さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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オカリナ・シーズン 7 コイン・ラヴァーズ

Posted by 水市夢の on   2 comments   0 trackback

LOVERS
 宙(そら)に投げるコイン
裏と表 
 どちらが君の心 どこかにぼくの愛
 表に君の心 裏には愛
 君には見えない ぼくの想い
 互いに重ならない裏と表
 ぼくと君の愛
 ひとつの出会いに 
背中合わせの裏表
 
 君には見えない ぼく
 ぼくにも探せない 君
 でもぼくは君の背の
 震え 感じる 誰よりも
 はっきりと せつなく 君を
 
 誰にもわからない
 君のHEART
 重ならなくても 
 離れないから 愛
 君の震え 感じて
 暖める LOVERS
 はっきりと せつなく ぼくら
 くっついて
 背中合わせに
 結ばれてる
 コインの裏表

 さよならなんか言わない
 背中合わせに 
 結ばれてる LOVERS

 ぼくは君
 君はぼく
 裏と表
 背中合わせのHEART 
 離れない LOVERS
 さよならなんか言わない
 結ばれてる LOVERS
 

足がしっかりと地面を踏んでいる、という感覚もなく、きっと何度かつまづきながらタイジは機械的に自分の巣にもどり、これも習慣のなすがまま、入り口の郵便受けの蓋をあけると、ばらばらと何通かの印刷物が手から逸れて足元に落ちました。それでようやく、タイジは自分の両手が、ときおりひどく痙攣しているのに気が付きました。
(うー。ショックでドーパミン分泌過多か?
それとも過少か?)
「洒落言えるんだったら大丈夫だよ」
 と、存外のんきな自分の声がつるりと喉から漏れ、それもタイジは誰が喋っているんだろう、と思います。しゃがみこんで配達物をひろうと、あらかたは歳末めがけての広告葉書でしたが、中には、あきらかに手の込んだきれいな彩りのDMが一枚、二枚。
「クリスマスパーティ? 〈 inローズ・クォーツ〉と、こっちは…ガーネットさんで、あれっ」
 沸騰して霞がかっていたタイジの脳みそに、冷たいおしぼりが、とん、と乗せられたくらいの鎮静効果はありました。
 久我ビル地下劇場で、季節恒例の吉良娥網(ガーネット)のダンスパフォーマンスがあり、そのゲストに美人風ユニットが招かれています。もちろんヒョウガも。
 タイジはあらかじめガーネットの公演予定は知っていたのですが、このダイレクトメールはリンスから来たものでした。手書きメッセージが添えられています。

 急な話ですけど、豹河君から誘われて、共演させていただくことになりました、ガーネットさん、すてきな方ですね。今回はシャワーとふたりで歌います。よかったら来てね。

 こちょこちょと小さな横書きの倫子の字は、かつての優等生ぶりをちゃんと示して、几帳面できれいでした。タイジはふと、シャワーはどんな字を書くんだろう、と思いました。
(顔も体つきも、性格も似ているみたいだから、みっちゃんみたいなきちっとした達筆なんだろうな)
 それにしてもヒョウガめ、ぬけめなくシャンプーにアクセスした、とタイジはいつも日焼けしている精悍なヒョウガの顔を、かなりいまいましく(なんで?)思い浮かべ、それからローズ・クォーツで最後に会ったとき、何か言いかけて言葉を呑み込み、ただはにかんで笑っていたシャワーの可憐な姿をくっきりと思い出しました。
 タイジはちょっと気持ちの張りをとりもどし、自分のねぐらに戻ってゆきました。
 翌日の火曜日、水曜日は普段と変わらないスケジュールが無難に過ぎてゆき、また木曜日が来て、ソゴウさん宅への訪問日でしたが、シーラからはあれっきり何の連絡もありません。タイジは毎朝毎晩、携帯にインプットしたシーラの画像を眺めることをやめませんでしたが、その度に携帯といっしょにしまいこんだ紅いタイシルクのハンカチが、月曜日の衝撃を再現して、それこそタイジにはめずらしく、自分の気持ちのありかも行方もわからなくなるのでした。
(どうだっていいじゃんか、あいつが男だって)
 と、もうすでにタイジ自身に言い聞かせる自分がいるのでした。
(だけどさ、そう考えちゃうってことは、俺はどうでもよくないってことなんだろ。俺ホモじゃないんだ。でもシーラはどう見たって男にゃ見えないもん。なんであいつが男じゃだめなんだ? ヒョウガはシーラが……その、つまり、ええと、平気なんだよね)
「ミネさん、ボーっとしてないで○○さんの食前トイレ誘導してよ。どうしたの? 眼の周りにまっさおなクマ作って。健康優良児の君が」
 無難に、とはいえ、こんな心のざわめきはどうかするとやはり挙措に現われて、デイサービス勤務の最中、フロアリーダーに注意されることもあったりするのでした。
木曜日の午後三時、とうとうシーラには連絡せずにソゴウさんのケアに入りました。
 もう十二月の大気が凛とつめたく、それでも枯れ残った庭の百日紅の葉がいくひらか、さびしいほど明るい冬ざれの陽射しに揺れています。涼子さんとの約束では、ソゴウさんのケアにタイジが入るのは今年いっぱい。そのあとはどうなるのか、まだなんの連絡もありません。
(あの百日紅の前で燃えているふたりの山羊男から始まったんだっけ…)
 どうして山羊なんだろう、どうしてソゴウさんが二人いたんだろう? あれは、でもほんとに現実にあったことなんだろうか?
(ゲンジツじゃないんだ。幻覚なんだけど、現実よか真実味があったし、今も記憶に焼きついている) 
タイジが鍵を開けて入ってゆくと、ソゴウさんは西陽射しこむ窓辺の書き物机にいつものように向かい、あまり皺の目立たないすべすべした面長の顔をうつむけて、何か本を読んでいました。
「先生、ミネモトです」
 ゆらり、と上半身が傾いて、ソゴウさんがこちらをふりかえり、
「おや、今日は君ひとりなの?」
「はい、いつものとおり」
「前に新人の女性といっしょだったろう。彼女はどうしたの?」
(よく覚えてるな)
「えー、ちょっと他の仕事を任されていて。野郎が来てスミマセン」
 ソゴウさんは目じりに朗らかな笑い皺をいっぱい作って口を開け、
「ほんとに残念だ。類稀な美人だったから」
「ハイ」
 タイジの胸が締め付けられる瞬間でした。
「やめたわけじゃないでしょ? だったらまた来るかね」
「ええ、いずれまたうかがうと申しておりました」
「それは嬉しい」
 ソゴウさんは、おっとりと返事をして、また机の上の本に視線を戻します。何を読んでいるんだろう、と好奇心にかられたタイジは少し背伸びをして先生の手元を覗きこむと、ひろげているのは書物ではなく、古いアルバムでした。
 昔ふうに写真を貼り着けてゆくアルバムで、ちょうどそのページには、三十年くらい前のソゴウさんと、たぶん奥さんらしい女性の姿が何枚もあります。箱根…芦ノ湖…それに…。
関東近郊の明媚な観光地で、肩を並べて映っている笑顔の夫婦。それと、ところどころには友人らしい男女数人が加わって、どれもいかにも楽しげな表情です。
 あ、とタイジは眼をみはりました。
 どこかわかりませんが、少し色の褪めた紅葉の風景に、ソゴウさん夫妻といっしょに写っている、けっこう顔立ちのよい、鳥打ち帽子をかぶった伊達男。痩せて背の高いソゴウさんと、彼の雰囲気は対照的で、きちんと頭髪を手入れしたソゴウさんにひきかえ、全体に肉付きのしっかりしたもうひとりの彼の髪はいかにも無造作に鳥打帽子からはみ出て、肩幅と同じくらいに両足をひろげ、手を後ろに組み、靴はタイジのいつも見慣れているメッシュでした。
 たれ眼気味に、視線の焦点がつかみどころのない笑顔にも見覚えがあります。
 つつましやかな可愛らしい印象の、ソゴウさんの奥さん節さんを真ん中にはさんで、三人で仲良く写りこんでいるところから察すると、よほどこの夫婦と彼は親しかったのではないでしょうか。
(ジンさんだろ。へえ…。すいぶんイケメンだったんだね。顔つき変わらないや。靴と。
節さんとも知り合いだったってことか)
 縁ありきってとこ……。ジンさんはもしかしたら節さんの消息が知りたかったのかも、とタイジは思いました。タイジは、今自分につきまとってるという節さんの顔かたちはまったくわからないのですが、女ざかりの、ちょうど今の娘の苑さんぐらいの年頃の節さんは、美女という感じではないにせよ、いかにも育ちのよい、見た目に快く、角のない雰囲気の女性でした。
タイジの眼にも、この上品な節さんが、若いころから奔放と火宅をはばからないジンさんとは相容れないというのは、はっきりとわかり、でもそれだけにジンさん自身の性質とは真逆の女性への好みをかきたてたのでは、という憶測が蠢いたりもするのでした。
(ひとってわかんないよね。ジンさんはガーネットさんがどうのって言ってるけど、ふたりとも本気だなんて思えないもんなあ)
 タイジはここでまたシーラを連想し、ちくりと、いいえもっとはっきり熱い感情を押し殺し、顔を背けて部屋を退き、キッチンへまわり、いつもどおりテーブルの上の買い物メモとお財布を取りあげました。

 結衣ヶ浜に寄せる西風は凪いで、小春日和の午後の光は、潮の匂いを含んだその濃い大気といっしょに遠浅の海面をなめらかに渡ってくるのでした。
 シーラは海浜公園近くの地下駐車場にプジョーを停め、人気の少ない冬の海辺へふらりと出てゆきました。スカートではなく、デニムのイージーパンツの気楽なかっこうで、上からはざっくりとカーキ色のモッズコートを着ていました。束ねていない髪が車からおりたとたん、地下駐車場の中までも、どこかから吹き込む海風に乱れ、白い頬にほつれかかりましたが、シーラはバレッタで留めようとはしませんでした。地上に出ると、むしろ風の乱れは静まり、穏やかに一方向に流れてゆくようでした。
 もう冬至も近い太陽は低くなだらか、と言ってもやはり内陸とは濃度の違う海辺のまひる、サングラスをかけていなければ眼が眩みそうな陽の量です。ウィークデイの午後でも、観光地として名高い結衣ヶ浜を散策する観光客、なかんずく若いカップルが目立ち、また遠近の磯にはウィンドサーフィンの透きとおった翼がゆったりとした風を受けて縦横に奔り、低い波のためか、それらの多くはじきに横倒しになり、また飛沫をあげて起き上がり、足元に打ち寄せる規則的な波のざわめきに、サーファーたちの洩らすさまざまな歓声が、遠い風の周囲にふぞろいなリフレインを混ぜてくるのでした。
(面会時間は、まだ余裕あるな)
 とシーラは身軽く防波堤を超え、引き潮ですっかり露わになったテトラの一角に飛び移りました。すぐ傍には鴎が二、三羽。彼らは突然の闖入者に怒ったように両翼を大きくひろげましたが、飛び立とうとはせず、じきに羽をしまって、シーラの存在など気にも留めない無表情に戻りました。
 鳥たちはたいてい、シーラを怖れません。どこでも、どんな鳥でもそうでした。シーラがまだイタリアにいて、よちよち歩きの赤ちゃんのころから……。
 今日彼女は藤塚市民病院に、二度目のメグのお見舞いにやってきたのです。けれども気持ちは重く沈み、包帯とギプスに包まれたメグを見るのがつらくてならず、藤塚の手前で道を逸れ、鹿香の海へ寄り道したのでした。
(あたしのせいだ)
 メグの傍から離れず、半狂乱になって泣いていた駿男さん。
(パパは、あたしを一言もなじらなかったけれど……出来事そのものはあたしのせいじゃないけれど、メグの周囲にいろんなものを引き寄せる原因を作ったのは、あたしなんだ)
 安美さんが、まだ柳の精でこの世にいたとしたらどんなに哀しんだろうか。彼女は娘に平穏な暮らしをしてほしいから、たぶんメグに自分の視力を残して世を去ったんだろう。
(あたしと出会うまで、メグの異能力を鎖したのは、母親なんだ…)
 どういう手段でか、それもなんとなくシーラには察しがつくのです。メグの内部深くに埋もれた記憶の深層まで潜れば、その経緯ははっきり残っているはずですが、そんな暴露は無意味、とシーラは手を触れませんでした。
 そして今、シーラの後悔と苛立ちをさらにじりじりと責めつけるのは、メグに居候したレノンで、霊園で彼に宣告されたとおり、シーラからメグの心に触れ、対話することが叶わなくなってしまったのでした。
 メグの内部に語りかけ、また触れようとすると、あたかもかっちりと冷ややかなブロックが隙間なく降りてシーラの侵入をはばみ、メグ独特のほのぼのとした柔らかさや暖かさの中心までたどりつけないのでした。
(ガキめ)
 とレノンのことを思うと、シーラの思惟は荒々しくなりました。
(たいした縄張り意識だ。男同士でシンクロしたくないと言ってたから、シーラがほんとに女だったら邪魔しないのか? いや、あいつはそんなに寛容じゃない)
 テトラに座り、シーラは親指の爪を噛みました。細長い指とかたちのよい半楕円形の爪先は、さらにきれいに手入れされ、磨かれた小さい十個の窓のように、なめらかな虹いろに光っています。マニキュアにしても、シーラはルージュ以外、自分が紅をあまり好まない理由を自覚していました。
(モンスターめ)
 ゾーリンゲンまで言い当てやがった。いつ、どうやって、〈ぼく〉の記憶に侵入した?
(男は嫌いなはずだろうが)
 ビュッ、と突風が海面からシーラの髪をあおり、いっしょに剃刀のような寒気が首筋を撫でました。レノンの嘲笑が混じっていそうでしたが、風の流れは透明で、気がつけば少しずつ潮の気配を変え始めたテトラの喫水線が自分ににじり寄ってくるので、シーラはたちあがり、同時に鴎たちもはばたいて舞い上がりました。
テトラポットの角と角をとんとんと踏み渡ってゆくと、ついさっきまで水底の石ころや海草が黒々と濡れて剥き出しになっていたのに、もう海水にひたされ、コンクリートの壁面には、粘り気のある泡が無数に浮かんでは消えています。
シーラはそれでもプジョーに戻らず、汐の昇り始めた浜辺へ回りました。
 テトラではオブジェの空洞に反響して、ごうごうと轟いていた水音が、こちらではたいらかで快いさんざめきとなって、一定のリズムで打ち寄せる波音の単調、乳白色に紺青を加えた海の明るさは、誰しもそうであるように、いつまでもいつまでも聴いていたい、眺めていたいものでした。
 冬の陽射しの傾くのは早く、少し離れた岬の崖に太陽が隠れると、際立った藍色のくらさが浜辺に訪れてきます。空の明るさの反映で海のほうはなお明るく、その余光で濡れた海辺の砂地は、視界にいったんかき暗がっても、すぐにまた、余計なまばゆさを消した影のない均一な銀鼠色を浮かべ、まるでポール・デルヴォーの画のどれかにありそうな情景に変化してゆきました。
 傍にいたい…。
 それはこのごろあちらこちらで耳にする想いと言葉でした。
 夫に死ぬまで寄り添い続けたいの、どうにかしてちょうだい。
 穏やかな言い回しでしたが、節さんの懇願はそれだけに頑として退かない強さがあり、これを放り出せばまず間違いなく餓鬼道の修羅、悪くすれば、おそらく今節さんが時々(?)仮住まいしているらしいタイジまでも巻き込むかもしれません。あるいは重傷のメグに向かって暴走するかも、とシーラは考えました。
(植物霊にもなれない。自縛霊もまずい。タイジだっていつまでも宿主ではいられない。メグだったらどうするか?)
 メグをひっぱりだせば簡単だ、と言っていたレノンの声がよみがえり、シーラは砂を踏んで歩きながら、
(ということは、レノンはどうすればいいかわかってるんだ。どうすれば片付くか。メグだったらどうする? だが解答を彼女からじかに引き出すには、コムニタスを呼び起こすしかない、青い眼の……)
 レノンが釘をさしたように、今のメグにとってはコムニタスへのメタモルフォーゼはひどい消耗だろう。
「おい、眉間に縦皺寄せんな」
 突然、ずけずけとうしろから声と手が同時に伸びて力が加わり、シーラはうっかりのけぞりましたが、反射的に肩に置かれたその手をつかみ、うまいことくるりと身をよじり、ヒョウガと斜に向かいあって立ちました。向き合うとシーラのほうが、ヒールのある靴をはいている分、彼の眼線より高くなって、まだ心理的に有利な感じです。
「なんでわかったの?」
「直感、て言いたいけど、実は携帯内蔵GPS」
相変わらず驚かないやつだな、とヒョウガはシーラの頬の冷たさを自分のてのひらに包みながら思い、そのまま顔を近づけてキスしました。シーラは逆らわず、唇が離れると、軽く笑って、
「マジ?」
「だってそうしないと、おまえどこにいるかわかんないもん」
 ヒョウガは悪びれずに応じました。レッドソックスの野球帽を被っていましたが、シーラとは逆に、もうかなり伸びたレオパードヘアを、今日はちゃんと首のうしろで束ねていました。日没の気配と、野球帽の鍔の影に、いつもながら眼の光りが際立っています。
「しょびてんな?」
「そうでもない」
 ヒョウガはシーラの強がりを一蹴する口調で、
「たまには泣きつくくらいが可愛げあるんだよ。智恵貸してくれとかさ。メグ状態悪いんだろ」
「まあね」
「俺じゃ…」
 だめか、というのが口惜しくてヒョウガは口をちょっとつぐみ、
「わかんないよ。おまえいつも何も言わないんだもん。メグの事故って、フツーじゃなかったわけだ、その顔つきだと」
(ほんっとにアタマくるけど、こいつの前だと俺のほうがいつも片肘張る感じになる。なぜなんだ)
 ヒョウガはふくれっつらをして横を向きました。そのストレートなジェスチュアに、シーラは声を出さすにまた笑って、
「あなたに言うとたぶん激怒するから黙ってるだけよ。怒らせたくないという、思いやりだってば」
「どこが?」
 もういっぺんヒョウガはシーラの視線をとらえ、遠慮なく喰いつきました。
「おまえ、俺をなんだと思ってるの? 俺おまえみたいに他者の心読めたり、しょっちゅう霊魂見えるわけじゃないけど、惚れた女の顔つきぐらいわかるぜ」
「……おんな?」
「じゃないの?」
 海風が満ち潮に乗っておしよせ、シーラの髪を陸地のほうへ吹きあげました。シーラは腕時計を見てつぶやきました。
「そろそろ病院行かなくちゃ」
「それとも男って言えばいいのか?」
 ヒョウガは皮肉っぽく付けたし、でもシーラの二の腕をぎゅっとつかんで行かせまいとするかのようでした。
 シーラはその力にもあらがわず、くにゃりとヒョウガの胸に上半身を預けるようにし、ただ黙って砂浜を歩き始めると、つられてヒョウガも歩き出しました。海水を含んだ浜の砂は、踏みしめるたびに踵からめりこみ、満ち退きの海岸線のしるべとなる、すこし粒のあらい小石や貝殻の筋目が、ながい結衣ヶ浜から、たぶん岬へ、またその先の和賀江島まで、湾曲しながら、水の足跡のようにずうっとつながっているのでした。
「桜貝がたくさん落ちている」
 シーラは身をかがめて、眼にとまった淡い薄いはなびらのような幾枚かを指にひろいあげ、これをメグにおみやげにしようか、と考えます。
(こいつのバックレ、名人芸だ)
 ヒョウガは内心舌打ちするのですが、こうやって並んで寄り添っていると、いつだって毒気を抜かれて、彼は気持ちの尖りが消えてしまうのでした。
(だからヒーラーなんだろう。俺、ほかの女とだったらこうはいかない)
「ヒョウガ、〈ぼく〉のどこが好き?」
 ふいにシーラはきっさきを向けました。ヒョウガは一瞬の隙もなく応じました。
「全部」
「ぜんぶ?」
「おまえ、そんなこともわかんないの? ヒーラーなんかやめちまえ」
 シーラの脳裏をタイジの声と姿がスローモーションでよぎってゆきました。
「惚れたって言ってんじゃん。パーツで惚れるわけないよ。俺、フェティッシュで女を抱かない。だったら人形とかのほうが、ずっとマシだ」
 シーラはしばらくヒョウガの顔を眺めました。それから、すこし睫毛を伏せて、
「うれしい」
ひとことだけ。ヒョウガは屈託なく、また照れもせず、口を開けて笑い、眼だけはぎゅっとシーラを見据えて、
「じゃこの話はこれでおしまい。おまえメグの面会にいくんだろ。俺これから茅ヶ崎でセッション。夜通しライブ」
「何時から?」
「ディナーショー仕立てだから、七時くらいだね。シャンソン歌手とピアノで入る。おまえも来いって言いたいけど、インビテーションオンリーなんだ」
「明日は?」
こいつ、マジで疲れてるなとヒョウガが思った瞬間でした。明日は会える? そんな台詞を聞いたことがあったろうか、とヒョウガは考え、
(会いたがるのはいつも俺だった)
「おまえこそ、今夜どうすんの。世田谷帰るんでしょ」
「帰らなくてもいいよ」
「明日明後日の週末、衣笠の山奥にある私設美術館でクリスマスパーティーなんだ。そっちに回るつもりだから、今日明日俺は東京に帰らない」
「パーティ…出てもいいよ」
「その言いかた。いいよ、じゃなくて、いいの? だろうが。だけど俺、そっちではフルートも吹くけど、昼間は料理の助っ人で入るんだ。展示のヴェルニサージュのたびに自前の料理出す、かなりりっぱな厨房のある趣味のギャラリーだよ。ときどき俺そこで働いてるって知ってた?」
「いいえ」
「これだよ。おまえこそ俺のどこが好きなんだ。いいよ、答えなくて。聞くのこわいもん。俺正直だから、いつもってわけじゃないけどおまえには正直だから聴きたくない」
とまくしたてながらも、ヒョウガはとてもうれしそうでした。
 冬の太陽を遮って、厚い藍色の雲が真横に流れ、その縁だけがあざやかな金褐色に輝き始めました。風向きは速度を速めて汐をおしあげ、渚に向かう波頭の高さがはっきりと嵩を増していました。
 イソシギが数羽、シーラとヒョウガの周囲を無心に飛びまわり、またすぐに水色がかった夕べの空に飛んでゆきました。
「プジョーで待ってる。夜明けまで、どこにいるかわかんないけど。別にホテルでなくってもいいでしょ」
「うん」
 ますますヒョウガはうれしそうでした。
 彼はずっと片手でつかんだままのシーラの二の腕をようやく離し、今度は両手を彼女の腰に回すと、モッズコートのフードに顔を埋めるように、シーラの首筋にかるく歯を当てました。シーラはヒョウガのために首をかしげ、そのせいで、まなざしはごく自然に、すぐそこまで海の来ている浜に流れました。
 波は、もう午後の透明から夜のさきがけのような暗青色をたたえ、狭くなった砂地に激しい満ち潮に打ち寄せられ、あるいは引き寄せられる、大小さまざまな藻屑や貝殻の、もうこまかなものは夕闇に紛れて見分けもつかなくなり、大きなものだけが目につきました。
「あれは……」
 シーラは首筋にすがるヒョウガの呼吸を忘れ、波頭に向かって、むずむずと這ってゆくかなり大きな巻貝に眼を吸われました。貝殻、流木、空き缶空き瓶……むなしく寂しい破片のような単語が集まる浜辺に、その巻貝は明らかに生き物の自立したリズムと勢いを持って、そろそろと海へ近寄ってゆくのでした。
「南の国の?」
 ヒョウガは熱っぽい眼をあげて、シーラのささやきの焦点をひろうと、フン、と鼻を鳴らし
「ヤドカリだよ。でかいな。たまにうちあげられるんだ。あれ法螺貝だろ」
「ヤドカリ…」
「知らないわけじゃないだろうが」
「ええ」
(喜んでるとじきにこれだ。もうちょっと俺を見つめてくれ)
 ヒョウガはシーラの顎を少し手荒につかみ、キスしているのか怒っているのかわからない……その両方で、それから、そして。


こころのかなしみ剥がして
 ひとひらずつ きらめきに変え
 贈りたい 粉雪舞う
 この聖夜
 いつわりのない
 傷つきやすい
 PURE HEART
 愛だけが 変えられる奇跡
 あなたに 贈る
 わたしの過ごした日々
 あなたゆえにきらめいた
 木々の声も 風の歌も
あなたがいたから
 すべて愛しく
 輝いた 時間
 誰よりも 深く
 誰よりも せつなく
 激しく そして……
 だからやさしさの起源は
 みんなあなたから
 もらったもの

 ふりむいて、また遠ざかり
 互いの道は逸れ
 あなたのいない 
 聖夜 きらめく無数の星々の
 ひとつぶずつ
 かなしみといとしさ混ぜて
 こころから贈る
 あなたをみつめる時間
 幸せな光りをくれた
 誰よりも 長く
 誰よりも いとしく
 育てた愛
 PURE HEART
 
この手に握る 今
 もう離さない 輝きは
 きっとあなたを幸福にする
 かなしみは 汚れなく
 風に舞う粉雪
 あなたのいない 聖夜を
 いくつ過ごして
 今 わたしの手のなか
 あなたは 微笑む
 わたしの 育てた愛
 PURE HEART
 誰にも測れない
 時間 互いに 分け合い
 こころの哀しみ
 剥がして
 光るはなびら
 淡雪こなゆき
あなたがいなかったから
 木々の歌 風の声
 夜空の深さ 星々のいろ
 眼に映るもの すべて
 あなたへの愛だった日々
 やさしさの起源
 みんなあなたから
 もらったもの……
 いつわりのない
 PURE HEART
 二度と離れない


クリスマスまで、あと十日余りとなった週末の金曜日の午後、シーラはタイジにも知らせず、ひとりでソゴウさんの家を訪ねました。
プジョーでもハーレーでもなく、電車とバスを乗り継ぎ、降り立った駅前で、お土産のケーキと赤い薔薇を買って。
 薔薇は七本。ケーキはたまたま眼にとまったその街のパティシエールのショートケーキを適当に四つ。
 記憶をたどって門扉を探ると郵便受けに鍵があり、娘さんは帰宅しておらず、ソゴウさんの書斎らしい窓のカーテンの隙間から、まだ夕陽の残る窓辺に淡く、電気スタンドの光が漏れて見えました。
 玄関の上がりかまちでシーラはコートを脱ぎ、壁にかかった長楕円形の姿見で、自分の姿を確かめました。
 すこし胸の空いた鮮やかな赤いワンピースを、ことさら選んで着てきたのでした。胸のふくらみは、下着とチーフでカヴァーしています。クラシックというよりもむしろオールドで、同時にワイルドな七十年代ふうの真っ赤なドレスは、ただこの時のためにアメ横で探し出した衣装で、コートなしの姿のまま、日常の街を歩いたら、奇異な視線を向けられるかもしれないほど鮮烈なドレスです。胸まわりの黒いレースの襟飾りはビーズを散らしたデリケートなもので、これだけはシーラが自分でつけ加えました。
 口紅もワンピースと同じくらい濃い赤。
(すごいね)
 鏡に映った自分を、シーラは見知らぬ女のように眺め、心につぶやきました。これほど強烈な色彩をまとってしまうと、髪型も化粧もたぶん相手の印象から消し飛んでしまう、とシーラはセミロングの髪をそのまま垂らして、前髪だけ節さんふうに飾りけのない黒いカチューシャで留めました。
 シーラ本人がどう思おうと、その赤いドレスは彼女によく似合いました。すこし蒼ざめて血の気のひいた頬でさえ、衣装の真紅は凄味を添えるのでした。
 ノックなしで、シーラはドアを開ける音さえたてず、ひそやかな影のようにソゴウさんの部屋に入りました。ノックしてもわからないと思ったからです。ところが、
「待ってたんだ。遅かったじゃないか」
 ソゴウさんは窓に向かったまま、背中ごしにシーラに声をかけてきたのでした。
「なぜわかったの?」
「玄関に君が現れたとき、ここから姿が見えたんだよ。その薔薇はぼくに?」
「そうよ」
「花をもらうなんて久し振りだ。女性からいただくなんて、ましてめったにない」
 それからようやくソゴウさんは後ろをふりかえりました。
失禁の気配や、部屋に染み付いた尿臭はしません。きちんと掃除され、床もワックスをかけたようにつやつやとし、長いこと誰も手を触れない書棚の本たちはうっすらと埃を被り、褪せた背表紙のまま、つつましく並んでいました。
地味だけれど毛並びのよいセーターの上に、セーターと似たような色合いのジャンパーを重ね着し、フリース素材のズボン。足元はスリッパではなく、もこもこした暖かそうな室内履きです。娘さんの趣味なのか、奥さんの節さんが残したものなのか、ソゴウさんの身なりは、どこのブランドかはわかりませんが、一見ありふれていても、着崩れの目立たない上等なものでした。今日は太い黒縁の眼鏡をかけています。
そのせいか、前に会ったときより、彼は若々しく見えました。強めの度の入った眼鏡ごしに、ソゴウさんはシーラをまじまじと見据え、
「君はまったく昔と変わらないねえ」
「そう?」
「いや、昔よりいっそう女っぷりがあがったよ。よくぼくのことなんか思い出してくれたもんだ」
「忘れたことないわ」
 柔らかくシーラはささやき、書き物机に近寄ると、その上に抱えていた花束を、静かに置きました。
「お世辞でもうれしい」
「あたしの名前、おぼえている?」
「もちろん。ええと……」
 ソゴウさんの視線がシーラから逸れ、頼りなげに左から右へ、またその逆にとゆっくり動きました。
「ええと、君は」
「あなたの最後の恋人よ。やっぱり忘れちゃったのね」
「最後の…」
「そうよ。わたしが、あなたの最後のひとりだったのに、あなたは忘れてしまったのね」
「そんなことはない。こんなにはっきり記憶に残っている。君の顔も声も」
「それじゃ、あたしは誰?」
(田舎芝居だ。ごめんね)
 いったい誰に向かって謝っているのか、とシーラは思わず唇をきつく結び、すぐにまたこわばった笑顔を作りました。
 考えた挙句、あまり…うまいとは思えない手段で、無力な相手をたぶらかそうとする自己嫌悪を抑え、作り声でささやきながら、シーラはソゴウさんの視線を全部とらえられる近距離まで顔を近づけました。ソゴウさんは無防備に、呆然と、両手をだらんと肘掛椅子から垂らし、両膝をかすかに揺すり始めました。
 知力を欠いた充血した瞳の真ん中で、さらに淀みを加えた水晶体。その奥に体液を含んだ硝子体。感度の鈍った虹彩の扉に手をかけ、シーラは失認の症状に揺さぶられ始めたソゴウさんの内部に、病人にはむごい、と無理を承知で侵入しようと、視線にこめた自分の意識のきっさきを鋭くしました。
 ソゴウさんの病んだ内面に、いやいや踏みこむ鈍器を振り下ろすような不快な感覚が脳裏を疾走するのと、うしろから節さんがシーラの髪をつかんでひきすえるのとまったく同時でした。
 ……!
 節さんは無言でした。シーラは彼女の姿をかろうじて横を向いた視線のはじでとらえ、予想はしていたものの、ようやく実体を見せた自縛霊の無惨に呼吸を詰めました。
 宿主であるタイジから飛び出すと、焦燥に焼かれ、執着のかたまりとなった節さんは、もともとの穏和な顔を、もはや保てないのでした。
黒目の見えない、ぽっかりと空いた洞のような両眼。半開きの口腔からあえぐように赤茶けた舌がひるがえり、痩せた鼻梁、こけた頬、灰色にばさばさと乱れた髪がその顔にまつわり、生気の失せた顔面に、瞳の抜けたうつろなふたつの眼だけが、ねっとりと低い金いろを帯び……
(泥眼の顔だ)
 シーラは、能面のいくつかを瞬時に連想しました。嫉妬に妬かれ、うらみに、憎悪に心を歪めた女面の数々。般若となれば鋭い角を額に生やしてもはや鬼、そこまで狂い、うらみきれずに苦悩するなら生成、または泥眼、
あるいは蛇(じゃ)……。
 能面の、鬼と女と魔のあわい、いやおうなしのメタモルフォーゼに煩悶するそれらは、怨念にとらえられてなおうつくしい造型を保ち、気韻をたたえ、おぞましさといたわしさを、眺めるこちらにかきたてるのでした。
夫にうらみはない、とつつましく言い切った節さん。だけれども、その言葉には、他人には明かしえぬつらい思いが、刻み込まれた裏また裏のさらにうらが幾重にも畳まれているはずなのでした。
(そうでなければ死に切れぬほどの未練を残すはずないんだ)
 それでも彼女は夫の傍にいたい。仇魔ではなくて……?
 シーラは鬼女になりかけた節さんに髪を鷲づかみにされたまま、逆にこの恐ろしさの反動に勢いつけて、節さんをひきずったまま、ソゴウさんの中に侵入しました。
色彩を崩し、ひとつずつの輪郭のさかいめを失くした認識の欠片、形象の歪み、ぶちまけたペンキか、やくざなラッカーのめちゃくちゃな吹きつけのような、迷彩。半ばは闇。そのなかにいくつかは……いくぶんかはきちんとした首尾のある何かの記憶の断片が、濁りの渦のなかに浮かんでは沈んでいました。
(心象の表面が、もうこんなに混乱してるなんて予想以上だ。どこかクリアな意識は残ってないか?)
 シーラは自分の髪から首へ、痩せた腕を回してしがみついてきた節さんを、こちらから逆に抱え込みました。節さんは眼と鼻と口だけがぽっかりと際立つ木偶人形のように、ソゴウさんの中に飛び込んでしまうと、かえっておとなしく、こわばった顔をうつむけ、両手は何かを捜し求めるように、シーラから離れ、周囲のどろどろした迷彩の溶暗をかきまわし始めました。
(夫はどこ?)
(ここがあなたの御主人の中です)
(何も見えない。どんよりして)
(あたしの言葉がわかる? 節さん。あたしと対話できますか?)
(はい。シーラ。苦しいわ。舌も眼も、がちがちにこわばって、体は骨になってしまうみたい。タイジさんから抜け出すと、わたしは……人らしい〈血肉〉を欠いたモノに堕ちてしまうのね、もう)
(それにしても鬼畜化する進行が早い。それだけにあなたの執念が濃い、ということかしら。あなたが飛んできてくれて良かった。あなたを呼び出すために、あたしは御主人に接近したの。だから今、あたしにアグレッションを向けないでください)
(あたしをここに呼び込むため?)
(そうです。これからさらに深層へ踏み込みます。節さん、あたしと一緒に来て)
 シーラはふと、今の自分が、かつて……の喉を切り裂いた蒼白な刃になったような気がしました。あのとき何歳だったんだろう。幼児の向こう見ずで、原色剥き出しの感情の、猛り奔るそのままのエネルギーで。
(今は違う、だいじな時にこそハートはクール、だ)
 それでもどろりとした認知の歪みをおしのけ、知性の混沌のその奥に、必ず残っている筈のクリアな感情層まで押し入るためには、真っ赤なドレスのゾーリンゲン。
 認知症のひとって、知性が損なわれても、感情はむしろ研ぎ澄まされてピュアになるんだよ……とタイジがどこかで言っていたっけ
それともシーラ自身が直感で洞察していたことかな?
 歪みのない……その感情域まで降りれば、
そこが節さんの居場所になる。
(節さん、あなたの終のすみかは、ソゴウさん自身だよ。他人に仮の宿主を求めたって長居はできない。傍にいたいなら、御主人のなかに、彼が死ぬまで、ひとつになっていればいい、ぼくといっしょに、この迷彩の向こう側へ)
(わたしが夫になるの?)
 節さんのうつろな瞳から、透明な雫が流れました。涙のようでもあり、限界を超えて揺さぶられたときの、感情とは無縁な体液の流出のようでもありました。
(そう。いちばん傍にいたいなら…御主人そのひとを宿主にしてしまうのがいい。誰にも、二度とあなたは邪魔されない。あなたとご主人はひとつだ。溶け合って、彼の肉体がこの世を去るまで、あなたがたは離れない。ただの訪問ヘルパーに心乱すこともないし、もしかしたら、ソゴウさんの表層意識の萎縮と混乱を、いくらかは食いとめられるんじゃないだろうか)
 ……。
 ああ、と深いため息が聞こえました。安堵の呼吸か、それと精根尽きた自縛霊の呻きなのか、聞き分けることの難しい吐息でした。
でも、そのすぐあとに、
(このひとの髪の毛ひとすじ、爪のひとかけらも、誰にも渡さない、離さないわ!)
 朗らかで屈託のない、そして華やかな若い女性の声が、ソゴウさんの混沌を突き抜けようとするシーラの魂を激しく揺さぶりました。

 クリスマス週間に入った土曜の暮れ、ギャラリー〈花絵〉で、タイジはぽつんとした気分で普段どおりの仕事をこなしていました。
 といっても季節がら客入りは上々で、午後早々の開店から夕方まで、毎回客席はいっぱい。親子づれもいれば、カップルもいました。不景気でも天下の銀座の華やぎが沈むという気配は見えず、昼すぎからお茶の時間にかけて、目抜き通りの喫茶店もレストランも、めぼしいところは混雑するせいか、銀座で多少は名の知れた久我ビルの〈花絵〉などは、休みどころを探しあぐねたひとたちの、ちょっとした腰掛けスポットになっています。
 映像を一回転させるたび、タイジは〈花絵〉の外廻廊に出て一服するのですが、ざわざわと観光客の訪れの絶えないフロアの、曲がりくねった薄暗い向こう側に、ともすると視線はさまよい、心はもっとあらぬところに飛んでしまいそうになるのでした。
 あれっきりシーラからは音沙汰なしです。木曜日のソゴウさんのケアはなだらかに終わり、なんだか拍子抜けする気分のまま金曜を過ごしました。なにかあれば、それを口実にシーラにアクセスできる、とアクシデントをひそかに期待していなかったわけではなかったのですが、ほんとにソゴウさんはおとなしく、半分以上眠ったような顔つきで、タイジの誘導のまま、ケア時間は過ぎていったのでした。
(抗精神薬か何か飲ませてるのか?)
 とタイジが憶測したのは、ソゴウさんの手足に、少しですが、はっきりと震えとこわばりが現れてきたからでした。ある種の薬物を使うと、副作用は必ず出現し、タイジには見覚えのある、ソゴウさんの動作のぎこちないそれと、これと、でした。
久我ビルの廊下の天井電気はいまどき珍しいかもしれない、埃をかぶった昭和まっさかりそのままの古くさい蛍光灯で、真昼のほうが夜よりもむしろ、このビルを浮世離れした蒼然たる雰囲気で包むヴェールのようでした。
 その向こう側から、ふらりと…いつものように、何の前触れもなく、水際だったシーラの姿が現れてはくれないか、とタイジは金曜日いちにちをずっと待ちわび、それでいて逢うのが億劫な、どこか噛み合わなくなってしまった自分の感情を、長い〈待ち時間〉のなかで味わい続けたのでした。
(誰かを好きになるって、まともなセックスしたいってことかなあ)
と臆面もなく考えるタイジでしたが、そういうこととも、今回のショックは違う、と思いたい彼です。
「喰う?」
 ぼやっとしているタイジの鼻先に、いきなり突き出された煎餅を、タイジは怒りもせずに受け取り、包装を破って歯をたてました。挨拶はそれから。
「ヒマそうね、ジンさん」
「俺、もう年内〈個室〉閉めてんの。知らなかった?」
「うん……これ、濡れ煎餅だった」
シケてるな、とふたりいっしょに口に出し、でもふたりとも笑いませんでした。
「冗談きかない。客入りいいもん」
「そうじゃなくてさ。君の顔、パンダ一歩手前よ」
「その次の台詞俺予想できる」
「医者と温泉」
「だよね。新味ないよ、だけどふられたわけじゃない」
「そぉ?」
 ジンさんは鼻唄のように茶々を入れました。
「医者っていえば、ポストにこれ入ってたよ」
 とさしだれたのは、長野のハト先生からの書籍郵便でした。宛名はちゃんと〈花絵〉のタイジになっています。
「勝手にポスト開けたのか?」
さすがにタイジはかっとなりました。
「悪いと思ったけど、ポストからはみ出て落っこちそうだったのよ。宅配にしてくれりゃよかったのにね、ハトさん。床に落ちてたら、同じことだろ。誰かがひろって持っていっちまうかもしれなかったよ。だって昨日今日の混雑だもん」
 嘘かほんとかわかりませんが、舌先三寸のジンさんに喰いつくのも今はばからしく、時間のむだでした。
 ばりばりと、濡れ煎餅を噛みくだく勢いで包み紙をやぶると、赤いリボンと金の鈴、素朴なもみの木の描かれた、てのひらサイズのクリスマスカード。絵もメッセージも一目でハト直筆とわかります。
「お手製メッセかあ。イマドキいいねえ」
 ジンさんの横目とやっかみを無視して、タイジは添付カードとは別に、緑と赤のクリスマスラッピングに丁寧に包まれた本体を開けて見ました。
 『奇跡の医療・福祉の町 ベーテル』
 サブタイトルは「心の豊かさを求めて」。帯に「ドイツでは、障害者でも老人でも、一生安心して暮らせる町がある」と書かれているあれこれに、タイジはすばやく目を走らせ、それからハトさんのカードを……ほんとうはジンさんの眼の前で読むのはいやだったのですが…裏返しました。
 とてもあっさりしていました。
 聖夜を飾る灯火ひとつ、ハトからあなたへプレゼント。
(ハトさんらしい)
 裏側にも、たぶん彼女の描いたイラストがあり、蝋燭と鳩。
(飛んで行きたいのは彼女のほうなんだろうに。でも、言ってたとおり、たぶん九州に飛ぶんだろうな)
「いい感じじゃない。いつのまに仲良くなったの?」
 ジンさんはまったく遠慮せずにタイジあてのメッセをいっしょに覗き読みして、悪びれずに言いました。
「こないだ彼女上京したんですよ。御親戚の何かがあって。そのとき横浜でシーラさんと三人で会った」
「そうかい」
「ジンさんこそ、ここしばらく、行方不明だったじゃないですか。どこ行ってたの?」
「そうだっけ?」
 ジンさんはくしゃくしゃと頭をかきました。
「俺、いなかったかなあ。銀座にはしょっちゅう来てたけど、言われてみれば〈個室〉はほったらかしてたかも」
「よくやってけますね。シーラさんも言ってたけど、ジンさんの正体不明もりっぱなもんだ」
「あ、その形容うれしい。正体不明、それいい」
「よくないよ。わかりやすいほうがいいって」
「わかりやすい奴って魅力ないんだ」
「そういうのへそ曲がりとか、屈折してるって言うんじゃない?」
「歪んでるほうが味がある」
 タイジはもうジンさんにはかまわずに、ちょうど時間ぎれになった〈花絵〉の客だしの扉を開けました。がやがやと出て行くお客さまにお愛想したり頭を下げたりしているいつの間にか、ジンさんはいなくなっていて、タイジはほっとしました。シーラに関して、ジンさんの無遠慮な突っ込みはもらいたくない気分です。
タイジはハトさんから贈られた『ベーテル』を、次の客待ちの間までに、ぱらぱら繰っていました。その間にも、デパートや高級ブランドの紙袋を提げたお客はひとり、ふたりと入ってきて、じっくり文字を追うゆとりなどなく、三十分もたたないうちに、少ない椅子は満杯。
 また映像をかけてフロアに出たところで、携帯の着信。心臓が口から飛び出すかと思うくらいの大文字で、どきん、と胸が鳴ったのですが、ときめきはたちまちしぼんで電話の主はお母さんの涼子さん。
……今大丈夫?
「うん。オッケー。ちょうど映像始めたから」
……さっき急に連絡入ったんだけど、宮本さんへの訪問、来週から週イチにしてくれってケアマネから。
「え、なにそれ」
……本人希望だって。もうだいぶ元気になったし、できることは自力でやるから、だんだんケア減らしてほしいって。別にあんたがミスしたとかじゃないっておっしゃってるらしいけど、あたし心配になってさ。いろいろイワクつきで回ってきたケアだし、たぶんずいぶんてこずってるだろうとは思ってたから。もしかして何かあった?
「ないよ、何も。いいひとだよ。娘さんも」
……ならいいけどね。もうあそこも次々とヘルパーとっかえひっかえで、こっちはお手上げで、息子駆りだしたのにって、ちょっとあたしも頭にきちゃった。
「だから何も失礼なことないって。スムーズな日ばかりじゃなかったけど、一昨日なんか、とてもおだやかだったし」
……じゃ、月曜と木曜と、どうせ年内いっぱいだからいくつもないけど、どっちにする?
決めてくれって。急な話よねえ。あんたの都合のいいほうでいいからって。だからメールじゃなくて電話したのよ。
「うーん。それじゃ木曜日キャンセル。そのほうが午後と週末長く俺の自由になる」
……わかった。じゃ年内は、たぶん最終月曜一日だけで。
「ケアマネさんによろしく」
(本人希望?)
 タイジはフロアの椅子に座って首をかしげました。木曜日のソゴウ=宮本さんは、どう見ても、筋道たった自己主張ができる意識状態ではなかった印象だけど、とにかくケアマネから回ってきたんだから、いいや。
(何か……あったのかな。いや、シーラさんが、なにか…)
 ソウニチガイナイ、と小さくささやく声がありました。
(かなり進行している認知症状が、そんな急変…好転するわけないぞ)
 とにかく、これで彼女に連絡する口実ができたってわけだ、とタイジはたちあがり、廻廊の隅までぶらぶら歩いて手洗いにゆき、そこの薄汚れた硝子窓から風景を眺めおろしました。
 午前中は薄日のさしていた天気は、午後もだいぶ遅くなった今、はっきりと下り坂でした。特に汚物が目立つわけではないものの、こまめな掃除のゆきとどかない久我ビルの共同トイレは、たいしたリフォームもしないまま、何十年もの歳月の間に浸み込んだ臭気が漂い、いつ、誰が置き換えるのかわからない消臭剤さえ、すっかり埃まみれで、水道の脇の窓は、磨り硝子ではないはずなのに、これもアンティーク級の時間に煤けて、ぼんやりと曇っていました。
 そこから眼下に見えるのは有名デパートの連なる銀座の裏道の殺風景です。視線を上に向けると、ビル群のひしめく上方わずかにひらけて、曇った冬空の平らな明るみが、表側だけ飾った人工建築の背後のどんよりした暗がりとは異質な、あたらしく切り張りされた白い紙みたいでした。
(午後から雨か、雪だったかな?)
 手洗いを出ると、どこかのギャラリーから耳慣れたクリスマスソングメドレーが聞こえてきました。
     (了)
 


 
 
 

 
 
 


 



 
 

 


  
 
 



 



 

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オカリナ・シーズン 6 何度でもスーパーノヴァ

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   オカリナ・シーズン3

 時間を巻き戻して、その月曜日の午後三時、ちょうど雨脚がはっきりとし始めた頃、シーラは鹿香(しかご)市の霊園にいました。
 その日は成城学園で、シーラの祖父、表向きには養子縁組して父となっている千手宗雅さんの各月ごとの定例お舞台があり、こうしたおおやけの催しごとに顔を出す日は、シーラは千手紫(ゆかり)にもどり、この家の名にふさわしい姿で過ごすことにしていました。
 シーラが住んでいる家というのは、村雨能楽堂、通称成城能舞台と呼ばれる簡素な能舞台があり、宗雅さんの個人宅でもあります。もとは江戸時代の武家文人だった村上玉雨の別宅の一部を明治時代に鳳凰流で譲り受けたもので、玉雨の住まいの大部分は今では公園となっており、お舞台を含む千手家は、もともとの庭園の風情をそこなわないように、さりげない竹垣の仕切りで一隅を占めているのでした。
 一見すると村雨能舞台は、周囲を竹林に囲まれた質素な鉄筋コンクリート三階建ての公園事務所のように見えるのですが、内側はしっかりと伝来の木組みを残した設計で、一階と二階は能舞台、三階が宗雅さんと紫の住まいになっています。十年ほど前に夫人を亡くした宗雅さんは今年八十歳。同居の血縁は紫=シーラだけですが、今もかくしゃくと現役をつとめる鳳凰流の重鎮宗雅さんを慕うお弟子の出入りは日々繁く、ユカリのほかに宗家の末っ子、まだ中学三年の宗雪も、毎週末にはお祖父さんのお稽古をいただくために、時には泊まりがけでやってくるのでした。
ユカリは、十三歳でミラノからここへ移ってから、ずっと宗雅さんの精神的な薫陶を享けて成長しました。そのときすでに少女のアイデンティティを主張していた風変わりを、宗雅さんはあえて正そうとはせず、公私の別だけ厳しく一線をひいて、そのほかは周囲の相当の非難も受け流して、混血の孫の心の赴くままに育てたのでした。
 ですから宗雅さんは、ユカリを能役者に無理強いすることはなく、ただ仕舞と謡、進退作法のひととおりを身につけさせる程度に留めたのですが、厳しくもまた緩やかな日本の父の態度は、自分の性に対して屈曲を加えた心理状態の少年ユカリにとって仕合せなことでした。
この日、早暁から宗雪たちといっしょに、村雨能楽堂お舞台の拭き清めを済ませたあと、紋付袴の正装を調えていたユカリは、ちょうどまだ舞台前、朝の休憩時間ぴったりに携帯に入った駿男さんからのメールに驚愕し、宗雅さんに平伏して欠礼を請い、衣装を変えて、こちらに飛んできたのでした。

朝早くからゴメンネ。昨夜メグが行方不明と交通事故をいっぺんにやった。事故はものすごく奇妙で、警察も首をひねってます。ぼくにはもちろんわかりません。本人の怪我は骨折、打撲。全治一ヶ月くらいで命に別状はないので心配しないで。でもすごくわけがわかりません。メグの意識はある。麻酔で眠っているけれど、だいたい元気です。君に会いたがってます。どこかで都合つくようだったらお見舞いに来てください。

 と、こんなにもほんとのメールの首尾は一貫してはいず、ちぐはぐで、あわてふためいた駿男さんの様子がはっきりと見える文章でした。
 なぜシンクロしなかった?
 雨の中、メグの入院先へと急遽プジョーを走らせながら、シーラは繰り返し揺さぶられるのでした。信州では、体の一部がつながっているように、メグに何かあると直接シーラの五感が共振したのに、今回の一連に入ってから、そうした相身互いのつながりが、ほとんど感じられない、ということに、シーラは苛立ちました。
(声も聞こえなかった。何故だ)
 雨のせいか道路はところどころで渋滞気味で、病院に着いたのはもう昼前でした。病室は五、六人の大部屋で、白いカーテンで仕切られ、連絡どおり、駿男さんが睡眠不足露わのやつれた顔で付き添っていました。
 点滴につながれ、白い布団を胸元まで掛けて、あちこち包帯だらけで目をつぶったメグは蒼ざめ、小さく見えました。
「寝てるよ。ついさっきまで起きてたけれど、また麻酔効いて眠っちゃった」
 これがシーラへの駿男さんの第一声でした。
それから、
「折ったのは鎖骨、肋骨、左肘。左大腿骨。全治三ヶ月」
 メールでは一ヶ月の怪我だって、とシーラが問い返すこともできないくらい父親は落ち込んでいました。彼女は黙ってうなずき、
「どういう状況だったのか、聞かせていただけますか?」
 うーん、と駿男さんはうなって、シーラにパイプ椅子をすすめ、ベッドサイドに置いてあったエビアン水の1リットルボトルを片手でつかみ、ごくごくと飲みました。
「飲む?」
 たった今直か飲みしたボトルを、無造作にシーラに突き出す風間駿男さんの両眼は充血してまっ赤でした。シーラは拒まずに受け取り、さすがにそのまま口には寄せず、
「話してください」
 と駿男さんの眼を見つめ、できるだけ優しく声を抑えて促しました。
「警察から連絡来たのは、昨夜の十一時くらいだった。ぼくはリビングでテレビ見ながら水割り飲んでた。携帯じゃなく家電話で、メグが鹿香霊園で交通事故に遭ったと言われ、そんなばかな、って叫んだよ。だってシーラちゃん、うちは藤塚だぜ? メグが自分の部屋に入ったのはたしか九時過ぎだった。彼女はその後、出かけていない。部屋から出てきた気配なんかない。リビングにいたから、そんなことがあれば、ぼくはすぐに見咎める。
またユータイリダツ? でも事故にあって大怪我だっていうんだ。ぼくはとりあえずメグの部屋を覗いた。いない。窓もちゃんとしまってる。でもベッドはまだ生暖かかった。ちゃんと寝てたんだ。だとしてもどうやって藤塚から鹿香まで行く? しかも山奥の霊園なんて、徒歩で行ったら夜明けまでかかる。第一霊園なんてメグは知らないはずだ。誰かが連れ出したのか!」
「落ち着いて」
 シーラはペットボトルを駿男さんに渡しました。父親はむんずとつかみ、また喉を鳴らして飲みこむと、即座にシーラに突っ返しました。
「どうやって? ぼくはタクシーを呼んで、とるものもとりあえずここに飛んできた。メグは手術中で会えず、そこに居た警察に、ぼくはパトカーで鹿香霊園まで連れて行かれ、現場を見せてもらった。メグをはねたって相手は週末ドライブの夫婦で、遊びに来た鹿香から都内に帰宅途中だったって。彼らも病院にいて、ぼくといっしょにパトカーに乗った。おかしな感じだった。彼らは平謝りだったけど、おかしな顔つきだった……」
「ええ」
「警察も変だった。娘さんは、この御夫婦にはねられたらしいんですが、なんていう。容疑者に敬語なんか使いやがって、とぼくは激怒した。それに、〈らしい〉ってなんだよ、とぼくはパトカーの中で警官に喰ってかかった。警官は、メグは、相当の重傷なのに、事故現場からかなり遠くで発見されたんですって言うんだ。気を失うほどの骨折や打撲なのに、国道から奥まった墓地のなかに仰向けに倒れていたんだと。夫婦から警察に通報があったのは午後十時前。すぐにかけつけたパトカーと救急車に、ようやくメグが発見されたのは十一時。時差は、その中年夫婦がひいたはずのメグが路面にも路肩にもいなくて、辺りを捜索する手間がかかったからだ、と。この一時間の誤差のために、折れた肋骨が刺さった肝臓からの出血が増えた。それでICU入りになった。命に別状ない。でも、シーラ、この落差、君にわかる? メグは誰かにひきずられた形跡もない。道路の両脇は霊園を包む保護樹林だ。その森をジャンプして、彼女は墓地の一角の芝生の上に落ちた。数百メートルも? 自分で歩けるわけもない。誰かが運んだのか? でもメグをはねたと自首した夫婦は自分たちのほか、そこらを歩いている人間なんて、その時刻誰もいなかったと言う。彼らは動転していた。警察も変だった。ぼくはもっとおかしい。メグは九時前まで藤塚の自宅リビングでぼくとテレビ見てたというと、警察も夫婦もこんぐらがった」
「それからずっとここに?」
「そうだよ」
 駿男さんは両手で顔を覆って、男泣きに泣き出しました。うなだれた駿男さんの襟首から、セーターの下に着ているパジャマの襟が見えました。
「ヤメテクレヨ。タノムカラ」
 シーラは混乱してうちひしがれている彼にかける言葉が見つからず、突っ返されたエビアン水のボトルを、彼の手に握らせると、そっとたちあがり、そのフロアのナースセンターに行き、
「……号室の風間さんのお父さん、興奮して疲れきっていらっしゃいます。休憩室か、簡易ベッドか、何か対応をお願いできますか」
 数人の看護師は顔を見合わせ、眼で肯きあうと、その中の年かさのひとりが弁えた笑顔で、わかりました。できるだけのことをいたします、と応えました。
 シーラはそのまま病院を出て、駿男さんの記憶から読み取った鹿香霊園の現場に向かいました。
 霊園は、海沿いに開けた鹿香旧市街をぐるりと囲む源氏山中腹にあり、国道沿いの自然林の中に昔今のさまざまな墓群が静かに点在しています。由緒はふるく、平安・室町までさかのぼることが出来るそうですが、近年に入ってからは、神仏以外の死者も受け入れ、あたらしく森をひらいた区画には、クリスチャン墓地もありました。
 メグが飛んだのは、そのクリスチャン区画で、赤レンガ敷きの道を数歩入った一帯の、冬水仙の芽吹く黒土や枯芝には昨夜の捜査に踏み荒らされた気配が少しばかり残っていましたが、雨振りの月曜の午後、シーラ以外の人気は途絶え、白い十字架や聖像、墓碑は、それぞれほどよい間をとりながら、霧がかった冬の雨を浴びていました。
 警察の残した目印をたどるまでもなく、メグの仰臥していた芝生からは、シーラは濃厚に気配を、まるで実体の見えない彼女の温度のかたまりがそこに盛り上がり、残っているように感じ取りました。手入れはされているものの、この季節ではさすがに枯れいろの目立つ芝生が覆っているのは、両手をひろげた一メートルほどの天使の立像が守っている小さな外国人のお墓で、聖像の前の長方形の大理石に刻まれた碑銘の一部が古風にラテン語で記されているところから察すると、この死者はカトリックで、かなり古いお墓なのかもしれません。少し離れてたたずむ聖像自体は最近のもののようで、墓碑の大理石に比べると、白いけれども、全体に大量生産された製品独得の、肌理のあらい感触でした。
 シーラは片手に傘を手にしたまま、その場にしゃがみこみ、メグの寝ていた芝生の上にもういっぽうの手を重ねました。血は内出血だけだったのか、なまぐさいものは残っていず、メグの苦悶の記憶も漂ってはいません。
「なぜ、あたしを呼ばなかったの?」
 シーラは、そこにメグが寝ているようにつぶやきました。折れた肋骨は左側か? それが肝臓ではなく、もしも心臓に突き刺さっていたら……いや、心臓でなくても、もっと複雑で深い部分まで貫いていたら…。
(それ以前に即死だよ)
「君のしわざか、レノン」
 シーラは芝生に浮かぶメグのまぼろしから眼を離さずに答えました。探さなくても、レノンがそこに、すぐ近くに出現したことは感じ取っていました。
(ぼくが事故を招いたんじゃない)
 レノンの口ぶりは淡々としていました。シーラの傘に降り注ぐ、ぱらぱら、さらさらとした雨音と同じくらいに、何の感情もこもらず、事実だけを告げていました。シーラはようやく顔をあげ、天使の立像の周囲にぼうっと輝く金いろと青の楕円の輪を眺めました。
(ぼく、今実体がないんだ)
「死んだの?、肉体」
(うん。君たちが帰ったすぐ後に、肺炎でぼくの肉体は力尽きた。といってもメグがぼくを食べちゃった時点で、ぼくはもうミカエルにいなかったからね。かろうじて人口栄養で保たれていた生命力が、急激に失われたのは当たり前なんだ。ぼくも、もうあの植物状態の肉体に未練なんかなかった)
「メグの中にいるのね」
(守護天使。シーラ、メグを惑わしたのは、ここに葬られた死者だよ。正確に言えば、生まれる前に死んでしまった子の魂。百年くらい前だろうね。臨月で死産だった。外国から一時日本に来ていた貿易商の両親は悲しんで、我が子のため異国にお墓を立て、自分たちは数年後に帰国した。それきり、この子を弔うひとはいない。この子は神に召されたんだろうか? わからない。わからないことはないな……死への旅立ちが未完成のまま、この子の魂は迷い、さすらい、無力なまま、獰猛な餓鬼に食い散らされ、ずたずただ。そこでメグを見つけた)
「どうして?」
(愚問だぞ、シーラ。ぼくがメグにひかれたように、君がメグを見つけたように、彼女は素直でまっすぐで、暖かい。それでいて強烈で、それなのに無垢だ。遠くからでも一目でわかる。霊の世界に距離なんてないからなおさらだ)
「迷い霊。すがりついたのね」
(うん。でも、この子はもう赤ん坊でさえなかった。すっかり餓鬼に喰い尽くされ、かすかな残像のようなモノ。風に舞う落ち葉のような、寄りどころを失った悲しさだけが、メグにまつわりつき、彼女は疑うテクニックを知らない無防備だから、まんまとここまで連れ出され、事故に遭った)
「偶然?」
(いや…。餓鬼や迷い霊にうっかりかかわると、どうしたって危険だ。こんなことが起こる。連中は相手を自分と同じ境遇に引き込みたがるし、出なければエネルギーを吸い尽くそうとするから。君、よくわかってるはずだろ。ちゃんとメグに教えろよ。ぼくがいなけりゃ、メグは骨折程度で済むもんか。折れたのが左半身に集中してたのが、ただの偶然だったなんて君が思うんだったら、ほんとの間抜けだ)
 雨の中で、青と金の入り混じった天使の光背は、得意げにぷうっと膨らんで輝きを増しました。石膏の天使のあどけない幼な顔が、その輝きに照らされて、厳かな陰影を帯びるくらいに。
「あたしは…」
 シーラは言いあぐね、雨が降っているのにひどい喉の渇きをおぼえてくちびるを舐めました。そして口紅を塗ってこなかったことに気が付きました。
(このごろ違うって)
 レノンの声は、かすかに尻上がりに皮肉っぽくなりました。
(前みたいじゃないって? 思い通りにメグとコンタクトできないって? 壁があって)
「君のせいか」
 シーラのまなじりが吊りあがりました。
「あたしを弾くのは、レノン、あなたね?
わかった。メグの中にいる君が」
(ぼく、勝手に侵入されるのは好きじゃないんだ)
 レノンはぬけぬけと言い放ちました。光背を帯びた幼天使像は、まるでレノンそのひとのように、周囲の光りの伸縮の加減で、その都度表情を変え、今はシーラを嘲っているかのように、ふっくらした頬と、唇の口角のさかいめの影が際立って上向きに深く見えます。
 ひと呼吸おいて、レノンはさらに言い募りました。
(それに、ぼくヘテロだからね)
 う、といつしか立ち上がったシーラは幼天使像に向かって一歩踏み出しました。
(シーラ、君は女になりたがってるけど、女性じゃない。いや、女性にだって、ほんとはなりたいわけじゃないだろう。男もいやだ、女もいやだ。だけどメグを見る君の眼はどうしたって〈少女〉じゃない。メグにはまだわからないだろ。でもぼくにはわかる。ぼくホモじゃないから、君とシンクロするのはやだね、はっきり言って)
「正直だ」
(メグのおかげだよ)
 レノンの声は、ほんのちょっと潤んだようでした。
(彼女のなかは、すごく居心地いい。こんな大事故になるなんて、ぼくは全然予想してなかった。一世紀も前の迷い霊の影なら、まあ、しばらくそこらへん、中有をひっぱりまわされて、それこそおとぎ話じゃないけれど、キツネかタヌキに化かされた程度で、朝になったら、とんでもない場所で我に返るとか…そんな程度に傍観してたら、いきなりだった。この迷い霊だって、最初からたくらんだわけじゃないだろ。でも、どうしても引き寄せちゃうんだ。メグの強烈なエネルギーが、こうした凄い事態を。ぼくはとっさに車に激突した彼女の衝撃を庇った。そして、アスファルトじゃなく、ここに落としこんだ。路面に叩きつけられたら、全身打撲、内臓破裂で即死か、重度の障害を背負う。もしもぼくがシーラとのシンクロを隔てなかったにせよ、君にはメグを助けられなかったろう)
 そのとおり、とシーラは容赦ないレノンの指摘を、全身にしみわたる雨冷えのように味わいました。
(男であり、女であり…男でもなく女でもなく…君こそ自分勝手だ、シーラ。メグを見つけて彼女のコムニタスをヒーリングに〈善用〉する。それは聞こえはいいけど、要するにただの他力本願じゃないか。タイジが泣きついた今度のケースだって、メグを利用すればかんたんだ、らくらくと解決できる。節さんはメグに眼を付けて寄ってくる。ボケナスタイジに霊能なんてからっきしないけど、純朴でのんきだから、自縄自縛に硬直しかけた苦しい霊魂の仮の宿にはもってこいだろ)
「レノン!」
(何だよ。ありのままを言ってるだけだ。君だって本当のところ、自分の心のありかを捉えられず、ちょいちょいタイジをもてあそんでるじゃないか。それともタイジにリビドーを感じる? ヒョウガとは違った琴線にあなたは触れてくれるのよ、って正直に奴にすがって甘えられるほど、君に巣食ったPTSDはかるくない)
「レノン!」
 シーラは傘を取り落としました。苛立ったとき、利き手で髪をかきあげる癖が思わず出現し、冬の雨を忘れさせました。
 レノンの追及は徹底していました。
(ゾーリンゲンの切れ味はよかったろ? でも君はもっと痛かったよな、え?) 
 シーラの右手が無意識に動き、いつしか手にした蒼白な刃で、天使の顎を下から上に、ざっくりと斬りあげていました。
 絶叫。
 のけぞって倒れる男。
 眼球が飛び出したって?
 瞼が裂けた。
 噴水、どす黒い。プルタブひねる前に缶を揺すればサイダーだって飛び出すよ。ただそれだけだ。人殺しなんてさ。
 入り乱れる足音。廻廊に響くせわしない息づかい。
 押さえつけられたのは誰だ?
 ケイドウミャクがどこかなんて子どもでもわかる。だって猫だって鼠やモグラの首を噛むじゃないか。思うさまいためつけてから、生殺しにしてから、ようやく噛むじゃないか。
 こんなの、たいしたことないよ。
 やめて、と叫ぶのは誰?
 ママじゃない、ママはここにいない。遠くで誰かと何かしていて、ぼくいつもひとり。
 また悲鳴。館じゅうの谺や怒号が亡霊みたいだ。
 とりあえずネムラセロ。
 まだこどもだぞ。それにこの家の長男だ。
 ヒトゴロシ。
 ……。
「殺しちゃいない」
 シーラはつぶやき、だらんと片手を顔から離すと、てのひらにはべったりと血痕が貼りついていました。でも、数度瞬きすると、血の滲みは、霙に混じって周囲の保護樹林から舞い落ちた楓の鮮やかな紅のひとひらに変わりました。
(サイコ・ヒーラーの〈破壊力〉もたいしたものじゃないか? シーラ)
 レノンの声はむしろ穏やかで、起伏がありませんでした。石膏天使の周りを包んだ光背はかき消えて、頭上の森を渡る夕方の風に混じってレノンの問いかけが聞こえます。
 シーラの足元に、迷い霊の墓の上に両手を差し伸べていた天使の左側の片羽根片手が、まるでバーナーで焼ききったような焦げ茶の筋をつけてぱっくりと割れ落ち、粉々に砕けていました。ゾーリンゲンの刃のまぼろしは消えています。
(自力でなんとかしろよ。大事な〈ぼく〉を消耗させるな。肝臓からの大出血だぜ…)
 ざあっと一瞬、風に揺さぶられたどこかの大木からの雫が、雨脚に混じってシーラを襲い、シーラは頬に流れる雨だれを、楓の落ち葉を握ったままの拳でぬぐうと、その拳をペロリと舐め、不敵に言い返しました。
「メグは君じゃない」
 ひとりでやるさ、自分が男だろうと女だろうと知ったことか。
 傘をひろい、水からあがった獣のように、首を二、三度左右に振って、浴びせられた雫をはらいのけると、シーラは天使の墓標から立ち去りました。

 
こわれそうなくらい
 ぼくは君が好き
 君の前でぼくは息をとめて
 ただ見つめてる いつも
 こわれそう でも
 ぼくが砕けても
 ひとつひとつの かけら
 ぜんぶ君しかいないから
 君のまわり
 ぼくの想いでいっぱいにできる

 さびしいときも
 哀しみに沈むときも くだけた
 ぼくのどれかが
 君のそばにあるのなら
 君の心を支え なぐさめ
 生きる何度目かの一歩になるなら
 ぼくは 何度でも 自分を砕く
 愛していると
 叫びたいけど
 君はきっと
 信じない
 信じて また
 傷つくことをこわがってる
 だから 何度でも
 ぼくは自分のすべてを
 君に明かすよ
 かたくなな君は自分の
 心のありか 自分にさえ閉ざして
 もろい嘘を守ってるね
 
 ぼくにはわかる
 だってぼくは砕けるのを
 おそれないから
 砕けたって
 その数だけ君への想いの
 数を増して
 砕ければ砕けるほど
 ぼくの想いはスーパーノヴァ
 輝きで君の哀しみ包む
 君の嘘も 君の偽りも
 ぜんぶ 輝きにかえて
 何度でも
 いつまでも
 
君は自分の心のありか
 自分にさえ閉ざして
 もろい明日を待ってる
 何も見えない自分に
 嘘をついて
 でも
 そのままでいい
 ぼくは君が好き
 正直になんてならなくていい
 君が好きなら
 君の嘘だって好きだ
 
 ぜんぶ 輝きに変えて
 何度でも
 いつまでも
 ぼくは
 こわれそうな心 砕いて
 君を見つめてる
 ぼくはスーパーノヴァ
 息をとめて 君を見つめてる
 呼吸するのも惜しいほど
 君が好きだから
 何度でも砕けて スーパーノヴァ


港が見える丘公園近くの瀟洒なブティックの並ぶレンガ敷きの通りは、巷では湘南セレブ御用達ショッピング街などとも呼ばれていて、クリスマスシーズンに入ったこの季節はなおのこと、深夜まで、いたるところに飾り付けられたデコレーションイルミがきららかです。どこのショーウィンドーにも、銀色や白の雪景色、トナカイ、サンタクロース、天使などの可愛らしい吹きつけが目立ちました。
 桜木町駅前でハトとタイジをひろってシーラはこの街の一角に乗りつけ、表通りからひとつ奥まったバールに案内しました。
「そこの階段下りてください。〈ガレリアヴァンカ〉ってある。あたしは車を停めてくるから」
「ヴァンカ? いい名前ね」
「うん。ハトさんなら読んでるでしょ。コレット」
「すっかり忘れてたけど」
 地下につながる細長くひらたいベージュいろの石段には、きざはしのひとつひとつに暖かい橙色の小さいランプが灯っていました。周囲の壁も階段と同じ肌色。ランプは、磨りガラスの卵に包まれた、マッチの火くらいのほのかな足元灯ですが、上からの照明を抑えて、仄闇を導くこの灯りを一歩一歩ゆっくりとたどるだけで、冬の雨のせいだけではなく、いつからか鎖された心のどこかがほっとなごんでゆくような気持ちになりました。
 ヴァンカは小さいバールでした。奥行きが深く、カウンター席が店のほとんど。他には向かい合うふたり掛けのテーブルが、申し訳程度にひとつ。カウンターには白いバーコートに赤いタイを結んだ、五十年配の姿勢のよいオーナーが、にこやかにひとり。
 ハトさんは物怖じせずに、このオーナーにふたりがけのテーブル席にもうひとつ椅子をお願いし、ほどなくシーラが現れると、オーナーはハトやタイジに向けた来客用の微笑よりも、だいぶ深い笑顔を浮かべました。でも言葉は交わしません。シーラもまた、長い睫毛ごしに、静かな礼を返して、ハトとタイジの前に座りました。
「そういうクラシックなワンピース、あなたが着るとは思わなかったけど、似合うわ」
 オーダーの前にハトさんが口をきりました。
ほそい畝の入ったサーモンピンクの地に小花柄、広めの襟ぐりと袖口、裾に白いこまかいフリルのついた長めの着丈のワンピース。首には黒いシルクサテンのリボンチョーカーを結び、その真ん中にゴールデンローズがひとつ揺れていました。少女趣味な服装に合わせたのか、めずらしく髪を横一本の三つ編みにして、片方の肩から垂らしています。
「こどもっぽい?」
「ガーリッシュっていうの? シーラさん、年のわりにはシロクロはっきりしたシンプルな大人っぽいものが多い感じだったから」
 シーラは少し眉をあげ、ハトの衣装や顔つきを眺めましたが、誉められたから相手を誉め返す、ということはしませんでした。
「ハト先生、元気そうね、でもないか」
「どっちなのよ」
 ハトは笑い出しました。タイジはつんぼさじきにされた気がして、まだ残る酔いの勢いで口をはさみ、
「注文どうするの?」
「ここ、カクテル美味しそう」
 ハトは相変わらず、主にシーラを向いて尋ねました。
「ええ」
「じゃローズカクテル。あたし運転しないから」
 ふうん、と吐息のように同時につぶやいたのはシーラと、カウンターの向こう側でグラスを拭いていたオーナーでした。ハトはきらりと目を光らせて、
「地方では、たぶんなかなか飲めない」
「ハト先生、来年ミカエルから九州に転勤するんだってさ」
 どうやらちょっとセレブっぽいカクテルの話題についてゆけなくて、タイジは拗ねた気分になりかけます。
「え、またどうして」
「決まったわけじゃないの」
 ハトさんは言葉すくなにおさめ、
「それよりも、安宅礼音さん、亡くなったのよ」
「……」
 シーラは瞬きを停めてハトの眼を覗き、また視線を逸らせました。
(知ってるの?)
 すぐさまハトの驚きがシーラの胸のまんなかに飛び込んできました。
「え、あの子、死んだんだ。でもあの状態じゃ、本人も苦しかっただろうから」
 とタイジは率直に驚き、そんな彼に合わせてシーラは、
「そうだろうと、思ったの」
 とさりげなくうわべをつくろい、続けて
「今日遅くなったのは、メグが交通事故で」
 と話を逸らせました。
「命に別状はないけれど、かなり重傷。パパから連絡もらって、あたしぎりぎりまで病院にいたのよ。それで遅くなった」
 シーラは、それからこのふたりにわかりやすくメグの事故の経緯を説明しました。それは鹿香霊園を後にしたあと、プジョーの中で、またメグの病室で、繰り返し練り上げたつじつま合せでした。
(ハトがあたしの中を強引に覗くなら嘘はじきにばれるけれど。彼女はたぶんそうしない)
 とシーラは思いました。そして、今、ハトはガレリアヴァンカの快いほの灯りのなかで、陰影の濃いシーラの表情を見つめながら、いつもどおり澄んだ視線をすこしも曇らせることなく、嘘半分のシーラの言葉を黙って聴き、
「その状況で、その程度の怪我で済んだのは奇跡ね」
 とだけつぶやきました。
「天使が…」
 とうっかり口をついて出た言葉に、シーラは唇を噛みました。
「待降節は、天使がそこらじゅうを飛びまわるわ」
 ハトは、丹念にシェイクされた極上のカクテルを、まるでジュースのようにごくんと口に含み、
「よい魂と悪い魂を仕分けて、天の父に報告するのよ。オスカー・ワイルド」
「幸福の王子でしょ。それぐらいならぼくもわかる」
「ツバメの心理に、タイジ君共感する?」
「ちょっ……そりゃハトさんのほうでしょ」
 口をすべらせた瞬間タイジはまずった、と我にかえりましたが、ハトさんは端正な横顔のシルエットをちっとも動かさず、
「ローズカクテル、もうひとついただけます?」
 とダンディなオーナーバーテンダーに声をかけました。
 それから話題は気ままに流れて、ごく自然な感じでヴァンカでの時間はまとまり、まだ今夜のうちにハトを横浜の実家近くまで送りました。彼女の両親はともに開業医で、お兄さんが実家の後を継いでいるそうです。
「ミネさんのアパートに着くころ、もう明日になってる」
「そんなに飲んでないから、平気だよ」
「免許とらないの?」
「持ってますよ。だけど車買うほど金ないの、ぼく」
「あっさり言うね。イヤミ?」
「どうして。シーラさんはシーラさんじゃない。おかげで、俺君の横に座れる」
「あたしだって、親のスネばっかりかじってるわけじゃないよ」
「だろうね。君なら、たぶん何か自分で金稼ぎしてるんだろうって思う。だいたいサイコヒーラーで儲けてるわけじゃないでしょ」
「そうね、だいたいね」
「聞いていい?」
「また改まって、何よ」
 雨はもうほとんど止んでいました。ふとタイジは、プジョーから降りたハトさんが別れ際に雨傘を持っていかなかったような気がして、助手席のシートベルトの端を探ると、案の定ワインレッドのきれいな細身の傘が残されていました。
「あれ、ハト先生、傘置いてった」
「ミネさんへのプレゼントでしょ」
「女物だよ。シーラさんのほうが似合う」
「でもミネさん持ってって」
 なにか変だな、とタイジは思いました。
「聞いていいって聞かれて、やだ、っていったら聞くのやめるの? その程度の疑問なわけ、ミネさん」
 畳みかけてきたのはシーラでした。
「うん。聴きたいこといろいろあるよ。知りたいことも」
「話せることは話すし、やなことは話さない。それでいいでしょ」
「……メグさん、もしかして瀕死?」
「いいえ。それはほんと。三ヶ月くらい」
「ソゴウさんのケースは」
「あたしひとりで片付ける。メグは今安静第一だから」
「木曜日、来る?」
「それは未定。戦略考えないと。ああ、戦うんじゃないわ。癒す方法」
 しゃべりながら、シーラは自分の言葉がいつになく空疎な気がしていました。胸に穴があいたような気持ち。なぜ? ……。
 鹿香霊園でずぶ濡れになった衣装を、病院の地下駐車場で着替えたとき、シーラはめったに着ない柔らかい印象のありふれたワンピースを選んだのですが、それがメグに似合いそうな可愛らしいものだったからかもしれないのでした。もちろんスミレ・デュランテのブランド品ではありません。いつ、どうしてどこで、こんなドレスワンピを自分は買い込んだんだろう、とシーラは我ながら不思議に思いました。
 君は女じゃない、とレノンに突きつけられて、シーラは反抗しませんでした。傷つきもしませんでした。だいたい千手家ではユカリで暮らすほうが多いかもしれないのです。義父の宗雅さんは、孫の行状を、非礼でないかぎり、笑って眺めていました。いずれ落ち着くところに落ち着くだろう、というまなざしは、懐深くもあり、ひやりと厳しいものを含んでいました。信頼しつつ、甘やかさない。
宗雅さんのユカリへの接し方は一貫しています。
 でも、ユカリだって、自分をすっかりほどいて(さらけだすのではなく)甘えたい瞬間だってあるのでした。
 レノンは、シーラ=ユカリの心の奥に隠したそんな揺らぎに鋭く爪をたて、「タイジに…」と突きつけてきたのですが、そこまでシーラを責めつけなければいられないほど、レノンもまた孤独か、と洞察するシーラでした。
(君はそんなにメグが好きか、レノン?)
(そして、ぼくはメグをこれからどうするつもりだ。ぼくに会わないほうが、あの子は平和だった)
 あたし、とは言いませんでした。いまさら離れてはゆけない。メグの中に居座ってしまったレノンをそのままほっといたら、彼はメグをどうするだろう。……。
 黙ってしまったシーラを、何も知らないタイジは、
(こないだ乱暴しかけたから、警戒されてるかな) 
 と、ごく健康的に気がねしていました。タイジはちょっと咳こみました。厳粛な音楽会の演奏のあいまに、客席でかならず漏れる息ぬきの咳払いみたいに、彼はかるく心臓を抑えて息を吐き、
「シーラさん、なんでサイコヒーラーになったの?」
「癒してくれって、いろんなモノが寄ってくる。それが見えるから」
「無視できないの? 気づかないフリ」
「もう無理だわ」
「いつからそうなったの」
 赤信号で、プジョーは荒っぽく急停車し、ベルトをかけていたのにタイジはガクンと前につんのめりました。
「ミネさん、あたしととことん一緒に行く勇気ある?」
「え?」
「覚悟っていうか」
「カクゴ」
「今あなたがあたしに聞いてることって、そのくらいの気力要る疑問よ」
 信号が変わって、今度はなめらかにプジョーは走り出しました。
「この話はやめようよ。ミネさん。ひとりひとりは惑星ほども遠く離れてる。あたしは言いたくない。覚えていない、自分の心の最初に何が起こったのか。ほんとうにね、記憶がない。でもすこし想い出す事もできる。ロマンティックに言えば、現実に適応できない時期があって、夢ばかり見てた。悪夢もあった。
その中に、あるとき天使が現れた。夢のお告げ。彼か彼女かわからないけど、きれいな天使。彼女がこうしなさいと、ぼく(あたし)に指し示したって、言っておく」
「メルヘン」
「なんだっていいわよ。それから、あたしは自分の周囲に寄ってくる精霊やら自縛霊やらに脅えることがなくなった」
 やばいな、俺、この子を追い込んでるな、とタイジは真底後悔しました。シーラの運転は安定していましたが、ひしひしとつらい空気がタイジの肌につたわってくるのでした。
(あー、俺ってバカだ。どうすればいい)
 こんなに彼女のこと好きなのに、俺この子のこともしかして、傷つけた?
 タイジは心の中で鈍感な自分をぶん殴りたい気持ちになり……それから、
「天使になりたかったの? 〈ぼく〉って」
 ふいにタイジの声音が、おっとりとまろやかに変化しました。
 シーラはぎょっとして運転中なのに横を向き、タイジを凝視しました。
 タイジはほのかな……人生の機微を弁えた大人の女性の微笑を浮かべ、かけていない鼻眼鏡を中指でかるく持ち上げる仕草をしながら、
「危ないわ。ちゃんと運転してくださいな。あたしは静かにしていますから。何も悪さはしませんよ。この男の子にも、あなたにも」
「節さん」
「はい」
「ずっとそこにいたんですか?」
「そうよ。ミネモト君のなか」
 タイジは……節さんは、肩を小さくすぼめて、ふうっと息を吐きました。膝頭をちんまりと合せ、膝の上で両手を祈るように組み合わせてささやきました。
「このひとの体を借りると、言葉がなめらかに進むみたい」
「ええ、普通の女性みたい。上品な奥様」
「よしてちょうだい。あたしそれほど優雅じゃありませんよ」
「亡くなったのはいつでしたっけ?」
「一年と半年前。でも二年になるのかしら」
「ずっと迷って?」
「いいえ。迷ってなんかいません。迷えたらいっそ気楽なんだけれど」
 節さんの口調は哀愁を帯びました。タイジの声で聞かされる節さんのメランコリーでした。まったく穏やかな、相当に嗜みも配慮もあることが明白な、女性の沈んだ嘆きのつぶやきでした。
「節さん、どうなさりたいんです?」
 シーラは尋ねました。
「いつまでもミネさんに宿っているわけじゃないでしょう。御主人にうらみでもあるなら、もっとすさまじい事態になっている、とあたしは思います。でもそうじゃない」
「少しは恨んでるわよ。でもあきらめてあの人に寄り添い続けたのだし、後悔もないし、ほどほど幸せでした」
「じゃあ……御主人が心配で」
「そうね。たぶんそうなんでしょう。あたしは自分の体が死んでしまったことはわかっているの。火葬にされて、骨になって納骨されて……あたしはぼんやりとそれを見ていた。どこかに誰かがあたしをひっぱっていく気がしたのだけれど、あたしはいやでした。離れたくないわ」
「ええ」
「だって、夫は認知症なのよ。どんどん進行していく。最後には抜け殻みたいになって……シーラ、あたしはね、でも健康で活躍していたころより、彼の病気が始まってからのほうが、もしかしたらこのひとの傍にいる時間は、妻として確かなものだったかもと思うのよ」
「確かな?」
「詩人として、それから短大の教員として忙しかったころ、夫はあたしをちゃんと見つめてくれたこと、あったかしら。あたしたちはお見合いで一緒になったの。喧嘩らしい喧嘩もせず、夫は相応に家庭人の勤めを守っていたけれど、本当に心の通う会話をしたことなんてなかったと思う。彼は彼の取り巻きや……たぶん隠れた女性もいたんでしょ。そんなひとたちとの交友のほうを、私との時間よりずっと楽しんでいた。いろんなごたごたを家庭に持ちこむことはいっさいなかったから、あたしも目をつぶっていましたよ。でも女ひととおりに嫉妬もあったし、怒りもあった」
「淡々とおっしゃいますね」
「鈍感ね、その言い方」
 節さんはまた鼻眼鏡を中指でもちあげる癖を見せて、シーラを見ました。すこしうつむき加減に、斜めの顔の角度より、眼だけ動かして横を見上げる仕草。両手は膝上で揃えて指先を組み、落ち着かなげに緩やかに握ったりひらいたりしています。
「あたしは控えめに言っているのよ。言葉で言い表せる範囲なんて、人生の、人の心のほんの一部でしかないわ」
「……そうですね」
「病気になってから…あたしは夫を全部自分のものにした、と思った。そう思えたわ。認知だろうと何だろうとよかったの。あたしがいなければ、この人は生きてゆけない。そういうソゴウのほうがいい、と」
「でも、あなたのほうが御主人よりも早く」
「ええ。悲しかったわ。死ぬよりも悲しかった。シーラ、あたしはほんとに夫が好きだったのよ。でも、夫に対して生前それを伝えることもあたしはしなかった。口惜しかったから」
「……今も?」
「口惜しいかって? こんなに失認が進んでしまったひとに口惜しさを感じるのは無理だわ。少なくとも、あたしにはこの半病人をいためつけることはできません。でも、だからこそあたしは夫の傍から離れられないの」
「傍にいたい?」
「ええ、夫が死ぬまで」
 節さんの口調はきっぱりと、そして熱を帯びました。聞きながらシーラはふと、雨雲の吹き払われた眼の前の夜空のどこかに……あちこちに、ほのかに揺れる星粒を見つけました。木枯しにあらかた葉っぱを吹き散らされた街路樹の枝が、ところどころ不規則に大きく揺らいでいます。一方向ではなく乱雑な感じで、たぶん枝と枝とがぴしぴしと重なり響きながら、風を受けているのでしょう。それは大きな低気圧とか、台風とかが過ぎ去ったあと、街に取り残された〈風のこどもたち〉が、名残惜しげに樹木にまたがったり、ぶらさがったりして気ままに道草して遊んでいる感じでした。
でも、シーラはまだ風の精霊に出会ったことはありません。霊魂は草木には宿りやすいらしく、メグの母親の安美さんが柳の妖精になったように、ある性質の人の魂は植物と同化しやすいものを持っているのでした。
シーラはまた、鳳凰家に入って、能楽ひととおりの素養を身に付けたのですが、自分の周囲に覗き見る異界と、伝統芸能の表現する幻想とが一続きであることに、むしろ驚いたくらいでした。能の世界では、死者は往々にして菖蒲、桜、柳、藤、梅……さまざまな植物の精霊となって、夢幻のうちに現れるのでした。
(そういえば、星や月の精霊にも会ったことはないな。能にもない……)
 すぐ傍に出現した節さんの生霊が、あまりにおっとりしているので、シーラはふと緊張を忘れ、険しさを忘れ、心はむしろ緩んで雨後の夜空へ昇ってゆくような錯覚にとらわれました。
「あなた、あぶないわ」
 タイジ=節さんの暖かい手が、シーラのハンドルを握った手にそっと重なり、シーラは我にかえりました。
「はい。御主人の傍にいたい……それがあなたの望みなのね」
「そうよ。でも自縛霊。このひとの認知が進んでやがては廃人になってしまうのと、きっと同じ速度であたしは、魂の弾力を失い、かたくなに、こわばって、感情の潤いを失い、自縛霊となり、自分が誰かさえ思い出せない未練と執着のかたまりに…それから挙句のはてには餓鬼道に堕ちてしまいそうなの」
「そのとおりよ。残酷だけれど。このままあなたが成仏せずにこの世にとどまるなら、いずれは」
「だから、そこをどうにかして欲しいの」
「と言われても……植物に宿るくらいしか」
「ときどき庭の百日紅に腰掛けて、夫を見ていたわ。でもだめなのね。あたし、ヘルパーさんだとわかっていても、誰か女性が夫の体に触れると思うと、何ていうのかしら、魂が荒々しくなって、植物の静けさを保てないの。長く樹のなかにいられないのよ」
「不思議です。こうしてお話している節さんは、あたしの知り合いの中でもまれなくらい穏やかな、お名前のとおり節度のある方なのに」
 ふふ、と節さんはタイジの声で口をすぼめて笑いました。かるく自嘲の気配が、シーラには感じられました。
「節度や穏やかさ、というのは生の感情を抑圧することでしょう? 人間誰しも心ひそかに噴き上げる激しさを持っているわ。それこそが生命だもの。あたしは生きている間、自分を抑えすぎたかもしれないの。でも、それは夫に対してだけじゃなく、たぶん、持って生まれた自分自身の激しさに対して」
「別な生き方がなさりたかったの?」
 節さんは少し黙り、優しい眼をしてシーラを見つめました。
「ああ、あなたと生きているうちに出会って、親友になれたらよかったのにね。うれしいわ。そんな風に思ってくれて」
 それから、
「あたしはあたしなりの人生を全うしたの。別な生き方など考えられない。だけど植物に弾かれるほどの激しさを持っているから、死にきれずに、こうして夫に未練が残り、親切なヘルパーさんたちにまで情けない仕打ちを、ついしてしまうんだわね」
 傍に、いたいの……
 一番最後のほのかな呟きは、深い吐息と同時でした。
「……よ」
 タイジの、うつむいたままの横顔からこぼれた言葉をシーラは節さんの声に聴き重ねました。が、もういちど彼は顔をあげ、彼女のほうを向いてきっぱりと、
「俺、君の傍にいたい。いつまでも、ずっと。
君が何者でどこから来たのか、何をしたいのか、心がどこにあるのか、正直全然わかんない。いやわからないことが多い。でも、とことん来い、っていうんだったら行く。ヒョウガと殺し合いしたっていい」
 ここまでいっきに言ってしまい、こらえかねたように一息吐いてから、タイジは絞りました。
「抱きたいよ」
 タイジの意識には、節さんに憑依されていた時間がまるで存在しなかったのでした。
(知覚できないものは存在しないんだ。節さんはまたタイジの奥深くに去った。あたしに自分の本音を告げて)
 そして今、タイジもまたシーラに迫ろうとしているのでした。いえ、迫っていました。
 シーラは、節さんの出現と消失、そしてタイジの吐露を、路面の傍らを絶えず過ぎてゆく、すれ違う対向車線の車のヘッドライトの軌跡のように、耳に並べていました。
「あたしを抱きたい?」
「ああ」
「それで気がすむ?」
「またそれかよ。シーラさん、俺に自分と一緒に最後まで来れるかって聴いたろう。ぐずぐず能書きたれるのやだよ。君の傍にいて、君がぼろぼろになったときでも、俺は君の傍にいたい。君がそうして欲しいって望むならの話だ。君を抱きたいってのは、それと別だろ? 同じだなんて言うんだったら、ヒョウガとやり合う前に、君を」
「コロス?」
 ぐっとタイジは返事に詰まりました。ふ、とシーラは微笑を含んで小首をかしげ、タイジを横目に見て、
「優しいね」
「アホぬかせ。俺そんなにお人好しじゃないぜ。君がその程度の女だったら、好きにならない」
 と言うのはもちろん苦し紛れの嘘でした。
 シーラはまたガクンと信号直前で急停車し、タイジを前のめりに脅したあと、またなめらかに発進すると、ごく自然な声で、
「ミネさんち、もうそろそろ着くよ。たぶんこの辺でしょ。今夜ひとり?」
「そうだよ」
「じゃ、行く」
「え」
「あなたの部屋に」
 東京と神奈川のさかいめに位置するタイジの住む町まで、さしたる道路混雑もなく、プジョーは順調に流れに乗り、今夜ぎりぎりにタイジのアパート近くに到着しそうです。
 タイジはシーラの返答に気圧されて、呆然としてしまいました。
(来るって? 俺の部屋に? 今夜? これから? マジかよ。マジだ。こいつそんな嘘つく女じゃない)
 ここから先、車停められるとこ、どこかある? と尋ねられてタイジがあわてて窓から外を眺めると、いつのまにかプジョーは国道から逸れ、見慣れた自分のアパート周辺の景色がゆっくりと窓外を動いていました。
「そこのお宮さんの脇に、空き地ある。ほんとはまずいけど、結構みんなやってるから、大丈夫だよ」
 赤い鳥居のこじんまりとした稲荷の社の裏側に、たぶん宮の森だったところをつぶして、何かの建設予定地になっているのでしょう。民家に囲まれてかなり広い更地があり、プジョーが入ったときは、何台か似たような違法駐車が泊まっていました。みんな県外ナンバーです。
駐車スペースは、たっぷりありました。シーラは無遠慮に車を真正面に乗り入れ、いったん停車しました。
「ミネさん、あたしのどこが好き?」
 ハンドルにシーラは上半身を預け、正面の窓ガラス越しに、今はもうすっかり雨雲の消え去り、オリオン座の堂々と輝く冬の夜空を喉を反らすように見上げながら尋ねました。
「顔」
 タイジはまっすぐ、迷いなく即答しました。
「見たことないくらい、君はきれいだもん。心がどうしたなんてウザイリクツこねない。一目ぼれだった」
 いい奴だ、とシーラは思いました。
「それなのに、あたしがボロボロになってもあたしを好きだって断言できるんだ」
「そうだよ。きっとこれから先、君はどんなに崩れても…って言うのは変だけど、どう言ったらわかんないけど、年をとろうが傷つこうが、誰よりきれいだよ。俺ずっと好きだ」
 シーラは黙って車を降りました。タイジも急いで降り立ち、シーラの傍に、ごく自然に近寄りました。なぜか心臓は静かでした。ここに街灯のあかりはなく、頭上には月のない星影だけ。少し離れて宮の森のうすあかい、ふるぼけた常夜灯が、小さく残った木の間ごしにほのめいています。
 シーラはコートを着ていませんでした。薄手のドレスワンピースをさらりと着て、ゆるい北風がその裾を、ほそい膝がしらまで吹きあげています。
(覚悟ってこういうことなんだな)
 とタイジは直感しました。俺、こいつのためなら死ねるって。今すぐにでも。
「シーラ、これ着て」
 タイジは自分の羽織っていたダウンを脱ぐと、シーラの肩にかけようとしました。シーラは差し出されたタイジの手の上に自分のてのひらをそっと乗せました。その手のつめたさに、タイジは自分の手の熱さ……汗ばむほどの熱さを自覚し、なぜだかわかりませんが、その瞬間アクセルかけたみたいに心臓が早鐘を打ち始めました。
 汗ばんだ相手の手を、いきなりわしづかみにしたのはシーラのほうでした。ぐい、との相手の胸にひきよせられ、タイジは反射的に倒れかかった上体を支えようと足を踏ん張ったのですが、驚いたことにシーラの手の力に抗うことができず、どしんとまともに顔から華奢な胸にぶつかり、かあっと逆上しました。
「何だよっ」
 シーラは相変わらず無言で、タイジの手を離さず、もういっぽうの手で襟ぐりをおしひろげると、握ったタイジの手を、そのまま自分の左胸に導きました。
「わたしの心臓」
 ふと、シーラの脳裏に、レノンの心臓を食べ始めた……食べていたメグの姿がよぎりました。あなたの心臓、あなたの心、だったっけ?
 シーラの眼は、タイジの顔が見下ろせる高さでした。
(タカビーだけど、ユルセ、ミネさん)
「好きだよ」
 タイジの瞳孔がめいっぱい見開かれ、今耳で聞いたシーラの囁きと、自分の右手が確かめているシーラの胸の感触の驚愕の間で、宙吊りになっていました。
 シーラが言いました。
「心から好きだ、ミネさん」
「嘘つけ」
 タイジはやっとのことで言い返す台詞を見つけました。
「平常パルスだぞ。ほんのちょっともときめいてないじゃないか」
「だいじなときに、ハートはクールだ」
「よせよ。シーラさん。マジきつい。こんなことってあるか」
 シーラがタイジの手から自分のてのひらを離しても、タイジの手はなおシーラの胸の上から動きませんでした。すこし震えて、タイジは、
「カンケーないよ(ほんとか?)君が」
「バイ」
 つっとシーラは体をよじりタイジの手を体から離しました。そしてすらりと高い半身をかるくかがめて、タイジの片頬、耳たぶの下のやわらかい部分に唇を押し当て、
「バイバイ」
 とん、とタイジの体をかるくおしのけ、シーラはプジョーにすべりこみました。タイジは腑抜けのようにシーラの匂いを風に嗅ぎ、
その左胸に触れていた手に残された、一枚の柔らかな絹のハンカチを眺めました。夜目にもあざやかな紅色で、縁や四隅に手の込んだこまかな刺繍のあるちいさなチーフでした。
 タイジが手にしたハンカチから顔をあげると、もうプジョーは視界から消えていました。発進音も、さよならの挨拶も聞こえず。……でも、それはたぶん、タイジの眼も耳も、なにも聞こえず、見えなくなった数瞬の出来事だったからなのでした。
 タイジはハンカチを握りしめて、鼓膜の遠くを流れてゆく風のどこかにシーラの奔り去る音をたどろうとしながらつぶやきました。
(バイ、だって? アホが。それでもアタシのこと好きかって訊いてくれ)
 洒落になんない、とタイジはハンカチをまるめ、携帯をしまった胸ポケットに、無理やり押し込みました。


LOVERS
 宙(そら)に投げるコイン
裏と表 
 どちらが君の心 どこかにぼくの愛
 表に君の心 裏には愛
 君には見えない ぼくの想い
 互いに重ならない裏と表
 ぼくと君の愛
 ひとつの出会いに 
背中合わせの裏表
 
 君には見えない ぼく
 ぼくにも探せない 君
 でもぼくは君の背の
 震え 感じる 誰よりも
 はっきりと せつなく 君を
 
 誰にもわからない
 君のHEART
 重ならなくても 
 離れないから 愛
 君の震え 感じて
 暖める LOVERS
 はっきりと せつなく ぼくら
 くっついて
 背中合わせに
 結ばれてる
 コインの裏表

 さよならなんか言わない
 背中合わせに 
 結ばれてる LOVERS

 ぼくは君
 君はぼく
 裏と表
 背中合わせのHEART 
 離れない LOVERS
 さよならなんか言わない
 結ばれてる LOVERS
 

足がしっかりと地面を踏んでいる、という感覚もなく、きっと何度かつまづきながらタイジは機械的に自分の巣にもどり、これも習慣のなすがまま、入り口の郵便受けの蓋をあけると、ばらばらと何通かの印刷物が手から逸れて足元に落ちました。それでようやく、タイジは自分の両手が、ときおりひどく痙攣しているのに気が付きました。
(うー。ショックでドーパミン分泌過多か?
それとも過少か?)
「洒落言えるんだったら大丈夫だよ」
 と、存外のんきな自分の声がつるりと喉から漏れ、それもタイジは誰が喋っているんだろう、と思います。しゃがみこんで配達物をひろうと、あらかたは歳末めがけての広告葉書でしたが、中には、あきらかに手の込んだきれいな彩りのDMが一枚、二枚。
「クリスマスパーティ? 〈 inローズ・クォーツ〉と、こっちは…ガーネットさんで、あれっ」
 沸騰して霞がかっていたタイジの脳みそに、冷たいおしぼりが、とん、と乗せられたくらいの鎮静効果はありました。
 久我ビル地下劇場で、季節恒例の吉良娥網(ガーネット)のダンスパフォーマンスがあり、そのゲストに美人風ユニットが招かれています。もちろんヒョウガも。
 タイジはあらかじめガーネットの公演予定は知っていたのですが、このダイレクトメールはリンスから来たものでした。手書きメッセージが添えられています。

 急な話ですけど、豹河君から誘われて、共演させていただくことになりました、ガーネットさん、すてきな方ですね。今回はシャワーとふたりで歌います。よかったら来てね。

 こちょこちょと小さな横書きの倫子の字は、かつての優等生ぶりをちゃんと示して、几帳面できれいでした。タイジはふと、シャワーはどんな字を書くんだろう、と思いました。
(顔も体つきも、性格も似ているみたいだから、みっちゃんみたいなきちっとした達筆なんだろうな)
 それにしてもヒョウガめ、ぬけめなくシャンプーにアクセスした、とタイジはいつも日焼けしている精悍なヒョウガの顔を、かなりいまいましく(なんで?)思い浮かべ、それからローズ・クォーツで最後に会ったとき、何か言いかけて言葉を呑み込み、ただはにかんで笑っていたシャワーの可憐な姿をくっきりと思い出しました。
 タイジはちょっと気持ちの張りをとりもどし、自分のねぐらに戻ってゆきました。
 翌日の火曜日、水曜日は普段と変わらないスケジュールが無難に過ぎてゆき、また木曜日が来て、ソゴウさん宅への訪問日でしたが、シーラからはあれっきり何の連絡もありません。タイジは毎朝毎晩、携帯にインプットしたシーラの画像を眺めることをやめませんでしたが、その度に携帯といっしょにしまいこんだ紅いタイシルクのハンカチが、月曜日の衝撃を再現して、それこそタイジにはめずらしく、自分の気持ちのありかも行方もわからなくなるのでした。
(どうだっていいじゃんか、あいつが男だって)
 と、もうすでにタイジ自身に言い聞かせる自分がいるのでした。
(だけどさ、そう考えちゃうってことは、俺はどうでもよくないってことなんだろ。俺ホモじゃないんだ。でもシーラはどう見たって男にゃ見えないもん。なんであいつが男じゃだめなんだ? ヒョウガはシーラが……その、つまり、ええと、平気なんだよね)
「ミネさん、ボーっとしてないで○○さんの食前トイレ誘導してよ。どうしたの? 眼の周りにまっさおなクマ作って。健康優良児の君が」
 無難に、とはいえ、こんな心のざわめきはどうかするとやはり挙措に現われて、デイサービス勤務の最中、フロアリーダーに注意されることもあったりするのでした。
木曜日の午後三時、とうとうシーラには連絡せずにソゴウさんのケアに入りました。
 もう十二月の大気が凛とつめたく、それでも枯れ残った庭の百日紅の葉がいくひらか、さびしいほど明るい冬ざれの陽射しに揺れています。涼子さんとの約束では、ソゴウさんのケアにタイジが入るのは今年いっぱい。そのあとはどうなるのか、まだなんの連絡もありません。
(あの百日紅の前で燃えているふたりの山羊男から始まったんだっけ…)
 どうして山羊なんだろう、どうしてソゴウさんが二人いたんだろう? あれは、でもほんとに現実にあったことなんだろうか?
(ゲンジツじゃないんだ。幻覚なんだけど、現実よか真実味があったし、今も記憶に焼きついている) 
タイジが鍵を開けて入ってゆくと、ソゴウさんは西陽射しこむ窓辺の書き物机にいつものように向かい、あまり皺の目立たないすべすべした面長の顔をうつむけて、何か本を読んでいました。
「先生、ミネモトです」
 ゆらり、と上半身が傾いて、ソゴウさんがこちらをふりかえり、
「おや、今日は君ひとりなの?」
「はい、いつものとおり」
「前に新人の女性といっしょだったろう。彼女はどうしたの?」
(よく覚えてるな)
「えー、ちょっと他の仕事を任されていて。野郎が来てスミマセン」
 ソゴウさんは目じりに朗らかな笑い皺をいっぱい作って口を開け、
「ほんとに残念だ。類稀な美人だったから」
「ハイ」
 タイジの胸が締め付けられる瞬間でした。
「やめたわけじゃないでしょ? だったらまた来るかね」
「ええ、いずれまたうかがうと申しておりました」
「それは嬉しい」
 ソゴウさんは、おっとりと返事をして、また机の上の本に視線を戻します。何を読んでいるんだろう、と好奇心にかられたタイジは少し背伸びをして先生の手元を覗きこむと、ひろげているのは書物ではなく、古いアルバムでした。
 昔ふうに写真を貼り着けてゆくアルバムで、ちょうどそのページには、三十年くらい前のソゴウさんと、たぶん奥さんらしい女性の姿が何枚もあります。箱根…芦ノ湖…それに…。
関東近郊の明媚な観光地で、肩を並べて映っている笑顔の夫婦。それと、ところどころには友人らしい男女数人が加わって、どれもいかにも楽しげな表情です。
 あ、とタイジは眼をみはりました。
 どこかわかりませんが、少し色の褪めた紅葉の風景に、ソゴウさん夫妻といっしょに写っている、けっこう顔立ちのよい、鳥打ち帽子をかぶった伊達男。痩せて背の高いソゴウさんと、彼の雰囲気は対照的で、きちんと頭髪を手入れしたソゴウさんにひきかえ、全体に肉付きのしっかりしたもうひとりの彼の髪はいかにも無造作に鳥打帽子からはみ出て、肩幅と同じくらいに両足をひろげ、手を後ろに組み、靴はタイジのいつも見慣れているメッシュでした。
 たれ眼気味に、視線の焦点がつかみどころのない笑顔にも見覚えがあります。
 つつましやかな可愛らしい印象の、ソゴウさんの奥さん節さんを真ん中にはさんで、三人で仲良く写りこんでいるところから察すると、よほどこの夫婦と彼は親しかったのではないでしょうか。
(ジンさんだろ。へえ…。すいぶんイケメンだったんだね。顔つき変わらないや。靴と。
節さんとも知り合いだったってことか)
 縁ありきってとこ……。ジンさんはもしかしたら節さんの消息が知りたかったのかも、とタイジは思いました。タイジは、今自分につきまとってるという節さんの顔かたちはまったくわからないのですが、女ざかりの、ちょうど今の娘の苑さんぐらいの年頃の節さんは、美女という感じではないにせよ、いかにも育ちのよい、見た目に快く、角のない雰囲気の女性でした。
タイジの眼にも、この上品な節さんが、若いころから奔放と火宅をはばからないジンさんとは相容れないというのは、はっきりとわかり、でもそれだけにジンさん自身の性質とは真逆の女性への好みをかきたてたのでは、という憶測が蠢いたりもするのでした。
(ひとってわかんないよね。ジンさんはガーネットさんがどうのって言ってるけど、ふたりとも本気だなんて思えないもんなあ)
 タイジはここでまたシーラを連想し、ちくりと、いいえもっとはっきり熱い感情を押し殺し、顔を背けて部屋を退き、キッチンへまわり、いつもどおりテーブルの上の買い物メモとお財布を取りあげました。

 結衣ヶ浜に寄せる西風は凪いで、小春日和の午後の光は、潮の匂いを含んだその濃い大気といっしょに遠浅の海面をなめらかに渡ってくるのでした。
 シーラは海浜公園近くの地下駐車場にプジョーを停め、人気の少ない冬の海辺へふらりと出てゆきました。スカートではなく、デニムのイージーパンツの気楽なかっこうで、上からはざっくりとカーキ色のモッズコートを着ていました。束ねていない髪が車からおりたとたん、地下駐車場の中までも、どこかから吹き込む海風に乱れ、白い頬にほつれかかりましたが、シーラはバレッタで留めようとはしませんでした。地上に出ると、むしろ風の乱れは静まり、穏やかに一方向に流れてゆくようでした。
 もう冬至も近い太陽は低くなだらか、と言ってもやはり内陸とは濃度の違う海辺のまひる、サングラスをかけていなければ眼が眩みそうな陽の量です。ウィークデイの午後でも、観光地として名高い結衣ヶ浜を散策する観光客、なかんずく若いカップルが目立ち、また遠近の磯にはウィンドサーフィンの透きとおった翼がゆったりとした風を受けて縦横に奔り、低い波のためか、それらの多くはじきに横倒しになり、また飛沫をあげて起き上がり、足元に打ち寄せる規則的な波のざわめきに、サーファーたちの洩らすさまざまな歓声が、遠い風の周囲にふぞろいなリフレインを混ぜてくるのでした。
(面会時間は、まだ余裕あるな)
 とシーラは身軽く防波堤を超え、引き潮ですっかり露わになったテトラの一角に飛び移りました。すぐ傍には鴎が二、三羽。彼らは突然の闖入者に怒ったように両翼を大きくひろげましたが、飛び立とうとはせず、じきに羽をしまって、シーラの存在など気にも留めない無表情に戻りました。
 鳥たちはたいてい、シーラを怖れません。どこでも、どんな鳥でもそうでした。シーラがまだイタリアにいて、よちよち歩きの赤ちゃんのころから……。
 今日彼女は藤塚市民病院に、二度目のメグのお見舞いにやってきたのです。けれども気持ちは重く沈み、包帯とギプスに包まれたメグを見るのがつらくてならず、藤塚の手前で道を逸れ、鹿香の海へ寄り道したのでした。
(あたしのせいだ)
 メグの傍から離れず、半狂乱になって泣いていた駿男さん。
(パパは、あたしを一言もなじらなかったけれど……出来事そのものはあたしのせいじゃないけれど、メグの周囲にいろんなものを引き寄せる原因を作ったのは、あたしなんだ)
 安美さんが、まだ柳の精でこの世にいたとしたらどんなに哀しんだろうか。彼女は娘に平穏な暮らしをしてほしいから、たぶんメグに自分の視力を残して世を去ったんだろう。
(あたしと出会うまで、メグの異能力を鎖したのは、母親なんだ…)
 どういう手段でか、それもなんとなくシーラには察しがつくのです。メグの内部深くに埋もれた記憶の深層まで潜れば、その経緯ははっきり残っているはずですが、そんな暴露は無意味、とシーラは手を触れませんでした。
 そして今、シーラの後悔と苛立ちをさらにじりじりと責めつけるのは、メグに居候したレノンで、霊園で彼に宣告されたとおり、シーラからメグの心に触れ、対話することが叶わなくなってしまったのでした。
 メグの内部に語りかけ、また触れようとすると、あたかもかっちりと冷ややかなブロックが隙間なく降りてシーラの侵入をはばみ、メグ独特のほのぼのとした柔らかさや暖かさの中心までたどりつけないのでした。
(ガキめ)
 とレノンのことを思うと、シーラの思惟は荒々しくなりました。
(たいした縄張り意識だ。男同士でシンクロしたくないと言ってたから、シーラがほんとに女だったら邪魔しないのか? いや、あいつはそんなに寛容じゃない)
 テトラに座り、シーラは親指の爪を噛みました。細長い指とかたちのよい半楕円形の爪先は、さらにきれいに手入れされ、磨かれた小さい十個の窓のように、なめらかな虹いろに光っています。マニキュアにしても、シーラはルージュ以外、自分が紅をあまり好まない理由を自覚していました。
(モンスターめ)
 ゾーリンゲンまで言い当てやがった。いつ、どうやって、〈ぼく〉の記憶に侵入した?
(男は嫌いなはずだろうが)
 ビュッ、と突風が海面からシーラの髪をあおり、いっしょに剃刀のような寒気が首筋を撫でました。レノンの嘲笑が混じっていそうでしたが、風の流れは透明で、気がつけば少しずつ潮の気配を変え始めたテトラの喫水線が自分ににじり寄ってくるので、シーラはたちあがり、同時に鴎たちもはばたいて舞い上がりました。
テトラポットの角と角をとんとんと踏み渡ってゆくと、ついさっきまで水底の石ころや海草が黒々と濡れて剥き出しになっていたのに、もう海水にひたされ、コンクリートの壁面には、粘り気のある泡が無数に浮かんでは消えています。
シーラはそれでもプジョーに戻らず、汐の昇り始めた浜辺へ回りました。
 テトラではオブジェの空洞に反響して、ごうごうと轟いていた水音が、こちらではたいらかで快いさんざめきとなって、一定のリズムで打ち寄せる波音の単調、乳白色に紺青を加えた海の明るさは、誰しもそうであるように、いつまでもいつまでも聴いていたい、眺めていたいものでした。
 冬の陽射しの傾くのは早く、少し離れた岬の崖に太陽が隠れると、際立った藍色のくらさが浜辺に訪れてきます。空の明るさの反映で海のほうはなお明るく、その余光で濡れた海辺の砂地は、視界にいったんかき暗がっても、すぐにまた、余計なまばゆさを消した影のない均一な銀鼠色を浮かべ、まるでポール・デルヴォーの画のどれかにありそうな情景に変化してゆきました。
 傍にいたい…。
 それはこのごろあちらこちらで耳にする想いと言葉でした。
 夫に死ぬまで寄り添い続けたいの、どうにかしてちょうだい。
 穏やかな言い回しでしたが、節さんの懇願はそれだけに頑として退かない強さがあり、これを放り出せばまず間違いなく餓鬼道の修羅、悪くすれば、おそらく今節さんが時々(?)仮住まいしているらしいタイジまでも巻き込むかもしれません。あるいは重傷のメグに向かって暴走するかも、とシーラは考えました。
(植物霊にもなれない。自縛霊もまずい。タイジだっていつまでも宿主ではいられない。メグだったらどうするか?)
 メグをひっぱりだせば簡単だ、と言っていたレノンの声がよみがえり、シーラは砂を踏んで歩きながら、
(ということは、レノンはどうすればいいかわかってるんだ。どうすれば片付くか。メグだったらどうする? だが解答を彼女からじかに引き出すには、コムニタスを呼び起こすしかない、青い眼の……)
 レノンが釘をさしたように、今のメグにとってはコムニタスへのメタモルフォーゼはひどい消耗だろう。
「おい、眉間に縦皺寄せんな」
 突然、ずけずけとうしろから声と手が同時に伸びて力が加わり、シーラはうっかりのけぞりましたが、反射的に肩に置かれたその手をつかみ、うまいことくるりと身をよじり、ヒョウガと斜に向かいあって立ちました。向き合うとシーラのほうが、ヒールのある靴をはいている分、彼の眼線より高くなって、まだ心理的に有利な感じです。
「なんでわかったの?」
「直感、て言いたいけど、実は携帯内蔵GPS」
相変わらず驚かないやつだな、とヒョウガはシーラの頬の冷たさを自分のてのひらに包みながら思い、そのまま顔を近づけてキスしました。シーラは逆らわず、唇が離れると、軽く笑って、
「マジ?」
「だってそうしないと、おまえどこにいるかわかんないもん」
 ヒョウガは悪びれずに応じました。レッドソックスの野球帽を被っていましたが、シーラとは逆に、もうかなり伸びたレオパードヘアを、今日はちゃんと首のうしろで束ねていました。日没の気配と、野球帽の鍔の影に、いつもながら眼の光りが際立っています。
「しょびてんな?」
「そうでもない」
 ヒョウガはシーラの強がりを一蹴する口調で、
「たまには泣きつくくらいが可愛げあるんだよ。智恵貸してくれとかさ。メグ状態悪いんだろ」
「まあね」
「俺じゃ…」
 だめか、というのが口惜しくてヒョウガは口をちょっとつぐみ、
「わかんないよ。おまえいつも何も言わないんだもん。メグの事故って、フツーじゃなかったわけだ、その顔つきだと」
(ほんっとにアタマくるけど、こいつの前だと俺のほうがいつも片肘張る感じになる。なぜなんだ)
 ヒョウガはふくれっつらをして横を向きました。そのストレートなジェスチュアに、シーラは声を出さすにまた笑って、
「あなたに言うとたぶん激怒するから黙ってるだけよ。怒らせたくないという、思いやりだってば」
「どこが?」
 もういっぺんヒョウガはシーラの視線をとらえ、遠慮なく喰いつきました。
「おまえ、俺をなんだと思ってるの? 俺おまえみたいに他者の心読めたり、しょっちゅう霊魂見えるわけじゃないけど、惚れた女の顔つきぐらいわかるぜ」
「……おんな?」
「じゃないの?」
 海風が満ち潮に乗っておしよせ、シーラの髪を陸地のほうへ吹きあげました。シーラは腕時計を見てつぶやきました。
「そろそろ病院行かなくちゃ」
「それとも男って言えばいいのか?」
 ヒョウガは皮肉っぽく付けたし、でもシーラの二の腕をぎゅっとつかんで行かせまいとするかのようでした。
 シーラはその力にもあらがわず、くにゃりとヒョウガの胸に上半身を預けるようにし、ただ黙って砂浜を歩き始めると、つられてヒョウガも歩き出しました。海水を含んだ浜の砂は、踏みしめるたびに踵からめりこみ、満ち退きの海岸線のしるべとなる、すこし粒のあらい小石や貝殻の筋目が、ながい結衣ヶ浜から、たぶん岬へ、またその先の和賀江島まで、湾曲しながら、水の足跡のようにずうっとつながっているのでした。
「桜貝がたくさん落ちている」
 シーラは身をかがめて、眼にとまった淡い薄いはなびらのような幾枚かを指にひろいあげ、これをメグにおみやげにしようか、と考えます。
(こいつのバックレ、名人芸だ)
 ヒョウガは内心舌打ちするのですが、こうやって並んで寄り添っていると、いつだって毒気を抜かれて、彼は気持ちの尖りが消えてしまうのでした。
(だからヒーラーなんだろう。俺、ほかの女とだったらこうはいかない)
「ヒョウガ、〈ぼく〉のどこが好き?」
 ふいにシーラはきっさきを向けました。ヒョウガは一瞬の隙もなく応じました。
「全部」
「ぜんぶ?」
「おまえ、そんなこともわかんないの? ヒーラーなんかやめちまえ」
 シーラの脳裏をタイジの声と姿がスローモーションでよぎってゆきました。
「惚れたって言ってんじゃん。パーツで惚れるわけないよ。俺、フェティッシュで女を抱かない。だったら人形とかのほうが、ずっとマシだ」
 シーラはしばらくヒョウガの顔を眺めました。それから、すこし睫毛を伏せて、
「うれしい」
ひとことだけ。ヒョウガは屈託なく、また照れもせず、口を開けて笑い、眼だけはぎゅっとシーラを見据えて、
「じゃこの話はこれでおしまい。おまえメグの面会にいくんだろ。俺これから茅ヶ崎でセッション。夜通しライブ」
「何時から?」
「ディナーショー仕立てだから、七時くらいだね。シャンソン歌手とピアノで入る。おまえも来いって言いたいけど、インビテーションオンリーなんだ」
「明日は?」
こいつ、マジで疲れてるなとヒョウガが思った瞬間でした。明日は会える? そんな台詞を聞いたことがあったろうか、とヒョウガは考え、
(会いたがるのはいつも俺だった)
「おまえこそ、今夜どうすんの。世田谷帰るんでしょ」
「帰らなくてもいいよ」
「明日明後日の週末、衣笠の山奥にある私設美術館でクリスマスパーティーなんだ。そっちに回るつもりだから、今日明日俺は東京に帰らない」
「パーティ…出てもいいよ」
「その言いかた。いいよ、じゃなくて、いいの? だろうが。だけど俺、そっちではフルートも吹くけど、昼間は料理の助っ人で入るんだ。展示のヴェルニサージュのたびに自前の料理出す、かなりりっぱな厨房のある趣味のギャラリーだよ。ときどき俺そこで働いてるって知ってた?」
「いいえ」
「これだよ。おまえこそ俺のどこが好きなんだ。いいよ、答えなくて。聞くのこわいもん。俺正直だから、いつもってわけじゃないけどおまえには正直だから聴きたくない」
とまくしたてながらも、ヒョウガはとてもうれしそうでした。
 冬の太陽を遮って、厚い藍色の雲が真横に流れ、その縁だけがあざやかな金褐色に輝き始めました。風向きは速度を速めて汐をおしあげ、渚に向かう波頭の高さがはっきりと嵩を増していました。
 イソシギが数羽、シーラとヒョウガの周囲を無心に飛びまわり、またすぐに水色がかった夕べの空に飛んでゆきました。
「プジョーで待ってる。夜明けまで、どこにいるかわかんないけど。別にホテルでなくってもいいでしょ」
「うん」
 ますますヒョウガはうれしそうでした。
 彼はずっと片手でつかんだままのシーラの二の腕をようやく離し、今度は両手を彼女の腰に回すと、モッズコートのフードに顔を埋めるように、シーラの首筋にかるく歯を当てました。シーラはヒョウガのために首をかしげ、そのせいで、まなざしはごく自然に、すぐそこまで海の来ている浜に流れました。
 波は、もう午後の透明から夜のさきがけのような暗青色をたたえ、狭くなった砂地に激しい満ち潮に打ち寄せられ、あるいは引き寄せられる、大小さまざまな藻屑や貝殻の、もうこまかなものは夕闇に紛れて見分けもつかなくなり、大きなものだけが目につきました。
「あれは……」
 シーラは首筋にすがるヒョウガの呼吸を忘れ、波頭に向かって、むずむずと這ってゆくかなり大きな巻貝に眼を吸われました。貝殻、流木、空き缶空き瓶……むなしく寂しい破片のような単語が集まる浜辺に、その巻貝は明らかに生き物の自立したリズムと勢いを持って、そろそろと海へ近寄ってゆくのでした。
「南の国の?」
 ヒョウガは熱っぽい眼をあげて、シーラのささやきの焦点をひろうと、フン、と鼻を鳴らし
「ヤドカリだよ。でかいな。たまにうちあげられるんだ。あれ法螺貝だろ」
「ヤドカリ…」
「知らないわけじゃないだろうが」
「ええ」
(喜んでるとじきにこれだ。もうちょっと俺を見つめてくれ)
 ヒョウガはシーラの顎を少し手荒につかみ、キスしているのか怒っているのかわからない……その両方で、それから、そして。


こころのかなしみ剥がして
 ひとひらずつ きらめきに変え
 贈りたい 粉雪舞う
 この聖夜
 いつわりのない
 傷つきやすい
 PURE HEART
 愛だけが 変えられる奇跡
 あなたに 贈る
 わたしの過ごした日々
 あなたゆえにきらめいた
 木々の声も 風の歌も
あなたがいたから
 すべて愛しく
 輝いた 時間
 誰よりも 深く
 誰よりも せつなく
 激しく そして……
 だからやさしさの起源は
 みんなあなたから
 もらったもの

 ふりむいて、また遠ざかり
 互いの道は逸れ
 あなたのいない 
 聖夜 きらめく無数の星々の
 ひとつぶずつ
 かなしみといとしさ混ぜて
 こころから贈る
 あなたをみつめる時間
 幸せな光りをくれた
 誰よりも 長く
 誰よりも いとしく
 育てた愛
 PURE HEART
 
この手に握る 今
 もう離さない 輝きは
 きっとあなたを幸福にする
 かなしみは 汚れなく
 風に舞う粉雪
 あなたのいない 聖夜を
 いくつ過ごして
 今 わたしの手のなか
 あなたは 微笑む
 わたしの 育てた愛
 PURE HEART
 誰にも測れない
 時間 互いに 分け合い
 こころの哀しみ
 剥がして
 光るはなびら
 淡雪こなゆき
あなたがいなかったから
 木々の歌 風の声
 夜空の深さ 星々のいろ
 眼に映るもの すべて
 あなたへの愛だった日々
 やさしさの起源
 みんなあなたから
 もらったもの……
 いつわりのない
 PURE HEART
 二度と離れない


クリスマスまで、あと十日余りとなった週末の金曜日の午後、シーラはタイジにも知らせず、ひとりでソゴウさんの家を訪ねました。
プジョーでもハーレーでもなく、電車とバスを乗り継ぎ、降り立った駅前で、お土産のケーキと赤い薔薇を買って。
 薔薇は七本。ケーキはたまたま眼にとまったその街のパティシエールのショートケーキを適当に四つ。
 記憶をたどって門扉を探ると郵便受けに鍵があり、娘さんは帰宅しておらず、ソゴウさんの書斎らしい窓のカーテンの隙間から、まだ夕陽の残る窓辺に淡く、電気スタンドの光が漏れて見えました。
 玄関の上がりかまちでシーラはコートを脱ぎ、壁にかかった長楕円形の姿見で、自分の姿を確かめました。
 すこし胸の空いた鮮やかな赤いワンピースを、ことさら選んで着てきたのでした。胸のふくらみは、下着とチーフでカヴァーしています。クラシックというよりもむしろオールドで、同時にワイルドな七十年代ふうの真っ赤なドレスは、ただこの時のためにアメ横で探し出した衣装で、コートなしの姿のまま、日常の街を歩いたら、奇異な視線を向けられるかもしれないほど鮮烈なドレスです。胸まわりの黒いレースの襟飾りはビーズを散らしたデリケートなもので、これだけはシーラが自分でつけ加えました。
 口紅もワンピースと同じくらい濃い赤。
(すごいね)
 鏡に映った自分を、シーラは見知らぬ女のように眺め、心につぶやきました。これほど強烈な色彩をまとってしまうと、髪型も化粧もたぶん相手の印象から消し飛んでしまう、とシーラはセミロングの髪をそのまま垂らして、前髪だけ節さんふうに飾りけのない黒いカチューシャで留めました。
 シーラ本人がどう思おうと、その赤いドレスは彼女によく似合いました。すこし蒼ざめて血の気のひいた頬でさえ、衣装の真紅は凄味を添えるのでした。
 ノックなしで、シーラはドアを開ける音さえたてず、ひそやかな影のようにソゴウさんの部屋に入りました。ノックしてもわからないと思ったからです。ところが、
「待ってたんだ。遅かったじゃないか」
 ソゴウさんは窓に向かったまま、背中ごしにシーラに声をかけてきたのでした。
「なぜわかったの?」
「玄関に君が現れたとき、ここから姿が見えたんだよ。その薔薇はぼくに?」
「そうよ」
「花をもらうなんて久し振りだ。女性からいただくなんて、ましてめったにない」
 それからようやくソゴウさんは後ろをふりかえりました。
失禁の気配や、部屋に染み付いた尿臭はしません。きちんと掃除され、床もワックスをかけたようにつやつやとし、長いこと誰も手を触れない書棚の本たちはうっすらと埃を被り、褪せた背表紙のまま、つつましく並んでいました。
地味だけれど毛並びのよいセーターの上に、セーターと似たような色合いのジャンパーを重ね着し、フリース素材のズボン。足元はスリッパではなく、もこもこした暖かそうな室内履きです。娘さんの趣味なのか、奥さんの節さんが残したものなのか、ソゴウさんの身なりは、どこのブランドかはわかりませんが、一見ありふれていても、着崩れの目立たない上等なものでした。今日は太い黒縁の眼鏡をかけています。
そのせいか、前に会ったときより、彼は若々しく見えました。強めの度の入った眼鏡ごしに、ソゴウさんはシーラをまじまじと見据え、
「君はまったく昔と変わらないねえ」
「そう?」
「いや、昔よりいっそう女っぷりがあがったよ。よくぼくのことなんか思い出してくれたもんだ」
「忘れたことないわ」
 柔らかくシーラはささやき、書き物机に近寄ると、その上に抱えていた花束を、静かに置きました。
「お世辞でもうれしい」
「あたしの名前、おぼえている?」
「もちろん。ええと……」
 ソゴウさんの視線がシーラから逸れ、頼りなげに左から右へ、またその逆にとゆっくり動きました。
「ええと、君は」
「あなたの最後の恋人よ。やっぱり忘れちゃったのね」
「最後の…」
「そうよ。わたしが、あなたの最後のひとりだったのに、あなたは忘れてしまったのね」
「そんなことはない。こんなにはっきり記憶に残っている。君の顔も声も」
「それじゃ、あたしは誰?」
(田舎芝居だ。ごめんね)
 いったい誰に向かって謝っているのか、とシーラは思わず唇をきつく結び、すぐにまたこわばった笑顔を作りました。
 考えた挙句、あまり…うまいとは思えない手段で、無力な相手をたぶらかそうとする自己嫌悪を抑え、作り声でささやきながら、シーラはソゴウさんの視線を全部とらえられる近距離まで顔を近づけました。ソゴウさんは無防備に、呆然と、両手をだらんと肘掛椅子から垂らし、両膝をかすかに揺すり始めました。
 知力を欠いた充血した瞳の真ん中で、さらに淀みを加えた水晶体。その奥に体液を含んだ硝子体。感度の鈍った虹彩の扉に手をかけ、シーラは失認の症状に揺さぶられ始めたソゴウさんの内部に、病人にはむごい、と無理を承知で侵入しようと、視線にこめた自分の意識のきっさきを鋭くしました。
 ソゴウさんの病んだ内面に、いやいや踏みこむ鈍器を振り下ろすような不快な感覚が脳裏を疾走するのと、うしろから節さんがシーラの髪をつかんでひきすえるのとまったく同時でした。
 ……!
 節さんは無言でした。シーラは彼女の姿をかろうじて横を向いた視線のはじでとらえ、予想はしていたものの、ようやく実体を見せた自縛霊の無惨に呼吸を詰めました。
 宿主であるタイジから飛び出すと、焦燥に焼かれ、執着のかたまりとなった節さんは、もともとの穏和な顔を、もはや保てないのでした。
黒目の見えない、ぽっかりと空いた洞のような両眼。半開きの口腔からあえぐように赤茶けた舌がひるがえり、痩せた鼻梁、こけた頬、灰色にばさばさと乱れた髪がその顔にまつわり、生気の失せた顔面に、瞳の抜けたうつろなふたつの眼だけが、ねっとりと低い金いろを帯び……
(泥眼の顔だ)
 シーラは、能面のいくつかを瞬時に連想しました。嫉妬に妬かれ、うらみに、憎悪に心を歪めた女面の数々。般若となれば鋭い角を額に生やしてもはや鬼、そこまで狂い、うらみきれずに苦悩するなら生成、または泥眼、
あるいは蛇(じゃ)……。
 能面の、鬼と女と魔のあわい、いやおうなしのメタモルフォーゼに煩悶するそれらは、怨念にとらえられてなおうつくしい造型を保ち、気韻をたたえ、おぞましさといたわしさを、眺めるこちらにかきたてるのでした。
夫にうらみはない、とつつましく言い切った節さん。だけれども、その言葉には、他人には明かしえぬつらい思いが、刻み込まれた裏また裏のさらにうらが幾重にも畳まれているはずなのでした。
(そうでなければ死に切れぬほどの未練を残すはずないんだ)
 それでも彼女は夫の傍にいたい。仇魔ではなくて……?
 シーラは鬼女になりかけた節さんに髪を鷲づかみにされたまま、逆にこの恐ろしさの反動に勢いつけて、節さんをひきずったまま、ソゴウさんの中に侵入しました。
色彩を崩し、ひとつずつの輪郭のさかいめを失くした認識の欠片、形象の歪み、ぶちまけたペンキか、やくざなラッカーのめちゃくちゃな吹きつけのような、迷彩。半ばは闇。そのなかにいくつかは……いくぶんかはきちんとした首尾のある何かの記憶の断片が、濁りの渦のなかに浮かんでは沈んでいました。
(心象の表面が、もうこんなに混乱してるなんて予想以上だ。どこかクリアな意識は残ってないか?)
 シーラは自分の髪から首へ、痩せた腕を回してしがみついてきた節さんを、こちらから逆に抱え込みました。節さんは眼と鼻と口だけがぽっかりと際立つ木偶人形のように、ソゴウさんの中に飛び込んでしまうと、かえっておとなしく、こわばった顔をうつむけ、両手は何かを捜し求めるように、シーラから離れ、周囲のどろどろした迷彩の溶暗をかきまわし始めました。
(夫はどこ?)
(ここがあなたの御主人の中です)
(何も見えない。どんよりして)
(あたしの言葉がわかる? 節さん。あたしと対話できますか?)
(はい。シーラ。苦しいわ。舌も眼も、がちがちにこわばって、体は骨になってしまうみたい。タイジさんから抜け出すと、わたしは……人らしい〈血肉〉を欠いたモノに堕ちてしまうのね、もう)
(それにしても鬼畜化する進行が早い。それだけにあなたの執念が濃い、ということかしら。あなたが飛んできてくれて良かった。あなたを呼び出すために、あたしは御主人に接近したの。だから今、あたしにアグレッションを向けないでください)
(あたしをここに呼び込むため?)
(そうです。これからさらに深層へ踏み込みます。節さん、あたしと一緒に来て)
 シーラはふと、今の自分が、かつて……の喉を切り裂いた蒼白な刃になったような気がしました。あのとき何歳だったんだろう。幼児の向こう見ずで、原色剥き出しの感情の、猛り奔るそのままのエネルギーで。
(今は違う、だいじな時にこそハートはクール、だ)
 それでもどろりとした認知の歪みをおしのけ、知性の混沌のその奥に、必ず残っている筈のクリアな感情層まで押し入るためには、真っ赤なドレスのゾーリンゲン。
 認知症のひとって、知性が損なわれても、感情はむしろ研ぎ澄まされてピュアになるんだよ……とタイジがどこかで言っていたっけ
それともシーラ自身が直感で洞察していたことかな?
 歪みのない……その感情域まで降りれば、
そこが節さんの居場所になる。
(節さん、あなたの終のすみかは、ソゴウさん自身だよ。他人に仮の宿主を求めたって長居はできない。傍にいたいなら、御主人のなかに、彼が死ぬまで、ひとつになっていればいい、ぼくといっしょに、この迷彩の向こう側へ)
(わたしが夫になるの?)
 節さんのうつろな瞳から、透明な雫が流れました。涙のようでもあり、限界を超えて揺さぶられたときの、感情とは無縁な体液の流出のようでもありました。
(そう。いちばん傍にいたいなら…御主人そのひとを宿主にしてしまうのがいい。誰にも、二度とあなたは邪魔されない。あなたとご主人はひとつだ。溶け合って、彼の肉体がこの世を去るまで、あなたがたは離れない。ただの訪問ヘルパーに心乱すこともないし、もしかしたら、ソゴウさんの表層意識の萎縮と混乱を、いくらかは食いとめられるんじゃないだろうか)
 ……。
 ああ、と深いため息が聞こえました。安堵の呼吸か、それと精根尽きた自縛霊の呻きなのか、聞き分けることの難しい吐息でした。
でも、そのすぐあとに、
(このひとの髪の毛ひとすじ、爪のひとかけらも、誰にも渡さない、離さないわ!)
 朗らかで屈託のない、そして華やかな若い女性の声が、ソゴウさんの混沌を突き抜けようとするシーラの魂を激しく揺さぶりました。

 クリスマス週間に入った土曜の暮れ、ギャラリー〈花絵〉で、タイジはぽつんとした気分で普段どおりの仕事をこなしていました。
 といっても季節がら客入りは上々で、午後早々の開店から夕方まで、毎回客席はいっぱい。親子づれもいれば、カップルもいました。不景気でも天下の銀座の華やぎが沈むという気配は見えず、昼すぎからお茶の時間にかけて、目抜き通りの喫茶店もレストランも、めぼしいところは混雑するせいか、銀座で多少は名の知れた久我ビルの〈花絵〉などは、休みどころを探しあぐねたひとたちの、ちょっとした腰掛けスポットになっています。
 映像を一回転させるたび、タイジは〈花絵〉の外廻廊に出て一服するのですが、ざわざわと観光客の訪れの絶えないフロアの、曲がりくねった薄暗い向こう側に、ともすると視線はさまよい、心はもっとあらぬところに飛んでしまいそうになるのでした。
 あれっきりシーラからは音沙汰なしです。木曜日のソゴウさんのケアはなだらかに終わり、なんだか拍子抜けする気分のまま金曜を過ごしました。なにかあれば、それを口実にシーラにアクセスできる、とアクシデントをひそかに期待していなかったわけではなかったのですが、ほんとにソゴウさんはおとなしく、半分以上眠ったような顔つきで、タイジの誘導のまま、ケア時間は過ぎていったのでした。
(抗精神薬か何か飲ませてるのか?)
 とタイジが憶測したのは、ソゴウさんの手足に、少しですが、はっきりと震えとこわばりが現れてきたからでした。ある種の薬物を使うと、副作用は必ず出現し、タイジには見覚えのある、ソゴウさんの動作のぎこちないそれと、これと、でした。
久我ビルの廊下の天井電気はいまどき珍しいかもしれない、埃をかぶった昭和まっさかりそのままの古くさい蛍光灯で、真昼のほうが夜よりもむしろ、このビルを浮世離れした蒼然たる雰囲気で包むヴェールのようでした。
 その向こう側から、ふらりと…いつものように、何の前触れもなく、水際だったシーラの姿が現れてはくれないか、とタイジは金曜日いちにちをずっと待ちわび、それでいて逢うのが億劫な、どこか噛み合わなくなってしまった自分の感情を、長い〈待ち時間〉のなかで味わい続けたのでした。
(誰かを好きになるって、まともなセックスしたいってことかなあ)
と臆面もなく考えるタイジでしたが、そういうこととも、今回のショックは違う、と思いたい彼です。
「喰う?」
 ぼやっとしているタイジの鼻先に、いきなり突き出された煎餅を、タイジは怒りもせずに受け取り、包装を破って歯をたてました。挨拶はそれから。
「ヒマそうね、ジンさん」
「俺、もう年内〈個室〉閉めてんの。知らなかった?」
「うん……これ、濡れ煎餅だった」
シケてるな、とふたりいっしょに口に出し、でもふたりとも笑いませんでした。
「冗談きかない。客入りいいもん」
「そうじゃなくてさ。君の顔、パンダ一歩手前よ」
「その次の台詞俺予想できる」
「医者と温泉」
「だよね。新味ないよ、だけどふられたわけじゃない」
「そぉ?」
 ジンさんは鼻唄のように茶々を入れました。
「医者っていえば、ポストにこれ入ってたよ」
 とさしだれたのは、長野のハト先生からの書籍郵便でした。宛名はちゃんと〈花絵〉のタイジになっています。
「勝手にポスト開けたのか?」
さすがにタイジはかっとなりました。
「悪いと思ったけど、ポストからはみ出て落っこちそうだったのよ。宅配にしてくれりゃよかったのにね、ハトさん。床に落ちてたら、同じことだろ。誰かがひろって持っていっちまうかもしれなかったよ。だって昨日今日の混雑だもん」
 嘘かほんとかわかりませんが、舌先三寸のジンさんに喰いつくのも今はばからしく、時間のむだでした。
 ばりばりと、濡れ煎餅を噛みくだく勢いで包み紙をやぶると、赤いリボンと金の鈴、素朴なもみの木の描かれた、てのひらサイズのクリスマスカード。絵もメッセージも一目でハト直筆とわかります。
「お手製メッセかあ。イマドキいいねえ」
 ジンさんの横目とやっかみを無視して、タイジは添付カードとは別に、緑と赤のクリスマスラッピングに丁寧に包まれた本体を開けて見ました。
 『奇跡の医療・福祉の町 ベーテル』
 サブタイトルは「心の豊かさを求めて」。帯に「ドイツでは、障害者でも老人でも、一生安心して暮らせる町がある」と書かれているあれこれに、タイジはすばやく目を走らせ、それからハトさんのカードを……ほんとうはジンさんの眼の前で読むのはいやだったのですが…裏返しました。
 とてもあっさりしていました。
 聖夜を飾る灯火ひとつ、ハトからあなたへプレゼント。
(ハトさんらしい)
 裏側にも、たぶん彼女の描いたイラストがあり、蝋燭と鳩。
(飛んで行きたいのは彼女のほうなんだろうに。でも、言ってたとおり、たぶん九州に飛ぶんだろうな)
「いい感じじゃない。いつのまに仲良くなったの?」
 ジンさんはまったく遠慮せずにタイジあてのメッセをいっしょに覗き読みして、悪びれずに言いました。
「こないだ彼女上京したんですよ。御親戚の何かがあって。そのとき横浜でシーラさんと三人で会った」
「そうかい」
「ジンさんこそ、ここしばらく、行方不明だったじゃないですか。どこ行ってたの?」
「そうだっけ?」
 ジンさんはくしゃくしゃと頭をかきました。
「俺、いなかったかなあ。銀座にはしょっちゅう来てたけど、言われてみれば〈個室〉はほったらかしてたかも」
「よくやってけますね。シーラさんも言ってたけど、ジンさんの正体不明もりっぱなもんだ」
「あ、その形容うれしい。正体不明、それいい」
「よくないよ。わかりやすいほうがいいって」
「わかりやすい奴って魅力ないんだ」
「そういうのへそ曲がりとか、屈折してるって言うんじゃない?」
「歪んでるほうが味がある」
 タイジはもうジンさんにはかまわずに、ちょうど時間ぎれになった〈花絵〉の客だしの扉を開けました。がやがやと出て行くお客さまにお愛想したり頭を下げたりしているいつの間にか、ジンさんはいなくなっていて、タイジはほっとしました。シーラに関して、ジンさんの無遠慮な突っ込みはもらいたくない気分です。
タイジはハトさんから贈られた『ベーテル』を、次の客待ちの間までに、ぱらぱら繰っていました。その間にも、デパートや高級ブランドの紙袋を提げたお客はひとり、ふたりと入ってきて、じっくり文字を追うゆとりなどなく、三十分もたたないうちに、少ない椅子は満杯。
 また映像をかけてフロアに出たところで、携帯の着信。心臓が口から飛び出すかと思うくらいの大文字で、どきん、と胸が鳴ったのですが、ときめきはたちまちしぼんで電話の主はお母さんの涼子さん。
……今大丈夫?
「うん。オッケー。ちょうど映像始めたから」
……さっき急に連絡入ったんだけど、宮本さんへの訪問、来週から週イチにしてくれってケアマネから。
「え、なにそれ」
……本人希望だって。もうだいぶ元気になったし、できることは自力でやるから、だんだんケア減らしてほしいって。別にあんたがミスしたとかじゃないっておっしゃってるらしいけど、あたし心配になってさ。いろいろイワクつきで回ってきたケアだし、たぶんずいぶんてこずってるだろうとは思ってたから。もしかして何かあった?
「ないよ、何も。いいひとだよ。娘さんも」
……ならいいけどね。もうあそこも次々とヘルパーとっかえひっかえで、こっちはお手上げで、息子駆りだしたのにって、ちょっとあたしも頭にきちゃった。
「だから何も失礼なことないって。スムーズな日ばかりじゃなかったけど、一昨日なんか、とてもおだやかだったし」
……じゃ、月曜と木曜と、どうせ年内いっぱいだからいくつもないけど、どっちにする?
決めてくれって。急な話よねえ。あんたの都合のいいほうでいいからって。だからメールじゃなくて電話したのよ。
「うーん。それじゃ木曜日キャンセル。そのほうが午後と週末長く俺の自由になる」
……わかった。じゃ年内は、たぶん最終月曜一日だけで。
「ケアマネさんによろしく」
(本人希望?)
 タイジはフロアの椅子に座って首をかしげました。木曜日のソゴウ=宮本さんは、どう見ても、筋道たった自己主張ができる意識状態ではなかった印象だけど、とにかくケアマネから回ってきたんだから、いいや。
(何か……あったのかな。いや、シーラさんが、なにか…)
 ソウニチガイナイ、と小さくささやく声がありました。
(かなり進行している認知症状が、そんな急変…好転するわけないぞ)
 とにかく、これで彼女に連絡する口実ができたってわけだ、とタイジはたちあがり、廻廊の隅までぶらぶら歩いて手洗いにゆき、そこの薄汚れた硝子窓から風景を眺めおろしました。
 午前中は薄日のさしていた天気は、午後もだいぶ遅くなった今、はっきりと下り坂でした。特に汚物が目立つわけではないものの、こまめな掃除のゆきとどかない久我ビルの共同トイレは、たいしたリフォームもしないまま、何十年もの歳月の間に浸み込んだ臭気が漂い、いつ、誰が置き換えるのかわからない消臭剤さえ、すっかり埃まみれで、水道の脇の窓は、磨り硝子ではないはずなのに、これもアンティーク級の時間に煤けて、ぼんやりと曇っていました。
 そこから眼下に見えるのは有名デパートの連なる銀座の裏道の殺風景です。視線を上に向けると、ビル群のひしめく上方わずかにひらけて、曇った冬空の平らな明るみが、表側だけ飾った人工建築の背後のどんよりした暗がりとは異質な、あたらしく切り張りされた白い紙みたいでした。
(午後から雨か、雪だったかな?)
 手洗いを出ると、どこかのギャラリーから耳慣れたクリスマスソングメドレーが聞こえてきました。
     (了)
 


 
 
 

 
 
 


 



 
 

 

   オカリナ・シーズン3

 時間を巻き戻して、その月曜日の午後三時、ちょうど雨脚がはっきりとし始めた頃、シーラは鹿香(しかご)市の霊園にいました。
 その日は成城学園で、シーラの祖父、表向きには養子縁組して父となっている千手宗雅さんの各月ごとの定例お舞台があり、こうしたおおやけの催しごとに顔を出す日は、シーラは千手紫(ゆかり)にもどり、この家の名にふさわしい姿で過ごすことにしていました。
 シーラが住んでいる家というのは、村雨能楽堂、通称成城能舞台と呼ばれる簡素な能舞台があり、宗雅さんの個人宅でもあります。もとは江戸時代の武家文人だった村上玉雨の別宅の一部を明治時代に鳳凰流で譲り受けたもので、玉雨の住まいの大部分は今では公園となっており、お舞台を含む千手家は、もともとの庭園の風情をそこなわないように、さりげない竹垣の仕切りで一隅を占めているのでした。
 一見すると村雨能舞台は、周囲を竹林に囲まれた質素な鉄筋コンクリート三階建ての公園事務所のように見えるのですが、内側はしっかりと伝来の木組みを残した設計で、一階と二階は能舞台、三階が宗雅さんと紫の住まいになっています。十年ほど前に夫人を亡くした宗雅さんは今年八十歳。同居の血縁は紫=シーラだけですが、今もかくしゃくと現役をつとめる鳳凰流の重鎮宗雅さんを慕うお弟子の出入りは日々繁く、ユカリのほかに宗家の末っ子、まだ中学三年の宗雪も、毎週末にはお祖父さんのお稽古をいただくために、時には泊まりがけでやってくるのでした。
ユカリは、十三歳でミラノからここへ移ってから、ずっと宗雅さんの精神的な薫陶を享けて成長しました。そのときすでに少女のアイデンティティを主張していた風変わりを、宗雅さんはあえて正そうとはせず、公私の別だけ厳しく一線をひいて、そのほかは周囲の相当の非難も受け流して、混血の孫の心の赴くままに育てたのでした。
 ですから宗雅さんは、ユカリを能役者に無理強いすることはなく、ただ仕舞と謡、進退作法のひととおりを身につけさせる程度に留めたのですが、厳しくもまた緩やかな日本の父の態度は、自分の性に対して屈曲を加えた心理状態の少年ユカリにとって仕合せなことでした。
この日、早暁から宗雪たちといっしょに、村雨能楽堂お舞台の拭き清めを済ませたあと、紋付袴の正装を調えていたユカリは、ちょうどまだ舞台前、朝の休憩時間ぴったりに携帯に入った駿男さんからのメールに驚愕し、宗雅さんに平伏して欠礼を請い、衣装を変えて、こちらに飛んできたのでした。

朝早くからゴメンネ。昨夜メグが行方不明と交通事故をいっぺんにやった。事故はものすごく奇妙で、警察も首をひねってます。ぼくにはもちろんわかりません。本人の怪我は骨折、打撲。全治一ヶ月くらいで命に別状はないので心配しないで。でもすごくわけがわかりません。メグの意識はある。麻酔で眠っているけれど、だいたい元気です。君に会いたがってます。どこかで都合つくようだったらお見舞いに来てください。

 と、こんなにもほんとのメールの首尾は一貫してはいず、ちぐはぐで、あわてふためいた駿男さんの様子がはっきりと見える文章でした。
 なぜシンクロしなかった?
 雨の中、メグの入院先へと急遽プジョーを走らせながら、シーラは繰り返し揺さぶられるのでした。信州では、体の一部がつながっているように、メグに何かあると直接シーラの五感が共振したのに、今回の一連に入ってから、そうした相身互いのつながりが、ほとんど感じられない、ということに、シーラは苛立ちました。
(声も聞こえなかった。何故だ)
 雨のせいか道路はところどころで渋滞気味で、病院に着いたのはもう昼前でした。病室は五、六人の大部屋で、白いカーテンで仕切られ、連絡どおり、駿男さんが睡眠不足露わのやつれた顔で付き添っていました。
 点滴につながれ、白い布団を胸元まで掛けて、あちこち包帯だらけで目をつぶったメグは蒼ざめ、小さく見えました。
「寝てるよ。ついさっきまで起きてたけれど、また麻酔効いて眠っちゃった」
 これがシーラへの駿男さんの第一声でした。
それから、
「折ったのは鎖骨、肋骨、左肘。左大腿骨。全治三ヶ月」
 メールでは一ヶ月の怪我だって、とシーラが問い返すこともできないくらい父親は落ち込んでいました。彼女は黙ってうなずき、
「どういう状況だったのか、聞かせていただけますか?」
 うーん、と駿男さんはうなって、シーラにパイプ椅子をすすめ、ベッドサイドに置いてあったエビアン水の1リットルボトルを片手でつかみ、ごくごくと飲みました。
「飲む?」
 たった今直か飲みしたボトルを、無造作にシーラに突き出す風間駿男さんの両眼は充血してまっ赤でした。シーラは拒まずに受け取り、さすがにそのまま口には寄せず、
「話してください」
 と駿男さんの眼を見つめ、できるだけ優しく声を抑えて促しました。
「警察から連絡来たのは、昨夜の十一時くらいだった。ぼくはリビングでテレビ見ながら水割り飲んでた。携帯じゃなく家電話で、メグが鹿香霊園で交通事故に遭ったと言われ、そんなばかな、って叫んだよ。だってシーラちゃん、うちは藤塚だぜ? メグが自分の部屋に入ったのはたしか九時過ぎだった。彼女はその後、出かけていない。部屋から出てきた気配なんかない。リビングにいたから、そんなことがあれば、ぼくはすぐに見咎める。
またユータイリダツ? でも事故にあって大怪我だっていうんだ。ぼくはとりあえずメグの部屋を覗いた。いない。窓もちゃんとしまってる。でもベッドはまだ生暖かかった。ちゃんと寝てたんだ。だとしてもどうやって藤塚から鹿香まで行く? しかも山奥の霊園なんて、徒歩で行ったら夜明けまでかかる。第一霊園なんてメグは知らないはずだ。誰かが連れ出したのか!」
「落ち着いて」
 シーラはペットボトルを駿男さんに渡しました。父親はむんずとつかみ、また喉を鳴らして飲みこむと、即座にシーラに突っ返しました。
「どうやって? ぼくはタクシーを呼んで、とるものもとりあえずここに飛んできた。メグは手術中で会えず、そこに居た警察に、ぼくはパトカーで鹿香霊園まで連れて行かれ、現場を見せてもらった。メグをはねたって相手は週末ドライブの夫婦で、遊びに来た鹿香から都内に帰宅途中だったって。彼らも病院にいて、ぼくといっしょにパトカーに乗った。おかしな感じだった。彼らは平謝りだったけど、おかしな顔つきだった……」
「ええ」
「警察も変だった。娘さんは、この御夫婦にはねられたらしいんですが、なんていう。容疑者に敬語なんか使いやがって、とぼくは激怒した。それに、〈らしい〉ってなんだよ、とぼくはパトカーの中で警官に喰ってかかった。警官は、メグは、相当の重傷なのに、事故現場からかなり遠くで発見されたんですって言うんだ。気を失うほどの骨折や打撲なのに、国道から奥まった墓地のなかに仰向けに倒れていたんだと。夫婦から警察に通報があったのは午後十時前。すぐにかけつけたパトカーと救急車に、ようやくメグが発見されたのは十一時。時差は、その中年夫婦がひいたはずのメグが路面にも路肩にもいなくて、辺りを捜索する手間がかかったからだ、と。この一時間の誤差のために、折れた肋骨が刺さった肝臓からの出血が増えた。それでICU入りになった。命に別状ない。でも、シーラ、この落差、君にわかる? メグは誰かにひきずられた形跡もない。道路の両脇は霊園を包む保護樹林だ。その森をジャンプして、彼女は墓地の一角の芝生の上に落ちた。数百メートルも? 自分で歩けるわけもない。誰かが運んだのか? でもメグをはねたと自首した夫婦は自分たちのほか、そこらを歩いている人間なんて、その時刻誰もいなかったと言う。彼らは動転していた。警察も変だった。ぼくはもっとおかしい。メグは九時前まで藤塚の自宅リビングでぼくとテレビ見てたというと、警察も夫婦もこんぐらがった」
「それからずっとここに?」
「そうだよ」
 駿男さんは両手で顔を覆って、男泣きに泣き出しました。うなだれた駿男さんの襟首から、セーターの下に着ているパジャマの襟が見えました。
「ヤメテクレヨ。タノムカラ」
 シーラは混乱してうちひしがれている彼にかける言葉が見つからず、突っ返されたエビアン水のボトルを、彼の手に握らせると、そっとたちあがり、そのフロアのナースセンターに行き、
「……号室の風間さんのお父さん、興奮して疲れきっていらっしゃいます。休憩室か、簡易ベッドか、何か対応をお願いできますか」
 数人の看護師は顔を見合わせ、眼で肯きあうと、その中の年かさのひとりが弁えた笑顔で、わかりました。できるだけのことをいたします、と応えました。
 シーラはそのまま病院を出て、駿男さんの記憶から読み取った鹿香霊園の現場に向かいました。
 霊園は、海沿いに開けた鹿香旧市街をぐるりと囲む源氏山中腹にあり、国道沿いの自然林の中に昔今のさまざまな墓群が静かに点在しています。由緒はふるく、平安・室町までさかのぼることが出来るそうですが、近年に入ってからは、神仏以外の死者も受け入れ、あたらしく森をひらいた区画には、クリスチャン墓地もありました。
 メグが飛んだのは、そのクリスチャン区画で、赤レンガ敷きの道を数歩入った一帯の、冬水仙の芽吹く黒土や枯芝には昨夜の捜査に踏み荒らされた気配が少しばかり残っていましたが、雨振りの月曜の午後、シーラ以外の人気は途絶え、白い十字架や聖像、墓碑は、それぞれほどよい間をとりながら、霧がかった冬の雨を浴びていました。
 警察の残した目印をたどるまでもなく、メグの仰臥していた芝生からは、シーラは濃厚に気配を、まるで実体の見えない彼女の温度のかたまりがそこに盛り上がり、残っているように感じ取りました。手入れはされているものの、この季節ではさすがに枯れいろの目立つ芝生が覆っているのは、両手をひろげた一メートルほどの天使の立像が守っている小さな外国人のお墓で、聖像の前の長方形の大理石に刻まれた碑銘の一部が古風にラテン語で記されているところから察すると、この死者はカトリックで、かなり古いお墓なのかもしれません。少し離れてたたずむ聖像自体は最近のもののようで、墓碑の大理石に比べると、白いけれども、全体に大量生産された製品独得の、肌理のあらい感触でした。
 シーラは片手に傘を手にしたまま、その場にしゃがみこみ、メグの寝ていた芝生の上にもういっぽうの手を重ねました。血は内出血だけだったのか、なまぐさいものは残っていず、メグの苦悶の記憶も漂ってはいません。
「なぜ、あたしを呼ばなかったの?」
 シーラは、そこにメグが寝ているようにつぶやきました。折れた肋骨は左側か? それが肝臓ではなく、もしも心臓に突き刺さっていたら……いや、心臓でなくても、もっと複雑で深い部分まで貫いていたら…。
(それ以前に即死だよ)
「君のしわざか、レノン」
 シーラは芝生に浮かぶメグのまぼろしから眼を離さずに答えました。探さなくても、レノンがそこに、すぐ近くに出現したことは感じ取っていました。
(ぼくが事故を招いたんじゃない)
 レノンの口ぶりは淡々としていました。シーラの傘に降り注ぐ、ぱらぱら、さらさらとした雨音と同じくらいに、何の感情もこもらず、事実だけを告げていました。シーラはようやく顔をあげ、天使の立像の周囲にぼうっと輝く金いろと青の楕円の輪を眺めました。
(ぼく、今実体がないんだ)
「死んだの?、肉体」
(うん。君たちが帰ったすぐ後に、肺炎でぼくの肉体は力尽きた。といってもメグがぼくを食べちゃった時点で、ぼくはもうミカエルにいなかったからね。かろうじて人口栄養で保たれていた生命力が、急激に失われたのは当たり前なんだ。ぼくも、もうあの植物状態の肉体に未練なんかなかった)
「メグの中にいるのね」
(守護天使。シーラ、メグを惑わしたのは、ここに葬られた死者だよ。正確に言えば、生まれる前に死んでしまった子の魂。百年くらい前だろうね。臨月で死産だった。外国から一時日本に来ていた貿易商の両親は悲しんで、我が子のため異国にお墓を立て、自分たちは数年後に帰国した。それきり、この子を弔うひとはいない。この子は神に召されたんだろうか? わからない。わからないことはないな……死への旅立ちが未完成のまま、この子の魂は迷い、さすらい、無力なまま、獰猛な餓鬼に食い散らされ、ずたずただ。そこでメグを見つけた)
「どうして?」
(愚問だぞ、シーラ。ぼくがメグにひかれたように、君がメグを見つけたように、彼女は素直でまっすぐで、暖かい。それでいて強烈で、それなのに無垢だ。遠くからでも一目でわかる。霊の世界に距離なんてないからなおさらだ)
「迷い霊。すがりついたのね」
(うん。でも、この子はもう赤ん坊でさえなかった。すっかり餓鬼に喰い尽くされ、かすかな残像のようなモノ。風に舞う落ち葉のような、寄りどころを失った悲しさだけが、メグにまつわりつき、彼女は疑うテクニックを知らない無防備だから、まんまとここまで連れ出され、事故に遭った)
「偶然?」
(いや…。餓鬼や迷い霊にうっかりかかわると、どうしたって危険だ。こんなことが起こる。連中は相手を自分と同じ境遇に引き込みたがるし、出なければエネルギーを吸い尽くそうとするから。君、よくわかってるはずだろ。ちゃんとメグに教えろよ。ぼくがいなけりゃ、メグは骨折程度で済むもんか。折れたのが左半身に集中してたのが、ただの偶然だったなんて君が思うんだったら、ほんとの間抜けだ)
 雨の中で、青と金の入り混じった天使の光背は、得意げにぷうっと膨らんで輝きを増しました。石膏の天使のあどけない幼な顔が、その輝きに照らされて、厳かな陰影を帯びるくらいに。
「あたしは…」
 シーラは言いあぐね、雨が降っているのにひどい喉の渇きをおぼえてくちびるを舐めました。そして口紅を塗ってこなかったことに気が付きました。
(このごろ違うって)
 レノンの声は、かすかに尻上がりに皮肉っぽくなりました。
(前みたいじゃないって? 思い通りにメグとコンタクトできないって? 壁があって)
「君のせいか」
 シーラのまなじりが吊りあがりました。
「あたしを弾くのは、レノン、あなたね?
わかった。メグの中にいる君が」
(ぼく、勝手に侵入されるのは好きじゃないんだ)
 レノンはぬけぬけと言い放ちました。光背を帯びた幼天使像は、まるでレノンそのひとのように、周囲の光りの伸縮の加減で、その都度表情を変え、今はシーラを嘲っているかのように、ふっくらした頬と、唇の口角のさかいめの影が際立って上向きに深く見えます。
 ひと呼吸おいて、レノンはさらに言い募りました。
(それに、ぼくヘテロだからね)
 う、といつしか立ち上がったシーラは幼天使像に向かって一歩踏み出しました。
(シーラ、君は女になりたがってるけど、女性じゃない。いや、女性にだって、ほんとはなりたいわけじゃないだろう。男もいやだ、女もいやだ。だけどメグを見る君の眼はどうしたって〈少女〉じゃない。メグにはまだわからないだろ。でもぼくにはわかる。ぼくホモじゃないから、君とシンクロするのはやだね、はっきり言って)
「正直だ」
(メグのおかげだよ)
 レノンの声は、ほんのちょっと潤んだようでした。
(彼女のなかは、すごく居心地いい。こんな大事故になるなんて、ぼくは全然予想してなかった。一世紀も前の迷い霊の影なら、まあ、しばらくそこらへん、中有をひっぱりまわされて、それこそおとぎ話じゃないけれど、キツネかタヌキに化かされた程度で、朝になったら、とんでもない場所で我に返るとか…そんな程度に傍観してたら、いきなりだった。この迷い霊だって、最初からたくらんだわけじゃないだろ。でも、どうしても引き寄せちゃうんだ。メグの強烈なエネルギーが、こうした凄い事態を。ぼくはとっさに車に激突した彼女の衝撃を庇った。そして、アスファルトじゃなく、ここに落としこんだ。路面に叩きつけられたら、全身打撲、内臓破裂で即死か、重度の障害を背負う。もしもぼくがシーラとのシンクロを隔てなかったにせよ、君にはメグを助けられなかったろう)
 そのとおり、とシーラは容赦ないレノンの指摘を、全身にしみわたる雨冷えのように味わいました。
(男であり、女であり…男でもなく女でもなく…君こそ自分勝手だ、シーラ。メグを見つけて彼女のコムニタスをヒーリングに〈善用〉する。それは聞こえはいいけど、要するにただの他力本願じゃないか。タイジが泣きついた今度のケースだって、メグを利用すればかんたんだ、らくらくと解決できる。節さんはメグに眼を付けて寄ってくる。ボケナスタイジに霊能なんてからっきしないけど、純朴でのんきだから、自縄自縛に硬直しかけた苦しい霊魂の仮の宿にはもってこいだろ)
「レノン!」
(何だよ。ありのままを言ってるだけだ。君だって本当のところ、自分の心のありかを捉えられず、ちょいちょいタイジをもてあそんでるじゃないか。それともタイジにリビドーを感じる? ヒョウガとは違った琴線にあなたは触れてくれるのよ、って正直に奴にすがって甘えられるほど、君に巣食ったPTSDはかるくない)
「レノン!」
 シーラは傘を取り落としました。苛立ったとき、利き手で髪をかきあげる癖が思わず出現し、冬の雨を忘れさせました。
 レノンの追及は徹底していました。
(ゾーリンゲンの切れ味はよかったろ? でも君はもっと痛かったよな、え?) 
 シーラの右手が無意識に動き、いつしか手にした蒼白な刃で、天使の顎を下から上に、ざっくりと斬りあげていました。
 絶叫。
 のけぞって倒れる男。
 眼球が飛び出したって?
 瞼が裂けた。
 噴水、どす黒い。プルタブひねる前に缶を揺すればサイダーだって飛び出すよ。ただそれだけだ。人殺しなんてさ。
 入り乱れる足音。廻廊に響くせわしない息づかい。
 押さえつけられたのは誰だ?
 ケイドウミャクがどこかなんて子どもでもわかる。だって猫だって鼠やモグラの首を噛むじゃないか。思うさまいためつけてから、生殺しにしてから、ようやく噛むじゃないか。
 こんなの、たいしたことないよ。
 やめて、と叫ぶのは誰?
 ママじゃない、ママはここにいない。遠くで誰かと何かしていて、ぼくいつもひとり。
 また悲鳴。館じゅうの谺や怒号が亡霊みたいだ。
 とりあえずネムラセロ。
 まだこどもだぞ。それにこの家の長男だ。
 ヒトゴロシ。
 ……。
「殺しちゃいない」
 シーラはつぶやき、だらんと片手を顔から離すと、てのひらにはべったりと血痕が貼りついていました。でも、数度瞬きすると、血の滲みは、霙に混じって周囲の保護樹林から舞い落ちた楓の鮮やかな紅のひとひらに変わりました。
(サイコ・ヒーラーの〈破壊力〉もたいしたものじゃないか? シーラ)
 レノンの声はむしろ穏やかで、起伏がありませんでした。石膏天使の周りを包んだ光背はかき消えて、頭上の森を渡る夕方の風に混じってレノンの問いかけが聞こえます。
 シーラの足元に、迷い霊の墓の上に両手を差し伸べていた天使の左側の片羽根片手が、まるでバーナーで焼ききったような焦げ茶の筋をつけてぱっくりと割れ落ち、粉々に砕けていました。ゾーリンゲンの刃のまぼろしは消えています。
(自力でなんとかしろよ。大事な〈ぼく〉を消耗させるな。肝臓からの大出血だぜ…)
 ざあっと一瞬、風に揺さぶられたどこかの大木からの雫が、雨脚に混じってシーラを襲い、シーラは頬に流れる雨だれを、楓の落ち葉を握ったままの拳でぬぐうと、その拳をペロリと舐め、不敵に言い返しました。
「メグは君じゃない」
 ひとりでやるさ、自分が男だろうと女だろうと知ったことか。
 傘をひろい、水からあがった獣のように、首を二、三度左右に振って、浴びせられた雫をはらいのけると、シーラは天使の墓標から立ち去りました。

 
こわれそうなくらい
 ぼくは君が好き
 君の前でぼくは息をとめて
 ただ見つめてる いつも
 こわれそう でも
 ぼくが砕けても
 ひとつひとつの かけら
 ぜんぶ君しかいないから
 君のまわり
 ぼくの想いでいっぱいにできる

 さびしいときも
 哀しみに沈むときも くだけた
 ぼくのどれかが
 君のそばにあるのなら
 君の心を支え なぐさめ
 生きる何度目かの一歩になるなら
 ぼくは 何度でも 自分を砕く
 愛していると
 叫びたいけど
 君はきっと
 信じない
 信じて また
 傷つくことをこわがってる
 だから 何度でも
 ぼくは自分のすべてを
 君に明かすよ
 かたくなな君は自分の
 心のありか 自分にさえ閉ざして
 もろい嘘を守ってるね
 
 ぼくにはわかる
 だってぼくは砕けるのを
 おそれないから
 砕けたって
 その数だけ君への想いの
 数を増して
 砕ければ砕けるほど
 ぼくの想いはスーパーノヴァ
 輝きで君の哀しみ包む
 君の嘘も 君の偽りも
 ぜんぶ 輝きにかえて
 何度でも
 いつまでも
 
君は自分の心のありか
 自分にさえ閉ざして
 もろい明日を待ってる
 何も見えない自分に
 嘘をついて
 でも
 そのままでいい
 ぼくは君が好き
 正直になんてならなくていい
 君が好きなら
 君の嘘だって好きだ
 
 ぜんぶ 輝きに変えて
 何度でも
 いつまでも
 ぼくは
 こわれそうな心 砕いて
 君を見つめてる
 ぼくはスーパーノヴァ
 息をとめて 君を見つめてる
 呼吸するのも惜しいほど
 君が好きだから
 何度でも砕けて スーパーノヴァ


港が見える丘公園近くの瀟洒なブティックの並ぶレンガ敷きの通りは、巷では湘南セレブ御用達ショッピング街などとも呼ばれていて、クリスマスシーズンに入ったこの季節はなおのこと、深夜まで、いたるところに飾り付けられたデコレーションイルミがきららかです。どこのショーウィンドーにも、銀色や白の雪景色、トナカイ、サンタクロース、天使などの可愛らしい吹きつけが目立ちました。
 桜木町駅前でハトとタイジをひろってシーラはこの街の一角に乗りつけ、表通りからひとつ奥まったバールに案内しました。
「そこの階段下りてください。〈ガレリアヴァンカ〉ってある。あたしは車を停めてくるから」
「ヴァンカ? いい名前ね」
「うん。ハトさんなら読んでるでしょ。コレット」
「すっかり忘れてたけど」
 地下につながる細長くひらたいベージュいろの石段には、きざはしのひとつひとつに暖かい橙色の小さいランプが灯っていました。周囲の壁も階段と同じ肌色。ランプは、磨りガラスの卵に包まれた、マッチの火くらいのほのかな足元灯ですが、上からの照明を抑えて、仄闇を導くこの灯りを一歩一歩ゆっくりとたどるだけで、冬の雨のせいだけではなく、いつからか鎖された心のどこかがほっとなごんでゆくような気持ちになりました。
 ヴァンカは小さいバールでした。奥行きが深く、カウンター席が店のほとんど。他には向かい合うふたり掛けのテーブルが、申し訳程度にひとつ。カウンターには白いバーコートに赤いタイを結んだ、五十年配の姿勢のよいオーナーが、にこやかにひとり。
 ハトさんは物怖じせずに、このオーナーにふたりがけのテーブル席にもうひとつ椅子をお願いし、ほどなくシーラが現れると、オーナーはハトやタイジに向けた来客用の微笑よりも、だいぶ深い笑顔を浮かべました。でも言葉は交わしません。シーラもまた、長い睫毛ごしに、静かな礼を返して、ハトとタイジの前に座りました。
「そういうクラシックなワンピース、あなたが着るとは思わなかったけど、似合うわ」
 オーダーの前にハトさんが口をきりました。
ほそい畝の入ったサーモンピンクの地に小花柄、広めの襟ぐりと袖口、裾に白いこまかいフリルのついた長めの着丈のワンピース。首には黒いシルクサテンのリボンチョーカーを結び、その真ん中にゴールデンローズがひとつ揺れていました。少女趣味な服装に合わせたのか、めずらしく髪を横一本の三つ編みにして、片方の肩から垂らしています。
「こどもっぽい?」
「ガーリッシュっていうの? シーラさん、年のわりにはシロクロはっきりしたシンプルな大人っぽいものが多い感じだったから」
 シーラは少し眉をあげ、ハトの衣装や顔つきを眺めましたが、誉められたから相手を誉め返す、ということはしませんでした。
「ハト先生、元気そうね、でもないか」
「どっちなのよ」
 ハトは笑い出しました。タイジはつんぼさじきにされた気がして、まだ残る酔いの勢いで口をはさみ、
「注文どうするの?」
「ここ、カクテル美味しそう」
 ハトは相変わらず、主にシーラを向いて尋ねました。
「ええ」
「じゃローズカクテル。あたし運転しないから」
 ふうん、と吐息のように同時につぶやいたのはシーラと、カウンターの向こう側でグラスを拭いていたオーナーでした。ハトはきらりと目を光らせて、
「地方では、たぶんなかなか飲めない」
「ハト先生、来年ミカエルから九州に転勤するんだってさ」
 どうやらちょっとセレブっぽいカクテルの話題についてゆけなくて、タイジは拗ねた気分になりかけます。
「え、またどうして」
「決まったわけじゃないの」
 ハトさんは言葉すくなにおさめ、
「それよりも、安宅礼音さん、亡くなったのよ」
「……」
 シーラは瞬きを停めてハトの眼を覗き、また視線を逸らせました。
(知ってるの?)
 すぐさまハトの驚きがシーラの胸のまんなかに飛び込んできました。
「え、あの子、死んだんだ。でもあの状態じゃ、本人も苦しかっただろうから」
 とタイジは率直に驚き、そんな彼に合わせてシーラは、
「そうだろうと、思ったの」
 とさりげなくうわべをつくろい、続けて
「今日遅くなったのは、メグが交通事故で」
 と話を逸らせました。
「命に別状はないけれど、かなり重傷。パパから連絡もらって、あたしぎりぎりまで病院にいたのよ。それで遅くなった」
 シーラは、それからこのふたりにわかりやすくメグの事故の経緯を説明しました。それは鹿香霊園を後にしたあと、プジョーの中で、またメグの病室で、繰り返し練り上げたつじつま合せでした。
(ハトがあたしの中を強引に覗くなら嘘はじきにばれるけれど。彼女はたぶんそうしない)
 とシーラは思いました。そして、今、ハトはガレリアヴァンカの快いほの灯りのなかで、陰影の濃いシーラの表情を見つめながら、いつもどおり澄んだ視線をすこしも曇らせることなく、嘘半分のシーラの言葉を黙って聴き、
「その状況で、その程度の怪我で済んだのは奇跡ね」
 とだけつぶやきました。
「天使が…」
 とうっかり口をついて出た言葉に、シーラは唇を噛みました。
「待降節は、天使がそこらじゅうを飛びまわるわ」
 ハトは、丹念にシェイクされた極上のカクテルを、まるでジュースのようにごくんと口に含み、
「よい魂と悪い魂を仕分けて、天の父に報告するのよ。オスカー・ワイルド」
「幸福の王子でしょ。それぐらいならぼくもわかる」
「ツバメの心理に、タイジ君共感する?」
「ちょっ……そりゃハトさんのほうでしょ」
 口をすべらせた瞬間タイジはまずった、と我にかえりましたが、ハトさんは端正な横顔のシルエットをちっとも動かさず、
「ローズカクテル、もうひとついただけます?」
 とダンディなオーナーバーテンダーに声をかけました。
 それから話題は気ままに流れて、ごく自然な感じでヴァンカでの時間はまとまり、まだ今夜のうちにハトを横浜の実家近くまで送りました。彼女の両親はともに開業医で、お兄さんが実家の後を継いでいるそうです。
「ミネさんのアパートに着くころ、もう明日になってる」
「そんなに飲んでないから、平気だよ」
「免許とらないの?」
「持ってますよ。だけど車買うほど金ないの、ぼく」
「あっさり言うね。イヤミ?」
「どうして。シーラさんはシーラさんじゃない。おかげで、俺君の横に座れる」
「あたしだって、親のスネばっかりかじってるわけじゃないよ」
「だろうね。君なら、たぶん何か自分で金稼ぎしてるんだろうって思う。だいたいサイコヒーラーで儲けてるわけじゃないでしょ」
「そうね、だいたいね」
「聞いていい?」
「また改まって、何よ」
 雨はもうほとんど止んでいました。ふとタイジは、プジョーから降りたハトさんが別れ際に雨傘を持っていかなかったような気がして、助手席のシートベルトの端を探ると、案の定ワインレッドのきれいな細身の傘が残されていました。
「あれ、ハト先生、傘置いてった」
「ミネさんへのプレゼントでしょ」
「女物だよ。シーラさんのほうが似合う」
「でもミネさん持ってって」
 なにか変だな、とタイジは思いました。
「聞いていいって聞かれて、やだ、っていったら聞くのやめるの? その程度の疑問なわけ、ミネさん」
 畳みかけてきたのはシーラでした。
「うん。聴きたいこといろいろあるよ。知りたいことも」
「話せることは話すし、やなことは話さない。それでいいでしょ」
「……メグさん、もしかして瀕死?」
「いいえ。それはほんと。三ヶ月くらい」
「ソゴウさんのケースは」
「あたしひとりで片付ける。メグは今安静第一だから」
「木曜日、来る?」
「それは未定。戦略考えないと。ああ、戦うんじゃないわ。癒す方法」
 しゃべりながら、シーラは自分の言葉がいつになく空疎な気がしていました。胸に穴があいたような気持ち。なぜ? ……。
 鹿香霊園でずぶ濡れになった衣装を、病院の地下駐車場で着替えたとき、シーラはめったに着ない柔らかい印象のありふれたワンピースを選んだのですが、それがメグに似合いそうな可愛らしいものだったからかもしれないのでした。もちろんスミレ・デュランテのブランド品ではありません。いつ、どうしてどこで、こんなドレスワンピを自分は買い込んだんだろう、とシーラは我ながら不思議に思いました。
 君は女じゃない、とレノンに突きつけられて、シーラは反抗しませんでした。傷つきもしませんでした。だいたい千手家ではユカリで暮らすほうが多いかもしれないのです。義父の宗雅さんは、孫の行状を、非礼でないかぎり、笑って眺めていました。いずれ落ち着くところに落ち着くだろう、というまなざしは、懐深くもあり、ひやりと厳しいものを含んでいました。信頼しつつ、甘やかさない。
宗雅さんのユカリへの接し方は一貫しています。
 でも、ユカリだって、自分をすっかりほどいて(さらけだすのではなく)甘えたい瞬間だってあるのでした。
 レノンは、シーラ=ユカリの心の奥に隠したそんな揺らぎに鋭く爪をたて、「タイジに…」と突きつけてきたのですが、そこまでシーラを責めつけなければいられないほど、レノンもまた孤独か、と洞察するシーラでした。
(君はそんなにメグが好きか、レノン?)
(そして、ぼくはメグをこれからどうするつもりだ。ぼくに会わないほうが、あの子は平和だった)
 あたし、とは言いませんでした。いまさら離れてはゆけない。メグの中に居座ってしまったレノンをそのままほっといたら、彼はメグをどうするだろう。……。
 黙ってしまったシーラを、何も知らないタイジは、
(こないだ乱暴しかけたから、警戒されてるかな) 
 と、ごく健康的に気がねしていました。タイジはちょっと咳こみました。厳粛な音楽会の演奏のあいまに、客席でかならず漏れる息ぬきの咳払いみたいに、彼はかるく心臓を抑えて息を吐き、
「シーラさん、なんでサイコヒーラーになったの?」
「癒してくれって、いろんなモノが寄ってくる。それが見えるから」
「無視できないの? 気づかないフリ」
「もう無理だわ」
「いつからそうなったの」
 赤信号で、プジョーは荒っぽく急停車し、ベルトをかけていたのにタイジはガクンと前につんのめりました。
「ミネさん、あたしととことん一緒に行く勇気ある?」
「え?」
「覚悟っていうか」
「カクゴ」
「今あなたがあたしに聞いてることって、そのくらいの気力要る疑問よ」
 信号が変わって、今度はなめらかにプジョーは走り出しました。
「この話はやめようよ。ミネさん。ひとりひとりは惑星ほども遠く離れてる。あたしは言いたくない。覚えていない、自分の心の最初に何が起こったのか。ほんとうにね、記憶がない。でもすこし想い出す事もできる。ロマンティックに言えば、現実に適応できない時期があって、夢ばかり見てた。悪夢もあった。
その中に、あるとき天使が現れた。夢のお告げ。彼か彼女かわからないけど、きれいな天使。彼女がこうしなさいと、ぼく(あたし)に指し示したって、言っておく」
「メルヘン」
「なんだっていいわよ。それから、あたしは自分の周囲に寄ってくる精霊やら自縛霊やらに脅えることがなくなった」
 やばいな、俺、この子を追い込んでるな、とタイジは真底後悔しました。シーラの運転は安定していましたが、ひしひしとつらい空気がタイジの肌につたわってくるのでした。
(あー、俺ってバカだ。どうすればいい)
 こんなに彼女のこと好きなのに、俺この子のこともしかして、傷つけた?
 タイジは心の中で鈍感な自分をぶん殴りたい気持ちになり……それから、
「天使になりたかったの? 〈ぼく〉って」
 ふいにタイジの声音が、おっとりとまろやかに変化しました。
 シーラはぎょっとして運転中なのに横を向き、タイジを凝視しました。
 タイジはほのかな……人生の機微を弁えた大人の女性の微笑を浮かべ、かけていない鼻眼鏡を中指でかるく持ち上げる仕草をしながら、
「危ないわ。ちゃんと運転してくださいな。あたしは静かにしていますから。何も悪さはしませんよ。この男の子にも、あなたにも」
「節さん」
「はい」
「ずっとそこにいたんですか?」
「そうよ。ミネモト君のなか」
 タイジは……節さんは、肩を小さくすぼめて、ふうっと息を吐きました。膝頭をちんまりと合せ、膝の上で両手を祈るように組み合わせてささやきました。
「このひとの体を借りると、言葉がなめらかに進むみたい」
「ええ、普通の女性みたい。上品な奥様」
「よしてちょうだい。あたしそれほど優雅じゃありませんよ」
「亡くなったのはいつでしたっけ?」
「一年と半年前。でも二年になるのかしら」
「ずっと迷って?」
「いいえ。迷ってなんかいません。迷えたらいっそ気楽なんだけれど」
 節さんの口調は哀愁を帯びました。タイジの声で聞かされる節さんのメランコリーでした。まったく穏やかな、相当に嗜みも配慮もあることが明白な、女性の沈んだ嘆きのつぶやきでした。
「節さん、どうなさりたいんです?」
 シーラは尋ねました。
「いつまでもミネさんに宿っているわけじゃないでしょう。御主人にうらみでもあるなら、もっとすさまじい事態になっている、とあたしは思います。でもそうじゃない」
「少しは恨んでるわよ。でもあきらめてあの人に寄り添い続けたのだし、後悔もないし、ほどほど幸せでした」
「じゃあ……御主人が心配で」
「そうね。たぶんそうなんでしょう。あたしは自分の体が死んでしまったことはわかっているの。火葬にされて、骨になって納骨されて……あたしはぼんやりとそれを見ていた。どこかに誰かがあたしをひっぱっていく気がしたのだけれど、あたしはいやでした。離れたくないわ」
「ええ」
「だって、夫は認知症なのよ。どんどん進行していく。最後には抜け殻みたいになって……シーラ、あたしはね、でも健康で活躍していたころより、彼の病気が始まってからのほうが、もしかしたらこのひとの傍にいる時間は、妻として確かなものだったかもと思うのよ」
「確かな?」
「詩人として、それから短大の教員として忙しかったころ、夫はあたしをちゃんと見つめてくれたこと、あったかしら。あたしたちはお見合いで一緒になったの。喧嘩らしい喧嘩もせず、夫は相応に家庭人の勤めを守っていたけれど、本当に心の通う会話をしたことなんてなかったと思う。彼は彼の取り巻きや……たぶん隠れた女性もいたんでしょ。そんなひとたちとの交友のほうを、私との時間よりずっと楽しんでいた。いろんなごたごたを家庭に持ちこむことはいっさいなかったから、あたしも目をつぶっていましたよ。でも女ひととおりに嫉妬もあったし、怒りもあった」
「淡々とおっしゃいますね」
「鈍感ね、その言い方」
 節さんはまた鼻眼鏡を中指でもちあげる癖を見せて、シーラを見ました。すこしうつむき加減に、斜めの顔の角度より、眼だけ動かして横を見上げる仕草。両手は膝上で揃えて指先を組み、落ち着かなげに緩やかに握ったりひらいたりしています。
「あたしは控えめに言っているのよ。言葉で言い表せる範囲なんて、人生の、人の心のほんの一部でしかないわ」
「……そうですね」
「病気になってから…あたしは夫を全部自分のものにした、と思った。そう思えたわ。認知だろうと何だろうとよかったの。あたしがいなければ、この人は生きてゆけない。そういうソゴウのほうがいい、と」
「でも、あなたのほうが御主人よりも早く」
「ええ。悲しかったわ。死ぬよりも悲しかった。シーラ、あたしはほんとに夫が好きだったのよ。でも、夫に対して生前それを伝えることもあたしはしなかった。口惜しかったから」
「……今も?」
「口惜しいかって? こんなに失認が進んでしまったひとに口惜しさを感じるのは無理だわ。少なくとも、あたしにはこの半病人をいためつけることはできません。でも、だからこそあたしは夫の傍から離れられないの」
「傍にいたい?」
「ええ、夫が死ぬまで」
 節さんの口調はきっぱりと、そして熱を帯びました。聞きながらシーラはふと、雨雲の吹き払われた眼の前の夜空のどこかに……あちこちに、ほのかに揺れる星粒を見つけました。木枯しにあらかた葉っぱを吹き散らされた街路樹の枝が、ところどころ不規則に大きく揺らいでいます。一方向ではなく乱雑な感じで、たぶん枝と枝とがぴしぴしと重なり響きながら、風を受けているのでしょう。それは大きな低気圧とか、台風とかが過ぎ去ったあと、街に取り残された〈風のこどもたち〉が、名残惜しげに樹木にまたがったり、ぶらさがったりして気ままに道草して遊んでいる感じでした。
でも、シーラはまだ風の精霊に出会ったことはありません。霊魂は草木には宿りやすいらしく、メグの母親の安美さんが柳の妖精になったように、ある性質の人の魂は植物と同化しやすいものを持っているのでした。
シーラはまた、鳳凰家に入って、能楽ひととおりの素養を身に付けたのですが、自分の周囲に覗き見る異界と、伝統芸能の表現する幻想とが一続きであることに、むしろ驚いたくらいでした。能の世界では、死者は往々にして菖蒲、桜、柳、藤、梅……さまざまな植物の精霊となって、夢幻のうちに現れるのでした。
(そういえば、星や月の精霊にも会ったことはないな。能にもない……)
 すぐ傍に出現した節さんの生霊が、あまりにおっとりしているので、シーラはふと緊張を忘れ、険しさを忘れ、心はむしろ緩んで雨後の夜空へ昇ってゆくような錯覚にとらわれました。
「あなた、あぶないわ」
 タイジ=節さんの暖かい手が、シーラのハンドルを握った手にそっと重なり、シーラは我にかえりました。
「はい。御主人の傍にいたい……それがあなたの望みなのね」
「そうよ。でも自縛霊。このひとの認知が進んでやがては廃人になってしまうのと、きっと同じ速度であたしは、魂の弾力を失い、かたくなに、こわばって、感情の潤いを失い、自縛霊となり、自分が誰かさえ思い出せない未練と執着のかたまりに…それから挙句のはてには餓鬼道に堕ちてしまいそうなの」
「そのとおりよ。残酷だけれど。このままあなたが成仏せずにこの世にとどまるなら、いずれは」
「だから、そこをどうにかして欲しいの」
「と言われても……植物に宿るくらいしか」
「ときどき庭の百日紅に腰掛けて、夫を見ていたわ。でもだめなのね。あたし、ヘルパーさんだとわかっていても、誰か女性が夫の体に触れると思うと、何ていうのかしら、魂が荒々しくなって、植物の静けさを保てないの。長く樹のなかにいられないのよ」
「不思議です。こうしてお話している節さんは、あたしの知り合いの中でもまれなくらい穏やかな、お名前のとおり節度のある方なのに」
 ふふ、と節さんはタイジの声で口をすぼめて笑いました。かるく自嘲の気配が、シーラには感じられました。
「節度や穏やかさ、というのは生の感情を抑圧することでしょう? 人間誰しも心ひそかに噴き上げる激しさを持っているわ。それこそが生命だもの。あたしは生きている間、自分を抑えすぎたかもしれないの。でも、それは夫に対してだけじゃなく、たぶん、持って生まれた自分自身の激しさに対して」
「別な生き方がなさりたかったの?」
 節さんは少し黙り、優しい眼をしてシーラを見つめました。
「ああ、あなたと生きているうちに出会って、親友になれたらよかったのにね。うれしいわ。そんな風に思ってくれて」
 それから、
「あたしはあたしなりの人生を全うしたの。別な生き方など考えられない。だけど植物に弾かれるほどの激しさを持っているから、死にきれずに、こうして夫に未練が残り、親切なヘルパーさんたちにまで情けない仕打ちを、ついしてしまうんだわね」
 傍に、いたいの……
 一番最後のほのかな呟きは、深い吐息と同時でした。
「……よ」
 タイジの、うつむいたままの横顔からこぼれた言葉をシーラは節さんの声に聴き重ねました。が、もういちど彼は顔をあげ、彼女のほうを向いてきっぱりと、
「俺、君の傍にいたい。いつまでも、ずっと。
君が何者でどこから来たのか、何をしたいのか、心がどこにあるのか、正直全然わかんない。いやわからないことが多い。でも、とことん来い、っていうんだったら行く。ヒョウガと殺し合いしたっていい」
 ここまでいっきに言ってしまい、こらえかねたように一息吐いてから、タイジは絞りました。
「抱きたいよ」
 タイジの意識には、節さんに憑依されていた時間がまるで存在しなかったのでした。
(知覚できないものは存在しないんだ。節さんはまたタイジの奥深くに去った。あたしに自分の本音を告げて)
 そして今、タイジもまたシーラに迫ろうとしているのでした。いえ、迫っていました。
 シーラは、節さんの出現と消失、そしてタイジの吐露を、路面の傍らを絶えず過ぎてゆく、すれ違う対向車線の車のヘッドライトの軌跡のように、耳に並べていました。
「あたしを抱きたい?」
「ああ」
「それで気がすむ?」
「またそれかよ。シーラさん、俺に自分と一緒に最後まで来れるかって聴いたろう。ぐずぐず能書きたれるのやだよ。君の傍にいて、君がぼろぼろになったときでも、俺は君の傍にいたい。君がそうして欲しいって望むならの話だ。君を抱きたいってのは、それと別だろ? 同じだなんて言うんだったら、ヒョウガとやり合う前に、君を」
「コロス?」
 ぐっとタイジは返事に詰まりました。ふ、とシーラは微笑を含んで小首をかしげ、タイジを横目に見て、
「優しいね」
「アホぬかせ。俺そんなにお人好しじゃないぜ。君がその程度の女だったら、好きにならない」
 と言うのはもちろん苦し紛れの嘘でした。
 シーラはまたガクンと信号直前で急停車し、タイジを前のめりに脅したあと、またなめらかに発進すると、ごく自然な声で、
「ミネさんち、もうそろそろ着くよ。たぶんこの辺でしょ。今夜ひとり?」
「そうだよ」
「じゃ、行く」
「え」
「あなたの部屋に」
 東京と神奈川のさかいめに位置するタイジの住む町まで、さしたる道路混雑もなく、プジョーは順調に流れに乗り、今夜ぎりぎりにタイジのアパート近くに到着しそうです。
 タイジはシーラの返答に気圧されて、呆然としてしまいました。
(来るって? 俺の部屋に? 今夜? これから? マジかよ。マジだ。こいつそんな嘘つく女じゃない)
 ここから先、車停められるとこ、どこかある? と尋ねられてタイジがあわてて窓から外を眺めると、いつのまにかプジョーは国道から逸れ、見慣れた自分のアパート周辺の景色がゆっくりと窓外を動いていました。
「そこのお宮さんの脇に、空き地ある。ほんとはまずいけど、結構みんなやってるから、大丈夫だよ」
 赤い鳥居のこじんまりとした稲荷の社の裏側に、たぶん宮の森だったところをつぶして、何かの建設予定地になっているのでしょう。民家に囲まれてかなり広い更地があり、プジョーが入ったときは、何台か似たような違法駐車が泊まっていました。みんな県外ナンバーです。
駐車スペースは、たっぷりありました。シーラは無遠慮に車を真正面に乗り入れ、いったん停車しました。
「ミネさん、あたしのどこが好き?」
 ハンドルにシーラは上半身を預け、正面の窓ガラス越しに、今はもうすっかり雨雲の消え去り、オリオン座の堂々と輝く冬の夜空を喉を反らすように見上げながら尋ねました。
「顔」
 タイジはまっすぐ、迷いなく即答しました。
「見たことないくらい、君はきれいだもん。心がどうしたなんてウザイリクツこねない。一目ぼれだった」
 いい奴だ、とシーラは思いました。
「それなのに、あたしがボロボロになってもあたしを好きだって断言できるんだ」
「そうだよ。きっとこれから先、君はどんなに崩れても…って言うのは変だけど、どう言ったらわかんないけど、年をとろうが傷つこうが、誰よりきれいだよ。俺ずっと好きだ」
 シーラは黙って車を降りました。タイジも急いで降り立ち、シーラの傍に、ごく自然に近寄りました。なぜか心臓は静かでした。ここに街灯のあかりはなく、頭上には月のない星影だけ。少し離れて宮の森のうすあかい、ふるぼけた常夜灯が、小さく残った木の間ごしにほのめいています。
 シーラはコートを着ていませんでした。薄手のドレスワンピースをさらりと着て、ゆるい北風がその裾を、ほそい膝がしらまで吹きあげています。
(覚悟ってこういうことなんだな)
 とタイジは直感しました。俺、こいつのためなら死ねるって。今すぐにでも。
「シーラ、これ着て」
 タイジは自分の羽織っていたダウンを脱ぐと、シーラの肩にかけようとしました。シーラは差し出されたタイジの手の上に自分のてのひらをそっと乗せました。その手のつめたさに、タイジは自分の手の熱さ……汗ばむほどの熱さを自覚し、なぜだかわかりませんが、その瞬間アクセルかけたみたいに心臓が早鐘を打ち始めました。
 汗ばんだ相手の手を、いきなりわしづかみにしたのはシーラのほうでした。ぐい、との相手の胸にひきよせられ、タイジは反射的に倒れかかった上体を支えようと足を踏ん張ったのですが、驚いたことにシーラの手の力に抗うことができず、どしんとまともに顔から華奢な胸にぶつかり、かあっと逆上しました。
「何だよっ」
 シーラは相変わらず無言で、タイジの手を離さず、もういっぽうの手で襟ぐりをおしひろげると、握ったタイジの手を、そのまま自分の左胸に導きました。
「わたしの心臓」
 ふと、シーラの脳裏に、レノンの心臓を食べ始めた……食べていたメグの姿がよぎりました。あなたの心臓、あなたの心、だったっけ?
 シーラの眼は、タイジの顔が見下ろせる高さでした。
(タカビーだけど、ユルセ、ミネさん)
「好きだよ」
 タイジの瞳孔がめいっぱい見開かれ、今耳で聞いたシーラの囁きと、自分の右手が確かめているシーラの胸の感触の驚愕の間で、宙吊りになっていました。
 シーラが言いました。
「心から好きだ、ミネさん」
「嘘つけ」
 タイジはやっとのことで言い返す台詞を見つけました。
「平常パルスだぞ。ほんのちょっともときめいてないじゃないか」
「だいじなときに、ハートはクールだ」
「よせよ。シーラさん。マジきつい。こんなことってあるか」
 シーラがタイジの手から自分のてのひらを離しても、タイジの手はなおシーラの胸の上から動きませんでした。すこし震えて、タイジは、
「カンケーないよ(ほんとか?)君が」
「バイ」
 つっとシーラは体をよじりタイジの手を体から離しました。そしてすらりと高い半身をかるくかがめて、タイジの片頬、耳たぶの下のやわらかい部分に唇を押し当て、
「バイバイ」
 とん、とタイジの体をかるくおしのけ、シーラはプジョーにすべりこみました。タイジは腑抜けのようにシーラの匂いを風に嗅ぎ、
その左胸に触れていた手に残された、一枚の柔らかな絹のハンカチを眺めました。夜目にもあざやかな紅色で、縁や四隅に手の込んだこまかな刺繍のあるちいさなチーフでした。
 タイジが手にしたハンカチから顔をあげると、もうプジョーは視界から消えていました。発進音も、さよならの挨拶も聞こえず。……でも、それはたぶん、タイジの眼も耳も、なにも聞こえず、見えなくなった数瞬の出来事だったからなのでした。
 タイジはハンカチを握りしめて、鼓膜の遠くを流れてゆく風のどこかにシーラの奔り去る音をたどろうとしながらつぶやきました。
(バイ、だって? アホが。それでもアタシのこと好きかって訊いてくれ)
 洒落になんない、とタイジはハンカチをまるめ、携帯をしまった胸ポケットに、無理やり押し込みました。

オカリナ・シーズン  5 寄り添えば淡雪

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 あたし、喰い荒らされてるの、助けて……
小さい片手がベッドの下から、死にかけた白い蛾のようにもがきながらはたはたと伸びてきて、寝ているメグの掛け布団の端をぎゅっと握りしめました。メグは目をつぶってベッドに横たわっていますが、眠りながらも、半分は目覚めていることがわかっていました。
目をつぶっているのに、誰の一部なのか本体の見えないつるつるした小さな手だけが、しきりにベッドのレールや掛け布団のあちこちを探っている様子が、はっきり見えるのです。手首から向こう側は、べったりした闇。メグの部屋の、ベッド以外のいろんな家具はその闇に塗りこめられて何も見えません。
 片手首は羽根布団の上を、さわさわと五本の指をこまかく動かしながらすり寄ると、メグの胸の上にたどり着きました。胸の上で手はてのひらをメグの顔のほうにむけてたちあがり、中指だけ前のほうにくにゃりと折れ、まるでその先端に目がついているかのように、メグの寝顔を、かるく左右に揺れながら覗き込んで来ました。
 メグの背筋やうなじ、こめかみには、いつのまにかじっとりと汗が滲んでいます。
(コワイ? こわくない……この手、何?
こわくない、気味悪い。喰われるって誰に、誰が? 怖い、いや、来ないで。動けない。動かないほうがいい? それとも逃げ出す?
この手は餓鬼なのかな。それはレノンが退治してくれたんじゃなかったっけ)
 レノンの声は聞こえません。放り出されたような気がしました。
(夢なのかな)
 レノンがメグの力を使って燃やしてしまった蛆どものどろどろした情景が、ひどいショックだったので、このひとりぼっちでさまよう手首くらいなら、恐怖に押さえつけられて金縛りになるほどではなく、メグは闇のなかで意識して瞼をひらき、肘をついてそっと上半身を起こすと、鼻先ににじり寄ってきた幼児のような手を見つめました。
 フラワーリボン模様のキルティング布団の上のほうに這い上がった小さい手は、メグが体をもちあげたので、すすす…と滑って下に落ち、メグの膝の上あたりでとまると、がっかりしたように指をぎゅっと縮め、握りこぶしのかたちになりました。
「あ、ころんじゃった」
 頼りない手の姿が、メグはなんだか気の毒になり、その小さい手をつまむと、自分のてのひらに乗せて、話しかけました。
「あなた、手しかないの?」
(ほかはうまく動かせないから、手だけで来たの)
 小さい手は、メグのてのひらに載せてもらうと、ほっとしたように拳の緊張を緩めて指をひろげ、小指側を下にして、コロンと横向きになりました。
「どこから?」
(それもよくわからない)
「誰の手?」
(迷子なの)
「どうしてここに来たの?」
(灯りが見えた……感じ取れたから。ここにくれば、なんとかしてもらえそう、と思って来たの)
「灯りって?」
(あなた、明るいの、すごく。暗闇の中であたし、動けなくなりそうだった。後ろも前も右も左もわからない。どこへ行ったらいいかわからない。どのくらい時間が過ぎていくのかも感じ取れない。もしかしたらずいぶん長いことぼんやりしていたのかもしれない。寒いなあ、と思っていたら、突然、ふっとあなたの姿が見えて、そこが暖かそうだから)
「片手しか来ないのはなぜ?」
(わからない。他の部分は動けない)
 横になった手の指それぞれが、メグの頭の中に聞こえる声といっしょに微妙な動きをするのでした。メグはてのひらの上のモノをつくづくと見つめました。全体にしなやかで、作りものめいた不自然な固さはなく、あまり大きいとは言えないメグの手にすっぽりとおさまるくらいですから、人にしては小さくて、でも指や爪などしっかりと成長した大人の整いを備えています。
(ねえ、いっしょに来てよ)
 突然、小さい手はメグのてのひらの上でひょいとたちあがるとメグの人差し指をつかみ、 
虚空の中に浮かんで、どこかにひっぱるような力を加えてきました。まるで仔猫か仔犬がじゃれかかって、メグの指をくわえて顎を振るように、ちいさな手首はメグの人差し指につかまって、左右に揺すり、おいでおいでのジェスチュアをするのでした。
 小さい手には全然腕力がないので、メグはちっとも無理やりな感じを受けず、最初は少しばかり感じていた怖さも消えて、
「どこへ、どう行けばいいの?」
 自分からベッドを降りて、小さい手のひっぱる方へ歩き始めました。
(こっち……こっち)
 メグはふわふわと人指し指につかまった手のなすがまま、真闇に入ってゆきました。小さい手は、メグの人指し指を握りながら、時折中指をかすかにもちあげ、メグのほうを向いて、メグの様子を窺っているかのようです。
メグが抵抗せずに、いっしょに素直に歩いてくれるので、指たちは、メグの手の先で、さわわ…とうれしそうに五本指をさざなみのようにひらめかしました。
 こっち、こっち……
 闇の中を寒さも眠気も感じないまま、メグ
はしばらく歩き続けました。
「まだ?」
(もうすこしね)
 甘えかかる手の声は、すこし強くなったようです。もうすこし、もうすこしね、すぐ、そこね……
 ぱあん、といきなりメグの体が空に弾かれ、自動車の急ブレーキの音、眼にまばゆいライトが闇を真っ二つに引き裂きました。
 あ、とメグは路線に突っ込んできた車両の向こう側に、仰向けに飛ぶ自分の体を、すこし離れた中空から見下ろしました。全身の衝撃、次の瞬間、無造作に放り出された抱き人形みたいに、メグはアスファルトにどさっと落ちました。 
落ちた途端に、メグの視覚は肉体にもどって、地面から夜空を見上げると、自分をここへだまして連れて来た、華奢な手首が五本指をひろげて宙に浮かび、てのひらをこちらに傾け、星の瞬きのようにちらちらと指を動かしていました。じきにそれは闇に呑まれ、同時にメグの意識も消えてゆきました。


素直に
こころやさしく 疲れて
  眠る あなたの耳に
  雨音は
  幸せの数だけ 響いて
  あたしのなかで 砕いてゆく
  凍った涙は
  あなたに 触れるとき
  いつしか淡い雪のひとひら

  何のために こころ固く
  体すくめて
  孤独 さらすの?
  どこにも
  行き場がないとき
  世界があなたに背いても
  あたしはあなたのそばにいる
 
  雨音の中で
  こころゆるめて 疲れて
  何もかも投げ出して
  凍えたかけら
  みんな流して
  冬の雨が街を濡らしても
  寄り添えば 淡雪
  
  あたしのなかで 砕いてゆく
  あなたの凍った涙は
  いつかかるい淡雪に変わり
  眠りの枕に触れては 消える
  凍てついたかなしみを
  思い出に変えて
  雨音は 幸せの数だけ響いて
  こころやさしく 疲れて 眠る
  あなたの耳に
  寄り添えば いつか淡雪
  触れては消える 淡雪


 月曜のソゴウさんのケアを、終了時間きっちりに終えて、市電の乗り継ぎも駆け足で、タイジが息せききって桜木町にたどり着いたとき、それでも待ち合わせ時刻の七時はだいぶ過ぎてしまいました。
 この日のケアは、緊張しきって出かけたわりには、まったく何もなく、食材は冷蔵庫に全部そろっているし、ソゴウさんもほぼ穏やかにクリアでした。とはいえ、ソゴウさん宅にいる間じゅう、前夜シトネに見咎められた節さんの気配を探して、タイジは自分の両肩にたえず神経が注がれてしまい、だいぶ気疲れはしたのでしたが、これが終わればシーラに逢えると思うと、たった一時間半の幻影なんかどうってことないぞ、という気になるのでした。さいわいなことに、その日もケア終了間際に苑さんが会社から早めに帰宅してくれたので、タイジは楽な気持ちでソゴウさんと別れることができました。
 昼過ぎたころからどんよりとぐずつきだした空模様は、夕方には雨脚のはっきりとした本降りとなり、ダウンを着ていても冬の雨の重い冷たさが体の芯に届きそうな冷え込みが始まっていました。駅前は人でごったがえしていましたが、駅構内の書店の前に立っている羽戸千香子の姿は、すぐに見つけ出すことができました。
 彼女は始めタイジに気が付かず、手にした雑誌を所在なくめくりながら、アクアブルーのマフラーに、小さな顎を埋めるようにうつむいていました。ライトグレーのトレンチコート、靴は雨支度には見えない、普通のシンプルなヒールパンプスでした。雑誌を持たないもう片方の手には、きちんと羽の留め金をとめた柄の長いスマートな葡萄いろの傘を、少し体の重心を預けるような感じで握っています。
(夏より少し痩せたみたいだ)
 髪も伸びて、頬に垂れかかる部分を彫金のバレッタで頭の片側にとめています。そうすると、耳もあらわになった頬から顎までの影と輪郭が、しらじらとした駅の光線のせいか、やや厳しく見えて、タイジはそのハト先生にすぐさま声をかけることができず、周囲を見渡してシーラの姿を探しましたが、約束の時間を違えることのめったにない彼女の姿がありません。
どこかでふとハトは顔をあげ、タイジを認めると、きれいな歯並びをすこし覗かせて見覚えのあるさわやかな笑顔をくれました。すると、うつむいていたときのものさびしい気配は消えて、なつかしく、いつもすがすがしかった彼女の記憶と、今の姿がぴったりと重なりました。
「元気そうね」
「遅れてスイマセン」
「シーラさんから、たぶんあなたは仕事で遅くなるだろうって連絡もらっていたから、気にしないで。オツカレサマです」
「で、彼女は?」
「あら、メール行ってない? 彼女,今夜遅くなるか、でなければ来られないかもしれないって」
 タイジは返事もせず、携帯をつかんでひらくと、マナーモードの設定のままで気が付かなかったメールサインが点滅していました。

 ごめん。今夜遅れる。行けなかったら連絡します。遅くなっても桜木町駅に着いたら、また電話するね。

 何があったのか、遅れる理由までは明かしてこないのは、いかにもシーラでした。
(ヒョウか?)
 タイジの胸に一瞬きつい感情が走りましたが、先約のあるシーラを強引にむしるヒョウガではないとタイジにはわかっていました。もしそうだとしたら、やむにやまれぬ切迫なのに違いないのでした。
(そんな雰囲気でもないな。いったいどうしたんだろ)
「連絡来てました。ケア中はマナーモードに設定してるんで、そのままだったから」
 ハト先生はタイジの心をほぐすように笑って、どこにいきましょうか、と尋ねました。
「駅近がいいでしょうね。ミナトミライのプロムナードくらいで、適当に」
「いいですよ。ぼくどこでも」
「行きつけのお店とか…ないよね」
 ちらっといたずらっぽい目をしてタイジの表情を測るハトに、タイジはあっさりと
「ぼくシーラさんひとすじですから」
「うわ、いきなり真っ向勝負か。でも、初めから試合にならない」
「ハト先生こそ、なつかしいお店ないの?」
「あったかもしれないけど?」
 ハトは傘をひらくとすたすたとミナトミライのクィーンズスクエアに通じる昇りエスカレーターに向かって歩き始めました。あたかもそこでタイジの質問を遮るように、傘の柄を肩に乗せて背中でくるりとひとつ回し、タイジは眼の前でいきなりはばたいた鮮やかなワインレッドの羽に気圧されて口をつぐみました。
 いくつかのレストランを覗きこみ、ハトはたいして選り好みもせずに、空席の適当なイタリアンに決めました。
「飲める?」
「飲めます」
「いける口?」
「どうかな…ハトさんのほうが強いでしょ」
「気分的には赤でいい?」
「はい」
 料理もお酒も、ハトがさっさと決めました。
「とりあえず、ボトルで頼むわ。一本くらいどうってことない。シーラは来るかしら?」
「わからないけれど、当日ドタキャンするってよっぽどのことだと思う。ハトさんのメールにも、彼女が遅れる理由知らせてこなかったんですね」
「ええ」
 ハトは、お酒が来るなりボトルを握るとタイジのグラスになみなみと注いで、それから自分で自分のグラスに注ぎました。タイジの手をはさむ余地はありません。それでいてすぐには口に含まず、テーブルに肘をついてグラスを傾け、ワインの香りを嗅ぐハトの仕草にタイジはなんとなく、すこし投げやり、すこし危うげな感じを受けました。
コートを脱ぐと、前身ごろの全面に細かいスパンコール刺繍の入ったオフホワイトのチュニックを着ていて、プラチナの二重ロングチェーンをかけています。チェーンは、ピアスとおそろいみたいでした。お化粧は、やはり控えめで、目元口許の色づかいも淡白で、すこし雀斑の見える小麦色の自然な頬の感じが、いまどきのまったりとした塗りこメイクとは違って、かえってこのひとらしいきれいさを印象づけるようにタイジには感じられました。
「どこに泊まっているんですか?」
「実家。横浜なの。上京したのは祖父が危ないって知らせをうけて」
「先生が?」
 タイジの声が思わず大きくなりました。訪問ヘルパーのタイジを可愛がってくださった
写真家の先生は、タイジがソゴウさんのケアに入る少し前に入院なさったのでした。
「やっぱり知らされてなかったんだ」
「うー。介護職の悲しいトコです。ケア以外のプライベートには触れない。個人的な交流は不可っていう。どんなに相性のいい利用者さんとも、依頼が終わればそれっきり」
「あたしを通じてなんだからいいでしょう。祖父はあなたをなつかしがっていたわ。まだすぐさま危篤ってほどではないけれど、もしかしたら今回の面会が、この世で最後になるかもしれない」
「そんなに」
「ええ」
 ハトはそのあとすぐに、
「祖父が言っていたの。ミネモト君はこれからどうするんだろうねって」
「どうするって? 仕事しますよ」
「おじいちゃん、ほとんど無駄な関心を示さない性格のひとなのよ。自分の定めた目標にむかってきっちり計画たてて、突進してゆくっていうか。だから交流はひろかったけれど、ほんとの意味で親しかった人、少ないタイプ。
彼があなたに気持ちを残すのは、それだけあなたのことが好きなんだと思う」
「嬉しいです。お見舞いに行きたいけど」
「あとでこっそり病院教える。暇があったら覗いてよ。ナイショで」
「そうします。でも、どうするって、どういう意味なんだろう」
「あたしもあなたを見ていて感じるの。もともと美大なんでしょう」
「はい。……なんだか、迫るなあ、ハトさん。アートと福祉って、そんなにミスマッチ?」
「全然! これからの医療や介護の場に、ほんとの意味でメンタルケアとしてアートはすごく大切だと思う。平均余命や健康寿命が伸びれば伸びるほど、生きていることの楽しさ、歓びを感じあえる仲間や空間、時間、刺激…ひろい意味でのレクリエーションを持つことが大事になるでしょ」
「ぼくそう思います。だから、ばくぜんと、将来はそんな方向に進みたい」
「舵取りは?」
「霧の中」
「方角も見えない?」
 どんどんハトさんは突っ込んできます。のらりくらりとしたジンさんの口ぶりとは違い、タイジはハトさんのまっすぐな言い方が気持ちよく、むしろそれを通り越して、ものすごく嬉しいと思いました。
(えー、このひとこんなに自分に関心を寄せてくれるの? 正直、意外)
「方角は、全然見えないってこともない。とりあえず、介護福祉士までは取得します。ケアマネまでは、わからない。こっちこそ訊いていいですか?」
 タイジはハトさんに突っ込まれたぶん、気持ちが大きくなり、逆にハトさんに矛先を向けてみました。
「ハトさんこそ、これからどうするんですか? ずっと信州にいるの? 実家は横浜なんでしょう。帰って来いとか親に言われません?」
「あたしは、品行方正な兄がいるから、両親も娘にそれほど期待してないな……我が道を行け、他人に迷惑をかけるな、しっかり働け、というくらいよ」
「品行方正。ハトさんの口から出ると迫力あるなあ」
「なぜ?」
「ハトさんなんて、才色兼備の権化みたいじゃないですか。お世辞じゃなくて。シーラさんとか、ガーネットもそうだけど。ぼくの周辺、凄い女性けっこういるってことか」
 ハトはすっきりした輪郭の喉をそらせて軽く笑い、
「ゴンゲって、何よ。もっとうまい誉め言葉にしてよ。でもさんきゅ」
 酔いが回ったのか、彼女の頬にはっきりと紅色がさし昇ってきました。笑顔のめりはりが普段よりいっそう大きくなり、このお店に入ったころに彼女を曇らせていた投げやりな印象はすっかり消えています。
「信州にずっといるかって? いいえ、いないと思う。来年の五月くらいには、できたら移動するつもり」
「へえ」
 タイジは目をまるくしました。その頃にはタイジもかなり飲んでしまっていたので、口も気持ちもなめらかにするすると動きます。
「じゃ、東京近辺に?」
「いいえ。九州に」
「またどうして」
 ハトさんは、ふふ、と微笑み、テーブルに置いた華奢なワイングラスの下から、タイジの顔をふざけるように斜めに見上げ、
「タイジ君にとって、ふるさとってどこですか?」
「いきなりなんだよ」
「訊いてるの。ふるさとってどこ?」
「自分の生まれ故郷、だと思う、普通は」
「なぜ生まれ故郷がふるさと?」
「そうだねえ。安心できるからだろ」
「心やすらぐところでしょ?」
「うん。ハトさんにとってふるさとって」
 そこではっとタイジは我にかえりました。
「ハトさん」
「なに?」
「九州のどこ行くの?」
「希望は大分。でも思い通りにならなければ周辺のどこか、北九州一帯なら、どこでもいいのよ。長崎、福岡、佐賀……」
「……」
「ミカエルにあたしの代わりの勤務医が見つかったら、決める」
「移動を?」
「ええ」
「ハトさんて、カトリックだっけ」
「いいえ。洗礼受けてない。無神論者です」
「じゃなんで信州のミカエルに行ったの。ごめん。あやまるのも変だけど、俺かなり酔ってるから、突っ込むよ。ミカエルに」
「心がやすらぐ場所だったから」
「移動するのはもう安心できないってことだね」
「そうではないけど、そうかもしれない」
「大分ならいいの」
「しばらくは」
 タイジは言葉を失ってしまいました。ハトさんの眼は酔ってはいず、澄んで、相変わらずさわやかな色をしていました。俺、こんなすっきりした視線持ってるかな、とタイジはふと思いました。
「なんで、ぼくにそれを聞かせたんです?」
「あなたが純粋だから」
「嘘だろ。俺不純だよ。だって純粋だったら、ハトさんのほのめかしなんかわかんないよ、たぶん。誰を追っかけてるの?」
「ゴースト」
「誰の幽霊だって?」
「あたしの」
「いつかつかまる可能性あり? 言いたくないけど、相手のひと転勤族でしょ」
 ククっとハトはほんとの鳩みたいな笑い声をあげました。
「そういえばそうね」
「だから洗礼受けないんだ。そういう問題じゃないか…でもなあ。ハトさん。すごい勿体ない気がする」
「気がすむまで渡り鳥よ。いつかふっと巣におさまるかもしれないし。誰にも迷惑はかけない。ただ見ているだけだから」
(なんだよ、それ)
「笑えないよ、ハトさん」
「あなたもね、あたしから見るとせつないよ、タイジ君」
「俺幸せだよ。彼女に会えて」
 ハトは頬杖をついて、もう片方の手で持ったグラスをぼんやりと揺すり、テーブルごとに灯った食卓ランプの光にワインレッドを透かして見つめ、つぶやきました。
「シーラ、幸せね。そんな言葉めったにもらえるものじゃない」
「そうかな……そうですか?」
「あなた、彼女とセックスした?」
「……」
「ルール違反かしら」
「どっちの言い方もよくわかんないよ。だって幸せとそれって関係あんの?」
 タイジは酔いの勢いで、ちょっとむきになりました。ハトは、グラスを自分の眼の前において、まるでその赤紫の凸レンズに映る膨らんだ自分と、グラスの向こう側のタイジとを二重映しにして眺めているようでした。
「じつはあたしにもよくわかんないの」
 とハトはすこし呂律のあやしくなった声で、またつぶやきました。
(からみ酒かよ。でも目がきれいだ)
 ボトル一本ほとんど飲み干してしまいましたが、ハトは泥酔しているようには見えません。
(したくないわけないけど、したからってどうなるんだ? 彼女が俺のものになるわけじゃないぞ。シーラさんならいっぺんこっきりであとは知らん顔なんて平気だろう。俺が欲しいものってなんなんだ。心か? それじゃキレイゴトすぎるけど、何か違うんだ。うまく言えないけど、何か違うんだ)
「ハトさんはどうなの」
「そう来るか、やはり。あたしはあたしと出会えて幸せって、誰かに言ってもらえたらすごく幸せだよ、タイジ君」
「え、そんな男冥利に尽きるうらやましいひとって……」
「そう? 自分の存在が誰かを幸福にするって実感、かけがえのないものじゃない。そんな風に思ってくれるそのひとのおかげで、自分もまた生かされる、そういう感じよ」
(てことは、そんな風にハトさんはそのひとを追ってるんだなあ。傷つけないように…きっと…)
 そのときテーブルに置いたハトの携帯着ウタが鳴りました。バッハのゴールドベルグ変奏曲の一部分のオルゴール版でした。
「シアワセモノから電話が来たぞ」
 ハトはタイジを横目に見て、男の子みたいににやっと笑い、
「もしもし?」
 タイジはなんだか聞いていられずに、手洗いに立ちました。腕時計を見ると、もう十時過ぎ。シーラがどこにいるのかわかりませんが、彼女が到着するころには、もうラストオーダーでしょう。自分の胸ポケットの着信ではなく、ハトに来た、ということもがっかりでした。それをまた、シーラはわざと狙ってハトにかけたのかもしれないのですが、酔っぱらったタイジにはそこまでの機微はわかりませんでした。
 用を済ませて戻ると、ハトはわずかな時間の間に、手際よく支払いと身支度を済ませていました。
「ミネモト君。シーラが車で桜木町へ来るって。お酒じゃなくて、場所変えてお茶でもどうかって。あなたをきっと家まで送ってくつもりなのよ。ヨロコベ、青年」
 ポン、とまるくなりかけたタイジの背中をハトさんが叱咤するようにたたきました。ついさっきまでの妖しい風情は消えて、いつものきりりしゃんとしたすてきなハト先生が立っていました。
 








  
  
  

オカリナ・シーズン 4 クォーツはさよならの数で

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 メグの部屋には、安美さんから譲られた古いアップライトのピアノがあります。ママが亡くなったのはメグが七歳になる少し前なので、安美さんがピアノを弾いていた記憶は幼心にはっきりと残っていないのでした。
 駿男さんは、安美さんが亡くなってから、娘にピアノを習わせ始め、週に一度、近所の音楽教室に通うメグの進歩の具合はというと、学校の成績と似たり寄ったりで、良くも悪くも中位。のらくらしたお稽古事の範囲で、めざましい才能が見えることもないのですが、ピアノの先生は優しくて楽しいし、もともと歌ったり弾いたりするのが好きな性格だから、毎週怠けずに通い続けていました。
 お稽古日は土曜日の午後か、日曜の午前中のどちらかです。だから金曜日の夕方になると、メグは翌日か翌々日かのレッスンめがけて、どうにか辻褄を合わせようと、学校の宿題もテレビもお出かけもさておき、必死で楽譜と鍵盤にかかりきりになる、というのがいつものパターンです。
 今日も学校から戻ると、ピアノの蓋を開けて運指の練習を始め、こまかい連音符が最初から最後までびっしりと連なって、まるで太い黒蛇が五線譜を昇り下りするような譜面の最後まで、まずまず弾きとおせるくらいになったか、という辺りで、時刻はふつうの家だったら夕ご飯の支度を始める時間になっていました。
「わ、もうまっくら」
 一休みしてキッチンに行き、ホットココアを飲みながら、メグは周辺の家々の窓明かりが際立つようになった暗闇を眺めて、今夜の晩御飯はどうしようかなあ、と考えるのでした。
駅前にある大手家電デパート店長のパパの帰宅時間はまちまちでしたが、娘のために晩御飯はなるべく家で食べるようにしているのでした。平日の晩御飯は、去年まで市の子育て支援グループのヘルパーさんが、日代わりで作りに来てくれていましたが、十歳になってからは、木曜日と金曜日の分は、メグが作るようになりました。
「まだ運指の方しか終わっていないのに、こんな時間になっちゃった。課題曲もお稽古しなくちゃならないし、レッスンに行くのはやっぱり日曜日にしようかな…」
 課題曲はメンデルスゾーンの「無言歌集」のなかのひとつでした。メグにとっては、まだちょっとむつかしい曲です。
 忙しいから晩御飯はこの際一品で間に合うシチューにして、サラダを添えて、などと考えていると、いきなり、ポーン、と鍵盤を叩く強い響きが耳に飛び込んできました。
 今、テレビもラジオも点けていません。
 メグはちょっと眉を寄せ、マグカップをテーブルに置くと、特に怖がるふうもなく自分の部屋に戻りました。
(また何かが始まるのかな。誰かの魂や迷い霊が来たのかな)
 夏以来、メグの実生活は、外見の変化なく穏やかに流れてゆきながら、内側では自覚しきれない激しい動揺があるのでした。先日の銀座での体験のように、視覚、聴覚に時折日常を覆す異様がまざまざと見え聞こえするのにも馴れてしまい、こどもらしい無鉄砲と生来の無頓着があいまって、何かが起こるたび、まるでインターネットのゲーム世界に没入する感覚にも似た面白ささえ感じているのです。まだ身心幼い成長期のメグが、きらびやかなパラレルの幻覚に溺れ、現実感を喪失する事態に陥るのを警戒するのは、シーラの役目になっていました。
 シーラだってまだ二十歳そこそこのはずなのですが、どんな経緯でサイコ・ヒーラーとしての冷静な自衛力を身に付けたのか、三次元と異次元とを往還する瀬戸際を、シーラは決して誤りませんでした。メグが加わってからは、彼女の判断と洞察はいっそう鋭くなり、
おっとり育ったメグが臆病ではないという美点も、こんな場合、シーラには危惧の一因でさえありました。
 リビングダイニングから自分の部屋に戻るわずか数分の間に、今度はボーン、と重々しいピアノの低音が響きました。誰もいないはずのメグの部屋で、たしかに誰かが鍵盤を叩いているのです。しかも、今さっき聞こえた二つの音は、扉と廊下を隔てた遠い響きではなく、間近で弾かれる音のように、どちらもはっきりと手に取るように聞こえました。
 部屋の前まで来ると、ドアはキイ、とかすかに鳴いて、手も触れないのに自然と手前にひらきました。ピンクやブルー、クリーム色、白、などなど女の子らしい好みの明るい中間色でいっぱいのメグの部屋の一隅に、古いピアノは黒々と大きな量感を占めていました。
 ピアノに付属の重い椅子も安美さんの形見で、黒塗りのしっかりした背もたれのある、いかにも昭和ふうのものです。その椅子に見知らぬ女の子がうつむき加減に座り、片方の人差し指をまっすぐたてて、肩を上下させる不自然に大きな身振りで鍵盤をでたらめに叩いていました。何度も何度も、不規則に、そして続けざまに休みなく女の子はピアノを叩いているのに、時々しか音が聞こえないのでした。メグは、自分の眼がおかしいのかと思いましたが、女の子がそれこそ力いっぱいピアノを鳴らそうとしているのは明らかで、腕と指をピアノに振り下ろすたび、彼女の小さい体が、椅子の上でぐらぐら前のめりに揺れるのです。でも、ピアノは容易に鳴らないのでした。
 女の子はメグと同じか、すこし年下のようで、メグの覗いている入り口からは、女の子の後ろ姿しか見えません。女の子とわかるのは、彼女が黒っぽいスカートを穿いているからですが、上半身の着物は、椅子の長い背もたれに遮られてよく見えません。彼女の両足は、踵が床に届かないので、ものすごく痩せた足首と爪先が、不安定にふらふらと床すれすれに揺れていました。暖房が入っているとはいえ、足元はずいぶん冷えるのに、彼女は素足です。
「あなた誰?」
 メグが声をかけても女の子は返事もせず、ただ虚空に指一本たてた手を、またばしんと鍵盤に叩きつけました。でも、無音です。
「そんなに強く弾くと、ピアノの音が悪くなっちゃうからやめてよ」
 女の子は相変わらず黙りこくって深々と鍵盤にかがみこみ、やけくそめいた力ずくで打ち叩いています。一回ごとに、女の子は人差し指を宙にまっすぐ伸ばし、自分で叩く回数を数えているようにも見えました。
「返事してったら」
 メグはピアノの椅子にうずくまっているようにも見える女の子の方へ一歩踏み出しました。
(やめろよ) 
 耳の奥で誰かが制止しました。
(だめだ。手を出すな)
(レノン?)
 ひさびさに聴くレノンの声でした。メグの内側のどこかがめくれあがり、そこから少年の〈かたまり〉が溢れてくるような感覚でした。それから心拍がいっきに強く、早くなるのがわかりました。
(レノン? あたし心臓が二つになったみたいな感じがしてる)
(ナイスな言い方だ。ぼく今体がないから君の中に間借りしている)
(体がない? ミカエルは?)
(そのうちわかるよ。今はとにかくピアノに喰いついている餓鬼に触るな)
(餓鬼?)
(妄執の鬼だ。遅かれ早かれこういうモノに付き纏われるようになるのさ、君やシーラみたいな子は。一匹だから、まだたいしたことはないんだが、こいつらはすごく厄介だ。ぼくがいてよかったな。追い出してやるけど、ちょっとグロテスクなもの見るよ。だけど逃げるな。弱腰だとやられるぞ)
(どうするの?)
 レノンが返事をする前に、回転椅子でもないのに、ピアノの椅子がくるりと回り、女の子はメグに向き直りました。がっくりとうなだれ、てのひらを上に向け、痩せた両手首を膝の上に投げ出すように置き、貧乏揺すりというのか、短い黒いアコーディオンスカートから突き出た裸の両足が、時計の振り子さながら、ぶらんぶらんと前後に動き続けています。足が揺れるたび、体全体が揺れ、女の子の顔を覆う前髪と、彼女の頬を覆う黒髪もいっしょに揺れています。女の子が自分の意志で動いているというよりも、誰かがこの子の体をつかんで激しく揺さぶり始めたように見えるのです。ゆらゆら、ぶらぶら…それが黒い重い椅子の脚ごとガタガタと床を鳴らすほどに大きくなったところで、彼女はひとことつぶやきました。
「鳴らないの」
 しわがれた低い声は、こどものものではありません。その声を聴いたとたん、メグは全身が総毛だちました。今までに聴いたことがない、ねっとりと絡みつくような、そのくせ乾いて感情の見えない、冷たい声です。
 女の子は顔をあげました。目鼻だちを見分ける前に、ただ真っ白、という第一印象。それも一瞬で、次の刹那には、彼女の顔の皮膚はずるりと斜めに半分剥がれ、その下の赤錆色の肉と、そこから滲み出る体液が彼女の上半身に拡がり始めました。
「邪魔だよ」
 ガタン、ガタンと椅子ごと大きく揺れながら、女の子はさっきまで鍵盤を叩いていた指を、まっすぐメグにつきつけました。ほそく、尖った指先一本は、またいきなりメグの至近距離まで伸びてきました。
「やだ」
 メグはひょいとその手をかわし、ちょうど手近にあった本を女の子に投げつけました。ハードカヴァーの本は簡単に女の子の顔面を直撃し、女の子は椅子ごと後ろにのけぞって倒れましたが、倒れたとたん、彼女の体は粉々に砕け、破裂し、ものすごい量の肉片と黄色っぽい体液、どす黒い血液とが、アップライトピアノの周辺に飛び散りました。
(レノン、なにこれ)
 レノンの返事はありません。
 破裂した女の子のどろっとした細かい肉片は、いったん壁や床、ピアノの鍵盤に飛び散ったあとすぐに、ずるずる、ぞろぞろ、とそれぞれの分裂が蠢いて蛆のように這い、メグのほうへと群がり寄って来ます。
 悲鳴をあげて部屋から飛び出そうとすると、頭のなかでレノンが怒鳴りました。
(逃げたって無駄だ。怖がるな)
(どうするの)
 メグはがくがく震えました。立ちすくんだ足元から、赤黒い、あるいは濁った黄土色の、いやな臭いのする蛆虫はもうじきメグの両足首へとりつきそうです。
「お前、邪魔だよ」
 というざわめきが一斉に、数知れず聞こえました。蛆虫一匹ずつから、その怨みの呟きが絞り出されてメグに襲いかかり、なにかのきっかけで、蛆どもは小さい蛇みたいに鎌首をもたげ、びゅっと虚空を飛んでメグの皮膚にとりつきました。
 ひっ、とメグは体を硬直させました。小さな蛆虫に、足首や膝の皮膚を食い破られる鋭い痛覚に、メグはとびあがりました。
「痛い、いや」
(殺せ)
 えっ?
(殺せ)
 なに、これは誰の声? とメグに迷う暇はありませんでした。それはメグの声でした。レノンの意志がメグの喉から放たれ、残酷に、冷たく、また一声
(餓鬼どもめ、死ね)
 コロシチャダメ…とメグの奥のほうで、ささやく声がありましたが、無数の蛆虫に皮膚を食い破られる火傷のような痛みに、メグは前後を忘れ、レノンのなすがままにひしがれてしまいました。自分が自分から引き剥がされるみたい……メグはぽっかりと宙に浮いたような、もうひとつの別なまなざしで、レノンの解放された……自分とは別な意志に支配されてしまった自身の姿を眺めていました。
 あたしの眼が青く光ってる。レノンが吼えてる。死ね、殺せ、焼き滅ぼせ、消えろ…コワイ、コワイ言葉。だめだよ、レノン。ヒーラーはそんなことしちゃいけない。たとえ餓鬼でも、それはイケナイんだ。
 でもレノンはメグの制止なんか受け付けませんでした。メグの足首に取り付いた蛆どもは、次々とマッチの火のように小さく燃え上がりました。自己防衛の瀬戸際まで追い詰められ、コムニタス、すなわち生きる意志そのものとなったメグの全身は、鉱物質の銀色に輝き、餓鬼を焼く炎の粒を弾き返し、火は逆流して、部屋じゅうにどろどろと弾けた餓鬼の妄執の破片をことごとく焼き潰してゆくのでした。餓鬼の燃える火は、家具や壁には移らず、ただめらめらと虚空を舐めて、しだいしだいにかき消えてゆきました。
(こうしなけりゃ、連中は永遠にのさばり続けるんだぜ)
(殺してはだめよ)
(どのみち本体はいっぺん死んでる。魂でもない。ただの執念の塊だ。そしてひ弱な精神にとりついて、エネルギーを吸い取る。どうにもなりゃしない。消してしまうのがいちばん良いんだ。ぼくがいなかったら、メグの未完成で柔らかい部分からとりついて、君、食い荒らされてた。シーラは何をもたついてるんだ。餓鬼なんて人間の欲のカスだから、いつだってどこにだって存在して、いつメグの身辺に出没したっておかしくないのに、何も教えてないじゃないか)
(レノン、でもあなただって餓鬼と同じようなことしてたじゃないの)
 なじる声に応えるレノンは、もういませんでした。虚脱してべったり床にしゃがみこんだメグの、さっきまで何十倍もの速度と密度で脈打ち、膨れ上がっていた心臓は、もとどおりすうっと小さくまとまり、ふたたび、コト、コトと日常の規則正しいパルスを刻み始めていました。

 
  あなたじゃないひとと逢うために
  髪を洗い 風景を見つめる
  約束は何時?
  忘れてしまったマニキュアに気づく
  触れることのない別れ
  飾らない指先だけあなたを覚えている
  塗りつぶすことのできない思い出
  きつく握ったのは あなたひとり
  痛いほど

  あなたじゃないひとと逢う
  今 何時?
  そのひともうじき来るわ
  あそこに
  でもここじゃない
  もう来ているかもしれない
  でもここじゃない
  あなたがいつも居たのは
  塗りつぶさない指先で
  そっと崩れる思い出
  もう誰も座ることのない
  陽だまり 風景

  愛しているなんて嘘でも言える
  誰にでも言える
  嘘だから言える
  でもここじゃない
  あそこじゃない
  あなたじゃない

  待っているのは
  あなたじゃなくて すぐに
  マニキュアを塗らなければ
  スパンコールで光らせて
  間に合わせる
  微笑んでみせるほかのひと

  思い出は化粧のうらがわ
  触れたのはうちがわ
  きつく握ったのはあなたひとり
  痛いほど
  風景 見つめて もういちど
  待っているのはあなたじゃなくて
  でも覚えているのは
  あなたの名前
  愛しているなんて嘘でも言える
  痛いほどきつく握ったのは
  ここじゃない
 あそこじゃない 待っているのは
  あなたじゃないけれど
  あなただけがいた
陽だまり 風景


 日曜日の銀座は、もう師走の気配が先走り始め、メトロやデパートのショーウィンドーも、浮き立つばかりに華やかな飾りつけできらきらしています。久我ビルも例外ではなく、晩秋を通り越して気分はもうクリスマス。プレゼントやオーナメントの展示品を扱うギャラリーや、ショップが目立ちました。
 今日はシャワーが来るかもしれないな、と朝眼が覚めて、タイジがいちばん最初に思ったことでした。それから携帯の画面をひらき、いつものようにシーラの画像を眺めました。
 月曜日か、木曜日か、また彼女と会えるんだろうか、とタイジは、逆上するまま、シーラとキスした晩のこと、そのときの感覚をまた思いだすのでした。
(優しい、とか優しすぎるとか言われたって、俺は俺ってとこなんだけどな。俺に言わせりゃ、ヒョウだって十分優しいぜ。優しいっていうか、寛大っていうか)
 シーラをはさんで、別に恋敵とは思っていないし、ヒョウガを過大評価してもいないつもりでした。
(あのまま強引に……しちゃえばどうにかなったのかもしれないけれど、たぶんそれでシーラさんが俺に……てことはないんだ)
 …の部分は、タイジにも名状しがたい何かでした。名状したくないシーラとの間隔かもしれません。
(……したからって、俺の心がおさまるってこともない)
 だけど、心だけでおさまるものでもない、ああ、ホント男はつらいよ、です。
 冬晴れの混雑した日曜日、ギャラリーの客入りは上々でした。開けて早々、タイジのつとめる介護事業所の先輩ヘルパーさん数名が連れ立って覗きに来てくれました。
「ミネちゃん、ミヤモトさんところに行ってるんだって?」
 と尋ねたのは、タイジのお母さんと同じく、もうケアマネで、事業所の役職など歴任しているひとでした。
「ええ。母に押し切られて」
「さすが涼子ちゃんよねえ。噂は聞いてる。けっこうむつかしいケアでしょ?」
「え、そんなこともないです」
 タイジは知らん顔して答えました。
(このケアマネさん、いいひとなんだけど、うっかり乗ったらヤバイこと言うぜ。みんなケア仲間だから、いいけどさ)
ベテラン中のベテランで、みんなの信頼厚く、ケアスキルを十二分に備え、対外的には思慮分別もあるひとですが、気心の知れた仲間うちでは、いくらか口と言葉の軽くなってしまうのは、まあ誰しもあることですが……。
 ひとの噂話は禁句、というより、ケアに限らずタイジ自身がそういう無駄話が嫌いな性格なのでした。自分の眼で確かめなくちゃホントも嘘もないよ、というのが彼の主義でした。だから、
「このビルの最上階に、ちょうど良い展示やってますよ。たぶん今日が最終日じゃないかな。知的障害者作業所のひとたちの、織物作品展です」
 と咲織会の話題に話を逸らしました。
「あら、じゃ寄っていこうよ。どんな感じの展示なの?」
「バッグとか、ショールとか……主に女性の小物が展示販売されてます。手織りだって」
「このビルでもそういう展示あるのねえ」 
 と言いながら、みんなは楽しそうに出てゆきました。介護職のひとが、休日にこうして出かけてきてくれるのはうれしいことでした。祝日も日曜も、デイサービスはともかく、訪問ケアワークは休みなし、というのが原則ですから。
 それからも客入りはまずまずで、午後一時から夕方まで、ほぼひっきりなしに映像を回して、あっという間に五時過ぎになっていました。土曜、日曜は毎週だいたいこんな感じでした。そうして、夕方になると、タイジの眼は、ごく自然に客の出入りにシャワーを探し始めました。
咲織会展示の最終日に、ジンさんが打ち上げをやるのかどうかわかりませんが、シャワーはお母さん主催だから、たぶん顔出しくらいはするはずで、ついでにきっとこちらにも来るだろう、とタイジは、なんとなく彼女を待ちわび、来客の気配がするたび、またそれがシャワーでないたび、ちょっとがっかりするのでした。夕方迫るにつれ、〈ちょっと〉の分量はだんだん増えてゆきました。
「こんばんは」
 かわいらしい、遠慮がちな声が聞こえたとき、タイジは自分でもびっくりするほど、その一瞬でいっきに心が弾んだのでした。もうこれで今日の最終客入りにしようかな、と映像の準備をし終えたところにシャワーはやってきて、ギャラリーの隅に、ひとつふたつ余っていた丸椅子に、ちょこん、という感じで腰を下ろしました。紐つきの白いボンボンが二つ付いたベージュのニット帽子を耳まで深くかぶり、ふっくらとしたロールカラーで首を覆う、ピンクベージュのショートコートに短めのキュロットスカート、ファー付きの黒いロングブーツを穿いています。やはり薄化粧で、初々しい表情も変わらないシャワーは、とても自分より年上とは見えませんでした。
「やあ、どうもぉ」
 とタイジはうまい言葉が見つからず、シャワーが座るやいなや、〈花絵〉のドアを締め切り、いそいそとN版のボタンを押しました。
 上映が終わると、シャワーはタイジの傍に寄ってきて、
「とてもよかったです。この映像とコラボできたらいいなって思いました」
「そしたらシャンプーの姿が見えないじゃない。ファンはがっかりするでしょ」
「ところどころで、この映像と歌とを部分的に組み合わせるって、できますか?」
「それならいける。気に入ってもらえてこっちも良かった。映像は何種類かあるんだ。季節によって画像の組み合わせとか、いろいろ変えてるから。映像時間もね。コラボ画像の内容が気になるんなら、どこかでリンスといっしょに確認選択してくれてもいいよ」
 素直にうなずくシャワーの、すべすべと上気したピンクいろの頬を見ながら、君たちフィーリング合いそう、と無責任なジンさんの台詞が、今あらためてタイジの胸うらを揺さぶり走ってゆくのでした。
「年末忙しい?」
「そうですね。週末はずっとライブです」
「平日はどうしているんですか」
「母の手伝いをしたり、点字書籍の翻訳をしたりしています」
 タイジの視線は、ごく自然にシャワーの手に注がれました。幅の狭い小さな手の甲は、頬とおなじくらいなめらかに見え、それほど長くはないけれど、細く白い指。なるほど、手先をこまかな作業に使うひとらしく、爪は伸ばさず短く切ってあり、透明マニキュアが、シャワーのリップスティックと同じ清潔な淡さで光っていました。指輪は右手中指に、スワロフスキーふうのグラスリングがひとつ。トップの飾りは、ピンククリスタルのイルカでした。
(彼氏いない)
 とシャワーの雰囲気と、イルカの指輪とで何となくタイジが直感したところに、左胸ポケットの携帯着ウタが鳴りました。
 シーラからでした。

 明日の夜、ハトさんと会う予定なんだけど、ミネさんもどう? 今日の午後、上京してきたってメールもらった。

 いいよ。ソゴウさんのケアはどうする?
ハト先生とはどこで会うの?

 タイジが返信メールを打つ間、シャワーは少し横を向き、手にした巾着バッグの中からメモを取り出し、何か書き付けていました。
「ごめん。友人から急ぎのメールで」
 シャワーはにこっと笑って何も言いませんでした。耳が不自由なひとには見えない、とタイジはシャワーと間近に接するにつけ思いました。といってもタイジはまだ視覚や聴覚の障害者ケアを担当したことはなく、知人友人にそうしたひともいないのですが。
「あたし、そろそろこれで…」
「展示の打ち上げ?」
 これで別れてしまうのが惜しいタイジは、シャワーに尋ねてみました。ささいなことにしても、彼のあまりしない詮索でした。シャワーは屈託なく、
「友達の朗読会でオカリナ吹くんです」
「へえ、どんな? どこで?」
「水道橋で。朗読するのは自費出版した詩集からの作品と、彼の好きな何人かの詩人や歌人の作品アンソロジーだって」
「ミニシアター?」
「ううん。喫茶店と本屋さんと、小さいシアターっていうか、パフォーマンスステージのある空間。もとは本屋さんだけだったんだけれど、数年前から多面的な表現スポットに変えたんです。そこのマスターの作品集中心」
 彼、という単語がシャワーの口からこぼれたとき、タイジは自分でも思いがけないほど心が波立ちました。それを表には出さないように平気な声音をとりつくろい、
「へえ、詩人なんですか、そのマスターっていうか本屋の店長さん」
「はい」
 とシャワーは毛糸の帽子のボンボンを軽く左右に揺するように顔を傾け、タイジから眼を離さず、
「ミネモトさんもいらっしゃいますか? 少し遅い開演なので、お酒の席になるかも知れないんですけれど。気持ちのいいサークルだから」
(あ、声より顔色気をつけなけりゃいけなかったっけ、この子には。でもなんで自分はこんなに動揺すんの?)
 シャワーって、かわいいんだから気が動いてアタリマエ、と〈自分〉ののんきな声が頭の中ですぐに返ってきました。だよねー。
(だけど美人のリンスには動かないぜ)
 つべこべ言うな、お前うざい。
 と、わけもなくあわてふためく心を抑えながら、
「行きます。面白そうな空間だから興味ある」
「じゃあ、せかすようで悪いんですけれど」
「わかった、すぐしまう」
 〈花絵〉戸締り確認は一分もあれば足ります。今日の収益だけきちんと整理し、小銭の多いずっしりとした皮袋を無造作にデイバッグに放り込み、お父さんのお下がりの結構センスのよいテーラード仕立てのダウンジャケットをひっかけました。
「ミネモトさんもジンさんもおしゃれ」
「俺はともかく、ジンさんは衣装に凝るね。
俺は時々、親父の不用品もらったり分捕ったりしてるだけだよ。ジンさんとはどこで知り合ったの?」
「ライブに来てくださったの」
 耳の不自由なシャワーとは歩きながらの会話は出来ず、ふたりの対話がそこで中断したところにまたタイジの着ウタが鳴りました。
銀座通りを歩きながら携帯をひらくとシーラです。クリスマスイルミネーションのきらめく大通りを、シャワーと並んで歩くタイジのハートが、また別な彩りでちかちかしました。

 ミネさんのケアには行かない。ハト先生と会う約束をしたのはJR桜木町の改札口に七時。晩御飯どうって?
 
 何事もなければ、なんとか間に合う。シーラさんハーレー?

 たぶん徒歩、たまには飲む。

(タマニハノム、ね、てことはふだん彼女あんまり飲まないの?)
 隣りを歩いているシャワーのことをすっかり忘れてタイジはシーラのメールを見つめました。そうだ、俺は彼女のこんな小さな日常の姿さえよく知らない。銀座の久我ビルで知り合い、直球まっすぐ一目ぼれだ。それからずっと片思い。周囲公認の片思い。どころか彼女筒抜けの横恋慕。まる二年と半。〈花絵〉といっしょに始まったってことだ。
「ミネモトさん、こっち」
 袖をかるくひっぱられて、タイジは我にかえりました。もう新橋駅に着いていました。
 ごめん、と声には出さず、心配そうなシャワーに眼と口パクであやまって、さらにトモダチカラノイソギメール、と付け足しました。


 さよならの数だけ
 こころの襞が増えて
 まるであたしは薔薇の花
 とてもいい匂いがするはず
 みんな大好きだったから
 たくさん笑って
 いっぱい泣いて
 嘘も精一杯 ついて
 たくさん自分の心を傷つけた 

 流した涙のあとに
 のこった傷から
 きれいなはなびら 伸びて
 透きとおった襞 ひらいて
 涙はそのまま蜜になり
 いい匂いがたちのぼる
 まるであたしは薔薇の花
 ローズ・クォーツ・ローズ

 神さまがくれたごほうび
 あなたと出会い
 また 泣くかしら?
 嘘を つくかしら?
 たくさんのはなびら 重ねて
 あなたに微笑む
 笑顔がいいね、とあなたが言った
 いつも笑ってる
 さよなら さよなら
 誰も憎んだりしない だから
 神様のくれたごほうび
 
 あたしはちょっと歪んだ薔薇の花
 ねえ あたしみたいに
傷ついたひとたち
 はなびらみたいに 愛して
 新しい やさしさ
 忘れないで
 あなたもきっと 薔薇の花
 誰かがあなたの前にたちどまり
 そっとキスして さらってゆくわ

 あなたに会えて よかった
 ローズ・クォーツ・ローズ
 ひかる涙は透けるはなびら
 傷からしたたる朝露のように
 あなたは ローズ・クォーツ・ローズ
 愛を 続けて 忘れないで
 ローズ・ローズ・クォーツ

 喫茶店〈ローズ・クォーツ〉は、水道橋駅を下り、東京ドームシティアトラクションズの裏手にありました。すこしごたごたした感じの通りで、小さな飲食店や雑貨屋が、昔のしもた屋ふうに並んだ一角に、アンティークな赤レンガの壁と外に張り出した飾り窓の、こじんまりとした外観でした。雑居ビルの一階で、上の階には、オフィスや美容室が入っているようです。
 おとぎ話みたいな雰囲気の寄木の扉は手動ではなく自動ドアで、間口もかなりひろく、タイジはこの入り口が外部と段差がまったくない、巧みなバリアフリーになっていることに、まず眼をみはりました。
「おはようございます」
 入るなり、タイジの眼の前で、シャワーが店内に向かってペコンと頭をさげると、
「オカリナ姫がやっと来たぞ」
 と陽気なバリトンが、彼女の声に応えて店の奥から飛んで来ました。落とし加減の照明がほのぐらく、香ばしいコーヒーや紅茶の香りの暖かくたちこめた店内のざわめきは、彼のひとことで、一瞬静かになり、次にシャワーを歓迎するいろんな声がそれまでのひそひそ声よりも、ずっと大きくふくらみました。
 タイジが何となく予想していたとおり、お客さまの三分の一くらいは障害者のようで、車椅子のひとも三、四人。ひとりずつヘルパーが付き添い、また車椅子ではない眼の不自由なひとには、ガイドヘルパーが寄り添っていました。〈ローズ・クォーツ〉は相当ひろい、調度やインテリアなどもスタンダードな欧風に凝った贅沢な空間なのに、用意された客椅子の数が少ないのは、ここを車椅子のひとがらくに動けるように、との配慮ではないかとタイジは見て取りました。
書店と喫茶店とパフォーマンスステージといっしょになった空間と言うから、タイジはもっと仰々しいスペースを想像していたのですが、店の半分を、長い木のカウンター席で区別し、向こう側は本屋さん、こちら側は喫茶室、という目立たない仕切りです。あちらで購入した本や雑誌を、お茶をいただきながらこちらで気楽に読めるし、行き来も自由でした。この時間、書店はもう閉まっていて、今のところ客入りは二十人前後です。
 ステージは喫茶室の中央にあり、大人が両手をひろげたほどの広さで、床から二十センチほど高くなった円形舞台で、それはタイジの見たところ、造りつけではなく、取り外しのきく簡易台のようでした。喫茶店のテーブルのあらかたは書店のほうに片付けられ、その円形をぐるりと囲んで、客席になっています。お客はパフォーマーの前後斜め左右どこからでも鑑賞することができるのでした。
「マスター、こちら峰元太地さんです。来年リンスと一緒に歌わせていただく予定の銀座のギャラリーのオーナーです」
 シャワーは帽子を脱いで、にこにこしながらタイジをマスターに紹介しました。
「はじめまして。ぼく詩人でここのマスターのハルバル牛尾です。ハルバルはカタカナね。それに牛のしっぽ。その程度の詩人。でもコーヒーうまいし。君が銀座でギャラリー経営? 若いねえ。見たところ学生みたい。学生企業家? ちょい違うって顔したな。なんでもいいや。仲間が増えたよ。オカリナはめったに人を誘わないからね、彼女の見る眼を信じて、今日から君はぼくらのトモダチ、今日はぼくのオンデマンド詩集の出版会、オカリナのアカンパニュマンで、ぼくが朗読…」
 立て板に滝、という太い声で喋りまくられ、タイジはあっけにとられました。アーティストは奇人変人も多いので、たいして驚きはしませんが、見上げるような大男のハルバル氏のゆったりしたバリトン声にふさわしくない早口と、すぐに目立つ片膝のひっきりなしの貧乏揺すり、顔の彫りは深くて、日本人にはめずらしく眼と眉の間が狭く窪み、がっしりとした顎のさきが、ラテン系西洋人みたいにすこし二つに割れていました。年齢は五十代から六十前、というところでしょうか。髪はここの照明の灯りでは赤茶けて短く縮れた巻き毛で、耳を隠すくらい、もしゃもしゃと重なりながら垂れています。この十一月も下旬という季節に、まっ黄色いアロハ模様の半袖をたった一枚素肌に着て、林檎のようにぷっくりと肥って前にせりだしたお腹を締め付けない黒いサージのズボンを、光沢のある黒皮のサスペンダーで吊っています。片手には青い表紙の、たぶん彼の詩集と、もう片手にはビールか発泡酒のジョッキを握っています。ぶあついガラスのジョッキは明らかにりっぱなドイツ製で、麦穂の貼りついた酒樽のかたちをしていました。
(なかなか衝撃的なキャラクターだ)
 とタイジは余裕を取り戻して、心の中で腕組みしながらハルバルさんを観察しましたが、それはこのひとがシャワーの〈彼〉ではない、という確信を得たからなのでした。
「よろしくお願いします」
 と、タイジはハルバルさんが喉を潤すためにジョッキに口をつけた隙を逃さず、ちゃんと挨拶しました。
 ウシオちゃん、始めてよ、とどこかから声が来て、また店の奥、レジの向こう側に垂れた中世ヨーロッパのタピストリ風の暖簾が割れて、すらりとした細身の若い女性が猫のように現れました。
 顔も眼も鼻もほそく、つややかな腰まで長い黒髪を束ねずにそのまま真ん中で分け、なで肩、柳腰。それでいて胸の大きく開いた黒いドレスに着負けしないゆたかな谷間がくっきりと盛り上がり、タイジは少々眼のやり場に困りました。時間を気にする彼女はタイジに自己紹介せず、ただ心持頭を下げて、赤いルージュの口元を緩めて微笑み、オカリナとハルバルさんに向かって、唇だけで何かを言いました。
「はいはいわかりました。じゃあ、オヒメサマ、始めましょうね」
 と歌うような口調でハルバルさんはオカリナの背中を押し、タイジの傍からステージに連れて行ってしまいました。シャワーはクスクス笑いながら嬉しそうにハルバルさんに従い、ステージの手前で、ようやくコートを脱ぎ、巾着バッグの中から肌色のオカリナをとりだしましたが、ふつうだったら手順悪く見えるところが、なぜかここでは、舞台と日常とがなだらかにつながり、シャワーの仕草やはにかみ、ちょっとしたとまどい、それからハルバルさんの貧乏揺すりや、ひっきりなしに鼻や首筋をこする癖など、雑多なすべてが面白く,異色な、眼に快い、パフォーマンスの流れに凝縮され、まとまっているのに、タイジは感心しました。
(ふたりのキャラが天然だからだ)
 とタイジは眺めました。素朴、天然、気取らない親しみや暖かさ、そこから派生する見た目の快さは、意図して作れるものではないのでした。
(ハルバルさん、もしかして多動性障害かもなあ)
 とタイジは会場を眺め渡して、また考えました。不随意運動のように膝や手が勝手に動いてしまうというケースは、タイジのそれまで携わったケア経験にも、いくつかあったのでした。
 そうしている間にも、来客は次々と増えて、シャワーのオカリナの始まるころには、店内の客入りは立ち見をあわせて、三十五、六人になっていました。
 その晩、シャワーが吹いたのは、シャンプーのオリジナルレパートリーではなく、タイジにも耳馴れた日本の唱歌や、よく知られた内外のポップスや、歌謡曲でした。
 ハルバルさんは貧乏揺すりしながらステージに起ち、ぎりぎりまで握っていたジョッキをようやく放して詩集をひらきましたが、朗読をはじめたとたん、膝の揺れはぴたっとおさまりました。持ち前の張りのあるバリトンが、深々と会場に響きわたりました。彼はオペラ歌手にでもしたいほど声量ゆたかで、マイクなしで読み上げる詩句は、ごく自然に心をひきつける節回しを持ち、水を打ったように静まった店内に、朗読とオカリナは交互に調和して流れ、その絶妙は耳の不自由なシャワーを気遣って、絶えずハルバルさんがシャワーの様子を横目でチラチラと見ながら、読み上げる間合いを測っている姿で、彼がリードしていると察することができたのでした。
 自作と、先人の詩人歌人のアンソロジーと言ったとおり、ハルバルさんの選んだ朗読作品はいろいろでした。その中には二つばかり〈曽郷斗〉の名前もありました。
 四十五分ほどの朗読とオカリナ演奏が終わると、出演者を交えての出版お祝い会になりました。ハルバル氏が堂々とお辞儀をするといっせいに拍手や口笛が沸いて真っ赤な大輪の薔薇の花束贈呈、また拍手。その客席から数人の青年が立ち上がり、会場整備にきびきびと動き始め、ハルバルさんの立っていた丸い舞台をふたりがかりでどこかへ片付けてゆきました。
 デイサービス勤務もしているタイジは、職業がら、車椅子の来客たちが、さりげなくヘルパー介助で順番にトイレに向かったり、またガイドヘルパーの付き添う視覚障害者が、店内のざわつく混乱を避けて、安全な席に移動してゆく、いろいろな段取りの手際よさを感心して見ていました。
 オカリナの周囲には、主宰者のハルバルさんと同じくらいの人が集まり、それぞれが手話や読話で話しかけているようでした。彼女の友人の輪の中に、ふとタイジに向かうきついまなざしを感じると思ったら、先日〈個室〉咲織会の展示ですれちがった痩せぎすの青年でした。黒いラム皮のジャンパーを前開きのままずっと脱がずに着ていて、その下は薄手のコットンシャツ一枚のようです。すこし背中の丸く、首がうなだれ加減の姿勢の悪さがもったいなく思える、集団の中でも個性のはっきり目立つ青年でした。
 ハルバルさんは、朗読が終わるやいなや片膝を揺すり始め、集まってきた周囲の友人たちに向かって、まとめて同時に話しかけ、また同時に返事をする、というちょっとした順不同の離れ業をごく自然にやっています。
「君何飲む? ワイン? ビール? ジョッキとグラス。どっちも値段同じ。多いほうが得だよ。詩はね、ぼくにとってインスピレーションじゃなくって、食欲そのもの。詩を書いてるのとピザつまんでるのと同じレベルでエンドルフィン放出される感じだよ。ピザはマルガリータだけ。シンプルに今晩はね。ぼくの詩はハーフ&ハーフ。食い物は奥に頼んでよ。カナッペとかある。たぶんケーキも。彼女が焼いてくれたやつ。脳みそと胃袋は直結してるんだ。ダイエット詩作ね。痩せたかって? 書いてる間は痩せてる。書き終わったあと喰うから、木阿弥ポエット。ついでに言えばダイエットポエット。喰いたくなると詩作する。そのあとで喰う。元気そうね、○○ちゃん。どこかのビエンナーレ出したって聞いたけど……」
 りっぱなもんだ、とタイジはハルバルさんの、文字通り太っ腹を眺めました。会話のあいまあいまに、ハルバルさんは句読点のように人なつこい笑い声をまじえ、次々とまんべんなく、彼を慕う友人とコミュニケーションをとってゆくのでした。タイジは傍らに車椅子を寄せてきたひとのために、すこし脇にしりぞき、車椅子の扱いにどことなく不慣れな感じのする介添えに手を貸して、車椅子のキャスターをあげ、ちょっとした床の段差移動を手伝ってあげました。店内はほぼ完全なバリアフリーですが、リフォームの痕が少し残り、喫茶店の空間を広げた部分の床と、もとの書店フロアとの境界の高低が、少しだけいびつになっているのでした。
「ありがとうございます」
 いかにも学生らしい若い青年は、こめかみの汗をハンカチで拭いて、緊張気味の顔にほっとした笑顔を浮かべました。
「慣れてるね、君もボランティアですか?」
「いや、本職」
「ええ、じゃヘルパー?」
「そう。君はボランティアなんだ」
「うん。大学のボランティアサークルで今夜は来たんだけど、まだ不慣れで、電車外出とかチョーキンチョー。先輩たちといっしょだし、牛尾さんの詩が好きだから」
「牛尾さんて、有名なの?」
「うーん。突き抜けてるひとだよ。ぼくらの大学のOBらしいってハナシだけど、たまにテレビとか出てる。自分のディサビリティ隠さないとこがいいんだ」 
「タレント?」
「そこまでは行かないと思うけど、とにかくマイペースな人物」
 車椅子のひとが、ボランティアの青年の手に触って、くぐもった声で何かを言いました。
青年は立ったまま、上半身を深く傾け、何度も聴き返しながら、構音の乱れた相手の声をなんとか聞き分けると、もういちどタイジに向かい、
「すみませんけど、一瞬ぼくのかわりに、レバー握っててくれます? 喉が渇いたっておっしゃるので、何かもらってくるから。君の分も運ぶよ。何がいい?」
「何でも。ビールでもチューハイでも、ワインでも」
「ありがとう。よろしく」
 タイジは車椅子のハンドルを握るとその手を離さずに、いつもの習慣で椅子の横に屈みこみ、車椅子に座ったひとと同じ眼の高さに腰を据えました。車椅子のひとは見た感じでは七十歳くらいの女性で、顔の表情の偏りから判断して、重度の左半身麻痺でした。
「こんばんは。ちょっとお手伝いさせていただきます」
 タイジは右側から女性に話しかけると、老婦人の顔がはっと明るくなり、うんうん、と微笑をひろげながらうなずいてくれました。
「初めて……」
「はい」
「会った。来たの?」
「ええ、ここに来たのは初めてです」
 女性は話好きらしく、不自由な口を懸命に動かしながらタイジにカタコトで話しかけるのでした。
「トモダチ?」
「うーん。そう、あのオカリナと知り合い」
「かわいい、良い子、オカリナ」
「ですね」
 ボランティアの学生が戻ってきたので、タイジは彼の握った利用者さん用のオレンジジュースを、やはり仕事の眼で点検し、やんわりと、
「えーと。これってちょっとトロミつけたほうがいいかもね」
「あ、そうか。さすがプロ。すいません、○○さん」
「ぼく行くよ。トロミやったことある? ここのキッチンにあるんでしょ?」
「助かる。いちおー事前研修受けたけど、適切かどうかあんま自信ない」
 頼む、と委ねられて、タイジはオレンジジュースの紙コップを持って、厨房にのこのこ入ってゆくと、奥に向かって、
「すいません」
 と声をかけました。
 はい、と柔らかい声は奥からではなくタイジのうしろから返ってきて、さっきの黒いドレスの細身の美女が入り乱れる客たちの隙間を、体をひねりながら抜けて、こちらへ近寄ってきました。
「あ、いそがしいとこドウモ。ここ、トロミーナとか、あります? お客様、このままだとむせて、ちょっと飲めな…飲みにくいから」
「ありますよ。お待ちください」
 こういうひとって、世の中にはいるんだなあ、とタイジは思わず惚れ惚れと彼女を見つめてしまいました。いまどき珍しい、癖のないロングヘアを肩耳にはさんで、白い胸元から肩に垂れかかる黒髪の曲線、細い顔、細い首、一重瞼に描き眉、どちらかというと小柄で、足首のベルトに光る鋲のついた、すごく高いピンヒールの黒いサンダルをはいています。ウエスト、腰骨、どこの肉付きもなめらかでかぼそく、筋肉らしい面の固さが見えず、それでいて胸元だけしらじらとふくらんだつややかな魅惑は、タイジにとって、まったくレアでした。アクセサリーは何もつけていません。一筆に描いたような全身の曲線美を際立たせるマーメイドラインのシルクサテンドレスだけで。
(シーラさんにもびっくりしたけど、このひともすごい。この胸、ホンモノか?)
「初めての顔。オカリナの友達?」
「はいそうです。峰元です」
「あたしはシトネ。〈詩と音〉って書きます。〈と〉だけ平仮名。牛尾のパートナー。よろしく」
 シトネはタイジの手から紙コップを受け取ると、食器棚からトロミ剤を取り出し、馴れた手つきで溶かし入れ、くるくるとかきまぜました。
 へえ、とタイジはシトネの手のスムーズな動きを観察しました。
「うまいですね」
「ええ。牛尾が喘息だから」
 はいどうぞ、と紙コップを返されたとき、何気なく触れたシトネのマニキュアのなめらかな紅色と、しっとりひんやりした指の感触が、タイジの記憶に、快く突き刺さるようでした。
「あなたは何を召し上がる?」
「じゃ、赤ワイン」
「……はい。グラスでどうぞ。そちらのお連れは?」
「連れ?」
 タイジが横とうしろをきょろきょろ見回しても、誰もいません。
「誰かいました? ぼくあっちのお客様の代理で来たんだけど」
「あら、いつのまにか。あなたのすぐ脇に、女性が待っていたの。あなたの肩に手をかけて」
 タイジは一瞬、絶句しました。すこし間を置いて、できるだけ平静な声で、
「その女性って、五十歳くらいの、落ち着いた感じの……」
「顔や年齢ははっきりわからなかったけれど、雰囲気はあなたのお母さまかな、と思ったわ。手を置いて、寄り添う姿勢だから、お連れって。今さっきまでいらしたのに、変ね」
(ヘン…)
 すくみそうなタイジの、目と鼻の奥が痺れて引き攣れる感覚でした。節さん、やっぱりいるんだ…俺の傍に、どっちの肩に彼女の手があるって?。
(あなたの命にかかわることはしない、と思う)
 シーラの言葉を耳の奥からひっぱりだし、なんとか心を静めようとします。
(とにかくトロミジュースを、あのひとに)
 タイジはごくりと赤ワインを一口含み、喉を転がり落ちるアルコールの熱い勢いを借りて、車椅子のほうにもどりました。
 介添えの青年にオレンジジュースを渡すと、タイジはもうそぞろに落ち着かず、さりとてここを出て、ひとり住まいのアパートに戻るのもいやでした。
(ひとりじゃないんだもんな。俺、節さんしょってんのかよ。ジョーダンきついぜ。何の因果で、彼女俺にまつわりつくの)
 なんだか肩が凝ってきました。この際カラ元気で、とタイジは手にした赤ワインを早飲みし、カナッペのトレンチを持って場内を回っているギャルソンから何種類かもらって、バリバリと食べ始めました。
(あ、うまいや。これもしかしてほんとのキャビアじゃない。スッゲー)
 とりあえず恐怖を食欲に紛らしながら、ギャルソンから赤ワインをお代わりし、黙っていると気が滅入るばかりなので、適当に周りに声をかけ、話しやすい何人かのお客と名刺を交換したりしました。出版関係のひとは少ない集いで、タイジが会話したひとたちは、年齢も職業もまちまちでした。看護師さん、サラリーマン、八百屋さん、タイジと同じく介護士さん、ダンサーにギタリスト、学生、かなり有名な企業を引退した立派な身なりのご隠居さん……つまり喫茶店と書店常連の、いろんな階層、さまざまな世界のお客さまが、今夜のお祝いにやってきたということなのでしょう。中には、某婦人雑誌で紹介されたことがあるタイジのギャラリー〈花絵〉を知っているひともいて、タイジには居心地のよい集まりでした。
 そうこうしているうちに、時刻もだいぶ遅くなり、気が付くと車椅子に乗った障害者さんたちは姿を消し、視覚障害のひとたちも、適度な頃合いを測って帰って行かれたようでした。
(俺も帰るか)
 酔っ払った勢いで電話してつかまえ、シーラの声を聴きたい(本音は逢いたい)と思いました。不安だから? でも彼女に、大丈夫よ、心配しないで、なんて慰められるのも、男の沽券にかかわる、と思うタイジでした。
(彼女じゃないもんなあ。それでもキスしたから友人以上くらいにはなったってワケ)
 わけのわかんない女って厄介だよなまッたく、と支離滅裂にぼやき加減。タイジは居残った客のかたまりの中にシャワーを探し、いつもよりだいぶ強引に、彼女の取り巻き連中をおしのけ、
「ぼくこれで失礼するよ。楽しかった。来年のリサイタル企画とか、また後日連絡しよう」 
 なめらかな頬をふだんよりもいっそう甘い薄紅に染めて、今夜はシャワーも、ほろ酔い気分です。
「あたしもそろそろ帰ります。タイジさんは……」
 すこしシャワーは言葉に詰まりました。ひとつ、ふたつ瞬きしてから、にこっと笑うと
「いつも金曜日から日曜日、あそこにいらっしゃるのね?」
「うん」
 彼女の言葉のはざまの沈黙がタイジの心に、ほんのりとしたうれしさを滲ませました。……の間に、シャワーから「どこに帰るの?」と尋ねられた気がしたからでした。口に出されなかった、言い出しかねた気配が、あっさりと互いの距離を縮められる気安さよりも、柔らかい感情をくれました。タイジの思い違いにしても、それは、シーラへの恋からは感じたことのない、また受けることもできなかったほのぼのとした彩りでした。
「帰るの君。何なら泊まっていってもいいんだよ。雑魚寝、どう? 床暖つき合宿。毛布あるし,明日勤務?」
 そこにいきなりハルバルさんのバリトンが飛んできて、少し遅れて黄色いアロハの巨体がどたどたと床を踏み鳴らしてやってきました。もうすっかり酔って真っ赤なほっぺたをぴかぴか光らせた彼は、やっぱり片手になみなみと注がれたビールのジョッキを握り、もう片方に自分の青表紙本を持ち、それでばんばん、といきなりタイジの背中をたたきました。
「ぼく君に惚れちゃった。だからぼくが君のこと忘れないうちにまた寄ってよ」
「え? なにそれ」
「ぼく惚れっぽくて忘れやすいの。ハラはデカイけど、男の容量狭いからね。惚れた相手はさっさと忘れないと次の恋ができないじゃない」
「はあ」
「つまりあれですよ、なんだっけシトネさん、夏にアナタがぼくに常食させる、酸っぱい半透明な海草食品。竹ざおにいれてつるつると打ち出す本格」
「トコロテンよ」
 ハルバルさんの斜め後ろになまめかしく寄り添った細身の彼女がささやきます。
「それそれ。トコロテン、ココロフト。つぎからつぎへと流動物が穴から出るでしょ。
 
ココロフトキミヲコフノミトコロテン

太くてもかぼそい恋の句。どぉ? 酔うとめちゃくちゃメイクができる」
(あージンさんと良い勝負だ。もしかして知り合いだったりして)
 でも、もう面倒なのでジンさんの話題は出しませんでした。
「メイクはメイワクの始まりってねえ」
 シトネはまたさらに涼しい顔で付け加えました。タイジはもはや条件反射となった冗談反射で、
「んじゃ、ぼく、芸がないからノーメイク。これで帰ります」
「持ってけドロボー、今の一本でぼくの青表紙の価値ありよ」
 グローブみたいなハルバル牛尾のでかい手で思いきり熱い握手をされて、胸元にぐいとおしつけられたハルバルさんの詩集の題は、たぶん偶然もしかしたらこれも必然、『脳迷宮 のーめいく』でした。

オカリナ・シーズン 3 ボクはスキマにのこるジャリ

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 十一月半ばの街の日没は早く、ケア開始時刻の五時前には、もう暮色はだいぶ深くなり、空に残る冬晴れの茜の残照と夕星の澄んだきらめきを圧倒して、地上のクリスマスのイルミネーションがくっきりと冴えて目にあざやかでした。シーラとは駅ビル前のロータリーで待ち合わせました。
待ち合わせの時刻きっかりにプジョーでやって来た彼女は白いダウンジャケットに軽い無地のセーター、デニムパンツというシンプルな服装で、ほとんど素顔。髪もうしろにひとまとめにしてアクセサリもなにもつけてはいません。福祉系専門学校生の見学実習のつもりで、というタイジの提案です。
「うちの事業所のエプロン持ってきたから、それ着てよ。たぶん娘さんいないと思うけど、ケアの終了間際くらいに帰ってくるかもしれないから」
 助手席に乗り込んだタイジは言葉すくなに指示しました。シーラは、洗いたてのようにみずみずしい横顔を見せて軽くうなずきました。なんとなくシーラとちゃんと目を合わせることができずに話しながら、タイジは口紅を塗っていない自然な薄紅いろの彼女の唇に思わず目が行ってしまい、そこからもすぐに視線を逸らしました。
でも、タイジの心にはべつにぎくしゃくした感じもなければ、シーラの態度にわだかまりが残っている気配もありません、というより、そんなものを外見には毛ほども感じさせない〈いつもの〉彼女でした。素顔のシーラは、ティーンエイジャーみたいにあどけない雰囲気でさえあるのでした。
車を発進させる前に、シーラは、
「駐車場ある?」
「ソゴウさんの家のは使えないから、城址公園まで行けば、無料のがあるよ」
「その後変わったことない?」
 シーラに尋ねられ、タイジは、
「ないね。日曜は…」
 とちょっと言いあぐね
「ふつうにギャラリーを営業して、ジンさんとこのシャンプーライブの打ち上げだけ、参加してきた」
「遅くまで?」
「いや、終電前には切り上げたよ。ジンさんは友達とそれからまたどっかに二次会に行った。シャンプーふたり組もちゃんとファンが取り巻いて、どこかに運んでいった」
「運んでいった……ピッタリな言い方」
「だろ? まあ、あのまんまの格好で夜の銀座を歩いたっておかしくはないけど、帰り道はちょっと気がかりだよね、大丈夫?って」
「ミネさん優しすぎるのよ」
「それ、ウラ意味ないよね」
「ないよ。本心」
「優し〈すぎる〉ねえ。嬉しくない、誉め言葉にならない」
「誉めてるつもりない。ありのまま」
「そうだね、そういうキツイ言い方のほうが、俺には楽だ」
 シーラは応えずに、黙ってゆっくり車を回し始めました。
 君はあれから……と心に掠めるのを追い払い、タイジは話を逸らします。
「今日は、夕食作ってソゴウ先生に食べていただくんだけど、支度してる間に、簡単に入浴がある。シーラさん何もしなくていいから、先生とコミュニケーションとって。マダラ認知で、クリアなときは、いろいろ教養ある話もなさるから」
「ジンさん、現代詩人の曽郷斗を知っていたわよ」
「え、ほんと?」
「現代詩人って、思っていたより人口が少ないんですって。だいたい千人くらいじゃないかって。歌や俳句人口とは比較にならない狭い世界みたいね。現代詩のいくつかあるメジャー誌に、彼の詩はときどき掲載されていて、かなり評価も高いひと」
「そういえば書棚にたくさん詩集があるよ。
ジンさんも底のわかんないひとだよね。いろんな人脈持ってる」
「ミネさん、ジンさんも自称詩人なのよ。いえ、自称だけじゃなく、ちゃんとペンネーム持ってどこかの文芸の同人なんだと思う」
「初耳だ」
「ソゴウさんとも、もしかしたら顔見知りかもしれない。ソゴウさんは覚えていないだろうけれど」
 そうかあ、とタイジはぬぼっとしたジンさんの顔を思い浮かべました。ソゴウさんとはずいぶん雰囲気は違うけれど、詩人と言えばそうも思えるか。
 車なので、駅からはすぐに到着しました。
 城址公園の駐車場は、ソゴウさん宅まで、歩いて数分のすぐ裏手でした。
 雨戸の閉まっていない一階の屋内のどこにも電灯は点いていず、ソゴウ先生の居室のカーテンがほんの少し開いて、そこからポツンと小さいデスクライトの光だけこぼれて見えます。
「娘さんいないね」
 タイジは郵便ポストを柵ごしに探って鍵を取り出し、すっかり裸木になった庭の百日紅を横目に見て、玄関に上がりました。手早くエプロンをつけ、シーラにも渡すと、もうあとは彼女に構わず、手順どおりにケアを進めます。そのタイジの後を追うように、シーラもダウンを脱いで、エプロンをかぶり、ソゴウさんの書斎兼寝室に入りました。
「こんばんは、先生、〈豆の木〉のミネモトです。ご気分はいかがですか?」
 ソゴウさんは、いつものように窓に面したデスクの前のどっしりした古風な肘掛椅子に深く座っていました。室内はほんのりとエアコン暖房であたたまり、今日は失禁臭もしません。タイジはほっとしました。
「よくも悪くもないねえ。一日中こうやってると、やたら昔のことばかり思い出すよ」
 クリアだな、とタイジは言葉のイントネーションと、薄暗い照明のなかでも目元のしっかりしたソゴウさんの表情から察し、
「そうですか。お体の具合がわるくなければともかくよかったです。みんな風邪をひきかけてて…。今日は特別ですが、専門学校の実習生がうちの事業所に見学に入ってるんです。紹介させていただいてよろしいですか」
「いいよ。その子?」
「こんばんは。千手と申します。今日だけ、ミネモトさんについて、いろいろ学ばせていただきます。よろしくお願いします」
「フレッシュだねえ。センジュさんもミネモト君も若いのにえらい。福祉職も、君たちみたいな若手の人材が集まるようになったなら、将来は明るい」
「ありがとうございます。お風呂の準備を始めますので、少しお待ちください。それから、もうだいぶ暗いので、電気を点けさせていただいてよろしいでしょうか」
「頼むよ」
 天井の蛍光灯が点くと、ソゴウさんはあらためてシーラの姿を頭のてっぺんからつまさきまで、しげしげと眺め、すこし黄ばんだ歯を見せて、無邪気に笑いました。
「ミネモト君の次はこのきれいなひとがぼくの担当になってくれるのかい。それはラッキーだ。筆も進むよ。締め切りも守れるようになるだろう」
「そうですか。よろしくお願いします。まだいろいろ未経験ですので」
シーラは頭をさげてよどみなく応えました。.時間を惜しむタイジは、書斎にふたりを残して浴室にゆき、床暖房をつけ、からっぽの湯船にお湯を張りはじめました。それからすぐにキッチンに走って、冷蔵庫の食材を点検します。ダイニングのメモを見ると、ヘルパーの手間を考えた苑さんの、あらかじめ作りおいた夕食メニューが何種類か入っている、だから味噌汁だけ作ってほしい、としたためてありました。
「ごはんは炊飯器。おかずは電子レンジでチン。よし、オッケー」
 とつぶやくと、思わず口にした言葉にさそわれて胸がドキンとするタイジではありました。
 タイジが行ってしまうと、ソゴウさんは肘掛け椅子から前かがみにゆっくりたちあがり、すこしよろめく足取りで、南に面した窓とは反対側の壁際の書架へゆき、ずらっと並んだハードカヴァーをぼんやりした目で眺め渡しました。書棚は書き物机同様に、しっかりとした昔風の黒っぽい家具で、床から天井までほとんど隙間なく壁いちめんを占めています。ソゴウさん自身の著作を含めた立派な蔵書は、きちんと整頓されていました。
たちあがるとソゴウさんはずいぶん上背のあるひとで、少し猫背気味の痩せた背中が、網目の太いざっくりしたフィッシャーマンセーターをかぶるように着ていても目立ちますが、手足長く、面長の端正な顔立ちで、青春時代はきっと文字通り白皙の美青年だったのではなかろうか、というシーラの印象です。
「君、これ読んだろ?」
 と書棚から、ソゴウさんは長い中指をかるく伸ばして一冊をひょいと抜き出しシーラに手渡しました。シーラのまったく知らない現代詩人の評論集でした。著者はもちろんソゴウさん。
「今までこういう世界に接したことがほとんどなかったので新鮮でした」
 シーラは半分ほんとうのことを言いました。ソゴウさんは大きな口をあけて、声を出さずに笑い、
「ダダイズムって、君がもう生まれる前のものだろうからね。だけど思想的な裏打ちとか、行動とか、とらわれがなくって、すごく開放的なんだよ。みんな面白い……」
 とソゴウさんは言いながら、顔を傾け、シーラの上に視線を泳がせました。シーラは彼の白濁した瞳孔を見つめ、その向こう側にあるものを覗こうとしました。
 カタン、と遠慮がちな音がして、ソゴウさんの背景の書棚のどこからか、一冊本が落ちてきました。それはソゴウさんの足元近くに落ち、続いて二冊目がまた落ちてきました。そのあと三冊め、四冊、五、六、と次々と書物は落ちてきて、それはあたかも誰かが一冊ずつ一定のリズムで、ソゴウさんの周囲に投げて並べるように彼の足元に輪を描き、シーラの目の前で、ソゴウさんの周囲の本の山は高くなってゆくのでした。
 ソゴウさんは、口をパクパクさせながら、しきりに何か喋っているのですが、彼の声はシーラにはぜんぜん聞こえません。
(節さん)
 シーラは呼びかけてみました。ドミノ倒しのように、なめらかなリズムでこぼれ落ちてきた本の堆積は、どこかから堰をきったようにいっぺんに速度と量を増し、床を埋めましたが、厖大な蔵書の全部が床に置かれたとしても、ソゴウさんの部屋を埋め尽くすのには足りないはずなのに、本はどんどん増え続け、ソゴウさんの脚から膝、腰…と嵩を増してゆきます。少し離れて立つシーラの方に書物は一冊も寄らず、これはさながらシーラとソゴウさんを隔てるために積まれた本の壁のようでもありました。
(いつのまにか彼の幻視に入ったんだろうか?)
 とシーラは首をかしげました。一瞬覗き込んだソゴウさんの内側は、どんよりとしたいくつかの思惟のかたまりが、暗い真空にとりとめもなく揺れている不安定な印象で、そこには際立った攻撃性もなければ関連もなく、鮮明な映像も見つかりませんでした。
 シーラの呼びかけに応える節さんの姿もありません。
 蛍光灯のしらじらとした明るさのなかで、まったく〈自然〉に見えない手で投げ出され、際限なく増えてくる本の山は、まるでソゴウさん自身から沸いてくるように彼を埋めてゆき、ソゴウさん自身は、そのことにぜんぜん気がついていず、うつろな表情のまま、声にならない言葉、聞こえない言葉を、しきりにシーラに向かって喋り続けているのでした。
 シーラのうしろの書斎の扉がノックなしに開いたのでシーラがふりかえると、中肉中背の温厚な丸顔の女性が入ってきました。眺めのタータンチェックの巻きスカートに、モスグリーンのモヘアのゆったりしたセーターを着ています。ちょっと毛さきにウェーブをかけたセミロングの髪を黒いカチューシャでまとめ、赤い縁の眼鏡を鼻先に低めにかけた童顔は、銀座で見た姿よりずっと若いけれど、節さんにちがいありません。彼女はシーラなどまるで眼中にないか、見えていないように、室内にごく普通の足取りで入ってくると、夫の前、シーラのすぐ横にたたずみ、
「苦しくない?」
 とソゴウさんに話しかけました。シーラは彼女が隣りに来てもその場所から退かずに、二人の様子を眺め続けました。ふたりともシーラなんか、もうまったく見えていないようなのでした。
「聞こえない言葉で話さけりゃならないのは退屈だが、苦しくはないよ」
「あなたの声を聞かせて」
「聞こえているじゃないか」
「聴こえている声より,聞こえない言葉のごうが多いの、ずっと。ほら、こんなに」
 節さんは夫の周囲の本の山積みを手で指し示しました。
「こんなにたくさんあって……邪魔だわ。わたしにはあなたの在り処さえわからない」
「ぼくはここにいる」
「もっとわかりやすいあなたのほうがいい」
 節さんはさびしそうにポツンとつぶやき、床にしゃがみこみ、スカートのポケットから百円ライターを取り出すと、すぐそばの本に火を点け始めました。
シーラは目を見張りましたが、節さんを停めませんでした。ライターの小さい火は、じきに古書のどこかを焦がし、ちりちりと煙をあげて燃え始め、それがじりじりに変わり、やがてめらめらと、火は火を生んでソゴウさんのまわりの書籍の壁を這い上がってゆきます。炎がふくらんでゆく力に比例して、天井の蛍光灯の明るさは弱くなり、暗がりがこの部屋にのしかかってきました。どっしりした上からの暗闇の重量さえも節さんの点けた火の餌になり、炎はぐいぐい手足を伸ばし、それはまるで、シーラの目には、スパンコールをこれでもかと散らした派手な衣装をつけ、真っ暗な舞台で自分だけスポットライトを浴び、観客の前で踊り始めたピエロみたいに見えるのでした。
一方キッチンのタイジは、これも苑さんがあらかじめ用意してくれている何種類かの味噌汁の具を簡単に刻んでしまうと、壁の給湯ボタンでお風呂の湯張り状況を確認してから、ソゴウさんの居室に戻りました。
「先生、お風呂の準備できました。シーラさん、ありが」
 ノックと声かけ一緒で、ドアを開けるのもまた同時、という分刻みのせっかちのせいで、タイジは室内に入ったとたん頭を殴られるようなショックを受けました。
(まずった。ふたりっきりにするんじゃなかった)
 と悔やむ余裕もあらばこそ。
 ソゴウさんは、シーラの前に途方に暮れた表情で立っていましたが、タイジがあちらで入浴と食事の準備をしている、さほど長くない間に、すっかり衣服を脱いでしまっていたのでした。かろうじて腰にバスタオル一枚巻いているのは、本人の意思ではなく、たぶんシーラでしょうか。
「君? ありがとう」
 タイジがやっとそれだけシーラに言うと、シーラは、床に散乱したソゴウさんの着衣を眺め、気抜けしたような声で、
「いつのまにか…」
 とだけ。その顔に血の気がほとんどないのに、タイジはもう返す言葉も見つからず、両手をだらんと下げたまま、あらぬ虚空に視線を漂わせているソゴウさんの片方の上腕をそっとつかみ、
「先生、お風呂の支度出来ましたよ、お出でください」
 と声をかけ、さらに
「ご気分はいかがですか」
 と機械的に尋ねました。ソゴウさんは無反応です。タイジはもう一声、
「お手洗い、行きましょうか?」
 自分からは動こうとしないソゴウさんの背中をかるく押すようにして部屋から外へ連れ出しました。ともすると背中に添えた手に余計な力が入るのをこらえ、さりげなく、さりげなく、と念じながらも心の中で彼は、
(頼むからここで洩らさないでくれ、ソゴウさん)  
 と呻くような思いでした。
 シーラは、タイジがソゴウさんを連れて行ってしまうと、床にかがんで、散らばったセーターやスラックスをひろいあげ、一枚ずつたたみ、デスクの肘掛け椅子に重ねました。
 その手の指先がすこし冷たくなっているのをシーラは自覚し、たった今さっきまで、自分が視ていた映像が瞬時に消えた驚きを鎮めようと、呼吸を深くします。
(弾かれた)
 幻覚や幻視に襲われるのに、ここから開始などというわかりやすい線引きなどあろうはずもないのですが……
(あたしの関わる余地が全然なかった。節さんが見せた幻視に呑まれて、他のものはいっさい感覚できなくなっていた。あたしは自分が冷静に彼女を観察しているとさえ思っていたのに)
 これだから自縛霊はこわい。幻視と現実の裂け目を挟んで、現実のソゴウさんに掴みかかられていたとしても、自分にはたぶんわからなかったのではないか?
(それとも、ソゴウさんの著作や厖大な蔵書を燃やすという行為で、彼女は何かを暗示し、あたしに訴えているのかしら?)
 そうかもしれない、そう考えた方がいい。
(でもやっぱり直接コンタクトしてほしいな。
ずいぶん穏やかで……裏を返せば、いろんなものを他人に見せず、抑制したまま逝ったひとのようだから、こんな自己表現が噴出すのかもしれないけど。怨念まみれの餓鬼とはちがう。メグを連れてきても大丈夫みたいだ)
 幻視のこちらがわで、ソゴウさんが全裸になってしまったことも、シーラには苦い感じでした。誰が彼の腰を覆ったのか? シーラではありません。ソゴウさんでもありません。
「シーラさん」
 後ろからタイジに呼びかけられ、シーラは意識して、自分の表情をゆるめてふりかえりました。
「大丈夫だった? その…」
「驚いただけ。何もされてない。先生は?」
「ざっとお風呂済ませて、食事中」
 何もされなかった、という返事に、タイジは全身の緊張がどっとほぐれました。
「驚いたよね。でも、こういうことって認知症にはあんまり珍しくないんだ。本人も行為の目的がわからないまま、すっぱだかになっちまう。別に何するわけじゃない。だけど、施設なんかじゃ、そんな姿で堂々とフロアに出てきたり、あたりを徘徊したりしちゃうこともあるらしい」
 ついつい早口になるタイジに、シーラは、
「そう」
「苑さんから、ぼくはソゴウさんの徘徊症状は聞いていたけど、こういうケースは知らなかった。知っていたら、君だけここに残さなかった」
「わかってる。気遣ってくれてありがとう」

 このような奇妙な経緯ですから、その週の木曜日の午後三時からのソゴウさん宅への訪問は、タイジには気乗りのしない、どころか、はっきり嫌なケアになりかけていました。
 月曜日のケア終了後、シーラにお詫びついでに晩御飯おごるよ、と誘ったのですが、
「ミネさんのせいじゃないもん。勝手についてきたあたしの責任だから気にしないで。それに彼は病人なんだし」
 これからまだ行くところがある、と言う彼女を、それ以上ひきとめることもできませんでした。お茶くらいしたかったのですが、一緒にいればいるほど、今は、彼女の前で何を喋ったらいいのかわからなくなりそうでした。
(でも、ソゴウさんのおかげで、シーラさんと一緒にいられる時間が増えるんだ。これが片付くまでは、まだ何度か……きっと何度も彼女と会えるだろう)


  小枝のように固い道
  ぼくは小石みたいに存在してる
  できるだけ心をちいさくして
  君のどこかに入りこみ
  ずっと君を見つめていたい
  君がどこをさすらっても
  ついてゆけるくらい
  ぼくは小さくなって
  君の中にいる

  ふやけた世界で
  いつかわかる
  君をこんなに
  だいじに思うから
  ぼくは小さく
  小枝みたいに
  君の道を示してるんだと
  石っころ
  蹴飛ばされても
  またいつのまにか
  君の世界にすべりこむ
  
ポケットの空欄
  いつも音信不通
  誰もわからない行方
  誰でもいいおしゃべり
  なまぬるい別れなんて
  ぼくは認めない

  君のこころが破けたとき
  他のすべてがこぼれ落ちたって
  ぼくは
  君のほんのすきまに残って
  ささやく
  ふやけた世界なんか
  捨てちまえ
  小石だって
  残ってる希望がある
  自分をジャリにしたって
  ぼくは君の傍にいる
  心とからだ
  男と女
  都合のいい理窟も
  プライドもいらない
  小枝のような道で
  できるだけ心を小さくして
  君を見守る

  ふざけた世界で引き裂かれ
  君から何がこぼれおちても
  ぼくはすきまにのこるジャリ
  ぼくが希望
  なまぬるい別れなんか認めない
  心とからだ
  男と女

 節さんは、あなたの命にかかわるようなことはしないと思う、確約はできないけれど、とシーラが言ったとおり、木曜日の買い物代行と夕食作りは何事もなく済みました。その日は苑さんがケア終了前に(幻覚ではなく)帰宅してくれたので、タイジは何気ない口調で尋ねてみました。
「ソゴウ先生は、とても奥様を大切にしていらっしゃったんですね」
「あら、父が母のことをそんなふうに言ってるんですか?」
 会社帰りの苑さんは、ちっとも化粧崩れのないつやつやした顔に、意外な表情を浮かべました。
「ええ、たまに、ですが」
「母のことを、どんな風に父が言っているのか疑問だけど、仲は悪くなかったと思う。でも彼は永遠の文学少年だから、母の方でずいぶん彼をカバーしてましたよ」
「そうですか」
 苑さんの口調はあっさりしていて、嘘をついているようには聞こえず、また陰性なニュアンスもありませんでした。
(ソゴウさんが、女性関係でお母さんを泣かせた家庭だったら、苑さんはこんな感じのひとじゃなかったろうな。でもそれじゃいったい節さんはなんで成仏できない自縛霊なんかになって、御主人や俺につきまとっているんだろう?)
 苑さんはタイジに、
「母は、父にダメ出ししたことはほとんどなかったわね。ふたりが喧嘩したこともないし。
ていうか、争っているところを見た記憶がないの。かといってベタベタした感じでもなかった。母が亡くなってから、あたし両親のことを思い出すと、母はずいぶんえらかったって思う。父が母をだいじにしてたのは嘘じゃないだろうけど、ああいうひとだから、どうしても自己中で、母のことほんとにわかってたのかなって思う」
「そうですか」
 ああいうひとだから、と苑さんはタイジにはわからないソゴウさんのキャラクターを、タイジも了解済みという言い方で簡単にまとめたのでしたが、そんな〈自己中〉も、ある意味では屈託のない彼女の明るさを印象付けました。
 思わず知らず肩に力が入っていたのか、木曜日のケアが何事もなく終わったことで、かえってその晩タイジはあまり眠れませんでした。夕暮れに、シーラからメールが来たことも、彼の心の波紋を複雑にした理由でした。

 だいじょうぶだった?

 うん

 近いうちにまたアクセスさせて。メグも連れて行く。いい?

 いいよ(チョキ)

 また連絡する。元気で…

(テンなんか付けんな、バカ)
 最後のシーラからのメールを軽くののしって(誰を?)、タイジはいったん携帯を畳に放り出し、少ししてまたひろいあげ、出もしない鼻水を無理やりかんでから、しぶしぶ胸ポケットにしまいました。
ろくに眠れないまま明けた金曜日、普段よりも早めに銀座へ行き、ギャラリーの掃除を簡単に済ませてからブランチ、という段取りで動くつもりだったのですが、タイジはいらいらと落ち着きませんでした。
 所在ないまま、タイジにはめずらしく、やりかけた仕事の手を途中で止め、ぶらぶらとジンさんの〈個室〉に上がりました。そこにジンさんがいるかどうかわかりませんが、誰でもいいから……いえ、それこそとびきり底意地の悪い、くだらないジンさんのツッコミとピンポンしたほうが、シーラからの連絡ばっかり気にかかる、という本音よりは、はるかにマシな気分になれるか、という低迷した状態だったのでした。
 まだ午前中だったのですが〈個室〉のドアは開いていました。先週いっぱいでもう美人風の展示は終了していて、別な企画展示が始まっているようです。ドアの脇の掲示板には
和紙に朱筆の達筆で、おおらかに「咲織会作品展」とあります。
(あれ、めずらしいな。ジンさんとこにしちゃ、クラシック。さきおり会?)
 開けっ放しと見えた扉には、布の下がり端に小さい鈴をたくさん縫い付けた、草木染らしい木綿の中分け暖簾が下がっています。
「ちわー」
 とタイジが暖簾を両手で掲げるようにしてギャラリーに入ってゆくと、すぐ脇の受付テーブルに座っていた女の子が、にこっと笑ってタイジに目礼しました。ジンさんの姿はありません。かわいい子なので、なんとなくつられてタイジも笑顔になり、頭だけ下げると、彼女は続けて、
「先週はありがとうございます。たびたび見に来てくださって」
「え、え?」
 タイジはそこであらためて、受付の彼女に目を据えました。薄化粧して、ポイントメイクもちゃんとしていますが、どことなくまだ少女っぽくて、十八、九というところでしょうか。どこかの誰かに似ていると思う連想が高校時代の倫子につながり、タイジは
「君、シャワー?」
「はい」
 シャワーはころころと朗らかに笑いました。
「わからなかったんですか?」
「だって、髪黒いじゃない。金髪タテロールどうしたの」
「あれはカツラです」
 へえ、とタイジはもういっぺんシャワーの素顔と地毛を眺めなおします。カツラを脱いだシャワーの地毛は、ごく普通の女の子と変わらず、あかるい茶褐色に染められ、肩にちょっと足りないくらいの短いウェーブヘアでした。前髪はビーズピンの何本かで片側にあげ、目化粧もツケマなしで、淡いマスカラだけですが、もともとの目鼻立ちがきれいなので、タイジとしてはそれで十分でした。
「なんでここにいるの?」
「ジンさんが、今日は遅出なので、代りにギャラリー番してるんです」
「君が?」
「はい。この展示、あたしの母が主催しているから」
「そうだったの」
 タイジはあらためてギャラリーをぐるりと見渡しました。入り口とその脇のスペースを除いた三方の壁にそって、きちんと展示台が整えられ、作品照明はほぼ全開。一方向からの光線で生まれる影を消すために、いくつかの方向からのライトをフル調整して、作品の隅から隅まで見えるようにセットされています。展示品はというと、色合いはわりと地味めのかっちりした手提げバッグ、巾着、暖簾、クッションなどなど、いかにもまじめな主婦の、手の込んだ趣味の手芸品といった小間物が、特に奇をてらう風もなく、ほどよい間隔を置きながらどっさりならんでいます。
「お母さんの作品展?」
 タイジはシャワーに話しかけながらも、注意して彼女の正面に顔を向けるようにしました。先週とはうってかわったあかるい照明の中で、案の定、シャワーの視線は懸命にタイジの口の動きを追っているのがわかるからでした。
「この布は、ぜんぶ手織りなんです」
 シャワーは受付から立ち上がり、壁にかかったタピストリをはずしてタイジに見せました。
「手織り? お母さんの?」
「母だけじゃなくて、母の主催する作業所で働いている知的障害者の方の作品がほとんどです。その方たちが織り上げた布を、またこうしてバッグやクッションカバーに仕上げて販売しています」
 シャワーが受け付けのすぐ横の壁に啓示した展示内容の説明書きを示したので、タイジはようやくそれに気づきました。
「地域作業所、サキオリ…」
「さおり、って読みます。この布は、使い古したいろんな布を細く裂いて、また長く繋いで縒り直し、それを機織しているんです。だからほんとうは裂織りなんですけれど、古い布を裂いて、そこからあたらしい何かが〈咲く〉ようにって、この字にしたんです」
 熱心に説明しながらも、シャワーの両手はともすると、普通のひととは違う動き方をかすかにするのに、タイジは気づいていました。手話かな? それとも空書だろうか、とタイジは思い切って、
「シャワー。失礼だったら、ごめん。最初にあやまっとく。君、たぶん耳が不自由だね」
「はい」
 シャワーは素直にうなずきました。
「ぼくの話、わかります?」
「わかりやすいです。すぐに感じました。ミネモトさんが気を使ってるの」
「安心した。ぼく手話できないから。ライブとてもよかったよ。君たちの名刺もらって、あのあと挨拶メールだそうかなって思っていたんだけれど、いろいろバタバタしてて。ほんとに、君たちのスケジュールの空きがあったら、ぼくのギャラリーでも歌ってほしいって思っています」
 シャワーの笑顔が顔いっぱいにひろがりました。
「ありがとうございます。嬉しいです。年内はちょっと無理ですけど、年明けなら、リンスとスケジュール調整して、ミネモトさんところでもやりたいねって話しているんです」
「みっちゃんとペア組んでどのくらい?」
「二年とちょっとかな」
「オカリナは十年前から始めたって言ってましたよね」
「はい」
 シャワーの声は明快で、癖も歪みもなく、まるで普通の少女と変わらないのでした。
「あのライブのときぼくちょっと驚いたんだけど、途中からぼくの友人がセッションしたでしょ」
「ええ」
「君、すぐに彼のフルートが混じったのに気がついたみたいだったけど、どうして?」
「聞こえたから」
「聞こえた?」
「ヒョウガさんの音で、会場の空気が動いたのでわかったの」
「空気の動き…って。どんな感じなの?」
 シャワーは視線をタイジの顔からはずし、適切な言葉を自分の内部から取り出そうとするかのように伏目がちに小首を傾げました。そうすると、彼女の睫毛の自然な影が、なめらかな頬に長く落ちて、タイジがこれまで何度も何度も息づまるような思いで見つめてきたシーラのある瞬間が、そこに二重写しに見え、タイジはつい横を向いてしまいました。
「わたし、ライブ会場ではたいていどこでも、かなり濃い匂いを蒔きます」
 シャワーは丹念に言葉を選びながら話そうとし、伏せた目をタイジの方に戻し、タイジもまた彼女に視線を据え直しました。
「そうだったね、こないだも」
「お客様が不愉快でないといいなって心配になるんですけど、匂いで会場の空気を染めると、空気の流れが、その匂いの濃淡で皮膚感覚みたいに伝わって、あ、今みんな乗ってるな、とか、じっくり聴いてくれてる、とか、その逆に、なんだか落ち着かない、希薄なざわついた感じがするとか、オカリナを吹いていても感じ取れるの。集中しているときは、自分のオカリナの音が、会場全体の匂いっていうか、空気を動かしている感覚」
「へえ」
「あのとき、ヒョウガさんが混じってきたとき、会場はとても静かで、みんな耳を傾けてくれていたわ。わたしはリンスの声と自分のオカリナがうまく溶け合う気持ちの良い……なんていったらいいのかしら、すべすべしたなめらかな感覚だった。それからいきなり匂いが揺れて、違う波動が伝わってきたら、フルートを構えている彼がいた」
「オドロキ?」
「はい。でもヒョウガさんはよく光る眼で、あたしに大丈夫だから続けて、と言っているようだったので」
 敏感だなあ、このひと、とタイジはシャワーの説明を聞きながら思いました。
「そうなんだよね。彼、眼で喋るだろ?」
「はい。あそこに来てくださってたオーナーのお友達って、眼で喋るひと多かった。だからあたしには逆に楽っていうか、居心地よかったです」
 ということは、たぶんシーラやメグのことだろうとタイジは思いました。ところが、
「ミネモトさんも、眼で伝えてくれるから」
 シャワーの言葉に、
「ぼくも? そうかなあ?」
「はいそうです」
 シャワーはまた笑顔をひろげました。
「いつも香水っていうか、ぼくにはよくわかりませんけれど、いろんな匂いを使うの?」
「できるところでは。でも使えないところもあります。そういうときは、控えめに、ふつうのパルファン程度に自分だけ」
 とシャワーが言いかけたとき、入り口の暖簾がチリン、リン、と涼しく鳴って、お客が入ってきました。
 あ、とシャワーの表情が変わったので、タイジは彼女の知人だろうと察しました。親子らしい二人づれで、母親らしいひとは六十歳そこそこ、キャメルのハーフコートの前をきちんと合わせ、有名ブランドのハンドバッグを提げ、息子は、赤いチェックのネルシャツをブルゾン替わりにタートルネックのセーターの上にがさっと着た、三十にはまだ達していないだろうという痩せぎすの青年。女性はタイジにうっすらと反射的な愛想笑いを浮かべましたが、青年は警戒心を隠さない硬い表情をしています。
「それじゃ、また」
 気まずい空気を察し、タイジがシャワーとの対話をやめてギャラリーを出ようとしたその間際、ふと
「そうだ、シャワー。君の本名何ていうんですか? 差し支えなかったら教えてよ」
「さおり、です」
「この咲織のサオリ?」
「いいえ、早朝の早に、織は同じ」
 きれいな字だ、とタイジは頭の中で〈早織〉という名前を思い浮かべました。
「近いうちにメールします」
「そうしてください」
 と言いかけるシャワーに、入ってきた青年がつかつかと近寄り、タイジとシャワーを隔てるように彼女の肩をつついて自分に注意を促し、手話を始めました。タイジが母親のほうを見ると、彼女は愛想笑いを困惑した微笑に変えましたが、何も言いませんでした。
 作業所の…さんで、とシャワーの小声のフォローをタイジは聞き流し〈個室〉を出てゆきましたが、おそらく軽度の知的障害者に違いない青年の、ぎこちなく、またあからさまな態度は、タイジの心を害することは少しもありませんでした。
 廻廊に出て、何気なく腕時計を見ると、もう午後の二時近くでした。
「やべっ」
 とつぶやいたものの、タイジはたいして急ぎもせず、エレベーターではなく階段を下って〈花絵〉に戻ると、入り口の扉は開いていて、なんとジンさんが居座っていました。
「なんで?」
「君の留守番と、ついでにさしいれ」
 ジンさんはスタバのコーヒーカップを突き出しました。まだ冷めていません。
「ありがとうございます。ここ、開けっ放しだったんだ。今までジンさんのとこにいたんですよ」
「知ってるよ」
「知ってるって?」
 ジンさんはにやにやしました。
「上まで行ったんだけどね、君らフィーリングよさそうだから、邪魔しなかった」
「……」
「いい子でしょ」
「……」
「なんで黙ってるの」
「…眼で喋ってみただけだよ。でもジンさんには通じないからやめた」
「うん、俺って女性の眼の色しか読めないの
アシカラズ」
 ジンさんは舌なめずりするような口調でタイジの顔色を測り、
「シーラさんもときどき読めなくなるけどね」
 と付け加えました。タイジは憮然として言い返しました。
「ぼく、彼女はしょっちゅう読めませんよ」
「けど、このごろ会ってるんでしょ?」
(地獄耳め、コンチクショウ)
 タイジは寝不足のせいもあり、珍しく突っ放すように
「言っとくけど、俺今日機嫌わるいよ」
「ほー」
 ジンさんはへいちゃらでした。
「やっぱりシャワーじゃダメ?」
「心は部品じゃないですからね。なんだよジンさん。シャワーとは、ただ展示のハナシとかしてただけだよ。それにシーラさんとだって、こないだ一度つきあってもらっただけだし、それも仕事っていうか、仕事の延長みたいなものだよ」
「曽郷はつつがなくしてる?」
(キショー。かまされたな、俺)
 タイジはジンさんのくれたコーヒーをぐっと飲み込み、頭に逆流した血液をコーヒーといっしょに肉体に押し戻しました。
「オミゴト、ジンさん。伊達に火宅生きてないね」
「わかる?」
「シーラさんが洩らすはずないもん。曽郷斗で推理したわけ? 彼女はジンさんと彼が面識あるんじゃないかって言ってた」
「まあね」
「なんで気になるの?」
「縁ありきってとこ」
 女性関係か、とタイジはジンさんのへらりとした笑顔を眺めながら考えましたが、
「俺、曽郷のこと何にも知りませんよ。知っているのは担当利用者さんのナントカ氏。ジンさんの聴いて面白いようなエピソード、俺から引き出すのは無理だよ」
「りっぱな節操だ。君が友人でよかった」
「繰り返すけど、俺機嫌悪い」
「んじゃ帰る。トンヅラズラカリアシカラズ」
 ジンさんの、タレ眼をほそめたヘラヘラ顔から、彼の表情を読むのは、今のタイジにはできませんでした。タイジはぼそっと
「たまには捨て台詞なしで消えてよ。こっちまで妙な癖つくよ。トンヅラズラカリドッチラケ」
「その体力あるなら大丈夫だ」
「もちろん」
 ジンさんが退散したあと、タイジはともかくギャラリーを片付け(といってもたいして汚れているわけでも、準備が必要なわけでもないのですが)、すっかり冷めてしまったジンさんのコーヒーを飲みながら、今日はお弁当を持って来なかったことにようやく気がつき、我ながら苦笑いしました。
「体力勝負だ。何か買って来るしかない」
 金曜日の午後で、そろそろフロアを覗く客足も増えてきた矢先ですが、寝不足+朝からろくに食べていない胃に、ミルクコーヒーでも、カフェインがきつく沁みるようでした。
 一番近いコンビニで買出しするのに往復約二十分と計算して、戸口に鍵をかけたところに、
「あれ、もうおしまいなの?」
 廊下の向こうから声が飛んできました。
「みっちゃん来たの。おしまいじゃないよ。ちょっと買い物行こうとしただけ」
 倫子の金髪はカツラではなく、地毛を丁寧にカールして染めたもので、今日彼女はそれをポニーテールに結っていました。化粧もシャワーに比べればずっと濃いし、ふつうサイズのツケマもしています。服装はわりと控えめで、フードと襟の端に、フェイクファーのついたロング丈ダウンコートを着て、つま先のとがったスエードのショートブーツを履いています。カーキ色のブーツには茶色や黒のラメ飾りが、縫い目に添っていっぱいついていて、歩くたびに彼女の脚元がキラキラして見えるだろう、という感じです。
「いいよ、入って。買い物、べつにどうしても必要じゃないんだ」
「そお? これおみやげ」
 と倫子は名店の紙袋を退治に渡しました。
銀座通りにかなり大きな店を構えている洋菓子店の詰め合わせです。
「ミネモト君、甘いものオッケーでしょ」
「うん…オッケー」
 ちょうどよかった、これでしのぐか、とタイジは〈花絵〉に戻り、倫子の眼の前で包みを開けると、無造作にいくつか取り出し、呑みかけのスタバのコーヒーといっしょに、遠慮なく、あっという間に食べてしまいました。
「あーおいしかった。みっちゃんさんきゅ。俺じつは朝から何も食べてなかった」
「マジ? もしかして宿酔?」
「違うよ。いろいろ忙しくてさ。今日はどうしたの」
「どうしたのって……打ち上げのとき約束したじゃない。ミネモト君のギャラリー見せてもらうって。下見と、花緒さんの作品鑑賞」
 そうだった…とタイジははっきり思い出せないくらいに酔っ払った打ち上げパーティーでの倫子との口約束の記憶を、どうにかたぐり寄せました。
「それに、今日〈個室〉にシャワー来てるのよ。お母さんの作業所の作品展で」
「うん、さっき見てきた」
「あらそう。彼女といっしょにこのあと年末ライブ予定のとこにもうひとつ行って、スタッフと打ち合わせるつもりなんだ」
「どこのライブハウス?」
「吉祥寺」
「みっちゃん今どこに住んでるの」
「吉祥寺。ライブハウスの近く」
「それじゃ、実家出たの」
「ええ」 
 タイジはそれ以上は訊かないことにして、ちょうどうまい具合に、続けて〈花絵〉を覗きかけた客を数人招きいれるとウィンドーを遮光し、N版をONにしました。
 上映が終わり、倫子以外の客が出てゆくと
「面白かった。ミネモト君の才能っておばあさん譲りなのね」
「お世辞よして。でもさんきゅ。俺はヌキにして、ばあちゃんよろこぶよ。さっきシャワーに聞いたんだけど、年明けくらいならいけるって?」
「そう。一月末から二月始めくらい」
「どこかの週末でどう? DMはよければこっちで作るから」
「集客は、そんなに心配しなくてもいいと思うわ。このくらいのスペースなら、口コミでも充分埋められる」
「えらいなあ。ちゃんとファン持ってる。ずいぶんパワーあるみたいなのにメジャーデビューしないの?」
「寸前、ちょっと」
 即答するリンスの顔に曇りがないので、タイジはもうすこし踏み込んでみました。
「迷ってる?」
「あたし個人じゃなく、彼氏がね」
 あっけらかんと言う倫子を、タイジは感心して眺めました。
「みっちゃん、変わったねえ。悪い意味じゃなく。高校時代は、こんなに……なんていったらいいかなあ」
「スレてなかった」
「スレてないよ。なんというか、突き抜けた感触」
「そうねえ、いくつかトンネルくぐったわ」
「トンネルか。シャンプーの歌って、みっちゃんが作ってるの?」
「曲だけ。作詞はシャワー」
「ええっ。それかなり驚く。歌詞ずいぶん大人っぽいじゃない」
「でしょ。シャワー、幼く見えるけど、あたしより一コ上なのよ」
「……十代かと思った」
「ハートはね。純粋なまま。顔もだから少女のまんま。不思議な子なのって、あたしもついこんな風に言っちゃう」
「シャワーは、耳が不自由だと」
「ええ。片方の耳は生まれつきで、もう一方は、成長してからの病気だって。どちらかの耳は、ときどき聞こえることもあるみたい」
「君たちのユニット形成も不思議だね。どういうキッカケ」
「インタビューみたい」
「ギャラ弾むから」
「長くなるから、はしょるけどいい?」
「いいよ。言いたいことだけで」
「シャワーは、彼氏の姪なのよ。あたし、音大時代、いろいろスランプの時期に休学してたの、そのころのバイト先で今の彼と知り合って、精神的にも物質的にも助けてもらった。
声楽に転向したけど、自分のやりたいことがわからなくなって、自律神経は狂うし、親とも揉めるし、ぐちゃぐちゃ。彼氏と出合ってほんとに神様のお導きって感じだったの」
「いいね、それ。運命的」
「そう。ひとそれぞれ、運命ってあるなと思える出会い。ここではしょるよ。彼氏のことはさておき、歌えなくなってたし、演奏も限界。真っ暗だったあたしに、彼がシャワーを引き合わせてくれたのよ。ぼくの姪で,詩を書く子がいる、顔もあたしに似てるって」
「顔だけじゃないってこと?」
「いっとき、離人症だったこととか」
 苦しげなアクセントもひずみもなく、さらりとした倫子の言葉に、タイジはすぐさま返すこともできず、二人の間に一瞬ちいさい沈黙がはさまりました。倫子はにこっと笑って
「オドロキ?」
「そりゃあ」
「変わんないね、ミネモト君」
 倫子のほうが、しみじみとした口調に変わりました。
「なんで? どこが?」
「あたしら高校時代、クラスメートっていうだけで、そんなに仲良かったわけでもないでしょ。ふつう一般のトモダチスタンス。なのにあたしのコンフェッションに、マジに反応してくれるんだもん」
「つまり手短に言うとどういう意味だよ」
 タイジは笑い出しました。
「コンフェッションて、告白? 誰だって驚くじゃない、あの優等生で美人のみっちゃんがー?って」
「たいていの子は、ああそうって感じで聞き流すだけよ。心にかけもしない。すごく仲良かった子でも、あたしが神経症だったって言っても、表面は同情してくれたりするけれど、底のほうは無関心だったりする。そういう希薄さって、一回底まで落ちた人間にはかなり見えちゃうのよ。なのにミネモト君はそうじゃない。中学、高校のころから優しい少年だな、って思ってたけど、今も変わんないって感じたの」
 倫子は少年、という言い回しに、いたずらっぽくアクセントを強めました。
「優しい、か」
「あたしは嬉しいわ」
「微妙な気分」
「なぜ?」
「いつのまにかインタビュアーはどっちだよ」
「ギャラ前倒しで……うそウソ。言いにくそうだからやめるわ。優しいって言われて喜ぶ男の人、たしかにあんまり多くないかも」
「だよね」
「でも女にとっては嬉しいってことも事実」
「ほんと?」
「あ、声がはずんだ。わかったぞ、ミネモト君。君のビミョーの理由」
「あー、もうやめる。で,離人症だったみっちゃんが復活したのはシャワーとの出会いのおかげ?」
「それもあるけど、いちばんは、やっぱり彼との関係。だって彼氏いなかったらシャワーと知り合うこともなかったし、もういちど歌って、ここまで進みだせるかわかんなかったもの」
 こんにちは、入ってもいい? とおずおずした声が聞こえ、タイジと倫子が同時に入り口をふりかえると、シャワーが覗き込んでいました。
「あ、ごめんごめん。待ち合わせ時間過ぎちゃったね。今タイジ君にトツゲキインタビューしてたのよ」
 倫子は背もたれのない丸椅子の、上半身をひねってシャワーに向き直りました。
 素顔に近いシャワーと、昼間でもちゃんとメイクした倫子が並ぶと、タイジには倫子の昔と今を同時に目のあたりに眺めるような気がしました。
(ぼくらより一歳上ってことは二十六、七ってことか。お化粧してなかったら、シャワーは十六歳でも通りそうだな)
「リンス、もう三時近いから、そろそろここを出ないとまずいわ」
「そうね。じゃ、ミネモト君、あたしたち今日はこれで失礼します。シャワーはミネモト君のおばあさんの映像見たの?」
「まだ。咲織の展示期間中、何度か来るから、そのとき見せていただきます」
「念のため、ここ開けてるのは週末だけですから」
「それじゃあ、あさってくらいにうかがえたら来ます」
 二人は〈花絵〉を去り際に、タイジにかるく頭を下げて出てゆきました。何気ない折りかがみのすっきりした仕草に、この二人の育ちのよさと、今の生活がちゃんとしていることも見てとれ、新しいきれいな女友達との出会いと再会は、とげとげしくなりかけていたタイジの気持ちを和らげてくれました。

オカリナ・シーズン  2 たったひとつのボクのぜんぶ

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 シャンプーのライブが終わると、シーラはメグを送っていくという口実で、打ち上げには加わらずに帰ってゆきました。
ライブにはシャンプーのオッカケファンが数人ずつ、次々にまとまってやって来て、開演時刻前にもう満席、すぐにジンさんの言ったとおり立ち見も出て盛況でした。ファン層は、タイジの見たところ二十代から三十代がいちばん多く、十代も数人混じっているようでしたが、その中には視力障害の子、また軽い知的障害と、あきらかに外貌から察することのできるファンもいて、タイジはシャンプーというユニットに、あらためて違った興味をかきたてられたのでした。
 ジンさんはシーラの来場をさほど吹聴しなかったようで、彼女の知人らしい人物は、久我ビル関係者以外、リハ時に集まった顔ぶれくらいで、それでもそそくさと退去したがるシーラは、ふだんからあまりつきあいのいいタイプではないのでした。
「ミネさん、いっしょにどう? メグの帰る方角とおんなじだから乗ってかない?」
「乗る乗る。ラッキー」
 そんなシーラに気軽に誘われて、タイジはうれしくもあり、また逆につまらないような……でもやっぱりものすごくハッピーな気分になってしまうのでした。
「パパにメールする。シーラさんとタイジさんとご飯食べていくって」
「パパ、家にいるの?」
「たぶんね。今日はお休みか、早く帰ってくる日だと思う」
 メグがメールを出すとすぐに、パパからの返信の着ウタが鳴りました。
「うちに食べに来て、だって」
「でもミネちゃんがいる。彼を途中で降ろしてあげないと」
「俺なら少々遅くなってもいいよ。ジンさんとつきあってたら、終電とかだもん。でも風間さんちまで行って、わざわざ一応都内の俺のアパートまで引き返すのシーラさん面倒でしょ」
「そうでもない。あたしだって家に帰るから」
 ということは、シーラさんの家は……タイジがどきんとしたとき、
「シーラさんの家、どこだっけ?」
 メグが無邪気に代弁してくれました。
「成城学園の近く」
「世田谷区?」
「そう」
(じゃ、俺と近いわけじゃないけど、遠すぎるほどじゃない……)
 こういうのって、どこまでもシンクロニシティと言えば言えるのかなあ、とタイジは首をひねりましたが、とりあえずシーラといっしょにいられる時間が長くなるというので、今夜はもうそれだけでめいっぱい幸福です。
 プジョーの助手席にはメグが乗り、タイジは後部シートです。
「今から急いでも、渋滞ひっかかったらかなり遅くなるかも。メグ、ミネさん、おなか保つ?」
「チョコバーくらいなら、俺常備」
「メグもおやつ持ってる」
「それじゃ大丈夫ね」
 久我ビルの長いつづら折り階段を七階から一階まで歩いて降り、路上駐車場に停めてあるプジョーに近寄りかけて、メグはふと立ち止まりました。一階フロアのいくつかのショップは、その時間もうすべて閉まり、道路側のシャッターも降りていたのですが、地下劇場につづく細長い廊下の非常灯だけは、ほのぼのと灯っていました。つきあたり両側にそれぞれ男女の手洗い、奥は床から天井まで、久我ビル創設当初からの古いタイル張りの幾何学模様の壁画で、白石をベースに赤、黄、黒に青……蜂の巣によく似たカラフルな色石は何十年経ってもさほど褪せずに、いくつかのタイルの剥がれかけたまま残っています。それは、震災にも、空襲からも免れた久我ビルの幸運の象徴でした。
 エントランスを出しなに、メグがなんとなく一階の後方を眺めたとき、さっきコーヒーショップで出合った中年の女性が、壁画の前にうすぼんやりと、メグのほうを向いて立っていました。
 カシミアの上等な、ふんわりとしたセーターの上に、バーバリーのコートの裏地を見せて前をはだけ、折り目のちゃんとついたベージュのスラックス。片手にはおおぶりの角のかっちりと四角い黒のハンドバッグ、同じ色のヒールパンプス。ネックレスとイヤリングはおそろいのクラシカルなグリーンビーズ。
 彼女の姿はさきほどのメグの幻視ほどあざやかではなく、立ち姿の向こうに、久我ビル壁画の幾何学模様が透けて見えるのです。
(待っていたの。さっきは驚かせてごめんなさい)
「待っていたって?」
 メグの洩らした声は小さかったのですが、先に立っていたシーラは敏感にふりかえり、彼女もまた、その女性を見ました。反射的にシーラはその瞬間メグの両肩をつかみ、それは、初めて出合ったころ、安美さんがシーラの前で、険しい顔をしてメグを庇っていたのとよく似た仕草でした。
「メグ、この方はどなた?」
 シーラの声は落ち着いていました。
「節さん」
(あなたが……あなたもこの子と同じね。うれしいわ。わたし、さっき喫茶店でこの子にお願いしたいことがあって)
 節、となのるその女性の言葉は、シーラとメグの頭のなかで聞こえました。礼儀ただしく穏和ですが、どこか一方通行な強引で、シーラとメグに返答のすきまをあたえず、節さんは、くどくどと喋り続けました。
(どうしたらよいのかわからず、わたしは死んでからもずっと迷っているの。怨念にとらわれているわけではないんだけれど、気がかりで、この世から離れられないんです。ただ見守っているだけでは気がすまないで、ついついいろんなおせっかいをしてしまうんですが、それがかえって悪い結果を招いている気がしてきて、そんな矢先に)
(節さん、ゆっくりお話してください)
 ぼんやりとたたずむ相手をじっと見つめたシーラは緊張した表情になり、この迷い霊に語りかけてみました。ですが、無駄だとシーラには直感でわかっていました。節さんの顔はおだやかで、口調も柔らかく、けれども感情のゆらぎや声の抑揚、〈生きている〉魂なら必ず手ごたえをくれるヒーラーとの対話の弾みが、ほとんど感じられなくなっていました。
 硬直し始めている、とシーラは警戒しました。自縛霊。亡くなってから長い間、あてどなく現世を迷っていると、次第次第に霊魂は硬化し、現世に残した未練のことしか考えられなくなるのでした。それは、あたかもひとつの運動しかしなくなった機械と同じでした。もともとはいろんな働きができたのに、ひとつの用途にしか使われなくなると、ほかの機能が錆びつき、衰えてしまうように、です。
それを避けるためには、ひとつには安美さんのように、いったん想いの相手から離れて草木の内部に宿り、この世の息吹を呼吸すること……つまるところ、霊魂だって新陳代謝を続ける必要があるのでした。
 残した未練や執着が強すぎると、樹木に溶けこむことはむつかしくなるのでした。
今も節さんの霊は、シーラの語りかけが聞こえているのかいないのかわからない変化の乏しい顔のまま、
(そんな矢先にあなたがたのお友達が現れてよいきっかけをくれるようだったので、わたしはつい藁をもすがる気持ちで) 
(友達ですって?)
 シーラは節さんの声を無理に遮りました。が、節さんは一方的な口調をすこしも緩めず、
(困っている矢先に、そら、そこの好青年が現れて現れてあらわれて…)
「シーラさん、メグさん、どったのー。遅くなるって言ったじゃんか」
 タイジはわざわざ、いっぺん乗り込んでいたプジョーからしびれをきらして降りてきました。
「早くぅ、ふたりとも何してるの」
(そのかわいい坊やがやって来てやって来て来てくれて)
「ミネちゃん来ないで、あぶない!」
 シーラは叫びましたが、タイジは何にも見えず気づかず、エントランスに入ってきてしまいました。
 ざわっと、節さんのセットしたてのようだった上品な髪が文字どおり総毛立ち、温顔も、ぼんやりとした半透明な影の姿もそのままに、いきなりこちらにやってきたタイジに向かって走り出しました。
「あっ、だめっ」
 とメグは両手をひろげて節さんの前にたちふさがりましたが、節さんはすうっとメグの肉体を突き抜け、同様にメグの後ろに続くシーラも透り抜けて、何も知らずにすたすたと久我ビルに入ってきたタイジに突進しました。
 メグとシーラの眼の前で、節さんとタイジは激突し、両者にはなんの反動も突き抜けもなく、節さんの姿は、タイジの真正面からタイジのなかに吸い込まれるように入ってかき消え、それと同時にタイジは意識を失って、その場にくたくたと膝を折り、前に倒れてしまいました。
 
「……ない?」
「はい、ええと…」
 我にかえったタイジは、すこしふらつく頭をかるく左右に振り、かたわらに立っているシーラに、急に暗闇から抜け出したときのような、眩しさでしょぼしょぼしたまなざしを向けました。
「ミネモトさん、面倒だけど、もう一品作りたいのよね。ちょっと冷蔵庫から長芋出してくださる」
「ああ、ハイハイ」
 タイジは指図されるままキッチンのシンクから離れて冷蔵庫に向き直り、一番下の野菜室から真空パック詰めの長芋を取り出すと、シーラに……
(なわけないぞ)
 どきんとして我にかえると、タイジの眼の前にいるのは、辛子いろのフリースセーターにジーンズ、その上に見覚えのあるELLのエプロンを着けた苑さんでした。
 苑さんは、今日は長いソバージュヘアを後ろでちゃんと束ね、化粧も薄く、呆然と突っ立っているタイジに向かって、いつものようにテキパキとした口調で、
「お父さん、長芋好きなの。ミネモトさん、お芋を剥くのに皮膚アレルギーとかある?」
「ないです。すりおろすんですか?」
「いいえ、皮を剥いてバターソテー」
 タイジはまた混乱し始めました。
(俺、銀座にいたんじゃなかったっけ? ジンさんのギャラリーでシーラさんとシャンプーのパフォーマンス聴いてた。それからシーラさんといっしょにメグの家に晩御飯を食べに寄ろうとしてたのは)
 苑さんはいつになくもたついているタイジの様子に、すこし苛立った様子で、
「あたし、皮を剥くから包丁ください。テーブルの上に、お魚と……ならべて、お父さんの様子を見てきてくださいますか?」
 タイジは腋の下をつめたい汗が流れるのを感じました。自分の姿をかえりみれば、いつもケアワーク時に着ている白いカッターシャツの上に事業所〈豆の木〉の黄緑いろのエプロン。周囲はと見回せば、見覚えのある少しごたごたしたダイニングで、四人掛けのテーブルには、ちゃんと花模様のビニールクロスがかかっていますが、ちょうど半ばまで調味料やらインスタント食品、たぶん苑さん関係の雑誌のバックナンバーだとか、グラム計器、佃煮の陶器の入れ物、コーヒー、紅茶、煎茶の缶などなどが、食器棚にしまわれずにそのまま雑然とひしめいていて、いつも使っている父娘二人の向かい合わせの部分だけ、きちんと拭き清められて空いています。
 ソゴウさんの椅子は、シンク寄りの苑さんの椅子よりすこし幅も手すりも大きめで、ドーナツ型のクッションが敷いてありました。
 そのテーブルの上に、焼きあがったばかりの秋刀魚が櫛型のレモンを添えて皿に乗り、おひたし、大根おろし、箸置きにはもう黒い輪島塗の箸が置かれ……
「お風呂のほう、お願いしますッ」
 苑さんの指図は、きびきびと叱咤する感じになり、タイジはあわてて廊下に飛び出し浴室に向かいました。
(どうなっちゃってるの? どっちが幻想?
なんで苑さんいるの? ああ、介護休業とるって言ってた。でもそれは来年じゃなかったっけ。だとしたらまた早退け有休かな。だとしたら俺は生活介護では入れないはずなんだけど、そんなことないか、急遽なら。入浴見守り? 身体介護も入るんだった、そうだ。食事と入浴。今日は何曜日? 月曜日? 土曜のパフォーマンス終わって、それから俺はシーラさんとそれから後のこと)
 支離滅裂な記憶をたぐるのは、いったん止そう、と浴室の引き戸の前で念じます。脱衣場いっぱいに、もうもうと湯気があふれて、ソゴウさんは、風呂場の戸を閉めずに、ざあざあ体を洗っているのでした。
 そうだ入浴用のエプロンに替えようと、タイジが後戻りしかけると、タイミングよく苑さんがぬっと顔を出し、
「ミネモトさん、これ使うんでしょ?」
 彼女の手には事業所でもらった入浴介助用のビニールエプロン。
「スイマセン。でもよくこれがあるのわかりましたね」
「わかりますとも、あなたのことならだいたいわからせてもらったから」
「え?」
「お父さんの背中を流してくださる? わがままを申し上げて失礼だけれど、あたしもお手伝いしますから」
「娘さん……苑さんの介助はいらないです。俺ひとりでじゅうぶんですから。それより、ソテーは」
「もう出来ました」
 苑さんはジーンズの裾をぐいっとまくりあげ、セーターの袖をめくり、どんどんタイジの先に立って浴室に入ってゆきました。
「お父さん、ヘルパーさんに背中流してもらって。あたしも彼といっしょにやるから」
(いっしょに?)
 洗い場に立ったソゴウさんはシャワーを手に持ち、お湯を出しっぱなしにしているので、湯船からたちのぼる湯気とシャワーのあたらしい湯気とが、その全身を真っ白に覆い、足元さえよく見えないほどです。
「ミネモトさん? 悪いねえ、サンスケさんまでやらせて」
「ハハハ…」 
 タイジは受け流しました。風呂屋のサンスケ。ソゴウさんだけでなく、利用者さんの何気なく口にするユーモアが、ちょっとひっかかるものだったりすることがあるのでした。利用者さんには他意のないヘルパーへの労わりのつもりでも……。とはいえ、介護する側、される側の互いにとって、互いの親しみからうまれる〈潤滑油〉のようなやりとりに、いちいち摩擦の感受性を尖らせていたら、気持ちの良いケアは提供できません。
 タイジが困惑したのは苑さんでした。
 彼女は腕まくり裾あげのラフな格好で風呂場に割り込んでくると、真っ白な湯気をものともせずにソゴウさんの横に立ち、タイジの手にボディシャンプーをたっぷりと着けたアクリル繊維のタオルを渡し、なんとそのままタイジの手をとり、
「あなた、すこし前屈みになってよ」
 とソゴウさんに言いました。
(あなた?)
 タイジは今度は戦慄して苑さんを見ました。
しかし苑さんの顔も湧き上がる湯気に隠れてよく見えません。
(なんだよ、このものすごい煙。風呂桶の蓋を閉めるか、シャワーを止めるかしないと、視界不明でヤバイ)
「背中なんて、俺ひとりで大丈夫スよ」
「そうはいかないの。主人は癖のあるひとだから」
「主人て?」 
 もう苑さんの全身は、ソゴウさんと同様に、足元から白煙に包まれてタイジにはよく見えません。異様なほどぶあつい湯気のなかから、彼女の手だけがこちらに突き出て、そのてのひらがタイジの手に重なり、しきりにソゴウさんの背中らしいあたりを、ゆっくりとこすり始めました。
「苑さん、シャワー停めてください。でないとぼく、ソゴウ先生も、苑さんも全然見えないんです」
「でもねえ、このお湯をとめたら、主人は焼け死んでしまうかもしれない」
「ええ?」
「ほら、床を見て」
 下を見たタイジは仰天しました。ソゴウ先生の足元から、まるで不動明王の火炎のように真っ赤な焔がめらめらと燃え上がっているではありませんか。タイジは反射的に後ずさりしましたが、苑さんの手はいきなり彼の手首をわしづかみに押さえ、
「大丈夫よ。燃えるのはソゴウだけ。だから余計に心配なのよ」
「あなた、苑さんじゃない。誰なんですか」
「わたし、節」
 姿を隠す湯気の向こうで、おっとりとまろやかな返事が聞こえ、かっとなったタイジは逆に、自分の手首を握って放そうとしない相手を、こちらにぐいっとひきよせました。
「スイマセン、乱暴するつもりないけど、わけわかんない」
 相手は他愛なく、ぐらりと傾いて、タイジに重心を預けて来ました。
「わたし、節です」
 どこかしら気抜けの漂う、うわごとのような口調はタイジの耳馴れた〈失認〉のひとの声に似ています。湯気の向こうからタイジの胸によりかかるように上半身を寄せ、すがるような笑いを下ぶくれの丸顔に浮かべた中年女性は苑さんではありません。
「あなた、このままでは夫は焼け死んでしまうのよ」
 タイジのほうに、女性はぐずぐずと力を抜いて倒れ、とっさにタイジが彼女の体重を支えようと身を乗り出した瞬間、ソゴウさんの手からはシャワーのノズルが放れてタイルに落ち、上方からのお湯の鎮火を免れた足元の焔は、いきなり火勢を増し、ごおっと音をたてて、ソゴウさんの全身を包み、目が眩むほどの激しさに燃え上がりました。
 

  会いたい
  会えない
  だけど素直になりたい
  もっと君に叫びたい
  だけど声が見つからない
  君にうたうぼくの心
たったひとつの
  宝石みたいに磨いて
  アイシテルって言ったら
  君はどうするんだろう
  
みんな
  だれも
  傷つきやすいこころを
  未来への夢へあずけて
  今日を走ってる町に
  たったひとつ
  たったひとりの偶然
  でもそれも必然
  神様がくれた愛
  もっと君を受けとめる
  
君を抱きしめたいから
  ぼくはまた羽集めて
  飛ぶことを始めるさ
  君は今
  ぼくじゃない誰かを好き
  でもいつかぼくを好きに
  なるさ
  
愛も傷も魂も夢もうちくだかれた心と孤独そして疲れた肉体もぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ君ならばそれでオッケーそして
  ラッキーついにハッピー

いつか世界を
  ぼくひとりに塗り替えて
  君にあげる宝石
  ぼくのたったひとつの恋
  ぼくのたったひとつの夢
  君に結ぶ天空の羽
  君はどこで飛んでも
  どこまで飛んで落ちても 
  きっとぼくが抱きとめる  
  ぼくが君の住処だよ
  君のすべての住処
 

「あ、気がついた?」
 ガタン、と背中から腰にかるい衝撃があって、急ブレーキと同時にタイジはプジョーの後部シートから足元に転げ落ちそうになりました。
 メグは助手席から後ろに身を乗り出し、気分わるそうに拳で両目をこするタイジの口元にポカリスエットのペットボトルを差し出しました。
「タイジさん、飲めますか?」
「あー。ええ、ナントカ、どうも」
(どっちが夢だ。これは現実か? ここにいるのは僕で、眼の前にいるのは)
「ミネちゃん。気分は?」
 なめらかな、すこし低い、すこしハスキーな声を聴いたとたん、シートから跳ねるように、タイジはがばっと起き上がりました。
「シーラさん、俺どうしてた」
「手っ取り早く言うと、気絶してた」
「気絶? どこで、どこから」
「久我ビルのエントランス。そこらへんの経緯はこちゃごちゃして一言じゃ言えない」
「ここどこですか?」
「首都高を出て一番最初のIC。ミネちゃんが倒れてから、そんなに経ってないの。よかった、こんなに早く正気づいてくれて。どうなることかと思った」
「ごめん、俺重かったでしょ」
 ううん、とメグは首を振りました。
「シーラさんがひとりでタイジさんを担いで車に乗せたんだよ」
「信じらんないね、そっちも」
 タイジはまだぼんやりとした頭のまま、ペットボトルを傾けてポカリをごくんと飲みこみました。どういう状況だったのか、何が起こったのか、今がほんとうに確かな現実なのか、どうなのか……
(夢でもなんでも、こっちのほうがいいや。だってシーラさんがいるもん)
 シーラは、〈節〉と名乗る自縛霊に侵入され、その場に昏倒してしまったタイジを、とりあえず急いで車に積んで銀座を離れ、見咎められて、騒ぎをひろげないようにと考えたのでした。タイジは意識を失っただけで、それ以上の苦痛を示さず、ただ眠ってしまったように見えました。
「命に別状なければ、あとでどうにか、なんとかできるだろうと思ったの」
「てことは、なんかすごいことがあったわけですか?」
 シーラとメグは黙って眼を見合わせました。
「そういうの、よして。ふたりだけで眼で会話して、俺をハブにするのは」
「ハブいてない。さっきも言ったけど、かんたんには説明できないんだ。ミネちゃんこそ、気絶してる間に何か……」
「それそれ。俺ももしかしたらヒーラーかなって、マジ思う幻視もらった」
 タイジはわざと冗談めかして告げましたが、眼の前で、ソゴウさんの全身を包んで燃え上がった紅蓮の焔の記憶は、タイジの全身にあたらしい脂汗をにじませるくらい鮮明で、強烈でした。
「もらって嬉しくなさそうな感じよ、タイジさん」
 メグが下からタイジの顔を見上げ、同情する口ぶりで言いました。
「まあねえ。でもさ、幻影って自分じゃ選べないじゃない、メグさん」
「だよね。メグも今日はね、変な…」
 言いかけたメグをシーラは遮り、
「ともかくメグの家まで飛ばすよ。パパが首を長くして待ってるでしょ。ミネちゃん、食欲ある? なわけないかしら?」
「あるある」
(シーラさん傍にいてくれるならなんだってオッケー)
 とタイジはカラ元気をふりしぼりました。
「あー、そういえば夢の醒めぎわにシャンプーの歌聴いてた気がする。それはよかったなあ。気持ちが救われた」
「どの歌?」
「……歌詞想い出せないけど、ラップぽいの中間に入ってるやつ」
 それもまたウソでした。覚えていたのです。
でもシーラには言えないのでした。あんまり幻影が身に迫るものだったので、タイジの自己防衛本能がシーラへの慕情を仮託する歌を呼び起こして、幻に砕かれそうな心を瓦解から守ったのかもしれないのでした。
(いつか告白できるかなー。でもシーラさん知ってるんだよね。みんなも。ナンダこのざまって感じだ)
 ところが、
「あ、わかった。それ〈ぜんぶ〉って歌でしょ。メグもいいなーって思った」
 メグはまた無邪気に言ってのけ、シーラはタイジには気の毒ながら、ハンドルを握ったまま、さざなみのように、声には出さず笑ったのでした。その笑顔を見たら……あいにくタイジには見えなかったのですが、タイジはもしかしたら嬉しいと思うかもしれない笑顔でした。そうして、自分の顔がバックミラー越しにしても、タイジに見えない位置にあることを、ちゃんと弁えているシーラは、こんなふうに言いました。
「メグ、歌える? それとも歌ってもらいたい?」
「両方」
「じゃ歌って」
「でも歌詞ぜんぶおぼえてない」
「じゃ、いつか歌って」
「シーラさんに?」
「だね」
 シーラはそこでちょうど信号が赤になって停車したので、タイジをふりかえり、頬にふりかかる髪をかきあげ、
「ミネさんとメグでデュオってどう?」
 よせよ、とタイジはシーラを見つめました。
俺、男なんだぜ、シーラさん。ときどき限界来るよ。
 シーラの瞳がきらりと光って、また信号が青に変わり、プジョーは湾岸沿いに、すべるように走り出しました。
「メグさん、歌はいいから、さっき君の言いかけた幻影聞かせてよ」
 いい? とメグはシーラに眼で尋ね、シーラは肯きました。
「シャンプーのライブの前に、コーヒーショップで、シーラさんとケーキ食べてたらね、急に視覚変化が起きて、女のひとが現れたんだ」
「どんな?」
「節さんて名乗ってた。けっこう年かさの、品のいいおばさん。そのひとがメグの腕をつかんで引き寄せようとしたら、いきなり姿が消えて真っ暗闇になって、あたしはその中に転げ落ちそうになった」
 ショックの連打のために、タイジは感情が鈍くなっているのか、あんまりおどろきませんでした。
「そのひと、俺のアタマの中にも現れたよ。節さん」
「そう…。さっきね、久我ビルエントランスで、ミネさんには見えなかったんだけど、その節さん現れて」
「シーラさんとメグさんには見えたの?」
 そう、とシーラは応え、緊迫してきたその場の雰囲気をなだめようと、iPODからカーステレオに音源をつないだフェイバリッドソングを流し始めました。
「ビル・エヴァンズ?」
「マルモのリメイク? かな。いろいろ入ってる」
「落ち着くね、気分が」
「ええ、いつだって音楽はいい」
「シーラさんてつくづくおもしろいひとだね」
「ミネさんにマジに言われるとビクつくよ」
「このマルモのあとに入ってる……何曲目かわかんないけれど、たぶんソーヤ・クリスタルあるでしょ」
「御名答」
「君の心、どこにあるの」
 なぜ、そんな台詞が、よりによって今、自分の口からさらりとこぼれたのかタイジにはわかりませんでした。メグは助手席のシートに深く体をもたれかけて、タイジの問いかけを聴きました。
「たとえば、そのとき聴いている音楽のなかにあるってことにしといてよ」
 ソーヤを聴くのは平気なの? 
 タイジは心でつぶやきました。君がそんなだから、ヒョウと君を見ていても、俺はあきらめられないんだよ。なんだよ君は、怒るぜ…
(タイジさん、ちっとも怒ってないのに、怒ってるって思えるんだなあ。人を好きになるってこういうことかな?)
 とメグは助手席にシートベルトをかけてもまだ隙間の余る細い膝を、椅子の上で両手で抱えこみ、コホンと小さく息を吐きました。
「続きは? メグ?」
「うん。それで、それから節さんはタイジさんの中に突入して消えちゃった」
「うえ…じゃ、俺のなかにその霊魂がいるんだ。俺の見た幻影のなかで、そのひと、俺が今ケアで担当しているひとの亡くなった奥さんだって言ってた」
「ええ……ミネさんにくっついて久我ビルに来たと、わたしたちに言っていたわ。何かの想いがあって、あたしたちを探していたようだった」
 シーラはタイジを気遣って、節が自縛霊だということは黙っていました。
「探していた目標はそっちなのに、俺のなかにいるの? ゲーだね」
「ミネさんの担当のひとのこと、教えてもらえる?」
「うーん。守秘義務ある」
「それじゃ、あとでいいからミネさんの中に入らせてもらうよ」
 シーラは有無を言わさぬ口調で言い切りました。
「ミネさん何も喋んなくっていい。あたしが勝手に覗かせてもらう。そうしないと、またいつ彼女が出てくるかわかんないし」
 彼女が、あなたを乗っ取るかもしれない、その可能性は低い、と思うけど。
 シーラの心のつぶやきはタイジには聞こえず、でもメグには聞こえました。
「節さんて、ほんとに俺のなかにいるの?」
「たぶん」
「ちっとも存在を感じない。今夜、夢に出たりして」
 タイジはやけくそみたいに笑いました。

メグの住む海沿いのマンションの地下駐車場にプジョーを乗り入れると、シーラは、ダークなコートを脱ぎ置いて、後部座席常備の衣装袋のなかから、朱色のベレーと、それと同じ色相の薄手のカシミアマフラーを選び、自分の身なりにアクセントをつけました。ブルーと白の縦縞ストライプのウールワンピのシーラは、そうやってあざやかな赤系統のものを身に付けると、それまでのクールな感じとはまるで違ったかわいい印象になりました。
「わー、かっこいい。その帽子とマフラーおそろい?」
 メグは眼をまるくしました。
「そうよ。だってメグのパパは、明るい色好きでしょ? ずいぶん待たせちゃったし、見て元気の出るシーラを見せてあげたいから」
「シーラさん、洋服いっぱい持ってるけど、どこで買ってるの?」
「母親孝行してるの」
 ただボーッとシーラを眺めていたタイジの耳が、その瞬間いっぺんにダンボ状態になりました。それでつい、彼は早口に
「シーラさんのお母さん、ファッション関係なわけ?俺初めて聞いた」
「まあね」
「いいなあ。どこで?」
 とメグがうらやましそうにシーラのベレを見上げていると、
「これはね、ふつうのベレじゃなくって、バスク風ベレなんだ。中東のバスク地方の民族衣装をアレンジしたの。だからちょっとマニッシュでしょ」
「え、じゃまさか、シーラさんの実家って、そんな」
「違うって。あたしの母親はイタリア人。趣味が高じて、ミラノで個人のブランドやってるだけ」
 そうかあ、とタイジは胸のいくつかのつかえのひとつがスッキリした気がしました。
「へえ、じゃシーラさんの着るものぜんぶ、お母さんの?」
「だいたいね。衣装代にほとんどお金かからないのは助かるわ。あっちに帰るとモデル代わりにこき使われる」
 シーラはベレをはずし、しきりに眼をかがやかせて帽子を見ているメグの頭にちょこんと載せてやりました。
「大きすぎる、そうでもないね」
「シーラさん小顔だもん」
「混血だから、頭蓋骨のかたちがメグとちょっと違うのよ」
「ズガイコツ?」
「西洋と東洋と、骨の形がいくつか違う。頭の骨の縦横の幅」
「ふうん」
 部屋では、駿男さんが食事の準備をすっかり済ませ、きれいにテーブルセッティングまで整えて、待ち構えていました。
「やーひさしぶり。シーラさんいつ見てもかっこいいねえ、君。タイジさんも元気そう?かな。ちょっと疲れてる感じするけど?」
「はあ、激務の日々です。シーラさんに癒されてます」
 なぜか……そのとき、タイジの口からそんな台詞がすらすらと出てきました。ふだんの(それまでの)タイジだったら(たぶん)言えないような台詞でした。
「だろうなあ」
 駿男さんは大きくうなずいて、
「今夜はローストビーフ。あなたたちアレルギーとかなかったよね?」
「ナイナイ」
 とシーラは首を振りました。ベレを脱いでも、首にふわりと巻いた朱色のマフラーは、かるく結んでそのままにしています。
 駿男さんは料理上手な上に、屈託のない話上手で、ひとり暮らしをしているタイジと、男料理の話題でいろいろ盛り上がりました。お肉は市販のものを切り分けたものですが、ミモザサラダやコンソメなど、駿男さんがこしらえて、香辛料や飾り付けもずいぶん凝っていました。ローストビーフですが、主食はパンではなく、伊万里の大皿に、チコリの葉にちょこんと乗せたサフランライスが菊のはなびらのように幾重もの円を描いて盛り付けられています。
「パパがんばったねー。メグだけだったら、こんなご馳走しないのに」
「だって、シーラさん、とタイジ君来るって言うじゃない」
「あ、その言い方、ぼくモロ付録ですね。いい感じ」
 シーラと自分の名前の隙間のわかりやすいクッションに、タイジは笑ってしまいました。駿男さんは澄まして、
「そう言うニュアンスも、女性の自尊心をくすぐる手ですよ、タイジ君。男がメインディッシュでどーするって」
「はあ」
 笑いながら、タイジはふと思わずにはいられませんでした。パパさん、こいびといないんだろうか、と。駿男さんは、メグの父親にしてはかなり年配な方で、タイジの父とあんまり変わりません。
(奥さん、きれいな人だったんだよね。メグの母親だもん。でも、それからずっと一人でいられるのかな。パパさん色男ってわけじゃないけど、ハナシおもしろいし、明るいし、モテそうな感じ)
 メグとパパのふたり暮らしの住まいは、かなりきれいに片付いていますが、どことなくおおざっぱで、リビングのソファに駿男さんのジャケットやパーカーなどが、脱いだときそのままみたいに投げ出してあったり、ダイニングテーブルに飾った花は、いかにも即席らしく、真っ赤なカーネーションと霞草だったり、ここにこまやかな大人の女性の出入りしている気配は、やはり感じられないのでした。
(パパが恋人を連れ込んでいるんだったら、メグはこんなにのびのびしてないだろう)
 とタイジは、メグを眺めて、また考えました。
「パパ、このご飯、お寿司ごはん?」
 メグは、チコリの葉っぱにちいさく盛り付けられたご飯を口に運んで尋ねました。
「そ。チコリの一口サフラン寿司」
「あたし初めていただきました。チコリ寿司ですか?」
「うちのの伝授よ。あのひと、なんかいろいろこまごました料理好きだったのよね。メグも安美さんくらい料理うまくなってくれればいいなあ、と、ぼく機会あるごとに彼女の手料理再現してるんだ」
「チコリの食感とサフランの香り、絶品」
 シーラの感想に、駿男さんは得意そうに
「ありがと。サフラン、ホンモノよ」
「ええ、わかります」
 タイジは相槌をうちながら、手間ひま惜しまないひと、と感心しました。そうして、また、
(こういう駿男パパが再婚って、やっぱむつかしいものがあるかも)
 とも思ったのでした。
 その晩、パパはタイジを気遣ってかシーラをひきとめず、デジカメも持ち出しませんでした。久我ビルでのなりゆきから、メグはまたすぐシーラに会うことになるだろうと予想できましたし、このあとタイジへのシーラのケアがあることもわかっていたので、食後ながながと話し込むこともなく、タイジとシーラは海辺の町から都内へ戻ってゆきました。
 ふたりをマンションの戸口で見送ったパパは、娘に言いました。
「パンのような男って、わかる?」
「わかんない。今夜ご飯だった」
「そうじゃなくて、ぼくやタイジさんみたいな男をフランス語ではそう言うの」
「フランス語?」
「ことわざでね。つまり噛めば噛むほど味が出る、フランスのバゲット自慢だよ」
「日本人だからフランスパンは変じゃない」
「そういうこだわり方ヌキ」
「メグはエクレアのほうが好き、パンより」
「いいよ。女の子って、お菓子みたいなもんだよ。クリームとか、ジュレとかはさんだ。
だけど、いつもお菓子食べるわけじゃないでしょ。こう、身近にいて欠かせない、ぼくらは、地味でもコンスタントに噛みしめる価値のあるヤツってことさ」
「パパしょってるね」
「どこでそんな古風なボキャ覚えたの?」

 助手席に乗ってしまうと、タイジはしばらく無口になりました。
 そしてシーラも黙っていました。カーステレオからは、フェイバリッド・ソングの続きで、ソーヤ・クリスタル。それからまたジャズに戻って、タイジの知らない内外のミュージシャンの歌が、ふたりの沈黙をなめらかに埋めて流れ続けました。
 だいぶたってから、タイジから
「成城に住んでるんですか?」
「そう。お父さんといっしょ」
「お父さん。千手…ええと」
「ほんとはお祖父ちゃんなんだけどね」
 タイジの言いよどみとは違ったリアクションをシーラが返したので、タイジははっとしました。
(訊いてもいいってことか)
 それじゃあ、とタイジは思いきって、
「さっきメグに話してたけど、シーラさんのお母さん、イタリアのミラノ?」
「うん。スミレ・デュランテって小さいアパレルブランド経営してる」
「スミレ?」
「彼女の名前がヴィオレッタだから。日本語だとスミレ」
「シーラさんのお父さんて、鳳凰士朗さん。有名人だよね」
「あたしは直接会ったことないのよ。て言うか、物心ついたときには、ヴィオレッタと彼は離れていて、あたしは十二歳までミラノにいた。彼は夭折したでしょ。ヨーロッパに遊学してた何年かの間に、ヴィオレッタと会って、同棲した。でもヴィオレッタはもう婚約者がいたのよ。彼女と彼が出会ったのはヴッパタール」
「ヴッパタール? じゃバレリーナ?」
「モダンダンサー志望というだけ。もとはクラシックバレエだったんだけど、本人が言うには、〈背が伸びすぎ〉てあきらめたって。でも踊りが好きで、ビナ・バウシュが好きで、それからシロウに惚れこんで、彼が世界一。婚約破棄、子どもを生んで、間もなく士朗は帰国してしまう。鳳凰家では士朗は天才肌の変り種。国際結婚だって経歴に華を添えるかもしれないという、恵まれたキャラクター。だけど、デュランテ家は彼女を絶対に手放さなかった、らしい」
「ややこしい……」
「うん。鬱陶しい。こういうこと考えるの、あたし好きじゃない」
「ごめん」
「喋りたいから喋っただけ」
 ここらでいいかな、とシーラはどこかのパーキングに車を停めました。
「どうするの?」
「手をくれる? ミネさんの中を少しだけ見せてもらう。すぐ済むから」
 タイジの返事を待たずに、シーラはタイジの手を取り、シートに深くもたれて、呼吸を整えました。それからタイジの手の甲を額に軽くおしあてて……
 数秒。
 いいえ数分。
 もしかしたら数時間(ウソ)


  ずっと握っててよ
  このまま夜の真ん中で
  ウソと真実の海に揺られて
  なにも見えなくなって
  難破した船みたいに
  君に寄り添う
  ぼくの心は 折れて
  柱一本にすがって
  君を追ってる だから
  ぼくの心握っててよ
  何も見えない 暗闇
  愛の嵐
  君のぬくもりを
  いつまでも抱いてる

  泣いてるの
  誰のため?
  ウソと真実の波間で
  君は揺られながら
  ぼくの前に流れ着いた
  折れて 濡れて
  凍えそう
  ぼくの温度でよけりゃ
  みんなあげる
  あたためて
  難破した 君
  愛の嵐

  ぼくの心は 折れて
  君への想いにすがって
  君のために生きてる
  ほかにナニが必要だろう?
  人生なんてちっぽけだ
  だから
  ひとりじゃなく
  君とふたりで
  お互いの心を握って
  離れない
  ウソと真実の海に揺られて
  ああ 君を追ってる
  この 夜


 ぱちっ、と睫毛のひらく音が聴こえるような気がして、シーラが瞼を開け、
「わかった。ミネさん?」
「……なに?」
(なにがわかったんだよ)
「今度のケアいつ?」
「月曜日」
 あたしもいっしょに行っていい、とは言えないよね。でもこっそり行くよ。メグを連れて行くかはわからない。でもソゴウさんに会わなくちゃ」
「ソゴウさん、か…」
(俺は彼女に曽郷斗の名前を言ったことがない。でもたしかにシーラさんは俺の心を読んだんだ)
「いいよ。いっしょに来てよ。娘さんがもしかしたらいるかもしれないけれど、基本的に独居ってことになってる。俺のなかに彼の奥さんらしき霊魂がひそんでるんでしょ。だったら、彼のために徐霊してもらわないとね」
「徐霊というか、浄霊というか。節さんの想いはただ御主人に向かっている筈だから、彼女の念が、ミネさんから移り易い状況のほうがいいわ」
「てことは、俺にくっついてるの?」
「憑依というより、利用している感じ。いろんな錯覚や幻視は、節さんのせいよ。月曜まで、また何かあるかもしれないけれど、命をおびやかすことはない」
「ふうん」
 タイジは気のない返事をしました。
「迫力に欠けるね、なんか」
「どうして?」
「俺のなかみ、読んだんでしょ?」
「ええ」
「俺のなかにこういう単語なかった?」
「え?」
 限界、とつぶやいてタイジは助手席から運転席のシーラにかぶさりました。
「逃げないの?」
 シーラはタイジに抱きしめられて、抗いませんでした。
「どこへ?」
 シーラはかすかに笑ったようでした。
「逃げないわよ。オッケーも出さないけど」
 その言葉に、タイジはシーラの両肩をつかんで、座席に押し付け、彼女の顔ぎりぎりまで自分の顔を近づけると、
「ふざけるな、バカ」
 シーラのほそい手首が夕顔の蔓のように伸びて、タイジのうなじに触れ、タイジの顔を自分にひきよせました。そうして、シーラのくちびるは、ほんのすこしタイジのくちびるから逸れて、彼の頬を掠め、耳たぶに動いて、こんなふうにささやいたのでした。
「これからヒョウに逢うと思う。それでいいいの?」
「じゃ、ヒョウに逢うんじゃなかったら君、俺にオッケー出すの?」
「出さない」
 タイジはシーラの顎をつかんで、強引にキスしました。彼女の言い草が頭に来たので、それができたのでした。
 ふたりの顔がはなれたとき、ちょうどシーラの携帯の着ウタが鳴りました。
「ヒョウだろ」
「……」
 タイジはシーラを抱きしめた手をゆるめて、助手席に戻りました。
「出ろよ」
「いいの?」
「たたき殺すぞ、シーラさん。男をなめるな」
 タイジはプジョーのドアを開け、外に出ました。周囲のパーキングには間を置いて数台の駐車。少し離れた道沿いに二十四時間営業のコンビニの灯りだけが、真夜中を皓皓と照らしています。タイジは深呼吸して、コンビニへ向かいました。
 着ウタはしばらく鳴り続け、シーラが出る前に切れてしまったので、あらためてシーラからかけ直しました。もちろんヒョウガ。
―終電よゆうだからそっち行く
「いいけど」
 とシーラはかるく唇を舐めました。タイジの感触が残っています。
「宗雪が来てるかも。週末にお父さんにお稽古つけてもらいたいって言ってた」
―おまえの部屋に泊まるの?
「かもね」
 今のタイジだったらさらに沸騰しそうなニュアンスでした。が、ヒョウガは
―一時間くらい雪を外に出しとけ。
 それで電話は切れました。

オカリナ・シーズン   1 ナチュラル・スカイ

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   オカリナ・シーズン

 ワケありのケアなんだけれど、しばらくの間ひきうけてもらえないかしら、と言いながら、峰元涼子さんはひさびさに帰宅した息子の前に、昼ごはんの炒飯を置きました。
「まぁたイミシンな〈前置き〉つき? なんだよ、あらたまって」
 タイジは眼の前にどしんと押し出された山盛りの五目炒飯と、深刻な台詞のわりには、いつもと変わらず血色のよい涼子さんをかわるがわる眺めました。明るいレモンイエローの地に、薄茶と朱色の細い横縞模様のコットンシャツの袖口から、涼子さんの、いかにも働き者らしく、日焼けした固太りの二の腕がつやつやと覗いています。
 十月半ば、ほぼ一週間おきに大小の台風が日本に押し寄せ、人騒がせに風雨激しいそのたびごとに、季節はあらあらしく塗り替えられ、湿度と残暑は遠くへ押しやられて、傾きかげんの陽の光もさらりと乾いた金褐色の秋が、街に深まっていました。
「月曜日と木曜日、週二回のケアなんだけれど、ヘルパーさんの都合がつかないの」
「曜日を変えて探したら?」
「それで見つかるんなら、よそのセクションのあなたにお願いしませんよ」
「そりゃそうだ。母さんのセクションと俺とじゃ担当地域が違うじゃない。それってそもそもおかしい」
「だから言ったでしょ。ちょっとワケありなんだって」
 涼子さんは冷蔵庫からオレンジジュースを出してコップに注ぎ、息子に渡しました。
「おおー。ブキミな過剰サービス。大盛り炒飯は豚肉たっぷりだし、ドリンクまでつけて何事だよって」
「豚じゃなくて牛肉ですよ。おまえいつから味オンチになったの?」
「ウソー。食べるの恐れ多い。どころかコワイ。ほんとになんで? 食い物で息子釣らなきゃなんないほど、母さんのセクションて人材逼迫してるの?」
「そういうことではないんだけどね」
 と涼子さんは小さくため息をついて、ダイニングテーブルの息子の向かいに座りました。
 タイジと彼の母親の涼子さんは、全国規模の福祉団体に所属していましたが、タイジは親元から離れて隣町に別居しているので、それぞれ仕事の担当区域は異なり、また福祉職ベテランの涼子さんは、所属事業所のサービス担当責任者を任されているのでした。
 母さんにしちゃ珍しいもたつき、とタイジは涼子さんの言い出しかねている様子から、ケア内容を推し量ります。
(なんだろ、重度身体介護かな。それとも精神的にキツイ…ターミナル? でもその程度じゃ訪問ヘルパーが見つからないってこともないはずなんだけれど)
 タイジはスプーンに炒飯をどさっと乗せて食べ始めました。もぐもぐと口を動かしながら、
「はっきり言ってよ。どんなケア?」
「あのねえ、この方はおだやかで、インテリで、しかもダンディないい人なの」
「ウン」
「年齢は六十五歳で、つまり若年性認知症なのね。数年前に発症し、除々に重くなり、この一年くらいで急激に悪化。失認、失見当、記憶障害、徘徊ナドナド。日常生活がかなり危なくなって、半年前から、うちのヘルパーが訪問し始めたの」
「ご家族は?」
「キーパーソンは娘さん。ひとり娘で、三十歳。独身の、たしかどこかの出版社の編集者だったかしら。親子二人ぐらしだけど、娘さんは忙しくて、日中は独居状態。だから生活援助で最初は入って、このごろは入浴介助も始まってる」
「若年性アルツかあ。気の毒に、てのは禁句だよね。奥さんは?」
「一年前に亡くなったの。ずっと御主人を支えてきた奥様の死のショックで、この方いっぺんに重症になっちゃったらしい」
「そういう事情と、ヘルパーが見つからない理由は結びつかないよ。ちゃんと話して」
「そうよねえ、普通のケア依頼なら言わないし、言えないことなんだけどね。この半年で、うちのヘルパーさん、五人替わってるの」
「ええっ。てことは一ヶ月にひとり。たった一ヶ月で討ち死に!」
「そうじゃありませんよ。入浴含めた週二回のケアそれぞれ、別ヘルパーが訪問してましたからね。でもまあ、それにしても二ヶ月もたないというサンザンなケア」
「またなんで」
 涼子さんは、息子に渡したオレンジジュースを自分で一口ゴクリと飲み、
「事故が多いの」
「?」
「それぞれのヘルパーさん、このケアのおかげで怪我したり、アクシデントにあったりしてねえ」
 タイジは炒飯をすくう手をとめて、涼子さんの顔を凝視しました。涼子さんはまたオレンジジュースをぐいっとあおるように飲んで、
「最初のヘルパーは、自転車で転倒骨折。二人目は火傷。このひとは調理の最中の事故だったみたい。三人目は棚から本が…かなりたくさんの蔵書が突然〈降って来た〉ので」
「降って来たァ?」
「そう、雨アラレと降って来たそうよ」
「で、打撲?」
「心の打ち身捻挫。こわくてあの家には行きたくないって」
「ポルターガイストじゃん」
「やめてよ、タイちゃん」
「母さんの話を要約しただけだよ。で、次のヘルパーさんは?」
「子供さんの急病」
「そりゃよかった。いや、よくはないけど、わかりやすいね」
「それも……まあ、なんていうか、いろいろあって、わかりにくいみたい」
「いっそ探偵社に頼んだら?」
 と冗談めかして言ったタイジは、反射的にシーラを思い浮かべていました。涼子さんはまじめに怖い顔をして、
「バカ言わないでよ。娘さんは何も知らないんですからね。娘さんには何にも異変はないんだから。事故はヘルパーだけ」
「偶然が重なった?」
「五人目は長続きしたのよ。このひと男性で、三ヶ月くらい臨時で入ってくれていたんだけれど、十月いっぱいでやめるの。別な企業に正社員再就職決まって」
「ああそうか。男性で、うちみたいな福祉経営だと、ちょっとキツイよね」
「おまえ、ヒトゴトみたいに…。自分の将来も考えなさいよ」
「あ、ヤベー。とにかく話をもとに戻そう。男性ヘルパーは長持ちしたの?」
「そう、無事故、無欠勤。だからこのひとは、他の女性ヘルパーがころころ代わるんで不思議がってたわ」
「セクハラかって?」
「疑われるようなひとばかりじゃないから。ここのケアは肉体的には楽なほうだから、相当な年配さんも担当していたのよ」
「母さんぐらいの?」
 涼子さんは、さっきよりもっと真剣に怖い顔をして、じろっとタイジを睨みました。
「今はね、オンナの花盛りは五十、六十からなんです」
「すいません、母上」
 タイジは両手をテーブルの上にそろえ、三つ指ついて見せました。
「訪問介護に、セクハラの危険はつきものですからね。でもそんなんじゃないのよ。利用者さんは、さっきも言ったとおり、穏和で…娘さんも上品なインテリでねえ……仕事は簡単なのよ。お掃除と、入浴にしても、見守り中心だから、ヘルパー負担は少ないの」
「なのに、原因不明の連発事故」
「そんな経緯は、依頼時にはっきり言うわけにはいかないんだけれど、なんとなくみんなに伝わっちゃって。男性なら大丈夫らしいとはいえ、それこそうちには人材がいない」
「百戦錬磨のタフガイ息子に白羽の矢」
「とりあえずでいいから。お試しでいいから」 
 と涼子さんは、オレンジジュースをいつの間にか全部自分で飲んでしまい、息子に向かって両手を合わせました。

 涼子さんに拝み倒され、タイジは十月の最終月曜日に、その利用者さんの御宅を、それまで無事故無欠勤で入っていた男性職員といっしょに同行訪問することにしました。
新しい訪問介護先へ入る前に一度は必ず、先輩ヘルパー、またはその地域担当コーディネーター役のヘルパーに伴われ、利用者さんとの顔合わせを兼ねて、仕事の手順などを教えてもらうきまりです。
 涼子さんのケア依頼には都合よく、それまでタイジが勤めていた月曜の夕方からのケアは、九月に入ってまもなく利用者さんの容態が悪化して入院され、お休みになっていました。偶然ながらこちらの利用者さんも男性で、タイジをとても可愛がってくださった写真家の先生でした。
 四時三十分、約束の時刻きっかりに、先輩さんもチャリでやってきました。
「鈴木です。お待たせしました。君も自転車? 電動だね、よかった。このお宅、結構急な坂道の上にあるんで、普通の自転車だとキツイです」
「城址公園の近くだって母から聞いています」
「そう、住むにはいいけど、買い物とかちょっと不便。峰元さんの息子さんでしょ。顔も体格もお母さん似ですねえ」
 ヘルパーの鈴木さんは三十ちょっと前くらいで、いかにも福祉職を選びそうな、すこし小柄で優しい顔つきの青年でした。
「よく言われます。母のコピーって」
 日中はまだ暑さの残る陽射しも夕暮れ過ぎると急激に冷えて、いくつもの街角をまがり、傾斜のゆるい坂を登っては降りるたび、風景は集合住宅の多い市街地から、雑木林に日没の残照が秋色を深める郊外へと移り変わってゆきました。
 最後の急な登り坂の中途で横道に逸れ、コンクリートの車寄せに、庭木の落ち葉が早くも乱れたその家は、屋根と壁とがしっかりと大きく、堅実な雰囲気の昭和建築でした。
「郵便受けの裏側に鍵が入っています」
 と鈴木さんは塀の表側から手を伸ばし、隠してある鍵を取り出しました。
「ガムテープで横にかるく貼り付けてあります。娘さん、仕事でお留守でしょ。こういうのは無用心だし、ソゴウさんは出かけたいときには、さっさと出かけちゃうから、あんまり意味ないんだけれど、いちおう」
「ソゴウさん?」
 タイジはケア依頼書に書いてあった名前を思い浮かべ、また表札の姓名を確かめて怪訝な顔をしました。
「ハイ、曽郷さん。峰元さんは君に説明してませんでしたか? こちらの本名は宮本さんですが、御本人が覚えていらっしゃる名前は曽郷斗です。現代詩人のソゴウ、トウって。知ってましたか?」
「いえ」
「ソゴウさん、本名はすっかり、でもないけど、だいたい忘れてしまっているんです。で、ペンネームを自分の名前と思い込んでいて。でもそれも間違いじゃないですよね」
「それはそのとおりです…」
 話しながら玄関扉を開けて入り、それまでとはうってかわった大声で、
「こんばんは、〈豆の木〉の鈴木です」
 上がりかまちの高く、タタキのひろい古風な玄関はしんと薄暗く、誰の返事もありません。勝手知ったる鈴木さんは照明を点けると、手早くジャケットを脱ぎ、荷物を脇にまとめて、身支度を済ませました。
 玄関をあがってすぐ脇に手洗い、浴室、長い廊下の突き当りに台所とリビングダイニング。
「ソゴウさんは、だいたいいつも自分のお部屋にいます。今夜はどうかな」
 玄関の内鍵をきちんと閉めて、鈴木さんは柔和な声で言いました。突き当たりのまっくらな食堂を見て、そちらへはゆかず、ひとつ手前の廊下中ほどのドアをノックしました。
「ソゴウさん、鈴木です。こんばんは」
 返事を待たずに鈴木さんはドアを開け、タイジを引き合わせました。
 居室は八畳ほどの洋間で、ソゴウさんは、壁に向かって据えられたどっしりした黒い机に向かい、照明にスタンドライトをひとつ点したまま、声をかけても、すぐには身動きのないぼんやりした姿で座っていました。しばらくして、うつむき加減の頭が、ゆるり、と持ち上がり、かるく左右に揺れると、回転式の椅子が、キイと小さく鳴いて動き、からだごとこちらへ向きました。
「ソゴウさん、こちらが十一月からぼくの代わりにソゴウさんのケアをさせていただく峰元です。ソゴウさんに紹介したいので,灯りをつけていいですか?」
「どうぞ。すっかり暗くなったね」
「ハイ。秋の陽はつるべ落としって本当ですね。原稿ははかどっていらっしゃいますか」
「あと少しっていうところで、言葉がまとまらないんだ」
 鈴木さんはちらりとタイジを見て、やんわりと、注意を促しました。 
「はじめまして、ソゴウ先生。峰元太地です。いろいろ教えてください」
「教えることなどないよ。君はぼくの介護ヘルパーでしょ。おや、若いねえ。鈴木君より若いじゃないか。それじゃあぼくのほうが、君からいろいろ新しい現代の風を吹き込んでもらわなくちゃ」
 ソゴウさんは猫背の腰をすこし伸ばし、タイジの顔と体に、視点の定まらないまなざしを注ぎました。七三分けの頭髪は半白で、襟足で短くカットされ、顔に無精ひげも見えません。袖を折ってまくりあげたグレイのシャツ、古びて毛玉の目立つ茶色と白のありふれたウールのベスト、カーキ色のズボンの折り目もきちんとしていますが、この時刻ではもう足元の冷える季節というのに、スリッパをはかず、素足のままでした。うつろで、宙に浮いたような表情を除けば、端正な顔立ちのソゴウさんには病みやつれた苦しさも見えません。鈴木さんは歯切れよく、
「お食事はどうなさいますか? お風呂のあとでよろしいですか?」
「風呂のあとがいいよ。きく子は帰ってこないねえ」
「もうじき帰られます。今準備しますから、ここでお待ちください」
 鈴木さんはてきぱきと動いて浴室へゆき、床暖房のスイッチを入れ、湯船にお湯を落とし始めました。
「きく子さんは、娘さん?」
 鈴木さんは首を振りました。
「違うよ。亡くなった奥さんらしいですけど」
(らしい?)
 微妙な困惑を浮かべた鈴木さんの様子には、利用者さんのプライヴァシーに触れたくない、というためらいがはっきり見えました。
「曖昧にしとくと、後でミネモト君困るかなあ……。ソゴウさんね、ときどき違う女のひとの名前呼びますよ。だから驚かないで」
 鈴木さんはお風呂の準備のあと台所へ回り、冷蔵庫の食材を確かめる手を休めて、いかにも意味シンなひそひそ声になりました。
「はあ」
「きく子さんは、次には、別名の誰かさんになるし、その都度いろいろ」
「……いろいろ、ですか」
「娘さんの名前も混じるし、奥さんも混じります。実際にたくさんの女性と関係があったのか、わからないけれど、ソゴウさんの待っている女性は、ひとりじゃないみたい」
「昔の…その女性遍歴とか?」
「さあねえ。教師をされてたようですね。郵便受けに、教え子から、よく手紙や葉書届いてます。いい先生じゃなかったかとぼくは思います。現実はどうか知らないけれど、たぶん詩の世界で、いろんな女性像がおありだったんじゃないですか」
「作話ってことも?」
「認知症にはありがちですから、そうかもしれませんよ」
 タイジはジンさんを連想しました。
(六十四、五なら、同世代だよね。彼よりソゴウさんはずっと品がいい…)
 リリン、とドアチャイムが鳴った気がして、タイジは鈴木さんに台所を任せ、玄関へ行きました。
(あれ、灯りが消えている?)
 たしか鈴木さんは廊下も玄関も電気を点けっぱなしにしたはずなんだけど、とタイジは首をかしげながら玄関に出ると、鈴木さんが内鍵をかけたはずの扉は、三分ほどひらいて、外からのわずかな空気の出入りにつれて、木製の厚い扉が、ゆらゆらと力のない感じで揺れていました。
(誰もいない?)
 タイジはソゴウさんの居室に戻り、そっと覗くと、ソゴウさんは、今度は横向きに机に肘をついて顔を傾け、居眠りをしているように見えました。ここも先ほど点けたはずの天井の蛍光灯は消え、机のスタンドライトの白熱電球だけが、訪問時のままにぼんやりとオレンジ色の輪を滲ませています。周囲の夜闇が深くなったせいで、古い電灯の光は、さっきよりも暖かく豊かに見えました。
ソゴウさんは瞼を閉ざし、タイジが耳を澄ますと、熟睡のかすかな鼾が規則正しく聞こえます。……眠り込んでいる彼の膝は、ふんわりとした厚手の膝掛け毛布ですっぽりと覆われていました。

 木曜日は午後三時から、ソゴウさんのケアに入ることになっています。それまでは水曜日と木曜日の午前午後は、終日デイサービスで働いていたのですが、涼子さんのたっての頼みで、年内いっぱいは、木曜日のデイ勤務を午前中だけにしてもらい、ソゴウさんのケアに入ることにしたのです。
「三時から二時間。一時間半は介護保険、残りの三十分はCSSで記録して」
「長いね。デイサービスの代りに勤めるから、そのくらいまとまったケア時間のほうが、ぼくには都合いいけど」
「この日はお買い物が入るの。娘さんが食材など必要な品のメモ書きを残してくれるから、それを見ながら、駅前のスーパーで買ってね。往復ちょっと時間がかかるんで、介護保険だけだけだと入浴時間が足りないの」
 CSS、コミュニティ・サポート・サービスというのは、タイジや涼子さんの所属する団体の独自サービスで、介護保険で対応しきれない家事全般をひきうけています。CSSの実費は全額利用者負担になるとはいえ、一般の〈便利屋〉だと相当な高額になるはずの生活雑事を、介護保険の利用料とあまり差のない福祉事業として提供していました。
 十一月最初の訪問ケアで、空は低く曇り、たった数日前の同行訪問のときとはがらりと様相を変えて冬の気配を含み、自転車を漕ぐタイジの頬や手に当る風もはっきりと冷たく感じられました。ソゴウさんのお宅に着くと、すぐ裏手にひろがる城址公園一帯の雑木林をつき抜ける風の音が、まだ夕暮れには早い時刻というのに、なんとも言えず寂しく乾いた響きで聞こえてきました。
「もう北風だなあ、この音は」、
 おお寒、と自転車から降りて、手袋なしでかじかんだ指を何回か握ったり開いたりしてから、ブロック塀越しに、爪先立ちで郵便受けの裏側に手を伸ばしたタイジは、ひょいとソゴウさんの家の庭を見ておどろきました。
「ソゴウさん、でしょ? えっ」
 タイジは、それを自分でも奇妙な声だと感じました。手さぐりに郵便受けから取り出すことになっている鍵は二本。一本は門扉、もう一本は玄関扉のもので、腰高ほどの鉄柵は、別に鍵なしでもタイジや鈴木さんなら、らくらくと越えられるものでした。
 ソゴウさんが自室を脱け出し、薄着のまま庭先にぼんやり立っているのを見たタイジは、とっさに鍵探りをあとまわしにして、てっとりばやく柵を跨ぎ越えて、ソゴウさんに走り寄りました。
「どうなさったんですか? 風邪ひいてしまいますよ」
 タイジは相手を驚かさないように、そっと声をかけました。ソゴウさんはその世代にしては上背のある方で、自分の腕をとったタイジを、少し見下ろし加減の無表情に眺め、
「君はどこの編集者?」
「……先生、とにかく中へ入りましょう」
「締め切りが近いんだよ。ぼくはここで担当編集者と待ち合わせしているんだが、仲間がおかしくなってしまってね」
「仲間、ですか?」
「そう、見てくれ、あそこだ」
 ソゴウさんは節高な長い人差し指を伸ばして、庭の真ん中をぼうっと差しました。
 そちらには庭石をいくつか配した芝生の空間があるばかりで、誰の姿もありません。タイジはこうした認知症の幻視にも慣れていましたから、あわてることもなく、どうかしてソゴウさんを室内へ戻そうとまず考え、またもう一方では、ずいぶん爪がのびている、とソゴウさんの手を眺めて思いました。指先から優に一センチは白い部分が伸びて、縦筋が浮き、ところどころに罅が入っています。
(鈴木さん、入浴担当なのに、気が回らなかったのかなあ。鈴木さん以外の女性ヘルパーにしたって、すぐやめちゃうから、こういうところまで目が届かなかったんだな)
「先生、爪を切りましょうね」
「爪なんかどうだっていいよ。それより見てくれ、あの百日紅の下で、ぼくが燃えているから」
「え?」
「ソゴウトウが燃えてるだろう」
 タイジはもう一度庭の中央に目を向け、呼吸を呑みました。さっきは大小の石と枯れ初めた雑草交じりの芝生だけだったのに、今度はその真ん中に、象牙いろの樹皮をして、複雑に曲がりくねった裸木が立っていて、その横に二人の人物が向かい合っていました。
「なんだ、アレ」
 タイジは瞬きに力をこめて凝視しました。
こじんまりとした庭の真ん中、裸木の下に立っているふたりの人物は、最初全身に黒褐色の毛皮をまとっている、と見えたくらい、どちらの顔も、胸も腹も、濃い体毛で覆われ、下半身ははっきり獣の肢をしていました。
(山羊じゃないか)
 胸と腹だけは、かろうじて体毛のない皮膚のいろをした彼らは、黙って向かい合わせにたたずみ、そのうちのひとりがタイジの視線に気がつき、こちらへ顔を向けました。頬ヒゲとつながる顎ヒゲが西洋人のように濃く、眉と髪もこめかみで太くつながり、それでいて秀でた広い額に隆々と高い鼻、上瞼のへこんだ真っ黒な目でタイジを見つめました。
驚きのあまり、タイジは声をあげることもできず、ただ唖然と彼らを眺めるばかりでした。すぐにタイジに気付き、近づいてきたひとりの足先は蹄でした。どう見たって人間ではない異様なモノに違いないのですが、タイジはなぜか少しも怖さを感じず、
「あなた、誰なんですか」 
 と、すらすら尋ねました。
「俺か? 俺はソゴウだ」
 山羊男は、ぶっきらぼうに答えました。かがみこんでタイジの顔を覗いてくる彼の視線は、なるほどソゴウさんの眼とおんなじに、うつろに大きく、光の通らないレンズみたいに空虚でした。
「ソゴウさんって」
「そうだ、ソゴウだ。あれを見ろ」
 山羊男はソゴウさんと同じ仕草で庭の中心を指差しました。
 すると、葉の落ちた百日紅の下で、彼とそっくり同じ半人半獣の人物がいて、その毛皮に火がつき、めらめらと燃え始めていました。
 他でもない、たった今、タイジに話しかけてきた山羊男は瞬時に、その百日紅の木の下に戻っていて、もとどおりもう一人と向かい合い、彼らの背中と腰と頭髪からオレンジ色の炎が立ち昇り、めらめらと燃えているのでした。山羊男たちは、炎に焼かれて苦悶するでもなく、ただ立ちすくみ、燃えるがままに任せています。絶叫も聞こえず、焼かれる肉体の臭気もありません。
炎は、まるでたてがみのように鮮やかで、彼らの首から下を飾っているようにさえ見えるのです。見ているタイジのほうが、次第に胸苦しい不安に圧迫されて来るのでした。
「……円です」
 あのぅ、お支払いを、と催促されてタイジは我にかえりました。
「スミマセン、ボヤッとしてて」
 タイジはあたふたとGジャンのポケットから財布を出しました。
(え、この財布、誰の?)
 まったく見覚えのない黒い上等な二つ折りの女持ちの財布。ぱちんと小銭入れの蓋を開けると、隅を合わせてきっちり折りたたんだメモがあり、ともかくレジの支払いを済ませてから、買い物籠をカウンター脇に寄せ、メモを開くと、きちんとした字で、買い物リストがしたためてあります。混乱を抑えてレジ袋にひとつひとつの品物を入れながら、メモと照らし合わせれば、間違いは一品もなく、今の今まで、指図どおりにタイジは買い物代行を務めている最中なのでした。
(だって…俺、ソゴウ先生の家の中にいつ入ったんだっけ? 燃えていた山羊男とか、百日紅とか…ウソダロ。記憶にない)
 それに……このスーパーにいつ来たんでしょう? 駅前商店街の一角を占めるチェーンストアは、晩の食材を買い求める主婦たちで少し混雑し始めていました。
 その場に立ちすくんでタイジはぐらぐらしました。失見当、失行、失認ナドナド、失という不吉な文字が、瞬きのたびに眼球を飛び交い、喉がひりつきます。
 遠慮がちな誰かの気配に後ろを見ると、店内用の買い物ワゴンを押す子供連れの若い主婦が、タイジの移動を待っていました。
「スミマセン」
 タイジは急いでレジ袋をつかみ、外に飛び出しました。スーパーの前は、ちょっとした駐輪場になっていて、そこにタイジの自転車もありました。
(間違いなく駅前だ。ってことは俺はチャリでちゃんとここに来た。だけど覚えがない。たぶん、ソゴウ先生の自宅からここまで、いったいどうやって?)
 背筋がぞっと寒くなり、もういちどさっきのメモをひらくと、買い物リストと合わせて、簡単な線描きの地図も記されていました。
 とにかく帰ろう、とタイジは財布をしまい、メモだけ手に握りしめて自転車にまたがり、
必死で注意深く自転車を漕ぎました。
(俺の脳みそどうかしちゃったんだろうか)
 不安がこみあげます。商店街からソゴウ先生の自宅までは、まったく見覚えのない道筋な上に、動揺したタイジは、途中何度もチャリを停めて、前後左右を確認しなければなりませんでした。
 どうにかこうにか、先生宅門前まで戻れたときは、安堵と驚愕がいっしょくたにどっと押し寄せ、十一月というのに、タイジの全身は汗まみれでした。
 ……ヘルパーのナントカさん、自転車の転倒事故でこのケアをやめたって……。
 すらすらと聞き流した涼子さんのワケアリ説明が、ずっしり重く蘇った瞬間でした。
 門扉は開いて、玄関だけきちんと鍵がかかっていました。家に入る前に、おずおずと庭を眺めやると、芝生と庭石を組み合わせた簡素なたたずまいに、花の季節を過ぎ、すこし黄ばんだ葉だけを枝に残した、姿のよい百日紅が一本丈高く立っているのは、記憶に残るそのまんま。もちろん山羊男なんてどこにもいません。
「おつかれさまです」
 玄関を入ったとたん、思いがけない明るい声の出迎えに、タイジは逆にぎょっとして、文字通り飛びあがりました。
「え、えっ」
 ぱたぱた、とスリッパの音も軽く、廊下に灯りがつき、すぐに赤い服を着た若い女性が現れました。
「ありがとうございます。いろいろ頼んで重かったでしょう? お店、すぐにわかりましたか?」
 はきはきと矢継ぎ早に質問され、そうでなくても錯乱を我慢していたタイジは、さらに返答に詰まりました。
(だれ、このひと? 顔見知りじゃない、ヘルパー?)
「あの、あなたは?」
「あらヤダ。わたし宮本です」
「ミヤモト…」
 それがソゴウさんの本名だったと思い出すのに、タイジは数秒かかり、眼の前の二十五、六に見える女性が、ソゴウ先生のキーパーソンで、現在同居している娘さんだということに思い当たるまで、一分くらいかかってしまったかもしれません。ですが、タイジがボーっとしているその一分のうちに、娘さんはさっさとタイジの手から買い物袋を奪うように受け取ると、こくんと笑顔で挨拶し、台所へ早足で戻ってしまいました。
「父は今、寝室で横になっています。眠ってるかも。わたし、ごはんの支度しますから、お風呂お願いしますね」
 娘さんは台所のテーブルに、タイジの買ってきた食品を並べ、それを冷蔵庫にしまったり、また別なものを取り出したりし始めました。毛先をわざと無造作な不揃いにパーマをかけたソバージュヘア、ボディラインをぴったり見せる、目にあざやかなバーミリオンのハイネックセーター、それに真っ白な短めの膝上スカート。スカートは左右片身がわりで、半分は光沢のある皮革、もう一方はホワイトデニムを継ぎ合わせ、よく見ると風変わりですが、ぱっと見には、セーターの朱色と純白のスカートの組み合わせだけがひっそりと彩りの少ない家の中では、余計に目立ちました。
「あの、これ……」
 おずおずとタイジは娘さんにお財布を渡しかけ、途中ではっと気持ちと言葉遣いをひきしめて、
「お預かりしたお財布をお返しします。確かめてください。それから、娘さんは、いつお帰りになったんですか?」
「娘さん……」  
 ソゴウ先生のお嬢さんは、自分より年下のタイジが使う、ちょっと独特の言い回しに、くすっと笑いました。笑うと両頬に笑窪が浮いて、ソゴウ先生によく似たクールな細面が、急に人なつこく変わりました。
「私、苑です。ミヤモトソノ。父がお世話になります。新しいヘルパーさんですね」
「ミネモトタイジと申します。よろしくお願いします」
「はい、こちらこそ。ミネモト君、とにかくお風呂の準備をお願い。私はさっき戻ったばっかりです。このテーブルにお財布とメモ書き残して置いたでしょ? 簡単な地図だから、新しいヘルパーさんわかるかしらって気になって。でもあなたみたいに若い子だとは思わなかったわ」
「はあ」
 苑さんは食器棚の縁にかけてあったネイビーブルーと白のELLのロゴ入りエプロンを結び、換気扇を回し始めました。
「このごろ父は、日中失禁するようになったんです。夜だけじゃなく。気になって、今日はたまたま仕事の都合がついたんで午後から有休もらって帰ってきたの。このまま状態が悪化するようなら、来年早々から、少しまとまって介護休暇も考え中です」
「はあ」
 タイジは、見た感じ、タイジとたいして年の差のないような苑さんが、てきぱきとお姉さん口調で話すのを、面白く感じました
(でもたしか三十歳だったかな。ソゴウさんによく似てるなあ。雰囲気ハトさんぽい)
 と、年の頃も似たり寄ったりのハト医師を思い出したりしました。
「あたしが帰ったときもね、床にお漏らししちゃってて」
「えー」
「ミネモト君が買い物に行ったあとでしょ。
だから、とりあえずズボンとパンツ脱がせて、タオルを腰に巻いてベッドに寝かせました。いきなり汚れ物の始末で申し訳ないんですけど、本人をお風呂にいれたあと、簡単でいいから、部屋のお掃除していただけますか」
「わかりました。失禁は、そんなに頻繁ですか?」
「そうでもないですね、まだ。だいたいおトイレは自分でちゃんとできてるんですけど、どこかでスイッチが切れちゃうとわからなくなるみたい。まだ大きいほうは大丈夫ですけど、おしっこは時々。前立腺のほうもそのうちお医者さまに診てもらおうと思ってます」
 失禁という、肉親間でも言いにくい話題なのに、彼女はさばさばとして、調理を始める手順や姿勢、表情に大げさな動揺がなく、それはタイジの眼に快く映りました。苑さんと話しているうちに、タイジはさっきまでの自分の〈幻視〉と〈記憶喪失〉体験の驚愕がやわらいできました。
(じゃ、俺はやっぱりここに入って、食堂のテーブルから財布とメモをとって出かけたんだ。そのとき苑さんはまだいなかった。ソゴウさんは部屋にいたんだろうか。俺が庭で見たあれは……)
 と思い出して、タイジはぶるっとひとつ震え、頭の横をこぶしでごちんとなぐり、今はケアに専念、と心の中で唱えました。
 ソゴウさんのベッドルームは、彼の居室の隣りの四畳半で、ふたつの部屋は、アコーディオンカーテンで仕切ってありました。浴室の準備を手早く済ませてから入ったソゴウさんの書斎にはやはり、じんわりとした失禁の臭気が籠ってはいましたが、初日と同じく適度に片付いていて、カーテンを両脇にちゃんと引いた南向きのガラス窓が細めに開き、そこからひんやりとした風が吹き込んでいました。
「ミネモトです、先生、失礼します」
 アコーディオンカーテンを開く前に声をかけ、ふと床に目を落としたタイジは、また呼吸を抑えました。
(これ…)
 うっかりすると紙くずと見誤るかもしれない幾葉か、ワックスをかけた清潔な床に散っています。拾いあげる前から、タイジにはその葉っぱが、庭の百日紅だとわかっていました。

 翌日の金曜日は朝からひんやりとした雨模様でした。いつもどおり昼近くに銀座に着き、ギャラリー〈花絵〉の点検と掃除をざっとすませて、一時には開けます。
 今日は雨だから客足もイマイチかな、と思いながら、タイジがギャラリーで遅めの昼ごはんを食べ始めたところに、
「よう、おひさ」
 ノックも声かけもなしに、いきなりジンさんが入ってきました。ベージュの太畝タートルネックのセーターに、黒い光沢のある皮ジャケット。すりきれたジーンズを穿き、靴はやはり、お洒落な茶色と白のコンビです。ほさぼさ髪は相変わらず.ぶしょうヒゲの長さもいつもと同じで、ほんとにこのひとは念入りに、粗雑と洗練を自分の気に入るようにたくらんで演出しているのでした。
「あれ、ジンさん。そういえばしばらく顔を見なかった」
「冷たい台詞だねー。ミネちゃん。それって俺の存在を忘れていたってこと?」
「そうじゃないですけど、こっちもいろいろ気にかかることがあって」
「ふーん。何食ってんの? サンドイッチ?
母ちゃんの愛情弁当」
「違いますよ。自分で作ったんです」
「卵にハム?」
 タイジのサンドイッチボックスをじろじろと覗き込むジンさんはタイジの返事なんか聴いていないみたいです。
「ベーコンです」
「これ、さしいれ」
 ジンさんはスタバのコーヒーをタイジに渡しました。
「ありがとうございます。ジンさん、そういえばここ一月ほど、どこかに行ってたんですか? 九月いっぱい〈個室〉は休業でしたよね」
「こっちもいろいろ手のかかることがあったのよ」
 とジンさんは寒さに少し赤らんだ鼻をこすり、にやっと笑いました。なんだ、俺の返事ちゃんと聞いていたのか、とタイジは内心苦笑しましたが、ジンさんの、追求してもらいたそうなそぶり見え見えの「手のかかること」については、厄介なので尋ねませんでした。
 で、さりげなく
「十一月はどんな展示するんですか?」
 とかわすとジンさんはジャケットのポケットからピカピカ光るDMの束を取り出し、一枚をタイジに渡しました。
「今やってるのはこれ。若手二人展。なかなかいいよ。土、日ヒマ? この子たちのライブやるんだけど見に来てくれない?」
「美人風?」
「えへへ、シャンプーって読むんだって」
 ジンさんはうれしそうに相好を崩しました。
 DMは二枚の画像の立体コラージュでした。ブルーグレイの地に作品写真と、作家ふたりの画像とがすこしずれて被さり、手加減でゴスロリ衣装をつけた少女ふたりの手足が動いて見えます。リボンとフリルいっぱいの帽子、白い丸いエプロン、クリノリンが入っていそうな膝上までの真っ赤なスカート。服装のにぎやかさのせいで、肝心の作品や、作家たち本人の顔の印象が薄れてしまいそうな感じです。作品は木やガラス、空き缶や段ボールなどを組み合わせた割合地味めな現代アートのようでした。
 ボーカル/綸子(リンス)
 オカリナ/紗WA(シャワー)
「ずいぶん凝ったDM作りましたね。この子たちが作品展示してパフォーマンス?」
「そう。センシティブでいいよ」 
「とかなんとか…かわいいんでしょ」
「うーん。おとなしい感じの子、ふたりとも。見た目とはマギャク、そのギャップもミリョクなんだよね」
 と言いつつ、ジンさんは手にしたDMをヒラヒラと振って、美少女ユニットシャンプーの手足を動かして見せました。
「ミネちゃん、相変わらず?」
「ナントカ」
「介護とギャラリー番で、これから先も?」
「のつもり」
「自分の制作は?」
「めずらしく突っ込みますね。考えているけれど、模索中です」
「てことは、クリエイティブなアクションなしかい」
 タイジは返事をせず、サンドイッチを食べるのもやめて、ジンさんの顔を見ました。ジンさんはちょっとひるんだような口調で、
「もったいないって思ってさ。だって君まだ若いじゃん。まじめに渋い番人やってるより、今のうちにやりたいことあるんじゃない?」
「ありますよ、モチロン」
 窓ガラスをポツポツと音をたてて雨つぶが叩きはじめました。朝から底冷えする霧雨だったのが、昼過ぎて本格的な雨脚に変わったようです。
照明を抑えたギャラリー〈花絵〉の内部はいっそう仄暗く、タイジは陰気になりがちな雰囲気を避けるために、手元のランプをぽっと点けました。白熱電球たったひとつの光りは、存外明るく暖かくあたりを照らし、向かい合わせに座ったジンさんのくすんだ顔も、急に色よく見えます。
「今、俺が自分のやりたいこと驀進したら、親のスネかじりになるでしょ。それイヤなんです」
「うーん」
「ジンさんと俺って、結構長いつきあいになりますけど、こういう話、したことなかったですよね。ていうか、アートに携わってる人間と、マジで生活感なハナシしたことない」
「生活感な?」
「そう。言いにくいもんね。みんなほとんど持ち出しで制作して、自分だけの作家活動で暮らしている人間なんて、ほんのわずかです。俺、偶然にせよ福祉のシゴト始めてから、〈自立〉ってことをすごく考えるようになった。あたまでっかちになりたくないって」
「ほう」
 ジンさんはふぞろいなヒゲのだいぶ伸びた顎を撫でました。
「今ね、考えているのはとりあえず介護福祉士をとること。一生介護やるかどうか、それはわかんないけれど、どんな表現や創作やるにしても、社会に役立つ……ていうか、ひとによろこばれるもの作りたいし、そういう活動したい。アートにしても。自分の創作意欲から独自な世界を展開して、周囲をひきつけるってのはもちろんすごいし、イイナーって思いますけど、一方通行じゃないアクションをしたい」
「ギブアンドテイク?」
「それってシビア。売買じゃないですけど、アートって道具じゃないでしょ? 道具的な側面もあるけど。生活の本体からは、もしかしたら一番遠いところにある。アートがなくてもこの現実はちゃんと動いていく。でもアートがあったほうが現実はたのしい。そんなたのしさを、発信したい。でも、そうしたいんなら、自分がまずちゃんと喰えるようになんないと、ローテンションの作品やアクションになっちゃいそう」
「おいおい、ミネちゃん、君すごいね。爪の垢もらいたい(たぶん飲まないけど)。でもさ、そういうこと言ったら、すげえまわりの反発食らうぜ。アーティストって、破滅的に周囲を巻き込むタイプ多いからね。俺んとこの常連も、すごいコンセプト持って、活動しているヤツたくさんいるけど、そのバックはお互い不問にしてる。痛いからね」
「俺だって痛いスよ。親に頼ってる部分、ずいぶんありますし、ほんとに全部自力で回すなんて出来るんだろうかって思う。今のところ、バイトとこのギャラリー経営で、それこそトントン」
「トントンなら結構だ。煙草吸っていい?」
「だめです。壁のチップが汚れるから。……
福祉活動とアートの融合って、できるかな、なんて考えてるんです。有志ボランティアの慰問とかだけじゃなく。でも、まだうまく考えがまとまらない。自己満足じゃなく、認知症とか、障害持ってるひととかも、いっしょに参加してカタルシスできるアート」
「壮大なビジョンだ」
「そうスか?」
「安心したよ」
「なんで」
「俺自身ちゃらんぽらんだからだろ。自分と似たような人間好きだけどさ、酒飲んだり遊んだりしてても、やっぱ不安になる。ミネちゃん、プロデューサー向きだ」
「決めないでよ。なんだかんだ言っても親父オフクロにノーワークノーペイを厳命されたからって、それが始まりだもん」
「実行すりゃいいじゃん」
「軽く言われてもね」
「だいじなことはかるく言うんだ」
「はあ」
 タイジは食べ残したサンドイッチを、ぱくりと口に押し込むと、コーヒーでいっきに喉に流し込みました。
「シーラさん、ここに来る?」
「いえ」
 飲み込みかけた卵サンドのかたまりが、気道にまるごとひっかかりそうでした。
「夏以来、ときどきメールでやりとりするくらいです」
「その動揺ぶりだとホントだね。彼女実家に帰っていたらしい」
「実家って?」
「母親のほう」
「シーラさんのお母さんて」
「やっぱ、日本人じゃなかった。あー俺っておしゃべりだなー。ここらで口チャック」
 ジンさんは上目づかいにタイジの顔色を嬉しそうにうかがい、笑ったかたちの唇のまま、言葉を切りました。
(思わせぶりに。ったくもう)
 タイジは少なからずむっとしましたが、
「あ、そうですか」
 とそっけなく返事をしました。すかさずジンさんは、
「土曜ライブ、俺んとこ来てくれるみたいよ」
「えっ」
 タイジの声が正直に1オクターブは舞い上がりました。ジンさんはガタッと音をたてて椅子からたちあがり、そんじゃよろしく、と片手を振って出て行ってしまいました。
 タイジは小さく舌打ちし、
(うまいよなあ。きっとジンさんあれで土日の集客するんだぜ。シーラさん来るって言ったら、けっこう押しかけるひと多いから…。
ホントかなあ。でも会いたいなあ。ソゴウさんのとこで経験した……してること、なにかパラレルな事態なんだろうか? それともただの幻覚なんだろうか。百日紅の落ち葉にしたって、開いた窓から吹き込んだものかも知れないんだ。それに介護のシゴトは、何よりもまず守秘義務があるんだし……)
 とつおいつ迷いながら、でもタイジがこんなふうにシーラに相談したいと考えること自体、会いたさの小さな言い訳なのでした。
 結局その雨の金曜は予想通り客足は少なめでしたが、定刻までには、それでもぱらぱらと間隔を置いて、十人ほどが〈花絵〉を覗きました。一回十五分の作品上映に、スタバのコーヒー一杯くらいの料金をいただいています。映像はN(ノーマル)とR(リピート)二種類あり、R版は、N版に、刺激の濃い部分を再編集して加えていました。こちらは二十五分で、料金も少し高く設定しています。
〈花絵〉の収益は、おおむねそれだけです。ふつうの賃貸マンションだったら、展示も販売もしない、ミニシアターのようなギャラリーを、まっとうに経営できるはずはないのですが、ここはひいおばあさんが健在のころに、彼女が自分の終の住処と決めて購入してあったので、こうした自由な遊び空間が維持できるのでした。
 ジンさんのギャラリーだけでなく、ちょっとした広さのある空間ならたいてい、さまざまなパフォーマンスの場になるように、〈花絵〉もときどきアーティストと映像のコラボを企画していました。ジンさん同様、タイジものんびりと、採算度外視で演奏家や舞踏、モダンダンス、また芝居などの上演をOkしていましたが、壁のアクリルチップを壊さないという条件付きでした。
 ガーネットさんが〈久我ビル〉の地下劇場で定期的に踊るので、いつのまにかそんな縁から、豹河だけは、時折タイジのギャラリーで演奏してくれます。豹河はジンさんとは飲み打ち(買う? それはわかりません)仲間で親しいのですが、どういうわけか、〈個室〉で演奏しようとはしませんでした。
 昼過ぎに降りだした雨が、一日中びしょびしょと銀座を濡らした金曜のおしまいのお客は、ヒョウガでした。
「おはよう、元気?」
 顔の真正面にてのひらを垂直にたて、丈夫そうな白い歯並びを見せて笑う豹河は、タイジの記憶に残る顔よりさらに浅黒く陽焼けした感じで、黒いペーズリーのバンダナで頭を包むように巻き、すべすべした膝までの長い銀色のレザーコートを着ていましたが、その下は、地肌丸見えの、地引網をそのまま上半身に巻きつけたみたいなシャツ一枚、黒いジーンズを穿いていました。八月に信州でいっしょに過ごしてから、ヒョウガとも二ヶ月ぶりくらいの再会です。
「そんな格好で寒くない?」
「ぜんぜん」
「夏以来だね、どうしてた?」
 タイジは、昼間ジンさんが洩らしたシーラの動向をヒョウガから聞き出せるかもしれない、と水を向けました。
「ボランティア。チャリで東北回ってた」
「ほんと! どこに」
「主に福島。お寺の住職さんの手伝いして、放射能の泥を瓶にすくってたよ、九月いっぱい。それからガレキ拾い。ひどかった、現地は。ときどき人里離れた仮設住宅ムラでフルート吹いたり。十月の半ばにこっちに戻ってきたんだ。ちょっと昼メシ喰っていい?」
「いいよ。今昼?」
「朝メシかも」
 がさごそとヒョウガはレザーコートの大きなポケットから、缶コーヒーと細長いホットドッグの紙包みを取り出すと、がぶりと食いちぎりました。
「これから近所で真夜中ライブなんだ。その前に〈花絵〉見たくなって」
「いいよ。Nだろ」
「うん。インスパイアされるんだよなあ。ミネさんのおばあさんの映像。あの化け物のガキが迷ったのもわかる」
「そう? アリガト」
 八月の信州の出来事を想い浮かべると、タイジは頭がぼんやりしてしまうのでした。現実といえばほんとに自分の体験なのでしたし、また夢といえば夢なのでした。
「夢うつつって、言葉あったっけね、ヒョウちゃん」
「あ? ああ」
 ヒョウガは苦いものを噛むように、ほんの少し眉を寄せました。彼の眉毛は眉間で途切れずにつながっているので、縦皺を寄せると、そこに集まる翳がいっそう濃くなり、わずかな感情の揺らぎでも、鋭く、ときには怒ったように見えるのでした。
「ドミは戻ってきた、たしかに」
 ヒョウガは横を向きました。
「どこで見つかったんだっけ」
「自由が丘の路上で泣いてた」
「……」
「今は家族でマルセイユ」
「立ち直った?」
「あらかた忘れてる。いや、覚えてないってさ。何が起こったのか、自分がどうしていたのか、ほとんど記憶がない。迷宮から戻ったアリスだよ。彼女はピンピンして、またバレエに夢中」
「よかったじゃないの」
 フン、とヒョウガは面白くなさそうに、コーヒーを口に含みました。その様子から、タイジは、シーラが彼にあまり詳しい説明はしていないな、と察します。
(シーラさんも冷たいよなあ。俺がヒョウちゃんだったら、めちゃくちゃ腹立つ? いや悲しい? うーん……せいぜい…せつない、てとこかな。俺やヒョウちゃんがどんなに怒ったってシーラさんは平気だもんなあ)
「何ぶつぶつ言ってんの? お客帰っちまったよ」
「え? 客って、ヒョウちゃんしかいないじゃない」
「そこに座ってたじゃないか。女客。気が付かなかったのかよ」
「どこに」
「そこ、窓の傍の丸椅子」
 タイジはヒョウガの指差した方角を見つめました。室内には、映像を鑑賞するお客のために、古道具屋で仕入れた背もたれのない素朴な木の丸椅子が三つ、四つほど置いてあります。そのどれにも、タイジは誰かが座っていたなんて覚えはないのでした。
「どれ、どこ?」
 これだって、とヒョウガはたちあがり、ひとつを持ち上げ、丸い座面を傾けてタイジに見せました。
「ほら、濡れてるだろ。グレイのレインコートを来た、五十がらみのひと、俺が入ってきたときから、ここにいたのに、ミネさんわかんなかったの?」
「そうだよ」
 タイジの膝がぞっと震えました。濡れた座面には、一枚、べったりと木の葉が貼り付いていました。タイジはおっかなびっくりその葉を椅子からつまみあげ、何も知らないヒョウガは、タイジの様子に笑い出しました。
「何だよ、指ブルってる」
 指どころじゃないって、とタイジは内心つぶやきました。どうにか声を整え、
「俺、うっかりしてたかなー……。ヒョウちゃん、女のひと、どんな感じだった?」
「どんなって…。ふつうの奥さん。グレーのコートに、カシミアっぽいセーター着て、スカートはいて、松坂屋とか三越に、たくさんいそうな感じの、きちんとした…」
 ズラズラとそこまでヒョウガは言い、ふいに顔色を変えて口をつぐみ、タイジの眼をしばらくじいっと覗きました。
「ミネさん、ぜんぜん見えなかったんだ」

 恐怖という程ではないにせよ、得体の知れないモノの気味悪さを抱えてアパートに戻ったタイジでしたが、帰宅後焼きそばを作ったり、銭湯に駆け込んだりする日常の雑事に紛れて、その晩もぐっすり眠れました。
「親のスネかじりたくないなんて偉そうなこと言っちゃってるけど、食料品だってほとんど家から送ってもらってるんだもんな、俺」
 とタイジは小さいキッチンで焼きそば用のキャベツを刻みながら、昼間のジンさんとの会話を思い出したりしました。お米やパン、お肉や野菜そのほか、料理上手なお母さんは、一人暮らしの息子のために、宅急便で常備惣菜や、炊き込みご飯などまで冷凍して送ってくれるのでした。タイジはだいそれた啖呵を、いちおう目上と思っているジンさんに向かって切ってしまったような気がしました。
(そういえば、長いつきあいにしては、俺ジンさんの内側ほとんど知らないんだった。噂じゃいろいろ聞くけど、どれもアテにならないもんね。たしか結婚して娘さんいるとか、言ってたっけ…。ジンさんの年齢のひとの娘って言ったら、苑さんくらいだろう)
 ソゴウさんの娘さんの苑さんへの連想から、またギャラリーでの奇異な出来事に考えが戻り、ティッシュペーパーに包んで持ち帰った丸椅子の上にあった濡れ落ち葉一枚、焼きそばをすすりこみながら、もういちど眺めるのでした。
「百日紅、かなあ? でも銀座界隈の街路樹にだって似たような葉っぱはあるし、たしかに見えなかったってのはブキミだけど」
 ヒョウガは蒼ざめたタイジの顔色を眺めると、目を丸くしてにたっと笑い、
「なんてったって、ここ〈久我ビル〉だからねー。迷う女は数知れずってところ」
 それだけで余計な言葉を重ねず、注文どおりN版映像を見終わると、何事もなかったようにシゴトに出てゆきました。
 もしかしたら深刻なことだったにせよ、ヒョウガみたいに平気でどしんと踏み潰してくれると、ほんとに気が楽になる、とタイジはあらためて、ヒョウガは(くやしいけどカッコ)いいヤツだと思いました。正直タスカッタ。でも、自分には見えなかった女のことや、ソゴウ先生宅でのいくつかの経験を思い出すと、頭がもやもやとするのでした。
(何か関係あるのかな?)
 あるに決まってる、と心の奥で誰かがささやきました。
 翌日は、昨夜の雨をぬぐったような青空が朝からひろがりました。
銀座は昼前から混雑し、歩行者天国は人であふれ、銀座の隠れ名所、久我ビルを訪れる観光客もウィークデイとは桁が違い、その余波で〈花絵〉も盛況です。秋から冬にかけて、各ギャラリーそれぞれいい展示が多く、週末はそのほかに、パフォーマンスや演奏会の気配で〈久我ビル〉全体がうきうきとにぎやかでした。
 客の出入りをタイジは注意深くチェックしましたが、ヒョウガの言った簡単な形容だけでは、それらしい女性客を特定するなど不可能でした。〈花絵〉は、一部ですこし伝説化しはじめたタイジのユニークなひいおばあさんへの関心から女性客が多く、それもカルチャースクールで油彩を楽しんでいる、というおっとりしたアマチュアの中高年女性の割合が他のギャラリーよりも高いのでした。
 夕方近くになると、タイジはもう気もそぞろ、携帯を用もないのに取り出しては、そのたびにとっかえひっかえシーラの画像を眺めます。本音は今夜〈個室〉に来るのかどうか、確認のメールを打ちたいところなのですが、適当に口実を作って……という駆け引きなんか、彼にはできないのでした。シーラのことを考えると、幻視も記憶喪失も吹っ飛んでしまいます。もちろん幽霊かもしれない女性のことも。
(なんで俺、こんなどうってことないメールひとつ彼女に送れないんだろう。今夜ジンさんとこ来る? それだけでいいじゃん。シーラさんとも短くはないつきあい、だし)
 とタイジは決心してメールの文字を打ち始めました。
 
今夜、ジンさんとこで、シャンプーのパフォーマンスあるそうだけど、来る?

 でも結局、こんなふうにおしまいをまとめてしまうタイジなのでした。

 昨夜はドモ!(+絵文字) 

 自動的に指が選んでしまったこの送信先は言うまでもなく豹河。
 タイジはため息をつきました。
「あー、俺ってビョーキかも」
 メール送信からしばらくしてメールの着ウタが聞こえましたが、タイジはチェックする気にもなりませんでした。豹河は好きだし、いい友人と思ってはいますが、彼とシーラとを並べて眺めるとなると、ハナシは別でした。
 それからまたすぐ、こんどは電話の呼び出しが来ました。
「タイちゃん? できたら早めにこっち来てよ。客入れの前に、シャンプーの展示観てやって」
 あいさつなしに、ずけずけと用事から物言いが始まるのは、ジンさんでした。
「結構こっちもお客が切れないんです。あと二、三組さばいてから向かいますよ」
「へえ、今ギャラリーにいるの?」
「ハイ」
「そんじゃ、さっきシーラさんメール打ったの気がつかなかったのかい?」
 タイジは即座に通話を切り、シーラのメールに切り替えました。
 いきなり通話を切られ、〈個室〉で、ジンさんは半分以上笑い出し、半分弱は酸っぱい顔をしました。彼の前にはシーラと、それからメグがいました。シーラが尋ねました。
「どう? 彼」
「繁盛してるってさ。シーラさんがメール送ったときは上映中だったみたい」
「まだしばらく来ないの? それじゃメグ、まだ天気もいいし、ふたりでホコテンにアイスクリーム食べにいこうか」
「うん。残念だね」
「まあね」
 ギャラリーの急ごしらえの客席に腰掛けていたシーラは、ジンさんの左右不対称のにやにや笑いを目の端でちらりと見て、メグの手をひっぱって、立ち上がりました。
「待ってやれば」
 とジンさん。
「仕事の邪魔はしない」
「どうせすっとんで来る」
「そうはいかないでしょう」
「気の毒に」
「シャンプーのパフォーマンスで会えるし」
「ミネちゃんは、仕事よりシーラさんを優先させたいだろ」
「……」
 シーラさんが応えないので、メグはジンさんに、
「そういうこと、第三者がいる前で口にするの、よくないと思う」
 とまじめな顔をして、ませた口ぶりで言いました。ジンさんは大袈裟に目を剥き、
「第三者って、君のこと?」
「そうよ。だってジンさん、デリケートな問題でしょ?」
「デリケートはバリケード。崩さなくちゃ進まない一線もあるってサ」

 ホコテンの賑わいは引き潮ながらまだ続いていましたが、北風が吹きつける大通りは、夕暮れ迫ってもう日中ほど暖かくはなく、初冬のビル街の長く深い藍色の影にネオンの灯りが、くっきりと際立ち始めていました。白い毛糸の帽子を目深にかぶりなおしたメグの様子に、シーラは
「寒いね。アイスクリームやめて、温かいもの食べようか」
「うん。チョコパフェ」
 シーラは笑い出し、
「チョコパフェってあったかいの?」
「中で食べるんなら温かいよ」
「ナルホド」
 お茶の時間は過ぎているけれど、晩御飯にはまだ早く、中途半端な時刻でした。それでも、休日はどこもかしこも混んでいて、なかなかちょうどいい空席が見つからず、結局客足の回転の速いコーヒーショップに座りました。運よく禁煙席のテーブル席に向かい合って座ることが出来、隣の席のお客も、落ち着いた雰囲気の中年女性客で、こんなショップでもちゃんとブックカバーをかけた文庫本を眼の前にひらいて、じっくり読むというわけでもなくページをめくっていました。
 パフェはこのお店にないので、メグはモンブランにミルクティを注文し、シーラはホットココアにしました。
 シーラはホワイトとブルーの縦縞のタートルネックのニットワンピースに、ヒールの高くないロングブーツ。白地にブルーの縞模様は片身変わり近いくらいに幅が太く、チュニック仕立のワンピースは袖なしで、ニットの下にヒートテックの黒を着ています。その上にミッドナイトブルーのトレンチコートをひっかけていました。ワンピースが思い切って大胆なデザインなので、シーラは何にもアクセサリーをつけませんでした。
「シーラさん、いつもおしゃれだね」
「客席が華やかなほうが、ジンさんうれしいでしょう?」
「ジンさんのため?」
「一番は自分が楽しむため」
「だよね。いいな、あたしもシーラさんみたいになりたいな」
 メグはモンブランを食べながら、ごく普通の口調で言うのでした。夏の旅のあと、シーラはメグともほとんど会っていなかったのですが、ほんの数ヶ月の間に、メグはまたずいぶん大人びた、とシーラの眼には映りました。
「メグ、また髪が長くなった?」
「そう?」
「背丈も」 
「うん、背は伸びたって、パパも言う」
 こどもの背格好から、十一歳になりかけたメグは顔つきも姿も、そして仕草も、殻から脱け出るように変化しつつあります。肌理が見えないほどなめらかな皮膚と、ふわふわしたサーモンピンクのセーターの首からすこしのぞく襟足の血色、口紅を塗らなくっても自然なつやのある唇。まだぜんぜん揃えていない眉毛は産毛がかってちょっと額で乱れ気味
ですが、それさえメグの自然のままに清楚な目鼻立ちのきれいさを印象付けるのでした。
(ルイス・キャロルが少女たちの時間を停めたいって願ったわけがわかる)
 シーラはどこかで見たアリス・リデルの写真を思い出していました。
(大人になりかけの姿のまま、メグがずっときれいに可愛らしくいてくれたら……)
 と思いかけたシーラは、ふといつものシニカルにたちもどり、
(この子といっしょにいて、あたしはいつまで〈あたし〉でいられるか)
 と、すこし残酷な衝動を、ココアの甘苦さといっしょに舌の先でころがしたりもするのでした。
 メグはケーキを食べながら、何となく店内をぐるりと眺めました。夏の記憶、現実と夢のさかいめのない旅のあと、彼女はそれほどのショックも残さず、また普通の生活に戻れたのでした。シーラは、メグの日常生活を混乱させないために、異常事態がひととおり収拾をつけると、メグに〈心の声〉でアクセスするのをやめていました。まだ成長しきっていない彼女の精神形成をゆがめてはいけない、と考えたのです。だから、連絡しあうときはちゃんと、普通に電話やメールを使っていました。
(サイコヒーラーは妖怪やエスパーじゃないんだ。一般人の身体能力とは違った感受性と運動能力を、もういくつか自己の中に持っているけれど、そのユニークさのために社会から弾かれたり,逆にちやほやされたりしていいものじゃない。ナイショにしておくさ、わからなけりゃ他者にはできるだけ隠しておくのがいい)
 メグは基本的におおらかな性格なので、パパ同様、特に説得も説明もなしに、そぶりからわかるまま、シーラの考えを抵抗なく受け入れていました。
 というわけで、小学生のメグの日常生活に、変化はありません。ですが、身に備わり、いったん発現してしまった異能力は、肉体や精神の成長といっしょに、順調に伸びているのはたしかで、メグの眼は、夏以来、それまでには見えなかったいろいろなものが……それまでには漠然とした気配でしかなかったモノのかたちが、なにかの拍子には、鮮明に景色のなかに現れたり、視野を塗り替えたりするようになったのでした。
 今も、メグがふと視線を眼の前のシーラやケーキから逸らしてウィンドーに移すと、銀座の夕暮れの光景は、また見事に〈逆転〉しはじめていました。
 最初はいつでも、ちょっとした錯覚と思うのでした。立ちくらみか貧血に似て、眼に映る周囲の光景が数瞬揺れ、輪郭があいまいにぼやけ、それからいきなり黒白反転して、〈ウラ側が見え始める〉ときもあれば、じわじわと氷が溶け出すように、三次元のかたちが崩れてゆく場合もあります。今は後者に近く、ガラスの外の夕闇が、またたくまに視野いっぱいに流れこみ、喫茶店の明るさを抑えて紺青にかきくらがると、四角いウィンドーや、ビル群、きらきらと瞬くイルミネーションなどが、ぐにゃりとねじれて角と形を失い、立体は全て糸のように細く引き延ばされながら藍色の空間に呑まれて行きました。
 視界にわだかまる闇の深さは均一ではなく、いろんな絵の具をごちゃまぜに溶かしたパレットのようにむらむらと濁った色味を残し、不安で、不愉快ないくつもの色相がところどころで、とぐろを巻いている蛇の群れみたいに蠢いているのでした。
(また始まった。……これが何なのか、あたしにはよくわからない)
 メグは口の中に残るケーキの味をごくりと飲み込みました。こんな体験を繰り返すことに慣れてしまったので怖くはありませんでした。まして今は傍にシーラもいます。でも、彼女に同じものが見えているのかどうかわかりませんし、この幻視もいつものように、やがておさまるだろうと思いました。
 粘ついた闇のあちこちに、くっきりと人体のかたちだけが見えています。闇を切り抜いて嵌め込んだ凸レンズみたいに立体の名残を見せている誰それは、顔かたちも衣装もさだかではなくなり、明暗とりどりの青や緑、橙色、赤、黄色、または数色の混じりあいだったり、ほとんど漆黒だったり、または水っぽく希薄な白い影のみだったりするのでした。
 たまに、とてもきれいで爽やかな色彩を湛えた姿がよぎることもあります。透きとおるような紅色、紫、ピンク、きんいろ、銀色……彩りこそ違っていても、内部に光そのものを抱えているような人影たち。もっと稀に、ぞっとするほど怖ろしい陰鬱を垣間見ることもありました。それは、きらきら透きとおって揺れる人とは正反対に、黒ずみ、よどみ、見るからに狂おしげで、獰猛な彩りが、ひとつの影のなかで激しくしのぎを削りあっているのでした。幸いなことに、そうした恐ろしいモノ影は、メグの傍ににじりよっても、どこかまで来るとぱっと離れて、暗黒の奥深くへひょうひょうと飛び散ってゆくのが常でした。
 メグは脅えもせずに瞳をまじまじとひらいて、この闇のどこにシーラはいるか、と探しました。眼の前に差し向かいに座っていたはずのシーラの姿はありませんでした。遠近感を失くした泥闇の奥に、チカリと鋭い光りが流れたような気がしましたが、それがシーラなのかどうかはっきりしません。色と光りの混然と混じりあった人体は、三次元空間の仕草を……コーヒーを飲んだり、雑誌をひろげたりする動作をしながら、メグの感覚にはそれらが、たぶん物理的な距離とは全然異なる大きさで感じられるのでした。ひとつの影に、別な影が無遠慮に重なり、その向こうにまた誰かの影がよぎり……。
 あ、とメグは声を漏らしました。自分のすぐ脇で、文庫本をひろげていた中年の女性が、きちんと和布のカバーをかけた本から顔をあげて、自分に向かって、静かに微笑んだからでした。
彼女は輪郭内部に色彩だけ動いている影ではなく、日常の姿をしていました。柔らかそうな感触の、趣味のよいニットセーターにスラックス。控えめなトップスに少し華やぎを添えて粒の大きく長い二重のビーズネックレスはグリーンが基調。蔓の細い縁なし眼鏡もおしゃれで、化粧もきちんと身だしなみに合わせて調えていました。きれいにセットした髪のこめかみから額際にかけて、すこし白髪が目立ち始めた五十代半ば過ぎと見えます。衣装も顔立ちも地味で、どこにも険がなく、目元に笑い皺をゆったりと作って、
「会えてよかったわ」
「あなたは誰?」
「節」
「セツさん。どこかであなたと会ったことあるんでしょうか?」
「いいえ」
「なぜ、会えてよかったっって言うんですか?あたしのこと知ってるの?」
「ええ。だからこうして付いて来たの」
「付いてきたって……」
「あなたのお友達といっしょに」
「え?」
 節さんはすっとたちあがり、静かな笑顔のまま、メグのほうに手を伸ばすとメグの上腕をぎゅっとにぎり、見かけによらない強い力で自分のほうへ引き寄せました。メグの腕をつかんだ途端、節さんの姿はかき消え、墨汁をぶちまけたような闇がひろがり、それでいて引き寄せる力は失せずに、メグは前のめりに、黒い穴にころげこみそうになりました。
メグ、と揺さぶられ、メグははっと正気に返りました。両肩を掴んで揺さぶったのはシーラでした。
「どこに行ってたの?」
「……街や建物が消えて……オーラだけが見えるところ」
 それはパラレルじゃない、とシーラは思いました。メグの中で変化し、成長している感覚野の投影だろう。
(では、何があたしを弾いた?)
シーラの眼には、モンブランを食べていたメグの表情が、ふいに〈浮き上がり〉視線だけはその反対に一点に集中して凝固したかのようでした。それは数瞬続き、当然のようにシーラがメグの心に触れようとしたところ、何かに遮られ、ぎょっとしたのでした。
「それで、そこの女の人だけが」
 とメグは隣りの席を見やると、座っていた女性は、幻覚とそっくり同じ仕草で、和布で丁寧に覆った文庫本を置くと、自分を見つめるメグとシーラの切迫した視線に、不思議そうな眼を向けました。やはり穏やかで洗練された雰囲気の中年女性でしたが、メグに話しかけた節さんとは、服装も顔立ちも、また声音も全然別人でした。
「何か?」
「いいえ。ちょっと妹が貧血起こしたみたいなので」
 シーラにはめずらしく下手な嘘でした。

 ジンさんのギャラリー〈個室〉は七階建ての久我ビルの最上階にあり、タイジの管理する306号室〈花絵〉からは、ちょっと隔たっていました。
 シーラさんから、と聞いた途端、前後不覚になったタイジは仕事もそっちのけに(いえ、もう上映中だったので、メールを覗くくらいは別にかまわなかったのです)携帯をひらきました。
 シーラの送信は、簡潔なものでした。
 
 ミネモト君元気だった?、今夜ジンさんのギャラリーに来る? あたしはメグを連れてく。ひさしぶりに会えるといいね。今〈個室〉にもういるの。

 タイジはじりじりしながらN版の終了を待ち、それを終えると、いったん客入れを停めてしまいました。
「スミマセン、急用なもんで」
 と順番を待っていた次の希望客に平謝りに頭を下げて断り、ちゃんと鍵をかけてから、〈個室〉に駆けつけました。夏以来、タイジは〈花絵〉の戸締りと客の出入りに、それまでよりずっと気を使うようになっています。
 そんな次第ですから、彼が〈個室〉にたどり着いたときには、とっくにシーラはメグを連れていなくなっていて、ジンさんが廊下の受付に座って、にやにやしながら煙草をふかしていました。
「よう、遅かったな。メグといっしょにアイスクリーム食べに行っちゃったよ」
「どこ?」
「サーティワンかなんかじゃない」
「また…。ここらにサーティワンなんかないよ」
「ともかくどっかだ」
「しょうがないな。すぐには来られないですよ。お客がいるもん」
「男はつらいよ」
「性別関係ないっしょ」
「いえ、BGM、ただの。聞こえるなあ、君の周囲の虚空に鳴ってる」
 タイジはさすがにむかっとして、口をヘの字にまげ、
「俺、帰ろっかな」
「まあまあ、待てばカエルの日和ありだぜ。じきに戻るよ、あのふたり」
「ジンさんをたまに尊敬したくなります。よくもまあ、のべつまくなし、日常をダジャレで塗り絵できるなあって」
「いや、君だとテンションあがるのよ。普段はもっと渋い」
「そうは思えない」
 憮然としてタイジは鼻に皺を寄せました。シーラへの想いを露骨にからかわれ、正直不愉快です。夏以来、ジンさんとタイジはいっそう仲良くなったのは確かですが、その反面、ジンさんの突っ込みは、さらに無遠慮になりました。タイジはずいぶん穏やかな性格なのですが、シーラについて直接つつかれると、さすがにむかっ腹が立ちます。
 が、大人コドモを自認し、公認してもらいたいジンさんは、タイジの神経を逆撫でしたって、まあ、たいていは許してもらえるとわかっているせいか、相変わらずのんきなままでした。
「そりゃそうだ。だって君は君といっしょにいる以外の僕の姿を知らない」
「……」
 シーラが言いそうな台詞、とタイジは思いました。ジンさんは次の煙草にマッチで火を点けると、椅子に腰けけたまま、ギャラリーの半開きの扉の内部に向かって、首から上だけをぬっと伸ばすように、
「ちょっと、おもしろい子来たんだけれど、入れていい?」
 とお腹の底から大声をかけました。
「あ、誰かいるの?」
「シャンプーのふたりが来たの。シーラさんと入れ違いに。リハやってるかな」
 どうぞ、と即座に可愛らしい返事が聞こえ、ジンさんに眼で促されると、いったんひきかけたタイジは、女の子のほのかな声に誘われて、〈個室〉のドアをくぐりました。
 窓は全部ブラインドを下ろして外光を遮断し、すっかり室内を暗くしていましたが、足元に転がしの照明がふたつ、それに天井からギャラリー備え付けのライトがいくつか点いています。どちらも最小限に光源を抑えた薄暗い壁際にそって、ぐるりと大小いろんなオブジェが並んでいましたが、タイジの眼は、作品よりもやはり美人風…シャンプー…のふたりに注がれました。DMそのまんま、襟にも裾にも、これでもかとばかりにフリルいっぱいの真っ赤なゴスロリドレスをお揃いで着て、カツラか地毛か、金髪縦ロールを両頬の脇にピンクリボンで結んだベルばらロココヘアスタイル、ぱっちりと見開いた両目から今にも落ちるのではないか、とはらはらしそうな真っ黒ツケマとシャドーたっぷり上瞼には、青や金色のスパンコールがきらめき、人形みたいに濃淡のない白い肌に、赤い唇。なによりも、ギャラリーいっぱいに香水壜をまるごとぶちまけたのではないかと思うほど濃い匂いに、タイジは眉間をかるくこづかれたくらいのショックを受けました。
(すごいなー。俺、こういうの全然わかんないけど、きっと薔薇か百合なんだろうな。生の花とは違う香りだ。もうちょっと軽い匂いでもいいんじゃないかなー。あ、わかった。ジンさんの煙草の匂い消しだ…)
 二人の少女は、ギャラリーの一番奥に向かい合っていました。ひとりは立って、もうひとりは座っています。立っているほうは楽譜か何かを眺めていて、腰掛けた少女がオカリナを握っているところを見ると、こちらがシャワーなのでしょう。
タイジが入ってってゆくと、立ち姿の少女が彼に向かって体ごとふりかえり、その場で丁寧にお辞儀をしました。その仕草は、裾ひろがりの大きな衣装のせいか、壁に飾り付けられたお人形が見えない手で背中を押されたように、ちょっとぎこちなく見えました。彼女はすぐに上半身をあげ、さやさやと襞を重ねた衣擦れの音を響かせて近づいてくると、瞬きしながらしばらくタイジを見つめ、
「もしかして……峰元君」
「ええっ」
 いきなり苗字を呼ばれてタイジはびっくりし、あらためて両眼を見開き、ツケマとお化粧に埋もれた相手の顔を、気恥ずかしい気持ちを抑えて隅々まで点検しました。
「うそ、みっちゃんじゃない?」
「そう、倫子から綸子、でリンス。何年ぶりかなあ」
 シャンプーの二人組みのひとり、リンスはタイジの中学、高校時代の友人でした。特別仲が良かったわけではないけれど、タイジの母親の涼子さんと、倫子の母親とは、たしか今でも交流があるはずでした。
「音大行ったはずじゃない」
「そう。現在は自主的音楽活動」
「プロになったの?」
「だといいんだけどね、なりたいね」
 リンスは屈託なく笑い、タイジは彼女のすっかり様変わりした姿と顔に度肝を抜かれてしまいました。
「歌手になったの? めちゃくちゃピアノうまかったのに、みっちゃん。合唱コンクールのとき、いつも伴奏して」
「音大で専攻変えて声楽に走ったの。そこが運命の分かれ道」
「もったいない」
「そう? 今も充実してるわよ」
 タイジの覚えている倫子は、すごくマジメな音楽ひとすじの少女でした。学業成績もよく、みんなに優しくて美人だから、ずいぶんモテたはずなのですが、タイジとはちょっとフィーリングが違ったので、彼はそれほど彼女にひかれませんでした。
「なんか……高校時代とは雰囲気激変して、別人みたい」
「みんなそう言うわ。でも、今いちばん気持ちいいことしてるかも」
「なんだよ、ふたりとも顔見知り?」
 ジンさんがぬっと割り込んできました。
「幼馴染です」
 はきはきとリンスが喋ると、顔の両脇のピンクリボン縦ロールが、花束みたいにゆらゆら揺れました。
「へえ。奇遇だねえ。ミネちゃんも隅に置けないな。どこでゲットしたって?」
「ちょっ……突然デマかまさないでよジンさん。ゲットもなにも、高校時代のクラスメートですってば」
 タイジは焦って言い返しました。
「油断も隙もありゃしない。みっちゃん、このひとね、こうやって噂話を捏造して、ギャラリーの評判ひろげたがるから気をつけて」
「あはは、ジンさんらしいじゃない」
 あっけらかんと口を大きく開けて笑うリンスの表情と、タイジの覚えているもの静かな優等生の倫子の姿とは、かけ離れていました。
(ジンさんらしい、なんて、もうこのふたりずいぶん仲がいいみたいだけど)
 タイジはシャンプーのもうひとりの少女に目を向けました。タイジとリンスが喋っている最中も、彼女は奥の椅子に座って、両手にそれぞれオカリナを持ち、暗い照明に透かして歌口に唇をそっとあててみたり、かるく吹き鳴らしたりしていましたが、タイジの視線を感じると、すっとたちあがり、こちらにやってきました。タイジのすぐ傍まで、抵抗もなく彼女は近寄り、彼の鼻先でこくんと金髪の頭を下げ、小さな声で、
「おはようございます。紗WAです」
 紗WAとリンスは姉妹みたいに似ていましたが、それは同じようなツケマと化粧のせいかもしれません。でも化粧した顔がこんなに倫子に似ているなら、紗WAの素顔も、きっとずいぶん可愛いに違いない、とタイジには思えました。
 タイジは、目と鼻の先までいきなり近寄ってきた紗WAから、ちょっと後ずさって距離を置き、
「ミネモトタイジといいます。このビルの中のギャラリー〈花絵〉のオーナーです」
「あたしの高校時代の友人なの」
 リンスはタイジと紗WAの間に、押し入るように身を乗り出し、顔をシャワーに向けて言い添えました。
「そうですか。このオブジェ、あたしたちの共同制作なんです。リハ中でかまわなければ、御覧になってください」
 タイジの顔をまっすぐに見つめてすらすらと、その世代の少女にしてはあまり耳に馴染まない言葉でなめらかに敬われて、タイジはむしろうろたえました。
(なんか……日本語覚えたての外人みたいな感じの子。でも発音フツウだし、それにしては……なんか)
「まだパフォーマンスの準備が全部終わったわけじゃないんで、未完成なんですけど、これ、〈マチ〉なんです。まだ〈街〉にならない前の、カタカナの〈マチ〉」
「へえ」
 タイジはあらためてギャラリーの壁沿いを眺めわたしました。
 ジンさんのギャラリーは、間取りの一様ではない久我ビルの部屋のなかでも、〈花絵〉ほどではないにせよ広いほうです。縦の長いかっちりした方形ですが、どういうわけか、窓のあるいちばん突き当たりの壁にむかって、部屋の幅は入り口からすこしずつ狭まってゆき、自然な遠近感よりさらに奥深い印象でした。設計ミスなのか、壁の内部構造になにかが挟まっているのか、よくわかりませんが、この深さの歪みはギャラリー空間としては、もうそれだけで非日常的な面白い効果をくれました。
 ブラインドを下ろした窓意外の壁は、ほとんど半透明のサテンか、ほのかな光沢のあるシフォンの薄布でおおわれています。布の途切れるところどころ、地の壁が覗いていますが、それはどうやら故意にコンクリート打ちっぱなしの壁面を視覚に演出したいためのようでした。布の下方に、DMで見たこまごまとしたオブジェ。ガラス壜や紙屑、ダンボール、お菓子の空き箱、プラスティックの何かのケース……毛糸のかたまりや空き缶。日常茶飯に購入され、用が済むと処分される、家庭のごくありふれた品物が表面のラベルを剥がされ、脱色され、白かベージュ、生成りいろに塗り替えられて、あっちにひとまとまり、またはこちらにころがって、壁の前にざわざわと無秩序に並んでいました。よく見ると、女性の下着らしい衣類も、あちこちにありますが、周囲に囲まれた日用品と並列化して、ちっとも色気を感じません。
(言っちゃなんだけど、周りじゅう漂白されたゴミ捨て場みたいだ)
 たぶん、コンセプトアートなんだろうけれど、これだけじゃ面白味はないな、とタイジは考えました。
 リンスはシャワーに、
「もう吊っていいでしょ?」
「うん。ジンさん、踏み台貨してください」
「やってやるよ。どれ…」
 とジンさんは衣装の重いシャワーに変わってスチール椅子に乗っかると、リンスの差し出した、いくつかの繊維の束をつかみ、天井に打ち込まれたホックに、束の先端の鉤をひょいひょい、とひっかけながら、ギャラリーじゅうを移動しました。
 ジンさんが束をつかんでいた手を離すと、いきなり糸の束はぶわっと膨らみ、厚い蜘蛛の巣のような靄が、天井から床まで放射状にひろがりました。それはちょうど壁沿いのオブジェと客席を隔てる細かい霧雨のような幕をつくり、その幕に床のころがしの照明が当ると、光りの触れるその部分は繊維の反射で何も見えなくなり、その周囲もまた視覚の混乱が起きて、あたかも和紙にしたたった水滴が滲むようにかきくらがり、繊維の向こうのモノの形象はぼやけて、曖昧になりました。
天井からのいくつかのライトも、光源を最小に落としているのですが、繊維の霧雨に触れると、弾かれて乱反射し、暗い部分と、その逆にまぶしい部分と、下方と同じようにモノの姿は、客席から曖昧になりました。光りの影響の少ないところは、ちゃんと壜や箱のかたちが見えるのですが、そうすると壁にはりめぐらした薄布の起伏と、色材を剥ぎ取った無彩色の凹凸が急に陰影を深め、もとは、そこらへんに置いてあるただの雑貨のはずなのに、幾重もの隔たりの向こうで、ひっそりとした、でも確かな表情をつくりはじめたのでした。
シャンプーのふたりは、それからさらに、オブジェの合間に、大小さまざまな鏡の破片を、一見無造作に置いてゆきました。毀れた万華鏡の破片のように、それらの鏡のかけらは、照明の光りと繊維のぼかしをくぐったいろんな光りの深さを反射し、ちかちか、きらきらと、客席で見ているタイジが、ほんのすこし体を動かすたびに、ちがったきらめきを繊細に見せてくれるのでした。ギャラリーの壁際は、ゴミ捨て場から一変して、今ではもう形の定かではないけれど、それゆえにかえってなつかしさをそそる、きれいな光と影の集まりになりました。
「うわー。みっちゃん、この蜘蛛の巣なに?」
「企業ヒミツ」
「触ってもいい?」
「今だけね。切れやすいから、注意して」
 タイジは指先で注意深く、靄の糸の一本ずつを触って、光りに透かしてみました。絹糸よりもさらに細く、光沢があり、見た感じよりずっと硬く、まるで極細のピアノ線に伸縮性を加えたような、見たこともない糸です。その上、かすかに粘着性があり、タイジの指にからむと、もつれてちょっと剥がれにくいところ、まったく蜘蛛の吐く糸に良く似ていました。リンスの言うとおり、固いけれども強度はないようで、随分気をつけて触れていたつもりなのに、タイジはうっかり数本の絡みを切ってしまい、あわてて手を放しました。
ですが、この不思議な糸は、途中で切れても、ところどころで交差する横糸に支えられて、ぶつんと下に沈んでしまうことなく、張りを失いながらも、そのままゆらゆらと中空でそよいでいるのでした。
(なにかの繊維に透明樹脂をコーティングしているようだ。それで光りを反射して、きれいに暈しの影が滲むんだろうな。でもいったい何だろう?)
「タイちゃん、そろそろ音出し始めるって」
 ジンさんの声で、タイジは糸から離れて、客席に戻りました。奥のパフォーマンス空間以外の平土間にスチール椅子を並べただけの簡素な客席は四十席ほど。立ち見が入っても、ぎりぎり五十人くらいで限界というシンプルな舞台でした。
「どのくらい歌うの?」
「そうねえ、十曲くらいかな。トークと演奏で一時間弱。この子たちかなりファン持っててだいたい満席か、たぶん今夜も立ち見になるよ。シーラさんとメグの席、君の傍にキープしといて」
「ヒョウちゃんは?」
「さあね。週末はあいつ忙しいじゃない。いちおう知らせておいたけど、自分のライブかガーちゃんの伴奏か…。それにこのごろ何かまた新しく始めたらしいぜ」
「何か?」
「さあね」
 ジンさんはまたもや、無責任にタイジの好奇心を刺激しておいて途中で放り出しましたが、そういうジンさんのパターンに、タイジはすっかり慣れていたので、怒りもせずポケットから携帯を取り出すと、ヒョウガからの返信メールが届いていないかどうかチェックしました。

 行くよー(+絵文字V)

 それだけ入っていました。タイジはちくんと胸を刺される思いでした。
(似てるよな、シーラさんと彼は。絵文字なんか付くぶん、ヒョウちゃんはカワイイけどさ、なんとなく共通してる)
「ジンさん、ヒョウちゃん来るって」
「あそ。ヤツは立ち見でいいよ」
「なんですか、それ」
「たぶんおしまいまでいられないだろ。土曜の夜は、どっかで仕事入ってるはずだし、でなけりゃ途中入場だろうから」
 ぽうっ……とオカリナがほのかに響き、ジンさんもタイジも口を噤みました。
 舞台空間は大人ふたりが両手をひろげれば、もうめいっぱい、という程度です。そこにコルセットにクリノリンという時代衣装さながらの少女二人が入ったので、さぞ窮屈な舞台かと思われたのですが、天井から吊りさがり、ふわふわと空間を遮る蜘蛛の巣と壁の薄物の陰影、ほんのりとした照明の滲みの効果で、少女たちの背景は、実際よりも奥行きと広さを増して感じられました。
 シャンプーの二人は、舞台に向かい合って立ちました。客席に横顔を見せて、オカリナを吹く紗WAは、じっとリンスのほうを見つめています。彼女の足元には銀色のノートパソコンと、それにつないだ小型のアンプがあるようでした。リンスがシャンプーに眼で合図すると、シャワーはパソコン画面に触れ、そこからピアノとオカリナの前奏が流れ始めました。客席からはPC画面はほとんど見えませんが、最前列右端のタイジの席からは、ちょうどシャワーのうしろに置かれた鏡の反映で、伴奏を流している液晶画面上方で、一定の間隔をおいてチカチカと明滅する青緑の点滅光が見えました。シャワーはその画面をじっとみつめ、ほどなく自分も吹き始めました。録音の伴奏ピアノはたぶんリンス。シャワーのオカリナは,PC内蔵と生演奏の二重奏です。

  あなたの心に空白があるなら
  あなたの心に痛みがあるなら
  さびしさがあるなら
  それを埋めようとしないで
  そのままにして ただ そのまま
  あるがままに 抱きしめていようよ

  もがいたり悲しんだりしたら
  それは傷になってしまうかもしれないけれど
  近くに あるいはそっと抱きしめ
  そっと見つめているなら

  からっぽの心 埋まらない溝は
  手の届かない 誰も あなたでさえ
  触れることのできない あこがれのまま
  透明な空につながるかもしれない
  血を流すより ただ ときどき
  雫のような涙の降りそそぐ
  ナチュラル・スカイ


  かなえられない恋があるなら
  せつなさがあるなら
  ふり向いてもらえないくやしさ
  自分へのもどかしさ
  自分とあの人の距離を
  憎んだりしないで
  ただ やさしく 抱きしめていようよ
  その隔たりの哀しみをいつくしみ
  その人の幸せを願うなら

  からっぽの心 埋まらない溝は
  手の届かない 誰も あなたでさえ
  触れることのできない あこがれのまま
  透明な空につながるかもしれない
  血を流すより ただ ときどき
  雫のような涙の降りそそぐ
  ナチュラル・スカイ

  ……
 ナチュラル・スカイ、と繰り返しながらリンスの声とシャワーのオカリナのハーモニーはディミニュエンドしてゆきました。
 ブラボー、ブラボー、とジンさんは歌が終わるやいなや大喝采しましたが、タイジは手を叩くのも忘れていました。
(これ、まさに俺のマイソング…)
 倫子のピアノも歌も人並みはずれてうまいことは承知していましたが、今のリンスの歌声は、高校生のころの歌い方とは全然違っていました。決して声を張り上げたりせず、ことさらな裏声も使わず、オカリナの素朴な旋律と、ときどき交じり合うように聞こえるくらい〈ナチュラル〉な声でした。心のすきまにそっと寄り添ってくれる音、いつまでも聴いていたいような歌でした。
 そうして、タイジは突然気が付きました。
(もしかしてシャワーは耳が聞こえない?)
 最初、シャンプー二人が、客に正面でなくわざわざ横顔を見せて立つのは、奇抜をねらう演出かと思ったのです。実際、リンスのほうは、歌いながら時折客席を見て、微笑んだり、軽い手振りのジェスチュアをしていましたが、オカリナのシャワーは、一心に吹き鳴らしていたにせよ、また緊張していたにせよ、その視線は、終始リンスの顔、それも唇にぴたりと注がれ、一瞬も離れなかったことに、タイジは気づいたのです。
(読話だ)
 読話、とは聴覚に障害を持つひとたちの対話手段のひとつで、相手の唇の動きから、言葉を読み取るコミュニケーションです。
それと察すると、タイジの心をかすめたそれまでのシャワーの奇異な印象は、ほぼ理解できました。うすぐらいギャラリーの中で、タイジの口の動きを読んで、間違わずに会話するために、シャワーは臆せずに至近距離まで顔を寄せなければならなかったのでしょうし、リンスがシャワーに話しかけるときに、まるで割り込むようにタイジとシャワーの間に顔をはさみ、シャワーに向き合ったこと。そうして、不自然ではないにせよ、シャワーのふつうよりも正確すぎる敬語の発音。
(きっと中途障害なんだな。しゃべっている自分の声も聞こえないから、あんなふうに固かったんだ。それにしてもよく演奏できるなあ。作曲はみっちゃんかな? 歌詞は誰なんだろう。なんだか、俺の心境ずばり言い当てられちゃったみたい)
「タイちゃん、このふたりいいでしょ」
「ええ、すごく」
 シャワーの耳に、ジンさん気づいてるんだろうか、とタイジは隣の様子をあらためて測りました。ジンさんはいつのまにか発泡酒の缶を片手に握り、目をタレ眼にほそめて、嬉しそうに笑っていました。
「わ、いつのまに」
「常備薬だよ。君も飲む?」
「そうですね。いただきます」
「そうこなくちゃねえ。週末くらい」
 ジンさんはジャケットのポケットから、もう一本発泡酒の缶を取り出し、タイジに手渡しました。
「俺のおごりね」
「オオバンブルマイですね」
「君もシニカルが身についたなあ」
「寅次郎にはまだ遠い。木戸銭は後でちゃんと払います」
 こんばんは、と入り口で聴き覚えのあるあどけない声がしてタイジが振り返ると、メグがにこっと笑って彼に手を振り、その後ろにシーラがコートを脱いで、すこし前かがみに立っていました。
 うわ、すごい匂い、とメグはまず、鼻を手で覆いかけましたが、ジンさんの手前がまんしました。メグはまだ香水未経験ですが、ママの……安美さんの遺品のなかには、かなりたくさんパヒュームがあり、ママがなつかしくなると、メグは安美さんが使っていたドレッサーのひきだしに、今もきちんとしまわれている香水壜をとりだし、そっと嗅いでみたりもするのでした。
「よう、早かったんじゃない?」
 ジンさんは、発泡酒を握った片手を持ち上げて、こちらに来るよう二人に合図しました。
「いそいで戻ったのよ。ミネさんが来るって言うから」
 シーラの台詞に、ちょっとしぼみかけたタイジの心に、またあたたかな灯がともりました。
「カボティーヌ? カボシャール? ずいぶん贅沢に使ったわね」
 シーラはメグの様子を察して、小声でさりげなくジンさんに尋ねました。
「わからん。本人たちに聞いて」
 ジンさんはシャンプーの二人に顎を向けたのですが、シーラはリハの流れを妨げたりはせず、シャンプーの強烈な匂いとルックスに少したじろいでいるメグの背中を押して、タイジのすぐ横に、長い膝をそろえて腰掛けました。
 リンスは、客席に突然現れたシーラの薄闇でも際立つくっきりした容貌に、ツケマが落ちそうなくらい、両目をぱっちり見開きましたが、シャワーの表情に変化はありません。
 シーラのささやきが耳に入ったのか、リンスは客席を眺めてちょっと迷った様子ですが、結局、そのまま次の曲を歌い始めました。


  街はたたずむ
  思い出とすれちがいをちりばめ
  あなたにあげたかったぬくもり
  まだ わたしの手のなか
  汚れないまま
  長い時が経って
  ふたりがめぐりあっても
  あなたは 知らない
  わたしを 知らない

  こまかな糸のように
  わたしたちを隔てた 思い出
  雨は銀色に ひかる 思い出

  せつなく 
  時の流れがひかる 手のなかに
  残して はざまを
  あなたのいない すきまを
  街角がひかる
  誰も傷つけないために
  思い出の網をめぐらして
 
  もういちど会えたら
  愛していると 言うわ


  待つこともなく
  窓が開く 追憶
  わたしたちを隔てた 虚栄
  知らなければ もっとすなおに出会えた
  街には
  使い捨てられた 思い出
  時の流れにきよめられ
  光る 揺れて きらめいて
  たたずむ街角
  あなたは知らない
  わたしも知らない
  くちづけの約束

  こまかな糸のように
  わたしたちを隔てた 思い出
  雨は静かに 閉ざす かなしみ

  もういちど会えたら
  愛していると 言うわ


 二曲目の途中でヒョウガがやってきましたが、みんなシャンプーの歌に聞きほれて気がつきませんでした。ヒョウガは、入り口でしばらく歌を聴いていましたが、どうした気持ちの動きなのか、楽器ケースを開け、金のフルートを取り出すと、シャンプーの歌の途中から、いきなりセッションを始めました。
 ヒョウガがオカリナの鳴らす旋律に添って飾るアルペジオは、あまりに自然なハーモニーだったので、最初誰も気付かないほどでした。歌っているリンスさえ、わからない様子でしたが、それまでぴったりリンスだけを注視していたシャワーが、いちばん最初にヒョウガのほうを向きました。
 彼女は一瞬オカリナを口から放し、はっきりと驚きを顔に浮かべました。客席の後ろから、ヒョウガはそんなシャワーに向かって、フルートを構えたまま小首を傾けてあいさつし、演奏を続けるように促しました。
 そこで初めてみんなはヒョウガの飛び入りに気が付いたのでした。
「あれ、おどろいたね、あいつ」
 ジンさんは軽い舌打ちまじりにつぶやきました。
「どういう風の吹き回しだ。今まで拝んだって、ここで吹いてくれたことなんかなかったのにさ」
「彼を拝んだことあるの?」
 とシーラが面白そうにジンさんにささやきました。
「実はない。頼んだことはあるけど」
 ジンさんはしゃあしゃあと言い返しました。
 タイジは、
(ヒョウガのフルート、シャワーには聞こえたのか? じゃあ、聴覚障害は思い違い?)
 ですが、もういちどシャワーを凝視すると、やっぱりシャワーは、いったん外れてしまったリンスの歌声を追って、その口元を懸命になぞり、オカリナを吹いているのがタイジには、もうはっきりそれとわかるのでした。
 シーラは顔をかるくうつむけて後ろのヒョウガの様子を察しましたが、何も言いませんでした。タイジはそんなシーラの一挙一動に胸が締め付けられ、あらためて
(俺、ふだん自覚してるよりずっと、彼女のこと好きなんだな……)
 と噛みしめるのでした。ふられるに決まってるけど、でも好きなんだよな。ヒョウちゃんのことも俺は好きだ。こうしてるの、俺つらいんだろうか?
(そうでもない。つらいとか苦しいとか、そういう感じじゃないけど。だけど、リンスの歌みたいに「アイシテル」なんてたぶん言えないでどこかに行っちゃう感情なんだろう)
 タイジはせつなさを紛らすように、できるだけ自然な口調で、シーラさんに耳打ちしました。
「シャンプー、歌いいでしょう?」
「ええ。プロで通用しそう」
 シーラはタイジのほうに頭を少し傾けてくれたとき、さらりと振りかかる黒髪が揺れて、白い耳たぶと、いつも彼女の耳を飾っている翡翠のティア・ドロップのピアスが覗きました。そうして、こんなにシャンプーの振りまいた香水が濃くたちこめているにもかかわらず、髪と襟足からシーラの匂いや体温もタイジは胸に吸い込み、眩暈がしそうでした。
(俺、ジンチクムガイじゃないぜ、ガーネットさん)
 と、ここでなぜかガーネットが出てきたのは、多分タイジの無意識のアリバイ作りなのでした。
 二曲目を歌いおさめてリハを止め、リンスとシャワーがやってきました。後部座席からヒョウガも来て、ジンさんはさっそく
「ヒョウガ、笛吹いてくれてさんきゅ。初めてだよな、ここでは」
「いい歌と演奏だったんで、ことわりなしでワルイと思ったけれど、入らせてもらったんです。大丈夫でしたか?」
 ヒョウガはジンさんとシャンプー二人組をかわるがわる見て、まじめな顔で尋ねました。膝の抜けたジーンズに、わりと地味めな色の濃い柄シャツを数枚重ね着して、その上にごつい皮ジャンをひっかけ、レッドソックスの野球帽を浅くかぶっている彼は、帽子の端からレオパードヘアが思いきりぼうぼうとはみ出て、さらに金のフルートを持っていなければ、繁華街をうろついている普通の青少年にしか見えません。ですが、言葉づかいと物腰は初対面のシャンプーに気を配って、充分丁寧でした。
「びっくりしたけど、嬉しかったです」
 リンスは答え、シャワーは、さっきタイジに対して示したようにヒョウガに接近すると、
「ありがとうございます」
 とだけ。ヒョウガは人なつこい笑顔をくしゃっといっぱいにひろげ、シャワーに向かって
「すごい素直な音だね。オカリナといっしょに吹いたの初めてですよ」
 シャワーは言葉ではなく、ただ嬉しそうにそして恥ずかしそうに笑い返しました。
「盛り上がりかけのとこ邪魔するけど、客入れしないといけない。ヒョウガ聴いていくの? それともジャムしてくれる、まさか」
「シャンプーさえよければセッションしたいけど、これから六本木ライブに回る。みんな元気かな、と思って顔見に来たんだ」
 とメグに視線を移して、
「背伸びたね」
「みんなそればっかり」
「大人っぽくなった」
 とヒョウガが言ったとき、シーラのほうにちらっとすべらせたその視線に濃い光りがこもったようでした。
「おまえ、ここのあと六本木来る?」
「メグを送っていかなくちゃならないから」
「シーラさん急ぐの? たまにはみんなで晩メシ食おうよ」
 とジンさんが口をはさみました。
「シャンプーライブのあと、打ち上げやるんでしょ? そのあとさらに寄り道するの、メグには厳しいね」
 とジンさんの誘いにシーラさんはあっさりケリをつけました。
「ジンさん、御来場のお客さん入れていいですかー」
 とギャラリー戸口で臨時の受付バイトの女の子が声をかけました。
「いいよ。俺も手伝う」
 ジンさんはワインの栓抜きをポケットから取り出し、ざわつきはじめたギャラリーの入り口へ行ってしまいました。
 タイジは、ヒョウガがシーラに何かさらに言い募りたそうなので、気を利かせてその場を離れました。そんなタイジに、何となくメグも付いてゆきます。
「タイジさん、この糸何ですか?」
「さあ、企業ヒミツだって」
「さっき歌っていた思い出の糸ってこのことでしょう」
「だろうね」
 シーラとヒョウガを後ろにすると、タイジの気分は、ガクンと傾きそうになるのでしたが、隣りにメグを見ていると、彼女の可愛らしさにだいぶ慰められました。そうしてタイジの足は、奥のシャワーへ向き、パソコン画面を覗き込んでいるシャワーの眼の前で止まりました。
 シャワーはドレスの襞をたっぷりと抱えるようにフロアにしゃがみ、二丁のオカリナにかわるがわる指を添え、画面を明滅しながら疾走してゆくブルーグリーンのパルスを数えていましたが、タイジの気配に顔をあげ、こくびを傾げて、何? というおずおずした表情を見せました。
 タイジはケアワークで身に付いた習慣で、自然にその場に膝をおろし、シャワーと同じ顔の高さで、今度は意識して、言葉をはっきりと発音しました。
「いつからオカリナ吹いてるんですか?」
「十年前からです」
 シャワーは、自分の眼の等位置に視線をちゃんと下ろして話しかけたタイジに、一瞬両目を伏せ、またすぐに、きりっと顔をあげました。タイジは彼女の反応にはかまわず、
「よかったら、そのうち、ぼくのギャラリーでもパフォーマンスをお願いします」
 と言ったのでした。

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