さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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星月夜 vol7卯咲苑

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   卯咲苑

 百合原さんは鹿香丹階堂に住んでいる。工房とアトリエを兼ねた谷戸の一軒屋で、妃翠房と同じくらい古い日本家屋だった。
 クリスマスの翌日店番に来てくれるはずだった香寸さんはインフルエンザに罹患したためにお休みし、急遽乃菜に代わってもらった。
発熱は年末いっぱい続き、年明け三日からの妃翠房の仕事始めにも出勤できなかった。わたしは母から預かった最後の香寸さんへの贈り物を持って、谷戸にお見舞いにうかがうことにした。
 正月三ヶ日は八幡様への参拝客で、鹿香と、ここに近接する香枕界隈は観光過密状態になる。通交規制がかかる乗用車はもとより、バス・タクシーなどの交通機関も平常どおりにはまわらない。谷戸とはいえ、百合原さんのアトリエ卯咲苑は、丹階堂明神の裏手で、やはり鹿香の観光スポットのひとつだから、満員のバスに乗る面倒を避けて、妃翠房から自転車で行くことにした。  
店は乃菜と綴さんに任せた。乃菜はともかく正月早々家庭持ちの荻さんに来てもらうのは気がひけたが仕方がない。去年までは香寸さんと母だけで正月をきりまわしていた。
意外もしれないが、初詣のお客が妃翠房で散財することは割合少ない。きっとうちで扱う品物が参拝レクレーションのついでに支払う慰めものの額にしては高すぎるのだろう。とはいえ参詣の宮大路がすし詰めになるほどの混雑だから、わたしたちも集客を工夫して、このひとたちの意想にかなう程度の安価でかわいいファンシーを棚に並べていた。
 香寸さんの工房では手縫いの袋物や和紙細工も作っており、うちの商品の何分の一かは卯咲苑から仕入れている。百合原さんの工房で手仕事をするひとたちは、みな軽度の知的障害者または聴覚障害ということだったが、出来上がってくる品々はどれも精巧でセンスがよかった。卯咲苑、これはうさぎと濁って読み、工房のマークは三日月の縁に乗った兎と桔梗の花だ。
 山間の古都鹿香は起伏が多くしかも急坂が多い。丹階堂までもゆるい上り坂で、電動自転車がうれしく感じられる。鎌倉時代に山を人力で切り崩して開いたいにしへの道は、近代に整備舗装を重ねて車道になっていたが、たっぷり二〇分、えんえんと山裾をまがりくねる登り坂サイクリングはかなりきつい。バスの車窓からのんびり眺めるなら、湘南の山間風景は真冬でもゆたかに風雅なのだけれど。
 八幡宮付近の交通規制から出ると、自家用車の渋滞が続く。歩道はぞろぞろと徒歩の観光客。丹階堂までにはいくつかの神社名刹があり、その前を通り過ぎるたびに、人溜りに走行を遮られる。混雑は鹿香の繁栄の保証だ。
 それでも表通りから山道に入り、百合原さんの住まいに近くなると、しいんと静寂が来る。温暖な湘南の山肌は一月の今も緑が残り、湿った黒土や岩の露出に、枯れ果てぬ蔦かづらが鮮やかな朱色に絡んでいる。夏にはこの鬱蒼とした崖に、あふれるほどの山百合が群がり出る。神奈川の県花にされるのも道理、半世紀前には、あちこちの野山に百合の群落が踊るように咲いたそうだ。葛原妙子さんのエッセイからの知識だったろうか。
 百合原さんの苗字も、きっとそんな由来だろうと思う。祖父の代に若狭から神奈川に移住した水品とは違って、彼女は先祖代々の地元民だ。
 鉄の門扉も石を積んだ塀も古く、視界を狭める住宅地周囲のきりぎし同様、赤や黄色の蔦がいたるところに貼りついている。周囲の家はみな真新しく建て直されて、谷戸ながらたっぷりと陽光を浴びている感じなのだが、同じ光を享けていても、井戸のある昔からの庭を樹々深く抱えた卯咲苑はひっそりと、まるで寺社のような古蒼な風情だった。
観光客の中には、お寺さんと勘違いして邸内に入ってくるひともいると香寸さんは笑う。   
門の前で呼び鈴ボタンを押すと、しばらくして扉がひらき、見慣れない女の子が出てきた。開いたドアから、彼女といっしょに屋内のざわめきも聴こえた。正月早々主は風邪で臥せっているはずなのに、一階の工房では作業が始まっているのだろうか。
「妃翠房の水品です」
「どうぞ、お待ちしていました」
 素肌がきれいな彼女は二十歳くらいかしら。栗色に染めて肩までソバージュに揺らせた髪に、乃菜のようなビーズのピンをしている。青、ピンク、赤。屈託のないフェミニン。モヘアのアイボリーセーターに、赤と白の大きめ千鳥格子のミニスカート。すらりとした細い脚にラメを散らした黒と白のモノトーンのペイズリーストッキングは、おとなしい上半身に比べて強い刺激だ。初めて見る顔だが、聴覚障害のひととわたしにはすぐわかった。こちらに向かう視線の張り詰めかたが、耳に不自由のない一般人とは違う。
「お正月から御仕事ですか?」
「いいえ、仕事ではなくて、五月に障害者福祉ビエンナーレが長崎出島であるので、そこに出す作品について、みんなで話し合っているんです」
 彼女はわたしの口許を見つめて応える。耳たぶのピアスはイルカ。クリスタルブルー。
丁寧な発音だ。一語一語の音を確かめるように喋る。つい乃菜の話し方と比べてしまう。きっと同世代だろう。
「染色作品?」
「いえ。先生の染めた布に、みんなで何かを盛り合わせようって」
 先生、と彼女は香寸さんを呼んだ。お弟子さんなの。作業所のひとたちは、ただ香寸さんと呼んでいる。
「百合原さんの具合はいかがですか?」
「今は二階にいます。インフルエンザをみんなに伝染さないように」
 病院で処置されたから、もう伝染の心配はいらないだろうに、香寸さんらしい気遣い。

 ぬばたまの夢な忘れそ別れてもくれなゐ深き匂ひ残らむ、香寸さんへの文箱の包み紙のうらに、母の水茎が記されていた。
 香寸さんは二階の寝室にいた。室内に入るなり、日本のお香と外国の香水のまじった、彼女の体温のような暖かさがふわりと顔にかかった。いろんな匂いが混じっている。白檀とシナモン、それとラベンダー……。
主はまだ寝たり起きたりらしく、厚手の白っぽい寝間着の上に臙脂いろのガウンを羽織り、背もたれのある柔らかい椅子によりかかって、ぼんやりとテレビを見ていた。来客に寝乱れを見せないように、ベッドには萌黄と紫に大柄の絞りを染めぬいた絹のカヴァーがかけられていた。
香寸さんの頬は蒼ざめて、高熱のために痩せてしまったようだ。挨拶もそこそこにわたしが箱を渡すと、早速嬉しそうに包みをひらき、桐の手文庫より先に、紫と紅色の薄様のうらをじっと見つめ、呟いた。
「和歌ね」
「夢を忘れないでって書いてあるわ」
「紅の夢?」
「百合原さんが紅色を好きなの、お母さんわかっていたんでしょう」
「紅色が特に好きなわけじゃないけど」
 香寸さんは言いよどんで、
「感動を呼びやすい色だから。…いいえ、紗縒さんただしい、あたし紅が好きよ。色を忘れるな、そうですか。身にしみる」
「しみる?」
 わたしの疑問符を無視し、香寸さんは眼を伏せて頬だけで笑った。苦笑いのようだった。
「達筆な方だったわ。わたし紗縒さんの筆でいつか着物に書いていただこうと思っていたのに。こんなに早く逝ってしまうなんて。せめてあらかじめ教えてくれていたら」
 口調と話題を変えた香寸さんに、微妙なニュアンスを察して、わたしはそれ以上紅色を追わなかった。
 母は死の寸前まで、ほんとうに当日までわたし以外のひとに報せなかったのだ。もちろん店には出勤できなかったが、雇い人たちには旅行だとか作品制作とか、いろいろ嘘をつきながら、最後の数ヶ月をつくろった。
「百合原さんだってきれいな字じゃないですか」
「筆の色合いが違うの、この方とわたしは」
「色?」
「そう。墨にも色合いがあるの。濃淡とは別にね。まねできないものよ」
 百合原さんは細面のきれいな人だ。三十七歳で、中学生の男の子がひとりいる。御主人とは七年くらい前に離婚し、そのときから妃翠房で働きはじめた。実家は鹿香でも老舗の和菓子舗で、経済的な理由からではなく、気分転換が必要だったのだろう。祖母が亡くなったあと、妃翠房を始めた母は、香寸さんにずいぶん助けられていた。このひとがいなかったら店は無事に軌道に乗らなかったろう。
店頭での接客、作品提供、事務会計、こまごました雑務のほか、百合原さんは和菓子屋の実家のつてを生かして、たくさん顧客をひっぱってくれた。上生を日常に好むようなひとは、母や香寸さん、荻さんの作るものも好んでくれる。
三年前に乃菜が入って、香寸さんは妃翠房からやや離れて、卯咲苑の経営に力を入れるようになった。御主人と別れたあと、それまで趣味だった染色を生活の中心にしていたが、さらに自宅の一階を大幅に改造して社会福祉工房にひろげたのである。
ノックの音がして、こちらの返事を待たずに、さっきの女の子が、お茶の盆を運んできた。お抹茶と生菓子だ。はなびら餅。母の忌みを口実にした不精のために、大晦日の白葡萄酒以外、節句らしい料理を何も口にしていなかったわたしは、萩焼の茶碗にふっくらと調えられたおうすと、白味噌を包んだ半透明のはなびら餅を目にして、ようやく新春を実感できる気持ちになった。
「話はどう?」
「初めにわたしたちが加工して、それを先生に染めていただこうかなんて話しています」
 彼女は笑窪を浮かべて応えた。聴覚障害には見えない。でも視線はやはり香寸さんの顔に貼りついて離れないのだった。
「透姫ちゃん、紹介が遅れたわね、この子あなたと同い年、佐久間早織さん。去年からこっちで仕事を手伝ってもらってるの」
「ずっと年下かと思いました」
 正直に言うと、香寸さんは、
「今はいつもすっぴんだからね。お化粧すると早織ちゃん迫力あるの」
「ええ、そうは見えない」
 早織はあどけなくて、にこにこ笑っている顔つきは、まだ高校生のようだ。
 香寸さんは早織に向き直り、ゆっくりと、
「あなたがたが生地をいじってから染めるのは難しいですよ。あなたたちが苦労した作品に色をかけたら、全体がだいなしになるってこともある」
「そうならないような装飾をしようって」
「でも、それでは結局わたしの染めが目立ってしまって、みんなの共同制作というフルオーケストラにはなりません。コネでまとまった広さの展示ブースを必ずもらうわ。参加者全員小物でソロを主張できるペースはあるから、ひとつは大きなシンフォニーを出しましょうよ」
 堂々とした香寸さんの言葉に、早織はすなおに頷いていた。的確で派手な修辞、とわたしは感心する。そうか、色彩工房卯咲苑オーケストラ。どんな彩りが鳴り響くんだろう。
「わたしも透姫ちゃんたちに新年のご挨拶があるの」
 香寸さんは立ち上がり、窓際の整理箪笥からいくつかの包装を取り出した。ついでに彼女のガウンと同じ臙脂いろの遮光カーテンをひきあけると、南西の腰高窓から午後の光がながく室内に射し込んできた。
彼女の寝室に入ったのは、そういえば初めてだ。昔のままの畳に妃翠房にあるものと同じようなペルシャ絨毯を敷き詰め、つやつやした木の家具の曲線がきれいだ。ところどころの植物文は、アール・ヌーヴォーのレプリカかもしれない。ベッドサイドランプは陶器のエンジェルが百合ランプを肩に抱え、腰をひねっている。
贅沢で、装飾がたくさんあって、絵本の王女さまの部屋みたい、とわたしは眺めた。内装を洋間にせずに、もとの和室のままに手入れを重ねて残しているのが、かえって大正の折衷ロマンチシズムめいて華やかだった。
 漆塗りの整理箪笥から包みを出して、香寸さんは窓の外をまぶしそうに眺めた。ふと所作が止まって、こちらを忘れたように庭に視線を落としている。
「どうなさったんですか?」
 気分が悪くなったのかと声をかけた。
「透姫ちゃん、見える?」
「何が?」
「あの井戸よ」
 香寸さんの肩ごしにそちらを見ると、昔は釣瓶で汲み上げていた古井戸は、今は木の柄のついたポンプになっている。足柄山のどこかの廃校からわざわざもらってきたポンプの赤銅いろは、卯咲苑で使い込まれて金褐色にぴかぴか光っている。ポンプの周囲は染色に使う植物のひろい花壇になっていた。
姿のよい梅林で外壁側の三方を囲んだ敷地は、外からこの家を想像するよりぽかぽかと日当たりがよく、冬でも植物園の半分くらいは青味を残していた。井戸などは裏庭にあることが多いのだろうけれど、ちょうどそこに水質のよい源泉があって、この家を建てた先々代は、植物園のあったところに、井戸を囲むあずまやをこしらえ、夏の夕涼みを楽しんだとか。今この天然水は彼女の染色に使われている。水質は色彩を左右するのだった。
「わたしね、ときどきあの井戸の前に幻を見るの」
 窓を向いたままの香寸さんのつぶやきは早織には聴こえない。早織は自然な微笑を浮かべたまま、香寸さんの背中を眺めている。彼女は先生の独白のなかみをもう知っているのかな。
「どんな幻影なんですか?」
「幻影か幻視かわからないのだけれど、あそこの井戸の傍に、ぼうっとたちのぼる紅色の灯みたいな影が時々見えるの。今も見えた」
 香寸さんは人差し指を向けた。荻さんの指輪を嵌めている。路傍の石を研磨したメインストーンの周囲に、芥子真珠を連ねて白金の台に埋めた指輪。石英の混じる主石は磨かれて、薄青い地肌にラメのような箔をきらきらと散らす。オパールか瑪瑙の一種と皆思うだろう。
 小春の光が井戸の周囲でのどかに踊っている。井戸端にはもうたんぽぽが咲いている。わたしに見えるのはそれだけだ。
「曼荼羅が見えるってことは、よくあるそうですけど」
 わたしは誰かから聴きかじった心理学か神秘学かの知識を頭の中からひっぱりだした。
「チャクラとかチャネリングとか、そういう感じですか?」
 香寸さんは吹きだした。からりとした笑いで、
「そんな大袈裟なものじゃないわよ。でもね、内面の投影なんだろうとは思ったわ。幽霊のようには見えないものね。どうして井戸端なのかわからないけれど、気持ちが煮詰まってくると、庭に紅がたちのぼるのよ。あたしそれ紗縒さんに言ったことなかったのに」
「昔から見えていたんですか?」
 何気なく尋ねたわたしの問いに、香寸さんは笑顔をおさめて、首を振った。
「ある時期から」
 そして香寸さんは包みを差し出した。今年もよろしくお願いしますね。
 やわらかい手触りに手ぬぐいか何かと思ったが、麻のブックカバーだった。ハードカヴァー用と文庫本サイズの二枚。いや、麻じゃない。縒りの太い糸でしっかりと緻密な手織りだけれど、生なりに見えて、微妙に糸の色がところどころで変わる綴れ織りだ。裏表に丁寧な花模様の刺繍がほどこしてある。
「早織ちゃんのお母さんの作品」
「母のじゃないです。母の作業所に来ているひとの織ったものに、別なひとが刺繍して」
 香寸さんの口許を見て早織はいそいで訂正した。彼女のお母さんも、香寸さんと同業らしい。そういう伝手でこのひとは卯咲苑とつながったのか。カバーの間から、ひらりと栞が現れた。鹿香に多い桜の樹皮を長い楕円に薄く剥ぎ、透明樹脂のコーティングがかけてある。この樹脂は何だろう? 仕上げむらがある手触りも手仕事らしくいとおしい。表には卯咲苑のマークが焼いてあった。新年の縁起ものだからカバー二枚にプラスして、陽数にしたの。
「紗縒さん、ここに来たことあるのよ」
 窓のほうを眺め、わたしに端正な横顔を見せて香寸さんはつぶやいた。前髪をゆっくりとかきあげ、額の上で自分の髪をひとつかみ握ったまま、
「そのとき紗縒さん、この窓から外を見て言ったわ、いろいろなものが昇ってくる庭ねって」
「いろいろ昇ってくる?」
「そう。わたしぎょっとしたの。もうそのころは紅色の幻影が頻繁にあの井戸端に立つようになっていたから、彼女にも何か見えたのかしらと思った。でもわたし自分の眼に映るものを彼女に言えなかった。でも聞いてみたわ、何か見える?って」
「お母さんは何て」
「別に具体的なことは何も言わなかった。まだ妃翠房に入ったばかりのわたしに、彼女は遠慮したのかもしれない。あのころすごくわたしは不安定だったの。桂と二人暮らしになってから手芸仲間とスタジオをたちあげようとしていたけれど、心の芯が抜けてしまったようで、へろへろって感じ」
「そんな風には全然見えませんでした」
「あたし外仏だから」
 あっさりと香寸さんは言い、さらに、
「夫婦の破綻をもろに蒙ったのは桂。かわいそうなことをしたわ」
 桂くんは彼女の一人息子。中高一貫の私立中学に通う十四歳。今日はいないのかな。学校は休みのはずだが。
「桂くん、何か困るようなことが?」
 立ち入りすぎかな、と思ったが、香寸さんの雰囲気にひかれて訊いた。いつのまにか早織は消えていた。階下では、何か賑やかな笑い声や、椅子を動かす物音がする。
「七歳だったけど、あの子はいろんなことを、もうちゃんとわかっていたの。何も言わなかったし、わたしたちが別れたとき、責めも泣きもしなかった」
 話の流れがねじれてきた。この突然の独白はいったいどうしたんだろう。今さっき香寸さんの眼に見えた紅の柱が、彼女を動揺させているのかしら。彼女の視線をなぞってみても、やはりわたしには見えない。母には何が見えたのかしら。
「わたしね、今ならわかるの。わたしに見える紅色の幻影は、きっと水品ママにも見えたのよ。紅かどうかはわからないけれど、透姫ちゃんにも、早織ちゃんにも見えない。あなたたちは、ほんとに」
 と言って、香寸さんはわたしを真正面に向き直り、血の気の薄い頬に微笑をひろげた。口紅を塗っていない、いや、蒼白に見えた顔には、うっすらとたしなみの化粧をしていた。当然口紅も。グロスが光線の加減でなまめかしく光る。濡れたようなくちびるだ。
「最後までひとを恋ふる歌をうたっていたわね。そのひと、何色だったのかしら」
「面白い言い方なさいますね。誰か、じゃなくて何色か」
「彼女の人生にどんな着色をしたのか知りたいと思ってるの」
 香寸さんの眼がきらきらと光った。
「歌だけじゃ物足りないですか?」
「ひとって貪欲でしょ。いえ、言い逃れみたいだから、わたしが貪欲なのよ。紗縒さんが好きだから、彼女の人生の軌跡を左右したかもれないひとをしりたいわ」
「わたしもそう思いました。このひと誰なのって。手紙もメールも、母は何も恋愛らしい足跡を残さなかったから、なおさら。恋人は父じゃありません。母が亡くなったあと、実の父親に初めて会いましたけれど、歌の対象には見えませんでした」
 いっきにしゃべってしまって、わたしはほっと息を吐いた。なんだか胸のつかえがとれたみたいな気がした。
 香寸さんはわたしの顔をじっと見て、
「こういう言い方、あなたに理解できるかしら。わたしね、もしも紗縒ママの恋人と出合ったら、そのひととねんごろになりたい、と願っているのよ。彼女がわたしにも誰にも告げずに死んでしまってから」
 何、とごくふつうに絶句する。そこまで複雑な心理はわたしにはわからない。小説ではよくあるじゃないか。母親の恋人を娘がどうとかする。ハーレクインばりの展開だが、わたしは辞退するぞ、考えたこともない、いや嘘かも、え、どうしたんですか百合原さん。
「そんなに目を白黒させなくてもいいんじゃない?」
「とんでもないですよ。返事のしようがないわ」
「あなたって、水品のわりには……ああ、だから紗縒さんの娘なのね。きっとあなたたち母子って、そっくりよ」
 ますますわからないことを言う。ばかにされているような気がする。それでは言葉が過ぎるだろうか、ではもうすこし穏やかに、
「あの、香寸さん、わたしのこと、その、舐めてません? ごめんなさい失礼な言い方」
「舐めたら美味しいでしょうね。わたし水品ママを舐めてみたかったかも」
「……」
 またしても言葉が出ず、完全にうちのめされそう。十年後、わたしは香寸さんのような恐るべきマダムになれるだろうか。ひらりひらりと脳裏に寒牡丹のはなびらが舞う。もちろん深紅いろの。鹿香八幡宮の牡丹園は雪吊りをして、そろそろ見ごろだ。
「透姫ちゃん、あの難しいひとが、そうたくさんの男性に惚れたとは思えないのよ。だから、いったいどんな素敵な男なんだろう、彼女の心を捉えて終世歌の源になった恋人なら、きっとわたしの紅色の幻を駆逐するくらい魅力があるでしょうよ」
「そうはいかないんじゃないですか」
 がんばって一矢は報いる。
「なぜ?」
「だって百合原さん、わたしと母がそっくりなら、母の恋人が出現したら、わたしのほうが有利でしょう」
 その瞬間、自分の口にした台詞のとんちんかんに、顔が赤くなった。言葉はだいじにしなくちゃいけない。わたしこんなこと考えていなかった、はずだ……いえ。もしかしたら。
「ね、そういう願望あるでしょ」
 わたしが放った一本の矢は、スローモーションでマダム百合原の脇をすりぬけ、彼女は優雅にそれを掴んだ。彼女は無傷だ。
「きっと、これから先、たくさんのひとが彼女の恋歌の主人公を探し始めるかも」
「それスキャンダル。パパラッチ的興味」
「エロティシズムの幻影がまつわりつかない女性なんて、魅力がないわよ。男性だってそうだわ。読者はいつもハーレクインを期待するのよ。メロドラマをね」
「お母さんにメロドラマはなかった」
「そういう場合は、捏造するのよ」
「……わたし発熱しそう」
「わたしのインフルエンザが移ったかしら」
「だとしても潜伏期間があるはずです」
 ほほほ、と香寸さんはマリー・アントワネットのように口許に手をあてて笑った。何故アントワネット? 単純に顔が似ているからだと今気がついた。色白面長に受け口、ハプスブルグの顎をしている。
「透姫子さんのおかげで、わたし気分が復活したみたい。一階に下りましょうか」
「はい…」
 しおしおと肩を小さくして百合原さんのうしろについてゆく。香寸さんは背中をすっとのばし、花模様のスリッパを履いた足取りも思いなし軽い。貫禄勝ちの彼女から鼻唄でも聞こえそうな感じ。
 それにしても、母親に歌われた主人公はどんなひとなんだろう、大晦日に緋郎に皮肉られて、恋人探しはやめようと思っていたのに、卯咲苑のマダムにまた煽られてしまった。そういえば、百合原さんは独身だが、交際相手はいないのかしら。母が歌ったとおり、あでやかなくれなゐの似合うこの女性なら、水品紗縒どころではなく、異性をひきつけてやまないだろうに。
 卯咲苑の一階では六、七人ほどが長方形のテーブルを囲んで、楽しそうに話し合っていた。早織以外はみんな顔見知りだ。わたしたちが入ってゆくと、
「起き上がって大丈夫なんですか」
 口々に問うてきた。
「透姫子ちゃんのおかげですっきりしたわ。で、話は進んだ?」
「香寸さんがだめだししたから、また振り出しにもどっちゃった」
 舌たらずな口調で答えたのは、知的障害の女の子。障害といっても、日常の軽易な労働、たとえば簡単なネット操作、裁ち縫い染色もできる。覚えた仕事は普通のひとより時間はかかるが丁寧だ。けれども、彼女はひとつの仕事を終えると、次を自力で始められない。誰津かの指示が必要なのだった。そして指示をするひとは、彼女の心をゆるす相手でなければならなかった。自分を受け入れてくれ、またこちらも好ましく思う相手でなければ、彼女の心は石になった。直感で相手の内面を見抜く繊細さを、ひとは時折病疾と呼んで差別する。
 だが、歌人で画家の水品紗縒に育てられ母親同様、堅固で健全な社会の枠からすこしはみだしている自覚とともに生きているわたしは、母の厖大な詠草の数々が、きっといくらか病疾、と呼ばれる心の偏りから生まれてきたものだろうと思わずにはいられない。健康、健常とは、まったく文字どおり、大地にしっかり立ち上がり、常の領域でたくましく生きていることなのだ。そのためには、彼も彼女も身心において鈍感であることが不可欠だ。健康の秘訣は鈍感ではないのだろうか?
 またこうも言える。鈍感さとは命にたいする思いやりであると。生きることを大切にするなら……自分の命さえ他者とみなして、礼儀正しくふるまおうとするなら、些事や瑣末に鈍くならなくてはならない。自分を生かし、また周囲をも労わるために。
 あれ、では紗縒さんは頑丈だったのかしら。そうかも、そういうしたたかさがあったのかも。堂々めぐりだ。だってお母さんは死ぬまでわたしを哀しませなかったもの。わたしお母さんが余命告知されてからいっしょに過ごした半年間が、お母さんとの時間の中でいちばん愉しかった。
でも、あなたは苦しかったし痛かったのよね。死後彼女の洋服箪笥の奥から、ありとあらゆる飲みかけの鎮痛剤が出てきた。モルヒネは劇薬で、意識混濁を起こす。歌を紡ぐとき、彼女は市販薬でしのいでいたのだ。
 そして恋をしていた。誰に? 時折の外泊先をわたしは尋ねなかった。死の寸前まで歌はうたわれ続けた。あなたは誰? 癌のうねりを我は抑へず死顔も君に逢ふたびつややかにして、逢うたびに死んでいった、死に近づいていた母の前にいたひとはどんなひと。わたしの心はまた動き始めた。もしかして百合原さんも探しているの?
 香寸さんは二間続きの向こう、西側のアトリエに入っていった。まだ寝間着にガウンを羽織ったままだ。暖房しているとはいえ、寒すぎないかしら。
「透姫ちゃん、これどう?」
 香寸さんはアトリエの一角に三つばかりならんだ大甕を見せた。高さはわたしの腰くらいまであり、胴回りはひとかかえもありそうな重厚な素焼きの甕だ。なんだろう。どこの焼き物かしら。
 古屋の中でアトリエの部分だけは大幅に改造して、住居の面影をまったくとどめない。床以外の壁と天井を漆喰で塗り、床板はフロアリングではなく、足柄の校舎から運んできた木材だった。そこに染色の壷や甕などがいくつも置いてある。染料の植物と媒材の匂い。室内の隅には繊維を煮る竈があった。みんなが集まっている隣室とドア一枚隔てただけだが、正月にここは火の気を消して薄暗く、冷たい外気がすうすうと周囲を動いていた。
「何焼きですか?」
「韓国からとりよせたの。もともと染料の甕じゃないのよ。なんだと思う?」
 なるほど見慣れた藍甕にしては風合いが違う。素焼きらしい生地もしっかりしているがこの大きさの割には、同じような日本の焼き物より薄く、中を覗き込むと、土の匂いと、藁の匂い、それにもっと香ばしい、なんとも言えずなつかしい匂いが残っている。
「わからない」
 うふふ、と香寸さんは悪戯っぽく笑った。今度の笑いは無邪気な好奇心でいっぱいだ。
「また恐いもの知らずの試行錯誤なんだけれどね、これ味噌の甕」
「はい」
「韓国味噌、テンジャンって、朝鮮王朝時代は、ほんとにデリケートで美味なものだったのよ。おいしい味噌を発酵させるために、味噌甕は、わざわざ風通しのよい木蔭に置いたの。植物と風邪と光と、大地の湿度が、ゆっくりと麹に作用して、えもいわれない美味を調整したそうよ」
「だから?」
「わたし、これで自分の色を発酵させてみたいの。いろんな素材を重ねて、もうひとつ奥行きというか、深みが欲しい。それから染め上がったあとの耐性も。おいしい味噌ができるなら、きっと極上の色を醸すことだってできるわ」
「すごい飛躍ですけど、成功したらすてき」
「でしょ? 発酵というのは言葉のあやだけれど、この百年以上前に使われた味噌甕に色を寝かせて、葡萄酒のように変化を測ってみるつもり。時間が経てばあらゆる色は褪せるもの。だからこそゆっくり醸成して。風と光と時間と」
「そういえば、何百年経っても褪せない色がありました」
「中世ミニアチュールね。樹脂の魔法。練り上げてから、すくなくとも十年は寝かせて、聖画の彩りを永遠にした」

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星月夜 vol6 ペイサージュミラージュ

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   ペイサージュミラージュ

 降誕祭から東日本に押し寄せた前線は雪をどっさりと積んで関東に居座った。ジンさんの訪れたイヴの初雪は晩まで降り続け、街は文字通りホワイトクリスマスに清められたが、湘南には珍しいまとまった積雪に交通機関は悲鳴をあげた。この夜ジンさんは妃翠房には泊まらず、夕方から鹿香のイタリアンリストランテでちょっと贅沢なクリスマスディナーをわたしと乃菜におごってくれ、来春三月の個展の約束をとりつけて、牡丹雪の中をうれしそうに帰っていった。
「たのしいお父さんでいいですね」
 ご馳走してもらった乃菜はすっかりジンさん贔屓なったようだ。なるほど彼は、若い女の子、いや若くなくてもいいのかな、女性をおだてていい気分にさせる対話のツボを心得ていた。ジャズプレイヤーなら、コルトレーンばりに色っぽいサックスを吹きまくるだろう。相手のキャラクターを見極めてほどほどに吹き鳴らす駄法螺。
「突き放して観察してたんですね」
 乃菜は表情を変えた。彼女の乗る最終バスを駅前で待ちながら、わたしたちは厚ぼったく降りしきる初雪の珠をお互いのてのひらに享けて、酔いざましに舐めてみたりした。初雪の味は?
「初恋より味気ないです」
 乃菜は笑う。味気ない、というか味がない。
「空の味がするでしょ」
「無彩色ですからね」
「青じゃなく?」
「人間の思い込みですよ」
 乃菜は赤ワインハーフボトルでかなり酔っ払っていた。恋人いるのかな。したことのない質問を、今彼女に向けたらするすると聞き出してしまえそう。でもしなかった。
「乃菜だってクールよ。空が無だなんてわかるんだもん」
「からっぽですからね」
 うふふ、とまた笑う。どきりとする。なまめいた笑い声だった。乃菜の初恋はもしかしたらずいぶん濃い色彩だったのかな。初雪はおいしいよ。味気なくはない、少なくともわたしに関してはね。
わたしは話を変えた。妖しくなりそうな流れから舵を戻して、ジンさんに進路を向ける。
「ジンさんに対して父親っていうウエットな感情が湧かないもの。なんていうか、母親の昔の恋人のひとりっていう感じ」
「そんなものですか。ジンさんは透姫さんのこと好きみたいなのに」
「嫌いじゃないわよ。でも、実感として親子の情緒は稀薄」
「春には銀座で個展するんでしょ?」
「ひとりじゃなくて、合同展にしようと思う。綴さんか、百合原さんか。三人展もいいかも。彼のギャラリーは結構スペースがたっぷりしているから」
 はい、と乃菜はつぶやいて、それきり黙った。勘のいい子だ。わたしが話を逸らそうとしたのがわかったのだろう。もしかしたら心にこみあげるものがあったのかしら。わたしに話したかったのかしら。間もなく止む雪のかたちは、水分を含んでひとひらごとがほたほたと大きく厚く、童顔の乃菜の髪や肩に舞い降りてもなかなか消えなかった。白いふわふわした雪の実を乃菜はからだじゅうにつけて、バスが来るまで蛍光灯の薄青い光の真ん中に黙って佇んでいた。
 …一夜明けてクリスマス当日の妃翠房の店番は綴さんだった。
「真っ白ぉ」
 朝の九時、綴さんの声が弾んで玄関がからりと開いた。前夜わたしは香枕には戻らず、乃菜と別れたあと、ここに戻って母の部屋で眠った。
綿の厚いどてらを着て、もそもそと階段から降りてきたわたしに、綴さんのほうがびっくりした。
「早いじゃない、透姫さん」
 泊まったの、とわたしは昨日からの出来事を簡単に綴さんに説明した。綴さんは話を半分まで聞き、
「とにかく着替えてよ。風邪ひくわ。雪晴れだけれど、すごく寒いから」
 そう言いつつ綴さんが開けっぱなしの玄関から庭おもてを眺めると、まんべんなく地表を埋めた雪の上に、彼女のつけた長靴の足跡の窪みが青みがかって点々と鮮やかだった。近所に住んでいる綴さんは今日は雪かきをするために早出してきたのだという。
綴さんは痩せて小柄で、オードリー・ヘップバーンのようなショートカット。顎もちいさく、きれいな二重の眼が小顔にくるりと大きいので、ほっそりした体型とあいまって髪だけではなく、オードリーに似ていた。三十三歳。七歳と三歳の二児の母だが、いつまでもティーンエイジャーのような雰囲気だった。
少年めいた容姿の綴さんのこしらえるアクセサリーは、宝石や貴金属以外に、道端にころがっているありふれた石ころを磨いて使ったりする。それこそただの路傍の石が、彼女の知人の工房でカボーションに研磨されると、緑や青、ときには鈍いオパールのような虹彩を帯びて、息を呑むほどつややかに光る。それを彼女は金や合金のワイヤーで結び、ペンダントやブローチに加工していた。知らない人は、彼女の石がほんとにただの石っころだったとは思わない。
「いいですよ」
 三月の合同展の話を持ちかけたら、綴さんは気軽に乗ってきた。ジンさんは割り引くと言っていたが、銀座のど真ん中のギャラリーを一週間借り切るのは安くない。だが何人かの舫いなら、だいぶ気軽に実現できる。
「香寸さんと三人となると、妃翠房のアンテナショップになるわね」
 それもいい。もっとも水品紗縒個人の追悼展はジンさんのギャラリーよりはグレードの高い場所を選ぶけれど。
「ところでね、あたし大晦日にラジオ出演するのよ」
「どこの?」
「FMペイサージュHUIT。知らない?」
「知ってる。荻さんがここにいるとき、いつもBGMにしてるローカルでしょう」
「大晦日の六時くらいから三十分、地元アーティストの新年の抱負、という番組に出るの。香枕とか鹿香、結衣ヶ浜、藤塚あたりって、アーティスト多いでしょ。クラシックも含めて。まあ、大晦日にその時間帯だからどのくらい聴取率があるかわからないけれど」
「じゃ、今年は帰省しない?」 
 綴さんの実家は石川県の金沢だ。
「お姑さんがちょっと具合悪くて」
 荻さんは苦笑した。彼女の御主人は整形外科医。鹿香で代々続く医者の家だった。藤塚行きのバスに乗ると、どこかの停留所では必ず彼女の婚家の医院のコマーシャルアナウンスが流れる。
「急に決まったのよ。やっぱり季節がら、出演予定の誰かのキャンセルでもあったんじゃないかしら。おととい電話があって」
 荻さんは嬉しそうだった。
FMペイサージュは結衣ヶ浜にメインブースがある湘南一帯のローカル局だ。ジャズをメインに一日中音楽を流し続け、時折りまじるニュースソースは地元情報が多い。荻さんが妃翠房にいるときは、ほぼ一日中これをつけていた。
ペイサージュのパーソナリティは女性が多く、このひとたちは過度に自己主張せず、イントネーションもナチュラルで、わたしの耳には聞きやすかった。ときどきいかにも素人の声使いになり、それもまた親しみやすい。二十代から四十代くらいの女性たちは、自分たちをDJではなく「クルーズアテンダント」と称していた。軽音楽の海に遊ぶ水先案内人かしら…。
「弟がここのスタッフやってるの」
「知らなかった」
「シナリオライターになりたいって言って」
「放送作家?」
「今はそんなことしてるらしい。バイト先はペイサージュだけじゃないけれど」
 荻さんの弟って、あたしと同じ年くらいかな、荻さんに似ていたらハンサムだろう。
 荻さんはジャケットの胸元のジッパーをかけなおして裏口へ回った。納戸から雪かき道具を取り出そうとしている。わたしはもういちど二階へあがり、ねんねこ半纏から普段着に替えた。荻さんといっしょに雪の始末をしよう、と厚手のタートルネックをかぶる。たまご色と黄緑、水色。ところどころに赤い毛糸が混じる太畝のセーターは、高校時代にたぶん祖母が編んでくれたものだった。
 ふと母の引き出しから、荻さんあてのクリスマスプレゼントを取り出した。たぶん乃菜と同じ桐細工だろう。荻さんへの包み紙は白い絣がところどころに混じる手触りの厚い鳥の子の萌黄色だった。ガラス窓の向こうにひろがる山桜、染井吉野の雪帽子に小箱をかざすと、さんさんと輝く冬ばれの日光の白さに、和紙の萌黄が際立った。もう新春の彩りだ。
最後に残った百合原さんへの包み紙は紫の薄様で、マーブルを溶かしたように濃い紅の筋が泳ぎ、うっすらと金箔が散っていた。歌はどの箱にも入っていないだろう、と思った。包み紙にそれぞれの女性たちの個性と好意を託した、それだけだろう。
階下からペイサージュのジャズが流れ始めた。クラリネットのブルーノートが冬空に駆けあがる。開け放ったどこかの窓から雪の冷たい匂いがする。凍った大気の結晶の匂い。青空に踊るくだけた光の粒子。その下でゆったりと潤っている大地の気配。

 君の手に波の重さを測らせて珊瑚の森に髪巻き締める、うつくしい修辞に包まれているけれども、水底へと引きよせるシレーヌの歌はこわい。それとも水品紗縒の髪に埋もれていたい、というひとがいたのだろうか、いたのだろう、とわたしは思う。死後に確認してはみたけれど、母のパソコン、携帯のメールボックスはすっかりきれいに掃除されていて、なにひとつみだらがましい痕跡はなかった。徹底した清潔が却って確信を呼ぶ。潔さの向こうに隠されたあなたは誰、どこにいるの?
 晩秋に母が亡くなってからまだ二ヶ月も過ぎてはいない。なのにわたしの中を流れていった時間の密度は、もう一年くらい経ったような気がする。年明けに「琰」の歌会に出席したら、うっかり一周忌の挨拶でもしてしまいそうな気がする。
母のような相愛の恋歌が詠めたら、とわたしは眠れないままに自分の心を探り、母親への嫉妬を見つける。相手を自分に絡めとることができる自信がなければ、どれだけ言葉を飾っても歌は自立しない。珊瑚も森も、陳腐と紙一重のレトロな暗喩だ。
でも、娘の贔屓目また裏をかえしてジェラシーのフィルターをかけても、母の恋歌はすてきだった。死ぬまで容姿の美しさを保っていた、という魅惑とあいまって。
四十代、五十代になっても、うたった恋歌はどれもみずみずしく熱い。口語をほとんど用いず、語彙などむしろ保守的で古風なのに、ひとくだりの歌に流れているピュアな抒情が胸に迫る。人となりはしらじらと孤独で、名前のとおり、水のようないずまいを崩さなかったけれど。
眠れないままベッドサイドのラジオをつける。綴さんが出演するというペイサージュHUITは、深夜十一時半になってもジャズが続く。ときどきハワイアンが混じる。またアジアンポップスなども。今夜はエラ・フィッツジェラルドの特集とか。
周波数をちゃんと合わせても、今夜はひどくノイズが混じり放送が途絶えた。香枕のマンションは鹿香の妃翠房より電波環境は良いはずなのだが、風向きか何かの理由で、ラジオのFMはふいに入らなくなるのだった。
リモコンも利かないのでわたしは布団から片手だけでチャンネルを合わせる。耳障りな雑音に強弱がついて、いじっているうちにどこかで音は澄んだ。無音の沈黙。フィッツジェラルドはやんでパーソナリティのトークが始っていた。
……ひさしぶりにお目にかかります。FMミラージュへようこそ。今夜あなたの心によぎるなつかしい面影、街角、誰かの気配を追いかけて、静かな冬のペイサージュをお送りいたします。物語の主人公はあなた、風景を織りなす追憶の色彩、音楽のはざまに、あなたの逢いたい誰かを、わたしがお連れすることができるかも……
「なんですって?」
 むくりと頭をもたげた。ミラージュそれともペイサージュ? どっちだって? しかもこの声は聞き覚えがある。ほんとにひさしぶりで、なつかしい声だ。
……透姫ちゃん、わたしよ。
「詩杖ちゃん、なんで?」
 スピーカーから死んだ従妹が話しかけてきた。優しい澄んだ声が耳にはっきり聞こえる。
……理由はないのだけれど、これはあの世通信なの。幽霊って、なにかのきっかけがあれば、割合簡単に現世にアクセスできるのよ。たいていの人は気がつかないで通り過ぎてしまうのだけれど、今夜の透姫ちゃんみたいにうまくキャッチしてくれることもあるわ。
「そこに夏夜ちゃんもいるの? お母さんや桔梗さんも?」
 ……お姉ちゃんはいるけど、紗夜さんもおばあちゃんもいない…
 詩杖のあとに、妹よりちょっとアルトな姉の声が続く。
 ……透姫子ちゃん、ずっと紗夜さんのことばっかり考えてるわね。それって死者にはよくないの……
「夏夜ちゃん! 元気?」 
 口癖で言ってしまってから自分の間抜けを悔やんだ。元気も何もあるものか、姉妹はもうこの世のひとではない、というのに。だが夏夜は可愛く笑って応えた。
 ……水蒸気にはまだなってないわ。天にも昇らず土にも還らない。半透明な魂のまま、気ままにふわふわ……
「お母さんは。芙蓉さんは」
 ……クリスチャンだから、きっと復活してキリストの膝元で寛いでいるでしょ……
 夏夜は気楽な調子で返事をした。あの世からのFMミラージュの音声語尾は、まるで音響エコーのように耳の奥に快い余韻を残す。
「適当なこと言わないで。ひとは死んだらどうなるの? わたしお母さんに聞きたいことあるの」
 ……信仰宣言は適当じゃないわ。永遠の命をいただいて、男性でもなく女性でもなく、天使の姿で天の都エルサレムに……
 だが従妹たちの口調には、わたしの狼狽をからかう茶目っ気がまる聞こえだった。わたしはいつのまにか布団を脱け出してベッドの上に起き上がり、ラジオと正対していた。
「じゃあいいわ。あなたたちはクリスチャンではないから、芙蓉さんともお母さんとも擦れ違いということね」
 ……はい……
 姿は見えないが、また詩杖の声。混乱するわたしの脳裏には、もくもくした雲のはざまに薔薇色の天使の装束を着て、背中に白鳥の翼を背負い、楕円の光輪を頭上にストローピンでとめ、おごそかに十字を切っている彼女の姿が浮かんだ。彼女は仏教徒なのに。
「詩杖ちゃん? どうして成仏しないの」
 ……筧さんのそばにいる。あのひとが死ぬまで……
 わたしは絶句した。ばかばか、それじゃなんで死んじゃったのよ、と言いたかったが声が出なかった。
 ……あたしがいると筧さんは開眼寺を出てしまうでしょ……
「還俗したっていいじゃない」
 ……そしたら檀家はもう降矢木に跡をとらせないわ。お父さん、それから筧さんと兄弟そろって…
 ……でもね、あたしもあなたが自死することはないと思ったわよ……
 横から夏夜が抗議した。同感だ。いいじゃないか、今時実家がどうなったって。
 ……でも考えてみてよ。筧さんもう四十なのよ。いまさら現世に戻ったとしても、どうやって……
 それもそうだ。古刹の方丈として皆から尊敬されるひとが、二十歳の姪との色恋で醜聞を拡げたら、どこにもいたたまれない。
「筧さんを忘れることはできなかった?」
 ……忘れたくないの……
「生きることより?」
 ……生きるって、記憶が連続することなのよ……
 ざざざ、とふいに生なノイズがたって、詩杖のかぼそい独白のかわりに、官能的なエラの歌声が割り込んできた。あいらぶゆーふぉーせんちめんたるりーずん。聴き取りやすい英語。ジャズのディーヴァは皆気取らない。そうだよね、相手に伝わらない愛の言葉なんて、ただの独りよがりだもの、わかりやすくなくちゃ。あなたにわたしの心を捧げ…て。

 母のいない大晦日。年賀状もお節料理もない。信州の詩郎おじさんから遊びにこないかと労わられたがことわった。詩郎さん親子はきっと伊那谷の寺に行くはずだ。わたしはまだ筧さんに会いたくなかった。それにしてもよくもまあ、年々歳々葬式が続く。来年はもう十数時間後、いや数時間後に着々と迫っているが、またわたしたちのうちの誰かが鬼籍に入るのかしら。と言っても、おそるべきことに水品降矢木合わせて、女性で生き残っているのはわたししかいない。  
もっとも降矢木詩郎さんの下には妹がいるが、ほとんど面識がない。よそに嫁いで円満な主婦をつとめているひとだった。どうもこの健康な叔母に死の気配は感じられない。でもわたしはまだ死にたくはない。せめて記憶に焼きつくほどの恋愛をひとつくらいはしてみたいなあ、とわたしはくしゃみをひとつして、カマンベールチーズを齧った。
 五時過ぎくらいからわたしはつくねんとマンションのリビングにとぐろをまいて、白葡萄酒を舐め始めていた。六時になったらラジオをつけよう。それまではミケランジェリのエリック・サティでも聞いていよう。
 携帯の着メロが鳴った。ドビュッシーの亜麻色の髪の乙女。そういえばお母さんの着メロもドビュッシーだった。西風のみたもの、だったかしら。
 緋郎からだ。
「こないだのライブよかった」
 ……うちにいるの?
「そうよ。お父さんは?」
 ……寺で働いてる。
「あなたも伊那でしょ?」
 二人もきれいどころを連れていってやったんだぞ、礼くらい言えないのか、とわたしはほろ酔いの勢いで不機嫌を隠せない。
 ……俺こっちにいるんだ。帰らない。
「え、そんなことしていいの?」
 ……どっちみち死ぬまで伊那に住むんだから、今は好きなことやらせてもらう。
「いい度胸ね」
 ということは僧侶になる決意はあるのね、と納得する。それにしても相変わらず我儘だ。優しい芙蓉さんの息子とは思えない。紗夜さんに似ているなあ、とわたしはソーテルヌをこくりと呑む。すかさず、
 ……独り飲み?
「さあね。うん、でもそうよ。あなたは寮にいるの?」
 ……友達のところ。
「ふうん」
 六時まであと十五分弱だ。従弟は何の用なんだろう。あまりアクセスしてくることはなかったのに。
 ……透姫さん、変わらないな。
「何が」
 ……俺の友達、どんなやつとか気にならないの?
「ならない。なんで?」
 ……それだよ。透姫さん彼氏いないでしょ。
 わたしは黙った。この言い草は何。
 ……詩杖も夏夜もそうだったんだ。ママも。どうしてうちの女たちはこうさらさらしてるんだろう。でもそのくせ詩杖は大恋愛してたんだ。
「あなた、酔ってるでしょ」
 ……わかる?
「未成年はまずいんじゃない」
 ……周りの半分未成年だよ。
「それ理由にならない。誰と飲んでるの」
 ……スタコラーズ。
「みんな十代?」
 ……吉良は二十歳。アンジーは七十二歳。あとは九歳、十八、十九。
「若いなあ」
 携帯の向こうで音楽が聴こえ始めた。緋郎は移動しながらかけてきたらしい。ざわめき、話声が混じる。音楽は何だろう。こっちのサティに紛れて…。なんで電話してきたの?
「こないだ、心霊体験したの」
 …え?
「ラジオから詩杖と夏夜がアクセスしてきた。
 ……手間かけるね、姉貴。じかに化けて出てきてもよかったんじゃないか。伊那ではしょっちゅう彼女たちつかまってたみたいだよ。
「ほんと。どんな霊に」
 ……バラエティ。ラジオもネットも、霊魂も、ヴァーチャルって言えば同類じゃないか。
「それもそうね」
 はぐらかされたような気がしたが、深く考えずに同意する。
 ……俺、紗夜さんの恋人知ってるよ。
 こっちのサティが終わった瞬間の絶妙な空白に緋郎の言葉が飛び込んだ。
 ……探しているんでしょ、透姫さん。
「そうよ」
 なぜそれがわかる。
 ……紗夜さん、俺に歌集贈ってくれてたの、ずっと。
「いつから?」
 ……十歳の誕生日から。
「初めて聞いた」
 ということは、『紗女集』を含めて三冊くらい従弟に贈ったのだろう。母は二十七歳から歌集をまとめ始めて、三、四年に一度くらいの割合で上梓していた。全部で七冊ある。歌人としては多いほうではないか。七冊のうちの二冊は、芙蓉さんとの共同制作だった。
 ……だから、彼女が死んじゃったら、絶対透姫さん探し始めるだろうと思った、紗夜の恋人を。
 六時五分前だ。わたしはリモコンでFMペイサージュを探す。雑音、騒音、どうもまたうまく入らない。酔っているせいかな。
「なんでそれを緋郎が知ってるの?」
 ……知ってるって言いたくなったから。
「答えになっていない」
 電波の向こうで従弟が笑った。低い声だ。どきりとする。そういえば、従弟の笑い声を聞いたのは、彼が声変わりする前のことだった。芙蓉さんの死以来、彼とは葬式以外の場で顔を合わせたことがない。変声期過ぎた後の緋郎の話し声の記憶はあったが、耳に残る彼の笑い声は、澄んだこどもの高声しかなかった。
 ペイサージュの番組テーマソングが始まった。けだるいジャズから変えて、ヒーリングサウンドのような軽いピアノが始まっている。
 パーソナリティの挨拶、出演者順次紹介。綴さんの声。ちっとも緊張していないな。
「で、それをあたしに教えてくれるの?」
 ……娘って、母の男関係に興味を持つの?
「…ちょっと」
 こいつ、挑発しているの?
 ……怒った?
「ちょっとね」
 ……紗夜はいやがるよ。詮索されるの。
 はっとした。そうだ、きっといやがるだろう。知られたくないから隠したことを、わたしはいつのまにか好奇心にまかせてほじくり返している。
 ……それっていやらしくない?
「あなたの電話はどうなのよ。思わせぶりに。こどものくせに」
 ……へえ、そう来るの。じゃ次までの宿題ね。
 なんだって?
 そこで通話は切れた。よくわからない電話だ。きっと買い物か何かの帰りがけに歩きながらかけてきたんだろう。大晦日の今夜、東京スタコラーズのメンバーとどこかにたむろして飲み明かすのか。その程度は許容範囲だけれど、その場にはあのグラマラスなマサカアフリカもいるんだろう。他に女の子もいるのかな、いないほうが不思議だが、それがなんだというの? 少年は孤独を喰ひて殻を脱ぐいずれ肉体春を歩めよ、これは緋郎を歌ったものかもしれない。緋郎の反乱をけしかけたのは、もしかして母なのかな。紗夜はいやがるよって、呼び捨てにするな、ばか。
 六時をだいぶ過ぎてしまった。わたしは怒りながら、ラジオに耳を澄ませる。怒っている? だけど従弟がわたしにつけたひっかき傷はほのかな甘さと暖かさを含んでいる。ちいさかった従弟はもう男性の声で笑っている。口惜しい? 笑われて口惜しい? いいえ、わたしは楽しんでいた、楽しんでいる。緋郎は異性だ。弟ではなくて。
 ……で、銀座で来年三月半ばくらいに合同展を予定しているんです。
 あ、荻さんの声が入った。ラジオから聞くと感じがかわる。普段より高くなるみたいだ。それとも緊張しているのかしら。宣伝してくれている。でも三月の半ばなんて言っていないわ。こうやって情報は歪んでゆくんだわ、百合原さんの耳に入るころには、いつのまにか日取りが確定しているか、もしかしたら桜の季節にずれこんでいたりして。でもジンさんだったら、多少のギャップは了解してくれそう。
 わたしはグラスに残ったワインをがぶりと飲み干して、片手でおかわりを注ぐ。ちょっと手元が危うい。毎年大晦日には、お母さんと紅白を見るか、DVDをかけるかしながら、こうやって手酌で飲み明かしたものだ。クリスマスには行方知れずになる母だったが、大晦日は必ず、わたしと過ごしてくれた。
芙蓉さんが元気なころは、芙蓉さん親子が遊びにくることもあった。ただし詩郎さんぬきで。小生意気に育った少年緋郎も、七つ八つのころは可愛くて、高校生のわたしたちは年の離れた弟をお人形にして遊んだ。わたしのお古を着せて正月の町を連れ歩いたのだった。鹿香八幡宮の初詣には、わたしの七五三のときに着た肩上げの振袖と、今は珍しい母譲りの子供用の金襴丸帯を結び、母も芙蓉さんもわたしたちの悪戯をとめるどころか、晴れ着の変装を面白がる緋郎の帯を、ふたりがかりで上手に変わり結びしてくれた。
「みんな無邪気で楽しかったなあ」
 なんてことだ、花の命は短くて、美人姉妹は次々と天に召され、従弟は透明なボーイソプラノからいつしか野太いせせら笑いでわたしをからかう高校生に変貌してしまった。嗚呼、とわたしはせっかくのFMペイサージュのインタビューをあらかた聞き流し、ひたひたと酔っていた。
……水を飲みなさい、二日酔になるわよ。
「あら、夏ちゃん、またアクセスできた」
 今夜は彼女たちの背後にBGMがついている。やっぱりジャズだ。ペイサージュとミラージュが混線しているのかもしれない。でも声と音楽のかぶりかたはちょうどいい。誰?。
……フランク・シナトラ。
 詩杖がささやいた。
……透姫ちゃんの推量どおり、こっちとそっちの電波が絡んでいる。
「いい声ね。今までちゃんと聞いたことなかった」
……わたしたちもたぶん初めて。
「あたしの考えていることわかるの?」
 大風が冬木立を揺さぶるような雑音がざわざわとたって、ふいに交信の邪魔をし、姉妹の声が途切れる。そこにペイサージュのパーソナリティの声音が数瞬飛んできて、またすぐに夏夜が語りかけてくる。
これ、幻聴じゃないわよね。わたしは不安になり、白葡萄酒を思わずジュースのように遠慮なく飲んでしまう。このまま一人でフルボトル空けてしまったら、確実に二日酔だ。夢かうつつかあやしい鼓膜に、夏夜のひんやりした声が響く。
……大晦日とか、水無月祓のころとか、時の節目には、幽明境の隔てが淡くなって、接触しやすくなるのよ。
「そういえば、妖怪は夕暮れとか明け方に出現するんですってね。朝と夜のはざま。雀色どき」
……かはたれどきは逢魔の時刻。
「緋郎から電話があったの」
……とうとうあの子ひとりになっちゃった。
 夏夜は哀しそうな声で言った。
「幽霊って、未来は見えないの」
 わたしは意識して舌を動かし、呂律の確かさをどうにか保とうとする。
「弟はまっとうに住職になる?」
……どうかしら……
……それぞれの道だから……
 詩杖夏夜はさわやかに笑った。降矢木の家名に配慮して筧さんとの恋をあきらめた詩杖の台詞とは思えない。
……天職を強制するなんて出来ないわ……
「住職はあの子の天職じゃないの?」
 詩杖は軽い声で答えた。
……お父さんがそうさせたいだけよ……
「緋郎はいやがってるの? そうでもないみたいだけど」
……まだ自分が見えていないから……
「バンドをやるって」
……自分探しの旅をするのよ……
 今わたしの耳が聞いているのは夏夜と詩杖どちらの声なんだろう。声だけではなくほんとにじかに化けて出てきてほしい。二人だったらぜんぜんこわくない。いっしょにお酒を飲もうよ。

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