さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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サイコ・ヒーラー 5 モルガナイト

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    5 モルガナイト

 その年は七月の半ばには梅雨があけ、連日猛暑の太陽が照りつける真夏に突入しました。
 シーラは、メグを自宅にプジョーで送ってきた夜、パパとメグと三人で、ワイワイたのしく晩御飯をいただき、すっかりシーラのファンになってしまった(本音一目ぼれ)パパは、デジカメやら何やらに、さんざん〈彼女〉と自分とをツーショットで撮りまくりました。シーラは、ホドホドのところできりあげ、家まで送ってあげる、というパパの親切を丁寧に断り、電車で帰るふりをして、自分の車をパパには見せずに、風のように帰ってゆきました。
 どこへともなく。
 それっきり、もう一週間以上たつのに、シーラはメグの前に姿を現しません。
 水彩画のように街をしっとりと飾っていた紫陽花も、のすたるじっくな匂いの梔子も、梅雨明けと一緒に色褪せ、入れ替わりに夾竹桃や百日紅、芙蓉にカンナ、ハイビスカスといった、直射日光に強烈な色彩を放つ花木の登場となりました。
(シーラさんって、ほんとにいた人なのかなあ)
 とメグはときどき思うのでした。彼女とは二回会ったきり。シーラのメアドも何も尋ねなかったのは、メグの関心が、ただママのほうばかりに向かっていたからでした。
何者かにママを奪い取られた他界トリップのあと、プジョーの中で、
「二人でママを取り返そう」
 と約束したのが、うそのよう。
メグはときどきテレビで、すごくきれいな少女タレントや女優を見ると、ある瞬間のシーラの顔かたちに少しずつ似通っているのにはっとするのですが、ただそれだけでした。
「ママ、メグは夢でも見たの?」
 とメグは通学路にすらりと伸びた柳の樹に尋ねるのでした。学校の敷地と町の領域との境に植えられた、姿のよい大きな柳の樹から、若返った安美さんがすっと現れた、なんてこと自体、自分でも信じられない記憶でした。でも、ほんとにあったことなのでした。
 柳の樹はすっかり青葉深く繁り、夏の濃い照りつけにも、通りぬける葉風はさらさらと涼しげに、伸びすぎたメグの前髪を静かに撫でてくれるのでした。
「ママ、出てきて」
 小声でメグが柳の枝にささやきかけても、
緑の葉蔭はおだやかな風音とともに、すりぬけるばかり。
「メーグちゃん、どうしたの?」
「あ、羊子ちゃん」
「いないと思ったら、こんなところに。何してるの?」
「ええと、カブトムシを探してるの」
 とメグは苦しまぎれに、へんな嘘をつきました。
羊子は笑って、
「こんなところにカブトムシいないよ。蝉はいるかもしれないけれど。ホラ、そこに、蝉のヌケガラがある」
「えっ」
 メグが触っている柳の幹の、すぐ上のほうに、薄茶色のヌケガラが、かっちりと樹肌にツメをたてていました。羊子は言いました。
「きっと、今朝羽化した蝉なんだ」
「ふしぎだねえ。ほんとにぜんぶ虫の形を残してからからに乾いてる」
「蝉って、地面の奥に七年も潜っているんだって」
「へえ」
「それで、地上に出てきたら、たった三日くらいしか生きていないんだって」
「三日?」
 メグは目をまるくしました。
「そ、たったの三日」
 羊子はちょっとひややかな口調で言い切り、蝉のヌケガラから目を逸らし、帰ろうよ、とメグを誘いました。羊子のランドセルはパステルカラーの水色。メグはサーモンピンク。
「メグ、髪の毛伸びたね」
「そう?」
 六月の初めには、ちゃんと切りそろえていたはずですが、いつのまにかメグの前髪は眉を超えて、額や鼻筋にまつわるくらい。そして、束ねなければそのまま肩や背中にゆらゆらと末広がりに濃い髪は、羊子がうらやましがるのもなるほど、つやつやと青みがかって質のよい自然な光沢をたたえていました。その色艶は、どこか、もうこどもっぽさを離れかけていました。幼児から少女へと、メグは自分でもそれと気づかずに、日増しに、新鮮できれいな季節に入っているのでした。
 二人で並んで歩きながら、すこし黙ったそのあとで、羊子はぽつんと言いました。
「あたし受験する」
「中学受験? やっぱり」
「ママが夏休みになったら、毎日進学塾に通えって」
「どこ?」
 羊子は、隣町の有名な塾名をあげました。
「すごい、あそこって、塾に入るだけでも難しいテストあるんじゃない」
「うん。うかった」
「羊子ちゃんならうかるよ。もしか、一番とか二番とか」
「わかんない」
 と羊子は澄まして答えませんでしたが、メグの勘は外れてはいませんでした。
「メグは受験しない?」
「あたし、勉強苦手だし」
「うそお。やればできるのに」
「そうかなあ。あたしは、たぶん公立でずっといくと思う」
 羊子は首をかしげてメグの横顔をながめ、
(メグくらい綺麗な顔になりたかったなあ)
 なんてひねくれもせず、素直に考えるのでした。そんな羊子も、すっきりと、中高にまとまったいい顔立ちをしていました。
「夏休み、どこかに行く?」
「わかんない。パパがお休みとれたら、マザー牧場に連れて行ってくれるって。あとはパパの田舎にいくかも」
 メグは話しながら、道端に群がり咲いた紫陽花が、今ではすっかり萎れて茶色くなっているのに目を留め、
(シーラさんと最初に出会ったのもこの辺だったよね)
 とまた思い出してしまいました。あの日も羊子といっしょだった。そして雨がざあざあ降っていた。……。
 今ではすっかり紫陽花は薄茶色に萎えて、そのうしろから赤やピンクのタチアオイが、丈高く何本も咲き伸びています。
 羊子はその一本に触り、
「ずいぶんたくさん咲いてる」
「このタチアオイが下からじゅんじゅんに咲いていって、てっぺんまで咲くと、夏休みになるんだよ。夏休みの花」
「メグは、よくいろんな花や植物見てるね。あたし気がつかなかった」
「ママが、オシエテクレタ」
 オシエテ、クレタ、ママガ…。
 そう言った自分の言葉が、その寸前の他愛ない会話とは違ったひびきで、メグの脳裏にこだまを呼ぶ異様な感覚がありました。
(えっ)
 ママガオシエテ…
 うす紅、ピンク、濃紅。やわらかな花弁を幾重にも重ねたタチアオイ。奇妙な寒気、どこかで経験した、足元の地面がねじれるような眩暈に、メグは立ち止まりました。
「どうしたの、メグ」
 メグは何と応えてよいのかわからず、たちすくむだけです。頭上には午後遅く照りつけるあぶら照りの熱射。目の端にはタチアオイ。繊細であざやかな深い緋色のはなびらに、シーラの面影がふと重なりました。
「タチアオイ、何色が好き?」
 とにかく何か言わなくっちゃ、とメグは口を動かしました。身動きできないほど鋭い寒気がつきぬけ、爪先から麻痺しそうです。
「あたし? ピンクがいい」
 羊子は、異変を感じてメグの顔を確かめようとしました。メグはそんな彼女の視線を避けて横を向き、
「あたしは、この」
 と濃紅の際立つ一本を手に取ろうとしたそのせつな、その花弁はさあっとコバルトブルーに変色し、黒みがかった芯の紫が目にしみるようです。錯乱しかけたメグは、乱暴な手つきで茎を握り、わっ、と声をあげてまたすぐ放しました。手が握ったのは、火傷のようなきつい冷感だったからでした。
「つめたい」
「どうしたの、メグ」
 羊子はうろたえました。
「この花の色」
「タチアオイ、どうかした?」
 羊子の眼には、同じ紅色にしか見えないタチアオイでした。夏休みの花、その形容どおり、下から日を追って長い茎の莟を咲きあげる花のつらなりは、頭上に残る莟いくつかを残して、下のほうからもう枯れがれ。羊子は花とメグとをおろおろと見比べ、
「どうかした?」
「なんでもない。忘れ物思い出したの。ここでバイバイ。あたし学校に帰らなけりゃ」
「そう……」
 羊子はもの問いたげに、口元をすぼめましたが、察しもよく回転も早い少女は、それ以上メグに踏み込まず、心配そうなまなざしを残して、
「バイバイ」
「また明日ね、バイバイ」
 メグの視覚には、さっきまで紅色だったタチアオイが、今は極限までの濃い青紫に見えるのでした。花弁に触れると、まるで氷のように冷たいと感じるのです。
(ヘンダヘンダへンダ)
 警報機のように高鳴る心臓の音。怖い?
 怖くない、呼んでる。
(誰が?)
 サファイアブルーのまなざしをしたきれいなひと、今、どこ?
 羊子の姿が向こうの家の角に消えるのを待って、メグは何かに衝き動かされるように、ずい、とタチアオイの花弁のまんなかに片手を入れました。襞を重ねた大きな花弁は、その瞬間ぶるっと生き物のように身もだえして、メグの手を頬張ってのみこみ、メグは現実意識が遠のく他界からの吸引に身を委ね、ひんやりとした青紫の膜をくぐるように片手からするすると、タチアオイの花の裏側へと入ってゆきました。
(花の後ろに、あたし入ってゆくの?)
そんなことありっこない、と脳裏では常識が抗いましたが、それよりもずっと強い力で、メグの全身はぬるりと蘂の中心で捩じれて回転し、飴のように細長く引き伸ばされ、けれども苦しさは感じられず、肉体と精神の大事な芯だけ残して、余分なものが絞られてゆく気持ちよさがありました。
 
六道めぐりは生命を洗う、六根清浄……
 
意味のわからない、いくつかのささやきが聴覚をかすめた気もしました。
(君は何にでもなれる。だから恐れるな)
 そちらはシーラの声でした。
「シーラさん、どこ?」
 と捩じれた五体が、またぐるりと逆回転して、ふたたび意識が平らに戻った瞬間、メグは自分が凍りつくような水中深く沈んでいるのを知りました。
 シーラ、のシの字を口にしたとたん、重い水が喉いっぱい侵入し、ガボッとメグは水中でもがきました。パニックと水の揺らぎで視界が曇り、何がなんだかわかりません。懸命に水を掻き分けて、呼吸のできる水面に浮かび上がろうとしても、両手に感じる水の重みはとほうもなく、また深海にでもひきずりこまれたように、視覚に感じる日の光は遠くかすかでした。
コワイ、とメグは死の恐怖に悶えました。溺れ死んじゃう。動けない。
(あたし、なぜここに沈んでるの?)
(怖がっちゃだめ。メグ、あなたはこの水の中でも平気なのよ。意識を変えなさい。あなたが凍りつくことはないの)
(ママ? 助けて)
(あなたは自分を変えられる。この水の中で、自分の中から火のエレメントを呼び覚ませばいい。そうすれば自由に動ける)
(えれめんと?)
(あなたは、メタモルフォーゼ……〈変容する者〉なのよ。肉体も意識も、だから、なんの制約なしにあらゆる世界を行き来できる。はやく、さあ)
(火?)
(自分の周囲に熱を集めて、結界をつくるの。水圧と冷気に負けない)
 
六根清浄六根清浄……   
 
ナニソレ、とメグは水のなかでもがきながら、頭のなかで響き始めた鈴の音を聴きました。つめたい、イヤッ、と両腕で顔を覆うと、自分の長い髪の毛が、不気味に喉や首にまつわって、まるで自分で自分の首を締めつけてくるようです。
(やあ、来たね)
 頭のなかで、また別な声が聞こえました。
(目なんか見えなくても、君、ぼくが見えるだろ)
 聴き覚えのある、皮肉っぽいかすれた少年の声。
(変な言い方しないで)
(だってほら、メグはちゃんとぼくを見ている)
 その言葉通り、メグには、眼の前の真っ暗な水のなかに、ざわざわと頭髪を逆さに揺らめかせた、あの小さい男の子が見えて来ました。彼の大きすぎるパジャマが、痩せた肩や足からずれて漂い、エイか、深海魚の長い鰭のように、静止した少年の本体とは関係なしに、どろんとした水の重い動きにそってゆらゆらしています。
 少年の両目は、真っ赤でした。充血しているのではなく、瞳孔だけが、ルビイのようにぎらぎらと光っているのでした。暗い水のなかで、それは異様に赤く明るく、ふたつの火の玉が小さい顔のなかで燃えているようです。
(火を呼べよ、ぼくと同じふうにさ)
 少年は冷たく笑いました。
(死にたくなけりゃ、火を集めろ。君とぼく、同類なんだぜ)
(あんたとドウルイですって?)
(そうだよ。鈍いヤツだな。そうでもなけりゃ、とっくにぼくに捕まってる。ぼくが簡単に捕まえられないのは、君はぼくと、だいたい似たような力を持ってるからだ。そんなの、初めてだ。おもしろいね。君を捕まえたい)
(なんのためにそんなことするの)
(答える前に、まず自分を熱くしろって。凍っちまうぜ。他の連中みたいに)
(他のって?)
 そこらへん、と少年は顎をしゃくりあげました。
 メグは顔にまとわりつく自分の髪の毛を押さえて、真っ暗な水の四方を見回しました。
 最初、それは、延々と連なるピアノの黒鍵と白鍵が、水圧のために螺旋のように歪んで、水上はるかから、沈没船に絡みつく鎖のように、何本も垂れ下がっているのかと見えました。暗緑色にかき暗がる水底のはてまで、何本も何本も連なる、壊れてつぶれそうな白と黒の板。でも、〈目〉をこらすと、それは鍵盤ではありませんでした。
 ひとつずつは、白い細長い板に、ぴったりと貼り付けられた、蒼黒い人体でした。遺体を載せた実験台か、柩のような板を、何百、何千も、びっしりと横並びにつなぎ合わせたものが、遠目に鎖みたいに見えたのです。
冷たい水のなかで、板に横たわった肉体は朽ちも滅びもせず、どんよりと蒼ざめ、果て見えぬ水の底まで、板に貼りついたまま、交錯し、また離れながら、ぞろぞろとつながっているのでした。
 メグの驚愕を楽しそうに眺めて、少年は神経質な甲高い声で笑いました。
(ぼーっとしてるとメグもそうなる)
 メグはきっと眉を吊り上げました。
(あなたって、ナニモノ?。えらそうに。このひとたちをこんなふうにしたのはあなたでしょ。あたしはあなたと同類じゃない。あたしはこんなひどいことしない)
 逆上した瞬間、メグは自分の髪の毛がバリッと音をたてて膨らむ気がしました。戦闘態勢に入った猫のしっぽが、いきなり三倍くらいにふくらむ感じです。同時に凍えかけていた手足の先にどっと新しい血が流れ、手首足首、首筋からお湯のように熱が吹き出る感覚と、その数瞬後には、メグの全身を囲んで、楕円形の火の輪が回り始めました。
(その調子その調子)
 と少年はますます皮肉っぽい口調で、暗緑色によどんだ水中の、朱色に輝く輪の中心で、肩肘はって自分をにらみつけるメグを眺めてつぶやきました。
(それでいい。どうだい、ぼくのコレクション、よりどりみどり)
(コレクション?)
(こいつら、みんな)
(殺したの?)
(死んじゃいない。あ、でも死んじゃったのもいるかも。眠っているうちに、寿命が尽きれば、完全にあの世ゆきだけど。ぼくいちいち確かめないんだ。めんどくさいから)
(あなたがひきずりこんだの、こんな冷たい水底に)
(そうだよ)
(なぜ?)
(ひとりじゃ退屈だからさ。ここでは、ひとりひとり、凍りついた魂がいろんな夢を見てる。ぼくは自分に飽きると、こいつらの夢をのぞきこんで、いっしょに遊ぶこともある)
 聞いているメグは、ますます腹が立ってきました。
(かわいそうじゃないの。暗い冷たい水の中に閉じこめて、おもちゃにするなんて)
(ぼくがそうしてやらなかったら、この魂たちは、もっと悲惨だ)
 少年はきらりと両目を光らせました。この子の炎はメグのように全身をくるみこんで燃えているのではなく、大きな両目だけが、朱を垂らしたように闇に際立っているのでした。
 どういうこと? とメグは考えました。
(あなたがこうしなかったら、もっと悲惨ですって?)
(メグ、上を見て)
 少年との謎めいた水中会話に、突然、安美さんの声が割り込んできました。
(ママ? どこ?)
 メグは、かたわらに延々と並ぶ平たい柩板に張り付いた魂か人体のどこかにママがいるのかと、ウロウロと探しました。
(上を見なさい、あたしのことより。シーラがいるから)
(えっ)
 メグは水面を透かし見ました。さっきまではぶあつい水の壁に隔てられて見通すことができなかった水上ですが、炎の結界をめぐらしたメグが上をむくと、メグの周囲の火花が突然鋭く発光して、吹き上げるように水を押し分け、あっというまに頭上が割れ、闇に慣れた目には、まぶしすぎる陽光が差し込んできました。そして、その晴れた外気の逆光に、シーラがたたずみ、この冷たい水にかがみこみ、顔を傾けているのが見えたのでした。
(シーラさん、入っちゃだめ)
 メグは叫びましたが、シーラの耳には届かないようでした。
(邪魔が入った。でも、シーラも捕まえる。ほら、捕まるよ)
 少年は舌なめずりするような声で、メグの肩先に近寄りました。
(彼女がいると、君うれしいんだろ? ママもいるしね)
 仲間になろう、と少年はメグの腕に手を伸ばしましたが、メグに触れる前に、少年はメグの周囲にぱっと燃え上がった炎にその指を炙られて、ひっ、と息をころし、伸ばした手をひっこめなければなりませんでした。
 そのとき、ぐらりとメグの前に流れてきた一枚の板と凍った人体がありました。板は、なんのはずみか鍵盤の並びを抜けて、よどんだ水流にぐらぐらしながら、幽霊船みたいにメグの前にやってきました。
 一目見るなり、メグは気絶しそうになりました。
 顔といわず体といわず、全身に無数の注射器を突き刺された女性。いくつかの注射器には、彼女の体から吸い取った血らしい液体が黒く溜まっているのもあります。落ち窪んだ頬、肉が落ちて、瞼の下の骨のかたちがはっきりみえるへこんだ眼窩、とがった鼻筋と、あえぐようにひらいた口。その口からはみだした水ぶくれの舌は、藻草かと見誤るほどだらんと長く、喉から伸びているのでした。
(君、このひと知らないんだっけ?)
 少年は、メグを見つめ、火傷しかけた自分のこぶしを口に押し付け、喉の奥で、くくっと、しゃっくりのように低く嘲いました。
(知らない、だれ)
 メグの周囲の火の輪が縮んで、かぼそく消えそうになりました。恐怖にすくむと、熱が奪われ、炎は低くなってしまうのでした。少年は意地悪い上目づかいで、蒼ざめたメグから視線を離さず、
(君の探しているひとりだよ。ギャラリー深月のマダム。朱鳥だ)
(このひとがアスカさん? なんでこんなにいっぱい注射器が刺さってるの)
(これが、今彼女の魂が見ている夢なんだ)
(なんですって)
(自分の夢の姿を彼女は表現してる)
(どんな夢見てるの)
 こわくてメグは泣きそうになりました。反対に少年は勢いづいて、ふんぞりかえり、そのまま水中で楽しそうに膝をまるめて後ろ向きにくるんと回転しました。
(何にも知らないんだろ。このひとね、ヤク中なんだ)
(ヤク中?)
(シャブだよ)
(シャブって)
 少年は、メグの無知に呆れ顔を隠さず、また少しイラついた様子でした。
(シャブも知らないの? 麻薬だよ。覚醒剤。芸能人とか、ときどきスキャンダルになるじゃないか)
 頭ごなしにケンケンと言い立てられても、知らないものは知らないんだから仕方ありません。少年は小生意気な顔で、メグの前にたちはだかり、アスカをずけずけと指差して、
(アスカさんてね、こういうのにはまってたんだ。ギャラリーなんて、ただのカモフラージュ、カクレ蓑。裏ではヤクの中間売人。それでしたい放題の暮らしをしてたわけ)
(……)
(いずれ警察の手が入るか、病院行き。うまく中毒から抜けたって、そんなの長持ちしない。いったんヤクを覚えたら、抜けだすのは容易じゃないだろ)
 メグは喉がカラカラに渇きました。聞かされることは、十一歳のメグの理解の範囲を超えていました。ヤクがどうの中毒がなんのと脅されても想像できず、まったく実感がありません。メグはただ眼の前に突きつけられたアスカさんの無惨がおそろしいのでした。
 少年はメグの恐怖を知ってか知らずか、遠慮なしにしゃべりまくりました。
(夢の中まで、アスカはひたすらシャブにふけってる。そうしてさらに濃い中毒に酔ってる。無制限に打ちたいだけ麻薬を打って)
 少年のおしまいの声は、苦々しく、吐き捨てるような感じでした。
 ソンナノ、ドウダッテイイ、とメグは小さな呻き声を洩らしました。
(メグ、シーラを!)
 ふたたび、頭のてっぺんから光がさしこむように、安美さんの声が聞こえました。メグがはっとして、また頭上を見上げると、シーラは水面に顔を伏せて、いまにもこちらへ飛び込んできそうな気配でした。
(だめ、来ちゃだめ!)
 メグは叫びました。少年はいきなりそのメグにとびつき、痩せた両手でメグの口をふさごうとしました。おびえきったメグの炎は、最初よりもすっかりちいさく細くなっていて、少年はやすやすと結界をくぐり、メグをつかんでしまったのです。
(つーかーまーえーた)
 少年は鼻唄みたいに嬉しそうに言い、メグはその手をふりほどこうとしゃにむに暴れながら、シーラを見上げ、とっさに、眼の前のアスカさんの横たわった板を水面にむかって蹴り上げました。
 よこしまな夢魔に耽った魂の張り付いた板は重く、メグは、板の裏側から、何度も何度も蹴飛ばしました。
(行け、行くのよ、アスカさん。目をさまして、ここにいちゃいけない、シーラといっしょに目をさますの)
 メグは叫び続けました。すると、火勢の衰えていた結界の炎は、叫ぶメグの声につれてメラメラとまた吹き上げ、メグの首っ玉にしがみついた少年のパジャマを焦がし始めました。
 ギャッ、と彼は悲鳴をあげてメグの体からとびすさり、口惜しそうな表情をしました。
(そんなにぼくが嫌いか?)
(ダイッキライ)
 メグは遠慮なんかしませんでした。
(あなたなんか、二度と会いたくない。意地悪、ザンコク、自分勝手!)
 叫んでいるうちに、涙がぽろぽろ流れてきました。
(ママを返してよ)
(君のママなんて、ほんとは死んでいるんだぜ)
(でもあなたが捕まえてる)
(もともと生の世界のひとではないんだからぼくがどうしようといいじゃないか)
(それが、自分勝手なの)
 言いまくられて、少年はちょっと黙りました。二人が怒鳴りあっているうちに、アスカさんを乗せた板は、ぐらりぐらりと水面に向かって上昇してゆきました。
(そうよ、アスカさん、シーラさんのところへ行って!)
 フーン、と少年は、いきなり興奮をおさめてつまらなそうな顔にもどり、パジャマのズボンのポケットに両手をつっこみ、その姿のまま、水中で器用にまたくるっと後ろむきに一回転しました。
(メグなんて、ぼくのこと何にも知らないくせにさ。よく言うよ。ぼく、ほんとはいいことしてるのかもしれないんだよ)

 信州茅野、星隷ミカエル病院をネットで検索したタイジは、そのホームページトップに、写真家先生の部屋で見た絵葉書と同じ画像がイメージアップされているのを見つけました。
すぐさま、データ化された花緒さんの作品を探り、ほとんど同じ、いいえ、両者の微妙な色彩調整のズレはさておき、構図といい基本色相といい、また画面で推測できるタッチといい、完全に同一作家の作品が、花絵の〈記憶〉画像に残されているのを確認すると、この奇妙で不思議な符合に、胸がドキドキしました。
(ばあちゃんの燃やしたはずの絵が、どうして信州にあるんだ? しかも病院に?)
 シーラやメグをめぐって、このパラレルワールド行方不明捜索は、平穏な三次元的常識や理詰めでは理解できないことだらけなので、タイジは日常のごく身近で、こんなにやすやすと手がかりの糸が絡み合ったことのほうが、不思議な気がしたのでした。
(誰だっけなあ、シーラさんだったかな、偶然というのは存在しない。すべては必然なんだ、とか言っていたっけ)
 とタイジは考え、ともかくもシーラに連絡をとろうとしました。
 ところが携帯は電源を切ってあって通じないし、メールを出してもなしのつぶて、たった一本も返事はないのでした。
(そういえば、俺、彼女がどこに住んでいるのかさえ知らなかったんだ……)
 今さらながら、タイジは自分とシーラとの近くて遠い関係に愕然としました。シーラとは娥網を通じて知り合いになったのでした。男なら誰だってシーラにボーッとなるように、タイジも彼女にひと目惚れ。でも自分と彼女とではつりあいっこない、とひとりで決めてしまっていたので、タイジはときどき会うシーラの使い走りを進んでつとめ、ちょっとでも長く傍にいられると嬉しい、という気持ちを大事に保っていたのでした。
「あー、コンチクショ。どうしよう」
 じたばたしているうちに週の前半は、介護ワーカーとしての激務アルバイトに追われてあっというまに過ぎ、その間、何度もシーラにメールや電話を送りましたが、やっぱり返事はありません。木曜の夜、デイサービス仕事を終えてようやく落ち着き、タイジはガーネットに電話してみました。
「あたしも心配しているのよ、こっちにも何にも言ってこないから。捜索でもトリップでも、彼女はプロフェッショナルだから、進展があればコンタクトしてくるはず。難航しているのかと思ってあたしからは催促しなかったわ。……シーラの住所?」
 ガーネットは、ちょっと沈黙しました。
「豹なら知ってるでしょうけど」
「てことは、ガーネットさんも知らない?」
「まあね。本人が言わないことは尋ねない」
「豹河は?」
 ガーネットの言葉に、タイジはまたびっくりしました。
「七月の末から八月いっぱい、八ヶ岳よ」
「ええっ」
「今は清里音楽祭に出演してる。夏フェスイベントで、信州から清里高原にかけて、あっちこっちでキャラバンしながらジプシーしてます。知らなかった? あの子ね、調理師免許持っているのよ。だからフェスティバルのカラ日は、知人のオーベルジュでバイトしてるわ」
「えらいね」
「峰元くんだって、ちゃんとカタギやってるじゃない。あたしは、あの子をほったらかしに育てたのだけれど、男一匹(豹なら一頭ってとこね)どんな境遇でも自分の力で生計を立てるって、だいじなことだわ」
「知らなかった」
「そんなに驚くことかしら?」
「そうじゃなくて、ガーネットさんが、そういう考え方のひとだってこと。ぼく、ヒョウガは珠螺木を継ぐのかと思ってた」
「そうなるかもしれないし、そうならないかもしれない。でもどのみち占い師には向いてない。父親に似て頑固だし、我が強すぎるから……話がずれたわね。とにかく豹はこっちにいません……」
 そこでタイジは急いでヒョウガにメールを送り、かんたんないきさつを知らせ、シーラとのコンタクトを頼みました。
(ヒョウガはシーラさんの住まいを知ってるのかー、てことは)
 そこで考えるのを止めて、タイジはちょっと(かなり)落ち込みかけたのですが、なんとかヘコミを喰いとめて、木曜日の晩はいつもどおりチャリで実家にもどり、ありったけ自分の洗濯をかたづけ、お母さんの手料理を妹(タイジには女子大生の妹がいます)といっしょにたいらげ、泊まっていけ、というのをまたいつもどおり断って、真夜中に自分の巣に帰ってきました。
学生時代から変わらない六畳一間のアパートは、ひとり住まいのトリの巣暮らし。さらに、冷房ナシのエコ暮らし。木造二階の角部屋だから、窓を全開にすれば、風通しは悪くないけれど、エアコン完備の快適な実家とは比べようもなく、熱帯夜ぶち抜くチャリ漕ぎのあと、さらにうだるような自室の熱気に突っ込んで、タイジは全身たちまち汗みずく。それでもヒトリの巣のほうが、今のタイジには実家より気楽でした。
 ヒョウガの返信は、携帯ではなくパソコンに届いていました。
 ……ミネさん、わるいけど、本人の了解なしに、ぼくからシーラのアドレスは教えられない。今戸隠にいる。明日イベントひとつ消化したら、とにかくそっちに帰り、ぼくがシーラを連れて行く……
 過不足ないけれど、グサッとタイジのハートにヒビが入る返信ではありました。
(当然だよなあ。個人情報保護だもの。オレとシーラさんて、所詮、この程度)
 タイジの太眉が、ざっくり垂れて、顔に八の字を描きましたが、
(とにかくこれでなんとかなるさ)
 と気をとりなおしたとき、手元の携帯がマナーモードで唸りました。もう深夜も三時近い時刻です。今頃なんだよ、もしかしてヒョウガ?ジンさん?
「あたし」
 と聴き覚えのあるなめらかな低音ヴォイス。タイジは嬉しくって思わずたちあがり、あたりはばからぬ大声をあげてしまいました。
「何してたんですか、どんなに心配したか」
「多次元トリップ」
「……」
 その言葉も、もうタイジは聴きなれたはずですが、ガーネットのスタジオで、現実には起こりえない光景を直視したにも関わらず、タイジはいつも、トリップ、という単語には、ドラッグめいたいかがわしさを感じてしまうのでした。タイジの絶句の中身を察してか、電話の向こう側でシーラはかすかに笑ったようでした。
「ヤクでも脱法ハーブでもない。正真正銘、ひきずりこまれていたの。自分で飛び込んだのだけれどね」
(シーラさん、疲れてるな)
 口調はしっかりしているけれど、喉で笑ったシーラの含み声に、ただごとでない疲労が滲んでいました。タイジは思わずまた大きな声を出してしまいました。
「ぐあい悪いの?」
「今何日?」
「え?」
「さっき正気づいた、ていうか、こっちに戻れたのよ。アスカさんを発見した。でも連れては来られなかった。今日は何曜日?」
「木曜日、じゃなかった、金曜の朝です」
 受話器の向うの長い吐息が聞こえました。声にならない呻きに近い。
「涅槃に入ったのは月曜だった」
「ネハン? それ何ですか?」
 タイジはせっかちに質問しました。シーラはひとりごとのように、
「三途の川原を渡ってまる三日過ぎた。消耗するわけだ」
 それから、また冷静な声に戻ると、ゆっくり区切りながら、
「アスカさん、注射、ざんまいだった」
「注射…注射って?」
 タイジはじりじりしました。見えそうで見えないものが、すぐそこにあって、手を伸ばせばつかめるに違いない中身が感じられる。自分がものすごくダウンロードの鈍くなったパソコンみたいな気がしたのです。
(オレ、何ヤッテンダロ。もっと回転ハヤクナレヨ)
 シーラが疲労困憊している気配がありありと感じられるにつけ、タイジの口惜しさはつのります。
「わからない。彼女の全身に突き刺さっていた針がなんなのか」
 タイジとは反対に、シーラの声はゆったりとしていました。いいえ、トリップからようやく覚醒し、疲れきったシーラは、あらためて泥みたいな睡魔におそわれ、正直、口をひらくのもようやく、というところだったのです。ですが、彼女はそんな消耗をこらえて、切迫したタイジの様子を察し、たぐりよせるべき要所を問い直しました。
「この三日間に何があったんだ。どうして注射が気になる?」
「ばあちゃんの絵が茅野のサナトリウムにあったんですよ。たぶん花緒さんの原画」
「サナトリウム?」
「違うかな。とにかく終末医療の病院みたいなところ」
 タイジはなんとか簡潔に話をまとめようと焦りながら、写真家先生のところで〈偶然〉見つけたカードから、ネット検索でつきとめた画像までを伝えました。でも、豹河と連絡をとったことはどうにもつらくて言えませんでした。
 携帯を耳にあてて、タイジの不器用な説明を聴き取りながら、シーラはもう目をつぶっていました。眼球の奥に疲労がたまり、鈍い痛覚がちかちかしています。
(視床下部の過労)
 とシーラはすこし自虐的に自分の疲れを測りました。自虐的になると、シーラの思考回路は、少年に傾くようでした。
「わかった」
 ぜんぶ聞いてしまうと、シーラは乱れた浴衣の襟や裾を整えるように、タイジに伝える自分の声音を意識して女性に戻しました。
「安美さんも言ってた……多次元領域では、〈彼〉の力が強すぎて太刀打ちできない。リアルワールドから来い、って。そこに行ってみましょう。行く価値はある」
(それしかない)
 今はともかく、とシーラは心でつぶやき、かすかな声で付け加えました。
「メグを連れて行く。彼女が必要だ……」
 シーラの残存エネルギーはそこまで。プツッと携帯は切れました。
 音信の途絶えたタイジの携帯ホームには、シーラの画像がぼうっと浮かびました。正面撮りではなく、斜めうつむき加減四十五度のシーラは、ちょうど耳を見せて髪をかきあげ、弓なりの眉の輪郭が清潔に高く、伏目がちに睫毛の長さがことに際立つ眉間から唇まで、流れるような隙のない陰影を見せていました。ミケランジェロのピエタや、ボッチチェリに描かれたイコンたち、とほうもなく遠い、手の届かない世界の女性の画像のようでした。
「今のオレの心境ピッタシ、これ」
 とタイジはごろんと畳に仰向けにひっくりかえりました。
タイジの携帯ホーム画像のシーラは、じつは十何枚か内蔵されていて、オートセレクトで、使用終了のたびごとに、異なるシーラの映像が浮かぶセッティングになっていました。もちろん誰にも(表向き)ナイショです。だから、笑顔のカワイコちゃんシーラや、不機嫌顔、すまし顔、ドレスアップ、街角カジュアルシーン、とひそかに集めまくったシーラを、彼は一日じゅう抱きしめている(じつはみんな知っている)のですが、今の会話のあとに浮かんだシーラの声のニュアンスは、なぜか自分と彼女との距離感を深めて、そんなタイジのさびしい恋心に、的中ズバリの映像でした。
「なあ、おい」
 とタイジは携帯につぶやきました。
「ハズレ? アタリ?」
(何がだよ、ぶぁか)
 タイジは自分で自分の質問をあしらい、携帯をそっと胸ポケットにしまいました。時刻はもう四時半をまわり、しらじらと夜明けの光が窓ガラスに昇ってきたようです。

 バイバイ、またね、と手を振ってサヨナラしたものの、普通と違うメグの様子がどうにも気になった羊子。その日は夕方から学習塾にゆくはずだったのですが、街角をいくつか曲がって駅へ向かうバス亭手前で立ち止まりました。
(なんだかメグ、変だった。もしかして、ネッチュウショウかも!)
ちょうどその頃は、学校でもしきりに熱中症に脱水予防ナドナド、夏休み前の健康保持、猛暑対策の注意報がしきりに出されていました。環境美化委員と学級委員を兼ねる羊子は人一倍責任感も強い。くるりときびすを返すと、パタパタと小走りに来た道を逆戻り。でも、走り出す前に、彼女はちゃんと携帯で時刻を確認しました。
(バイバイしてからまだ十分もたってない)
 角を二つ逆戻りして、校門と目印の柳が遠くに見える、県道から国道への分岐点すぐ、そこらへんは木蔭をつくる街路樹もなく、うだるような西陽が、さっきよりもさらに暑くアスファルトを焼いていました。
 不吉な予感はあたり、メグは陽炎のたちのぼる路面に、仰向けに倒れていました。
「メグ!」
 駆け寄った羊子は、学校で教わったとおり、メグの体温を確かめようと額に手を伸ばしかけて、でも、メグに触れる前にぎょっとすくんでしまいました。メグは片手に赤い花の咲いたタチアオイの茎を一本しっかりと握り、麦藁帽子をかぶったまま、かすかに顔を横に向けて倒れ、うっすらと半目を開いていました。その顔を覗いた羊子は、メグのとろんとして動かない両目が、麦藁帽子の鍔の下で真っ青に光っているのに気づきました。
「……どうしたの」
 まるで蛍光ペンのインクを、ぽたりとしぼったような濃い青色の瞳。錯覚かしらと羊子は自分の眼を手の甲でこすりましたが、見誤りではなく、メグの細い睫毛の影が、くっきりと、内側から光りを放つ青い逆光でいちいち数えられるくらい、メグの両目は、生気の失せた蒼白な顔とは裏腹に、強烈に輝いているのでした。
 その上、メグは全身汗まみれでした。髪、顔、胸、おなか、両手両足、頭のてっぺんからつまさきまで濡れとおり、ラベンダー色のプリントチュニックTシャツから、デニムのショートパンツまで、衣服の繊維が肌に貼り付くほどです。
「すごい汗、どうしよう」
 さすがの羊子も途方にくれました。
「どうしたの、貧血?」
 とタチアオイの生えている家の生垣ごしに、正面サッシをがらりと開けて、その家の主婦らしい女性が、異変に気づいて声をかけてくれました。
「わ、タイヘン。救急車呼ばなくちゃ」
 おばさんはメグをひと目見るなり判断して連絡、じきにサイレンが鳴り響き、救急隊員が飛んできてくれました。
 救急車には羊子とおばさんが乗り込みましたが、そのときメグはもう目をかたく閉じていて、羊子は一瞬かいまみたメグの青い眼を、二度見ることはできませんでした。
「なんだこりゃあ」  
 と救急車のおじさんは、メグを抱き上げたとたん、思わず奇声をあげました。メグは全身びしょぬれで、だらんと垂れた髪や指先からぼたぼたと大粒の水が滴るのに眼を剥き、
「この子、水遊びでもしたの?」
 状況を尋ねられた羊子は口をへの字に結んで首を振り、
「下校途中で、お花を見ていただけです。そのあとすぐあたしは別れたんだけれど、メグちゃんは忘れ物をとりに学校へもう一度行くと言っていました」
「それじゃ汗か。エライコッチャ」
 と救急隊員のおじさんはメグのバイタルを測り、また違った奇妙な声音で唸りました。
「エラー。測れない? 計測不可? どういうことだ。血圧も、パルスも。いったいどうしたってんだ。故障か」 
「ひどい不整脈だ。しかし呼吸正常。眼底出血なし。すごい発熱。測定器エラーだから、数値不明だが、すごい、としか言えない」
 燃えるようだ、とふたりの救急隊員はメグの腋の下にかわるがわる差し入れた手をじきにひっこめ、ちょっと蒼ざめてお互いに目配せしました。それから下瞼を器用にめくり、貧血状態を確かめました。とっさに羊子は、おじさんの手元を覗きこんだのですが、メグの白い眼球から、さっきの青い光はもう消えていました。
 この子の保護者は? と尋ねられ、羊子は、携帯のアドレスから、メグの自宅の電話番号だけを伝えました。救急車からメグの自宅に電話すると、そのままパパの携帯に転送され、メグが市民病院に担ぎこまれて一時間後には、あわてふためいた駿男さんが現れたのでした。
 その晩メグは点滴を受けました。パパが現れるとすぐに、メグはぱっちりと目を開け、
「パパ、どうしたの?」
「メグは熱中症でひっくりかえったんだよ」
「……」
 メグは自分がタチアオイの花を通って、裏側の世界に入ったことを、パパにうちあけたいと思いました。でも黙っていました。話してもパパには理解できないだろうし、困らせてしまうに違いない、と考えたのでした。
「あたし、どのくらい貧血だったの?」
「羊子ちゃんは、すぐにまた戻ってくれたんだって。だから五分か十分だろう」
(たったそれだけ?)
 メグはびっくりしました。ずいぶん長い間、冷たい水底で、あの男の子と争っていた気がしたのに、こちらがわではたった五分かそこらだったというのです。
「羊子ちゃんは?」
「帰ってもらったよ。あとでよくお礼を言っておくんだよ」 
 パパはメグの濡れてまだ乾かない前髪をいとおしそうに撫でてつぶやきました。
「メグは、そろそろ髪の毛を切らないとね」
 点滴を外しに処置室に入ってきた看護師は、そんなパパとメグのこまやかな情景を眺めて、
「今から将来が楽しみなきれいな娘さんで……お父様、目に入れても痛くない、って感じですわ」
「いやあ」
 ハハ、と駿男さんは、ちょっと小鼻を人差し指でこすり、照れたように、
「男手一つで育ててますからねえ。いろいろ気がかりで」
 あら、と看護師は、うっかり駿男さんが洩らしたプライベートに触れたために、微妙な表情を浮かべましたが、次の瞬間にはもう、隙のない感情のゆきとどいた微笑に変化していました。メグの腕から点滴の針を抜き、看護師は顔に整えた微笑を絶やさず、
「体温、血圧、心拍。すべて正常値です。脱水症状もありませんので、ご自宅で安静になされば、問題はありません」
 その晩遅く、メグはパパと自宅へ戻りました。頭の片隅にはまだ、他界の残像が重く渦巻いていましたが、体はもう元気で、家に帰り着くなり、
「パパ、おなかすいたっ」
「パパも。メグは何が食べたい?」
「オムライス」
「いいよ。ただしパパ疲れたから、チキンライスはリーズナブルにケチャップ」
「いいよ。でもデザートにアイスクリーム付けて」
「肥るぞ」
「背が伸びるもん」
 メグの両頬に、内側からあかりが射すようにほのかな紅色が昇っているのをパパさんはつくづく見つめて、安心すると同時に、娘に対してやるせない思いを抱きました。
(基本的に母親似だが、この子はたいした器量よしだよ。コドモだコドモだと思っていても、このほっぺたのピンクはどことなく大人っぽくて(色っぽくて、と言いたいところだがイイタクナイ)もうそこまで青春到来って感じだ。そうしていつか、この娘をさらっていくヤツが現れる。それもそんなに遠くないだろう。あー父親ってカナシイ……)
「ナーンチャッテ」
 と駿男さんは自分のしめっぽい物思いに向かって、ことさらわざとらしく、あっかんべー(我ながら古いぜ、とボヤキつつ)しました。メグは戸棚から食器をとりだしながら、パパのヒトリゴトにふりかえり、顔にふりかかる伸びすぎた前髪をおとなびた仕草でかきあげ、
「なにブツブツ言ってるの?」
「いや、なに、その」と、パパはへどもどし
「明日は学校休んで、髪の毛を切りに行きなさい」
 とごまかしました。もう翌々日から、小学校の夏休みが始まります。

 八月に信州で、演劇パフォーマンスのセミナーがあるんですけれど、とシーラから電話が入ったのは、メグの夏休み初日の夜でした。
「ああ、シーラちゃん。元気?」
 パパは受話器を握りしめ、露骨に嬉しそうな声をあげました。
「おかげさまで。先日はいろいろご馳走になりました。とても楽しかったです。メグちゃん、変わりありませんか?」
「うーん、いっとき熱中症で倒れてね。三日くらい前、市民病院に救急車騒ぎだよ。それ以外は何にもない。今はもうピンピンしてる。
うちの子に算数見てやるついでに、遊びに来てよ。そういえば、全然例のミュージカル練習始まってないみたいだけれど」
「ハイ。なかなかメンバーそれぞれ都合のよいスケジュール調整むつかしくって。だから思い切って、何日かバンドメンバーをまとめて、いっきに舞台あわせとお稽古をしちゃおうかな、と計画したんです。ちょうど長野県で音楽祭に出演しているミュージシャンの子がいて、彼の知り合いの民宿に空きがあるって聞いたので。オトモダチ価格で費用も格安だし、往復の足代は…」
「え、それっていついつ?」
 突然興奮したパパはシーラの説明の腰を折って割り込みました。
「信州音フェスって、諏訪湖ロックとかジャズinTOGAKUSHIとか? もしかして」
「それです。戸隠、ご存知ですか?」
「モチですよー。すごいねえ、内外の一流どころのアーティストが、かわりばんこに来るでしょ。そのステージも、シアタータイプじゃなく、神社とか、古民家とか、アーティストの息づかいが感じられるような近接ナマで聴けるレアじゃなかった?」
「そういうシーンもあるようですね」
(パパさん、ボキャがグチャだよ。乗せられやすいタイプだね)
「うちのバンドの子、戸隠で丸茂醸のバックに入っていたみたいですよ」
「ええっ、ぼく長年マルモファンなの」
「あらあ、残念。もう彼はマンハッタンに帰っちゃった」
「シーラちゃん、ぼくも参加しちゃだめ?」
「えっ」
 携帯にぎってシーラは思わず二三度瞬きしました。彼女の横には、聞き耳を思いきりたてたタイジがくっついています。
「有給とってぼくクルマ出すからさ。メンバーって何人くらい?」
「いまのところ、こっちにいる子だけで五六人くらいかしら」
「全員は無理だけど、もう一台車出せれば、ぼくのとそっちとで、長野に突撃できるよ」
「トツゲキ……」
「分乗まずかったら、いっそレンタカー」
「そうですねえ」
(なりゆきまかせとはいえ、さあどうする。このパパさんをデカイ付録に積んで珍道中、行く先は茅野なんだが、まあいい、いざとなったら暗示にかけて眠ってもらうか)
 とにかくメグははずせない、とシーラは即座に判断し、声のトーンをすこし甘くして
「それじゃ、お願いしちゃおうかな。でも、風間さん、そんなに簡単に有給休暇って、大丈夫ですか?」
「これでも店長権限よ。女房亡くなって以来、三年半ぶんくらい溜まってるもんね。シーズンだから、長期は無理だけど」
「あたしたち、たぶんあっちに七日くらい詰めますけど、風間さんのお帰りになったあとも、メグちゃん、セミナー終了までおあずかりしていいですか?」
「シーラちゃんがいっしょならいいよ」
「そうですか、ところで」
 と、シーラはそこでようやく本命にたどりつきました。
「メグちゃんと代わっていただけますかあ」
「ハイヨ。メグ、シーラちゃんだぞお」
 ダイニングのテーブルで、今日の絵日記に向日葵を描きかけたまま手をとめ、頬杖をついてパパの姿を眺めていたメグは、ぱっと椅子から飛び降りると、受話器にとびつきました。開口いちばん、これ聞けよがしの太字ゴシックで、
「シーラさん、うちのパパってうるさいよねー」
 ちょうど発泡酒を飲みかけていたパパは、メグの冷たい言葉に咳き込んでブッとふきだし、メグはそんなパパを横目でじろっとにらみつけ、
「ずうずうしくてごめんなさぁい。長野でキャンプするの?」
「キャンプじゃなくてね。……例の失踪事件、パラレルと三次元の混在点がまたひとつ見つかったみたいなんだ」
「どこ?」
「パパ大丈夫?」
「お酒飲んでる」
「信州なの。偶然だけど、豹河はもうあっちにいる。来週早々、峰元くんとあたしと、もしかしたらガーネットさんもいっしょに現場へ向かう。あなたも来てほしいの」
「いくいく。それでパパも?」
「あたしはかまわない。車はあたしのほうでも出すわ。たぶん風間さんは最後まではいられないでしょうから」
「どこ泊まるの?」
「予定では、ヒョウガのバイト先。佐久だったかしら、どっちみち、八ヶ岳の向こうがわ」
「あたしね、シーラさん、熱中症で倒れたとき、こわいもの見た」
「……メグ。そこにパパいるね。それ以上〈声〉でしゃべらなくていい。携帯はこれで切るけど、自分の部屋に戻って、耳からじゃなく、頭の中であたしの〈声〉を聞いて」
 え、とメグは目をみひらきました。シーラはおだやかに言いました。
「あなたとあたしなら、携帯なしでコミュニケーション可能なの。もうそれを教えてもいい時期だ……」
少し大きい文字

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サイコ・ヒーラー 4 ベリル

Posted by 水市夢の on   0 comments   0 trackback

4 ベリル

 タイジは、月曜日から木曜日まで、介護ヘルパーの仕事をしています。
 あの世とこの世が交錯した落雷突風打ち上げ花火みたいな土曜日のあくる日曜日、いつもなら、午後から久我ビルで〈花絵〉のギャラリー番をつとめるはずなのですが、さすがに衝撃でひっくりかえって丸一日、アパートで爆睡してしまいました。
美大の三年から実家を出て、駅ひとつ離れた町に、タイジは六畳一間にキッチントイレ付の部屋を借り、卒業したあともそこに住んでいます。お風呂は銭湯だったり、週一、二回くらい、洗濯物を積んで自転車で実家に帰ったついでに、シャワーで済ませたりして、彼なりに節約していました。
福祉系の仕事を始めたのは、二年前、大学を出てからのことでした。ちょうどその前後、銀座のギャラリーのオーナー企画が稼動しはじめ、でもそんな収入では、とうていお小遣いにも足りないことはわかっていましたし、両親は息子のアート活動には干渉も反対もしませんが、どういう生き方をするにせよ、ノーワークノーペイ、自分の食いぶちは自分で稼げ、とあらかじめ言い渡しました。
 気のいいタイジはあれやこれや考えた末に、高齢社会の到来につれ、キツかろうがなんだろうが、ともかくも手に職をつけようと、さしずめ一生食いっぱぐれのなさそうな福祉職をやってみることにしました。
 きっかけはもうひとつあり、タイジのお母さんが、全国展開の非営利団体福祉サービスに関っていて、地域の高齢者ケア現場で働いていたからでした。
 タイジが入れてもらったのは、隣町に住むお母さんとは違う、自分の住所地の事業所です。人手不足の介護業界でも、ボランティア色の強いこの団体では、一般企業よりさらに人材が集まりにくく、タイジのように身元のしっかりした体力自慢の若手男子は、無資格でも大歓迎されました。
タイジにとって好都合なことには、この団体は世間ふつうの企業と違って、個人のワークの量や時間帯などかなり融通がきき、アート制作やギャラリー関連のスケジュール調整ともうまく折り合いがついたのでした。
 資格は働きながらとればいいし、仕事は現場でおぼえればいいの、としっかり者の先輩主婦たちに叱咤激励されつつ、あちらこちらの訪問ヘルプにかりだされ、それまでも、いちおう実家を離れての自炊生活ではあったから、炊事洗濯まずどうにかこなせましたし、
人に好かれる陽気なタイジは、さほどの抵抗なく、あちこちの利用者さんに可愛がられ、いつのまにか丸二年になったのでした。
 今では、訪問介護のほかに、この非営利団体の経営するデイサービスにも、水曜日と木曜日の二日間、つとめています。
「ひゃー。夢も見ないで睡眠時間二十時間だよっ」
 と目覚まし時計のベル音+携帯アラームのデュエット二十回くらいで飛び起きたタイジは、月曜の朝九時から仕事に周りはじめ、午前中に掃除洗濯一軒、そのあと昼食づくりに一軒。すこし時間をおいて、夕方から晩御飯の支度そのほか雑用ワーク一軒と、自転車で町中を飛び回るのでした。
 月曜日のおしまいワークは、市街中心部のマンション住まいの八十代男性でした。
国際的にも相当有名な写真家だった彼は妻と別れた後再婚せずに、ずっと気ままな独り暮らしを続けていましたが、数年前に糖尿病と脳梗塞をわずらい、左片麻痺となり、リハビリしながら、家事全般をヘルパーの生活援助に頼っています。
「こんばんは。峰元です」
「待ってたよ。ミネちゃん」
玄関チャイムを鳴らしてから、しばらく待ちます。やがて一本杖をついた先生が、ゆっくりと内鍵を開け、往年のエネルギッシュな面影の残る笑顔で迎えてくださいました。独り暮らしでも整容に気を配り、オトコお洒落を怠らず、襟のきちんと伸びたあざやかなオレンジレッドのポロシャツが、お年を召されても精悍な顔によく似合っていました。
こまかな家事などこなせないにせよ、先生は排泄や食事その他、自分の身の回りの始末いっさいは、きちんと自立されていました。入浴は週二回のデイケアを利用しています。
「お変わりありませんか?」
「ああ」
「今晩何召し上がりますか?」
「焼きそばでも作ってもらおうか。知り合いから横浜中華街特選の何とか、餃子詰め合わせが来てるから、それもいっしょに」
「買い物はどうします?」
「まだ大丈夫じゃないか。冷凍野菜も残ってるし、おとといのヘルパーさんが作りおきしておいてくれたキュウリの浅漬けなんかもあるだろ」
「じゃ、それで」
 事業所ロゴ入りエプロンをかけたタイジは手際よく冷蔵庫のなかみを確認すると、食材をとりだし、キャベツや人参を食べやすい大きさに切り、豚肉のコマギレも小さめに刻みわけます。
「これに餃子は、ちょっとオーバーカロリーじゃないスか?」
「そうかね。血糖値は安定しているが」
「先生、インシュリン忘れずにお願いします」
「お、そうだった」
 と、ダイニングに腰を下ろした先生は、ポロシャツをまくりあげておなかをさぐり、おへその周りを清浄綿で消毒すると、いとも無造作に注射針をぶすりと刺しました。
「ヘソ回りが注射で硬くなって、タコができそうなぐらいだよ。肉が硬くなるついでにハラの脂肪も落ちにくくなる」
 苦笑いする写真家先生です。
「節制されてますから、顔色もいいですし、ホント、お元気ですよ、先生。麻痺もだいぶ回復されましたし」
「今のデイケアのリハビリがうまくてね。介護も結局は相性だねえ、ミネちゃん」
「そうですね……餃子どうします?」
「二個ぐらい焼いてよ。君もいっしょにどう?」
「それはまずいッすよ。ぼく仕事中」
「かたいこと言うなって。とっといても僕以外に食べるヤツいないから。君は晩メシまだなんだろ。それともウチに帰るの」
「いえ、寝部屋に戻ります」
「寝部屋か。いいねえ、若いって。ぼくも学生時代は貧乏暮らしして、食うや食わずで金をためて、あっちこっち撮影旅行したもんだよ。なつかしいなあ。ミネちゃん、お父さんは元気か?」
「おかげさまで」
「まだ海外?」
「はい。今ミラノかな」
「お母さんはついていかないのかい」
「めいめいマイペースな家族なもんで」
「それも気楽でいい」
 偶然ですが、写真家先生と工業デザイナーのタイジのお父さんは、仕事を通じて顔見知りだったのでした。
「ここで食べないんなら、持ち帰っておかずにしなさいよ。黙ってればわからないから」
 結局タイジは詰め合わせの餃子を半分解凍調理し、先生には二個、焼きそばに添えて出し、残りはラップに包んでいただくことになりました。もちろん、これはアッテハナラナイ行為なんですが、昔かたぎの高齢の利用者さんは、往々にして、汚れ仕事をにこにこと厭わず働いてくれるヘルパーに、かつて、出入りの職人さんなどにふるまったように、ちょっとした菓子やジュースなど、利用料とは別に、そっとくれたがるのでした。
「召し上がっている間に、ぼくいつもどおり郵便物の整理しますか?」
「新聞紙もまとめてくれるかい。ひろげるのはかんたんだが、片付けるのは厄介だ」
 先生のマンションは、タイジのほかに週二回、介護ヘルパーが入るので、掃除もきれいにゆきとどいていました。瀟洒なバリアフリーマンションの至るところに、先生の往年の栄光のしるし……コンペティションのトロフィーや賞状、感謝状、作品、知人のアーティストから送られたオブジェなどが、杖歩行の障害にならないように配慮されて飾ってあります。リビングにはりっぱな観葉植物。手入れのめんどうな生花などはありません。
 タイジは先生が夕御飯を召し上がっている間に、郵便受けから、週末からその日までに届いた郵便物をとりだし、そのままリサイクルペーパーにするチラシ類と、先生が目を通さなければならないものとを選りわけます。一見して広告とわかるDMやチラシなどは抜き出して古い新聞紙といっしょにまとめ、残りを食卓に持ってゆくと、糖尿でも食欲旺盛な先生は、焼きそばをあらかた食べ終わろうとしていました。
「ミネちゃん、料理だんだんうまくなるな」
「ありがとうございます」
「女性のヘルパーさん、気を使って薄味気味にしてくれるんだが、もういまさら寿命を延ばそうって気にもならないんでね。苦しくさえなけりゃ、いつ娑婆とオサラバしてもいいんだ」
「そんなことおっしゃらずに、元気になって、またヒマラヤ登ってくださいよ。先日女性の最高齢エベレスト制覇ありましたっけ」
「あったねえ、すごいね、七十代で、腰部骨折からの復活だろ? 元気もらえるニュースだった」
「ですねー、だから、いつからでも、大丈夫なんですよ。先生なんて、ぐんぐん回復されてスゴイじゃないすか」
「ふふ、だいぶケアコミュニケーションがイタについてきたな」
「ちぇっ、ヨイショじゃありませんって」
「お世辞とは思ってないよ。料理も気配りもうまくなったって言ってるんだ」
「ありがとうございます」
「男のヘルパー少ないからね。特に訪問は。君みたいな子が来てくれると、話が合って嬉しいんだ」
 どれどれ、と先生は不自由な左手をかばいながら箸を置き、タイジの差し出した郵便物を、ばらばらと眺め始めました。タイジは食卓の皿小鉢をまとめ、手際よく後片付けをすませます。先生の手元からうっかり床にすべり落ちた何枚かをひろいあげ、何気なく表書きを眺めたタイジの眼が大きくなりました。
「……先生、これって」
「ン? ああ、これか。今年の春から孫が働いているんだよ。ちょうど君くらいじゃないか? いや、もうちょっと上だ。親の反対押し切って、自分で選んで地方の病院勤務だ」
「星隷ミカエル病院て、長野県ですか?」
「そう。知ってるの?」
「いいえ、でもこのポストカードの絵、どこかで見た記憶があって」
「ほう。ど派手にポリクロームだが、シロウトにしちゃ悪くない。信州白樺湖畔、茅野だよ。この絵は入院患者の作品かね。なかなかタッチに力がある。コスモスかな……」
(こんなことってある? それとも俺の記憶違いか?)
 先生のお孫さんが、やさしい口調で近況を告げてきた絵葉書の絵は、たしかにタイジの記憶に残るひいおばあさんの作品のどれかに酷似していました。でもそれは、おばあさんが亡くなる直前に、みずからの意思ですべて焼き捨てたはずのものなのです。
 濃い青空に陽炎のように揺れる色あざやかなコスモスの群落。人の見えぬ風景、花野に揺れる丘の彼方に、すうっとそびえるまぼろしの館。白い塔のある、四角い建築。ギャラリー〈花絵〉で上映される「記憶」の絵のどこかにインプットされ、それはタイジの脳裏に繰り返し、あざやかに刷り込まれたワンシーンでした。
「この建物は」
「病院だろ。ぼくも行ったことあるよ。近くにローランサン美術館がある。世界でも有数のローランサンのコレクションだ。ぼくはあの画家は好きじゃないが、仕事で取材写真を撮影に行った。二十年も前だ」
「そのころからあるんですか?」
「そう。田舎道を……松林か何か、針葉樹の森をずうっと人里離れて山へ登っていくと、突然こんなふうに開けて、コスモスやら、鳳仙花やら、夏から秋にかけての花々がいちめんに咲いていたっけ。こんな感じで、病院が花畑のむこうに小さく見えたよ」
「病院に行かれたんですか?」
「いや。ぼくは道をまちがってそちらに入ってしまったので、目的地の美術館は、違う方角だったんだ。行き着く前に、地元のひとに道をたしかめてユーターンした。ホテル経営の美術館にしちゃあ、あたりがさびしすぎるから」
「……」
「思いがけない偶然だろ? まあ、縁というほどのものじゃないが、二十数年も前に、爺さんが道に迷ったその病院で、当時はまだヨチヨチ歩きの孫が働くなんてさ。いいところらしいな。敷地内に教会があるんだと」
 タイジはうわのそらでうなずき、信州茅野、星隷ミカエル記念病院……その単語と画像を、あらためて記憶に刻みこみました。
 

  あむちのこむちのよろづの子
  なむなむや
せんさかもさかも
もちすすり のりもうし
 山のちしき
あましにあましに……

シーラは灯りを消し、音を消したひと部屋に仰臥し、意味不明なその文句を声には出さず、口のなかで、ただ音をころがすように何度も繰り返しました。その部屋には、椅子もベッドも、家具らしい家具は何もなく、フロアリングの床に敷物一枚ありません。
 シーラは素肌に、白地に秋草模様の綿絽の浴衣を軽くまとい、赤い下帯ひとつでゆるく前を合わせ、手足を少しひらいて眼を閉じていました。
 瞼をあけても闇、閉ざしても闇。
 背筋に密着する床のひやりとした堅さがいつしか自分の体温で蒸され、浴衣の背がじんわりと汗ばんできても、シーラは身動きせず、ただ静かに呼吸を整えていました。
 そんな彼女は、こども部屋に静かにしまいこまれた人形のように見えました。
 部屋の一隅に、シンプルなパソコン机ひとつ、そこだけが外界と通じるコーナーになっていて、四方の壁と天井、床すべて防音。ドアを閉ざせば、闇のなかでシーラの耳にまず聞こえるものは自分の呼吸と心拍のみ、やがてそれにも聴覚が慣れてしまうと、より微細な音波が……パソコンの電波なのか、自分の内耳を一定の波長で振るわせる、低い耳鳴りのような、ジー……という振動だけ。
 シーラはトランスしようとしていました。
 メグといっしょにジャンプした他界に、今度は自分ひとりで侵入し、何か手がかりをつかもうとしているのです。メグのおかげで、いくつかの際立ったヴィジョンが彼(女)の心象に残り、それがジャンプの方向を、羅針盤のように示してくれる、という直感があるのでした。
 自分のジャンプや憑依に、秘儀めいた特別な結界や定まった呪文はいらない、とシーラは考えていました。極限まで意識を絞りあげれば、日常を突き破るエネルギーが集まり、それによって時空を超える裂けめが生じる。そこから他界へ飛ぶことができる、と。
(秘儀や呪術、あるいは薬物は、意識を変容させるための〈手続き〉にすぎず、すぐれたサイコトランサーであればあるほど、煩雑な儀式なしに楽々と境界を超えることができるはずだ。メグはまさに想像どおりだった)
 彼女はまるで、テーブルにおいた果物籠から好みの果物を選び出すように、精霊の母親をこの世に出現させ、自分の夢から未知の他者の心象にやすやすと入りこみ、無意識(サブリミナル)の渕に呑まれかけては自力で脱出し、カオスの澱みから、また生と死の境界を渡り、この世に戻るために、生身の豹河の肉体を、異次元との通路に変えてしまう。幽体離脱などではなく、質量をそなえた人間をまるごと……。
 もしも、シーラがそんなことを望むなら、いったいどれほどの念力が要るだろう?
(口惜しいけれど、あたしにはとうていそんなことはできない)
 口惜しいか?
(そうでもない……。こういう能力は、自分より、それを必要とする他者に役立つためにあるものだから。あの子は、たぶん、とてもたくさんのサイコヒーリングをするために、この世に生まれたんだろう。そしてあたしと出会った。いや、あたしが会いに行った)
 
 アムチノコムチノヨロヅノコ
 センサカモサカモ……

 シーラの記憶に埋め込まれた、日本の古代歌謡のひとつでした。彼女は、正確に逐語を記憶しているわけではありません。日本最古の仏教説話集『日本霊異記』に収められているこの古代歌謡にまつわる伝えのあらすじと、解釈は、一説によるとこうです。
 聖武天皇の治世、大和の国十市郡アムチ村に、鏡作造という姓の裕福な家がありました。この家には万の子という名の美しい一人娘があり、近隣から求婚申し込みがたくさんありましたが、どの相手も気に入らず、断り続けていました。その中で、ある男が何度も高価な品物を送って彼女や親の気をひき、結婚を申し込んできました。それは色鮮やかな絹の布を車三台にどっさり積んであるものでした。当時、絹の布は大変貴重な品だったのです。この贈り物に親も娘も心を動かされ、この男との結婚を承諾しました。
 婚礼の夜、男と娘は閨を共にしましたが、別室で寝ている親たちの耳に、その晩三度、娘が「痛い、痛い」と叫ぶ声が聞こえたそうです。けれども聞きつけた親たちは、
「まだ男女の交わりを知らないから痛いのだろう」
 と話し合い、そのまま寝てしまいました。
あくる日、陽が高くなっても娘夫婦が寝床から出てこないので、不審に思った母親が寝室を覗いてみると、男の姿はなく、寝床には娘の頭と、指が一本だけ残され、他はすべて喰い尽くされていたということです。
 両親は驚き悲しんで、男からの贈り物を確かめると、絹布は一変して獣の骨となり、それを積んでいた車もまたぐみの木になっていました。
 シーラが心の中でリフレインしている文句は、この事件の前に、大和の国中で流行った歌なのでした。ひとびとは、誰が歌い始めたかわからないこの歌を、災難の前触れであったのだろうと言い合いました。……。
 意味も音並びも不確かなこの古代歌謡をくちずさんでいると、シーラの内部にひとつひとつの音魂(オトダマ)の結びつき彩なすうねりが生まれ、ばらばらな日常の雑念を離れて、集中された意識の内と外とがメビウスの輪のようにつながる彼岸、あるいは多次元へすべりこむことができるのでした。
 理屈なしに、意味不明であればあるほど、結び合うオトダマの内包する力は隠れた強烈な霊性を持つ、とシーラは直感しているのでした。時にそれは神道の祝詞でもいいし、マハーバーラタの暗誦でも、真言陀羅尼でも、童謡でも和歌でも、またときにはハンプティダンプティだって、阿呆陀羅経でもよい……意識集中さえすれば、彼女(彼)にとっては同じ効果をくれるオトダマでした。
 だいじなことは、その言葉の運んでくる力が表面的な「意味」や解釈に遮られていないことでした。 
 気分やコンディションは、ジャンプの都度異なり、それにあわせて、その瞬間の念を集めるオトダマを、シーラは気ままに選んでいました。
(センサカモサカモモチススリ……モチススリ……モモチススリ)
 厖大に流され、心の深みに沈殿し濁った血の池。
 百血啜り…モモチすすり
(アマシニアマシニ…ススリ)
 天死に………死に天し、余し甘しに
(死に余し)
「死にきれないよっ」
 幼い悲痛な叫び声。
 睫毛の上にバチッと静電気が奔る強い刺激を感じてシーラは閉じていた瞼をひらきました。暗闇の天井に、まっしろなほそい足首が、つまさきを外に向けた姿で、ぐるりと白菊の花弁さながらの円陣となって並んでいます。横たわった遺体から、脛のあたりでざくりと切り取られたようなひとそろいずつの両足たちは、どれもちいさく華奢で、見上げるシーラの頭上三メートルあたりに、土踏まずをシーラに見せて、静かな円形に並んでいるのでした。 青白い皮膚は、一様に薄くなめらかで、静脈が雪の内側を流れる小川のように細部まで透きとおって見えました。 
(地面を歩いたことがないような足だ)
 シーラは仰向けに横たわった自分の手足に、重い眠気に似た痺れを感じつつ、身体の重さとは反対に意識は研ぎ澄まされ、宙吊りになった足首たちの、ポッカリ空いた円陣の黒い真ん中めがけて、自分の意識が肉体の縛めをまぬがれ、鋭いきっさきとなって突きささってゆくのがわかりました。
   
アムチノコムチノヨロヅノコ…
「あっちの子もこっちの子も、みんなみんなおいでよーっ」 
 モモチススリ
 モチススリ
 チススリ
 …
 きれぎれな音のリフレインは、いつしかシーラの喉を離れて勝手に虚空にあふれ出し、空間を満たすユニゾンとなりました。
 白菊の花弁のようにつつましやかに並んでいた足たちは、それと同時にひらひらと足をばたつかせはじめ、まるで墓から蘇ったものの、五体の自由のきかない死者たちが、なんとか歩き出したがってもがいているようです。 
「おいでよ、ぼくさみしいんだ」
 合唱の向うから、異質な声。ず、とシーラはその声にひきずられる操り人形のように起きあがり、そのとたんいきなり菊の花びらの足たちは、イソギンチャクか水母の触手のような青白く太い糸の束になって、ずるりとシーラにからみつきました。
「きみも仲間になるんだねえ」
 ひややかな嘲りを含んだこどもの声。
 声はこどもなのに、そのオトダマはコドモのものではありませんでした。
 シーラは唇をきつく結んで応えず、両目をしっかりとみひらき、全身にからみつくイソギンチャクの触手にからめとられるまま、魚がくわえ込まれるように、その暗黒の口腔の深淵に身を委ねました。
(巨大な血の池に、ずるずると沈んでいった正四面体建築。絶えず耳を揺るがす連祷のようなユニゾン、湖の底に沈んでいるのは誰だ? アスカさん、はっちゃん、ドミ、安美さん……。そのもっと前に、もっとたくさんの仲間を君は引きずり込んだはずだ。君は誰だ、どこにいる。ぼくを連れて行け、望みどおり喰われてやる、喰われてやるが、君の正体も見届けてやるぞ…)
 異空間へひきずりこまれながら、シーラと触手どもとの、脂汗の滲むせめぎあいはひとしきり続き、イソギンチャクの肢に視界さえ奪われたシーラは、ねっとりとした闇紅色の粘膜をぬめるようにころがり、また突然、殺意に似たその呪縛を離れました。
 どすん、と背中からどこかに投げ落とされ、ばさりと顔にふりかかったのは、シーラ自身の髪でした。
 墜落といっても、シーラは、はばたく鳥の翼から抜け落ちた一枚の羽ほどの軽さで、高原を渡るさわやかな夏の風にひらりひらりと重力をまぬがれて、周囲の淡い雲の襞を通り、針葉樹の森影を遠く過ぎ、落葉松林、白樺林と風に乗るまま、心地よく眺めながら、それらの森の真ん中に置かれたまるい鏡のような湖の、さざなみ寄せる水辺に降り立ちました。
 湖畔には、いちめんのコスモス。その白とピンクの群落のあいまあいまに真紅の曼珠沙華も見えるから、季節は晩夏か初秋なのでしょうか。黄色い女郎花、薄紫のはかなげな紫苑もすらりと揺れて、水引草に風の立つ……遠く遠くでミソサザイのさえずりも。
(どこかで見た光景だ、どこで?)
 きれいすぎるポエティック。田園へのピュアな憧れだけ残して、現実のよどみを排除した光景。
 
 勝ってうれしい花いちもんめ
 負けてくやしい花いちもんめ
 あの子がほしい
 あの子じゃわからん
 この子がほしい
 この子じゃわからん

 鳥の声にまじって、また声が響く。誰の声でしょうか? 
(メグ? まさか。いや違う、誰?)
 きっと年のころはメグと同じくらいな少女の声は、湖のどこかから聞こえてきます。
 湖上には、何艘かのボートが浮かんでいました。水に映る太陽の反射があまりにまぶしいので、ボートのシルエットはそのためにかえって暗く、乗っている人、漕いでいる人の姿かたちも、さだかではありません。
 シーラは息を呑みました。数艘の小舟は、互いにつかず離れず、毬のようなものを、一定の間をおいて、ポーンポーンと投げあいながら、ゆっくりと寄り合うように水面を動いています。

 あの子がほしい、
 あの子じゃわからん
 この子がほしい
 この子じゃわからん……

 少女の澄んだ歌声にあわせて、そのいくつかの毬は、舟と舟との間に投げ上げられ、飛び交っています。投げ上げるきっかけ、ひろう手元があやうければ、ボチャンと水に落ちてしまうかもしれませんが、小舟をあやつる人影は、上手にタイミングをはずさず、毬と毬とは、時にあやうく、舟べりすれすれに落下しても、ボートに乗っている人の伸ばした手元にすくいとられているようです。
 シーラは目をほそめ、てのひらを額にかざして、舟の様子を眺めました。
 またポーンと二つばかり毬が放りあげられて、お陽さまの光線を遮って青空に半円を描きます。
 あの子がほしい……
「ドミニクだ」
 まばゆさに次第に慣れたシーラの眼に、それまで毬と見えていたのは、折りかがめた膝を両手で抱えたちいさな白い女の子とわかりました。すこし巻き毛のついたあかるい栗色のショートカット、うつむき加減の顔のなかに、遠目でも際立つまっすぐな高い鼻筋と上瞼の深いくぼみは、東洋の少女のものではなく、その子は、ガーネットの住まいで何度か会ったことのあるドミニク・ヴェルモンに違いありません。
「じゃ、もうひとりの子は、はっちゃん?」
 きっとそうなのでした。ドミニクとおんなじに、吉田初生、はっちゃんも膝をまるめ、顔を膝小僧におしつけた姿は、ふたりともに、羊水に浮かぶ胎児のようでした。
 二人のこどもは、湖面を動く小舟から小舟へと、無造作に投げ渡されながら、怖さも何も感じていないようです。眠っているとも思えるくらいまるまった姿勢のまま、ドミとはっちゃんは、あやうい水上の遊戯を飽きることなく続けていました。
 シーラの耳に聞こえる花いちもんめの歌は、誰が歌っているのでしょう? 
(誰が放り上げているんだ?)
 シーラはコスモスの群生を踏み分けて水辺ぎりぎりに歩みよりました。
……来てはだめよ……
 湖面を撫でる涼風のなかに、また別な声が聞こえます。
「だれ?」
……シーラ、来てはだめ。とりこまれる。
「安美さん、どこにいるの?」
……水の中に……。
 え、とシーラが湖の中を覗きこむと、銀色の反射のまばゆさはいつしか消えて、岸辺のすぐそばから、もう浅瀬の見えない深淵の濃青が湛えられているのでした。
 その青い深みのどこかに、まざまざと白く、細長い寝台が、いくつもいくつも数知れず沈んでいました。
 幅のせまいベッドに、仰向けに寝かせられたひとびとは、一様に薄い白い寝間着を着せられ、胸の上で手を組み、両足をきちんとそろえています。このひとたちは、納棺されるまえに清められた亡骸のように、すがすがしくさびしい姿で、湖の底のまでずらっと並んでいるのかもしれません。そのどれかのひとつから、安美さんの声が聞こえるのです。
「どこにいるんです。助けにきたのよ」
 シーラはぞっとして、うわずった声で叫びました。返ってくる安美さんの声は、かぼそく、さざなみや風のさやぎに紛れてしまいそうでした。
……水に踏みこんではだめ。つめたすぎる。あなた、凍ってしまう。
「なぜ動けないの?」
……悲しみとくやしさばかりが心からあふれて、ここにたまっているのよ。わたしはもうこの世のものではない妖精だから、すこし動ける。でも、あんまり水が重くて、浮かび上がることができないの……。
 こんなにきれいな透明な湖なのに、とシーラは蒼ざめて水のほとりから一歩後退しました。ですが、ようやく探し当てた安美さんを置いて逃げ出すこともできません。
「ドミニクとはっちゃんが舟を飛び交う毬にされている。いったいどうして?」
……投げているのはあの子なの……
「あの子って?」
 舟はゆっくりと湖の上をすべるようにあちら側へと移ってゆこうとしています。
「舟は二つ…、いや三艘だ。ひとりで動かしているの?」
……そう。ドミニクとはっちゃんをおもちゃにして、水に落ちたら、彼らもあたしたちのように眠りに沈む。あの子と同じ、永く冷たい眠り……。
「何? その子も眠っているの?」
……あの子は眠っているけれど、心は目覚めている。あの子がヌシだから。
「ヌシ?」
……水のヌシよ。
「どうすればいい、教えて?」
……現実の制約のない精霊界や中有では、彼の力は強大すぎて、太刀打ちできない。時の流れに風化もせずに、たまりたまった怨念が、傷ついた他の魂も呼び込んで、彼がそれを操る。だからいったん、現実に戻って、そちらからあたしたちに近づいて。
「現実? ここはどこなんです?」
「シーラ、来たね」
 とそこでいきなりうしろから声をかけられ、シーラはあっと驚きました。その動揺で、脳内にかぼそく感応していた安美さんの声はかき消され、ちりぢりになってしまいました。
 ふりむけば、肩のあわない大きすぎるぶかぶかのパジャマを着た男の子。パジャマのズボンはかろうじて着丈に合っていますが、針金のようにほそい青白い足首が、裾からぬっと突き出て、パジャマの中身がないような薄い腰からそのズボンは、今にもずりさがってしまいそうなほど。白地に水色ギンガムチェックのさわやかさが、かえって痩せこけた体のさびしさを強調する印象です。
 前髪の垂れた眉間に、年齢にふさわしくない縦皺を険しく浮かべたこの子は、よく見るとなかなか整った顔立ちをしているのですが、肉の薄い逆三角形の顎をして、食の細い病人特有の、目ばかり大きく見えるのでした。
彼は両手を背中で組み、反り返った姿勢で、シーラの前に立ち、尊大な表情で、唇の両端を吊り上げてにやっと笑うと、すこし不ぞろいな前歯のかたがわに、ちいさな犬歯の八重歯が一本覗きました。
「君は……」
「ぼく、トモダチなら何人でもほしいんだ」
 有無を言わさぬ声。あどけない、でもひややかな声。
「冷たい水底に沈めるのが君の友情なの?」
「ときどきは出してあげる」
「出してあげるって……」
「いっしょに遊ぶんだ、あんなふうに」
 男の子は、小舟の間を毬にされて飛び交うドミとはっちゃんを、顎で示しました。
「無理やり引きずり込んだでしょう」
「見たい夢を見せてやってる」
 シーラになじられて、男の子は不服そうに口をとがらせました。
「ここに居れば、自分の好きな夢に漂っていられるんだ。いつまでも」
「死んでしまうよ。彼らは生身の人間だ」
「眠ったままなら、死は遠い」
「嘘をつけ」
 シーラは凛と声をするどくしました。
「死に切れない死者が、みずから思い迷ってとどまる中有ならともかく、君は生きたこどもや女性を現実から強引にさらったのよ」
 ぐっと詰まった男の子は白眼を剥いてシーラをにらみつけ、湖のほうへ後ろ向きにあとずさりしました。
「ドミとはっちゃん、それに学生のカップルとアスカさんを、安美さんを返してよ」
 逃がすまいとシーラは男の子の肩に手をかけました。ひょい、と男の子はその手を避けてケモノのように跳ね、勢いでくるっと後ろ向きに宙を半回転し、しぶきをあげて、爪先から湖のなかに飛び込みました。
「待って!」
 とシーラは安美さんの忠告を忘れて、真っ青な水に爪先から踏み込もうとした刹那、またいきなり湖面が割れて、シーラの眼の前にぶかっと浮いてきたものがありました。
 シーラはかたちのよい唇を真横にきつくひき結び、喉にこみ上げる悲鳴を抑えました。
 冷たくひらべったい板の上に仰向けに寝かされた女性ひとり。あえぐように舌のはみ出た半開きの口と、息をしていない鼻腔がぽっかりとふたつ、しゃくった器から水がこぼれるように、その大小三つの穴から湖水がぼたぼたと流れしたたり、頬や額に、濡れた黒髪が藻のようにまつわりついています。血の気のない蒼白な皮膚に、うつろに開いた口と鼻腔とのくらがりが陰惨に際立つのでした。
顔をそむけたいほど面変わりしていましたが、彼女はギャラリー深月の朱鳥さんでした。頬、こめかみ、瞼、それから首、腕……濡れた薄い寝間着は肉の起伏にぴったりと、もう一枚の粘膜のように貼りつき、そうして、胸やおなか、膝……アスカさんの顔といわず体といわず、全身に、大小の注射器がさまざまな角度で突き刺さっていました。

サイコ・ヒーラー 3 ピジョンブラッド

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3 ピジョンブラッド 

 アスタリスクいちめんにさまざまな宝石を惜しげもなく敷いたガーネットは、最後に結界の中心にハローキティの顔型の手鏡を置きました。さっき珠螺木のフロアで付け睫毛と化粧具合を直した鏡です。それはドミが彼女にくれたものなのでした。
(ドミニク…シーラといっしょに還って)
 とガーネットはスパンコールをちりばめた長い指先から、周囲の宝石の輝きをきらきらと反射させる〈鏡〉に向かって心のなかでささやきました。彼女はドミニクのイメージを心いっぱいに念じました。彼女がどこにいるのか、あちらがわへ飛んでしまったシーラは、ドミとコンタクトできたのか? 
 どんなヴィジョンが、他界からこのちいさな鏡をふくらませ、つらぬいて、ガーネットの心象に結ばれてくるのか。雑念を消して、ヒョウガの笛に揺られてからだを動かすのは、自分の肉体の枠を忘れるためなのでした。日常の限られた動作から、非日常の動作へ。からだの動きは心の動き。ふだんとはちがう心の力をひきだし、使うために、ダンスが必要なのです。
 吹き続けるうち、ヒョウガの次第に激しく高まる笛の音も、それから眼のさめるような緋色の衣装のひるがえる幻惑も、平板な日常の流れをつきぬけたところへとガーネットをいざなうのでした。
 暗がりの底にきらめく手鏡の小さな反映のなかに、虹色の小鳥の羽が無数に舞いあがるまぼろしがよぎったような気がしました。
「あ」
 とガーネットは、鏡の面にちらつく宝石の反映か、それとも小鳥の羽根か、を両手につかまえようと、ヒョウガの吹き鳴らす笛の旋律の緩急に合わせて、上昇していた意識の高みから下り、手鏡に身をかがめました。
 同時に、この地下スタジオ入り口の扉が音もなくひらきました。そこから階上の熱帯樹生い茂る珠螺木の風がどっと吹き込んできて、オブザーバーのタイジとジンさんは、思わずたちあがりました。
 ガーネットの手鏡の上にかざした手が、円盤のように炎えあがるのを、タイジははっきりと見ました。ジンさんも見ました。朱色の炎を摑んだように見えるガーネットは、ちっとも熱がらず、またその次の瞬間上空から流れ込んできた外部の風は、水流のような青黒い渦になって、ガーネットの裳裾にまといつくと、いきなりブワッと真上に向かってガーネットを押し上げようとするかのようでした。
「オオッ」
 と、どこまでもしぶとく下心を失わないジンさんは、仰天したタイジがうっかりジンさんから離れてしまったのを幸い、ガーネットに駆け寄らんばかりに四つんばいになって身を乗り出し
「ポルターガイストってこれ? 七年目の浮気だぜ。待てばガイストの日和アリ」
「ジンさんのそういうトコ好き」
 と絶叫したタイジは、そのままジンさんの脇腹を(怪我のないように)蹴り倒し、
「ゴメンネー」
といちおうは謝りながら、横転したジンさんを股いで、腰裳ごとぐらついたガーネットさんを抱きとめるために、アスタリスクのなかに走りこみました。
「あッ。来ちゃだめッ。集中力が消えちゃうから」
 とガーネットはタイジを制しましたが、吹き込んだ突風のせいで、おもいきり真横になぎ倒され、どすんとタイジの片腕に倒れかかります。ざらざらっと、宝石の小山を崩して小さな竜巻が床にいくつも巻き上がり、床に描かれた五芒星形の蛍光塗料が、目にもまばゆいプラチナ光を放ちはじめ、宝石の竜巻は、アスタリスクの作る立体光線を、七色のメリーゴーランドの馬みたいにちかちかと旋回し始めました。
「ドアしめてよっ、ジンさん」
「蹴飛ばしといて何言いやがる」
「つまづいただけだよ」
「うそつけ」
 ジンさんは嵐に紛れる大粒の雹か、あられのように顔や体にぶつかってくるいろんな宝石から顔を覆って床にひれ伏し、
「ピンポイントタイフーンでも来たんじゃないの?」
「ヒョウガ!」
 とまたタイジは叫びました。
 ヒョウガは、終始結跏趺坐のまま、悠々と笛を吹き続けています。抑揚を失わず、次第に音色は激しさを増していますが、半ば眼を閉じた彼の表情は、アジャンタの端正な仏像のように変わらず、ばりばり、めりめりと壁や調度にぶつかる異風にも気づかない様子です。おかしい、とタイジは抱えたガーネットを宝石の嵐からかばいながら、ヒョウガを見つめました。
 端座したまま黄金のフルートを構えたヒョウガ。極彩色の宝石の群れ飛ぶなかに、タイジは、笛の旋律とは異なる、澄んだ柔らかい小鳥たちの無数のさえずりを、はっきりと聴きました。すると、アスタリスクの青白い発光を顔の下から受けて、ライトアップされた石像のような少年の立体が、彼の周りの空間とは違う質感で凹面鏡のように歪み始めるのが見えました。
「なんだよっ」
 とタイジは、ガーネットの赤いスカートで涙の滲む眼をこすりました。宝石だか床ぼこりだか、とにかく室内の空気は砂塵のように乱れてすごかったのです。眼の錯覚か、とタイジは思いましたが、いったんへこんだヒョウガの立体は、次には深呼吸をするような具合にふくらみ、表面がなめらかな凸面に変化し、つるつるしたヒョウガの素肌に、スタジオの宝石の乱舞は鏡にうつる無数の色点滅のように奔りぬけ、ヒョウガの周囲の空間とヒョウガの肉体とのさかいめが、気体と物体との相違ではなく、互いに無理やりねじこまれた異質な空間どうしのように無機質な光沢を帯びて歪みました。
質感を変え、空間の凸面鏡となったヒョウガの輪郭がこまかく振動しながらぶれて、彼の皮膚に映る周囲の色点滅の疾走が、だんだんとかたちのある画像にまとまり、宝石の輝きにこもるエネルギーを吸いあげるように凝縮し始め、最初ヒョウガの肉体の上に滲むように出現したおぼろな画像は、すぐにはっきりと量感を持った人体に変化し、やがて彼の内部からメグ、続いてシーラが、ねじれ、歪みながら、じわり…と現れました。
 タイジは、疾風怒涛する宝石の乱舞に逆らい、あらんかぎり眼をみひらいて、ヒョウガと、メグ、シーラの再現を凝視し続けました。結跏趺坐したヒョウガから、あるいは向こう側から、いったん飛び散った宝石の光りの束が、意志を持って凝集したようにメグとシーラの立体画像が結ばれ、そのまま現実となって、二人の少女は、この三次元へ戻ってきたのです。ヒョウガの周囲の空間は、ねじこまれた空間転移の衝撃のせいか、歪んで、ゼリー状にぶよぶよして見えました。
シーラとメグはアスタリスクの中央、さっきまでガーネットが舞っていた結界に転がり、眼を閉じたまま、しばらくじっとして動きませんでした。
「シーラさあん、風間さあん」
 と、なお吹きすさぶ風に向かってタイジは声をふりしぼりました。ヒョウガは、と見やりますと、精根尽きたように、フルートを握ったまま、ごろりと床に横たわっています。メグが三人の中で最初に眼を開け、その瞳はまだ、夜目にもあざやかなコバルトブルーに発光していました。タイジは、ぽちゃぽちゃした小さい顔の双眸の放つ、人間とは思えない無機質、あるいは感情を超えた磁場のような吸引を感じて、総身にぞっと鳥肌をたたせました。
 メグは戻ってきた現実周囲の、むちゃくちゃな宝石嵐をふしぎそうに見回して起き上がり、あどけない仕草で床にぺたんと座り、顔を上向けて地下スタジオの天上はるかを眺めました。
 その瞬間嵐は鎮まり、いいえ、それどころか、空気と時間の流れそのものが停止してしまったように、宙に浮いた宝石や、突風にめくれあがったガーネットのスカートや、ジンさんのもじゃもじゃ髪のほつれまで、ぴたっとそのまま、動かなくなりました。
 メグはきらきら光る青い眼でうれしそうに周囲を見回し、タイジもジンさんもシーラも、まるでそこにいないかのように、何か小声で歌いながらたちあがると、アスタリスクの中をスキップしながら回り始めました。たのしげに、かろやかに。
 すると、中空に浮いた宝石たちは、メグのスキップにつられ、彼女のあとをついて旋回し始め、とても綺麗な虹色の輝きを帯び、回り続けるうち、地上から天空に向かって逆向きに走ってゆく流れ星のように、スタジオの上空はるかに飛んでゆこうとしました。
 タイジは、そのとき、数知れぬ小鳥たちのさわやかなさえずりを、はっきり聴き取りました。メグが小声で何か歌っている、その歌詞よりも大きく、たしかに、何百羽、何千羽もの鳥たちの元気な歌声が、あたりいちめんに宝石の光りとともにあふれ、天空に、ゆっくり昇ってゆくのです。
 タイジとガーネット、ジンさんは、ともかく正気づいてはいましたから、このありさまをそれぞれはっきりと眼に映しました。
「まーきれいねえ」
 と、ガーネットは、おそろしいとも感じない様子で、おっとりとつぶやきました。
「怖くないんですか?」
 とタイジ。
「どこに怖いものがあるの?」
「でも、ありえない景色じゃない?」
「ありえないことって、じつはけっこうありえることなのよね」
 とガーネットは暴風のために剥がれかかった片方の付け睫毛に気づいて、ちょいちょいと唾をつけて器用に瞼に貼り直しながら言いました。
「さすがガーちゃん。亀の甲より年の効」
 とジンさんは、ボー然としつつ、うっかりまずいことを口走ったのですが、ガーネットは眉ひとつ動かさず、
「天地創造でイヴはアダムの肋骨から生まれたんでしょ。その再現だと思えば。ひとりも二人も同じだわよ」
(はげしくチガウ気がする)
 とタイジは思いましたが、口には出しませんでした。ですが、タイジの正直な顔色を読んだガーネットは、彼をじろっと横目で見ると、さらに説明を付け足したのでした。
「出産って、別世界とこの地上をつなぐ、唯一の日常的な魔法なの」
「えっ」
 石たちが昇ってゆく上空の奥行きは、とうにスタジオタッパを超えていました。防音壁の上は、熱帯シダ植物の生い茂る珠螺木のフロアの筈ですが、数知れぬ大小七色の宝石たちは、その制約を突き破り、涼しい声でさえずり交わしながら夜空へ夜空へと向かい、どこかでふっと鳴きやむと、上昇の動きもそこでとまりました。そのとき星空は、現実の夜空と、なお異空間をひきずって輝く幻影の虹いろと二重写しの奥行きできらめいてました。
 メグは、アスタリスクの中心にたって、両手を遠くにさしのべ、ささやきました。
「戻ってきて。もとどおりに」
 そうして、宝石たちをこちらがわに呼び込むように、おいで、おいでと招きよせるジェスチュアをすると、空に昇った宝石たちは、静かな雨の粒のように、ゆっくりと珠螺木のスタジオまで、滴り落ちてきたのでした。
 さわさわと、巨大な熱帯樹林の風にそよぐ気配が聞こえました。すぐに、その幾重もの樹々の葉の面を、さらさらとすべり落ちる石たちの、鼓膜にひんやりと心地よい音も混じってきました。
雨をふくんだ大気のそよぎ。湿ったアスファルトと土の匂い。ガーネットが調合する東洋のあやしい香料と、お茶の匂い、奇妙な風味のお茶に添える、香ばしいマドレーヌ、いろんな音や匂いがいっしょになって、ガーネットの占い石たちは、メグの両腕に招かれて、おとなしく、何事もなかったかのように、たぶんガーネットが置いたもとの順序で、アスタリスクの軌跡の上に一粒づつ鎮まりました。
 こんな具合にしばらくの間、宝石は天空からきらきらした雨だれとなって降り注ぎ、最後に、ガーネットの手のなかで最初に変化したハローキティのミラーが、ひらひらと裏と表を見せながら結界の真ん中に音もなく、どこからともなく降りてきたのでした。ハローキティが降ってくると、メグはぱたんとその場に倒れ、目を閉じてしまいました。眠ってしまったようでした。
「ただいま」
 と、いつのまにか起き上がって、一部始終を眺めていたシーラは、そのときようやく口をひらき、すんなりした両足をそろえてから、乱れた髪を片手でかきあげ、微笑みました。
「シーラさん、今までどこにいたんスか」
「中有に」
「チュウユウ? よくわかんないけど、ともかく無事で?」
「モチよ」
 タイジにはそう言ったものの、シーラは、ガーネットに向かい、ちょっと眉をひそめて
「ドミのところまでは、行けなかったわ」
「因縁の鎖が深そう」
 ガーネットは、さっき炎上した自分の片手を、ためつすがめつながめ、傷ひとつないのを確かめました。
「こんな幻視はあたしも初めて。アスタリスクを離れて、あたし自身の手が、燃える曼荼羅になったの」
「ヒョウガは?」
「気絶してる」
「彼が渡ってきてくれた」
 ガーネットとシーラは、ほとんど同時に、床に眠りこけているヒョウガと、それからメグを見つめました。
「メグが……この子がヒョウガの音を、他界を渡るドアに変成したのよ」
「あたしの手の変化もね…」
 シーラはかるくうなずき、二人は宝石のアスタリスクの中にたたずんで、眠るメグを見つめて、黙り込みました。
「こういうとき、なんとなくやっぱBGMほしくない?」
 ジンさんは、どシリアスなシチュエーションが苦手なので、タイジの小脇をつつき、小声で、またまたタイジをひっぱりこみます。
「いいッすよ。ぼくも同感」
 タイジは、現に、まざまざと眼にしたパラレル幻視に、自分の正気を圧倒されまいと、今度はあえてジンさんのしょうもないギャグに乗ることにしました。
「で、どんな?」
「無事でよかったユーチューブ」
「(顔面に太書き縦線を四、五本うかべ、シーン、と内心つぶやくタイジ)……具体的な検索曲名は?」
「クレブタ版タン・デ・セリー」
「座布団十枚くらいかなー」
 タイジはへらへらと応え、ジンさんの顔をもういっぺん肘で抱えこみ、ガーネットをチラ見しようとするジンさんの視線を阻止しました。

「すっかり遅くなっちゃったわ」
 紫羅は、助手席で黙りこくって座っているメグに向かって、話しかけるともなく、ひとりごとのようにささやきました。
 帰り道、湾岸道路は渋滞していました。週末でもあり、また西から梅雨前線も険しく高まり、大雨を兆す黒雲が、夏空独特の澄んだ瑠璃色闇に染まる西の空を深く覆い、空調のゆきとどいた珠螺木を出るや、大気の湿度で肌はひどくべたべたしました。
ジュラキから銀座まで、シーラとメグは、ジンさんの車で戻り、タイジとは、いったんその場で別れたのでした。
 パラレル世界での滞空は、時間軸が現実とずれているとはいえ、すったもんだの連続で、珠螺木と銀座久我ビルとの往復だけでも、だいぶ時は過ぎてしまいました。
 メグは、ジンさんの車のなかでぐっすりと眠りこけ、銀座でシーラのプジョーに乗り換えるときに、ようやく目覚めはしたものの、しばらくぼんやりしていました。
「家まであとどの位?」
「二時間くらいかかるかな。八時か、九時過ぎるかも」
「パパに叱られる」
 メグは口をとがらせました。
「いっしょに行って謝るわ」
「シーラさん見たら、パパはびっくりする」
「メグは叱られないでしょ?」
 どうかなあ、とメグは駿男さんのオドロキ顔を思い浮かべました。
「パパは何も知らないんだもん。ママが妖精になったことも、シーラさんのことも」
 そこでメグはしょんぼりとうなだれ、蚊の鳴くような声で、
「ママは群青いろの湖にあの子と沈んでいっちゃった。どうなるの?」
「いっしょに連れ戻そうよ」
 紫羅は、ちょうど赤に変わった信号機で車を停め、ハンドルにほっそりした腕を預けるように上半身の力を抜いて、メグを見やりました。街のネオンの明滅が、シーラのなめらかな顔の皮膚に映り、ガラス玉のような両眼の明るさに、左右に停まった渋滞車両の光の列が、なんだか安美さんを呑みこんできらきらしていた湖の飛沫のようでした。
「あの男の子、誰?」
「わからない。それをこれから調べるの。
ふたりで力を合わせて、もう一回か、あと何回かわからないけれど、あそこへ飛んで行こうよ、そうしないと、たぶん手がかりもつかめない」
(あそこって……)
 メグは、最初に踏み込んだ悪夢、正四面体建築と、窓から覗いたなま白い素足の逆円陣のダンス、巨大な血の底なし沼、歪んだ顔つきの幼児を思い出し、身震いしました。
「こわい?」
 信号機が変わり、アクセルを踏み込んだシーラは、片手を伸ばして、うつむいたメグの首のうしろに触れました。透けるように白いシーラの手は、思いがけず暖かく、おかげでメグは恐怖がやわらぎ、顔をあげると、にこっと笑い返し、
「あたしより、ママはもっと怖いかも。ドミとか、はっちゃんとか、それから、ええと」
「アスカさん」
「うん、そのひと」
(いい子だ)
 と、素直にうなずくメグをながめて、シーラは思いました。
(のんびり育った十歳の少女には、とうてい耐えられないくらいの非日常ストレスをこうむって、感情破綻もしていない。さらに他者の苦境を思いやるキャパがあるのは、ヒーラーとしていい素質)
 とシーラは考えました。
(この子をあたしのパートナーにしたい。あたしたちはきっとうまくやれる)
 だいいち、カワイイ、とシーラはメグのあどけない表情を長い睫毛越しに見つめ、
(いっしょに仕事するんなら、美少女のほうがいい)
 こんな感覚は、シーラが、本当は〈彼〉だからかも知れないのですが……。
「メグは、将来何になりたいの?」
 気分を変えようと、シーラは話を脇へ逸らしました。打てば響くように、メグは答えました。
「学校の先生」
「小学校?」
「わからないけれど、中学校でもいいかも」
「なぜ?」
「楽しいから」
 シーラは、最初にメグと会った日に、下校途中、同級生らしい仲良しの女の子とでんでん虫をつまんで、はしゃいでいたメグを思い出しました。
「学校、好きなのね」
「うん」
(ほんとにいい子なんだ。安美さんもパパさんも、この不思議な子を可愛がってうまく育てたな。器質的に視覚がほんとにはない、ってことを、メグはいつ知ったんだろう。自分に授かった特殊能力で周囲に〈感応〉しているということ、理解しているのかしら)
 シーラは、いろいろと思いめぐらしましたが、黙っていました。いずれ、安美さんを取り戻したときに、その経緯を聴けるものなら聞いてみたいが、メグにはタブーの話題だろう、と。
「おなかがすいたなあ」
 と、高速道路の料金所を過ぎて、ようやく車両がスムーズに流れ始めた高速道路で、メグは無邪気に言い出しました。
「何か食べる?」
「ううん、いらない。今日は土曜日だから、パパが作ってくれるんだ。だからきっと、待ちくたびれてるよ」
「へええ。パパお料理するんだ」
「おいしいよ」
「何が得意?」
「何でも作ってくれるの。でも忙しいから、スパゲティとか、ハンバーグが多い」
「今夜は何かしら」
「メグのカンだと…」
 とメグはまじまじと考え、時計を見て、もう夜の八時半を過ぎているのを確かめると、
「焼きそばかラーメン」
「なぜ?」
「パパ、メグが帰ってきてから、食べたいもの何かって聞いて作ってくれる。今夜はメグがいないから、何にも作っていないよ。だから、今から帰って、おなかペコペコで、すぐ食べれるのって言ったらそのふたつ。もしかしたらオムライス」
「やさしいんだね、君のパパ」
 シーラの声に、かすかな陰影がこもりましたが、メグは気がつきませんでした。
「うん、パパ大好き。だからママと再会したら、すごく喜ぶよ」
 そこで、メグはあらためてしょぼんとしてしまいました。
「ママに、また会えるかな」
「会えるわよ。あたしたちで、取り戻すの」
「そしたら、パパにもママが見える?」
 シーラは、一瞬、ハンドルにかけた手先が揺れるのを感じました。でも、はっきりと応えました。
「そうだよ、メグ。君がそう望みさえすれば、安美さんを出現させることができる」
 シーラのそういう声は、ぴしっとして、やっぱり少年のようでした。

 メグとパパの住むマンションの地下駐車場で、シーラは、ヨレヨレになってしまったキャミソールの上に、ブルーとグリーンのトロピカル模様のパレオワンピースを、後部座席に積んであったいくつかの紙袋から選んで手早くひっかけ、ミニスカートを脱いで、足首までの黒レギンスをするすると履きました。
「シーラさん準備いい」
 メグは感心しました。ストラップを両肩で結ぶビーチウェア風のパレオは、首から胸にかけてキャミソールよりずっと露出度が高いので、シーラは、その上にピンクのパーカーも羽織りました。セミロングヘアは、後ろでひとつに束ね、派手めのビーズデコのバレッタでざっくりとまとめました。すると、シーラのミステリアスな印象はがらりと変り、キュートでおしゃれな、普通の女の子みたいに見えました。
 シーラは、メグにウインクして、
「ナマ脚、ナマ肌は、パパさんに刺激過多でしょ?」
「いつも衣装をそんなに持ち歩いているの?」
「そうよ」
 と言いつつ、シーラはガサゴソと別な袋からフラットなサンダルを出して、ピンヒールと交換しました。
「カンペキ」
「よく言うよー」
 とメグはシーラを見上げましたが、じっさいのところ、それはほんとでした。
 玄関で待ち構えていたパパは腕組みし、すっかり怒り顔だったのですが、メグのすぐ後ろから、カラフルなパレオ姿のシーラが現れたとたん、ふにゃっと顔つきが変わってしまいました。
「こんばんは。こんなに遅くなって申し訳ありません」
 とシーラは丁寧な言葉遣いで開口一番、ペコンとパパに頭をさげました。両手はちゃんと膝の上にそろえています。黒レギンスを履くとまっすぐ伸びたアスパラガスみたいな両足のラインが素足よりもさらに際立ち、きれいでした。
「コンバンワ」
パパは、鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔つきで、眼の前のシーラさんを、頭のてっぺんからつまさきまで、無遠慮にジーッと見つめ、ちょっとどもりながら、
「メグの、その、あたらしいトモダチですか?」
「そうだよっ。パパ、メグたちおなか空いたの。ごはんにしよう」
「待て待て、パパは君が羊子ちゃんの家に遊びにいったと思ったんだ。土曜日はピアノのお稽古の日だろ?」
「…うん」
「お稽古も休んだ?」
「……」
「七時になっても君が帰らないから、パパは羊子ちゃんちに電話したんだ、そしたら来ていないって」
「あたしが連れ出したんです。スミマセン。申し遅れました。あたし千手紫羅と申します。しばらく前から、メグちゃんのお友達です」
 と、このあたりでようやく少し冷静になったパパは、玄関で立ち話も何だから、リビングに誘いました。
「パパ、おなか減ったよー。ペコペコだよ」
 メグは駿男さんの腕をつかんでひっぱります。
「パパだって空いたよ。君をちゃんと待っていたんだし、ものすごく心配したんだ。電話連絡くらいよこせ」
「スミマセン」
 と脇からシーラが謝りました。
「いったいどこにいたんです、君」
 パパは、心配と空腹と、見たこともない美少女の突然の登場に混乱し、誰に向かって話しているのかわからない口調でヘドモドと、
「ま、トリアエズご飯食べよう」 
 とエプロンをひっかけました。
(おなかが空いていると、ロクな考えは浮かばないし、判断力もニブる。しかし、この子、ナニモノだ? ぼくより背高いし、スタイルめちゃいいし、タレントにしちゃ見たことないし、物腰に品がある。でも、ウチのメグにモデルサイズの友人ができるキッカケって……。えっ、まさか出会い系サイトで)
 まさかの出会い、とかなんとか、どっかの広告で垣間見たようなテロップと、いい加減な@マークアドレスが、ちかちかとパパの脳裏を真横に走ってゆきました。
 メグは、そんな敏男さんのいかがわしいテロップ疾走妄想を遮る無邪気な声で、
「パパ、今夜のメニューなに?」
「冬瓜の翡翠煮こしらえたんだよ。待っている間に。だから、それに合うのがいいだろ。
とろろそば、どう?」
「いいよ」
「あなた、それでいい?」
 パパは冷や汗でずり落ちそうになる鼻眼鏡を中指でもちあげ、布巾でレンズの曇りをごしごしふき取りながら、シーラに尋ねました。
「ハイ」と、ダイニングテーブルに座ったシーラは素直にうなずき、はにかんだ笑顔を浮かべました。これはもちろん彼女の演技でした。化粧っけのない顔をして、すこし緊張気味に膝を合わせ、両腕をそろえて、椅子に小さく座ったシーラは、傍目には、教え子の家に招かれたアルバイトの家庭教師みたいな風情に見えるかもしれません。シーラは数瞬で室内をざっと観察しました。
(男親と娘ひとりの住まい。3LDKのマンション。よく片付いているな。彼が掃除したのか? オフホワイトとベージュ基調のダイニング、家具。食器棚には、一通りの食器、冷蔵庫のなかにはレトルトじゃなく、ちゃんと買い置きの食材がある。駿男パパは、隣の市の大手家電会社の店長だった……。今年五十一歳。ネット写真より若いな…趣味は料理と家庭菜園、インターネット、読書、映画鑑賞。ベランダには、たぶん花や野菜のプランターがある)
「トリアエズ、プリンでも食べてて。何もお茶菓子ないし、もうこんな時間だし。あ、果物のほうがよかった? スイカ切ろうか」
「おかまいなく」
 とシーラは明るい笑顔で答えました。
「スイカ食べたい、スイカがいい」
 メグはぴょんぴょん飛び跳ねます。
「君はぼくのお手伝いしなさい」
 とメグに向かっては怒り顔をどうにかつくろうパパですが、視線はどうしてもシーラに流れてしまい、そのたびにコワモテは気の抜けた風船みたいに崩れて、嬉しそうにまなじりが垂れてしまうのでした。
(やー……しっかし見れば見るほど美人。顔の彫りが深いからハーフ、いや、ダブル?か、クォーターかな? だとしたら、もうちょっと胸欲しい気がするけどさ、いまどきの若い子って、痩せ志向なんだ、ほんとに)
 もともとパパは、物事を入り組んで気を回すタイプではないので、しばらくシーラが同席しているうちに、美女のかもしだす雰囲気に気持ちよくなってしまい、とろろそばを三人前茹で上げるころには、こまかいことはどうでもよくなってしまいました。
(疑うにしても問いただすにしても、食べてからにしよう)
 とろろそばは、パパの工夫した味付けで、蜂蜜付けの梅干を叩き、たっぷりの大根おろしをザルで水切りし、とろろ芋に混ぜこむのでした。めんつゆも、市販製品をそのまま使うのではなく、懐石の吸地八方に習って、ごく簡単ですが、鰹と昆布でとってあります。薄口醤油に、白髪葱のみじん切り、今夜は梅風味なので、つゆに同じハチミツ梅をひとつぶ、隠し味に煮出し、こちらは食べる前に取り出します。梅干など使わずに、めんつゆを仕上げるときには、濃い口でも薄口でもほんの少し、黒酢かワインビネガー、バルサミコなどを加えると、塩味を薄めても味がひきしまる、というのは、亡き愛妻安美さんからの伝授でした。
 安美さんの写真はダイニングテーブルの上にきれいな花模様のステンドグラスの写真立てに入れて、ごく自然な家族フォトとして飾ってあります。
 シーラは、シャルトル大聖堂の薔薇窓ふう写真立てをとりあげ、しげしげと眺めました。
 鍔のひろい麻の夏帽子。ダスティピンクのすっきりした袖なしワンピース。両腕に日よけの白いロング手袋をはめ、鎌倉か、京都か、旅先の名刹庭園での記念撮影のようです。隣に赤ちゃんを抱いたパパさんが並んでいるところを見ると、彼女の年齢は、もう四十過ぎでしょうか。
日焼け止めファンデを塗った化粧肌の白さに、きちんと輪郭をとった口紅のコーラルピンクがちょっと濃く目立ちます。でも、それをなくして、素顔のほっぺたとほどき髪にしてしまえば、柳の精霊の安美さんの面影と、そんなにギャップはなさそうでした。
 シーラの手元をパパは覗いて、
「女房です。かわいいでしょ。けっこう写真写りよかったんだ」
 臆面もなく妻の器量自慢ができるのは、安美さんが亡きひとだからなのでした。けれども、女房です、と現在形でポロリと言い切った駿男さんの台詞に、シーラは、まだ男臭いこのひとが妻亡きあと、ともかくも心潔く、一人でメグを育てている、ということを察しました。
 梅とろ蕎麦に冬瓜の翡翠煮、それだけでは物足りないから冷蔵庫をかきまわして厚揚げを見つけ出し、素焼きにしておろし生姜と鰹節をふりかけます。
「生姜は冷凍しておくといいんだよ、知ってた?」
 とパパはしきりに首筋や額の汗を拭きながら、シーラに話しかけました。節電の夏ですが、まだ熱帯夜ともいえないのに、やたら汗をかくのは、シーラの登場で緊張しているせいなんでしょう。
「冷凍したものをすりおろすんですか?」
「そう。生姜は傷むでしょ。だから買ったらすぐに冷凍するの。それをおろしがねですると、フワっとして繊維のない、いいオロシショウガになるんだ」
 とにこにこしながら、かなり必死になってシーラとの話題を探す駿男さんの様子に、
(メグがのびのびといい性格に育つわけだよね、このパパだもの)
 とシーラは思いました。どこに行っても歓迎される自分を、120パーセント承知しているシーラのほうが、パパとの会話でもすっと優位なのでした。
「ビール飲む?」
「せっかくですけど、ご遠慮します」
「じゃ、ぼくだけ」
「メグはジュースねー」
「もう夜遅いからフルーツミックスにしなさい」
「はあい」
 と言いつつ、すこし大きめのエプロンの肩紐が、両肩からずり落ちそうなのを直しなおし、メグはうれしそうにスイカを切って、ガラスの器に三人ぶんをいそいそと取り分けるのでした。
(幸せそうだな、メグ。……この子が、あれほど強烈で、時空進行さえねじまげる不思議な飛翔力をもっていなかったら、あたしの世界に連れ出す理由なんかない)
 シーラは考え、そのいっぽうで、
(でも、こういう子だからこそ、そんな能力を授かったのかもしれない)
「わー、おいしいです。梅風味とろろ蕎麦って初めてかも」
 内心の淡々とした自問自答とは裏腹に、若い娘らしい歓声まじりに、適度な音をたてて蕎麦をすすりこみました。
「でしょ? おうちごはんとしちゃあ、ぼくも傑作だと思うよ。ええと、それで」
 パパは壁の時計をちらっと見て、もう十時過ぎなのを確かめ、
「あなた、しいらさんだっけ。今日、メグとどこにいたの?」
「銀座に」
「えっ」
「あるギャラリーに連れていったんです。彼女に是非見てもらいたいものがあって」
「あー、銀座はいいギャラリーたくさんあるもんね。でも、なんで急に? 誘ってくれればぼくも行きたかったな」
 メグとシーラは、お互いに視線を交え、なんとなくお互いに了解しあって、同時にうなずきました。
 パパは早食いなので、お蕎麦も素焼きもスイカも、ぱっぱっとたいらげてしまいました。シーラは、パパが満腹になって、缶ビールをひとつ空け、リラックスしていい気分になった頃合を測り、
「パワースポット、って最近でもないかしら、わりと流行ってるんですケド」
「ハイ?」
「いろんな言い方で、どんな時代にも存在する聖域、サンクチュアリ」
「イマドキだと、まあモバゲーでしょ。ウチの会社の若い子もけっこうはまってるし」
(ハナシが見えてないわよ、パパさん) 
メグが顔も性格もママ似でよかった、とシーラはほろ酔い気分で赤くなったパパのオジサン顔をつくづくながめて思いました。
(でも、このズレ気味のノリで聞かせてしまって、了解もらったほうがいいな。どっちみち、このオオザッパなパパに、あたしたちを完全に理解するのは無理だろう)
 あっさりと見極めると、パパのトンチンカンなリアクションにはかまわず、
「そういう意味ではなくて、現実にあるサンクチュアリ。パワースポットって、土地とか、場所とか神社仏閣遺跡だけじゃなくて、ある種の人間そのものがそれを受けうるものなのよ」
 いつしかシーラの声は、ギャル口調から離れて、いつもの彼女らしい独得の深みを帯びていました。パパの返答を待たず、シーラは続けました。
「メグさん、おじさまの娘さん、そのひとりなの……」

(ハナシが見えないなー。ったくイマドキのギャルは主観的なボキャで喋るから。サンクチュアリ? )
「シーラさん、話しの途中で、ワルイ。ちょっと聞くけど」
 と駿男パパは藍染め甚平の下穿きからぬっと突き出した毛むくじゃらの脛を、テーブルの下でこっそりとボリボリかいて、
「あなた、芸能人?」
「いいえ」
「アマチュアバンドやってるとか」
「バンド…(そういうテもあるか)」
 即座にシーラは、向うから飛んできたカモネギ、否、駒に乗ることにしました。
「ええ、そうですね。バンド(集団)といえばバンドになりかけ」
「わかった、ウチのメグをスカウトしたいんでしょ。とんでもないよ、あなた」
「いけませんか?」
 パパはすっかり自分で納得のいくストーリイ展開を作り上げてしまいました。
「いや、イケナイもなにも、メグはピアノがちょっと弾けるくらいで、それにしたって、習い事レベルだし、歌も踊りも習ってないし、特に際立った才能があるとは思えないんだよね。まあ、顔やスタイルは親のひいきめで見て、悪くないから、いっときペライチ子役(なんだそりゃ?)くらいの可能性アリかも知んないけどさ。そんなあまくないでしょ。アイドル商売。だいいち、まだ十一歳だよ」
「コドモモデルのデビューに下限はないですよ」
「あ、やっぱあなたモデルなんだ。だよねーシロウト離れしてるもん。君くらい綺麗だったら、いっそパリコレとか似合いそう。菊池凛子さんとか、昔の山口小夜子さんとか、どことなくスゴミのある雰囲気似てる」
「はあ」
「でもさ、うちの子はほんとに平凡なジャリでねー」
「そんなことないよ」
 と,八ツ切りのスイカに、真ん中からガブリと食いつきながら、メグは抗議しました。
「今日はね、宙返りとか、ジャンプとか、すごいことがあったんだよ。メグちゃんとできたし、現実に着地したもん」
「宙返りして着地成功かあ、それってすごいよ。パパも見たかった。じゃ将来は女子体操の選手めざすか?」
 パパはメグのポニーテールの髪をひっぱって茶化しました。でも、すぐに真顔になり、
「シーラさん、宙返りなんてハイレベルなこと、この子にさせたの?」
「上手でしたよ、とっても」
 とシーラはぬけぬけと言い張りました。
「あたしなんか、とってもかなわない。やっぱり〈離れ〉業って、ブルガリアやルーマニアの妖精じゃないけれど、少女時代初期がスゴイわあ」
「だよね。思春期前期、十二歳くらいから十四、五歳が絶頂だろ?。でも、ウチの子、体育の成績って、たしか通信簿では…」
「英才教育に近いマンツーマンですから。学校とはちがったスキルで、メグさんの隠れた才能を引き出せる、とあたし思います。彼女は物怖じしないし、情緒も安定していて、ここぞという瞬間度胸もあります」
「ミュージカルの子役ね。ちょっとした人生経験としては、悪くないと思うけれど」
「でしょ? 彼女、歌もいいですよ」
「そう? まあピアノ習っているから、初見でも、ある程度の楽譜は読めるよね」
 はい、とシーラは笑顔にきれいな歯並びを見せて、たくさんまばたきをして、目をうるませて、でも、きちんとふたつの膝がしらは揃えて、すこし上体をやわらかくねじり、パパの目線より少し下から、可愛い子ちゃん視線をさりげなく送ります。幸いパパとシーラは座高が同じくらいなので、すこし背をかがめただけで、シーラはかんたんにパパを見上げる姿勢で話すことができました。
「君、本業はまだ学生でしょ。もしかしてフリーター?」
「学生です。これ学生証」
 とシーラは、足元に置いた籠編みトートバッグから、ピンクのビーズデコパスケースをとりだし、パパに見せました。
「へえ」
 とパパはそれを手にとり、ちょっと間を置いて、シーラの顔を別なまなざしで見つめなおしました。シーラは小首かしげて恥ずかしそうに微笑み、しっかりパパと、長い睫毛ごしにアイコンタクトしました。
「君、アタマいいんだねえ」
「偶然受かっただけです」
「うーん。偶然でも受かっちまえばこっちのもんだ。メグに君のツメの垢もらいたいよ」
「えー。あたしのほうこそ、メグちゃんに助けてもらってます。ほんとに彼女は小さいのに、もしかしたら、あたしたちのバンドのメンバーの中で一番くらいに勘がよくて」
「ほらぁ、パパ。メグって、じつはすごいんだよ」
「わかったよ。まあ、でんぐりがえりして脱臼なんかしないようにしてくれれば。で、そのアマチュアバンド、今後メンバー集まりそう?」
「ボチボチです」
「ふーん」
(ぼくもギターくらいなら、まあまあ弾けるんだけどなあ。学生時代はかなり人気者だったし。ちょっと参加してみたい気がしてきたぞ。そのうちメグにくっついてスタジオ覗いてみようかな)
 と、罪のない下心を、ほろ酔いの勢いで抱いたアバウトパパの空耳には、ビートルズやイーグルスのナンバーを必死にコピーした青春時代のサウンドがよみがえり、なんとなくたちあがると、適当にクラプトンをかけました。その間もどうかすると、どんな角度から眺めてもきれいなシーラに、思わず知らず、ずーっと見とれているのでした。
「じゃあ、メグ、いっちょうチャレンジしてみる? そのアマチュアミュージカル・サンクチュアリ」
「いいの?」
「ピアノのお稽古はどうする」
「行くよ、もちろん。秋には発表会あるし、そっちも絶対出る」
「あら、なに弾くの」
「先生は、シューベルトか、モーツアルトか、って」
「すごおい。あたしなんて、楽器ぜんぜんダメなんですう」
「あっそ。なんだか君なんでもできそうなフンイキだけど」
「うそぉ、やだあ、でもウレシー」
「ははは。まあ、メグのピアノはいつも本番で、つっかえもっかえなんだけど。音はなかなかいいよ。純朴で」
 パパの脳裏には、未完成のシロウトミュージカルの舞台で、ヒラヒラのドレスを着たメグが、得意になって歌い踊りながら、思わずこけたりする情景が、花飾り画面で浮かびました。
「でもね、シーラちゃん」
 と呼びかけも、いつのまにか「ちゃん」付けに変わりました。
「念押すけど、まさかゲートウェイドラッグなんかやっちゃいやだよ。ぼくいつか父兄参観でついていくからね」
(いいパパだ)
 とシーラは何度もマジで思いました。
「はい。あたしが、メグさんにくっついて、危なくないようにコーチしますから」
「ついでに算数教えてやってよ。メグ、サンクチュアリの日には宿題持ってって、教えてもらえ。休み時間あるだろ? ジョディ・フォスターとか吉永小百合とか、大女優は勉強もちゃんとできたんだぞ」
「えー」
 宿題と聞いたとたんにメグは食卓に顎を乗せ、背中をまるめ、ダイニングの椅子から両足をぶらぶらさせて、つまらなそうな顔つきになりました。
「いいわよ、あたしでよかったら、小学生の算数と英語くらい」
「やったー。これで夏休みの課題楽勝だぞメグ」 
 と、こどものように歓声をあげるパパなのでした。

サイコ・ヒーラー 2ペリドット

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2 ペリドット

 花野。
 いちめんの透かし百合、あるいは野菅草。白い紫苑に……水いろ桔梗。風のつたう湖の波紋。夏か秋か。さびしげに群れる女郎花。青白い電光は絶え間なく明滅し……幻燈のスイッチは誰が入れたのでしょうか? メグはぱっちり眼をみひらき、安美さんの腕からするりと抜け出し、花野へ駆けてゆきます。
「行ってはだめ」
 安美さんはメグをひきとどめようとするけれど、どうしたわけか、その手に力が入りません。安美さんをふりかえり、メグはにこっと笑いましたが、両目はあかるい青いろに輝き、その形容しがたい光りの強さに、安美さんは思わず目を逸らし、眩暈をこらえるように、瞼を閉じてしまいとました。
走り出したメグの手を握って離さないのはシーラだけ。
そのシーラの髪がたてがみのように放射状に逆巻くくらい、彼女の周囲にはものすごい突風が吹きつけているのでした。彼女は片方の肘で、顔を覆い、向かい風を防ぎます。つむじ風のような大風は安美さんにも牙をむいて吹き付け、こちらは立っていられず、緑の草原にすわりこんでしまいました。
ふたりの大人がこの有様というのに、シーラと手をつないだメグは、まったく無風で全身に何の動揺もないのでした。
メグは風上に向かって、華奢な胸を張り、突然歌いだしました。

  遊ビヲセムトヤ生マレケム
  戯レセムトヤ生マレケム
  遊ブコドモノコヱ聞ケバ
  我ガ身サヘコソ揺ルガルレ

「いったい誰の声?」
 安美さんは叫びました。メグの喉から放たれているのはメグの声ではないし、歌詞もまた、メグが知るはずもない昔の言葉です。
 メグの喉からは、つぎつぎと、同時に、いろんな声があふれ出るのでした。
 ここはずっと夏なの…。ぼくと遊ぼうよ。誰か教えて、わたしはいつから、いったいどこにいるの? 静かで、こわい。どこまでいってもどこまでいっても草迷宮って…。 
「ずっと、いっしょに、遊ぼ」
 メグは安美さんをふり返って笑いかけました。その笑顔はやさしくおだやかで、けれども、どこかものさびしく、十一歳のこどもの表情ではありませんでした。
「あなたはだれ」
 シーラはメグに向かって落ち着いて問いかけました。メグではない、メグに向かって。
「きれいなひと、あなたもおいで」
 メグはシーラの手をつかんだまま、いきなり背中からのけぞり、ケモノのようにくるりと虚空を回転しました。シーラが手を離さなければ、シーラもひきずられて回転するところでした。いつのまにか、とうに、ここは銀座久我ビル306号室ではなく、梅雨空さえ突き抜けて、爽やかな夏の濃い青空の下に、見たこともないこんもりとした落葉松の森、湖を囲んで点在する白樺林、湧き上がる積乱雲、虚空に舞い上がるのは無数のたんぽぽの綿毛のような野の精草の魂。
それはみんなさまよう人魂の群れ。あの世へ行けない、行きたくないモノたちが、道半ばでとどまり、いつまでも漂い遊び続ける、ここは生と死の境の異次元なのでした。
 メグは、人魂がまっしろな尾をひくように、草原をくるりくるりと回転しながら、遠くへ飛んでゆこうとしていました。跳ねてゆくメグの体からまばゆいオーラが放たれて、メグが回転するたび、それはふさふさしたケモノのしっぽのように、空に踊り、地上に跳ねるのでした。シーラはメグを逃がすまいと、片手ですばやくそのしっぽをつかみ、もういっぽうの手で、しゃがみこんでしまった安美さんの腕をつかんで、しっかりと小脇に、彼女を抱きかかえました。
「安美さん、あたしにつかまって、離れないで」
 メグのしっぽを握ったとたん、シーラの全身にものすごい電波が突き抜け、シーラは歯を喰いしばりました。
「いったいなんなのよ?」
 安美さんはシーラにしがみつきましたが、ふたりともに虚空に跳ね上がるメグにひきずられて、地面から弾かれ、高く飛びあがりました。メグは二人をひきずっていることなどまるで気にとめず、青く輝く視線は遠くに注がれ、かるがると空を渡ってゆくのでした。髪を逆立て、ビリビリと全身を走り抜ける波動に耐えながら、シーラは安美さんに言いました。
「エネルギーをコントロールできない」
「何のエネルギーなの?」
「何かに、この子は感応して、磁石が鉄を引き寄せるように、そちらへ飛んでゆこうとしている。ひっぱられている。いいえ、逆にひっぱっているのかもしれない。この子の内包するエネルギーを、誰かがつかんで、この子もそれに反応して、この結界にものすごい気流が生じている」
 背骨ごと揺さぶられるような振動に耐えてシーラはまなじりをつりあげ、メグを見やりました。
「どこへ行くの、あたしたちをどこへつれて行くんですか」
「ぼくの(あたしの)お城」
「(閉じ込められて)きれいなお城」
「いつまでも遊んで(動けない)白い無垢なお城」
「(年をとらない)影のないお城」
「みんなで(さびしい)いつまでも(つめたい)遊べるよ」
 メグの声のうらがわに、別な誰かの声が貼りついてひびき、それはメグの魂のしっぽを
握っているシーラの手に、ぞっとするような冷気を感じさせるのでした。危険だ、とシーラは直感し、そんなことができるかどうか自分でもわからない、今まで相対したこともない強力なモノに対抗して念をしぼりました。
「メグ、戻って!」
「イヤ」
 シーラの握っているメグのオーラのしっぽがその瞬間ざわっと炎上し、見るまに這い登り、メグの全身を焼き尽くすかのように空のまんなかで曼荼羅のようにぴたりと静止しました。
「安美さん、あたしにしがみついて、離れないでね。離れたら、飛ばされてしまう」
 言い終えるや、シーラは安美さんを抱えていた片手を離し、メグのオーラの尾を両手でつかみ力任せに手元にねじふせました。
 ねじ伏せようとするシーラの念の反動で、オーラの輪のなかで、メグはひっくりかえり、逆立ちになりましたが、真っ青な両眼のいろはまったく変わらずに、ぴかぴかと金属質の光を放ち、両足をばたばたと前後に動かし、怒ったような声で、
「ジャマシナイデ。イッショニオイデ」
 一緒に、来てよ。
 幼いメグの声の裏側にずっしりと重いリフレインが響くと、翳りない草原の明るい青空はその瞬間布を裂くように暗転し、逆立ちしたメグといっしょに、シーラと安美さんは、いきなり割れた群青闇に呑みこまれてゆきました。

 ばしゃっと顔にサイダーをぶっかけられてタイジは眼をさましました。
「えー」
「昼間から酔ってんのかい?何寝てんだよ」
「イタタ。寝てたんじゃないっすよ」
 異界の雷に打たれて気絶し、仰向けにひっくりかえったタイジは、ギャラリーの床に寝っころがった姿のまま、ぱちぱちと瞬きしました。タイジの童顔を覗き込んだまま、斜にくわえた煙草の灰をぽんぽん、とサイダーの空き缶に落としたのは、久我ビルに入っているギャラリーの名物オーナーのひとり、ジンさんでした。
ジンさんは酔っ払いで遊び人で、頓狂な、久我ビルの人気者でした。この禁煙のご時世に、彼は片肘張って煙草を吸い続け、唇にはいつも、ハイライトとかショッポとか、丈の短くて強い煙草を斜めにくわえていました。火をつけていなくても、彼はたいてい煙草をくわえているようでした。年は六十歳くらい。ずいぶんおしゃれで、けっこうセンスのよい高価なジャケットやスラックスを着て、夏も冬もコンビの革靴を、ぴかぴかに手入れしていながら、どういうわけか、赤茶けて、あぶらの抜けたぼさぼさ髪のまま銀座を闊歩し、うわさでは、なかなかりっぱな洋画を描くという話ですが、彼本人の作品を見た人は誰もいません。
ジンさんのギャラリー〈個室〉は、ほんとにそのものずばり彼の個室で、採算がとれるのかどうなのか、気に入ったアーティストには、ギャラリー企画の無償メセナで、気前よく展示させてくれるので、貧乏な学生や作家さんたちから慕われていました。
「飲む?」
 とたった今、煙草の灰を落としたばかりのサイダーの缶を口元に突きつけられて、タイジは顔をしかめました。
「遠慮します」
「じゃ、正気だ」
 ハハハと笑われて、タイジは後頭部を撫でながら床から起き上がり、
「今何時?」
「五時半くらいかな」
「やべー」
 我ながら間抜けだなー、とつぶやいた瞬間タイジは思いました。遮光カーテンもおろしていないのに、〈花絵〉の内部はほのかに暗がり、冷房もはいっていない真夏の室内はむしむしとして、背中はべったり寝汗まみれでした。シーラとメグが消えた。目の前で飛んでいった、とタイジは気を失う寸前にかいま見た光景を、首筋の寝汗をぬぐいながら、思い出し、ぶるっとひとつ震えました。
「こうしちゃいられない」
「じゃ飲みにいくかい」
「行きません」
 タイジは脳震盪をおこした脳みそをたたき起こすように、げんこつでごちんとこめかみをひとつ、痛くないように殴ってから、携帯をとりだしました。が、携帯を握った手や指がへんにべたついているので、
「なんか、顔が……ジンさん、俺に何かけたんですか」
「ジンジャーエール」
 タイジはものも言わずに廊下に飛び出し、トイレの脇にならぶ古風な鏡つきの共同洗面所にゆき、水道の(いまどき)蛇口をひねると頭から水道水をざーっと流しました。
「あータオル忘れた。コンチクショー」
 はいよ、とジンさんはおもしろそうに後ろからついてきて、タイジに清潔なタオルをくれました。
「スイマセン」
「ただごとじゃなさそう」
「そう」
「女?」
 タイジはにやりと笑い、両手の小指をいっぽんずつたて、それから器用に左手の薬指まで伸ばし足しました。
「両手に花、プラス1」
「いいねー。君にしちゃ晴天のヘキレキ」
「あーこの会話のほうがうそみたい。そ、ヘキレキ、かみなり」
「君の瞳は百万ボルトって、もうナツメロ」
「こけますよ。雑巾飛びます。でも、ひとりはシーラさん」 
「うっそ。薔薇が降るぜ」
「ジンさん、悪いけど相手してらんないよ。、マジですから」
 雑巾投げるかわりにタイジは顔を拭いたタオルをジンさんにちゃんとたたんで返し、携帯をあらためてつかみなおしました。
「もしもし……。ぼくです。おひさ、でもないか。これから行っていいですか。ドミのことでシーラさんに頼んだでしょ、その件で、ちょっと……先が見えないんです」
(マジ、お先まっくらだよ。え? いったいどこに行ったんだ、ふたりとも、いや、三人か)
「ガーネットさん、申し訳ないんですがどうしたらいいかわかんない、どう説明したらいいのかも、携帯じゃ。だから」
 途中からタイジは情けなくも半泣きみたいな声になってしまいました。
 途方にくれたタイジは、とりあえず娥網と会うことにしたのでした。
 電話を切ると、まだジンさんはタイジの横にぬぼっと立っていて、
「ガーネットさんとこ行くんなら、送ってってやろうか?」

 ガーネットは、南青山の骨董通り近くに住んでいました。銀座ほどではありませんが、繁華ではないにせよ、ずいぶん瀟洒な、ふつうのひとが住める土地柄ではないのですが、彼女の住まいは表通りからすこし奥まった五階建てのマンションでした。この建物の地下一階の半分は住人の駐車場、もう半分はダンススタジオになっていて、ガーネットはここでお弟子さんたちに整体やダンス、またリラクセーションパフォーマンスなどを教えています。
マンションのエントランス脇に南面した一階全部は喫茶店で、これもガーネットさんが経営しているのでした。往来をゆくひとは、表を前面硬化ガラス張りのここを見て、喫茶店とはたぶん思わないでしょう。ウィンドーのなかは、ちょっと見にもめずらしい、熱帯や異国の樹木草花がおいしげり、温室か植物園のようでした。花屋と勘違いして寄っていくひともいます。それというのも、天井から地面まで、壁面いっぱいに蔦や広葉樹、シダ類がはびこりおいしげり、ガラス越しの外からは、内部がほとんど覗けないからなのです。
 入り口は自動ではない手引きのガラス扉で、握りはほんものそっくりにとぐろを巻いている真鍮の蛇体神ナーガでした。その握りの上に、七宝の嵌め板がガラスにじかに埋め込まれ、〈吉舎室 珠螺木〉と、癖のある字体で記されているだけ。
 たいして宣伝もしないのに、ガーネットのファンの口コミというか、ツイッターなどのネットづたいに、ダンサー、また宝石占師娥網のパワースポット・ジュラキは、かなり有名でした。とはいえ、やっぱり何気なく気楽にお茶を飲みたいひとが立ち寄るには珠螺木の敷居はだいぶ高く、足を運ぶのは、ガーネットに魅せられ、あるいはいっぷう変わった宝石占いを希望する人たちなのでした。
「カザマ、メグ。その子のママで柳のフェアリーだけが飛んでいって、あなたは残されちゃった、というわけ」
 タイジの息せききった説明を、ガーネットは、フロア中央の紫檀の中国椅子にもたれて聴き、しばらく黙っていました。
彼女は光沢の強いボディ・スーツのようなマーメイドラインの、深緋いろに金銀刺繍で竜虎の縫い取られたチャイナドレスをまとい、すんなりとうつくしい自分の両手の、長く伸ばし、きらきらとビーズやスパンコールで七色にデコレーションした自分の爪を、灯りに透かして眺めながら、ゆったりと、まるでひとごとのようにつぶやきました。
 珠螺木の中は、まるでアンリ・ルソーの描くジャングルのようでした。この室内、いったいどれほどの奥行きがあるのか、皆目見当がつかないほど、フロアの壁も床も天井も、空間の全域を埋め尽くす勢いで、シダやソテツ、見たこともないような熱帯樹で覆われ、天井や壁面のあちこちに、日光を補う人工照明が葉隠れにぼんやりと、昼も夜も灯っているのでした。木々の幹はその照明のせいで、目に快い穏やかな橙色に輝き、パイナップルの実を包む皮のような鱗状の樹皮を持つ、いちばんふとい〈バンブー〉だか〈バオバブ〉だかの幹には、大人の腕ほどもある太さの純白の蛇が巻き付いていました。その白蛇はホンモノではなくて、精巧なフィギュアでした。フィギュアとはいえ、白蛇は人肌の温度と湿度に反応して、とても複雑にうごめきました。これは、ガーネットのファン(もしかしたら恋人のひとり)の、某外国工科大学の教授が、彼女に贈ったものでした。
 珠螺木には、この密生する植物の合間に、来客用の丸テーブルが六つほどあり、椅子と机はどれも紫檀の中国製で、二人掛けでした。
テーブルには全部真紅のクロスがかけられ、周囲の濃い緑陰とのコントラストで、目にしみるほど鮮やかな、樹海に浮かぶ赤い星座のようでした。じっさい、ガーネットは、このテーブルの配置を、中心に一つ星を置いたアスタリスク型にしていたのです。
「相変わらずきれいだねえ、ガーネット」
 とタイジを自分の車で送ってきたついでに、いっしょにあがりこんだジンさんは、沈黙の緊張に耐えられず、脇からずけずけした口調で言いました。
 ふ、とガーネットは唇のはしっこだけで笑ってこくびをかしげ、耳たぶの少し下まで伸ばして先端をきれいな直線にそろえたおかっぱに近い黒髪を、長い人差し指の爪にからめながら、両目を猫のように細めました。
「相変わらず、は余計」
「あーシツレイ。いつまでもきれいだねえ」
「いつまでも、も余計よ。あたりまえのことを言わないで」
「きれい、はいいの?」
「それは百万回でもいいわ」
 ガーネットは澄まして答え、ジンさんは薄汗のにじんだ太い首筋を短い指でぼりぼりと掻きながら、彼女の気を惹く台詞をさがしましたが、ガーネットと珠螺木の雰囲気に圧倒されて、即座にはなんにも出ませんでした。
 タイジとジンさんが到着したとき、もう店をしまう準備をしていたガーネットは、夜の衣装を纏っていました。一般のお客(?)向けの喫茶店珠螺木の営業時間は、午後二時から夜の八時まで。そのあとガーネットは昼間とは別な装束をまとって、夜の商売を始めるのです。夜の商売といってもいかがわしいものではなくって、完全予約の宝石占いでした。
 ガーネットの容姿は、生身の人間離れした人形めいた印象で、そんな雰囲気がちょっと紫羅に似ていましたが、背は高くなく、どちらかといえばむしろ小柄で、直射日光を避けた昼夜逆転の「吸血鬼暮らし」を自称するだけに、全身の肌は透き通るように白く、輪郭の柔らかい顔に、目尻はきつい印象ではない程度に吊りあがり、オリエンタルな顔幅のわりに、ほっそりした鼻筋と、鼻翼とちょうど同じ横幅の、小さな受け口をしていて、この顔だけ見ていると市松人形か、陶で出来た博多人形が生きて動き出したような感じでした。
輪郭の整った顔には皺ひとつ、しみひとつなく、陰影のコントラストを抑えた珠螺木の照明のなかで、ガーネットは三十そこそこにしか見えないのですが、彼女はあっけらかんと自分の年齢を隠さず、じつは今年六十二歳になるのでした。
彼女の年齢を聞いた人が驚くのはアタリマエで、次の瞬間、まず例外なく美容整形を疑うのですが、彼女の衰えない美貌に、いっさい顔面工事の人手はかかっていません、というのが本人の弁でした。
「んじゃあ……、きれいだねえ。ゴホン。ガーネットさん。その秘訣なんだい」
 もたもたとジンさんが、おもしろくもないことをおもしろくなさそうな口調で、それでも必死で彼女の機嫌をとるような上目づかいで、台詞の合間に咳まではさみながら言葉をかき集めたので、ガーネットは、
「自分自身を、純粋な宝石の一種だと信じることよ」
 とジンさんにウインクしました。すると彼女の付け睫毛が照明の加減で、蝶々の燐粉のような、てらっとした七色に光りました。
 珠螺木では、数種類のお茶しかお客様に出しません。それもジャスミンとか薔薇とか、紅茶とか、そこらのお店で、普通に注文できるお茶ではなくて、彼女が自分で茶葉を選び、ブレンドした特別なお茶でした。それに小さな焼き菓子が付きます。茶器はマイセンのブルーと白だけ。室内のエキゾチックな熱帯樹林や、奇妙な風味の金いろや紅色の匂いの強い飲み物、中国趣味の調度と、優雅で冷たい青のマイセンは、なんともミスマッチなのですが、その不調和がまた、おもしろい刺激でもありました。お菓子もたった一種類、蜂蜜とバターで焼いた貝殻型のマドレーヌです。
「どうしてふたりともそんなに悠長なんですか。ガーネットさん、心配じゃないの?」
 タイジはいらいらして自分のジーパンの膝を握りこぶしで叩きながら、催促しました。
「心配したから、シーラに頼んだのよ。でも、あのひとがひきずられて飛ぶなんて、よっぽどのことだわ。どこに飛んだかあたしにわかるはずない。話に聞けば、メグがフェアリーのママを、あなたの眼の前で、難なくこの世にひっぱりだしたそうね、結界も結ばず、いっさいガードもなしで、日常のなかに他界から精霊を呼び出して、裂け目の衝撃や違和を作らない、というのは大変なことなのよ? そんな話、そんなことが出来る霊能者なんて、あたし知らないわ。激レアロリータね」
「ちゃかさないでくれ」
「ちゃかしてません。どうしたらいいか、考えているの。あたしにできるのは、宝石たちに、彼女たちの行方の方向を尋ねることくらいかしら。うまくいけば、シーラか、メグとコンタクトできるかもしれない」
 タイジは返す言葉に詰まりました。というのも、ガーネットの霊感を知ってはいたものの、彼女のなりわいである宝石占いについては、半信半疑だったからです。
(どうかなー)
 というタイジの内心の疑念は、本人は抑えたつもりが、そのまま無邪気に童顔を曇らせたので、ガーネットは思わず笑ってしまいました。
「いい性格ね」
「みんなそう言いますよ。でも、やだね、いいひとって」
「なぜ?」
「人畜無害って、男としちゃ情けない」
「得もするわ」
「どんな?」
「シーラやあたしみたいな女が、警戒しないこと」
「……さらにガッカリしました」
 ガーネットは知らん顔をして、チャイナドレスの胸元からハローキティの顔型の手鏡を取り出すと、付け睫毛の具合を直し、
「ちょうどよかった。豹河がいるから、あの子にも助けてもらおうっと」
「えっ、ヒョウガ、戻ってるの?」
 ジンさんは頓狂な声をあげました。
「ぼく帰ろうかな」
 豹河、と聞いたとたん、そろーっとジンさんは椅子からたちあがりました。
「なんだよ、ジンさん。うしろめたそうに」
「ヒョウガに会いたくないの?」
「そういうわけじゃないけど」
 と言いつつ、ジンさんもまた正直に顔にバツ印を浮かべているのでした。
 ガーネットはジンさんの顔色などおかまいなしに、フロア真ん中に葉蔭を茂らすどっしりと太くゆたかなバオバブの後ろ側に、すい、と姿を消してしまいました。
「ぼくも同席していいですね」
 タイジも立ち上がり、ガーネットを追いかけて、バオバブの木の後ろ側に口を開けた地下への螺旋階段を駆け下りました。ジュラキのフロアから地下のスタジオまで直通の螺旋階段は、マンションエントランス内のエレベーターとは別に、ぐるりと二回転半ねじれて、地下スタジオの更衣室につながっています。ガーネットの内輪のパフォーマンスのときなど、ここが楽屋への入り口になるのでした。
 取り残されたジンさんは、ぼりぼりと首筋や頭を指で掻き、しばらく迷ってから、やっぱりタイジの後についてゆくことにしました。
(妖精だの霊魂だの、あんまりわかんないけどさー。ガーちゃんのダンスは見たいよな)
 おおむね野次馬根性のみのジンさんには、つまるところ、トランスもダンスも同じことなのでした。

 しゃらん、としゃがみこむたび、ガーネットの腕輪が鳴って、彼女は照明を極限まで落とし、ようやく足元が仄見えるくらいに暗く、静まり返った地下スタジオの床のあちらこちらに、ひとつかみずつ宝石を置いてゆきました。
地下スタジオは、真上のジュラキとそっくり同じスペースで、ふたつの空間は、二段かさねの重箱のようになっているのです。そうして、ジュラキの丸テーブルを配した位置は、スタジオの床に銀線でほのじろく描かれたアスタリスクをそのまま上に移したものでした。星型の中心にある少し大きめのテーブルだけ、横ひろがりの楕円をしているのは、一般の宝石占いなら、そこで石をひろげるためです。ガーネットは、占いをするためのジュラキのテーブルを〈鏡〉あるいは〈場〉と呼び、自分専用にしていました。大きな〈鏡〉を動かす地下のスタジオでは、アスタリスクの中央がガーネットの〈踊り場〉になります。
 今、ガーネットが皮袋から無造作につかみ出し、アスタリスクの角のそれぞれに置いている宝石たちは、全部本物でした。
 日常生活の中でさえ、宝石や貴石、鉱物の名前は、どれも不可思議で、魅惑的ではありませんか?
 緑あかるく青みの澄んだパライバトルマリン。え? 闘うマリン? バトルマリン、ではなくてパライバ・トルマリン。ふつうのトルマリンより銅の成分を多く含み、それゆえにみずみずしい透明感を持つ、と。重たい金属の成分が多いのに、なぜ石の透明度が増すのでしょう? 対照的にあでやかなピンキッシュオレンジのパパラチャサファイヤ。サファイヤは青だけではなく、スリランカの言葉で「蓮の花」を意味するパパラチャをいただいたのがこのピンクの石。アフリカの宵を思わせる群青のタンザナイト、したたる雨の雫のような、淡い水色のブルーカルセドニー。水底深い湖いろのアクアマリン。炎のすがたのファイヤーオパール。ひとつ石のなかに緑とピンクのふたつの色相を備えるウォーターメロン。二色混じりあう玉虫いろならアレキサンドライト、カトマンズの僧衣のようなトパーズの黄、桜いろに淡いモルガナイト、前世の縁をしのばせる紫水晶、アメジスト。さわやかな若草いろにペリドット、形容詞のいらないひたくれなゐのルビー、それからエメラルド、ラピスラズリ、トルコ珠、翡翠、ロードクロサイトは砂漠に咲いた薔薇の石、と零れる石の彩りも種類も語り尽くせず……。
 スタジオフロアは照明を落とすと、蛍光塗料のアスタリスクがくっきりと浮き上がり、床のころがし照明を頼りに歩むガーネットの、先細りのなめらかな手から、大粒の宝石たちは、七色の星屑を積むように床に注がれ、寄り合った石と石とのほんの少しの隙間から、さらに複雑に屈折した光線が妖しく揺れてガーネットの白い皮膚に照り返すのでした。
 ガーネットは、こまかくあみ上げた黄金の網にラピスラズリとルビーをびっしりと埋めこんだ首筋まで長く垂れる繊細なヘッドドレスをかぶり、頬やうなじに揺れる、そのキャップの房の先端には、小さな金銀の鈴がついていました。両手、両足には何十本もの細い金の腕輪。ヴェールのように全身にまとっているのはギリシアふうの真紅のうすもので、闇のなかで彼女が何かの所作をするたび、半透明な薄物のかるい裾や袖がゆらゆらとひるがえり、腕輪がしゃらしゃらと揺れ、ヘッドドレスの鈴も、夜空に低い星のつぶやきのように鳴り続けるのでした。
 豹河…、とガーネットはアスタリスクの中央にたつと、ささやき声で少年を呼び出しました。ぼうっと浮かぶ星型の〈座〉の一隅に、足音をたてずどこからともなくタイツ姿の豹河は歩み寄り、ガーネットの斜め後ろにたちどまり、黄金のフルートを構えると、いきなり旋律を吹き始めました。
 ガーネットは爪先立ちで外輪に踊るバレエの足取りとは逆に、地唄舞のような内股に腰低く、膝をかがめ、べたりと床に土踏まずを付けたように見えるすり足でそろそろと歩み、五つ星の角のひとつひとつに宝石の小山を作ってしまうと、蛍光塗料を塗ったアスタリスクの輪郭にそって、まだ皮袋にずっしりと残った石を、ポツポツと並べてゆきました。その所作は、ヒョウガの吹き鳴らす得体のしれない旋律に添っているようでもあり、また無関係のようでもありました。
じっと見ていると、星型ラインをなぞってゆくガーネットの動きは、星の輪の中心に向かって石を並べてゆくにつれ、しだいに早く、ものぐるおしいくらいに小刻みな指や手の速度を伴って、次から次へ、きらきらと撒かれてゆきました。
「アクマが来たりて笛を吹く」
 ジンさんは、タイジの耳たぶをつまんで、ささやきました。タイジはいやな顔をし、
「言うと思った。ガーネットさんに聞こえたら蹴飛ばされるよ」
「もう何度も蹴られてる」
「ふられてんでしょ」
「おおあたりのリラックマ」
「今度なにか喋ったら、俺ジンさんと縁切るから」
 と言い終えるよりはやく、タイジは無遠慮にジンさんのアタマを腕で抱え込み、ぶあつい片手の掌で、ろくでもないジンさんの口をふさぎました。それでもタイジは、ちゃんとジンさんが窒息しないように、口をふさいだ指と指の間にすきまをつくり、さらに鼻の穴をふさがないように配慮しました。
最後のダメ押しで、タイジはジンさんの耳に口を寄せてささやきました。
「お願いだからヨダレたらさないでね」

 ここからさきは独りで行きな、と誰かが言い、背中を押されていつのまにか真っ暗なほそ道をメグは歩いていました。それまで誰かといっしょだったのかどうなのか、夜道を明かりもなしに歩く心細さはたとえようもなく、ふりかえっても誰も、何も見えない暗闇、郊外の住宅地らしい周囲はどこか見慣れた風景ですが、メグの前方、行く手にだけ、長い間隔を置いてポツポツと灯る電信柱のおぼろな光は、かえって周囲の闇の深さを際立てるようでした。
 深夜なのか、あたりの人家には窓明かりもなく、メグは泣き出したいのをがまんして、ゆるい下り坂を一心不乱に歩きました。地面はちゃんと舗装されたアスファルトで、足元がよく見えなくても転ばないのが幸いです。
(どうしてこんなところに来ちゃったの?)
 考えてもわからず、とにかく灯りの点いているほうへと歩きました。どのくらい進んだのか、いつしかほそ道は終わり、眼の前に大きな灰色の四角い建物が見えます。
(学校だ!)
 メグの通う小学校の校舎に似た白っぽい壁と、たくさんの窓が見え、ストイックな四角い建築物の電灯のついていない窓は、周囲の壁の白さのせいで、夜より深い闇を蓄えて、仕切られた窓枠の内部にくろぐろと口を開けているのでした。
 そっちに行っちゃダメだよ。と耳の奥でまた声が聞こえた気もするのですが、校門の前で一瞬ためらったメグは、校舎の二階か三階の隅のひとつの教室に、ほのあかるい光線を
見つけ出し、しぜんと足はそちらへ向かいました。校門をくぐるや否や、なにか甘ったるい芳香が漂い始め、それは梅雨のさなかに咲く梔子の匂いに似ていました。
(音楽の授業?)
 梔子の匂いにメグが気づくと同時に、うっすらと灯りらしきものの見える教室から、歌声が聞こえました。合唱です。
  
ひらいた ひらいた
  何の花がひらいた
  蓮華の花がひらいた
  ひらいたと思ったら
  いつのまにか しぼんだ……

 こどもたちのユニゾンは、メグの聴きなれた授業の歌声でした。たくさんの声。メグはすこし元気が出て、校庭を横切り、その合唱の聞こえる窓のほうへ近づいてゆきました。声が近くなるほど、あたりに漂うクチナシの香りは濃く深くなってゆくようでした。
 ダメだよ、戻って……
 ささやきか、ため息に近い制止の声も、合唱とは別にメグには聞こえたのですが、メグは独りの不安と行く先知れずの闇の怖さに耐えられず、合唱のほうへと進んでゆきました。
 音楽室らしい窓のなかは、傍に行って見上げても、あまり明るくありませんでした。電気が点いているようでもなく、ただぼんやりと、そこだけ闇の分量が少なくなっている、という感じで、周囲から浮き上がっているのです。繰り返し同じ歌が歌われている合唱教室の真下に行ってみましたが、そこへたどりつくために、このひろい校舎の入り口が、建物のどこにあるか見当つかず、メグは途方にくれました。
 突然またふいに、メグは宙に浮いていました。教室を下から見上げていたはずなのに、メグはいつのまにか、その教室の窓と同じ高さ、室内がある程度覗ける位置に立っています。浮き上がり、あるいは羽ばたいているという感じではなく、立ち止まっていた校庭が、その部分だけ急激に盛りあがり、メグはその地面に押し上げられる感覚で、少し離れた丘陵から校舎を覗いているのでした。

  ひらいたひらいた
  何の花がひらいた
(行っちゃだめだよ)
  蓮華の花がひらいた
(こんなさびしいところへ閉じ込めないで)

 メグは呼吸がとまりそうになりました。音楽教室のなかは、電気など点いてはいませんでした。それなのに、外からその窓だけほの白く見えたのは、窓のなかで、たくさんのこどもたちの足が、ぐるぐる回り続けていたからなのです。足だけが。足たちだけが。
 しかも、その足は空間のなかで逆さになっていました。上下逆転したこどもたちの下半身だけが、メグの眼に映ったのです。上半身は、窓から下の壁に隠れて見えないのか、それとも腰から下しかないのか、男の子や、女の子、ショートパンツやスカートから、にゅっと伸びたこどもの足たちが、輪になって闇の中に逆転し、歌声といっしょにぐるぐると回っているのでした。窓が白っぽくあかるんで見えたのは、その回転し続けるこどもたちの足の青白さのせいでした。決して灯りがついているわけではなかったのです。
 メグは喉までこみ上げた悲鳴を押しころし、来た道をひきかえそうとしました。

  ひらいたと思ったら
  いつのまにかしーぼーんだっ

 いきなりぐいっとつかまれた二の腕の感覚に、そこにある空間を振り仰ぎましたが、誰もいません。すごい力でひっぱられる、イヤだ、とメグは髪の毛を逆立てました。離してよ。べちゃっとした冷や汗の感覚がつかまれた二の腕に流れ、メグは必死でもがきました。
(来てよ)
「やだ」
(逃がさないよ)
「ヤダ」
 メグは見えない相手に向かって逆らい、手足をつっぱりました。懸命に反抗しながら、相手の腕力に負けて、ぬかるみに踏み込んだときの身動きのとれなさで、ずるっとかかとからすべってゆきました。
 暗黒から伸びる無数の透明な触手は、ざわざわする感触で、メグの足や腕をからめとり、校舎のほうへとひきずってゆこうとしました。
 さっきまではメグが見上げていたはずの四角い灰色の建物は、いつのまにかすり鉢の底のような大地のくぼみの中にあって、ざらざらと土を崩しながら、メグを引き寄せる間にも、重い地鳴りとともに、徐々にめりこみ、そのまま地面の中に沈んでゆく気配でした。
「跳ねればいいの。憑依をふりほどいて、自分は飛べる、と念じてごらんなさい」
 べったりとした夢魔の触覚とは違う、落ち着いた声が頭のなかで聞こえます。それは終わりのない呪文となって、白い足たちといっしょに鼓膜のはざまで踊り続けるノイズとは違う、強い意志を持ち、まっすぐな杖のように、おびえるメグの眉間を打ちました。
「シーラさん? どこにいるの」
「すぐそばに、近くにいる」
「助けて」
「近づけない。メグ、あなた自身の力のせいで、わたしはその悪夢の中に入ってゆけないの。自縛を解けるのは、そのひと自身だけ」
 姿の見えないシーラの声だけは、はっきり聞こえます。メグには何がなんだかわかりません。ずるずると砂に埋もれてゆく四面体建築の窓という窓から、赤黒い粘液が滲むようにあふれて流れ出し、細かく泡立ちながら、ねっとりした血の池がこの夢の真ん中に出来つつありました。
(あれはぼくが流した血なんだ)
 鼓膜で回る合唱のはざまに、あどけないつぶやきが混じってきます。耳と、頭のなかで、いくつもの声があちらこちらから同時に聞こえ、がんがん響き、我慢できないほどうるさい、やかましい、だから耳をふさぎたいのに、手が重くて持ち上がらないのでした。

  なんの花がひらいた?

(ぼくの血はどこに行った?)
「知らない。あなたなんか知らない。離してよ」
(ぼく君を知ってる)
「反応してはだめ。飛びなさい、メグ」
 があん、と殴られるような轟音。どろどろと沈んでゆく校舎。暗い澱んだ水に浮かぶ、こどもたちのちぎれた手、足、鼻をつく異臭。クチナシの甘ったるい匂いはいつしか腐臭に変わり、メグはもう足首まで血にひたされています。
「シーラ、どうやって飛ぶの?」
 手をさしのべたいのに、からめとられて持ち上がらない口惜しさ。ジバクって何? この池の水は、すごく重い。すごく冷たい。
 血と砂の湖の中心に沈んだ校舎はもう見えません。ばらばらになってその水面に浮かんでいるのは、さっきまで歌っていたこどもたちの逆転して回っていた足でしょうか。手と足だけ浮かんでいて、頭も胴体もありません。
 ぶくぶく、とまたあたらしい泡が立って、濁った血の底からなにかが昇ってきました。メグはもう腰まで、じきに胸までひきこまれかけ、恐怖にすくんだ極致の投げやりな感情が、心をちらっとよぎりました。このままひっぱられてしまえば、何もかもわからなくなって、こんな怖さも感じなくなる? そのほうが楽だよ、きっと。
 血の池地獄の底から、水面にぽかっと浮かび上がったのは、ちいさな男の子でした。
 蛹のように青白い、かなしげに痩せた、六歳くらいの男の子。
彼はふわふわした綿から抜け出すようにすぽんと水面にとびあがり、はだしのままかるがると、地面をごく普通に踏む感じで水上を歩いてメグに近寄ってきました。濁った池から飛び出したのに、全然血まみれではなく、まるでこわれやすいガラスか蝋細工のように髪も手足もまっしろで、寸法の合わないだぶだぶのパジャマを着ていました。
男の子は首まで血の池にはまってしまったメグの前まで来ると、ちょこんとしゃがみこみ、
「すごい血だね」
 と、無感動に言いました。
「あなたの血でしょ」
 ううん、と男の子は首を振りました。
「ぼくだけの血じゃない」
「ぼくが流した、って聞こえた」
「ぼくは、ぼくひとりじゃないから」
「わけわかんないこと言わないでよ。あたし動けない、あたしをつかんでいるのはあなたなんでしょ」
「そう」
「あたし死んじゃう」
「死なないよ。遊ぶだけだ」
「苦しいのイヤ」
「もぐってしまえば苦しくないよ。みんなけっこう楽しくやってる」
「うそつき」
 メグはじりじりして言い返しました。
「だってそう言うあなたが、ちっとも楽しそうに見えないもん」
 ぎりっ、と男の子は、その瞬間奥歯を噛みしめるような苦い表情をしました。
「助かりたい?」
「もちろん」
「じゃ、おいで」
 男の子はにやっと笑って、パジャマの袖から痩せた手首をのばし、メグのほうへ差し出しました。
「手が動かせない」
「こうしようか」
 男の子はひややかに笑い、メグの髪を無造作にわしづかみにしました。つかまれ、ねじあげられたのは髪だけなのに、メグはその瞬間、ぞっとするような冷気が頭のてっぺんからつまさきまで走り抜けるのを感じ、かぶりを振って拒否しました。
「触らないで」
「じゃ、行っちゃえ」
 男の子はつかんだ髪を離さず、そのくせ乱暴に、素足の裏でメグの頭を蹴りました。
「この……」
 と言いかけてメグはうまい言葉がみつからず、まじまじと眼をみひらいて、痩せこけたこどもを睨みつけました。
「こんなことされる理由ない、あなたなんか知らない」
 メグは怒鳴り、そのとき、とても自然にこんな言葉が口をついて出たのでした。
「あたし、いつだって飛べるのよ!」 
 メグは自分の両手で、この血の池全部を持ち上げられるような気がしました。まったく力がはいらなかった腕に、なにか熱い、煮えたぎるようなものが逆流し、まわりだし、メグはもういちど叫びました。
「あたし、いつだって飛べるもん」
 叫び声と同時に、重い血の水がばしゃっと割れて、メグは宙に飛び上がりました。男の子はそれでもメグの髪をつかんで離さず、いっきに湖のほとりに飛びすさったメグといっしょに、大地にころがりました。
 いたい……、と男の子は両膝を抱えてうずくまりました。周囲の風景は、いつのまにかまた変わっていて、メグのたどった住宅街の夜道はあとかたもなく、そこは、光と影の区別がつかないしらじらとした草原でした。
草原といっても、草の緑も花のいろもなく、明るいとも暗いともつかない、ただ草の葉の輪郭だけが、空気の流れに沿って動いている墨絵のような無彩色の景色でした。その灰色の世界の真ん中に、さっきの暗闇よりずっと鮮やかに、紅色の湖はやっぱり存在していましたが、おどろおどろしい無惨なこどもの手と足はもう浮かんではいず、風のそよぎのままに、水面にはこまかな波紋がいくつもいくつも生まれて、その波紋どうしがぶつかりあい、またちがった模様を描き、こちらの岸辺からあちらへと移ってゆく風の流れを、ゆっくりとなぞっているのでした。空も大地も灰色の世界で、この湖いっぱいの透明な紅が、唯一の、とほうもなく大きな彩りでした。
男の子は、蒼ざめた泣き顔でメグを見上げました。
「助けて」
 あんな失礼なことしたくせに、何て弱虫な台詞、とメグは思いましたが、口には出さず、だまって男の子の近くに座りました。腹も立ったし、怖かったのですが、べそをかいているこの子があんまり幼くて弱々しいので、蹴り返す気も失せてしまいました。
「君を呼んでいる声が、いくつも聞こえる」
 男の子はメグがいやがらずに自分の傍に座ってくれたのが嬉しい様子で、すこし表情をなごませ、遠くを眺める眼つきで、灰色の空へ顔を向けました。
 え? とメグは耳を澄ませました。そういえば、さっきシーラさんの声が聞こえていたっけ。ママはどうしちゃったんだろう。タイジさんは? いくつもの?がいっぺんに戻ってきました。声? どこに?
「ほら、聞こえない?」
「風の音だけ」
「風じゃないよ」
 男の子は片手を耳に添え、目をつぶりました。メグもそれを真似て耳に意識を集中させると、さわさわという草をなぶる風音にまじってひっそりした笛の音がかすかに聞こえはじめました。
「笛?」
 それから、しゃらん、しゃらん、という涼しく触れ合う腕輪の音。音色といっしょに紅色の湖の面がゆらめいて波立ち、踊り子の白いしなやかな腕と足がうっすらと浅瀬に透かし見えました。この湖は、男の子の歪んだ情念の凝り固まった悪夢の結ぶ血の池地獄とは、もうすっかり位相を変えていて、怒りに任せてメグが飛び出した瞬間に、悪夢とは違う次元に移っているのでした。
 あでやかな湖面の、大きな紅色の鏡にうつる、とても綺麗な女のひと。スローモーションのように、そのヴィジョンは湖面を動いてすぐに消え、笛の響きだけ、風の流れといっしょにいつまでも聞こえます。
「帰らないで、いっしょに遊ぼうよ」
 男の子は哀願するようにメグを見つめました。
「こんなところにいたくない」
 メグはきっぱり撥ねつけました。
「あたし、ママとシーラさんと、それに、もしかしたら峰元さんとここに来たんだと思う。みんなどこに行ったの?」
「湖の底」
「うそ」
「うそじゃないよ」
「だってここは血の池だったじゃない」
「今は違ってる。とても澄んで、向こう側まで透きとおって見える水晶の壁だ。君がぼくをここまで連れてきたんだ。女のひとがいただろ? この湖は、君の心の鏡になって、君のほうから彼女を見てるんだよ」
 メグは眼を凝らしてもういちど水面を凝視しました。すると、深い湖の中心に、ひとすじの明るい筋が湧き水のように立って、緋色のうすものをまとい、ゆったりと袖ひるがえし舞うガーネットが映って見えました。
「知らない、このひと」
「君を呼んでる。ほら、たくさんの鳥が生まれて、君を連れていくよ」
 亀裂の向こうで踊る女の人のうすものの袖や長い裾から、たくさんの小鳥がさえずりながら、メグの立っている灰色の草原へ飛んできました。小鳥たちは赤や青や黄色、黄緑、翡翠いろ、色とりどりの羽をして、メグと男の子の頭上でぐるぐると回っています。あんまりたくさんの小鳥が群れをなして向こう側からいっせいに飛んできたので、あちら側からこちらへと切れ目なくつながっている虹の橋か、雲の筋のように見えました。人なつこい何羽かは、メグの肩や腕にとまり、メグの髪や服をくちばしでつまんでひっぱるしぐさをするのでした。
「あの小鳥は、一羽一羽が、声であり魂なんだ。他の誰のものでもない、君を現世にひきもどそうとする、君自身の心の声、心の力なんだよ。踊りのひとは、それを知っていて、鳥たちを呼び出している。君は行っちゃうんだ。ぼくを残して」
「それじゃ、あなたもあたしといっしょに来ればいいじゃない」
「ぼく行けない」
「どうして」
「まだ生きている体がこっちにあるから」
「?」
 メグ、と虚空から呼ばれて降りあおぐと、きらきら光る湖の裂けめから、まっすぐ空に飛びたった小鳥の渦は、やがてひとつにまとまって、はっきりした太い柱になり、その芯に、今度はシーラが見え始めました。虹の光りのしぶきのように、小鳥の羽が湖面に舞って、シーラは羽根吹雪あいだから腕を伸ばすと有無を言わさずメグをひき寄せました。
「暴れないで、こっちに来て」
「あたし、暴れてない」
「行かないで」
 と男の子はまた顔色を険しくしてメグのもう片方の手をつかみました。
「やっぱりイヤだ。ぼく君を連れて帰る」
「坊や、メグを離して」
 灰色の空間のどこかが割れて、ふわりと安美さんが現われました。
「あっ、ママだ。ママどこにいたの?」
「なにも見えない中有で迷っていたけれど、笛の音にひかれてここまで来たのよ。坊や、メグのかわりにあたしがあなたといっしょに行く。だからその子を自由にして」
「お母さん?」
 男の子は安美さんを見上げ、はにかんだような、どうしたらよいかわからない、というふうな、ちょっと困った顔つきをしました。安美さんは、男の子が迷っている隙に彼を抱き上げ、メグから注意を逸らし、男の子をあやすように撫でながら、
「メグ、呼んでいるシーラさんが見えるでしょう。このあなたの心の鏡、次元の裂けめを通って、向こう側に帰りなさい」
「ママは?」
「あたしはこの子といっしょにいる」
 急いで、と安美さんはメグを促しました。
「ママ、でもどうやって帰るの?」
 メグは安美さんから離れられません。
「それに、ここはどこ? さっきまで、あたし真っ暗闇の学校みたいなところにいたの。学校はどろどろした血の底なし沼みたいになって、沈んでっちゃった。あたし溺れかけたんだけど……」
「全部わかってるわ」
 安美さんは、気もそぞろにメグの説明を途中で遮りました。男の子の気持ちが自分に逸れている間に、メグを違う時空に飛ばしたいのでした。安美さんは、男の子を抱き上げた瞬間、ずしっと腕にこたえる見かけによらない彼の重さに驚いたのです。
(まだ幼いのに、こんなにすごい怨念の質量を溜め込んでいるこの男の子は何? でもそんなことを探っているヒマないわ)
 安美さんは華奢な肩がぬけそうになるほど重い男の子を抱いたまま、けんめいに素知らぬ顔をつくり、
「さっきまでのどんよりしたおぞましい世界は、この子の内面に澱んだ冥界のもの。あなたは自力でそこから飛び出し、今眺めている湖は、メグ、あなたの心の万華鏡なのよ。この水面が今紅いろに透けているのは、あちらの世界で、あなたとコンタクトしようとしているガーネットさんという女性のかもし出す彩りです」
「ガーネットさんて?」
「ママにもよくわからない。説明している時間がもったいないわ。ガーネットさんは、こちら側に自分の声とイメージを送り出し、道筋をほのめかしてくれる。でも、あなたやシーラを呼び戻すほど力はないようなの。だから、メグ、今水面にたちのぼっている虹の柱のなかに、シーラが見えるでしょう。シーラに意識を向けてごらんなさい」
 メグは自分の周囲に群がる小鳥たちのはばたきに包まれながら、湖のまん中をもういちどじっと見つめ、呼んでみました。
「シーラさあん」
 あでやかな紅の水面から、ゆらゆらと裳裾をひるかえして踊るガーネットの姿はかき消えて、それと同時に湖は紅から緋色へ、次には、柔らかい金いろを波の縁に散らした、目も覚めるような青紫に彩りを移してゆきました。メグと安美さんがたたずむ岸辺に近い浅瀬では、水の深みの青紫はしめやかなラヴェンダーに明るさを増し、ひそひそとした風の流れも、ガーネットのイメージとはまた違った音色を加えたようでした。
「ほんとのサファイヤ・ブルーね」
 安美さんは青紫の水の縁に反映する、金波銀波の打ち寄せる湖上を透かし見て、
「メグ、あなたの心に映っているシーラのヴィジョンがこうなのよ。あたし、あなたが赤ちゃんのころ、あなたをとおして、いろんなひとのオーラの彩りを眺めたものだわ」
 としみじみ昔をなつかしむようにつぶやきました。
「ああ、もう腕が抜けそう。シーラさん、メグをお願い」
 安美さんは腕に男の子をしっかり抱きしめたまま、メグの眼の前で、岸辺から湖の真ん中にむかって思い切りジャンプしました。
「あっ、ママ、どこに行くの?」
「あたし、妖精だから飛べるのよ。メグもいっしょに来て」
 安美さんと男の子を取り巻いて、小鳥たちも何羽か飛んでゆきました。けれども、小鳥たちがさえずりながら往復し続けている次元の裂けめにたちのぼる虹の柱の手前で、安美さんはゆっくりと水に落ち、男の子といっしょに湖の底へ沈んでゆきました。小鳥だけが、波紋と水の泡の静かに浮かぶうつくしい紫の水面に哀しげにさえずり、あわてたメグは我を忘れて、
「待って、あたしも行く」
 と力いっぱい地面を蹴りました。自分でも想像もつかないくらい、両足はかるがると重力を離れて空へ飛び上がり、メグはひたすら
安美さんの沈んだあたりめがけて身を躍らせたはずなのに、岸辺を離れたとたん、周囲に群がる数知れぬ鳥たちはどよめいて、いっせいにメグをとりまき、包みこみ、湖へ落ちるどころか、小鳥たちの翼という翼にとりまかれ、まるで繭にくるまって運ばれる蛹のように、メグは、こことは違うパラレルへ、再び渡ってゆきました。
 
 着地すると、小鳥たちはいったん翼を閉じて、目を閉じて横たわったメグの周囲にむらがり、きらきらひかる波紋のような七色の円陣を描いて、静まりました。
 半分眠っているような、意識のはっきりしないまなざしで、メグはぼんやりと上天を眺めました。
 サファイヤ・ブルーの湖はどこに行ってしまったんだろう? 視界をふさぐ小鳥たちのはばたきにつつまれて、来た道も着いた場所もわからず、メグは上下左右の感覚もうしない、今目に映っている深い紺青一面の上空を、しばらくは、男の子を抱えて安美さんの沈んでいった湖の深みかと思いました。見下ろしているのか、見上げているのか、どっちなんだろう? 自分をとりまいて、羽づくろいをしながら、気持ち良さそうにさえずり交わし、ちかちかときらめいている色とりどりの小鳥の群れが、どこからきてどこへゆくのか、メグにはわかりっこないのでした。
 メグ……。
 頭上から呼ばれて、そちらのほうに視線を向けると、メグの斜め上方の虚空に、逆立ちしたシーラがいました。シーラは片手をあげ、にこっと微笑みました。
「シーラさん。やっと会えた。なぜ逆さになっているの?」
「空間がねじれて、閉ざされているだけ。逆立ちしているのではないのよ。ここはまっすぐな時間軸などないから、空間もどうどうめぐり。始めも終わりもない」
 言いながらシーラは逆転したまま、手を振り、すたすたと難なく歩き、虚空をぐるりと半回転し、メグの傍に近づいてきました。シーラが歩み寄ると、メグの周りの鳥たちは、いっせいに羽根をひろげ、ばたばたと舞い上がり、ふたりから離れて〈夜空〉へと昇ってゆきました。
「あ、飛んでいっちゃう」
 メグはおきあがり、たくさんの小鳥の群れが、ひとすじのふぞろいな帯となって昇り去ってゆくのに、がっかりした声をあげました。
 打ち上げ花火がしゅるしゅると空に昇るように、それまで何もなかった藍いろ一色の闇を、小鳥たちの群れなす光りの帯はまっすぐにつっきり、一羽一羽のかたちが、まるでわからなくなる高みへたどりつくと、光る粒のかたまりはゆるやかにひろがり、ほぐれて、そのままきらめく星の座となって、メグとシーラの見上げる半球を形作りました。
「眼が覚めた?」
 シーラはまた、微笑みました。シーラさんがこんなにやさしく見えたことはないなあ、とメグは感じました。シーラさんはきれいだけれど、なんだか冷たくって怖いひと、と思っていたのでした。でも、今傍にいるシーラは、相変わらず美しいけれど、以前と印象が違っていました。
「鳥たちはどこへ行っちゃったの?」
「どこにも行ってない。あなたの意識がはっきりしたので、空間のねじれからこぼれたあなたのエネルギーの雫たちは、あなた自身にとって、わかりやすい状態で、あなたの認識にインプットされたの」
「えー?」
「ええとね、どう説明したらいいかな。例えば物理的なショックを受けると……ぶたれたりころんだりすると、眼の前がまっくらになり、ときには貧血を起こしたりもする。そんなとき肉眼にうつるものは歪んで、意識から消し飛んでしまう。ばらばらになってしまうわね?」
「見えなくなる」
「そう。心象のエネルギーもそれとおんなじで、衝撃や圧力で揺さぶられると、健常な姿かたちを失って、ちりぢりに砕けてしまう。でも、砕けてしまったとしても、そのひとつぶひとつぶは、当人の心象エネルギーであることに変わりないから、毀れた万華鏡の破片のように、散開はするけれど、やがて意識が一定のリズムで元通りに流れ出せば、イメージやヴィジョンは、またきれいなかたちを結ぶのよ」
「ちゃんと見えるようになるってこと?」
「そのとおり。あなたの理解のほうが、あたしの説明よりわかりやすいわね」
 と、シーラは苦笑しました。
「だから、あの小鳥たちはメグの心からこぼれでたかけらなんだけれど、あなたが憑依状態から脱出してきたので、ぐちゃぐちゃに逆転していた〈虚〉の世界に、すっきりと天地が別れ、星たちのすがたになったんだわ。メグは星空が好きでしょう?」
「うん」
「メグは、メグにとって好ましい風景の世界に、戻ってきたのよ」
「それじゃあ、シーラさんは、今までどこにいたの?」
「あの世とこの世のさかいめ。中有、というのかしら」
「チュウユウ。ママもそんなことを行っていた。だったら、ママといっしょだったの?」
「いいえ。安美さんとはコンタクトできなかった。妖精の安美さんは別な領域、たぶん精霊界に避難していたんだろうし、あたしは生死の境界にいたんでしょうね。どちらもボーダーラインに違いはないけれど、あたしはあなたほどかんたんにいくつもの領域をスイスイ渡れるわけじゃない。生者と死者のはざまを取り持ったり、往来する力はいただいているのだけれど」
「イタダク? 誰から?」
「さあ……あたしは特定の宗教を信じているわけじゃないし、こんな能力を持っていると、一元的な教義じたい、受け容れがたくなってしまう。世界は…」
 とシーラは乱れた髪をかきあげ、メグのヴィジョンの投影という星空を眺めやりました。そうすると、彼女の並はずれた印象深さのひとつ、指でつまめるくらいに長く、自然に反り返った睫毛の影が、上下の瞼にふっさりと映り、とてもきれいでした。
「リグ・ヴェーダの表現のように、光と影の織りなす七色の幻影なんだろうって思うわ。その向こう側にいっさいをつかさどる永遠の存在、神様がいるのかどうなのか、これはわからない。そこからさきは信じるか、信じないか、という個人主義」
「むつかしくってよくわかんないよ、シーラさん」
「そうね…。説明しているあたしにもよくわかんないことだから」
「リグナントカって何?」
「インドの経典のひとつ。いつか読んでみたら?」
「ミリンダ王の問い、もオススメだね」
 ふいにうしろから見知らぬ声で割り込まれ、メグは驚いてふりかえりました。
「あら、ヒョウガ。渡ってきたの?」
 シーラはちっとも驚かずに、声の主に微笑みかけました。夜空のはるか彼方に佇んでいる声の主の姿が小さく見えました。
 ヒョウガと呼ばれた少年は、片手をちらっとあげてシーラの呼びかけに答え、ほんの数歩あるいただけで、ずっと遠くだったのが、あっというまにすぐ傍に近づいてきたので、メグはびっくりしました。
「歩幅百メートル?」
「空間移動だからさ。ここは物理的距離なんかないんだよ。俺は豹河。きみがメグだね」
「うん」
 メグはつぶらなまなざしで、浅黒い皮膚の、精悍に痩せた少年を眺めました。豹河は上半身はだかで、腰から下は、ヌードカラーのぴっちりしたタイツを穿いていました。まだどこかこどもっぽく、筋肉ですっかり覆われてもいない肩甲骨を背中にはっきり浮きたたせた彼は、金髪をその辺りまで伸ばしていました。メグが思わず眼をまるくしたのは、彼の長い髪には、黄金の地色にくっきりと鮮やかな黒い豹柄が、動物園や写真で見たほんとのケモノみたいに、つやつやと浮き出ているのでした。
豹河は、自分の長い前髪を少女のようにオデコの上でひとつたばね、あとの毛先はさらさらと、肩や背中に奔放に垂らしたままなので、ちょっと見には、骨っぽい体格の、背の高い少女のように見えましたが、間近で見ると、彼の顔つきはずいぶんいかつく、顎の骨は角ばっていますし、ひろい額にくっきりと描いたような弓なりの眉毛は、髪とは全然違って黒く、濃く、まなじりの深い目元に、気性の深さと強さが、ありありと表れているのでした。
「メグ、帰ればわかるけれど、このひとは娥
網さんの末っ子で、笛吹きタマヨビのヒョウガです」
「宝石占いのガーネットさんだっけ?」
「そ。俺、彼女といっしょに〈占いの場〉をつくったんだけど、どこかから彼女のトランスに煽られる感じで、俺のほうがこんなところに離脱してきた」
 ヒョウガはニッと笑いました。ヒョウガが何かの、ちょっとしたしぐさをするたび、彼の髪の金と黒の豹模様はあざやかにはっきりと動いて、メグの眼には、まるでそれが、この少年(か青年か)は、頭の上に一匹の猛獣を飼っているような印象に見えるのでした。
「いや、ガーに煽られたんじゃなく、シーラとメグにひっぱられたのかな。ガーにそれほど力はない」
「たぶんね」
 シーラはうなずきました。
「そうだ。ガーネットさんの孫のドミや、自閉症のはっちゃんとか、ギャラリーのアスカさんとか、どうしたの?」
 メグの質問に、シーラは長い睫毛をすこし伏せて、顔を曇らせました。
「あのひとたちも、きっとすぐ近くにいるのよ。だけど、いったんはもう帰らなければ。安美さんを捕られて、またひとり(?)人質が増えたわ。ここにも長居しすぎ。いっぺんに片付くケースではないということはわかった。ヒョウガまで飛ばされて来たなんて、向こうじゃびっくりしてるでしょ」
「とおんでもない、のんきなもんだよ。なにせジンさんとミネモトのオブザーバーだもんね」
「ジンさん?なんでまた」
 ジンさんの登場と聞いたシーラは、愁いをほぐして、おかしそうに笑いました。
「きれいな女がいて、居心地よけりゃ、ゴキブリみたいにどこにでも出没するんだ、あのおっちゃん。でも俺が来てるって聞いたら逃げ出しそうになった」
「なんで?」
 ヒョウガはおどけた上目づかいをして、ちらっと赤い舌をひらめかせ、唇をなめました。
「賭け麻雀で借金あるからだろ、俺に」
「いつ? あなたとんでもないわね、未成年のくせに」
「一年くらい前かな。でもそんな言い方、シーラにふさわしくないぜ。未成年のくせにトンデモナイ? どっちが」
「さあね。とにかく現実に戻らなくちゃ。メグを送っていかないと、パパさんが心配するでしょ」
「俺、こういうシチュエーション慣れてないよ、シーラ。どうすりゃいいの?」
「あたしにはまだ、あなたの吹いている笛の音が聞こえている。メグ、わかる?」
「うん、聞こえる」
 メグも耳を澄ませると、今までに聞いたことのない奇妙な節回しの笛が、耳の奥で、はっきりと、輪を描くように響いているのがわかりました。
「ということは、あっちの世界で、あなたは忘我の域に達していながら、ちゃんと呼子の笛を吹き続けているのよ。トランスは続いている。〈場〉はそこにあるわ」
「そっか」
 ヒョウガはほっとしたようでした。
「トランス・ハイポジションだ」
「あたしたち、手をつないで意識を変えるのよ。呼子の笛を聴くんじゃなくって、その音を〈見る〉の。見ようと思えば音は見える。ここでは五体の感覚は、念じることによって互いに転移し、具象化するから。そうね、メグ、ヒョウガの笛の音は……たとえば架け橋、梯子みたいなもの。それがわかる?」
「……」
 メグはためらい、困惑しました。シーラは明るい焦げ茶いろの瞳でメグを覗き込み、メグの心の奥の奥まで届くような視線をくれました。
「あなたにも、〈見える〉はず。ヒョウガの笛の音が、ほら、星座を渡る小舟か、櫂のようになるのが。時間と空間を超えて、星座のなかを、ゆっくりなめらかに動いている、それが見えるでしょう?」
 言いながらシーラはメグの手をつかみ、ヒョウガの手もとりました。すると、その瞬間メグは、シーラの手の感覚が自分のものとなって、自分がじかにヒョウガの手を握りしめているように、シーラの感覚と自分の感覚が一つに結び合うのが、はっきりとわかりました。
「ふね?」
「たとえば」
 メグはシーラから伝わってくる笛の音色とシーラが握っているヒョウガの手のしっかりしたかたちを同時に感じ取りました。ヒョウガの手はずいぶん強い手だなあ、とメグはばくぜんと感じました。何が、どう強いのかうまく表現できないのですが、そう感じると、耳のなかで輪を描くように響いている笛の音のちらばりが、いっせいにまとまって、ヒョウガの方へ流れてゆくような感覚が始まりました。
いいえ、じつはその逆でした。とらえどころのない、大気の振動、空気のそよぎである笛の音たちは、ヒョウガの肉体そのものから、こちらへ向かって突進してくるのでした。眼を閉じると、金と黒の毛皮を波打たせて一頭の豹が、星合の空間を疾走し、虚空たかく跳躍するヴィジョンが瞼に映りました。
 そのケモノは、毛皮より濃い黄金いろの眼を見開いて、メグに語りかけました。
(ぼくのなかを通ってゆけばいいんだ。ぼくが次元の扉なんだ。無限転調するタマヨビの音の中に入ってしまえば、あっちに抜けられる)
「シーラさん、ヒョウガのなかに入って」
 メグの両目が、ふたたび青くつめたく光っているのにシーラは気づきました。メグはシーラをひっぱって、ヒョウガのみぞおち辺りを、無遠慮に片手でぐいっとおしあげました。ヒョウガは避けようとはぜず、かるく顎をうわむけ、自分の内部にめりこむメグの手をひきうけましたが、彼に苦痛の表情はなく、それどころか、ヒョウガのみぞおちをすくいあげるようにつかんだメグの手の力で彼は両足からうつぶせに宙に浮くと、まるで無重力の宇宙空間に漂うように、気持ちよさそうに、かすかにわらってさえいるのでした。
メグはシーラにさきがけて、ズボッと片手からヒョウガのなかに腕まで、それからじゅんぐりに肩、頭、胸と押し入ってゆきました。血は一滴も流れません。浮き上がったヒョウガの背中から、メグの頭突きが飛び出す、なんていうスプラッタな光景は出現せず、メグはそのまま、音の塊となったヒョウガを通過して、こことは別な、もといた現実空間へ帰ってゆくのでした。
シーラは小首をかしげ、不思議そうに何度か瞬きしましたが、メグにひっぱられるまま、メグの膝の辺りがヒョウガに入ってゆくあたりで、彼女といっしょに少年のなかへするするとひきこまれてゆきました。

サイコ・ヒーラー 1アクアマリン

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  1 アクアマリン

  雨、雨、降れ、降れ、母さんが
  蛇の目で、お迎えうれしいな…

 六月も末ごろになると、梅雨は晴れ間も見えず、毎日降り続きます。この季節には、小学校への通学路沿いに紫陽花がたくさん咲いて、赤や青、紫、赤紫に白、またピンクに水色、品種改良された八重咲きから素朴な山紫陽花、萼紫陽花と、濃淡も姿もとりどりに、雨の深くなる日々の憂鬱をやわらげて街を彩るのでした。
「あ、かたつむりだ」
 下校途中のメグは、通りかかった家の塀を越えて、道路のこちらがわへと身を乗り出すようにこんもりと繁り咲いている青紫陽花の葉っぱに、大きなかたつむりを見つけ、歓声をあげました。
「え、どこどこ?」
「あそこ」
 隣をいっしょに歩いていた羊子が、すぐにはそれと見つけられず、きょろきょろしているその間に、メグは背伸びをして、自分よりずっと高い位置にある葉っぱから、三センチほどの渦巻きをひきはがしました。
「ほらね」
「メグちゃん、よく見えるねえ」
 羊子は、ちょっと悔しそうに感心します。
「かわいい」
「まだちいさいね、きっとこどもだよ」
 てのひらに乗せると、かたつむりは驚いて角を伸ばしたり縮んだりしながら、ねばねばと動き始めました。
「こわがらないの」
「くすぐったい。羊子ちゃん触ってみる?」
 うん、とうなずいた手にかたつむりを乗せてあげると、羊子は手の上をねっとりと這い回る軟体生物の感触に笑い出しました。
「わあ、むずむずする」
「探検してるんだよ、知らないところに降りたから」
 あたし、これ飼おうかな、と羊子が言うので、メグはかたつむりのこどもを彼女に譲ってあげました。羊子とメグは、クラスメイトのでした。メグは十歳、公立小学校の五年生です。
 羊子はメグよりずっと成績がよく、優等生なので、このごろは学校が終わった後、中学受験のために、バスに乗って駅前の学習塾に通うようになりました。だから、今までのようにいっしょに長く遊べないのですが、メグとはやっぱり仲良しで、帰り道も途中まではいつもいっしょ。
「どうしよう、かたつむりをそのままかばんに入れておいたら、死んじゃうかな」
「葉っぱで包んだら?」
 とメグは紫陽花の葉っぱを何枚かむしりとると、かたつむりに巻きつけました。急に荒っぽく扱われたかたつむりは、こどもたちに都合よく大急ぎで殻にひっこみます。
「ビニール袋をあげましょうか。葉っぱをそのままかばんに入れたらノートや本が濡れちゃうわ」
 ランドセルを背負った後ろから、突然声をかけられてこどもたちは驚き、ふたりいっしょにからだごとふりかえったので、傘同士がぶつかりあって、あやうく取り落としそうになりました。
 最初にメグの眼に入ったのは、膝上五センチの、光沢のある深緑いろのミニスカートでした。つやつや、ぴかぴかしたスカートで、メグや羊子には、ふだん見慣れない材質。スカートの下からびっくりするほど長い足が伸び、ほっそりとしなやかな膝まで、ワイングレーの、これも光沢のあるレイン・ロング・ブーツをはいています。
 圧倒されたこどもたちが、手の中のかたつむりみたいにゆっくりと、おそるおそる顔をあげると、相手はくすりと笑って、自分から長い膝を二つに折って、こどもたちと同じ目線に顔を寄せました。
「これあげる」
 ハイ、と駅前の書店のビニール袋をさしだされて、メグと羊子は、顔を見合わせました。
(へんなひとだったらどうしよう)
 と、こどもたちの視線は、言わず語らず同じことを心配しているのが丸見えでした。
 だって……突然あらわれたこのひと、年齢は二十歳くらいでしょうか、肩の上くらいまでのセミロングヘアのさきっぽを、くるりと外巻きに跳ね上げ、毛先だけきっちりと金色に染めています。輪郭のきれいなたまご型の顔のライン、白い肌に深紅色の口紅が際立って、濃すぎるほど目にあざやかでした。睫毛は、指でつかめるほどながく、アイシャドゥなしでも青みを帯びて見える彫りの深い目がしらから、小気味よく高い鼻筋がとおり、雨模様の薄曇なのに、ルージュの赤がくっきりと映えるのも、お化粧のせいではなく、このひとの地肌がそれほど白いせいなのでした。
(すごい美人ぽいひとだなあ)
 とメグは、最初の驚きがおさまると、無邪気にじいっと相手を見つめて思いました。羊子はじりじりとあとずさりしながら、メグのプルオーヴァーの裾をひっぱり、
「あたし、塾の時間だから行く」
「うん、あたしも帰るよ」 
 とメグもうなずきましたが、ここから先の分かれ道は羊子の行く先はメグの帰る方角とは反対で、駅前書店のビニール袋を差し出した美人さんは、ちょうどメグの行く手をふさぐようにしゃがんでいるのでした。
「バイバイ」
 と塾の始業が気になる羊子は、さっさと背を向け、足元の水たまりを長靴でバシャバシャ蹴るように走って行ってしまいました。
メグの手には、友達の忘れ物の紫陽花の葉っぱにつつまれたかたつむり。差し出されたビニール袋を無視し、このひとから半径一メートルくらい迂回して、黙って素通りしかけるのに、
「風間メグさんでしょう。こんにちは」
 と座ったまま、美人さんが声をかけました。すこし低め、すこしハスキーな声のいろ。
「……」
「びっくりした?」
「……」
 足を停めたメグは、表情を変えず、ちょっと首をかたむけ、それでも真正面にこのひとの顔をちゃんと見て尋ねました。
「あなたは誰ですか? 知らないひととは口をきいちゃいけないって学校で言われたし、パパからも」
「あたしは紫羅。千手紫羅。メグさんのことは、かなり前から、知っていたの」
「せんじゅ、しいら?」
 珍しすぎる。やっぱりタレントか、タレント未満かな、とシーラから顔を背けて横目に眺め、クールに疑うメグ。
「見えるようになったのね、メグ」
 その瞬間、体に電流が奔ったようにばしん、とメグは反射的にシーラの肩をつきとばしましたが、目の前にしゃがみこんだシーラは、華奢な姿に似合わずびくともせず、反動で後ろにひっくりかえったのは、ちいさいメグのほうでした。間髪いれずシーラはメグの両腕をつかんで引き据え、おかげでアスファルトの路面とはいえ、汚れた水たまりにメグは転げ込まずにすみました。
 つかまれた両手をむっとはらいのけ、メグは半歩からだを引いて立ち上がり、はじめてシーラに白眼をむいて、雨脚強く降りしきる中に、ふたりともいつのまにか傘を投げ出して向かい合っています。
「何の用?」
 つっけんどんなメグに、応えるシーラの声音は高くも低くもなく、
「助けてほしいことがあってあなたを訪ねてきたの。力を貸してくれないかしら」
「やだ」
「話を聴きもしないで」
「あたし、あなたに会ったの初めてだもん。なのに、なぜあなたはあたしのことを知ってるの? あたしインターネットで遊んでもいないし、ホームページから? パパが作っているファミリーページには、そんなに詳しくあたしのこと書いてない」
「ネットも見たけれど、ネットであなたのこと知ったわけじゃないわ」
「?」
「同類は、わかるの」
「どうるい?」
「仲間ってこと。あなたとあたしは、同じ種類の人間なのよ。わたし、かなり前から、夢で何度も何度もあなたを見ている」
「夢?」
「そう、夢」
「何度も?」
 シーラはまじめな顔でうなずきました。メグは何と答えたらよいかわからず、ただかぶりを振りました。シーラが見たという夢を否定することも、信じることもできません。だから、今感じていることだけ言いました。
「でも、あたし、女じゃないのに、女のかっこうしたりしない、シーラさん」
 図星ですが、シーラはちっともあわてませんでした。
(最初っから見抜かれたのは初めてだ)
 とあらためてメグを眺めます。女の子が十歳にもなれば、もうじゅうぶんに将来の美人度は見当がつきます。物怖じしない黒々とした大きな瞳が印象的で、すっと鼻筋とおり、唇のかたちもきれい。きっとかなりな美人になるだろう…と。
ですが、このつぶらな眼はほんとうは機能していない目なのでした。いえ、器質的に無反応な瞳孔なのに、メグの視界はちゃんとひらけているのです。医者でもなければわからない秘密だけれど、シーラにはわかるのでした。
「あたしの女装、へた?」
「うまいと思う。すごい美人だって。羊子ちゃんは変装とはわかんなかった」
「ふつう、だまされる。初対面で見破ったのは君が初めてかな」
 座り疲れ、シーラは立ち上がりました。すらりとした姿かたち、挙措の、どこをどうアラ探しても男性には見えません。ミニスカートに合わせたトップスは胸元のひらいたⅤネックの黒いレースブラウスで、肩からシースルー素材の袖にきりかわり、手首まで長く、白い素肌が透けて見えます。雨に濡れ、腕にまといつくその半透明は、人魚の長い鰭のようにゆらゆらと雫をしたたらせてなまめかしい…。両手それぞれ十本の指にルージュと同じ緋色のマニキュア。
シーラの姿をまじまじと眺めて、メグはあっさりとこう言いました。
「シーラさんは凄すぎて、この町には似合わない感じ」
 素朴な感想に、シーラは苦笑するしかありません。
「そお? でも、第一印象が大切だから、衣装にも気を使って来たのよね」
「あなたとあたしのどこが似ているの」
 シーラは苦笑を微笑に変えました。
さわさわとあたらしい風が紫陽花の花影を揺すり、いくらか梅雨の雨脚もおさまったようです。ねずみ色の雲間に、すこし陽差しも見えてあたりは一瞬明るみ、雨に打たれたシーラは、精巧なビスクドールのように、かえって陰影冴えて見えました。
「この世ならぬものが見える、ということ」
「あたし、見えないもん」
 きょとんとしてメグは言い返しました。
「何のことかわかんない。どいてよ、あたしうちに帰りたいの」
 シーラは、腕を下げ、かるく腰から離して両手をひろげ、メグの行く手の真ん中に立っていました。シースルーの袖や指さきからぽたりと雫が滴り落ち、濡れたセミロングの黒髪が首筋から痩せた胸にかけてはりついて、地肌の白さがますます際立ち、海から上がった水鳥が青みを帯びた翼をゆるくひらいて、威圧的にたちはだかっているようでした。ほの明るんだ梅雨雲が割れて、濃いスカイブルーが覗くと、その瞬間から真夏の陽射しが、いっきに強く照りつけました。
 メグのけんか腰を、シーラは、むしろおもしろがっているようでした。唇の両端でうっすらと笑い返し、ちょっと語調を変えて、
「見ようとしないから、認識できないだけだよ。できないんじゃなくて、しないんだ」
「?」
「君のママがそうさせた」
 メグはもう口を開かず、くるっと背をむけて、今来た道を引き返し始めました。悔しいのですが、なぜかシーラの脇をすりぬける気になれず、遠回りすることにしたのです。
 ばしゃばしゃとアスファルトの路面にできた水たまりを、ことさら足どりあらく踏んでゆくメグのあとを、シーラは長い脚でゆったりと大股に追いかけてゆくのでした。
「メグちゃん。ほら、傘忘れてる」
 メグはむっとして、シーラの手からさしだされた傘をひったくりました。お気に入りのキティの絵のついた傘です。
「ついてこないで」
「あたしもそっちへ行きたいの」
 腹が立ったメグは、返してもらった傘で、わざとらしい嘘をつくシーラを殴ってやろうかと思いましたが、傘がこわれるといやなのでやめました。
 メグのすぐ後ろを、はためにはごく自然な感じでついてきたシーラは、小学校の裏門から続く最初の三叉路までメグが戻ると、
「君のママは七つのときに亡くなったんだよね」
「……」
 平常の下校時刻をだいぶ過ぎていましたし、雨降りでもあり、校庭にも裏庭にも、生徒の姿は見えず、三叉にわかれる手前まで砂利を敷いた道のおしまいに、ここまでが校舎の敷地のしるしに植えられた、古い柳の木が立っていました。
 生徒や、周辺の住人の待ち合わせに、その姿のよい柳の木は、目印になっていました。初夏の空から流れ落ちる緑の滝のように、柳の枝はゆったりと繁りを重ね、風の流れに添って、さわさわと揺れなびいています。
 メグは、その柳の木によりかかるように立ち、シーラをもういっぺん真正面に見据えました。腹が立って何をしゃべったらいいのかわかりませんでした。ようやく、
「気味悪いからついてこないでよ」
「正直ね」
「こういうこと突然話しかけられて気持ちのいいひとなんかいないよ」
 それはそうね、と、シーラは眉をたかくあげ、両肩をすくめて、嬉しそうに目をほそめました。
「素直で、いいリアクション」
「ママのことまで持ち出して」
「ママに会いたいでしょう」
「……」
 シーラはただの〈へんなひと〉だ、とメグは思いたかったのですが、そうではない、ということがメグにはなんとなくわかるのでした。だから、ふりきって逃げ出すこともできないのです。
「ママ……安美さん、そこにいるよ」
 え、とメグはとびあがり、あたりをきょろきょろ見回しました。すると、
「うちの子に何をするんですか」
 最初に怒った声だけまず聞こえ、それからすうっと、柳の木の裏側から、ママが現れました。メグは目をまるくしました。
安美さんは、亡くなった当時よりずっと若がえっていて、二十二、三歳に見えました。でもママだということは、メグにはすぐわかりました。
「ママ、どうして?」
 メグは嬉しくて安美さんにしがみつきました。現れた安美さんは、メグが飛びついたらぬけがらみたいに虚空を突き抜けてしまうなんてことはなくて、あたたかく、しっかりと嬉しそうにメグの肩を抱え込むと、怒り顔をしてシーラをにらみました。
「この子は平和に暮らしているのに、あなたは何なのよ」
「ごめんなさい。どうしてもこの子の助けがほしい、と思ったので、安美さんまで呼び出しちゃった」
「あたしは、この子に普通におだやかな人生を歩んでほしかったのよ。だから…」
「眼を?」
 安美さんは、シーラに目くばせして、その先を言わせませんでした。
「ママ、どうしてここにいたの? どうしてお姉さんみたいなの?」
 柳の蔭から抜け出した安美さんは、昔の絵に描かれている、白い三角巾をオデコにはりつけた、いかにも幽霊じみた格好ではなくって、黄緑色の、胸元にビーズ飾りのついたごくありふれたタンクトップ、半透明にふわふわしたベージュシフォンのロングスカートを着ています。
「ずっと、この柳の樹に同化して、ママはメグを見守っていたのよ。樹木の精になれれば、自分の好きな姿になりかわることもできるけれど、普通のひとには精霊の姿は見えないから、メグの前に現れることもできないだろうと思っていたんだけれど」
「この柳の木の精になっていたの?」
 そう、と安美さんはうなずいて、またシーラのほうに視線を向け、まじめな口調で尋ねました。
「シーラさん、あなたと一緒にいると、メグはまた、見えるようになってしまうのね。あなたもあたしとおなじような媒体能力を持っているの?」
「媒体じゃないわ。メグがもともと持っていたのと同じ力。見ることができるし、飛ぶこともできる。それに」
 シーラは、自分の中から適切な言葉を捜すために間を置き、風になびく柳の枝に視線を遊ばせました。
「行き場がわからなくて、この世と中有をさまよう霊たちを、鎮めて、送り出す力」
「メグにそんな力があったの?」
「あるんです」
「なぜこの子を呼びに来たの」
「あたしひとりでは力不足のケースがおきたから、助けてほしくて」
「お断りするわ。あなたのおかげでメグに会えてうれしいけれど、危険なめにあわせたくない」
 安美さんはきっぱりとシーラをはねつけましたがシーラはかまわず、新聞記事を読みあげるように、よどみなく言葉を重ねました。
「行方不明がこの半年のうちに五人。そのうち二人は十二歳の男の子、九歳の女の子」
「どこで」
 子供たちが被害者と聞かされて、ついつい乗ってしまう安美さんです。
「銀座の某アンティークビル」
「ビル?」
「ギャラリーやら、ショップやらが雑居している昔の建築。建てられてから、もう八十年になるちょっとした銀座の名物ビル…。その一室で、次々とひとが消える。どこへ行ったのかわからない。でも最期に彼らが入っていったのは、そのビルの同じその部屋」
「怪談みたいじゃない」
「怪談そのものよ」とシーラは言い返し、
「行方不明者の家族のひとりと、ビルのオーナーから、あたしのところに依頼が来たの。探し出して、って」
 そこでシーラはくしゃみをしました。雨が止んで覗いた雲間はたちまちふさがり、また空のどこかで、遠雷が聞こえ始めました。
「あなた、風邪ひきそう、びしょ濡れで」
 柳の精になっても、世話好き心配性は変わらない安美さんでした。
「雨宿りさせていただける?」
 シーラは大きめの唇に、きれいな歯並びをみせて、さあ釣り上げたぞ、と言わんばかりにあでやかに笑い、安美さんとメグの顔をかわるがわる眺めました。
 メグは安美さんの手をひっぱって、途方にくれたような、甘えた表情をしました。目の前にいるのは、ママなのでした。ずうっと会いたかったママです。このままシーラと分かれてしまえば、精霊体の復活ママは、きっとすぐに見えなくなってしまうのです。

 六月最後の週末の土曜、メグの住む町まで、今度はシーラは砂いろのプジョーを乗り付けて迎えにやってきました。柳の根方でメグは柳の枝を二、三本、ママの手をつかむように握って、シーラを待っていました。バイバイ、バイバイ、と友達に手を降りながら、そこに立ったままのメグをあやしむひとはいません。だって、そこはしょっちゅう誰かが待ち合わせする場所だったし、何かの理由で親がこどもを迎えにくるとき、そこでこどもたちが待つことも多かったからです。
 プジョーの運転席から、ピンヒールのサンダル素足をすらりと抜いて、膝をきれいにそろえてシーラは砂利道に降り立つと、安美さん出てきて、と声をかけました。
 メグの手のなかの青柳の枝が、ふっくらと体温を伝えた人間の手に変わり、薄茶いろの幹から、立体が滲み出るように、安美さんが現れました。
「シーラさんといっしょじゃないと、見えないの?」
 メグは不満そうに口をとがらせました。そうよ、と安美さんはうなずくしかないのでした。ほんとはそうじゃないのですが……。

「サイコ・ヒーラーと名乗ってる」 
あなたは何者?、というメグの問いかけに、運転のために、今日はサングラスをかけたちょっとコワモテのシーラは、なめらかに答えました。
「ヒーラー?」
「ヒーリングって、よく聞くでしょう。精神を癒す、魂を癒すオシゴト」
占い師、霊媒師、シャーマン、エスパー…そのどれも気に入らない、とシーラは言い、
「気に入らないというより、あてはまらない。
エクソシストなんてどぎつい言い方もあるけれど、おおげさ過ぎる」
「なぜ女装するの?」
「このほうが目立たないから。似合うしね。男の格好をしてると、必ず野郎がついてくる。これはこどもには禁句かしら」
「わかるよ」
 メグはあっさり答えました。
「いつかほんとうに女になるの?」
「あたしは今だって女性」
 シーラははぐらかすように答えました。
「運転、上手ね、あなた」
 と安美さんは、メグの無遠慮な質問を遮って、言いました。
「銀座に来るのは、ひさしぶりだわ」
「ママの姿は、みんなにも見えるの?」
「見えるひとには見えるよ」
「普通はわからないってこと?」
「そう」
「気配を感じるひとはけっこういる。でも、白昼こんなにざわついていて、現実感に隙間がないときは、まず感じ取れない」
 メグの住む町から高速道路を通って、車で二時間くらい。たどりついた銀座のアンティーク建築は、なるほど十九世紀のロンドンか、パリの街角を一部分、そのまま切り取って銀座に移したように、灰色のレンガを素朴にきちっと積み上げた古めかしい外観を保ち、それは周囲の機能的な現代建築の並ぶ光景から、こどもの眼にも浮きあがっていました。
老舗デパートや、国内外の高級ブランドビルが華やかに並んだ目抜きの大通りからすこし奥まって、このビルに面して入り組んだ道幅は、車両の通行には不便な狭さなのに、その道なりには、ずらっと有料駐車場がひしめき、繁華ではないにせよ、銀座のどまんなかでは、人の往来は終日絶えず、有料駐車場の利用者は、ほとんど、そのビルで営業しているギャラリーや、ショップの経営者か、訪問客のものでした。
「久我ビルと言うの」
 車から降り立ち、ビルの外壁をながめると、
表道路に面した各室の窓は、近代建築のビルとはあからさまに異なる素朴なつくりで、それぞれが、たぶん住人の好みで、いろいろな形にリフォームされ、ちいさなベランダのついている窓には、とりどりの草花が、古めかしい外観を親しみやすく飾っているのでした。
「ここには、戦前から戦後、新橋の芸者さんたちが住んでいたのよ。戦後は、若い銀座の蝶々さんなんかも」
 シーラは、サングラスをはずし、三つ折にちいさくたたむと、麻のジャケットの襟にかるくかけました。襟のとがったジャケットに、彼女の細身のサングラスは、小型のナイフを斜めに飾りかけたように見えます。黒いスパッツに、オリエンタルな浮き織り模様のレースキャミソール、その下の皮膚はレースを透して見えそうで見えません。リネンのジャケットはどこのブランドなのか、彼女の細身には、かなり大きめの生成りを、両肩幅にあまらせるように、がさっと着ているのですが、腰のところで、わざと着丈を切り詰めて、たぶん、もともとはストレートなものを、短衣のように仕立てなおしてあるのはおもしろいアイデアでした。
行き交うひとは、例外なくシーラを振り返ってゆくのでした。なかには、わざわざ近寄ってきて、それこそ頭のてっぺんからつまさきまで、無遠慮にじろじろ見つめてゆくおじさんやおばさんもいます。中には親しげに挨拶するひともいました。
「見られることになれているのね」
 と安美さんが言うと。
「気にならない程度に」
「それってすごい感受性、というか自信ね」
 安美さんは、感心しました。
「そぉ? 誰でも、自分をもっと美しく見せたいからおしゃれやお化粧するでしょ? たくさんのひとに見てほしいから」
「シーラさんて、クール。そう思っていても、そんなにさらっと言えないよ、たぶん」
 と、メグが小生意気に口をはさんだので、安美さんもシーラも吹き出しました。
「メグちゃん、わかっているだろうけれど、これからさきは、ママにあんまり話しかけないでね。ママの姿はみんなには見えない。見えたとしても、ぼんやりした陽炎みたいな錯覚程度のはず。安美さんを見ることができるひとに出会ったら、あたしちゃんと紹介するし、そういうひとはメグちゃんにもすぐにわかると思う」
 シーラは念を押してから、久我ビルのガラス扉を押し開けて、中に入ってゆきました。入ってすぐ左に、アクセサリーや女物の小物を商うアンティークショップ。通路を挟んで向かい側には、オリジナルデザインのジュエリーショップ。
「ここの商品はぜんぶ作家の手づくり一品ものなのよ」
 と、シーラは通りすがりに、店のなかをのぞいて、会釈をしてゆきました。
 東京大空襲から免れて、奇跡のように焼け残り、戦後も銀座界隈の水商売のおねえさんたちが間借り住む、お風呂共同の集合住宅だった久我ビルは、今では珍しい当時そのままの設計を残していました。
各階の廊下は、現代のビルの標準と比べてだいぶ狭く、階段は太くて頑丈な木の手摺つきで、八十余年の手垢のために、最初の飾り模様はだいぶ磨り減ってはいましたが、アールヌーヴォーふうの曲線をどことなく残しています。あまり広くない階段は、半ばでくの字に折れ、その踊り場からまた中二階のように、別なフロアが左右に分かれてごちゃごちゃと続いていました。エレベーターも昔のフランス映画に出てきそうな重い鉄扉の手動びらきで、二重ドアはうっかりすると入りかけた途中で閉まり、背中やお腹をはさまれてしまいそうになるくらい、鈍い曖昧な開き方しかしないのでした。
「迷宮みたい」
 メグはおもしろくってたまりませんでした。遊園地やディズニーランドの幽霊屋敷は、どことなく、こども心にもツクリモノの感じがするのですが、ここの五十室ほどのそれぞれの個室は、今の尺度で言うなら六畳間から十畳間、広くても十二畳ほどのワンルームなのに、今でもそこはかとなく、長い歳月、入れ替わり立ち代り住んでいた女性たちの息づかいが漂い、その上に、さまざまなギャラリーが、絵画や彫刻といった、それ自体別な空間を内包するオブジェを運び込み、きらきらと飾りつけ、個室の中に、また別な部屋が作品ごとにいくつもいくつも潜む、というアラビアンナイトの劇中劇さながらの不可思議な雰囲気がたちこめているのでした。
 シーラは、エレベーターを使わずに階段を上ってゆきます。メグはうしろにぴったりくっついて歩きながら、ビルの内部に籠もる異様な気配を敏感に感じ取っていました。
「わかる?」
 そわそわし始めたメグを見て、シーラは尋ねました。
「うん、……たぶん、わかる」
「このビルに、危ないモノは残っていないけれど、万が一何かが近寄ってきても、答えてはだめよ。それらの多くは、燃えカスのようなモノだから」
「燃えカス?」
「激しい感情……たとえば、うらみや憎しみ……にとらわれると、そのひとからものすごいエネルギーが時空に放出されることがある。それは〈時の記憶〉に穴をあけたり、でこぼこぼこを残したりするの。でも、主体性を持って、現世に漂う暗い霊魂ほど執念深くまとまった情念ではないから、目の端にちらついて、驚かせたり、瞬間的に、そのネガティブな情景を幻視させたりするだけ。張子の幽霊みたいなもの」
「ここにはそういうものが、けっこうありそう」
「感じるのね」
「シーラさん、メグに危ないことを教えないで」
 と安美さん。やっぱり来ない方がよかったかも、と不安げです。
「心配ですか?」
 カツ、カツ、と天井にピンヒールの靴音を軽く響かせるのはシーラだけ。メグはネックベルトにピンクリボンのついたフラットなサンダルで、ふわふわとふたりに寄り添う精霊の安美さんに足音はなし。週末はことに、銀座の名物ビルのユニークなギャラリー長屋を覗く観光客のたてる雑音がフロアごとに絶え間なく。
「当然よ」
「危険なめにはあわせないから」
「ホントに?」
「何度も約束したとおり……この部屋です。ひとが次々と消えてしまう、のは」
 シーラはくすんだ緑色の扉の前で、ちょっと緊張したように片方の髪をかきあげ、耳にはさみました。露わになった彼女の白い耳たぶには、ティア・ドロップ型の中国風の翡翠ピアスが震えていました。
 306号室、花絵、とだけ横書きに無造作に彫り込まれた鋳金のちいさい楕円形プレートが、ふるぼけた扉の四角い覗き窓の上に貼り付いています。何度となく塗りなおされたらしいドアの塗料は、あちこちずいぶん剥げている上に、覗き窓のガラスは歪み、拭いても落ちない年代ものの曇りがかっています。メグはいびつなそのガラスを見上げて、
「何十年も前のものなの?」
「そう。いえ、そうでもない。十年くらい前まで、この部屋には、ちゃんとひとが住んでいたの。久我ビルの最後の住人」
「最後?」
「じっさいに、この部屋で暮らしていたひとっていう意味よ」
 シーラは鉄錆の浮いた蝶番をきしませて、古いドアノブを回し、メグをうながして室内に入りました。
「いらっしゃいま……」
 あ、シーラさん、とありきたりのあいさつの途中から、声の調子をがらりと親しげに変えて、部屋の隅の腰掛からたちあがった青年に、シーラはメグを紹介しました。
「峰元くん、この子が風間メグさん」
「はじめまして、風間さん。ぼく峰元太地と言います。タイジは太い、地面という字」
 こんにちは、とメグはあいさつを返し、自分を名前ではなく苗字にさん付けで呼んだ、素朴そうなこの青年に、好感を持ちました。
年のころは、二十三、四でしょうか。頭蓋骨のかたちがはっきりわかるくらい短く刈上げた髪を茶髪に染め、カーキ色のTシャツ、膝の抜けたジーンズ、底の磨り減ったスポーツシューズは、汚れてはいないものの、ずいぶん履きこんでいます。どんな仕事をしているのか、それともスポーツで鍛えたのか、両肩にがっちりとみごとに筋肉がつき、向かい合ったシーラより頭ひとつぶん背が低く、手足の短い中肉中背の固太りで、太筆書きのようにはっきりしたおおぶりの目鼻だち、四角い顎と血色のよい頬の肉付きが健康的でした。彼ははきはきと、
「ぼくはシーラさんの子分か、まあ使いッ走りの小僧ッすから。とりあえずよろしく」
「あたし、あなたを子分に格上げした覚えなんかないわ」
 シーラはすげなく言いましたが、タイジはシーラにあしらわれて、かえって嬉しそうに、にやっとメグに向かって笑いました。メグもつられて笑顔になるくらい、タイジの笑顔は無邪気でした。このひとにも、メグの横に漂っている安美さんの姿は全然見えていないのでした。
「彼は、この部屋の番犬なのよ」
「番人と言ってください。ま、似たようなもんだけど」
「この部屋って……空き部屋?」
 メグは壁紙のぼろぼろに剥げ落ちかけた室内を見回してふしぎそうに尋ねました。
 306号室は、間取りだけは、久我ビルのなかでも広い方で、部屋の中ほどに間仕切りの名残が残っているから、たぶん二つの部屋の壁をぬいて、大きくひと部屋にしたのでしょう。床は打ちっぱなしのコンクリート。家具らしいものはなく、ただひとつ、入り口近くに、昔の小学校で使っていた学習机のような木の机があり、古ぼけた電気スタンドが乗っています。  
電気スタンドはアール・デコふうな曲線の首をした真鍮製で、もしかしたらアンティークとして値打ちものかもしれませんが、もとは鮮やかな紅色だったらしいランプシェードは、長年の埃をかぶってすっかり黒ずみ、台座のまんなかのつまみスイッチの部分だけが、赤錆いろをまぬがれて、金褐色にぴかぴかしていました。これ以外、天井にもどこにも照明器具がないということは、このがらくた電灯だけが、この部屋の明かりなのでした。
 空き部屋にしても殺風景すぎて、唖然としながらも、そこかしこをよく見ると、あらかた剥げ落ちかけた壁紙には、うっすらと一面になにかの花柄めいた模様がこびりついているのでした。
「この部屋に、峰元くんのひいおばあさんが住んでいたの。そのおばあさん、という方は、元新橋の芸者さんで、結婚して引退してからもここを離れず、髪結さんをしていたのよ」
「かみゆい?」
「日本髪を結うひと」
「ふうん」
 メグは、もういっぺん、室内をぐるりと見回しました。お風呂も、お手洗いもありません。かなり広い部屋で、窓も大きく採光もたっぷりしていますが、ビルのすぐ外は今も昔も都会の雑踏のただなかで、こども心にも、一般の人が居心地よく住み続けられる〈家〉とは違っているように感じられるのでした。
「ぼくのひいばあさん……花緒さんってすてきな名前のひとだった。ここで髪結しながら、絵を描いていたんだ」
「絵描きさん?」
「そう。女流画家。ただし、絵はほとんど残っていない。おばあさんは、自分が亡くなる前に、作品のほとんどを、自分で処分してしまったから」
「処分?」
「燃やしてしまったそうだよ。もったいない話」
 と口では言いつつ、タイジはちっとも残念そうではなく、笑っているのでした。
「だけどね、彼女の絵画の映像は、残っているんだ、ほら」
 とタイジは、黒ずんだシェードをかぶった電灯のつまみスイッチをひねると、がさがさに壁紙の剥げ落ちた周囲の壁面に、大小さまざまの色鮮やかな花畑が、いっきに浮かび上がりました。
 わぁ、とメグも安美さんも歓声まじりの息を吐きました。ぼろぼろに見えた上下四方の古壁と床までいちめんに、隙間なく、色とりどりの花模様、はなびら、果物籠、小鳥たちが、半ば透きとおりながら浮かび上がり、画像の上に、別な画像が重なり、ある部分では虹のようにさまざまな色彩が共鳴し、べつなところでは暗色に濁り、また色味と輪郭を変えて明るみ……一枚の絵の奥にまた別な花野が何の脈絡もなく用意されている、目もあやなコラボレーションが投影されたのでした。
「遮光シートをおろします」
 タイジはメグ(と安美さん)のおどろきを嬉しそうに見計らって、道路側の窓の覆いを引き下げました。室内の明度が低くなると、それぞれの画面の解像度が増し、よりクリアで濃い色味が強調され、あわあわとした白昼夢の世界は、夕闇か夜明け、目覚めの境に垣間見て、曖昧なのに、なぜか記憶の底にこびりつくグロテスクな残像のような、深みを帯びました。
「アラビアンナイトだ!」
 とメグはつぶやきました。重なったいろんな作品たちは、清涼な野原から、徐々にオリエンタルな金銀のタマネギ屋根の宮殿や、作者が空想で描いたのかもしれない風変わりな建築や庭園、黄色い砂漠に真っ青な皮膚のスフィンクス、白いたてがみの一角獣の休息する噴水、黒々と天空に突き刺さるゴシックの尖塔、血のような夕陽、緑色のうすものを頭からかぶり、緋色に透けるサリーをまとうたインドの女性たちが川面に佇み、また瞑想する情景から、手足のほそながい娘たちが、思い思いの格好で横たわり、舞い踊り、寄り添い、また流し目をくれたり、月明かりの薔薇の群れのなかにもつれあいながら埋もれてゆく画面と画面とのコラージュは、残像を曳きながら、次の画像へと変わってゆきました。
 最後の投影は、作者本人の写真と自画像が、彼女の住んでいた当時のこの部屋の風景のなかに幾重にも映し出されておしまいになりました。簡素なアトリエふうの空間半分は西洋そのもので、もう片側は古風でこづくりな鏡台と髪結いの道具が調えられた和室でした。
 そのさかいめに、自分の顔を描いている姿で、タイジのひいおばあさんの花緒さんが画布の前に座っていて、絵の具を盛り上げたパレットに絵筆をとり、こちらに向いて微笑んでいるのでした。前髪にふくらみをつけて後ろ髪を結い上げ、ながい襟足を強調した夜会巻きのような髪型に、開襟の白いブラウス、シンプルなフレアーのロングスカート。
「美人」
 メグは感心しました。
「そりゃまあ」
 タイジはあいまいにうなずきました。
「似ていないでしょ」
 とシーラがタイジを尻目にずけずけと言うので、メグは吹き出しました。
「うん、ぜんぜん」
「そりゃそうだ」
 タイジの口調は、なんだか訳知りのオジサンぽくなりました。で、さばさばと、
「ぼくがひいばあちゃんに似ていたら、芸能人になってます。ジャニ系でもなんでもイケるでしょ。まあそんなことはいいや。この部屋ぜんたいが、彼女の作品なんですよ。遺言でね。すごい個性の強烈なばあちゃんで、あたしの人生は花そのものだったから、それをマンマ遺したいって言って、オヤジに画像記録を撮らせて、作品じたいは全部燃やしちゃった。壁よく見てよ、ぼろぼろに見えるけど、じつは違うんだ」
 メグは花緒さんの画像が映し出されている壁とは逆の面に近寄り、そっと触ってみました。ちょっと見には剥げ落ちかけた古い壁紙、ささくれた打ちっぱなしのコンクリートに見えたのですが、よくよく顔を近づけると、壁のささくれの一枚一枚は、なめらかな感触の、一定の起伏が波模様に織り込まれた薄い繊維で、それらは無造作に貼り付けられているのではなく、おおきな螺旋めいた渦巻きをなし、それはゆっくりとこの部屋を囲むように、緻密にめぐらされているのでした。
「特殊加工のシルクの一種なんですよね。発光塗料をアクリルガラスに薄く重ね塗りした。パソコンデータをこの壁にただ映しても、あんまり奥行き出ないんですけど、そうやって光線を乱反射させると、色彩が木漏れ日みたいに壁に散らばって、ものすごく立体感が出る。立体感、というかあやふやな実在感ていうか。画像を重ねていくとき、静止しているはずの色や線がムズムズと動いてゆく錯覚が起きるでしょ。それは、この塗料チップの反射のおかげなんだ」
「タイジくんがやったの?」
「違いますよ。オヤジの友達。イタリア在住のアクリルガラス作家で」
「すごいね」
「タイジのお父さんは、工業デザイナーなんだ」
 とシーラが付け加えました。
「オヤジがこの部屋の空間をデザインして、デジタル化した何百枚もの花緒さんの作品を、こんなふうにいっぺんに見れるようにしたんだ。ひいばあちゃん、すごい頭のいいひとで、人間は展覧会で絵をみたあとも、その展示の順序どおりに覚えていたり思い出すわけじゃないでしょって。印象に残るものから、ランダムに、ごちゃまぜに、アナーキーに部分や拡大や、歪曲させながら連想してゆくんだって言って。だからあたしは、ひとりの画家の絵や人生や妄想を、その頭の中をかいまみるように、この部屋まるごと使って見てもらいたいって」
「記憶なのよ、この部屋そのものが」
 とうなずくシーラ。
「絵のウマヘタなんて、こうするとモンダイじゃないっしょ?」
 とタイジ。
「うん」
 メグは感心してうなずきました。たぶん、ひとつずつの花緒さんの絵は稚拙で、あんまり上手ではないのかもしれないのですが、重なっては不意にずれ、また気持ちよく歌いだす色彩音符の調和や不調和が、あまりに絢爛としているので、ここを覗いたひとは、なんとも形容しがたい幻想の量感にぼうっと酔ってしまうのでした。
「この幻想空間で、人が消えちゃう。わりと連続して」
 タイジが、けっこう怖いことをごく普通に言ったのでメグは眼をむきました。
「わりと普通に…? 消えちゃうの?」
「そう、でもないか。ここ一年くらい。この〈花絵〉をひらいて、今年二年目だから」
「半年に五人と言っていたでしょ」
「それは推測。最初は、上の階のギャラリーのオーナーで、彼女はそれまでも国内外あっちこっち買い付けや下見に出かけて留守が多かったりしたから。はっきり彼女のギャラリーが無人でおかしいって気づいたのが、約半年前。だから、消えたのは、もうチョイ前かも」
「いいかげんなこと言って」
「僕のせいじゃありませんよ。だいいち、行方不明だっていう捜索願もまだ出てない。彼女独身でマンションに独りずまいだったし、家族は別れた旦那さんだけで、こどもはいない。実家は島根の山奥で、娘の音信不通アタリマエみたいという」
「なんでここで消えたってわかるの」
「彼女のポーチが、この部屋に残ってた」
 これ、とタイジは部屋の隅の作り付けロッカーから、コーチのちいさいバッグをとりだしました。花緒さんの映像を消して 窓の遮光シートを巻き上げ、急に味気なくなった昼の光りに、すこし使い込まれたこぶりの化粧ポーチは、高級ブランド品なのに、なんだかとてもつまらない物体に見えました。 
 ごくふつうの女性の化粧道具ひとそろい、それから内装生理用品がいくつか。
「これ見つけたの、去年の夏ですもん。俺、それまでにときどき彼女と飲みに行ってたりしたから、見覚えあるんだ」
「彼女って、タイジさん、なんていう名前のひと?」
「シツレイ、かんじんなこといい忘れてた。ギャラリー深月。シンゲツ、深い月って書くんだ。そこのオーナーで、葉山朱鳥さん。本名かどうかわかんないけど、アスカさんは自称詩人で、同人誌とかネットに、その名前で作品出してる。ブログもあるけど、更新されてない。ちょうど一年前くらいから」
「何歳?」
「ウーン。微妙。見た目年齢は三十代かな。顔は美人てわけでもないけど、やっぱ、パワフルな女性で、男友達はいっぱいいたみたい。適当に遊んでた。いやな意味じゃなく。最後にブログ更新されたのが、この部屋で僕が彼女のポーチを見つけた日の前々日なんだ。だから、もしかしてって。でも、それだけならこの部屋がミステリーだなんて思わない。そのあと四人いなくなったから」
「どんなひと?」
「今年の一月終わり。カップル。ここのギャラリービルには、美大生とか、野心のある地方の若手アーティストが覗きに来るんだ。まだ学生なんだけど、卒業前に、恋人どうしで二人展やりたいから、場所探しに来たって言ってた」
「東京の」
「そう。ぼくの後輩ってことかな」
「タイジさん、美大なんだ」
「うん」
「画家なの?」
「違うよ。油彩専攻したけど、今は造形全般」
 フーン、とメグは肯きました。画家には見えないなあ。
「えっと、ハナシがまとまらない。そのカップル、ここがすごく気に入って……ホント、自慢じゃないけど、この〈花絵〉覗いたひと、かなりハマるんだ。ほぼ全員。で、そのまたほぼ全員が、時間があれば、もういっぺん見たいって言う。二度めまではぼくもつきあうんだけど、三回目になると、さすがにちょっと疲れるんだ、初見の人といっしょになって、ばあちゃんの〈記憶〉に溺れるの。その日は週末で、たしかリピーターが何人もいて、僕もいいかげん花緒さんの毒に酔いすぎって感じだったから、この二人のリピートのときには、席をはずして、下で一服させてもらってた。ここは、べつに盗まれるようなもの置いていないしね。で、タバコ一本吸い終わって、昇ってきたら、幻燈ついてて、部屋には誰もいない。あいさつなしで帰ったのかと思っていたら、数日後に警察が来た」
 立ちっぱなしで疲れるでしょ。座ってください、とタイジは入り口近くの壁にはめ込まれた納戸から折りたたみのスチール椅子を出して、シーラとメグにすすめました。その納戸は、その昔は作りつけの靴箱だったもののようでした。
「風間さん、ゴメンね。ここではお客様に、お茶は出さないことにしているんだ」
「ぜんぜん平気。それでそれからどうなったの?」
 メグは眼をまるくして先をうながしました。
「たいしたことは訊かれなかった。七日前からそのカップルが消息不明。ふたりとも自宅通学生だから、家族はすぐに異変に気づいた。
連絡ナシ、メールもナシ。捜索したら、銀座まわりのその日が、目撃最後。久我ビルから先の足跡が見えない」
「何て答えたの」
「知らないものは知らない。そう言うしかないッしょ。僕は彼らのアナログ住所も聴いていない。メアドとアートネームだけの名刺だけはもらったけれど、それだけだ。警察が帰ったあと、さすがに僕もひっかかった。アスカさんのことがあるから。警察にはアスカさんのことは黙っていたけれど、ギャラリー深月は家賃未納で宙に浮いてる。ギャラリーだけじゃないだろう。これ、ちょっとヤバくない?って」
 椅子に腰を下ろしたタイジは両腕と両膝を組み合わせ、一直線の濃い眉をひそめて、深刻な顔つきになりました。
「さらにヤバイと思ったのは、四月と五月。先々月と先月。ここでこどもがいなくなった、らしいこと」
「らしい?」
「消えたってことは、確証を何も現に残さない、普通ありえないことだから、ぼく個人の憶測にすぎない。でも、たぶんそうなんだ。ありえないことって、じつはけっこうありうるし、おこるものなんだよな、でしょ? シーラさん」
「そうよ」
 シーラは澄ましてうなずきました。同じスチール椅子に三人がそれぞれ座っているのですが、ミニスカートから伸びたシーラの両膝は、メグはもとよりタイジくんと比べても、とびぬけて細長いのでした。シーラは長い両足をすこしもてあますように座っていましたが、足を組んだりせず、膝頭をかるくあわせ、つまさきまできれいな斜めにそろえていました。バービーとか、リカちゃん人形みたいに長いなあ、とメグはシーラの足をながめて思いました。あたしもこんなに足が長くなるかな、とメグはメグのうしろに佇む安美さんをちょっとふりかえりました。安美さんは空気に溶け込むようにメグとシーラのちょうど真ん中にたたずんでいます。彼女の姿はタイジには全然見えません。タイジは続けました。
「四月に消えたのは十二歳の小学六年生。この子は、久我ビルのあるギャラリーにときどき展示していた常連作家のこどもで、不登校児童だった。詳しいことはわからないけれど、発達障害か何かで。いまどきめずらしくない理由。僕が知るかぎりでは、おとなしくて、素直な感じのいい男の子だった。お母さんはそこそこ有名な染色作家で、父親は陶芸。夫婦仲は悪くなかったと思う。経済的に言うなら、まあ普通にお金持ち。だもんで、お母さんもわりとおっとりっていうか、現実離れしたところがあるから、困ってはいても、不登校ってことをそんなに深刻になっていない雰囲気で、展示中はよく銀座に連れてきていたよ。ここにもそんなときには遊びにきてくれて、ときどきギャラリー番なんかしてもらうこともあった。ここは常設展示のみが原則だから、平日の日中はそんなに客は来ない。よそのギャラリーを見に来るひとが、ついでに寄っていって、はまってくれるの。だから、ギャラリー番っていってもたいした仕事はないから、ぼくが休みたいときとか、急用のときとか、ちょっと座ってくれてればいいだけだ。仕事はこのスイッチをいれること。
 その日は、四月半ば。新学期が始まったばかりの彼は、母親の展示がこの近くの別な画廊であるって言って、昼すぎに不意にやってきた。今回の出展は、ここじゃなく、久我ビルのギャラリー群よりだいぶ上のランクで、母親の知人の染色作家どうしの共同のエキジビションだった。その子にはたぶん居心地のよくない雰囲気だったんだと思う。彼は帰りたがらなくて、ずっと僕としゃべっていた。ウィークデイだから、客足もまるでなくて、ヒマだった。僕はお腹がすいたから、彼のぶんもいっしょに、近所のスタバに買い物に行った。彼にギャラリー番を頼んで。このビルから、歩いて五分。午後のお茶の時間に店は混んでいてランチを買うのに約十五分かかった。帰りがけに、コンビニに立ち寄ったりしたから、だいたい三十分強だと思う。帰ってきたらその子はいない。幻燈だけがついていた」
 そこで沈黙が挟みこまれました。
「僕はしばらく彼を待って……長かった。その待ち時間は。アスカさん、美大のカップル、いったいどういうことだ? あの子が帰ってくれることを神様に祈った。母親のところに戻ったとしても、自分の分のランチもいっしょに買いにいくといって出て行った僕を無視してさよならする子じゃない。でもあの子は帰ってこなかった。一時間待って、それから
お母さんに電話した」
 沈黙はさらに深くなりました。
「母親には、ここに行くと言い残して行ったんだって。彼は手荷物も何もなしでここに来たから、彼がいなくなったのが、最後にここという確信もない。ここからどこかに出ていったのかもしれない、ほんのちょっとの間。でなければ、僕を追いかけてスタバに来ようとしたのかもしれない。そこで犯罪に巻き込まれた可能性もある。でも、ぼくは違うと思った」
 うなだれてしまったタイジから眼を離し、メグはシーラをみつめました。シーラはかるくウエーブをかけた前髪をほそい指先でかきあげ、メグの視線に応えて眼を見開きました。そりかえった長い睫毛に囲まれた彼女の瞳は日本人にしては明るすぎる茶色で、メグの注視をはぐらかさずに、ちゃんとうけとめていました。
(サイコヒーラーってなんだろう?)
 ここまできて、メグはようやく、シーラの不思議さに近づいてみたくなりました。それまではシーラがいると亡くなったはずのママに会えるから、という理由が主なもので、そのほかのことは、実はどっちでもよかったのでした。ところが、銀座に来て、タイジの話がどんどんリアルに深刻になってゆくにつれ、何か目に見えないもの、気づかずにいた世界が、シーラの向こう側から次第に手を伸ばしてきた、そんな感じがするのです。その見えない手が怖いものなのかどうなのか、メグにはまだわかりませんでした。
「怖い?」
 シーラは小首かしげてメグの心の先取りをしました。メグはちっとも驚かず、
「怖くない」
「信じられる?」
「うん。だってママと会えたもの。シーラさんのおかげで」
「何っすか?」
 タイジが割り込みました。自分の話の腰を折られて、彼はむしろほっとした感じです。
「メグちゃんのママ、ここに来ているの。峰元くんには見えないけれど」
「えー紹介してくださいよ、シーラさん」      
 ちょっと蒼ざめていたタイジは、急に生き生きとした顔つきになりました。
「フツウ人の僕には見えないからなあ。最初から引き合わせてくれればいいのに、シーラさん」
 シーラは眼をほそめました。
「ママを今紹介してもいい? それともタイジくんの話をすっかり聴いてしまったあとのほうがいいかしら」
「今でいいよ。だってシーラさん、そう言っちゃったじゃない。気になるよ、そんなこと聞いたら、峰元さん」
「そうそう」
 タイジはにこにこしてうなずき、肉付きのよい頬に血色が戻りました。
「安美さん、来て」
 とシーラは、ごく普通に、物陰にかくれて見えないひとを呼ぶように、自分たちの背後の空間に向かって声をかけました。シーラの声につられて、メグは安美さんの手をとり、自分のほうへ引き寄せました。安美さんはちょっと気恥ずかしげにためらい、椅子に座ったままのメグにひっぱられて前かがみになるような姿で、すうっと空間のはざまから滲み出るように現れました。
「透明人間の登場」
 と眼をまるくしたタイジですが、ぜんぜん驚かず、椅子から立ちあがって、安美さんに向かってぺこりと頭を下げました。
「峰元です。よろしく」
「風間安美です、こちらこそ、はじめまして」
「透明人間じゃなくて、ママは今、柳の木の精なんだよ」
 とメグは自慢げに言いました。安美さんはシーラに向かって、
「峰元くん、こういう出会いに慣れているの?」
「あたしの助っ人を頼むことがあるから。でも、今メグちゃんが、ごく自然に安美さんを引き寄せたようには、向こう側のモノとの交流は簡単じゃないの」
 あッ、と安美さんはシーラを睨みました。
「そういうことなのね」
「ええ。ごめんなさい安美さん。メグちゃんには、こんなに力がある。凄いことです」
「ママ、何のお話?」
「……」
 安美さんはどう答えたらいいかわからず、黙ってつやつやしたメグの髪の毛を撫でました。まだどことなく産毛の気配を残している栗色の髪は、まっすぐで、ふさふさして、撫でているてのひらに心地よいものでした。この子が七つのとき、あたしは死の間際にこの子の髪を撫でていたような記憶がある。シーラといっしょに来なければよかったのかしら。でも運命なのかしら。シーラが邪悪な存在ではないと、もう生きている人間ではない精霊の安美さんにはわかります。後悔しても何にもならない。今のあたしにできることは、この子のそばにいて、できるかぎり守ってやること。……。
「シーラさん、とにかくタイジさんの話をぜんぶ聞かせてください」
 覚悟した安美さんは、落ち着いてもう一度しっかりとシーラを見つめなおしました。すると、シーラのまなざしのなかに、ゆっくりとやわらかいものがよぎってゆくのが見えました。でも、それがいったい何の情感なのか、精霊になった安美さんにもはっきりとはわからないのでした。
「五人目の女の子の家族は、あたしのところへ駆け込んできたのよ」
 シーラは長い睫毛をゆっくりと瞬きさせて、タイジへ視線をめぐらしました。タイジはそれに応えてうなずき、
「僕がシーラさんにアポとるのとほとんど同時でした」
「どういう子?」
「ダンサーのお孫さん。この久我ビルの地下は、昔、住人のための大浴場があったんだけど、今は改造して小劇場になってます。座席数は二百人くらいかな。そこでときどき公演しているモダンダンサーで、宝石占い師のひとがいるんです」
「宝石占い?」
 安美さんとメグは、声をそろえて聴き返しました。
「詳しい話はまたあとで。いずれ会っていただくことになるでしょう、この五月連休中に、彼女…娥網さんの三日間連続ソロ公演があったんですが、最終日に息子さんと孫のお嬢さんが来ていたんです。ガーネットさんは、ぼくのばあちゃんのファンで、ここにもときどき覗きに来ていた。インスパイアされるからって。だから仲良しなんです。ぼくやオヤジと。踊りのひとって、けっこう霊感強いひと多いんですよね。ガーネットさんもそういう感じで、直感的にときどき予言とか透視とかできちゃう。ただ、芸術家肌だから、好き嫌いがはっきりしてるし、気分にムラがあるんで…」
 とタイジは口ごもり、ちらっとシーラを見ました。シーラはひややかに、
「人格円満な常識人のアーティスト、というのはなかなかいないものでしょ? みんなどこか風変わりだし、風変わりでいたがるし、他人と自分とはこんなに違っている、スタンダードから逸脱したところに自分の個性はある、と主張する。それ自体、別におかしなことじゃないわ。ことにモダンのひとは。峰元くん、話を先に進めようよ」
「ハイ。ガーネットさんの息子、ジャン・フランソワは、幼いころ両親が離婚したあと、フランス人の父親といっしょにフランスへ渡ったんですが、何年か前に帰国して、日本に住んでいます。奥さんは日本人のピアニスト。お子さんがひとりいて、ガーネットさんの公演最終日、娘のドミニクを連れて公演前に、ここに来てくれた。ジャンは日本文学の研究者ですから、日本語ものすごくうまいんです。ぼくなんかわからないような知識が豊富で、話好きで、ウマがあうっていうか、いろいろ面白い。ドミも僕になついてて、僕もその夜は、もう〈花絵〉をおしまいにして、いっしょにガーネットさんの舞台を見に行こうと思っていた。ギャラリーを閉め、僕たちは三人で階段を降り、地下劇場に入った。予約の最前列席についたとき、急にドミが〈花絵〉に忘れ物をしたって言い出した。もうじき舞台がはじまるし、あの子も、久我ビルの中はよく知っているからと、ぼくはドミに何気なく合鍵を渡し、ドミはひとりで上にあがっていった……」
「それっきり、帰って、こなかった」
 タイジの言いよどんだ先を、一語ずつ区切るように付け足して、安美さんは、ショックのためにちょっとグラグラしました。
(あーやっぱり後悔。メグをつれてこなければよかった。だんだん怖い展開じゃないこれって)
「〈花絵〉にドミが入ったっていう証拠はあるの?」
 と、メグが尋ねました。
「ドアの鍵が内側に落ちていたから」
「それだけ?」
「それだけ」
「じゃ、やっぱり確証はないんだね」
「うん」
 タイジは、ちいさいメグが自分にタメ口をきいても、ちっとも不愉快ではなさそうでした。
「ドミのパパやママはどうしたの?」
「警察、捜索願、ありきたりの手順を踏むしかないよ。もちろん僕のところにも来た。ここや僕が疑われているわけじゃない。だってはっきりしたアリバイがあるし、僕に知人の児童を誘拐する動機なんかからっきし見つからないから。でも、ここ一年半年のうちに、たて続けにこの近所で犯罪らしい事件が起こる、というのは事実だ。警察もひととおり聴きこみしたらしいけれど、連休から一ヶ月以上たって、ドミも、それからはっちゃんも帰ってこない」
「はっちゃん?」
 メグが聴き返すと、タイジはにこっと笑い、
「染色作家の息子。初生っていうんだ。最初に生まれた子だから」 
 笑顔は、またすぐムツカシイ顔つきに戻りました。喋りつかれて黙ってしまったタイジのあとをひきとって、シーラが低い声で続けました。
「ガーネットは気分屋なんだけど、すごく愛情深いひとなのよ。ドミを可愛がっていたし、自分の公演中にこんなことが起きたから、余計に責任感じて。ガーネットは、あたしがサイコヒーラーだと知っている。警察に頼んでもラチがあかないと直感して、あたしのところへ依頼が来たの。同じ日に峰元くんからも」
「僕はフツウ人なんだけど、シーラさんとか、ガーネットさんとか、それからいろんなアーティストと接していると、物質的なこの世の向こうに、たしかに何かあるんだろうという確信はあるんだ。だってメグさんや、安美さんとの出会いみたいなこと、眼の前で起きるからね。ひいばあちゃんも、迫力っていうか、いっしょにいると、すごく不思議な感じのする女性だった。超能力ってレベルじゃないにせよ、もう百歳近くて、ヘルパーさんの介護を受けながらここで一人暮らしをしていたんだけれど、白内障でほとんど視力ないはずなのに、ここに僕やオヤジが来ると、僕らが何をしているのか、部屋のどこにいるのか、気配でちゃんとわかってた」
「シーラさん。メグをどうしたいの?」
 安美さんはタイジの話を中途で遮り、少し強い声でシーラに問いただしました。
「大筋はわかりました。どれもこれも確証はないけれど、この部屋からつぎつぎと人間が消えてゆく、らしい。ガーネットさんの依頼は、消えたお孫さんの消息をつかむこと?」
「連れ戻してくれというのよ」
「え?」
 シーラのなめらかな頬には、何の動揺も浮かんでいませんでした。安美さんとメグの顔をかわるがわる見つめ、落ち着いた声音を少しも乱さずに、
「ただの幽体離脱や憑依なら、この世に肉体は残るし、ほんのちょっとあっちへ迷いだしたにせよ、やがて意識は戻ってくる。だけど今回は、まるごと消えてしまい、痕跡さえこの世に残していない。何か、ものすごく強烈な異界のパワーが、行方不明者を肉体ごとひきとどめているのよ」
「どこに」
 聴いているうちに、安美さんは頭に血が昇ってきました。こんなおどろおどろしい展開では、優しい柳の精霊であっても逆上するのが当然です。
「どこかに。それを知るため、それからそこへ一緒に飛んで、彼ら(たぶんみんな同じ力にとらわれている)をこっちへ連れて帰るために、メグの助けが必要だと思ったの」
「そんな危ないこと、メグにさせられません!」
 安美さんは思わず大声になり、メグを抱え込んでシーラから遠ざけようとしました。
「五人の人間の命がかかっているのよ、安美さん」
 シーラはゆっくりと瞬きし、声の調子をすこしも変えずに言いました。逆に安美さんはうわずった声のまま、
「あたしにとっては五人の人間より、メグひとりがだいじなのよ。危険なめにはあわせないとあなた最初に言ったわ。でも、今聴いたら、どう考えても、あぶなっかしい話じゃないの! シーラさん、この子はなにも知らないの。自分の隠れた力も、不思議な視力も。あなた、あたしが何のために」
 そこまでいっきに叫ぶように喋って、安美さんはぐっと口を噤みました。
「わたしが守ります。必ず。どこに飛ぶにしても、メグはまだひとりでは無理。いっしょにいて、必ずこの子を守るわ。だから協力してください。安美さん、あなたはメグといっしょに何度かジャンプしたことある。すごく疲れたはず。ふつうのひとが時空を超えて飛ぶのは、地球の裏側へ旅するよりエネルギーを消耗する。ごく短いジャンプでさえそうなのに、行方不明者たちは、かれこれ一ヶ月か、もしかしたら一年近くあちらへとどまっています。それがどれほど彼らの命を削っているか、想像できるでしょう?」
 シーラは椅子からたちあがり、両手をゆるく安美さんに差し出しました。安美さんはメグを抱えたまま、シーラからこどもを遠ざけるように後退りしました。
「あなたの言葉なんか信じられるもんですか」
 安美さんが語調険しく言い返し、タイジはおろおろと、
「ふたりとも、落ち着いてください。安美さん、シーラさんは信頼できるひとですよ。て言っても、いきなしは無理かもしんないけれど、彼女若いのに、これまで何人もの人間や、この世の迷い霊を鎮めて救ってます。今まで何人もの霊能者が、シーラさんをパートナーにしたいって打診してきたのに、彼女承知しなかった。話を聞いてて、ぼくがびっくりしたのは、メグさんにシーラさんがアプローチしたってことですよ。初めてじゃないスか」
「そんなこと、どうでもいいの」
 安美さんは泣き出したい気持ちでした。
「あたし、この子に何事もなく平和に暮らしてほしいだけよ」
 と安美さんが髪をふりみだしていやいやをしたとき、
 ママぁ。
 小さく叫ぶ声が聞こえました。え、と安美さんは腕のなかのわが子を見つめました。、メグは大人たちの騒ぎをよそに、安美さんの胸にもたれて眼を閉じて、すやすやと眠っているではありませんか。
「メグ? あなた、どうしたの?」
 一瞬あっけにとられた安美さんに、瞼をとじたまま、メグはうっすらと微笑み、もういちど
「ママぁ、ここどこ」
 とはっきりと言いました。寝言ではなく、ちゃんと発音されたメグの言葉は、メグのいつもの声とはちがうものでした。
「お母さぁん、ぼくどこにいるの?」
 またメグは、さっきと違った声で言いました。安美さんは顔色を変えて、
「メグ、どうしたの。眼をあけて、眼をさまして」
「憑依よ。安美さん」  
 シーラは人形のようにぐったりと眠り込んだメグの顔を覗き込みました。
「何かが来ている。始まった、始まるわ」
「そんな!」
 シーラは安美さんの動揺を静めようと、安美さんの腕をつかみ、もうかたほうの手でメグの手をとりました。
 その瞬間バチッと部屋じゅうに青白い稲妻が走り、タイジにさえそれが見え、絶句した彼はあたかも落雷に感電したようにスチール椅子ごと後ろ向きに倒れてしまいました。
「わっ」か「う」か形容しがたい声を残してタイジは床にひっくりかえり、部屋中をつきぬける真っ青な光線に数瞬痙攣したあと、気絶してしまいました。
 シーラの黒髪はざわっと逆立ち、足元から突風のような逆光が這い上がり、いきなり〈記憶〉の電源が入りました。

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