さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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サイコ・ヒーラー 10 ブリランテ

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10 ブリランテ

「や、目が開いた。あーよかった。メグ、メグ? パパがわかる」
 パラレルから戻り、瞼を開けてもまだぼんやりとした視覚より早く、耳元に口を寄せてメグを揺さぶるパパの声が聞こえました。
「風間さん、そっと。お気持ちは察しますが、せっかちに揺さぶらないで。脳震盪くらいで済んだと思いますが、まだ万が一ってこともあります」
 看護師らしい女性がやんわりと駿男さんを制しても、パパはメグのほっぺたを中指と薬指でぺたぺた叩くのをやめませんでした。
「メグ、気がついたんならお返事して。君は丸一日眠っていたんだよ」
 気絶していたとか、無意識だったとかいう、オソロシイ単語は駿男さんの口からは出ませんでした。
夜明けの光りが地平線に徐々にひろがるように、ゆっくりと周囲のものがかたちを取り戻してくるメグの眼の前に、ぬっと、ぼさぼさ頭でヒゲだらけの駿男さんの顔がありました。メグは夏掛けから両手をのばしてパパの無精ひげでいっぱいの頬に触り、それから発熱でもしたように真っ赤なふたつの耳たぶをつかみました。
「お顔、ジョリジョリだね、パパ」
 駿男さんはものも言えずに泣き出しました。
メグがまだ赤ん坊だったころ、こんなふうにパパやママの耳たぶをつかむ癖があったことを、ふいに思い出したのです。
ジンさんは彼のうしろにたって、上半身だけちょっとおりまげてメグを覗き、口をへの字に結んで、やっぱり何も言わずに目をしょぼしょぼさせました。
「あ、シーラも帰ってきた」
 とガーネットが言い、ジンさんは親子からくるっと背を向けて、メグのベッドからすこし間を置いて並べられたシーラのベッドにかがみました。
「ようシーラさん。お帰り」
「んー。ジンさん? 宿酔は」
「開口いちばんそれ? さすがねえ」
 とガーネットはほがらかに笑いましたが、このひともたぶんほとんど眠っていないということは、ふだん決して見えない蒼い翳が、下瞼にくっきりと映っているので明らかでした。
「とりあえず、ガーネットさん。牛乳いただける? 飲みそこなった」
「置いてきぼりにしたんでしょうが」
 ガーネットは、嬉しそうにいそいそと無開封のまま冷蔵庫にしまってった牛乳をガラスコップに注ぎ、シーラは彼女の手元からコップにこぼれてゆく白い液体を見つめ、それをつかもうとする自分の手の感覚をたしかめるように、ゆっくりと両手を握ったりひらいたりしました。
「ぼくにもちょうだい、ガーちゃん」
「あ、わたしも」
 と駿男さんは水ッ洟すすりながら言い、続いてタイジも
「ぼくにもください」
「メグもぉ!」
 最後にメグが大きな声で叫んだので、駿男さんは顔をまたくしゃくしゃにしました。
(世界中の神様ホトケさまに、感謝します。この子が死んだらぼく生き甲斐ないです)
 シーラは、そんな駿男さんをちらりと見てからふと視線を遠くして、二秒くらい天井を眺めましたが、三秒目にはもう、牛乳を飲むために、ベッドから上半身を起こしました。
「大丈夫?」
 ガーネットが気遣うのに、
「終わった、と思う。ところで、どのくらいたった?」
「三十時間くらい、かしら。あなたが」
とガーネットさんは駿男さんの様子をうかがい、少し声をひそめて
「眠った昨日の朝から。一昼夜とすこし。今は翌日の午後の三時すぎよ」
「それじゃ、ヒョウガの舞台に間に合う」
「え?」
「諏訪湖ロック・ミラージュ。二晩続きだけれど、やっぱり初日は新鮮でしょう。楽屋席くれるって言ってた。プラチナ・プレミアムシート」
「けどさ、それって要するに立ち見だぜ、たぶん。スタッフ扱いってことだろ」
 とジンさんは茶々を入れます。
「ま、ソーヤを間近で見られるかって」
 うっかり口をすべらせてから、ジンさんはほんの少しバツがわるそうな顔になりましたが、シーラは平気でした。いいえ、平気に見えました。こくんと牛乳を飲んでひとこと、
「邪魔しないわ」
 それからメグの方を向いて、
「メグも行く?」
「うん、もちろん。花火すごいし」
 メグもごそごそと起き上がって牛乳をパパからもらいます。
「あれ、メグさん知ってるの?」
 とタイジが不思議そうに尋ねるのに、
「うん、一晩に三万発でしょ? それに今年はスペシャルゲスト」
 メグは大人びた仕草で、またすこし伸びた前髪をかきあげ、合図のように、シーラに向かってにこっと笑いました。
 肯き返すシーラは、メグのそんな匂いやかな笑顔は、昨日までの彼女には見たことがなかった、と思うのでした。
(少女って生きものは……ある日とつぜん、目で喋れるくらいに、いっきに大人になる)
 そこが少年とは違う、とシーラは自分の頬を撫で、ジンさんや駿男さんのように、見苦しいヒゲづらになっていないことを無意識に確かめました。とはいえやはり、シーラのほそい指先は、自分の皮膚に、男のヒゲ特有のかたいかすかなざらつきをとらえ、リアルワールドの中で、留まることなく成熟してゆく自分の性を自覚するのでした。シーラはちょっと眉をあげ、ちょっとシニカルに心のつぶやきに♪マークをつけました。
(お出かけ前にはスキンケア、と)
ジンさんは余計な気を回してつまづいた分を、逆におおっぴらに流してしまいたいのか、わざと声を高くして、脇からいきなりシーラの返事を先取りし、
「まさにスペシャルだ。ソーヤ・クリスタルって大輪の名花。クラシックからロックまで幅ひろくこなす世界的歌姫。プラスお能の名門役者。しかしいったいどんなコラボになるんだい」
「すてきじゃない? 予想外の舞台幻想を堪能できるでしょう、きっと」
 ガーネットはたいてい、いつでも、そしてどこまでも人生の出来事を楽しむ姿勢を変えません。彼女の眼の周りの隈は消えませんが、シーラとメグが無事現実に戻った安堵で、彼女の小造りな顔は、また生気とハリをとりもどし、つやつやしてきました。孫のドミニクの安否も気にかかっているに違いないのですが、軽快に見えて、ガーネットはその場の空気をそこなう不適切なマイナス発言を口にしない、行き届いた女性のひとりなのでした。
「雷が聴こえる」
 シーラのつぶやきで、みんなはいっせいに窓に視線を向けましたが、夏の長い午後の陽射しは、いくぶん傾きかけているとはいえ、うすいレースのカーテンを金褐色に貫いてまばゆく、ひとりひとり耳を澄ませても、星隷ミカエル病院を包む高原の森の蝉たちの、短い命を尽くして鳴きあげる、すさまじいユニゾンが響くばかりでした。
「ほんとか? ヒグラシがそろそろ始まるみたいだけど、遠雷なんて」
 聴こえない、とジンさんが口をとがらせたとたん、窓が一瞬翳り、地鳴りのような遠い雷鳴がみんなの鼓膜に伝わりました。
「あ、ほんとうだ。もしかしてこれから雨かな。花火大会って雨天順延?」
 気遣うタイジにガーネットは、
「通り雨でしょ。諏訪のあたりじゃ、今驟雨かも。こっちに来るのかしら。それともこっちのほうが早いのかな? でもきっと、夜にはまた晴れるわ」
 彼女の言葉が終わらないうちに、ついさっきまでまぶしく輝いていた夏の陽射しはかき暗がり、皮膚のびりつく振動といっしょに、鋭い稲妻が暗転を走りました。
「おー近いな、じきにウマのケツが抜ける」
「いつもながらジンさんのギャグはわかりやすいです」
 とタイジ。シーラはまるでただの昼寝から醒めたように、かるがると宙に長い脚を放りあげて、床にひょいとたちあがり、
「あたし、ハーレーで行くわ。ヒョウガのプレミアムシートは遠慮しとく」
「え、どうして」
 とタイジは思わず声を高くしました。
「あたしは女王様には会わないほうがいい」
 言葉だけは思わせぶりで……思わせぶりすぎてかえって拍子抜けするくらい、あっさりとしたシーラの声でした。
 シーラの内面を量ってかどうか、ガーネットはいつものようにかるく受け流し、
「女王様って、そのとおりね。あなたが来ないほうが豹はきっと嬉しがるけれど、鳳凰さんのところに行くんでしょ」
「ご名答。顔出しくらいするわ。お父さん来てるから、さもないとあとがうるさい」
「千手宗雅さんかあ。扱いにくそうだよね」
 とジンさんはよく知りもしないくせに、腕組みしてうなずきます。じきにバケツをひっくりかえして、文字通りの豪雨が襲来しました。
 雨あがりを待たずに、みんなは星隷ミカエルをひきはらいました。駿男さんの車に全員乗り切れなかったので、ジンさんとタイジは(つまり野郎だけ)タクシーで戻りました。
 メグは病室から出るとき、もうすっかり元気でした。ただママのことが気がかりでした。メグがコテージの屋根から落ちるとき、柳の木にたのんで、自分の両腕とひきかえにメグを助けてもらった、という安美さんを、とり戻すことはできなかったからです。レノンに尋ねればママの行方もわかるのかもしれない。でも、レノンの魂はコムニタスの流れに還元されて、たぶん、もう二度とメグと交感することはできないのでした。
 メグは北ウィングを去り際、レノンの部屋を覗いてみました。
「気になる?」
 シーラはすぐに、メグの心の動きを察しました。
「うん」
 メグは素直にうなずき、シーラは黙ってメグのうしろから、レノンの部屋を覗きました。激しい雨音に混じって、生命維持装置のモーター音が低く単調に聴こえる薄暗い室内で、痩せた少年が眠っていました。
(もうレノンはいない)
「さよなら、レノン」
 メグはレノンには近寄らず、入り口でつぶやき、バイバイ、とベッドに向かって手を振りました。シーラは何も言わず、何もしませんでした。二人はふりかえらずに、病棟を出てゆきました。
「シーラさん、花火は何時からだっけ?」
「七時から。ヒョウガは花火のラスト三十分に歌姫と共演」
「すごいね」
「すごいわね」
 シーラは陶器のような無表情で応えました。メグはそんなシーラをまじまじと見つめ、
「心の声が聴こえるようになったら、耳の奥がものすごく静かになった感じ」
 シーラは眼だけで笑い、
「雑音と静寂のさかいめが、はっきりしてくる。自分でそれをコントロールする。聴くべき音や声は、静寂の中で響くから」
 早くぅ、と遅いふたりを待ちかねて、駿男さんがミカエルの玄関で叫ぶ声が聞こえました。
「あたしは今夜別行動するけど、いつでもあなたの声を聞ける」
「うん。パパやタイジさんはさみしがる」
 シーラは吹き出し、
「そう単純ではないわよ」
「なぜ?」
「男だから」
 ……。
 みんなが蓼科湖畔のコテージに戻るころには、雨はあがっていました。ほっと一息つく間もなく、またすぐにシーラ以外の全員が、ガーネットのシトロエンとパパのポルタに分乗して行ってしまうと、シーラは手早くもういっぺん着替えました。
「衣装変えればりっぱに男に戻るんだよな」
 とシーラは毛先だけ金髪に染めたセミロングの髪をひっつめに束ね、鏡を眺めてつぶやきました。
 上下シンプルな黒服でキメた182センチの〈彼〉が特設ステージ沿いの楽屋に現れると、そこらに出入りするのは、もう出演者かスタッフに限られているので、かえって誰もあやしみませんでした。湖の周辺は交通規制が敷かれていて一般車両通行止めだったのですが、シーラは要領よく通過し、鳳凰流関係者専用の駐車スペースにハーレーを入れました。諏訪湖畔にも驟雨は襲ったらしく、道は濡れ、雨水をたっぷり吸った樹木の匂いが夕闇に濃く漂っています。六時過ぎ、まもなく花火がはじまろうかという刻限でした。
 ロックステージは湖畔にいくつか分散して設けられ、花火の始まるだいぶ前から、もう他のステージの演奏は始まっています。湖面に電子音はこだまを呼んでがんがん響き、湿度と熱気がその音で増幅されて諏訪盆地いっぱいにふくれあがるようでした。
 鳳凰流の楽屋は、仮設とはいえ、ロックシンガーたちの雑駁なそれより特別扱いで、家紋を染め抜いた白い幕をきっちりと四方にめぐらして区画を隔て、その周囲に盛夏というのに紋付袴の正装姿の能楽師が集まっているだけで、その場に異色でした。
 幕屋の入り口からちょうど現れた五つ紋の何人かの中で、ことに若い、まだ線のほそい少年が、ともすればロックシンガーのひとりと見まがうシーラを目ざとく見つけて、
「兄さん!」
 とうれしそうに声をあげ、駆け寄ってきました。
「紫さんだって?」
 と少年の声を聴いて、周囲はいっせいにざわめきました。
「ユカリ兄さん、来てくれたんだ」
「うん。宗雪は地謡で?」
「そう。今夜は〈羽衣〉。地謡が支えるのは序の舞の出だしだけなんだけど」
 濃くまっすぐな侍眉と切れ長な目元の際立つ顔は、シーラとはまったく似ていないけれど、思わず視線がひきつけられる凛々しい少年です。
「お父さんは、もう鏡の間だろ?」
「そう。お祖父ちゃんは兄さんがたぶん来るだろうって予言していたんだ、当ったよ」
 宗雪は、屈託のない笑顔でシーラを見上げるのでした。
 
 真珠母とゴールドを練り合わせたシャドゥを濃く上瞼に塗り、付け睫毛の先端を燐の混じったブルーで光らせたソーヤは、ヒョウガに触れる前に、一瞬自分の手と指先に視線をはしらせたようでした。ほそく長い先細りの優雅な手は、琥珀いろの皮膚の隅々までしっとりと潤い、イミテーションではなく丹念に磨かれた長い爪は、アイシャドゥと同じく、虹を浮かべた黄金色に光っていました。
 自分の手の完璧な美しさをたしかめてからソーヤは、すいとヒョウガのレオパードヘアに指をからめ、余裕のある微笑で尋ねました。
「いい顔になりつつあるわ」
「もうなってるでしょう」
 ヒョウガは不敵にニヤリと笑ってみせましたが、すこし語尾が震えました。それでも勝気な語気を変えずに、
「ぼくはもうあなたより大きい、ソーヤ」
「体だけは」
 インドとイギリスの混血歌姫ソーヤは、濃い隈どりをした舞台化粧をもう済ませていて、控え室には、ごく短いそのいっとき、数年ぶりに再会した二人だけでした。ヒョウガは自分の髪をからめながら、いたずらっぽく頬に触れてくるソーヤの親指をぎゅっとつかみ、いきなり舌の先端で舐めました。長く光る爪ではなく、彼女の指の腹に、自分の舌をかるくとがらせて。
 ソーヤは表情を変えずにヒョウガを見つめ
「すてきなタンギング」
「独学で」
「ひとり?」
「いや……」
 ヒョウガは悪びれずにソーヤの眼をじっととらえて言いました。
「ひとりじゃない」
「ゴージャスね。美しいわ」
 ソーヤの褐色の瞳は、ヒョウガの直視に耐えられない、というようにふと脇へ揺れましたが、きらりと光ってまた少年に戻り、
「能のコーラスが終わってすぐ、シューベルトのアベ・マリアを歌うの。ア・カペラのつもりだったけれど、気が変わった。能の舞踊は天人の舞と聞いたわ。わたしの歌に、あなたの即興をつけてちょうだい」
「数列音楽でいい?」
「そう。わたしがあなたに贈った黄金のフルートで」
 ヒョウガはうなずきました。急遽変更、でも女王様には誰も逆らえない。
 ふっとヒョウガの気持ちがソーヤから逸れて、今夜の数字譜に泳ぎかけた刹那、やんわりとまろやかに彼はソーヤの胸に顔を埋めて…ひき寄せられていました。
「そのあとは〈涙の流れるままに〉〈なつかしい木蔭〉……最後はいつもおなじ」
 ゆったりとしたソーヤの含み声は、彼女のヴォリュームのある胸の奥から熱い温度といいしょに、じかにヒョウガの鼓膜に伝わってきました。ヒョウガは瞼を閉じ、彼女のゆたかな肌の感触をかつての記憶に重ね、応えました。
「さよならを告げる時」
 どおん、と地表と夜空が同時に轟いて最初の花火が天上高く昇りました。
「黄金のフルートはゴージャスに吹いて。あなたの恋人よりも、もっと華麗に」
 坊や、とつぶやくソーヤの追憶は、花火の爆音に消され(ということにしましょう)数秒よりもっと短い時間でソーヤとヒョウガはそのまま離れ、すぐにどこかのバンドの演奏が嵐のように始まりました。

「だめだこりゃ、渋滞でどうにもならない。プレミアムがプラチナだって、行き着けるかどうか。どうする?」
 ハンドルから手首の力をだらんと抜いて駿男さんは、半ば投げやりに尋ねました。
 ポルタのうしろ、シトロエンにはガーネットさんとジンさん。今夜タイジはポルタの後部座席に乗っています。
「花火始まりますね。あ、あれそうじゃない? たぶん一番最初のごあいさつスターマインだ」
 タイジはぎゅうづめの道なりのはるか向うの夜空に、勢いよくぽーんとあがった金銀の傘を見つけて言いました。
「歩いたらまだ遠いの?」
 メグはうしろを向いて、携帯で道路状況を調べているタイジに言いました。
「そうねえ。まあ、たぶん歩けない距離じゃないけれど、ガーネットさんやジンさんは嫌がるよ。なんとかたどり着いた頃にはラスト水中花火が見れるかどうかってとこ」
「男どもはともかく、マダムは無理でしょ。あの上品なおみ足じゃあ」
 と駿男さん。
「ここで打ち止め車中観覧ですかね。そこらのコンビニでドリンクでも買ってきた方がいいな」
 タイジはきょろきょろと渋滞の前後左右を見回しました。メグはふと、
(みんないっしょにパラレルに連れていっちゃえば?)
 と思いつきました。
(シーラさんが言ってたじゃない。あたしは自分の望むとおりにあちらとこちらを行き来できるって。自分ひとりじゃなく、他の、ふつうの人も、体ごといっしょに飛ばせるって。行く先を決めて飛んだことなかったけど……でもやってみようかな。どうしてもあの花火見たいし、みんなに見せてあげたい……)
「パパ、降りて歩こうよ」
 と言うと、メグはパパのOKを待たずにドアを開け、路面に出てしまいました。むっとする湿度と熱気がいきなり全身を覆いました。
「あっ、こらっ、危ないじゃないか!」
「大丈夫。道路全然動かないもん。タイジさん、降りて早く」
「待て待て、歩くにしても駐車するところを決めなくちゃ」
「あ、そっか」
 メグはぺろりと舌を出して肩をすくめ、もういちどポルタのドアに手を掛けたとき、うしろから軽く肩を叩かれ、ふりむくと
「レノン!」
(車ごと飛ばしちゃえよ)
 夕暮れはとうに過ぎ、あたりには濃い闇がわだかまっているはずが、ふりかえったメグの視界にはどこまでも明るい青い空間がひらけ、縦横無尽にはなびらのような白いこまかい雲が飛び交うなかに、燃え尽きたはずの少年が立って、朗らかに笑っていました。
(どうして?)
(ここは君の内部なのさ。君に食べられたレノンのハートが、君に話しかけている。ぼくは君のなかにいる。コムニタスはつまりメグだ。ぼくどこにも行かない)
(えーっ)
 メグは目をシロクロさせました。
(それ困るんだけど)
(なぜ? 邪念の燃え尽きたレノンは善玉だよ。君のなかに天使を一匹飼っていると…言葉が悪いな、住んでいると思えばいい)
(気味悪い)
(なんだよ。せっかく守護霊になってやるって言ってるんだぜ。だいたい君がぼくの心臓を食べちゃったからこうなったんだ。それじゃぼくの心臓返せ)
(そんなこと言われたって無理よ。あたしだってああしようと思ってやったわけじゃない。コム…ナントカがそうさせたんだもん)
(責任をまる投げするなよ。喜んでくれなくちゃ、やだ。だって君は、ぼくの力を同化させたから、前よりずっと強化されたはずだ)
(?)
(トロいね。つまり欲しい物体をひきよせるときの瞬間移動エネルギーとか、行きたいパラレルへ飛ぶ瞬発力とか)
(二台の自動車ごと飛ばせる?)
(楽勝)
(あたしのなかにいて悪いことしない?)
(君のなかにいるかぎり、ぼくの機能は天使。レノンを使いこなすのはメグの力量によるって、シーラなら言う)
 ほら急いで、とレノンはメグの背中を押しました。
突き出されたメグが前のめりにポルタに上半身倒れこんだ瞬きの間に、コバルトブルーの幻視はかき消え、ぽおん、ぽおん、と花火のあがる音が心を誘って気ぜわしい、もとの真夏の闇夜です。
「メグ、入りなさい」
 ハンドルから上半身よじってメグの手をつかんだパパの顔を、メグはじっと見つめ、
「パパ、この道路のすぐ隣に、抜け道があるの」
「なんだって?」
「そこから行こう。すぐに花火に近づける」
(あたしの言葉、どこから出てくるの?)
 メグは喋りながら、すらすらと口をついて出る自分の台詞に呆れていました。考えてもいない単語。思ってもいない言葉でした。まるで誰かがメグの口を借りて声を出しているみたいな感覚。
(レノンを食べちゃったときもそうだった)
「ほら、そこに」
 とメグが指さすと、渋滞のひしめきはそこからぽかっとふいに幅をひろげ、うすぼんやりとした発光の地面に滲む脇道が浮かび上がりました。それを確かめると、メグはうしろのシトロエンに向かって合図しました。
「ガーネットさん、ここから行く」
 シトロエンの車内にいて、窓も開けていないのに、ガーネットにはメグの声がはっきり聞こえました。さらに、こんなふうにも聞こえました。
(パラレルを通って、花火に行く)
「ジンさん、今メグの声、聞こえた?」
「うーん」
「あの子、あんな遠くにいるのよ。なのに」
「未知との遭遇じゃない? こぉこはどぉこの細道じゃーって。いやー、見たとこほんとに細い未知。周りはこれ見えてないんだろ? ま、いいじゃない、行こうよ。メグのオーラに乗っかってヒョッコリヒョウタン島へ」
「乗りかかった舟?」
「いンや」
 とジンさんはこめかみの汗を拭いて首を振り、唇の端だけで笑って見せました。
「もうちょいテンションあげて、ジョーダンからコマ」
 ……。
(こんな横道どうしてメグは知ってるんだ?)
というタイジの疑問は口には出ませんでした。駿男さんは、メグの誘導に逆らわず、ガクンとハンドルを切り、シトロエンも続きます。地面の中からゆらゆらとほの白い光がたち昇る曲がり道に入ったとたん、窓を開けてもいないのに、打ち上げ花火の響きだけが、いきなり鮮明に聞こえてきました。暑苦しい車のエンジン音、どこかでひっきりなしに鳴らされる渋滞のクラクション……いらついた人間のすし詰めに密集するときの漠然とした不愉快なざわつきなどはいっきに消えて、しいんとした耳の中に、ポン、ポーンと風船が無数に舞い上がるように、静かで軽妙な音がたくさん入りこんでくるのでした。
 車外を覗くと、言うまでもなくまっくらな闇。国道からひとつずれたにせよ、本筋からまだそんなに遠ざかっていないから、街明かりや渋滞の点滅などが、境を隔てる藪影のはざまにぽつぽつと見えて、赤や青、金色、銀色。延々とつながる渋滞車両のヘッドライトが、地上の天の川のように輝いています。
 夜景はまるで銀河、とタイジが思わずつぶやいたあたりで、はっと我に返り、右左を見渡すと、森と見えたのは、それぞれが靄か雲のような気体のひとかたまりで、ヘッドライトの行列は、いきなり背後に無限宇宙の奥行きを備えた星群に変わっていました。
「メグさん、ここは?」
「たぶん諏訪湖の上空」
「うそでしょ」
「下を見て。ほら花火が昇ってくる」
 非現実的に大人び、確信的なメグの声は、どこかシーラに似ていました。うそでしょ、と言いながらタイジは、もうそのメグを疑えませんでした。タイジが窓をあけて身を乗り出し、眼の下はるかを眺めれば、大小とりどりの濃い虹を撒き散らして輝きの輪がくるくると、暗い下界のどこかから、ひっきりなしに開いてくるのでした。
 タイジの嗅覚に触れるのは、諏訪湖を洗いきよめて行ってしまった雨の名残、水の気配、湿度を含んだ大気が動けば光も滲み、多次元の重なる星野は大きな湖の上に、あるいは底に深々とひろがっていました。鼓膜を揺さぶる打ち上げ花火は、夜空という水面に投げ込まれた小石が、そこになめらかな波紋を次々と呼ぶように、青い花、赤い花、黄菊白菊、また金銀しだれて散って、エメラルドグリーンの滝と流れる……目を楽しませ、心躍らせる幻の華たちは、普通なら瞬きを数瞬彩ってじきに消えてしまうはずなのに、どうしたわけか、その夜はいつまでも輝きとどまって消えることがありませんでした。
 それどころか、ポルタとシトロエンの真下にひろがった光の洪水、輝く傘は、幾重にも重なり、光の粒の一滴は、それ自体からさらに新しいきらめきを生んで、深海に揺れるくらげの群れの大発生みたいに、ゆらゆらと空間を覆い、埋め、中空に浮かんで、ひとつずつの華のかたちを崩すことなく、天上の高みへそのまま昇ってゆくのでした。
「きれいでしょ? あれがみんなじきにここまで昇ってくるから」
「うん」
 とタイジは、まじまじとメグを見つめました。下からの光線に映しあげられれば、誰でも少なからずおそろしげに見えるはずなのですが、今のメグは、さっき逸れた横道の地面が内側から発光していたように、体の中に独自の光源を持ち、おぼろに光り始めていました。すぐ傍にいるのに手を触れられない異質な存在の少女。それはタイジの携帯におさめたシーラの映像とおんなじでした。
 駿男さんはとタイジが気遣うと、パパはぼんやりと口をあけて、車窓に反映する無数の花火に目を奪われていました。
「なんてきれいなんだろうねえ、メグ」
「パパ、あれはね、もうじきここへ来て、それからもっと高いところへ昇ってゆくの。この世に生まれる前の、眼に見えない元素のひとつぶになって、誰にもわからないどこかへ還る」
「ひとつひとつが命なのかい? それとも魂ってヤツ? メグにはわかるの?」
「パパ、命があっても魂のないひともいるし、魂だけとどめて、命の尽きてしまったモノもいるの」
「魂ってなんだろう。この光り輝く渦や流れは、どっち? その両方?」
「魂って、たぶん……想いの強さ、かもしれない。レノンって男の子、パパ覚えてる?」
「ああ、眠りから醒めない脳死の美少年、いや青年だっけ」
「あのひとは命と魂両方持っていた。そしてとてもさびしがっていた。自分があんまり不幸だから、みんなも自分と同じように不幸せにしてやろうって、悪い魂に傾いて」
「そうか」
「レノンの夢、レノンの心はうつろで…大きな湖があって、彼はとりこにした命や魂たちをそこに集めた……湖のなかにはレノンが閉じ込めた悲しい苦しい想いがいっぱいだった。あたしね、パラレルでシーラさんといっしょに、その想いを全部天上にあげちゃった。死んでしまったひとは死の世界へ。まだ生き残るひとは、もといた世界へ送り出すために、悲しさや苦悩はいらないから……」
「メグがやった? このキラキラ」
 パパは夢見るような口調で尋ねました。
「そうよ」
「どうして花火の夜に?」
「花火は、たくさんの人の心を集めるでしょ。
感動や、あこがれ、ワクワクしたり、ハッピーになったり…。とてもたくさんのひとの、とてもたくさんのエネルギーがそこでいっしょに昇華され、心に溜まった暗いかたまりを浄化する。そのポジティブなプラスエネルギーを、ヒーリングにいただいたの。そうしないと、レノンが溜め込んだ怨念の浄めはむつかしかったでしょう」
「メグはすごいねえ」
「うん。メグってほんとはすごいのかも」
「でも算数の宿題やるの忘れないように」
 駿さんは眼鏡をはずして、ポロシャツの裾でレンズをごしごし拭きました。
「七十点くらいで妥協してよ」
「せめて八十点ほしいな」
「……」
「パパは、今夢を見てるんだろうな、メグ。夢の中で、これは夢だってわかっている夢を、何度か見たことがある。今メグが話していることは、とてもふだんの、パパの小さいメグのする話とは思えない……」
「……パパ」
「なに」
「これが夢であってほしい?」
「……メグ、うちに帰ったら、チョコパフェ食べに行こう」
「うん」
 あ、ここまで来た、とタイジはささやきました。ゆらゆらふわふわ……きらきらと散る花火の輪、虹彩の傘は、目に近くなると、どれも直視できないくらいまぶしい渦巻きでした。みんなはこらえきれずに目をつぶりました。メグひとり、しっかり瞼を開けていました。まばゆさに視界が眩むということは、もともと目の見えないメグにはなかったからです。シーラの声が心に響いてきました。
(メグ、どこにいる?)
(シーラさん。あたしみんなといっしょにパラレルに乗りこんだ。諏訪湖の上空から花火を見下ろしてる)
(そこでヒョウガのフルートが聴こえる?)
(たぶん……下から花火はどう見えてる?)
(花火が花火を生んで、夜空いっぱいに増殖している。いったんあがった花火がいつまでも消えないから騒ぎになって、消防が緊急出動してるけど、火災が起きているわけじゃないから遠くで静観。どっちみち寿司詰めの会場に入れやしないし、観客はみんな大喜びだ。主宰者側は、あわてふためいてる……直前の豪雨のために生じたミラージュ…ほんとの蜃気楼だろうとかなんとか、ロックのあいまにアナウンスがとりあえず言い訳した)
(喜んでる? みんなが喜べばよろこぶほど、浄化のエネルギーは強くなるね)
(そう。歓声があがるたびに、花火の輪が増えてゆく感じだ)
 メグは窓ガラスを開けました。耳に届くのはりょうりょうとすずしい風の音。下界の雑音は聞こえません。でもヒョウガの吹き鳴らすフルートの旋律と、彼の音いろにつかず離れず、優雅な軌跡を描くソーヤの歌声は、らくらくと聴きわけることができました。
(この数えきれない粒子のなかにドミニクがいて、はっちゃんがいて…ママ、どこにいる?)
 メグはドアを開け、車をとりまく靄のように緻密な輝きのなかにママを探しました。
 メグさあん、とタイジの声が聞こえた気がしましたが、メグはもう車の外でした。
(ママ、メグはここだよ、パパもいるよ。もういちど会いたい)
 下界のシーラに、メグのそのつぶやきは聞こえました。ごめん、と〈彼〉はつぶやきました。
(約束の半分はかなえられなかった。ドミニクもはっちゃんも、たぶん無事に戻る、あるいはもう戻っているかもしれない。美大のカップルも。だけどメグのいちばん恋しいあなたを取り戻すことは…)
 シーラは安美さんに向かって語りかけました。夜を埋める頭上の花火の極彩色は、なお輝き増して夢よりも妖しく。
(シーラさん、いいの)
(メグ? 聞こえたのか)
(そう。前よりずっとシーラさんの声がよく聞こえるようになった)
(……)
(ママはあたしが心配であたしの傍にいてくれた。レノンみたいに、誰かを憎んだり、さびしがったりしていたわけじゃない。そして今度は両手を失くしてまで庇ってくれた。いちど死んじゃったのに、妖精になってまで、痛い思いをさせちゃった。この花火といっしょにママが死の世界へ還るなら、それは幸せなことだと思う。死霊はながく現世にとどまってはいけないんでしょ?)
(そうだよ。彼女は生に執着していたんじゃない。ただ君だけを想っていた)
(だったら、あたしのほうこそ、いつまでもママを追いかけていたら、かえってママの重荷になる。会いたいけれど、会えたとしても。もうひきとめない)
(安美さんは、この昇っていく光りのどこかで君を見てるよ)
(うん。だから、メグはもう悲しまない。悲しみはママの羽を奪っちゃうから)

(了) 

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サイコ・ヒーラー 9 アメジスト

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9 アメジスト  

「腕を離して。さもないとちぎれるわよ」
 メグから現れたシーラは、レノンの顔から目を離さず、落ち着いた声で言いました。その間にも、シーラの肉体は親樹から枝分かれする新しい枝のように、どんどんメグから脱け出て来るので、たしかにメグひとりをギュッと巻いていたレノンの手首の長さでは、ふたりの少女の体を締めあげるのには足りず、ぴんと張りつめた挙句、どこかでぶつんと切れてしまいそうです。
 ですが、レノンはせせら笑いました。
「その逆もあるぞ。ぼくが君たちふたりを窒息させるって」
 そのとたん、メグの青い目がびかりと鋭く光りました。彼女の肩のいっぽうは、まだシーラと完全に分離してはいず、癒着したままでしたが、顔にふりかかる髪の一本ずつが、ふいにまっすぐ逆立つと、いきなり海老のようにメグは全身をのけぞらせました。
「わっ」
 レノンははっきり悲鳴をあげました。肉の焦げるいやな臭いがして、メグとシーラに触れているレノンの皮膚のうちがわに火花がはしり、それはレノンのてのひらの真ん中でぼっと燃えあがったメグの唾液と血液から発火し、伝播した灼熱でした。
「メグ、暴れないで」
 シーラは、分離したほうの片手で、メグのうなじを後ろから抑えました。そして、
「レノン、あたしたちを離して。さもないとこの子はあなたを殺してしまう。メグに敵意があるわけじゃない。あなたがメグに殺意を向けるので、この子は自分の〈生の意志〉に従って、あなたを排除しようとする。あなたにはわかるでしょう、こうなったメグに、メグの人格はないってことが」
「ぼくより強力だって? ぼくの中には」
「そう、何百人、何千人ぶんかの〈憎悪〉と〈恨み〉のエネルギーがある。長い歳月のあいだに、あなたに引き寄せられ、あなたという器が吸収してきたネガティブなマインド。それがレノンの力の源泉。でもレノン、そういうブラックボックスは、いつしかあなたをあなた自身ではなくしている」
「うるさい」
 レノンはひきつった顔で怒鳴りました。
「死んじゃえ!」
 その瞬間、三人の周囲で、ばきっと乾いた木の枝がいくつも砕けるような音がして、メグの全身が、また青白く発光しました。シーラは歯を食いしばって、空間の裂ける衝撃をこらえ、ずたずたにちぎれ飛んだレノンの腕から開放されて海に落下しましたが、まだメグと腰から下は癒着したまま、メグの放つ放電はシーラもいっしょに包みこみ、水に沈みもせず、波の面を毬のように何度も弾んで、そのままくるりと草地に降り立ちました。
 レノンは燃え残った自分の肘を抑え、うめき声をあげるのも忘れて、呆然と空中に浮いていました。
「どうしてそんなに急激に進化できる?」
「あたしがコントロールしているから。いいえ、メグは、自分と合体したシーラの機能を使って、あなたを攻撃したのよ。レノン、今あたしとメグは見てのとおり、シャム双生児のように体がくっついている。あたしたちの力は、ごく自然にひとつになって、メグは自分だけではまだコントロールできなかった未分化で未知の力を、あたしの経験識を通じて自在に使っている」
 シーラの横に、メグは青い瞳のまま、冷ややかな無表情で立っていました。レノンの束縛から離れたというのに、安堵も喜びも彼女の顔には浮かんでいず、かるくシーラによりかかるように上半身をひねり、片腕をシーラの腰にまわして、黙りこくってレノンを眺めていましたが、光りの強い青い瞳の焦点は、ほんとうのところ、眼の前のレノンにあるのか、それとも彼の向こうがわの銀盤かがやく水平線にあるのか定かではありません。
「君を見くびっていたようだ、シーラ」
 レノンは口惜しそうに言いました。
「君はメグの正体を知っている。メグは何者なんだ」
「メグはメグ。すくすく育った素直で陽気な十一歳と数ヶ月の…ごくふつうの女の子。だけどこの子自身自覚していなかった裏側に、この子だけが自由に開閉できるコムニタスの扉があって、時としてメグを通じてそのコムニタス〈混沌・カオス〉のエネルギーがこの世に、出現してくる」
「いなかった、ということは、もうわかっている、わかりかけているってことだね」
「……」
「君もそうなんだろ? 扉のひとつ?」
 レノンはしらじらとした顔でシーラに問いました。いつのまにか彼の眼からは、もう赤い光は消えています。
「レノン。あなたがメグを自分だけのパラレルに押さえつけておこうとするのは無理。コムニタスは、理非善悪とは無関係に、ただひたすら生きようとする、宇宙普遍の前進エネルギーなのだから、妨げるすべてをなぎたおして、暴走する。……あたしは扉ではない。そうね、未知の領域、あちらがわから流れ込んでくるカオスの力の使い手というところ」
「千手…千の手か」
「姓名は偶然よ」
「偶然はすべて必然だ」
「レノン、そこまで認識していながら、なぜ邪なままさまよう? あなたの人格はあなたの中に溜まった、本来はあなたではないモノたちのネガティブなマインドで、ゆがめられ化け物みたいに膨らんでいる」
「そのモンスターパワーを総動員してもメグは捕まえられない?」
 レノンは風に吹かれて舞い落ちる葉っぱのように、体を小さくまるめてゆっくりと中空から草原に降り立ちました。背丈の違う姉妹のように下半身くっついた少女ふたりの前にたたずんだレノンの柔らかい金髪を、草原を渡る風が涼しく撫でて吹きすぎてゆき、肘から先の片腕をなくしてしまったというのに、レノンはちっとも痛がっていませんでした。
「からっぽのメグがあなたを満たしてくれるわけじゃない。あなたの退屈しのぎのコレクションに、すぐに飽きてしまう人形がひとつ増えるだけ」
「じゃ、君はぼくにどうしろって言うんだ。サイコヒーラーなんてさ、さまよえる魂を癒すのがお役目? 思い上がりだ。癒してくれよ、それがほんとうなら」
「一番適切な問いはこうだよ、レノン」
 シーラの問いかけは、そのときごく自然に本来の少年の声になっていました。
「レノンはどうしたいんだ。誰かに決めてもらうことじゃない。あなた自身、どうしたいんだろう」
 レノンは黙りました。顎が自分の胸にくっつくくらいうつむいて、しばらくしんと考え込んでいるように見えました。
「レノン」
 シーラはそっとレノンの肩に手を添え、また少女の声に戻って、いたわるように優しく呼びかけました。
 パシン、とレノンは彼女の手を荒々しくはらいのけ、痩せた体を猫のように震わせ、
「わかりゃしないさ。ぼくの望みだって?
ぼくは生きたい。歩きたい。不可能だ。君たちにはらくらくとできることが、ぼくには絶対できないんだ。この先もずっとチューブにつながれて。何十年かさきにやつれ果てて死ぬまで! いんちきエクソシストのシーラ&メグ。君〈タチ〉のおためごかしのアドバイスはこうだ。他人を巻き添えにする邪悪な念から解き放たれて、光り輝く天国の門をくぐりなさい。狭き門を選びなさい。ハ、ハ、大笑いだ。現実に治癒不可能な肉体のぼくが、ぼくの欲望から解放されるってことは、つまり死を選べってことだろ。いやだね!」
 そのとおりでした。生きたい、生き延びたい、なぜ自分はこんな不幸せな肉体に閉じ込められているのか? 誰がレノンの苦しい魂を癒せるだろう、と、シーラはレノンの絶叫をあるがままに受けとめました。
「いいえ、死んだって、レノン、あなたは必ず死霊になってさまよう。だからあなたを殺しはしない。死霊、悪霊は、現世をさすらううちに、もとの人格も失ってしまい、あらゆる汚れた感情のカスをむさぼりくらって、醜い餓鬼になるだけだ」
「そこで君のお出ましか、シーラ」
 虚勢をはって、レノンはさらに声をはりあげました。
「人格のない、同情の余地のない、どぶ泥餓鬼なら、良心の咎めなくたたきつぶせる、ヒーラーなんて名乗って、つまり今までそうしてきたんだろ? コムニタスキャラのメグに今、ぼくを殺させないのも、ぼくがこれ以上厄介な死霊になるのを防ぐためなんだ」
 レノンの眼に大粒の涙がにじみました。ポロリ、とこぼれる音が聴こえそうなほど大きい涙は血のいろさながらに赤く、陰気に黒ずみ、レノンの蒼白な頬をすべり落ち……シーラは思わず息を呑みました。
「レノン、あなたの涙」
 粘り気のある真紅の粒が少年の頬を流れるのといっしょに、はっきりと肉の焦げる独得の臭いと、水分を含んだ物質が灼かれるときのジュウッという音がしました。レノンの眼から次々とあふれる涙の流れるままに頬は焼け焦げ、熱で溶けた皮膚から水蒸気がたちのぼり、その間にも、胸に、腹に、袖にしたたった彼の血の涙は、彼自身を焼いて、じきにギンガムチェックのパジャマがぶすぶすとくすぶり始めました。
「熱い……」
 レノンは弱々しくシーラとメグに訴えました。涙をこぼすのをやめれば、少年は焼かれないのでしょうに、レノンの顔は、もうすでに表皮が剥けてぼろぼろになり、真皮まで爛れ通り、正視できないほど無惨な状態になりながら、それでも二つの瞳からは、どんどん体液があふれてくるのでした。
レノンが顔を伝う涙を、残った手の甲でこすると、もろくなった頬肉のかたまりがいっきにこそげおち、そのいきおいで鼻の隆起も、熱で溶けて剥がれるように顔からとれてしまい、あとにはぼかっと二つの鼻の穴が、髑髏マークみたいに残りました。レノンはなお、あえぎながら喋ろうとするのですが、溶岩のような涙の流れは、上下の唇も焼きぬいてしまい、唇を失った彼の声はちゃんとした発音にはならないのでした。
あまりのむごさに顔をそむけ、シーラはあとじさりしましたが、メグはその場にじっと立ったまま、何の動揺もなくレノンの崩壊を眺めているのでした。感情の照り翳りのない小さな顔の中で、風を渡る蝶々の羽のように、二つの青い瞳は長い睫毛をゆっくりと閉じたり開いたりしていました。
 この子は今何を見ている?、とシーラはメグの視野に入ってみましたが、シーラが覗いたメグのまなざしの中には、天地左右のないいちめんの夏空の中を、すさまじい速度で疾走してゆく大小さまざまの雲の怒涛、荒々しくうねり渦巻き、それでいて無駄のない優美な流体のパノラマが映っているだけでした。
(レノンがいない。それとも、メグのとらえているレノンの本質は、この無限に飛びゆく流体ということか?)
 ……オクワイ…アイ…
 シーラの脳に、ふたたび瀕死のレノンの絶望が突き刺さってきました。レノンの全身は、もうすっかり足元から炎と煙に包まれています。それは彼の流した涙、彼が吸収し、彼の蓄えた負のエネルギーが、今ブーメランとなって彼自身を焼き滅ぼしているのでした。
「ぼくは、生きたい!」
 いきなりまっすぐなかんだかい少年の声に、シーラはおどろきました。それは燃えているレノンの肉体からではなく、隣のメグの喉から発せられた叫びでした。
「死ぬのはいやだ。殺さないで、ぼくは生きたい!」
 レノンの声で叫びながら、ずい、とメグは燃えている少年に向かって一歩踏み出しました。すると、黒煙に包まれたレノンも、片手をあげてメグによろよろと近寄りました。メグは手をさしのべ、シーラは反射的にメグをひきとどめようとしましたが、コムニタスのエネルギーの押し出すメグの一歩一歩は、とうていシーラの制御のきくものではありませんでした。
「メグ、燃え移る!」
 シーラがメグの手を抑えても、メグはそのまま、レノンに近寄ってゆき、燃えている少年の手をぎゅっとつかみました。
焼かれるか、とシーラは緊張して、思わず呼吸を止めましたが、メグの全身は、また金属が底光りするような鋭い放電を始め、癒着しているシーラも一つに包み、レノンを生きながら焼く炎はその放電に弾かれ、レノンに触れたメグの手はすこしも損なわれることなく、彼の胸にてのひらをあて、今度はメグの声で、こう言いました。
「あなたの心臓、あなたの心」
 レノンは顔をあげ、残骸の眼窩にグズグズと溶け残った眼球らしきものが、メグを探して、左右ふぞろいにすこし動きました。そこからはなお、ぽたぽたどろどろと赤黒い液体がしたたり、彼を焼き続けてやまないのです。
 一瞬、メグはまなじりをつりあげ、レノンの胸に押し付けたてのひらにぎゅっと力をこめました。溶けた肉は、メグの発光するてのひらの圧を無抵抗にひきうけてくぼみ、ずぶずぶとメグの手はレノンの肉体に入ってゆき、すぐにレノンの中から、彼のハートを握り出しました。
 きらきらと血に濡れ、狂おしく脈打つひとかたまりは、メグの片手にすこし余るくらいでした。レノンの胸から心臓をつかみ出すメグの手を追うように、レノンは前のめりに一歩踏み出し、けれど二歩目は続かず、ゆっくりとうつぶせに草のなかに倒れました。
 思いもよらないこの異様な光景に、シーラは感覚も思考も麻痺してしまい、メグのなすがままを凝視していました。メグは片手につかんだレノンの心臓を両手で包みなおすと、果肉を噛むように、端から少しづつ食べ始めました。メグの手の中で、ちぎれた血管がなお、ぴくぴくと痙攣し続けるレノンの心臓は、見る間に透きとおり、黒い血は草原に滴る前に、メグの放電に触れて水蒸気となって色を失い、吹き渡る風に散ってゆきました。
傷口からひきずりだされたなまなましい心臓は、徐々に半透明に変容し、ついには肉質をはさんでレノンの心臓を握るメグのてのひらの内側まで、おぼろに透けて見えるほどに変わりました。心臓の内部に残って、まだ揺れている体液もやはり透きとおり、浄化され、光のかげんで、さまざまに色彩を変えるプリズムとなって周囲に淡い虹を散らし、メグはかるく歯をたてて、レノンの光る心臓を、ゆっくりと噛み、のみこみ、ひとかけらも残さず、自分のなかに入れてしまいました。
 レノンの心臓と血の最後のひとしずくを、メグが自分のてのひらから舐めとると同時に、倒れた少年のからだから、ぽうっと白い灰が立ち、すぐに、このパラレルの平野を絶えず流れる風にさらわれ、打ち寄せる海のほうへ、あるいはその逆に、海原から押し寄せる潮のとどろきといっしょに、陽炎揺れる草原のどこかへ、音もなく消えてしまいました。
 草むらのなかには、なにひとつ残ってはいませんでした。
焼け滅びたレノンの遺体も、衣服の切れ端さえ。彼が倒れた跡には、草花がその重さと熱にひしがれ、少し焦げかかっていましたが、それさえも風のひと吹き、ふた吹きするたびに、ゆるやかにもとの高さに起き上がり、さらさら、さやさやと、野をゆく風のままに、静かにそよぎはじめるのでした。
「レノンは…?」
 シーラはメグの顔を覗いて尋ねました。強い底光りは消えていましたが、メグの眼はやはりコバルトブルーのままでした。
「あたしにもわからないところへ帰った」
 メグはメグの声で、はっきりと答えました。
「君をとおって…生きたい、という切望のままに、生の意志の流れに呑みこまれていったんだ」
 シーラは、自分の声のどこかで、レノンがいっしょに応えている気がしました。自分の思考のどこかに、レノンが混じりこんでいるのかもしれない、とも思いました。メグの中に吸収されたということは、彼女と癒着しているシーラのなかにも、いくぶんかはレノンが入りこんでいるはずだからです。
「メグ、レノンがいなくなっても、それで全部終わったわけじゃない。彼に捕まえられていた魂たちを、解放しなくちゃ」
「うん」
「あなたにはそのひとたちがどこにいるのかわかる?」
「海の中に」
 メグは潮騒のざわめきよせるまばゆい渚のほうを向きました。
「シーラさん、飛ぶよ。ほら」
 メグが陽の光を呼び入れるように両腕を頭上にひろげ、かるく地面を蹴ると、腰と膝でくっついているシーラもいっしょに舞いあがりました。陸に吹き寄せる海風の心地よい抵抗に少女たちの髪は翼のようになびき、光りのなかでのびやかに二人は数瞬おおきく宙返りし、海のまんなかに移動しました。
「見て、このなかに」
 メグは眼下を指差しました。入り江を離れた荒磯のとどろき、真夏の太陽の下で、勢いよく高い波と波とがぶつかり、砕けては絶えず四方八方に水泡が散る深い緑の水底に、シーラは目を凝らしました。
「夜空だ!」
「シーラさん、夏の大三角形が見える」
 見つめる海は、水面の翡翠いろをどこかの深度で群青に変え、無数の星々のきらめく宇宙がその向うに拡がっているのでした。メグがレノンの罠に落ちる前に、シーラと蓼科湖畔のコテージでながめた星空より、もっと深い、もっと澄んだ藍色が、二人の真下になめらかにひろがっていて、デネブにベガにアルタイル、アークトゥルスに……アンタレス…名前もわからないさまざまな星屑たちが、海水の揺らぎに輝きを遮られることなく、きらきらと瞬いていました。
 何度か瞬きしてシーラはつぶやきました。
「ほんとうに星なの?」
「眠っている魂たちのいちばんきれいな夢、いちばんきよらかな姿。レノンが浄化されたんで、彼の夢に同化していたものも、〈怨念〉の束縛から免れ、こんな映像に見える」
「そう。あたしが垣間見たアスカさんや、ドミの……悪夢か、夢魔というくらい、グロテスクだった」
 全身に注射針の刺さった水ぶくれのアスカさんと、湖に浮かんだ二艘の小舟の間を、お手玉か毬のように飛び交っていたはっちゃんとドミニク。残酷と皮肉。ひきずりこんだたくさんの魂をおもちゃにしながら、すこしも楽しそうでなかったレノンの夢。
 メグの声を通じてシーラに返事をくれるモノは、いったい誰なんだろう、とシーラは思いました。十歳のメグのキャラクターでないのはもちろん、シーラも超え、それではレノンかと考えれば、当然違っているのでした。
 コムニタスに人格や意志があるのか、とシーラはメグを見つめました。シーラの想いを察したのか、メグはシーラの手をつかむと、
「夢の宇宙に入るよ。このひとたちを、レノンと同じように帰してあげる」
「どうやって?」
「もといた世界、もといた時間。でなければ、その時空のできるだけ近く」
 そうか、とシーラはうなずきました。パラレルでは時空は制約されない。だから、ここにいる魂たちがレノンにひきずりこまれた瞬間に、もういちどフィードバックされるなら、何のトラブルも起きなかったことになるはずだ。再現の際に、多少時間や空間にずれが生じても、おおかたは迷子や、一瞬の失見当による事故くらいでおさまるだろう。
「では、魂と肉体がほとんど死んでしまったひとは……たとえばアスカさんみたいな……どうなる?」
「彼岸へ」
 メグは迷わず断言しました。
「生きているうちに魂の弾力を失くしてしまっていたひとは、時空を渡る飛翔力を持たないから」
「自然淘汰されるということか」
「うん」
 さあ、とメグはシーラを促し、両手で自分の膝を抱えると、反動をつけてくるっと逆転し、水底へ、その向うにつらなる夢の銀河へと沈んでゆきました。

サイコ・ヒーラー 8 インカローズ

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8 インカローズ

 眼を覚まして……メグ、起きなさい…優しい声が、耳の奥で繰り返し聞こえます。声の向こう側では、なぜか水音、いいえ波音。
(あれ、うちに帰ってきちゃったのかなあ)
 とメグは開けようとしてもなかなかひらかない瞼の重さを、半分心地よく感じながら、ゆらゆらと揺れている自分を感じていました。
 パパと二人暮らしの住まいは、海辺近い閑静な町でした。住んでいるマンションから、しばらく歩くと、海岸へ出られます。メグとパパと……それからまだママが生きていたころ、三人でときどき海岸公園でピクニックしました。ママがまだ生きていたころには……
(ママ?)
 メグはぱちっと眼を開きました。寝そべったまま視界に映ったのは、まず頭上真っ青な夏空。こんなきれいなブルーはめったに見られない、透明なコバルトです。そうして輪郭の淡いまっしろな羊雲がところどころにぽかぽかと浮いて、気ままな放牧の群れみたいにゆるやかに、風に追われてひとつ方向に動いてゆくのでした。太陽はどこにも見えず、なめらかな濃青の空と雲だけ、まばゆさを抑えた調和の色彩に流れています。
 さわさわ、と顔に触れてくるのは、野花のそよぎでした。透かし百合、ニッコウキスゲ、
桔梗、コスモス、松虫草…知っている花、知らない花、いろいろな草花が、気がつけば見渡すかぎり咲き続く野原に寝そべっているのでした。メグはむくっと起き上がり、あたりを見回しました。
(海だ)
 メグの寝ていた野原はそのまま潮騒寄せる渚となって、白波の立つ海は、砂浜の隔てを置くことなく、草原のへりをじかに澄んだ波ひだで洗っているのでした。ここはたしかにシーラやガーネットたちとやってきた信州の高原なのですが、その原っぱはパラレルでは原初の海につながり、見はるかすあざやかな草の黄緑を、海の変幻ゆたかな翡翠いろに変えて、ひと目ではつかみきれないほど大きな光る水平線が、夏空の果てで、まんまるくふくらんでいます。
(ママ、どこ?)
 メグはたちあがり、自分に呼びかけた声の主を探しました。メグのすぐそばは、もう波打ち際で、クローバーや猫じゃらしの原っぱの隙間に、プクプクと白い細かな水泡が散って、海草と貝殻、小魚が、高原の野花の中を揺れて動いています。
「メグ、あたしはここよ」
 ふりかえると、安美さんが立っていました。
メグはうれしくって飛び上がり、ママに抱きつきました。ママはメグに抱きつかれてぐらりとうしろに倒れかかり、片足をひいてなんとかバランスをとりました。ふわっ、とママの体のぐらつきを追って、羽織った萌黄いろのカーディガンの袖が力なく空を泳ぐのに、メグはどきんとしました。
「ママ、手は?」
「あちらにあげてしまったの」
「あちらって?」
 安美さんは微笑しました。
「メグがコテージの屋根から落ちるとき、あたしは柳の力を借りて、あなたを無理やり受け止めた。あなたが地面に落ちて怪我をしないように、両腕を伸ばして……あたしはレノンにつかまえられていて、あなたに直接触ることができなかった。それで、あそこに生えていた柳に頼ったの。柳は自分を二つに裂いて、転がるあなたを支えてくれた。あたしは、そのお礼に、あたしの腕を柳にあげた」
 メグはママから離れて、あらためてママの姿を見つめ、息を呑みました。白いワンピースに薄い黄緑のカーディガンの、レースは肩からだらんと中身のない頼りなさで揺れて、ママはもうメグを抱きしめることができなくなっているのでした。
「あの柳は、それだから裂けても枯れることなく、じきにまた伸びる勢いを取り戻すでしょう。それでいいのよ」
「でもママは手がなくなっちゃった!」
 メグは哀しくて涙があふれました。
「泣かないで。泣いてはだめ。あなたはできるだけ早く、ここからもとの世界に帰らなければいけません」
 安美さんは、もう手で娘の涙をぬぐってあげることができないので、かがみこんで顔を寄せ、メグのふっくらとした泣き顔に、自分の頬をおしあてました。娘のやわらかい体温が安美さんの頬に触れ、安美さんはほっと息を吐きました。
「メグはあたたかい。向うの世界で、あなたはただ眠っているだけ。ここは夢野の浅瀬、あるいは彼岸の海の、まだほとり。深みへひきずりこまれないうちに、早く帰って」
「あたし、ママを取り返しに来たのよ。シーラさんといっしょに。それに、はっちゃんとか、ドミとか、アスカさんとか、助け出してあげるの」
 安美さんは困ったような怖いような顔をしました。
「アスカさんを、水底からあたしはひきあげてあなたに見せたでしょ? 彼女は、たぶんもう戻れない。戻ったとしても、ノーマルな暮らしが再開できるかどうか……」
「廃人だよ」
 ふいに、乾いた甲高い声が、ずけっと割り込みました。安美さんはさっと緊張し、
「レノン」
 と、彼の名を呼んでたちあがりました。メグを自分の体のうしろに隠すように、草原で風に吹かれている少年と相対します。いつもながら突然現れたレノンは、どういうわけか、またすこし大人びた顔つきになっていて、きらきら光るプラチナブロンドは同じですか、こめかみから顎にかけて、少年らしい削いだような線の強さが加わっていました。
「メグ、ぼく言ったろう? アスカなんて娑婆にいたってろくなことにならないよ。彼女、ときどき〈花絵〉で覚醒剤を密売したり、自分でもこっそり打ったりしてたんだ。タイジはボケナスで、何にも気づかなかった」
「レノンはどうしてあのギャラリーに現れたの?」
 メグはレノンの毒舌を遮って尋ねました。レノンはちょっと黙り、
「タイジのひいおばあさん、ぼくの母親と同じヴィジョンを持ってた。メグ、ぼくが〈花絵〉を選んだんじゃないんだ。ぼくはいつからか、現実にはベッドに寝たきりの動かない肉体の制約を免れて、あちらこちらを飛行できるようになった。最初はどこに行ったらいいのかわからないくらい、自由だった。檻に捕らわれていた動物が、突然大自然に放されたのと同じさ。動物は風の匂いを嗅ぎ、地形を確かめながら、危険を避ける本能にしたがって、自分の生きる場所を求めてゆく。動物とちがって、ぼくには危険なんかなかった。ぼくは、ぼくを呼び寄せるモノのほうに向かって気まぐれにさまよっていたんだ」
「花緒さんのヴィジョンがあなたを招いたのね。あなたのお母さんが残した〈記憶〉と同じ絵が」
 安美さんが言いました。レノンはふてくされた……いくらか自嘲めいた表情で、
「ぼくの母は、ぼくのことを愛してなんかいなかったよ、安美さん。彼女は生きているころ、ときどきお見舞いに来てくれたけれど、
めそめそしてた。ぼくわかってるんだ。彼女の涙は、ぼくのために流す涙じゃなく、自分を憐れんで泣いていただけだって。内心じゃ、ぼくなんか……心臓発作で倒れて、意識不明の植物人間、どこかで肉体の成熟も老化もとまり、ひんやりした蝋人形みたいな息子は、生きているだけ本人も回りも不幸だから、はやく死んでくれって」
「言いすぎよ、あなた」
 安美さんはレノンを制しましたが、レノンはまた両目に凶暴な赤い光をよぎらせて、
「彼女ね、寝ているぼくの首を絞めようとしたことあるんだ。何度も何度も。アナタヲコロシテアタシモ死ヌってつぶやきながら」
 レノンは吐き捨てるように言って横を向きました。彼の金髪はさかだって、端正な顔の周囲で風に煽られたようにぼうぼうと乱れました。その足元の草花は眼には見えない彼の怒りの圧力にひしがれてざわめき、何本かのネコジャラシやキスゲが、レノンの発する逆上のつむじ風に根本からちぎれて、くるくると彼のからだの周囲を旋回しながら青空に吹き飛ばされてゆくのでした。
「彼女が死ぬわけないよ。だってほんとうのこと言って、ぼくなんか彼女の人生の、もうごく一部でしかなかったんだから。あたらしい誠実な夫がいて、二人こどもが生まれた。若気の至りで生まれちゃったぼくがいなけりゃ、何の苦労らしい苦労もない幸福な主婦。
正直、ぼくなんか、見たくなかったんじゃないのか? だったら来なけりゃよかった」
「根性まがり」
 メグはレノンのとめどない毒舌に、つい言ってしまいました。
「どうして言えないの? さびしかったって」
「誰に言う? 誰に言える? そんなこと言える相手がいるんだったら……」
「モンスターにはならなかった」
 詰まってしまったレノンに代わって、安美さんはつぶやきました。それから、
「レノン、あなたは、自分の歎きばかりを口にするけれど、お母さんの悲しさをほんとうにわかっていたの? 依子さんが涙を流せるのは、あなたの部屋しかなかったんじゃないかしら? 意識はなく、人工栄養で命をつながれ、肉体はこわばり冷えている。死んだ方がこの子にとって楽なんじゃないかって、あたしだとしても、きっと思う。死なせてあげた方が、楽なんじゃないか、と」
「だからさ」
 レノンは顎をひいて、しゃっくりするように意地悪く唇をゆがめました。両目はらんらんと鋭く燃えあがりました。
「さびしいって言いまくる相手をつくるために、ぼく怪物になったんだ。ふふっ」
 レノンははずみをつけ、ぽんと両足を空に向け、虚空に逆立ちしました。両手をパジャマズボンのポケットにつっこんだまま、逆転した彼は中空に浮き上がり、
「だからさ、安美さん。ぼくメグをぼくみたいにしてもかまわなかったんだ。屋根からころげおちて首か背骨、腰を折るかも。そしたらよくて下半身麻痺、わるけりゃ頸髄損傷で全身不随だ。どっちみちぼくは彼女を眠らせておく。ぼくとおんなじに植物人間。ぼくたちはペア。点滴と経管栄養で、ずるずると無限に近い時間を、無意識のまんま、生かされている娘を見たら、あなた、どう思う? ぼくの母親みたいに、この子は死なせたほうが楽だって、きっと思うよねー」
 こみあげる悪意のために、目に見える速さで、レノンの形相は変わってゆくのでした。淡い金髪に飾られた天使のような顔は、堰を切った憎悪に歪められ、皮膚は蒼白を通りこしていやな鉛いろに濁り、唇ばかりしたたるように赤く、厭味と嘲りを、安美さんとメグにむかってたらたらと吐き出すたびに、口の中で腫れた舌が、くすぶった炎のようにひらめきました。
「殺さない程度に。この子を永遠に眠らしていっしょに夢の世界をさまよう。いや、殺したってよかったんだ。ところが、あなたが邪魔して、柳の木なんかにすがったから、メグは無傷だ。いいさ、どっちみちぼくはこの子を押さえる。誰にも渡さない」
「あたし帰るもん」
 メグは負けずに言い返しました。
「ママを連れて、ここから出て行く。あなたの思い通りになんかならない」
「ママは帰れないよ。だってほら、彼女は海の中なんだから」
 レノンは逆立ちしたまま空中を器用に動いて海面に出ると、片手でメグを招きました。
「来いよ。君だってここでは飛べる」
 いつのまにかメグの傍から安美さんは消えていました。メグはぎょっとして渚に駆け寄り、海の中を覗き込みました。草原と海と、境を分けて打ち寄せるさざなみの底は青く澄んで、こまかいガラス玉のようなきらきらした水の泡と小魚、いろいろな海の生き物と陸の植物とが、違和感なく戯れ、揺れていました。ここは夢野のまだ浅瀬。安美さんが引き据えられている深みはずっと向うの、銀波とどろく沖合なのでしょう。
「怖いのかい? ぼくが罠を仕掛けてると疑ってるのか」
「そうよ。レノン、あなたはいつも意地悪なんだもん。夢やパラレルは、きれいでうっとりするところもあるけれど……」
「けれど?」
 メグは波打ち際にたちすくんだまま、言葉を捜しました。どう言ったらいいんだろう。溶けた鉄クギみたいにひんまがった、邪悪むきだしのレノンに、何て言ったらいいんだろう。あたしは、どうしてパラレルでレノンと暮らすのがいやなんだろう。 
「来いってば!」
 いらいらしたレノンは海上でくるりと体をひねり、ひょいひょいと波の背びれを飛ぶようにメグのそばにやってくると、いきなりメグの腕をつかみました。つめたい、とメグはレノンの痩せた、華奢な手の感触を眼が覚めるようにあざやかに感じ、思わず、
「さびしい苦しいって思っているのに、そのさびしさや苦しさを、自分以外の誰かにも味合わせたいなんて……。あたしがいたって、レノン、あなたの苦しさは癒されないよ。すぐにあたしに飽きちゃう!」
「君が決めることじゃない」
 レノンはメグの反抗なんか歯牙にもかけずに、つかんだメグの二の腕をぐいっと持ち上げました。メグは身構えた中腰の格好のままレノンの力で浮き上がるのを、
「いやだって言ってるのに!」
 地面から離れかけた両膝をのばして、懸命に草原に踏みとどまり、海にひっぱろうとするレノンとは逆方向へ、地面を蹴って後ろへ向かって跳ねました。メグはレノンを振り払おうとして、ありったけの力でジャンプし、自分でもびっくりするほど、体はかるがると高く跳びあがり、その上、きれいな円を描いて、大きく後ろへとんぼ返りしました。キスゲと野百合の混じり咲く花野の中に着地して、レノンを退けたと一瞬ほっとしたのもつかのま、メグはいきなり腕に喰いこんだ疼痛に、思わず悲鳴をあげました。
「痛ッ、なに?」
 悲鳴は驚きのあえぎに変わりました。ふりはらった、離れられた、と思ったのに、メグの腕はなお、しっかりレノンの手につかまれたまま。海上に浮かんだレノンは、にやにや笑いながらこっちを眺めています。パジャマの袖口から覗いていた華奢な手はメグの腕を摑んで、メグが後ろにとんぼがえりしたその距離を、何の苦もなくずるずると長く伸びて、軟体動物の触手さながら、執念深く二人をつないでいるのでした。
 ぎりっとレノンの指が立って、とがった爪がまっすぐメグの皮膚につきささり、すぐにぷつりと血が滲みました。
「やめて!」
 メグはレノンの指を一本ずつ引き剥がそうと必死に格闘しました。けれども皮膚の下の静脈が透けてみえるレノンの白い指は、針金か、長い牙のようにつめたく硬く、メグのやわらかい腕に喰い入るばかり。
「メグの腕、握りつぶしてやろうか」
 へらへらとレノンは嗤い、自分の触手をまるで縄跳びの縄のようにぶるんと空中で振り回しました。
「逆らった罰だ」
 メグは腕につきささる五本指の痛みに耐えかねて、つい両足を地面から離してしまいました。レノンは宙に浮いたメグの体の重みを、いともかるがると、糸でくくった風船を弄ぶように、あちらこちらへ振り飛ばし、振りまわし、恐怖と苦痛にあえぐメグの泣き声を、すっかり楽しんでいるのでした。
 振り回されるメグは頭がぼんやりし、吐き気と痛みで、気が遠くなりそうでした。
(夢なのに、こんなにはっきり痛い。夢なら醒めるはずなのに。ほんとに夢? ママは言った。まだ〈夢野の浅瀬〉だって。レノンひどい。なんであたしこんな目にあうの? 何の罰だっていうの? くやしい……) 
「くやしけりゃ、逃げてみせろよ。メグはハイブリッドヒーラーなんだろ?」
 勝ち誇った猫撫で声といっしょに、レノンはひゅうっと口笛を吹き、ころあいを測って触手を小刻みに回転させ、自分の腕でメグの体をぐるぐる巻きにし始めました。
 手首の縄の一巻きごとにメグは草原を、虚空をひきずられてゆき、あっというまにレノンの傍に戻ってしまいました。 
 触手の末端の五本爪はそこでようやくメグの皮膚に食い込むのをやめ、てのひらを開きました。刺さっていた爪が離れると、三日月型の傷痕から、痛々しく鮮血が滲み、レノンの青白いてのひらに、幾しずくか血の粒が流れます。
「フーン」
 レノンは手にこぼれたメグの血を、めずらしいもののように眺めて、とても無邪気な口調でこう言いました。
「メグの血はあったかいね」 
 ぼんやりした意識のどこかで、メグはレノンのそのつぶやきを聴き、自分でも説明のつかない、また今までに感じたことのない衝動が、尾骶骨から頭のてっぺんまで背骨のまんなかを突き抜けるのがわかりました。
「暖かいのはあたしだけじゃないもん」
 人間ってあったかいものじゃない? あなただって、眠っていたって、冷えていたって、人間なのよ。ただの人間なのよ。
「あたしの血だけじゃない。あなたが閉じ込めたひとたちみんな、暖かかった」
 締めあげられたメグは吐き気とめまいでぐらぐらしました。レノンは、またすうっと冷淡な表情になり、
「ぼく冷たいんだ。そして暖めてもらう相手はぼくが選ぶ。君を食べちゃおうかな。このまま、ばりばりガツガツ」
 ペロリ、とレノンは薄い唇の端に薔薇色の舌をひらめかせ、いびつな笑いを浮かべました。ひらめかせた舌さきで、てのひらにこぼれたメグの血をレノンは舐め、またふうっと顔つきを変えて、
「ぼくなんで生まれてきたんだろうな。どうして普通に君と出会えなかったんだろ。ぼくはたぶんこのまま君を殺しちゃうね。君のこと好きなのに、ぼくが君を独占したいと願うと、それは君を殺して、思い出の姿にしてこのパラレルにとどめておくことになる。ぼくだけのパラレルに。そうしないと、君はどこへでも飛んで逃げちゃうだろ」
 レノンの触手に巻かれたメグはがっくりとうつぶせ、返事もせず、虫の息であえいでいました。空中を相手の好き放題に振り回されたせいで、ボサボサに乱れた髪の毛が顔にふりかかり、きつく眉を寄せて瞼を閉じ、半開きの唇から、つっと唾液が銀色の糸になって、レノンの小さいてのひらにまた滴り、こぼれた血と混じりあいました。レノンはメグの頭に顔を寄せ、彼女の暖かさを、肺いっぱいに吸いこむと、
「君、いい匂いがする…」
「いやだって言ってるじゃない」
 突然、はっきりと芯のある声がメグの喉からこぼれて、レノンはびくっと震えました。
「あなた、ほんとうはどうしたいの? メグを自分だけのものにしたいって? そうじゃないでしょう。そんなことではないはずだ」
 言い切る語尾まで明確な、抑制の効いた少し低い声は、あどけない少女の声とは違っていました。
 え、とひるんだレノンの隙を声の主は逃さず、今のいままで息も絶え絶えだったかぼそい両肩に、あたらしい力をこめて、レノンの触手を自分の手でつかみ返しました。
「シーラ!」
 顔をあげたメグの瞳は、ぱっちりと見開かれ、鮮やかな青色に輝いていました。感情の見えないなめらかなコバルト、あるいはセルリアン。内側からの発光で、睫毛や瞼までが透きとおって見えるクリスタルブルー。
 レノンの腕の中で、メグの体はじわじわと蠢き出しました。少女のかぼそい感触は掻き消え、巨大な蛇がのたうつような異様な蠢きの激しさに、レノンはひるみました。
「どうしたんだ。なんだって言うんだ?」
生身の人間の持つ色とは思えない真っ青な瞳になったメグの顔からは、喜怒哀楽いっさいの表情が消え、その無表情の向こう側から、別な少女の頭がぬっと持ち上がり、続いて首から肩、胸、と徐々にひとつの肉体は二人の肉体にふくらみを増し、あたかも枝分かれする巨大な分裂細胞のように、メグを通って、シーラがパラレルに侵入してきたのでした。

サイコ・ヒーラー 7 キャッツアイ

Posted by 水市夢の on   0 comments   0 trackback

7 キャッツアイ    

ジンさんの知り合いの貸し別荘は、白樺湖から離れ、蓼科湖の近くでした。
「銀座で芸術至上主義ギャラリー開いていると、こういう特典があるんだよねー」
 とポルタの助手席に座ったジンさんは、おとぎ話に描かれた森の一軒家みたいに可愛らしいウッデイなログハウス村の前にさしかかると、自慢しました。
「地方に住みながら、東京でモダンアートや表現やろうって人間は、おおかたそこそこ小金持ちなんだ。もちろん食うや食わずでがんばってるアーティストもいるけどさ。このコテージ経営してるジイチャン、ここらの地主でゆっくり暮らしながら、結構おもしろいオブジェ作ってるの。俺のギャラリー格安で提供してるんで、今回無理聞いてくれた」
「オブジェ、って民芸品みたいな?」
「もっと斬新。いちど観に来てよ。案内出すから」
「ハイ、ぜひ」
 パパは人見知りしないタチなので、ジンさんにもすぐ慣れました。
 蓼科湖畔には何軒か近代的なホテルがあり、庭付きのコテージ群は、さらに奥まった森のあちらこちらに点在していました。彼らがそこに着いたころにはもう日は沈み、一定の間隔を置いて、森のあちこちにたたずむログハウスは似たり寄ったりで、薄暗い灯ともし頃でもあり、どれが目当てなのか、駿男さんはちょっと困ったのですが、ジンさんはさっさと携帯取り出して豹河に連絡し、小道をいくつか折れたあたりの一軒の前で、こちらに向かって手を振る彼を見つけ出しました。
「メグ、着いたぞ、起きなさい、こら」
「寝かしといたら? 寝る子は育つ。疲れたんだろ。メシ時になったら起こせばいいよ」
「それもそうですね」
 後部座席で眠っているメグをだいじそうにお姫様だっこする駿男さんに、ジンさんは、
「宝物ってとこか」
「それほどでもないですよ」
「そお? 俺にも娘いるけど、オヒメサマダッコなんぞしたことないね」
「えっ ジンさんこどもいるの!」
 とヘッドランプを付けたヒョウガが目をまるくして驚きました。
「ウッソ、今まで聞いたことないぜ」
「話したことないんだからトーゼンでしょ」
 とジンさんはすげなくあしらい、それ以上その話はしたくない様子をあらわに、
「俺、火宅のひとだからさー。ところで豹、やけにでっかくなってないか?」
「わかります? 一ヶ月で身長3センチチョイ伸びて、体重5キロ増えた」
「おまえいくつだっけ」
「十九」
「だんだん親父に似てくるな」
「うれしくない。醸はメタボ対策必死だ」
「ナニ、君のオトウサンって、もしかしてマルモ?」
 思わずのけぞる駿男さん。
「ハイ。でも親たち離婚してるんで、ぼくは吉良豹河。ガーネットの末っ子です」
 まいったね、とパパは口の中でつぶやきました。
(末っ子、ってことは、他にもコドモいるのあのひと? 見えないねー。女は魔物だ)
 パパの頭のなかには、ガーネットの艶やかな顔がチカチカし、同時にグラビアやらネットやらでおなじみの、スポットライトを浴びたジャズピアニストが交錯しました。ヒョウガは先にたってすたすたと歩きながら、
「そこ苔生えて滑りやすいから気をつけて。木の根っことか、剥き出しになってる。……東京ではダイエットできるけど、こっちで厨房やってると、どうしたって食べるから。すごい重労働だけど、やっぱ肥る」
「それ肥るって言わないよ。成長だぜ。だいたい育ち盛りのおまえが何でダイエットするんだよ」 
「ラバースーツ着たいから。あれ一点制作の特注なんだ。サイズ変わるといちいちカネかかる」
「おふくろさんに出してもらえ」
「何年つきあってるのジンさん、ガーがそれほど甘いと思う?」
 ヒョウガは呆れたようにジンさんを振りかえりました。
「甘えないおまえもおまえ」
「適当にやってる」
「テキトー」
「適度、とも言う」
「かしこいね、やっぱおとっつぁん譲り」
「ガーのほうがえらいよ」
「そこまでわかるの、十九で?」
「食わせてもらってる相手を尊敬すんの、俺単純だから」
 ヒョウガはさばさばと言い切って、ログハウスの扉の前でたちどまり、
「今夜鉄板焼きね。文句言いっこなし。もう準備できてる。野菜も肉も下ごしらえズミ。後発組が着いたら焼き始めよう」
「おーいいじゃない。この際誰も文句なんか言わないよ。ヒョウガ、ずっとキッチンやってくれるの?」
「おあいにく。明日からマタタビ、ってほどじゃないけれど、諏訪湖に行く」
「諏訪湖って、諏訪ロック?」
 駿男さんが口をはさみました。ヒョウガはにっと笑い、
「そう。好きですか」
 パパさんはウンウンと大きくうなずきました。まだメグを抱いたままです。メグは目をつぶって、くうくう寝息をたてています。パパは娘をリビングの長椅子にそっと下ろすと、居心地よさそうなたっぷりした吹き抜け空間をぐるりと見回し、それからあらためて丸茂醸の息子をしげしげと眺めました。
豹と名乗る少年は、その名のとおり金髪に黒のレオパードヘアをきゅっと後ろひとつに束ね、アメ横で売っているアーミーみたいな迷彩プリントのシャツに、あちこち穴の開いた黒っぽいスリムジーンズを穿いていました。髪だけがよっぽど変わっているほかは、とりたてて崩れたところのない、大柄な胸板の厚い美少年でした。目鼻立ちがおおづくりで、皮膚の浅黒いところなどは、きっと父親に似たんだろう、とパパは思いました。
「眉毛そっくり似てる、マルモに」
「あ、みんなに言われます。眉間までつながってるって」
「フリーダ・カーロの眉だ」
「頑固眉毛」
 これはジンさん。ヒョウガはけらけら笑い、
「だからさ、うっかりすると親父みたいなゴリラ顔になるんじゃないかって、ガーは心配してる」
「ところで、おまえ諏訪湖ロックで何やるの」
「ポスター見せるよ」
 ヒョウガが二階にあがっていったところで、庭で地鳴りのようなハーレーのエンジンと、短いクラクションが聞こえました。
「お、シトロエン・ハーレー組到着だ」
「風間さん、鉄板焼いていただけますか」
 吹き抜けの二階からヒョウガが怒鳴り、パパは
「ハイハイ」
 とけっこう嬉しそうにキッチンに入りました。
 シーラがログハウスの扉を開けると同時にメグはぱちっと目を開けました。ごく自然に
「おかえりなさい」
 と口をついて出て、それを聞いたシーラはふっと心の裏側をやわらかく撫でてゆく、すっかり忘れていた何かの感触が再現されたような気がしました。
「メグー。目覚めたの? パパのお手伝いしてー」
 と駿男さんはすぐさま娘を呼びつけます。
「はぁい」
 台所に飛んでゆくメグの後姿に、シーラは微かに胸のしめつけられる思いでした。
(危ない、危なくない、ワカラナイ)
 ハト医師から聴き取った情報のあらましは、細部はともかく、この一連の首尾を語るのに充分でした。けれども行方知れずの人たちを取り戻す手段は、まだ何もないのです。
(あっちから仕掛けてくるのを待つしかナイということだ。そしてそれにはメグが要る)
 ナイナイ尽くしだけれど、とシーラは汗でべたつく首筋の髪をバレッタで巻き上げ、いつにない判断のわだかまりに自分でオチをつけました。
(ないものねだりじゃナイぞ)
「あら、きれいなポスターじゃナイ?」
 とシーラの物思いにおっかぶせるようにガーネットの可愛らしい歓声が聞こえました。もうダイニングから焼肉の匂いが香ばしくたちこめ、食事前にくつろぐ大家族の明るさが、ハウスいっぱいにあふれています。
「今年はビッグスターがゲストだからね。イベント企画も大だよ」
 得意げに大盤のポスターひろげるヒョウガをみんなで囲んで、まずジンさんが、
「なになに、Rock・MIRAGE・諏訪LAKE…語呂合わせか」
「お盆の花火大会と、例年の諏訪ロックと、それに今年は大震災のチャリティイベントで、何人かの大物がゲスト出演するんだ。それをいっぺんに湖上祭でやっちまおうって、ま、諏訪の町おこしを兼ねての企画」
「オオモノって……へえ、ソーヤ・クリスタルが歌うの? ちがいない、世界のディヴァじゃないか。よく来日するねえ。なに、おまえ彼女と共演すんの?」
 ヒョウガは一瞬の隙も見せず、あっけらかんと明快に、
「モチ、ただのバック」
「ほぉ……クリスタルの」
 急に神妙な顔つきになったジンさんは軽口たたかず、ちらりとガーネットに視線を走らせましたが、ジンさんよりもヒョウガよりもずっとしたたかなガーネットは笑顔のまま、ジンジャーエールのプルタブをプシュッとひねり、ジンさんを見もしませんでした。
「オオモノって、ジンさん、よく御覧なさいよ、ソーヤの歌に特別出演するひと」
「能楽鳳凰流宗家、鳳凰宗典。へええ、もとクラシックにせよ、ソーヤって現行ポップスでしょ。その彼女の歌で、オカタイ伝統芸の能役者が踊るのかい」
「舞う、だよジンさん。能は舞うんだ。踊りじゃない」
 シーラは言いました。
「だからこのポスターに能面がコラージュされてるんだな。これ何の面?」
「月の小面。豊臣秀吉から伝わった、室町時代初期の面打ち龍右衛門作、鳳凰家の家宝」
「シーラさんよく知ってるね。さすが……ていうか、あれっ」
 とジンさんはポスターの文字を目で追い、もういっぺん顔色を変えて黙りました。タイジがジンさんに代わって、ポスターの下方に、すこしちいさい文字で書き込まれた名前を読み上げました。
「鳳凰流シテ方……千手宗雅」
 センジュって。
 喉まで出かかって、言葉に出せないタイジの問いに、シーラはさらりと、
「今年は伯父と祖父も出るの」
「へえ……そう」
 ジンさんのあいづちは、内心の驚きを取り繕おうとして、不自然に無感動で抑圧したイントネーションでした。誰もがそのひらべったいジンさんの声の裏を察したのですが、ちょうどタイミングよく、キッチンから風間親子の、屈託のない歓声が響きました。
「みなさん、イッチョウアガリ焼き上がり、食べごろですよー。どんどん食べましょ」
「シーラさあん、冷蔵庫のなかのスイカ切っていいんだよね」
「いいわよぉ」
 とシーラはポスターから離れてたちあがり、キッチンへゆこうとして、ヒョウガの脇で足をとめ、
「ヒョウガが諏訪湖祭でぶちかますのはいつ?」
「明後日と明々後日の両日。光栄にもシーラのおじいさんとおじさんともセッションできるってわけ」
「ふうん。観に行けるといいんだけど」
「鳳凰さんには何も言ってないの?」
「もちろん。でも祖父は気づいているかも」
「そう。……」
 ヒョウガはシーラの顔をのぞきこんで、何か、もっと言葉をかけたい気がしたのですが、どう言ったらいいかわかりませんでした。
 で、
「来れるんならメールくれよ。チケットなしでも楽屋席なんとか融通する」
 とだけ。
 さんきゅ、とシーラはかるくうけ流して、焼肉のお運びに台所へ入りました。
(ソーヤについて、ひとことも尋ねなかったな、あいつ)
 とヒョウガはシーラのすらりとした背中から膝にかけての曲線を目で追いながら、くやしいような、もどかしいような感情を舐めました。
(俺がソーヤのバックに入ることと、シーラが鳳凰家の直系だってことと、どっちがデカイ地雷だろう?)
「地雷ってほどじゃないか。手持ち花火くらいか」
「こら、愚息、ぶつくさヒトリゴト言ってないで、ワインでも抜いてよ」 
 とガーネットは、すこし見ない間に、ひとまわり逞しくなった息子の腰を、手にした中国扇子で、かるくたたきました。
 みんな疲れていたはずなのに、ずいぶん遅くまで楽しいホームパーティが続きました。
 駿男さんは、諏訪湖ロックのポスターを見てもたいして驚かず、予想外のシーラの出自に、
「タダモノじゃないなあ、シーラちゃんって思ってたけど、やっぱりね。千手宗雅さんが君のおじいさんてことは、もしかして君のお父さんって、しばらく前に亡くなった俳優で演出家の鳳凰士朗さんなわけ?」
「そうです」
「はあ……いい役者ていうか、伝説そのものみたいなひとだよねえ。ヒョウガ君のオトウサンが丸茂醸ってのにも腰が抜けたけどさ。
うちのメグはごらんの通り庶民凡人アブラアゲ(なんだいそりゃ)みたいな子なんだけど、けっこうこれはこれで咬めば咬むほど味が出る何かを持ってるかもね、なぁんちゃったら親ばか?」
 つるつると喋りまくるパパさんの健康なリアクションに、タイジは思わず笑い出しました。
「それいい、風間さん。ぼくもアブラアゲ目指そう。おいしいアブラゲ」
「え、アブラアゲばかにしちゃあいけないよ。煮ても焼いてもオッケーな、便利お助けマルチタレントですってば」
 ビールとワインの混ぜ飲みで、酔っぱらったパパさんの乗りは上々。
「でも、メグあんまり好きじゃないもん」
「お稲荷さん好物でしょう、君」
「あ、そうだった」
「そら見ろ。君はね、まあ、海胆軍艦は高級すぎるから、パパのこしらえる胡麻五目お稲荷さんくらいにパフォーマンスしてればいいよ……」
「けっこう、このひと太っ腹だね」
 とジンさんはにやにやしました。糖尿気味のジンさんはあんまり飲めないので、ずっと煙草を唇に斜にくわえて、ビールのトマトジュース割りか何かを舐めながら、シーラの言うとおり〈オブザーバー〉を決めこんでいます。おしゃぶり状態の煙草は、火を点けてはちょっと吸い、すぐに灰皿に置き、またくわえなおして、吸いこむでもなく、ただぷかぷかと煙を浮かべているのでした。ガーネットはときどき顔をしかめて、ジンさんのチェーンスモークを目で咎めるのですが、ジンさんは知らん顔でした。
(ソーヤ・クリスタルだって? ヒョウガめ、ガキのくせして、おもしろすぎるぜ。シーラちゃんもさ、まあ、相当いいうちの娘だろうと予想してたけど、お能の宗家とはね。それにしてもガーちゃん水くさいよなあ。ヒヨっ子タイジは当然としても、長年つきあってきた俺も、こんなことがなけりゃあ、つんぼさじきだったとはね)
 と、すこしばかりひねくれてしまったので、チェーンスモークの煙も嫌みったらしく、ガーネットのほうに向かって、わざと吹き流すのでした。でも、ガーネットは、ジンさんのいやみなんか相手にせず、吹きつけられるショッポの副流煙をお扇子でぱたぱたとあおぎ、負けずにその都度、しっかりジンさんに返していました。
 迷惑をこうむったのは、ちょうどこの二人の間に挟まれて座ったメグで、お肉や野菜やスイカや、とにかく好きなものを好きなだけ食べたのですが、ジンさんの煙草の副流煙は慣れない彼女を直撃し、そのうち頭がクラクラしてきました。駿男さんは、メグが生まれてからずっと禁煙しているので、メグにとって煙草は文字通り劇薬なのでした。
 ヒョウガは大酒飲みで、ロック好きな駿男さんとウマが合い、そのうち駿男さんがポルタにこっそり積みこんできたギターに、エフェクターまでかけて、けっこう器用にジャンジャン鳴らし始めると、その場はもうカラオケ状態に突入しました。
「なに、豹ちゃん、ドラムとフルートいっしょにやるの? フルートはどんなの吹くの」
「んーとね、ふつうじゃおもしろくないから、俺逆吹きすんの。よくドビュッシーとかしっぽから吹く。ガーの踊りのときなんか」
「逆吹き?」
「楽譜をアタマからじゃなく、終わりから逆に演奏する」
「ゲッ それって、すごい特技」
「そう? 楽器を使うから、歌うより楽なんじゃない」
「……」
 飲みねえ飲みねえ、とヒョウガの酔っぱらいモードはここらでワインからオンザロックの焼酎に変わるのでした。
 どこかでシーラは、
「メグ、ここの空気すごいから、ちょっと外行かない? 顔色わるい。ジンさん、お子様の迷惑考えてスモークしてよ」
「お、悪い悪い。メグちゃん、いい子はお休みって時刻はとっくに過ぎてるな」
「たまには夜更かししたっていいの」
 とメグは言いましたが、気がつかないうちに吸い込んでいた煙草のせいで、たちあがると足がふらつきました。やせ我慢してはいるものの、すこし吐き気もします。シーラが腕をつかんで支え、ふたりでログハウスの階段を登って、二階のベッドルームからベランダに出ました。
 サッシを開けると、すがすがしい高原の夜気が、よどんだ呼吸を清めてくれました。
「すごい星空」
 シーラさんは、丸太を組み合わせたベランダの柵にもたれて、夜空をあおぎました。
「湿度が低いし、排気ガスも少ない、街明かりに邪魔されないから、都会じゃ見えない星座が残らず見える」
 とながい首すじをすっきりとのばして、ログハウスの周囲を覆う樹々のあわいにちりばめられた星々をひとつずつ指差しました。
「まず、夏の大三角形……琴座のベガが光ってる。それから白鳥座のデネブ、鷲座アルタイル、三つの一等星をつないで、あそこ」
 メグは瞳をこらして、シーラの指さす彼方をじっと見つめました。シーラはつぎつぎといろんな星や星座の名前を並べました。それらはメグがもう知っている名前もあり、初めて聞いたものもありました。龍座、蛇座、ヘラクレス、サソリにイルカ、てんびん座、カシオペアに北斗七星、ひときわ赤く光る牛飼い座のアークトゥルス……。
「追っかけきれない、シーラさん」
「うふふ、じつはね、でたらめに指さしてる」
「なあんだ」
「でも、夏の星座の名前は確か」
「シーラさん、いろんなこと知ってるね」
「知っていることしか喋らなければ、たくさん知っているように見えるものよ」
「?」
「銀河鉄道の夜、読んだ?」
「うん。星めぐりのうたでしょ」
「赤いめだまのさそり……アンタレス」
「シーラさん、レノンの眼は、ときどきアンタレスみたいに…もっと赤い。今日、レノンは立ってあたしを見てた。そして、またじきに会えるって」
 シーラは夜空からメグへ視線を移し、ベランダに両肘をついて、
「あたしには見えなかった。怖かった?」
「ぜんぜん。ハト先生の記憶のほうがずっとすごい」
「レノンは自由になりたがっている」
「自由って?」
「それこそむつかしい。彼はもうある意味自由に自分の好きなパラレルを飛びまわれるみたいだしね。他人の脳内に侵入し、夢を侵し、つかまえた魂をあやつり」
「ママもつかまっている。いつも、どこからか、ママの声だけがときどき聞こえる」
「……たぶん、レノンの眼を借りて君を見守っているんだろう。彼女は死んだといっても半ば以上フェアリー化しているから、そういうこともできる」
 ふいに夜風がざわざわと吹き抜け、周囲の森影が暗い大きな生き物のように、ひとつ方角にむかって枝先を揺すり始めると、メグの全身はすうっと冷え、腕や膝に鳥肌がたつようでした。メグはベランダの太い丸太にひょいと腰掛け、両足をぶらぶらさせながら、無意識に星空のなかに〈赤い目玉〉さそり座アンタレスを探しました。
「レノンのママが死んだあと、レノンの傍に残らなかったから、レノンは哀しかったんだと思うよ」
 シーラさん、ちょっと…と遠慮がちな声がうしろから聞こえ、彼女がふりかえると、タイジが片手に缶ビールを握ったまま、立っています。ベッドルームに灯りは点けていなかったので、タイジの姿は闇にほぼひとしく溶け込んで、星明りに動く影法師の姿から、ひかえめな呼びかけがもういちど。
「みんなが、シーラさん呼んでる。どこに行ったかって、俺に探してこいってさ」
 それはウソでした。タイジの声は、すこし震えていたかもしれません。でもシーラはもちろん気づかないふりをしました。
「今戻る。お子様寝かせてから。メグ、お風呂入る? バスルームは、中二階にあったわ。ここおもしろい設計ね」
「明日はどうするの?」
「もういっぺんミカエルに行ってみる。レノンが〈暮らしていた〉環境をよく眺めてみたいの。メグも来るでしょ」
「うん」
「おやすみなさい。大人どものドンチャン騒ぎは、まだしばらく続くから」
「シーラさんもつきあうの?」
「夜更かしは美容の大敵。そのうちガーネットさんが退いたら、あたしも抜ける。あとはほっとく」
 ログハウスの寝室は、三つありました。それぞれ二人部屋で、メグはパパといっしょ。シーラとガーネット、ヒョウガとタイジ、ジンさんは適当で、べつにちゃんとベッドに寝なくっても、どこかで酔いつぶれてリビングに雑魚寝もいいか、というところでした。
 メグはかばんからパジャマと洗面用具を出して、小ぶりのトートバッグに入れ、二階から一階へ降る途中の踊り場から、すこし外に張り出すように設けられている三角形のバスルームに行きました。そこは一階からも二階からも同じくらいの距離にあり、トイレもバスルームの隣でした。
 シンプルながら、バスルームはずいぶんゆったりと大きく作られていて、入り口を除いた二面の壁と天井は強化ガラス張り。銀色のシェルターで覆われているのを、スイッチで操作すると、シェードはするすると縮んで、半分以上ガラス越しながら露天になって、さえざえとした夜景がバスルームの上にひろがりました。
 湯船は大人ふたりがゆっくり手足を伸ばして入れるくらいの楕円形。まだちいさいメグにはちょっとしたひろさの温水プールです。
「わー、ロテンブロだー」
 とうれしくなり、サービスで備え付けの入浴剤を、ポン、と投げ込むと、ピンクの泡がプクプク立って、フローラルの湯気がたちのぼりました。脱衣場までは、リビングの大騒ぎが聞こえていたのですが、バスルームの扉を閉めてしまうと、すっかり静かで、自分のたてる水音以外、何の気配もありません。メグはうっすらと桃色に染まったお湯に仰向けにからだを浮かべ、天井をながめました。湯気でガラスが曇って星空が見えないので、換気扇を回し、片側の窓も開けました。大きな風の動きは消えて、微風がそよそよと流れこみ、曇りの消えたガラス天井に、目をこらすといくつか星の光りもちらついて。
(きっと電気を消すともっとよく見える)
メグは思い、湯船からあがり、入り口の脇のスイッチを消しました。緊急時対応に、どの部屋にも備え付けられている二十四時間消えない常夜灯がほのかな明るさをくれるので、真っ暗闇にはなりません。
 涼風に虫の声。さっきシーラといっしょにながめた銀河と星座、夏の大三角形とが、薄暗闇に目が慣れるにつれて、視界にくっきりときらめきはじめ、ガラスサッシを区切るステンレススチールの窓枠も夜空に溶け込んで、ほとんど気になりません。
 琴座のベガ、白鳥座のデネブ、それから鷲のアルタイル…
(うん、おぼえた)
 もういっぺんお湯につかり、上を向いて、シーラさんの教えてくれた星座を探します。
それからそれから、
 赤い目玉のさそり、
「アンタレス」
 と不意に自分の口から飛び出した単語に、メグ自身がおどろきました。えっ?
(さそり座は、ここからは見えないよ)
(見てよ)
(すぐ会えるって言ったろ)
「レノン!」
 自分の思考にねじこまれた自分とは違う思惟の強烈に、メグは、首をつかんでひきすえられる圧迫を感じ、思わずザブリと浴槽に沈みました。
 必死にもがいてお湯から顔を出し、浴槽のへりに両腕でつかまって、天上をにらみます。
 見えないはずのさそり座アンタレス、赤く輝く一等星が、ゆらゆらとバスタブからの湯気に滲んでふっと二つに分かれると、レノンの赤い瞳が夜空の真ん中に出現しました。
(こんばんは)
(やめてよ、へんたい)
(へんたい?)
(あたしオフロに入ってるの)
(だから?)
(TPOを弁えてってこと)
(それじゃ着て出て来いよ。ぼくどっちだっていいんだけど、君のママが会いたがってるから、連れてきてやったんだ。わざわざ)
(えっ)
(バスタブ見てみろよ)
 メグがお湯に目を落とすと、楕円形の浴槽には、天上の夜景がくっきりと映り、なめらかな波紋が規則正しく、波のあわいにまっしろな顔をした安美さんが浮かんでいました。
「ママ、ママっ」
 とメグがお湯のなかに安美さんを抱きしめようとすると、星宿る水面はたちまち乱れ、安美さんは消えてしまいました。
(ママはどこよ)
 レノンはガラス天井に膝をかがめて乗りかかり、メグの動揺を面白そうに見物しています。
(そこに、柳の木があるだろ)
 レノンは痩せた指でバスルームの窓ガラスの外を示しました。
 暗い夜風にさわさわとなびく枝垂れ柳。たしかにそれはバスルームのガラスに添って枝を伸ばし、葉風をためて、もの言いたげにメグを呼んでいるのでした。
(この木にママが入ってる)
 レノンはガラス天井に両手をついて、ひょいと逆立ちしました。すうっと伸びた両足の爪先が、夏の大三角形に突き刺さるようにまっすぐとんがって見えます。
(レノン、あんたの眼が赤いときは悪いことをたくらんでいるときよ)
(それじゃ、消えようか。ママも連れ帰る)
 メグはくやしくって逆上しそうでした。でもママに会いたいので、いそいで浴槽から飛び出すと、脱衣場に戻り、ろくに体も拭かずにあたふたとパジャマをかぶり、もういっぺんバスルームに駆け戻りました。
「意地悪!」
 天井に張り付いていたレノンは、もう影もかたちもありません。壁の一面のガラス窓が大きくひらき、そこから夜風がどっと吹き込み、メグを包みます。メグはバスタブをまたいで、開いた窓から身を乗り出しました。
 大きな柳の木がありました。小学校の柳よりも大きいかも知れません。ほっそりした枝が何本もメグにむかって、手先枝先をさし伸べて、おいでおいでをしています。
 その一本をつかめば、ママがまた現れてくるのでしょうか。メグは窓枠にまたがり、バランスをうまくとりながら、顔のほうへ吹き寄せられた一枝を片手でつかみました。
「ママ、この木の中にいるの? 出てきて」
 すると柳の枝はメグの手のなかで、ぬるりと感触を変え、瞬時につめたい半透明のプラスティックチューブに変わりました。
 わっ、と叫んでメグがふりほどこうとしても、チューブは白い小蛇のようにメグの手首にからみつき、腕を這いのぼり、パジャマの袖口から胸へすべりぬけ、あっというまに首にたどりつくと、否も応もなく、狙い定めていきなりズブッと、メグの鼻腔に突き刺さったのでした。
 このとき同時に、リビングにいたシーラの、 首筋から眼球の奥にかけて稲妻のような鋭い火花が散って反射的に立ち上がりました。
(何があった? 何かあった!)
「あれー、シーラちゃん、どったの?」 
 とべろべろの上三文字くらいまで酔っ払った駿男さんが、ギター片手ににじり寄るのを、
「ちょっと……」
 と微妙な行く先をつくり笑顔でほのめかして、そのころはソファからずり落ちて泥酔しているジンさんをまたぎ、フロアからまっすぐ玄関へ走りました。
「トイレそっちじゃないぜ、おい」
 とウワバミヒョウガはふらつきもせず、異変に気づいたタイジと目配せし、シーラのあとを追いかけました。タイジは息せききって
ぴったりくっつき、
「どうかした、シーラさん」
「音が聴こえなかった?」
「えっ どろぼう?」
「いや、ちがう」
 どしっ、と、そのときもういっぺんシーラの、今度は全身に重い衝撃が奔り、サンダルを穿きかけたシーラの膝が、あやうくガクンと折れそうになりました。かろうじてその衝撃をこらえ、夜風ざわめく庭先へ。といってもログハウスを一歩出れば、すぐに高原の自然林で、ところどころに遊歩道を示すスポットライトが橙色の灯りを投げかけている他は、月明かり星影だより、何が起こったのか、じつはシーラにもわからないまま、ただならぬ物音の気配を勘に頼って、玄関からぐるりと裏手に回りました。
 中二階バスルームの三角屋根が、まっすぐ軒を伸ばして潅木の繁みに届き、夜の闇がそこだけ浴室からの光に割れている只中に、メグが仰向けに倒れていました。潅木の下は、ぼうぼうと雑草が生い茂っていますが、人ひとり落ちたとして、それを受け止めるには決して柔らかいとは言えない地面です。
「メグ…」
 とシーラは傍らにしゃがみこんで、耳に口を寄せ、何度も呼びかけましたが、かたく目をつぶったメグは無表情に応えなし。
「シーラさん、どしたの、メグさん」
「落ちたらしい、窓から」
「何で?」
「知るか! タイジ、救急車を呼んで。動かさないほうがいい。呼吸はある、出血も見たところないみたい」
(パジャマを着ている、なのに髪がぐしょ濡れ、乾かしてもいない、もしかして)
 とシーラはメグの寝間着の中をさぐり、肌着を着けていないことを確かめると、喉に熱いかたまりのような後悔がこみ上げました。
「おい、シーラ、これ、この子の帽子か?」
 ヒョウガは目ざとく、メグの転がっているところから数歩先の枝に、まるい麦藁帽子がひっかかっているのを発見しました。
「そうよ」
(なぜこれが)
 帽子には真昼、ミカエルの前庭でシーラが摘み取り、帽子のゆるみかけたリボンを締めなおすついでに挟んであげたコスモスが、しおれかかって……
(花が、あたらしい)
「レノン!」
 ピンクと白のコスモスは、たったいま摘んだばかりのように、みずみずしく生気にあふれ、帽子の青いリボンを飾っていました。
「レノンだって? シーラちょっと見てみろよ、この木、ざっくり折れてる、雷でも落ちたみたいだ」
 麦藁帽子がひっかかっていた木は、この地方には珍しいかもしれない大きな柳でした。ヒョウガの肩先よりすこし低い位置でふたつに大きく枝別れした幹の一方が、なまなましく樹皮を割き、うちがわの白い年輪を無惨にぱっくりさらけだし、折れ曲がっていました。
「雷じゃないわ。焦げ臭くない」
「そうか。おい、この柳の枝の先、メグの下敷きになってる。メグは屋根から落ちるとき、この柳にぶつかったのか?」
「わからない」
 ヒョウガの指摘したとおり、折れ伏した柳の枝は、ことさらそろえたように何本も束になって、潅木の根元にころがったメグの体の下にありました。
(メグ、何があった)
 シーラはメグの呼吸にともかく乱れがないのを確認すると、彼女の顎をかるくつかみ、その額に自分の額をくっつけました。
(メグ、君の見たものを見せて)
 ビリッ、とシーラがメグの内側に入った刹那、傍にいたヒョウガにまで、静電気のような刺激が伝わりました。
 次の瞬間シーラは顔をあげ、塗りこめるような森の闇をまなじり吊り上げてぎりりと凝視し、はっきりと憎悪をこめて、
「レノン!」
 とまた一声。
「レノン? レノンって何だよ。何が見えるんだ。シーラ、頼むからひとりだけで自己完結しないでくれ」
 ヒョウガはいらいらしてシーラの華奢な肩をつかんで揺さぶります。
「殺してやる、あいつ」
「おまえ、気でも違ったの? ジョン・レノン、とっくに死んでるぜ」
「離せ」
「落ち着けってば」
「ヤツが来たんだよ」
「だから、誰が」
 揉みあいはじめたところで、救急車のサイレン。タイジもいっしょに戻り、
「ラッキーで早かった。え、ふたりとも何やってんの」
 ここにタイジの嫉妬が挟まる余地はない緊迫。救急車はあわただしくメグを担架で運び、付き添いは、シーラとガーネット。酒気ふんぷんの男どもは締め出されても仕方ないか。
「あんたたち酔いが醒めたら来なさいよ。ヒョウガはリハでしょ。つぶれちゃったジンさんとへべれけパパさんは厄介だから目が覚めるまでほっといて」
 とテキパキと仕切る冷静なガーネットでした。夜更かしにもかかわらず、いっこう崩れない彼女の的確な挙措動作に救急隊員は目を剥き、
「お母さんですか?」
 尋ねるのに、ガーネットは、
「いえ、叔母です。こっちがあたくしの娘」
 とシーラの身元説明まで、すらすら言ってのけました。
 走り出した救急車の受け入れ先は、近辺では、もうここしかない星隷ミカエル記念病院。
 夜明けにはまだ間がある森の中を、サイレンを消して救急車が走りだし、呆然と見送るタイジとヒョウガでした。
 フイフイフイ…とヒグラシの最初の高鳴きが響き、すぐに朝の潮のように時間の経過を告げるヒグラシのユニゾンが森中に満ちて。

「憎悪に心を喰われたらヒーリング……癒しはできないわ」
 中央検査室の待合室の椅子に前かがみ深々と座り、床に視線を落としてじっとしたまま動かないシーラの前に、かるい足音がたちどまりました。病棟の高い天井によく透る声を聴く前から、その足音だけで、シーラにはハト先生とわかっていました。
 幸運、というのか因縁と呼ぶべきか、その晩の当直医はハト医師で、救急車で担ぎこまれたメグは、外傷皆無、呼吸心拍、まったく正常、と診断されました。貧血なし、脳波心電図問題なしで、間もなく覚醒してもいいはずなのに、数時間たっても眠り続けたままの異常に、ハトは首をかしげましたが、シーラは驚きませんでした。
「スキャンの結果はどうなんですか?」
 とシーラは自分の心象に接触しようとするハトの言葉をかわし、即物的に尋ねました。尋ねなくても答えはわかっていました。
「脳に異変はありません」
「なぜ眼が覚めない?」
「精密検査の必要…」
「ないわ」
 ハト先生の言葉尻を、シーラはもぎとるように遮りました。
(失神しているわけじゃない。メグをつかんでいるのはレノンだ。彼が離さないので目覚めない)
「診断するのは医師の仕事ですよ」
「なら、診断だけ告げればいい。なぜここでヒーラーの資格を問うの?」
「……」
「先生は、声だけではなく、足音までさわやかなんですね。遠くから響いてくる足音だけで、看護師ではなくあなたとわかるわ」
「ありがとう。でもそんなに敏感なのは、あなただからよ」
 ハトさんは、うれしそうに目をほそめました。緊急対応に追われ、ついに一睡もしていないので、ほつれた髪が頬にふりかかっているのがかえって若々しく、空色のユニフォームを着ていても、医師というよりも、ふつうのきれいな女性のように見えました。
(憎悪や怒りは癒しの力を損なう。よく〈知って〉いるわ。あたしはこれまでヒーリングの場で感情に捕らわれて乱れたことはなかった。それはきっと今までひとりで行動してきたからだと思う。自分以外の誰かといっしょにケアしたことはない)
(常に冷静でいられた?)
(浮遊霊や自縛霊とは、一定の距離を置かなければ危険よ)
(生霊もね。このレノンも)
(彼は際限なく欲望する)
「そうかしら? 欲望はどこかでカタルシスを求めるものよ」
 と、ハトは声にだして言いました。シーラは顔をあげ、羽戸千香子をあらためて見つめなおしました。
「浄化されたい、と」
「それがヒーリングでしょう? あなたはヒーラーとしてケアすることで、あなた自身が癒されてきたはずだわ。……踏み込みすぎね。もうやめる。ともかくメグは内因外因ここで診察するかぎり大事はありません。意識が戻らないので、とりあえず一般病棟に移っていただくわ。北ウィングの111号室」
「レノンの部屋のまん前か」
「偶然にしてはできすぎ?」
「そうなるよう彼が仕組んだのよ」
「……声がつらそうね、シーラ」
「感情は原始的なエネルギーで、ことに怒りは自分が正しい、と盲信したときに発現するものだからたやすいし、しばしばナルシスティックでさえある。あたしはメグに対して責任があったし、あるわ。だからレノンを憎み、怒り狂えば、自分の罪障感から逃れられる」
「そこまでクールなあなたは魅力的よ」
「せっかくだけど、今は喜べない。ひとつ聴きたいわ」
「どうぞ」
(いつから〈心の声〉を使えるようになったの?)
(……あるきっかけで、カトリック教会の黙想会に参加するようになってから)
(黙想会?)
(泊りがけの座禅みたいなものかしら。浮世から離れて、修道院で数日、誰とも口を聞かずに、瞑想する。神の声を聴く、という)
(先生はクリスチャン?)
(いいえ。洗礼は受けていません)
(最初にハトさんに接触したのは誰?)
(聖霊) 
 ハト医師はぷいと横を向き、曇りのない整った横顔を窓に浮かべました。きちっとした唇の輪郭が普段よりすこし固く結ばれ、それは、自分ではほどけない心の結び目を、誰かにほどいてもらいたいのかもしれない、と感じさせるような唇の表情でした。
夜明けのうっすらとした明るさから、太陽はもう真昼のまぶしさを加え、壁を隔てて聴こえてくるのも、敬虔な祈りのようなヒグラシの斉唱から、鼓膜にじりじりと焼けつく油蝉へと変わっていました。
 踏み込みすぎか、とシーラは立ち上がり、
北ウィングの111号室に向かいます。
「メグはもう病室でしょう?」
「ええ、ガーネットさんが付き添って。あの方が、あなたのお母さま?」
「そうしておきます」
 ハト先生はぷっと吹き出し、
「あなた方とは、初めて会った気がしないわ」
「たぶん、あたしたちもそう感じているはずよ、ハト先生」

 北ウィングの101号室と廊下を隔てて真向かいに111号室。清掃のおばさんがワゴンを押してシーラとすれちがったほかは、ひっそりとして物音もしません。重症患者のホメオスタシス保持と感染症予防のために、窓を開けて風を入れることも避け、エアコンを低めに作動させ続けながら、規則正しく並ぶ各病室には、すくなくとも十人の患者が眠り続ける他は、清潔すぎるほど生き物の気配のないこの建物は、
(夏休みの学校とおんなじだ)
 メグの悪夢や幻視には、たびたび〈学校のような〉四角い建物が現れてきたっけ、とシーラは思い出しました。
 101号室、安宅礼音のネームボードをちらりと横目にながめ、シーラは111号室をノックしました。
 返事がないのでそのまま入ると、新しい患者のために、とりいそぎ振り撒かれたのか、ラヴェンダーの消毒液の匂いがいかにも濃くただよい、白い布団に埋もれて眠っているメグはさておき、窓辺にもたれ腕組みして、豹河がシーラを待っていました。
「おはよう」
「驚かないヤツだな、おまえ」
 ヒョウガは目を光らせ、顎だけで笑ってみせました。
「リハ日でしょ」
「これから行く」
「ガーネットは?」
「部屋が殺風景すぎるって、庭へお花摘み」
「時間かけてたくさん摘んで来いって?」
 皮肉ともつかないシーラの台詞が終わらないうちに、ヒョウガはいきなり腕を伸ばし、シーラの肩をつかみました。
「いい加減にしろよ。レノンって、あのガキのことか。あいつが元凶なんだって? 行方不明も、この子の転落も。ちゃんと言えよ。俺だって一度はパラレルにいっしょに飛んだじゃないか」
「ひっぱったのはメグ。あたしじゃない」
「だから、俺には言わない?」
「隠すつもりじゃなかったけれど、ペラペラ説明して〈理解〉できる世界じゃない」
「信じることはできる」
「そうかしら」
 ぱしん、とかるい音をたててヒョウガのてのひらがシーラの頬を打ちました。痛くないように、そっとヒョウガはシーラのほっぺたを殴る〈フリ〉して。
「俺、タマヨビだろ?」
「いい演奏家はみんなそうよ」
「どこまでも可愛くないヤツだな」
「生まれたときからこの美貌」
「そんなひねくれが、なんでヒーリングできるんだ」
「向うから癒してくれと寄ってくる。ヒーラーってそういう役回り」
 シーラはヒョウガの手をおしのけ、ぶかぶかと大きい病院のベッドに寝息をたてているメグを覗き込みました。
 あどけない、ごく普通のこどもの寝顔でした。濡れていた髪はすっかり乾き、顔色もつやつやとしてほんのり赤らみ、眉も目許も涼しくて、どこにも苦しげな気配などありませんでした。が、シーラは
「七時間は過ぎた。なのに眼が覚めない」
 ヒョウガはものも言わずにうしろからシーラを抱え、彼女の両手を押さえました。
「ひとりで飛ぶつもりだろ」
「メグを連れ戻す」
「俺も連れていけ」
「あいにくだけど、あたしにはそれほど力がない。メグならできるんだ。レノンはすごく頭がいい。わかっていて、一番最初にメグをひっかけた」
 それに、とシーラは首筋におしあてられたヒョウガのくちびるを、体を半回転してひきはがし、真正面に思わずたじろぐヒョウガの顔を両手ではさんで、ふっと笑いました。向かい合うと、まだシーラのほうがいくらか背が高いのです。
「あなた、ずいぶん背が伸びたわ」
「179センチたぶん」
「あとすこしであたしを超える」
 そのままシーラは顔を寄せて軽くヒョウガの下唇を噛みました。それから、
「ヒョウガはビッグステージでしょ?」
「大物はソーヤで、俺じゃない」
 ヒョウガは、離れようとするシーラをつかまえて、もういっぺん、自分からキスしました。小鳥があいさつするように。あるいは餌を分け合うようなくちづけでした。
「観に行けたら行くわ」
「来なくていい。嫉妬してくれ」
 お取り込み中ナンデスガ、とドアの向うからノックと声がいっしょにかかり、野花を片腕に抱えたガーネットがあらわれました。いつ着替えたのか、さっぱりした白いカフタンブラウス、黄色いサブリナパンツです。彼女は、日焼け防止の白い長手袋をちゃんとはめ、もういっぽうの手を、こどものいたずらを発見して叱るときの先生のように腰におしあてて、胸をはり、
「駿男さんが来たわよ。ミネちゃんと。ジンさんは宿酔で居残り」 
 母親の前では、さすがにヒョウガもつつしむのでした。彼はすっと両手をひろげてシーラを離し、
「それじゃ、俺行く。メール出すから。たまには返事くれ」
「タクシー?」
「まさか。エコバイク」
 というのは自転車のことです。
「ったく愚息は、母親にあいさつもなしね」
 さっさと消えてしまったヒョウガに、ガーネットは舌打ちしました。
「あいさつ?」 
 怪訝な顔をするシーラに、ガーネットは、
「ハグくらいして行ってもいいんじゃない? ジャンなんて、毎朝毎晩ちゃんとキスしてくれたわよ」
 そうだった、とシーラはジャン・フランソワの名前から、小舟の上を、鞠のように飛んでいたドミニクを思い出しました。
(ドミもいた。はっちゃんも。アスカさんはもしかして死んでる? 美大のカップルは……。パラレルに入っていなければ、みんなみんな夢の出来事だわ。現実感のない…うつそみの外側をすりぬけてゆく実体のないゆめ)
「ガーネットさん」
「なあに」
 ガーネットはちょっと顎を斜めにひいて、わざとらしい上目遣いとイントネーションで応えました。シーラは苦笑し、
「あたし、これからパラレルに入る。体はこっちに残してゆくから、できればメグのそばに置いてほしいの」
「ええっ?」
「このミカエルにいるうちは、この病室に簡易ベッドか何かで、意識が戻るまで。あたしが戻るときはメグも戻る。パパたちには夏ばてとか過労とか、うまいこと誤魔化して」
「そんな急に」
「急を要するの」
「わかった……なにか欲しいものある?」
 相手の決意を見定めると、対処の機敏なガーネットでした。
「そうね。さしづめコップ一杯の牛乳。一リットルパックでもいいから」
「わかりました。必ず帰ってきて。そして、いざとなったら呼んでちょうだい。できることがあるなら。愚息よりマシでしょ」
 ガーネットが、花束を残して出てゆくと、シーラは庭から摘んできたばかりの野花を、そのままメグの顔の横に置きました。
「レノンの方からも入れるんだろうけど、心が乱れちゃうから、君を通る。なんだってそうだけど、いとしい感情のほうから近寄っていったほうがうまくいくんだ」
 メグの髪が湿っているのは、すこし汗ばんでいるからなのでしょう。シーラはメグの前髪をかきあげると、彼女の上にかがみこみ、昨夜のように額に額をおしあてました。ふと、星の王子様が、砂漠で蛇に噛んでもらって、地球を離れる瞬間が心をよぎりました。
(薔薇に再会するために)
 顔を寄せると、メグの頬や首筋から、ふわっとまろやかなこどもの匂いがたちのぼってシーラの鼻腔にあふれました。いいえ、それは、もうこどもではなく、さりとて大人ともつかない少女特有の……枕元に置いた新鮮な野花の香り、摘まれたばかりの茎からたちのぼる青臭さ、太陽に灼かれたはなびらの匂いが混じった、なつかしく、またほのかに心が浮き立つ香りでした。
ガーネットが売店から紙パックの牛乳とフルーツジュースを買って戻ってきたとき、病室の床にシーラがメグのベッドに向かって横向きに倒れ、そこらじゅうに摘んできたコスモスや百日草、鳳仙花…が散乱していました。

サイコ・ヒーラー 6 シトリン

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6 シトリン   

 結局、レンタカーではなく、合宿メンバーとは現地集合、諏訪南ICで待ち合わせになりました。シーラを助手席に乗せてルンルン気分(メグや他のメンバーのことなんか、ほとんど念頭にない)という都合のよい夢をふくらませていたパパは内心ずいぶんガッカリしたのですか、そこはそれ、男手ひとつで愛娘を育てている人一倍の子煩悩だから、当日は夜明け前からお弁当づくりに精を出し、お稲荷さんに唐揚げ、出し巻き卵やら、もうピクニック気分上々でメグといっしょに朝六時には高速道路に乗りこんだのでした。
「メグー。シーラさん以外のメンバーってどんなひと?」
「えっとね。峰元太地さんていう美大の男の人と、ガーネットさんと、それからヒョウガっていう子とー」
「なに? ガーネット?」
「うん。美人だよ」
「へー。ダンサーか何か?」
「アタリ」
 美人と聞いてパパはニコニコし、峰元君の名前は、そのままローリングストーンズのBGMといっしょに開けた車窓から消えてしまいました。
「女優さん? シーラさんみたいな感じ?」
「会えばわかるよ」
 ったく、とメグは眠気覚ましのクールミントガムを噛みながら、ガムよりひややかにパパのにやけ顔を観察するのでした。
(しょうがないよね。美人しかキョウミないんじゃない、パパはぁ)
 あ、でもシーラさんも男なんだっけ、とメグはすこし思慮を深くしました。
(それわかったら落ち込むかなー。でも、シーラさんの魅力って男とか女とか関係ない感じ)
 高井戸ICから乗り入れた中央高速は観光シーズンとはいえ、お盆の帰省ラッシュ前なので、ところどころ短い渋滞はあったものの、割合空いていました。
 メグは、ふだん忙しくてゆっくり音楽も聞けないパパが、ここぞとばかりにかけまくるオールディーズのBGMを聞き流し、ごたごたした都心を抜けてほどなく、ひとつトンネルを抜けるごとに眼の前に次々に現れる緑深い山間の光景、やがてなだらかに傾く斜面に葡萄園を擁した甲府盆地のすがしさ、その向こう側にひろがる朝の夏空はるか、真正面にゆったりと青い裾野をひく八ヶ岳の山容に目を奪われていました。
「やあ、きれいだなあ、とうとう来たぞ」
「もう長野県?」
「まだ山梨。この青い山越えたら、信州だ。八ヶ岳って、パパも初めて見たけれどいいねえ。てっぺんのぎざぎざは、昔富士山と喧嘩して出来たんだって」
「喧嘩?」
「まだ人間がこの世にいない頃、富士山と八ヶ岳と、どっちが背が高いか競争して戦った。勝負は富士山が勝って、槍でぼこぼこに八ヶ岳のアタマをぶんなぐったから、あんなふうに八つもたんこぶにナッタンダトサ」
「たんこぶが固まったの?」
「そういうことらしい」
「特大ウソっぽい」
「パパもそう思う。だけどさ、神話とか伝説、オトギバナシとかって、その嘘っぽさが浪漫なんじゃない? わかる? 浪漫ですよ」
「あ、そういう言い方って、メグをばかにしてるよ」
「違います。パパは君に敬意をはらってる」
「ケイイ?」
「そ。君がね…」
 パパはちょっと口を噤みました。パパの口元は、そのときとてもおいしいものをだいじに頬に溜めて、なかなか飲み込まないでいるリスみたいに、すこし膨らみました。
(メグが、まだしばらく当分、人生では嘘っぽいくらいピュアなシーズンを生きているってことに)
 なぁんちゃって、とパパは、ごっくんと溜めた言葉を呑みこんでから、声には出さずにつぶやきました。メグは眼の前にひろがり、どんどん裾野をひろげながら近づいてゆく八ヶ岳の美しさに見とれています。

 高速で、何度かトイレ休憩をはさみながら、親子が茅野に着いたのは約束の時刻より少し遅く、もう午後にさしかかっていました。陽射しは濃く照りつけていますが、車から降り立ったメグは、高原の風と光とが、高速道路の排気ガスにも遮られずに、ここまで涼しく流れ、肺に吸い込む空気がそれまでとはっきりと違う澄んだ快さに深呼吸しました。
パパは、その時刻にはもうぎっしりと混雑しているインターチェンジの駐車場をきょろきょろと見回し、
「シーラちゃん来てる? 彼女どんな車?
運転するの?」
「どんなって言っても、メグよくわかんないけど、かっこいい車だった」
「カッコイイねえ。ガーネットちゃんその他大勢といっしょだろ?」
「わかんない……あ、あそこ、ガーネットさんだ!」
 駐車場いっぱいに出入り絶え間なく、ひしめいている車の並びの中には、外車も何台か混じっています。ひときわ目立つ洗練されたボディラインと、特注カラーに違いない深緋のシトロエンのそばに立ったガーネットが、すばやくメグを見つけ手を振って合図しました。
「おおーすごい。セレブ車じゃないか」
 パパは目をまるくしましたが、こっちにやってきたガーネットには、もっと圧倒されてしまいました。
 胸の鎖骨を見せて、大胆に鋭いⅤネックの切れ込んだ爬虫類パイソン柄の袖なしトップス、たぶん日焼け止めのミティをかねた、幾何学模様の黒レースの長手袋。パイソンは腰骨の上までぴっちりと上半身を包み、胸からは同色ヌードカラーのシースルーネックになっていました。ボトムは車と同じ深緋と黒の混じったシルクリネンのタイトスカート。パパはあんぐりと口をあけてガーネットの胸元からタイトスリットまで眺めおろし、とっさに挨拶の言葉も見つからないようでした。
東京からここまで、ガーネットが運転してきたのでしょう。サンダルはヒールの高いものではありませんが、オープントップスの、甲の部分だけ豹柄の毛皮で、踵や足首は繊細な手編みベルトとおしゃれでした。トップスもスカートも、小柄ながら均整のとれたスタイルの彼女によく似合っていました。
 ガーネットは毛先までつやつやと手入れした耳までの黒髪を、かるく左右に揺するように微笑み、
「はじめまして」 
 とても可愛らしい声でした。
ルージュつややかな口角をつりあげて笑顔をつくると、しみ一つ見えないなめらかな頬と目元に、ふわっと淡い笑い皺がうかびましたが、それさえも実年齢を測れない不思議な魅惑のアクセントとなるようでした。
「吉良ガーネットです。風間さんですね」
「風間駿男です。メグの父で。娘がお世話になっております」
 いやあ、とパパは気圧されて、まだ次の言葉が出せないのでした。
(キラ・ガーネット? オドロイタネー…シーラちゃんといい、どっちもタダモノじゃないし、タダゴトとちがうぜ、もしかして)
 そのとき、ガーネットのうしろから、
「こんちはあ」
 とその他大勢の二人がぬっと現れ、現場の雰囲気はガラリと変わりました。
「あれージンさんも来たの?」
「そうよぉ。だってメグのパパも来るって言うからさ。ぼくだって負けてらんないよ」
 ジンさんは、絶句しているパパを歯牙にもかけず、フリルいっぱい姫系花柄ワンピを着たメグを見て、にやっと笑いました。黒い麻の長袖シャツに、ベージュのコットンパンツ。どこのブランドなのかわかりませんが、どっちも結構高そうです。靴は彼のトレードマーク、ちょっとクラシカルな白と黒のコンビでした。このひと、服装はいつもずいぶん洒落ているのに、これもいつもながら、なぜか顔は無精ひげだらけで、ヒゲヅラだって、ちゃんと手入れして伸ばせばそれなりにサマになるものを、わざと中途半端に見苦しくしたいのか、顔中もしゃもしゃにしているのでした。
「はあ?」
「ジンさん、まず挨拶だってば」
 とタイジはジンさんの脇腹をつついて促し、
「峰元です。よろしくお願いします」
「どうも」
 パパはハンカチをポケットからとりだして、オデコの汗を拭き、日常レベルに頑丈な好青年のタイジにほっと息を吐きました。
「それで、シーラちゃんは」
「あそこ。いちばん早く来てた」
「どこ、ええっ」
 とパパはまたすっとんきょうな声をあげました。
 車両の駐車区画からはずれて、二輪車の列。そんなに遠く離れてはいないものの、彼女の姿がパパにわからなかったのも当然で、サングラスをかけたままのシーラはパパの驚きを楽しんでいるみたいに腕組みしてこっちを眺め、メグと目があうと、かるく片手の親指をたてて、ほのかに笑って見せました。
「シーラちゃんの愛車って、ハーレーダビッドソンかあ」
(たしかにカッコイイ。よすぎる)
と、またパパはため息を吐きました。
 ハーレーにかるく寄りかかるように立ったシーラはセミロングの髪を無造作にうしろでひとつ束ね、白っぽいTシャツに膝の抜けた、こちらはたぶんヴィンテージのブラックジーンズ。かなり履きこんだブルーと黒のバイクブーツ。
「あたしが一番早かった。たいていそうだわね、どこでも」 
「二輪はコマワリが効くからよ」
 ガーネットは、シーラのTシャツの派手なプリントをちらりと見て、すこし愁わしげに眉を寄せ、
「曼荼羅?」
「そう、胎蔵界曼荼羅。背中には金剛界」
 シーラは唇の端だけでふふっと笑い、バイクの前で、くるりとうしろを向きました。
 正面は緑と赤の正方形に密教の諸仏巡らす胎蔵界、背面には青地に金色、九つの正円チャクラのまわる金剛界マンダラ。
「夏の旅はじめ終わりの果てしなさ」
 シーラのつぶやきにジンさんはあっさりと
「だよなあ…。いくら食っても、時間がたてば必ず腹は減るもんなあ。生きるって腹が減るなり果てしなく」
「それって健康ですよ。空腹感じなくなったら、ヤバイ」
 とタイジ。みんななんだかちょっとシンとしました。
「なんだよ、集合そうそう頭上を天使が飛んでいくぜ」 
 とジンさんは酸っぱい顔です。
「ぼくお弁当作って来ましたけど」
 駿男さんがおそるおそる口を挟みました。
「へえ、何?」
 ジンさんは、しゃあしゃあとパパを覗き込み、でも視線だけは相手の眼から逸らして尋ねました。
「五目稲荷とサンドイッチ」
「お、オチが出た」
「なんすかあ」 
 と。タイジはむしろほっとしたように聴きました。ジンさんは、体のどこにも芯がないように、ゆらゆらしながら、暑そうに髪をかきあげ、
「成仏するときもさ、気楽がいいよな」
「だから?」
「南無三 カーサン、ハムサンド」
「あー、いっきに冷えました」
「ばかいえ、ちゃんとかあちゃんにだけは礼は言うもんだ」

 ICを降りて長野県側から八ヶ岳をながめる152号線を登り、道は途中で二股に別れ、一方は南側の茅野市寄りに蓼科湖、そこからさらに音無川沿いに大門街道を北に登ると車山高原と白樺高原がひらけて、白樺湖。どちらも八ヶ岳の山容美しい森の湖でした。
「蓼科ローランサン美術館は、もう閉館していて、先生は蓼科湖と白樺湖を勘違いしておられたんです。ネットで調べたら星隷ミカエルは白樺湖畔、しかもずっと山奥、ていうか霧が峰に近い。先生が信州に来られたのは、もうだいぶ前のことだから、間違っていても無理ないです」
 タイジは後部座席で、メグのパパから分けてもらった五目稲荷を頬張りながら説明しました。
「残念ね。あたしはローランサン好きなの。シャネルの肖像描いてるでしょ? 甘い色彩で……柔らかくって、でもココ・シャネルの内面の陰影をちゃんと表現してるわ」
「ガーネットさん、シャネル好き? だろうナー」
 と助手席に陣取ったジンさんは片方の眉をぴくりと動かすと、やはり駿男さんの手作りサンドイッチを一切れ食いちぎり、
「今日の香水は五番?」
 と違う方に話題を逸らしました。
「いいえ。五番は東京で、夜に〈着る〉つもり。モンロー風に」
「じゃ、何?」
「クリスタル」
「へえ、行く先が高原の湖だから?」
「違います。……それもあるかしら。でもどっちかっていうと、豹のため」
「ヒョウガ? なんで?」
「今にわかるわ」
 いまに、と少し強めのイントネーションで、ガーネットは、ジンさんのへらへらした問いかけをさりげなく打ち切り、
「ミネちゃん、どうしてミカエルがパラレルの混在点と予測できたの? 花緒さんの作品にそっくりな絵というだけで?」
「ぼく、星隷ミカエルに、直接問い合わせたんです。トップ画面の絵がとてもすてきで、気に入ったんですが、なんていう画家の作品でしょうかって」
「それで?」
「代表のひとも詳しい事情は知らなかったんです。事務職ですもんね。だけど親切で、ホームページ制作担当した部署につないでくれて……個人情報だから、どうしようか迷ったんですけど、利用者さんの先生の名前と、その病院に勤務しているっていうお孫さんのことを話したら、すらすらと運んだ」
 星隷ミカエルのホームページは、プロではなく、院内のパソコンマニアの看護師と広報担当の事務職員の何人かが共同で作っているそうです。そのひとりが、タイジの問いに、
「写真家のお孫さんて、内科の羽戸先生ですね。トップ画像も、羽戸先生が選んだんです。今日、先生は茅野地区に往診されてご不在なんですが、あの絵は、先生が院内で担当されている患者さんの病室にある作品です」
「それじゃ本物なんですか?」
「複製画じゃないと思いますよ。画家の名前まではわたしたち知りません。先生ならご存知かもしれません。ただその絵は、羽戸先生の所有ではなく、患者さんのものだと思います。もちろん使用について、ご家族の許可はいただきましたけど…ね」
 言葉のおしまいは、全部をはっきりと言い切れない、あるいは言いたくないような、曖昧で、困惑したニュアンスが漂いました。タイジはすばやくそれを察して、
「わかりました。また改めてお電話さしあげます。念のため、羽戸先生のお名前をフルネームで教えていただけますか?」
「羽戸千香子先生です」
 ありがとうございました、と言って電話をきってから、その後何度かタイジはミカエルに連絡したのですが、千香子先生とはそのたびに行き違い、直接話すことはできなかったのでした。……
「それだけなんですが、シーラさんは、もう充分だって」
「そう。あのひとが決めたんなら、右に出ようと左に向かおうと間違いないでしょ」
「うまいこと言うねえ。たしかに道は急カーブ。二転三転、どうなることやら」
 とジンさん。タイジもめずらしくジンさんのからかい半分な言葉にうなずき、
「ほんと、ピッタリですね。当っていようとハズレだろうと、シーラさんなら間違わないという」
「はずれはないのよ。この世界に。迂回もするし落とし穴もある。行き詰まりもね。だけど行き詰まっても、必ずどこかに抜け道がある、というパラレルの迷宮」
「さて、こぉこはどぉこの細道だろうね」
 とジンさんちょっと鼻歌まじりになりかけ、そこでふと真顔に戻ると、
「ところで、俺いっぺんもちゃんと訊いてなかったけど、あの親子、親父はともかく、娘はどうなの?」
「どうって?」
 とタイジ。
「可愛いし、素直でいい子だ。何も知らずに親父さん、掌中の珠みたいにかわいがっているじゃないか。俺たちの旅って、実は相当危ないんだろ?」
「ええ…」
 とタイジは、飲み込んだ稲荷寿司が胃袋のなかで(シャレでなく)ずしっと重くなりました。
「メグさんだけを連れ出すわけには行かなかったんです」
「まだ子供だもんな」
「でも、あの子だけが、たぶんその〈少年〉とじかにコンタクトできるのよ。戦う、とは言わない。あたしたちは戦士ではなく癒し手、ヒーラーだから」
「あたしたち……って、俺も?」
 とジンさんは缶コーヒーを飲みながら、目をまるくしました。タイジは、ガーネットが否定するのを期待したのですが、彼女は何のためらいもなく、
「そうよ」
(ええー? ジンさんも?)
 とタイジは正直、テンションとモーチベーションが激減する気がしました。ところが、ガーネットは、そんな彼の動揺を察したように、
「ヒーリング、というのは個人ではなく時空が与えるものなのよ。その時空、磁場に居合わせ、働く力の容器になるものは、誰でもヒーラーなの。もちろんひとりの人間に向かって、その力が集中して現れることもある。でもそうじゃないときも多々あるの。一個人に集中するほうがむしろ稀れ」
「わけわからん」
「あなた、カチカチの現代アタマだもの」
「現代じゃなかったらわかるのかい」
「ええ」
 ガーネットの口調には少しも迷いがありませんでした。彼女は、ゆるゆるとシーラのハーレーを目で追いながら、バックミラーに映るタイジにも、謎めいた微笑を泳がせ、
「だから、ミネちゃんもそのひとりなのよ。がっかりしなさんな」
 へえん、とジンさんは肩をすくめました。
「オイラ、かちかち山のたぬきでござんすってとこ?」
 ガーネットは銀色のシャドウを散らした睫毛を片方、ぱちんとかるく助手席のジンさんにウィンクして見せて、
「ご謙遜を。あなたずっとハムサンドよ」
 ガーネットさぁん、とタイジはサスペンションたっぷりのシートに座ったままズリこけ、
「ハンサムって言いたいわけ!」

 葉風さやぐブナや小楢、ダケカンバの森に囲まれた星隷ミカエル病院の駐車場に降りたとたん、頭上いっぱいあふれかえって鳴きしきるヒグラシの声に、メグは驚きました。それまでずうっと車中で鼓膜にねじこまれていたパパの趣味のロックサウンドがいきなり止んで、ふいに四方八方、地面からまでも湧き上がるように数知れず、鈴を降るそのユニゾンは響きわたり、声は樹間に谺を呼んで、いっときも絶えない鈴声の連続です。
それでも、最初数秒の驚きを過ぎると感覚はじきに刺激を忘れ、ずっと前からそこにいたように気持ちのなごむ晩夏の気配一足早いヒグラシの森でした。
 潅木、針葉樹の自然林の中に涼しげな白樺の幹が目立つ森影は、西に傾く陽光したたり、流れる風にさらさら、さわさわと葉裏を見せて木洩れ日がそこかしこで踊っていました。
「病棟と駐車場は離れているんです」
 シーラはヘルメットを脱いで、駿男さんに近づくとサングラスをはずし、彼の眼を見据えて、
「風間さん、あたしたち、この病院で慰問公演することになっているの。今日はとりあえず御挨拶と下見に来た、ということ」
 パパのすぐそばに立っていたメグは、シーラの眼がカチリと鋭く光り、メガネの奥のパパの瞳孔が、それに反応して、瞬間パッと拡がったのがわかりました。
「パパ…」
 メグは心配になり、パパの手を握って、ひっぱりました。シーラはそんなメグを柔らかく見下ろし、
(暗示にかけたのよ。パパは何も知らない。説明しても混乱するだけだから)
 シーラの声は、頭の中で聞こえるのでした。シーラの言うとおり、駿男さんはまるで顔の周囲に群がる薮蚊を追うように、ちょっと首を左右に振ると、
「もう慰問先まで決まってるんだねえ。メグは歌とか台詞とか覚えられるの?」
 と、のどかなリアクションを返しました。
 メグはほっとしてパパに笑いかけ、シーラに、
(これでもうパパは何も心配いらないの?)
(パパが心配することは何もないし、あたしたちがパパに気兼ねすることもないわ)
 傍目には、じっと黙って視線を合わせているように見えるシーラとメグの様子を、シトロエンの三人組は、すこし距離を置いて、複雑なまなざしで眺めていました。
「ガーちゃんには、あの二人の間に飛び交う信号か何かが聞こえる?」
 ジンさんはガーネットに尋ねました。ガーネットは小首をかしげてnonと答え、タイジは寂しそうに横を向き、さみどりの葉っぱの重なりさやぐ夏空にむかって両手をのばし、思い切り背伸びをしながら、
「キモチいい。空気の味が違う」
 とわざとらしい大声で言いました。
 こっち、とシーラはタイジに向かって手まねきし、雑木林の踏み分け道を申し訳程度に煉瓦敷きにした小道を、すたすたと歩きはじめました。ジンさんはまたちょっと鼻唄モードに入って、通りゃんせをうなり始めました。
「行きはヨイヨイ帰りは……どうなるんでしょうねー」
 と他人事みたいなジンさんのぼやきに、
「帰りもヨイヨイに決まってます」
 とタイジは言い返しました。
「そぉ? 俺は、ヨレヨレになってなけりゃメッケモノだぜ」
「この際、フツカヨイで妥協」 
 とタイジ。
「ほー。もしかしてキミと僕、絶妙かも」
「お互い嬉しくないコンビです」
「それ最高、ミネちゃん」
 ジンさんは、タイジの背中をうしろからぱしんとたたきました。
「二人とも、チンタラ歩いてないで、速く来て」
 と、呼びかけたシーラとメグ、パパ、ガーネットの一団は、もう森を抜けて、病棟手前にひらけた草原に出ていました。
 タイジは眼をまるくしました。
 ヒグラシと白樺の葉風のざわめきを後ろに残し、眼前には一面コスモスの群れ、腰のあたりまで高く揺れる花の合間をくねくねと、ゆるい上り坂になった道まで覆いつくすようにいろんな夏草秋草はみだして繁り、ひとつ吹く風と次に来る風との隙間には絶えず、コスモスの白とピンクの花弁が揺れていました。鳳仙花、矢車菊、昼顔、百日草…とりどりさまざまな草花の種は、誰がどのようにばら撒いたのか、淡いコスモスの中に気ままに濃いアクセントを置いて、花の丘の向うに、星隷ミカエルの白亜の病棟が、蜃気楼のようにたたずんでいます。
思わずひとりごとがタイジの口からこぼれました。
「ばあちゃんの絵に入ったみたい」
(だけど、彼女があの絵を描いたのは戦前だよ。この病院のこの風景は、どう考えたって、そんなに古くない)
 タイジは手にしたクリヤーファイルをひらき、パソコンデータからプリントアウトした花緒さんの絵と、星隷ミカエルのトップ画像、そうして今、八月の光まばゆい蜃気楼のように立っている花畑の中の病院の実景とを、かわるがわる比べてみるのでした。
「きれいな病院だねえ」
 と何も知らないパパは普通に感動しています。メグはうなずき、
「ヒグラシとコスモスって、ここでは同じなんだね」
「?」
 その言葉の意味がわからず、パパは怪訝な顔をしました。ですがシーラは、すっきりと細く濃い眉をあげて微笑み、
「うまいことを言うね、メグ。ヒグラシは森を埋め尽くし、コスモスはこの夏の野原にあふれている……」
(この子には聴覚も視覚も同じだ。この瞳、この網膜は…澄んだクリスタルガラスとおんなじで、光りも色も無抵抗に通過してゆく。反応しているのはじかに脳なんだ。だから音も光も同じレベルで感覚する)
「考えれば不思議なことなのに、メグが言うと自然に聞こえる」
 とシーラはつぶやくのでした。
「耳と眼と、きれいな音と色彩がいっぱいで……別世界ね。花緒さんはこういうものを描いたんでしょう」
 いつのまにか、ガーネットは中国刺繍のいっぱい施されたこぶりな日傘を、自分の頭上にひろげていました。タイジは、
「ハイ」
「でも、彼女はここをじかにスケッチしたわけではないのよね」
「そうです」
「空想と現実が、作者と時空をはるかに離れてぴったり重なるところ」
「ありえない?」
「ところが結構あるんだよなー」
 とジンさん。
「そのネタはあとまわし。とりあえず〈彼〉に会う」
 シーラは傍らのコスモスをすこし摘んで、メグの緩みかけた麦わら帽子のリボンに挿しました。

 全体の色調をおだやかなアイボリーに統一された病棟は、北と南のウィングに分かれ、中庭の教会を囲んで、コの字型をしていました。由緒は古く、大正時代の中ほどまでさかのぼるそうです。
「最初はカルメル会の修道院から始まったのです。そのあと診療所と孤児院が出来、戦後は聖堂だけのこしてほかを建て直し、南ウィングは長期療養病床、北ウィングには……」
 と受付の職員は一同を案内しながら、親切に施設の概要を説明してくれるのでした。この女性職員にもシーラはパパと同じように暗示をかけ、突然の一行訪問を、あらかじめ予定されていた親族面会に操作したのでした。
「北ウィングの患者さんは、今何人いらっしゃるのですか?」
 とシーラは尋ねました。
「十人です」
「みなさん、眠って…?」
「はい。意識が戻られるまで、ずっと」
「お医者様は何人おられるんです」
「現在、北と南の常勤医師は二人です」
「たったそれだけ!」
 とジンさんとメグは声をそろえてびっくりしました。事務職員には、聞き手のそんな驚きはいつものことらしく、馴れた笑顔を作り
「内科と外科にひとりずつ。入院患者さんの医療は、急変しないかぎり看護師で充分ですから。南のほうも」
 タイジはちょっと顔が暗くなりました。
「療養病床ってことは、南にはそれじゃあ、介護士もけっこういるんでしょうね」
「はい。ここでは看護師、介護ヘルパーのほうが、医師よりも通常多用です。医師の先生方は、平日このあたりのあちこちの無医村に往診されていて、そちらのほうが」
「日本中、どこもかしこも福祉医療の人手不足か」
 とこれはジンさん。ぱたぱた、カツカツ、と一向の足音が、きれいに磨きあげた病棟の床に響きます。タイルや壁などすこし古びてはいるものの、クレゾールの匂いがほのかに漂う廊下にはチリひとつなく、ところどころの壁沿いにアンティークな花台が置かれ、前庭の草花が、無造作に活けられていました。花台の傍の壁には必ず、これはたぶん複製の中世細密画のイコンが飾られていました。
「この病院は、なんの消毒薬を使っているの? ふつうの病院と違ったいい香りがするわ」
「まあ、するどい」
 と女子職員は、際立って華やかなガーネットをまぶしそうに横目に仰ぎ、
「これは茅野の星隷女子修道院で作っている、ラヴェンダーを基本ノートにした消毒薬だそうです。この修道院独自のもので、ほかの病院では嗅げないんですけれど、そんなことをおっしゃったのは、奥様が始めてです」
 話すうちに、ウィングの一番奥の部屋にたどりつきました。
「ここのお部屋の方が、いちばん古株さんです。入院された順番に、病室が入り口に近くなっていて」
「個室」  
 ジンさんがつぶやきました。
「十人すべての患者さん、個室です」
 101号室、安宅礼音
「あたか、れいおん?」
「レノン、です」
「ジョン・レノンのレノン?」
 ジンさんは腰に両手をあてて、顎を突き出すように、ネームプレートを眺めます。
「ジョンが射殺された日に生まれたのでレノンと名づけたそうですよ。早死にしたジョンの分まで長生きするようにって」 
 一同のうしろから澄んだ声が、さわやかにひびきました。みんながいっせいにふりむくと、空色のワンピースを着た、まだうら若い女性がいつのまにかそこに立っていました。
「はじめまして、安宅君の担当医の羽戸です。遠いところから、よくおいでくださいました。彼もうれしいでしょう。ずっとひとりで遊んでいましたから」
 遊んで、と言ったとき、羽戸医師のまなざしは一同の上をすべるように流れて、シーラの顔に注がれました。うなじを見せて襟足でほどよく調えられたボーイッシュなショートカット、うっすらとそばかすの浮いたなめらかな小麦色の肌に知的な顔立ち。口紅は夏らしく、日焼けした地肌に近いコーラルオレンジ。年齢は見たところ三十ちょっと前くらいでしょうか。タイジは写真家先生の精悍な目に、千香子医師の切れ長な目許がよく似ているなあ、と思い比べました。
「遊んで?」 
 シーラはさりげなく繰りかえしました。
(そう、独り遊び。わたし、あなたが来るのを待っていたの。よく来てくれました)
 ハトの声は、シーラの脳に直接響いて来ました。
 彼女からの心の呼びかけが終わらないうちに、シーラの周囲の光景は左右天地の軸いっさい失われた溶暗となり、ハトとシーラ、それにメグだけがくっきりと立っていました。あたりは真っ暗闇なのに、それぞれの姿は、三次元空間の午後のほのぐらい室内光にたたずんでいた実像よりも、よぶんな影を認識から消し去ったために、3Dアニメのように鮮やかに細部までブラッシュアップされ、はっきりと見えました。
(こんにちは、あなたが風間メグさんね)
 ハト先生は人なつこい笑顔を浮かべ、膝をかがめて、立っているメグの眼と同じ高さまで顔を近づけてあいさつしました。
(先生もサイコヒーラーなの?)
 もうメグは驚いたりしませんでした。ハトは首をふり、
(いいえ、そうではない、と思うわ。わたしはあなたやシーラさんのように霊魂に直接アクセスするようなことはしたことがないし、次元の壁をつきぬけて跳躍するなんて芸当もできない。ただ、ある種のひとたちとは、こんなふうにシンクロすることができるだけ)
(ただのシンクロじゃないわ。あたしたちが今来ているのは既にパラレル、あるいはあなたの心象に記憶されている世界でしょう)
(たぶん、その両方。シーラ、わたしはあなたに、わたしがこのミカエルで何度か目撃した幻を、一刻も早く見せたかったの。だからちょっと急ぎすぎかな、と思ったけれど)
(その方がいい。……〈彼〉はどこ?)
 ハトさんは片腕をすっと真横に伸ばして少年の眠っているベッドを示しました。指さすのではなく、てのひらを軽く上にむけ、あたかもその手の上に、自分のまなざしを一緒に添えて少年の居場所を教えるような仕草に、シーラとメグは、ハトの気遣いと優しさを感じ取りました。
(シーラ、メグ、これはあたしの記憶の再現で、実景とは違うの。ここに勤務してから、彼の寝室で何度か見たものよ)
 ハト医師は「病室」とは言いませんでした。
 白く細い金属で組み立てられた、サイドレールつきのパイプベッドに、少年はひっそりと仰向けに寝ていました。胸元まで夏物のうすい羽根布団で覆われ、両腕はその上に、こわれやすい置物みたいに出ていました。水色と白のギンガムチェックのパジャマにメグははっとし、そのパジャマの袖口からのぞく痩せた手首や、異様にほそい五本の指にも、たしかに見覚えがありました。
(きれいな子でしょう?)
 ハトの言葉にシーラはうなずきました。
少年は十二、三歳くらいでしょうか。すこし不ぞろいな前髪がなめらかな額に乱れて、頬から顎にかけて、ふっくらとやわらかい輪郭を残しています。彼の髪や眉毛は淡い金色で、睫毛も半透明でした。ながいこと陽光にあたらないために、皮膚は透けるようにうすく、こめかみや、唇の周囲にはほんのりと葉脈めいた青さがただよい、その小さな顔に刻んだような整った目鼻立ちを並べて動かない彼は、未完成の人形か彫刻みたいでした。
 次の刹那、溶暗のどこからともなく、ほそいビニールチューブが伸びてきて、意思を持った蛇のように闇をしゅるしゅるとうねりながら泳ぎ、眠っている少年の鼻腔にずぶっと突き刺さりました。ひっと息を呑んでメグはシーラにしがみつきました。少年はびくりと全身をこわばらせ、掛けぶとんの上に出した両手を、一本づつの指が反り返るほど強くひろげました。でも両手を持ち上げることはできず、ずるずると鼻からチューブは少年の喉に侵入してゆき、すぐにその管から、黄色っぽい液体が、どろどろと少年の内臓に流れ込んでゆきます。
 少年は閉じていた両目を開き、顔をかすかに左右に振りました。
(イヤダ)  
 彼は、絞るように声をあげました。両手が意のままに動かないので彼は最初首だけじりじりと振っていたのですが、そうするうちにその首振りはだんだん激しさの度合いを増して、バタンバタンと顔を右左にたたきつけるように大きく揺れ始め、それでも首から下は動かないので、あたかも目に見えない大きな手のいっぽうが彼の頭をつかんで、もういっぽうは体を動かないように押さえつけて、頭をぐいぐいと乱暴にひねっているようです。
(イヤダ)
 もういちど彼はうめき、すると掛け布団ごと、彼の全身はパイプベッドから空中に浮き上がり、ふわふわした上掛けは、するりと下に落ちてしまいました。パジャマズボンからにゅっと足首が長く突き出て、手首や顔と同じように、寝間着からのぞいた薄い皮膚のところどころで静脈が透け、体毛のまったくない脛から爪先まで、不自然なほどまっすぐな水平でした。少年の身長に比べ、手や足は未発達に小さく華奢で、空中に浮き上がった彼は、激しくかぶりを振り続ける頭以外は、てのひらと足の指だけを必死で動かし、管の注入の苦痛に耐えていました。
(ちぎれる!)
 あんまり少年が激しく首を振り続けるので、今にもその首は、まるで果物がもぎ取られるように痩せた体から離れて、ふっ飛んでしまいそうでした。メグは恐怖の叫び声をあげ、シーラはドクターをちらりと眺めました。ハトはこわばった表情でしたが、自分の記憶想起を中断しようとはしませんでした。
 びちっ、か、ぐちゃっ、か……肉体の腱と骨、錯雑した皮膚組織が無理やりちぎれる、なんとも形容しがたい、いやな濁った音がいくつもして、浮かびあがった少年の首が、とうとうぐるりとひとつ方向に一回転すると、鼻チューブをつけた顔だけがその回転の余勢で肉体よりもさらに高く飛び上がりました。銀色のチューブはなお執拗に鼻に差し込まれたままでしたので、絶えず流し込まれる金褐色の流動物は、ぼたぼたと喉から下に垂れ流すままです。
 浮き上がった頭から、血は一滴も流れませんでした。頭を失った少年の肉体は、すぐにどすんと下に沈み、その捥がれたトルソの首から、どっと大量の血液が流れはじめました。黒ずみ、粘り気のある血液は、横倒しになった花瓶から水が零れるようにあふれました。そうして、動かない肉体の重りを逃れた少年の頭は、ようやく回転をおさめて、ぽかっと虚空に浮かんでいました。
(ジユウニナッタ)
 彼は回転の間じゅう閉じていた眼を、ぱちっと開きました。彼には、この幻視の目撃者ハトの姿が見えてはいず、頭がグルグル回りを止めても、両目の瞳孔はなお、てんでばらばらに四方八方にせわしなく流れています。彼の首は自分の鼻にさしこまれた管をはずそうとして、もういっぺん、頭髪が土星の輪みたいに見えるほど、ものすごい速度でびゅんっと回転し、チューブを飛ばし抜きました。
 はずれたチューブは床に落ち、いつのまにか少年の肉体は、みずからの内部からあふれる血液にひたされ、ほとんど沈みかけています。
 床の存在にシーラははっとしました。上下左右のない空間は、いつしか天井と床、窓をそなえた真夜中の病室に変わっていて、六畳ほどの病室の床は、もうシーラのくるぶしまでの高さに血潮はせりあがっていました。
 宙に浮かんだ首は、下を向いて、自分の肉体から流れ出し、今もどんどんあふれ続ける真っ赤な液体を、無感動に見つめました。暗い病室で、彼のちぎれた顔には、もう苦痛のかけらもなく、静かで、端麗で、あどけなくもあり、またその無表情は、どこかしらに、ひどい残忍な衝動をもてあましているように、冷たくこわばって見えるのでした。
 首はゆらゆらと虚空を動いて病室の窓に近寄りました。カーテンがしまっているので、少年は口と歯でカーテンをひきあけて、病室の窓から外を眺めました。
 満月が皓皓と輝いています。ひろい野原の上にぽっかりと、まるで少年の顔が遠くの鏡に映ったような月の姿でした。暗い地面から陽炎が揺れたつようにコスモスの群れがしいんとひろがり、どこにも人影は見えず、風のそよぐ気配もありません。時間と空間の停まったパラレルの手前で、少年は、ようやく手に入れた自由と、肉体のない宙ぶらりんなおぼつかなさに、すこしとまどっているようでしたが、そんな間にも、室内にはどんどん彼の血があふれ、いったいかぼそい少年のからだのどこにそんな血液があるのか、液体はどんどん嵩をまして、そのうち四角い病室いっぱいにみなぎってしまいそうです。
 シーラはふと周囲を見回し、メグもハトも消えているのに気がつきました。すると頭の中で、ハトの声が聞こえました。
(シーラもメグも、今はあたしの記憶の眼で見ているの。だからそこではひとりなのよ)
 そう、とシーラはうなずきました。メグの恐怖が気になったので、
(メグ、怖い?)
(だいじょうぶ)
 とハトとは違うほうから、メグのしっかりした返事が聞こえました。
(すごい血だね。もう水槽みたいに、部屋いっぱいになりそう)
(このあふれる血液は、彼の動けずに過ごした苦痛の時間のエネルギーなのよ、たぶん。
あふれて、流れて、どこまでも際限がない)
 そちらはハトの声でした。
 少年の首は、自分の眼下にどんどん溜まってゆく黒い液体をうとましげに眺めて、じきに顔をそむけると、窓ガラスにおでこをおしつけてじっと外を眺めました。そうするうちに彼の両眼がふたたびてんでばらばらに激しく動き始め、あんぐりと開けた口から、べろが犬のあえぎのようにひらめくと、おしつけたおでこの周囲のガラスに、瞬時に無数の亀裂が蜘蛛の巣状に走り、さらにグイグイと少年の頭が前へ進むと、窓ガラスは亀裂そのままにはじけ、八方に飛び散りました。

「……と呼んでいるんです、わたしたち」
 ハト先生のさわやかな声が、少年の生首弾む暗色の幻影を散り散りにして、メグの耳に夏の青空のように飛び込んできました。
(え?)
 とメグは汗に濡れたおでこの前髪をかきあげ、無意識にまずシーラを探しました。いつのまにか、自分の身近に彼女の姿を確かめようとする癖がついていました。
「このお部屋、ミカエルの部屋って呼ばれているんですよ」
 ハト先生は、自分の台詞をリフレインしてもう一度繰り返し、一行を見回すと、輪郭のたしかな形のよいくちびるに、おだやかな微笑を浮かべました。彼女の挙措動作のどこにも、陰惨な幻影の翳りは感じられません。
(あたしたち、いったいどのくらいの時間をトリップしていたの?)
 メグはとまどいました。パパやジンさん、峰元さんにガーネットさん……そこに居合わせ、ハトの記憶想起に現れなかった仲間たちは、何事もなかったように、簡素な病院の午後の光にたたずんでいました。パパは汗なんかかいていないのにしきりに首筋をぬぐう仕草をして、ジンさんはポケットからとりだしたミンティアを何粒か口に放り込み、くちゃくちゃと噛みはじめたところです。ガーネットは、中国扇子でかるく風を作って自分の顔に送っています。
 空調のほどよく効いた夕暮れの病室は静かで、こまかいレースのふちどりのついたあかるいカナリア色のカーテンがゆったりと南側の窓をひろく覆って垂れかかり、ミッキーマウスやプーさんなどの、小さなぬいぐるみの並んだ子供用の机に、おそろいの椅子、その椅子には大きなテディベアのぬいぐるみがうつむきかげんに腰掛け、その横に白いパイプベッド。部屋の片隅のちょっとした私物をしまう五段のチェストは、オフホワイトの地に、長いスカーフを斜めになびかせた星の王子さまのイラストレーションが前面に描かれ、上には、何冊か絵本らしいハードカバーと、やはりちいさい子供のよろこびそうなお人形やぬいぐるみが所狭しと置いてありました。
たくさんのおもちゃやお人形に囲まれ、若い女性が赤ん坊を抱いた写真が花模様のフレームに入って立っているのは、たぶんレノンの母親とレノン本人なのでしょう。パイプベッドは子供用にだいぶ小さめで、そのおかげで、病室というよりも、子供部屋という印象の空間はずいぶんひろく感じられましたが、ハト先生に続いてどやどやとみんなが入っていくと、さすがに窮屈です。
 シーラは一番前で、女性の事務職員とハト先生の間に立って、ベッドの少年を見下ろしていました。メグの視線に気づいたのか、シーラはかるくうしろを振り向いて、メグを眼で呼び寄せました。
(一瞬以下のことよ、メグ)
 シーラの声がメグの頭の中で聞こえました。
(あたしたちがハト先生の記憶にシンクロしていた間、こちらでは一秒も経ってはいない)
(記憶想起の共有は、時間の裂けめでもあるということかしら)
 それはハトの声でした。シーラは、メグとハトをかわるがわる見つめ、
(こちら側では誰も何も気づいていない、
ということにも、だんだん慣れていって)
 シーラの〈声〉が消えると、メグの耳には、ふたたび夕暮れのヒグラシの大合唱が聴こえ始めました。フイフイフイ、とひとつの澄んだ高啼きのあとを追って、無数のユニゾンがおしよせ、ものがなしく、狂おしく、寄せては還す潮の揺り返しのように、天地をいっとき埋め尽くし、聴覚になだれこんでくるヒグラシの声でした。
「天使の小部屋か、なるほど」
 とジンさんは、日頃の悪ふざけの気配もなく、素直にうなずきました。    
 小さなベッドに目を閉じて動かない少年レノンは、メグやシーラのひきずりこまれたパラレルに現れた幼児よりは、ずいぶん大人びていました。ハト医師の記憶に見た、思春期にさしかかったばかりの十二、三歳くらいでしょうか……すこし癖のある巻き毛の前髪、濃い睫毛、頬骨のかたちが皮膚の上からほのかになぞれるくらい痩せていましたが、どちらかというと面長な顔ぜんたいの印象はやわらかく、すっきりとしたまっすぐな鼻筋、やや大きめの薄い唇に温かい血の気はほとんど見えません。生気の通っている人間にしては、彼の顔にはしみもそばかすも、ほくろひとつなく、清潔すぎる印象がかえってさびしく、それは掛けぶとんの上にこわれやすい置きもののように、そっと置かれたかぼそい両手も同様でした。
 ハト先生が来られたから、わたしはこれで失礼します、とそこらへんで事務職員は姿を消しました。
「金髪…ということは混血なの?」
 ガーネットがつぶやきました。
「いいえ、この方は生粋の日本人、だと思います。ここに入院した当初、レノン君はふつうに真っ黒な髪だったそうです。でもこうして眠り続けるうちに、どういう作用でか……陽にあたらないからかしら、だんだん全身の色素が抜けて。でも、こんなにきれいな金いろに変化するひとも、珍しいの。他の寝たきりの入院患者さんも、やはり皮膚などは蒼白になるんですけど、髪や眉までは脱色しませんから。もしかしたらとても遠い遺伝子に、西洋人のものが混ざっていて、偶然ここで出現したのかも知れません」
「眠ったきり?」
 ジンさんはハト先生に問いかけました。
「そう」
「いつからですか」
 さすがのジンさんも、神妙に控えめな声でした。
「レノン君が六歳のときに、心臓発作で意識を失ってから、ずっと」
「てことは、六年くらい前?」
 いいえ、とハト医師は微妙に声をあらためました。
「申し上げたとおり、安宅レノンさんは、ジョン・レノンの亡くなった日に生まれたので……三十二歳になられます」
 部屋の空気を一変させる一同そろった驚愕は声にならず、それぞれの喉にしまいこまれました。
「……すごい不思議ですねえ。この少年は、十三歳より上には見えませんが」
 と沈黙すれすれの間を、素朴な感想を洩らして一番先に破ったのは、駿男さん。
「時間が停まっているのね……」
 とガーネット。
「そういうこと、世間話には聞いたことがあるが、実際にあるんだねえ」  
 とジンさん。タイジはひとり黙って、いたましげな視線をレノンに注いでいます。彼は介護ヘルパー二級の最終資格研修で見た、いくつかのケースを思い出していたのでした。脳梗塞、心臓発作…さまざまな原因で意識喪失し、寝たきりになったままベッドで何年も過ごしていた高齢者。病院の長期療養病床に点滴と、定期的な体位変換、さまざまな生理的介助を受けながら、ゆっくりと死への時間を小舟のように流れてゆく患者たちは、このレノンに似て、皮膚は高齢とも思えないほど冷たく白く、静脈は透け、手足はこわばり……顔はそのひとそれぞれ、ある瞬間の表情を刻んで動かないのでした。
 タイジが研修で眺めた、意識のない患者たちの顔に張り付いた表情というのは、このレノンのように静かな眠りの姿ではありませんでした。
それから数年、病院勤務の厳しさとはやや遠い、訪問とデイサービスという、わりあい穏やかな領域であっても、介護ヘルパーとして経験を積んだ職業柄、タイジは漠然とレノンの肉体に閉じ込められている苦痛と病巣のあれこれを推量し、優しい彼は、ジンさんやガーネットたちとは違った感受性で、眼の前の〈不思議〉を受け止めたのでした。
 タイジのまなざしは、無意識にレノンの足元に注がれました。
(やっぱりこのひと、バレエ足になってる。かわいそうに)
うすい夏掛けから、すこしはみ出た爪先から足の甲、脛にかけて一直線。それはタイジには何度も見覚えのある、寝たきり患者独得の廃用症候群…尖足でした。長期間動かずに、仰向けになったままの足首から爪先まで、まるでバレエのトウシューズを履いてまっすぐに立ったようなかたちのまま固まってしまった足。いったん硬化した尖足は足首の柔軟を失い、もはやふたたび地面に土踏まずをつけて歩くことはできないのです。……そこまで寝たきり状態が進んだ患者さんが、ふたたび歩く活力を取り戻すことも、また奇跡にちかい稀ではありました。
「レノン君は、発作で倒れ、そのまま意識のない植物状態になってすぐに、こちらに入りましたから、二十六年になります。」
「うーん」
 とジンさんは腕組みしてうなりました。
「家族はつらいわね」
 シーラがぽつんとつぶやきました。
 夏の長い夕暮れにも、いつしか宵は迫り、ヒグラシのユニゾンがどこかでふつっと止むと、下界とは明らかにちがう高原のひんやりとした夜気と仄闇が同時に、エアコンの効いた室内まで、足元から忍び寄ってきました。
「レノン君のご家族は…」
 ハト医師が言いかけたとき、ワゴンの気配とノックが扉に聴こえ、看護師が人工栄養のチューブを運んできました。
「御面会の最中、おそれいりますが、安宅さんのお食事の時間です」
 にこにこと気持ちのよい笑顔を浮かべた看護師はハト先生と同じ病院のユニフォームを着ていました。
「今日はにぎやかで、レノン君、うれしいでしょう。ひさしぶりですよね、先生、天使ちゃんのお部屋がご親族でいっぱいになるなんて」
 看護師は、何の気なしにレノンを「天使ちゃん」と呼んでいます。天使ちゃん、ミカエル君……きっとそれが彼の院内でのニックネームなのだろう、とみんなは思いました。
「そうね……。みなさん、お時間はまだ?」
 ハト先生は、すこし気を回すような目になり、中でもメグの表情を心配げに測りました。
「そうね、そろそろ失礼しなくてはいけないのですが…もうひとつ、絵のこともまだお伺いしてませんので」
 シーラはそつなく応えました。
「そうでした。あの絵は今、院長先生のお部屋にあります。御覧になりますか?」
「はい。できましたらお願いします」
 シーラとハトが、丁寧なやりとりをかわしている間に、看護師は手馴れたやりかたでレノンの食事の準備を済ませました。ベテラン看護師の手許から、白くて細いプラスティックチューブは、まるでそれ自体生きているようにするするとのびて、レノンの優美な鼻腔に差し込まれます。メグはどきんとして息を呑みましたが、アナログ世界で昏睡を続けるレノンの肉体や表情に微塵も変化はなく、あたかも花瓶の草花が鮮度を保つために茎を切り戻される手際にも似て、ひっそりと、固くほそい栄養チューブはズズッと深く侵入し、ほどなく吊り下げられたビニール袋から、いろんな栄養が、彼の命をつなぐためにとろとろと流れ始めました。
差し込まれたチューブの長さからして、きっとかなり喉の奥深くまで入っていったのだろう、とメグは思い、その感触を想像すると、自分の舌の付け根や喉がひりひりするような気持ちになるのでした。ですが、レノン本人は、やはり無表情で、薄い血の気のない唇が、チューブを差し込んだとき、いっしょに押し込まれて口腔を動く空気の加減で、規則正しい眠りのリズムとは無関係に、ヒュッとかすかな音をたてて開いたくらい。看護師はレノンの開いた顎と小鼻とを、自分の親指と人差し指で、小箱の蓋を閉めるように、元通りにかるく合せました。
「院長先生は、今日はお留守ですが、許可をいただいておりますので」
 とハト先生は、また一行を別な棟に案内してくれました。
 メグは、なんとなくレノンの傍を離れがたい気持ちでした。
 メグなんか、ぼくのことなぁんにも知らないくせにさ……と口をとがらせてバック転して消えた男の子の面影が、眠っているレノンの顔によぎりました。ふたりは同一人物なのに、ぜんぜん印象が違っていました。
(レノンの眼がもしも覚めたら、あんなひねくれた感じに見えるのかな)
 とメグがベッドの傍で立ったまま思案していると、もう廊下に出ていたパパが、
「おーい、メグ、置いてくぞー」
 とうながしました。半分暗示にかかったままの駿男さんは、前後の辻褄のズレはほとんど考えられず、シーラの身内のお見舞い、というインプリンティングを、すっかり納得しきっていました。
「はあい」
 とメグは返事をして、小走りに病室を出てゆきました。ハトについて、みんなはもう廻廊をだいぶ先へ行っています。うすぐらい廊下の向こうで、パパが手招きしていました。
 扉を閉める前にメグは、ふと、もういっぺんレノンのベッドをふりかえりました。すると、小太りの背中をまるめて経管栄養を注入している看護師の傍に、痩せたレノンが立って、メグをじっと見ているのでした。金髪の彼は、もう六歳の幼児の姿ではなく、やはり十二歳くらいでした。白い顔にくっきりとした黒目がちの眼をみひらいて首をかしげ、メグに向かって斜めにすくい上げるような視線を注ぐ彼の赤い唇には、これも見覚えのある皮肉っぽい微笑が浮かんでいました。
(やあ、来たね!)
 口癖みたいな彼の第一声が胸の中にじかに伝わって、メグは立ち停まりました。怖くはないけれど、やっぱり驚かずにはいられませんでした。レノンは、ひょいとほそい指先でメグの麦藁帽子をつまんで、自分の胸の前でクルクルと器用に回して見せました。
「あっ」
 とメグはそのときようやく自分が帽子をレノンの部屋に忘れたことに気づいたのですが、レノンはすばやく帽子を背中に隠し、
(行きなよ。みんな心配してるぜ。すぐまた会えるさ)
 ふ、と目をほそめて笑うレノンの存在に、すぐ横で手当てをしている看護師はまったく気がつかないのでした。

「風間さん、長旅お疲れでしょう? もう六時過ぎで、メグちゃんもおなかが空いたと思いますし、ジンさんといっしょに、あたしたちより一足先に、今日の宿泊所にお帰りになって休んでくださいますか?」
 北ウィングから別棟の院長室に向かう手前で、シーラは駿男さんに遠慮がちに提案しました。
「そんなに疲れたわけじゃないから、大丈夫ですよ。久しぶりに、思いきりドライブ満喫できたから」
 駿男さんは気のいい笑顔で答えました。パパさんは本音で、シーラ(やガーネットも)といっしょにいたい様子でした。
「そうおっしゃっていただけるとうれしいです。でも、あたしの私的な身内見舞いまで、こうしてお付き合いいただいて、申し訳ないわ。あたしはまだ、レノンのことでドクターと確認したいことがあるので、ここに残りますけれど、明日からの予定もありますし、それに風間さん、ずいぶんお料理上手でしたよね?」
「え? いやあ。自分で好きにやってるだけで、ウマイか下手か…」
 駿男さんは思いがけず、思いがけないことを突然ほめられて、頭をかきました。
「いえ、メグちゃんからも、日ごろのお料理好きはうかがってますし、いちどごちそうになったお夕飯、とってもおいしかったです。それで、ここでお願いするのも失礼かな、と思うんですけれど、これからしばらく泊まる宿って、ジンさんの知人の貸してくれたコテージなんですよ」
「あ、そうですか、貸し別荘ね。てことは、基本は自炊?」
「ハイ」
「わかった! 晩飯の支度係やれって?」
 シーラは自分の頬にかるく片手の指を添えて小首をかしげ、はにかんで、なんともいえないかわいらしい笑顔をパパに向けました。
「お願いできたらなって。優秀なオブザーバーも、サポーターもいますから」
「ねえねえ、それ俺のこと? オブザーバーって野次馬のことでしょ。サポは誰よ」
 ジンさんが割り込んできました。
「サポーターは豹です」
 とガーネット。
「あの子が食料いろいろ買い込んでくれてるはずよ」
「お、それならシェフがちゃんといるじゃんか」
「シェフはこの方よ。ヒョウガはまだ下働きです」
 じろっとガーネットはジンさんの軽口を制しましたが、ジンさんはへいちゃらで、
「やあ、ヒョウガが来てくれるんなら、うまいもの喰えるなあ。ずっとこっちでバイトしてたんだっけ」
「ヒョウガ?」
 駿男さんが怪訝な顔をするのに、時間を気にするシーラは、ちょっと気がせいた表情になり、風間さんの背中に軽く片手を添え、
「ヒョウガって、うちのバンドメンバーで、調理師免許もってるフルーティスト兼ドラマーです。夏中こっちでバイトしまくり、ワークショップとかやってるって、前にお話した子」
「風間さん、よろしくご指導ねがいますね。あたしの息子です」
「ええっ」
 とパパはガーネットをもういっぺん、頭のてっぺんから爪先まで眺めました。
「アナタサマの御子息デスカ」
「愚息デゴザイマス」
 シーラは立ち話をきりあげたくて、パパの背中を押す手に、また少し力をこめ、膝をかがめて駿男さんの視線を下からつかまえると、ぱちんと瞬きしました。メグはその瞬間、シーラさんの睫毛の奥で静電気のような閃光がきらっとよぎるのがわかりました。パパはすぐに素直にうなずき、
「それじゃあ、ジンさん、ぼくの車のナビお願いしますね。メグ、行くぞ」
「メグもぉ?」
 メグは正直にふくれっつらをしました。
(なんで? ガーネットさんや、タイジさんは残るのに、あたしは?)
(君を残してはパパは帰ってくれないからよ、メグ。だからこの場はパパと行って。車に乗ったら、すぐに眠ったふりをして、意識をあたしに向ける。あたしもあなたをひっぱる。そうすれば、あなたはあたしの脳を通してこっちで見聞きする全部を経験できる。体が離れていようと関係ないんだ。それはもう、経験ずみでしょう)
 そうでした。夏休み直前、下校途中でタチアオイを通ってパラレルに引き寄せられたメグの記憶は、シーラからの電話を切ったあと、自室に戻ったメグの心にシーラが入ってきて、くまなく共有したのでした。
(わかった。眠ったふり?)
(そう。眠ってしまってもいいわ。ひっぱるから)
 シーラは言い聞かせるようにメグの手をとって、
「じゃあ、ジンさんナビよろしく。迷わないでしょうね」
「信用ないなあ。長年の友人宅だから慣れたもんだよ。そっちこそ気をつけてねー」
 森影がひろく東西を覆う大気はあざやかに澄みわたり、まだ茜いろの気配の残る地表からの透明なあかるさと、闇が圧し包む天空の藍色とがなめらかに溶け合い、余光のなかにこまかなシルエットを切り絵のようにくっきりと浮かべた樹々のあわいには、いくつもの星がきらめきはじめていました。ヒグラシは止み、草むらからは早くも秋の先駆けと、コオロギや鈴虫の声が響いています。
「日中は暑いけれど、夜はもう軽いカーディガンが欲しいなって感じるくらい冷える晩もありますよ」
 ハト医師は人なつこい笑顔を一同に向けました。このひとはすっかりみんなの雰囲気に溶け込み、ずっと前からの知り合いのように自然な姿で、シーラの仕切りを待っているのでした。シーラとハト医師が並ぶと、ハトの背丈は、シーラの肩ほど、ちょうどタイジと同じくらいでした。
 院長室は、正面玄関から真向かい、三角屋根の聖堂の横にありました。病棟が建て直されても、創設以来の由緒を誇る大聖堂と付属建築は当時の姿をほぼ保ち、院長室も木造のまま、全体に簡素でありながら、カトリックらしい古雅な装飾性を、柱や窓枠、浮き彫りのほどこされた扉など、随所にとどめ、中庭に面した明りとりの薔薇窓は、色鮮やかなステンドグラスでした。
 花緒さんの絵とそっくりな油絵は、院長の執務机の向かい側の壁に、十字架のイエズス・キリストと、昇天する聖母マリアを描いた二枚の聖画にはさまれて、飾り付けられていました。
「どう?」
 とハト先生に問われて、
「よく似てます。原画はぼくもこまかく見ていないけれど、構図も色使いも、焼却したはずのおばあちゃんの作品そっくり。ですが、これは別人の直筆ですよね?」
 と答えながら、タイジはハト先生の反応を測りました。
「この絵は、安宅君のお母様の作品です」
 ハトは、静かに返答しました。インスタントですが紅茶をどうぞ、と彼女はティーバッグで皆にレモンティを注ぎ、きれいな手つきでそれぞれにすすめました。
「レノンさんのお母さんて」
「三年ほど前に癌で亡くなりました。ちょうどわたしがこっちに勤務する直前だったかしら。ですからわたし自身は、直接の面識はないんです……」
(シーラさん、メグ来たよ)
 そのときシーラの耳の奥に、メグの声が聞こえました。ちょっと興奮気味です。
(目をつぶって、こっちのほうのこと考えたら、すうっと入れた)
(でしょ? そのままあたしに重なって)
(わかった)
 違和感なし、とシーラは、自分の中にちいさい蝶々がひらりと舞いこみ、鼓膜のあたりにちょこんと止まったようなイメージでメグを迎えました。二人の受け答えを知ってか知らずか、ハトは淡々と続けました。
「レノン君のプライヴァシーに触れることになりますが、彼のお母さんは芸大出の画家だったそうです。在学中に学生結婚し、彼を生んで、レノンが三歳のころに離婚されたと」
「相手はミュージシャン?」
 とタイジが尋ねました。
「はい」
「レノンという名前は父親が付けた…」
「さあ、そこまでは。離婚したあと、お母様は実家のある松本に戻り、絵を描きながら、家業を助けておられたようです」
「……」
「実家は、長野でもきっての名家です。たぶん皆さんご存知かもしれない造り酒屋のひとり娘さん。おきれいな方だったそうですよ。だから、レノン君はそこの跡取り息子だったわけですが、生まれつき心臓疾患があり……いろいろ悩まれたようですね」
(旧家の娘が反対を押し切ってデキチャッタ婚。当時じゃまだ非難中傷やかましい。相手の男は気まぐれなアーテイスト志望? 若気の至りでトラブルが重なりあっけなく破綻。跡継ぎが欲しい娘の実家が、母子をひきとるのは勿論だけれど、生まれた赤ん坊に持病があり、健康な長命は望めない上に、母親はまだ若く美しいとしたら、跡継ぎ制作のために、周囲は堅実な相手との再婚を強いるだろう)
 シーラは考えました。シーラだけでなく、その場の誰もが。
「お母様はレノン君がここに入院する事態になるまで独身を通されたそうです。でも」
 とハトは、すこし伏目になって間を置き、ティーカップを手の中に包んでかるく揺すりながら、自分が余計に喋りすぎていないか確かめているようでした。
「……安宅さんのお家は、ほんとに格式のある、名字帯刀を許された、戦国時代から続く家柄で。結局婿養子を迎え、依子さん…レノンのお母様の名前です。彼女は再婚して、新しいご主人との間にお子さんをもうけても、月に一、二度は、こちらに来ていたそうです。あの風景画は、レノンがここに入院してから、彼女がスケッチし、筆を入れて、息子さんの病室にずっと飾っていたんですけれど」
「けれど?」
 シーラの促しに、ハト先生は伏せていた顔をあげ、シーラのまなざしを確かめ、
「お母さんが亡くなったあと、レノンの部屋の壁にかかっていたはずのその絵、誰も手を触れないのに、あちこち動くようになったんです」
 しん、とはさまれた静寂。みんなは見えない力にひきつけられるように、聖母子にはさまれたレノンのお母さんの風景画に目を注ぎました。
「朝になると、前夜掛けてあったいつもの場所ではなく、床に落ちていたり、机や引き出しの上に移っていて……しかもかならず裏返しになって……」
 誰が、何度なおしても、とハトは内面の記憶をなぞるように、ティーカップに揺れる金色の紅茶に視線を落としました。タイジはそんなハト先生の様子をしばらく窺い、居合わせたみんなの顔をひとりずつ見渡してから、おもむろに口をひらきました。
「この風景画はミステリーです。数年前に亡くなったぼくのひいおばあさんて、美大とか出ているわけじゃなく、しろうと趣味がこうじて画家になったひとなんですけれど、彼女が生前描いた一枚は、このレノンさんのお母さんの絵とほぼそっくりです」
「ええ」
 ハト医師は紅茶から視線をタイジに移しました。ハトに見つめられて、タイジの肉付きのよい頬に、ぼっとほのかな血の色がさしました。
「ひいおばあさんの絵、これです」
 とクリヤーファイルからデータのプリントアウトを取り出し、ハト医師に手渡すと、彼女は眉を高く上げていかにも驚き顔になりましたが、ほんとうに動揺していないのは、誰の眼にもはっきりとわかりました。
「まるで模写したみたい。ですが、おばあさまが描いたのはずいぶん昔でしょう」
「たぶん戦前」
「この聖堂と花畑は大正時代からあったと思うけれど、それにしても実写ではないわね」
「おばあさんが旅行か何かで、こちらに来たという可能性もないわけではありませんが、肝心なのは、同じ建物、同じ風景が描かれているってことじゃなく、かけ離れた環境と時代の二人の女性の、心象を託した絵の表現が同一だってことです」
「もし、花緒さんがここに来て、実景を眺めて描いたなら、まったく違った構図や色彩になっていたかもしれない」
 とシーラがつぶやきました。ハト医師は、
「時間や空間をはるかに隔ててシンクロニシティが起る、というのは昔から知られていることですから。透視、幻視、幻聴…こういう言い方は誤解を招きかねないのですが、精神障害者や認知症の患者さんの妄想は、時として、ある出来事の未来を予知したり、特定の人物の誰も知らないはずの過去や内面を、言い当てたりすること、あります」
「アートにも、そういう常識を超えた側面は……ムンクやキリコ、ダリ、マグリット、デュシャンとか。超現実主義のクリエイターたちの作品は、いずれも予兆を含むし、過去現在未来の隠れた何かを探り当てる」
 とタイジにはめずらしく深刻なかたい口調を、シーラはすこしからかい気味に、
「ジンさんなら、あっさりと〈天才とナントカは紙一重〉なんて言うんでしょうね。ミネさんの言う難解な美学的説明でなくても、具体例なら、江戸時代の浮世絵師歌川国芳の作品、〈東都三股図〉は隅田川河畔の光景を描いたものなんだけれど、当時には存在しなかった高層ビル群と、スカイツリーらしき建築が、絵のそれぞれ右と左に、現在そこに立って眺めたときに見える姿とほぼ同じ構図と遠近で描かれている」
「そうそう。スカイツリーの完成が近づくにつれて、ずいぶん話題になった。その時代、江戸城より高い建築はなかった、当然、塔なんて。だからその光景は国芳の想像に決まってるんだけれど、彼のなかに浮かんできたのが、未来図だったって」
「脳感覚が時間や個体を超えるってことはごく自然なのよ。気がつかないだけ、意識できないだけで」
 とシーラは言い切りました。
「現実の枠組みに捕らわれているのは、わたしたちの狭い自我のほう。いろんな既成概念の制約から心を離して自由になれば」
 と言葉をつないだハト医師はシーラに視線を投げました。「ジユウニナッタ!」というレノンの叫び声が、そのときシーラとハトの耳の中に同時によみがえりました。
「花緒さんの幻視に、依子さんのまなざしがオーヴァーラップしたということかしら?」
 それまでもっぱら、聴き役にまわっていたガーネットは、みんなの会話をまとめるようにおっとりと言いました。
「その逆かもしれないですよ。未来の依子さんの絵が、過去の花緒ばあちゃんの絵筆を左右したってことも」
 とタイジは言い、重ねて、
「時間の流れって、直線じゃないような気がしてきます」
「そうね…時間を認識できるのは、人間の知性だけだもの。この世から人類の〈知〉が消えてしまえば、永遠の現在と無が、何の矛盾もなく存在し続ける。現実もないし非現実もない。夢とうつつ、生と死の境もないわ。わたしたちにしたって、心に秘めている夢の記憶も、現実の思い出も、ある意味では等価値ですものね」
ハト医師の台詞にタイジは驚いて彼女を見つめなおし、こちらを向いたハトともろに視線がカチ合うと、また顔を赤らめ、あわてて目を逸らしました。

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