さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

スポンサーサイト

Posted by 水市夢の on

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スウィート・ハニー・スプリット 3

Posted by 水市夢の on   0 comments   0 trackback



明くる日の月曜も、駿男さんとメグはいつものとおり早朝散歩に出かけました。小雨のぱらつく天気でしたが、低気圧が来ているのに、どういうわけか湿度の少ない適度な風もあって、ウォーキングにはいい気候でした。その日は山を登る遠回りせず、そのまま織都留浜に抜ける近道を選びました。
住宅街を通り、いくつかの小路、県道を渡ると目の前はひろびろとした遠浅の入り江。三浦半島が左手、星月夜岬は右手に見えます。織都留浜から鹿香にかけて途中から結衣が浜となり、こちらのほうが潮の流れが穏やかなので、夏の海水浴場として賑わい、岩場がちで波の大きい織都留浜にはサーファーが集まる傾向です。
夜明けの空はまだ明るく透明な銀青色なのに、もう海は荒れていて、眼に見える速さで嵩をつのらせる満潮の背びれの刻み目は荒く、やがて始まる悪天候を兆して、海は風音よりもすごくごうごうと、地鳴りのようにとどろいていました。
「昼から本降りだって」
 海岸通りでメグは足を停め、海を眺めて言いました。
「機嫌悪そうな色だね、海は」
「この前線が行っちゃえば梅雨明けらしい。沖縄奄美、関西じゃもう明けてるらしいよ」
「パパ」
「ん?」
「再婚しないの?」
 駿男さんは、昨日買ったサングラスの蔓を片手の親指とひとさし指でつまんでかけなおし、うつむき加減の娘を見直しました。
「なんだいきなり」
「なんとなく」
 そうだなあ……と父親は娘の白い横顔を一分ばかりちゃんと眺め、
「したくなったらする」
 メグは噴出しました。
「ナニソレ」
「何で笑うんだよ。これ以上まじめな答えないよ、メグ。再婚したくなったらする」
「今はしたくないの?」
「そう」
「今までも?」
「くどいぜ、相棒」
 駿男さんはくしゃみをひとつして(わざとじゃありません)すたすたと歩き始めました。メグはそれで、何故かわからない気持ちの凹みが楽になった気がして、パパの後を追いかけました。
 天気予報どおり雨は昼過ぎから大降りになり、湘南独特の部分豪雨もところどころで発生し、駿男さんが仕事を終える時刻も雨脚はまだ続いていました。その晩は遅い帰宅となり、駿男さんは業務の途中であらかじめメグに晩御飯を先にすませるようにメールしていました。帰り際にメールチェックすると、返事が来ていました。
 牛丼作ったよ(絵文字)大?サービスでサラダ付き(ハートの絵文字)外食しなくていいからね~(げんこつグーの絵文字)
(百二十点くらいあげるよ。さんきゅ)
 駿男さんは自分の喉もとにこみあげてきた感情をうまくまとめられずに、内心つぶやきました。単純に嬉しいだけではありませんでした。
(あいつ、なんで突然再婚なんて口走ったんだろ。佐久間さんのせいか? 感じのいいきれいなひとだけど、今までだって)
と彼はそこまでで思考停止し、地下駐車場から雨の篠つく路面に乗り出しました。
 勤務先から自宅までは、空いていれば車で三十分ほどです。その晩は大雨のせいでやや渋滞し、自宅マンション近くまで戻るのに、いつもの倍くらいの時間がかかりました。
 国道から県道へ、それから十字路を折れて……飛沫をあげるヘッドライトの光りに、疲れた眼をぱちぱちさせながら信号待ち、何気なく横を見ると、見覚えのあるマンション村の一角に小さな公園がぽっかりと静かな薄闇をひろげています。
(いつのまにか、こんなところに公園出来た
んだな。ここらのマンションも新築多いし、ついこの間まで土台を打っていたと思ったら、もうこんなに整備された)
 雨の渋滞で、信号待ちが長くなければ、たぶん気がつかなかったかもしれないまあたらしい公園は、ほっそりした外灯がたったひとつ中央にともり、隅に小さい砂場、小さい滑り台、ぶらんこ、パンダと象を模した乳幼児専用シーソー、それに、子供用に丈の低い、カラフルに塗られたジャングルジムの、こじんまりとした遊具でした。
(若い母親が入園前の赤ちゃんを遊ばせるのに手ごろな遊び場だ)
 と駿男さんは考え、そこでちょうど信号が変わったので車を発進させ…あいにくまたじきに赤信号となり、舌打ちして横を見ると、外灯にぼんやりと浮かぶ丸いちいさな公園が見えました。公園の灯りは一本きり、隅に砂場、こぶりの滑り台、あんまり可愛くないパンダと象のシーソー…。鉄のぶらんこ。赤と黄色の小さなジャングルジム。
 ぶらんこはふたつ。それぞれひとり乗りで、さっきは雨にしょんぼりと濡れて動かなかったものが、今はゆっくりとかわりばんこに動いていました。正確には、誰かが遊び終わったあとのように、振幅を遅くしながら揺れていました。
 駿男さんはぐっと生唾を飲みこんで、信号が変わるや否や、すぐにアクセルを踏みました。で、ほどなく信号はまた赤。窓の横にはちいさい公園。
 いつのまにか雨は止んでいました。
 駿男さんは笑い出しました。
「三度目の正直だね、こりゃ。俺にこっち来いって?」
 時刻は十一時少し過ぎています。
(時計に間違いがなけりゃあね)
 駿男さんはぼやき、都合よく割れた車の並びを抜けて、脇道に逸れ、するとさらに好都合なことに、新築マンションの駐車場らしい空き地がありました。
「星へ願いを、でも歌いましょうか。幽霊さん」
 痩せ我慢ではなく、ほとんど恐怖を感じません。雨はあがって、いつしか頭上は天の川皓皓と流れる満天の星空です。
「この星座もホンモノなのかね。それと幻覚なの?」
 車から出ると、まん前に公園入り口です。雨に濡れたアスファルトの匂いと、それから濃い梔子の香りが鼻腔いっぱいにあふれました。
 キイ、キイ、とかぼそい音が鼓膜に聴こえぶらんこを眺めると二人の少女が乗っています。ふたりとも思春期か、ずっと成長している体格で、学校の制服を着ていました。この二人ともきっと幽霊なんだろう、と醒めた気持ちで駿男さんはぶらんこに近づきました。幼児用遊具に彼女たちの腰は大きすぎ、足は長すぎ、なんとも漕ぎにくそうです。二人の少女の中で、まだローティーンと見えるひとりは首を前に突き出すようにうつむき、年嵩のもうひとりは駿男さんから顔を背けて横を向いています。
(よくあるパターンでさ、これ、声かけて顔を見ると、気絶するみたいな爆発ホラー顔なんだぜ)
 とそろそろ恐怖メモリが痩せ我慢の範囲に昇ってきた駿男さんは、この際スプラッタでも血糊でも(同じだってば)どんと来い、とばかりに、ぶらんこの正面にまわって少女たちに話しかけました。
「ぼくに何の用? なんで迷わすの」
「おじさん、こないだあたしといっしょに来てくれたでしょ、だから呼んだの」
 うつむいていたショートカットのほうが顔をあげ、駿男さんに答えました。
「君か」
 つつましく顔の真中に集まった目鼻だちに見覚えがありました。
「自殺しちゃおうかな、死にたいって思っていたら、いつのまにか岬から海に飛んじゃったの。でもおじさん、あたしあの晩ぜんぜん死ぬつもりじゃなかったんだ。星月夜岬に行ったのは彼氏に逢うためだった。あたし少し早く着いたんで、展望台をぶらぶらしてた。月がきれいだった。海が明るくて、見ているうちに何もかもいやになってきちゃったので、ああ、死にたいなってつぶやいたら、あの部屋にいた」
「あの女の子の寝室?」
「うん」
「なんで死にたかったの」
「クラスの中で起きる悪いこと、みんなあたしのせいにされるから」
「どういうこと?」
「誰かが気分悪かったり、腹がたったり、アクシデントが起きて失敗したりすると、あたしに寄ってきて、あたしのことぶったり蹴ったりするんだよ。先生にわかんないように。でも先生もわかってるんだ。わかってても
何もしてくれなかった。無視してた。あたしが試験でいい点とったりすると、友達が来て、返してもらったあたしの答案を破いたりね。すごいよ。みんな見て見ないふりする。おまえなんか死ね、とか平気でささやく。なんで死ななきゃいけないのって言い返すと、いいとこなんか何もないんだから生きていたってしょうがないだろう、バカとか言われる」
 少女の口調は淡々としていました。うらんでいる気配はなく、歎いているでもなく、苦しそうでもありませんでした。
「いいとこなにもないって、それこそバカじゃないか。君化粧とかちゃんと凝れば、かなり美人になるかもだぜ。て言ってももう遅いか。その……死んで…だろ」
「あたし、自殺したから成仏できないみたいなんだ。でも生きているときより気持ちいいよ」
「なんで」
「すごく可愛い子といっしょになれて、みんながちやほやしてくれる」
 ぶらんこを漕ぎながら、少女は駿男さんを見上げて、にっ、と笑いました。
「欲しいものは全部手に入るの。悪いことしても皆あんまり怒らない」
「君、それは」
 キイ、キイ、とぶらんこの振幅が激しくなり、駿男さんの眼は暗い視界を行き来する少女の表情を追うのに疲れてきました。
「ねえ、おじさん。誰も叱らない、とがめないって思うと、なんでもやっちゃえる。何してもいいんだって思うと、誰かを殺したっていいんだよね。だからあたし殺されたんだよね、クラスメートにさあ」
「違うよ」
「じゃなんで、死ね、なんて言うの?」
 駿男さんは返答に詰まりました。
「誰もそんなに悲しんでない。あたしのこと」
「どうしてわかる」
 と叫んだ駿男さん自身、自分の言葉のそらぞらしさにぞっとしました。俺はこの子の水死体を何て言ったか。メグさえ無事ならそれでいい、と高言したじゃないか。
「おじさん正直だから、あたし呼んだの」
「何のために」
 その返事を無視して、ぽーん、と蹴り上げたぶらんこから少女は夜空に飛んでいってしまいました。しばらくして、厚いガラスが叩きつけられるような〈水音〉が響きました。
「あの子はたった今星月夜岬から海に落ちたの」
 そこに残った年長の少女が横向きのままつぶやきました。
「夜明けには香枕天神海岸に、あの子の溺死体が漂着するわ」
「君は…君も幽霊なのか」
「そう」
「自殺したの? なぜ?」
 少女は顔を横に向けたまま、こちらを見ようとはしません。駿男さんは少女の顔を見たいと思いながら、でも直視も怖くて、彼女の肩に手をかけてふりむかせる強引ができませんでした。少女はキイ、とかぼそい音をたてて、長い両足をもてあますようにかかとで地面を擦ってぶらんこを漕ぎながら、つぶやきました。ふうっと、吐息といっしょに
「あたしまだ死に切れてないから…」
 けたたましいクラクションに促され、反射的にアクセルを踏むと、ワイパーが追いつかないほどの土砂降りの真っ只中、信号は青、後ろからの追い上げクラクションは一つではなく、数台の車両が、めいっぱい駿男さんのもたもたに抗議しています。
「やば…」
 と唇をなめてアクセルを踏んだまま、ハンドルを握りなおし、とっさの左右確認ではっきりしたのは周辺に公園などどこにも見えないことでした。冷や汗を拭う暇もあらばこそ、駿男さんは視界を覆う土砂降りの中を、どうにか自宅までたどり着きました。
 地下駐車場に車を入れて腕時計を見れば、今がきっちり十一時。
「てことは信号待ち時間は数分しかなかったんだ」
 幼児公園にひきずりこまれてのぐるぐる回りの時間は、こちらのうつつでは存在しなかった刹那の錯覚だったのでした。
「いや、幻視だ。まちがいない」
 がらんとした地下駐車場には、雨あがりを告げる西からの突風がおおらかに吹きぬけ、そのどこかに、少女が岬から飛んで海面に叩きつけられたときの、硬質で澄んだ水音、まるでガラスの破裂音さながらの衝撃が混じって聴こえそうな記憶の鮮やかさでした。
 首筋、背中、両脇にはべったりと汗。それでいて手足は冷えきって、少し吐き気さえ。
「牛丼、喰えるかな」
(喰えるさ。おまえがメグを守ってるんだぞ。幽霊が怖くてバーゲンができるか)
(そのココロは)
「満員御礼=怨霊。うちの店の売り上げはこの不況にもかかわらず今んとこ上乗」
 胃液をこらえて、かわりにひねり出したカラ元気の勢いで、駿男パパはエレベーターのボタンを押しました。
 
 寝たふりをしていたメグは、パパが帰ってきたのに気づいていました。枕元の時計を見たら十一時もだいぶ過ぎていて、こんな時刻まで起きて待っていたら、かえって心配をかけてしまうことがわかっていたので、部屋から出ませんでした。
 玄関ドアがひらき、フロアを歩く足音、リビングにどさっと荷物を放り出し、キッチンへ、時には洗面所に寄ることもあり、駿男さんのすることは、毎日毎晩だいたい決まっているのでした。
(こんな遅い時間に帰ってきて、朝散歩するなんてキツイんじゃないかな、大丈夫かな)
 とメグは朝の日課を危ぶみ、窓を打つ大粒の雨に、でも明日はお休み、とほっとしました。五時起きするんだから早寝しなさいと言われているので、父親が遅く帰ってきたときに、まだ寝付けないで目が覚めていてもメグは自分の部屋から出てゆきません。
 その晩もメグはエアコンをつけていても寝苦しい蒸し暑さに、パソコンを覗いたり音楽を聴いたり、音を消してピアノを奏いたりしていたのでした。
 だいたい寝付きはいいのに、昨日横浜で会ったシャワーのお母さんが気になって、
(とてもすてきな人だった。パパは千草さんのこと好きになる)
 はっきりわかってしまうのでした。
(もう好きなんだよね。結婚するかどうかはわかんないけれど)
、千草さんのあれこれが気になるあまり、同じ日曜日の朝の幻視の一件をシーラに知らせる、というほうはすっかり後回しになってしまいました。シーラから接近してこないのも後回しの理由なのですが、あちらからメグにアクセスできない、ということを彼女はまだ知らないのでした。
(ママ、パパがママのこと忘れちゃったらかなしい?)
 スマホ画像の安美さんに問いかけてみたりします。答えはありません。
 あれ? キッチンの気配がやんでいます。いつもなら電子レンジのチーン、という音や皿小鉢のガチャガチャ音、テレビ、時にはCDなどが聴こえてくるのに、どこかからぱたっと物音が途絶え、パラパラと雨の音だけがエアコンの振動に混じります。
 メグはがばっとベッドから飛び降りました。
 ドアを開けるより早く、叫び声が自分の喉から漏れました。
「パパ、だめ、戻ってきて!」
 リビングの床に、駿男さんはうつぶせに倒れていました。クールビズのスーツを半分脱ぎかけて、そのまま意識を失ったものか、傍のソファにジャケットだけ放り出してあります。
「パパ、どうしたの」
 駿男さんは顔じゅう、首すじまで、雨粒をそのまま室内に持ち込んだかと見まがうばかりの汗まみれ。メグは、シーラがよくしていたように、父親の額にてのひらを置き、昏睡している彼の内部を〈こじあけ〉ました。
 瞬きが、二つ、三つ。自分の眼の奥で青白い火花が散ったのがわかりました。
(シーラさんっ)
 メグは叫びました。
(応えて! パパが死んじゃう)
(落ち着いて。メグ、駿男さんのオデコにもういっぺん手を置くんだ。あなたを通ってあたしは彼のなかに入る。ちゃんと見たい。相手が何なのか、どこにいるのか)
(どこにいるのかって?)
(今現在彼に浮遊霊が憑依してるんじゃない。だったらもっとダイナミックなアクションがある。説明はあと、言うとおりに、メグ)
 有無を言わさぬ指示でした。メグは心臓が喉から飛び出しそうな不安をおさえて駿男さんの額にそっとてのひらを置きました。
 シーラは肌を合わせている豹河を、かるくおしのけました。
「ン…」
 汗ばんだ二つの人体が離れるかすかな気配
は、当人たちにもはっきりした雫のしたたりさながらの物音となって聴こえました。ヒョウガは眉間に一瞬険しい感情を走らせましたが、シーラはぜんぶ無視しました。
「メグが呼んでる」
 シーラはヒョウガの眼を覗いてささやくと、返事を待たずに瞼を閉ざし、離れきらない体のどこかがまだ重なった姿のまま、こちらがわの意識を失ってしまいました。
 駿男さんは自分の前に敷かれた一本道を必死で歩いていました。道幅は両手をひろげたくらいで、白っぽく平坦でしたが、絶えず曲がりくねり、両側左右は暗闇、街灯ひとつありません。道自体がぼうっと明るんでいて、一筋道だから迷うこともないのですが、視界は手前までしか届かず、少し離れたそちらのほうは、どんよりした闇に吸い込まれて全く見えないのでした。
(今行くぞ、助けるぞ、待ってろよ)
 呪文のように、くりかえしつぶやき続ける自分の言葉の意味さえわからなくなりそうな孤独感が、ずっしりと駿男さんの体にのしかかっているのでした。誰もいない、見えない、自分はどこにゆくのか、何のために歩いているのか、誰を、どう助けるのか、待っている相手は誰なんだっけ、メグかな、メグかも、でも俺のだいじな娘は藤塚のかわいい子供部屋で、いい夢を見ているはずなんだこんな反吐の出そうな得体のしれない九十九折の迷路に放り出されて迷っているはずなんかないんだ俺を呼んでいる君は誰だ誰でもいいけど助けてやらなきゃなんないんだ俺はひどいことしたんだろ何もしないっていうのはひどいことなんだろ君が水死体になる前に俺が俺にどうにかできる状態なのかねおい返事しろどこまで歩かせるんだもしかしてここどうどうめぐりで君なんかどこにもいないんじゃないのふざけるなオヤジをばかにするな心からすまないと思ってるからその弱味につけこんでこんなわけのわからない場所にひっぱりこんだんだろ……
「一緒に行きます、駿男さん」
 肩をうしろからつかまれて駿男さんはようやく足を停めました。
「あ…シーラさん、よかった」
 シーラはさっきまで寝ていたシーツを巻きつけたような白い衣をまとっていました。
「俺を誰かが呼んでるの」
「この道?」
「たぶんね。だけど行けども行けども手ごたえなしだ」
 シーラは脂汗をにじませている駿男さんの首筋を自分の長衣の袖でぬぐい、
「見落としてます」
「何を」
「道の脇」
 え、と駿男さんはきょろきょろしました。
 ほら、とシーラは折れ曲がった道のところどころに、うっすらと浮かんでいる泡のような弱い発光を示しました。道の白っぽさよりそれが暗いので、切羽つまって猛進する駿男さんの視野に入らなかったのでした。二人は一番手前の光に歩みよりました。
 闇の中から、ほっそりとした白い手が菓子箱のような四角いケースを、こちらにさしだしています。二本の手は肘までしか見えず、その手の持ち主が女性なのか男性なのかさえわかりません。すべすべして骨細な華奢だから、きっと若い女性だろうと駿男さんは思いました。顔や体を見せないのは、それもきっと理由があるんだろう。
 駿男さんがその手から小箱をうけとると、薄い、かんたんな紙の箱です。
「かるい…」
「ここではね」
 シーラは小首をかしげ、蓋を開くようにと駿男さんを促しました。
 大きめのホールケーキがまるごとひとつ入るくらいの長方形の箱のなかには、シュレッダーにかけた白い紙屑をクッションにして、蒼白な片足が入っていました。足首からすぱっと切断され、血はひとしずくもこぼれていず、人工のオブジェのようです。
駿男さんはすぐに蓋を閉め、シーラは行く先のところどころに、ぽつぽつと浮かぶ泡影を透かし見、
「まだ先に続いてる」
 駿男さんもシーラも全く感情が動きませんでした。駿男さんは黙って蓋を閉め、闇から差し出されたまま、だらんと指先を垂れている白い手に、小箱を返しました。すると泡の光は消え、どこからともなく濃い闇が空白を塗りつぶして滲んできました。
 次の泡も、同じように正体のない両手から白い小箱が差し出され、駿男さんは受けとり、蓋をひらくと今度はもう片方の足。それも無言で返し、また先へ行くと泡、小箱、その中には手首から切断された片手……次はもう片方の手、その次は膝蓋骨から叩きつぶされた足首までの脛、次はもう片方、それから…
それから、と曲がりくねる道のところどころで、延々と切断された人体小箱の道案内は続きました。
「長いね」
「ずいぶんしつこくばらばらに切ったものだわ」
「これ現実の反映なの。シーラさん」
「もしかしたら」
「誰かがバラバラ死体にされちゃったわけ?その霊がぼくを呼んでるの」
「それにしては単調だ。殺された死体の主があたしたちをひきずるんなら、もっとグロテスクなイメージでしょ。駿男さん、連想しない? こんな風に、餌をところどころに蒔いて、たどる道筋を誘導するストーリイ」
 すぐには返答できない駿男さんに、森の中じゃないけれど、とシーラは付けたし、そこでようやく駿男さんは
「ヘンゼルとグレーテル? まさか、メルヘンもじりなんて」
 シーラは裸の肩からずり落ちた白い布をたぐりよせて腰のところで結び直し、駿男さんはあっと息を呑みました。露わになったなめらかな少年の、いや、すこし厚くなってそれはもう青年の胸。シーラちゃん、君は……。
「皮肉じゃない。血は一滴も流れてない。切断された肉体はもとの重量を失い、模型か…おもちゃみたいにイメージの中に組み込まれてる。罪悪感の翳りもない」
無邪気で、無垢だ、とだけシーラは答えました。
「……まだ、顔がないね」
 駿男さんは唾をごくんと飲みこみ、頭の中に錯綜する思考の中から、一番この場にふさわしい台詞を口にしました。ですが生唾といっしょに飲み下し、言葉にはしなかった台詞もありました。そっちのほうが先に飛び出しかけたのですが、どうにか絞った理性と判断力で別なほうへ気持ちを向けたのでした。頭の中では、口にできなかった台詞が、がんがん谺しています。
(君、少年なの。それとも夢だからなの。ほんとうはどっちなんだよ。天使か、アンドロギュヌスか。こんチクショウ、ここはなんでもアリだよ、わけわからないぞ)
「とりあえず前進しましょう」
 シーラは素っ気ない口調で促し、先に歩き出しました。白い布が彼の体をふうわりと包み、包みきれずに余った長衣は、風もないのにシーラのうしろで白馬のたてがみか、白い羽のように大きくひるがえりました。
「顔…」
 駿男さんは、ぶらんこに残っていた少女が自分に顔を見せなかったことを思い出しました。もういっぺん喉が鳴って、舌の奥が痙攣しましたが、口の中はカラカラに乾いていました。
 小箱の道案内はどこかから途絶え、前方に夜明けのような淡黄の光線が差し昇ってくるのが透かし見えました。
「お菓子の家かね」
「どうでしょう」
 シーラは駿男さんを見下ろす感じで微笑しました。二人の背丈の相違なら当然ですが、低い位置からシーラの微笑を顔に受けた駿男さんは、
(上から目線なんだが、俺はそれでちっとも嫌じゃないんだ。不思議な子だよ。この美しい笑顔は少年なのか少女なのか。君はどこから来て、どこに俺を連れて行くんだ)
 ほら、とシーラは片手をあげて金色の光がどんどんひろがってゆく道の果を示しました。
 空間中央にぽつん、とたった一本きりの外灯。周囲には小さい砂場、ブランコ、パンダと象を模した幼児用シーソー、丈の低いジャングルジム。
「あの公園だ。戻ってきたのか」
 ひとつきりの外灯なのに、その輝きは大きく、今まで暗黒同然の道を進んできたせいもあって、光に慣れない目では柱の先端の光源を見つめることができないくらいでした。
 カラフルな赤と黄色に塗られたジャングルジムの真ん中に、マヤが立っていました。片手にリカちゃん人形を握っています。
「や…」
 駿男さんは何と声をかけたらいいかわかりませんでした。マヤはシーラと駿男さんを見て、にっこりと笑いました。ふっくらした薔薇いろの頬に薄茶色の巻き毛が揺れ、裾にも袖にもフリルのたくさんついたピンクの光沢のある生地の長いドレスを着て、頭の上には金色のティアラまで載せています。
「マヤ、君がぼくを呼んだの?」
 シーラが無言なので、駿男さんが言葉をかけました。
 マヤは応えずに、愛くるしい笑顔のまま、ジャングルジムのてっぺんから紐でぶらさがった小さい人形を、片手の人差し指で、ちょん、とつつきました。
 それは、首だけでした。
 リカちゃん独特のふさふさした金髪はあらかたむしられ、顔はぐるぐる巻きの紐であらっぽく縛られ、吊るされていたのです。
 マヤが、もう片方の手に握っているのは、首のない胴体だけの人形でした。
 ジャングルジムの中のマヤは、二重三重の色鮮やかな鉄の棒に囲まれ、守られているようでもあり、逆に閉じ込められているとも見えるのでした。
「マヤちゃん、なんでお人形をこんなにするんだ」
 駿男さんは、自分が潜るにはちょっと狭すぎるジャングルジムの格子の外から腕を差し入れ、てっぺんからぶらさがった人形の頭を取り出そうとしました。すると、駿男さんの手が人形に届く前に、マヤは荒っぽくその手を叩き、両目を険しく吊り上げ、動物のような唸り声をあげました。
「だめです、駿男さん」
 シーラは駿男さんの肩に手をかけて制し、マヤの眼をじっと凝視しました。マヤは唸り声をおさめると、シーラに向かって、よそゆきの可愛らしい笑顔を浮かべましたが、彼女の媚態にシーラが何も反応しないのがわかると、とたんに眉をしかめ、ぶらさがった人形の頭を片手で乱暴につかみ、幼い力のありったけをこめて、ぎゅっと握りつぶしました。そんなことがあろうはずもないのに、ぶしゅっ、と表皮のうすい果実が潰れる破裂音がしてマヤの手の中で人形の頭は弾け、彼女の握りこぶしほどもないリカちゃんの頭の中に、またどうしてそんな大量の体液があったものか、べとべとした血糊が駿男さんの顔に飛び散り、シーラの白衣をしたたかに汚しました。
 
 喉、渇いたなあ…という駿男さんの喘ぎに応えて、メグはすぐに冷蔵庫からスポーツドリンクを取ってきました。うつぶせのまま床に倒れていた駿男さんは、ゆっくりと手足を伸ばし仰向けになりました。
「眩しいな。ポイントライトにして」
 メグはまた言うとおりにしました。
「シーラさん来てくれた」
「うん、見てた」
「見てた? メグはいなかったぞ」
「シーラさんの眼を借りて。シーラさんはあたしを通ってパパのところへ行ったから、あたしはシーラさんの見たものを全部見ることができたの」
「ぜんぜんわかんないよ。頭痛いな…今何時何分」
「十二時過ぎ。気絶してた時間は十五分くらい」
「たったそれだけか。うそみたい。俺すごい長い曲がり道歩かされたんだぜ」
「うん。でもそっちの時間とこっちとはぜんぜん時間軸が違うんだ、パパ」
「時間軸ね、ムツカシイなあ。マヤがいたよ。自殺した女の子じゃなく、プリンセススタイルのマヤがいた」
「うん。マヤはパパを欲しがってる」
「へえ」
 と駿男さんは、エイヤっと気合を入れて起き上がり、ペットボトルのスポーツドリンクをいっき飲みしました。頭がガンガンします。
「俺も捨てたもんじゃないねえ。六歳児に惚れられるなんて」
「パパ、マヤが欲しい、って思うってことは相手を殺したいってことなんだよ」
 メグは断言してしまいました。駿男さんはシャツの襟元を緩めてはだけ、床にあぐらをかいて座りなおすと、
「パパしぶといから殺されないよ。君を残して死ねるか、メグ。けど、いっぺん逗子の自宅を訪ねてみよう。汗まみれだな、風呂入ろ」
「え~ 大丈夫?」
「風呂出たら牛丼喰うぞ。メグはもう寝ろ」
「パパが安全に眠るまで起きてる」
「よせよ。何か起こるとしたら、こうやって起きてる時間よか、眠ってる間のほうが危険なんだろ。君、夢の中までついてくるの?」
「そうしてもいい。そうだ、パパ、今夜からメグずっとそうする!」
 メグはぱっと顔を輝かせました。そうそう、そうしよう。あたしできるもん。パパの中に入って、マヤが侵入してこないように守るんだ、とけなげな決心もあらわな娘の顔をつくづくと眺め、駿男さんは言いました。
「君の愛はうれしいけど、おことわりだよ。自分の心くらい自分で守る。娘に庇ってもらわなきゃなんないほど、ぼく弱くないぜ?」
「えー」
 メグはたちまち萎れてしまいました。
「さあ、自分の部屋へ戻れよ。ぼく明日ちゃんと起きて仕事に行く。心配しないで。べそかくな。さあ…」
 メグが自室に入るのを見届けて、駿男さんは家具の何かにつかまって、ゆっくり立ちあがりました。
(あの子が超能力者だって? だとしても守ってやるのは俺の役目だ。シーラは、どっかに帰ったのか。サイコ・ヒーラーだかなんだかわからんが、まあ)
 と駿男さんはよろよろとバスルームに向かって歩きながら考えました。ちょっとヘルニア気味の腰をさすりつつ、
(マヤよりなにより、いちばんたまげたのは、彼女におっぱいなかったことだぜ。現実はどうなんだ。実際あの子どっちにも見えるよな。それとも俺の願望か? 俺もしかして隠れホモ? まさか、でも、いや……)
 自分の部屋に戻ったメグは、またシーラに呼びかけました。
(パパは大丈夫だって)
(うん、彼強いね)
(逗子に行くって言ってる。たぶん今週のお休みの日。えっと、木曜日かな)
(あなたも行くの?)
(学校があるから昼間はだめ)
(それじゃ、あたしが行く、いっしょに)
(シーラさん、学校は?)
(もう夏休みだよ。九月までフリー。あとでパパにメール送る。あなたから言わないほうがいいね)
(なんで?)
(……パパは、あなたをとってもだいじに思ってるからなのよ)
(え)
(わかんなくてもしかたない。ぼくから彼にメールする)
 それでシーラの声は切れました。わかんない、シーラさあん…とメグはなお小声で追いかけましたが、返事はありませんでした。
 雨はすっかり止んでいます。
 メグはカーテンを開けて夜空を眺めました。まだ星はひとつぶも見えませんが、街あかりに、どんよりした上空を、低い暗い雲がゆっくりと流れて行くのがわかりました。ぼんやりと白っぽい月影が、雨雲の流れて薄くなった闇に浮かんでいます。
「おつかれさん」
 シーラが閉じていた瞼を開けると、ヒョウガはそのままの姿で窓辺に立っていました。手に柄の長いグラス。都心ではもう明るい月光にきらりと光って、赤いさくらんぼが揺れました。
「何飲んでるの?」
「マンハッタン」
「ぼくにも」
 ヒョウガは飲みかけの自分のグラスを渡しました。何も尋ねません。シーラが手渡されたグラスに唇をつける前に、ヒョウガはぎらっと両目を見開き、シーラの手首ごとグラスを自分のほうにひきもどすと、あっというまに、一滴残らず口に含んでしまいました。
 それから、彼はシーラをおさえつけました。
「マンハッタンは?」
 くちづけの後、シーラはさくらんぼの種を床に吐き出し、ヒョウガは低くわらいました。
「体液交換するんだから同じだ。酒に酔うより俺に酔え」

 仁科円魚記念館は逗子市と葉山町のほぼ境目にありました。自家用車でなければJR逗子駅からのアクセスはちょっと不便でバスを乗り継がなければなりません。木曜日の午後一時半、駿男さんはJR逗子駅前でシーラと待ち合わせました。車を出したのは駿男さんでした。
 早い梅雨明けで、七月半ばというのに酷暑の陽射しが照りつけ、昼前の気温はもう三十度を超えていました。
編みっぱなしの鍔の縁から、ざくざくとふぞろいに繊維が飛び出ているベージュのストローハットに大きめのサングラス、ショートパンツから、長すぎるほど伸びた脚で、大股に改札を出てきたシーラが、ロータリーに停車した駿男さんのポルタを見つけて片手をあげたとき、駿男さんの眼は思わず彼女の胸に吸い付きました。白地にブルーラインのボーダータンクトップはボディラインにぴったりでしたが、胸元がひろくないので、シーラのふくらみが本物かどうかわかりません。
「お待たせしました」
 シーラが長身をかがめてポルタ助手席に乗り込んでくると、メグとは全然違う匂いが駿男さんの嗅覚にあふれ、彼は一瞬くらっとしました。
(香水かな、そういえば安美さんもいろいろ持ってたっけ)
 と駿男さんは、酔いを醒ますようにかるく頭を左右に振りました。濃い香りではないのですが、鼻腔から、暑さでぼうっとなった後頭部までつきぬける爽やかな刺激でした。
(どうも男の匂いじゃないね。まあ、どっちだっていいんだが)
 助手席に座ったシーラの腿も膝も小麦色になめらかで、足首、いいえ爪先まですらりと伸びた曲線は、駿男さんの日常生活圏外の眺めです。それを、目のやり場に困る、と赤面するほどうぶではない五十三歳でした。
「これ、火曜日の夕刊と水曜の朝刊の切り抜き。シーラちゃんとこじゃ載らないでしょ」
「横須賀線人身事故。高校生の飛び込み自殺ですか」
「彼女なんだ。その…溺死した中学生とは別にぼくの幻視に出てきた子だと思う」
「マヤが頭をつぶした子かな」
 シーラが躊躇なく言ってのけたので、駿男さんはぎょっとしました。
「君そう思うの?」
「時刻はぴったりですね。月曜日から火曜日の深夜。終電だから」
(あれ、俺彼女に、そっちの幻覚のこと、話したっけ?)
「そう、死にきってないから顔を見せられないとか言っていた」
「即死なら実際はともかく、感じバラバラでしょ」
 頭も、とまではシーラは言いませんでしたが、駿男さんには、クーラーの風がひんやりときつい瞬間でした。
「この子の自殺もマヤが誘ったのか?」
「わかりません。マヤの中身はきれいでした」
「え?」
「ご一緒したとき、ジャングルジムの中にいたマヤの心を覗いてみたんです」
「それで?」
 シーラは黙りました。道は海沿いに出て、昔からの漁村風景と、シーサイドリゾート風景の混在する、晴れやかな海辺がひろがっています。真上からの直射に、短く濃い物影はいたるところで視界にぎざぎざと鋭角をつくり、道端に咲き群れるカンナの朱色と同じくらい強い刺激でした。
「どう言ったらいいかしら。あの子の心には、ただ鏡のように、あたしと風間さんが映っていました」
「鏡?」
「そう、曇りのない鏡」
「メグはこう言ったんだ。マヤはぼくを欲しがってる。マヤが欲しいと思うことは、殺したいって意味なんだって」
「それも嘘じゃないですが、自殺は結果なので、彼女がたくらんだわけではないと思いますね」
「どういうこと?」
「死に心が傾いている魂が、むしろマヤにひきよせられていくんじゃないかしら。風間さん素敵なサングラス」
「ああ、日曜日に買ったんだ。昔からの知り合いの職人の一点製作でね」
「とてもお似合いです」
「あなたに言われるとうれしいね」
「ほんとです」
 シーラはずっとかけっぱなしだった自分のサングラスを外して微笑しました。きちんと化粧した目の周りが、パールカラーに光っていました。男には見えんなあ、と駿男さんはつられて笑顔になり、何となく逸れた会話そのまま、もう車は円魚記念館の駐車場に乗り入れていました。 
常緑樹の生垣に囲まれた駐車場はこじんまりと自家用車が数台停車できるほどの広さでした。藪椿の植え込みが記念館の庭と駐車場を隔てていて、案内板の矢印に従い、古めかしい竹の枝折戸を入ると、たっぷりと屋根の大きい記念館の入り口が玉砂利の向こうに見えます。それほど大きな庭ではなく、ひとつ、ふたつ、苔の目立つ灯篭が立ち、池は枯れ、その周囲にはイチイや松、梅の古木など、旧居の面影をとどめて枝ぶりよく繁っていました。木の下闇のいたるところに、野性の百合がすいすいと丈高く咲き出て、吹きぬける海風に揺らいでいます。
 改造された一階が展示室で、二階は家族の住まいと見えます。建物の南側がほぼ前面ガラス張りで、エントランスからすぐにギャラリー空間です。庭に向いた入り口近くをギャラリーとは障子で仕切った二畳ほどの小部屋が受付、その隣りのガラス面沿いに、休憩と応接を兼ねた、やはり畳敷のフロア、書画は陽の光の届かない奥を、いくつかに区切って展示されていました。それほど広いギャラリーではありませんが、天井が昔風に高く、ひろい軒の影と、たぶん往時の縁側を休憩室に残したおかげで、館内の奥行きはしいんと深く、心地よく感じられました。古めかしい柱や壁など、つぶさに見ると、今ではめずらしい桜の木を多用してあり、壁もリフォーム部分を含めて、砂壁のままでした。その時刻、どういうわけか受付けに人はいず、御用の方はお呼びください、と簡単にメモ書き付箋の貼られた呼び出しボタンがあります。
「無用心だね」
 駿男さんがボタンを押すと、二階で呼び鈴の鳴る遠い音が聴こえました。
 どこに隠し階段があるのか、しばらくしてトントン、と静かな足音がして、白いTシャツに下だけ藍染めの作務衣という、くつろいだ姿の仁科幻が現れました。
「今日は休館日なんですけれど」
「開いてたものですから」
 と駿男さんは答え、ストローハットを脱いだシーラは、ゲンの日焼けとは無縁な蒼みがかって見える顔を、半ば目を伏せ、長い睫毛ごしに数秒しっかりと見つめました。
「失礼しました。横浜で、佐久間千草さんに御紹介いただいた風間です。こちらインテリアデザイナーもなさると伺ったので。でもあらかじめ御連絡さしあげるべきでした」
「佐久間さん、ああ」
 とゲンは冷ややかな面長を、がらりと人なつこい笑顔に変え、
「それでしたら、どうぞ。休館日でも遠方からわざわざ訪れる方がたまにいらっしゃるので、こうして開けているんです。受付けさんは休んでいただいてますが、木曜日は盗難の心配がない常設展示だけなので」
 そつのないおだやかな口調です。育ちよく角のない人柄が察せられ、横浜の展示で見た荒っぽいコンテンポラリー作品群のイメージとは、ずいぶん違う印象でした。
 受付の隣りの畳敷きの部屋に案内され、仁科幻は折り屈みのよい態度で、冷えた緑茶とおしぼり、朱塗りの小皿に京都の干菓子を載せて持ってきました。二つある応接室の長卓は四隅に手のこんだ浮き彫りのある紫檀でした。
「母の実家をリフォームして、佐久間さんのお宅と同じようなデイサービスに使おうかと考えているんです。こちらは、ぼくのサポートをしてくれる地元ボランティアのひと」
 と、すらすら嘘八百を並べる駿男さんにシーラは感心し、その一方で深閑とひと気のない住居の雰囲気に耳を澄ませ、
(女ッ気がない。娘がいるのに、母親の気配がしない。マヤはどこにいる。学校か、保育園か、この時刻なら)
 シーラの疑念に応じるかのように、誰もいないはずの受付側の障子がからりと開いて、
ぬいぐるみを抱えたマヤが現れました。真っ赤なハイビスカス模様の膝上までのミニドレスに、両足首にはドレスと共布でつくった造花のアンクレット、手首には色んな貝殻をビーズつなぎにしたブレスレット。いつものように飾り立てられたマヤでした。
 う、とマヤは喉の奥で小さく唸って、長卓を挟んで駿男さんと相対している父親の膝にあがりこみました。接客中というのにゲンは娘を叱ろうとはせず、正座をくずし、あぐらのなかに娘を抱え込んでしまいました。
「見苦しいとは存じますが。この子は言葉が通じないのです」
「それは」
 駿男さんはマヤの整った顔立ちをながめて目を剥きました。きりりとした利発そうな目元口許に、くぐもった印象など少しも感じられません。
「脳の機能障害で、医者が言うには、言語機能がないんだそうです。事物や形象を感覚的に理解し、把握し、またぼく以上に敏感に察したりするんですが、言葉はいっさい通じません」
「発達障害?」
「いえ、障害ではなく、できないんです。専門的なことはぼくにもうまく説明できないのですが、脳の言語野が、生まれたときから欠落に近いくらい未熟で、もういっぽうの感覚野は十二分に成長しているんだとか」
 ゲンは娘の茶色い巻き毛を撫でながら、丁寧に言い訳しました。
(てことは、賢いワンニャンと同じってことか)
駿男さんは横のシーラを窺いましたが、シーラはわざとその視線に応じませんでした。
今ここで、ゲンの眼の前で、駿男さんとあからさまな目配せをするのは無礼に決まっていました。それは宗雅さんから、というよりも日常坐臥を優雅な節度で律せよとする鳳凰家と、さらには祖国でも屈指の名家に数えられるデュランテ・スクリヴァの両方から受けついだごく自然な、あえて言うなら、よきアリストクラートの態度でした。上から目線、などという姑息とは違うものでした。
でも無視された駿男さんは少しばかりがっかりしたかもしれません。シーラは、
「それではずっと自宅にいらっしゃるんですか、娘さんは」
 まじめな、優しい口調で尋ねました。ゲンはにこにこして、
「だいたいね。保育園に通わせたり、ベビーシッターを付けたりしたんだけど、この子本能的に相手を見分ける力が鋭くて、なかなかうまくいかないんですよ。保育園も幼稚園も集団生活で、言葉が出来ないと、どうにもならない部分あるし、危ないんで。だから、佐久間さんには、ずいぶんお世話になったんです。千草さんと早織ちゃん、この二人のことは、マヤは割と素直に受け入れるんだよね」
「佐久間さんの?」
「ええ、家内が亡くなったとき、この子まだ二歳ちょっとで、ぼくの母親が来てくれたりしたんですが、どうにもならないときは、千草さんに預かっていただいたんです。言葉が通じない、わからない子だってわかったのも千草さんの観察が最初かな。あのひとも早織ちゃんも失語症の方に接しているから、敏感なんだと思います。ショックでしたけれど、五歳くらいの年には、もうまるっきり話せない、言葉が欠落していることがわかり、スキャンやら何やら、手を尽くしたけれど、治療できないって」
 ゲンは感情をまじえずに、シーラの眼をときどき見ながら言いました。シーラを見ないときは、娘の頭を見たり、窓の外を眺めたり、ちらちら定まらない視線は、それにしても駿男さんのほうへ向くことはほとんどありません。
(佐久間親子を、マヤは欲しがらないってことか? 違うな、あの二人に自己破壊願望なんて全然ないから、マヤの無意識の〈狩〉の対象外なんだろう)
 と駿男さんは考え、首をひねりました。
(てことは俺に自殺願望アリなの? そんなろまんちっく毛ほどもないぜ。メグ残して死ねるかって、俺ただの頑張る父ちゃんだぞ)
 この内心のまっすぐな独白をうっかり聴いて、隣のシーラはこらえきれずぷっと吹き出しました。でも知らん顔してゲンに、
「マヤちゃん、お友達ほしいでしょうね」
「ですね。ぼく母親いないこの子が不憫で、つい猫っかわいがりしちゃうんですが、言葉は通じなくても、意思の疎通はできるんです」
 インテリアデザインの話から、会話がどんどん逸れてゆくのに、ゲンは無頓着でした。ひごろ溜まっていた愁いを吐き出すかのように、彼は抑揚の少ない口調で喋り続けます。視線はひとところに定まらず、気持ちが急いてくるとあちこちにいそがしく揺れ、沈んでくると伏し目に動かなくなるのでした。言葉づかいや物腰がすっきりしているのに、仁科幻は目の落ち着きなさで印象を損している、と駿男さんは(自分の無神経を棚上げにして)思ったりしました。
あう、とマヤは父親の手をひっぱり、退屈したと訴えました。唇をちょっととがらせて父親の二の腕に、小動物が飼い主に額をすりつけるように甘える彼女の仕草に、駿男さんは唖然とし、シーラは、
「おねむかしら」
「よくわかりますね。三時過ぎだから、いつもより遅いんだ。脳に欠陥があると睡眠時間が増えるんでしょうか。疲れるのかなって思うんだけど、この子よく寝るんですよね。おかげでぼく助かるんだけど」
 ちょっと寝かしつけてきます、とゲンはことわり、娘を抱き上げました。小柄とはいえマヤはもう六歳児ですから、乳児だっこではゲンの腕に余る見た目の印象でした。
「声やジェスチュアでコミュニケーションなさるんですか?」
 シーラもゲンに続いて立ち上がり、尋ねました。
「そう。複雑な言葉はわからないけれど、言葉を聞いたときの、その声や話している相手顔つきで、だいたいの内容を理解するんだ。だから同じことを言っても、心がこもっていないと、この子には全然通じないんだよ。自分の名前はわかるんだけど、それもやっぱり心をこの子に向けて呼ぶんじゃないと、聞き入れない」
 ゲンはシーラが自分のあとについてくるのを全く疑問に感じない様子でギャラリーの廻廊をぬけ、襖障子で隠された階段を上ろうとしてまた立ち止まり、
「この襖絵も、円魚の作品なんです」
濃淡巧みに描かれた幽霊の水墨画です。
「円山応挙の模写ですか?」
「まるっきりの模写ではないです。ぼくは円魚の最晩年に養子に入ったんですが、亡くなる前にはこんな幽霊画をときどき描いてました。応挙は幽霊画家の側面のほうが有名ですが、四条円山派の正統派ですから」
円魚を語るゲンの胸にもたれて、マヤはもう、うとうと眠り始めています。
「わたしたち、そろそろ失礼します」
「そうですか、話を聴いてくださってありがとう。なんだか一方的にこっちの悩みをお喋りしてしまいました」
「いいえ、楽しかったです。それに」
 とシーラは少し首を前かがみにしてゲンのふらふらしている視線を、ぎゅっと引き寄せる感じで眼を合わせ、自然な声で、
「またお会いしましょう」
「そうですね、また来てください」
 階段を一つ登りかけてゲンはシーラを見下ろし、何気ない口調で言い残しました。
「千手って、千手観音に関係あるのですか?
あなたの姓は」
 シーラは一瞬瞳を見開きましたが、笑顔を崩さずに、
「いいえ、あたしの父は能役者です」
「ああ、それで。どこかで聴いたことがあると思いました」
 ゲンの声にそれ以上の含みはありませんでした。
 熱気のこもるポルタに乗り込むと、駿男さんはクーラーをかけ、同時にレッド・ツェッペリンを流し始めました。暑いねえ、とぼやきながら、
「いつもながら驚きだよ、シーラちゃん」
「なにが?」
「インテリアデザインの話、ぼくは結構必死であらかじめ台本考えてたのに、なぜだか全く不要だったじゃないか」
「なりゆきで」
「なりゆきねえ、へええ」
 と駿男さんは承服しかねる顔で、ようやく涼しくなりかけたポルタを発進させました。
 海岸通りに出ると、往路では水蒸気に隠れて見えなかった富士山と大島が、西の彼方にあざやかに見えます。海に近い艇庫から、ヨットが何艘か海に出てゆこうとしているのは、夕暮れのクルージングを楽しむためでしょうか。
「絶景だ。海と富士山、伊豆大島プラス」
 駿男さんはつぶやき、
「ぼくの隣りには絶世の美女ときちゃ、もう、満点だ」
「……」
 シーラは駿男さんの、めずらしくもってまわった言い方に、黙ってしまいました。
「ずっと聴きたかったし、いや、聴きたくなかったのかな…でもこの際だから聴いちゃおう…君とかメグとか、超能力者なわけ?」
「サイコ・ヒーラー」
「それ、君の造語でしょ。世間普通の通り名だったら、何なのかな。いや、知りたいのはそういうことじゃない。いったい具体的に君やメグはどういう能力があるんだい。今回、メグはぼくを守るなんて言い出したんだよ。ぼくの中に入って、ぼくの心だか魂だかを、マヤの侵入から守るんだって! 断ったよ。だけど、あの子、ぼくの心にそんなに簡単に入れるの? ぼくの考えや夢とか、もしかして願望とか、全部メグに筒抜けなのかって考えたら…考えたら」
「気味悪い?」
 信号で停まると駿男さんは横のシーラをちゃんと見て、
「うまく言えない。メグはぼくの生き甲斐だし、君は素敵だ。気味悪いとしても離れられないだろう。そうだね、やってらんないぜ、って感じだよ」
「で、どうするんですか」
「君、ぼくの質問に答えてない。メグにも君にもぼくや、ぼく以外の人間の心が全部お見通しなのか?」
「そうしようと念じれば、できます」
「それって、君たちの人生で得なのか損なのか、どっちだ」
 駿男さんはだんだん自分の問いがからまわりしてくるのに、内心地団駄を踏みました。
(俺の聴きたいのはそんなことじゃない。俺は何をシーラに問い詰めたいんだ、俺の聴きたいことは)
「何もかも見抜いてしまうとしたら、色んなSF小説に書かれているみたいに、離人症になるかもね。エスパーって、たいがい孤独でしょ」
「君も? 君は?」
「適度に生きてる。これからもそのつもりです。人間て限界ある生き物でしょ、パパ。見たくないことは見ないし、必要なものを自分で選り分ける」
「限界?」
「人生という限りある時間の中で、こうあろうとする自分の姿を、見失わないってことかしら」
「すごいね」
 駿男さんは海の眩しさに、サングラスをかけた眼をぱちぱちさせ、
「君の年でそんなに達観できるなんて」
「あたしの台詞じゃない」
「誰かの引用?」
「はい」
 黙ってしまったシーラに、駿男さんはそれ以上……シーラにその言葉を教えた人物は誰、と尋ねることを控えました。
(宗雅さんかな。そういうひとなら言いそうな感じ)
 時刻は五時近く、けれども夏の午後は長く陽射しはとろけるばかりに暑く、瞬きのたびに、視界にはあざやかな朱色がよぎり、錯覚にしても、夏時間はどこまでも続くまひるのように感じられるのでした。
「ランボー好きですか、パパ」
「守備圏外、で? 娘よ」
(いいねとシーラは笑いました)
「あたし、だじゃれへただから、こういうシチュエーションの決め台詞は引用で」
「言ってよ、まなむすめ」
「見つかった
 何が
 海と溶け合う永遠が」
「……俺、素直なオスだからね。君が娘じゃなかったらキスしてる」
「ごめん、パパ」



 
 





 

 

スポンサーサイト

スウィート・ハニー・スプリット 2

Posted by 水市夢の on   0 comments   0 trackback

「やあ、海開き早々、ドザエモンだって」
 朝の五時、日増しに夏の小鳥のさえずりがはっきりと、空にあふれて高くなる七月に入ってすぐの週末、仕事も学校もお休みの風間親子は、いつもどおりウォーキングを欠かしません。最初に目覚まし時計で起きるのは父親で、彼は寝室からキッチンの冷蔵庫に直行して、野菜ジュースにレモンを絞って飲みながら、新聞受けから朝刊をひきぬきます。一面の大文字をざっと眼で追い、ばさばさと音をたてておおざっぱに紙面をめくり、歩きながらメグの部屋をノックして
「メグ~。行くぞぉ」
 とあくびまじりに声をかけて起床を促し(彼はいつからか、眠っている娘の寝室を無造作に開けるということをしなくなっていました)リビングに戻ってくるころ、地元の社会面を眺めます。
 今朝も上々の夏空が東の窓いっぱいにひろがっています。スカイブルーは、まだ明け暮れの淡さに霞んでいますが、じきに強烈な真夏の直射が、じりじりと照りつける濃青に変わってゆくでしょう。今年の梅雨明けは早かったのです。
 湘南のヨモヤマ事件を集めた見開きに、溺死した少女の記事は、その夏の最初の水の事故、ということもあってか、かなり大きくとりあげられていました。
「ドザエモンじゃない。十四歳の女の子。ドラミちゃん、じゃなくてドザミちゃんじゃあ語呂が悪いか」
 と無責任な眠気覚ましをぶつぶつ言いながらスエットに着替える所要時間約十分。そのころにはメグもリビングに出てきます。顔もろくに洗っていない、髪を梳かして束ねただけの起き抜けなのに、十二歳の健康な少女は光るように新鮮な血色を満面に浮かべていて、駿男さんは野菜ジュースよりもレモンよりも、この子を見たとたんに、ぱっちりと眼が開くのでした。彼は世間並みの男親よりは、ちょっと度が過ぎた娘へのこうした愛情を、けっこう自覚していました。
「何文句言ってるの、パパ」
「水の事故だよ、海開きのはなッから」
「近所なの?」
「そう、場所は香枕天神海岸。和賀江島の海水浴場にあがったって」
「じゃ、散歩コースから見えるじゃない」
 いつもは聞き流すメグは、今朝はパパの手元を覗きこみ父親よりもしっかりと記事を追って、
「これ、水の事故じゃないみたいよ。飛び降りたらしいって書いてある」
 声がすこし低くなっていました。
「へえ」
 と駿男さんはぜんぜん気にせず、
「てことはあそこの崖っぷち? 勇気あるなあ」
「そういう言い方、はっきり言ってメグやだね。自殺したんでしょ。勇気じゃないよ」
「だね~。君のそういうとこ好き。ママに似てる」
 メグは返事をせず、ちょっと白眼がちにパパを見上げました。
(ほんっとに、パパ神経太いよね。デリカシーを失くすとこういう大人になるのかな)
「パパは君が無事ならそれでいいんだ。言い訳これでいい?」
 駿男さんはメグの非難がましい顔色を先読みして、にやっと笑いました。
「行こう。遅くなるぜ」
 絶句しているメグの返事を待たずに、駿男さんはくるっと娘に背を向けました。
「ミソとショウユがサザエを焼いて待ってるもんね」
「パパ、苦し紛れにわけわかんないこと言わないでよ。ミソサザイ、イソシギ、ツバメに……」
「君も小鳥に関する知識を増やしたら? 夏休みの自由研究それどう」
「あ、そうしよっかなあ」
 と、親子は例によって言い合ううちに、なんとなくなごみムードにおさまってしまいました。
 メグたちの住むマンションから、海岸へは路地と県道をいくつか抜けてすぐです。海へ直行せず、遠回りして桜山を登ると、葉桜繁る緑深い雑木林の森がしばらく続き、桜山の中腹が、この散歩コースの一番の高みなのでした。急いでいるときは、こちらの迂回コースは通りませんが、今日は二人とも休みなので、ゆっくりと坂道を登り、深山を拓いた中腹のバス停のベンチに座ると、その眼下はるかに和賀江島がもう蒸し暑い真夏の靄の中に浮かび、島の展望台の影が朝日を浴びて薄蒼く光って見えました。
 そのバス停から、手前の桜山の森に隠れて間近の星月夜岬は見えません。
「あの星月夜岬から飛び込んじゃったんだよ」
 休憩のためにバス停のベンチに座り、汗を拭き拭き、水筒からスポーツドリンクを一口含んだメグが、パパに向かって口を開きました。
「気になるの?」
「こないだも銀座で少年の自殺に遭遇したばっかりじゃない」
「偶然でしょ」
「自殺多いね。しかも少年少女」
「いじめだろ」
 メグは、あの晩シーラとともに垣間見た死にゆく少年の霊魂の幻視を思い出していました。細く白い、手花火の終わったあとの薄煙のような影像……。でもそれは駿男さんには伝えられないものでした。言葉でも、感情でも、パパが大好きでも、絶対に共感できない領域の気配。
「あの子は死ぬつもりじゃなかったんだけど、跨いじゃったんだって」
「またいだ?」
「そう。いじめられていたけれど、死ぬつもりなんかなかったの」
「おいおい、新聞にそんなに詳しく書いてあったか。あの子って香枕宮に打ち寄せられた中学生の方?」
「……」
 メグは応えませんでした。
 ベンチに座り、お揃いの野球帽を外して汗を拭う親子の仕草が、どこかでぴったりと停まり、ざわわ、と頭上の葉桜を揺するたっぷりとしたひろい風音と、そのはざまをぬって鳴きしきるいろんな鳥たちの鋭い、無数のさえずりだけが、ふいに鼓膜いっぱいにあふれくる、人間味のない冷たい感覚に、駿男さんは全身が総毛立ちました。
(なんだってんだ、どうしたんだ、これ)
「メグ、もう行こうよ、腹減った……」
 と娘の二の腕をつかもうとして、駿男さんはわっと叫んで飛びのきました。
……ちょーかわいい。この子誰?
 駿男さんは、自分の脳の半ばに響く、聴きなれない声にうろたえました。叫んだのは駿男さんだけでなかったのです。それから数瞬置いて、叫び声に続くその声が自分の声帯から発せられたものだとわかりましたが、それと同時に、自分の手足がほそぼそと華奢な少女のものに変化しているのにも、視線が届きました。後ろへ飛びのいたのは、駿男さんではなく、彼が同一化している少女の驚愕の動作だったのです。
(俺どうなっちゃったの?)
 というオヤジの動揺は、あっというまに少女の主体に圧倒されて散り散りになり、彼女は紺青の暗い室内で、保健室か、病院の救急治療室にあるような、コンパクトで幅の狭いベッドの上に眠っている、小さな女の子の前で、呆然と立ちすくんでいるのでした。
「あたし、なんでここに来てるんだろう」
 夏のセーラー服は、駿男さんも見覚えのある某私立学校のものです。
少女に同化していても、どこかに駿男さんの意識は存在し、少女の感覚をレンズのように透かして、わずかに自分のまなざしを保っています。少女は自分の手足をしげしげと不思議そうに眺め回しました。
「いつ、どうやってここに来たの? これって夢なの? あたしどこにいたんだっけ」
 といいながら少女は眼の前に眠っている幼女の寝顔を覗き込み、ふうっとためいきを吐きました。
「うっそ、人形みたい。髪の毛きれい、天然かな、これ。寝てるの? まさか、死んでるんじゃないよね」
 と不安げな独りごとをつぶやきながら少女は、搬送台のようなベッドに眼をつぶっている六、七歳くらいの女の子の顔に触ってみました。ひゃっ、と少女は無遠慮な声をあげて手をひっこめ、
「やだあ、冷たいじゃんこれ。まさか死体」
 少女は後ずさりしましたが、それでも蝋細工のように生気のない女の子の顔から眼が離せず、
「死体でも、こんなにかわいいと、気味悪さが減る感じ。いいなあ、あたしもこんなだったら、いじめられないのかも」
 と口惜しそうに、うらめしそうに、また苦しげにつぶやきました。この子、そんなにブスなのかね、と駿男さんが少女に同化しながらも内心で首をかしげると、それに呼応するように、寝ている幼児の向こう側の闇が、急に硬さを帯び、ぼんやりした周囲のとりとめのなさから、きっちりと長方形の壁が浮かび現れ、そこに駿男さんが同化している十四、五歳の女の子の姿が映し出されました。どちらかというと痩せがたちの中背で、顔立ちはなるほど美人ではありませんが、ちんまりと平凡に、おとなしげな印象です。なんだ、いい感じじゃないか。こういう地味めな子って、大人になっておしゃれし始めるといきなり激変するタイプだぜ。うちの会社にもいるよ、いっぱい、おい、元気だせ…という駿男さんのエールなど、この状況ではもちろん少女の耳にも心にも届きません。
 少女は自分のショートカットの髪をうっとうしそうにかきあげ、もういちど辺りをぐるりと見回してから、
「ここって、病院とかの死体置き場みたい。あんた、ほんとに死んでるの?」
 とあんまり怖がっている様子もなく、おずおずと眼をつぶっている蒼白い幼児の額に手を置きました。冷蔵庫で冷やしたガラスコップくらいの冷感が駿男さんにも感じられます。
 あれ、と駿男さんは少女が手を載せた小さい女の子の顔に、はっとしました。この子、たしか朝のウォーキングのときに出会った、コンビニでつり銭盗もうとした子じゃないか。たしか銀座の地下劇場でも見かけた親子の…マヤちゃんとか言う子だ……何でここに出てくるんだ? 
 すべすべした陶器のような肌の子は、藤田嗣治の描く女の子によく似て、少しまなじりが吊りあがっています。その顔は、幼児にしても、いえ、幼児ならではの容赦ない、残酷な気配を帯びていて、少女の無造作なマヤへの接触を、駿男さんは彼女と同一化しながら、ふと危ぶみました。触んないほうがいいぞ、君、俺の声、聴こえないの?
 少女は駿男さんの制止など全くわからず、めずらしいオブジェでも撫でるような手つきで、マヤの縮れた薄茶色の髪や、ふっくらとした頬を撫で回しました。仰向けに寝そべったマヤは、少女の手の動きに意識が戻ってきたのか、少し大きな呼吸をしました。
「あ、まだ生きてるんだ」
 と少女がつぶやいたとき、マヤの頭蓋骨の少女側の面がぱくんとひらき、するりと白い軟体生物が這い出てきました。マヤの頭の中は空洞になっていて、そこに巣食っている白くなめらかな、蛇となめくじの合いの子みたいな生物がするすると出てきたのです。それはマヤの皮膚のようにすべすべして、手足はなく、子供の腕くらいの太さで、先端に爬虫類の眼と口がついていました。少女はきゃっと叫んで手をひっこめようとしたのですが、
白い軟体生物は、彼女の指四本をいきなり咥えこむと、ゆらりと体をひねってマヤの頭蓋骨に戻り始めました。
「え、やだ、離して、やだってば!」
 少女は仰天して抗いましたが、軟体生物はそのまま苦もなくマヤの内部にひっこみ、咥えられた指先から、少女もまたずるずるとマヤの頭蓋骨の中に引っ張りこまれてしまいそうです。大変だ、なんとかしなけりゃ!、と駿男さんは少女といっしょに必死になって足をつっぱり、その場に踏みとどまろうとしましたが、少女はなすすべもなくずるずるとひきよせられ、あっという間にマヤの横顔に開いた穴の中に、二の腕までひきずりこまれてしまいました。
そこからは異様な感覚が始まりました。
 たとえ大人であっても、容量のちいさい頭蓋骨の中に十四歳の少女の体がまるごと入るわけもなく、少女はそれからもどんどんマヤの中に入ってしまったのですが、まるで蛇の脱皮みたいに、彼女の手先から衣服ごと皮膚が剥がれて、ふにゃふにゃした中身だけが、マヤの中に吸いこまれてしまったのです。解剖学的な人体ではなく、肉体の皮を全部脱がされた脆い〈中身〉は、あっというまにマヤの内部に吸われてしまうと、マヤの寝ているベッドの下に、空気の抜けた風船か、萎えたフィギュアのような少女の抜け殻が、しわくちゃになってくたくたとずり落ちました。
少女の感覚を共有している駿男さんは、自分の肉体をぶあつく剥かれてゆく言いようのない気味悪さと気持ちよさを同時に味わいました。痛みは全然ありませんでした。ねっとりした肉の重さを離れ、マヤに吸い込まれてゆく少女の意識が駿男さんから遠くなり、再び鼓膜に夏の森を吹きぬける朝風のゆったりとしたざわめきと、無数の鳥のさえずりが聴こえて、それから、
「パパ、パパ、しっかりして、大丈夫?」
(大丈夫なわけないぞ。いや、平気だよ。なんだ、メグじゃないか…)
 真上から駿男さんの顔を覗きこんだメグは、駿男さんの眼鏡をはずし、野球帽のつばで必死になって風を送っているのでした。
「パパ、貧血起こしたんだよ」
「それって俺、初体験、もしかして」
 駿男さんは、バス亭の木のベンチに仰向けに寝ていました。貧血ね、マジかね。
「君なんともないの、メグ?」
「あたし? うん。いきなりパパ倒れた。顔まっさおになって」
「じゃ、ほんとの貧血だ(脳梗塞じゃなくてよかった、ホッ)」
 駿男さんはゆっくりおきあがり、首筋から脇腹にかけてべったりと流れる汗の感覚と、両手両足の感覚がしっかりと戻っているのを確かめ、自分にすがりつくようにして眼を見開いているメグの顔をじっと見つめました。
(俺がひっくりかえったら、貧血なんかじゃなく、脳梗塞か狭心症を疑えって、教えておかなけりゃなんない時期だな)
 とメグの背中をそっと撫でました。まだ成長しきっていない細い肩甲骨の起伏がてのひらに感じられ、駿男さんは、いささかの疚しさもなくそのままメグの腰までの薄い肉付きを手に測り、
(俺に万が一のとき、この幼い娘はどうなるだろう)
 とはっきりと考えたのでした。
「パパ、歩ける?」
「モチよ。まず水分補給」
 駿男さんは、水筒のスポーツドリンクを飲みながら、視線をまた葉桜ごしの海へめぐらしました。朝靄はすっかり消えて、まひるの直射に、和賀江島と、その周囲にとどろく金波銀波のまばゆさが際立っていました。太陽を浴びて海水の光り輝く部分と、くっきりした影の部分とが、波のうねりにつれて島の周囲に乱反射し、彼はふいに、
(サングラス買おう、いいやつ)
 と自分の思考の流れを変えたのでした。
 パパ、とメグは内心で父親に呼びかけました。
(変なもの見せちゃった。そんなつもりなかったのに、あたし、また誰かにつかまれちゃったの。どうしたらいいかわかんなかったの。でも、まさかパパがいっしょに入ってくるなんて思わなかったの……)
 駿男さんが味わった一連は、メグの見ていたものでした。なぜだか今回の幻視はメグに直接つかみかかるのではなく、駿男さんを媒ちにして、メグにコンタクトしてきたのです。
(パパには霊感なんてないってシーラさんは言ってたのに、なんで?)
 とメグは考えましたが、それよりも今は父親の安全の方が先決でした。
(ジャンプはすごく疲れるんだ。パパ顔色悪い、早く戻ろう。それからシーラさんに…)
 とメグなりに思案して、何気ないふうを装い、精一杯笑顔を作ったのでした。

 その時刻、といっても朝の七時過ぎですが、シーラは世田谷能舞台で演能の準備に追われていました。三時半にはもう起床、それから前々日金曜日の夜から泊りがけでお稽古をつけてもらっている宗雪、それに内弟子の数人といっしょにお舞台の内外を拭き清めます。今日は鳳凰流の弟子達で、囃子方地謡を除いて、シテワキ全員中高生だけの番組を上演するのです。大人ではないけれど、子方とも扱われない、将来の能楽界を荷ってゆく少年少女たちが、面をつけない直面(ひためん)の袴能を演じる「宝雛会」の定例舞台でした。この若手育成の企画は、主宰者は宗雅氏という表向きですが、鳳凰流を率いる宗典さんが始めたことです。宗典さんは宗雅さんの次男で、宗雪の父親です。十六歳の宗雪の上には二人の兄がいて、一番上が二十四歳の宗光、次男が紫と同い年の宗風と続きます。光と風と紫は、今日は地謡の役回りです。
芸の老熟をことに尊ぶ能楽の世界では、青春の若さはほとんど評価されず、仕上がりには遠い「こども」に、短い仕舞ではなく、最初から最後まできちんとひとつの番組を演じさせる試みは、毀誉褒貶さまざまでしたが、全部任されて出演する中高生の「こども」達は嬉しくて、ラインやらツィッターやらで宣伝するので、ろくに能など知らない一見さんがやってきたり、普段とは毛色の異なる客入りがあり、いつもなかなかの盛会でした。そんなきっかけから、興味本位で能楽に入ってくる子もいたのでした。
 宗典さんの息子三人は、幸いにどの子もけっこうなショウユ系イケメンですし、ユカリにいたっては、もう今まで言葉を費やしてきたとおりの暮らしぶり、ルックスですので、この子たちが出るだけで、かなり観客動員が期待できるのでした。三兄弟のうち、ユカリにいちばんなついているのは末っ子の雪でした。風と光は将来を嘱望(ムツカシイ字ですね)されている鳳凰家のサラブレッド、だからという理由でもなく、すこし異なる角度から異色の弟を眺めているのでした。これはまた別な物語に入ってしまいそうなので、今はここでやめておきます。
(シーラさん、聴こえる?)
 ひととおりの清めを済ませ、一同そろって
朝食の席についたところでした。焼き魚やおみおつけ、焼き海苔香の物…簡素で明るい食卓は、宗雅さんの末娘の花澄さんが支度してくれたのでした。三十半ばを過ぎてそろそろアラフォー、容姿も人柄も欠けたところなどないのに、花澄さんはまだ独り身で、ユカリの知る限り、恋の噂も聞いたこともなく、鳳凰流のミステリアスな〈隠れ名花〉です。
(聴こえるよ。どうしたの?)
 花澄さんからご飯をよそってもらい、それをいただく仕草を一瞬とめたけれど、ユカリの表情は全く変化がありませんでした。花澄さんは、ご飯茶碗をもらったまま宙ですこし滞ったユカリの手に一、二度かるく瞬きし、
ふっと微笑んですぐに視線を戻し、他の弟子たちのために、またしゃもじを握りなおしました。 
(またつかまれたの)
(餓鬼、じゃないね、その感じだと)
(うん。水の事故、ていうか香枕海岸で自殺した女の子の霊)
(いつ?)
(今朝。それであたしだけじゃなくパパもいっしょにひっぱりこまれた)
(駿男さんも? で、パパの様子は)
(もう家に帰ってきて、パパは貧血っぽいからリビングのソファで寝てる)
(え、ショックで?)
(そうでもない。昔のDVD観てる。ええと、スタンド・バイ・ミーかな)
(いいね。あたしも好き)
 ユカリは何食わぬ顔で、そのままちゃんと朝ごはんをいただきました。メグが心の中に入ってきて、自分とコンタクトできている、というしたたるような嬉しさが、ユカリの表情を柔らかくしていました。もともとそれほど口数の多いほうではないので、皿小鉢に箸を進ませてゆく間の、ユカリの沈黙を、誰も不自然とは思いませんでした。花澄さんを除いては。
(ショック状態じゃないのなら、夜もういっぺんメグからぼ…あたしを呼んでくれる?
今日は丸一日、朝から夜まで世田谷能舞台を離れられない。弟が出る。それに打ち上げよ。遅くなって平気ならメグも観に来る?メグとあんまり変わらないくらいの年齢の子たちの舞台なの。かなりおもしろいし、一般享けしてる)
(パパが心配だから行けない。パパは午後から横浜にサングラス買いに行くって。ついでに映画か何か観ると思う)
(それじゃ今夜でなくてもいい。とりついたのが餓鬼じゃないなら安全、だろう、たぶん。何かあったらぼ…あたしを呼んで。それはいつでもいい。こっちが上演中でもかまわない。独りでジャンプはしないで、できるかぎり)
(……うん)
 そこでメグの心はシーラから離れてゆきました。テン六つか、とシーラは最後に即答できなかったメグの躊躇の間合いを、少し思案しましたが、接触したメグの心の状態なら、それほど難しいケースではなさそうだ、と判断しました。
「ユカリさん、それソースだけど」
「え?」
「大根おろしにソースかけてる」
「ああ、たまにはね、いいじゃない」
 花澄さんはふふ、と口許で笑い、
「うそよ」
 ユカリはあらためて両眼を見開いて、従姉を見据えました。ユカリたちと同じように夜明け前から起きだして忙しくしているのに、いつ身じまいを調えるのか、輪郭のきれいな顔にちゃんと薄化粧していました。
「へえ」
 とユカリは箸を置いて、にやっと笑って見せました。
「お姉さんでも人をからかうんだ」
「だって、ユカリさん、漬物自分の皿にとりわけたときから、ずっと逆箸のまんまよ」
 それはうそではありませんでした。

 午後二時、日中の暑さが極まる時刻には、風間親子は横浜で遊んでいました。
サングラスは、桜木町の駿男さんの友人が開いている眼鏡屋さんで買いました。未だに独身の風変わりな店主は駿男さんの大学時代の友人で、せっかく大企業に就職したのに、一年も経たずに脱サラして職人道に走り、国内のみならず、スイスやイタリアをめぐりながら十年ばかり修行を積んだ後に、故郷で手作りの眼鏡屋を始めたのでした。レンズの精巧もさりながら、この一品ものの眼鏡師の作品は、眼鏡の蔓や蝶番といった細部まで、素材や装飾に独自の細工を凝らし、駿男さんの買った鼈甲と合金のサングラスの蔓には、エジプト象形文字ふうのセミティクな毛彫りがほどこされたものでした。注文販売などではなく、そこそこ収益を上げるために、レンズと蔓は別売です。駿男さんは度なしサングラスなので、当座の品揃えの中から、分相応よりかなり高価な「一生モノ」を思い切って購入してしまいました。
「それって結構派手じゃない?」
 新しいサングラスをかけたパパの顔をしげしげ眺めたメグの感想に、
「目立つ? それとも浮く感じ?」
「両方。でも似合ってないわけじゃないよ。なんていうか、顔だけやたら豪華に見える」
「一点豪華主義ってあったんだよね。君が生まれる前のこと」
「ついてけない、そういう昔話。でもサングラスは、時間がたてば顔に馴染むんじゃない。見慣れないから、それだけギラギラしてる」
「たいていのことは時間が解決するんだよなあ~」
「モロわざとらしい、その言い方」
「だね。問題解決を先送りすると利息がキツイ」
「パパ、それじゃどうするの」
 ぽんぽん言い合いながら、メグはほっとしていました。よかった、パパ元気になった。
「一番だいじなことをちゃんと選んで、即決せよってこと」
「一番だいじなこと?」
「ハラ減ったよ。ぼく、朝からろくに食べてない。君は?」
「パパ眠っている間にコーンフレークと牛乳とバナナ。それだけ、だからお腹すいたよ」
 というわけで、横浜で車を停め、親子はランチタイムをすこし外した時分どきに、某有名デパートのレストランで、またちょっと贅沢な昼ごはんをいただきました。駿男さんは「スタンド・バイ・ミー」一本で、今日はもう十分、映画はいいや、と言い、レストラン街入り口のパネル広告に眼をとめ、
「入場無料、あれ観ていこうか」
そのデパート主宰の美術展でした。
「仁科円魚とその家族、悪くない」
「ニシナエンギョ。知ってるの?」
「うん。地元の日本画家。君知らなかった?
逗子に住居を改造したいい記念館ある。御本人は数年前に亡くなったけどね。あ、没後十年だって。そんなになるんだ。時の経つのは早いねえ」
 レストラン街のすぐ下のフロアでした。そのデパートは私設の大きな美術館も別館としてあるのですが、そちらは主に海外の巨匠クラスの展示で、入場無料のギャラリーは、近現代邦人作家の作品販売を兼ねた小規模なエキジビション、またパフォーマンスや演奏会などが常でした。
 休日なので、風間親子のような気まぐれお客も多いのでしょう、会場入り口はけっこうな人数が出入りしています。仁科円魚の代表作のパネルが入り口に大きくひきのばされ、その前で、彼の親族とおぼしき人物が、出たり入ったりの客筋に、如才なく挨拶しています。
 お、と駿男さんはデパートの中では必要ないのに、ずっと見せびらかしでかけていた購入したてのサングラスを外し、パネルの前に立っている背の高い青年を見つめなおしました。
 あ、とメグは息を呑み、思わず駿男さんの腕を握りました。
 青年の着ている赤と黒のアロハ風開襟シャツに見覚えがありました。いいえ、今間近でよく見ると、それはアロハではなく、紅型模様で、渋い光沢のある薄手のスラックスも、芭蕉布に風合いの良く似た手織りの贅沢品と一目でわかるいでたちでした。青年は、コンビニで、また銀座でそうしていたように、しっかりと小さい娘の手を握っています。マヤは、最初にあったときの印象より、すこし背丈が伸びたようですが、小造りに整った顔は他に間違いようもなく、今日は紺色の地に白い襟飾りのついた大人っぽいワンピースを着せられて立っています。
(あの子だ。てことはマヤの父親のあの青年は円魚の息子か。そういや、似てる)
 円魚の代表作の横に、作家の肖像写真がありました。最晩年の撮影らしく息子のような人目をひく秀麗さは見えませんが、長方形の顔のかたちやまっすぐで中高な目鼻立ちは、確かに似通っていました。何食わぬ顔をして駿男さんはその入り口を通り過ぎましたが、自分の肘をつかんだメグの手の力が、ぐっと強くなったのに気づいていました。
「おぼえてる? メグあの女の子」
「うん、もちろん」
 メグは心臓がどきどきしました。だって、駿男さんの幻視を通じて、今朝マヤと遭遇したばかりなんですから。
(ちゃんと影がある。あのときマヤには影がなかったのに)
 メグは横目で、小さいマヤの全身を見つめ、
父親の肘をぎゅっと握ったまま、そそくさと入場してしまいました。
 仁科円魚の作品は、伝統的な日本の花鳥画で、端正で乱れのない美しいものでした。おおまかに言えば、京都の四条円山派の流れを汲み、しろうとには馴染みのない複雑で微妙な師承筋はさておき、鹿香の旧家に生まれ、東京美術学校を出、いくつもの受賞、入賞の栄誉に飾られ、戦中戦後の波乱を経たのちは、つつがなく逗子で人生を閉じた、という略歴です。息子も画家となり、彼の作品もたくさん並べられていました。が、その絵は父の端正とはうってかわり、アクリルや油彩、コラージュなど、いろんな技法をよく言えば奔放、アナーキーに駆使したコンテンポラリーで、駿男さんの眼にも、父親と同じ路線を歩みながら、自分の個性を懸命に主張する天才二世の模索があきらかでした。
 円魚の穏やかな作品群で心を静めた風間親子は、息子の作品展示のひとつの前で、また棒立ちになりました。
MANA幻―まなむすめー
 と題された、小品の油彩でした。モデルは言うまでもなくマヤ。藍色の闇の中、低いベッドに横向きに眠っているマヤの頬からこめかみにかけて、ぱっくりと大きな洞が開き、そこから幼女自身のものらしい、ぽちゃぽちゃと未熟な手が伸びています。小さくてもその手はいろんなものをつかんでいました。
おもちゃ、人形、小銭(駿男さんは、コンビニで彼女がいきなり横取りしようとしたメグのつり銭を連想しました)、お菓子、洋服、猫や仔犬、小鳥、ハンバーガーや携帯電話、アクセサリー、本…子供のほしがりそうなありとあらゆるものが、しつこいぐらいの丁寧さできちっと描きこまれていて、いちいちの鑑賞が追いつかないほどです。それらはまるで、米粒に七福神を描く程の緻密とも思われ、円魚の息子は幼女の小さい手のなかに、いろんなオブジェをリアルに描き、作家の持つ、あらあらしいコンテンポラリーな試行とは別な側面を窺がわせました。幼女の握った手の指からこぼれたものがいくつか、砂利か、紙屑のように画面に散らばっています。そのひとつ、うっかりすると見過ごしてしまう紙屑めいたものが、今朝方幻視した、少女の抜け殻フィギュアだと、風間親子はじきに気づいたのでした。
「風間さんじゃないですか!」
 と斜め後ろから聴き覚えのある声が聞こえたのと、メグの肩がちょんちょんと軽く叩かれたのは、殆ど同時でした。
「あれ~峰元くん。それにえっと」
「シャワーです」
 涼しげなレモン色の袖なしチュニックをタンクトップに重ねたシャワーの横に、半歩体をひいて、タイジがにこにこしていました。メグの肩先に触って合図したのはシャワーの方でした。
「どうして、すごい偶然じゃない」
 駿男さんは、メイキャップなしでシャワーを目近に見るのは、これが初めてかもしれません。すこしウエーブをかけて、肩先で揺らしたナチュラルな髪がきれいでした。
(うわ、かわいいね。化粧と地顔の落差があんまりないよ、この子。すっぴんじゃないけど、素顔のほうがぼく好み)
 と駿男さんは自然と笑顔になってしまい、タイジのほうへは殆ど視線が向きません。
「たびたびコンサートに来てくださってありがとうございます」
「え、いいよ。ぼく歌好きだしね。美人も。でもまた君たち…」
 どうして、といいかける駿男さんの脇腹を後ろからメグはつつきました。ッタクモォ、とメグは、
「峰元さん画家だもんね」
「ん、そうじゃないんだけど、仁科ゲンは、ぼくの先輩筋なんだよね」
「ゲン?」
「あのひと。入り口にいたでしょ。仁科幻。ぼくの美大の先輩なんだ。直接の面識はないけど、講師でもある。準教授かな。それに」
 とタイジはそこでシャワーに話を譲りました。
「仁科さん、わたしの母の恩師なんです」
「え、え、わかんないぞ。あの青年が、あなたのお母さんの恩師で、峰元君の先輩なわけ?」
「いいえ、ゲン氏は、母の先生の息子さんです」
 シャワーの説明に、駿男さんはようやく、
「そっか。だよね、円魚の息子にしては若すぎると思ったんだ。てことはゲン氏は孫なわけか。でもシャワー、君のお母さんて」
「来てますよ。峰元さんとはちがうんですけど、母も美大卒なんで」
 あそこにいます、とシャワーは入り口で仁科幻を囲んでいる数人の中年女性客を示しました。その一人が、シャワーの視線に応えて顔をこちらに向け、軽く周囲に会釈してからこちらにやってきました。さらりとした風合いの織り目の粗い絣みたいなチュニックを着ています。デザインは娘とおそろいのようですが、彼女の短衣は薄い藍色に水色の絣が飛んだ生地でした。下に着ているものもタンクトップではなく、白くて襟ぐりのゆるい綿シャツです。髪型も似たりよったりですが、母親のほうがはっきりと明るい色に染めていました。眉を高く弓なりに描いたメイクも隙がないし、髪と顔だけならお母さんのほうが派手に見えます。
「お母さん、ほんと」
 と駿男さんは、それこそ正直に眼を剥きました。
(よく似てるねえ。うちのとメグよか、ずっとそっくり親子だ。おっかさんのほうが、多少化粧が濃いのは当然としても、姉妹にしか見えんぞ。いくつなんだ、この母親って)
「佐久間です。娘がお世話になっております」
「とんでもない。ぼくお世話なんか何も…(と少しへどもどする駿男さん)ただのファンです。美人風の歌声に癒されてるから、元気もらってるのはこっちです、むしろ」
「まあ、ありがとうございます」
 シャワーのお母さんは、娘の笑顔と同じように、頬に浅い笑窪をつくり、ぺこんと頭をさげました。そんな、どことなくこどもっぽい所作も母と娘はよく似通っていました。
「お母様も、アーティスト、ですか?」
「いいえ。いちおう美大出なんですけど、今は福祉関係です。手織りの布で、いろんな小物を作ってます」
「でしたね、たしかさきおり…」
「はい。それと自宅でデイサービスもやっていて、今日は日曜でお休みだから」
「ああ、それでタイジさんと?」
 と横からメグが口を挟みました。メグは、どうもパパとシャワーのお母さんのフィーリングがよすぎるので、割り込みたくなったのでした。
「そう、タイジさんにも、一度覗きに来てもらったことあるのよ」
 シャワーのお母さんは、お父さんに向けたのとちっとも変わらない柔和な笑顔のままメグに答えました。シャワーのお母さんは、メグの顔や、すんなりした小麦色の手足をまぶしそうに眺め、
「娘さんですか?」
「はい」
「いいですね」
「そうですか」
 そのあとちょっと会話が途切れました。で、タイジが気を使って
「せっかくだから、どこかでいっしょにお茶しません?」
 と水を向けたのでした。
「それじゃ、ゲンさんにご挨拶してくるわ。ちょっと待ってて下さい」
 シャワーの母親にタイジも続きました。彼に曳かれる感じで、そのまま皆ぞろぞろと仁科幻のほうに近寄っていきました。ギャラリー経営者でもあるタイジは、さっきシャワーのお母さんから作家を紹介され、母校の教職でもある、という二重の縁から、銀座の仕事に有利な筋道をつけられそうです。
 仁科幻は、案の定風間親子のことは忘れていました。父親のそばで退屈しきっているマヤは、メグを見ても顔色ひとつ変えませんし、
駿男さんに対しても無関心でした。けれども駿男さんは、やはりマヤから半透明な蜘蛛の網めいた放射を感じ、今朝がた垣間見た妖しい幻覚も思い合わせ、ただの通りすがりでこの親子から別れてしまうのが惜しくて……なぜ心が残るのか、惜しく感じられるのか、彼は自分に対して不問にしました……さりげなくシャワーの母親を介して青年作家に紹介してもらい、名刺交換にこぎつけたのでした。
 この日は、駿男さんにとって、いろんな意味で、あとあと思い出の深い日のひとつになりました。
シャワーのお母さんは、休日の混雑なのに運よく同じデパートの下の階に空席のあった喫茶店に入ると、ごく普通に名刺を差し出し、あたりさわりなく自己紹介をしました。名刺も、文字は印刷ながら、手漉き和紙のオリジナルと一目でわかりました。
 佐久間千草、と彼女は名乗り、
「自宅で、障害者の作業所とデイサービス両方やっているんです。作業所は主に織物や小物づくりで、デイサービスとは別フロアですが」
「広いんですね、ご自宅」
「そうでもないんですけど、設計した人が個性的な間取りにしてしまったので」
 おや、びみょうな言いかた、と駿男さんは千草さんの語気を察し、話を変えました。
「娘さん、早織さんもお母さんのお手伝いなさってるんですか」
「ときどきね。この子は手先が器用なので、くるみ釦なんか、きれいに作ってくれます」
 と会話の接ぎ穂に、千草さんは籠網のバッグの中からクリヤーファイルを出し、作業所の製品の写真を何枚か見せました。袋物、タピストリ、手染めのTシャツ、手織りの反物、スカーフ……どの品も女性向けで、駿男さんの興味の範囲外でした。ちゃんと承知している千草さんは、じきにファイルをしまい、
「よかったら遊びに来てください。原則日曜日はお休みですが、倫子ちゃんも、月に一度くらい、ボランティアコンサートしてくれるんです。これはデイサービスの利用者さんだけじゃなく、一般の方も歓迎しているサロンなので」
 と笑窪を作り直す感じでおさめると、そのあとはタイジやメグ、娘の早織に会話の流れを運ぶタイミングの手際よさに、
 気持ちを読むなあ…ずいぶん挙措の届いたひとだね、というのが駿男さんの千草さんに対する印象でした。
(いくつなんだろう。早織ちゃんみたいな大きい娘がいるんだから、三十代ってことはないはずなんだが)
 茶は楽しいものでしたが、帰り道、メグは黙りがちでした。車中では駿男さんの好きな彼の青春時代の海外ヒットポップスがメドレーで鳴っていました。
 あえて駿男さんもメグに話しかけようとはせず、流れる音楽といっしょに、ときどき鼻唄をうたっていました

スウィート・ハニー・スプリット 1

Posted by 水市夢の on   0 comments   0 trackback

  スウィート・ハニー・スプリット 1

 海開きも近い夜明けの海岸通りは、寄せてくる満ち潮の香りと、岬の森に集まる鳥たちのさえずり、真夏に向かって生茂る樹木の息吹が空を満たしていました。
「ミソサザイの声が聞こえるぞ」
 織都留浜から星月夜岬にかけてひとめぐり、それから藤塚に戻る早足のウォーキングに息切れした駿男さんは、自分より半歩先を行くメグに向かって声をかけました。
「ミソ…なに?」
 メグはふりかえり、足を停めました。娘が立ち止まり、にこっと自分に微笑んだ瞬間、ほのかに日焼けしたメグの小麦色の皮膚から周囲の青葉とよく似た、でもそれよりもっと濃い夏の汗の匂いが、ふわっと父親のほうに流れてきて、駿男さんはどきんとしました。
昨年の晩秋、交通事故に遭って骨折入院、それから事情を知る誰もが驚く速さで退院してから半年近く、メグはもうすっかり回復していました。年明けには学校に戻り、しばらく体育の授業をお休みしたくらいで、新学期には後遺症の気配もなく元気に過ごしています。九月七日の誕生日が来れば、メグは十二歳です。
桜の季節を過ぎたころから駿男さんは、娘の機能回復と、それから自分のヘルスコントロール目的で、早朝のジョギングを始めました。最初は十一月の県民フルマラソン出場という壮大な目標をかかげて、親子のモーチベーションはおおいに盛り上がったのですが、じきに軌道は修正され、マラソンはジョギングに、それからぶらぶら歩き、もといバードウォッチングを兼ねた海岸沿いウォーキングにおさまりました。目標がだいぶ小さくなっても、いちおう凝り性のパパさんは結構立派な双眼鏡を購入し、文庫より小さいハンディサイズの小鳥ガイドブックをウォーキングの際には、いつも持っています。
「どこにいるの?」
朝五時から六時にかけて、正味一時間強の早足に途中休憩なんて、メグにはぜんぜん必要ないのですが、肥満ではないものの、かなりメタボ傾向の父親を気遣って、毎朝どこかですこしお休みしてあげるのでした。
「あれさ、あの声だよ。ツピピ…ってさえずりを空に転がすみたいに鳴いてるヤツ」
「うぐいすじゃないの?」
「違うよ。ミソサザイの声はもっと勢いがあって早口なんだ」
「うぐいすはのんびり?」
「うーん。声と声の間で、うっとりしてる。わかるだろ、ボクの声ってなんてきれいなんだろホーホケキョ、ケキョケキョって」
「ナルシストなわけ?」
「名テノールだって自覚してるのさ」
「ホーホケキョって言い方、平凡すぎ」
「だって言葉で真似できないよ。口笛ならなんとかなるけど」
「で、ミソはどこにいるかわかる?」
「あそこらへんじゃない?」
 駿男さんは、適当に朝の空のどこかをめがけて双眼鏡を向けました。でも、潮騒混じりの森さやぎのどこにも、それらしい小鳥の姿はないのでした。貸してよ、とメグは父親の手から双眼鏡をとりあげ、さえずりの方角を探して、器用にくるりとレンズの焦点を合わせます。彼女の背丈は、もう駿男さんの肩よりすこし上に伸びていました。
(百六十センチ近いかな。退院してから、いっきにデカくなった感じ)
 つやつやしたセミロングの髪を無造作に束ね、汗ばんだ横顔から首筋にかけて、すっきりと整った印象が、亡き妻にうりふたつです。
(身長だけなら、安美さんともう同じくらいなんだ)
でも肩や腕にまだ肉付きはうすくて、ショートパンツからすうっと伸びた膝もふくらはぎも、まだ女性らしい丸みをおびてはいないのでした。それが駿男さんを安心させ、逆に見るもまぶしい思いもかきたてるのでした。
(若葉木洩れ日のまぶしさってヤツだね)
 駿男さんは娘から眼を逸らし、でも離れがたくて、メグが無心にからだを寄せてくるままに立ち止まっていました。
「わりかし地味めの子だよね、ミソは」
「ミソサザイだってば」
「あれでしょ」
 とメグはそこから少し離れた斜め上空の電線にとまっているモノトーンに近い小柄な子を、双眼鏡をかけたまま指差しました。
「え、見つかったの、ほんとに?」
「ナニソレ。パパまたでたらめ?」
「またってなんだよ」
「ミソはあそこ。喉を朝日に向けて反り返ってる。胸をはって」
 メグはパパの苦情を無視して小鳥に向かってそっと手を振りました。
「ぼくにも見せてよ」
 と駿男さんはメグの手から双眼鏡をもらって、小鳥の姿を探しました。でも、本音のところ小鳥なんか、いつだってどうだっていいのでした。
「パパ帰らないと。遅刻する」
「うん、でも喉渇いた。あそこのコンビニ寄ってお茶買ってきて。今日水筒忘れた」
 時刻は六時半を回っていました。親子の脇を早足で、仔犬を連れた半白髪の男性ウォーカーが追い抜いてゆき、その腰からぶらさがった携帯ラジオから、ラジオ体操の歌が聞こえました。
 夏の陽射しはぐんぐん昇り、同時に県道のアスファルトから心地よい程度の熱気も昇ってきます。それは、このまま梅雨の晴れ間が日中まで続くなら、あと数時間で酷暑にかわるかもしれない夏日の兆しでした。周辺に群がり咲いている紫陽花は、もうすこし色褪せはじめているのでした。
 メグは額の汗を手の甲でぬぐうと、はずしていたピンクと水玉のキャップをかぶりなおし、小走りにコンビニにかけてゆきました。
「どうせ帰り道なんだから、ずるしないでパパも来てよ」
 と呼びつけられて、駿男さんも娘のあとを追いました。
「アイスクリーム食べたいなあ、いい?」
「朝からなんだよ、肥るぞ」
「成長するの」
 しなくていい、と駿男さんはあやうく口走りそうになり、べそかいたみたいに唇をへの字にまげました。君、成長しちゃったら俺から離れていっちゃうんだろ。
 そんなせつなさが、きれいになってゆく我が娘を見るたびに、心のどこかをよぎってゆくのでした。このところ、まるで目に見える速さで伸びてゆく植物の新芽か若葉のようにメグの身長の伸びかたが早いのです。
(汗のにおいまできれいだ。ったく少女って生き物は、とんでもないね)
 桜並木の下のコンビニは、この早朝の時刻なのに数人の客がはいっていました。出勤前のサラリーマン、散歩途中の若い主婦、高齢者、それから……。
 メグはアイスボックスからこのごろ気に入っているストロベリー&ミントミックスのアイスクリーム、ついでに駿男さんにはクリーム抜きの小豆アイスを選んでレジに並ぶと、ちょうどパパさんが入ってきて、そのすぐ後ろから、七歳くらいの娘の手をひいた若い父親が続きました。三十代半ばくらいの父親は小脇に雑誌やら方眼紙やら、いろんな資料をかるくまるめて抱え、空いている手で、まだちいさい女の子の手をひっぱるようにしていぱした。父親が長身なので、女の子はどうかすると踵から床を離れ、握られている手から、ぶらさがってしまいそうに見えるのでした。
(お人形みたいな子だなあ)
 メグは支払いの順番を待ちながら漠然と感想を抱きました。
「メグ、これ」
 娘に千円札を手渡した駿男さんは、メグの視線をたどって、女の子を見ると、少し息遣いを変えました。
 へえ、と五十三歳の彼が無遠慮に目をむいてしまうくらい、まだ六、七歳のその子は可愛かったのでした。いえ、ごく普通にきれい可愛い、という形容から逸れてしまう印象でした。
 真ん中から二つに分けてそれぞれをピンクのリボンで結んだ薄茶色の髪はゆるい巻き毛で、そんな幼さでまさかパーマとも思えないので、きっと地毛が縮れているのでしょう。目鼻がぱっちりと明るく整っているのはシーラと同じなのですが、この子の顔だちに混血の気配はありません。肌は白くて日焼けもなく、夏服らしく大きく開いた襟ぐりと袖と裾に白い縁取り綿レースをいっぱい飾った濃いピンクのワンピースを着ていました。 
リップスティックを塗っているかと見えるくらい半開きの小さい唇は赤く、父親の手にぶらさがったまま、店に入ってくるなり、ゆっくりと周りを目だけで眺め渡し、自分に視線を注いでいる相手を探し出すと、髪の色と同じ薄茶色の睫毛ごしにまず駿男さんを見上げ、小首をすこし傾け、緩めた口許のまま、うっすらと笑顔になりました。それからメグのほうを見て、こちらにもいちおう笑顔のままでしたが、駿男さんに投げかけた網のような情緒は消えていました。
女の子の眼と自分の眼がぶつかったとき、駿男さんは、ちょっとぞっとしました。その一瞬、彼は自分の鼻先に呼吸を吹きかけられたような気がしたのです。
ごく自然な足取りで、父親はすたすたとコピー機に向かい、機械の操作を始めると、父親の手を離れた女の子は、ゆらゆらした足取りで店を一周し、レジ前に来ると、ちょうどアイスクリームの代金を払い、おつりをうけとろうとしていたメグの前に入り込み、メグを見もせずに、無造作にレジ台のつり銭をつかんだのでした。
「え、それ、あたしの」
 店員とメグ、駿男さんの眼の前で横取りの仕草はまったく自然でした。店員はあっけにとられ、半信半疑の顔つきで、
「妹さんですか?」
 とメグに尋ねたほどです。メグは首を振り駿男さんは絶句していました。
「あ、こらっ、マヤちゃん、だめでしょう」
 事態に気が付いた父親が、すこしあわてた口調でコピー機から離れて飛んできて、娘の手から小銭をもぎとってメグに戻し、痩せた背中をまるめてひょこんと頭をさげ、
「すみません、この子ったら」
「君の娘さんなの?」
 駿男さんは青年をしげしげ見つめました。
(似てないな。この青年も白皙ビセイネンだけど)
「ええ。ぼくの娘です。すいません、へんな癖があって」
「癖?」
「はあ」
 青年は青白い面長の顔に、曖昧な微笑を浮かべました。言葉では謝っていても、ちっとも悪びれていないのでした。
(もの心ついた子供が、他人のつり銭を白昼堂々と盗んでおいて、それを癖とかなんとかで言い訳できるレベルじゃないぞ)
「いつもやるの、この子」
「ん、さあ、どうかな…」
 青年は切れ長の眼を忙しく左右に動かし、白い歯並びを見せてばつが悪そうに笑いました。駿男さんはその肩ごしにコピー機のほうを眺め、機材の周囲にひろげっぱなしの資料を見ると、動物や恐竜、ヨーロッパの古城、それから昔の城郭の設計図といった、何種類もの雑多な図版が重なっていました。
「パパ、もう帰らなくちゃ」
 メグは時間を気にして駿男さんを促しました。
「アイスクリーム、溶けちゃうし」
 うん、と駿男さんはうなずき、この二人に向かって青年はもういっぺんかるく、それこそ会釈程度に頭を下げました。
 メグと駿男さんが、はぐらかされた気分のままコンビニを出ると、すこし梅雨雲の集まりかけた薄い陽射しの下に、いつのまにかさっきの女の子が出てきていて、黙って駿男さんに向かって小さいてのひらをみせて、合図しました。いえ、きっと、サヨナラ、と手を振ったのですが、駿男さんには、それがまるで「またね」と再会をねだっている彼女の合図のように感じられたのでした。
バイバイ、とメグも女の子に手を振って返しましたが、駿男さんとは別な理由で、メグは眼をまるくしました。
 雲を通したうす翳りとはいえ、真夏の陽光に、光と影の境目のくっきりと際立つ世界で、女の子の足元には影がありませんでした。
白茶けたコンビニ前の駐車場のコンクリート面に、女の子は絵から抜け出した画像のように、濃いピンクのワンピース姿で浮きあがり、地面だけではなく彼女の姿のどこにも陰影の起伏がないのでした。肉体なら肉体、衣装なら衣装の作るいっさいの影を消して、あどけない美少女は微笑していました。
「パパ、あのマヤって言う子…」
 と言いかけて、自分の驚きと違和感をうまく表現できずにメグは口ごもりました。
「ケイコクの美女、栴檀双葉って言うんだ」
「なにそれ?」
「末恐ろしい美少女ってこと」
「そんなにスーパー美人になる?」
「顔やスタイルだけじゃないんだ」
(パパ、気が付いていない)
 駿男さんの眼には、この小さい女の子がごく普通の子に見えている、とメグは察し、そのいっぽうで、自分の視覚にはやはり彼女が、影のない平らな画像のようにしか映らないのをもういちど確かめました。
 コンビニの扉が開いて、父親が出てくると、娘につられるかのようにメグと駿男さんに向かって手を振りました。彼の体には、ちゃんとそれなりの陰影があり、また地面には影法師がくっついています。影のない幼女と、影を持つ青年が並んで立つと、まるで女の子は奥行きのない一枚のポスターのように陽炎にまぎれ、夏の風に吹かれて飛んでいっていしまいそうでしたし、青年のほうは、黒々と重く、そこにぽっかりと空いた、底の見えない人型の穴のようにメグの視覚には移ったのでした。
 
 大柄な青海波を濃朱で縁取りした絽の総模様の振袖の片方を肌脱ぎ、黒地に金の宝尽くしの細めの踊り帯を背中でわざと小さめの男結び、こんな破格に帯締めなどはいらないのですが、それはもう舞台衣装ですから、ガーネットは見た目の華やかさで貝の口の真ん中にきゅっと一筋、子羊の皮を細い三つ網にし、朱のエナメルを塗った紐を通しました。振袖の下は、総ラメにこまかなクリスタルビジューを織りこんだヌードカラーの全身タイツです。長すぎる裾は膝上で惜しげもなくすぱっと切り落とし、下半身は爪先までぴっちりと、やはりラメを散らした鮮やかな朱色のタイツをはいています。
筋肉質ではなく、そうかといって骨が浮いて見えるほど痩せぎすでもない脚は、ダンサーとしてはそれほど長いわけではないのですが、いかにも骨細なやわらかさが感じられて目に快く、丹念に鍛えこんだガーネットのボディラインは、遠目には崩れも見えず、肩肌脱いで衆目にさらす二の腕から脇腹にかけての曲線もうっとりと優美でした。髪はジェルをつかって固めにまとめています。もともと小柄な体格なので、こんな時代衣装をまとうと、女装した美少年のようでした。
 伴奏は息子の豹河、それから美人風のリンス。この二人は合奏ではなく交互に、それぞれ自分の好きなピースをランダムに吹きまた歌う、というかけあいでガーネットのムーヴメントを支えてゆきました。
 銀座久我ビルの地下劇場で、四季にいちどの吉良ガーネットのダンス・パフォーマンス、
今回も踊りはソロなのですが、豹河の友人の若手ネットデザイナー、という不思議な自称のアーティストの実験にもつきあっていて、ごたごたしたオブジェをいっさい置かないたっぷりとした舞台の背景には、白色のスクリーンが空間いっぱいにめぐらされ、踊り手と伴奏者の周囲には、絶えずちかちかきらきら光る極微粒の霧が、沈むともなく浮かぶともなく漂っています。
 静と動の境目で、地唄舞のようにねっとりとムーヴメントを動かしてゆくガーネットの周辺で、金銀の霧雨もいっしょにあわあわと流れてゆくのですが、やがて豹がドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」を吹きはじめると、そのこまかな霧は、ガーネットの舞の袖にあおられるよりもいきいきと躍動しはじめ、肉眼にはっきり見える規則正しい揺れかたでスクリーンに散ってゆき、ヒョウガの奏でる音のつらなりの速度と正確に呼応しながら、純白のスクリーンに、雪の結晶によく似た巨大な金銀混じり六角形の模様がくっきりとプロジェクションされました。
 満員の観客の、ため息ともどよめきともつかない声が、劇場にあふれます。
「ありゃなんだい」
 客席の一番うしろで、どういうわけか今夜は立ち見のジンさんは、横のタイジをつついてささやきました。
「しっ! あとで。今上演中だから」
「かたいこと言うなよ。君知ってるんでしょ」
 ジンさんは(いちおう)周囲に気兼ねするフリをして、タイジの耳に口を寄せてねだるのでした。このごろ禁煙目標を掲げたジンさんがひっきりなしに噛んでいるミンティアと、くしゃくしゃ髪にすりこんだオー・デ・コロンの匂いにむせて、タイジはあやうくくしゃみをしそうになりましたが、どうにかこらえ、例によって言い出したらきかないジンさんの大人子供ぶりに顔をしかめ
「(しょうがないなあ、ちっ)倍音を可視化したものらしいですよ、ぼくもよくわかんないけど」
「バイオン? バイリンガル? バイセクシャル、へゝゝ」
「やめてくれ~って言ったでしょ。みんなが迷惑するよ」
「きみの怒り声のほうがデカイぜ」
 ジンさんはへらへらと言いぬけ、ようやくうれしそうに口をつぐみました。
(このおっちゃん、俺を怒らせるのが目的なんだよな。誰に対してもこうなのかよ、そうだよ、きっと)
 タイジは憮然として舞台に視線を戻しましたが、眼は無意識に、そこから少し離れた客席の中ほどに座ったシーラへ流れ、それから最前列のいちばん隅にちょこんと腰をおろしているシャワーをたどりました。タイジの眼はシャワーからもういっぺんシーラに返り、
(髪が伸びたみたいだ。毛先だけ金髪やめたんだな。黒髪のほうがシーラさんらしい…
バイセクシャルだって? ジンさんめ。わかってたんだろうに。なにがへゝゝだよ)
周りにどんなにたくさんの観客がひしめいていても、それこそ彼女だけが独得のオーラに包まれているかのように、タイジはすぐさまシーラを見つけ出すことができるのでした。
(どうしてこんなに瞬間キャッチできるんだろうな。シーラならどこにいても、何を着ていても、すぐにわかる、感じられる、ここにいる、そこにいるって。だけどシャワーを見つけ出すのには、ちょっと手間取るんだ。かわいいけど、普段着だとそんなにめだたないから?)
 ちがう、とタイジの喉の奥がひりひりしました。
 豹は牧神のおしまいまできちんと吹きおえず、演奏はどこかでぶつっと切れて、リンスのア・カペラに交代しました。歌詞はなく、母音のAとOの中間くらいの音で、日本人ならどこかで必ず耳に入っている民謡のピースを、力まず、すこし低い声で歌います。それでもリンス独特の声の透明感は変わりませんでした。そうすると背景のスクリーンに映し出された巨大な六角形の映像は光る砂がいくつもの磁石にひきよせられるかのように分裂してゆき、亀甲か麻の葉模様に似た、すこしこまかい小紋になり、またすぐにさらさらと図形の縁から崩れて、再びひとつにまとまり、豹の笛の音の投影とはまた違うけれど、やはり六角の丸みを帯びた巨きな結晶がガーネットのうしろで月光の輪のように輝きました。
(風紋ならぬ声紋だわ)
 シーラはほっそりしたリンスの周囲を飾る、イコンの画像に描かれた光背さながらの、六角形プロジェクションの連続に見惚れました。そうすると、記憶のどこかから、いつだったでしょうか、母親に手をひかれて、ウフィツイ美術館でコレッジョやラファエルロ、リッピ…建築設計図に等しい精確なコムポジションにしたがって画面に描きこまれているために、時間も空間もがっちりと、聖なる瞬間を封じ込めて凝固したような聖母、天使、キリストの姿たちを見つめたときの、半ばおびえに似た感覚がふとよみがえってきたのでした。   
あのとき自分の手を握っていてくれたのはヴィオレッタだったろうか? それとも育ての親の修道士ダヴィデだったろうか……。詩人で画家の聖職者ダヴィデ。故郷イタリアはユカリにとって蓋をかぶせたい何かがあり、でもヴィオレッタとダヴィデとは、数少ない心のよりどころのいくつかでありました。
すこしも帰りたいとは思えないけれど、ときどきひどくなつかしい場所。柔らかく暖かく、それでいて背筋が冷たくなるほど疎ましい何かがイタリアにまつわっていて、それではユカリはすっかり日本に帰化しているのかと自問すれば、この亜熱帯の、おおむね温厚で律義な文化を守っている島国にも、なんとなく、どころか、ある部分ではまったくなじんでいない、という応えが胸の奥から返ってくるのでした。
(どっちだっていい)
 すこしばかり投げやりで、ひやりとした自意識が、ユカリのアイデンティティの根っこにあるのでした。男だって、女だって、日本だってイタリアだって……根無し草はそもそもデュランテ・スクリヴァの伝統じゃないか? 開祖はスペインからローマに来たんだそうだ。それからアビニヨンへ。
リンスの歌う日本の民謡は単調でものがなしく、ときおりヴィオレッタが口ずさんでくれた、フラメンコ・カンテの旋律によく似た感情をかきたてるのでした。
 リンスも自分の歌を途中でふっと止め、豹河とは違い、彼女はごく自然に笑顔を観客席に向けました。クラシック演奏家のステージ衣装のような濃いブルーの正装ロングドレスを着ていて、サテンの光沢のあるドレスの、たっぷりとした裾拡がりのうねに添って、こまかな金銀の倍音粒子が撫でるように波を描いてゆきました。ちょっとクラシカルに気取っていても、ファンのために、彼女は化粧も髪型もやっぱりゴスロリ=ドールスタイルです。豹河は上半身ほとんど裸で、下半身は母親を意識してか黒のたっつけ袴です。セミヌードなのですが、彼は首や腕に、アジアや中近東産らしい長短さまざまいろんなギルランダ(装飾)をしていて、今夜は豹柄の金髪をくるっと頭頂たかく、ひとつに結い上げているせいか、興福寺阿修羅像のようでした。フルートを吹くとき、ちょっと気難しげに眉根を寄せる癖も、天平彫刻に刻まれた少年たちと同じ表情でした。
(メグはパパと来てる。ほんと仲いいね)
 シーラよりまた少し前の列に並んで腰掛けた駿男さんとメグの二人連れ。開演まえにちらっと挨拶を交わし、シーラを見てうれしそうに笑ったメグの瞳のなかに、シーラは思わず……自分に対する特別な感情を汲みとろうとしたのでした。メグのなかみには、相変わらず、シーラからは触れることができません。レノンが遮っている、とわかっていても、いらだたしくあらあらしいもどかしさが、メグに逢うたびに増してゆくのでした。
(がきめ、化け物め。力ずくでひきずりだしてやりたい)
 そんな攻撃的な感情が、シーラの血を怒りから違った種類の激情に染め変えてしまうかもしれない、という機微を、レノンは予測しているのでしょうか? シーラは、世間的なまなざして測るなら、たぶん性同一性障害ということになるのでしょうが、彼女=彼の成長は、あきらかに右肩あがりに少年から青年へ猛スピードで変化してゆく季節にさしかかっているのでした。メグが幼女から少女に、それから、いまはまだ気配でしかないけれどある朝ふいに露をうけて、ゆったりとひらく花弁を体のなかで育てている、葉っぱとも花ともつかない不思議な生き物であるように。
 可視化された音の結晶画像とダンスのコラボレーションのフィナーレは、それまで交互に演奏していた豹河とリンスの合奏で締めくくられました。といっても豹は彼女の伴奏ではなく、彼のきっと一番好きな数列による即興演奏で、これはリンスが何を歌おうと、決して不調和になることはなく、また彼女の歌を下支えするわけでもなく、どこまでもナチュラルで透きとおった音色のリンスの歌のうしろを、風か、雨か、樹々のざわめきが一本の黄金のフルートからこぼれでるように、つかず離れず、聴くともなく響いてくるのでした。
ガーネットの後ろに展開する結晶はソロ演奏が合奏に変わったからといって、そのくっきりした六面体の調和をゆがめることもなく、
鋭角と鈍角、きらめく枝角は、金と銀だけの万華鏡のように画面いっぱい大小さまざまにかたちを変え、その速度だけははっきりと豹の笛の緩急につれて変化してゆくのでした。
(このまま空に浮かび上がってしまいそうだなあ)
 とメグは感じていました。耳から入ってくるものと、視覚として感じられるものの境界が、彼女にはもともと曖昧なので、たぶん、その晩来場した人々の誰よりも、はっきりと、聴覚と視覚の融合を試みたネット・デザイナーの思惑どおりに反応したのでした。タイジはメグの特異な感受性とは程遠いとはいえ、やはりちゃんと、この演出の意図を察して
(へええ。これって表面ガーネットさんをたてはいるけど、実は主役は演奏でもなくってこの場かぎりの時間と空間なんだよな。おもしろい。誰なんだろう。音楽って時間を染めてゆくものだもんね。ガーネットさんのことだから、それわかってるんだろう。けど、すごいきれい。あのキラキラ、ほんとに音の粒なのかな?)
 と、健康な判断で鑑賞していました。
パフォーマンスは大成功で、終演後、何度となくガーネットは舞台にひっぱりだされ、客席の喝采に笑顔で応えました。アンコールピースに、豹河とリンスは、趣向をがらりと変えて、ポピュラーソングをいくつか演奏し
その中には美人風のオリジナルも当然入っていました。大御所ガーネットはきりのいいところで楽屋に引っ込みましたが、リンスや豹の若いとりまきは、なかなかアイドルを放そうとはしないのでした。
「シーラさん、おひさ」
 立ち上がった客波をかきわけ、タイジはやっぱり一番最初にシーラに声をかけました。だってそうしないと、あらかじめ約束しているのでもない限り、彼女はあっというまにどこかへ雲隠れしてしまうかもしれないからです。
 シーラはタイジに気づくと、無言で屈託のない笑顔を向けました。
「ミネさん、もしかして痩せた?」
「さあ、どうかな」
「顔がほそくなったみたい」
「温泉入ってもなおんないからねー」
 といつのまにかタイジのうしろにジンさんがぴたっと張り付いていて、茶々をいれました。タイジの顔にいっきに血が昇りましたが、シーラはぜんぜん平気で、
「ジンさんこそ日本中の温泉入りつくして、このごろドイツまで遠征してるって?」
「ゲ、シーラさん耳早い。バレてんの?」
「あてずっぽうだけど、図星か」
 ジンさんは舌打ちして背中を向けました。
「何だって、ドイツがどうしたの?」
「あたしおしゃべりじゃないからよしとく」
 すげなくタイジの問いをかわしながら、シーラはおもしろそうにタイジの眼のなかを覗くのでした。庇うのか、からかうのか、なによりシーラの瞳にこころの底まで探り取られそうになり、タイジは眼を逸らしました。
(こいつ、なんでこんなにきれいなんだ)
 とタイジはくやしまぎれに、内心シーラを〈こいつ〉なんて呼んでみました。
シーラは質感の違う二枚の布を、ざっくりと片方ずつの肩から斜めに巻きつけた白い無地の袖なしを着ています。穿いているのは日本の夏の着物の紗合わせに似た、二枚重ねの半透明な黒い生地に、金糸でこまかいボーダーを丹念に縫い取りした、民族衣装ふうのパンツで、足首のすこし上のあたりを紅色の組紐できゅっと締めていました。サッシュベルトは中近東アラベスクを金糸で縫い取りした緑の絹。豹のギルランダと同じような金銅の飾りを、首にも腕にも、それからアンクレットもしていて、これはこれでそのまま舞台に上げたい姿でした。
こんなシーラの姿を見ただけで、彼女は今夜豹と行ってしまう、ということがタイジにはわかりました。胸のチクンとする刹那でもありましたが、こんな経験に、もうだいぶ慣れてしまっているので、そんなにがっかりはしませんでした。
「忙し、そうだね」
「ええ。商売繁盛」
「商売? 何の?」
「サービス業に近い。ミネさんと同業か。福祉じゃないけど」
「君学生じゃないの?」
「アルバイト」
「だよね」
「今夜、ガーネットさん打ち上げするの?」
「しないと思う。だったら初めに連絡くれるから。ミネさんは?」
「ぼくは」
 とタイジが言いかけたところに、メグが寄ってきてくれたので、タイジはほっとしました。嘘をつかずにすんだので。もしかしたらシーラをまじえてみんなで夜食くらいたのしめるかも、と期待したので、彼はその晩フリーでした。でも豹と行ってしまうことがはっきりわかっているシーラに、「自分は今夜何にも…」なんて口惜しくて言えません。
 背丈だけなら、もうじき自分に並んでしまいそうな手足のすらりと伸びたメグを見て、タイジは驚きました。
(え、この子こんなに大きくなったの。まだ小学生だったよね。めちゃきれいになった。全国美少女コンテストエントリーできそう。前からかわいかったけど)
「風間さん? 見違えちゃった」
「そう?」
「そう。大きくなったんで」
(そう? なんて返事じたいが色っぽいよ。なんか去年の暮れまでこの子、シーラさんに手をひかれて、そこらへんでアイスクリームうれしそうに舐めてたお子様だったよ)
「パパさんは?」
「パパはね」
 とメグがうしろをふりかえったとき、劇場の出口から久我ビルのエントランスにかけて、異様なざわめきが走り、劇場から帰りがけの客足がぴたっと止まりました。
「サイレンだ。救急車じゃない?」
 シーラが人波の向こう側を眺めすかしてつぶやきました。遠くで、声を抑えているのに怒鳴るような奇妙な叫び声が聞こえました。
とびおりだとよぉ
 がくっ、と膝のうしろ、ひかがみを誰かに蹴飛ばされ、危うくシーラはそのまま前のめりに転びそうになりましたが、そうではなく、いきなり強い力で虚空に宙吊りにされたのでした。いえ、宙吊りでもありませんでした。
 誰かが、何かが彼女を鷲づかみにして、劇場から違う位相に引き出したのでした。両足から重力がなくなっている感覚がそれを教え、シーラは最初の衝撃をこらえると、冷静に辺りを見回しました。
「シーラさあん」
 声といっしょに、すぐ傍ですくんでいるメグを見つけました。メグは蒼ざめて、自分の両腕を体の前で組んで、なんだか寒そうに震えているみたいです。
「ここどこ? パラレル?」
 暗闇よりもややうすぼんやりとした淡墨の空間でした。あたりにすし詰めだった観客の気配が、この希薄で手ごたえのない闇のなかでどことなく感じられ、彩りを消した影のなかを、質量をうしなった、紙のように薄い人体の輪郭が幾重にも右往左往しています。
 とびおりだとびおりだとびおり……
 きゅうきゅうしゃ
 まだこども
 なんで?
 知るか
 ……号室に遺書があったって
 ざわめきを伝って飛び交っている声だけが、わりあいはっきり聞こえました。
 メグの視覚に見えるものも、シーラと同じでした。真っ暗闇のなかで、シーラと自分の姿だけがはっきり浮かび上がっています。今の今まで、舞台の熱気醒めやらぬ久我ビルの地下劇場にいたはずなのに、ここはどこ?
「人声だけ聞こえる。メグはどう?」
「うん。でも誰もいない」
「いないんじゃない。ここは現実の裏側。ていうか、誰かの心象風景に、いきなりひっぱりこまれた」
「誰の?」
「自殺したこどもの死に近い景色だろう。彼にはもう視覚がない。でも、まだ心が残っていて聴覚だけはどうにか生きてる。そこにあたしたちがシンクロしてる」
 シーラは肩や首を左右上下に動かし、自分が金縛りにあっているのではないことを確かめたとき、ふたりのすぐ前に、半透明の白っぽい影が、すうっと現れました。影はふたりのそばまで漂って止まり、その部分だけネガとポジを反転させて作った十九世紀末の人工心霊写真のようにとらえどころのない姿ですが、痩せた十四歳くらいの少年です。学生服を着ています。少年は無表情にシーラとメグをかわるがわる眺め、
「ボクは死にたかったんだけど、こんなに早くするつもりじゃなかった」
 とぼんやりした声で話しかけました。
「もう死んじゃうんだ。もう何も見えない。最後の瞬間、君たちだけが見えたんで……」
 どん、と背中を揺さぶられてメグが我に返ると駿男さんが血相かえてメグの両腕をつかんで揺さぶっていました。
「メグ大丈夫?。貧血だな、じっとしてて」
「ここ危うく酸欠過密状態だから、撤退したほうがいいよ。裏口教えます、風間さん動かせる?」
「うん助かる。キショー、なんだってこんな晩に自殺なんかしやがるんだ」
 と我が子可愛さの暴言を、パパがつい口走りたくなるのも、まあしようがないことでしたが、メグはシーラの姿を眼で追って、シーラはかるく首を振り、もの言いたげなメグの言葉を塞ぎました。
「もう搬送されたみたいね。落ちたところは久我ビルのエントランスの近くみたい。このぎゅうづめは野次馬かな。ふだんならこんなに人だかりはしないのに、ほんとにあいにく客出しとカチ合って、騒ぎがひどくなっちゃったんだわ」
 髪をかきあげて遠目に測るシーラの口調には、すこしも乱れがありませんでした。
「シーラさんは」
「楽屋へ行く。ミネさんメグをよろしく」
「ぼく要るかな?」
「要るよ。駿男パパ、ぎっくり腰だからね」
 ホント? とタイジが聴き返すのを無視して、シーラはそっとメグの額に手を置き、彼女のなかを覗こうとしたのですが、湿り気を帯びた少女の皮膚のなめらかさだけが、てのひらの内側を伝わり、シーラの長い睫毛のゆっくりとした瞬きには、何も映らないのでした。でも、メグのほうからシーラに尋ねる声は、はっきりと聞こえました。
(あの子、死んじゃったの?)
 シーラは微かに顎を上下させてうなずきました。そうしないと、自分の心の声がメグに伝わるのか不安だったからです。そして自分からメグにシンクロすることが、レノンのせいでできなくなっている、という事態を、シーラはまだメグに明かしてはいないのでした。
で、駿男さんはというと、シーラとメグの様子をじっと眺めて、ごく単純に
(あー、ウラヤマシ)
 さっきまでの腹立ちはどこへやら、すっかりタレ眼になって、内心つぶやいていました。
(ぼくが貧血起こしたって、シーラさん撫でてくれないもんねー。ぼく今だけメグになりたい)
 彼は正直なので、娘が命に別状なく怪我もなく、ただの貧血で、しかも自分の腕のなかでひっくりかえっている現場でなら、シーラに対してこんな感情を抱くことに、ちっとも悪びれませんでした。
「風間さん、立ち上がれますかあ」
 とタイジはしらけた顔で、上から無遠慮に駿男さんを覗き込みました。
(んとに脳天気なひとだね。シーラさんにやにさがっている場合じゃないだろって)
「はいよっ」
 と返事だけは元気よく、娘を御姫様だっこでスクワットポーズのまま膝を伸ばそうとしたところが、シーラに見とれてボーっとしゃがんでいた時間の分だけ、脚はすっかり痺れてしまい、うまく立ち上がれずによろけて、抱えたメグごとあやうく転びそうになり、すぐさまタイジにひきあげられました。
「ね? ミネさん、あとよろしく。あたし楽屋に行くから」
 またね、メグ。近いうち連絡する、と口に出して伝え、シーラは人知れず苦い感情を飲み下すときの薄い微笑を浮かべました。
(このガキ、いつか削除してやる)
 レノンが、シーラとメグとのシンパシーに横槍を入れてしまったために、シーラの心からはいつのまにか、「メグは自分から離れて一人立ちしてゆく」という最初の穏やかな筋書きが、すっかり消えていました。
 タイジに助けられて立ち上がったパパの腕から、メグはするりと抜け出して、
「あたし、もう歩けるから」
「…うん」
 と駿男さんは、すこしがっかりしましたが、出口の混雑はいっこうに収まりがつかず、警察のサイレンやら、ワンサ整理のおまわりさんの高声などが次々に聞こえてくるので、ここはともかくタイジの指示どおり裏口にまわろうとしました。
「あれ?」
 と額に滲む大粒の汗を手の甲でぬぐい、またすぐに駿男さんは足を止めました。シーラが向かった楽屋のほうに、見覚えのある青年が立っていました。楽屋入り口はパネルを重ねた隠し階段になっていて、今さっきシーラが入っていったその壁の合わせ目近くに、ぼんやり、という形容がぴったりな雰囲気で立っている、派手な赤いアロハシャツに黒い麻のジャケットを重ね着した青年は、まるで駿男さんの視線を感じ取ったかのように、周囲の人だかりの中に埋もれて見えなかったちいさい女の子を、たぶん自分の足元から抱き上げました。
白地に、紺のラインの清楚なセーラーカラーの袖なしワンピースを着た幼女は、父親の胸にしがみつき、握りこぶしをつくり、そのぽっちゃりした手の指を人差し指からひらいてゆき、ピンクの舌をはっきりと外に見せて、それぞれの指先をちらっ、ちらっ、と舐め始めました。女の子の目鼻だちの並外れた鮮やかさは、群集の中で遠くから改めて眺めると、先日、早朝にコンビニで見かけたときよりずっと際立ちました。
 女の子は、ひどく熱心に、自分の両手の指を一本ずつ口に含んでいるのでした。それはまるで、とてもおいしいものを手づかみで食べたあと、指に残ったその味を、名残惜しげにしゃぶっているかのようでした。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。