さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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マーガレット

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   マーガレット

 メグが三歳のときに、ママはメグの生まれ持ったまなざしのふしぎに気がつきました。
ママはそれまで、メグの視力は、お医者さまの言うとおり、普通の子よりずっと低くて、生まれつきハンディを背負った赤ちゃんと思っていたのです。
 結婚した年齢が遅かったので、ママは、これから先赤ちゃんを産めるなんて思っていませんでした。ところが、パパと結婚して数年後、思いがけず赤ちゃんを授かりました。
 お医者さまは、いろいろ検査して、パパとママに、生まれてくる赤ちゃんが、女の子であること、それに、もしかしたら何か障害を持っているかもしれない、と告げました。
 パパとママは悩みましたが、奇跡のように授かった赤ちゃんが、この世界に生まれて欲しかったので、ママはがんばってメグを生みました。
 臨月までなんとか持ちこたえたママは、ずいぶん苦しいお産で赤ちゃんを生んだのですが、メグは未熟児でもなく、くりくりとよくふとっていて、元気な産声をあげました。
 でも、生まれて何日めかに、お医者さまは、赤ちゃんの目が、ほとんど見えないことを発見したのでした。
 パパとママは、赤ちゃんが障害児かもしれない、ということをあらかじめ覚悟していたので、悲しみはしたものの、娘の生まれ持った障害をちゃんと受け入れて、ちゃんと育てようと決めました。
「この子が無事にこうして生まれたことだけで、神さまのおめぐみよ」
 それで、こどもの名前はメグに決まりました。命名のもうひとつの理由は、少女時代、ママは『若草物語』が大好きだったので、その物語の主人公四人の姉妹の長女の名前をもらったのでした。
 メグの両目が見えないことを告げられたとき、パパはママに、
「この子にはこのさき、もっと何か障害が出てくるかもしれないが、それもおめぐみとして受け入れよう」
 ママは、そんなパパと結婚してほんとうによかったと思いました。
 パパとママは、メグをできるだけ普通のこどもと同じように育てようと願いました。幸い、育ってゆくメグには、視力のほかに、とりわけ不自由はなさそうでした。ママは、赤ちゃんに、できるだけたくさん話しかけ、ママの声を覚えてもらおうとしました。だっこして、赤ちゃんの眼が見えなくても、赤ちゃんの顔をじいっと見て、子守唄をうたい、声を聞かせ、たくさんの時間をこの子といっしょに過ごしました。
 これが林檎、これが鉛筆、お人形、クレヨン、哺乳瓶、スプーン、お花、薔薇に、チューリップ、葉っぱ、木の枝、パパのシャツ、
椅子に、クッション、お鍋……。
 ママは、ちいさな家の中で、その手で触れられるものに、赤ちゃんといっしょに触れて、それから、ひとつづつの名前を、赤ちゃんにささやきかけました。 
 ずっと大きくなってからも、メグの記憶のなかで、最初にたちのぼってくるのはママのあたたかくやわらかなささやき声でした。そうして、メグの手を包んでいたふっくらとした優しい感触でした。その手は、メグのちいさな手といっしょに、次々といろいろなものに触りました。あたらしいなにかのかたちに触れるとき、その温度や大きさ、重さを知り、名前を覚えてゆくとき、メグの脳裏には、ママの声で、ママの体温で、またそれは、なんとも表現しがたい、あたたかく、豊かなママの匂いといっしょになって、あたらしい記憶となって刻みこまれてゆくのでした。
 ぱっちりと見開かれた黒目がちのメグの両目は、あんまり瞬きをしない、ということの他は、外見は特に変わったところもなく、何も知らないひとは、この子が弱視で、ほのかな明暗しか感じ取れない、ということに気がつきませんでした。
 パパはお仕事があるので、赤ちゃんにつききりというわけにはゆきませんでしたが、できるかぎりママといっしょにメグを育てました。 
 こんな両親のおかげで、よちよち歩きのメグはもう、すこしはカタコトが話せましたし、人見知りも物怖じもせず、周りのみんなから可愛がられました。

 三つになるお誕生日のすこし前に、パパのママの節子さんは、重い病気にかかりました。精神保健福祉士の節子さんは、夫の淳治さんが亡くなったあとも地元のデイケアにおつとめを続け、自宅で一人暮らしをしていました。おばあちゃん、と呼ぶにはずいぶん若々しいひとでしたし、ずっと病気ひとつしたこともなかったのでした。
 お医者さまが検査をしたときは、もう余命わずかで、節子さんはその告知を淡々と受け止め、いろんな後始末を自分で済ませました。
 節子さんはメグをとても可愛がっていました。節子さんとメグのママとは、嫁姑というより、姉妹のように仲良く行き来していました。目の見えない赤ちゃんを抱えたママが、ときどきストレスでまいってしまいそうなとき、節子さんに助けてもらっていました。
「くよくよしたって、メグちゃんの眼が見えるようになるわけじゃないわ、安美ちゃん。
ひとりひとりは、ひとりひとりなのよ。神さまからいただいた個性がそれぞれあるんだもの。眼が見えない、ということも、この子にとっては、天から与えられたかけがえのないひとつの個性だと思うわ」
「個性?」
「はたから見たら、障害としか思えないことでも、これからさきメグちゃんがどんな生き方をしていくかによって、障害がほんとにおめぐみになることが、きっとあるわ」
「ハンディキャップじゃなくて?」
「ハンディ、なんて言い方は、自分に欠点がないと信じている人間の思い上がりだとわたしは感じるの。どんなひとにだって、多かれ少なかれ欠けた部分はあるものだから。たとえば、今、何の問題もない、というひとだって、ほんのちょっとした不注意や、不運で傷つき、心や体につらい障害を背負うことは、たくさんあるはずだもの。人間はたしかに、かしこいかもしれないけれど、そのかしこさ
って、それぞれ、世界のごく一部分でしか通用しない賢さじゃないかしらと私感じることがたびたびあるのよ」
「世界の一部分でしか通用しないこと?」
「うまく言えないけれど、メグちゃんにはメグちゃんの世界があると思う」
 心を病んだひとのケアをお仕事にしている節子さんは、メグのママの安美さんに対しても、ゆっくり言葉を選んで話そうとするのでした。そのせいか、言葉のおしまいは、こう書いてしまうと、どこか曖昧で、思わせぶりな感じになってしまうのですが、メグのママの安美さんは、節子さんとお話をすると、いつもほっと心が落ち着くのでした。節子さんが何を話そうと、どんな言葉を選ぼうか、と心をくだき、孫のメグと安美さんを思いやってお話しようとしているのが、あたたかく感じられるからなのでした。
「あちこち欠けた、たくさんのちいさな世界があつまって、この地球ができているってことかも。大きなジグゾーパズルみたいに」
「それ、わかりやすいわあ」
「人間って、凸凹したジグゾー・パズルのピースみたいなものかな?」
生き方にしたって……杓子定規にこうでなければいけないってことないのよ、と節子さんは言うのでした。
こんな節子さんは不治の病にかかっても、これで最後の入院、というぎりぎりまで、息子の駿男さんにもメグのママにも、なんにも知らせなかったのです。
 桜の花が咲き初める季節に突然入院し、周囲をびっくりさせた節子さんは、新緑の初夏、そうしてさみだれが空を濡らして紫陽花の彩り静かに街を染めるころ、逝ってしまいました。
 遺言どおり、お葬式は簡素なものとなりました。
 ささやかなご葬儀が身内だけでとりおこなわれました。ママは涙をぽろぽろこぼしながら、パパと協力してお弔いを済ませました。
 メグは、パパとママにかわりばんこに抱っこされていましたが、眠り込んでしまったときには、控え室の赤ちゃんベッドに寝かされました。
 弔問のお客さまの応接のあいまに、ママは控え室をのぞきますと、眠っているとばかり思っていたメグは、赤ちゃんベッドのなかで、ぱっちり目をあけて、お気に入りのクマのぬいぐるみを片手につかみ、もう片方の手を、上のほうにさしのべ、なにかに合図するようなしぐさをしながら、カタコトでいろいろしゃべっています。
「?」
 ひとりで何をしゃべっているのかしら、と安美さんは奇妙に思い、そっとメグのベビー・ベッドに近寄りました。
「メグちゃん、ごきげんね。なにをお話しているの?」
 メグは、つやつやした瞳を、いったんママの声のしたほうにむけて、またすぐにベッドの上のほうをながめて、あどけない声で、はっきりと
「ばあば」
 とよびました。
「ばあば?」
 それは、メグが節子さんを呼ぶときの言葉でした。メグはにこにこしながら、ピンクいろのちいさな両手を虚空にふり、もういっぺん、はっきりと
「ばあば」
 と言うのでした。ママはどきんとしました。
メグの表情は、まるで生きている節子さんがそこにいるかのように、嬉しそうでした。
 メグの視線のさまようあたりを探しても、亡くなった節子さんの姿があるはずもないのです。
「メグちゃん、ママよ、どうしたの。おばあちゃまが見えるの?」
 もしかしたら、そういうこともあるかもしれない、とママは思いました。亡くなったひとの霊魂が、幼いこどもの眼には見える、というのはおとぎ話や昔話では、よくあることです。
 ……四十九日まで、霊魂はこの世にとどまるって言うし。
 ママはちっともこわくありませんでした。節子さんの霊なら、わたしも会いたい。ママはほんとにそう思いました。
「いいわね、メグちゃん。節子さんがいるの? ママも節子さんに会いたいなあ」
 と、ママはメグを抱き上げ、メグのほっぺたに、自分の頬を寄せました。
「ジイジ」   
 と、メグは、ママにだっこされたまま、はっきりとした声で言いました。ママは耳を疑いました。
「じいじ、ですって?」
 メグはえくぼを浮かべ、ほんとにうれしそうでした。抱き上げられたママの腕からそちら……ばあばとじいじのいるほう、へ身をのりだして、小さな手足をばたばたさせるではありませんか。
 じいじという言葉はおじいちゃんのことに決まっているのですが、メグのおじいちゃん、節子さんの夫の淳治さんは、もうずいぶん昔に交通事故で亡くなっていました。安美さんも、写真でしか淳治さんを知らないのです。
 メグにおじいちゃんの話をしたことがあったろうか?、と安美さんはどきどきしました。それに、じいじ、なんていう言葉、どこでおぼえたの? 
「安美ちゃんの心からメグのなかに伝わったのよ」
「えっ」
 ママはきょろきょろと周囲を見回しました。今の声は、節子さん? まさか!
 ぐにゃり、となにか、とてもやわらかくて温かい、厚手のカーテンのようなものが顔にかぶさって、メグを抱いたママを包み、一瞬息づまるような苦しさがありました。はらいのけようともがく前に、そのゼリーのような感触はするりと溶けて、ママはうすぼんやりとした真綿のかたまりの芯か、蚕の繭のなかのような、天地左右のはっきりしない、ほのぐらいところに立っていました。
「安美ちゃん、こっち」
 また聴き覚えのあるなつかしい声がして、ママがそのほうへ顔をむけると、無色半透明な、距離感のない綿の壁に、薄紫と薔薇色をまぜた、夜明けの雲のような楕円形の光の輪がほのかに浮かんでいます。節子さんの声はそこから聞こえてくるのでした。
「セ、セツコさんッ」
 ママはそちらに駆け寄ろうとしましたが、両足がもつれて、一歩も動けません。
「そう、あたしよ。安美ちゃんとこの世でまたお話できるとは思ってませんでしたけれど、メグのおかげでめぐりあえたわねえ」
「メグ? メグがどうしたっておっしゃるんですか?」
「安美ちゃんが見ているのは、メグの感覚に感じられている世界像。メグには、節子ばあばって、こんな感じなのよ。今もメグにはあたしがわかるし、淳治さんもわかるの」
「はじめまして、安美さん。お会いできてうれしいよ。もっとも、ぼくはずっと節子の傍にいたんだけれどね」
「え、えっ」
 夜明けいろの雲のとなりに、若葉のような雲がもやもやと集まり、やはり楕円形の中心から、ほんのりときんいろのあかりが射していました。
「そ、そちらの若葉マークがお父さんなんですか」
「はい、なかなかきれいでしょう。ぼく」
「お舅さんは、もうとっくに昇天されたとばかり思っていました」
「ぼく、交通事故で心の準備する余裕もなく即死しましてね。あとに残す妻と息子が心配で、成仏したくなかったんです。それで、いちかばちか、自宅のドラセナ・フレグランサに宿ってできるかぎり節子の傍にいることにしたんですよ。そのことに節子はもちろん気がつかなかったが、節子はよろず世話好きなので、ドラセナは長持ちして、ぼくはずっと妻子を見守ることができた」
「あ、あの大きなドラセナ」
 ママは、節子さんのリビングにある、大人の背丈よりも高い観葉植物を思い浮かべました。それは、大きな葉っぱをゆたかに繁らせ、虫害もなく丈夫で、一年のうちいっぺんは、とつぜん八つ手に似た白い花を咲かせ、節子さんの家じゅうに馥郁と濃い香りを放つ、南国の木なのでした。
「ドラセナは、別名幸せの木、と呼ばれるのだけれど、ほんとうに淳治さんの霊が宿っていてくれたのだから、あたしはシアワセだったのよねえ」
「ええ、ええ、そう思います。でも、節子さん、教えてください。ここはどこで、あたしはなぜおふたりとお話できるの?」
「話せばながくなるが」
「手短かにお願いします。あたしの気がたしかなら、まだ節子さんのご葬儀の最中」
「ここは時間軸がむこうとは違っているから、心配することはない」 
「向こう?」
「安美ちゃんは、メグちゃんといっしょにあっちとこっちの境を超えて来たのよ。メグちゃんはそういうことができる子なの。あたしたちの姿が見えて、あたしたちの声が聞こえる。あたしと淳治さんは、メグちゃんを通して安美ちゃんとコンタクトしているの。あたしたちのコンタクトが、ちゃんと言葉として安美ちゃんに聞こえるのは、メグちゃんの力なのよ。ふつうのひとには感じ取れないわ」
「安美ちゃんのために、ぼくたちは人間の姿をとることもできるよ」
 と光の輪の淳治さんが言うと、黄緑いろの雲はゆるゆると散って、すこし暗い鼠いろに変わり、またたんぽぽ色にその周辺が明るくなったかと思うと、明るさの底から水蒸気がたちのぼるように、息子の駿男さんによく似た中年のおじさんがゆらゆらと現れました。それは、ママがどこかで見た、写真の淳治さんのイメージでした。
「それじゃあたしも」
 と節子さんも薄紅いろの靄のなかから現れました。
「あたしたちの姿がこんなふうに見えるのは、メグちゃんのなかに、すでにあたしや淳治さんのイメージがあるからよ。メグの感覚と安美ちゃんの感受性とがつながっているからね。メグには、最初のモヤモヤとした感覚であたしたちに《触れて》いる」
「君とメグとは波長が合うんだ。ラッキーだよ。駿男にはそのアンテナがないからね。安美さんのような経験を息子が味わうことはできないんだ」
「それじゃ、メグには色彩感覚があるんですか? おふたりとも、とてもきれいな色の雲に見えました」
「色のように見えていたのは、メグが感じ取っているぼくたちの感触の快さの現われなんだ。メグの感じる気持ちよさが、色彩として
安美さんには感覚されるってわけ」
「?」
「おいおいわかるよ。いそがなくてもね。メグが成長してゆくその過程で、母であるあなたは、だんだん娘を深く理解してゆくから」
「安美ちゃん、ここはあなたがたの言葉でいうなら冥土に近いのよ。あの世の入り口。生まれたばかりの赤ちゃんは、あの世からこの世に来たばかりの未分化だから、こんなモヤモヤしたふうに境界を行き来しているの。成長してゆくにつれて、あの世のことを忘れ、大人になるわ」
「ごくまれに、メグのようなアンテナを授かる子がいる。たぶんメグは大人になっても、向こうからこちら側を覗くことができるし、話そうとするなら、ぼくたち死者と話すこともできる」
「あたしも?」
「君は、メグとつながっているときにかぎり、それが可能なんだ。ひとりではできない。メグがじいじ、と言ったのに君はびっくりしたろう? あれは、メグが君の心のなかに入りこんで、君の言葉でしゃべったんだ。今安美さんがメグの能力を媒介してこちらに来ているように、メグもまた君の知識を利用して、ぼくをじいじ、と理解している」
 ママは驚きでいっぱいでしたが、疑う気持ちはすこしもありませんでした。だって眼の前には、大好きな節子さんと、ちょっと前方が禿げかかっているとはいえ、感じの良いお舅さんが見えているんですから。
「安美ちゃん、あなた、もう帰らなくちゃ。あなたが望めば、こんなふうにメグはあなたに境界を超えた世界を見せてくれるでしょうけれど、ふつうのひとにとって、それはタイヘンな消耗なのよ。世界旅行するより、もっと遠く、もっとはるかなところへいっきにジャンプするんだもの。今後の要注意事項として、あなたの命が、そのぶん減ってしまうってこと忘れないでね」
「メ、メグは大丈夫なんですかッ」
「この子は、そういう生まれつきの子なの。あちら側では弱視者と言われるけれど、こちら側からすれば、尋常でない遠視者というか、超視というか。魂の橋渡しができる子なの」
「魂の橋渡し?」
「節子、もう安美ちゃんをあっちに返さなくちゃ。そうそう、ぼくの自宅のドラセナね。ながいこと憑依していたが、宿主がいなくなったので、ちょっと生気がなくなるかもしれない。だけど心配いらないよ。枯れてきたら、根元の若木を株分けして植え替えてやれば、そこからあたらしい木が育つから」
「淳治さんは、あたしを待っていてくれたのよ。うれしいわあ」
 と節子さんは、顔をぽっと少女のようにあからめました。じゃあね、とふたりは仲むつまじく手をつないでママとメグに背を向け、ぼんやりとした雲のひだのなかへ、歩むともなく消えさってゆきました。
 待ってください、まだ聞きたいことが……
とママは後を追いかけようとしましたが、ふたたびふわりとしたなまぬるい靄にとりこめられ、ぐるぐる巻きにされる息ぐるしさにもがいた数瞬後、斎場の控え室の畳床に、ぺたんとメグを抱いて座っていました。
 メグは、指しゃぶりをしたまま、ママの腕の中で、くうくう眠っています。
 ガラス窓を打つ雨の音が急に高く聞こえ、ママはぼんやりと外に視線を向けました。中庭に面した腰高窓からは、青や紅、濃淡さまざまな紫陽花の花群が重なり、きれいな雨にしとしとと打たれています。室内はほのぐらく、すこし肌寒いかもしれません。いえ、蒸し暑いのかもしれません。
「安美、ここにいたのか。もう母さんが焼きあがるぞ」
 夫の駿男さんが、障子を開けて入ってきました。
「メグは良く寝てるな。母さんの遺言なんだが、メグにも骨をひろって欲しいって」
「それ、初めて聞いたわ」
「そうか? ばたばたしていて今まで言わなかったっけ。君とメグと、ぼくの共箸で最後の骨をひろってくれと」
 夢うつつな気持ちを心に残して、ママはお弔いに戻りました。
 お焼き場に現れた節子さんのお骨は、しろく、華奢でした。燃え尽きた柩の両脇にたって、パパとママは、節子さんの最後のひとかけらを長い箸でひろいあげ、壷におさめました。ママは、その最後のひとすくいのとき、メグのちいさい手を自分の手でつつみこむように重ね、ばあばをひろいあげ、骨壷におさめました。
 ……メグは魂の橋渡しができる子よ。
 節子さんの、ほがらかでやさしい声が雨の音に混じって、どこか遠くでまた響くようでした。

 節子さんのご葬儀を済ませたあと、ママは数日寝込んでしまいました。微熱が続き、軽い風邪のような症状です。おりしも梅雨のまっさかり、室内にこもって、寝たり起きたりしながら、メグといっしょに遊びました。パパは、
「母さんの葬式疲れが出たんだろう。もしかして育児疲れもあるかな。メグもそろそろ幼稚園にかよわせたい年頃だ。どこか理解のあるいい幼稚園がみつかると、君も楽になるだろうに」
 と、パパはママを心配しました。
「わたしの体調はたいしたことないわ。休めばよくなるから。今、幼稚園も保育園も、どこもいっぱいで、普通の子でもなかなか入園はむつかしいの。メグはこういう子だし、無理にどこかに入れたたとしても、いじめられたり、仲間はずれにされたりしたら……」
 こういう子……ママは節子さんと淳治さんの霊魂とのお話を、パパには話せませんでした。たぶん、信じてもらえないでしょう。
(駿男さんにはアンテナがないから、メグの感覚を共有することができないって、お舅さんも言っていたし)
 ママは、軽い風邪のようなこの数日の不調は、きっと《時差ぼけ》にちがいないと思いました。あちらとこちらを行き来した、その消耗のせいなのね、と。
 メグはママといっしょに一日中楽しそうでした。積み木や、ボールあそび、それからママがいろんな絵本をすこしずつ読んであげると、まだよくまわらない舌で、ママの声をなぞって、次々と言葉をおぼえてゆきます。
 メグは、同じ年頃、月齢の赤ちゃんにくらべても、ずいぶんかしこい子のようでした。
(きっと、あたしの中にあるいろんな言葉や知識を、この子は無意識に吸収しているんだわ)
 ママは、メグのつぶらな瞳をみつめて思いました。すこし、不安でもありました。
「メグちゃん、あなたは、これからどんな人生を歩むのかしら。ママはあなたが平和に幸福に過ごして欲しいと願うだけよ。あなたのお目々には、あたしたちにはわからないおとぎばなしのような光る靄の国が触れているのよね」
 メグといっしょにあの世を覗きすぎると、安美ちゃんの寿命が経るの、と節子さんの言葉を思い出しながら。
 梅雨の終わりごろになると、雨と雨とのあいまには、輝く夏空が真っ青にひらけます。
体調が回復したママは、メグを連れて、お散歩ついでに、亡き節子さんの家の後片付けに出かけました。
 パパの駿男さんは、一人息子なので、節子さんの自宅はパパが相続するのです。生前、節子さんがいろんな手続きをきちんと済ませておいてくれたので、法律上のトラブルは皆無でした。それに、身の回りの品々も、見苦しいものは整理し、形見分けなども、それぞれ宛てにまとめてあり、ママはつくづく、
「節子さんて、なんて気持ちのよい、やさしい人だったんだろう」
と感じずにはいられませんでした。もっと長くおつきあいしたかった……。
 だから、後片付けといっても、故人の住まいを、荒らさないようにする程度。窓を開けて風をいれ、簡単に掃除をし、庭木の手入れをするくらいです。
 室内はともかく、ささやかであっても、いろいろな草花を愛でていた節子さんの庭は、草むしりを怠ってすこし日を経ると、季節柄夏草がぼうぼうとおいしげり、閉めきった雨戸のたたずまいといっしょに、主のいないさびしさを見せるのでした。
 その日もママは、メグといっしょに朝から節子さんの家にゆき、Tシャツにジーンズ、汗まみれになって草取りをしました。そろそろ花をつけはじめた夾竹桃や、百日紅の紅が濃青の空にあざやかです。
 お昼に、メグといっしょに庭に面したフロアでおむすびを食べます。おむすびは、コンビニのではなく、メグのちいさいお口にも入りやすいように、ちいさく俵にむすんだお手製でした。
「あーおなかすいた。ひとはたらきしたあとのおにぎりとお茶って、サイコーです。メグちゃん」
「サイコー」
「そ、サイコー。いちばんのご馳走よね。空腹はサイジョウのソースなの」
「ソウス」
「わが子ながら君はかしこい」
 そのとき、ママはふと、メグのまなざしが、またあのときのように宙を泳いで……どこかを見つめているのに気づきました。
 きゅっ、と心臓がひきしまるような思いで、メグの《視線》を追いかけると、百日紅の向こう、つやつやした山茶花の生垣の向こうから、こちらを眺めている日傘をさした若い女性が見えました。
えっ?また覗いちゃったの? でもあたし、まだメグにお願いしてないけれど。
 とママは一瞬動揺したのですが、生垣の向こうの女性は、ママと目があうと、微笑んで、礼儀正しく頭を下げました。
 あーよかった、ニンゲンダ。影がある。
 ママは額にどっと噴きだした汗をぬぐいながら、お辞儀をかえしました。お隣さんかしら? ニンゲンダー、ヨカッター。
「こんにちは」
「こちらの、添田さん。お亡くなりになったそうですね。ご遺族ですか?」
「はい、わたしは添田節子の息子の妻で。この子は節子さんの孫。ご近所の方?」
「近所の者ではないんですけれど、ときどきお話したりして……やさしい方でした」
 女性は、すこし日傘を前に傾けて、顔の半ばをその影にかくすようにしました。涙ぐんでいる気配をかくそうとするつつましやかな仕草に、ママは、この若い女のひとは、いったいどういう素性なのだろうと、好意と興味を抱きました。
 二十代の終わりか、三十そこそこ。ママよりずっと若くて、小柄な印象。うりざね顔の輪郭やさしく、地味ですが、ぱらりと目鼻立ちととのい、お化粧もひかえめです。髪はすこし明るい茶色に染め、きれいなうなじを見せてアップに結っています。マリンブルーのカットソーに、錆朱いろの更紗模様のインド綿のふんわりしたフレアースカート。皮のサンダルはヒールのちょっと高めな、生成り色。縁にこまかいフリルのついた日傘はミントグリーンとピンクの縦縞。
 この美人さんはどこかの若奥さん?。
「娘さんですか?」
 あいさつして、すぐに立ち去るかと思ったのに、女のひとは、そこにたちどまり、メグに視線をそそぎました。
「はい」
 ママは何の気なしにメグを抱き上げ、生垣の女のひとに近寄りました。
「かわいい」
 女のひとは思いがけず、垣根の向こうから片手をのばし、メグに触ろうとしました。ママはちょっとおどろきました。いきなり大胆なその動作が意外で、第一印象とちぐはぐだったのです。
 でもメグはこわがらずに、にこにこしながらさしだされた女のひとの指先をつかみました。
「お名前は?」
「メグ」
 とメグは自分で答えました。
「年はいくちゅかな?」
 ママは苦笑しました。まだ無理でしょ。でも、メグはちいさな指を一本ずつ、みっつ立てました。
「そう。メグちゃん、三歳なのね」
 メグを抱いているママは、またふしぎな感覚が始まりそうな気がしました。メグのアンテナが、ママのなかに入り込んで、いろいろ《探して》いるのが感じられるのです。今、メグとシンクロしようとすれば、できそうな感じもしました。何かが、また境界を超えて始まるんでしょうか。
 こわくなったママは、何かからメグを庇うように、思わず一歩あとずさりました。
「スミマセン。あの、あたし、加藤と申します。加藤むつみ、です。メグちゃんがあんまり可愛いのと、以前、ここにお住まいだったおばさまがなつかしくて」
「いえ、こちらこそ。ちょっとびっくりして
しまって。加藤さんは、ずいぶん節子さんと親しかったんですね。ほんとにすてきなひとでしたから。あたしも恋しくて」
「親しく……ハイ。わたし、先生に、デイケアで、一時お世話になっていたんです」
 むつみさんは、長い睫毛を伏せて、きっとふつうには言いにくいことを、さらりと告げました。
「娘が亡くなった後、鬱病になってしまって。
添田先生に、しばらくカウンセリングしていただいていたのです」
「むつみ、やっぱりここに来ていたのか」
 と日傘の向こうから、日に焼けた青年がぬっと現れました。むつみさんと同じ年頃でしょうか、アロハ模様も気の早い、真夏の気楽なTシャツ、半ズボン。まだ三十代の半ばを過ぎてはいないようです。
「御主人ですか?」
「はい。どうもすみません」
「何もすまなくありません。節子さんのクライエントだとおっしゃって」
「ええ。その節はずいぶんお世話になって。いっとき調子よかったんですけれど、このごろまた……やっぱり命日が近いからかな。添田先生が急逝されたのも、こっちにはかなりな痛手で」
 青年の口調は陽気で、ちょっと強引でしたが、しっかりした旦那さま、という印象です。
「お嬢さんの命日ですか」
「そうです」
「メグがかわいいとおっしゃって」
「あなた、余計なおしゃべりしないでよ」
 とむつみさんが語気けわしく遮りました。
「ハイハイ。とにかく帰ろう。こちらにも御迷惑だぞ」
「迷惑なんて、そんなことありませんが」
「こいつ、ときどき貧血おこして倒れるんですよ。バッタリと。心理的な原因だって医者に言われてて」
 それはタイヘン。
「あら、この暑さじゃ無理ないわ。むつみさん、わたしときどきこの家の手入れに来ますから、そのときまたお話しましょうよ」
「ほんとですか? うれしい。節子先生がいなくなって、わたし心に穴があいたみたいな気がして」
 ママとむつみさんは、メルアドを交換して、さよならしました。
「メグちゃん、バイバイ」
「バイバイ」 
 メグはまた、はっきり言いました。
「オネエチャン、バイバイ」
  
 その晩早速、ごあいさつのテストメールから始まって、むつみさんとの交流が始まりました。
 汗まみれになって草むしりする素朴なママの印象が好ましかったのか、メグにひかれたのか、むつみさんは初対面からママに、ずいぶん心をひらいた様子でした。
 あたりさわりないメールを数度やりとりするうちに、むつみさんは、すこしずつ自分のバックグラウンドを知らせました。
 一昨年の夏、むつみさんの長女のマナちゃんは、プールで泳いでいて、突然心臓麻痺をおこして亡くなったそうです。七歳でした。
 梅雨明け近いとはいえ、プール開きをして間もなく、水温はやや低かったそうです。でも、学校側の責任とは言えませんでした。なぜなら、マナちゃんは、うまれつき心臓が弱かったのです。それでも、日常生活や、学校の体育程度の運動には障りないはずでした。
毎夏毎夏、マナちゃんはみんなといっしょに真っ黒に日焼けして水泳をたのしみ、元気いっぱいに育っていたそうです。
「でも、その日、あの子はすこし風邪気味みたいでした。わたしは、マナの具合がわるいのをわかっていたのに、止めなかった。あの子がどうしても泳ぎたがった。水遊び大好きだったの。それに、七月初めとは思えないような、うすら寒い日だった気がするの」
 むつみさんは自分を責めて、心の病気にかかってしまいました。いくつかの心療内科を転々としたあとで、節子さんのクライエントになり、むつみさんは初めてほっとしたそうです。
「医者から何を言われても、なにも耳にはいらないようだった。お薬をのんでも、ただぼんやりと日々がすぎてゆくだけで。でも節子先生の言葉は、診断とか、分析とか、そんなことに無関係なことをおっしゃっても、わたしの耳には、ちゃんと聞こえました。声と、言葉とが一致するっていうのかしら」
「ええ、わかります。節子さんって、そういう方でした」
 その日、ママは、むつみさんの家に誘われて来たのでした。やはり梅雨の晴れ間、いえ、もう梅雨明けちかく、街角を彩る紫陽花も、梔子の香も、終わりちかく、やつれながら濃さを深めていました。
 むつみさんのお家は郊外の新築一戸建てで、
南側に面して車一台ぶんの駐車スペースと、隣にそれと同じくらいのひろさの、レンガで区切られた、かなり大きな花壇がありました。そこには今をさかりと白い花があふれるように咲いていました。花壇にはその白い花しか咲いていませんでした。
「きれいですね」
「赤ちゃんのころ、そこにマナの遊び場があったんです。ちいさな砂場で。夏にはゴムのプールを置いたりして。マナを亡くしてから、空き地を見るのが哀しくて、花壇にしてしまった」
「白一色の」
「ええ。マーガレット。薔薇でも、百合でも白い色ならって。でもどちらも華やかすぎて。マーガレットなら、純粋無垢なあの子にぴったりな気がしたんです。それに、楚々とした見かけによらず、害虫にも強いの。除虫菊とも言うそうだと。虫除けの」
 夏の風にさわさわ波立つマーガレットの花壇をながめて、むつみさんは、さびしそうでした。きれいに片付けられたリビングにはアップライトのピアノ。人形、ぬいぐるみ。椅子には、女の子の麦わら帽子。
(片付けられないのね)
 マナちゃんの生前の空気を残して、ピアノの上には少女の写真。小学校の入学式かな。桜の木の下に、あかるい水色と白の制服。グレーのお帽子。清楚な顔立ちがお母さんによく似たマナちゃん。さぞかわいかったろうに。
「毎日ここでこうしてマーガレットを眺めている。それだけで過ぎてゆく一日もあるわ」
「御主人は?」
「安美さん、ごめんなさい。あまりよく知りもしないあなたにこんな内輪話。主人は、あたしが睡眠薬自殺をしてから」
「ええっ」
「助かったのよ。みっともないわ。自殺未遂してから、転職してくれて」
 と、むつみさんは口ごもりました。安美さんのメグを抱く腕に、無意識にぎゅっと力がこもりました。
「オネエチャン」
 メグはまた、ふいに声をあげて笑いました。
「なあに、メグちゃん。それで……添田先生の家で、メグちゃんと安美さんをおみかけしたとき、思わず話しかけてしまったんです。見ず知らずの方なのに。なんだかなつかしくって」
 むつみさんは、ふらっとたちあがるとリビングの窓から、直接真正面の庭に下りてゆきました。おねえちゃん、とメグはまた言いました。おねえちゃん。
 あ、聞こえ出した……。ママはとめようもなくひっぱられる感じがしました。おなかと背骨の間に、もう一本、別な芯があって、それを強い力でぐいっとつかまれ、どこかへ引き寄せられる感じ。こわい?こわくない。
 メグの見えないはずの眼が、大きくみひらかれ、庭へ降り立ったむつみさんを見ています。きれいなむつみさん。白いざわめくマーガレットの波のなか。
 花の波がひろがってひろがって、どこまでも続く。地平線のむこうまで、純白とグリーンのマーガレットの花の園。むつみさんが花壇に身をかがめると、花のなから、ほっそりと華奢な少女の腕が伸びてきた。あ、それは一本、二本、両手。いいえ、白い花、白い両手、無数の両手がむつみさんを撫でる。ちいさな、愛情ふかい手。おかあさん、泣かないで……風がそう歌っている。むつみさんのスカートにからみ、腕に振れ、さわさわ、さらさらと、少女のほどいた髪が揺れる。
(このマーガレトのなかに、マナちゃんがいる)
 妻子が心配でドラセナに憑依していた淳治さん。
 おぼろの光り。あ、ここには影がない。だめよ、むつみさん、ここはあっちなの。長くいてはだめ。マナちゃん、おかあさんを離して。
 むつみさあん……。
ママは声をあげてむつみさんを呼び戻そうとしました。でも、どうしたわけか声が出ません。 
 メグはどこ?
 あそこ。ほら、むつみさんの傍に、青白い、ほっそりした少女がたっている。かなしげに、いとおしげに、おかあさんをみつめている。
 マナちゃんね。メグはどこ?
 ママ、とメグの声。マナちゃんの口から聞こえるのはメグの声だ。メグがマナちゃんなの? マナちゃんがメグのなかに入って、あたしの眼にはマナちゃんが見える。
「ママ、おねえちゃんが悲しんでいるの。お母さんが悲しいと、おねえちゃんも悲しい。
お母さんがつらそうなのをみていたくないって」
「それじゃどうすれば」
「お母さんをあっちへ呼ぼうとしている、おねえちゃん」
「だめ。メグ。マナちゃんを止めて、むつみさんを返して」
 メグ、戻ってきて!
 ママ、メグをだっこして。
 マナちゃんが背を向ける。むつみさんといっしょに。いっちゃだめ。あなたはメグ。わたしのだいじな娘です。
 マーガレットの花の渦はうすみどり。透明な地平線。青いワンピース。長い三つ網ほどけて溶ける。花野のあわい、ほっそりした無数のこどもの手がむつみさんをつかんで、どこかへつれてゆく。
 金縛りって、こういうこと?
「メグを返して!」
 ママは必死で、マナちゃんをうしろから抱きしめました。だめです、あなたはもうこの世から亡くなったのよ。おかあさんは、まだ生きているの。あなたこそ、ここに、この花のなかにいてはいけない。
「メグ、帰ってきて」
 あけてくやしい花いちもんめ、この子がほしい、この子じゃわからん……花いちもんめ。
 ダレノコエ?
 この子がほしい。たくさんのあちらがわからの呼び声。
「あたしは、ずっと、おかあさんの傍にいるのに、おかあさんにはわからない。声もとどかない。さびしいの。メグちゃんのおかげで、おかあさんと話せるかもしれない。メグちゃんがいれば」
「だめです。メグはあたしの大切な子。まだずっと長くこの世に生きてゆく子」
 うん、とマナちゃんはすずしい眼をみひらいて微笑しました。
「おかあさんがね、死ぬようなことを自分からするので、あたしはここを離れられないの。
おばちゃん、霊魂のあたしたちは、霊魂のまま、この世を長くさまよっていることができない。なにかのモノに憑依しないと。霊魂はどんどん汚れて、重くなってしまうの。あたし、死んでからも、ずっとこのお花のなかにいたわ」
「これからも?」
「ううん」
 とマナちゃんは首をふりました。
「もう行くわ。だって、お母さんのおなかには、次の赤ちゃんが来ているの。でも、お母さんがマナのことを思って心を暗くしていると、赤ちゃんも育たないし、あたしも逝くことが出来ない。それを伝えたかったので、無理やりにメグちゃんを呼んだの。メグちゃんを呼ぶために、おかあさんと、おばちゃんをひっぱったの。ありがとうおばちゃん。メグちゃんのおかげであたしはおかあさんにだいじなことを伝えられた……」
 さよなら、と少女は安美さんの腕からするりとぬけだしました。
 この子じゃわからん、この子がほしい。
 花いちもんめ。
 どこまでも淡い光りにつつまれた透明な緑と白のグラデーションがぐるぐるまわる花いちもんめ。ああ、これは、メグに触れているマナちゃんの光りだ。
「ママ!」
 またおなかを逆方向につかんで引き落とされる。地上に戻される。メグといっしょ。むつみさんはどこ?
「むつみ、安美さん?」
 わっと眼をあけると、むつみさんの御主人が見えました。
「貧血ですか、スイマセン。ここんところ、また落ち込んでいて」
 あたふたと庭にかけおりて、マーガレットの花壇に、うつぶせているむつみさんを、御主人は抱き起こし、蒼白な妻の頬をかるく指のはらで叩きます。むつみさんは、ゆっくり瞼をひらきました。
「メグは?」
「ママ、メグ、こっち」
 メグはむつみさんの倒れていたすぐ傍にいました。ママは我をわすれてはだしで庭にとびおり、こどもを抱き上げました。
 メグの頭や、ちいさな体じゅうに、こまかなマーガレットのはなびらが散っています。メグだけではなくて、むつみさんも、メグも白いマーガレットのはなびらまみれでした。
 むつみさんの貧血はだいじありませんでした。吐き気がする、と訴えるのに、ママはマナちゃんの言葉を思い出し、産婦人科の受診をすすめると、やっぱりおめでたでした。あたらしい命がやどったことで、むつみさんのふさがれていた心には、よい変化が起きたようでした。
 
メグの話す言葉の量は、この出来事のあと、またぐんと増えました。あんまり瞬きをしない、というほかに、メグの眼が見えないということに、たいていのひとは気がつきません。
 ママは、節子さんのご葬儀のあとよりも、今回は、もうすこし具合がわるくなりました。
また時差ボケです。
 寝込んでいるママに、むつみさんから、メールがきました。お礼とお詫びメールです。
 ……貧血で倒れてしまったとき、わたしはマナとメグちゃんといっしょに空に昇ってゆく夢を見ていました。このまま鳥になるのかしら、と思ったら、地上で安美さんが、必死で、メグを返して、と叫んでいる様子が見えて、戻してあげなくちゃいけない、と思いました。マナといっしょにいたいけれど、メグちゃんは安美さんのだいじなお子さんですものね。だから、メグちゃんだけ返そうと思って、メグちゃんの手を離したら、あたしは飛ぶちからをなくして、マーガレットの花のなかに、すとんと落ちました。
 マナだけが、どこか遠くへ飛んでゆきました。でもあたしは夢の中でも、なぜかほっとしていました。飛んでゆくあの子を眺めて、とてもひさしぶりに心がかるくなったようでした。
 メグちゃんは、マーガレットの別名だから、もしかしたら、マーガレットの化身のメグちゃんが、空からふりおとされたあたしをうけとめてくれたのかしら……
 

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