さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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中世夢幻 其三 辻が花

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 其三 辻が花

そっちは西のしまじゃないわ、と険しい声にとがめられて、酒の瓶子を捧げ持った宝珠が振り返ると、一目で遊女とわかる派手な小袖を着た数人の、はっきりこちらを見下す視線とぶつかった。
「お座敷に参るのは東と決まっているの。あんたは西の女でしょう」
 裏の階から、酒席のしつらえられている広縁にまわろうとした西洞院地獄が厨子の女どもに向かって、人もなげな口調で言いかかる。
「芸を御所望というので招ばれたんだ。今夜は無礼講だろ」
 地獄が厨子の遊女たちの先頭に立った紅鶴が低い声で言い返した。その落ち着き払った声音に、東洞院の遊女は気圧されたように言葉を呑んだ。
 五条近辺にたむろする遊び女の世界にも厳しい階層があった。中でも、東洞院は「大名高家のほかへは出」ぬ高級娼婦の街である。下克上の時勢、落ちぶれた武士また公家の子女たちは、こうした遊び女になるしかなかった。
 これには足利三代将軍義満の専制も一因をなしており、彼は己が意に従わない臣下を容赦なく断絶した。朝廷貴族に対しても同様で、それどころか武門以上に過酷な処置をとった。義満によって排斥された公家には西園寺実俊、久我具通、葉室長顕など、足利氏など比較にならぬ由緒古い名家の面々もいた。彼らは武家の義満に追従するのを恥とし、彼の逆鱗に触れた。圧倒的な武力財力で天皇を押し退け「日本国王」を自認する義満は、彼の王権に逆らう朝廷貴族が、どれほど名門であろうと粛清に容赦はしなかった。
東洞院には、こうして没落した貴種の末が流れ着き、すぐれた才色によって権門の寵愛を得る者も多かった。義満晩年の愛妾となった高橋殿も東洞院の遊女だったのである。
「あなた紅さん?」
 東の女の一人が、呼びかけた。なれなれしく、それでいて侮蔑のこもる声だった。
「あたしが今参りだった頃、紅さんは東で売れっ妓だったわねえ。まだこどものあたしなんて覚えていないでしょうけれど。今夜は紅さんが歌うのねえ、昔はほんとにいい声だったそうねえ」
 言葉のおしまいをねっちりと伸ばす女は、肉の厚い胸元を反らすように紅鶴を眺め下ろし、意地の悪い笑顔をつくった。が、紅鶴はすこしも怯まない。
「赤松さまは、昔からの御贔屓だ」
 ひくい声で紅鶴は居直った。丹念に塗りこんだ白粉の下で、彼女は怒りに顔をこわばらせているのかもしれない。紅鶴の全盛期を見たという東の遊女は、東から西へ落ちた紅鶴をあからさまにさげすんでいる。この女は見たところ宝珠と同年輩で、だとすると紅鶴はもう三十半ばを過ぎているのかもしれない。遊女ならずとも、古代の女としては、はっきり「さだ過ぎ(盛りを過ぎた)」の年齢である。今夜の仕出しのために、紅鶴は他の遊女たちの倍の時間をかけて化粧した。もとの顔立ちが整っているので、念入りに盛装した紅鶴の容色は東の女に勝るとも劣らない。それが相手の癪にさわるのだろう。
色街の女の年齢は堅気とは違う移り行きをする。肉体の窶れは容色の衰えと一致しない。肌が皺ばみ唇が褪せても色香は残る。だが、その色香はときに無惨なものであるかもしれなかった。この時代の白粉は水銀を原料としていたから、塗れば塗るほど女たちの皮膚は水銀中毒に焼け、ときには醜い爛れとなり、健康を蝕んだ。
「まあ、あなたが有名な紅鶴?」
 紅鶴の前で黙ってしまった朋輩に代って、横から別な女がまた言いかかった。
「先代の大樹(将軍)に可愛がられたとか。あなたが西にいたなんてね。どこぞのお大名に迎えられたとばかり思っていたわ」
 厭味たらたらの台詞を、もう紅鶴は無視し、
後ろに立ちすくむ地獄厨子の仲間たちに向かって顎をしゃくった。
「行こうよ。殿がお待ちかねだ」
 西の女どもは東洞院の剣幕に圧倒され、紅鶴の背中に隠れるように身を縮め、一列に並んでついてゆく。宝珠はひそかに舌打ちした。
(意気地なし、なによ)
 背筋を伸ばし、また両膝を少しかがめて衣装の裾をさばき、作法どおり美しく歩いているのは先頭の紅鶴だけだ。他の女たちはすっかり気後れし、こそこそとした足取りもおぼつかない。なるほど東と西では女たちの容色衣装に格段の相違がある。東洞院の女と張り合えるのは、まず宝珠くらいだろう。しかし彼女も新参で、大名高家の引き立てをいただく出世前ときては衣装がいささか見劣りする。
それでも、ぱっと目立つ宝珠の器量は、東の女の嫉みをそそったらしく、すれ違いさま、これ聞こえよがしに仲間どうしでつつきあい、
「婆と田舎娘が」
 宝珠はすかさずつまづいたふりして、手に捧げ持った酒瓶をかたむけた。どろりとした濁酒は、東の女の派手な辻ガ花の衣装に飛び散り、相手は金切り声をあげかけ、そこは場所柄、血相変えたが、ぐっと喉元で抑えた。
宝珠はぬけぬけと、
「あらまあ、田舎住まいの今参りが、お東の上臈にとんだ粗相をしでかして。堪忍してください」
 べたべたした白粉の額が、一瞬てらっと光って見えるほと相手は逆上したが、ちょうど折りよく、世話役の小姓が女どもの参上をせかしにやってきて、小競り合いは打ち切られた。
「よくやるねえ、あんた」
 西の女のひとりが宝珠の大胆に眼を剥く。
「たいしたもんだよ、若いのに」
「東も西もあるもんか。どのみち地獄、なによお高くとまってさ」
 宝珠はささやき返し、西の女どもはつられて笑った。どのみち地獄、そうねえ。
  地獄極楽紙一重
  主が来る夜はかりょうびん
  天上天下花ぞ降る
  さて花のふるさととなりぬれば
  来ぬ夜あまたのあらかなしや
  さて鬼となりはてて
  牛頭馬頭(ごづめづ)ひしひし
  なうなう 慕はしや、あな憎し
 紅鶴は小声に口ずさみ、なるほど、抑えてはいても節回しの巧みに宝珠は聞き惚れる。
 歌のおしまいに、紅鶴はさらりと括った。
「地獄だって、色男が来れば極楽」

 これは諸国一見の僧にて候。われこの間は都に候ひて、洛陽の名所旧跡残りなく……。
 笛を聴き澄まし、声低く謡い出した元能は、うつそみの自分自身と、演じている一所不在の乞食僧との心境が、ぴたりと重なる快さを感じた。
 今夜の能は、季節にふさわしく「杜若」である。武家で、しかも戦勝祝いとなれば、もっと勇壮なものをと一座は考えたのだが、老境にさしかかった赤松満祐は、
「戦を終えて花の都に戻ったものを、いまさら闘 も鬼もない」
 と優雅な歌舞能を所望した。若き日に彼は義満に近侍し、観世座の棟梁がまだ観阿弥のころから能に親しんでおり、演者にとっては甲斐のある観客、目ききのひとりであった。
 夕々の仮枕……宿はあまたに変はれども、同じ憂き寝の美濃尾張、三河の国に……
 「杜若」は、父世阿弥が若年の頃に作った。「伊勢物語」に因んだ曲で、杜若の名所三河の国八橋にたどり着いた旅の僧の前に、里の女が現れ、自分は杜若の花の精であり、またかつて、在原業平と密通した五条后高子でもあると告げる。女は懐旧の思いに涙を流しながら、恋人業平の形見の冠、さらにかつて宮中でまとった豪華な唐衣を身にかけて舞い、不遇に諸国を流浪した業平こそは歌舞の菩薩、陰陽の神と讃える。女は袖を翻して舞ううちに、自分自身と恋しい業平とを重ねてゆき、花の精でもあり、また后高子の亡霊、さらに在原業平の面影までも、しらしらと明け染める紫の幻影に溶け合う、という幽艶な夢幻能であった。
前シテ里女の元雅が、父祖伝来の面をかけて舞台に現れたとき、見物衆にみなぎった声にならない吐息を、ワキの元能は皮膚にしみるように感じた。宴の観客は既に酔いしれている。能の幽玄、芸の深さなどではなく、座興の快楽を求められている場であった。
襖障子は取りはらわれ、奥の上座には主満祐が、客人とともに女を侍らせて座る。主賓は細川持之に山名持豊。ともに幕府の重臣であるが、持豊は父の代理であった。彼の父時煕は、あいにく赤松氏と不仲であった。この不和の根は深く、足利幕府創建時代までさかのぼる。
 赤松・細川氏は、足利尊氏以来の宿将であった。義満がまだ幼少の、南北朝騒乱時代には、戦火を避けて播磨の赤松氏に匿われ、やがて義満が将軍に任じられると細川氏がこれを補佐した。成長した義満が南北朝を統一し、カリスマ的な専制政治家となると、宿将たちの権力はいったん後退したものの、義満の急死による後継者争いを機に、細川氏は再び発言力を強めた。
嫡子でありながら父に疎外された義持は、宿老大名たちの後押しによって、ようやく将軍職を襲うことができたという有様であった。
このために二十数年に及ぶ義持の治世は、事実上有力大名たちの合議によって成り立ち、この趨勢は義教擁立以後も続いている。このように細川・赤松両氏は幕府と緊密な関係を保ち、主流名門意識が強い。
 一方山名氏は全盛期に日本六十六カ国の内、十一カ国を支配する六分一衆として山陰に蟠居した。彼らは南朝に与して幕府に歯向かい、備中守護の細川氏と険悪な間柄であった。北朝優位となると山名氏の権勢は衰えたが、義満時代にかろうじて幕府に復帰することができた。しかし狡猾な義満は大国山名氏のお家騒動を裏で操作し、このために広大な領国は分裂縮小、昔日の威勢を失った当主時煕は、かろうじて但馬守として残ったのであった。
感情の起伏の激しい時煕は、細川氏への怨恨を忘れず、この気持ちは若い持之が主となっても変わらない。
 若造が、と時煕は息子持豊に吐き捨てるように言った。
「細川の青二才めが、髪の生え際から手の爪先まで親父に似くさる」
 赤松氏の領地播磨騒乱の際にも、時煕は悪意まるだしに罵ったものだ。
「誰が播磨なんぞへ加勢をするか。赤松のくそどもなぞ土民にくびり殺されればよい」
 この老父を持て余し気味の持豊は、当年二十五歳。皮肉なことにこの青年の容貌も若き日の父親をそっくり写し取ったかのような赤ら顔で、違うところといえば、持豊は同じ多血質ながら、母の血を享けて思慮深かった。が、それゆえに父時煕はこの次男を可愛がらず、顔は似ないが性格は自分にそっくりな長男持煕を偏愛している。
痩せがたちの細川持之といかつい山名持豊が赤松氏を挟んで居並んだ様子は、さきほどの将軍御所の似せ絵のようだった。
それこそ舞台さながら、代々の劇的な葛藤を秘めた主賓席だが、男たちはそ知らぬ体で、里女と僧の問答を鑑賞している。
「美しいの」
満祐は満足そうに呟いた。
「ワキ役であっても醜男は見られぬ。あれは本家の子なれば藤若の面影がある」
 赤松満祐は前歯の欠けた歯茎を剥き出しに笑い、両脇に抱え込んだ遊女の腰を揺すった。
彼に酌をするのは東洞院の遊女たち。だが若い山名持豊の傍らに侍るのは宝珠で、細川にしなだれているのは紅鶴だった。上臈気取りの東の遊女とは異なり、衣の裾をはねあげて踊る宝珠の乱れ舞は好色な持豊の気をひいた。また紅鶴の今様の声の素晴らしさに、趣味人の細川持之は感嘆し、召し寄せたのだった。
 赤松満祐に侍する東の女は、内心宝珠と紅鶴が癇に障ってならないのだが、そんな気配はおくびにも出さず、満祐に向かい、甘い声で囁いた。
「若き日の観世太夫、世の語り草になるほどのお美しさと」
おお、と満祐は遠くを見る目になった。
「儂と藤若は年の頃も変わらぬ。儂は尊勝院さまの傍らで、藤若に接したことがいくたびもある。猿楽づれとは見えぬ気品があった」
 満祐は若かりし日の感動そのままに、藤若の名をつぶやいた。少年藤若が成人して元清となり、出家して世阿弥と号するまでの時の流れは、この瞬間満祐の胸に跡をとどめぬようだった。だが、彼はすぐにその感傷を酔いに溶かしこみ、脳裏から消してしまった。
  思ひの色を世に残して……
 舞台の元能は幻影の領域にひたされていた。
目の前にうつむきしおれる美女がいる。賤の女にはふさわしからぬ物腰で、旅僧の問いに応えて伊勢物語のゆかりを語り、いったん言葉をおさめても、なお語り尽くせぬ心残りに、もの言いたげに目を伏せる。
見ず知らずの旅僧に心を許していいのか迷い、迷いながらも姿は崩さず、沈黙、やがてさらなる昔語りをほろほろと紡ぎ出す。その全てを静寂な所作に表現する元雅であった。柔らかく腰を落とした元雅の姿に、大柄な美丈夫の日常は感じられない。昔を恋ふる里女の華奢な息づかいが元能に伝わってくる。
シテを見つめるワキ役者としての元能と、たちあらわれた幻影に踏み込む旅僧とは、原点を同じくする二つの影であった。此岸と彼岸は元能の内部で分かちがたく結ばれている。シテの内面を測るワキの冷静と、まぼろしに引き寄せられる旅僧の揺らぎは相反しているが、役者の内部の夢と、うつつの箍と、両者の拮抗が激しいほど、そこを超越したときに耀きまさるのが芸であった。夢幻に溺れることなく、現実に縛められてもならぬ。夢とうつつと、狂いと正気と、つめたく甘美に凝視してこそ芸の花であった。
……。
旅僧の問いに、里女は応える。
「あの方の形見の品がございます」
「形見、とは?」
 女は草むらを抜けて自分のわび住いへと歩む。水辺に咲き群がる菖蒲の花が暮れゆく夕陽に呑まれ、憂いを帯びた花紫は空よりも濃い藍色に早くも沈んだ。女は戸口でふと足を止め、夕風にざわめく水辺を眺める。
  在原の、跡な隔てそ杜若、沢辺の水の浅
  からず、契りし人も八橋の、蜘蛛手に物
  ぞ思はるる、今とても旅人に……
 女の後に従い、僧はぼんやりとした妖しい心持ちに包まれた。すでに夜の闇は深く、夕星が天上にきらめきこぼれている。が、女の周囲だけほのかな光が滲み、暗闇というのに女の面相がありありと見えるのである。その他は視界ただ茫々と無明。女は旅僧の惑いを察したかのように微笑んだ。
「粗末な宿ではございますが、どうぞ一夜」
  今はとても旅人に、やがて馴れぬる心か  な、やがて馴れぬる心かな……。
 地を、あるいは水面をすべるような地謡が
女の心情をなぞって止むと、シテ元雅は自然
な姿で中央から退き、己が在りし日の華やか
な唐衣をまとう。
 絢爛の衣装は、すべて赤松満祐が若き元清
に与えたものだった。
  なうなうこの冠唐衣御覧候へ
「ほら、御覧あそばせ」
女はゆらりと振り返り、舞の袖を拡げた。
白い額には恋した男の形見の冠が光る。女で
あり男であり、また人の亡魂であって花の精
霊……変身した女は、玲瓏とした面をあげた。  
極楽の歌舞の菩薩の化身なれば、詠みおく和歌の言葉までも 皆法身説法の妙文
  なれば……
恋人業平こそ歌舞の菩薩の化身と告げ、今
こそ昔の舞姿を彷彿とさせようと高揚する女
面が、その瞬間ぱっくりと剥がれ落ち、しと
どの汗にまみれた元雅の顔が露わになった。
う、という声にならない呻きが粘ついた雨音に重なって拡がった。
 紫の長絹(ちょうけん)を翻し、舞扇をかざしかけた姿のまま元雅は静止し、その足元へ女面は無機質な音をたてて落ちた。今の今まで元雅の上に生きていた女人の顔は剥がれ落ち、汗にまみれた男の地顔が蝋燭の灯りに晒されている。元雅、いや杜若の妖精と相対していた元能もまた動きもならず、凝然とワキ座に腰を落としていたが、端正な兄の顔がこれほど忌まわしく見えたことはなかった。
(面をかけてくだされ)
 元能は哀願の凝視を直面の兄に注いだ。だが心の動揺とは無縁に、五体に浸みこんだ芸人根性は、ワキ僧の問いを絞り出すではないか。
  これは末世の奇特かな。まさしき非情の
  草木に、言葉を交わす法の声
 喝、と小鼓が鳴り、応、と大鼓が受ける。
 元雅はまばたきひとつせず、ワキ僧を眺め返し、滞りの片鱗も許さぬ声で応じた。
  仏事をなすや業平の、昔男の舞の姿
 憑、と笛が静寂をつなぐ。
 そのまま元雅は舞いおおせる。

 ことのほか見事なり。
 赤松満祐は上機嫌で扇を振った。千秋楽万歳楽が謡われると舞台は速やかに片付けられ、優艶な情趣も消え、酒を酌み交わすかわらけが打ち鳴らされ、男たちの酔い痴れた笑い声が九間に満ちた。
「藤若はよい後継ぎを得たもの」
 と、御前にかしこまった元雅に、満祐はその場で着ていた素襖を脱ぎ、手づから投げ与えた。ほう、と満座の家臣がどよめいた。従者になかだちさせず、主みずからじかに与えるというのは普通の主従関係でも破格の仕儀であった。
 まして、今なお陰に陽に河原乞食とさげすまれる猿楽風情が、と驚きの声が宴席のそこかしこで囁かれている。当の元雅は冷や汗三斗であった。
 面が落ちたのは隠れない失態である。本来ならば、この場で手打ちにされてもいたしかたのない不首尾だ。落ちる、破れるなど、戦勝祝いの宴にはもってのほかで、実際、面が落ちた後、元雅は死を覚悟して舞った。
 ところが、老練な赤松氏は、凶事を慶事に変えてしまおう、という肝である。芸人どもを処罰してことを荒立て、くちさがない京童の噂話に貶められるよりは、むしろ太夫の名演と称賛し、稀代の見物に一件を塗り替えてしまえば、己の豪気の宣伝にもなろうというものだ。
 計算ずくで満祐はしきりに元雅を褒めちぎるのだが、そのあきらかに過剰な語気を浴びせられ、元雅はひそかに目が眩む思いがする。
(舞台よりこれはよほどこたえる)
 作法どおりに膝行し、投げ与えられた衣を拝する元雅の唇は蒼ざめている。老大名は、元雅の狼狽など知らぬ顔で上機嫌で盃を傾けつつ喋る。
「儂はそのほうの祖父の名演を見た」
 盃を重ねるにつれ、満祐は知らず知らず懐古へ向かう。
「尊勝院さま御臨席であられた。おお、藤若がお側に控えておった。観阿弥は「自然居士」を演じ、あの大男が、そのときは十二、三の少年に見えたぞ。そなたは藤若よりも祖父に似ておるの。見れば堂々たる男ぶりだが、さきには嫋々とした手弱女、さらには水もしたたる貴公子業平と見えた」
「恐れ入りましてござりまする」
 元雅はただ平服する。
 さやさや、となまめいた衣擦れが乱れ、女どもが宴席の中央へ舞い出ると、男たちから喝采が沸いた。肌も透ける上着に紅色の袴をつけ、烏帽子も赤い半男装。これが人気の白拍子曲舞であった。女どもは皆若く、薄い夏衣に透けて見える地肌が豊かに白い。ただちに宴席は、さきほどの能の鑑賞のときとはがらりと異なるなまな歓声で弾んだ。
 しおを測って、元雅は幕屋に退出した。
「紐に、傷が」
 小声で告げる弟を制し、元雅は何食わぬ顔で、ふるまわれた割り子弁当をしたためる。身分低い彼らが宴席につらなることはなく、控え所で酒肴をいただくのが普通であった。鮑、昆布と常の縁起物に加えて、上機嫌を装う満祐の意向で、さらに贅沢な膳部であった。飢饉が続き、都大路に餓死者が重なるこの時節にも将軍始め、傲慢な支配階級は全く下々の苦境をかえりみなかった。観阿弥以来、そうした上流貴族の恩顧を享けることで、観世座は出世を遂げたのであった。
 山海の美味を盛りあげた弁当を口に運びながらも、一座の者は言葉少なく、おそるおそる棟梁の顔色をうかがっている。
 縋りつくような一座の者どもの視線を集めている元雅の顔は晴れやかで、憂い翳りはつゆも見えない。食が進まないのは弟のほうで、元能は懸命に冷静を保とうとしながらも、箸を取る手の震えを鎮めることができない。苦い液が舌根にこみあげ、眩暈さえする。
(裏切り者がいる)
 面は神聖なものである。演者以外は手を触れてはならない。兄が舞台の前に手入れを怠るはずもなく、となれば今宵何者かが人の見えぬ隙を謀って、面の掛け紐に切り込みを入れたのに違いなかった。元能は憤りに喉が詰まり、気がつくと箸を捨てていた。
「何とした、元能」
 兄の声は普段とかわらず鷹揚だった。いや厳しかった。厳しいのは衆目を憚らず、内心の乱れを露わにしている弟の未熟を咎めてのことだ、と元能はやり場のない怒りをさらにふくらませる。この場で裏切り者を探り出すことなぞできない。ならば、太夫にならって、最後まで冷静な面を保つべきだ。
(俺にはできぬ)
「御免」
 袴を蹴立てて立ち上がった。人の熱気のこもる幕屋を出ると、篠つく雨音がいきなり青年を包んだ。ばらばら、ざらざら、と大粒の水滴が庭園の松の枝から軒にしぶき、どうやら遠くで雷も轟いている。
(何のために陥れる?)
 雨脚深くどんよりとわだかまる闇に向かって、元能は声にならない呻き声をあげた。が、このような問いこそ愚かで、また無意味に違いなかった。誰かの退転は他の誰かの出世であった。
 観世一座を猿楽の主流に押し上げたのは祖父と父の天才だが、彼らに圧倒され衰亡していった芸人どもがいた。近くは近江猿楽の岩童(いわとう)。世阿弥に増して晩年の義満に寵愛された歌舞の名手犬王の後継者だ。しかし岩童は師の稟質を継ぐことができず、またたくまに没落していった。また義満の息子義持は田楽の増阿弥を贔屓したが、やはりその芸も一代かぎりであった。
 敗北者たちは観世座の隆盛にどれほどの怨念を抱いていることか。あらたに台頭しようと望む芸能者は絶えることなく、虎視眈々と先行く者の失墜を願い、狙い、企んでいるのに違いなかった。あるいは同じ一座のうちにあっても、シテになれぬ口惜しさ、ワキ役者、裏方に甘んじねばならぬ無念を溜めている者もいよう、と喘いだところで元能はすうっと背筋が寒くなった。
 嫉妬、羨望、如何とも超えられぬ彼我の才能の差を、心の底で常に耐えているのは、誰でもない己ではないか。
(俺は兄者を尊敬している)
 ごまかすな、と囁いてくる声がある。
 長雨にくたされた卯の花が濡れそぼった綿のように重く打ち伏している灯篭のあたりから、皮肉めいた揶揄の声が聞こえる。
 尊敬だと? それは嫉んでいる、恨んでいるということだ、お前の中から、無理やりに何かが奪い取られてゆく、その口惜しさを、尊敬という立派な修辞でごまかすなよ。
 白い花影に雨が撥ね、どうどうと激しさを増す雨音の奥に、ゆらりとたちのぼる姿が見える。聞くまい、目にするまい、と踵を返す前に、元能の感情は雷鳴の轟きさながら彼自身を揺さぶる。
(重兄!)
 俺に逢いたかろう?
 従兄は首をゆらゆらと左右に振り、身体を斜めにひねり、腕組しながらにやりと笑った。
 俺に抱かれたいのだろう? お前は俺を軽蔑しているな、俺が伯父上を裏切った節操のない奴だと蔑んでいる。お前は俺を侮蔑することで気位高く構えているが、他でもない、それゆえに俺を愛することができる。恩知らずの俺はおまえより下等なろくでなしだから、お前は自尊心を傷つけることなく俺に恋着できるんだ……。
 これは幻聴か? 記憶のどこかしらに残っている元重の口癖、言葉尻を、元能の思慕が編んだ台詞だろうか。いずれにしてもこうした仮借ない斬りつけは、必ず返す刃で従兄自身を傷つけるものだった。
(違う!)
 ぐわらぐわら、と轟音が弾け、元能は床に膝をついた。青白い閃光が瞼を閉じる寸前、目の端で燃え上がったのが見えた。耳を塞ぎ、視覚を閉ざしても元能はなお、軋み倒れる松の根の向こうに従兄の幻影を求めていた。
「ちょっと、あんた」 
 遠慮のない言葉といっしょに、やわらかい手が彼の肩に触れた。
「吐いてるの?」
 女…と元能は鳴りをひそめた雨闇に漂う化粧の匂いを嗅いだ。目を開けると、小袖の裾をからげた白い足が見えた。ひきしまった足だ。元能は顔をあげた。顔は足より白い。美人だ。
「あんた、悪酔いしたの? 吐くんなら庭のどこかでやってよ。通れないわ」
 あっけらかんとした声だ。
「酒は飲んでいない」
 元能はふらつきながら柱に寄りかかった。
「苦しいの?」
 女は労わるように元能の背中にてのひらを置いた。
「落雷にすくんだだけだ」
「雷なんぞ鳴りはしなかったわよ。ほら、雲が割れて月明かり」
 ずけずけした口調だが、元能の背を撫でる手は優しかった。
 元能が虚空を仰ぐと、さきほどまで垂れ込めていた暗雲は消え、なごやかな円月が覗いている。月光は雨の名残に潤んでいるが、樹木をつたう水滴がそこかしこの葉先で踊って見えるほど明るい夏の月影だった。
「今夜は立待ち月」
女は月を見上げ、それから元能に顔を向けた。元能の嗅覚に女の汗ばんだ肌の匂いが触れた。化粧の匂いよりも濃い。風が変った。
 元能はうろたえて後じさりした。が、相手は彼の動作よりも大きくこちらに踏み込んで獲物を逃さない。やわらかく腰をおしつけてくる。あしらいに慣れた遊女の所作に違いないが、元能はかわす術を知らない。
女の髪油があまく匂う。母や妹の髪に嗅いだ匂いと同じだ。全てが未知ではないささやかな安心が元能の心を掠める。男の心の緩みをすかさず女はつかまえ、するすると白い手が半透明な袖から伸びて男の首にからんだ。
「何をする」
「知れたこと」  
 ふふ、と女は笑った。
 舌先をかるく噛まれた、と元能が感じたとき、屋敷の奥から、
 山名さまがお探しだぞ、傾城殿。
 従者は足音も高く女を呼び返す。女は元能の口の中で軽く舌打ちし、するりと腕を解いた。
 去り際に女は元能の片手をとり、自分の胸に導き入れた。肌のあまさを男の官能に刻みつけるために、彼女は元能の手の上に自分の手を重ね、数度乳房を握らせた。
「あたし、宝珠」
 きらきらしたまなざしが元能をとらえた。
「西洞院、地獄が厨子にいる。逢いに来て」

  歌へや歌へ うたかたの 
  あはれ昔の恋しさを
  今も遊女の舟遊び
  世を渡る一節を
  歌ひて いざや 遊ばむ
 夜通しの宴も、深更過ぎればひとりふたりと退き、残りは数えるばかりとなった。
 赤松氏は寝所へ入り、山名持豊は宝珠を伴った。
 残ったのは底なしの飲みすけばかり、もはや上下の隔てなくひたすら盃を煽る。
 酒はこの時代、たいへんな貴重品で、ようやく貴賎へだてなく流通しはじめたとはいえ、清酒(すみさけ)はよほど富裕な者にか口にできず、普通には薄濁り、その下は濁り酒で、平侍ならばどぶろく、あるいは水で薄めた粗悪な酒がせいぜいだった。
 赤松氏は大盤振舞で酒蔵からたっぷりと上等の酒を運び出した。これを滅多にいただけぬものぞとばかり、男たちは痛飲した。
「そなた強いのう、いったいどれほど呑めば潰れてみせる」
「さあ」
 紅鶴は醒めた顔で細川持之に酒を注いだ。高麗縁の畳を敷いた主賓席に残っているのは彼ひとり。これも相当呂律があやしくなっているが、傍らにぴったりと吸いついた紅鶴と盃を干し合ううちに、寝所に入るしおを失くしてしまった気色である。
「もう二、三ばかりいただきましたらあやしくもなりましょうか」
 含み声で応え、くいっとかわらけを一息に
空け、紅鶴は艶然と微笑した。身八つ口から肌を探る男の手を、ぐにゃりとした身ごなしでかわし、
「殿があたしを酔いつぶしたらと申し上げたではございませんか」
う、と既にしたたか酔い痴れ、顔を赤く腫らした細川氏が不承不承うなずいた。
「二、三杯か。それならば儂の勝ち目もあろうというもの」
 持之はとろんとしたまなざしを女に向けた。燭台の黒い影に半身をひたした女の姿がぐらぐらと回り始めている。女はこちらをじっと眺めて微笑している。赤い唇がきゅっと小気味よく吊りあがり、鉄漿を塗った口許がぱっくり割れると、ふいに
 あ、は、は、
 聴きなれない無遠慮な女の哄笑が放たれた。細川持之自身の喉からはしょっちゅう漏れる嘲りの声だ。しかしこれまで彼が浴びせられたことはなかった。
(遊女づれが、何とする。儂は幕府の管領ぞ、無礼者)
 持之は女を睨み返すが、夜通しの暴飲にも崩れぬ女の濃い化粧が、こちらの焦点の合わない視線をさらに撹乱するようだ。相手の表情が見えないのである。
「何の」
 紅鶴は歌のように、ひとつずつの言葉をひきのばして言った。
「もう二升、三升ほどいただいたら、あたしは殿のものになりましょう」
 ぐずり、と汗ばんだ衣の捩れる暑苦しい音とともに細川氏は白目を剥いて横に傾いた。
その細川を支えようとはせず、畳の上に倒れるままにほったらかして、紅鶴は生あくびをこらえた。石臼を廻すような鈍い鼾が部屋中に満ちている。酒豪たちもさすがにあちこちに酔い倒れ、中には人目憚らず女に覆いかぶさっている男もいる。
 ふん、いやな奴
 紅鶴は鼻を鳴らして立ち上がり、衣服をはだけて昏倒している持之の顎を、爪先でかるく蹴った。いばりくさって、と紅鶴はそこで初めてはっきりと顔を歪めた。すこしはふらつくが、しっかりと床を踏みしめて縁側へ出る。
 夜は白み始めている。鶏の鳴く声が聞こえるが、もう二番鶏くらいであろう。雨の去った後の透明な空に、東山の青い稜線がすがしく見える。庭園の樹木の高い梢に、昇る朝の光が濃くひろがってゆくのは、そろそろ長雨も終わるしるしだろうか。霞がかるように幾重にも流れる横雲の茜色に女は酒に疲れた眼を細め、美しい色彩に心を遊ばせた。すると、それまで化粧で見えなかった目尻の横皺が、朝のまばゆさにくっきりと浮かび上がった。
「よう、お疲れさん」
 広縁の隅に、いつから独酌を楽しんでいたのか蝉丸がいた。赤い布で頭の火傷を隠している。酔い乱れのない、つやつやしたいい顔色である。
「おつとめはすんだのかい」
 にやにやしながら聞いてくるのに、
「飲み倒しただけよ。めんどうはいやだ」
 紅鶴はそっけなかった。
「めんどう?」
「ああ、もういまさら……いただく銭は変わらないんだから」
「側女に出世するかも知れぬに」
 紅鶴は横を向いた。
「窮屈はもっといやだね」
 ほう、と蝉丸は頷き小鼓を胡坐の膝に挟むと、ぽん、ぽん、と指先だけの手すさびで、鼻唄まじりに拍子を打ち始めた。
  世の中は めぐる因果の小車
  良し悪しともに めぐり果てぬる
 節のすきまで、またぐいっと酒をひっかける。
「そうよねえ」
 紅鶴は真顔になって蝉丸の横に膝を抱えるようにしゃがんだ。
「おいらは、ただの戯れ歌だぜ」
 真顔の紅鶴に、蝉丸は逆に鼻白んだ。
「ふふ、何だっていいよ、今夜はともかく助かった。うまいねえあんた。間合いなんぞ、まるであたしの呼吸をきっちり先読みしてくれて」
「そりゃどうも」
 と蝉丸は頭巾を被ったままの襟足をそろりと撫でた。褒められたが、たいして嬉しそうでもない。
「さて、帰ろうか。赤ん坊が泣いている」
 溜息のように呟いて紅鶴は立ち上がった。
「そっちはよしな」
 紅鶴の行く先を察して蝉丸が制するのに、
「なんで?」
「見苦しいものがあるぜ。用足しならそこらの藪でもかまわないだろ」
 ふうん、と紅鶴は蝉丸の制止をきかず、柱を回って角の厠へ向かった。すぐに彼女の切迫した喘ぎが聞え、蝉丸は、
「それ見たことか」
 と頬を指でぼりぼりと掻いた。紅鶴は壁を隔てた曲がり角から上半身だけ覗かせ、蝉丸に手招きした。
「これ」
「見ればわかるだろう」
 死体だった。厠の戸口にうつぶせに倒れた男の体を、蝉丸は無造作に片足でひっくり返す。男にしては華奢な体だ。蒼脹れの死顔の無惨に、紅鶴は息を呑んだ。紫色の舌が口からはみ出て、顎から喉にだらんと垂れている。
「絞め殺されたな」
 男、とはいえまだ少年に近い死体の喉に、焼き縄を押し付けたような細紐の痕跡があった。身なりは武家ではない。やわらかものの色目は派手で、袖に女の衣装のように亀甲花菱をあしらっている。
「この子は、猿楽の」
 そうだ、と蝉丸は驚きのない顔で頷いた。女装して、古女房役だったっけ。
「なんでこんなことに?」
「さあな。死相はひどいが、ちょいと可愛い顔じゃないか。おおかた、ここに集まった侍衆の誰かが手ごめにしようとしたのじゃないか? 逆らったのか、口封じか、それにしては大袈裟だが、いずれにせよ死人に口なし」
 なんまいだ…。
 蝉丸が手を合わせるのを横目に、紅鶴は黙って庭に下り、厠でしそびれた小用を庭石の陰ですませる。
  めぐる因果の小車や……
 南無阿弥陀仏も一言きりで、また蝉丸が歌いだすのに紅鶴は、
「誰かに知らせないのかい」
「御免だね。庭掃きがそのうち見つける。横死だろうと飢死だろうと同じこと。屍なんぞめずらしくもない。土塀の向こうには、今も三、四人は腐ってるだろう。俺らはめぐり合わせがよくって、昨夜はうまい酒にありついたが、いつ道端にぶったおれるかもわからん。無駄な情は俺にはない。弔い酒でも喰らうさ」
 蝉丸は土瓶の口に吸いつき、わざとらしく喉を鳴らして飲んだ。それからすこししおらしく声を落として、
「お前も若いさかりに気の毒に」
 残りの酒を死体の…乙弥の舌がはみ出た口に注ぎかけた。ふっくらした唇には、いつものように薄紅が着いているが、この期に及んでは青黒い苦悶の無惨を際立てるだけだ。蝉丸の注いだどぶろくは、白い汚濁となって乙弥の頬や顎に飛び散り、弔いどころか却ってひどい形相になった。
「いけねえや」
 蝉丸は渋面になり、首筋にとまった藪蚊を叩いた。
「蚊? それとも…」
 紅鶴は言いかけてやめた。殺された男がさすがに気の毒で。

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中世夢幻  其二 杜若

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其二 杜若
 
 おゆるしなされて…
消え消えの喘ぎは、苦しげでいてねっとりと媚を含んで甘かった。かぼそい女の声ではないことが、この黄昏の縺れあいに息詰まる淫靡な影を深める。
 将軍御所に、義教はいくつも専用の書院をしつらえていた。そのひとつ、もっとも奥まった北向きの一室は、夏のあかるい夕暮れから逃れるように、はやくもひそやかな闇が垂れこめている。男たちの表情は苦しげで、貫きながら肉を重ね、解き放ちながらなお免れぬ己が官能の枷に喘いでいるようだった。彼らの所作は隙間なく、互いに容赦がない。肉を凌ぎ、骨をきしませ、肉感を超えた救済を目がけて攻めぬき、奔りつめるようでもある。
 攻める男も攻められる男も互いの火に灼かれて汗をしたたらせ、性の力を誇示しながら、やがてどちらからともなく崩れ、折りとられ、肌身に飛び散った迸りは、欲望の残滓というにはあまりに潔く、純一な色彩だった。
「酷いことを、あそばす」
 ややあって、元重は首を伸ばした。肉をひしぐ烈しい感覚はなお余波をひいているが、それはこの性愛だけが味わうことのできる痺れるような快楽に変貌している。
元重はうなじを伸ばし、背骨を伸ばし、腕を緩めた。獣のなりで彼は主を受け入れていたのだった。仰臥した義教は、荒く息を吐いたまま無言であった。
傍らの元重は呼吸を静めて義教の心をはかる。一瞬の甘えは速やかに彼から拭われ、解き放たれた快楽の頂点から、一気に彼は地に下り、猿楽芸人の軛をみずからに嵌める。
義教は、ふいと元重を見た。白眼の部分が大きく、青みがかって見える義教のまなざしは、無感動な吐息とは裏腹に情感をたたえて潤っていた。その視線にあやうく溺れそうになるのを抑え、元重は、
「おからだを」
 自分自身は手早く下着をつけ、隙のない動作で義教の身仕舞いを調える。ことのあとには、いつもこうして元重が義教に仕えた。女を伽にしたときには早々に下がらせ、別な女官が手際よく将軍を清めるのである。その女官にも劣らぬこまやかな手つきで、元重は義教の肌を清め帯を結ぶ、義教は元重にすっかり任せきり、西の窓になお漂う宵明かりを凝視するように、心持顔をあげていた。
 採光の悪いこの書院は、仏間を兼ねており、床に奉掛された如来像に、西側の丸障子からその日の最後の光が忍び射すように設計されている。五色の雲に乗った如来は地べたにひざまずく衆生に向かい、温和な微笑を湛えて手をさしのべている。夕靄はいま、そのふくよかな尊顔だけを、滲む円光となって照らし出していた。
装束を着付ける衣擦れの音は、男たちの沈黙を快く埋めた。ふいに義教はひざまずいて主の胸紐を結んでいる元重の首に触れた。
「清滝宮の楽頭職(うたづかさ)を命じる」
 一瞬、元重の手がとまった。さっと顔をあげたが、視線は自分の指先で止まり、主のまなざしには届かなかった。彼は濃紫の胸紐をひたと見つめた。
醍醐寺清滝宮の楽頭職は、観世座棟梁たる世阿弥のものであった。義教はそれを剥奪し元重に賜ると言う。さきほどの仙洞御所での
世阿弥一門演能禁止に続き、この仕儀がどれほど伯父一家に打撃であるか、元重は将軍の命令をひしと噛みしめる。が、伯父を立てて、我が功名を譲る心は微塵もなかった。
そんな元重を義教は快げに尊大な表情で見下ろし、烏帽子を外したままの白い首筋をすうっと撫でおろした。
「余の手にあまるほどに太くなりおった」
 かつては、と義教はひとりごちた。
「この首は、余の指ひとくくりに握るほど、かぼそかったものを」
元重は首に千鈞の錘を掛けられたような気がした。みぞおちを冷たい汗が流れる。声を整え、謹んで答える。
「御意のままでございます。いにしえも今も」
破(は)、と乾いた笑い声が一間に響いた。

五月雨が降りしきると、都大路に投げ出された夥しい死体は目に見えて腐りただれ、痩せさらばえた屍のどこに腐乱する贅肉があるのか、と思われるのだが、辻々いたるところに転がる亡骸は、ぶくぶくと膨張し、破裂し、膿を長雨に垂れ流し、その腐肉を野犬どもが日夜を分けず食いあさるのだった。
「ああ、末世じゃ。下克上じゃ。しかしこのしみったれ雨は止まぬものか」
梅雨寒なのに、むしむしと湿度はこもり、死体の異臭のきつい堀川大路を、びしょびしょと泥水を跳ね上げて歩く蓑笠男は、それほどの大降りではないのに、蓑を深く合わせ、顔も見えないほど笠を深く被っている。男は笠の影から大路の隅の屍をにらんで毒口をたたいた。
「照る日曇る日って言うじゃないのさ。雨が振る時期にはちゃんと降ってくれないと、五穀豊穣ままならぬ」
 男の連れらしい市女笠姿が、若い女の屈託のない声で男の不平を受けた。
 女は一見すると上臈出立ちで、こんな季節には鬱陶しいほど華やかな小袖に細帯を締め、被りものの緋色が目にしみる。着物の裾を泥に汚すまいとくくりあげ、肌理のこまかい白い脛をあらわにしている。
「この分じゃ、秋の実りもどうなるか知れたもんじゃない。今年もおおかた不作だろう。お天道さまは民を見放したか」
 男はなお憎まれ口をたたきながら、やけくそめいて泥水を蹴った。女は舌打ちしてとびのき、
「ちょっと、あたしの鎧を汚さないでおくれよ。まだ出陣前なんだから」
「鎧も鎧、大鎧。侍大将の出立ちだ」
男は鼻を鳴らして女を眺めた。
「図子(づし)の古君も、宝珠御前には御満悦だろ。いったい一夜にどれほど稼ぐ」
「からだあっての物種」
宝珠は笠を小指で持ち上げ、自慢の器量をちらりと見せ、しなをつくって笑う。肌は浅黒いが、くっきりとした目鼻が新鮮だった。白粉も塗っていないのに、顔を覆った紅絹が頬にきれいに映えて見えるのは、女がまだ若く、しんからみずみずしいためだった。
女が商売用の笑顔を笠の端から見せたとき、ちょうどふわりと雲が割れ、通りは俄かに明るくなった。陽光とともに風がさあっとひとつ通って青葉が香りたつと、大路の景色は陰惨を消して夏の息吹に蘇った。
「さ、尼寺の向こうだよ。着いたらあんたに湯漬けの一膳でも頼んでやろう」
「へ、せめて薄濁りの一杯も」
 酒は清酒(すみさけ)な、と男は横を向きうそぶいた。
  極寒極熱、熱き苦もあり寒き苦もあり、
  極熱の照りに照るに、冷やし物の酒を冷やし、一杯は飲み足らず、二杯は数悪し
 これだよ、と女は呆れ顔で高足駄を履いた足を持ち上げて男の膝を蹴るふりをする。と向かいの横辻で切羽詰まった叫びが乱れた。
「お、喧嘩だ」
男はがらりと声を変え、騒ぎのほうへ首を伸ばした。
「追剥だろう、およし」
宝珠が止める前に、もう男は蓑笠のまま泥を蹴って走り出していた。
「ち、物見高い奴め。怪我でもしたらどうする」
 舌打ちしながら宝珠もさらに裾をまくりあげ、むっちりと豊かな腿まで見せて男の後を追った。
ああら、おっかな。
 網目地に菖蒲の模様を散らした小袖ふうの上着を素肌にじかに纏い、かしらを白い被りもので包み、片手に数珠、片手に榊を持った持者が引き連れたような甲高い声をあげ、通りの真ん中で大げさにのけぞっている。
「あら神を恐れよ、おっかな。この罰当たりめが。二所三島の神も御覧ぜよ、この若造の無理無体」
騒ぎを聴きつけて周囲に人だかりが始まると、持者はますます興奮を煽りたてるように地団太を踏んでわめきたてる。どう見ても男の皮膚でしかない肌に、べたべたとまだらに紅白粉をなすりつけている。化粧をしてはいるものの、持者は自分が男であることを隠そうとはせず、口髭をはやし、黒々と眉は太く、あらっぽくかきあわせた衣の胸もとから、見苦しい胸毛がもしゃもしゃと覗いた。
「どうしたの」
野次馬をおしのけ、宝珠が連れの蓑笠男の肩先をつつくと、笠の影から、男は白い歯を見せてにやにや笑う。
「たかりよ。ちょいと見物しようじゃないか。いんちき持者めが、若造から巻き上げようってはらだ。さてどうなるか」
持者、または地者とは女装の巫で、東北出羽三山や鎌倉鶴岡八幡宮などを根拠地に活躍した流れの神人とされる。彼らが何故女装したのか理由はさだかではない。中世民衆群像を描いた『職人歌合せ』に「持者」の風体は、女の衣装をまといながらその容貌は明らかに男性で、彼の詠歌は、
  いかにしてけうとく人の思ふらむ
     我も女のまねかたぞかし
〈どうしてみんなは気味悪がるのかしら。あたしも女の真似なのよ〉とある。
 彼ら男巫は女装することによって、巫女の持つ霊力を我が物にしたいと考えたのかも知れない。直接の神がかりの能力は、古来女性と児童に顕著であって、祭祀の場における男の役割は、おおむね審神としての仲介、巫女の告げる託宣の解釈者であった。
持者は古びた小袖の裾をばたばた振ってぐるりを駆け回った。縄でくくった小袖は、すでにひどく擦り切れ、持者がわざとらしくしなをつくって、ぱっぱっと裾をからげて膝をちらつかせるたび、垢に塗れたがさがさの腿と、さらにその奥の見苦しい赤むくれがぶらぶら揺れ、周囲の野次馬どもはげらげらと笑った。
「な、汚れてしまった、穢れじゃ」
「あんたの面のほうが汚いよ」
 物売り女が笑い転げながらののしると、女
装の持者は哀れっぽく首を振り、気が触れた
ように数珠をさぐり、両手を烈しく上下に揉み合わせた。
「天照らす御神、この無信心者を罰してくだされ、阿弥陀様、この下種女を地獄に突き落として…おい、どこに行く、くそ餓鬼」
 騒ぎのどさくさに紛れて逃げ出そうとした
若者の肘をぐい、と掴み、つくり声からうって変わった男のだみ声で、持者は詰め寄った。
ほう、と蓑笠男は唸った。きれいな面をしていやがる。
 振り返った若者は、群がる群集の中で、はっきり際立つ容貌をしていた。目鼻がひきしまり、肌が白い。顔をしかめてしぶしぶ持者に相対する所作に寛容な落ち着きがあり、一目で土民でないことがわかる。衣装も周りの者より格段に上等だ。麻の葉文様の素襖に、藍染めの短袴をきりっと穿いた身軽は公家とは見えず、さりとて武家でもない。いちいちの動作にたるみがなく、持者の言いがかりにしかめた顔つきさえ、良家の子弟らしくさわやかに明るかった。
 若者は腹を立てた様子もなく、困惑した表情で、
「儂は急いでいる。この先の尼寺に叔母が入道している。病と聞いて見舞いに参じた。儂の訪れを向こうは待っているだろう」
 端切れのよい清潔な声をしている。
「知るものか」
 持者はますます興奮し、鼻毛のぼうぼう伸びた団子鼻をひくつかせ、胸を叩いて青年を罵倒した。
「汝、神を畏れぬ罰当たりめ! お前の縁者なぞ助かるものか」
 わめく鼻先へ、青年は懐から無造作に銭を突き出した。
「もうよかろう。これで新しい衣を買え。儂はほうぼうに参らねばならぬ」
 持者は数珠も榊も放り出し、両手で若者の手から銭をひったくり、その場でちゃらちゃらと音をたてて銭勘定をする。思わず、気前がいいねえ、と野次が飛んだ。それもそのはず、小袖をあつらえてなお余りある額であるばかりか、その銭は、近頃濫造されている国内銭の粗悪な地銭ではなく、大陸渡りの上質な明銭だった。もはや下々にはめったに出回らない、きれいな銭である。
 持者は有頂天で、つかみとった銭を前歯に挟んで硬さを確かめ、空にかざして透かし見、ひひっと口を歪めて笑った。
「あら、おっかなおっかな。ありがたやの明の銭じゃ。天照大神御覧ぜよ」
奪うものを奪った持者は小躍りしながら、小路へ逃げていった。
同時にがやがやと人垣は崩れてゆく。
「なんだ、あっけない」
と蓑笠男は舌打ちしたが、宝珠は首を伸ばして、人込みに紛れてしまった若者の後ろ姿を追っていた。
「なんだ、あいつに気があるのか」
「お世話さま、あの子、どこかで見たことがあるような気がしてさ」
「色男は得だねえ」
雲が切れて夏の光が照りつけるのに男は汗を拭い、厚ぼったい蓑を脱いだが、笠はかぶったままだった。その顔は金褐色の影となって人に見えない。
「昔の世こそ、というわけか」
 即座に飛んできた宝珠のびんたを男はひょい、とかわし、いい声で歌った。
  君と我いかなることを契りけん
    昔の世こそ知らまほしけれ
「うるさいね」
 宝珠はつんと澄まして、すたすたと歩きだした。泥よけに膝上までからげていた裾は、いつのまにか見目よく下ろしている。道すがら、尼寺の低い土塀から、枝を長く伸ばした梔子の花の甘い香りが、湿った陽炎とともに大路に漂ってきた。そこに、かしこに、行き倒れか、うち捨てられた屍が転がる。誰も気にとめない。

橘がほろほろと人待ち顔に咲き散る尼寺の境内は、表の喧騒とは無縁に閑寂だった。門主は皇女で、振り分け髪の幼時から出家入道された。
それほど大きくはない寺には、門主の他、数人の尼僧が仕えている。いずれも出自の良い、見目も人並み以上に整った尼たちが、感情のありかの窺えぬ白い貌で仏道精進に明け暮れ、老いてゆく姿は、現世の煩悩にからめられた者の眼には、清らかに羨ましくも、また侘しくも見え、さらには内奥に秘めているであろう女人ゆえのさまざまな襞を想えば、薄気味わるくも感じられる。
女人は剃髪し、墨染めに窶しても、どこかなまなましく思える。元能の少年時代からの印象だった。彩りを消した衣装をまとっていても、時折ふと、華やかな小袖姿の女よりもなまめいた気配を感じるのだった。だが、それは、この寺に修行する叔母の姿が、幼時の元能の心を強く揺さぶったためかも知れぬ。
俗の名を寿羽と称した叔母は、白拍子某女の腹に生まれた公家の落胤で、何らかのゆかりによって観阿弥の養女として育てられ、成人すると世阿弥の弟四郎の妻となった。寿羽は代々美男美女ぞろいの観世一門の中でも、周囲の眼をひく美しい少女だったという。しかし彼女は、元重を産んでまもなく誰にも告げずに出家してしまったのである。
一門の棟梁となっていた世阿弥は追及することなくこれを認め、仏門に入った義妹に援助を惜しまず、みずから彼女を訪れることはなかったが、一族の者を親しく寺に通わせ、消息を絶やさぬようにはからった。
「よう参られました。以前お出でになったときは、まだ童であったのに」
寿羽、今は寿桂尼は病の見苦しさをすこしも見せず、板の間でじかに甥と対面した。白麻の布で頭を覆い、簡素な袈裟を痩せた肩にひきかけ、水晶の数珠を手まさぐりにしつつ、さりげなく脇息に半身を寄せた寿桂尼の風情は、元能に小野小町を想わせた。
世の男という男を拒みとおし、その果てに落魄流浪の身を巷に晒した伝説の美女。老い衰え、さすらいの姿となっても、絶世の美貌はなお影をとどめ、かそけき色香のほのめきを、声に、所作に、またひっそりとうずくまる姿にさえも漂わせ……それは世阿弥の教えではないか。
(能の老女は…老残の底にもひえびえと光りを失わぬ一枝の花のごとく)
 この叔母こそ、と元能は寿桂尼の姿を眺めた。
五十路に入った彼女の面は、紅白粉につくろわずとも、なお端麗に美しかった。長年の精進、また病のために痩せ、額から頬にかけて、うっすらと皮膚の下の骨が透けそうなほど白い。清らかであるために、いっそうすぐ傍の死が兆し見える、人の気配を離れた白さであった。眉間から次第高にとおる品よい鼻筋と輪郭ただしい口許は、従兄元重と同じもの、と元能はひそかな疼きを抱いて叔母を見つめる。静かに生気の抜けてゆく面には、目立った皺も崩れも見えない。しかしまことに老女の顔なのであった。
「幼かったあなたがご立派になられて」
 昔と変わらない。軽く柔らかい声だった。
「人と成りましてのちは、尼君にお目にかかるのも何かと憚られまして」
 元能がきまじめな口ぶりでありきたりの無沙汰を詫びると、寿桂尼は、ほほ、と口をすぼめて笑い、
「枯れ果てた姥どもに、それはまたつややかなお心遣いですこと。そんなことをおっしゃられては、却って世心を催しそうです」
 いなされて元能は、頬に血が昇った。入道の尼僧にしても、最後まで心身清く素志を全うする者ばかりではない。無防備な若い尼などは、どうかすると賊に踏みにじられ、また略奪の憂き目にあうのだった。いや、若くなくとも、それは。
 この尼寺は由緒ある門跡寺であるから、相応の庇護がある。それゆえに女たちは浮世を離れて、坦々と墨染めの勤めを守ることができる。
寿桂の声はひそやかだったが、他の女人にはついぞ聞き取れぬ艶ななまめきがあった。それは、はなびらを落とした桜の萼に、なお残る紅色のほのめきを見るような心ときめきであった。そのやんわりとした声の輪郭は、どこかで従兄の皮肉を含んだ微笑とつながっていると感じるのである。
「皆さまつつがなくお過ごしですか」
「おおかた変わりなく。こなたさまも便りに伺いましたよりは、御身さわやかにお見受けいたします」
寿羽は、ふと眉をあげ、瞳を開いて元能をみあげた。するとなめらかな額にほそい横皺が数本、すっと昇り、それが彼女の面に初めて見る老いの皺であった。
「さあ、どうでしょうか。もう十分に命永らえましたから、御仏のお招きも恋しいのすが、さりとて、今日のように思いがけずあなたの成人された姿を拝見いたしますと、命はまた伸びるようでございます。兄君妹君も、さぞねびまさられたことでしょう」
はたはた、と庭の橘の枝から鳥が舞い立った。遠く看経(かんぎん)の声が聞こえ、名香(みようごう)のくゆりがどこからともなく漂うと、再びかきくらがった空から、重い雫が軒を叩き始めた。
平氏すなわち武家の台頭以来、皇室公家の権力は地が滑るように崩れ、この時代に入ると、各地の荘園収入も武家の口添えなしには円滑に納まらぬようになっていた。こうした公家皇族の手元不如意をよそに、寺社は独自の権威を主張し、幕府守護大名に服従すると見せて、彼らに対抗すべく勢力を伸ばしつつあった。この尼寺は皇族の門主が、そうした寺社の中でも際立って強大な南都興福寺大乗院門跡と縁を持つために、潤沢な暮らしぶりであった。
寿尼は元能の気持ちをほぐすようにねぎらいの言葉を紡いだ。あたりさわりない言葉であっても、このひとの口からこぼれると、耳に快かった。元能はふと、寿桂が父と結びつかなかったのは何故だろう、と思った。貴種であり、歌舞音曲に優れ、稀な美女であった寿羽は、女曲舞(くせまい)として出たならば、さぞ目覚しい立身を遂げたに違いない。芸能ならずとも、その美貌と才気は、多くの大名の側室に望まれたとも聞く。
そうした華やかさにも係わらず、寿羽が選んだ夫は、世阿弥元清の弟四郎だった。元能が十歳ばかりの頃に亡くなった四郎は、一座の太鼓方、またワキなどを無難につとめる篤実な男であった。おのれの分際をよく弁え、一座の棟梁である兄のシテを過不足なく支えた。寿羽が突然出家した後、彼はふたたび妻帯しなかった。残された元重の才能を育てたのは、この実父と、それにもまして伯父世阿弥であった。
「先日、元重が参りました」
 応えの途絶えた元能の沈黙を測るように、さらりと寿桂尼はささやいた。彼女の声音は、あまりにさりげなかったので、あやうく元能は聞き流してしまうところだった。寿桂は感情を見せない品のよい微笑を浮かべ、
「あの子と会うのは、それが初めて。我ながら不思議でしたよ。あれとは赤子のころ離れて、さぞわたくしを恨んでいるだろうに、今更顔を合わせても、と迷いましたが、それこそ今生の見納めかも知れぬと、対面いたしました」
「左様で」
唐突な尼の吐露に、元能が返すべき言葉はまたしてもなかった。父と自分を捨てた母を、従兄は決して口にしたことがなかった。元重は母を憎んでいるのだろう、と元能は想像しているが、それは皮相な推測かもしれない。
「悪くなりました、と」
 寿桂はつぶやいた。翳りのない優しい声音だった。元能の耳にはあたかも「花が咲きました」と彼女が言ったようにさえ聴こえたのである。
「それは」
「尼殿、元重は悪者に育ちましたと言ったのです。それだけであの子は泣きも笑いもせず、ただわたしの顔をじっと見つめて帰ってゆきました」
寿桂の面は、やはり微笑を浮かべていた。その面の下にどのような心が揺れているのか元能には測りがたかった。いや、測りたくなかった。彼女の微笑の裏にわだかまっているのは、寿桂の歎きではなく、むしろ従兄の屈折であるから。
「兄は、ひとかどの能役者と父は申しております」
 とりつくろった返事のせいで、元能は声がからまってしまった。従兄への感情が噴き上げる。恩義ある観世一門と自身の分水嶺の時期に、母の病床を見舞わずにはいられなかった元重の心は、そのとき弱くなっていたのだろうか。それとも何かへの決別だろうか。
たぶん後者だろう。従兄は自分たちとの縁を心で断ち切ったのだ、と元能は思うことにした。寿桂のしらじらとした面を見つめていると、今、急速に観世一門が分裂してゆく哀しみや動揺がなだめられるような気がする。
(お前は何しにここへ来たのだ)
 元重の揶揄まじりの声が蘇る。こことは尼寺か、俺は兄者に会うかわりに、尼君にまみえたのだ。元重の幻聴には自然な返答がするすると出てきた。
寿桂尼は血の気の失せた顔をゆるゆると庭に向け、長い雨脚に打たれる篠竹あたりに視線を落とした。息子を思い出しているのかもしれない。尼僧の端正な横顔に元重が重なる。その元重は、兄弟の誰よりも世阿弥の貌に似ているのだった。ああ、と元能は肯いたが、ことの真偽など歳月の奥に溶けてしまい、現在から未来への流れに、もはや何の色合いも加えはしないのだった。
簡素な尼寺の庭は、この梅雨の季節に手入れの届かず、草木などの生茂るにまかせ、少し乱れた風情がしめやかな情緒を添えていた。
「一雨ごとに夏草が生いのびるので。それはもう目に見えるような速さ」
 雨にかき消されそうな尼の声は、さっきまでの潤いを失い、ややつらそうだった。夏草のことを言いながら、何か別の情念が彼女の口からこぼれている、と元能は思った。繁茂する雑草の生気に、老女はその瞬間圧倒されてしまいそうな気配だった。寿桂尼は思い出したように言った。
「鹿苑院さまの御愛妾だった高橋殿が、ついにみまかられたそうです」

五条西洞院辺には、六七軒の遊女屋が軒をつらね、賀茂川近い東洞院の遊女街と合わせてこの一帯は遊里として栄え、庶民のみならず武家大名、さらに将軍から公家にいたるまで広汎な客を集めている。これらの遊女屋を「づし」といい、逗子、図子の字をあて、後世には辻君と混同され、巷をさまよう夜鷹、立君の類と見なされたが、室町時代のづし君は、店を構えて売春する女性のことである。
 それぞれの店に元締めの長老、古君は、今の遣り手婆だが、三途川婆などと人は呼び、本人もそのように名乗ってはばからないのは、今昔変わらない、こうした商売の阿漕を思わせる。
「ちょっとあんた、歯を見せな」
 新参の宝珠の容姿を上から下まで仔細なく点検し、姥はその上玉ぶりに満足そうに肯いたが、最後に思い出したように手を叩き、眼をまるくしている宝珠を促した。
「は?」
「はぁ、じゃないよ。あんたの歯を見せておくれ」
 三途川婆、もとい地獄図子の古君は白粉に焼けて渋柿色の顔に、にやりと訳知りの笑みを浮かべた。
「あんたは器量がいいし体も肌も申し分ない。曲舞あがりだから芸もある。あたしはね、あんたみたいな上玉を迎えたときは、最後の駄目押しに、歯を見せてもらうことにしてる。おかしいかね? お口の具合で、あちらのよしあしも、わかることがあるんだよ」
 さていかがなものか? けうとい話だが、この時代、疾病の蔓延はすさまじく、いや、すさまじい、という形容などあらためて必要がないくらい、実はあたりまえだった。古代、美人の基準として、髪と皮膚の美しさが第一とされたのは、多分に健康上の理由があったのではないだろうか。そして表の病は白粉で糊塗できても、粘膜はごまかすことができない。歯を見たい、というのは口腔粘膜の色艶で、商売道具の女の値踏みをしたいということではなかったろうか。
宝珠は素直に口を開けた。古君は口腔をぐいっと顔を傾けて覗き、さらに指で宝珠の唇をめくり、歯茎から喉まで丹念に点検し、最後に前歯をつまんで軽く揺すった。つやのいい前歯は、しっかり歯茎に根付いて揺るがなかった。
「歯並びもいい、上出来だ。器量といい体といい、きっと前世の行いが良かったんだよ、あんた」
「そうなの」
 と宝珠は澄まして肯いた。古君は機嫌よく笑い、
「気性もいいね。どこの生まれ?」
「近江は大津」
「ふうん、ここには近江生まれが多いよ。遊び女に向いてるんだろうかね」
姥は宝珠の口をいじった指を前掛けで拭き「さっそく今夜上つ方の前に出てもらうよ。赤松さまのお屋敷だ。御領地の反乱が収まった祝いだから、たんと稼げる。ちょうど白拍子が足りなかったんだ」
 夕刻までに準備しておくれと、姥は宝珠を女どもの部屋に連れていった。最後に
「いいかい、騒ぎをおこさないでよ、面倒はお断りだ。芸があろうと上玉だろうと、あんたはここでは今参り、新参なんだから」
 女たちの白粉のすっぱいような匂いと、それぞれが抱え込んだ厖大な衣装の黴臭さが籠もる部屋は半ばが板の間、もう半分は土間で、そこはそのまま裏庭につながっていた。雨漏りのする土間の内井戸の周囲で女どもが三人ばかり洗い物をしていたのが、姥の大声にいっせいに振り返り、宝珠に無遠慮な視線を注いだ。
「宝珠と申します。姐さん方よろしく」
 殊勝らしく膝をつくと、板の間の片隅で赤ん坊に乳を含ませていた女が、かるい笑い声をあげた。
「かたくるしいことはおやめ、ここは地獄」
 女は豊満な乳房を赤子の口からもぎはなすと、床をいざるように宝珠ににじり寄った。
「踊れるの? 婆の声が聞こえたよ。あたしは今様歌いの紅鶴」
肥り肉の紅鶴だが、顔は細面で少し頬骨が目立つ。はだけた胸から腹にかけて肌理こまかい脂づきがねっとりと光って見える。子持ちにしても若い女ではない。地獄、と言い捨てた一言は湿り気がなく朗らかだった。切れ長の一重瞼に高い鼻筋。紅鶴はなかなか美しい女だ。
「あいにく鼓打ちが十日ばかり前に死んじまったんだ。飢え死によ。いい子だったのに馬鹿だよね、自分の食いぶちを削って、貧乏公家の親たちに貢いでいた」
 紅鶴の赤子が、乳を慕って泣き始めた。母親は、自分のゆたかな胸を片手で持ち上げ、赤ん坊の口に乳首を押し込んだ。肩の下で皮膚がすこしたるんでいた。赤ん坊は大粒の涙をこぼしながら、母親の乳房に吸い付き、胸を両手でつかんで小動物のように喉を鳴らした。一歳は過ぎているようだ。くりくりと太って丈夫そうだが、この飢饉の時節、子供に十分な授乳をするために、紅鶴はどれほど稼がなければならないだろうか、と宝珠は想像した。路傍には、飢えて死んだ子の屍も多い。それだけでなく、賀茂川には孕んだものの、育てられない嬰児が日々流されているのだ。赤子を流す母親は商売女だけではなかった。紅鶴の赤ん坊にしても、乳の出が悪くなれば、とうてい命をつなぐことは難しいだろう。
「鼓打ちならいるぜ」
 裏庭から蓑笠男が顔を出し、なれなれしい仕草で土間の女どもに頭を下げた。蓑は脱いでいるが、笠はかぶったままである。どこから持ち出したのか、手にはいつのまにか鼓を手にしている。宝珠は目をまるくした。
「あんたどうして」
「婆め、湯水のいっぱいもくれやしないが、俺が傀儡(くぐつ)とわかったら態度を変えた」
「売り込んだの?」
 おう、と男が蓑を土間に放り投げるのに紅鶴は、
「宝珠の男は笠かむり(包茎)かい」
 とあけすけに冷やかした。周囲の女は生気のない笑い声をあげ、男は悪びれずに肩をそびやかした。
「違えねえ。だが、このお上臈は俺なんぞ洟もひっかけない。俺のつらが気に入らないんだ」
「だから、どんなつらなの」 
 紅鶴はくすくす笑った。
男は笠紐を解いた。女どもは訳もなく息を潜め固唾を呑む。宝珠ひとりそっぽを向いて板の間の真ん中の、黒い火鉢にくすぶる埋火を眺めている。
 わ、と誰かが無遠慮な声をあげた。いい男じゃないか、と別な女。が、その声は不自然にひきつれている。もったいないねえ、と低い呟きは紅鶴だった。
 男は三十半ば過ぎ、四十の手前といった頃合だった。顎の大きい顔に太筆で勢いよく描いたような目鼻があざやかだ。まなじりの切れ上がった瞳の光りが日焼けした浅黒い顔に異様に際立ち、まともに視線を交わすのが憚られるほどだ。鼻梁は太くまっすぐで、唇は官能的に厚いが、内奥の意志の強さを刻むようにきりっと引き結ばれ、口角が窪んでいる。肩幅のひろいがっしりした体格と、年齢相応に厚みを加えた顔はよく調和して、粗雑な言葉を使っていても、男の風姿には品格があった。
 が、この男の頭にはいっぽんの髪もなかっった。髪がないだけではなく、眉間のすぐ上から皮膚は焼けて眉もなく、頭皮は炎熱に晒されて乾いた大地さながら皮膚が歪み、こまかな亀裂が走っていた。片耳は根からちぎれ跡形もない。男の焼けた頭皮から、縮れた剛毛がわずかにちらほらと伸びているのが、いっそう無惨だった。
 男の並外れて風格のある容姿が、この火傷をさらに酷く印象付けるのだった。
「気の毒に、いったいどうした訳だよ」
 尋ねながらも紅鶴は、母親の本能で、無意識に赤ん坊を着物のふところに押し込み、男を見せまいとした。彼女の声にはしんからの同情があるのだが。
 男はひややかに応えた。
「がきの時分に家が焼けたんだ。お袋はそれで死んだ」
 女どもは互いに目配せして頷き合った。余計な詮索は無用だ。男の魁偉な風貌と酷い傷の取り合わせは皆をすくませるのに十分で、さだかにわかりはしないが、この人物の秘めた暗い燃焼を眼光に感じ、そろそろと後じさる者さえいた。
「あんた、名前は」
少し押し黙ったあと、また紅鶴が声をかけた。おしなべて蒼白な遊女どもの中で、ただ一人、彼女の顔には血の気が昇っている。男の内面の焔をまざまざと見、火に向かう者が我が身にほむらを赤く反映させるように、紅鶴の瞳にはきらきらと光りが射し、呼吸がはずんでいた。
「そうさな」
 男はふところから赤い布を取り出し頭をぐるぐると巻いた。すると、焔立つ暗い燃焼の印象は消え、眼光も鎮まり、つくねんとした壮年の傀儡が現れた。じたじたと陰鬱な梅雨の気配が軒をつたって夜風が吹くと、路地のどこかで誰かが垂れ流す糞尿の臭気が鼻をついた。
「蝉丸」
 男はぼそりと応え、傍の若い女のしだらない胸元を無遠慮に覗き、姐さんいいからだだな、とはぐらかすように笑った。

角帽子(すみぼうし)、 水衣(しけみづごろも)、無地熨斗目(むじのしめ)の寂然とした僧侶にやつすと、元能の涼しい目鼻だちは、その沈んだ色合いのために、却って冴えた。
 夕暮れ過ぎ、皆に遅れて、五条の尼寺から赤松屋敷に参上した元能は、門を入るや否や賑やかな宴の喧騒に包まれた。領国播磨の反乱鎮圧に巧あった家臣、侍たちがひさびさに上洛し、主の屋敷で羽目をはずすことを許されたどよめきだった。五月闇を押し退けるように篝火松明がそこかしこで燃え、あちこちの遊女宿から集められた女どもが、色っぽい身ごなしてたむろしている。身分の低い侍の宴席は、雨を避けて広縁と外縁に設けられていたが、今宵は無礼講とて、普段なら主従を隔てる障子まいら戸は、屋敷の奥まで開け放たれていた。
「尼君はいかが」
 遅れて入った弟に、着付けの途中、元雅が尋ねた。今夜は略式の座敷能で、狂言と能とがそれぞれ一番ずつ上演される。まだ飲み食いの宴はたけなわであり、座興のしおではない。厨子から参った遊女どもが、今様、曲舞などで座を盛り上げていた。
「よわよわとしておいでですが、急な気配はございません」
 唐織を羽織りかけた兄を弟はまぶしく見上げた。この紅地八橋模様唐織は、父世阿弥が若き日に赤松氏から拝領したもので、何度も水に晒して織り上げられた衣装は、数十年に渡る使用に耐えてなお色褪せず、つい昨日、大舎人織部(おおとねりおりべ)から献上されたばかりのように華麗だった。金糸で流水と橋を織り、極彩色の菖蒲に黒燕の舞う装束は、生身の女がまとうには過剰な美々しさであった。どれほどの美女であっても、この衣装の絢爛には圧倒されてしまうだろう。だが、直面で、紅白粉もつけぬ元雅はなんとこの豪華に調和していることか。背筋に梳きおろし、元結にまとめたつややかな黒髪が、額に締めた紫の蔓帯に冴えている。三十四、五を盛りの極めと説いた世阿弥の言葉どおり、元雅は今、男の肉体の成熟の頂点を迎え、身心ともに充実した魅惑で輝いていた。
(この棟梁あるかぎり、我らの花は失せぬ)
舞台の準備に働く一座の者たちの顔には、元雅を中心に仰ぐ誇らしげな緊張が見えた。将来に予感される暗い影は、今、この若い棟梁の堂々とした居住まいに消されている。
「棟梁、では」
 今夜の狂言をつとめる三郎九郎が膝をついた。彼はもと近江猿楽比叡座に付いていたが、不世出の舞手犬王の死によって衰亡した一座を見切り世阿弥に従っている。もと比叡山の寺小姓だった三郎九郎は、丸顔に下がり目という、なかなか愛嬌のある顔立ちだった。すでに四十も半ばを過ぎたが、腰の軽い飄々とした風体は十歳も若く見える。妻を娶らず、さりとて遊び女に溺れるでもなく、酒だけが楽しみという男だった。彼がしらっとした顔で舞台に上ると、まだひとことも喋らぬうちに、見物衆からくすくす笑う声が聞こえる。目と目の間がひどく離れている上に、ぽってりした口許がなんとも言えずおかしいと皆は言う。たしかに吊り合いのよくない顔だが、決して醜くないのが、笑わせ者としての狂言役者にはうってつけなのだった。
「花子、よろしく頼む」
 元雅の言葉に、へい、と三郎九郎は頭を下げた。半ば禿げ上がった頭に、白髪交じりの茶筅がちょこんと乗っている。小太りの体を丸め、肉の盛り上がった肩に丸顔を埋めるような格好でかしこまった彼は、もうそのまま主にこきつかわれる気の良い太郎冠者だ。
狂言「花子」は、愛妻家の主が妻を騙して遊女花子に逢いに行く間、召使の太郎冠者に身代わりをさせるという筋書きだ。主は妻に、七日間の参禅をするから近寄るなと言いわたし、座禅衾を被って籠もる。実はこの役を太郎冠者に押し付け、妻がやってきたら口をつぐんでかぶりばかり振っていよと言い含め、抜け出そうという肝だ。しぶしぶ身代わりになった太郎冠者は、これが内儀に知られたら、自分の命はあるまいとびくびくしている。
 案の定、夫の精進生活を案じた妻がやってきて、いろいろと話しかける。太郎冠者は主に命じられたとおり、一言も喋らず、必死でかぶりを振って騙そうとするが、結局妻に衾
を引き剥がされてしまう。たばかられたと知った妻は怒り狂い、「おのれ打ち殺すぞ」と太郎冠者を脅す。
進退窮まった太郎冠者は仕方なく主の命令を妻に明かし、どさくさにまぎれて妻に座禅衾をかぶせて逃げる。そのうちに主が帰宅してくる。可愛い花子に名残を惜しみ、ひきかえ家に待ち構える古女房を悪しざまに罵りながら戻った主が、さて太郎冠者の座禅衾をひきあけたとたん、形相険しく妻が浮気者の主にうちかかり、逃げる夫を「やるまいぞ、やるまいぞ」と追い込んで終わる。
三郎九郎が太郎冠者をつとめ、主は古株の何某、妻を演じるのは三郎九郎のまだ若い甥であり、一年ほど前からこの甥は叔父とともに舞台をつとめているが、棟梁の能のモドキ
をつとめるのは初めてだった。
「よろしゅう」
三郎九郎が控えた脇で、甥の乙弥が神妙に深く手をついた。叔父甥の間柄と聞けば、なるほど似通うかもしれぬ柔らかい顔、目じりの下がった乙弥だが、女にしたいような色白餅肌で、やや受け口気味の小さな唇がなんとも云えず可愛らしい。普段の動作もなよなよしている。まだ二十歳そこそこの乙弥を、口さがない一座の者は、三郎九郎の女房であろうと噂していた。乙弥は男色であることを隠さず、女装こそしないが、衣装も男にしては派手なやわらかものを好み、ぽったりした唇をさらに強調するように、常に薄く紅を付けていた。
「お恥になりませぬよう、あい勤めさせていただきます」
 乙弥はすこし小首をかしげ、元雅と元能に媚びた視線を送る。上目づかいに絡む視線に元能は鼻白むが、元雅は鷹揚に構え、
「乙弥の芸達者は三郎九郎殿から聞いている。氏信殿も重宝されている、とか」
いえ、そんな、と乙弥は衣装の袖を両手ですくって顔におしあてた。

中世夢幻 其一 山吹

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  山吹

 かあん、と高いひと打ちが蒼穹に響くと、初夏の青葉が風にしろい葉裏を翻し、はるかにのぞむ北山の青い影までも、かわいた大鼓の音はまっすぐに冴え渡ってゆくようだった。
山桜の根本に青年は肩肌を脱ぎ、まだ肉の薄い背中にうっすらと汗を滲ませては乱拍子
を打った。繁り重ねる葉蔭に、青年の鼓は冴えた風をつくり、きらきらと木洩れ日が雫のように肌に散りかかる。
浅葱いろの袴を短く括った青年の眉目はすがすがしく、やや張った顎に、真一文字に結ばれた輪郭正しい唇が一途な印象を与える。鼓を打つために青年が腕を振り上げるたび、光と影があざやかに素肌に輝き、打ち出された鼓の間合いと揺るぎない律を奏でた。
「良い音だ」
青年がひと呼吸おいたところに、後ろの木隠れから声が響いた。声は青年の拍子をはかるように、一瞬の間にぴたりとはまった。青年は振り上げた手のまま、呼吸をついた。
「兄者」
「どうした元能、打ってみよ」
「気がそがれた」
青年は膝から鼓を下ろし、声の方に向き直った。風が吹き抜けると、葉鳴りはさわさわと謡声のように頭上でさざめいて過ぎる。
 向かい合った青年たちはよく似ていた。木の影から進み出た男は三十を幾つか超えており、手足が長く、肩幅も広かったが、瓜実顔の面立ちは弟よりも優美だった。
 男は落ち着いた足取りで青年に近寄り、年長者のごく自然な鷹揚さで、うまくなった、と再び褒めた。褒められた元能は面映ゆげに微笑したが、不意に現れた旅装束の兄を気遣い、
「大和から何故戻られました」
「皆はまだ興福寺じゃ」
 埃まみれの旅衣、脛巾のままの兄を、元能は無言でふり仰いだ。兄元雅の、父そっくりに冴えた瞳に漂う憂いを、弟はいたましく見てとり、声を低めて言った。
「御所での演能はならぬ、と将軍家の御命令が下りました。父上はまだ兄者には知らせるな、とおっしゃいましたのに、誰が」
「誰でもよい。父上は如何」
 元能は、葉桜の影に見え隠れする大屋根を見やり、眉をひそめた。
「お変わりなく」
 元能は歯ぎしりと共に声を荒げた。
「元重めが将軍家にとりいったのでございます。許せません、わたしは」
元雅はさっと弟の肩をつかんだ。
「滅多なことは言うまいぞ」
 口惜しげに唇を噛む弟に元雅は声をやわらげて、
「上つ方の御心は気まぐれなものじゃ。一時元重に篭絡されても、やがて勘気の解かれることは必定」
弟をなだめ、彼は湯殿に向かった。
観世十郎元雅は、祖父観阿弥に似た大男であった。日常おおらかな風姿の彼は、舞台に立つや、かつての観阿弥同様、なよやかな美女、初々しい少年、枯れ寂びた翁へと自在に変化(へんげ)できた。
 篁に囲まれた稽古場は、邸内の奥にある。
水浴し衣服を改め、元雅は戸口で呼吸を整えた。父といえど、世阿弥に対面するときは身心の構えが要った。
「戻ったか」
 戸も開けず、息子がまだ一言も発せぬうちに、世阿弥元清はその気配を察していた。
「只今、早馬にて」
 世阿弥は禅の書物を開いていた。竹薮のつややかな緑の照り返しで、拭き磨かれた室内は明るみ、父はその明かり障子越しの起伏の乏しい余光に浸っていた。正面の押板に掛けられた軸は空白で、落款のみ、墨いろあざやかに捺してある。蕭とした薫香が、青磁の香炉からほのかにくゆっている。
 世阿弥ははらりと書を閉じた。障子を開けると、午後の陽がゆるく流れこみ、彼の整いすぎる顔をくきやかにした。男にしてはなまめき、また美女と見れば冷たすぎた。
父の静かな居住まいに対面するうちに、元雅は己れの心逸りが砂のように崩れてゆくのを感じた。世阿弥は口許だけでわらった。
「元能は鼓を締めすぎる。あれの足運びほども慎重であれば、一段と手が上がろう」
「こたびの勘気に、元能はひどく心を傷めております」
「将軍家の気紛れなど、猿楽役者のはかるところではない。我らは芸に徹するまでのこと」
 それは俺の台詞だ、と元雅は思いながら、やはり言葉を継いでいた。
「観世座への圧迫は、ますます強まりましょう」
世阿弥はまばたきひとつしない。
「元重もまた観世座ではないか」
元雅は言葉を失った。世阿弥は懐手をして夕陽を眺めた。斜光を浴びて床に落ちる小男の世阿弥の影がくろぐろとふくらみ、元雅を被っていた。父の面前では、元雅はいつも、自分がふたまわりも小さくなったような気持ちになる。
 世阿弥はさりげなく問うた。
「大和の衆は変わりないか」

観世座は、もと大和の古い猿楽座から起こった。世阿弥の父観阿弥は、卓越した芸で名をとどろかせ、足利将軍義満の目にとまる。義満は観阿弥を贔屓し、まだ十二歳のその息子鬼夜叉を寵愛した。
 世阿弥。幼名鬼夜叉は目を瞠る美童であった。足利三代将軍義満は、この少年を夜伽に入れた。
 今でこそ能役者は武家の式楽、伝統芸術という格式を備えているが、五百年前のこの草創期には〈猿楽〉と呼ばれ、当時人気のあった〈田楽〉の下位におかれ、その社会的地位はきわめて低かった。芸人の世渡りの手段は、昔も今も権力者の愛顧を得るのが成功の第一歩である。
鬼夜叉は才能にあふれ、貴人の伽をして対手の寵を逸らさなかった。当時、連歌の第一人者であった大貴族の二条良基は、十三歳の鬼夜叉の多芸と美貌を絶賛し、あらたに藤若の名を与えた。
それから五十年が過ぎる。
 元雅が去ったあと、夕闇の濃くなりまさる堂内で、世阿弥は黙然として動かなかった。
 はるかの山影は、透明な夕空に接してはやくも闇に沈んでいる。世阿弥を愛し、ひきたて、彼の栄光の源であった尊勝院足利義満の山荘北山第がそこにある。金箔を施した華麗な別邸は、いま禅宗の寺院となり、寂滅の華やぎで衰えゆく室町幕府を、なお飾っている。
義満亡き後、将軍の権威は失墜し、政治の実権は有力守護大名の手に移り、世相に混迷が忍び寄っている。
世阿弥は、義満によってひらかれた前半生を追憶することは稀であった。成功と誉れに満ちた栄華の日々であったとしても、苦渋のかげりを帯びていた。
 この感情は、現在の逆境のためではないことを彼は弁えていた。昔日の幸運を懐かしむのは惰弱であった。しかし、そうした羞恥心のために苦さを感じるのではない。彼は、この苦痛を北山に燦然と佇つ堂宇の幻の裡に封じていた。そうして、追憶のかわりに徒らに燦爛をそそってやまない黄金の輝きを見つめる。幻は炎に似た鋭い痛みをくれたが、血肉を断つなまな感覚ではなく、精神の内奥に斬り込む冷ややかな痛苦の炎であった。

父の前を辞した元雅は無力を噛みしめた。父からは何の手ごたえもかえってはこない。それも予期していたことであったが、一座を率いる棟梁としては、現今の事態に、動揺を感じずにはいられない。
この永享元年(一四二九)年三月、青蓮院門跡だった義円が、重臣たちの籤引きによって将軍職を継ぐという異例の事態となった。還俗して義教と改名した新将軍は義満の子で、門跡時代から、観世一門の中、ことのほか元重を寵愛していた。癇症の義教は平素から感情の起伏が激しく、ときに偏執狂に近い素行が見られた。周囲への慮りを無視した元重への並ならぬ愛顧は、その一端とも思える。が、それは義教の父鹿苑院義満の、世阿弥への態度と等しいとも言えた。いかに鬼夜叉が才貌すぐれていようとも、出自卑しい〈猿楽者〉に貴族に劣らぬ処遇を与える異例に、幕府宮廷はさぞかし影で眉をひそめたに違いないが、強権を揮う独裁者義満は、歯牙にもかけなかった。
 しかし今や、室町幕府の土台は徐々に揺らぎ始め、そこはかとない衰退の兆しが肌身に感じられる。跡継ぎがすみやかに定まらず、籤引きにより後継にされた義教の地位は決して強固なものではない。不安が、義教の将軍としての虚勢をさらに増幅させる要因となっているのかもしれない。
「兄者」
 廻廊の半ばで呼び止めたのは元能だった。何も言葉には出さないが、もの言いたげなまなざしに、感情の揺れは夜目にもあきらかだった。
「悠然としておられる」
 元雅はみじかく答えた。
「元重のことは」
「あれも観世一門と仰せだ」
 元能は堰を切ったように呻いた。
「わたしには父上のお心がわかりません。飼い主の手を噛むような恩知らずは、一座から勘当すべきなのです。叔父上亡き後、父上は我等兄弟と等しく、いいえわたしたち以上に元重を可愛がっていらっしゃったではありませんか? それなのに兄者が観世太夫になられたのが気に入らぬとは」
「世迷い言じゃ、やめよ」
 元雅は、弟の短慮を中途で折った。元能の怒りは、観世一門の心中を代弁している。が、もはや世には通らぬ繰言であった。
訴えを制せられた元能は唇をしろくなるほど噛みしめ、くるりと踵をかえした。夜風がどっとなだれ、青臭い若葉は元能の激情そのまま匂いたつ。
「お兄様」
 外縁の暗がりから静かな足音が、その姿より先に元雅の耳に届いていた。妹の桃枝が燭
台を両手にかざし、柱がくれにたたずんでいる。灯火の素朴な輝きに浮かぶ妹の顔は、沈思する兄の内心を測りかね、あどけない困惑をたたえて動かなかった。
「今、元能兄様が走ってゆかれました。たいそう険しいお顔で」
「案ずるな」
元雅は声をやわらげた。桃枝は切れ長の瞳をうるませて囁いた。
「お文をさしあげたのはいけなかったでしょうか。でも、お母様や皆の心痛を見ていられなかった」
「よい、父上は何もかも見通しておいでなのだよ」
 桃枝はそっと兄に近寄り、元能によく似た瞳でまっすぐに兄を見つめた。妹ははらからの中でただひとり、世阿弥の面影を受継いでいない。ふっくらした丸顔に、こづくりな目鼻がはらりと優しく、まだ整えぬ自然のままの眉が、額にくっきりと弓なりの輪郭を描いている。奈良の寺院のどこかに、このような清らな容貌の仏像があった。大和びとの血は、この妹に濃く現れているようであった。
「元重兄様、どうしてこのような」
 桃枝はつぶやいた。灯火の陰影に揺れる妹の顔に怒りはない、と元雅は感じ、なぜか安堵したが、そのとき改めて、自分もまた従弟を少しも憎んでいないことに気付いた。
「御所さまは寵愛の芸人風情に動かされる方ではない。あの方はまだ御門跡のころから元重を御贔屓であられた。将軍職を継がれ、その手始めに、御力を揮おうと思し召しなのかも知れぬ」
「でも、なにゆえ我等をお苦しめあそばすのでしょう」
 桃枝は考え深げに小首をかしげた。元雅はしばらく妹の表情を見つめていたが、少女のまなざしは困惑しつつも落ち着いていた。元雅はゆっくりと言葉を継いだ。
「おそれながら、御所さまの御権力は微々たるものだ。御先代の義持さまは、お後継ぎの義量さま御夭折のあと、政治を三宝院さま、山名さまに委ねて顧みず、酒色に憂いを紛らわせて過ごされた。政治の実権は、それゆえ宿老の大名方に移ってしまったのだ。今、義教さまが還俗なされてお跡を継がれたが、御意ままならぬ日々であろう」
 桃枝は張りのある瞳をゆっくりとめぐらし、闇の濃い庭へと視線を落とした。
「御所さまの御自由になるのは、わたしたちだけなのですか。それで…」
「我等のみとは言わぬ」
お気の毒な、と囁いた妹を、元雅は愛しく思う。桃枝に父の面差がないのは、元雅や元能には仕合せなことだった。巨きな父の姿を兄弟は常に意識し、憧れ、敬愛しながら、深く畏れていた。この妹は、そうした兄弟の肌身を削るような愛情の凌ぎから離れ、おっとりした居ずまいであった。
「我等は尊勝院さまの御世に優遇された。宿老方は皆、何かにつけて義満さまの御世をひきあいに出される、という。それが義教さまには御不快なのであろう」
 元雅は息を吸い、己れを励ますように言い切った。
「芸がまことのものであるならば、御不興もいずれお直りになろう」
桃枝は、頬にふりかかるしっとりした黒髪に頬を埋めるように肯き、こうした少女の邪気のない共感は、一瞬元雅を慰めた。彼は自分の言葉が、半ばは虚妄であることを知っていたのである。
初夏のみずみずしい闇が、竹薮の影を深めている。どこかで謡の声が響き始めた。若者の声だが、ゆったりと奥行きが深く、風の流れに和して耳に快かった。
「氏信が、来たのか」
「はい」
 桃枝はうれしそうに微笑んだ。世阿弥屋敷には多くの弟子たちが起居しており、金春座の棟梁氏信は、父を早く亡くして以来、元雅、元重、元能とともに、世阿弥の薫陶を享けた。
成人して一座の長となった今も、氏信はしばしば師の教えを請いに観世屋敷にやってくる。
氏信はこの度のことをどのように見ているだろうと元雅は考えた。寡黙な氏信だが、その人柄を元雅は信頼していた。彼は大変な読書家であり、禅に傾倒している世阿弥も一目置くほどの教養を蓄えている。年齢からすれば、元雅にとっては弟にあたるが、人格の老成した氏信は、元雅のよい相談相手になっていた。

怒りにつき動かされ、馬を駆って元重の屋敷に到着したとき元能は全身汗まみれであった。暑さのためばかりではない。いらだちと怒り、哀しみが青年を揺さぶっている。若い彼には父と兄の心中を測りかねた。先年、元重が、世阿弥に無断で独立したときも、父はいっさい咎めることなく、従兄の離反を黙認した。
以来元重は観世本流と疎遠になり、棟梁の承認も得ずに興行を催すようになった。それを後援したのは、青蓮院門跡義円だった。幸か不幸か、当代の将軍義持は猿楽より田楽を好み、義満時代とは異なって猿楽座への統制は比較的ゆるやかになっていた。強固な庇護者を持たぬ猿楽座は、それぞれに有力大名を頼って芸にしのぎを削り、そうした権力の分裂状態に乗じて、元重は観世本流から分かれていったのである。
だが今や時流は急展開し、元重を偏愛する将軍義教が誕生した。義教はかつて義満が世阿弥に目をかけたように、否、それ以上に元能をひきたてるだろう。それにしても観世本家の仙洞御所での演能を外すとはなんたる事態か。それをまた元重がつとめるなど、忘恩極まりない。
(なぜ父上は元重をお咎めにならぬ。いくら元重でも父上みずから御叱責なされば、かほどの僭越はせぬものを)
 元重は世阿弥の弟四郎の子であった。四郎は凡庸であったが、元重の才能は華麗の一語に尽きた。元重は伯父の養子となり、元雅元能とともに、世阿弥に薫育されたのだった。
(実子以上に、父上は元重を仕込んでおられたではないか、それを!)
 元能はこめかみを流れる汗をぬぐった。
 檜の香のたつ門を叩き、案内を請うと、ややあって現れたのは、当の元重だった。
「来ると思っていた」
 驚く気配もなく元重は目をほそめ、平然と奥へ招き入れた。
「しかし、お前さんが来るとは。俺は元雅兄が駆けつけるのではないかと想像していたのさ。いや、兄は来ない。伯父上も兄者も俺の処へなど絶対に来ないだろう。後ろ足で泥をひっかけた甥の敷居など、決して跨ぐまい」
薄暗い広縁を歩きながら、元重は低い声で喋り続けた。元能に話しかけているというよりも、ひとりごとのようだった。なぜか元能は言葉を発することができず、黙っていた。
家人は寝静まっているのか誰ひとり顔を出す者はいない。世阿弥に背き、元重に従っていった者も多い。それらは元能の気配を察しているやもしれぬ。
 元能の屋敷は広かった。ひんやりとした夏の闇に、まあたらしい檜が香り、拭き磨かれた廊下は、歩むたびにさわやかな軋みをたてた。まいら戸を開け、通された座敷には、武家風に畳が敷かれていた。差し向かいに座ると、元重は棚から瓶子をとりあげ、かわらけになみなみと注いで元能の前に置いた。
「いただきませぬ」
 元能は横を向いた。馬上で用意した罵声のひとことでも叫ぶことができたら、と青年は物狂おしかった。観世屋敷を飛び出したときの逆上は、この従兄の顔を見た途端、醒めてしまった。父また兄ならば元重を諫止することもできようが、自分はこの従兄に対して何の力も持たないことはわかっていた。
 だがそれにしても、せめて殴りかかり、裏切り者、とののしることができたら!
(なぜできぬ。この兄の胸倉つかんで…)
 面と向かった元重が、あまりにも父に似ているせいかもしれなかった。皮肉なことに、元重の顔だちは実父には似ず、伯父世阿弥に生き写しであった。元雅、元能よりも似ていた。さらに目から鼻へぬける才気も、と観世一門の古老たちは言った。若き日の世阿弥、鬼夜叉は、抜群の記憶力で厖大な和歌また漢詩文を諳んじ、当代きっての教養人二条良基と連歌を遊んで遜色なく、それどころか気難しい大貴族の心を完全に魅了してしまった。
元能の才華は、若き日の鬼夜叉、藤若を想わせる、と昔を知る者どもは口を揃えた。
 世阿弥は、この甥をたいそう可愛がっていた。その記憶が今このときも元能の怒りを抑えるのだろうか。元能は引き裂かれるような気がした。従兄を憎んでいることはたしかだが、本人を前にして、まだ愛し、慕っていると感じるからだった。
 そんな元能のそぶりを、元重はじろじろと眺め、見透かしたようにわらった。冷笑を湛えてなおいっそう端麗な顔に、また世阿弥の面影が重なる。
「相変わらずだ」
酒を断られたことを怒りもせず、元重は盃を口に含み、からかうように口許を緩めた。
「伯父上の暮らしは禅僧のようであったが、兄弟の中でもお前さんが一番徹底していた」
能役者は、酒、賭博、好色を禁じねばならぬ、とは世阿弥の厳しい訓戒である。
 元能はきりっと顔をあげ、
「何故我らに仇をなすのです」
その声には、まだ少年じみた幼さが残っている。
「何のことだ」
元能はそしらぬ顔で手酌を傾けながら、横目で薄く元能の顔色をはかっている。従弟の動揺をたのしんでいるようでもある。
「御所への出演を」
「俺のたくらみと言うのか」
 皆まで聞かず、元重はからりと盃を捨てた。
「世間知らずも相変わらずだ。お前は将軍家が俺ごときの言いなりになる方と思うか」
 元重の目が据わった。
「たしかに俺は御所さまに愛されている。まだ前髪のころから俺はあの方に召され、ときには夜昼問わずお気のむくままに可愛がられた。お前にわかろうはずもない」
 元重の視線がすっと細められ、灯火の光りを潜めて暗くなった。
「伯父上は、元雅兄とお前さんを芸一筋に、きれいごとで仕込んだからな。だが俺はそうではない」
 貴人の伽をつとめてのしあがった世阿弥の子供たちの代には、一座の声望ゆるぎなく、肉体を代償に庇護を乞う労苦はなくなりつつあった。理由のひとつには、義満以後の将軍たちは男色に興味を持たず、さらに早世したせいもある。が、幼くして僧職に入った青蓮院門跡義円はそうではなかった。彼の美童寵愛癖は、父譲りとも言えるし、またそのような境遇からすれば自然のなりゆきであった。義円は、世阿弥の美貌をそっくり写し取ったかのような稚児元重を伽に召し、溺愛した。
「俺はシテになりたかった」
 元重はじっと元能を見据えて言った。一座の中でシテを演じるのは後継者である。他の子供たちはツレ、ワキまたは囃子方を務めるきまりであった。
幼年時代から元重は元雅と張り合い、彼の早熟勝気な才能は、世阿弥も認めていた。二人ながら、相手に臆せずはっきりと物を言う性格だが、長兄のせいか元雅は芸以外ではおっとりと寛容なところがあり、どうかすると
元重の鋭い才気が勝ると周囲には見えた。
 観世本流にいるなら、大興行で元重がシテに立つ機会は、当然ながら元雅より格段に少なくなる。
「伯父上の許では、俺は元雅兄に常に譲らねばならぬ」
「それは皆が感じていた」
元能は、酔いみだれてゆく従兄の姿に、思わず魅せられながらつぶやいた。端麗な顔に血の色が射し、眼もと唇が女人のようになまめいて潤い、それでいて視線はきつい。見苦しさは少しもなく、元重は己れの酔い乱れの美しさを弁えて、従弟の前で心を崩して見せているのだった。おそらく義円、今は新将軍義教に対すると同様に。
 元能は言葉を継いだ。我知らず、従兄に傾いた心情そのまま、
「父上だって認めていた。大勢のひとりで終わる能ではない、と」
 しかし、と元重は捨てた盃をひろいあげ、再びなみなみと注いで一息に干し、ただいまの昂ぶりをはぐらかすように、乾いた含み笑いを洩らしたが、笑みは一瞬で消えた。
「この次第はただのなりゆきよ。俺は別段伯父上に逆らうつもりなぞなかった。あの方が」
 と元能は、刃のように目を細めた。
「御門跡に愛されなければこうはならなかったろう。御所さまは宿老大名を憎み、奴らがことあるごとに先例にする尊勝院さまを憎んでおられる。今は年寄りどもに圧迫されておいでだが、いずれご自分で政治の実権を握るおつもりだ。俺も伯父上も、御所さまにとっては憂さ晴らしの道具にすぎぬ。たとえて言うなら、俺はあの方の、伯父上は義満さまの影、そういうことだ」
 元能は、口許につきつけられた盃から顔をそむけた。半ば顔を伏せた元重は、そんな元能の有様を、掬うような上目づかいに眺めた。
「お前は嫌な酒を飲んだことはないだろう。
般若湯と言ってな、坊主も酒を飲む。あの方は御酒を飲んで、俺を寝所に引き入れた。そう、嫌ではなかった。年端のゆかぬ稚児には飲めなかった酒がいつしかうまくなったころ、俺は男の味を知った。それほど時間はかからなかった」
「やめてください」
 従兄の口調に異様な粘着を感じて元能はさえぎった。自分がなぜここに来たのか、その理由が羞恥とともに脳裏をかすめ、青年は反射的に、自分の欲望から逃れようと席を立った。が、それより早く元重は従弟の腕をつかんで、やすやすとねじり倒した。
「悪いものじゃない。ごてごてと白粉を塗りたくった女どもより、はるかに清い遊びだ。お前は何しに俺のところへ来たのだ、え?」
 従兄の酒くさい顔が、ぬっと元能の上に迫り、その紅い唇が蛇のように両端つりあがった、と見た刹那、元能は喉をころがり落ちてゆく熱を感じた。
「うまいか」
 仰向けに転がった胸の上に元重がのりかかっている。みぞおちを肘でぐい、と圧されて元能は息を詰まらせた。
「女を知っているか? いやお前さんのことだからまだだな。華奢なものだ。伯父上は息子どもに学問させて鬼の道から外れた」
「なんだと」
「俺たちは、もと大和の鬼の一族だ」
 観世座発祥の地、大和の山田猿楽は、鬼の舞を本幹とした。祭りの庭で鬼の仕舞を生業とする者どもである。鬼は邪であると同時に村落に豊穣をもたらす神であった。ムラを訪れ最初は祟りをなし、やがて調伏された後は最初の祟りのあがないとして、田畑に豊穣をもたらして去って行く。
「その鬼が禅問答に凝ってどうなる」
元重の指はすばやく動いて元能の胸を剥く。
「兄者」
 見上げる従兄の顔がこれほどうつくしく見えたことはなかった。抵抗できないのは、口移しにふくまされた酒のせいではない、と知りつつも、元能は魅入られたように動けない。
「すこしでも逆らうと、あの方は俺を笞打つのだよ。それがあの方の鬱屈をはらうこよない楽しみとは、子供心にもじきに知れた。だから、俺はときどきわざと粗相をしてあの方に打たれた。こうやって」
 元重の顔が元能の胸をすべり、剥かれてゆく肌のそこかしこに息をふきかけながらたどりつくと、元能はかすれ声を洩らした。彼はすでに待ち焦がれてかたちをとり、脈打っている。ふ、と元重の嗤い声が粘膜に吹きかかり、元能はぞっと肌が粟だった。
「やめろ」
「許しを乞う。泣きながら、な」
 どこからともなくすべりこんだ夜風が元能の声を呑んで周囲を吹きぬけ、夏の真闇を渡ってゆく。

将軍義教の治世は飢饉と一揆で始まった。
 将軍就任直後の正長元年九月、畿内一円に土一揆が起こる。高利貸しの横暴に苦しむ人々は、京都市中にまでも幕府の徳政(借財の無効令)を求めてなだれこみ、京洛は大混乱に陥った。日本民衆史上に名高い正長の土一揆である。
 さらに幕府の宿老赤松満裕の領国播磨でも土民が蜂起。「およそ土民の所、侍を国中にあらしむべからず」と奮戦し、満裕は鎮圧のため下国を余儀なくされた。
この年は全国的な大飢饉で、路上いたるところに餓死者が倒れ、汚臭は都大路に満ちあふれるありさまだった。この苦境に対して、幕府は何ら有効な政策を打ち出せない。栄耀栄華を極めた室町三代将軍義満のあと、世継ぎの将軍は無能の傀儡となり、守護大名は民衆の憂いを顧みず、己が権力の拡張にのみ奔走した。
義教は義満の四男に生まれ、東山粟田口青蓮院門跡として出家し、義円と名乗った。兄義持とその子義量の夭折がなければ、将軍後嗣など考えられない境遇であった。しかし、政治の圏外に成人した彼は、他の兄弟たちに増して、優れた資質の持ち主であった。
 それを知っていたのは他ならぬ義円ただひとりであったし、彼は己れを周囲に隠さねばならなかった。なぜならば、宿老たちが、彼を新将軍に推戴したのは、義満の遺児たちのなかで、能に耽溺し、文雅に親しむ義円が最も意のままになる人物であると判断したからなのだった。
畠山満家、山名時煕、細川持之などの老練な政治家たちは、還俗した三十五歳の将軍に、自分たちを脅かすいささかの不安も抱いていなかった。贅を尽くした新将軍御所に迎えられた義教には、さっそく美しい貴婦人が選ばれて寝所に入った。将軍の目下の務めは世継ぎの男子を儲けること。さらに守護大名たちの意に逆らうことなく、生涯温雅に、風流と儀式とに明け暮れるという、それだけにすぎぬ。
「上さまにはゆるゆるとお振る舞い遊ばされ、御機嫌うるわしゅう御内室さまと過ごされますよう、煩わしき仕儀は我らに仰せつかわされますよう」
 くびも見えぬほど肥満した山名時煕は、厚い下唇をゆがめて平伏した。錆朱地に飛び亀甲を大きくかたどった直垂が年に似合わず派手だが、将軍御所のうすぐらい障子明かりに、その体躯は巨大な狛犬さながら周囲を圧倒する。
山名の横には、彼と対照的に若く、痩せがたちの細川持之が並び、こちらはにこりともせず、視線を膝に落としている。足利一門屈指の家柄であり、代々管領を務める名門の彼は、秀麗な貴公子然と構え、唇を険しく結び、伏せた瞼の下から、山名の図体に神経質な視線を注いでいる。先年父満元から家督を譲られたばかりの彼の関心は、あきらかに山名にあり、その一挙一動を隙間なく凝視し、上座にある新将軍などまるで眼中にない。彼にとり、自家の政敵はまさに老練な山名であり、お飾りの将軍などは勢力争いの圏外に違いなかった。
山名時煕は岩が軋むように体を持ち上げ、白髪まじりの眉をびくりと上下に大きく動かすと、幼児をあやすような笑みを赤ら顔に浮かべた。
「つきましては、将軍御内室さまの御実家の者が将軍家に内密にお願いありと申しておりますが、いかようにはからいましょうぞ」
「義資がことか」
 即座に癇走った声が飛んだ。山名の持ってまわった太い声を鋭く切断するように、義教の声音は高く、また澄んでいる。細川持之は顔を動かさずに視線を義教に移した。
宿老たちの上座に、将軍義教は着衣の襟をきりりと合わせ、背筋をまっすぐ伸ばして端座していた。その姿はつい先年まで僧籍にあったとは思われぬ凛々しさで、さえざえとした瞳の光が厳しい。この厳しさには感情の澱みがなかった。怜悧で、物事の理非を見極め、躊躇なく意志を遂行する酷薄なかがやきが、青みがかった白眼に湛えられ、手練手管に長けた老政治家たちを、一瞬怯ませるほど苛烈な視線となっていた。
「謁見には及ばぬ。捨て置け」
赤ら顔の山名は、これ見よがしな困惑を浮かべ、細川を大げさに振り返った。細川持之は冷淡な顔で応じ、
「さりながら、日野家は尊勝院さま以来、将軍家との契り深く、このたびもめでたき御縁を結ばれました。それに免じて御寛容あるべきか、と謹んで申し上げる次第でございます」
「尊崇すべき将軍連枝に無礼をなしたるは、他でもない義資である。日野家は将軍家との姻戚により世に栄え、すめらぎの御覚えも摂政家に勝ってめでたいのだ。主筋たる余を、当時僧籍にあったという理由で蔑するなど、不忠不義もはなはだしい。やすやすと赦免などすれば、今後、将軍のみが敬われ、その子弟に対する非礼はいや増すであろう。義資の謹慎解くべからず。将軍家の威信にかけても許すまじ」
義教の意志ははっきりしていた。有力守護大名を相手にすこしも怯まず、義教は梔子いろに深く染めた透素襖のために、ますます蒼ざめて見える顔を、かたくなにまっすぐ持ち上げ、決然と言いはなった。
細川と山名はうつむき加減に互いの視線を盗み合い、山名は肉厚な苦笑い、細川は眉間に縦皺を刻んだが、それぞれの心中は表面のとりつくろった困惑とは、およそ異なるものだった。
 発端は、まだ義教が青蓮院にあり、将軍就任など夢にも考えられぬ頃のことだった。日野義資は都の一隅で、義円の行列とすれ違った。あいにく狭い小路であり、互いに大勢の供人を引き連れた義資と義円の一行は、道を譲る譲らぬの小競り合いとなり、結局、当時の将軍義持の正室日野栄子の縁者である義資が、現世の権力をかさに着て強引に押し切り、
無礼を咎めた義円の供の僧が負傷した。いくら将軍の弟であっても、僧侶となった義円に対して、傲慢な義資は礼を失して省みなかった。日野家は、代々娘を将軍の正室に入れ、幕府朝廷に非常な権勢を揮っていた。
ところが、その数ヵ月後、降って湧いたように義円が将軍に擁立されると、両者の立場は逆転した。潔癖な義円は先年の非礼を追及し、義資の所領を奪い、謹慎を命じた。日野家はあわてふためき、義資の妹で美女の誉れたかい重子を将軍に奉ったが、赦免はなされなかった。
「義資のしわざは、おおやけに対する無礼。重子のことは私事に過ぎぬ」
 義教の言い分である。以後、日野家は側近を通じて何度となく義資の許しを請うてくる。しかし義教はかたくなに容赦せず、月日が過ぎていった。
この日も、二人の守護大名が些事にかこつけて室町御所に参上、ご機嫌伺いと称して義資への赦免を促したが、効果はなかった。冷たくあしらわれて御前を辞した山名と細川は、別室で中食をとりながら、互いの腹をさぐりあった。
「いかさま、闊達な将軍家でござる」
 声高に山名は言った。彼は大食漢である。器に山盛りにされた干し柿、干し棗、くるみなどの菓子を、むしゃむしゃと食いながら、何杯も茶を飲む。喫茶の習慣は、この時代、貴賎上下を問わず、すでにひろくゆきわたっていた。山名は両手におもちゃのように棗の実を握り、細川を見ずに言った。
「よろしかろう、日野はちと分を過ごしておると、それがしも思わぬでもない」
細川は、鉄色の直垂の袖を生真面目に左右に拡げて座り、ゆるゆると茶をすすったが、いぎたなく食い続ける山名をひややかな横目に眺めるのみで、菓子には手をつけなかった。
「日野家の専横を封じるよい手じゃな」
山名ひとりが肯き、細川は甚だしい返答をしない。彼は沈鬱な視線を庭の山吹に移した。夏かけて金色の山吹がこぼれ咲き、緑の手水鉢に涼しげな明るい影を投げかけている。細川は慎重な視線を花に注ぎ、それからゆっくりと空を見上げた。梅雨めき、雲のめぐりは低く、大気は澱み始めたようだった。細川はじろりと山名を見た。
「遠雷でござるな」
ああ? と山名は食いかけの菓子を頬張ったまま口をあけた。儂には聞こえぬのう、と食い道楽の聴き取りにくい返事の途中で、細川は無遠慮に、
「御聡明な上さまにおわします。足利家にとり、まこと幸甚」
山名は赤ら顔の顎をしゃくって、菓子を飲み込むついでに肯いた。
「左様、御先代さまの御台所をお咎めなさるとは、まことに小気味良い仕儀」
 返答の代わりに細川持之は軽く咳き込み、同意を表したが、そのいかにもわざとらしく老成をつくろう挙措に、山名は見透かしたような嘲りの表情を浮かべ、懐紙で高らかに鼻をかんだ。
亡き義持未亡人日野栄子は派手好きで、幕府財政を傾け、己れの冗費となして憚らなかった。無気力な義持は夫人の贅沢を抑えられず、それどころかみずからも現実逃避、遊興に溺れる有様であった。ひそかにこれを苦々しく思っていた義教は、将軍就任早々栄子の奢侈費用を削減し、宿老大名たちに、新将軍の毅然とした態度と意欲を明確にした。
細川はふと瞑目し、ただ今の謁見の記憶を反芻した。義持は下ぶくれに下がり目の公家顔だったが、弟義教はやや高い頬骨に、鋭角的な眉目の怜悧な容貌であった。まだ僧籍にあったころ、細川は何度か義円と対面していたが、まことに冴え冴えと、高僧に許される紫衣をまとうた貴人の風姿であった。その物腰は沈着で控えめでさえあったものが、と若い大名は、内心にじわじわとひろがる驚きを、とりかえしのつかない染みのように感じる。
 山名時煕は、またひとつ干し柿をむしりながら、若い持之の様子を面白そうに眺めた。老練な彼は、細川ほど義教の強硬にたじろいではおらぬと言わんばかりに、ふてぶてしく音をたてて茶をすすった。
ややあって持之が目を開けると、雨もよいに暗がる庭面の山吹の、鮮烈な花弁の連なりが瞳に飛び込んだ。その際立った色合いは、紫衣を脱いで還俗した義教が特に好む丁子、梔子の直垂と同じ烈しさで、黒ずんだ庭石に冴えかえっている。
 やにわに細川は立ちあがった。雨を含んだ雲が動き、風が松の枝を揺すりはじめると同時に、彼の敏感な嗅覚は、都大路に倒れ伏した、おびただしい死人の臭気を嗅ぎつけたのである。死臭には慣れているものを、今細川はひどいむかつきを覚えた。がつがつと貪り続ける山名の姿のせいかもしれぬ、と細川は吐き気をこらえようとしたが、彼を脅かす相手は、眼前の赤錆色の巨体ではなかった。が、なお細川はたかをくくっていた。将軍家といえど、守護大名の協力なしに政治を行うことは不可能である。義満の独裁は、もはや昔日の幻に過ぎなかった。
「いかがなされた」
山名は銅鑼声で尋ねた。
「連歌の集いがござるにより、退出つかまつります」
「風流な。儂は武辺者じゃが、腰折れの一つふたつ、ひねり出せぬでもない。いずれ我が家でも文雅の遊びをいたそうと存ずる。御所さまは、ことのほか聡明の聞こえ高うおはする。さだめて連歌の道にも優れておいでであろう」
 しつこく言い重ねる山名を慇懃にあしらい、
互いの空疎な言葉のやりとりに、かすかな嫌悪感さえ感じながら細川持之は御所を退いた。彼は風雅を愛する文化人で、武家の棟梁でありながら、その気質は公家に近いものであった。御所の長い郭をまわりながら、彼はしだれ咲く山吹を折りとり、古歌を口ずさんだ。
 山吹の花いろ衣 主や誰…
みやびに傾いた持之の念頭からもはや新将軍の峻厳は消え、慢性的に漂う屍の臭いも情緒を乱すことはなかった。

飢饉土一揆に明け暮れた正長元年は、翌年ただちに永享と元号を変える。永く享ける、という字義には、この年正式に将軍宣下した義教の願望が端的にこめられていた。
 揺るぎ始めた将軍の権威をふたたび強化し、足利家の血を次世代に伝えることが、義教の将軍たる決意である。しかし目下のところ、宿老たちが彼に課した任務は、後者のみであった。すでに正長年間に関白近衛忠嗣息女が上り、この三月に姫君を産んだ。ひき続いて日野家の期待を担って重子が御台所候補として輿入れしたが、美貌の誉れ高い重子は、さまざまな理由で、義教の好みには適わなかったようだ。
義教は代々の将軍中で、日野家に対して格別に冷淡であった。日野家は、彼の母の実家でもあるが、幕府の財政をほしいままにする横暴ぶり、また兄未亡人栄子の傲慢を、生来の潔癖ゆえに許すことができなかった。
少年時代に出家し、父義満の権力により、皇族が入室すべき由緒ある門跡を武家の出身で襲い、さらに宗教界最高位の天台座主にまで昇りつめた義教は、当然のように男色に傾き、あまたの美しい少年たちを寵愛した。
この時代、男色はまったく変態的な性愛ではなかった。仏教においては、女色の禁忌はまことに厳しく、女性は五障の穢れと排斥され、出家の身で女犯の罪をなせば、破壊堕落とおとしめられた。
 一方、美童との契りは、高邁な恋愛と見なされた。僧侶と恋に落ちた少年は、実は観音の化身であったという伝説さえ世間に流布するほどだ。思い込みの烈しい義教にとり、青蓮院門跡時代に、きよらな少年との交わりは宗教的悦楽でさえあった。
 それゆえ、還俗後、彼が好んで寝所に入れた女たちは、最初の関白息女と日野重子以外は、皆比較的身分のひくい侍女あがりであった。関白殿御料人は女児を儲けると遠ざけられ、日野家を安堵させたものだ。将軍御台所には、日野家の女がなるのが慣例ではあったが、名門近衛家の息女が寵愛を蒙れば、正室におさまることもありうる。日野家は、公家の家格として近衛家に及ぶべくもない。
この上は一日もはやく、と重子の懐妊を待ち望む日野家だが、義教の重子への態度は並ひととおりに過ぎなかった。周囲に美女が群れをなしている御所において、義教は自由に伽の対象を選べたし、女性に飽き足りた今、幼少から精神と肉体双方に浸みこんだ男色に、却って執を深めていた。

スウィート・ハニー・スプリット 4

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 スウィート・ハニー・スプリット 4

応挙の幽霊画の淡く浮かぶセピア色の襖障子を開けると、踏み板の黒光りする急傾斜の長い階段がありました。
「よく来たね」
 と階上からゲンは声だけでシーラを迎え、
「横に下駄箱がありますけど、スリッパは用意していません。靴を脱いだらそのまま上がってください」
 ぼうっとオレンジ色のランプが頭上に灯りました。階段沿いの壁には、額装された円魚の小品が、びっしりかかっています。ぼんぼりか提灯程度の明かりの下を、一段ずつ階段を登りながら、シーラは壁の絵が面相筆で巧みに描かれた「九相図」であるのを見て取りました。屋外にうち捨てられた死体が、徐々に朽ち腐り、犬猫烏の餌食となり、ついには白骨となるまでの九段階を描いたものです。仏道修行の妨げとなる煩悩を払い、現世の肉体を不浄また無常と悟るための方便として制作されたとか。腐乱してゆく死体は、僧侶の煩悩を鎮めるために、たいていは美女であったといいます。
シーラは日本で本物の「九相図」をまだ見たことがありませんが、イタリアにいたころ、フィレンツェの自然史博物館の一部「La Specola」で、横たわった美少女が胸元から下腹部までざっくり裂かれ、臓器のあれこれがグロテスクに外部にあふれ出ているワックスモデルを見たことがあります。
サド侯爵のお気に入りだったとも伝えられるモデルは、ボッチチェルリの絵画に描かれた女性たちのように繊細な美貌で、ヘレニスムの伝統に叶った官能的なひねりのポーズをとり、またはみ出た臓物は丹念に彩色されていました。内部の無惨を衆目にさらしながら、少女の顔には苦痛の歪みはなく、唇には観るものを惑わす妖しく冷たい微笑を浮かべているようにも見えるのでした。このモデルは内外で人気が高く、日本に来てからも、シーラはあちこちで等身大ポスターを見かけました。
仁科円魚の描いた「九相図」は、その彫像の印象とよく似ている、とシーラは感じました。ポーズは手足を投げ出したただの仰臥ですが、腐敗し、獣にむさぼり喰われながら、屍の顔立ちは最後まで美しさをとどめ、白骨になってからも、どことなく微笑んでいるような描かれかたをしているのでした。
「きれいでしょう」
 天井からまた声が降ってきました。
「モデルは、円魚の妻、ぼくのおばあさんって噂があります」
 階段を上がりきると、ランプの明かりは廊下の先へは届かず、納戸に迷い込んだような紺青の暗がりです。シーラは尋ねました。
「仁科さん、どちら?」
「こっちです、灯りが届かない? すいません、マヤが眠ってるものだから」
 思ったより近くでゲンの返事が聞こえ、シーラはたちどまりました。暗がりに慣れた眼はほどなく、数歩さきの空間に、マヤを胸元に抱いたままあぐらをかいているゲンを認めました。うすぼんやりとした視界は徐々に明るさを増してきて、しばらくすると、その部屋の有様がはっきり見えるようになりました。
 ごたごたした小部屋でした。間取りはかなりひろいのでしょうが、整理整頓とは無縁で、
窓のありかが分からない四方の壁ぜんぶにいろんな資料や描きかけのデッサンが気ままに貼られ、床には画布、クロッキー帳、一隅にデザイン机、あちこちに和洋さまざまの画材、絵筆…そのすきまに数えきれないほどの人形やぬいぐるみ。
 人形ぬいぐるみ。
 シーラは小首をかしげました。
「ここはあなたのアトリエ?」
「ええ」
「いつもマヤといっしょなのね」
「そう。この子がいないと絵が描けない」
「そんなことないでしょう」
「いや、シーラ。君はもうわかってるだろう? ぼくのインスピレーションの源はこの子だってことが」
「あたしの名前、どうしてわかったの。駿男さんはあたしのこときちんと紹介し忘れていたのに」
「マヤを抱っこしてるとね、いろんなものが見えたり聴こえたりする。まるでこの子は望遠鏡か補聴器みたいだよ。補聴器って言い方はおかしいね。特殊なイヤホンとでも言おうか。鈍い普通人の耳には絶対聴こえないはずの、奇妙で不思議な音が聴こえてくる。君のフルネームも、ギャラリーの応接室でマヤがぼくの膝にあがりこんできたとたん、はっきりとわかった。聴覚かな? 視覚かな? どっちとも言えないが、この青年は千手紫で、半分は美少女のシーラだと」
「マヤが感じ取っている〈言葉にならない〉知覚は、父親であるあなたには言語化して伝わるというわけ?」
「言葉だけじゃない、眠っているマヤを抱いていると、それがいついかなるときでも、白昼夢さながら、さまざまなヴィジョンが湧いてくる。ぼくはこの子に触りながら、いそいでそのイメージをクロッキー、あるいはデッサンする。時には描き始めから完成までずっと抱え込んでいたりする。そうやってしあげたのが『MANA幻』だ」
シーラは間を置き、滔々と喋り続ける青年の語気を測りました。ゲンの声には震えも乱れもありません。
「あなたはこれまでマヤが本能的にやっている〈狩〉を知っていたんだ」
「〈狩〉だって? マヤは自分から何かしかけるわけじゃない。思い詰めた少年少女たちは、彼らからマヤのほうにふらふらと寄ってくる。マヤは自分の手の届くところにある欲しいものをがまんしないから、無造作につかまえる。風間さん、あなた方親子に初めて出合った海岸のコンビニで、マヤがつり銭をつかんだようにね」
 シーラが振り返ると、後ろにパジャマ姿の駿男さんがぼんやりした顔で立っていました。
「暑くて眠れない、とじたばたしてたら、どういうわけだかここにいる。シーラちゃん、俺たちはまた幻覚の中なのか」
「はい」
「マヤが俺を呼んだの?」
「あなたがマヤを呼ぶんだよ、風間さん」
 シーラが答えるより早く、ゲンが言いました。抱えている娘を、まるで赤ん坊をあやすようにゆっくりと揺すり始めます。
「係わらなけりゃいいのに、横浜でわざわざぼくに近寄ってきた。マヤの手を握っていたぼくは、あなたの下心がはっきり見えた。マヤに触りたい、抱き上げたい…否定しないでくださいよ。この子かわいいでしょ。大人になったらどんな美人になるんだろうってぼくも想像する。シーラ、君とはタイプが違うけど、心の中に邪悪がいっさいないマヤは、真実、受肉した天使だ」
「邪悪?」
「欲しいから手づかみする。つかんだ霊魂たちがどうなるのかぼくにはわからない。だけどマヤはすぐさま忘れてしまい、この子の中には、何の汚点も翳りも残さないんだ」
「罪悪感がない=善ではない」
「じゃあ、天使は善玉なのか? 天使は幸福だけをもたらすものか?」
 シーラは次第に物狂おしい気配を増してくるゲンの顔をじっと眺め、言葉を閉ざしました。喋っているうちに視線の定まらないゲンの両眼は血走り、口は半開きのまま、肩であえぎ始めました。額にはぷつぷつと脂汗が滲んでいます。
「答えろ、シーラ。サイコ・ヒーラーなんだろう」
「欲しがってるのはマヤじゃない」
 シーラは冷静に応じました。
「あなただ、仁科さん。あなたはマヤの能力を自分の創造の源泉にしている。みずみずしい魂を喰って、クリエイティブな情熱をかきたててきたんだ。マヤのつかんだいくつもの魂の残存エネルギーは、マヤじゃなくあなたのものになったんだろう。あなたは狩人で、マヤは猟犬というわけだ」
「それであちこち娘を連れ歩いてるのか。養護施設にも入れずに? なんだ、ひどい親父だね」
 と横から駿男さんは顎を撫でながら呆れ顔で口をはさみました。
「娘の人見知りがどうしたとか、言い訳なんだな。君、銀座に来たとき、あのビルから中学生の少年が飛び降りたけど、もしかしてマヤの力を、その、利用して君が誘導したんじゃないの?」
「バカオヤジはお互いさまでしょう、風間さん」
 ゲンは全然動揺しませんでした。
「どんなアーティストだって、魅力的な創造のためには手段を惜しまない。ぼくはマヤをそそのかしていないし、自殺した少年に心を向けたわけでもない。マヤの好き嫌いの激しさは本当だし、この子の傍のすべての人間が非業の死を遂げるわけじゃない。佐久間さんたちは平気だ。マヤが少年少女に寄ってって、死ね、とののしったわけでもない。ただこの子がその場に居合わせると死にたがっている人間のある者は、ブレーキを失い、実行してしまう。マヤを連れていると、ぼくにはそれがわかる。そして」
「閃く? 啓示がある?」
 シーラは言葉で飛躍しました。
「満開の桜の下には、いったいどれだけの屍が眠っているだろう」
「いいねえ、安吾ならぼく好き」
 と駿男さん。
「美女にそそのかされて殺し続けた男。だけど安吾の小説とは逆に、マヤが山賊で君が美女役なんだ。マヤを連れまわして餌食を探してたってのは事実じゃないか」
「マヤがこんな力を持ってるからだ。利用しないテはないでしょう? ぼくらは殺人を犯しているわけじゃない。傍に行って、飛び降りようかどうしようか迷っている子の背中を突き飛ばしたわけでもない。マヤを連れ歩くさきざきで、しょっちゅう自殺や事故が起きる。現実には、ただそれだけだ」
 ゲンにも罪悪感はないのでした。シーラは、
「マヤは〈魂(たま)喰い〉だ。喰った自覚がないから、貪欲に際限がないし、満足もしない。彼女に汚点がないとしても、あなたがハイエナであることは否定できない」
「そこまで言うか」
ゲンはシーラの糾弾を、むしろ快さそうに聞いていました。
「桜の森をひきあいに出すのはうまい、風間さん。犠牲の上になりたっていない芸術なんかないよ。階段の〈九相図〉見たろう、シーラ。ぼくの祖母をモデルにしたって言ったが、君は聞き流した。祖父は自分の妻の遺体を葬らずに、骨になるまで密室に隠して、写生したんじゃないかって伝説もある。そうじゃないとしても、あの連作の女性の顔だちは、祖母によく似ている。自分の伴侶を、凄絶なモチーフに使う円魚の正気を疑いたくなるだろう。それだけじゃなく、彼が晩年に描いた幽霊画は、なるほど応挙の模写に近いけれど、顔立ちは祖母に似てる、どれも」
「……ぼく、や駿男さんの前に現れた自殺者たちは同じことを言った、仁科さん。死にたかったのはほんとうだけど、こんなに早くするつもりなんかなかったって」
 シーラはゲンの自分本位な芸術談義への逸脱に乗らず、手綱を絞るようにひき戻しました。が、それにしてもこんな言い争いが解決に結びつかないものであることを自覚し、迷ってもいたのでした。
(糾弾、問い詰め、追い込みはヒーリングには逆効果だ。だが仁科親子の癒着を切り離すこともできないだろう。マヤとゲンの狩は続く。どうしたらいい)
(迷ってる場合か? 手加減無用だ)
聴き覚えのある鋭利な声が、いきなりシーラの心に飛び込んできました。同時に、
「切り離せ」
 ぎょっとして駿男さんは振り返りました。
「メグ、どうして」
 きれいな花模様のネグリジェを着たメグが、どこからともなく現れ、駿男さんの横に立っていました。
「君、ぼくについてきたのか?」
「シーラ、マヤの周囲で自殺が起きるのは、ゲンといっしょのときだぞ。ゲンがいなければ事件は起こらない。親子を離せば済む。永遠に」
メグの声は硬く、独断的で、普段の彼女とは全く違っていました。シーラにはすぐにわかりました。
「眼が青い。レノン、メグを乗っ取ったか」
「彼女がそうしてくれと願ったんだ。だいじなパパが危ないと、メグのほうがちゃんとわかってる。放っておいたらマヤは駿男さんを手に入れるぞ。若くはないが、娘を溺愛するって親バカは、ゲンとどっこいだ。そこにマヤがシンクロするんだろ。いや、それどころかマヤはもしかしたらメグに食指を動かしてるのかもしれない。将ヲ得ントスルナラマズ駒ヲ射ヨ(文字どおり!)駿男さんをやっちまえば、メグはどんなに悲しむだろう。甘ったれだから、死んじゃいたい、なんて泣くかもしれない。そこにつけこんでメグも喰っちまえばいい。メグのエネルギーを吸ったらゲンはさぞユニークな大作をクリエイトするだろう」
「メグ、君、どうしちゃったの」
事情を知らない駿男さんはおろおろし、メグの肩に手をかけようとして、感電したかのように飛びあがりました。
「あ、熱! 寝間着が発熱するなんて、シーラ、この子どうなっちゃったの」
 駿男さんは、メグの着ているゆるいコットンの襟がふわりと指先を掠めるくらいに触れただけなのですが、それは燃えている炎に手を突っ込んだくらい熱かったのでした。
レノンは駿男さんをまるっきり無視しました。シーラだけ見て冷ややかに、
「メグをマヤの餌になんか、ぼくがさせないがね。シーラ、君の手ぬるいやりかたにはいつもながらイラつく。マヤは喉から手が出るほど……マヤじゃない、ゲンは舌なめずりしてメグを欲しがってる。親父の欲望に娘が反応するというわけだ。見ろ」
 ゲンに抱かれていたマヤは、いつのまにかぱっちりと両目を開き、メグ=レノンを見つめていました。もの言いたげに赤い唇をひらきましたが何も喋らず、ぼうっとして、まだ夢を見ているようでした。
「マヤどうする、みんなでぼくたちを責めるよ。何にも悪いことしてないのに、マヤ」
 ゲンの声は嘲笑まじりでした。駿男さんはかっと逆上し、
「悪いことしてないって? ぼくの前に出てきた水死の少女は、はっきり「死ぬつもりはなかった」って言ってたぞ」
「それだけじゃないでしょう。かわいい子といっしょになれて、みんなからちやほやされて、何をしても叱られず、生きてるときよりいい気持ちって彼女は言ったでしょう」
ゲンは娘の顎の下を片手の中指でかるく撫で、
「マヤに惹かれて自殺した子の中には、マヤと同化する霊魂もあるみたいなんだ」
メグ=レノンは、仔猫のように父親に愛撫され、だらんともたれているマヤを眺め、
「そうやって餓鬼は増殖、あるいは増幅してゆく。喰いたいという無限の欲望が餓鬼の本質なんだから、外見がどうであれ、マヤは餓鬼なんだぞ、シーラ」
 マヤは父親の眼をじっと見上げ、にっこりと笑いました。周囲の緊迫した状況が、彼女にはまるで見えていない感じです。数瞬後、ゲンは駿男さんに顔を向けました。それからあんぐりと口を開けました。
「マヤがあなたを欲しいって言ってる」
 がくっとゲンは後頭部をのけぞらせ、マヤを抱いたまま反り返りました。わなわなと上半身が痙攣し、マヤを抱えた腕から力が抜けて、だらんと左右にぶらさがり、父親の膝から滑り落ちるかと見えたマヤは、彼の背中に両腕でしがみつき、クスクスと笑いました。
 ククッと、小鳥のように、無邪気に笑いました。
 ゲンの開いた口から白い泡状の唾液が流れ始め、最初少量だったのが、どこかでどっと量を増し、急性アルコール中毒患者が、がぶ飲みした酒を吐き戻すように、がっと黄色っぽい粘液を噴き上げました。それといっしょにマヤの手が父親の開いた口腔から飛び出て、駿男さんにつかみかかりました。
 駿男さんは驚愕のために凍りついて動けず、マヤは父親の後頭部を突き破って駿男さんに伸ばす手を、とうとう肩までねじ入れてしまい、どろどろした粘液まみれのまま、ぽっちゃりとした幼児の腕が自分に伸びてくる凄さに、駿男さんはその場でとうとう腰を抜かしてしまいました。
マヤは父親の膝から降りて、駿男さんに近づこうと歩き出しました。ゲンの鼻腔と両目からも、泡状の白濁と黄色みがかった液体が
あふれ出ました。シーラはマヤを制止することもせず、その有様を観察し、
(血が出ない、なぜ)
「奴が冷血だからだろ」
 メグの声で、レノンがすげなく言いました。
 ドカラテ
「何だって、マヤ、何か言った?」
 駿男さんがうわずった声で尋ねると、マヤはにこにこしながら、不明瞭な口つきで、
 ノドカラテガ
 マヤの腕には、ゲンの長い舌がからまり、それ自体別な生き物のようにひくひく痙攣していました。マヤが歩き出すと、彼女の腕に後頭部から口腔を貫かれたゲンはのけぞった姿勢でひきずられ、両膝は床を擦りながら、絶えずがくがくと不規則に暴れました。
「マヤ、喋れるのか、おい」
 ノ、ド、カラ、シタナ、メ
 駿男さんの半泣きの問いに答えて、ばらばらな音が、マヤの唇からこぼれます。
「パパ、彼女はあなたをノドカラテガデルホドホシイそうだよ」
 レノンは明らかにこの展開を楽しんでいました。そのふてぶてしい雰囲気に、さすがに駿男さんも気がついて顔色を変えました。
「メグじゃない。そっくりだけどぼくの娘じゃない。シーラ、これは何者だ」
パ、パ
 またマヤがあどけない声を〈出し〉ました。
つぶらな眼は駿男さんをじっと見つめ、ゲンの後頭部を破り、口から突き出したてのひらの五本指を、駿男さんの鼻先でちらちらと動かしました。どろりとした粘液と体液が、マヤの指先、ゲンの口角から絶えず流れ落ちています。
 ひっ、と駿男さんは声にならない悲鳴をあげ、べったりと腰を抜かした姿勢のまま後ずさりしました。
「逃げるのか、パパさん。マヤはあなたのこと気に入ってる。実の父親よりもあなたのほうがいいって言ってるんだぜ」
 メグ=レノンは駿男さんの横で小生意気に腕組みし、片足の爪先をリズミカルに上下させながら言いました。面白くて仕方がない、という顔つきでした。
「レノン、ふざけるな」
シーラが制すると、レノンは向き直り、
「マヤ自身が決着をつけたんだ、シーラ。いや、マヤだけの意志かどうかわからない。マヤの中には、もうずいぶんたくさんの、自殺霊、未完成で現世に無念を残した少年少女の霊が溶け込んでいるから、それらがマヤに、こんなことをさせたのかもしれない。ゲンの欲望が触発しなければ、マヤが彼らを死に誘い込むなんてこともなかったろうから」
「シーラ、メグは何を言っているんだよ」
 駿男さんは叫びました。
「メグじゃない、こいつはメグの皮を被っているが、何者なんだ」
「あなたの娘が、ぼくを吸収したんだ。ぼくはメグの中に潜んでいて、メグのピンチに出現し、彼女を守る天使ですよ、パパ」
「メグが何を吸収したって? 天使? 冗談じゃない、娘を返してくれ」
 レノンはもう駿男さんには眼もくれず、にじりよってくるマヤに相対して、そのどろどろした粘液まみれの手をつかみました。
「メグがぼくを吸ってしまったように、マヤもコムニタスの扉に入れてしまうか。今のぼくならそれができる。マヤは廃人になるが、もともと成長も記憶もできず、生涯感覚の海を浮遊し続ける海月みたいな子なんだ…」
「そんなことは許さない」
 ぱしん、とシーラはレノンの手をマヤからはらいのけました。
「君は以前の君自身、眠り続ける植物状態にこの子をしようとするのか。君自身あれほど苦しがっていたのに」
「だが、マヤの人生に、これから何が起きると思う? ゲンのおもちゃから免れたとしても、誰かの庇護なしには生きてゆけない。この子の美貌は」
 レノンは口を噤みました。嘲りの色は消えて、痛ましげな感情が、コムニタスのコバルト・ブルーの瞳をよぎってゆきました。
「シーラ、いや、ユカリーレ、ジェンティーレ、君よくわかってるんじゃないか。マヤみたいな少女が」
 シーラのまなじりがぎりりと吊りあがり、反射的に彼はレノンの喉を片手でつかんで締め上げました。レノンはわざとよけようとはせず、シーラの手のなかで、苦しげに顔を左右に振ってみせ、
「メグを痛めつけたって〈ぼく〉は平気だ。ユカリーレ、いつまでも隠しておけるわけないじゃないか。メグは君の内部に入る。ぼくも一緒だ。ぼくはメグの見過ごすいろんなことを君について知る、とても興味深い。ドラマチックな王子さまの幼年期だ」
「必ずおまえを削除してやる、レノン」
「ぼくは君が好きだけどね。メグの次の次の次くらいにね」
 レノンは…メグはわらっていました。シーラは呼吸を静めてメグの喉首をつかんだ手を離し、マヤをふりかえると、彼女の腰をうしろから抱えて、ゲンからひき離し、抱き上げました。
「いやだったのか。着せ替え人形みたいに飾られて、連れまわされて、マヤ、君は餓鬼じゃない。何が起きても、何をしでかしても翳りを持たない君はインノチェンツァ、永遠の純白だ」
 帰ろう、ぼくが君を安全なところに連れて行く、とシーラがマヤのべとべとした手を片手に包むと、マヤははにかんだような笑みを浮かべました。足元に転がり、まだ口と鼻から粘液を吐き続けているゲンをシーラは無視し、駿男さんとメグ=レノンに言いました。
「ここの扉はもう閉める。メグ出てこい。レノンを抑えろ、君できるはずだ。駿男さんはちゃんと戻すよ、いや戻る。もう夜明けだろう?」
 薄紫に明るみ、ものの影はすべて淡くなごんでゆき、どこかから曙を歓ぶ夏の鳥の澄んださえずりが響いてきました。

七月半ば過ぎ、もうあと数日でメグの夏休みが始まるという朝、いつものように五時起きし、冷蔵庫のフルーツミックスジュースをグラスに注いで、その朝はレモンではなくグリーンライムを絞り、それを片手にフロアを横切り、メグの部屋のドアをノックして声をかけ、玄関の新聞受けから朝刊を抜き出した駿男さんは、これもいつもの順番で、一面から大活字だけ拾って紙面をざっくり斜め読み、ダイニングのテーブルに戻るころ、湘南版に眼を通すと、
 芸術熱中症? 
太字見出しに続いて、逗子の日本画家急死とありました。
「おはよう、パパ」
紙面から顔をあげない駿男さんのいつもと違う様子に、メグは彼の新聞をひろげた手元を覗きこみ、すこし息づかいを変えました。
「仁科幻さん、亡くなったの」
「七日くらい前らしい。しばらく休館してて、人の出入りがなく、誰も気がつかなかったって…。休み明けに受付の女性が来て、発見された」
「でも、マヤは?」
「書いてない。いや……あった。行方不明で捜索中だって。赤ん坊じゃないから、自分の足でどこへでも行ける」
「仁科さん、なんで亡くなったの」
「ここ一ヶ月くらい二階のアトリエにこもりきりで、秋の公募展にむけて制作してたんだと。ぼくは先々週の木曜日にシーラと円魚記念館を訪ねたけど、元気だった」
「…うん」
メグの声は小さくなりました。また髪が長くなってきたので、今朝は真ん中から二つに分けて前髪はビーズピンで留め、左右二本の短い三つ網みにしています。カラフルなユナイテッド・アローのプリントTシャツ、ジーンズの膝上を自分で切ったショートパンツは、左右の長さをわざと大きく違え、短く切ったほうの膝には、真っ赤な水玉の生地を縫いつけてみました。
「行こうよ、パパ、遅くなっちゃう」
 何と言ったらいいかわからなくて、メグは駿男さんがテーブルに置いたフルーツジュースを全部飲んでしまい、にこっと笑いました。
 木曜日の訪問に続く悪夢で、仁科幻の破綻はわかっていたのでした。あのときゲンの魂は確かに滅びてしまったのです。新聞記事で
読む死因は不明で、心臓麻痺あるいは作品制作に打ち込むあまりの〈熱中症〉による心肺停止か、とシニカルでしたが、あながち外れているとも言えないのでした。
「この酷暑で死後何日も経って発見されたんじゃあ、なあ」
 と駿男さんは口の中でぼそぼそとつぶやきました。記念館の一階から二階へあがる階段部屋の壁に薄暗く展示されていた〈九相図〉の画像が一枚ずつ脳裏をよぎります。しかし、それは現実の生々しさを伴わない、淡い印象でした。心にわだかまっている、ここ数週間の悪夢の残滓のリアルな感触に比べたら、新聞記事から受けた驚きは、実にあっさりしていました。
(腐乱死体のそばに娘がいなかったってのは幸いだが、どこに行ったんだろう)
 ぼくが連れてゆく、と青年の声でシーラが言い、ゲンから離してマヤを抱き上げたのを、駿男さんは覚えています。シーラは、駿男さんの記憶を抑圧し、塗りつぶすことをしませんでした。
(どこからが夢で、どこまでが現実なんだ。メグの体に別な人格が憑依して、傲慢な態度で喋っていた…あれは夢だろう? 現実にはぼくの娘は、ここに、こうしてピンピンしてジュースを飲んでスポーツシューズを穿いているじゃないか。それでいいじゃないか)
 メグの内部に、エイリアンみたいに違う誰かが潜んでいるかもしれない、としても俺のだいじな娘だってことに変わりない。
(統合失調症の患者は精神が裂けて、いくつもの人格に分かれてしまう、とおふくろが言っていたっけ。メグはそんなじゃない。それに近いのかもしれない、としても)
駿男さんの亡くなった母の節子さんは精神保健福祉士で、臨床心理士でもありました。
母親の仕事の影響で、彼は心の病に偏見を持たなかったのでした。
 いずれシーラに問い糾してみようと駿男さんは決め、わずらわしい思考の堂々めぐりを打ち切ったのでした。彼はシーラと出会ったことを後悔はしませんでした。彼自身が、シーラに魅惑されていたからです。ちゃんと自覚していました。
玄関から彼を急きたてるメグの明るい声が聞こえました。小鳥のさえずりを聴くのと同じ快さが駿男さんの耳を打ちました。これが現実、これでいい、これがいい。
「近道通る? 桜山はもう時間オーバー」
「コンビニ周りにしよう」
 住宅街から海近く、夏の太陽は勢いよく駆け足で昇り、まだ車の通行の多くない道路には、イソシギや雀、ツバメが朝の餌探しにのびのびと飛びまわっていました。双眼鏡を当てるまでもなく、小鳥たちは親子に警戒心を持たず、すぐ近くまで寄ってきます。
「このごろ鳥たちはぼくに親切だな」
「パパだけじゃないよ、メグに寄ってくるんだって」
「そう?」
 今も、数歩さきにイソシギが舞い降り、長いモノトーンの尾を小刻みに上下させ、駿男さんを警戒心のない眼でしばらく見つめた後、ぱたぱたと飛んでゆきました。
「ぼくらが顔なじみになったってことか」
「そうだよ、きっと」
 屈託のない声で相槌を打ちながら、メグはパパの健康がずっと心配なのでした。
 マヤとゲンの親子との遭遇は駿男さんをひどく消耗させたはずです。駿男さんは具合が悪くても、殆どこぼさないひとでした。ですが、メグは漠然と覚えていたのです。母親の安美さんが、なぜ早死にしてしまったのか。その明確な記憶がなぜ残っていないのか、思い出せないのか、今のメグには何となくわかるのでした。
(あたしは六つか、七つ、そうだ、マヤと同じくらいの年だ。ママが泣いて、怖い顔で叱って、あたしはもっと大声で泣いて、それからそれから)
 オモイダシチャダメ、と安美さんが言ったのでした。決してこの扉を開けてはいけません。
 そしてママは死んじゃった。ああ、神様、パパは、パパもだんだんあたしの世界に入ってくるみたい。そしたらパパもママみたいに早死にしちゃうの、そんなことになりませんように、お願い!
 でも君にはコントロールできないぞ、と意地悪く囁く声が脳裏を掠めた気がします。
(レノン?)
 返事はありません。
(シーラさん、マヤをどこに連れていったの? 今どこにいるの?)
 こちらも返ってくる声は聞こえないのでした。なぜ? とメグはかなしい気持ちになるのでした。なんだかシーラさん、あたしのこと避けてるみたい、どうして?
 少年から青年へ、また男性と女性のボーダーラインを往還しつつ、みずからの姿をまだ定めがたく揺れ動くシーラの感情は、メグの憶測とは真逆なのですが、幼い彼女にはわかりません。そんなメグは素直に幸せでした。
「おい、どうした暗い顔して」
 どしんと背中を叩かれて、メグは我に返りました。
「暗くない。ミソサザイの声を探してるだけだよ」
「おう、あそこにいるぞ、あ、もしかして降りてきた、メグ見て、あそこ、ハイビスカスの枝に?」
メグはちょっと眩暈がしました。帽子かぶってくるのわすれちゃった。まぶしいな。アスファルトの照り返し、ギラギラする。パパみたいにサングラス買おうかな。ハローキティマークのハート型レンズ。羊子ちゃんが持ってたみたいなの……
「ミソが、地面に降りるって、あんまりないね」
 自分の出した声がどこからか、自分自身に遠く聴こえました。ここを渡れば海は目と鼻の先という住宅街の終わりの一角、ブロック塀ごしに道まで大きく枝を伸ばしたハイビスカス。陽気な南国の赤い花がいくつも咲いて、赤が大好きな駿男さんは感心して見上げています。枝のてっぺんに留まっているという小柄な焦げ茶の鳥影を認めるよりさきに、彼女はくたくたと、陽炎の昇るアスファルトにしゃがみこんでしまいました。
「メグ?」
 おなか、いたいの。
 父親に訴える声が出ませんでした。
「どうしたの、え、貧血か!」
 がくんと自分の胸に倒れこんできた娘の重さに、駿男さんは驚きました。全く自力が入らない重みでした。
(いったん寝かそう、このハイビスカスの蔭でいい、まず何か飲ませて)
 メグのだらんとした両脚を抱え、どっこいしょと木蔭に移そうとした駿男さんは眼を剥きました。
 左右ふぞろいに切り落とし、一方の膝には、真っ赤な水玉模様の布地を縫いつけたブルージーンズのショートパンツ。
 その赤いドットが、メグのひかがみからふくらはぎにかけて、布からこぼれおちたのか、と見えました。真紅の粒はつぅと流れて朝日に一瞬きらりと光り、肉の薄い足首まで。
 冷や汗に混じって渚の気配……鮮やかな満ち潮の寄せてきた娘の膝を冷静に見ることが動揺した父親にはできませんでした。

                 (了) 

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