さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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星月夜  vol1 紗縒

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    星月夜  vol1 紗縒

 霜月は死者恋ふる月うすぎぬを被けば我も世界も蒼し、という歌が浮かんだ。母の歌だ。
 彼女が亡くなって一ヶ月になる。密葬で、という遺言どおり、喪主のわたしはごく近い身内だけに報せて、自宅でひっそりと弔った。身内といっても血縁はほとんどいない。両親はわたしが幼児のころ離婚している。わたしはこのひとについて、ほとんど知らない。   
母の父、私にとっての祖父は、母がまだ幼児のころ白血病で夭折し、祖母も十年前に鬼籍に入り、母の妹、わたしの叔母は三年前に胃癌で逝った。不幸は重なるもので、彼女の遺児三人のうち、上の姉妹二人も、母親の後を追うように相次いで亡くなっている。ひとりは祖父と同じ白血病、その妹は自死。どちらも二十代半ばという若さだった。
 叔母の享年は四十八歳だった。若死、という形容は適当ではないかもしれない。人生五十年下天のうちをくらぶれば夢まぼろしのごとくなり……幸若舞の句を思えば、そのくらいで世を去るのが老醜の無惨を免れて、ことに女は見目よいのかも知れない。いや、いまどきは六十、七十になろうとつややかに美しい女は大勢いるから、老醜という言葉じたい非礼極まりないとも言える。女性だけでなく、たぶん男性に対しても同様だろう。それならば、今年五十六歳で亡くなった母や、五十前で世を去った叔母などは、まだひとに命を惜しんでもらえる夭折の部類に入るのかな。ともかく母も叔母も、二人ながらずいぶん身じまいのよいきれいな女たちで、最期まで病やつれを見せなかった。
 母と叔母はやや歳の離れた姉妹だが、双子のように容貌がよく似ていた。だが、長女で、幼いころから才気煥発な母とは違って、叔母は特に目立つひとではなかった。口数が多くないのは姉妹ともに同じだが、母は人付き合いを好まず、自分の世界にこもって短歌を詠み、絵を描いていた。父と結婚し、わたしが生まれ、それからすぐに父と別れ、女手ひとつでわたしを育てながら、何冊かの歌集画集を上梓し、三十年近くが過ぎたが、彼女の精神の内側に、夫である父や、娘のわたしが実体として存在したかどうか疑わしい。母の怒ったところをわたしは生まれてからいっぺんも見たことがない。彼女の眼はガラスのようだった。自意識が作り出した透明なガラス越しにわたしや周囲を見ていた。母は美しい女だったから、プラス自己愛はガラス研磨に有効だったろう。
 こんなふうに書くと、例によって森茉莉などをひきあいに出したのか、と思われそうだ。だがあちらはガラスの壁の内側に獰猛とエロスをしたたか潜めた甘い蜂蜜の瓶だが、歌人で画家の水品紗縒(みずしなさより)のガラスの中身はずっと淡白で冷たかったに違いない、と娘のわたしは思っている。いや、思いたい。自分を納得させるため、母親固着から免れるために、水品紗縒の記憶をちいさく残したいからだと思う。ちいさく…そう、記憶に残る母の印象と価値を、今生きているわたしを圧迫しない程度に低めたい。だけど、こんなふうに母親のイメージを操作しようとすることじたい、わたしが母親原型の魔術に捕らわれているあかしかも知れない。魔術、憧憬、恋着? 息子だったら、そう、たぶんね。
で、母の中には何が入っていたのだろう?
きっと彼女だけが纏うことのできる透紗という薄青い織物でも、一生織り続けていたのではないだろうか。誰に着せるためでもない、ただ彼女のためだけの、透けるうすぎぬ。
 だから、母の葬送いっさいが終わったあと、わたしの脳裏に、死者恋ふる月に世界も我も、などという、センチメンタルでほのぐらい、だが音律は彼女独特に快い抒情歌が鳴り響いて離れないのだろう。
自分を守るガラスの壁高い姉とは違って、叔母は人当たりのよい女性だった。器量よしでほどほど交際じょうず、学生時代に知り合った恋人と、大学卒業後早々に結婚し、三人のこどもに恵まれた。けれども、このひとの結婚生活も幸福とは言えなかったようだ。それは彼女が亡くなってすぐに、まだ二十三歳の次女が自死したことからわかった。
 もう叔母の余命いくばくもない、と知らされて見舞いに行った病床は市民病院の個室で、
六畳くらいの白っぽい殺風景な部屋に、叔母のベッドはひとつきり、けれども驚いたことに、彼女の寝ている周囲の床、出窓、小机など、ともかく病室いっぱいに花が飾られていた。カーネーション、百合、薔薇、霞草、金魚草、黄菊白菊いろいろ、いろいろ。
ごく普通に花屋の軒先にある和洋さまざまな草花が、不吉なほどどっさり叔母の周囲にあって、もう食べることも呑むこともできない叔母は、フリルのたくさんついたピンクのガーゼのようなネグリジェを着て、花の中から上半身を持ち上げて、母とわたしを迎えたのだった。
 胃癌の末期で、健康なときには輪郭の柔らかい卵型の可憐な顔が、別人のようにげっそりと痩せ、睫毛の濃い眼窩が蒼くくぼんで、西洋人のように彫り深く、こわいようだった。にしても不思議なことに老けこんではいず、顎まわりの贅肉が落ちて、以前よりずっと若く、肉の薄い顔だけ見るなら、まだ十代の少女のようでさえあった。
とはいえ、かさかさしたこめかみには、抗癌剤の副作用で膨張した静脈がうっすらと藻のように透けて見える。わたしは不謹慎なことに、このときも母の歌のどれかを連想してしまったと思う。薄いろ、青、水いろ。ひんやりとした繊弱を母は好んで歌った。母親の歌がレンズのようにわたしの眼に被さって、死期の近い叔母を物語の登場人物のように脚色して眺めてしまったと思う。
レンズの向こうで、やがて血の気のない乾いた白いくちびるが動き、思いがけず暖かい、優しい声が聞こえた。
「おねえちゃん、ふたりになったの?」
「ふたりって?」
 挨拶もぬきにいきなり問われた母は、曖昧な微笑を浮かべた。癌末期の激痛緩和にモルヒネ投与が始まっている叔母の錯乱か、と思ったらしい。母は傍らのわたしを見やり、おだやかに、
「透姫子(すきこ)と、ふたり?」
「ああ、透姫ちゃん、大きくなったのねえ」
 叔母はようやくわたしの存在に気づいたかのように、蒼い白目をくるりと動かし、わたしに視線を定めた。あまりに痩せこけてしまったので、眼窩の中の眼球の動きが、離れていてもはっきりわかる。健康な時、叔母は切れ長の涼しい目元をしていたのに、死期の近いひとに特有の、つやのない漂白したような目玉に変わっていた。
が、今度はわたしがとまどう番だった。この日以前に叔母に会ったのは一年ほど前の夏だった。そのとき叔母はかなり食が細くなっていたのだが、本人も家族もただの夏ばてと思っていた。わたしが二十五歳のときに叔母はなくなったのだから、とうに女性ふつうの成長期は過ぎていた。
「そんなに変わった?」
 わたしは叔母に話を合わせようとした。
「うん、すっかり成長して。姉さんがふたりもいたら、たいへんでしょう。わがままだものねえ」
 わたしと母はもういちど、顔を見合わせた。叔母はにこにこ笑っている。表情を動かすたびに、皮膚の下の顎骨のかたちがはっきりわかった。
「おねえちゃんを、透姫ちゃんだいじにしてやってね、体ひとつに自分をまとめられなくなっているなんて」
 叔母の声はおっとりとして、錯乱している気配は感じ取れなかった。幻覚だろうか、わたしは考え、母もそう解釈したのか、
「あたしがふたりいるの?」
「そう」
 叔母は澄まして応えた。
「おねえちゃん、おねえちゃん、それから透姫ちゃんって、並んでいる」
 ほそい人差し指を突き出して、わたしたちの前の空間をぽん、ぽん、ぽん、と軽く叩く仕草をした。指の爪が楕円に伸びて、きれいなパールピンクのマニキュアが塗られていた。
 母は曖昧にうなずき、笑った。
「忙しいので、分裂したのよあたし」
「ひとりはこの世に残しておかなきゃね。まだ透姫ちゃん若すぎるから」
 叔母はまじめな顔で言葉を重ねた。母は目をまるくし、
「それじゃあたしのもういっぽうは、あの世ゆきってわけ?」
 ええ、と叔母は嬉しそうにうなずく。
「あたし、もうじき死んじゃうんだけれど、おねえちゃんがすぐに来てくれるからさみしくないわね」
 母はほんの少し首を左右に振ったが、気分を害した様子はなかった。
「ふうちゃん、このたくさんのお花はお見舞い?」
 会話がねじれそうな気がしてわたしは話題を変えた。叔母の名前は芙蓉といい、わたしと母は、普段叔母をふうちゃんと呼んでいた。母も叔母も、甥姪におばさんなんて呼ばれたくないひとたちだったし、すらりとした彼女たちの容姿も世間ふつうのおばさんには見えなかった。
「お見舞いにいただいたのもあるけれど」
 と叔母は首を振り、部屋を埋めつくすほどのお花は、彼女の夫がこどもたちに命じて運び込ませたと言った。
「百合はもっとたくさんあったんだけど、香りがきつくて頭が痛くなるから下げてもらったの」
 母はうなずいて黙った。叔母夫婦があまり円満ではないのを知っていたし、死期の近い妹の病床をこれでもかと埋める百花繚乱は却って忌まわしく感じられたに違いない。当人がまだ生きているのに、病室はもう斎場のように飾られているなんて。
 わたしたちの感情を読んだかのように、叔母は言った。
「詩郎はね、これはあたしへの贖いなんだと言って、ここに入院したときからこんなふうに花を詰め込んだのよ。あたしはどっちでもいいんだけど、お運びさせられる夏夜や詩杖(しづえ)がかわいそう」
 夏夜は長女で、詩杖は次女。次女のほうが姉より早く逝った。たった一年の差だけれども。夭折した姉妹の下に、もうひとり男の子がいる。年子のように次々と生まれた姉ふたりから離れて、末っ子の緋郎(ひろお)は十五歳だった。
芙蓉さんはそれから二ヶ月ほどして逝った。
十一月一日の夜明けに、市民病院の花畑のような個室で、家族に見守られながら逝ったということだった。
心残りは何もないの、と最期の見舞いのとき、芙蓉さんはわたしと母に明るく笑いかけた。八月の終わり、病室の外では油蝉が鳴き、ひぐらしも聴こえた。市民病院はまだ新しかったが建物の周囲にたくさん植樹をし、人工の森の間、ところどころに入院患者と一般市民のためにちいさい公園を設けていた。叔母の病室は五階の角部屋で、朝陽と西日が適度にさしこむきれいな個室だった。壁の二面にひらかれた窓からは病院建物の角張った輪郭をやわらげるように植えられている雑木林が見下ろせた。
「まだ、だめよ」
 少したってから答えた母は、迷いながら言葉を選んでいるようだった。芙蓉さんがもうすぐ逝ってしまうのはわかっていたのだが、心残りはない、と言われても、はいそうですか、とは応じられない。でも、芙蓉さんの、痩せてはいるもののすべすべした表情には感情の曇りがまるでなくて、彼女が信仰しているカトリックの聖者の白い塑像の顔のようだった。
 話は逸れてしまうが、芙蓉さんの夫の詩郎さんはもと仏教の僧侶で、今は還俗している。実家の跡目を継ぐはずだったが、何かの理由で弟に譲った。母も叔母も、少女時代にカトリックに帰依しているから、芙蓉さんと夫は宗旨が違う。それが夫婦の齟齬のもとになったとは思えないが、わたしは芙蓉さんがつぶやいた「病室の花は夫の贖罪」という台詞が気になった。そのころわたしは芙蓉さん一家の内情について何も知らなかったので。ただ漠然と、芙蓉さんは詩郎さんとうまくいっていない、という程度の知識しかなかった。だが母は知っていたのだった。
 看護師が入ってきて、叔母のケアをするというのでわたしたちは病室を出た。看護師が入ってきたとたん、それまで気づかなかった薬剤の匂いが急に鼻をついた。
 エレベーターの前に、夏夜が立っていた。
片手に花束を抱えている。百合。それは淡いピンクの透かし百合で、香りがあまりきつくない種類のものだった。
「もう帰るの?」
 夏夜はわたしたちをひきとめたがった。彼女はわたしと同い年で、幼稚園教諭をしていた。肩までの髪にゆるいウエーブをかけ、両頬にすこし縮れ毛を垂らし、残りは後ろで束ねている。肌理のこまかい白い顔に、きっちりと刻んだような目鼻立ちは芙蓉さんよりも父親に似ていた。
「あとから詩杖も来るから、紗夜さんと透姫ちゃん、みんなでお茶しましょうよ。ひさしぶりなのに」
 紗夜が母の本名だ。姪の名前を夏夜とつけたのは母で、自分の本名に含まれる一字を与えたのである。従妹たちも、母をおばさんとは呼ばなかった。じっさいそうやって眼の前に、母と夏夜を並べてみると、起伏の少ない院内照明のせいもあるけれど、五十三歳の母と二十五の夏夜の印象はほとんど変わらなかった。
「看護師さんが来たので失礼したの」
 母は答えた。わたしたちの住む神奈川の香枕から、ここ信州杏澄野は遠い。今日の夜明けに、母とわたしは交互に車を運転して五時間ほどかけてここに来た。母は今夜この近隣に住まう歌人仲間の家に泊まる予定だが、わたしはすぐに帰るつもりだった。もう午後二時を回っているから、わたしにはあまり余裕がない。
「詩杖ちゃんは?」
「花の補給にもうじき来ると思う」
「花の補給、毎日?」
 わたしが問い返すと、夏夜は半分困ったように、
「水替えだけでも大仕事なの。お母さんは適当でいいって言うけれど、ちゃんと切り戻しをしないと、匂いがすぐに変わっちゃうから。夏だし。百合は長持ちするので助かるの。茎もいたまないし。香りがきつくても、品種を選べば」
「詩郎さんがそうしろって?」
 母が尋ねた。夏夜はこくんとうなずき、
「最期までちゃんとやれって」
「それ、誰のこと?」
 母の眼がきつくなった。夏夜は臆せず、
「お母さんと、お花」
 と応えた。
 おねえちゃん、と声がしてエレベーターではなく、階段へ続く廻廊の向こう側から詩杖がやってきた。袖なしの白いワンピースを着ている。うすい夏物のふわりとした裾がきれいだ。姉と同じように片手に花束。こちらはガーベラだった。オレンジとピンク、赤、それから青い風鈴草。すこし騒々しい彩りだ。
 詩杖は地元の短大を出た後、杏澄野市内の書店に就職していた。そこはギャラリーも開いていて、詩杖はそちらで働いていたのではないかと思う。彼女自身もいわさきちひろを模したような水彩画を描き、ただ彼女は人物ではなく、もっぱら草花を描いていた。
 おねえちゃん、という詩杖の声が聞こえたとき、わたしは、そしてきっと母もどきんとした。芙蓉さんが今日最初に母に呼びかけた声にそっくりだったから。
 詩杖は顔も芙蓉さんに似ていた。芙蓉さんに似ていて、わたしの母にも似ていた。詩杖は、わたしたちが集まっている少し手前で立ち止まり、こういった。
「紗縒さん、透姫ちゃん、おねえちゃん、それから」
 眼の前にあつまった親族をじっと眺めて、真剣な困惑が姪の顔にひろがるのを見て、母はさらりと言った。
「わたし、分裂したのよ」
「詩杖ちゃん、誰が見えるの?」
 母とわたしの言葉はいっしょに出た。夏夜は眼をみはり、
「何のこと?」
「もうひとりわたしがいるの」
「どこに?」
 夏夜はそう尋ねるしかなかった。わたしは詩杖に向かって、
「もうひとりは、どこにいるの?」
「みんな見えないの?」
 詩杖はまじめに驚いていた。
「見えません。でもふうちゃんはさっきそう言ったの、あたしがふたりになったって」
「おねえちゃんにも、透姫ちゃんにも見えないの?」
「そう。だからどこにいるの?」
 詩杖は長い睫毛をゆっくり一度まばたきさせ、花を持っていないほうの手で、母とわたしの間をさした。
「そこにいるわ。紗縒さんにそっくり。あ、行ってしまう。待ってください」
 母とわたし、夏夜は詩杖の示すうしろがわをふりかえった。そちらの廻廊は今来たばかりの芙蓉さんの病室へ続くゆきどまりだった。いちばん奥まで、薄緑いろの廊下がまっすぐに続いている。一定の間隔で病室の白い扉。今そこを通るひとはいない。詩杖の眼はたしかに、そこを歩み去る誰かの姿を、そのひとの歩調に合わせて追っていたが、足音ひとつわたしたちの耳には聴こえなかった。
 あ、と詩杖は声をあげた。
「もうひとりの紗夜さん、今お母さんの部屋に入った」
 わたしたちは叔母の病室の前の空白を見つめた。ふいにすっと白いドアが開いた。息を呑んだが、ピンクのユニフォームを着た看護師が銀色のカートを押して部屋から出てきた。わたしたちには、それ以外何も見えなかった。
 顔を見合わせて、誰も何も言わない。母も夏夜も曖昧な顔で笑っているように見えた。ほんとうは笑いごとではないのだろうが、こんなとき血相変えて騒ぎ立てるようなわたしたちではなかった。歌人水品紗縒は美しい変人として知られ、娘のわたしに対してさえ感情の破綻を見せない筋金入りのアイスドールだから、他人に対しては推して知るべしだ。
もっとも彼女は周囲に邪険だったわけではない。夏夜詩杖姉妹は、幼いころ両親の生理的精神的ゆきちがいのために、父親の実家の禅寺で育った。育てたのは、詩郎さんの弟の住職で、一生清潔に独身を貫いている。姉妹は伊那の古刹で、幼児期からたっぷりと幽霊心霊なんでもござれの超常現象に包まれて育ったから、臨終間近い母親の病床で、伯母のドッペルゲンガーに遭遇しても、今さら目新しくもなく、たいして驚けないのだろう。わたしは詩杖に尋ねた。
「芙蓉さんの部屋に入ったほうのお母さん、どんな感じだったの?」
「紗縒さんと同じよ。服も髪型も」
 夏夜と同じくらいのセミロングの髪型はともかく、母は琉球上布のワンピースを着ていた。琉球紗、というのだそうだ。黒っぽく,目のあらい南国の薄物で、もと母の母の和服だった。たいへんに高価なものだったらしいが、母は着丈も裄も自分に合わないといって、惜しげなく袂と裾を切り落とし、膝上までの洋服に仕立て直してしまった。襟を縫いつめて、胸元に上布の風合いとは異質な桃色のタイシルクを使っている。渋い上布にタイシルクの派手な光沢と桃色はアンバランスだが、皮膚の色が白すぎる母にはこの破調が却って生気を添え、よく似合った。彼女自身のオリジナルデザインなのだ。こんな衣装は誰も着ていないから、芙蓉さんの病室に消えていったのは、やはりもうひとりの水品紗縒に違いなかった。
「もういちど、ふうちゃんの部屋に戻る?」
 わたしは母に尋ねた。
「戻っても、ねえ。わたしには見えないのだし、その、もうひとりのわたしが」
 母は汗も掻いていないのに、手提げバッグから扇子を出し、ぱらりと顔の前でひろげた。香木を結った中国のお扇子は、去年上海で買って来た。ややこぶりだが、要には象牙と翡翠の小さな蝙蝠が象嵌されている装飾品で、レース編みのような透かし彫りの翼で作られる風はふんわりとよい香りがする。
「ドッペルゲンガー、わたし初めて見たわ。幽霊にはたくさん会ったことがあるけれど、ほんとうに紗夜さんとそっくりだった」
 詩杖は興奮気味に言った。白い頬に薄く血の気が昇っている。母を三十年若くしたら、詩杖になるのだろう、とわたしは従妹を眺めた。造作だけでなく、髪の生え際から皮膚の質、手や指のかたちまでよく似ている。ポール・デルボーの女性像をひとまわり痩せがたちにして、瞳の輪郭も和風に小さくしたら、きっとわたしたちの姿になる。わたし自身も母親似だから。薄青い、影のない清潔な入院病棟で、四人ないしは五人、ドッペルゲンガーの母親を加えたら五人、芙蓉さんの病室に戻るなら六人。人並み以上にきれいな女たちがうすぼんやりと集まって、現在進行形の心霊現象を冷静にひそひそと話している、などはまさにシュールレアル、超現実、とわたしは自分たちの姿を遠くから眺めた。
この画面をそのうち作品にしよう。わたしは美大を出たあと、美大予備校のアシスタントや、高校の非常勤講師をしながら自宅で制作していた。母がそこそこ名の知られた歌人で画家というのは、風来坊すれすれの娘にはありがたい七光りだった。
「なんで詩杖にだけ見えて、あたしには見えなかったの? お母さんにも見えたんですか」
 夏夜は不服そうだった。
「それはわからないけれど、こういうことは理屈じゃないから」
 母はゆったりと扇で顔をあおぎながら応えた。
「とにかく、ここで立ち話は邪魔ですよ。あなたたち、お花を活けてきて。あたしと透姫が戻るのも、なんだか変だもの」
「そうですね。だったら正面エントランスに待っていてください」
 詩杖が言った。彼女は芙蓉さんの病室に早く行きたそうだった。
「紗夜さんのドッペル、まだいるかも知れない。お母さんに見えたなら、ふたりで仲良くお喋りしてたりね」
「まさか、でもありえる」
 わたしは噴出した。のどかな会話だ。たしかドッペルゲンガー現象は、死に近いひとに出現するという迷信もあるのではなかったろうか。母がそれを知らないはずはない。歌を嗜む女性らしく、彼女は占星術やタロット、それから夢や幽霊話が大好きだった。そういえば芙蓉さんは、さっきまさに言っていたっけ。自分のあとにもうじき母がやってくる、とか。もうじき死ぬと言われたのに、母はちっとも動揺しなかったな。
 夏夜と詩杖はそのまま芙蓉さんの病室に行った。部屋中の生花の水替えを済ませるには、ふたりがかりでも、たっぷり三十分はかかりそうなので、母とわたしは病院の待合室を出て、建物の周辺の緑道をぶらぶらと歩いた。人工の雑木林には、信州という土地柄らしく白樺がたくさん混じっていて、自然木を使った柵や歩道、ところどころに設けられた小さい児童遊園のような広場には、白樺林の木の間から、晩夏のひぐらしの鳴き声と夕翳が降りてきていた。ひぐらしのリエゾンと、雑木林の影の揺らぎとは同じリズムで地面に揺れ動いていた。
緑陰のあちこちに病院のパジャマを着た入院患者さんが散歩に出ている。介護士に車椅子を押してもらってそこらをひとまわりしている高齢者は、たぶん長期の入院患者さんだろう。午後まだ夕涼みには間がある時刻だが、湿度の少ない暑さは関東とは肌合いが違ってさらりとしのぎやすかった。
「お母さん、ドッペルゲンガー、こわくないの?」
「こわくないわね。もうひとりのあたしは、今頃病室でふうちゃんと詩杖とおしゃべりしてたりして」
「夏夜ちゃんは」
「見えないんでしょ。心霊現象ってそんなものよ」
 母は顔色ひとつ変えていなかった。
「ふうちゃんは、小さいころからそんなことに時々出くわすタイプだったから」
「初めて聞いた、それ」
 わたしが覚えている芙蓉さんの記憶は、おっとりと、平凡に清楚だった。平凡、という言葉のニュアンスはあまりよろしくないのだろうか? たいらかにおおどか、と言い直すならわたしの感じる彼女の雰囲気をよく伝えられそうだが、こんな形容は一般的ではない。芙蓉さんは、日常の出来事を過不足なくまとめてゆくひとのように思えた。事故や災難があっても、芙蓉さんは自分の内部の水面を騒がせることなく処理していただろう、ああ、そうか、彼女にとっては日常も非日常も地続きだから、時々お化けを見たとしても、キッチンでうっかり茶碗の縁を欠いた、ぐらいのことでしかないんだろう。
 わたしはドッペルが死に近いひとに出現する確率が高い、という信憑性に乏しい噂には触れなかった。
 母は歩調を少し早め、歩道から逸れて、木蔭の下に据えられた木のベンチに腰を下ろした。麻の手提げから手帖とペンを出して、ボールペンのヘッドを噛んだ。頭の中で歌が煮詰まったときの彼女の癖だった。水品紗縒は娘のことなど頓着しない。もっとも紗夜のままであっても同様だった。
「できた」
 たいして手間取るでもなく、さらさらと走り書いて五分後に顔をあげた。我が母ながら、そのときわたしに向けた表情のみずみずしさには見惚れてしまった。色が白い上に、五十代というのに、このひとの顔には、目に立つ皺がほとんどない。豊麗線、頬麗線、どちらでもいいが、このごろやたら化粧品広告の惹句に目に付く、文字面おおげさな加齢現象も母にはない。目元も口許もきれいなものだ。それは芙蓉さんも同じだから、たぶん水品の女たちの遺伝形質だろう。わたしはうれしい。将来必要な化粧費用には、格安保証がついている。
 この母が内面のインスピレーションに任せて浮世を離れ、詩歌や色彩で心を埋めているときは、すっかり少女の表情に戻ってしまうのだった。それこそセンチメンタルな言い方だが、そうとしか表現できなかった。顔の表情筋の使い方は、往々にして皺やたるみの原因だから、母の顔がいつまでもすべすべして和製デルボー、年齢不詳で通せるのは、無時間無重力の詩歌空間に浮遊している物理的時間がながいせいかもしれない。
母も、芙蓉さんも。芙蓉さんは芸術インスピレーションではなく、幽霊たちと仲良しなのか。とするとインスピレーションとオカルトは地続きなのかな。どちらも人体のアンチエイジングにはプラスだ。
「どう?」
 母は無邪気にうれしそうだった。
「うん」
 わたしはうなずいた。いつもこんなふうに無造作に水品紗縒は歌い紡ぐ。死に近きひとあらふごとひぐらしのこゑ樹に満ちて娘が立てり。
「いいんじゃない。でも、いいのかなあ」
「なにそれ」
 わたしは母の顔を眺めた。意識して、心理的に距離を置くように母親を見つめた。瀕死の妹を見舞ったあと、その印象を歌う、というのは自然な態度だと思うけれど、こんな歌い方は冷たい。母の詩には、肉親を想う哀しみよりも、すでにむこうがわ、死の世界に浸り始めているひとを、ガラスの橋がかりを隔てて眺めている印象がある。死をひぐらしの鳴き声の修辞にしてしまうなんてね。〈娘〉はわたしだろうけれど、現実のシチュエーションでさえ母の旺盛な創作材料に使われてしまった気がする。芙蓉さんさえも。
この歌はたぶん、ふつうに…新聞や雑誌に投稿されている作品のようにわかりやすくはないけれど、この距離感がこのひとの精神世界なんだろうな、とわたしはいっぱし頭のなかで批評めいた感想をまとめたが、口には出さなかった。
「お母さんらしい」
「ふうん」
 母は手帖を閉じ、手提げにしまった。わたしの感想は適切だ。そのひとらしい、という言い方はよくもわるくも、ちゃんと相手を認めているという意思表示だ。ゆるくひろくあなたを受け容れる、みんなが居心地のよい、なんでもありのラブアンドピース。 

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中世夢幻 其八 夢浮橋

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其八 夢浮橋
 
 これからどうする……
 元能の眼前で宝珠が捩じられていた。いや宝珠ではないのだが、一休宗純に組み伏せられ、黒髪をばさらに乱して、汗の湿った匂いをたてている女は宝珠に見える。
 充満している臭気は、汗と、もっときわどい閨の匂いだ。
 男に抱かれている女は、元能の見知らぬ顔のはずなのに、揺さぶられ続ける刹那せつなの狭間に、どうかすると行方をくらました娘の面がかぶさって見える。
 かたく目をつぶった女の顔はおそろしい。美しい女なのかもしれない。しかし美しく見えない。元能は自分の額に滲む汗を手の甲でぬぐった。
(捨身)
 どうしたら解脱できるか、と問う元能の顔を一休はつくづくと眺め、声を出さずに笑った。大笑いした。一休は声をたてて笑ったのに、元能にはその声が聞こえなかったのかもしれない。
「ほんの、ひ、ひとまたぎだ」
 一休は言い、元能をここへ連れてきた。女が待っていた。観音、と一休は女を指差し、それからおもむろに始まったのだ。元能には何のことわりもなく始まった。
 狼狽して逃げようと思えばできた。だが元能は動かなかった。観世座が崩れかけている、という事実よりすさまじい衝撃、父の、世阿弥の記憶を塗りつぶすほどの衝撃が欲しかった。解脱への路が愛欲の姿と見つめつくすことならそれでもいい。それ、でも、いい。
(だが、俺は何から逃れたがっているのだろう。何が俺を縛めているというのか)
色欲、情念、執心…何と己の人生に無縁な言葉だろう。俺を現世につなぎとめているものは何だ。女か、宝珠か、違う。芸能への執、それも違う。観世一門を背負い立つほどの器ではない、という自覚はある。元能よりも世阿弥がそれを知っている。
(父上は、俺に何も期待してはいない)
 砧の夜の、父の静かな労わりには、すこしの圧迫もなかった。しかし圧は外部よりも元能自身のなかから興る。
 ふたりの兄が背き、今また自分も一門を捨
てようとしている。
(俺が出離を選んでも父上は俺を止めない。重兄をとがめず、雅兄を追わなかったように)
 う、というかすれた喘ぎの後で、男が女から離れた。元能の眼に塊がひしひしと蠢いていた時間は短いのか長いのか。どちらかの肉体が床にころがる柔らかく重い音がした。女の白い背中にまつわる黒髪は豊かに長い。
 がさがさと気忙しく枕元の瓢箪を一休は探った。その垢じみた体臭が急に元能の鼻をつく。一休は顔をあげた。元能の視線を捕えて
「こんなものだ」
 醒めた声だった。
「え?」
「因果の絡みとは、これに尽きるのだよ。お前は何から解脱したがっているのだ。自分でもわかっておらぬのだろう? 観世の子弟は美形な上に天才ぞろい、だがお前は兄二人を失ったあと、一座を支えきる自身がなくてぐらついている。お前が願っているのは解脱ではなく逃避だ。逃げても無駄だ。出家したとしても、世阿弥も能も、今のお前の性根では、
終世つきまとう」
 吃音のかけらもないなめらかな言葉だった。今のいままで女と絡んでいた男の声とは思われない。一休は続けた。
「迷いの手前でぐらぐらしている。迷うならいっそ観世崩壊まで迷うてから身を捨てよ。さすれば観音のありがたさも、捨て身にしみてわかろうというものだ」
男たちに背中を向け、肩肌脱ぎのまま乱れた髪を梳っていた女が元能をふりかえり、目を細めた。宝珠には似ていないが、色の白い綺麗な女だった。鳩のようにくくっと喉で笑い、一休を指差し、
「このひと嘘つきだから信じちゃだめよ」
「この世じたいが嘘なのだ。真など何一つ、どこにもない。世界には、風にひるがえる木の葉のように、裏と表があるだけだ」
 素っ裸で一休はあぐらを掻いた。女が舌打ちして彼の膝を袈裟で覆った。一休はさらに言った。
「裏も表も、その日その時の当人の心しだいだ。普遍の表、などというものはないのだよ。元能、帰るがいい。お前の家が滅んだときにまた逢おう」
 一休は瓢箪をぐいっとあおった。喉を鳴らして呑もうとしたが、あいにく中身はほとんどからだった。彼が鼻に皺を寄せて瓢箪を投げ捨てるのに、
「世阿弥は滅びぬ」
 元能は言い返した。観世は滅びない、と言いたかったのだが、なぜか口をついて出た言葉は世阿弥、だった。元能は呼吸を静めてもう一度、自分の口にするものの意味を噛みしめるように言った。
「父が死んでも、世阿弥は滅びない」
 命には終わりあり、能には果てあるべからず、俺にとっては世阿弥が能だ。
「そうか。ならばお前の父親が死んだときに俺のところへ来い。今のお前は女よりも仏よりも、親父殿にがっちり掴まれていて、解脱も逃避もならん。だがな」
 と一休はすこし間を置いて傍らの女をちらりと見た。
 能が映しているものは、詰まるところ、人が人である所以の業なのだぞ。
帰れ、と一休は言った。

寺々の後夜の鐘が闇に冴え、長く尾を曳くその響きの、ひとつの谺が鎮まらぬうちに次の鐘が突き鳴らされる。おだやかな湖にも似た都の有明のしじまを、そこかしこの寺院の鐘は、たいらかな水面に滴る夜露さながらに波紋を描き、やがてそれらの漣の末は、凍てつく大気のために白く結び、薄氷のような霜が一面に降った。底冷えは霧となって盆地の底にほの青く沈む。さばかり吹きすさんだ木枯しは、朝のいっときふと小止み、それは凝った空に圧さえつけられるように、骨身にしみる京の真冬の訪れだった。
 
たらちねの道の契りや七十路の
  老いまで身をもうつすなりけむ

家人にさきがけて床を抜けた世阿弥元清はただちに稽古場へ入る。ひとけのない薄明のなかで、彼はこの稽古場だけは余人に任せず我が手で拭き清めていた。武家の応接間である九間にならった三間四方の座敷は、数十年来、世阿弥にとっては、俗世のいかなる高貴のひとに増して、能の呼びだす彼岸の者たちにまみえる聖所となっている。
早朝、この部屋に入る前に、彼は口をすすぎ手を洗い、女の手を借りずに髪をくしけずった。かつてのゆたかなみずみずしい黒髪はとうに白く、頂の膚が櫛の梳き目に透るほど薄くなった。おぼろな曙光をたよりに向かう鏡は、この朝の寒気に何度袖で拭うてもたちまち吐息に曇り、鬢のほつれも見分けがたいが、彼はそれを是とした。
うわべの美を誇る日々は遠ざかったが、老年の見苦しさをがえんじはしない。
 肉眼を超えた視覚を求め続けた彼は、凡人のまなざしのあやふやを熟知している。人は己の見たいものしか見ない。逆に言えば、見えていると信じているものは、当人が見ようとするものなのだ。したがって己の身の丈に応じたものだけが見えることになる。それはせわしげに、あたかも一瞬ごとに過ぎ去る時間の速度と競いあうかのように、皆ひとのまなざしは落ち着きなく、あわただしく世界万象の上を滑ってゆく。
 かつて若き日、世阿弥は己の姿の隅々まで見極め、改め、寸分の隙もなく整えねば気が済まなかった。芸においてはさらに。
 心を究め、舞を謡を究め、己自身には決して見えぬ己が後姿までも、研ぎ上げた心眼で見尽くしてこそ、至芸であると。
 離見の見、と彼はその境地を呼んだが、さばかり容赦ない練磨で透徹したのは、目もあやな光彩陸離を突き抜けた、かそけく冷たい陰影の世界であった。
 冷えた世界、無文の能。
 彼は鏡の蓋を閉じ、広縁をゆくりかに歩んだ。素足の爪先に寒気が錐を揉むように厳しい。うち見れば池には氷が張り、しらじらと靄いでいた。あたかも、この家の吐息のような白い蒸気が、葉の半ば落ちた木々を翳らせ、ごくゆるやかな大気の流れのままに、右に左に動いてゆく。池の端に楓は残んの紅葉を点じているが、その緋いろさえも、今は深沈と夜明けの青い紗を被いていた。
 無の世界、と彼は精進の頂点に掴んだ結晶を、心中に冬の太陽のように眺めた。
 いや、と彼はまいら戸に手をかけ思い直す。羽目板にふいに朝陽がさし、松影は巨大な掌のように彼の背を掴んだ。
 新羅夜半日頭あきらかなり
 これよ、と彼は頷くのだった。
 この一句ほど、ただ今の彼の内奥を言いあてているものはない。真夜中の太陽。輝かず、暖めもせず、しかしその赫然はまさしく太陽であり、深遠の周囲を貫いて天にある。
 否、中天にあって、黒々と濃い夜を象るものこそ太陽だ。なぜならば、闇は光が生み出すものだから。太陽の光輝は闇を凝縮し、ひきしぼり、ともすればほしいままにあふれだす暗い情念を、正円の内部に封じようとしているかのようであった。
 情念が生む闇。
 しかし太陽もまた情念により生み出されたものに他ならぬ。あたかも、太陽は情念の途方もない自惚れ、是が非でも己が姿を照らし見たいという欲望、己自身をことごとく味わい尽くしたいという渇望によって、人間の精神から転がり出てきた鏡のようなものであるかも知れない。そして、闇は闇を、夜は夜であることを認識し、さらなる渇望を暗い熱に変えて、ふたたび太陽の内部へと収斂してゆくのだった。
 室内に足を踏み入れた世阿弥は、微かな違和感に眉をひそめた。やや視力が落ちて、彼方こなたのものみなが、靄然と霞む。しかし鳥獣が、嗅ぎなれた風の流れのごく僅かな歪みに異変を察するように、世阿弥は定かならぬ視界の一隅に、彼の神経をそよがせる何かを感じ、ゆっくりと瞬きした。
 正面奥の押し板、香炉、その上のすさ壁には夢想国師の偈、燭台、数冊の漢籍。
 燭台の脇は世阿弥の常の茵だった。ここに端座して、この夜毎、次男を相手に問わず語りの談義をした。息子がかしこまっていたちょうどその場所に、ひっそりと一巻きの書があった。
 手にとった父親は、まず奥書を見た。 
 たらちねの道の契りや……
 一瞬呼吸が滞り、まるで辻褄を合わせるような勢いで、家人が廊を小走りに来る気配が聞こえた。
 歌はさらに続いた。
 ははそ原 かげ置く露のあはれにも
   なほ残る世のかげぞ絶ち憂き
 元能も行ってしまいました、と老妻の喘ぎ声がまいら戸で崩れた。太夫、とこの妻は長年連れ添った夫をこう呼んだ。
「太夫、あの子を止めて下さい。まだ遠くへは行っていない。昨夜はこの家におりましたものを」
 さしせまった訴えは半ばで嗚咽に変わり、世阿弥は肩で息を整え、奥書の最後の和歌に目を走らせた。
 立ち返り 法の御親の守りとも
   引くべき道を せきな留めそ
(兄上を引き留めてください)
(わたくしを見捨てるおつもりですか)
 元能の声が、世阿弥の脳裏を走りぬけた。
 妻もまた、
「太夫、あの子を」
 取り乱すな、と彼は声を絞り、元能のしたためた『申楽談義』を指先が白くなるほど握りしめた。

 ぎし、と櫂が音も重く漕ぎ出た渡し舟の縁に、元能の眼を射るように真紅の葉が落ちた。
 朝まだき舟路に乗り合わせた客は少ない。舟を操る渡し守は腰の曲がった老人だが、きっぱりと目を見開き、いちいちの乗客に頭を下げる。寒中というのに、裾のほつれた衣を短く膝上までからげ、剥きだしの痩せ脛につぶつぶと浮き上がる鳥肌が凄い。
「風もないのに、何のしるしぞ」
 縄で口を縛った麻袋をいくつも身の回りに並べた物売りふうの老婆が舳先にひとりうずくまり、しわぶきながらひとりごつのを元能は聞きとがめ、笠を被った顔をあげた。
「追い舟の飛花落葉は、舟の客人の置き捨てた誰ぞの未練とか…」
 片目だけそこひを患うらしい老婆は、皺の幾重にも寄った顔をもぐもぐと歪め、歯が抜けてすぼまった口から声を揉み出すように続けた。赤く爛れた眼に脂がこびりつき、それをぼろ布や袖口で、ひっきりなしにこすっている。乾いてこびりついた眼病の粘液は、それでも落ちずに小鳥の糞のように彼女の病んだ瞼を覆っている。物売りと見える風体だが、呟く言葉の独得な抑揚から察すると、流れの梓巫女でもあろうか。老婆は麻袋のひとつから、桑の木に絃を張った粗末な弓をとりだし、見える片目をしょぼしょぼさせながら、元能をふりかえって、手まさぐりに鈍い音をいくつか爪弾いて聞かせた。
「おまえさま、どこに行かれる。先を占うて進ぜようかえ」
 舟の乗客の中で、元能の秀麗な若さは際立っていた。師の一休にならって、笠をかぶり身なりをやつしているのだが、世阿弥の子は、それでもみすぼらしく見えないのである。巫女でなくとも、元能に興味を持つのは当然だった。ごそごそと船べりにつかまりながら元能ににじり寄る老婆の前に、脇から一休がぬっと割って入った。
「こ、この者は此岸を離れたも同然であるから、後先の区別はない」
 老婆相手に一休はどもりながら、元能が浅く被っている笠の端をつまんで、剃りたての頭を見せた。ほおう、と巫女は見える片目を精一杯見開き、
「新発意かえ、なむあみだ」
 手を合わせた。
 きい、きい、と舟は流れに棹さして水を押し分け、蒼白な冬霧のたちこめる川面に小舟はなめらかな澪の波紋を裾ひろがりに描きながら進む。元能は自分の膝上に落ちた紅葉にじっと視線を注いだ。今朝の寒気が凝ってこの一葉に集まったかのように鮮やかな朱色だった。紅入り、紅なし……紅をいろ、と読ませてその色彩が衣装に入れば若い女、さもなければ年たけた女、と演じ分けてきた。この赤い紅葉なら、と元能の胸うちになお点る熱さがある。見透かしたように一休は、
「未練は捨てろ、いっさい捨てろ」
 くどくどと言った。その吐息は熱く、酒臭い。出家を願った元能の髪をひとつ剃るごとに、一休は酒をぐい、とあおったものだ。酔っ払いの手元が狂いでもしたら、と元能は半ば危ぶみながら、その反面、自分のいただきをぞりぞりと削いでゆく一休のかみそりの運びに、背筋がぞくぞくする血なまぐさい快感を味わった。もしも今、一休が自分の首筋を掻き切ってしまえば、いっさいはけりがつく。出家の意志は自棄ではないが、さいぜんに一休に突きつけられたように、元能にとっては、眼の前の現実を受け止められぬ逃避と言ってさしつかえない。その自覚はあった。しかしまた、不肖の彼なりにたくらんだはかりごともある。
 『申楽談義』をしたため終え、世阿弥に残して元能は出奔した。いっぽう、出離の数日前に家人の某に、大和の兄へ文を託した。
(俺は観世を継げぬ)
 たとえ南朝ゆかりの娘をめとり、子をなしたにせよ、元雅ほどの達人がやすやすと能から離れられるはずはない。一座の棟梁としての責任感もある。まだ若輩の末弟の器量を測れぬわけがない。さらに元重率いる新座との凌ぎ合い…。それら一切を捨てて大和びとに混じろうという元雅の決意が元能には理解しがたかった。南朝の女と係わるのが逆境の世阿弥一座への新たな災禍となるのを危ぶむというのなら、今までどおり伏せておけばよいものを…。ぬきさしならず元雅の進退をはっきりさせずにはおかなかった大和の女がどういう筋目なのか、ということまで元能は考えなかった。
(俺が消えれば兄は必ず観世に戻る)
 短絡な動機は、仲のよい兄弟ゆえに可能な過信、確信でもあった。
「未練などない…ありません」
 元能は一休に応えた。出離の師に選びながら、彼に対しては、なぜか敬語がするすると出てこないのだった。世にはばかって宮中を追われた後小松の皇子と聞いたが、年のころは元雅ほどの一休の風貌には、貴種の者らしい気韻がまったく感じられない。それは元能だけが受ける印象ではなかった。西洞院の遊女たちが、かるがるしく一休を坊さん坊さんと呼び合い、遊女の気まぐれに時折情けをくれてやるという扱いの軽さを、むしろ一休は歓んでいた。この男がちゃんと金を払って買った女はたぶん宝珠だけではなかったろうか。しかし、それも時折のことで、たいていの場合、宝珠は一休が厨子に払う玉代よりずっと多額の喜捨を、かなりおおっぴらに施していたから、地獄厨子の遣り手婆ァに疎まれてもしかたなかった。
(あれはどこへ雲隠れしたのか)
 元能はただいま漕ぎ離れた岸辺をふりかえった。宝珠は…。彼が初めて知った女。水よりも風の流れよりも気ままに軽く、枝を離れてはらりと目の前に踊る桜のはなびら、あるいは楓の葉のように、とりとめなく彼の傍らを過ぎた。あれはどこに消えたのだろう。出奔の前夜、元能の心になお、熱く小さい渦が巻いたがねじ伏せた。西洞院に行っても、もう彼女がいないことはわかっていたのである。
 出離の岸辺は朝じめりの霧に深く覆われ、はるかに響く明け六つの鐘も、まるで元能と都とを隔てるかのような霧に包まれてどんよりとおぼめき、厳冬の冷え込みは東雲かけてさらに凍てつくようだった。
 かじかんだ指を揉みしだきながら、元能は己の仕草がなお、扇あしらいを損なわぬようにとの舞台の前の心がけそのままなのを知る。
 捨てきれるか、と舟の軋みにも似た脅えがやってくる。芯から思い離れたとは言い切れない自分の心が霧の中にぼうっとあかるんでいる。あかるみの中心は世阿弥でもよいし宝珠でもよい。もろもろの迷いの姿は明滅してさまざまだった。迷いをしかじかとひとつに定められるのなら、解脱はたやすかろう。
 またぞろ揺れ動く己が心から目を背け、元能は横の一休を見やったが、破戒坊主はこの寒さに腕も脛もまるだしで、肘枕の高鼾。あるいはずるい狸寝入りかもしれぬ。
 一休という男は、ひとを欺くことに少なからぬ悦びを感じている。それが善であれ悪であれ、大勢の指向をわざと覆し、もどき、唾を吐きかける愚行を自ら楽しんでいる。破戒堕落を声高にわめき散らし、権力におもねる禅門の虚偽を暴露してやまないが、彼の言動は、一貫した確固たる信念によって己を貫いてゆくというよりも、常に世の主流に対立する逆の姿でいたがるようだった。
 猿楽者の家に育った元能には、一休という人物が神楽の天の邪鬼のように思える。人に逆らい、片意地を張る天の邪鬼は災いをなす悪鬼でありながら、同時に村々へ豊穣をもたらす神でもあった。
 川の深みの中ほどでゆらりと舟は行きあぐね、流れとそれに逆らう小舟の力とが拮抗してしばしたゆたうと、元能は自分の心が舟足を滞らせたかのような、漠然とした迷妄にとらわれるのだった。生にもよれず死にもよれぬ、この舟の足よ、と元能は息を吐いた。
(元雅兄を観世に戻すために出家したのではないが)
 かりに兄がふたたび観世本家を顧みてくれたら俺はどうするだろう。心安らぐだろうか。
「何を考えている」
 後頭部をこづかれて我にかえると、一休が充血した目で自分を睨みつけている。
「また邪念を蓄えているな、欲の深い」
「邪念ではない。ありません」
 一休は鼻の穴を虚空に向けて口をとがらせ、見透かしたような横目で、
「おまえのような無能はともかく、世に名高い世阿弥などは、生きの一刹那をむさぼりの念で過ごしておる」
「どういうことです」
 世阿弥を罵倒された元能は、思わず逆上し、舟の上ということも忘れ、ぐらりと立ち上がりかけるのを、左右の相客にひきとどめられた。
「父上ほど真摯なひとは」
「いやさ」
 一休はにたりと笑った。元能の怒りを一休は明らかに楽しんでいた。耳の穴に小指を入れ、しきりにほじくりかえしながら、
「金品を集めるばかりが欲ではない。おまえの父親は、この世のありとあらゆるものを、猿楽の益に、己が芸の足しにしようと虎狼の念で生きている。おまえの一家は地獄の業火をひきずり、世に邪念の火の粉を撒き散らしておるのさ。それでもなお飽き足らぬと見えて」
 しわがれた笑い声に紛らしたかと思うと、一休はふいにがらりと表情を変え、ずだ袋から干し肉を取り出して食べ始めた。
「酒欲しや」
 干し肉は、肉をまず火に炙って天日干しにした携帯食であった。肉食は飲酒同様、僧侶には重い戒めだ。しかし一休はぴちゃぴちゃと舌鼓を打って肉を喰いちぎり、うまそうに喉を鳴らしてそれを飲み込んだ。
  朝妻舟とやらんは……
 おや、と舟の客たちは時ならぬ晴れやかな歌声に耳をそばだてた。ようよう霧がほぐれ、声といっしょに朝陽が重い雲間を分けて射し出ると、対岸は一瞬明るく輝き、大気は動いて風向きも変わった。じっとり重い冷気は、しだいに身を切るような乾いた寒さに変わり、旅人たちは一様に咳込み始め、洟をすすりあげ、川風の寒さをかこつのだった。
元能には、しかし内面の澱みを結晶させるような寒気が快かった。とらえどころのない迷妄を集め、凝り固め、凍てつかせてしまえば、心の靄のけじめがついて、その余白はいっそせいせいするのではないか。眼に映る川面の水蒸気もまた、かはたれの濁りを消していさぎよく透き通った。
そのなかを、眼前にひろがる冬景色の荒涼にはそぐわないなまめいた歌声が近づいてくる。
朝妻舟とやらんは
それは近江の湖(うみ)なれや
我も尋ね尋ねて
恋しきひとに近江の…
節まわし巧みに、間合い小気味よく鼓が鳴る。よお、ほお、と掛け声の確かさに元能は臓腑を鷲づかみにされたような気がした、捨てようとした芸人の性根に一瞬で血が戻ったのは、耳に届いた歌声がほんのかたそばながらも、稀なよい勘の持ち主とわかるからだった。
 恋しきひとに近江の海山も
 海山も隔たるや あぢきなや
 浮舟の 棹の歌を 歌はむ
 ほ、と一休は舟縁に頬杖をついてにやにや笑った。
「地獄に菩薩」
 歌っている女は防寒のために頭から被った赤い垂れ衣の端をちらりとまくって顔を見せた。元能の眼に彼女の笑顔はいたい。胸にしみる。宝珠だ。脇の鼓は蝉丸。

  あぢきなや、とても消ゆべき露の身…
 謡いさして口をつぐんだ義教の横顔を、太刀持ちの傍小姓は慎重な上目でうかがった。やや下ふくれの色白に、八の字眉がさらに優しく、凛とした美少年というよりは、娘の小袖を着付けたいような顔をしている。彼は先日元重に応対した小姓であった。彼は幕府の重臣赤松氏の出で、本家満祐の甥にあたる。
だが叔父とは仲が悪い。よくある跡目の悶着で、少年の家系は現在の本家と齟齬を生じていた。彼の父は息子の将来を恃んで将軍の小姓にあげたのだが、その目論見はあたった、と周囲はもっぱら噂している。美少年は正室重子よりも伽に召される夜が多い。
 しかし、少年には主の心象が掴みきれない。もとより鋭利な義教であるが、内腑をえぐる密着のあわいには、いささかなりとも狎れが生まれるはずだった。愛される者と愛する者、与える者と与えられる者との立場が、微妙な均衡を保ちながら逆転する親しさ。主従の箍で縛められている日常を覆す甘美な瞬間が、はらわたに放出される迸りのように少年の上に訪れる筈なのだった。しかし、義教は少年を受動の淵に留め置いた。快楽より鋭い、刃のような昵懇は、ついにこの少年には与えられぬものらしかった。
 嫉妬の直感で少年は、義教の刃が観世元重にのみ直にふりおろされるのを感じ取っていた。望んで得られるものではないが、と少年はむず痒いような苛立ちで唇を舐めた。己れの若くしなやかな肉体より、将軍の官能を掴んで離さない元重の魅力は何なのか。少年はまだ、自分の肉を通してより、物事の判断がつかぬ年頃であった。
  あぢきなや…
 再び義教はうなり、室町御所のきらびやかな調度を睨んだ。大陸渡来の珍品が、この会所に飾り付けられている。将軍義教は今、比叡山の反乱鎮圧に対応を迫られていた。義満が造営した相国寺鹿苑院が、比叡山延暦寺と領地の境界をめぐって抗争し、将軍家と朝廷を巻き込んで紛糾を重ねている。朝廷は例のごとくのらりくらりと是非の決断をあきらかにしていないが、内実は延暦寺に味方していることははっきりしていた。北朝天皇家は、即位存続にかかる物資また権威のいっさいを幕府の庇護に頼りながら、隙あらば足利政権をすくおうとする画策を止めないのだった。
 既に義教は延暦寺討伐を決意していた。各地の一揆・謀反勢力と、中央の大寺院の勢力が結びつきでもしたら、事態は寺の領土争いでは済まされぬ。いや、近年の南朝小倉宮の台頭と比叡山の反抗は密かに呼応するのかもしれなかった。ことは余談を許さない。しかし、と義教はまたしても歯噛みする。
 宗教勢力と表だって戦うのに難色を示したのは、日ごろ何かにつけて将軍を権勢している宿老大名ではなく、意外にも、義教が将軍就任以前から腹心として行動してきた三宝院満済だった。醍醐寺三宝院をあずかる僧侶は、頑なに延暦寺の懐柔妥協を勧め、義教の強行を制しようとする。
 売僧(まいす)めが、と義教は壁際に所狭しと陳列された唐絵、花瓶、調度のたぐいをねめつけた。これらの多くは満済が審美眼を発揮して献上…無論、なにがしかの権益とひきかえに…したものだった。満済が将軍家と延暦寺の間で一身の保全を躊躇している内心は知れている。彼は宗教界最大勢力延暦寺を敵に回したくないのだった。
 待てぬ、と今朝彼は三宝院に延暦寺討伐の意を伝える使者をさしむけた。調停役をかって出ている満済には寝耳に水というものだろう。御所を出てから既に一刻を過ぎたが使者は戻らない。公家ふうに長袖流をきめるつもりか、と侮蔑の嗤いが将軍の顔を掠める。
 棺桶に片足をつっこんだ老人が、ありはてぬ未来に向かって飽かず貪欲に権力欲を募らせている姿は、果断な義教には虫唾が走る。いまごろ満済は清潔に整えられた顎鬚をしごきながら、どうやって義教を言いくるめるか思案していることだろう。ひょっとしたら将軍にいっそ毒でも盛りたいほどの鬱情をたぎらせているかも知れない。もっとおとなしい、我らの言いなりになる腑抜け公子のほうが、今となってはようござった……。
使者として遣わしたのは細川持之だった。常の伝令たる日野氏ではなく、わざと大大名細川氏を選んだのは、義教の決意の固さを知らしめるためでもあるし、さらに意地悪く言うなら、軟弱武家の細川の狼狽を楽しみたかったからだ。案の定、義教の決断を拝命した持之は、色蒼ざめて御所を退いた。海千山千の宿老大名の中で、武を忘れた教養人貴公子の彼ほど、政治折衝に不向きな人物はいない。
細川氏は将軍に加担できないが、さりとて満済と組んで権謀術数をめぐらす狡猾もない。
(古今和歌集を諳んじるくらいだ)
 義教は脳裏に満済と持之のぎくしゃくした問答を思い描いた。声にも表情にも決して出しはしないが、義教の全身をあらあらしい哄笑が揺さぶり、彼は獲物を見定める猛禽のように、双眸を虚空に鋭く光らせた。

  あぢきなの 夢の 浮き世や
  ただ狂へ 舞へや 遊べ
  つれなくさかしらだちて
  恨み残すな なよな なよ
「坊や、どこへ行く」
 鼓の調べ緒を締めなおし、蝉丸は元能を呼ばわった。
 破れ蓑傘に杖を握った蝉丸の出でたちは元能に濃い既視感覚をくれた。鬱蒼としたなりは、猿楽一座が旅巡業のさきざきで、山の神田の神として演じてきた鬼の姿だった。この男はいったい何者だろう、という疑問がそのとき初めて元能の頭に礫のように降ってきた。
「お主こそどこへ行く」
 元能は逆に問い返した。蝉丸の横から赤い被衣(かつぎ)に、玉椿を描いた紫の小袖の宝珠が、川風に乱れる被りものを抑えながら歌うように応えた。
「風の向くまま行方さだめず」
「尼になるのではなかったか」
 宝珠を相手にして、沈んでいた元能の心が明るんだ。弾みのあるなつかしい声だ。宝珠もまたいったい何者なのだろう。どこから来たのか。尼になったと聞いたが、色とりどりの衣装ば、まだ俗の女のままだ。
「もとからあたしは尼なの」
 生まれは若狭の八百比丘尼。
「それでは御身は人魚の肉を喰ったのか」
 一休は狸寝入りの首をもたげて口を挟んだ。
遠慮なしにずけずけと、
「御身が不老の八百比丘尼ならば、情けをもらった儂もさぞ長寿を保つであろう。ありがたや」
 八百比丘尼とは、人魚の肉を食べたおかげで不老長寿を得たという娘の伝説である。若狭国で、漁師の父が隠しておいた人魚をそれと知らずに食べた娘は、そのときから年をとらず、両親、夫、家族皆が年をとって死んだのちも生き長らえた。彼女は次々と再婚したが、どの男も人の運命のままに亡くなり、何度となく死別の悲哀を味わった娘は、やがて世を捨てて出家し、その手に椿の枝を携えて国々を経めぐったという。
 中世、日本各地には、この八百比丘尼を名乗る遊女たちがいた。尼僧姿の女たちは自らを神秘めかし、諸国をさすらいつつ色を売った。すべての男を拒まぬ遊女は、特定の男のものにはならない存在として聖でありまた賎であった。
 蝉丸はおもむろに自分の小舟を元能の乗る渡し舟に近づけ、櫂をあやつって上手に一休の傍まで船端を寄せると、いきなり
「見極めてやるぜ」
 蝉丸はぐいと猿臂を伸ばして坊主の襟上を掴んだ。腕力で相手をずるずると引き寄せると、渡し舟も蝉丸の小舟もぐらぐら揺れたが、宝珠は笑いながら体をずらして自分たちの乗ったささ舟の均衡を図り、渡し舟に乗り合わせた者たちもあわてて反対側の縁に体を集めた。
 蝉丸はひきよせた一休の顎を別な手でつかみ、彼の眼をじっと見つめた。首をしめあげられても、一休はへらりとした薄笑いを崩さない。
「破戒坊主が。今生の終わりまでしたいほうだい。ずぶといつらだ」
 失せろ、と蝉丸が手荒く突き放すのに、一休は身軽に膝を沈め、揺れる小舟の上をひょいひょいと雀踊りに数歩下がり、蝉丸の手が届かないと測ってから舌を出した。蝉丸はぺっと唾を吐き、そうするうちに二艘は並んで対岸へ着いた。
 舟が着くなり、一休は身軽く舟縁を飛び越え、誰よりも先に川岸に上がると、うしろをふりかえり、
「亡者ども。地獄の沙汰を行け」
 言い捨てて、兎のように敏捷に枯れ葦のざわめく河原の中に走り消えてしまった。元能には一瞥も残さなかった。
 渡し舟は客を降ろしてふたたび向こうへ戻ってゆく。川の流れを乱して重たげな波紋がふたたび拡がり、鳥の声がけたたましく響く。百舌だろうか。癒えかけた傷を暴くような記憶が元能に戻りかけ、青年は息を呑んだ。
「どこへ行くの」
 宝珠がもういちど重ねて元能に尋ねた。
「大和へ行く」
「兄さんを連れ戻しに?」
「観世には兄上が必要だ」
 蝉丸は歯を剥きだして笑った。
「おまえでは支えきれんな」
 無遠慮に裁かれたが、乾いた物言いはいっそ元能の耳に快かった。蝉丸はさらに、
「しかしおまえの兄はもはや観世には戻らない」
 断定した。
「なぜだ」
 元能は問い返した。なぜわかる。
 蝉丸は腕組みして青年の顔を覗き込み、周囲に舟の乗客が、もう残っていないことを確かめると、声をひそめて
「元雅の契った女は南朝の皇族だ。それに子を孕ませた元雅はもはや抜き差しならず一揆の一味に加えられた」
 元能は唇を曲げた。半ばは予想していた。大和は反幕、反北朝勢力の拠点であり、観世座棟梁の兄の運命を変えるほどの女は、ただものではないはずだった。しかしまさに南朝皇家の姫とは、京の家族の誰もが想像したくない事態だった。
「命がけだ。知っているか、一味神水(いちみしんすい)という」
 蝉丸は眉を寄せて気色ばみ、元能にひたと顔を寄せた。
 〈一味神水〉とは、一揆を結ぶにあたって執行された儀式であった。一同で誓約を取り交わし、条項を起請文に記す。神前にてその起請文を読み上げた後焼き捨て、灰を神酒に溶かし、誓約者全員が飲んだ。この起請文には必ず「神文」と呼ばれる呪言が含まれていた。もしもこの誓いに背くなら、地の果てまでも神罰を蒙るだろうと。すなわち生死を賭けた団結と蜂起の儀式であった。
「裏切り者には神罰。だが実際は仲間うちの制裁が降る。足抜けしようとするなら、元雅は無事ではおれぬ」
 蝉丸は一息に言い切り口を閉ざした。相手の驚愕を測る眼で元能の顔を凝視する。元能自身に自覚できない彼の僅かな逡巡や恐怖を、蝉丸の炯眼は正しく射ぬいて底光りしている。
 元能は蝉丸の眼光と相対しながら、自分が限りなく無になっていくような気がした。
(無駄、というのか。だが)
「行かねば鳴らぬ」
 口を突いて出た言葉はきっぱりとしていた。
蝉丸はぐい、とふたたび元能に迫った。
「裏切り者は殺される」
「能には兄が必要だ」
 ほう、と蝉丸は元能の顎をつかんだ。若者は蝉丸の視線をしっかりと受け止め、目を逸らさない。芸能の道を逸れ、さまざまに迷いを抱えながらも、なお歩み続けようとする一念がまっすぐなまなざしに見えた。
「観世は、兄上をなくしては続かない。俺が死んでもよい」
「馬鹿が」
 蝉丸は舌打ちした。だが元能の顎を握った指はふと緩んだ。
「弟が兄の身代わりになるだと? そんなことができるものか」
 蝉丸の親指が元能の頬に登った。
「兄の運命と弟のそれは重ならぬ。すりかえもきかぬ」
「お前は何者だ」
 元能は蝉丸の手を力いっぱい払いのけた。
 轟、と樹々を揺るがせて山おろしが来た。葉のあらかた落ちた枝々に研がれて北風はあらあらしくすさび、川から吹きあげる風と揉みあい、よじれ、塵埃がきりきり舞しながら蝉丸の周囲に渦を巻いた。何者だ、と元能はふたたび叫んだ。
 渡りの傀儡、と口を挟んだ宝珠の言葉を無視し、元能はさらに言い募った。
「なぜそんなことを知っている。知っていて、それを俺に教える。お前は何者だ」
「俺は」
 蝉丸は腕を組んで元能を眺めた。北風が元能の叫びに呼応するかのように咆哮して吹きつけ、蝉丸の蓑笠を揺さぶった。と、抑えつけられていた鳥がはばたくような音をたてて彼の破れ笠が吹き飛び、あ、と宝珠が手を伸ばすより早く、笠はくるくると舞い上がり、突風に運ばれて川面に落ちた。
 茶紫に爛れた男の頭が、いきなり朝陽に輝き表れた。ひきつれた頭皮がいびつな皺と凹凸となっている火傷は、蝉丸の頂から後頭部、また額、こめかみにかけて、てらてらと醜くひろがっていた。ところどころ無事な毛根からふぞろいに伸びた頭髪は息苦しく縮れ、あたかも野焼きの後に残ってくすぶる草の繊維のように、風にまがまがしくなびいていた。
 元能は言葉を失って蝉丸の傷口の放つ暗い輝きに見入った。それは、おそろしいというよりも、うつつならぬ畏怖であった。見つめているうちに、蝉丸の焼け窪んだ頭頂に、巨大な眼がふいに開いたとしても不思議ではなく、そのとき傷痕は爬虫類の瞼に似て、裏に潜む無表情な視線を垣間見せるであろうと錯覚させた。
 蝉丸はひややかな眼で、元能の驚愕を測っていた。ややあって、
「俺は南朝後亀山帝の第一皇子だ」
 ひとつずつの音をくっきりと告げる蝉丸の断定を、元能は疑わなかった。宝珠が脇からささやくように付け加える。
「宮中では生まれた双子のどちらかが殺されるしきたり。竈の火に投げ入れられた赤子を、乳母が咄嗟に拾い上げて、隠し育てた」
 蝉丸はさらに、
「当代世間にかまびすしい、反乱の要、小倉の宮は、俺の兄だ」
 蝉丸は口の端を歪め、嗤いとも嘲りともつかぬ表情を浮かべた。元能が返事の声を絞りだす前に、蝉丸は青年の頭から笠を奪い取り、すばやく火傷の頭に被った。
「お前に坊主は似合わぬ。その行く先は知れている、早く都に戻りな」
 蝉丸はにやりと笑って、元能の剃りあげた頂を厚いてのひらで撫でた。そのまま背を向ける。
「どこへ行く。お前こそこれから何をたくらんでいる」
 追いかける元能を、蝉丸は横顔だけでふりかえり、
「一揆に加わり、裏切り者を殺す」
 ぎょっとする元能の動揺をはかり、たのしそうに、
「いっそ不出来な兄にとってかわるのもよい」
 …成仏生天怱是虚、とうそぶいてさらに、
「地獄の沙汰を行くさ」
 それは一休の台詞だ、と元能は思った。お前たちは、同じことを言う。一休は北朝の、蝉丸は南朝の皇子、いずれも表だって貴種を名乗れぬ流離びとだった。
 蝉丸は乾いた嗤い声をあげた。二声、三声
烏のしわぶきに似て川面を掠めたその声は、また吹きおろす川風が瞬時に運び去った。
「俺には先など見えぬ。だが吉野に行き、兄に会う。かならず連れ戻す。戻ってもらう」
 叫び返す元能を蝉丸は振り返らない。
  あぢきなの 夢の憂き世や……
 ほそい歌声をかえりみると、宝珠が河原石に腰をかけ、元能を見上げていた。
「宝珠は蝉丸と行かぬのか」
「お前と行く」
 宝珠はにっこりと笑った。風の向くまま、今は、お前と行きたい。
「俺は出家の身だ」
「一休禅師も出家だわ」
 少しも動じない宝珠の両目はきらきらと晴れやかだった。
「いずれのこと今生は浮雲、定めぬ行方は合わせもの離れもの。あたしも蝉丸も己の時が尽きるまでさすらうだけ。元能の足手まといにはならぬ。今のあたしはお前が好き」
 宝珠は立ち上がった。
 行こう、吉野へ。
 元能の手をつかんだ。
…夢やゆめ うつつや夢と分かぬ世を
  覚めてはかなき 露の我が身や…

                                 (了)





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