さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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Posted by 水市夢の on

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スターライト・パヴァーヌ 2

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患者の消灯時刻は八時から八時半と一応定められていましたが、実際にそんな早寝ができるひとは少なくて、どこの病室でもベッドサイドにちいさな明かりを灯し、仕切りカーテンの中でかなり遅くまで起きている患者がいます。入院がすこし長引くと、同室の患者さん同士が仲良くなり、夜更けまで小声でおしゃべりしていたり、不埒なあたりでは、こっそりお酒のやりとりなどもあるようですが、医師も看護師も、度外れな逸脱でないかぎり、大目に見逃しています。
 メグはクリスマスを過ぎたくらいから急に手足が楽になり、ギプスもとれ、日常動作のすべてにおいて、おおむね自分で動けるようになっただけでなく、待合室に備え付けのアップライトのピアノを試しに奏いてみたら、どうにか左右の手がもとどおりに使える、ということもわかりました。
 医師や看護師たちはメグの回復に驚いていましたが、その理由はメグにはどうでもいい<
span style="font-size:large;">ことでした。体力が戻るにつけて入院生活は退屈になるばかりなので、メグは看護師にお願いして、待合室にひとの消える消灯後しばらくの時間、ピアノを奏く許可をもらいました。
 待合室は、正面エントランスを入ってすぐのひろいフロアでした。市民病院の一階は、この待合室が面積のほぼ三分の一を占め、その他は中央検査室を取り巻くように外科や内科など、さまざまな区画に廊下で分かれてゆきます。暖房は一晩中点いているので重ね着していれば、がらんとしたフロアにメグひとりでも寒くはありません。ただ、照明はピアノの真上のスポットランプひとつきり。そのほかはどこも、まっくらではないものの、非常用に光度を最低に抑えた暗がり近いほの闇でした。
 毎晩メグは、消灯後すぐに待合室にやってきて、一時間か二時間くらい、覚えている曲や、ときには新しい曲を奏くのでした。どうしてここにピアノがあるのかわかりませんが、メグが奏く前まで、誰かがこのピアノを鳴らしていたという話もないようです。ずいぶん良い品なのに、アップライトピアノはフロアのいっぽうの壁の隅に飾り付けられたオブジェのようにひっそりと置かれ、誰も見向きもしないのでした。
夜間にこれをメグが奏いていると、夜勤の看護師や介護士が、ときおり通りすがりに足をとめ、メグの気ままでたどたどしい演奏に耳をかたむけ、
「うまいねえ」
 などと言ってくれるのですが、メグはただ笑っていました。無傷の右手の指はちゃんと動きますが、負傷したほうの左指は、まだこまかな運指がきかないのでした。
よくしたもので、眠りたいのに眠れない夜でも、うまく奏けない難しい曲をお稽古していると、睡魔は嬉しそうに来てくれます。また逆に、なんだか眠りたくない、と思う夜には、メグは自分の好きな曲をたくさん奏くのでした。
 フロアの壁や床にピアノの音は反響を呼び、まるで音楽堂の独演みたいに朗々と聞こえるのでした。ピアノを奏きながら、メグはときどきオトくんがお見舞いに来てくれると書いてくれた色紙を思い出し、彼のヴァイオリンと共演できるくらい自分もうまかったらいいのに、などと思うのでした。
(無理っぽいな。だってもう先生よりオトくんは難しい曲が奏けちゃうっていうんだもん。先生のほうが緊張するんだって……)
オトくんは、外見はまったく目立たない、おとなしそうな男の子なのですが、いったん演奏をはじめると、まるでその全身が楽器になったかのように見えるのです。曲のフレーズ、強弱、アクセント、さまざまな照り翳りにつれて、オトくんは手や指だけでなく、体じゅうを揺すって、音楽を表現しようとするのでした。
その晩はあまり眠りたくない夜だったので、メグは自分の好きな小品を、覚えているかぎり、また思いつくままに奏でていました。
「きれいだねえ、それはなに?」
 ハイドンのセレナーデやビートルズメドレーなどを夢中になって奏いていると、うしろからそっと遠慮がちに声をかけてきたひとがいました。
 ふりかえると、パジャマの上に藤色のカーディガンを羽織ったおばあさんが、少し離れたソファに座って後ろ向きに体をひねり、壁際のこちらを見ていました。きれいな白髪をアップに撫でつけて、やさしい顔をしています。
「ヘイ・ジュードです。おばあちゃんも聴いたことあるでしょ?」
 メグはそれまでにも何度か、やはり眠れなくて、夜間にこのフロアを徘徊する入院患者を見かけたり、そんなひととしばらく話したりしたことがあるので、このおばあさんもそうだろうと思いました。
「違うよ、あなたのその手の中にあるものはなにかと聴いているの」
「あたしの手の中?」
 メグは鍵盤に乗せた自分の両手を眺めました。ピアニストになるにはちょっと華奢で小造りの、指もあんまり長くない、いかにもこどもっぽい手でした。
「何も持ってないです」
「持ってますよ。ほら」
 とおばあさんはソファからたちあがり、メグの傍までやってきました。
「ここに、あなたの、それ、そら」
 あ、とメグは息を呑みました。
 痩せて骨ばったおばあさんの手がそっとメグの手に重なったとたん、アップライトピアノも待合室も消え、爽やかな藤の花房が揺れる水辺が周囲に浮かび上がりました。
 どこかからこんこんとあふれ出る泉か池に藤の波は揺れなびき、揺れかかり、新緑の飾るその水上に張り出した藤棚だけではなく、空間のいたるところに白や紫の藤房が咲き匂っているのでした。
 両手をもういちど確かめると、そこには金の箱ではなく、見覚えのあるすこし厚ぼったい手漉きのカードがありました。シーラからのクリスマスカードです。星砂で、サン・テグジュペリの王子さまが描かれた手紙。
「おばあちゃん、どこに行ったの?」
 藤の花群の匂いは濃く、蜜蜂がたくさん周囲に飛びまわっていました。晩春のうららかな陽光が水面に反射し、蔓をめぐらす濃淡さまざまの藤棚と白藤のどこにもおばあさんの姿は見えません。
「ここにいるわよ」
 手にしたシーラのクリスマスカードの中から、おっとりと返事が聞こえました。
 手紙の中? とメグが封筒をのぞくと、そこにはシーラのカードがきちんと入っているだけです。メグはそのカードをとりだし、何度も眺めたシーラの手紙をまたひらいてみました。
 薄紫のカードは白紙でした。メッセージは何も書かれてはいなかったのです。でも、その中に、樅の木のクリスマスシールを張った小さなビニール袋があって、コットンに包まれた桜貝が入っていたのでした。今またそのカードをひろげてみると、大切にしまっておいた桜貝の袋はなくて、両開きの藤色の紙面からまず泡立つ水の雫か、桜の花弁、あるいは周囲に咲き匂っている藤の花のひとひらづつのようなこまかな軽いかけらが、ふわっとあふれてきました。開かれたカードの窓から勢いよく吹き入る風に乗り、薄紫や白や、薄紅色の花吹雪が、メグの顔や体じゅう、あたり一面に舞い上がり、見渡すかぎりの天地を埋め尽くすかのようでした。
「いいねえ、あなたはこんなきれいなものを持っていて」
「おばあちゃん、どこなの、見えない」
「あなたの思い出を見せてもらっているんですよ。勝手でわるいと思ったけれど」
「思い出?」
「そう。あたしはね、自分のだいじなものをなくしてしまって、思い出せないの。それで心配になって、いつも探し出そうとあちこち歩き回っているんだけど、見つからないんだよ。ときどきこんな風にして、あなたみたいにとてもきれいな記憶をいっぱい持っているひとに出会うと、ついうらやましくてのぞいちゃうんだ」
「あたし、こんな記憶を持ってるの?」
「これはね、まだ曖昧なんだけど、あなたの未来の記憶なのよ……」

大晦日の午後、しばらくぶりに羊子がお見舞いに来てくれました。
「もう冬期講習ないから」
 と言いながらも羊子の手持ちのミッフィーのトートバッグには、いろんな参考書が入っているみたいでした。今日彼女はその大きめのバッグの他に、こぶりな巾着トートを持ってきています。
「メグにあげようと思って」
 羊子はすこし声を低くして、いたずらっぽく笑いました。
「何?」
「コスメ一式」
「化粧品?」
「うっそ。羊子ちゃんお化粧するの?」
「ときどき」
 メグは正直びっくりしました。あらためて友人の顔をしげしげ眺めると、そういえば少し唇がルージュで赤いし、眼の周りにうっすらと青みがかったシャドーを挿して、しかもラメ入りなのか、きらきらしています。
「わあ、眼の周りきれい」
「うん。これはお姉ちゃんにもらったの」
 羊子には中学と高校にそれぞれお姉さんがいますが、姉妹ふたりともやっぱり優等生で、都内の名門私立学校に通っているそうでした。
「お姉ちゃんたちなんか、すごいもん。ちゃんと脱毛してるし、スキンケアもばっちりだから、いつもぴかぴかだよ」
「ピカピカ?」
「そう。無駄毛なし、つるつるスキン」
 羊子ちゃんはセーターの腕を肘までまくってメグに見せました。羊子ちゃんはメグよりも大柄で、全体としてぽちゃっとした肉付きの腕ですが、肌はゆでたまごみたいになめらかにつるんと、ほんとに産毛のいっぽんも見えないのでした。
「ほら、足とかもこんな感じ。冬でもミニスカはくでしょ。あたしはお姉ちゃんたちほどちゃんとやってないけど」
「意外。そんなこと全然わかんなかった」
「最近始めたの。受験勉強厳しくなると、ストレスたまるから、こっそりお化粧するとストレス解消になって楽しいって。お姉ちゃんのアドバイス」
 これ見て、と羊子は携帯をひらいて自分の完全化粧顔を得意げに見せました。
「お姉ちゃんに教わった」
 すごいなあ、とメグは感心してしまいました。
「ツケマばっちりだね。別人みたい。これ、かつら?だよね」
「違うんだ。お姉ちゃんに髪もいじってもらった。ロールつけて。面白かった。コスプレに近いかも。でもすっごい楽しかった。勉強で疲れると、たまにこんな風にして遊ぶだけだけど」
「テレビに出られそうな美人に見える」
「ほんと? でもお化粧してきれいになると元気出るって確か。こんなに面白いって思わなかった」
 羊子は頬を紅潮させてメグのベッドにいろんな小道具を広げて見せました。メグは母親の安美さんのドレッサーに生前そのまま残されている大人の化粧品や香水をときどき触って見ているので、あまり珍しいものはなかったのですが、はっきりとローティーン向けに購買欲をそそるようデザインされた可愛いグッズは、なるほど嬉しいプレゼントでした。
「お化粧すると、羊子ちゃんて大人っぽくなるねえ」
「みんなそうだよ。メグもたぶん……あたしよりずっと似合うと思う」
「そうかなあ」
「口紅塗ってみる?」
「パパに見つかるといやがるかも。今日は夕方早く来るって言ってたし」
「メグのパパ、厳しい?」
「ふつうだと思う。そんなにうるさくない」
「うちは、ちゃんと勉強してれば他は文句言わないし、だいたいママが仕切ってるし」
 ママ…、とメグは安美さんを思い出しました。ママは死んだ後も成仏せずに学校の脇の柳の精になっていて、今年の八月に信州で諏訪湖の打ち上げ花火といっしょに昇天しちゃった、なんて言っても羊子は信じないでしょうし、こまかいことはパパにも明かしてはいないのでした。何もかもわかっているのは、たぶんシーラとメグだけなのでした。
 メグはふと、
「羊子ちゃん、この匂いなんだかわかる?」
 とシーラからの封筒を見せました。中の桜貝の袋と白紙のカードは抜いてあります。
「すご…きれいな字。みたことない紙の封筒。ああ、あのひと」
「そう、シーラさん」
「友達になったんだって?」
 羊子の視線に微妙な気配がよぎりました。探るようなニュアンスを羊子ちゃんは隠さず、
「いったいどういうひとなの? タレント?
じゃないよね」
「大学生だって。それからお家はお能の家元らしい」
「ほんと」
 とたんに羊子の警戒心まる出しの懐疑的な視線はひっくりかえり、最初はつまむような手つきだったシーラの封筒を持つ指先の角度も変わりました。
(羊子ちゃんて、ある意味わかりやすい)
 その様子を見てメグは内心思いました。羊子のネイルには、すこし派手な珊瑚いろのマニキュアと、その上に何色かのカラフルなスパンコールが散っていました。これもお姉さんがやってくれたのかしら、とメグは少しうらやましい気持ちがしました。メグは一人っ子なので、三人姉妹で寄り集まって化粧ごっこ、などという楽しさを知りません。
「ラヴェンダーでしょ。それにバーベナ。レモンバーベナ。それにヴァニラっぽい。いろんな香りがすこしづつ混ざってる。たぶんオリジナルの香り付けだと思う」
 羊子ちゃんは鼻先を封筒に近づけたり遠ざけたりして、まるで嗅覚で遠近を測るようなジェスチュアを何度か繰り返しました。
「センスいいひとね。こんな不思議な匂い初めて嗅いだ。時間が経ってもあんまり変わらない匂いみたい」
「わかるの?」
「アロマの中でも、変わりやすい匂いと、いつまでも残る匂いがある感じがする。……メグ、あたしね」
 とふいにまた羊子ちゃんは表情を変えました。
「将来パヒューマーになりたいんだ」
「パヒューマー?」
「香水を調合するひと。お化粧品で遊んでると、いろんな香り付けしてあるんだけど、ファンデーションとかでも、着香してある匂いで、メイクの楽しさが違ってくるの。あたしはね。お姉ちゃんたちはそういうことはっきり言って鈍感。でもあたしは違う。アロマ習ってるのも、できたら将来香りの仕事がしたいから。アロマテラピーだけじゃなく」
「そんなこと考えてるんだ、もう」
「受験て、ただ成績だけが目標だと苦しいだけみたい。将来自分にどう役立つかって考えると、張りが出る」
 きっぱりと言いきる羊子を眺めながら、メグは羊子の手を、あの夢の箱で握ったらどんな音色がひろがるんだろうと思っていました。

パパは今夜病院に泊まって、一緒に年越し蕎麦を食べる、と昼間ナースセンターの看護師さん経由で連絡があったのですが、ちょうど羊子が帰ったころに、もういっぺん電話があり、仕事納めが長引いて病院へ行くのが遅くなるということでした。
 ここ数年、家電を商うパパの仕事は忙しいらしくて年末年始、ちゃんとまとまったお休みをもらえることはほとんどないのでした。例年、大晦日も帰宅は遅く、元日をどうにか休んで明くる二日からはもう出勤して初売り商戦というパターンでした。
今年はメグが入院したから、父親としてはなんとか傍にいたいところなのですが、回復がはやくて退院もすぐ、という状況では店長としての職務がやはり優先されるのも、いたしかたのないことでした。
……でもお蕎麦食べよう。病院食はまずいから、パパが持ってく。メグ待っててよ。
「わかった。あたし海老とかき揚げがいい」
……鰊はだめ?
「断固海老天。衣薄いのにして」
……じゃデパ地下の高いの買ってく。だから晩御飯キャンセルしといてね。
「パパ、言っとくけど、たぶんここでお酒ダメだよ」
……ばれなきゃいいよ。結構みんな飲んでるじゃない?
 お酒…とうっかり口にしてしまってから、メグはちらっとナースセンターの職員の様子をうかがったのですが、いつもより出勤看護師は少ない上に、みんな忙しく自分の仕事にかまけていて、メグの失言に気がつかない様子でした。でなければそのふりをしてくれました。
……ちょっと遅くなるかもしれないけれど、必ず行くから食べないで待ってて。
 電話口の向こうから、パパの声をしのぐ大音響で家電ショップ特有のアナウンス混じりのBGMと雑音が聞こえ、駿男さんはどうやら店内を歩きまわりながら携帯で話している様子です。
(いそがしそう。無理しなくてもいいのに)
 とメグは思いました。仕事先から病院へ飛んできても、ここではお風呂にも入れないし、簡易ベッドの寝心地もあんまりよくないのです。そうして今年は元日からもしかしたら出勤? パパ大丈夫かなあ、と。
 主治医の言葉通り、もうメグは松葉杖も使わず、ふつうに歩いています。ナースに夕食キャンセルを伝え、センターを出たメグは、病室には戻らず、一階の裏玄関から中庭に出てみました。
市立病院の院長先生は本業の傍ら、油彩が趣味で、名の知れた画家でもあるそうです。どこの施設や病院でも壁を飾る量産品のレンタル絵画は見かけますが、ここではレンタルは少なくて、院長先生の作品か、彼の知己筋の絵画やオブジェが、公立病院にしては、普段から数多く飾りつけてあるのでした。
クリスマスから新年にかけて、それらの絵画は季節にふさわしく、宗教画ではないけれど、どことなく聖夜の雰囲気を漂わす母子像や、ルノワールふうにおおらかな大盛りの薔薇、また振袖の乙女などが華やかに描かれたものに変わっています。
中庭も、きっと院長先生の趣味の一環なのでしょう、それほど大きくはないけれど、よく手入れされた薔薇園があり、建物に遮られて北風も届かない日当りのよさが幸いして、四季を通じてよい花が咲くのでした。真冬のいまごろでさえ、薔薇の木は半分くらい花を付け、それらの薔薇は、どういうわけか赤や黄色がほとんどでした。
 もう陽はとっくに沈み、名残の明るさがかろうじて空に薄くただよい、一番星、二番星…といくつもの夕星がきらめき始めています。ねぐらに向かう烏たちの黒いシルエットが茜いろの空にくっきりと舞い、姿は見えないけれど、病院のどこかに巣のある土鳩の鳴き声がクルル、クルル、とのどかに聞こえました。
 中庭から少し離れた厨房から、病院食の煮炊きの気配が匂ってきましたが、午後に羊子ちゃんといっしょに、あちこちからお見舞いにいただいたお菓子をかなり食べたので、全然お腹はすいていませんでした。
「雪は降らないなあ」
 とメグは空を見上げました。日中冬ばれの冷たく澄んだ明るさのまま、大晦日の夜は星をちりばめた世界に移ってゆくのでしょう。今年に入って、メグはまだ初雪を見ていません。テレビでは都内での降雪を伝えていますが、海近く気候の温暖な湘南のこちらでは、雪はとてもめずらしいのでした。
(シーラさんはもう雪を踏んだんだろうな。そういえば、全然会っていない。呼びかけもないや)
事故にあった翌日飛んできてくれたというだけで、メグはシーラを見ていません。心に彼女が入ってくる……アクセスしてくれる、ということもなく、病院内で携帯は使用不可なので、音信は途絶えて、そのままそれきりになっています。
(どうしてクリスマスカードは白紙だったのかしら。なにかちょっとでも書いてくれたら嬉しいのにね)
 とメグはつまらなかったのですが、丁寧に真綿にくるんだ桜貝は、メッセージがないだけに、かえって大切なことを伝えたがっているような気もしたのでした。
(シーラさんは、わりかし強引に無駄なことや無意味なことを切っちゃうタイプだから)
 と怒りもせずに推察できるメグの納得も、こどもどころか、それこそりっぱなものでした。
「風間さん、ここにいたの」
 と声が聞こえて、メグは物思いから我にかえりました。眼の前のガラス扉が開いて、すたすたとオトくんがヴァイオリンケースを抱えてやってきました。
「来てくれたんだ。ありがとう」
「病室に行ったけどいなくて、ナースセンターで聞いたら、こっちにって」
オトくんはおずおずとメグの傍に来て、隣に立ちました。メグが覚えているオトくんはメグと背丈が同じくらいだったのですが、今こうして並ぶと、すこし彼の身長のほうが高くなったようでした。
 オトくんが現れるのとほとんど同時に、中庭の常夜灯がともり、あたりがぽうっと明るくなりました。彼のほかに連れはなく、オトくんひとりで来たようです。
「元気そうだね」
「新年の四日には退院するの。もうどこも悪くない」
「たいしたことなくてよかった」
オトくんは八重歯を見せて、にっと笑いました。人なつこい、愛嬌のある笑顔です。ピアノの発表会で先生と共演したあとでも、オトくんはこの顔でみんなに向かってすこし恥ずかしそうに笑い、その笑顔をメグは好いていました。すごく難しい曲を誰もが舌を巻くほどのうまさで奏いたんだから、もっと得意げな顔をしてもいいのに、彼はいつもこんなふうなのでした。
「風間さんに入院中にヴァイオリン奏いてあげようと思ったんだ。退院する前でよかった。
だってぼく、もうじき引越しするんだ。そんなに早く退院するなんて知らなかったから、ぼくが来るのが遅かったらきっと間に合わなかったね」
「やっぱり。海外留学するの?」
「ううん。最初はお父さんの転勤で……へ行く。そのあとはわからない」
 ……の部分は良く聴こえませんでした。オトくんの声はおしまいのほうは悲しそうな小声になった上に、クルル…という眠たげな土鳩の鳴き声がすぐ近くで急に始まったからでした。鳩たちは、どうやらこの中庭の軒に、いくつかまとまって巣くっているようです。
「それじゃ部屋でなくてちょうどよかった。ここなら患者さんに気がねしなくていいし。
オトくん寒くない?」
「ぼくは平気。風間さんは?」
「あたし大丈夫。こんなに着ているから」
オトくんはセーターに半ズボンです。ジャケットもコートも着ていません。上着はどうしたのかな、とメグは思いましたが、オトくんは早速ヴァイオリンケースを開くと、つやつやした楽器を準備し始めました。
「リクエストは?」
「オトくんにまかせるわ。なんでもオトくんが奏くとすてきに聞こえるもん」
 オトくんはヴァイオリンを肩に構えた姿勢を一瞬停め、白っぽい常夜灯のあかりでも、はっきりそれとわかるくらい頬の色を変えました。きれいな、そこらにいくつか咲いている赤い薔薇の花とおなじくらいに。
「……」
 口の中でオトくんはなにかむずむずと言った様子ですが、メグには聴こえませんでした。やっぱり土鳩の声のほうが、演奏開始を待つ独特のしんと静まった宵闇の数瞬に、クルクルと高く聴こえました。
「ぼくお願いがあるんだ、風間さん」
 弓を弦に添え、今にも奏で始めようと楽器を構えた姿のまま、オトくんは思いきった口調で言いました。
「なあに?」
「ずっと思ってたんだけど、ぼく風間さんに伴奏してほしいの」
 ええっ、とメグは驚きました。
「今?」
「うん、ここで。今ここで」
 顔の緊張を消して、オトくんは、また人なつこい笑顔を浮かべました。
「あたし、もう怪我はだいたい治ったんだけど、オトくんにあわせられるほどうまく奏けないよ」
 メグが困りきって答えると、オトくんは笑顔を顔いっぱいに大きくして、こんなふうに言いました。
「大丈夫だよ。ぼくがひっぱってあげるし、教えてあげるから。風間さんならぼくと合わせられる、絶対」
 ほら、奏いてよ、とオトくんに促され、メグが視線を落とすと、いつのまにかメグの前に待合室のアップライトピアノがほんのりと浮かんでいました。まるで深海からゆらゆらと浮かび上がってくる見知らぬ魚か、大きな青白い海月みたいに、アップライトピアノは最初おぼろで、本体の向こう側に薔薇園の赤や黄色の冬薔薇が、蛍光灯の光りを浴びて咲いている様子が透きとおって見えました。
けれども数瞬ののちに、ピアノはどっしり黒々とした形をとってメグの前に現れ、メグが目をまるくしてピアノに触れると、蓋は自然に開きました。
メグはそっと鍵盤の上に指を乗せてみました。ひんやりとした冷たさが伝わり、ピアノは静かな音で鳴りました。
「何を奏くの?」
 メグはオトくんに尋ねました。
「何を奏きたい? 今まで奏けなかったものでも、きっと今、ぼくといっしょなら、好きなものが何でも奏けるよ」
「何でも?」
「うん。どんな難しくても、ぼくが付いてるからオッケーだよ」
 オッケー、という言葉を、どこかで誰かが柔らかい声でつぶやいていた記憶が、鼓膜の傍を撫でてゆきました。
(ああ、ミネモトさんだった。あのひとシーラさんに向かって言ってたなあ)
 心の中で。声を消して。
(誰かをとても好きになるってこういう感じかなあ、ってあたし思ったんだっけ?)
「じゃあ、ラヴェルのマ・メール・ロワから
〈妖精の庭〉と〈亡き王女のためのパヴァーヌ〉」
オトくんは吹き出しました。
「ぼくが君の伴奏するんだね。いいよ。でもその次にはぼくの好きな曲にして」
 さあ、とオトくんの弓がヴァイオリンの弦に吸い付いたとたん、メグの両手は自然に動き始めました。暗譜もしていないのに…。ラヴェルの音楽は小さなものでしたが、まだメグはちゃんと譜読みさえしていなかったのに、メグの両手は流れるように動き、オトくんが旋律を添えてかばってくれるのでした。メグは思いました。
(入院してからびっくりするようなきれいな夢ばかり見るなあ。ときどきこわい思いもするけれど、これも夢かしら、サイコヒーラーだから見られる夢なのかも。そうしてあたしいつ夢に紛れ込んだんだろう)
 覚えてもいない音符をのびのびと綴る鍵盤を叩く指を眺めながら、その指先から自分の願う音の雫が体のなかに浸みこんでくるようでした。すると、ピアノの白鍵と黒鍵の並びの上に、こまかなきらきらとした光りが点滅し始めました。オトくんの声が聞こえました。
「風間さんの奏でる音が、ピアノに映っているんだよ。ひとつひとつの音が消えないで、君の眼の前で踊っているの」
 それからまた、
「ほら、ピアノからあふれた君の音が回りにこんなに散って残っていく。どんどん奏こうよ。たくさんの音符が光るよ。ここに溢れるよ」
 周囲を見回すと、冬薔薇がちらほらしていた中庭に、メグの手からこぼれた音の雫が光りながら転がっていました。それは夜空の星屑を集めて地面にばら撒いたみたいでした。
「今度はぼくの好きな音楽にして。ぼくね、ずっと君に奏いてあげたかったの」
「何?」
「クライスラーの……最初は〈美しきロスマリン〉これはアクセントしっかりつけてね」
「難しいわ」
「大丈夫だってば。ぼくの言うとおりに鳴らせばピアノが光るから」
 さあ、とオトくんはラヴェルの柔和とは表情を変えて弓を持つ手も変えました。
「アクセント、それからぼくが思いを残したいところでは、すこしピアノゆっくりたっぷりとして。心がはやるときには、音楽を先取りして走ったりするよ。心が伸び縮みして楽譜から逸れたってかまわない。つっかえたっていいよ。ぼくはずっとこれを君といっしょに奏きたかった。君が奏けなくても、ぼく合奏したかったの」
 メグはオトくんにひっぱられるように曲に飛び込みました。鍵盤を叩いているという感じはしませんでした。でも手を見ると、オトくんのヴァイオリンに合わせて、たしかにクライスラーを奏いていますし、耳では自分の音も聴こえるのでした。これは誰の手?
「風間さんの手だよ。見て、ピアノが光ってるでしょ。だんだんこのピアノ大きくなる」
「え?」
 ほんとうにメグの眼の前でピアノは嬉しそうに揺れて……生き物のように身を揺すって、鍵盤から光る雫をこぼすだけでなく、全体が淡く輝き始めました。月光を受けて滲むように。それからその輝きはだんだん深くはっきりとピアノからあふれて、中庭全体にひろがってゆきました。
「次はね、やっぱりクライスラーの〈愛の……〉」
 おしまいまで言わずに始まった可愛らしい曲でした。オトくんは照れたように、ちょっとメグから顔を背けてしまいました。でも彼の声は聞こえました。そこですこし止まって……その音ひとつぶにぼくとっても裏の思いをこめた。だからだいじに奏いて……。
一瞬で過ぎ去る音に、どんな裏があるというのでしょうか?
 でも音には表も裏もあるのです。たったひとつぶの音の裏表に、たちどまり呼吸を深くする…オトくんの演奏はそういう演奏でした。そうして、そんな音色の数々は、夜空に輝く一等星のように、はっきりと音楽の流れの中で際立ち輝き、陰影を変え演奏の表情を伝えて、耳にそして心に響いてくるのでした。
 メグの手と指は、いつのまにかピアノを叩いているという感じがしなくなっていました。でも眼の前で見ている自分の指は、オトくんの願う演奏をちゃんと先読みして、彼が表現しやすいように鍵盤を走り、フレーズを編み、メグ自身のものとは信じられないほど柔らかく、なめらかに音楽を紡いでゆくのでした。
ピアノとヴァイオリンの合奏の呼吸が要所要所でぴたりと調和するたびに、メグのてのひらのうちがわから、鳩のたまごくらいの金や銀の珠が転がり出て、足元に落ちて砕けると、それはまた数知れぬ小さい光る粒となって薔薇の揺れる庭に散ってゆくのでした。
 ピアノから流れる旋律に混じり滴って、きらきらと光る音は、いつも見ていた夢の始まりを告げる、あの澄んだ鈴音なのでした。
 その鈴の音は病院の狭い中庭から、じきに四方八方へ隙間を抜けて、病院の建物全部に流れこんでゆきました。オトくんはクライスラーを繰り返し奏で、そうするうち、箱を組み合わせたような味気ない病院は、彼がメグとピアノから引き出す音魂に満たされて、ひたひたと淡い金いろに輝きはじめました。
 病院の荒削りな角や窓枠、区画の柱などはこの珠がころんとぶつかるたびに角をまるめ、どんどん輪郭の険しさを消してゆき、ほそいしなやかな曲線に変化してゆきました。
 コンクリートの壁は遠くへ退き、あるいは音楽の流れに圧されて滲み、溶けてしまい、あとには、最初にメグを訪れた無数の触手、繊細で透明な糸の束が、流体の軌跡みたいに周囲にさらさらふさふさとうち重なってそよぎ、ときどき金の箱に変わって見えたりするのでした。
(こんばんは)
 とメグの耳に、聴き覚えのあるあの可愛い声が語りかけてきました。
(また来たね。君の最初に奏でた音の風景が、こんなに育ったよ)
 育った?
 メグは問い返しました。
(そうだよ。ぼくちいさい小箱だったのに、今ではこんなに……)
 周囲を見回すと、メグとオトくんのいた中庭も、また病院そのものも包んで、金の箱は夜空の中でした。
 市民病院は、今ではすっかり巨大な半透明の黄金の箱になって藍色の空深く浮かび上がり、その中心部にいるメグの眼には、退院できず、いくつもの病室でさびしい大晦日を余儀なくされている入院患者さんの姿が、壁や柱の隔てを消したひとつの立体のそこかしこで、箱の反映を享けて、小さいけれどはっきりと星座のように光って見えました。
「みんなきっと、ぼくたちの奏でた音の夢を見るんだよ」
 演奏しているオトくんは嬉しそうでした。
「今夜は、病院ぜんぶがぼくたちの夢でいっぱいになったから。夢の器になったから」
「オトくんのおかげね」 
(ぼくこんなに大きくなった!)
 金いろの夢の箱の歓声が、オトくんのヴァイオリンの音の向こう側から聴こえ、リフレインしながら、すうっと遠ざかってゆきました。
 メグは目を凝らしました。立体のそこかしこに浮かんでいる患者さんの中に、いつだったか、メグの記憶…未来の思い出を覗いたおばあさんが横たわっているのを見たのです。
 おばあさんは胸の上に両手を組んで、ひっそりと両目を閉じていました。その痩せた手ときれいに後ろへ撫で付けた白髪に見覚えがありました。
「ああ、あのひともうじき遠くへいっちゃうんだ。ぼくもう帰らなくちゃ。お父さんが待ってる」
 オトくんは弓をおろし、メグに言いました。
 音楽が止んでも、ピアノは箱の真ん中で輝いていました。病院も、庭も……。
「オトくん、どこに行くの? 転校先を教えてね。お手紙書くから。メールも出すから」
 メグはヴァイオリンケースの蓋をあけたオトくんに言いました。オトくんはまた八重歯を見せてにこっと笑い、楽器をケースにしまうために体を二つに折ると、彼自身もその中にするりと入ってしまいました。オトくんのおさまったヴァイオリンケースは、メグの眼の前で、名残を惜しむかのように、ちょっとの間小舟のように左右に揺れ、周りに転がり輝く音の珠に乗って、立体の壁を通り抜け、どこかへ消え去ってしまいました。
空間を遠ざかってゆくヴァイオリンケースの下で、ふたりの奏で残した大小の音の珠がまた角度を新しくしてぶつかりあうと、一際大きな鈴の音が立体のそこかしこに反響し、その勢いで、ところどころで金いろの壁か膜がぷつんと破れ、その部分だけばらばらになったかぼそい糸の束が、無限の宇宙を吹く風にあおられてどこかへなびいてゆきました。
 メグにはまた、飛んでゆくケースの下で転がった音楽の粒たちの反響のために破れた夢の隙間から、市民病院へと車を走らせる駿男さんと、彼の耳にもうかすかに聴こえ始めた除夜の鐘の底深い音色とが、冬の星座を跨ぐ幻燈となって垣間見えたのでした。

            (  了  )

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