもいいから、貝をきらいになろうとしました。そしたら、貝はここにいてくれる? でもそんなことは無理でした。櫂は貝が大好きでした。このお別れの最後まで、お別れのあとまでも、ますます貝が大好きでした。
満ちてくる海のうしおは銀色に、また金いろに波を蹴立ててふくれあがり、今では、貝の足元にひたひたと寄せていました。
 お月様の光りがするどく、まっしろに世界を覆いました。
「あたし、飛ぶ」
 さわさわと貝の髪が、おおきな翼のようにひろがって、扇形に風を呼び込みました。櫂の握っていた髪の毛の束はするりと櫂の手から逃げ、海風が女の子の足元から上空にむかって透きとおったしぶきをあげて吹き上げ、その勢いに乗りかかるように、貝はのびのびと手足をひろげ、舞い上がりました。
 月明かりが藍色の夜空にまっしろな道筋をひいたように光線を投げて、貝はまるでひきよせられるようにぐいぐいと昇ってゆきます。虹よりももっとあかるい光り、ひろがった貝の髪の毛はそのまま翼になって夜空にはためき、遠くへ遠くへ見る見る去ってしまいます。
「また会えるわ。きっと会える。うらがわの世界はこわいことないの。あたしがいるから、きっと会いに来てね」
 遠ざかってゆく女の子は、鳥のようなかたちの光りの影となりました。りんりんと、いつのまにか、櫂の周りで砂浜がいっせいに鳴りだしました。幾百、幾千もの鈴を振り鳴らすような声をあげて、砂浜の砂粒がうたいだしたかのようでした。
 みあげる櫂の顔に、こまかな霧のようなしずくが降り注いできました。
「貝の涙だ」
 櫂は思いました。この世とお別れする貝殻の涙なのか、女の子の涙なのか、きっとその両方でした。
 海水が櫂の膝まで押し寄せ、水の勢いで櫂はぐらぐら揺れました。
「櫂、動くな!」 
 ふりかえると、パパが海岸をつっきって、
こちらへ走ってくるところでした。パパは懐中電灯をふりまわして、会社帰りの格好のまま、ざぶざぶと水のなかに入り、潮に呑まれそうな息子を抱き上げ、その間にもどんどんおしよせる暗い海水から逃れて、浜辺へ戻りました。
「なぜこんなとこにいたんだ」
 パパは大泣きしていました。櫂のほっぺたにぐいぐい顔をこすりつけて、パパは泣き出しました。溺れ死にするところだよ。
「貝と遊んでいたんだ」
 とても自然に、櫂はパパに答えていました。
「え?」
「貝といっしょに、貝殻をひろいあつめていたの」
 パパは、櫂が行方不明になりかけたことと、突然また声をとりもどした、というふたついっぺんの驚きで、パパのほうが声を失いそうでした。
 櫂はそこからうまく説明できませんでした。
「あのね、貝はお月様といっしょに、空へいっちゃったの」
 櫂は夜空を見上げました。
 三日月よりもっとほっそりしたお月様が淡く光り、その周りいちめん、ちいさな星々が 風や海に揺られて磨かれた貝殻のようにきらきらと光っていました。

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