さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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海の器  vol 12  UPRES UN REVE

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   APRES UN REVE

  潮騒のかくも愛しきふたたびは
    いつか知られず海に寄れかし
     

 くるぶしを包んで泡立つ波の、ひんやりと重い碧は、東雲の光を映してしらじらと透きとおってきた。山の鳶が馬のいななきのように鳴きあげ、繰り返し響くその叫びは、浜鴫や、遠くの山鶯まで誘って朝と真夏の訪れを知らせる。
 踏みしめるたびに砂は次々と踵に崩れ、波のリズムと同じ速さで重心を移さなければ倒れてしまいそうだ。寄せては返す波紋に目を凝らしていると、単調な潮騒を伴う際限のない砂の崩壊感と銀色の波模様が、立ち尽くす朱鷺をさらさらと水底へ運んでしまうかのようだ。
 水の冷たさが膝上まで這い上がってきたので、朱鷺は顔をあげた。すると、おだやかな入り江の湾曲ときらめく帆影、空に舞う鴎が一度に見え、暖かい生の感覚が戻ってきた。
 真夏が来る。
 梅雨の澱みはどこかに行ってしまい、彼方にひろがるまばゆい光は、重い夜の蓋をやすやすと持ち上げて駆け足でやってくる。辺りはまだ色彩のない銀青色の明暗だけだが、朝じめりの大気はもうさわやかだった。
 浜辺にはサーフィンを楽しむ人影がちらほら行きかい始めた。低い光線は彼らのどぎついスーツや帆を無彩色のシルエットに変え、蛍光色の騒々しさは、白い波の背びれにまだ霞んでいる。
 水を吸った砂に足音も消されていた。
 泳がないの?
 洒落た麦藁帽子を目深にかぶり、ポカリスエットの缶を両手に掴んで、ウラジーミルが派手なバミューダパンツにサンダル穿きで立っていた。
 帽子の縁から覗く瞳が、例によってはぐらかすように揺れている。彼はわざとらしいくしゃみをし、目の端で朱鷺を見る。
「夜が明けるね」
ウラジーミルのサンダルは水に漬かっていた。ちいさな貝殻が、彼の足の周囲で波にもまれてきらきら光る。
「泳ぎに?」
「いや、買い物、それに散歩。あすこのホテルに泊まっているので」
 ウラジーミルは顎をしゃくって破風だけ見える菫いろの建物を示した。朱鷺が何もいわないのに彼は歯を見せて笑い、両手の缶を振った。ふたりぶん。
 が、彼は一つを朱鷺に渡し、飲むようにと勧め、さっさと封を切る。
「待っているんでしょう?」
「でもないよ、彼女は寝坊だから。それに手が冷たくていやになった」
 ポカリスエットは彼の熱を吸って少しぬるかった。
 ぼさぼさの帽子、羽目をはずして胸をはだけたシャツ、むき出しのひょろ長い脚といういでたちにも関らず、腰に片手をあて、海風に額の巻き毛をなぶられているウラジーミルには、独得のみだしなみのよさがあり、彼の演出する中年男のだらしなさには程遠い。
 彼とホテルにいる女はとても若いのだろうか。朱鷺はウラジーミルが素肌にひっかけたアロハシャツをしげしげ見てしまう。シャツに寄せ集められた色彩はフォービズムの絵のように獰猛で、真っ黄色のハイビスカスが濁った青緑の棕櫚を威嚇している。彼はわざとこれを選んだに違いない。安っぽいアフターシェーブローションが匂う。
 彼はわざと自分を貶めようとしている。しかもそれはうまくゆかないので、ピエロに変装しそこねたシュヴァリエ、マノンにふりまわされる哀れなシュヴァリエのように精気がない。
「きみは」
 ウラジーミルは言いかけて朱鷺を振り返った。雲をつらぬいて陽が昇り、浜辺の熱気がふわっとたちのぼり、それと同時に、夏の海辺の色彩が、シンフォニー・オーケストラを奏で始める。
「僕のこどもたちは、きみを困らせた?」
 もってまわった台詞は、不首尾にも彼をせきこませ、ポカリスエットが飲み口からこぼれる。陽光を吸ってウラジーミルの背景の海は見る間に青く染まり、麦わらの黄色が後光のように彼の顔のまわりで黒い影をつくりながら輝いた。朱鷺はウラジーミルの気恥ずかしげな視線をとらえる。まなざしのほうが正直だ。
 が、ウラジーミルは瞼を手の甲で擦り、突然の少年ぽい仕草に媚をちらつかせ、後ろめたさを隠してしまった。
 こんなとき、何を言えばいいのだろう?
 朱鷺は吹き乱された前髪を撫でつけ、
「困ったことなどないわ」
 のらりくらりと核心の周囲を泳ぎ回るウラジーミルの物言いは、今不愉快だった。彼に好意を抱いている分余計に腹がたつ。あなたは冴と樹の父親としてわたしに話しているの? それともわたしの友人として?
 もっとも、こんな朱鷺のカテゴライズのほうが、人間性と自然の曖昧さに対する無理難題というものだった。朱鷺の苛立ちを見透かして、あっさりとウラジーミルは笑った。
「樹は気の毒なことをしたなあ。父親の我儘と母親のいいかげんが裏目に出た。こんな世の中ではあいつみたいなのは生きにくい」
 しらしらとウラジーミルは言葉をつなぎ、唇をほんの一瞬への字に曲げた。で、彼の白系ロシアの遺伝子による弓なりの輪郭正しい唇は、もう次の瞬間には上機嫌に、きれいな小舟のかたちにもどって、しっかりした顎の上で微笑しているのだった。
「田園交響曲なら――」
 さすがにそこで言葉を切った。
 朱鷺は瞬きもせず、一直線に寄せる長い波を見つめる。海の側でよかった、と彼女は思う。潮の匂いに記憶は紛れた。波のうねりにかきたてられる思いはある。それは朱鷺の足をすくう寸前で飛沫となって砕け散る。
 足元から鴫が可憐に鳴いて飛び立った。
「潮がふくらむ」
 ウラジーミルは呟き、冴はクラウスと結婚しない、と言った。

「こどもを生むなんて冗談じゃないわ」
「……」
「あたし、まだこどもなのに、育てられるはすないでしょう? 自信がない、勇気もない」
「クラウスが無理強いしているの?」
「まさか。彼はわたしに命令したりしない。ただ願うだけ」
「話し合いで解決できないの?」
「だめ。彼と話すと負けてしまう。朱鷺にちょっと似ているの。正論なのね。そして優しいわ。考えようによっては、それこそずるいやり方よ。彼に反対すると、こちらが意地悪で我儘な立場に立たざるを得なくなる、そういう話し方にうまくもってゆく。したたかね」
「ずるい? したたか?」
「わたしに自分自身を判断させる。まるで、きみは我儘女のままで年を重ねてもいいの?って言わんばかりの優しさ。いいわ平気よあたし我儘で、って啖呵をきっても、彼はぜんぜんへこたれない」
「クラウスはそんなに品行方正なひとには思えない」
「もちろん、四角四面ではないの」
「どんなかたち?」
「最初はBMWと思ったけれど、今は相当走り込んだボルボ」
「乗り心地がいいのね」
「あなた……ウラジーミルと同じことを言う」
「結婚したいと思っているのね」
――。

夏空を超えて樹はどこに行ってしまったのだろう。朱鷺の手に残されたのは、ずっしりと重いクーパーだけだった。蘭はそれを朱鷺に渡し、樹に返すように、と言ったが、もう彼はいなかった。
「シンガポールから空輸でウラジーミルにライターが届いたそうよ。あの子、ばかね」
 冴は樹の話題になると、クラウスについて話しているときのつやつやした幸福な混乱の表情をかき消して蒼ざめ、震えるのだった。
 夏の光を遮る帳の薔薇いろに包まれた冴の裸身には傷ひとつなかったが、肉体が傷まないぶんだけ、冴は自責の念に苛まれる。
「あの子は、あたしを罪悪感で泥まみれにして行ってしまった。痛めつけてくれたら、まだ気が楽よ。このお腹にすごい傷をつけるとか、顔をめちゃくちゃにするとかしてくれたら、あたしはまだ救われる。恨む余地があるじゃない。あたしたちは平等に傷ついたんだって思えるのに、樹はヒステリーさえ抑えて、ぜんぶ背負いこんで」
 冴は枕を抱いて呻いた。肌はもう焼けて、背中にほそい水着のあとが筋をつけている。この背中をクーパーが貫いたら、と朱鷺はふと想像し、軽い快感を感じてしまう。バターにナイフが突き刺さるように、冴の金いろの肌に、あの重い刃が沈む。血は初めそれほど出ない。隙間なく、ぴったりと肌に密着するから。クーパーを引き抜こうとすると、軽い抵抗がある。組織がねじれ、血管が静脈に沿って破れる微妙な手応え。待ち針の頭のように最初の血は鋼の周囲にぶつぶつ滲む。皮膚が内側へめくれこみ、それはペニスにひきずられるラビアのようにすぼまる。刃にぴたりと密着している皮膚。引き抜いたとたん、勢いよくほとばしる鮮血。黒い血。彼女の喘ぎ。
アクメのような絶望。
 そしてカタルシス。
(もしかしたら、冴も死にたがっていた?)
「何を考えているの?」
 冴はひっそりと息をころして尋ねた。自分の肌に触れてくる朱鷺の指先が冷たかった。何度となく繰り返された問いが、また冴の唇を動かし、だが今彼女は苛立ってはいない。
「あなたを刺し貫くこと」
 冴は首をねじって朱鷺を見た。サテンの枕の照り返しで、冴の顔の半分は薔薇いろ、もう半分がすみれ色に見える。顔の左右で表情が違っている。
 朱鷺はうなだれていた。起伏の少ない胸に、かたく、しまった乳房がすべすべした陶器のような光沢を湛えている。つん、と上を向いた乳首の味を樹は知っているのだろうか、と冴は想像する。得体の知れない妬ましさがこみあげてきたが、それは過去の自分に対する嫉妬かもしれなかった。自分は得がたいものを両手にしていた。なのに保ちきれなかった。
(朱鷺のせい? それともクラウスの?)
 誰のせいにしてもいい、と冴は自分を許す。理由は何でもいい。最初に激情があり、理窟や言い訳はあとからのろのろやってくる。いっそ全部壊してしまおうか。
「正直ね」
 冴は片手を伸ばし、朱鷺の喉を掴んだ。同じことをする、と朱鷺は身悶えをしたが、冴は朱鷺のおさげの髪をずるずるとひきよせ、人形をいじめるように手足をからめてしまう。
「あたし、樹に似ている? あたしを見るとあの子を思い出す? そうでしょう」
 冴は朱鷺に馬乗りになり、膝で彼女の腰をはさみ、乳首をぎゅっとつまんで親指とひとさし指でちりりと揉むと、朱鷺は悲しそうな顔をして冴を見上げた。
 朱鷺は、何かを克明に記憶していることができなかった。即物的な形象は独得の感受性に濾過され、曖昧にぼやけてしまう。直感のほうが優位をしめており、目鼻だちよりも、相手の内面を映す表情のほうが強い印象を刻む。
 姉弟そろっていたときは、このふたりはそれほど似ているとは見えなかったのだが、今では、とり残された冴の端々に樹の記憶をすくいあげることができた。髪の生え際、鼻と眉の付け根の、指で押し付けたような窪み、弓なりの眼窩の曲線や、女性にしてはすこし長い鼻筋の半ばで、作者がふと手を誤ったように軟骨がいびつになっているかたち。どういう遺伝子なのか、ところどころで皮膚の質がざらついている触覚までが、鮮明に樹の映像を呼び起こす。
冴を眺めているうちに、朱鷺は自分の感情の在り処がわからなくなる。哀しい、愛しい、寂しい、恋しい、つらい、せつない……
傷痕をひとつも残さず去っていった樹を、冴も朱鷺も憎めない。彼女たちが樹に対して共有しているあかるい寂しさは、たぶんいつまでも決着のつかないまま、感情の上澄みとなって漂うだろう。もし樹が還ってきたとしても、同じ物語を紡げるはずはない。
今は季節の変わりめなのだった。
潮の屈曲、季節と季節のあわいで競り合う風のさかいめ。大気に湧きあがる潮の匂いは変わらないが、風景は刻々と濃淡いろどりを変えてうつろう。この渚に樹がまた登場しても、彼は二十歳ではなく、冴も二十三歳ではない。わたしも、と朱鷺は心のまなざしで水平線を眺めた。その向こうに樹がいる。
(一年たっただけなのに)
 そう、去年の初夏、この海岸で冴に出合った。それから樹と。
冴は言った。
「なぜ樹と行かなかったの? 蘭さんに気がねして? あたしはあなたならよかったの」
 本心ではない台詞が冴の口をつく。もしも朱鷺と樹が結びついたら、あたしは嫉妬で気が狂ってしまうだろう。なのに自分はそうなるように仕向けさえした。ナゼ? 望んでいた、いる、と冴は混乱し始める。混乱はあたらしい汗となり、肉体のもっと奥深い部分で沸き返る。
 朱鷺のゆびがきた。
 冷たい。あたしを殺すことを考えているんだ、と冴は逆上する。けれども、生と死が楔形に交錯する頂点で、少女のほそい指は、柔らかく冴をあやつって無邪気に遊ぶのだった。内側と外側が反転し、傷だらけの心が皮膚感覚となって血を流す。朱鷺の指がそれを宥めてくれる。
 少女の膝に顔を伏せると、そのふたひらがひらき、柑橘類の香りのする雫が冴の手にこぼれた。そこは淡い薄紫をしている。すぐに濃い茜が昇るだろう。
(この半透明な華奢を樹は知らない)
 冴は疚しさをまじえた優しさで舐めた。毛細血管がまひるの明るさに透け、殺意も嫉妬も膜のような皮膚感覚に覆われ、ゆらゆらと漂う彼女たちの視界には、サテンのシーツの明るいさびしさだけが見える。

 きみの行動原理は何だい。
 陽射しが皮膚に突き刺さるようだ。朱鷺は帽子を持ってこなかったことを後悔する。ウラジーミルはシャツのポケットからハーフスモークのサングラスを出してかけた。すると三十年後の冴が現れた。
 朱鷺は着ていた長袖シャツを脱いで、頭からすっぽりとかぶり、顎の下でその両袖を結んだ。へえ、とウラジーミルはまじまじと彼女を眺め、
「インドの子みたいだ」
「あたしはヴィエトナムなんだって、蘭さんが言ったわ」
 それはほんとうだった。TV中継されたサイゴン市内を歩く娘たちの姿は、朱鷺と同じように手足が長く、首がほそく、胸郭は華奢だった。
「するときみは東シナ海から来たの?」
 ウラジーミルはふと口を噤み、飲み干したポカリスエットの空き缶を足元の砂に突っ込み煙草を銜えた。今の彼の雰囲気には似合わない、あるいは似合いすぎる重々しいダンヒルの、勿体ぶった発火音が潮騒に混じって聴こえた。
 海水浴の家族がはしゃぎながら砂浜をひとかたまりになって横切ってゆく。もう夏休みだった。母親らしい女が二人、熱帯植物のような水着を着ている周囲に、浮輪やビーチボールを抱えたこどもたちが跳ね回りながら海へ突進してゆく。彼らの周囲を毛のふさふさした犬が、こどもたちの歓声に負けじとばかりに、賑やかに吠えながらついてゆく。彼らの影は短く濃く、垂直に照りつけ始めた真夏の光が乾いた砂にハレーションし、家族客は、白い砂浜に原色の穴を開けるように降ってきた。
海だ、とこどもの叫び声が聞こえた。
「わたしは犬のようなもの」
 ウラジーミルは、煙草をくわえたまま横に微笑をひろげて疑問を表わした。
「あまったれで、飼い主にべったりくっついているちいさい犬」
「きみ、甘えん坊には見えないね」
 ウラジーミルは口をとがらせて煙を吐き、女の意見にめずらしくまぜかえした。
 朱鷺は返事をしないで、渚を駆けてゆく白っぽい犬を目で追った。暑さに弱い長毛種の犬は、母親たちがこしらえたパラソルの影にもうひっこんでいる。朱鷺には、あのシーズーの、赤い舌を出して、はあはあ喘ぐ声が聞こえるような気がする。それに、強い光線のために匂いたつあたらしい糠のような犬の匂い。健康な獣の陽にさらされた臭気は、母親たちのつけているパンケーキより強烈だろう。
「で、きみは蘭さん以外になつかない?」
 朱鷺はサングラスを見た。ウラジーミルは眼鏡を盾にして彼女の視線を受ける。しかし、彼女が見ているのは、グラスの縁に輝く赤と緑のプリズムだった。朱鷺は素直には応えなかった。
「冴が好き」
 ことさらさりげなく、そのさりげなさで、こちらの心の痛みを訴え、相手の軽薄な好奇心に釘をさすことができたらと願いながら言い添えた。
「樹も愛している」
 うん、とウラジーミルは煙を空に吹きだし、その向こうにもくもくと湧きあがる積乱雲を見つめ、しきりにダンヒルを弄ぶ。彼には雲しか目のやり場がない。
 ウィンドサーフィンを抱えた若者たちが三人、身体にぴったりした黒いスーツを着て傍らを過ぎてゆく。若者のひとりは背中のファスターを閉めず、チョコレート色の背中と肩が、着付けの途中の着物のように割れていたが、水滴にきらめく健康な皮膚の輝きは、その焦げた肌の下にこそ、ほんものの蒼白い、傷つきやすい皮膚が隠れているのではないかと思われるほど強靭だった。彼らが快活な呼吸とともに運んできた汗の匂いは、朱鷺の心臓を錐のように刺す。砂を含んだ髪の匂い。胸に押し当てられた頭からたちのぼった陽さらしの磯、防波堤の腐食した鉄の匂い。
 ……。
わたしは蘭さんといっしょにいる。
 でも俺ともいる。
 あなたが見ているのは、風景の中のひとつとしてのわたし。わたしだけを見ているんじゃない。
こわいのか?
 樹は冴と離れられるの?
 ……殺したい、殺せない。
 殺さないと離れられないの? だとしたら、殺したって冴からは離れられないわ。誰も身代わりになんかなれない。
 我慢できない、今のままで。
 ……苦しい。
 俺が死んだら、哀しい?
 ――。
「きみはあいつを送り出してくれた」
 ウラジーミルは帽子をいっそう目深に被りなおし、顔をぼさぼさの鍔の翳に隠してしまった。彼には稀な、揶揄も好奇心もとりはらった優しさがある。彼は自分でもその感情が恥ずかしいのか、帽子の青い翳の中で、ごくちいさな声でつぶやいた。
「僕はろくでなしで……」
 どおん、と真夏を揺るがすように大波が押し寄せ、渚ではいっせいに歓声と悲鳴が沸いた。潮が満ち始めている。岬へ湾曲しながら続く長い海岸は、あとからあとから押し寄せる海水浴客で賑わっていた。さまざまな色合いの水着や遊具が、画用紙にしたたる絵の具のように、とりとめない喧騒で夏を塗りつぶそうとしている。

血の気を失った頬が快楽の極みでやつれていた。
 冴は濃い睫毛を持ち上げ、何かを待ち望むように天上を見つめる。しかしそこにあるものはバロコの歪んだ唐草模様と、色褪せ始めた薔薇いろの絹だけだった。愛撫の名残が疼きとなって腰にわだかまる。それに終止符を打つ明確な痛覚が欲しかった。樹が消えて以来、感情の澱みが下腹部を圧迫している。クラウスに埋めてもらいたい、という欲求がじわじわとせりあがってくる。
(クラウスだけで満たされるの?)
 冴の後頭部から、誰かの鈍い声が響く。誰の声? 朱鷺? それとも累?
 結婚したら、朱鷺とはおしまい。樹が戻ったとしても、できなくなる。過去現在のポリガミーを未来のモノガミーと交換してあたしは安定を手に入れる? 
(退屈であたたかいクラウスのベッド)
 冴はクラウスに悪態をつくが、我ながら反抗の気力に乏しかった。彼女には毛むくじゃらのあたらしい男が必要なのだった。華奢な朱鷺にまたがることはできても、手足を伸ばしてのうのうと寛ぐことはできない。
 自分のしてきたことは何だったの、と冴は呟く。帰ってきて、行かないで。だが殺されるような裏切りをしたのは冴だ。後悔の余地もない。弟を追い詰めたのは彼女のほうだ。朱鷺が帰っていったあと、まだ裸の彼女がなお焦がれているのは、樹が彼女に刻みつけた感覚の残滓なのだった。体を交わしていなかったら、冴の悲哀はもっと違った涙になっていただろう。
 冴はサテンの枕に顔を埋めて泣いた。弟が失踪してからもう一ヶ月以上経ったが、まだどこかに彼の匂いが残っている。彼女の涙は素直だが貪欲だった。冴はもう前進することを決めている。上等にもボルボが用意されているではないか。それで、彼女は思う存分泣くことができる。
 枕許で電話が鳴り、留守番に切り替わった。
厚みのある声が冴の歎きを遮る。大きくて、いかにも教養のある、自分を信じている中年男の声が、とても自然に彼女を呼んでいる。虚勢を張らないのは真底強いからだ、と冴はうっすらと朱鷺を思い出す。
 コードレスの電話がオンフックになっていたのは偶然ではなかった。
 干潟に取り残された魚なら、水のいっぱい入ったバケツを選ぶだろう。後でどうなろうと……。
 食べられるとしても。
(肥らせたい。キャビアはどう?)
 鮫は嫌い。ふくらんだ……がいい。
 彼女は膝を抱えてベッドの端までころがり、胎児のような姿で受話器を抱えた。

「死ぬ死ぬと騒ぐやつほど長生きし」
 蘭はコンサート・グランドを拭きながら朱鷺を見ずにうそぶいた。
 半世紀以上も前の巨大なピアノは、丁寧に手入れをしてきたおかげで、古びて厳しくなり、この家の誰よりも悠然としている。調律師泣かせではあったが、音色はえも言われぬ風合いで、高音はリナシメントの王侯の肖像画さながら沈んだ光沢を放ち、音が割れ始めた低音は、人工の領域を超えて岩場に砕ける波のように震えた。それを蘭は、ルービンシュタインを真似て思い入れたっぷりに奏く。もちろん朱鷺の前で。観客なしにパフォーマンスするほど彼は素朴ではない。
 大丈夫さ、と蘭は手布をまるめて放り、ぬっと朱鷺を振り返った。
「今の柳句がわかるか」
 極まるときに、死ぬ、というだろう? 同じだよ。生きたいから死ぬ。
「茶化さないで」
「とんでもない。これは世界史を貫くアフォリズム。死の恐怖が人間を駆り立てる。全力疾走するのは後ろから狼が追いかけてくるからだ。恐怖がエネルギーの媒体よ。つまり、生は不可避的に死の補給を受けないとうまく働かない。あるいは鈍くなるんだ」
 だから、と蘭は楽譜を開いて言う。
「あいつは生き延びるさ。インドネシアの急成長は目を瞠るものだ。樹ならかしこく化けて見せるだろうよ。べつに日本〈人〉でなけりゃ生きていけないわけじゃない」
 それで、と蘭はアンコールピースのメンデルスゾーンを奏き始めながらつぶやいた。
「おまえも行くか。ここを離れて」
 愛撫のようなメンデルスゾーン。彼はもの言いたげに旋律を揺らし、決定的なドミナントに続く完全終止を避け、物語を先へひきのばす不完全終止を多用する。語りきれない、愛撫したりない想いがあるよ、とばかりにズブドミナントの和声が優しく繰り返される。カタルシスはあるようでなく、どこかものたりないほのめかしのまま、やがて曲想は消えてしまう。
(くじけたままの樹を、どうしてそのまま帰すことができたろう)
 朱鷺は黙って蘭の背中にしがみついた。
「いかない」 
 ズブドミナントのまま、ここにいる。
 蘭さんと。
 おや、と彼は眼をみはった。朱鷺のそのような表情は見たことがない。そうか、と彼は了解し、鍵盤から手をあげ、すっと少女の体温を自分の背中から離した。朱鷺は逆らわなかった。少女の胸と男の背中のあわいに、夏の大気がさらりとはいりこみ、ピアノの音が止むのを待っていたかのように、窓の外の楡の幹から甲高く蝉が響き始めた。
 それでも朱鷺は微笑を絶やさなかった。彼女は自分が必ず男に受け入れられるとわかっているからだった。
 漆の塗り目がマーブルのようにわずかに波打つ、微妙なつやの浮かんだピアノの表面に少女の淡い笑顔が映っている。竹内蘭は奇妙な気がした。自分は労わられている。彼は自分の真横に蔦のように垂れたほそい少女の腕を撫でる。薄く汗ばんだ皮膚の感触はとても快いものだった。
「焼けたな」
「すこしね」
 少女の腕を撫でる大きな手の甲の縮緬皺が前より増えている。手入れのゆきとどいたたまご色の手は柔らかく、まだ丈夫そうだが、亡滅の海はしのびやかに彼の肉体に漣を寄せ始めた。
「日焼けどめを使え」
 かぶれるから、と朱鷺は拒み、わたしはこのままがいいのと蘭の髪に触れた。短く柔らかい男の髪からは、レール・ジュ・タン、時の流れがほのかに香った。

                                                                海の器  了

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海の器  vol11  SOSTENUTE

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   SOSTENUTE

 木漏れ陽も君より響く歌のごと
   若葉晶(すず)しき森に生れなむ


 禁忌とは何だろう、と朱鷺は初夏の柿若葉を眺める。さわやかな黄緑の若葉は、海風にきよめられた空の青さを初々しく吸い込んで、目に見える速さで成長してゆく。若緑がやがてつやつやと濃さを増すと、葉の重なりの上に、花ともわからないほどつつましい柿の花が咲いた。
 クリームいろの柔らかい花弁はちいさいがふっくらと優しい。ささやかで、黄緑がかった白いはなびらは、誰の目もひかない。
 そんな地味な花なのに、秋の実りの豊かさ鮮やかさは、不釣合いなくらいだ。柿の木はみづからが花やぐエネルギーを削って次世代につなぐエネルギーを補償している。むかしの母親が我が身を倹しく控えて、こどもたちを育てあげたように、柿の花は葉隠れてあえかに咲き、散る哀しみさえ見せず、ひたすら秋の実生にいのちを注ぎこむのだった。
 いのちとは本来そのようなものだろう、と朱鷺は猫の鳴き声のような舵のチェロを聴きながら思う。八分の一サイズのチェロは、舵が憧れたメロウな音色には似ても似つかず、失恋した牡猫のエレジー、と言うのも上等すぎる歌をうたう。
 音程を奏きまくるならマシーンでもできる、と蘭はしばしば苦々しく吐き捨てた。
「はみだし、たゆたいもたれかかり、ときには逸る感情の流れを表現しなければ、音楽とは言えない」
 バレンボイムのピアノはいい、と蘭はうなるのだった。はみだし、たゆたう……。
 朱鷺は椅子に寄りかからず背筋を伸ばして小学生のようにきまじめな顔で窓の外の青葉を見つめている。膝には読みかけの本があるが、なにを読んでいるのか、どこまで読み進んだのかもう忘れていた。萌え出づる新緑にひたと目を据えて、きっちりと口許を結んだ表情は、それとは知らず樹に似ている。
 蘭さんがいなくなったらどうするの?
 頬がこけて、目ばかり大きくなった樹は、手入れを怠った庭木のようにふぞろいに伸びた前髪をかきあげて言った。蒼白い肌に唇だけが赤い。それも沈んだ、不健康な赤で、顔色の悪さのために、かろうじて赤みがさして見えるという、剥き出しの粘膜のいろだった。
 桔梗山の部屋に冴はいなかった。彼女は約束と時間に無頓着で、ことに後者への義務感がまったくない。待ち合わせをしてもたいていは遅れ、まれに早く来ているときは、ひどい憂鬱にとりつかれているか、あるいは躁状態で、あっけにとられるほど着飾っていたりする。朱鷺は何度も腹立たしい思いを味わったが、やがて、彼女の無頓着は一種の自己防衛なのだと察した。
 相対の関係では、否応なしにどちらかが受身にたたされる。それは流動的なものだったが、おおむね朱鷺のほうが冴を待つ側にまわった。待たれていると冴は安心するらしい。また彼女は能動する側でいたがった。能動は、彼女の価値観として優越に結びついている。好都合なことに、朱鷺は誰かを待たせることには苦痛を感じる性格だったし、受身の立場に抵抗もない。受容することとふりまわされるのは違う、と思っている。それで冴と感情の均衡が保たれている。
 時折、冴は無意識か、意識してなのか、朱鷺をふりまわそうとする。朱鷺をつまづかせ、唖然とさせたい、あるいは哀しませたいと意図しているかのような意地悪をする。盥に張った水を揺さぶって、したたか零してしまおうとでもするかのように、乱暴なやりかたをする。
…きっと、樹に対してもそうにちがいない。時折、あるいはしょっちゅうか。一定のわかりやすい行動パフォーマンスは、あたかも彼女のキャラクターに映しこまれた幼児期の記憶をさまざまなヴァリエーションで再現し,
年月を経てもなお不透明にわだかまる情動のカタルシスを、絶えず外部に求めているかのようだった。
「ひっくりかえしてしまう勇気はないの」
 冴は情けなさそうに、でも意地悪く朱鷺の乳首を噛んで囁く。蘭が朱鷺の小海老のような乳首をたいせつに労わっているのを知っていて、冴はことさら朱鷺の淡いろをいためつけるように前歯をたてる。
「こんな快楽は、ほかの子とでは手に入らないから」
 と、冷淡に、わざと神経を逆撫でするように付け加えるのだが、そうやって朱鷺をいじめればいじめるほど、冴の執着が強くなってゆくのが露わになるのだった。過去あるいは現在のネガな情動を投影する(ポジティブな情感ならシェアする必要はあまりない)苛みのたびに、その対象は自らの似姿になってゆく。誰と離れようとも、自分自身とは一生添い遂げるしかないではないか。合わせ鏡のように照り返す精神の似姿。
 朱鷺は、キッチンの古風な換気扇が羽虫のように唸り続ける煙草臭い部屋で、冴を待つことにした。退屈したら眠ってしまえばいい。
 部屋は相変わらず散らかっていた。化粧水の空き瓶がころがり、ジャンク・フードの食べ残しが流しに積んである。床のヘアピンやクリップを踏まないように気をつけなければならない。壁をくりぬいたクロゼットの扉が半分開いて、クリーニングのビニールを被せたままのドレスが、押し合いへしあいしながら腕や腰を突き出している。それらの衣装は時折まじる原色と、おおかたは無彩色だった。
 ソファも脱ぎ捨てた衣装とりどりに占領されている。アシンメトリーなデザインのパンツスーツは、誰かが陳列したように裾をひらき、ソファを我が物にしている。
 デッキ・チェアの坐り心地の悪さに閉口して朱鷺は寝台の天蓋をめくる。息を呑む余裕もなかった。アールデコの唐草がついたベッドの頭板にもたれ、樹がこちらを見ていた。

「二時に約束した」
 樹は片膝をたてて、長い手を膝頭に添えて頬杖をついた。
「わたしも」
 朱鷺は口をすべらせ、しまった、と思う。樹は唇の端をゆがめ、木炭を噛むように苦い顔になった。
「ひどいたくらみだ、どう?」
 樹をつまづかせたいのだろうか、と朱鷺は青年から顔をそむける。顔のやつれようがいたましかった。
 それにしても、なぜ樹の気配を察することができなかったのか、垂れ込めた薔薇いろの帷の奥で、樹は朱鷺のたてる物音やため息を聞きつけていたが、朱鷺はまったく気がつかなかった。不意打ちだ。
「樹はいつもわたしを驚かせる」
 朱鷺は逆三角形の窓を見ながら呟いた。久し振りに見る硬化ガラスには、上半分緑のスモークがかかっていた。緑の重しをかけた窓の透明な末端が青い海に突き刺さって見え、それは朱鷺の神経を鋭くさせた。
「俺のたくらみじゃない」
 樹はそっけなく否定したが、朱鷺の気持ちはわかっていた。とても過敏なはずのこのひとは、俺に対しては無防備でアンテナがはたらかない。何故だろう。
 答えは逆三角形の窓にあった。
 が、樹は自分自身に対してしらをきり、的のまんなかをわざと迂回して冴に話題を振った。
「あいつ、男ができたんだ。ドイツ野郎、スカンジナヴィアかな。ウラァが言った」
 朱鷺はさっと樹を見た。樹の顔を直視し、帷の薔薇いろの陰のせいで栗色にかすむ瞳の奥にウラジーミルに対する悪意があるかどうか測る。よかった、樹は父親を軽蔑してはいない、父親に反発するのがふつうじゃないだろうか。
(あきらめている、この子。なんてことだろう。ウラジーミルは父親じゃないわ)
「獣医だって。信じられるか? あの冴に犬や猫の世話ができるか」
 自分の寝床だってできないのに、と樹は枕の下から、ベージュのランジェリーをひっぱり出し、朱鷺に投げつけた。Eカップのブラジャーには、なまなましい煙草の焼け焦げが乳首の部分をくりぬいている。
「やめて」
 朱鷺はあえいだ。こんな屈折した憂さばらしは公衆便所の落書きよりいやらしい。樹はかすれ声で笑った。まだあるぜ。
 朱鷺の膝に紫のパンティが投げ出され、しなしなと床に落ちた。とりあげるまでもなく、膣の部分が焼き抜かれているのがわかった。焼けた繊維の匂いと、微かに、みだらな分泌物のなまぐささが来た。どちらも新しい。絹には染みがついている。卵の白身。…。
 いやだ。
 朱鷺は後じさる。蘭にあまやかされているせいで、朱鷺はこの種の悪意に免疫がない。性的な歪曲、それによって生じる感情の濁りは鳥肌がたつほどいとわしい。
「あなたがすることじゃない」
 朱鷺はいまにも倒れそうな感じだった。逃げ出そうとする肉体の感覚と、これしきのことは克服せよと命じる超自我に、両側からひっぱられて、姿勢はぐらつき、瞳の焦点が合わなくなる。
「何だよ、なにもしないさ。落ち着けよ。冴の陰謀なんか、くだらない」
 しかし樹は猫撫で声になっていた。ベッドのスプリングが軋み、
(世の中にはもっとひどいものがある。知らないのか。夜道に立っていて、いきなりジッパーを下ろす奴だっている。いきなり刺し殺す奴もいる…)
「誤解だって」
 朱鷺の瞳がふっと揺れ、次にぴたりと樹を見た。彼女のまなざしに怯えは消えている。
 朱鷺の瞳を見なければよかった、と樹は悔やんだ。砂が潮を吸い込むように、朱鷺は幾重にもたたまれた樹の心を読んでしまう。
「わかってるわ」
 朱鷺の声が遠くから響いてきた。樹のなかでせりあがってきたものは、この刹那に崩れ去り、水泡となって朱鷺のまなざしのなかに拡散してしまう。
 樹は朱鷺の眼と鼻のさきにいたが、ふたりの距離は、先程樹がベッドにうずくまっていた時より、はるかに――いつもどおりに遠ざかっている。
 うなだれたのは朱鷺のほうだった。
「いつも驚かせるのね」
 その囁きに籠もる安堵が樹の自尊心をちくりと刺す。人畜無害じゃない、俺は。
 が、凶暴にもなれない。
(今だって、やろうと思えばできる。押えつけて、他の女たちのように)
 樹は朱鷺の指の味を思い出し、歯の裏で舌を蠢かせた。冴の匂い…朱鷺の味だ。
(俺は羊じゃない)
 樹は朱鷺を憎むことで、つかまえようとした。憎しみは愛よりわかりやすい感情だ。そしてひとたび憎んだ相手は、滅多に自分から逃げては行かないのだった。愛の確保には忍耐が欠かせないというのに、憎悪はなんとたやすく自分に寄り添ってくれるものだろう。もう要らない、と押し退けても、やがては向こうからしつこくつきまとうようになる。
が、樹はまだそれほど愛と憎しみの経験を積んではいなかったので、安い酒で誤魔化すように、冴と朱鷺とを憎んでつかまえることにしたのだった。
手始めに彼は、頭を振ってふぞろいな前髪を瞼からはらいのけ、言いはなった。
「蘭さんが死んだらどうするの」

「レスボスを悪魔的だなんて言うのは、男の身勝手だ」
 フランソワ・リュペール・カラバンの作品を見ながら蘭は決めつける。
 蘭の知人の古物商が贈ってくれたアール・ヌーヴォーの写真集には、ガレやドームのガラス器にまじって、蛸の浮き彫りのついた化粧小箱に秘められた彫刻があった。
 「ふたりの女」というその彫刻は、朱鷺の眼を奪った。アール・ヌーヴォーの女たち、ことに彫刻の女性像は、十九世紀のがっしりと肥り肉だった現実の女たちとは異なり、すんなりとしなやかで、指先から爪先までの流れるような曲線は、バレリーナでなければ体現しえない美しさだが、カラバンの作品もその例に洩れず繊細だった。
 一人の娘が膝をひらいて寝そべり、もう一人が彼女の脚の間に顔を伏せて愛撫している姿は、「地獄の快楽」という解説にはそぐわないのびやかさ、ふくよかさに溢れていて、愛撫を享けている娘が、ほんの少しのけぞり、顎から首筋の線をすっきりと際立たせて、斜めに顔を傾けて放心している様子、下半身で重なった二人の脚の、なだらかで歪みのない肉付きなど、ミケランジェロやベルリーニの優れた作品のように晴朗だった。
「作家が邪な感情を抱いていたなら、こんなに美しいものは生れないわ」
 朱鷺は興奮気味だ。蘭は彼女の反応を面白そうに観察し、肯定とも否定ともつかない口ぶりで応じる。
「アール・ヌーヴォーというのは、女性を描こうとしたのではないよ。曲線の、コムポジションの理想を植物や人物に仮託したんだから彫琢を極めるのは当然なのさ。きわめて帰納的なものだ。具象の前に結果がある」
 蘭は梅鼠いろの、七十年代ふうに襟のとがったシャツを着ている。イタリアに住んでいたころのもので、組紐模様のような、カリグラフのような手のこんだ織り模様が浮き出されている。浮き織りの光沢のために暗色の鬱陶しさがないそのシャツは、蘭によく似合った。朱鷺はこっそりとそれを着てみたことがある。すると、蘭以外には似合いそうもない「地味だが華やかな」絹のシャツは、あつらえたように朱鷺に馴染んだ。物影から朱鷺の悪戯を覗いていた蘭は、その時ぬっと首だけ出して、鏡に映った朱鷺に言った。似合うじゃないか、俺と骨格が同じだからだな……。
「でも」
 朱鷺は強弁する。
「同じコムポジションで同じかたちを作っても、いやらしい作品はあるわ。何が描かれているかではなく、どのように描いているかが大切だと」
 そうだ、と蘭はくしゃみをした。初夏の風は蘭の鼻粘膜には刺激的すぎる。朱鷺はたちあがって窓を閉めた。蘭は頷き、話をもとに戻した。朱鷺は何事につけ納得したがる。
「性はあらかじめ倒錯を含んでいる。つまり、男どもには耐えられないのさ、女たちの愛撫がどんなにいいものか、直感的にわかっているので」
「嫉妬?」
「まあ、そうだ」
 蘭は中途半端な顔つきをする。彼は男だった。昔話だとしても、魅力的なフランス女の多くは、例えばココ・シャネルにローランサン、コレットも、そちらだったなあ…。
「男はたたかれると弱いんだよ。その、なんだ、自分の支配権を侵犯されるのがいやなんだ」
「男性は女性を支配する?」
「そのほうが平和だろ」
「どうして?」
「種の保存さ」
 それならわかる、と朱鷺はかしこく頷いた。文化は本能と離れて、ときおり逆走する。同性愛は文化のヴァリエーションだ。
「だからさ、男同士のいちゃつきには、ヘテロの男でも、まあ寛容なんだ。むしろ、知的レベルの高い男たちは、ほとんど潜在的にホモセクシャルとも言える」
「うそ」
「絶対に女が入れないからね。女を排斥した男の優越世界だ。欧米では石を投げればホモに当たる」
「レズビアンは?」
「レズというより、バイセクシャルのほうが適切だろう。富裕なサロンの女主人は、たいてい男女両方の愛人がいる。プルーストのころから、いやそのずっと以前から変わらないよ。人間は快楽追求において条件が許すなら限りなく率直かつ貪欲だ。別にそれがビザール視される世界じゃない」
「へえ」
「そうだ」
 なあんだ、と朱鷺は写真集に視線を戻した。蘭はもう言いたくないのだろう。彼が実態を知らないはずはなかったが、朱鷺に聞かせたくない、というニュアンスが露わだった。それで朱鷺はもう訊ねない。
「個人レベルにひきさげて、おまえの疑問をくくるなら、簡単にこうだ。つまり打たれ弱い男は、乱暴ってことなのさ」
 朱鷺は笑い出した。
「蘭さん、どっちの味方なの?」
「高みの見物。どちらにもつかない」
 だが、さらに蘭は言葉を継いだ。
「映画の『失われた時を求めて』で、シャルル・スワンは新聞を読みながら女の尻をまくっていたろ。男には機能的この上ないが、ロマンスのかけらもない、ただの処理だ。そんなふうに女を扱いたがるんだな」
「それが男の本音なの?」
 蘭は首をすくめた。文化は表層にすぎない、とつぶやき、ひそひそ声で、
「カラバンは憧れたんだ」
 朱鷺は念を押すように
「自分も愛撫されたかったの?」
 蘭は答えずに、かるく首をかしげ、違うことを言った。
「逸脱を許すわけにはいかない。社会構造が崩れてしまう。性衝動をおおっぴらに解放してしまったら文化は低迷する。獣に文化文明は不要。六十年代半ば以降の現代がそうだ。建築も音楽も、歴史を顧みれば一目瞭然だ、制約の厳しい時代において、高度に洗練された文化が地球上に燦然と屹立している」
「精神性が崩れていくとしたら、わたしたちは何を守るの?」
 踏み込んでくる朱鷺の瞳は澄んで大きく見開かれていた。言い逃れは彼女に通用しない。蘭はこういう朱鷺が好きだった。
 彼はにやりと笑った。
「てめえの女くらいだろ」

女はいくらでもいた。今まで自分は何を見ていたのか。映画館で、バーで、ハンバーガースタンドで、或いは駅の雑踏で、女たちは壁にもたれかかり、髪の枝毛を選り分けながら樹を待っている。シャドウに目張りされた視線が、ひしめきあう人波をさかのぼり、樹の血ばしったまなざしをすくいあげる。
 目があった瞬間、どの女も一様に上目遣いになるのはなぜだろう、と樹は思う。しかしそれは合図だ。顎をひき、ルージュを塗った唇を微かにひらき、白目を際立たせる。いつのまにか、そういう時、樹もまた顎をひくようになっている。顎をひいて肩をすくめ、だらしない足取りで近づいてゆく。自分のまなざしが粘ついている。ねばついた視線が絡み合い、そのままホテルの暗がりに転落してゆくのだった。
 金をくれ、と樹は初めてウラジーミルにせがんだ。金はいくらあっても足りなかった。ロワではまだ見習い扱いで、自活するので精一杯だ。これまではそれで不足なかったが、女たちは遠慮なく金をせびった。樹をひっかける女は、小遣い稼ぎに売春する主婦や学生の素人売春婦だ。なかには淫売目的ではない娘もいたが、ふらふらしている彼女たちは、樹が誘うとたやすく同意し、しかも貪欲なことは売春婦以上だ。からだを交わしたあとで食事とレジャーを要求し、家まで送れとほざく。面倒臭くなった樹は彼女をバーに置き去りにし、次からはいかにも水商売風体の女を選ぶようにこころがけた。
「病気には気をつけろ」
 ウラジーミルは、むしろ嬉しそうに目を細めて金の包みをくれた。
「ウラァこそ」
 樹はにやりと笑って父親を見返す。いやな笑いだと自分でも思う。自分のすさんだ表情が父親の灰色の瞳に映っている。
「冴はどうしてる?」
「さあ。ウラァのほうが知っているんだろ」
「あいつも不器用だからな。冴も樹も俺と奥さんの不器用なところばかり受け継いだみたいだ」
「そうでもないよ。まあまあさ」
「親父をなぐさめるな」
 ウラジーミルは下唇を突き出すように煙草をくわえる。端正を損なうほどではないが下瞼がたるみ、目許の笑い皺が増えた。年をとった、と父親を眺めながら、自分がウラジーミルに対してひどく淡白な感情しか抱けないことに気づいた。しらじらと稀薄な関りの自分たちは何だろう、と樹はウラジーミルの煙草入れからピアニシモを抜き出した。
「吸うようになったのか?」
 まあね、と樹は頷き、とてもさりげなく尋ねた。
「冴に男をあてがったのは…?」
 ウラジーミルのまなじりの皺がいっそう深くなり、口許には鉛筆で描いたような皺の括弧が刻まれた。毛先が銀色に褪せた長い睫毛をしきりにしばたたかせながら、ウラジーミルは両手を顔の前でぎゅっと組み合わせ、その影から片目だけ出して呟いた。
「まあいいさ。おまえも二十歳になったんだから。注意書きはケースにある」
 俺が指図することじゃない、と彼が呟いたとき携帯が鳴った。甲高い女の声が樹の耳まで聞こえた。本音は心優しい悪がりの色男は反射的に息子に背を向け、電話を片手でとった。
 樹はウラジーミルのピアニシモとライターをポケットにねじこみ、金を包んでたちあがった。さばさばした顔で父親をちらりと見て、
「恩に着るよ。いつか返す」
「ライターだけでいい」
 息子の背中を見送る作り笑いは、泣き顔のように見える。彼は送話口を塞ぎ、口の中で呟いた。
「初めての女がくれたんだ」
 が、彼はその女の名前も顔も憶えてはいないのだった。

 俺はどんどん濁ってゆく。女たちの股のあいだ、毛深い雑踏、汚れたネオンと油臭い雨のじたじたと降るベッドの中で。アスファルトに降り注ぐ廃油のように粘る雨だれが俺を溺死させる。油臭い女の股。どろりとした中華そばの快楽、冷蔵庫で黴ているチーズの穴が俺を誘う。ケチャップとまがいもののソース、得体の知れないミンチをつめこみ、がなりたてる音程の狂った歌声に合わせて膝を揺すり、俺に頬ずりする。
 あたしのこと好き?
次の瞬間にはこう言う。
 愛なんてめんどうくさいよね。
俺は真っ赤なホットドッグを喰う。感覚が麻痺して、俺はそれをうまいと感じ始めている。ただ刺激が濃いだけの、屑肉を練ったソーセージ。それが俺の欲情にぴったり合うから。体臭。べたべたと首筋にこびりつくホテルのローション。ポスターカラーのように騒々しいパルファムを、彼女は得意気に腋になすりつけ、ファンデーションでざらついた毛穴を密閉する。
 彼女はひどく高価なレースの下着を身につけている。ビルの谷間で排気ガスに汚れた蜘蛛の巣網のようなこまかい襞が後生大事に抱え込んでいるムール貝には、さっき喉へ押し込んだ屑肉の臭気が降りている。人間は喰ったものの匂いを放つのさ、香水なんて糞喰らえ。
 亭主とはもう五年もしていないの、としなだれかかる女。乳臭い胸。こどもを生んだ後のひきつれが荒れたアスファルトのように罅割れて光る。ハイヒールに踏み荒らされた床。俺は絆創膏を貼りつけるように、彼女の乳房にペニスをくっつける。湿布。傷だらけなのはどっちだ。ウィスキーとジン、なまぬるいビールの泡。憎悪の澱の精液が女の皮膚を汚す。若いのね。そうでもないよ。毛深いひとがすき。毛深いものは……存在感があるから。あたし昨日こどもを蹴飛ばした。泣くんだもの。
 女はいびつだ。いびつな女ども。体型補正のファンデーションの圧迫が肉体にぎざぎざした皺を刻み、肉の瘤をこしらえ、背骨を曲げる。変形した情欲。ラメ入りナイロンパンティに包まれた性器はべたべたしている。梅雨どきの繁華街のネオンのように、けばけばしい欲望でべたべた濡れる。汗、体液の悲鳴、冷たい寝具をまくっておそいかかる倦怠。正常位の恋愛、後ろからなら密通、肛門の倒錯。
 ねえ、と彼女は金を財布にしまってからねだった。またがらせて。いいけど……下からだと醜く見えるんだ。でも彼女はひるまない。
 はやく済ませてね、次の待ち合わせがあるの。ぜんぶ脱がなくてもいいでしょう? スカートだけめくって、ほら。いやだ、ちゃんとガードしてよ。俺はいらいらして女を殴ってしまう。なぐって、押さえつけ、パンティをむしりとり、ストッキングで手首を縛る。
暴れろ、逆らえわめけ。だが、彼女は、いく、と叫び、俺から快楽をむしりとってしまう。俺には何も残らない。うつろな射精が胆汁をかきまわしてこだましている……女の陰毛を数えるように、俺は冴と、冴以外の女どもとのセックスを数えようとする。

 さわさわ、と夜風が雨を含んで梢をそよがせる。間近に演奏会を控えた蘭は下準備に上京しまだ帰らない。ことによると御前様かも知れないが、泥酔して送られてくるような無様はかつてなかった。彼は若いころは相当に無頼奔放を通したようだが、朱鷺といっしょになってからは、決して羽目を外すことはなく、節制を守っている。とはいえ几帳面には程遠く、朱鷺と蘭との生活時間帯は半日ばかりずれていた。早寝早起きの朱鷺にひきかえ、蘭は夜仕事をする質で、雑文書きなどは夜更けに始まり、深夜映画を見ながら、あるいは録画のスポーツ・ハイライトに悪態をつきながらごそごそと夜明けまで続く。朱鷺はさっさと寝てしまうが、蘭は彼女が傍にいて逃げ出さない、どこへも行かない姿に安心するらしかった。そのせいか、彼はことさら朱鷺を早寝させたがる。
 ときどき蘭は、朱鷺の寝室のドアを開けて彼女の寝姿をうかがっている。朱鷺は扉の前にうすぼんやりと浮かぶ蘭の顔を夢の情景のように覚えていることがある。彼は安心しているのだろうか。しかし朱鷺の思い出す彼の表情は穏やかでありながら寂しげだった。
 蘭さんが死んだら、と朱鷺はこの家を包む森影の深い夜に目をこらす。生茂る葉の重なりのために夏の闇はしっとりと量感があった。それはね、樹。朱鷺はまぼろしの青年に応える。
「それでは樹、あなたは明日死ぬと言たらどうするの?」
 ざわざわ、と枝が揺れ、椿の山にひとかたまりの風がなだれていった。若葉に漉された海風はヴィヴラートで飾った弦のように、梢を抜けてゆくとき、豊かにクレッシェンドする。ひと雨ごとに季節は移り、萌え出るものと生い繁るものとの精気とで、森は匂いたつようだった。青葉の闇は何かをそそのかすように風を孕んでざわめく。
 では、わたしがもし明日死ぬとしたらどうするだろう。
 朱鷺は窓を閉じた。自分の問いにかき乱されてしまう。蘭が死んだら、あるいは蘭と別れ別れになったら、という質問は初めてではない。何人かがそのようなことを言った。
 悪意ある善人。 
 ひとことで蘭はそれらのひとびとを片付けた。無神経で親切な恫喝。親切で無神経な詮索。なんでもいい。彼らは、親子ほども年の違う蘭と朱鷺とが、来るべき未来に対してそれほど無神経だと思っているのだろうか?
 樹は好意を装いなどしなかった。敵意と悪意。が、むき出しの意地悪さは往々にして攻撃する側の危うさ脆さを露わにする。偽善のない樹の台詞は朱鷺の耳に、冴に対する情愛と等質の憐れみをそそった。彼は自分を欺けない。 
 傷口のような無垢、と蘭はかつて朱鷺をさばいたが、樹も冴もたしかにそのような部分を抱えており、ことに樹は相手もろとも自分も引き裂いてしまおうとするかのような攻撃をする。
 底意地の悪い人間たちは、繊細さに指をつっこみ掻きまわす。野花を摘み散らすように彼らは無遠慮に、舌なめずりしながら無垢を踏みにじる。……言葉を失い、放擲されたムイシュキン公爵。
 いけない、と朱鷺は目をつぶった。わたしは樹を助けてはやれない。大人になるということは、と蘭は言った。あれもこれも欲しがるのはがきだ。どちらかを選ばなければいけない。
 明日死ぬとしたら、と朱鷺は呟き、ピアノのある部屋に行った。内面にくぐもっているものをほぐさなければ眠れそうにない。
 大人になることを選んだ。
 朱鷺はパジャマを脱いだ。生成りのタンクトップとコットンの下穿きは、現代バレエの衣装のように見える。
 シューマンやブラームスはまじめすぎて性に合わない、と蘭は酸っぱい顔をするのだったが、朱鷺は好きだった。
 騒々しく跳ねてはだめだ、と蘭は言い、アダージオな動きに座敷舞の静謐を取り入れるように教えた。音楽の流れは単調ではない。もだれかかり、はみだし、ときには先を急ぎ、フレーズはアメーバのように伸縮しながら進行してゆく。
 言葉では語れない流れ、情感の陰影を簡潔で衒いのないムーヴメントに表現できたら、と思う。ダンサーの動きのすべてはその心からなるもの、というマカロワの言葉を朱鷺は噛みしめる。いや、ダンスだけではない。演奏も、絵画も、書も、ひいては家常茶飯の挙措すべて、そのひとの心の映しに違いない。なぜなら、心のないところにキャラクターは成立しないから。
 芸や舞台においては、心が日常雑多の枷を離れ、凝縮されて表現となる。
 若き日のブラームスは、朴訥なまじめさが言いようもなく優しく可愛らしい。遠い日々、もう還らない記憶、優しかったひと、離れていった何かへの愛惜が、音の粒に混じって気恥ずかしげに朱鷺を見つめていた。哀愁は日晒しの布のように風合いを和らげ、踊り手のムーヴメントを柔らかくする。
 はにかんで見つめているのは朱鷺だった。風に鳴る窓の外で、もうひとりの朱鷺が、ゆらゆらと踊る彼女を見ている。
あれはわたし、うちひしがれた……
「開けてよ」
 一瞬ののち、朱鷺は現実に立ち返った。蒼白い顔が見えた。
「返しに来たんだ」
 ぶっきらぼうに突き出されたオーヴァーコートはクリーニングの匂いがした。樹は朱鷺の目を見ない。
「きみ、寝ていると思った。早寝だと聞いたから」
「蘭さんを待っているの」
 口をすべらせ、朱鷺はしまった、と悔やむ。樹の周囲にたちのぼるアトモスフェルの濃さはただごとではない、とすぐに察することができたのに。彼の伏せた睫毛に、きらりといやな光を見て、朱鷺は思わず上半身を退くが、樹はすばやく手首をつかんでしまう。むしられた鳩の片羽根のように朱鷺の手はあがき、すぐにしおれた。
「離して、痛い」
 その声はもう落ち着いていた。彼女はとっさに暴漢の喉を一瞬の躊躇なしに突き落とす俊敏と訓練を隠している。だが樹はそれを知らない。樹は苛立ち、唇を舐める。荒れた唇に血の味。
「また懐柔するつもりか」
「……」
 まだピアノが鳴っていた。愛をうたう音楽は、青年が運んできたなまぐさい夜風に不調和だ。
「落ち着きはらって俺に肩透かしをくわせる。そのくせ俺から遠慮なしに偸んでゆくんだ。卑怯だ」
「何が」
 ぐいっと引き寄せられて朱鷺は自由な片腕で窓枠にしがみつく。肩と膝の関節のどこかが、続けざまに鳴った。
「言いがかりよ」
「ずるい」
 あなたに乱暴される理由なんかない、と朱鷺は言い返した、が、その声といっしょにに天地がひっくりかえり、二の腕までひきすえられ、痛みに抵抗をゆるめたとたん、かるがると庭先にずり落とされた。窓枠の縁でタンクトップの胸元がびりりと裂け、なおしばらく続いたこぜりあいの汗と風の匂いが青葉闇に乱れる。
 叢に押しつけられると樹の顔が真上にあった。闇を吸った眼窩は夜空より暗く、インクブロットの染みのような影が少女の怯えを測る。
「二ヶ月で二十何人かの女を知ったよ」
 嘲りをこめて樹は朱鷺の喉をつかんだ。
「誰でもいいんだ」
 朱鷺は叫ぶことも忘れて樹を見上げた。彼は隙だらけだ。セックスできる距離は、相手を殺せる距離なのよ。が、彼女は彼を傷つけたくない。もう傷だらけ、このひと。
 弟から離れて他の異性を求めていった冴を思う。あわれだった。なぜ肉親で愛し合ってはいけないのだろう。禁忌、という未来のなさに冴の脆弱は耐えられない。百年の孤独は悲劇で終わる。冴は無垢な悲劇より、芳醇なチーズと葡萄酒を選びたい。
 では樹は?
 そして朱鷺は?
 せめてこう言おう、プリミティブな神話ではなく、彼らにはオルゴールで飾られた御伽噺を用意しよう、と。
 健やかな同衾のあとの心地よい眠りのために。オルゴールのつぶやきはブラームスのアベマリアでもいいし、乙女の祈りの切れ端でもよい。もちろんモツァルトでも。
 何を守る。内部からひそひそと瓦解がしのびよる現代で、あなたは何を守るだろう。
 てめえの女くらいだろう。
 朱鷺は息を吐いて、からだの力を抜いた。
「気がすんだ?」
 こんなことで、と朱鷺は樹のはるか上空の星空を見上げた。人間でなかったらよかったのに、と時々考える。センチメンタルなまなざしに星空はことに美しい。今感傷で星空を眺められるなら、朱鷺が樹を選んだということなのだった。強姦ではなく。
「こんなことで」
 呻いたのは樹だった。感情失禁の涙が彼の頬を伝う。少女が彼から快楽をむしっていったのではないから。短い抵抗のあとに、労わられていることが、樹にはすぐにわかったから。柔らかい労わりは、時として自尊心には罵声より酷いこともある。
 栗の花の匂いがつんとたち、樹のこめかみを涙と汗が混じりあって流れる。
 沈黙は雨雲のようだった。
 もういいよ。
 青年は少女の大腿に飛んだ白濁を指でなぞる。自嘲さえできないこのざま、と樹はうつろな気持ちでからだを覆った。

海の器 vol10  Landler

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 LANDLER

 誇らかに君に敷かれむ蹄ある
   跳躍のごとく流星は見よ

 
 からだじゅう金褐色の剛毛で覆われた男に組み伏せられていると、人ならぬ獣と寝ているような気がした。モンゴロイドには決してない、古い葡萄酒のような厚みのある発酵臭だった。
 こんな匂いを幼いころにも嗅いだ、と冴は湯気のような男の吐息を喉に感じながら思い出す。
 ウラジーミルはそのころ星に夢中で、仕事の合間に、しょっちゅうあちこちへ観測に出かけていた。それはまたウラジーミルの感傷旅行に他ならず、旅は彼のはかない恋愛のピリオドであり、また新しい出会いへの準備期間でもあった。
 そうした旅に、彼はただ一度、娘を伴ったことがあった。
 高原の記憶はおぼろだった。降りそそぐ星空も思い出せない。だが、男のてのひらがあたたかく冴の膝をひらき、その旺盛な繁りと、どっしりした量感の腹が冴を圧し潰した時、彼女の記憶に蘇った真夏の草いきれは言いようもなく慕わしいものだった。
 あなたのはわたしには大きすぎるわ。
 冴が男の耳許でささやくと、彼は琥珀のようにつやのあるバリトンで、ありがとうと言う。声の大きさに冴は思わず身をすくめるが、彼はそれでも喉を押さえているのだった。
 はちきれそう。
 冴はまた、男の匂いをふかぶかと吸う。肌理のあらいゲルマンの肌の感触。胡桃いろのそばかすで覆われた背中や腕。そこからたちのぼるすばらしい暖かさが冴を驚かせる。あの高原のしたたる緑が幼い冴の眼を瞠らせたように、男は冴を驚かせる。
 厳しい山肌を覆う針葉樹と樺の林をきららかにざわめかせて光が溢れていた。乾いて爽やかな風が、下生えの少ない木蔭を抜けてゆくと、家畜の匂いが、早くも秋を兆す野葡萄の蔓に揺れ、まばたきするたび、草原の緑は燃えるような赤に染まった。
 草の匂いは冴の嗅覚にあざやかな赤い印象を刻み、さらに太陽の金色で縁取られ、そのまた向こう、コバルトの空にきれぎれの羊雲がゆっくりと流れていた。
 なぜ、このひとが、と冴はスタンドの明かりにまぶしげに瞬きしながらティシュペーパーを引き出す男を見つめる。仕草につれてりゅうりゅうと動く肩は、菩提樹の幹か、ブナの大木のような威厳があった。鍛えた身体ではない。まだ若さを失ってはいないが、喰い道楽は早くも彼の腹部をたるませ、詰め物の中途半端なぬいぐるみのようなふくらみが、下腹部に添って密生する剛毛に包まれている。
が、年齢とともに大きくなった身体に、彼はゆったりと自足しているようだ。それが冴には好ましく感じられる。
 なぜだろう? あの高原はこの男と寝るまで彼女の深層に沈み、浮かびあがることはなかった。漠然とした印象の記憶。鬱陶しい母親の支配圏から逃れ、気まぐれではあっても娘を甘やかしてくれる父親とふたりきりで味わった別世界の愉しさの感覚だけが、果汁の上澄みのように彼女の記憶にとどまり、冴の旅行好きの原因になったのかもしれない。ところがこの毛むくじゃらの男に触れたとたん、幼いころの、つやつやとした真夏の映像が、冴の意識の表層にころがり出てきたのは、まったくどうしたことだろう。
 冴の視線はクラウスに面映い。肉体をゆるしたあとの気楽に、彼はのんびりとくつろいでいる。そのくせ、つながっていた時の強引を少しばかり恥じているのは、ゲルマンという質実で剛健な血統をBMWのように体現しているクラウスには、冴はいかにも優美なので、どうしても自分があつかましく思われるのだった。
 しかし、クラウスは、交わりそのものには悪びれたところがない。
「痛かった?」
 男が労わるように冴を覗く。異人種間の違和も驚きも、素直な労わりに抵抗を失い、彼のもじゃもじゃ頭のなかに吸い込まれる。
 がっしりした顎と頬髯に覆われたこのドイツ人は、閨あかりには陽気すぎるオレンジのスタンドライトの中で、人の良い熊のように見える。瞳の潔癖な青は褪め、灯のままに金色に透けた。
「やぶけたかも」
 冴が意地悪く腰をひねると、男はベッドが揺れるような大声で笑い、大丈夫、もう何度も試したからといなし、太い腕で冴の細腰をひきよせ、首筋にキスをする。
「また食べたくなる」
「食いしん坊」
 だが、褐色のライトはほんとうに食欲を刺激し、冴と男の胃袋は悲喜劇込みのクライマックスに流れる二重唱のように、とぼけた音程を歌い始める。

 獣医で椅子のデザイナー、ペットの輸出入業者というクラウスを冴にひきあわせたのはウラジーミルだった。
 都会の地面をマヌカンの厚化粧さながら覆い尽くすアスファルトに、埃っぽい雨はじんわりと滲みこみ、しぶとい吹き出物ののような雑草が、人の眼につかない路の隅を罅入らせていた夜だった。
 ウラジーミルの設計した私鉄の駅舎が、某財団の建築賞をいただき、品川のホテルで催された受賞パーティーに、冴はふらりと足を向けた。もちろんウラジーミルは娘を招いてはいず、冴も行くつもりなど毛頭なかったし、だいいちTVの録画が入っていた。冴は準主役のつぎといった半端な役がらで、このところモデルをドラマに起用して話題を稼ぐ風潮に乗じた出演だった。
 あー、もいっかい。
 抑揚のない声が無意味にリピートを強要する。主演女優は演技よりはスキャンダルメーカーとして人気があった。彼女はスタジオに二時間も遅れて、しかもぼさぼさ頭にすっぴんで現れ、スタッフの渋面もどこ吹く風と控え室に入った。
 彼女はもともとやる気などなかった。セットの中央で何度か録りなおしを命じられるともうぐずりだし、監督にひともなげな口をきき、相手の男優が下手だとののしり、十五分の休憩が終わっても、戻ってはこなかった。彼女の逸脱をその場の誰もとがめず、進行表の真ん中の空白を、やっぱりね、と不機嫌と上機嫌のないまぜになった顔で了解しあっていた。待たれていたアクシデント。主演女優のやんちゃもまた、記されてはいないけれど、ちゃんとした芸能界の期待の枠におさまっていた。
自己演出はどうってことはないやらせの変形なのだが、気位の高い冴は、自分より器量のわるい人気者の人生劇場に出演するのがいやになった。ドラマの脇役はかまわない。だが現実は別だ。成功しなくったっていい。冴は自分の飢餓感のうすさを疾(と)うに気づいている。
主だった役者がそろわず、スケジュールも分解すると、冴はもう遊びに出るのも億劫な気がしてきた。どこへ行っても同じことだ。踊っても、歌っても、酒を飲んでも、ヴィエトナム料理がタイ料理でも、喉を過ぎれば同じことよね。え、これでは累婆ァのわがまま口癖そっくりではないか。おやこなんだもの、似てるわよね、似ていたくないところが似るのかも。ここにはあたしの信じられるものがないってこと。ここってどこ? さあね。
 少なくともファッションモデルの世界では信奉するものがある。美、という唯一絶対の神が君臨し、娘たちの過酷な競争を睥睨している。それは自然淘汰そのものだった。競争、凌ぎ合い、狩猟本能をかきたてる。何かを狩り立ててゆく快感がコレクションにはあった。
 注目されたい、有名になりたい、自分の魅力で、会場の男たち、女たちを圧倒したい。刃を研ぎあげるように、彼女はコレクションのたびに美しくなっていった。
 が、芸能界という日本古来の祭祀の庭では、逸脱であっても、身をかがめて大衆迎合幼児退行の神楽を舞わなければならない。それを延々と踊り続けるには、冴はどうやら、背が高すぎるのだった。
「いいわねえ、サエちゃん、スレンダーで」
 初対面なのにちゃんづけで呼ばれる不快感が、逆に冴に明朗な返答を促した。
「そんな…肌がぼろぼろですよ」
 すると、そのさかりを過ぎた美人女優は嬉しそうな顔をするのだった。二十代から三十半ばまで、肉感的正統派美女で売った彼女は、四十の声を聴き初めた近頃、十歳年下の弁護士と何度目かの結婚をした。スランプの時はこどもを生むのよ、というジェーン・バーキンのユーモアをそっくりそのまま自分のものとして記者会見し、毎回自然出産を実行していたが、生死を分かつ大騒動をくぐりぬけるうちに、なるほど彼女の精神は逞しくなり、肉体もまた、その堂々たるヴァイタリティーに比例して大きくなった。ちょっとやそっとのダイエットは、彼女の生の意志に追いつかない。
 今度生んだら、もう肥満よねえ、と彼女はのうのうと笑う。半生をドーランと原色の色恋沙汰で明け暮れた彼女は、恋愛スキャンダルの罪を測る天秤の、もういっぽうの秤に地滑り的母性を乗せて、世界の均衡をとりたがっているかのようだった。不倫も年の差婚も非難される。特に女が年下の男といっしょになるのは日本の風土にまだ馴染まない。いや将来もどうだろうか。処女信仰はさまざまな言い訳を伴うヴァリエイションを奏でながら、なお男の自尊心に都合よく決着をつけたがるのは、アジアならではの後宮願望に通じるのかもしれない。
 が、こどもをはらんでしまえば、それまでの非難ほとんどいっさいは、生めよ増やせよ母性のおおらかさになし崩しに逆転する。この地滑り現象は、遠くから眺めるならショウペンハウエルほど明晰な頭脳の持ち主でなくとも、奇妙なことだった。が、おそらくそれこそは本能なのだろう。理非善悪を超えた、種の保存のために、出産という免罪符がある。清濁併せ呑む豊穣のオトシマエに万歳。
 若く、出産未経験の精悍な肢体の冴に、経産婦かつ妊娠中の女優は嫉みを隠さなかったが、底光りのする彼女の視線に、冴はまったく怯まなかった。
 一緒の車でという誘いを拒む理由はなかった。迎えに来たのは若い夫で、チャコールグレイの三つ揃いをきちっと着込んだ青年は、時節柄か経済的な国産車に乗っていた。彼は鼈甲縁の眼鏡をずらすように冴の長い脚を一瞥し、器用に視線を暈してあいさつした。うしろを刈り上げて前髪を垂らした髪型と、仕立の良すぎるスーツ、ぴかぴかに磨きあげたトヨタは、彼を成人式を済ませたばかりの青年に見せる。あるいは見合いに出掛けるためにスポーツシャツを急いで脱ぎ替えてきたひとり息子。
 重いヴォリュームで夫の隣に両足を揃え、腰から乗り込んだ女優の仕草はさすがにエレガントだったが、なぜかそのエレガントは彼女を姥桜に見せた。夫はグレート・マザー然とした年上の妻にくびったけの様子だった。彼が冴を見るまなざしに憧憬はなく、不安げでさえある。外見では十歳という年の差もさして目立たず、無難に幸福なオーラにつつまれたこのふたりを見ていると、冴はどうしても樹のことを考えてしまう。
 ウラジーミルと累という、気まぐれと我儘、突飛と偏愛の組み合わせから、自分はともかく、どうしてあのような弟が生れたのだろう。
 ああ、樹、と冴は唇を噛む。うそなのよ、あたし、あんた以外の男とは寝ていない。
 まだ、という予感つきのひそかさはあったが。
 なぜ嘘をついたのか冴にはわからなかった。
いや、わかっていた。同性への興味を感じ出したのは弟と寝てからだ。レスボスは弟に対して罪悪感のない快楽だった、から?
 そして樹は姉の冒険を、異性でないという点で許していた。考えてみれば奇妙なことだった。相手が朱鷺だからだろうか。朱鷺以外の女の子を樹にひきあわせたことはない。罪悪感て、そもそも何に対してのものなんだろう? 冴は神を必要としたことがない。きっと樹も。そして朱鷺も。罪の翳りのない激情は鮮やかで透明だった。
 殺意、憎悪であっても。
 嫉妬さえ、あでやかな朱色ないしは紫色で屈託なく輝いた。
 冴は初めての女友達を思い出せない。食べかけのフランボワーズを女同士で交換して食べるように、日常感をひとまたぎ超える何かから、それは始まった。
 正直なところ、樹との性愛は快楽よりは苦痛だった。しかし、ある種の人間には、肌身を削る苦痛が生きていくために不可欠で、つかみどころのない幸福や満足などより、鮮烈な生の実感をくれる。精神を鞭打つマゾヒズムもまた、樹と冴に共通する生の原動力で、これがあればこそ、冴は欲望の芸能界で醒めた視線を保てるのかもしれない。神楽、神の庭である芸能。しかしインセスト・タブーは人間にとって、永遠に神話そのものではないか。神話を欲するのは人間だけだ。獣に神話はない。彼らは知性を持つ代わりに、なお神話を生きている…だから人は憧憬とともに野獣の情感を詩にうたう。
 では、朱鷺は?
 クレームシェルプレーズを食べ終わるように、わたしたちの愛もいずれ消えてなくなるだろうと、冴は車窓を流れる都会のネオンを眺めながら考える。雑踏、繁華街の蛍光、その場しのぎの快楽に濁った熱気の渦を眺めていると、朱鷺はもはやはるかに遠く、彼女の存在感は稀薄だった。
 寝心地のいい、絹とコットンのシーツね、あの子は。はだかのからだに巻きつけて眠るときもちがいいのよ、それだけよ、と冴は朱鷺にかるい罵りをつぶやく。が、そのおかげで逆に朱鷺の記憶が皮膚感覚となって四肢に蘇り、冴は身震いした。
 帰りたくない、と冴はこの車に乗ったことを悔やんだ。繁華街に紛れてしまえばよかったのかもしれない。何も得られなくても、いっとき身体を突き刺す刺激はもらえる。
 突き刺す、貫く、その単語で、ふいにまた異性への欲情がこみあげる。
(樹は朱鷺が好きなのよ。あたしは初めからわかっていた。朱鷺も)
 しかし、それ以上この考えを続けることはできなかった。欲望といっしょに思いがけない嫉妬と苦痛の予感が胸をつく。朱鷺と樹の同衾を想像するのは、あまりに自然でたやすかったので、身の置きどころがない気がする。
けれども、この苦痛を乗り越えれば何かから解放されるのかもしれない、と冴は車窓から眺めおろす夜景に目を瞠った。自分の想念以外に、何も見えてはいないのだけれど。
 いったい自分は誰を求め、誰に嫉妬しているのか、やめよう、くだらない、こんな。
 振り子のように揺れる心を、とりあえず落ち着かせる場所は、なんと朱鷺との微風のような愛撫の記憶しかなかった。これも執着。
 必要なときは適切な快楽を得られるだろうという身勝手な御都合主義に冴はなごんでしまう。朱鷺を人生から見失ってしまうのはとても残念なことだ。珍しい鳥のように、そっとしまっておきたい。
 愛をかたどるハート型は左右対称で切れ目がない。切れ目なく、しかし冴のコムプレックスに突き刺さるかたちをしている。円ならば果てしなくころがり、四角は動かない。だけどハートは突き刺さるさかしまのトライアングルだ。
 前の座席で、夫婦は自然分娩の計画を確認している。夕食の献立を決めるように熱心に、あけすけに交わされる避妊と受胎の計画は、首都高速にひしめく自動車の流れに逆らい、冴を疎外しながら過去の実績へ向かう。
多産と豊穣が剥奪された東京の真っ只中で、どうすれば自然に近い姿で安産できるか、真剣に検討している夫婦の車には、煙草の匂い消しのために花梨が置いてあった。
 薪割りがいいんですって。
 日曜大工じゃだめかなあ。……。
 これでは夫婦の会話に入り込んで気を紛らわせることもできない。あまったるい果実の匂いがひどく鼻につく。果物だけならともかく、女優はプアゾンを、亭主はアラミスをたっぷり使っている。冴はただのラヴァンドのコロンだった。朱鷺がそのほうがいい、と言ったからだった。
「新しい香水はひとくアンバランスなの」
 朱鷺は顔をしかめるのだった。匂いのエレメントが調和を欠いてばらばらで、嗅いでいると情感がちぐはぐになるという。冴はそれほど敏感な嗅覚を持っていないので、朱鷺の言葉をあっさりのみこみ、調合されない香料を時折用いるようになった。朱鷺の審美的な感覚は、まったく流行とは無縁で、むしろそれゆえに、ともすれば流行の波に呑まれそうな冴を納得させるものがあった。
 その冴のリアシートに、ヒーターの温風は遠慮なく香水とオーデコロンの匂いを吹きつけ、さらに古くなった花梨の発酵も蒸されて加わると、冴は胸苦しくなった。
 プアゾンには麝香が、アラミスには男性ホルモンがかなり強調されており、両者が身近く混ざり合うと、それはもう閨の気配に似ている。音程のよくない歌のような女優と亭主の会話を、冴はろくに相槌もうたずに聞き流していたが、それがお愛想など必要のない夫婦の出産計画だったのは、乗り心地悪さこの上ない匂いのこもる車内においては、ちいさなラッキーといえた。女優は、むしろ冴と自分たちの間に不透明な線引きをしたがっているようだった。
それなら車に誘わなければよかったのに。が、多少愛想がなくとも、見るからに育ちのよい、物腰にノブレな風情さえ漂う冴からは、おしなべてのアイドルよりはるかに、搾取できる果汁は潤沢に違いないと誰でも思う。それがどんな味なのか、啜ってみないとわからない絞り汁。秋波も無視も、女心のかけひきの微妙だ。年増の女優は、その仕事で新人の冴にだしぬかれていた。
演技ならともかく、一般的な美女に寛容は期待できない。媚態としてならば話は違う。そして偽の寛容のほうが、きっと芸能界では使いみちが多いはずだった。
「東京駅だった?」
 ようやく首都高の流れが動きだすと、女優は華やかに振り返った。冴はまた伸び始めた髪をかきあげ、とっさにウラジーミルのパーティ会場を告げた。車窓から偶然そのシティホテルが見えたからだ。
 もう一分も彼らといたくない。
 冴は父親の素性と受賞を話すと、派手な場所には目がない女優は、てらいなく羨望の色を浮かべ、冴からいくしずくかの甘い果汁を絞り受けた快感を隠さなかった。この子と仲良くするのは、人脈にまたひとつ箔つきの糸が加わること、と。父親が著名な建築家なら、演技は下手でも、冴の過去と未来のメンテナンスは万全だ。

 奴は坐り心地がいい、とヴァレンティノを着たウラジーミルが、ドライ・マティーニを差し出すふりをして囁く。見透かしたような青灰色の瞳は、いつものように半ば微笑、半ばは揶揄に潤んでいて、娘の女としての反応を寸分も見逃すまいとしながら、一方で父親の威厳をとりつくろおうと焦っているようでもある。ウラジーミルは不良になりきれない駄々っ子のまま年を重ねてゆく。
「感じのいいひとね」
 冴はすげなく応え、母親をエスコートする父親からそっぽをむいた。累は申し分ないマダムぶりを発揮して、にこやかに客たちに応対し、手振りもしなやかにグラスを薦める。笑止かあるいは当然か、会場にはヴィオリノを持ったサルヴァトーレが来ていた。
 即興演奏が始まると、冴はさりげなく〈坐り心地のいい〉男の隣に行った。紹介されたときに、男のごわごわした巻き毛に覆われたいかつい顔と、明朗な青い目の印象が、彼の持つプレノムのクラウスはサンタクロースの語源というかすかな知識と結びつき、そのあたりから冴は彼と寝たいと思ったのかも知れない。
 クラウスの顔はピンクいろで、こまかな皺がいっぱいあり、ほどほどに整えられていたが、じきに奔放に巻き上がってしまう厄介な剛毛が眉の上まで垂れていた。
 クラウスは大きな手で自分の垂れさがる巻き毛を撫でつけるが、バイキングが無理やりブラック・タイを着せられて、その着心地の悪さに癇癪を起こすように、彼の自由奔放な髪はすぐさま飛び跳ねてしまう。クラウスはばつがわるそうに鼻をひくつかせ、肩を触れるほどの隣にいきなり寄って来た美女を横目で意識してか、顔をほんのりいい感じに赤らめ、せつなく流れるクライスラーの間じゅう、自分の癖毛を押さえつけようとしていた。
冴は知らん顔して、サルヴァトーレが自己陶酔的に奏きまくるヴィオリノに聴きほれるふりをしていたが、おかしくてしようがなかった。
クラウスには不似合いな、洗練されすぎた地味な縞織りのビリドゥエはどうやらウラジーミルのものだ。胸ポケットからちらりと覗く赤い絹は、フィルム・ノワールのギャングのようで、ウラジーミルには憎たらしいほど似合うのだが、どうつくろっても野暮ったいクラウスの風体は、ライオンが殊勝に前掛けをしたような印象になるのだった。
(わかっていて、これを貸したんだわ)
 冴は、母親と並んで斜め前に立っている父親に抱きつきたくなる。ウラジーミルは好意を抱いている相手に、わざと喰ったような悪戯をしかける癖があった。
 それにまた上着のボタンを、クラウスはひとつづつかけちがっている。そのことに彼はまったく気がつかないらしい。クラウスが髪を気にして手をあげるたび、彼の体格にはちょっときつめのジャケットは、互い違いのボタンのせいで、失敗したフェイシャルパックのような深い溝が杉綾の生地にできる。手をおろす、消える、また腕をあげる、すると嫌な小皺が寄る。
 冴はおかしいのかいらいらしているのかわからなくなり、調弦の間にとうとう手を出して、彼の全部のボタンをはずし、いちいちをゆっくり嵌めなおしてしまった。ポーラスなジャケットには寝起き顔みたいな皺が寄ってしまったが、貝のボタンはおさまるべきところにおさまって、すっきりと七色に光り始めた。
 あっけにとられ、されるがままになっていたクラウスは、下唇をつきだすようにして、ありがとう、と日本語で答えた。へどもどしているニュアンスが妙に日本的だ。彼はヴェルモットをひとくち口に含み、自分より背の高い美女を見上げ、ようやく真っ赤になる。
しかし、彼の赤面は、ミラノの上着よりずっと魅力的だった。
 調弦のあとサルヴァトーレが再び抑揚たっぷりに奏きはじめると、クラウスはさっと耳をそばだてた。男の反応を意地悪く(こういうところはウラジーミルに似たのだろう)楽しんでいた冴は、肩すかしを喰った気がしてステージを睨んでしまう。
 これはレンドラー……
 音楽に心を奪われた彼は、ぼうっとした間抜けなまなざしを冴に向けた。
 クラウスの心が自分から逸れたのに気づいた冴は、何が何でもこの男を征服してやろう、と決める。

 両手に、従順に膨らんでくるものをつかまえていると、その暖かなピンク色が指先から全身にひろがり、いっさいの煩わしさが消えてなくなる気がした。クラウスは立派な男だった。彼は単純に歯切れよく振る舞い、冴は自分の主体性が奪われる口惜しさを味あわされたが、そんな頭でっかちな憤慨は、クラウスの胸毛と腹の間で砕けてしまった。それでいて、彼が冴に与えた彩りは優しい薔薇色なのだった。
 ヨーロッパの薔薇、マイセンの陶器に描かれた、親しみやすい石竹いろだった。樹との営みは、運命的に暗いヴァルールを免れない。緋色、蘇芳、臙脂……弟と分け合う快楽はそのまま同じ血の翳りで亡滅を垣間見せる。冴も樹も、お互いの罪悪感で快楽を補償しあう疚しさから逃れられず、一方で、手応えのないつるつるの鏡に向かって愛を誓う空しさに怯えた。樹とするのは自分とするようなもの、といつだったか朱鷺に囁いたが、他者を容れない睦み合いは、ガラス壜に閉じ込められた砂粒のように、感情の変転のままに際限なく行きつ戻りつしながら、その都度愛情を忖(はか)りあう息苦しさを伴った。
「おくさんは…?」
 冴は昂ぶったクラウスの上にまたがり、涙のような潤いに任せて腰を落とした。ぐ、と内側がひきつれる感じがあり、からだが徐々に割れてゆく。襞が剥がれ、粘膜がめくれ、もっと深い部分が男を包みこみ、吸い取りながら緋色の闇に落ちてゆく実感が冴の乳首をぎゅっとしこらせると、クラウスは深く息を吐いて、太い指でそれをつまんだ。
 ケルンに。でもこんなときにそんなことを聞くものじゃない。
 こんなときだから訊ねるのよ。だって、今が一番嘘のない時間だから。
「だめだ、冴。男はこういう時にこそ嘘をつくんだ」
 クラウスの瞳は悲しげに見開かれている。冴のなかで、彼はほんとに萎れてしまい、彼女は悪かった、という気持ちになるが、つかまえそこねた薔薇いろのほのめきは、まだクラウスの肌をほてらせていた。
 そんなことを言うあなたは……。
 しかし冴は言葉を失ってしまう。クラウスが目を閉じて冴の細い腰をつかんだからだ。ほっそりした末広がりの肌を撫で、まわした指でからだの割れている部分を掴んだからだ。
 真夏の草いきれの暑さが、からだいっぱいに頬張った感覚に重なり、冴の首筋のたてがみのような産毛がざわめく。低くうめいてクラウスは脹れあがってきた。おとなしやかな薄紅いろはいきなりほとばしる赤紫にせりあがり、肉体の奥深くまでクラウスの歌が反響しはじめる。
 冴の喉から洩れるかすれ声よりも、つながった部分の重唱はせつなく、狂おしげで、次第にクレッシェンドしながら冴を突き破ってしまいそうだ。
 紺碧の、クラウスの青い目がまた涼しげに冴を見ている。冷静なのね。冴は震えながら悔しがる。
 ちがうよ、きみがとてもきれいなので、僕は驚いている。こんなときの女はとても歪むんだ。いびつになるものなのに、きみは始めから終わりまでとてもとてもきれいだ。
 見ないで、叫ぶから。
 冴は青空に向かって悲鳴をあげる。男の眼の中の蒼穹に吊りあげられ、射抜かれ、風切り羽をもの悲しげに鳴らして墜落してゆく鳥が彼女の官能を象る。落下しながら冴は安堵していた。このひとはあたしを受け止めてくれる。あたしはアスファルトに激突したりしないだろう、と。
 天地がひっくりかえり、冴は男を受け入れる。アリエッタの余韻が冴を小刻みに痙攣させていたが、クラウスはまだ蠢いていた。冴はうっとりと、宙に泳ぐ自分のとてもすんなりした二本の脚を眺めた。たかだかと、男の軋みにつれて空を切る自分の脚はすばらしく長く見える。それは見る間に二つに折れて、ぶあつい男の背中にからみつき、視界から消える。
 そして、冴の深みに、なつかしい草の匂いが暖かく、何度も飛び散った。

 あたしには恋人がいる。
 日本のチーズは石鹸みたいだ、と肩をすくめるクラウスに冴は頬を寄せる。バーにBGMはなかったが、ふたりの間にはなやましいストリングスの残響があった。クラウスはクラッカーにスモークハムとチーズを乗せ、たっぷりとマスタードを塗ってパリパリと噛む。
さながら冴の告白を砕くように咀嚼する。
 冴は、彼が冴の告白を拒み、チーズを吐き出すのではないか、と危惧するが、クラウスは平気な顔で呑みこむと、黒パンにイクラを盛り上げ、冴に差し出した。クラウスの鼻の頭にぷつんと吹き出物が出来ている。それを見ながら、冴は同じ台詞を繰り返そうか、と考える。
 が、彼は胸ポケットから写真を裏返して出した。僕にもパートナーがいる。
 冴は眉も動かさずそれをつまみあげる。が、写真を見る前に、シガレットに火を点けずにはいられなかった。
 一瞥して冴は煙草を置いた。クラウスの瞳はショット・バーのペンダントライトの濃い黄色い光の下で、ふたたび青の色味を失い、ただ透明に暖かく見える。
 レオンベルガーのエレクトラ。これでもまだ仔犬なのさ。 
 金褐色のふさふさとした大型犬が、ゼラニウムの花壇の前で、クラウスと並んでいた。
「すてきなフラウね」
「あいにくフロイライン」
 冴の指をクラウスはすばやく自分の指で包んでしまう。それ以上の喫煙はいけない、と言わんばかりに、暖かく、クラウスは彼女を包んでしまう。
 きみの恋人は猫だろう。
 冴はちらっと朱鷺を思い浮かべ、微笑んで首を振った。
「猫は女友達。恋人は」
 おとうとなのよ、と冴は勝負を放棄するように言い捨て、ローズ・カクテルを頼んだ。クラウスは瞬きもせずまた冴を覗きこむ。色素の薄い瞳のなかにきらめく光の斑が樹と同じだ。さっと全身に鳥肌がたち、冴は椅子を降りた。砕かれた自己愛のような氷が、空になったグラスの中で溶けてゆく。
 が、クラウスは彼女の手を離さない。
 動物はそうだ。
「あたしは人間よ」
 クラウスはきっぱりと言った。
「僕は君が犬でも構わない」
 猫でも、と彼は小声で付け足した。

海の器 vol9 Claire de Lune

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Claire de Lune

 月の城裾ながく寝むまなざしは
   青い魚伏す珊瑚のやうに


「ヴァンカ」でのペルフォマンスを見た、と冴は鼈甲の吸い口のついたプラチナのシガレット・ホルダーに煙草を嵌め込みながら物憂げに言った。彼女はVa,という音をことさら丁寧に発音する。そのため弓なりのくちびるがすこし緊張に、泣き出すような、なにかをせがむような感じでつぼまり、口紅で縁どられた内側の粘膜がちらりと覗けるのがひどくなまめかしい。
 海沿いのテラスは閑散を通り越して人気がなく、惜しみない静寂をくれたが、季節はずれに熱帯植物の鉢がいくつも並んでいるラウンジの、夏の間だけ爽やかな印象を与える青と白、それにカドミウムイエローの取り合わせは、春浅いこの時期にはさむざむとしており、厨房の食器やガラスを砕くように冷たい。
 カウンターには木綿のエプロンをつけた男が所在なげにラッキー・ストライクを吸い、空調の具合が悪いのか、煙はいつまでも男の周囲にわだかまっている。湘南にはよくいる年がら年じゅう日焼けした風貌で、脱色してごわごわした髪を襟足で束ねている。これほどこんがり焼けていると、男の目鼻が整っているのかどうかは問題ではなく、彼を見る女は、いかにも精力的になめらかな褐色、丈夫で明朗な皮膚にのぼせあがるのだろうと思われる。男は皮膚の上にもう一枚、精悍な夏を身につけているようだ。それはいかにも筋肉質の彼に似合っていた。
 男の前には常連らしい娘が尻を突き出すようにスツールに坐り、だらしなく膝を組んでいた。男が灰皿に煙草を置くと、彼女は狎れた手つきでとりあげ、自分の口にくわえるが、見せ付けるような馴れ合いのジェスチュアは、きっと窓際の女たちへのひりつくような好奇心と警戒心のためだ。
 朱鷺と冴は場違いな感じで座っていた。海辺のラウンジはマリンスポーツを楽しむ若者たちがエネルギー補給するためのとまり木で、インテリアと呼べるほどの装飾もなく、傷だらけの床板や、白いペンキ塗りの椅子などすべて急ごしらえの感じがする。しかし、何が足らずとも、店は大きく海を抱いていた。客たちは、簡素な店内に目を向けることなどなく、ただうっとりと、青く輝く大海原に見惚れてしまうに違いない。
 その海を借景にして差し向かいに座る朱鷺と冴は、常連の娘にとっては、何か自分の居心地の良い日常への侵犯者に感じられる。ライフ・スーツから水滴をしたたらせて、あわただしくピラフやスパゲティをかきこんでゆく普段の青年たちとは違う空気を娘は感じ、いらだたしげに髪をいじる。
 気になってならないが、露骨に視線を向けるのは気恥ずかしく口惜しいので、娘は肩をいからせて男の吸いさしをフィルター近くまで吸ってしまう。そうして、アイス・ティーのグラスに後ろを映して、見たくもないがつい覗く、見まいとする抑圧のために、より臆病で執拗になったまなざしを注ぎ続ける。
 冴は、マンディアルグのヒロインのように頑丈なレザージャケットを肩にひっかけ、その下はレースのコンビネゾン一枚だ。銀灰色の繊細な唐草が肉体の起伏をなぞってはびこり、その花輪は、冴の両乳首の周囲で頽廃的に開いていた。
「どうしてあんな風に泣けるの」
 冴は煙草に火を点け、うっとりと吸い込んだ。彼女の先細りの手は、しっかりとした肩幅とは対照的に華奢で、磨き上げた爪はコンビネゾンと同じ銀色。真っ赤なルージュがただ一色、彼女の攻撃的な洗練をひきたてて光っている。
「本当にかなしいから。わざと涙を流すのではなく、わたしはむしろ泣きたくないんだけれども、物語のなかに入ってしまったら、もうそれっきり」
 冴は、どうしてあんなふうに笑えるの? とは尋ねないのだった。これほど美しい彼女にしても、寛容のメモリは高いとはいえない。が、その酷薄ゆえに彼女に注がれる周囲のリビドーの嵩が増すということを、冴はよく承知していた。吝嗇のほうが金はたまる。
「なりきってしまうわけね」
 と乾いた声で冴はつぶやいた。サングラスをかけた彼女の表情がつかみにくいので、朱鷺は不安になる。不安になると、朱鷺は自分の手を見る癖があった。冴とは逆に、朱鷺の手は、身体つきのかぼそさの割にはしっかりしている。爪もまるい。薄く華奢な薔薇色の爪は、マニキュアなしでも幼児のようにほのかな光沢がある。静脈の透けるてのひらは、ふっくらとして落ち着きはらっていた。だが左手首には、うっすらと剃刀の傷痕がある。このリストカッティングは蘭と出会う以前のものだ。いつだったかもう忘れた。傷つきながらも落ち着いた手。自分の肉体の一部が、自分自身の心をなだめてくれることはある。
鏡に映る自分の姿がうつくしければ、不協和音のひしめく現世を生きるためには、もうそれだけでかなりな果報にちがいない。もっとも、その果実をどのように味わうか、は当人の謙虚とかしこさに比例する。せっかく神のあたえたもうた果実を、だいなしにしてしまう逸脱は、世にまたなんと数知れぬことだろう。みづからの手首に押し付ける金属刃の愚かなヴァリエーションなど綴りだしたらきりがなかった。
「スケジュール、どう?」
 冴は売れっ子になりかけている。セクシャリテを逆手にとったパルファムのポスターはヒットして、街のそこかしこのウインドーで彼女の顔が冷たく笑っている。いや、睨みつけている。そして、カルメンはなぜか男の子が買う。それもガールフレンドへのプレゼントとしてではなく、自分がつけるものとして買っていくということだった。
 冴の声はとげとげしく続く。
「写真集が五月に出て、それからコマーシャル、CD―ROM バラエティーショーの出演依頼、ドラマに出ないか、とも」
 次第に朱鷺はこの場の息苦しさに滅入ってくる。まるで別れ話を切り出そうとして逡巡するカップルのようにぎくしゃくしていると朱鷺はレモネードの氷をかきまわす。溶けかけた氷が爽やかさとは無縁の水っぽい音で崩れる。冴はわざと乱暴に言葉を放り出す。青く冷たいラウンジに、冴の台詞は感情の末端からほつれ出た糸屑のように散らばり、その散乱をウェイターが職業的な無関心さで掻き集め、からのグラスといっしょにアルミの盆に載せて運び去ってゆく。そうして、朱鷺は何ひとつ冴の言葉を聞き取ることができなかった。
「メンズのショーだけれどマヌカンが着るの」
 冴は唇をひきしめて笑う。傲慢な笑いだ。新しい世界、新しい食卓で彼女はほしいままに美味を喰らっているのだろう。憧憬はもとより、賛辞、阿諛、秋波、上昇してゆく者への周囲の嫉妬も彼女の美貌を調味するだいじな香辛料だ。冴の視線は、今朱鷺を見ていない。この笑いが朱鷺には歯が立たない、ということも冴は本能的にわかっているからだ。
 だが、いたぶりたがっている。無関心ではいられないからいじめたがる。朱鷺の感受性に、冴の情緒は錆びた画秒のように突き刺さる。
(未熟な愛情表現)
 朱鷺は自分に言い聞かせる。愛情、と表現、のはざまに希望的観測の海風が吹き抜ける。何も期待しなければ恋は甘い、と蘭ならば皮肉るだろう。
 ガラス越しに太陽は固い円形に輝き、放射される光線が鋭角に海面を貫いている。愛の言葉の代りに相手をいじめてしまうひとがいる。自虐を伴う可虐は、不完全燃焼の炎のようにいやな臭いだ。
 海は青く、春の気配にやんわりと水平線を暈すなかに、ウィンドサーフィンの帆が、海岸で羽化した羽虫のように、いくつもいくつもひらめいている。その光景は、彼女たちの時間が綯い合わされた初めの季節をありありと思い出させたが、朱鷺は自分の身内を貫いてゆく感情の色合いがわからなかった。
 冴が怪我をした鴎のように感じられる。隅々まで念入りに磨き上げた姿とは裏腹に、彼女の額は乾き、こめかみや顎の皮膚のくすんだすさびは、薄化粧では隠せなかった。
 朱鷺の瞳が次第に曇ってくるのを見澄ました冴は、ディートリッヒのようにシガレットを斜にくわえるが、すべての仕草が撮影のコムポジションに決まってしまうのは、かえって彼女の存在を空虚に感じさせた。ロマネスクなポーズに精神がついてゆかない虚しさ。
 等身大のポスターと対峙しているような違和感を味わい、朱鷺はなんとかそれを払いのけようとするのだが、自分の心もまた稀薄にここから逸れだしてゆくのをとめられない。適度のデペルゾナシオンは、自己防衛に欠かせない。精神を象る言葉は自尊心の変形。朱鷺は詩句のような響きを持つ単語を口のなかでころがして自分を守る。
 目の前の冴が平面的に美しければ美しいほど、この場の情緒は遠近感を欠いて浮遊してしまうのだった。
 呼応するかのように、ウエイターがそそくさと片付けてしまった丸テーブルの光景は、出て行けよがしにうつろになった。なぜか紙のコースターを一枚だけ彼は残してゆき、グラスから滲み出た水滴がかたちを残してテーブルの木目に拡がり始めている。日曜大工であらっぽく打ちつけたような橡のテーブルだ。水滴の溶け出した円形が、降り注ぐ陽射しにゆっくりと輪郭から干上がってゆくのを、朱鷺と冴はしばらく黙って見つめた。ここの次に始めることはわかっている。

 レスボスの女はセンスがない。
 知っているの?
 俺は十代から芸人で、おまえなぞ想像もつかない社会の闇を見てきたんだ。
 センスがないなんて。
 つまり社会的な美度がないのさ。彼女たちはマージナルだから、おのずと身なりもそれにふさわしいものになる。自分たちははみだしている、とアピールせずにはいられない。サブリミナルにだろうがね。よくこんな衣装を売っているな、というしろものを着ている。
 じゃあ…冴は俗に言うレズじゃないのね。
 そうだ。
 あたしは。
 おまえは変わっているところなどどこにもないじゃないか。マージナルというのは社会に表だって楯突くことだが。
 冴を好きだ、ということと同性しか愛せない、というのは違うのね。
 ディートリッヒの言葉は的を射ている。男女の別は無関係、魅力的な相手を選ぶというのはね。リビドーの強さが問題なんだよ。同性を愛せる、というのは自分のなかに異性のまなざしが持てるからだ。あるいは…
 そこで蘭はすこし言葉を区切り、
 男性のまなざし、というのは女を人格から切り放して快楽と繁殖の対象としてのみあつかう、という残酷もある。物化だ。精神性など求めない。だが俺たちをなじるな。繁殖のために感情の黙殺はいくばく必須な手順なんだ。同性愛は繁殖を求めない。だから、もっともらしくこじつけるなら、快楽と精神の自然な調和ともいえる。
 自然? 生殖とは無縁なのに?
 インモラルもナチュレルの一部だ。世界はひろい。
 蘭は小鼻をひくつかせてお茶を濁す合図をした。朱鷺は対話をやめようとしたが、そこからさらに蘭は付け加えた。
 女は業が深いからな。自分のなかに異性のまなざしを持てるというのは、ある意味で自分自身の救済なんだ。わかるだろ、でなかったら、競争心しかない、もしくは優越と劣等のかけひきだけさ。

 冴の皮膚はブロンズのような匂いがした。
 三ヶ月もの間、お互いに連絡を取り合おうとしなかった依怙地を双方で恨んでいたが、朱鷺も冴も自尊心からそれを責めることができない。冴は自尊心を優越感にすりかえようとしていたし、朱鷺は現実逃避と紙一重の内向性によって自分のホメオスタシスを守る。けれども、いつもと同じように膚を合わせてしまうと、肉体は心よりはるかにのびやかに走り始める。
 解放は突風のようにやってくる。かたくなや傲慢を追い越し、なぎ倒し、もつれさせ、ふたりをたかみに押し上げる。初めのあって終わりのない快楽。内側を凌ぎあわない愛撫のもどかしさが、幾重にも幾重にもふりつもって空虚を満たし、違和は弛緩してゆく。
 朱鷺は両腕を冴の背中にまわした。冴が朱鷺を犯すような姿で腿が密着しているが、貫きの終止符は打たれないまま、ただ貝合わせの脈拍が、いつまでも愛のリズムを紡いで蠢いている。主導権をとりたい冴は、もどかしげに冴の肩をつかみ、シーツに押し付けるように上半身に体重をかける。この子を圧倒したい、と。
 ああ、と冴のこめかみに汗が粒となって滲む。勝手に動くのがわかるわ。
 ひとりでにしゃべるの。
 朱鷺は膝をあげて冴の体を股の間にはさんで揺さぶった。しめったミュルミュレが恥骨の下でくすぐるようにたぐまり、冴はゆっくりと息を吐く。
「朱鷺の髪は柔らかいから痛くない」
 そして薄目をあけ、わたしのせいで怪我をしないの? と尋ねる。冴はやさしい。触れ合いが彼女をやさしくしている。
「潤っているから」
 朱鷺はそれでもそろそろと自分の指を重なった部分に忍び込ませる。冴の尖りも襞も、朱鷺のそれより倍は大きいので、朱鷺は自分の器を守るより先に、冴の敏感な部分をつまんでしまい、冴はまた身震いする。
 何度いったかしら
 冴は指をほしがり膝をしめる。朱鷺は目をつぶり、わからない、と応える。いつもてっぺんから始まるが、どれが頂上で、どれが極めなんてわからない、と。
「朱鷺と逢ったあと変になる」
 朱鷺は冴の痩せてしまった背骨を撫でる。肩甲骨が目立つほどではないが、背骨の隆起がいたましく、てのひらのなぞる華奢な触感は、まるで我と我が身を愛しているような錯覚をくれる。
 朱鷺としたあと、とても…。
 冴のつぶやきに朱鷺は目を開け、彼女の瞳を覗く。瞳孔がひらきかけ、痙攣すんぜんの潤いに光る。つかめそうな長い睫毛、と朱鷺の記憶に繰り返し刻みつけられた、誰かと誰かの面影が、充血した粘膜の縁をかすめて浮かび、すぐ消える。
 朱鷺はおずおずとした微笑を湛えて冴を見上げる。いつもながら、この輪郭の濃い彼女と膚を合わせることにちいさな躊躇いがある。
肉体をかたどる光と影の陰影は、冴のキャラクターのいたるところで目に快い鋭角を描いていた。なんてきれいなひとだろう。
 けれども、しなやかな首を曙いろに染めて恥らうのはなぜか冴のほうなのだった。冴の抜きがたい性的なコンプレックスが彼女を怯えさせ、朱鷺ほどには奔放になれない自身を恥じ入らせる。こうして、いっときにせよ満たされることは、自分の空虚をあからさまにされる、と冴は感じ始めている。そのためにクライマックスがにじりよると、冴は挑戦的に荒々しくなり、朱鷺をしめころしたいような顔つきになる。あたしを揺さぶらないで、と。
 冴は逃げ腰になるが、同時に攻撃せずにはいられない。朱鷺を押えて冴は離さない。手首がちぎれてしまう、と朱鷺が訴えると、冴はひどく嬉しそうに笑う。箍を逃れた冴は、朱鷺もまたこのラヴァンドにとろかされた幾刹那にひきずりこもうとがむしゃらに跳ね、自分と相手との均衡をなんとか保とうとする。
 朱鷺が決して狡い表情をしない、ということが冴のひそかな嫉みだ。

「あたし、樹に殺される」
「……」
「わかっているのでしょう」
「わかりたくない」
「なぜ朱鷺はあたしたちをゆるせるの」
「それは真実だから、それも」
「真実ってなに」
「樹といる冴はほんとうに生きていると感じられる。曖昧に、中途半端に、ではなく、ほんとうに生きていると」
「生きることを実感するのが真実?」
「今のわたしにとっては」
「かしこい前置きつき〈わたし〉ね」
「今の、が?」
「逃げ道を未来に作る。あなたの年齢にしては上出来」
「冴はいくつ?」
「十月になれば二十三歳」
「わたしはこの春で十九」
「それなら過不足ないわ。朱鷺にとっての真実って快楽主義と紙一重、いえそのもの?」
「そうじゃない。快楽は痕跡をとどめない。その場かぎりの快感は毎日繰り返される食事や排泄と同じで、あとを残さないものよ。それが悲哀でも歓喜でも、生きている時の流れにはっきりと刻みこまれるものが大切なんだとわたしは感じる」
「苦痛であっても?」
「愛するって、傷つけあうことでもある。愛することは痛みのよう。植物だって太陽の光をいくらかは痛みだと感じているのじゃないかしら。でなければ、どうしてあんなふうにすくすくと変化したり、成長したりできるかしら」
「朱鷺のように考えられたらセックスは素晴らしいわね。わたし、あなたと逢ったあとで、いつも樹とするの。快感は倍加して……そして苦痛も倍になる。いつまでわたしはこれに耐えられるだろう、と。わたしたちには出口がない」
「百年の孤独」
「文学で茶化さないで」
「出てゆかなければ永遠に楽園」
「その言い方、蘭さんそっくり」
 いらついた冴は朱鷺の乳首をつまんでかるくひねる。朱鷺は薄く笑った。冴の指から朱鷺のからだの芯に疾走してゆく青年の残像。冴の愛撫の手つきは朱鷺と樹を隔てないだろう。ここに嫉妬はない。だから朱鷺はぬけぬけと言った。
「鎮痛剤よ、引用は」
 そしてそのあとで、眉を寄せた冴に向かって、
「あなたが哀しむのはつらい。あなたに悲劇は似合わない。だから」
「だから」
「樹は冴を殺さない、殺させない」
 冴はシーツをからだに巻きつけ、顎の下に頬杖をついてつぶやいた。
「あたしたち、ちゃんとお互いの年を言い合ったのは、もしかして初めてよね」

 すやすやと寝息をたててしまった冴の額に、じっと息をころして唇をおしつけていると、夕闇の冷たさが背中からひそひそと押し寄せてきた。冴は朱鷺よりずっと大柄なのに、愛撫のあとでは朱鷺に包み込まれるように眠る。
背中をまるめたその姿は偶然だが蘭の寝相と同じだ。恋人たちの思いがけない相似は、朱鷺のこころにいくらか罪深さを呼び、長い猫のような姿の冴の向こうがわに、彼女を所有している青年への息苦しい実在も、愛撫の最中より、今のほうがはっきりとせりあがってくるのだった。
 樹の眠りは冴よりも深いだろう。朱鷺は冴の男性用オーデコロンに包まれた体温の向こうに、カルメンの誘惑を緋色に纏ったドン・ホセを眺める。そうだ、このようにして冴はずっと自分のうしろに竹内蘭を見つめているのに違いないという確信が湧き上がり、朱鷺は自分の鈍さに呆れる。わたしは蘭の半身。そして冴は樹の。
 わたしたちの快楽が頽廃しているというのなら、それはこの交わりそのものではなく、互いの向こうに、手に入らない異性のまぼろしを描きながら愛を紡ぐことにあるのだろう、と朱鷺は海にさしのぼる朧月夜を眺める。心の視野に月光と樹とは等距離で眺められる。
 ……男女の交わりだって変わらないよ、と薄紫の夕月が応える。春の月夜は朱鷺の味方をしてくれる。
 まったく純粋な愛情などないだろう。君たちはお相手を選ぶのに、その社会的な能力、容姿、財産を測る。どれもみな、肉体を結び合う部分とは無縁なものだ。愛し合うために君たちが分け合うものは、じっさいにはほんの一部に過ぎないが、そこに至りつくまでには、とてもわずらわしく、また杜撰な計算行為をする。肉体の背後に虚妄なまぼろしを貯めこんでから物語を始め、見晴らしのよい高みにいるはずが、なぜか骨と腐肉にまみれた墓場とぬかす皮肉はいくらでも聞く。それともあれは冗談なんだろうかね? 
 初め柔らかだった月はぺらぺらと喋りまくるうちに底意地の悪い口調になり、聴きづらくなった朱鷺は、月明かりに向かって、もういい、と呟いた。朱鷺の険しい顔色に、月は上目遣いに、ひそひそとまとめた。
 ……交わりに理非善悪などありはしない。偶然と必然は表裏一体の運命なのさ
 運命、という言葉は多用されると安っぽくなる。使用頻度に応じて、居丈高な言葉は情感の裏打ちを失い、ポスターカラーさながらあっけらかんとした原色に近づく。朱鷺は月から顔をそむけた。
(出口のために愛するわけじゃない)
 死がふたりを分かつまで、というささやきが誘惑のように聴こえた。誰の声だろう。朱鷺自身の声だとしたら、どこかに姉と弟の神話的結末を待っている気持ちがあるのかもしれない。それは個人にはコントロールできないサブリミナルな意識層からくるのに違いない。タブーを侵犯した者たちのたどる、かくあるべき筋書き。しかしキャラクターとして無意識の水面上に浮かび出た朱鷺の心は、殺戮など毛ほども望んでいないということも事実だった。ひとは常に両義的な存在だ。意識は無意識によって支えられ、同時に相反するベクトルで互いを牽制する。抑揚の結果、勝利をおさめるのはどちらだろう。どちらでもない平和なFiniがあるのなら、タブーにしても、ゆっくり燃えるのがいい。
 月のおもてに虹がゆるくかかり、長い絹雲には、まだうすらかにたそがれがとどまっている。藍色に暮れた上空を、ジェット機が天体の破片のようにストロボを赤くきらめかせながら横切って消える。海づらには月光の澪が、水にひたしたリボンのように愛撫の余韻を映してゆらゆらと漂う。
 煙草と酒の匂いが濃い冴の部屋には香りがない。朱鷺は今、何かの花の香が恋しかった。春のいきいきとした土の感触を伝える菜の花や、つぼすみれのつつましい香気を、今ここで嗅ぐことができたらと願った。

 君はこの季節にシャツ一枚でバイクに乗るのか、と竹内蘭はポットから珈琲を注ぎながら樹のはだけた胸をちらりと覗いた。
「インフルエンザが流行してたくさんひとが死んだ」
 樹はキリマンジャロの香りを肺いっぱい吸い込み、海岸どおりをつっぱしるうちに四肢の末端までしみついてしまった排気ガスを振り払おうとする。寒くはなかった。指先が震え、爪先がじんじんするのは寒気のせいではなく、濁った騒音と排気ガスのせいだ、と彼は思った。くちの中で砂がざらざらする。
「道路みがきはたのしいか」
 蘭は絹をはった寝椅子にゆったりと背中を預けると、寛いだ表情に皮肉な口調で青年を揶揄する。樹はじっとおしだまり、クリーム抜きの珈琲をすすったが、蘭の厭味は疲れ果てた彼にとり、カフェインの苦さと等質の快い刺激となった。蘭はちくちくと容赦のないあらさがしの眼で青年を眺めるが、木綿のシャツに洗いざらしのジーンズという樹は、そっけない身なりのなかに、どこか育ちのよさが感じられた。誇示とは無縁の優雅がちからの抜けた腕、自然に投げ出した膝のラインに澱みなく流れている。
 優雅さは学べない、それは天性のものだ、とニジンスキーは言ったが、と蘭は初めて間近に見るむき出しの樹に感嘆せずにはいられなかった。青年はよくよく見ると、荒い顔だちのなかに爽やかな幼さを残していた。浅黒い頬は乙女のようになめらかで、こわい髭がこめかみから顎を青く翳らせているが、それさえも早すぎる老成を自分ではにかんでいるような地肌の桜色を際立てずにはいない。
 なるほど、これなら冴の相手にもなろう、と蘭はロココの風の薔薇色のカップに鼻の先を入れ、乾いた粘膜を珈琲の湯気で労わったが、その仕草は葡萄酒のブーケを愉しむように気取っていた。
「冴が男と寝ました」
 ざらめを入れるかね、という蘭の言葉と同時に吐き出された樹の呻きに蘭は目を剥いた。
 暫く沈黙が落ちた。かたかたと季節感が窓枠を揺さぶる。どこかで猫の恋歌が始まるのをきっかけに、蘭は神経質に耳のうしろを掻きながら、
「何故わたしのところへ?」
 うつむいていた樹はぎりっと目を上げた。動かした骨格のきしみが聞こえるのではないかと思われるほど苦しげに頭を振り、
「あなたじゃないか、と思って」
 は、と蘭は手を打ち合わせて笑う。が、樹はこの男が少しも笑っていないことを見極めていた。薄笑いしているのは樹のほうだった。かわいた微笑が彼の激情から遊離して浮きあがり、ぴくぴくと片頬を震わせる。
「それは、嬉しい誤解だが、そんなことを君に言うのは失礼だな」
 蘭の額に刻まれた皺を、樹は秘められた手紙のように読む。苦渋と老齢が動かしがたい威厳となった男の貌を、樹はぶあつい手紙の束か、重厚な装丁の書物のように凝視する。この男の欠点を見たい、と青年は憎む。ぬけぬけしたギャラントの仮面を引き剥がし、内側の卑屈を掴みだしたい、という憎悪が彼を昂ぶらせ、全身に殺気をみなぎらせてたちあがり、隠し持った白刃をジーンズから抜き出す。
 鋼のひややかなエッジが暖かく彩られたサロンの真ん中で喘ぐように輝く。握りしめた手から、憎悪はなめらかにクーパーのきっさきへ満ちて行き、苦い寝取られ男を凶暴な征服感で満たす。蘭は珈琲カップを手にしたまましなやかに身体をひねり、ほのぼのとたちのぼる湯気に斜に構えた貌を隠すように、樹をうかがう。その瞳がすうっと細くなり、一条の白い線になる。蛇の眼だ。樹は脅え、恐怖は必然的な殺意となって、青年はナイフを腰にひきつけて体重を預け、飛んだ。
 一閃をかわしたあとの蘭の身ごなしは凄まじかった。自然な攻撃欲求に憑かれた樹の虚空をきった肘の関節を、蘭は文鎮で殴りつけ、痺れと痛みで思わず樹が取り落としたクーパーを後ろへ蹴りとばした。
 ふざけるな。
 蘭の怒鳴り声はそのとき初めて発せられた。樹は逆上して殴りかかる。けれど、放心している朱鷺の毅然とした優雅とはうってかわって、憤怒に我を忘れた青年は隙だらけで、振りあげた拳はまたしてもむなしく円卓にぶちあたり、かるがると身をかわした蘭は、狙い定めて青年の膝を蹴りあげた。原色の苦痛が樹の全身を揺るがし、彼はなす術なく膝をついてしまう…。

 薄闇は刻一刻とヴァルールを深め、なだらかな暗さが慰安のように冴の眠りを抱きとめていた。朱鷺はするりとおきあがり、音をたてずにベッドから降りる。朱鷺をとおして自分とのしのぎ合いに疲れた冴のぐったりと放心した喉から洩れる寝息は、弱々しい夜のささやきのようだった。
 朱鷺はしばらく冴をみつめた。もう離れようか。お互いの影が深くならないうちに、さらりと別れようか、と。同性愛は往々にして気晴らし、レクリエーションになってしまう。慰安、退屈しのぎ、それでも差し支えはないが、朱鷺は頽廃した冴を見たくはなかった。芸能界の水にうまく狎れてしまえば彼女の行く先は見えている。世間的には成功だろうし、奢侈には事欠かない。
(でもわたしの好きなこのひとじゃない)
 朱鷺は痛みの感情なく、自分にささやいた。
 それにしても、かたちにはそれに応じた影が映るように、人間同士も生まれ持った器に相応の影を曳きながら人生を歩むのは自然の理とはいいながら、やはり不思議なことだ。   
 緑には赤が映り、黄色は青紫に翳る、という生理現象は、一瞬にして人間模様を解き明かすアフォリズムにもなる。
(冴、あたしたちはいつまでいっしょにいられるかしら)
 死がふたりを分かつまで。
 それはさっき聴こえた声とは違ったニュアンスだった。自分と冴とのことではない、と朱鷺は思う。たぶん…まひるのランチのあいまに、朱鷺と冴との間をかろやかに吹き抜けていった希望的観測の海風かもしれない。
 冴のような娘を、周囲はいかなる意味でも放ってはおかない。手に入るべきものは入り、縁のないものは、どれほどあがいても得られない、と蘭は言う。
 樹のための言葉ではないか、と朱鷺は目を伏せた。星屑がきらめきこぼれて、月はもうここからは見えなかった。海面に滲むあさみどりのルフレが、ひっそりと月の居場所を教えてくれたが、朱鷺はうなずいたまま、帆の白い影になって姿を消した。

「君はもっとかしこいと思っていたが」
「かしこくなんかありませんよ」
「まだわたしを殺したいか」
「いいえ。俺はあなたじゃないなんてわかっていたんだ。でも冴はあなたを好きだ。ただそれだけです」
「いい迷惑だ」
「冴は俺から離れていこうとしている。だけど俺はあいつを殺せない」
「だから代わりに?」
「殺すなら自分を殺せ。だいいち、冴はほんとうに君を裏切ったのかね。嘘をついたのかもしれないよ」
「まさか!」
「樹、愛のかたちはさまざまで、本人にもわからないことがある…すごい月夜だな」

 爆音が砂ぼこりを巻いてふくれあがり、沈丁花の香りを追い散らした。
「なぜ」
 樹はヘルメットのまま叫んだ。
「あなたとはうまい偶然で会うんだろう」
 朱鷺は岬に輝く我が家の明かりと、坂道を走り下りてきた樹とをかわるがわる見た。
「それ蘭さんのオーヴァーコート」
「借りたんだ」
 何をしたの、と朱鷺の視線が問い糾すのに、樹はヘルメットに表情を隠したまま、聴き取りにくい声で、
「蹴られて、肉を焼いてきた」
 エンジンが不平がましく唸り続け、何かせかされるような気持ちで樹はハンドルを握りしめ、まだひりつく鼻を啜った。
「喧嘩したの?」
 朱鷺の眼がまるくなると、樹は口をへの字に結んでかぶりを振った。ともすればこぼれる自嘲を相手に見せまいと、唇をひきしめる。
「かなわなかったけれど」
「どうして」
 どうして? 樹はどうしてだか思い出せなかった。結局俺はあのひとに会いたいから、あの人に殴られたいから、わざわざナイフを忍ばせて小田原から出てきたんじゃないか、と思った。
「俺は竹内さんが嫌いだ」
 朱鷺は樹を咎めるようにその手に触れた。手袋をしていない青年の手は冷たい。朱鷺がそれとは知らずに手の甲の傷に触れると、樹は息を詰めて痛みに耐える。その気配を察して、
「蘭さんに?」
 彼女の声には同情がなかった。その方がいい、と樹は顔を背けて苦く笑う。
「俺に触った」
 相手がきょとんとするので、樹はこれですこしばかり蘭に仕返しできると思う。それにしては姑息なやりかただが、朱鷺を今ここで強姦する気にはなれなかった。
(かまやしないんだけどさ)
 樹はついさっきまで厨房で肉を焼き、それを上機嫌で平らげる蘭の給仕をさせられていたのだった。なんていやな爺だと心中で罵りながら、力の劣る相手を傷つけずに屈服させた蘭の手練れは、樹を敗北感よりは感動で満たし、従順に洗練されたギャルソンを勤めずにはいられず、そうなると罵声は求愛にも似て甘美だった。
 できそこないのがきにしちゃ、焼きかたはいい、ポタージュがだめだ、と遠慮なく毒舌を散らしながら葡萄酒を傾ける蘭を、樹は抱きしめたい、とさえ思った。抱きしめて絞め殺したい。が、樹のような若者にとっては、それこそが親愛というものだった。
 青年は月光にぼんやりと浮かぶ朱鷺の首を測る。春らしく薄いスカーフのなかにほのかに透ける首はいかにも柔らかく、片手でたやすく握れそうだった。まだだ、と樹はつぶやいたが、その自制は優しさからではない。
「あなたが俺に触れたのは、今が初めてだ」
 朱鷺は驚いてしまうが、そう言われてそそくさと手をひっこめるのはきまりわるく、かといっていかにも特別な瞬間であるかのように重ねたままでいるのも心地が悪い。朱鷺のぬくもりを樹は腹いせのように味わうが、彼女の手はきっと冴を撫でたものだ、とふいに気づく。
 このひとはどうやって冴を愛するんだろうと彼はとっさに朱鷺の指を鷲づかみにする。
「あなたの眼の前で、いつだったか彼女の指を舐めた」
 そして、その指を貌に近づけると、脅えたような表情がありありと朱鷺の顔に浮かぶので、はっとする。桜の開花も近い夜気は、じっとしているとなまぬるく、樹の手のなかにつぼんだ指先から、このなまめいた夜風の中に、かすかに、けれど隠しようもなくたちのぼる惑わしがあった。
 樹はものも言わず、朱鷺の指をくちに入れた。やめてよ、と朱鷺は身をひいたが、男の力はまともに抗って勝てるものではない。熱い舌は無遠慮に朱鷺の指から冴の残り香を奪い去り、朱鷺は眩暈をこらえる。思いがけない粘膜の感触は、まだ火照った皮膚に強すぎる刺激だった。
「汚した」
 樹の呟きは、自由になった指たちより、奥深い部分をせつなく看破していた。
 いやなやつ、と朱鷺は両手を後ろに隠したが、樹の目を見ることはもうできなかった。

海の器 vol8 ETUDE

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   ETUDE

君の手に呼吸(いき)ひきしぼる
  ETUDEを奏でむと海は天鵞絨となる


 めまいがするようなショッキング・ピンクのタイツを手品のような仕草で太腿から引き剥がすと、真っ赤なラバーのタイトスカートを腹の上にたくしあげ、女はスプリングのついたベッドにはずみをつけて倒れた。何してるのはやくしてヤクがきれちゃうじゃないRMは即効性だから、と句読点のないひきつったソプラノで急かされ、樹はこの女が何を言っているのかさっぱり聞き取れないが、ぱくりと口を開けた女の本性が、薄暗いローズマダーに渦巻いている奇怪に目を奪われる。
 存在の原点でべったりと舌なめずりしている肉はなまなましい貝紫に光りながら、流行りの「絶対落ちない長保ちルージュ」で実物よりもぼったりとふくらませた唇、ひっきりなしに喋り続け、混雑時の券売機のように腰をつかうたびにしゃくりあげ、かわりばえのしない快がり声を吐き出す加工品よりも確かな感触で樹の衝迫を鎮めてくれる。
(なんだっていいんだ…エイリアンみたいな化け物でも…目をつぶって…)
 くらやみの中でオレンジとブルー、マゼンタとヴィリジアンが炸裂し、蒼白い火花が神経線維をぴりぴりと焼く。ドラッグとアルコールがパンクに弾け、いいかげん昔のツイストが内臓をぶちのめす爆音でケツを振りながら樹の背骨を駆けめぐる。
(ノイズ、ノイズだ。女なら何だって。女でなくたって)
 女のぺたぺたしたラバースーツが樹の腹に触れるたび、視覚のけばけばしさよりはるかに知的なその冷たい触角に、樹のリビドーは減殺されるのだが、アクメに乗りかかった女は、強引に樹のむっちりした太腿を乗せ、シーソーのように腰を揺さぶった。揺さぶられるたび、樹はこのあつかましい女に絞め殺されるのではないかと脅え、脅えは瞬時に激怒となって、ドラッグ漬けのくされまんこをぶっつぶしてやると絶叫しながら、挑みかからずにはいられなかった。
 体の右と左が互い違いに突っ走る幻覚と、鉄の扉いちまい隔てて大音響でがなりたてるノイズの響き。RMだかVX(顔中にピアスした黒人のバーテンはにやにや笑いながら樹の掌に錠剤を握らせ、その執拗に手の窪をおしつけるジェスチュアは、俺はおまえのケツが好きだとアピールしていた)だか、もう忘れてしまったヤクが、覚醒と墜落の螺旋を描いて青年をずるずると引き裂く。
 樹は抱いているのがパーティの会場にずらっとひしめいていたキチン質のダッチワイフなのか、ドライ・マティーニをおかわりする間に経口避妊薬と蛍光ピンクのセックス・ドラッグをこれ見よがしにくらっていた若い娘なのかわからなくなっていたが、ラリって顔じゅうマスカラだらけの女だろうと、マゼンタの電動クチビルを絶え間なく壁で蠢かしていた人形だろうと、まったく差はない、とはドラッグフィズが胃の中でつぎつぎと爆発する刺激に脳が沸騰しているわりには、まともな感想だった。
 じょうず……と女はアクセントをひっくりかえしていななき、樹の背中を尖った爪でひっかく。なまぬるい女の膣を味わっているのは右半分の彼だけで、左の半身、波打つ心臓をきりきり舞させ、慣れない酔とドラッグの爆撃に耐えている健気な彼のほうは、無味乾燥に伸縮を繰り返すゴム人形の性器しか与えられていないのだった。
 不公平じゃないか!
 左半分の樹は叫ぶ。
……人生は不公平なもんさ。
 サフランオレンジの幻影がカプセルベッドの脇から樹木に囁きかける。
……クリームとショコラが地平線までずらっと並んでいると思ったのか?
 俺が何をした。
 樹は自己弁護の惨めさにうちひしがれながら叫ぶ。俺はあいつを愛してた。誰よりも彼女だけを。なのに裏切った。
……殺せ。
 サフランの幻影がのっぺりと崩れだし、目の醒めるようなグラン・ブルーが輝いて迫る。
 いやだ、と樹は首を振るが、燃えるブルーは不退転の青紫に凝縮し、月経の腐敗と精液の野卑に痙攣しながら、青年の五感をなぎ倒す。
……あの雌犬を。
 そうだ、と思う存分なまみの女を楽しんでいる右半身が同調する。女はあいつひとりじゃないぜ、ほら。
 見渡せば部屋じゅうに大股開きの女たちが薄笑いして樹を待っている。つぎはあたしね、まだベッドでつがったままの樹に媚びる。ジジがただでドラッグをくれるなんてあんた運がいいわ気に入られたのよそれすごく持続するんだってさ見てよこの娘もう気絶してるねえ次はあたしよわああおおおきいいい。
 放せ、とむらがる女どもから身をよじって立ち上がり、イソギンチャクめいてからみつく無数の指をふりきろうとあがく。
 あああおおおと判別できないたるんだ母音が、溶け出した視覚に女たちの肌色を歪め、腐ったデミグラソースの坩堝となって樹に追いすがる。びりびりと骨を揺るがす大音響の受け皿に山盛りされた女どもの喚き。そこに間歇的に投げ込まれる鋭い子音が、自分の喉から絞りだされるのか、アクメのてっぺんから突然蹴落とされた娘の怒鳴り声なのか、いずれにせよ切羽詰まった叫びは、だらしなくしなだれかかる長音の渦、ふてぶてしく食欲旺盛な母音、女なる音どもに呑みこまれ、錆びつき、粉々に散ってしまう。
 よろめきながら鉄の扉に激突し、絶望と欲望に蹴り飛ばされ、痛覚の麻痺した頭蓋骨、自分自身の頭蓋骨を、冷ややかに右半身の樹が持ち上げ、コンクリートの床に叩きつけた。

鼻の奥が爛れて、ひっきりなしに粘液が喉をくすぐり、痒みのような涙が落ちる。感情をともなわない涙は消毒薬の味がした。
 腹の上にだらんと垂れた肉塊がぶらぶら揺れ、その凋落と不摂生の象徴のようなたるみの不随意運動は、無我夢中で男をむさぼる女の体の一部とは思えない悲哀に満ちている。
(それで俺は泣くのか)
 だが、麻薬のために充血した粘膜の過剰反応だと思うよりは、ましな気がする。女々しいが、まだましな気がする。
 いったいこの女が何歳なのか、毛脚の長い絨毯をしきつめた部屋は薄暗く、針金の束のような蒼白いチューブライトが天井付近に申し訳程度の光をばら撒いており、そのため化粧とコスチュームでつくろった女の首から上だけ、全身の皮膚のゆるさとは裏腹に若く見える。
 樹の左右上下、絡みあう肉の呻きで満ち満ちている。いつしか轟音は消え、なまぬるい香料が聴覚にかわって嗅覚を刺激しはじめ、それと同時に乱交が始まった。
 なんていやな匂いだ、と樹は頭蓋骨の半分を砕かれた記憶を反芻する。自分で自分の脳味噌をひきずりだした実感は執拗なもので、とろんとした間抜けな豆腐みたいな固形物が指にこびりついたのさえおぼえている。
(いやな匂いだ。腐った酒みたいだ)
「性フェロモンのエッセンスに麻薬を混ぜたのよ。ウーの発明品」
 喘ぎながら女が唸る。口に出したつもりはないのに、声は樹の喉から飛び出てしまったらしい。
(そうだよな、左が壊れているんだ)
 くく、と女は紫いろの唇をゆがめた。
「あなたのことジジとウーが奪い合って…でも得をしたのはあたしね。ふたりとも両刀使いだから。結局ウーの女をジジが姦ってるし、ウーは…」
 女はべろりと舌を出し、樹の乳首を舐め、ほら、と尖った顎をしゃくる。その険のある輪郭に見覚えがあったが、砕かれた脳の激痛に記憶は圧し潰される。
 なげやりな視線を女の示す方角に流すと、サイケデリックな黄色とピンクが交錯する壁際で、黒い男が立ったまま白い女を犯していた。ジジは女の痩せた足首を持ちあげ、とても正確に何かのリズムを刻みながら腰を使う。
二人のファックは、ラスベガスのダンス・ショーのように派手だ。女の性器はつるつるに剃りあげられているので、はみだしたラビアの充血がまがまがしく男のものにからんでいるのがわかる。抜き差しするたび襞はめくれあがり、出血しているのではないか、と思われるような鮮烈な内側の色がてらてらと覗けるのだった。
 男の膝元で、目の吊りあがったスキン・ヘッドが胡坐をかき、長い煙管を銜え、もうもうと煙を吐きながら、じっと樹を見つめていた。淫欲に漬かった瞳が麻薬のあわいにちらつく。土気いろの顔のなかで、ウーの唇だけが紅玉いろに光っている。
「ウーはあなたにお熱なの? いいなあ、そしたら吸いほうだい」
 女は機械的に腰を使うのに疲れ、バイクから降りるように非情緒的な仕草で腰をひねった。まだ元気ね、これだからやめられない。
 女は指で樹の茎をしごき始め、くるりと向きを変えると、便器にまたがるように樹の顔に被さり、腿で青年の顔を挟みこむ。
 幻覚に喰いあらされたラビアは、蝸牛の死骸さながら暗色にしたたる。女のなかから分泌された夜露のような白濁が毛際にこびりついている。この女の生理が近い、と冴との営みで蓄えられた知識が教え、ようやく出血がおさまりかけた傷口を暴くような苦痛をもたらし、樹は懸命に、眼の前にたちふさがる女の肉に意識を引き戻そうとする。
 視界いっぱいに下腹部の脂肪。さらにその彼方にはみずみずしさを失いつつある乳房が攻撃的なWののかたちに揺れていた。攻撃的で狡猾なW。ラビアもWだな、と樹は左右の大きさがひどく違うべろをつまむと、大きいほうの内側には、ひややかなダイヤがいくつも埋めこまれていた。ふ、と女の笑い声が止んで樹は呑みこまれた。
 無機質な快感が膝頭からにじりよる。潤いのない快楽の微粒子がダニのように樹に喰らいついて離れない。なんで俺はここにいるんだろう、と青年はぼんやり考えたが、年増女の超舌技巧に思考は吸われ、ざらざら、ぞろぞろと数知れぬ蛭とダニが皮膚を喰い破りながら、彼を奈落へと引き込んでゆく。
 舐めるのよ。
 女の声は威圧的だった。樹は無感動に氷の煌きをくちびるに挟んだ。蛆の輝きってやつだぜ。青年は自分の味蕾にささくれる石の粒を、舌を動かして数えた。数えるたび女は息を弾ませケツを振る。
 きれいでしょう、と女は肉の厚い上半身を折り曲げ樹を見下ろした。ねじれた脂肪に雑巾のような皺が寄る。隠れたところに凝るのがあたしのポリシー。女の含み声が饐えたトリュフの臭いで吹きかかる。
 まんこの汚さが目立つだけさ。
 が、罵倒は樹の喉にしがみつき、酸っぱい胃液と乳繰り合うのに忙しい。痰と麻薬が腕組みし、樹の肺で爪研ぎしている。
 脱肛し、内側がめくれ出たケツの穴が剛毛の襟飾りをつけて威張っている。アナルセックスが好きなんだ。ふざけやがって。 
 ふいに麻痺していた感情が噴き上げる。殺せ、雌犬を。
 女は呻いた。
 焦らさないでよ。
「海老だ。どろどろの」
 できそこないのシュリンプカクテル。
 樹は深呼吸し、ウーの水煙管から洩れた阿片とアロマセックスの臭気を肺まで吸い込み、怒りと嫌悪に満ち、拒否と復讐に煮えた叫びを女のどぶに吐きかけ、逆流する汚物にむせびながら、虚栄の襞を噛みちぎった。

 竹内蘭は弟子たちに親切ではない。
 というよりも、蘭は弟子たちが期待し、予想するような教えかたをしない男だった。朱鷺と暮らすようになってから、またそれ以前から蘭の周囲には次から次へとさまざまな若者たちが集まり、それぞれの思惑を抱いて、教えを乞い、共演を願った。
 蘭は彼らを拒むことは殆どなかった。彼の表情をつかみにくい薄笑いが、ある瞬間には皮肉に、また別なときには優しさに満ちて見えるように、接する者の心情しだいで、彼はいかようにも姿と手段を変え。それぞれに異なった面を見せることができた。
 が、この人物のそうした洗練の意味を何人の弟子が洞察することができたろうか? 彼の、誰に対しても一定の距離感を保ちながら、その隔たりをミザントロープと感じさせないそつのなさすぎる物腰は、彼の人生が練り上げたちゃんとした一つの様式とも言えた。柔らかい言葉遣いや繊細な気配りは、単なるお愛想などではなく、まして内面の冷淡をつくろうポーカーフェイスなどではないのだった。
「先生はつめたいから。優しげだけど」
 あるいは、
「口は悪いけれど、心は温かい」
 などという弟子たちの視線は、朱鷺にしてみれば外れていはしないが、的を射たものとは思えない。
 蘭は手取り足取りの指導はしないが、彼の簡潔な、また逆にときには飛躍して迷走する弁舌は、教科書的な教示よりもはるかに奥行きがあり、創造性に富んでいた。
 音楽を語るのに、音楽とはまったく無関係な比喩、色彩の美度をマンセル色彩学により数値で換算するなどは、色彩を好悪で選り分けたがる素朴な主観を離れられないひとびとにはほとんど受け入れられない明察だった。だが、この数理色彩学は建築学、また意外なことに資本主義の最先端ともいえる商品流通の重要な急所だ。なぜなら、色彩は感情を、乃至は欲望を直撃するから。多くのひとは自分の感情を最も大事にしたがる。だから自分の心を左右する色彩表現を、非情緒的な数字で計算されるのを嫌がるのだろう。色彩の美度を測るのは、なにもそのひとの感情の多寡や優劣を判断するのではない、というのに。
色彩学は物理であり、また現象学ともいえる。事態をありのままに見つめ、聴覚において澄んだ和音を調律するように、視覚で色と色とのはざまの快適な距離を見定める。美しく、人体の自然な生理に心地よい美度を見分けるまなざしは、訓練しさえすれば…器質的に不自由な場合を除き、すべてのひとに可能だった。
 だから、忍耐強く、同時に聴く耳を持ち、蘭の滔々と繰り広げられる長広舌(彼はたいへんなお喋りだった)の流れから、要所を拾いあげることのできる者には、単なる会話の楽しみ以上の新鮮と、さまざまな蘭の修得してきた芸術の奥義を獲得できるきっかけになった。
 しかしながら、彼の言葉のなかで最も重要な部分は、弟子たちのいずれにとっても少なからず耳痛く、それまで彼らが培ってきた民主主義的な平均律を根底から覆す厳粛と心構えを要求されるので、彼の人当たりのよい会話術に魅せられていた者はしり込みし、あてがはずれ、見捨てられた、とさえ感じる。
 蘭は、ある程度まで人格と芸を切り放して考えることができるので、集まる弟子が多少情緒的に危うい者であろうと、技芸の伝授において見放すことはなかった。しかし蘭はまた、相手の才能を見抜き、それ以上の要求をしない。まるで弟子の到達度を計る正確なスケールのようだった。彼の眼は、ほとんど狂いがなかった。ワガノワバレエ学校を創設したアグリッピナ・ワガノワ、そのあとを継いだ名教師たちのように、彼は才能と根性を秤にかけ、過不足のない態度をとる。
 だから、蘭の教えから背いて離れてしまった若者たちは、ほんとうのところ、彼の辛辣や気まぐれに嫌気がさしたのではなく、自分にとって未知数であるものを、彼に見抜かれている脅えに耐えられなかったのかもしれない、と朱鷺は思うのだった。
 知らないほうが幸福なことは人生にままある。可能性というよろこばしい期待の裏側には、断念と限定、不断の努力という厳しい裏打ちがあることを、蘭は容赦なく知らしめる男でもあった。
「天才なんて雲霞のごとくいる」
 ある朝、ラジオから流れる学生音楽コンクールのピアノ部門に耳を傾けながら、蘭は呟いた。
 ベートーベンのピアノソナタをドラマティックに奏きこなす少年少女たちに、朱鷺は人のよい驚きを隠せない。毎年毎年こんなにたくさんの才能が生まれるなんて…。
「齋藤先生のところにはたくさんいた。だが、何かができあがるというのは、もっと奇跡的なことだ。それこそすれすれのボーダーラインなのさ」
 蘭はふと口を噤み、肘掛け椅子にもたれかかったまま窓の外に視線を泳がせた。つぶらな春の光に、ふくらみかけた猫柳の柔毛がきらきらしている。白梅はもう咲ききって、木の間に見え隠れする海の反射に溶け、波の振幅のはざまに春の枝はほのぼのと泛びあがっていた。
 去っていった誰かのことを考えているのか、と朱鷺は思う。来る者は拒まぬ彼は、去りゆく者に対しても未練を残さないが。
「寂しい?」
「いや」
 蘭は文庫本を拡げかけた手をとめ、老眼鏡ごしに朱鷺を見上げた。
「暗いところで本を読んではいけないって、わたしには言うのに」
 こんな瞬間の台詞は、内面の悲哀を押し隠そうとする圧力のために、ついつい強い口調になってしまう。
「暗くはないさ。ほら、ここは鏡のルフレで明るい」
 窓の反対側に姿見があり、日光はそれにぶつかって、鉢植えの影にゆるやかな光の窪みをこしらえていた。蘭はその淡い陽だまりをこっそりと偸(ぬす)むように腕と膝をひたしている。光線が白っぽい蘭のズボンに跳ね返って彼の顔をつつましく照らし上げ、セピア色の陰影が蘭の疲労をおぼろにしていた。
 夢と現が交錯するこのひととき、と朱鷺は浮遊してゆく感覚の快さに身を任せる。
 この一枚の絵、緑の万年青の影に背をかがめ、手鏡のような照り返しに面をひたす男の姿は、レンブラントの、あるいはカラヴァッジオ、あるいはヴァン・ダイクの誰が描いても不思議ではなく、またきっと描いただろうと思われる。瞑想する光はくすんだ暖かさと諦念を湛えて、蘭という男の個性を消し去り、人生に疲れつつ人生と戦い続ける人間の運命を素描していた。
 どうした、と蘭がくちをひらいた。朱鷺が幻に踏み込んでいる瞬間を蘭は見逃さない。そうして、彼は、朱鷺の幻影を壊さないように彼女をこの世へひきもどすために、ふとさりげない調子で言った。
「ピアノを奏いてやろうか」
 
 人間でいるよりは楽器でいたい、と朱鷺は願ったし、それは今後も変わらないだろう。蘭のゆびにあやされて、いつまでもこまやかに高らかにうたっていられたら。
 音楽には偽りがない。蘭のピアノは言葉よりも精確に彼の内面を教えてくれた。自分もまたそうでありたい、と朱鷺は思う。
 贅肉のような饒舌、ひからびた沈黙の両極を行きつ戻りつするいやらしさからどうしたら逃れられるのか。伝えたい思い、語りたい言葉、訴えたい心はあふれるほどなのに、口をついて出る台詞はたいていくだらなく、ありふれて空転するばかりだ。
 たったひとつの台詞が言えないので、人間は神経的多弁に陥る、と蘭は独白のように呟く。
 指が戯れそよいで皮膚がひらき、潤って濃くなった体臭が、腋下のくぼみからさっと匂いたつ。女たちの生理は、月のめぐりのなかでこの匂いの濃淡をくきやかに変える。柑橘類の植物質から、悩ましい獣の性腺にまがうまで。しかし朱鷺は蘭に指摘されるまで、自分のこうした蠱惑に無知だった。
 色の淡い花のほうが濃い香りがするだろう、と蘭はからかうように朱鷺の瞳を覗く。が、彼は正視に長いこと耐えられないので、たとえ二人きりでも、すぐさま恥らうように視線を右に左に遊ばせ、はにかみやの自分をかえって露呈してしまうのだった。
 性欲が忌まわしいものだとは朱鷺には思えなかった。性の抑圧によって文化が構築されたにしても。それならば建築の姿はその時代の人間の欲望の陰画なのか。摩天楼の、エッフェル塔の、ピラミッドの、紫禁城の、サンタ・マリア・デル・フィオーレの欲望。
 ねえ、と朱鷺は弛緩して眠りかけた蘭に囁く。性欲っていろいろなの。プレファブやフルメタルのセックスもあるし、もしかしたらピエタのようなまじわりもあるわね。
 なんだ? と蘭は鼻に皺を寄せて寝返りを打った。俺の膝に足を乗せないでくれ、おまえは昔飼っていた犬にそっくりだ…。

「僕も先生みたいに奏けるようになる?」
 約束の時間より早く来る舵は、蘭のジュルナリエが終わるまで待たされる。その間、なだれるようなピアノが木の家に響いている。
 ヴィオリノを勧められたが、舵はチェロを選んだ。
「あんなきいきい鳴るのは嫌だ。チェロのほうが大きいし」
 狂喜した母親は、まだちいさい息子のために、蘭の意向も聞かぬさきに、八分の一サイズのチェロを買い与えた。
「いいだろう」と蘭は頷いた。「ピアティゴルスキーも七歳から始めたしな」
 そうしたいきさつで、舵はおもちゃのようなチェロを抱え、岬の家に通ってくる。この子はこの家が気に入ったらしく、稽古の時間よりかなり早くやってきて、台所や居間の隅でおとなしくしている。一度、舵がキーホルダー型のミニゲームをしていたら、たまたまそれを見つけた蘭は、ものも言わずにスリッパで張り倒した。
「そんなものをいじっていたら、大人になる前に近眼と乱視で楽譜なんぞ読めなくなる。そんな暇があったら勉強しろ」
 誰にもぶたれたことのない舵は、チーズのように黄色くなり、ぶるぶる震えていたが、翌日蘭の許に、母親から車海老が届いた。
「あのお袋さんはちょっと変わっているが」
 蘭は海老を茹でながら上機嫌だった。
「がきは見どころがある。泣きもしない」
 根性なしに芸ができるか、畜生め、と蘭は胡椒を振った。
「あの曲はなに」
「ショパン」
「前もショパンだった」
「この前のはスケルツォ。これは練習曲」
 練習曲でこんなに難しいの、と蘭は目をまるくする。
「ショパンは特別なの」
 朱鷺は言ったが、ヴェルナーの教本をめくった舵は、まだ譜面が読めないために、そこにびっしりと書き込まれている音符たちが、ことごとくきらびやかでめくるめく音の噴水を描いているのかと怖気づき、だまってしまう。

 ウーが潔癖症なのであんた助かったのよと娘は言い、なまぬるいオレンジエードをくれた。
「あすこはね、何をしてもかまわないんだけれど失禁プレイだけは御法度なの。あんたがゲロ吐いたのを婆ァが漏らしたんだと勘違いして激怒の極致…」
 漂白したような顔色の娘は、化粧を落とすとまったくの童顔で、これがラバー・スーツをぴたりと身に着け、ブラディ・マリーを舐めていた娼婦とはとうてい、どれほど創造力を働かしても思えない。
 がらんとしたキッチンに、光だけは豊富にあふれ、床から天井まで硬質ガラス張りで内庭は熱帯植物園になっている贅沢な住まいに、住人はこの娘ひとりのようだった。
 台所には食物の匂いも調理の暖かさもなかった。一見掃除はゆきとどいていたが、食器棚や飾り棚にはうっすらと埃が積もり、そこにきらきらしく並べられ、家主の趣味と財力を誇示する陶器やカットグラスは、顧みられない博物館の置物めいてよそよそしい。
 娘は膝上までの長い桃色のカットソーをかぶったきりで、素足のまま冷蔵庫と電子レンジを往復し、紙皿にピッツァを盛った。
「要らない」
 原色の不協和音はあらかた鎮まっていたが、皮膚はいやな具合に火照り、酸っぱいおくびが絶えず喉を痙攣させる。痛くない関節がないので痛みを識別できないほど、樹の体はちょっとした動作のたびにぎいぎいわめき、ベッドに戻れと抗議するのだった。
 娘は起伏のない顔を詰まらなそうに歪め、太陽が床を幾何学模様に区切っている一角にべったりと尻をついて、煙草とピッツァを交互に口にする。立膝した脚の奥に、ちらちらと覗く誘いはあったが、樹はぼんやりと壁面いっぱいにあふれる広葉樹の繁みに見とれていた。じっと見ているとその影は紫に染まり、娘のカットソーの桃色は燃えるような赤に、また濃い緑に輪郭を変えた。まだ色覚が変なんだ、と彼は思ったが、神経がまっとうではないという自覚が、このとき、とても大切な希望のように感じられた。
「面白かったなあ、あの婆ァ。股を抑えてころげまわって、ファックしている連中に蹴られて、またわめいて、泣いて。あたしあの女嫌いだったのよ。ウーは怒り狂って阿片の瓶で女を殴りつけ、ジジが止めに入ると、今度はジジに喰いつくし。こういうパフォーマンスって、年にいっぺんくらいしか見られないのよね」
 よく喋り、よく喰う娘は、喋っているうちにどんどん若返り、だるそうな低い声と、陽光にあたためられて血色がよくなった頬の薔薇いろとはなんとも不釣合いになってくる。
 おもしろいな、と樹は娘の声につられて投げやりな思考に誘われる。この子は最初二十歳で、やってるときは三十の年増、そして今じゃどんどんがきに戻ってる。ほら、チーズの涎を指で掬う仕草なんか、食い気たっぷりの中学生だ。
 だが、スリムシガレットをマニキュアの剥げ落ちかけた指に挟み、顎を斜めに持ち上げ、樹を値踏みする一瞬の間を置いて、そろそろと煙を吐き出すポーズは、男に狎れきった女そのものだった。
 娘は空になった皿を足の指で器用につまみあげ、踊るような片足飛びでキッチンを横切った。
「空けてよ、バケツ」
 娘はテーブルに頬杖をついている樹に命令した。いやなやつだな、と樹は思ったが、何とか立ちあがり、やけに清潔なダストシュートの蓋をとった。
 違う、これ。
 娘は自分の足元の青いバケツを指さす。それは足踏み式のごみ箱で、蓋の上には几帳面な字で「可燃物」と書かれたシールがきちっと貼ってあった。
「婆ァがうるさいんだ」
 娘の挙げたままの足がぴくぴくと震えていた。長くもなく、すらりともしていない。脱毛の毛穴がざらつき、寒気にさらされる素足の皮膚は繊維のように丈夫だ。膝小僧は荒れて乾き、それでも若く、充実した足が、小刻みに震えながら樹の能動を待っている。
 食い滓のこびりついた紙皿が、爪先に宙吊りにされてふらふら揺れる。
 婆ァって、きみのママのこと?
 が、樹は愚かしい同情を捨て去ることに決める。彼は身体中きしませて足をひきずり、娘の横に立ち、ばしん、とバケツのペダルを踏む。口を開ける深淵。うずたかく積まれた真っ赤なケチャップとチーズソース。紙コップに滴るゆきずりの男たちの精液。
 娘は目を閉じ、痴呆じみた表情でくちを開け、樹に揺さぶられている。高い頬骨の下にピンセットで並べたような赤いにきび。
 化粧を剥がれた娘の顔はとても若く、とても新鮮だった。すこしも美貌ではないが、全ての女が何にもまして渇望する掛け値なしの若さが、頽廃の影を駆逐する。
 樹はごわごわしたカットソーをめくりあげ乳房を掴み出した。感覚が下半身に煮詰まりながら、男はなお乳房に、乳首にすがらずにはいられない。子宮はずるく、貪婪だ。男が放つ数千、数万の精子を呑みこんで飽和することがない。奪い取り、無慈悲に吐き出す女。
 だが乳房は。
 抱擁、包容、育む蜜の酩酊。与えられなかった至福の幻想。破綻を知らない豊穣のまろやかさが、堕落のきわみで彼を慰める。乳房は彼を慰める。
 噛んで、いくから。
 娘は恥骨をはげしくこすりつけ、立ったままいった。中腰で貫き続けた樹は、射精と同時に膝の痛みにうちのめされ、娘を抱えたまましゃがみこむ。
 くちを放すと、乳暈に歯型が血の粒を散らしていた。
「ごめん、痛い?」
「いいよ、すごくよかったから」
 樹が途方に暮れたように乳房の歯型を拭うと、ふいに娘は睫毛を伏せ、汗ばんだ顔を青年の胸に押しつけた。メンバーとは一回きりってきまりなんだけれど…やさしいね。
 樹は目をつぶり、その数瞬の嫌悪感に耐えた。

 煙草を買ってくる、と言ってジャケットをひっかけた樹を娘は止めなかった。毛布を巻きつけ、眠たげな半眼にごまかし、ふかぶかと寝具に埋もれた彼女の視線は、わかっている、と呟いていた。
 きっと、もう何人かの、何人もの男たちがそう言い残して彼女のベッドから出て行っていたに違いない。娘の寝室はテディ・ベアのコレクションであふれ、その横にはアニエスbの衣装が無表情な影を投げかけていた。贅沢で孤独なこども。爛れた性器と未熟な乳房、そして窶れた乳首が樹の未練だった。
(そうだ、俺はあの娘を抱きたい。何回でも、何十回でも)
 個性に乏しい平凡な容姿の娘の、ただセクシャリティだけが、樹のすさんだ心に釣り針をかけ、戻ってゆけとそそのかす。誰でもかまわない、俺をなだめてくれるなら。
 いつしか暮れなずむ夕陽が、ベイブリッジの半円を朱に染め、非現実的な無機質で空を刳りぬいていた。未来都市の稀薄で余裕のない落日は、加熱の完了を告げる電子レンジのチン、という響きを伴って没してゆく。
 きみ、いくつ?
 十四。ほんとは今年中三になるんだけれど、だぶっちゃったから、また中二……。
 チン、とはじけるピッツァの匂い。
 やめてくれ、冴、レトルトはうんざりだ。
 間男にへし折られた肋骨の疼き。
 フラッシュバックの恐怖がかさこそと忍びよる。
 グラン・ブルーの殺人教唆。
 俺は何であそこに行ったんだろう、と樹は考えるが、あそことはどこなのか、それさえももはや明確ではなかった。

海の器  vol7 無言歌

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  LIED OHNE WORTE

 傷負ふて眸は潔(きよ)き
  無言歌と知れば愛(かな)しき心離れぬ

 
 ほっそりした長い首と、なだらかな肩をした婦人は、血色の悪い卵型の顔を憂いがちに傾け、蘭に向かって、お忙しいのは存じております、と繰り返し言った。
 彼女の薄い胸の中で、独白のように呟かれるこの言葉には、蘭が決して彼女の申し出を断わらないという、控えめで頑固な確信の響きがあり、傍にいる朱鷺をはらはらさせた。
 クリームいろのモヘアのアンサンブルに、カシミアのロングコートを穿いた彼女は、早春の空から脱け出した大気の精のようだ。真白な真珠のネックレスが彼女の華奢な首を飾っているが、その処女性の光沢は、さえざえとした一重瞼の光と響きあい、ふわっとした装いでありながら、春の花畑のなかに鋭くとがった硝子を見出したようで、思いがけない冷たさをちらつかせるのだった。
「お風邪ですか?」
 蘭は軽快に調律された声音で婦人を気遣う。語尾をかすかにぼかし、女性的なやわらかさと年長者の余裕を含ませた心地よい声は、婦人の黄ばんだ顔をかすかに暖め、その処世術のような用心深さを緩めずにはいなかった。
 母親は見目よく鼻をかみ、
「こどもを生んでから、体がすっかり変わってしまったみたいで」
 自分の体調の話になると、彼女は急に生気をとりもどし、感じやすい粘膜に対する漢方医学について、玄人はだしの知識を喋る。お喋りは彼女の血行をよくし、凍りついたモジリアーニの女から、クリムトの細長い金いろのマリアへと変貌していったが、抑揚なくいつまでも紡ぎだされる声は、蘭をいらいらさせたようだった。
「それで、坊やは」
 蘭は無造作に話を切った。甘草と桔梗根の目覚しい効果に夢中になりかけていた上品な母親は、微笑を溜めた蘭の表情があまりにおだやかなので、遮られた言葉を省みることも、いったん流れ始めた饒舌をおしとどめることもならず、ごくありふれた口調でこう言わずにはいられなかった。
「登校しようとするとお腹がいたくなって」
 彼女は、こどもの腹痛が、あたかも我が身を苦しめる痛みであるかのように、なやましく膨らんだ自分の腹部に触れた。朱鷺は母親の視線の隙間を選んで、庭で犬と遊んでいるこどもを見る。水仙と福寿草が、湿った庭土を飾り始めた陽だまりで、少年はふっくらした頬を犬にこすりつけて笑っていた。母親似ではないが、その年齢の男の子にしては整った顔立ちをしている。
 朱鷺の視線を敏感に察して、母親は長い首をめぐらし、こどもを見やった。
「父親がたまに帰ってくると甘やかして。でもお腹が痛いのはどうしようもありませんでしょう? 叱っても直らないし」
 と、同意を求めるように朱鷺を見る。朱鷺は少女のまま時を過ごしてしまったような母親にとまどう。彼女は決して若作りではないが、若く見えた。化粧や装身具でつくろってはいず、窓に向けた薄化粧の顔には、年齢相応の小皺が漂い始めていたが、彼女の落ち着きのない顔、感情を隠さない瞳の動き、思いつめた口もとは、まるでローティーンのように、意味もなく揺れている。
 彼女はスワトオ刺繍の白いハンカチをそっと額に押し当てたが、なめらかな皮膚には汗など滲んでいなかった。何かを持っていないと落ち着かない彼女は、そわそわとハンカチを弄び、膝の上にひろげ、また畳み、ふたたび拡げると、朱鷺の煎れた緑茶に手を伸ばし、音をたてずに口に含んだ。
 彼女の仕草はひとつひとつがとても慎重で、毀れやすい置物のように自分を扱っているが、そんな末端の神経質と容姿のたおやかさとはひどく不釣合いで、彼女は怖気づいた瞳をめぐらし、朱鷺と蘭の顔色を読もうとするが、それでいて他人の顔色を推し量ることなど所詮無理と諦めているようでもある。
「甘やかしているのでしょうか?」
 気抜けしたような声が、彼女の喉からぼんやりと押し出される。
 均衡のとれないひと、と朱鷺は眺める。
 母親としての困惑に満ちた言葉と、彼女の奥行きに乏しい表情とはどこかそぐわなかった。恵まれた主婦生活に降って沸いたこどもの反乱を、彼女はまだ実感できず、ただ放心するばかりなのか。
「舵、ご挨拶なさい」
 母親は唐突にたちあがり、窓を開けてこどもを呼んだ。冬風が無遠慮に吹き込み、暖かな室内の空気をどっとひっくり返し、蘭は思いきり顔をしかめた。彼は風が嫌いだ。朱鷺と同じように皮膚の薄い彼は、風に吹かれるとアレルギーを起こし、尖った耳に霜焼けができる。
 しかし、悩んでいる彼女は蘭の不快を気遣う余裕もなく、頼りなげな姿から急に険しい母親になり、声を張り上げ、躊躇っているこどもを叱りつけた。蘭の返事も聞かず、彼女はもうこどもを弟子入りさせるつもりでいた。

 年明けの蘭の会で踊ることになっていたので、朱鷺はメンデルスゾーンのピアノ曲を選んだ。ショパンほど華やかではなく、シューマンのように口ごもらず、そしてシューベルトのはにかみとも違う彼の音楽は、朱鷺のからだの柔らかさにほどよく調和し、フレーズの振幅も繊細でありながら、現世肯定的で踊りやすかった。歴史上の音楽家のなかで、フェリックス・メンデルスゾーンは、例外的に物心両面に恵まれた人生を送ったというが、朱鷺の触覚する彼の音楽の快さは、もしかしたらそのためかもしれない。
 フレデリック・ショパンの音楽はあまりにも透明で揺ぎなく、完全な骨格をしているので、自分の稚拙な舞踊表現が冒瀆のように感じられる。ショパン以外の作曲家たちが不完全だというのではないが、ポーランドの片田舎で、おそらくディアベルリやクレメンティの、混沌とした乏しい音楽の支流から、突然変異のようにロマン派を湧出させ、時空を超えて滔々と独自の音楽をみなぎらせたショパンだった。
 彼の音楽には夭折の天才のいたましさ、我が運命を見据えつつ芸術に殉じる透徹した響きがあり、朱鷺はショパンを聴くと、瑕僅もない水晶の塔を見るような思いがする。
 もしも、ショパンを踊るとしたら、朱鷺はリズムでムーヴマンを刻むのではなく、音楽に内在するフレーズに身を委ね、ピアノの妖精が、フレデリック青年のくるくる回る指先に戯れるようなパフォーマンスをしたい、と思う。
 音や、肉体の動きを言葉で置き換えるのは不可能に近く、踊ることによって肉体の線を歌わせ、内的なエネルギーを解放してゆく課程を文章表現しようとすると、いつも主観的な嘘臭さと曖昧さに悩まされる。
 言葉は知性の所産であり、分析し、筋道をつけ、限りなく細分化してゆくものだが、音楽や舞踊はその逆に、ばらばらになった想念を包容し、いったん原初的な情動にひきもどす。混沌と渦巻くエネルギーは、恣意に任せれば、ときには身を滅ぼすものだが、丹念な訓練の果てに、一連のムーヴマンとして歌い出すことが可能になる。
 しかし、朱鷺の望む表現と、肉体の限界は常に拮抗しており、第一次成長期を過ぎてから踊り始めた朱鷺は、目覚しいテクニックを身につけるかわりに、内的ムーヴマンを制限された動きのなかで、ささやくように、流れるように紡ごうとする。それが、朱鷺にとっての音楽となっていた。
 音楽を斉藤秀雄に師事する傍ら、上野の美術学校にてんぷら学生として通ったという蘭の絵は、イタリア留学中にさらに磨きをかけられ、ピアニストとしてよりも、画家として彼を知るひとが多いほどだった。舵の母親は、口をきかなくなった息子に絵をならわせようと考えたのだった。
「子守なぞまっぴらだが」
 蘭は親子が帰ってしまうとしぶい顔をした。あまりに無遠慮なので、朱鷺が思わず微笑んでしまうような渋面だった。
「恩人の娘だから断わるわけにもいかない」
 給費留学生の窮乏生活の頃、ウィーンで蘭を庇護してくれた金持ちの夫人がいた。舵の母はその女性の縁者で、さらに後年、蘭がロシアのキーロフで、エトワールのポルトレを描く職に在った時に、日本からのバレエ留学生として蘭と面識があった。
「それであんなにしなやかな姿を」
 朱鷺の羨ましそうな声に、蘭は、
「昔はもっときれいだった。しかし、キーロフというところは、これぞ天使か神の似姿かというような美貌がひしめいていたから、日本人というと可哀想なものだった」
 それに、あのひとはほとんど音楽がわからなかったから、と蘭は遠い目をする。
 音楽がわかる踊り手って……。
 朱鷺は何度か繰り返された質問を喉で呑みこむ。ナタリア・マカロワ、ヌレエフ、それから……。
 蘭の答えは短く、厳しい。芸術に対する彼の忠誠は潔癖だった。ごくひとにぎりの天才たち。音楽と戯れ、表現できるダンサーたちへの憧憬は朱鷺に受け継がれたが、それはまた朱鷺と蘭を隔てるはるかな道程を思わせる。彼の位置はとほうもなく遠い。日本とヨーロッパ、朱鷺とロシアのように隔たっている。

「絵なんか嫌いだ」
 舵はくろぐろとした瞳を大きく見開き、レオタードの朱鷺を見つめる。
 芸術的な感化を与えてくだされば何でもいいんです、と母親は市販の健康飲料を求めるように、蘭に曖昧な万能感を期待し、こどもは週に一度やってくることになった。
 多忙な蘭は、ものわかりのよい微笑みで母親を帰したが、こどもの世話は詰まるところ朱鷺に押し付けられた。
 教えてよ、と舵は掻きかけの絵をぐちゃぐちゃに丸めて立ち上がった。やけくそな仕草はこどもには似つかわしくない屈折した怒りが感じられ、喊黙傾向があると歎く母親の言葉とは、かなり違った印象を朱鷺は持った。
はっきりした怒り。怒りだけではなく明確な感情の振幅を舵は発散する。こどもらしい初対面のはにかみ、おそるおそる居場所を探し、がらんとしたピアノ室で、朱鷺がべつだん干渉するでもなく、ほったらかしに絵を描かせているうちに、たちまち雰囲気に慣れ、ぬくぬくと手足を伸ばし、机から転げ落ちて床に寝そべり、何事かつぶやきながら、半時ばかりクレヨンと格闘していた。
 朱鷺は、テープから小声に流れるピアノに併せてゆっくりウォーミングアップし、こどもにはしたいようにさせた。特別扱いはするなと蘭に言いふくめられていたし、そもそも朱鷺は、こどもを大人と異なる存在だとは思えない。こどもは未分化で稚拙、いたいけなもの、という考えを受け入れることはできない。未分化というのは確かだが、幼児でも二十歳の女性に勝るコケットリを持っている場合もあるし、十歳で世故に長けた視線をめぐらす子もいる。
こどもはちいさな大人だろう、と朱鷺は思っている。肉体の成熟や知識の獲得は、生まれ持った人格をそれほど左右しないような気がする。
いたずらに年齢を重ねても、なお未分化な大人たちを朱鷺は何人も見てきた。彼らは大きなこども、とでもいうのだろう。
 舵は、朱鷺の自在な動きに目を輝かせ、クレヨン臭い手で、柔軟体操をしている朱鷺の背中で握手した腕に触り、ためいきまじりに
「すごくやわらかい」
 いきなり触られて朱鷺は驚くが、舵の手は暖かく、山羊のようになめらかだった。焦げ臭い汗と埃、何かのジャンク・フードの匂いがこどもの髪からたちのぼる。まだ性別のない匂い。すっぱい砂糖のような、むっとする匂いは、強烈だが単調な感覚だった。
 朱鷺はそろそろとこどもの腕を持ち上げ、まず肩と二の腕を伸ばしてから、ゆっくりと背中にまわしてみた。
 痛い、と舵は口をとがらせる。残念ながら、この子は母親のしなやかさをほんの少しも受け継いではいない。骨は太く、すでに将来の頑健を思わせ、日焼けの季節でないのに少年の皮膚は褐色に光っている。
 舵は自分の腕が朱鷺より硬い、ということに誇りを傷つけられ、ぷっとふくれる。そのつぼめた口許はとても美味しいものを大事に含んでいるようで、朱鷺は思わず舵の頭を撫でてしまう。機嫌とりではなく、ただこの子が可愛いから、という朱鷺の愛撫に、舵は虫歯の口を開けて笑った。
 朱鷺の剥きだしの腕を舵はしげしげ眺め、静脈が肩まで見える、と言う。
「お姉さん、ハーフ?」
 いいえ、と朱鷺は否定するが、舵は疑わしげに朱鷺の茶色い髪を点検し、
「染めてるの?」
「もとから色が濃いだけ」
「目も茶色だ」
 僕のは黒い、と胸を張る舵は愛嬌がある。
 この子は好奇心旺盛だった。仔犬がそこらに濡れた鼻を押しつけて匂いを嗅ぐように、舵はだんだん大胆に朱鷺に迫り、観察しながら自己顕示を始める。
 どこが登校拒否なのだろう、と朱鷺は不思議だった。ひよわなところがどこにもない。たいていの大人でも蘭と相対すると、何か気後れしてしまうのに、舵は母親の前では憂鬱げに顔を伏せていたが、独りでやって来た日には、鈍感なまでの礼儀正しさで、きちんと蘭に頭を下げた。
 こん、こん、と硝子を叩く音に振りかえると、ダウン・ジャケットの蘭が庭先から手招きしている。
「散歩に行こう。一段落ついたから」
 言いつつ中を覗きこみ、目を見張る少年に向かって、
「焼き芋屋が来る。うまいぞ」
 とにやりと笑ってみせた。

 灼けた鉄の匂いを残して樹が冴から離れると、二人の皮膚をぴったりと密着させていた汗が、ぬるい空調に急激に冷やされ、いやな感触で腿をつたわって流れた。
 ブラインドを半ば下ろした室内は、曇った天気のせいで、夜明けか夕暮れのようなヴァルールに塗られ、なべての陰影を溶かしてしまう薄闇は、時間の感覚をも侵し、ものみな無彩色にかぎろう中で、姉弟の流す汗だけが苛烈に滴り続けた。
 誰と寝たって? 
 冴に喰い破りそうな視線を切りつける樹は一ヶ月あまり別れていた間に痩せて、頬骨がなぞれるまでに削げた。堰かれていた欲望はどれほど女を苛んでも宥められない、とばかりに樹の挑みは夜通しやまず、冴の粘膜はとうに感覚を失い、何度かおとずれた喪神はアクメなのか睡魔なのか、あるいは爛れるほど充血した肉の苦痛に耐えかねてのものなのか、もうわかりはしないのだった。
 言え、誰なんだ。
 樹は目を瞋らせ冴の乳房を握る。パルファムの撮影のためにダイエットした彼女の体は、鎖骨のくぼみが強調され、肉の落ちた胸に乳房の彫りが深くなったために、かえって挑発的だった。樹はぎりりと歯噛み、肉も千切れるばかりに爪を立てる。冴は悲鳴をあげるが首を左右に振るばかりで逆らわない。
 ふざけるな。
 樹は涙をためて冴の頬を打った。灰色のシーツに冴はあらあらしく投げ出され、はずみのついたまま寝台の縁まで転がる。樹はその髪をつかんでひきしぼり、自分のくちびるで相手を窒息させるように口を重ねた。
 けれども冴は打たれた頬の痛みに生気をとりもどす。粘膜の刺激に飽和しきったあとの皮膚の痛覚は、宿酔いの朝の迎え酒のようにかりそめの覚醒でちからをくれる。被虐と嗜虐が交錯する刹那、冴は目をあけたまま弟のくちびるを味わう。眉間に皺を刻んで苦しげに目を瞑っているのは樹のほうだった。
 冴は自虐に満ちた快楽への欲望に突き飛ばされ、粘膜が早くも乾いてこびりつき、かさかさした樹の股に手をすべらせ、分泌物のために毛先が細かい束になった生え際を撫でる。くちの中で絡み合った樹の舌が一瞬震えると、呼応するように蘇り、冴の指に寄り添ってくる熱さがあった。
「なぜ」
 樹の流す涙が冴の喉を濡らす。涙は厳粛にこぼれおちる。さながら射抜かれた聖セバスチャンの血のようにきよらげに。涙は冴の喉を潤し皮膚を清める。彼女の指は肉欲の籠となって哀しい青年をとりこめ、樹は逃れたいと願いながらも、誘いかける指の羽ばたきに抗うことができない。
 粘ついたくちびるが唾液の糸を曳いて離れ、
冴は予定調和のように弟の膝に顔を寄せる。
 血の昂ぶり、自分と同じ血の凝りが、このうえなく潔い、単純な姿で揺れている。潮の予感をまとう欲望にひざまずく冴は、ラ・マドレーヌのように敬虔な疲労に目の周りを黒ずませているが、本人も、樹も気づいていない。
 樹は涙に腫れた瞼をこじあけるように姉の襞をひろげ、えぐられた傷口、自分以外の男に汚されてしまった不浄の傷口に、ガーゼを押し当てるように舌を密着させ、ほんの少しの隙間もないようにしたいと願うが、腫れあがった肉の渦はふてぶてしく樹のくちびるからはみだし、彼は、この赤紫のラビアが、もはや自分から逸れてしまった姉の存在そのものを象徴するかのような絶望にかられ、ゆるせない、と呟く。
 絶望は瞬時に殺意にすりかわる。けれど、姉を殺すには樹の欲望はあまりに一途で烈しいので、破壊衝動はすぐさま内向し、膣の窪みに溺死するために、彼は鼻腔を、口を、昏い性器に沈める。
 汚穢と再生の戸口がつらなる赤紫の溝に、青年は近親相姦の罪深さと不貞の正当性を秤にかけるが、姉の舌に絡められた迸りがつきあげると、いっさいは空白になり、きりきり舞いしながら愛の煉獄に堕ちてゆく。あるいは解き放たれた翼に任せて虚無の宙(そら)へ昇る。おそらくその両方を、青年は一瞬にして味わう。
 朱鷺と寝なかったの? 
 撲たれた片頬を赤く染めた冴が、落ち窪んだ目で弟をなじる。まるで破るべき禁忌を破らなかった臆病な異端者を審問するように、彼女の声には迷いがない。その唇の縁に精液がこびりついている。冴が樹に息をふきかけると、自分から放たれたものとは思えぬ違和感に満ちた匂い、なまなましい排泄物の匂いが、確信をこめて樹を糾弾する。

 朱鷺と寝たい?
 ざらざらするコンクリートの壁に、素裸のままじかに寄りかかり、がっくりとうなだれた冴のうなじに、なめらかな日光が甘美な冷たい曲線を描いて影をつくる。僅かの雲間から太陽はおためごかしの吝(けち)な光を蒔き、空は動きのない鼠いろに凝り、鱗状の雲の縁が汚れた緑にけばだっている。空に圧迫されながらも海は明るみ、燻し銀の一枚板となって輝き、魚々子(ななこ)細工のこまかい波が、ひっきりなしに陰影を変えながら、風と時を刻んでいた。
 誰とした。
 樹のつぶやきが冴の膝に繰り返し刻み込まれる。寝た、誰と、なぜ、する、それからコロス。それから何の脈絡もなく、朱鷺。
そうした言葉たちは無限に寄せ返る波のように二人のあわいを行き交い、もはや言葉の意味を失ってしまい、ただの水素と酸素の結合体である水が、厖大に集まることによって、海という不可思議な象徴性を帯びるのとは逆に、恋人たちの軋みあいから吐き出された罵倒も詰問も、しだいしだいに感情の色を失って、ただの無意味な音のつらなり、あるいはただの口腔粘膜の振動にまで還元されてゆく。
そして今や、疲れ果てた彼らには、それが唯一のまぐわいの響き、二人の間を容赦なく削ってゆく時間を、二人だけのものに変えるまじわりの音律となっているのだった。
 樹は冴の膝に頭を乗せ、ぼんやりと視線をさまよわせた。無表情な石の壁が断ち切られたように天井へ折れていた。そこに嵌めこまれは硬化ガラスの前に、天体望遠鏡を据えて興奮気味に空を覗く父を見たのはいつのことだったろう、と彼は考える。
 脱出したい、と彼は願った。いつもいつも脱け出したいと思っていた。両親、姉、学校、まずい食事、不愉快な匂い、ざらついた感触、氷のようにつめたい海から。
(あれは三月、四月の初めだった。冴が俺を見捨てて出ていった。俺は海に飛び込んだ)
 憎悪、絶望、同時に苛烈な欲望が少年をうち倒し、押しひしぎ、ぬるぬるした岩場で、我が身を傷つけるような自涜をした。海は紺碧に冴えていた記憶がある。花曇りの、どんよりした天気だったが、樹の記憶では、その時、海はしみひとつない碧だった。死にたい、と願った少年の願望が色彩感覚を澄明にしたのだろうか。それとも殺意よりも忌まわしい残虐な幻影で母と姉を犯した射精の罪深さを際立てるために、彼の記憶は海を美化したのだろうか?
 樹は呻いて寝返りを打った。ごみだらけの床の、なにかの屑が彼の背中に食い込み、しばらく前から樹はその不快な痛みを小銭のように隠し持っていた。そのちいさな苦痛が、この出口のない、混沌とした場所から、彼をどこかに、何かにつなぎとめてくれるのではないかと。横を向くと冴の膝小僧が彼のこめかみを圧迫したが、過去の苦痛に我を忘れて
いた樹は、その女の感触にふたたび火種をかきたてられた。
 冴は目を閉じ、眉間にきつい皺を寄せて小刻みに呼吸している。傾きはじめた陽射しが彼女の剥きだしの顔を照らし始めると、苦悶に満ちた影が、皺が、乾いてこびりつき、しろい流れとなった涙の筋が油のように浮きあがる。その顔はもはやウラジーミルに似てはいず、累のおもかげもない。
「冴」
 樹は呼んだ。はっきりと意味を持ち、その背後にはかり知れぬ情念の痛みをこめて弟は姉を呼ぶ。
 冴は薄く目をあけた。げっそりと窶れた下瞼の曲線が、嵐のあとの海岸のように荒廃してたるんでいたが、この一時的なすさみは彼女の美しさの陰画であり、媒剤に洗われてじわじわと浮かびあがる画像の魅力をプレイマジナーレさせる。
 樹はゆっくりと腕を伸ばす。微速度撮影の植物の芽吹きのように、おごそかに、ゆるぎない沈黙のなかで腕は伸び、指がひらく。
 掌の双葉に包みこまれた冴は、なすがままにゆっくりとかがみこみ、弟の額に唇を押し当てた。くちびるは、山脈を旅するように樹の顔をたどり、自分と相似形のそれを見出す。女の性の雛形、男には畏怖と惑溺のふたひらが、こざかしい言葉の虚飾を捨て去り、また結び合う。
 許しなど樹は考えもしなかった。心の傷は癒えることなどない。ただ時間が降り積もり、それを押し隠してゆくだけだ。記憶はいつだってぱっくりと口を開け、彼を罠にかけようと舌なめずりする。
 前進する、怒涛のように前へ向かって進む意志だけが彼を生かしてきた。許すことなどできはしない。できないが、俺はこの裏切りによって、いっそう冴を愛するだろう、と樹は歯を食いしばる。殺意、それは一瞬のうちに翻転する貪欲な生の意志だった。
 が、冴の乳房が自分の腹の上におしつけられたとき、彼は姉のしなやかな鞣し皮のような皮膚とは異なる感触を味わったのだった。薄い、どこまでも柔らかい、みどりいろと薔薇いろが静脈のはざまで揺れる肉を。
 青年は狼狽して姉を抱いた。濃厚なカルメンの匂いがする髪を鼻に押し付けると、あわあわとした惑いは退いたが、にもかかわらず、可能態の物語は、ひそやかに樹の奥底で発芽しかけていた。

 BELLO COMO La LUCE
  A ME DACCANTO
IL SEGRET AMOR MIO
VEGGO TALOR ……
 
 朱鷺の歌声はそこで途切れてしまう。その先は記憶がふつっと切れて、昔聴いたソプラノの余韻だけがいつまでも心に響く。歌の文句は思い出せないが、磨かれた声の残響、それを耳にした時のあまやかな感じが、髪に結ぶには短すぎるリボンを手にしたときと同じような、もどかしさと嬉しさで心に揺れた。
 舵はゆっくり歩く大人たちに歩調を合わせるのに苦労する。こどもは無限のエネルギーを持っている。舵は、蘭と朱鷺の周囲をつかず離れず、ときどき、自分の勢いにまかせ、流木や藻屑の奇妙なかたちをしたのや、貝殻の変わったものを目がけて走ってゆき、それをつかんでまた戻る。走りかたは、こどもっぽくて不恰好だが、力強い。
 この子は貝や枯れ木が珍しくて走るのではなく、大人たちと一緒では発散しきれない熱量を消費するために駆け回る。そうして、ある一定の範囲を保って行きつ戻りつする少年の動きは、彼のしっかりした空間認識と、堅固な自尊心をほのめかすようだ。野性の幼獣と同じ用心深さ。母親のちぐはぐな警戒心は、この子には優性に伝わったのかもしれない、と朱鷺は舵をたのもしく眺める。
 蘭は丹念に焼き芋の皮を剥き、焦げたところや崩れた部分を取り除くと、ほくほくした柔らかいところだけを口につまみ入れる。蘭は淡白な味と優しい舌触りを好み、それは彼の色彩感覚と軌を一にしていた。
「その歌なあに」
 駆け戻ってきた舵は、ぽちゃぽちゃした頬を紅潮させ、片手に大きな天然軽石を握りしめ、もう一方の手には尖った巻貝のかけらを掴んでいる。汗ばんで赤ん坊じみた匂いが、言葉よりも雄弁に興奮を訴える。面白いよ、見て、この変なかたち……!
「昔の歌」
「聴いたことない」
「歌詞を忘れてしまったの」
 言葉なんていらないさ、と蘭は呟き、訓練されたベル・カントで歌い始めた。ラ、というたったひとつの音が奏でる抒情に、朱鷺と舵は魅せられる。やがて舵がつられて歌いはじめる。幼い声だが、音程は正しい。
 ほう、と蘭は目を剥く。
「おっかさんがソルフェージュでもしているのかね?」
 ううん、と舵はかぶりを振る。こどもの横顔を複雑な屈折がかすめ、それははっきりした羞恥の色となって舵を濁らせた。
 僕は音楽の才能がないって。
 蘭は、ちらりと朱鷺を見る。彼女はこどもの疼きを我がことのように感じる。母親はしばしば、自分に担いきれない影をこどもにおしつけてしまう。
 蘭は舵の手をとった。こどもの手はまだ小さいが、厚みがあって指もしっかりしている。
「ヴィオリノを奏け」
 珍しく蘭が相手の、舵の眼を見て言う。
 舵は射すくめられ、不安げな顔をした。
 方向を決断できない困惑。しかし蘭のそっけない口調にひそむ漠然とした暖かさは舵に伝わり、こどもの顔色もゆっくり暖まってゆく。
「学校に行かなくてもいい?」
「そんな取引はできない」
 蘭はたちまち不機嫌に鼻に皺を寄せたが、舵の心に灯った明かりは消えない。
 朱鷺はそんな二人から離れ、夕陽が舐めるようにオレンジいろに染めあげる海を見やった。太陽から遠い上空は、余りになめらかな海の反映のためにあざやかな青に暮れなずむ。
雲海からひきちぎれた雲が、びょうびょうと吹く風に乗って流れていた。沖合いに浮かぶ帆影がいかにも頼りなく、その浮舟の姿に自分と冴のなりゆきを想う。
 このまま遠ざかってしまうとしても、しようがない関係だった。ひきとめることなどできはしない。けれども、朱鷺だけが感じ取れ、またかき鳴らすことができる琴線もある。
 女たちの結びつきが、男女のそれに比べてゆるやか、ということはなかった。生殖を超えた官能が人類を野獣から進化させた動機なら、同性愛はきわめて抽象的なエロス、無、という究極の認識に至るエロティシズムではないのか?
 では樹は?
 あれほど無雑なまなざしを朱鷺は見たことがない。光るようにはりつめた絃のような。あの子にとって冴を愛することは、ひそかな死への願望かも知れない。混沌とした生に向かうには、あの瞳はあまりに潔く、揺らぎがなさすぎる、気がする。
「おい、どうした」
 いつのまにか蘭と舵は岬の突端にたどりついている。オレンジの鮮やかな残照に二人の影は青々と長い。蘭が手を振ると青い影は岩のくぼみに溜まった夕陽をからめとる網のように揺らめいた。
 我に却って駆け出し、蘭の影に踏み込む朱鷺の心は、しかし別なほうを向いていた。

海の器  vol6 冬のフーガ

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   冬のフーガ

 冬の背は我をさらひぬ
   蒼穹にいのち極みて刻むまなざし

 
 カルメンシータ、というパルファムの宣伝ポスターを撮影してから、冴は朱鷺に黙って外国へ発ち、一週間後にローマから葉書が届いた。
「お母さんと一緒ですって」
 朱鷺はあっけにとられて、サン・ピエトロ大聖堂の黄色いアーチの前にたたずむ二人の姿を蘭に見せた。
 ごそごそしたヨーロッパの紙に、じかに写真を貼り付けた絵葉書は、おおざっぱな冴の手つきのままに四隅がずれていたが、セルリアンのインク文字は、一見書きなぐりのようで、なかなか闊達なものだった。
「すごい匂いだ」
 蘭は小鼻に皺を寄せ、あたかも写真にしみこませた香水を払い落とそうとでもするかのように、ひらひらとそれを振ったが、振り落とされた濃厚な匂いは、弱い冬の陽に温もるちいさなサロンいっぱいに飛び散り、窓のゼラニウムやシクラメンのひかえめな香りを追い散らし、一瞬ルージュ・ヴィヨレーの幻覚で朱鷺と蘭の鼻を覆ってしまった。
「カルメンの匂いね」
 朱鷺は壁にピンで留めた昏いキャビネを見上げた。ある化粧品会社の新作香水のモデルに冴は起用され、その宣伝写真だった。
 ほとんど黒に近い濃紫を背景に、冴は男物のジャケットを着て髪を短く切り、彼女が一番美しく見える表情で顎をひいている。
 闇の中で、彼女の白いシャツが、はだけた上着の合せ目から鋭い逆三角形で迫り、それは冴の部屋の硬化ガラスの窓のように、抽象化された官能で視覚を射抜く。
 カメラの光線は斜め上からごく弱く、さらでも彫りの深い冴の顔を、ほとんど無慈悲なまでの陰影で刻んでいた。
 あたたかさもやすらぎも感じさせない尖鋭な光線を補償するかのように、マヌカンの影の澱みで、絶望的な藍色の陰影は、徐々に色合いを紫紺から紅に変え、その波うつ翳のゆらめきは、大輪の薔薇の花弁を思わせる。花のなかにゆらりと浮かびあがる逆三角形のアンドロギュヌスといった印象の冴は、凄みのある微笑を、あの魅力的なくちびるに湛えていた。
「カルメンには見えない。六本木あたりのゲイボーイだ」
 蘭は、ふん、と鼻を鳴らし、付けたしのように、うまい写真だな、と言う。
「真正面から撮って絵になるのは難しい。光の使い方がいい」
「女性的じゃない。鋭くて」
 朱鷺は、ほとんど美青年にしか見えない冴を見つめる。光線の反射する冴のうなじで、短い髪が針金のように逆立つ。上目づかいの、
ことさら白目を浮きたたせた眼差しは、誘惑する女というより、男に挑みかかり、隙あらば引き裂こうとする野獣のようだった。
「カルメンに見えない。いや、今世紀末のカルメンは、きっとこういう女なんだろう」
 蘭は、背もたれのついた柔らかい椅子にふかぶかともたれかかり、ぬるい茶を飲んだ。彼は日本茶をゆっくりと上手に煎れ、玉露でなくても玉露の味を出す。
 蘭は、もう昏い写真を忘れ、うっすらとたちのぼる緑茶の香りを楽しんでいる。孟宗竹の葉を酢で拭いた上に、季節の和菓子を乗せて朱鷺が差し出すと、目を細めて練り物の半透明な色合いを楽しみ、黒文字で上手に割って口に運ぶ。
 かすかに粉っぽい上生の甘味は、岩や泥絵の具を使う日本画の質感と同じようだった。脂分を含まない甘味は、まっすぐに舌にしみとおる。クリームの暈しを混ぜないために、この甘味はどうかすると単純で刺激過多になるのだが、上品な練りものの、味蕾に滲む甘味の柔らかさは無類で、大和絵の画家たちが苦心惨憺して泥を淡色に溶き暈してゆく技巧と同じく、椿や枯野、深山路、そんな四季折節の名がついたちいさな菓子たちは、はんなりと濃い甘さを、朱鷺と蘭のなかに滴らせて溶けてゆく。
 生菓子のほのかに湿った彩りは、紛れもなく大和絵のものだった。柿色、薄紫、小豆いろ、萌黄に錆朱といった、とても微妙な、半透明でいて質感のたしかな色彩は、味覚をそそる以上に、もの寂びた情感を醸しだす。
 くちに入れた練り物がたちまち溶けてゆくとき、朱鷺は、舌にひろがる和三盆の洗練された華やぎをたのしむよりも、たった今、自分が崩してしまった甘脆な色あいを惜しみ、せめて丹念に味蕾に含ませることで、はかなく消えてゆく菓子の輪郭を、できるだけゆったりと感じ取ろうとする。上生の味わいは、西洋菓子ほど変化に富んでいないが、余韻のなつかしさは格別なものだ。
 ガラス越しに、あらかた葉の落ちた雑木が揺れている。朱鷺は物哀しい思いで冬の海風の揺れさわぐ梢を眺める。喉をすべっていった菓子の甘さは、蒼白な冬の大気を感じることで、とてもせつない、とらえどころのないものになってしまうのだった。
 風は冷たい。痩せた木々の枝々が軋むように身をよじり、ゆびさきを打ちならし、北風にあらがっている。ながく伸びた陽射しは朱鷺の足元に青みがかったひっかき傷のような梢の翳を落としている。風が飽かずかきまわすその傷痕を見つめていると、過ぎ去った日々の苦痛がふいに薄皮を剥ぐように立ち現れてくる気がして、朱鷺は急いで視線を逸らさなければならなかった。過ぎ去りしことは過ぎ去りしままに……。こんな優しい呟きを残した詩人は誰だったろう。
 南面のサロンは、かつて蘭の家族の誰かの居間だった。ずいぶん前に亡くなったその女性は、薔薇いろの壁紙を貼ったこの部屋に、やたらに家具を詰め込んで飾り立て、手作りの、華やかな組紐模様を全身にほどこしたオルガンといっしょに、シャプランの甘い少女像を壁にかけていた。
 彼女の死後その絵は人手に渡り、色褪せて花のニュアンスを失ってしまった唐草模様の壁のなか、その絵があった部分だけは、夢の名残のように、オールドローズという名の英国のパステルの色が、絵のかたちをなつかしく残していた。
 朱鷺はこの部屋のかつての住人を知らない。
それだけでなく、蘭の過去にさまざまな波紋を投げかけていったひとびとについて、殆ど知ってはいなかった。
 何も知らないほうがいい、と朱鷺は思っている。きっと幸福よりも……幸福な記憶よりも哀しみの堆積のほうがはるかに多い竹内蘭の過去は、彼の言葉よりも彼自身の姿、瞳の色や無数の瑕のある大きな両手に雄弁に記されており、それらのつつましく、隠しだてのない刻印は、はてしもない地図となって朱鷺の前に開かれ、あるいはモノトーンの音符のつらなりが、ソルフェージュによって、さまざまな色彩にあふれて響きはじめるように、朱鷺のまなざしを幾重にも閉ざされた蘭の内側に導き、失われた時間のせつなさを奏でるのだった。
 シャプランの薔薇いろの娘を愛した女性の記憶は、朱鷺のこころで壁の淡い花模様の染みに重なり、優しい記憶をゆるしてくれる。
蘭は、もしかしたら冷たく驕慢だったかもしれない女の記憶を溶かしこみ、朱鷺の記憶を共有することで、過去の苦痛を癒しているのかもしれない。
 朱鷺は、蘭の鏡となっていた。
 シャプランの娘の薔薇いろの翳は、いま冴の肖像と向き合っている。ふたつの壁を眺めわたすと、勝気な冴の顔は、突然内面の諸さを露呈したかのように、ほんの少しの隙間風に震えていた。

 水族館の長い迷路を歩きながら、朱鷺は冴のいない時間の重さを測ろうとする。
 週に一度か二度、こまやかに愛撫を交わした相手がいなくなると、すでに皮膚にしみこんでいる時間を分かち合う習慣が、俄かに切実にのしかかってきた。
 異性への肉欲の烈しさとは違った渇きで、いらだちや情緒不安をひきおこしたりはしないものの、自分の存在が稀薄になるような、影が消えてしまった大地を無理やり歩かされているような感じだった。
 ひとりでいれば時間は全部自分のもの、二人ならばきみの時間は半分になる、とミザントロープな言葉を記したレオナルドは、生涯娶らなかった代わりに、弟子の美青年を可愛がった。
(二倍になることもある。蘭さんとあたし、あたしと冴)
 朱鷺は、髭で顔の半ばを隠した狷介な老人に向かって呟く。瞳の焦点の定まらない自画像を残したリナシメントの天才(人類の知を集めたひとだ、と蘭は言う)は、五百年の時間を超えて朱鷺をじろりと横目で睨み、強靭すぎる皓い歯をわずかに剥き出してわらったようだった。
……希望的観測だ。
……愛を信じないの?
 朱鷺は怯まず大天才に抗う。レオナルドは、灰色のトーガを優雅にさばきながら、芝居がかった身振りで両手を挙げ、薄笑いした。
……愛よりも確かなものは憎悪。ひとは快楽よりも苦痛に対する感受性のほうが強い。相手の心を自分にひきつけておきたかったら、相手にきみを憎ませる。そうすれば、彼女は絶対にきみを忘れない。
……あなたはひとを愛したことなんかないくせに。
 朱鷺は、毛を逆立てた猫のように老人に歯向かった。レオナルドは豊かな眉をゆっくりと持ち上げ、とても可愛らしい瞬きをした。
……いや、わたしは人類の愚かしさを愛しているよ。

「今日は着物じゃないね」
 見上げるとウラジーミルが立っていた。
 朱鷺は。あら、と言ったきり、うまい言葉が見つからず、藍と黄色の熱帯魚が群れる水槽の前で、ちぐはぐな遭遇にとまどった。こげ茶の、太畝のコールテンの上着に、派手な市松模様を着たウラジーミルは、上半身のくだけた装いとは違う、きっちり仕立てたダークグレイのスラックスのポケットに両手をつっこみ、細長い背丈をもてあますように首を前に突き出し、寒さのために鼻先を赤らめていた。
 そのリボンに見覚えがあって、とウラジーミルは灰色の髪をくしゃくしゃとかきあげながら、カップになみなみと注がれたショコラをすすりこんだ。
「あの時もリボンを結んでいたね。いまどき珍しくて印象に残ったんだ」
 薄暗い喫茶店には、緩いテムポのジャズがちいさく鳴っていた。リディア旋法のトランペットはマイルス・デイヴィスだった。
 朱鷺はどう対応したらいいのか迷う。社交はいちばん苦手だった。これが蘭ならば、立て板に水を流すように、リボンとモスリン、女の髪型から六十年代ジャズにいたる、きらびやかでスパンコールに飾られた知識を滔々と披瀝するのだったが。
「あなたが見とれていたあの熱帯魚は、生まれたときは全部雌なんだよ。歳をとると、それが全部雄になる。不思議だねえ」
 ウラジーミルは金褐色の瞳をくるくるとめぐらし、運ばれてきたピーカンパイを三口で食べてしまうと、朱鷺のいいかげんな相槌をよそに、長い指でジャズの裏拍子をとりながら饒舌にしゃべり始めた。
 鳥もそういったことがあるんだよ。千鳥だったか、つぐみだったかな。卵を産むのに失敗すると雄になってしまう。雄変という……。
「雄変?」
 朱鷺がはっきりした声で聞き返すと、乾いたトランペットに陶酔しかけていたウラジーミルは、指先でつかめそうな睫毛を持ち上げ、あっけにとられた返事をした。
「そう、雄変。何か?」
「いいえ」
 朱鷺は首を振り、いま思いがけなく心が騒いだのは何故なのだろう、と考える。雌が雄に変わる。雌に生まれたものが、やがて雄になる、という。
「あなたは夢のなかにいるみたいだなあ」
 ウラジーミルは椅子の背もたれに片腕をあずけ、斜めにからだをひき、向かいあわせに座った朱鷺からやや離れたが、彼の言葉は、その斜めに構えた距離の分だけ、朱鷺の内側に近寄ろうとするようだ。
 朱鷺は仕方なく、どっちつかずに笑った。
 テーブルに一つずつ、天井から真鍮の傘をつけたライトがぶらさがり、ウラジーミルはその濃い明かりの真下で、映画のシーンのようにすがれた色男の仕草で煙草を取り出し、鼻の下でシガレットの茎をすっとこすってから、軽い指づかいで燐寸を擦る。
 自分が相手にどう見えるか知っているウラジーミルの指は、結核に冒されたオーブリー・ビアズリーのそれのように骨ばって長く、燐寸の橙色の火で、掌を焦がすように見える手つきは、はっとするほど陰惨だった。硫黄の匂いがきつく、下からの燐寸の光は彼の美貌を歪め、際立つ白目が濡れたようにきらめいた。
 このひとの職業は何なのだろう、と朱鷺は考える。冴の一家が紹介された雑誌を朱鷺は見ずじまいだった。蘭の許にはさまざまな分野の書物が定期便のように届けられるが、蘭がすすめないかぎり、朱鷺はそれらを読まない。
「冴はあなたに迷惑かけているんじゃない」
 ウラジーミルは横を向いて煙を吐き出し、抑揚に富んだ白熱電球の光線に、ウラジーミルの年齢はやわらかく鞣されて、あの初秋のテラスよりもずっと若く見えた。皺やしみ、顎のたるみが隠れ、ウラジーミルの本質に違いない永遠の少年が、悪戯っぽい微笑で朱鷺を観察していた。かすかな上目づかいと、うっとりしたような半開きのくちびる。
 ああ、冴、と朱鷺はまた裡にこみあげる居心地のよい錯覚にとらえられそうになるのをおしとどめ、外へ、ウラジーミルへまなざしを定めるのだった。
「昨日イタリアから葉書が来ました。お母様といっしょだと」
 ウラジーミルは、自分の婉曲な質問が朱鷺に影響を与え、それに朱鷺が稚拙ではあるけれども、けなげな二重唱で応じたのに感心したようだった。
 こどもっぽい手口、と朱鷺はウラジーミルを軽蔑しようとするが、もう冷めてしまったショコラを飲み干し、カップの縁をそっと親指で拭う仕草は、なんとも危なっかしく、女というものが程度の差こそあれ、普遍的に持つ母性を刺激する雰囲気を漂わせていた。
 手の表情は人間性そのものを語る、とナタリア・マカロワは朱鷺に教え、そのころ、踊り始めたばかりの朱鷺にとって、それは天啓のように、人間の肉体すべてを見つめなおす契機となった。ウラジーミルの仕草は、美しすぎる男につきまとう気取りはあるが、うら哀しげで繊細だ。それだけで朱鷺は彼を好きになれそうだが、これは同情の冷ややかさを含む好意だった。
 ふいにウラジーミルは、そのりっぱな目鼻立ちにはふさわしくない軽い表情で、こう言った。
「ぼくが奥さんと別れない理由は、あのくらい身勝手な女だと、僕が何をしても罪悪感を感じないからなんだ」
 ウラジーミルは茶色のガラス窓を見つめ、自嘲の苦さを頬にゆっくり拡げた。
「ここにもうじき女が来る。あなたを見る。嫉妬深い彼女は勘ぐって腹を立てる。言い合いになるかもしれない。僕は、もういいかげん飽き飽きした彼女とのつきあいをどうにかしたいと思っている。それで、たまさか逢ったあなたをだしにして、彼女をまた少し僕から遠ざけようと思っている」
「そんな」
 ウラジーミルはすくいあげるように朱鷺を横目に眺め、声をたてずに笑い出した。喉だけで笑うその声は、神経質に数秒ひきつれ、ふいに止む。
「としたら?」
 朱鷺はまっすぐ男の視線をとらえ、落ち着いて応えた。
「わたしはからかわれるのはいやです」
 そうだね、とウラジーミルは頷き、長い指を組み合わせた。ジャズは止み、バッハが流れ出した。ウラジーミルはオルガンが転調にさしかかると顔をかすかに左右に振り、それまでとは別人のような深い声音で呟いた。
「建築を音楽がなぞっている」

 大気が裂け、西風が押し寄せる。傾き始めた冬の陽射しは弱く、風にひしがれる海面の乱反射は、暗鬱な鉛いろを湛えはじめた沖に鋭い。
 わたしは何とちいさな者だろう、と朱鷺は浜に沿って歩きながら呟いた。この寒気、この烈風、切りつける海風、空に舞う鴎たちの声は甲高く、風に吹き散らされ、きれぎれの破片となり、それは太陽の面を間歇的に掠め飛ぶ鼠いろの雲のように、鋭く光る輪郭で朱鷺のなかに突き刺さってきた。
 人気のない海辺。
 犬を連れた婦人がただひとり、黒い砂浜ですれ違っていったが、彼女の衣装も体臭も、凍りつく冬の大気に遮られ、ただぼんやりとした灰色の印象しか残さなかった。
 延々と続く砂と海の単調な世界に、朱鷺の脇をスカートを抑えながら足早に過ぎていった女は、その平凡な容姿のために、かえって非現実的な感覚を抱かせた。
 ありふれた、湘南の、豊かすぎず貧しくもない、ぼんやりした目鼻だちの女。日本中、世界中のどこにでもいて、彼女は同じような仕立てのよい地味なスカートを穿き、古びた運動靴に、ビニールのパーカーをしっかりと羽織り、愛玩犬を連れて夕暮れを歩く。
 今、自分の脇を過ぎていった婦人は、次の瞬間ドーヴィルにいるかもしれない。あるいはマーレ・キアーレで、冴の傍らを、今と同じように寡黙に歩み去っているのかもしれなかった。冴はその女に目もくれないだろう。その女は、いつでも、どこにでもいて、ひっそりと規則正しい散歩の路を辿っている……
 さくさくと湿った砂が靴の下に崩れる。
 西風はしだいに烈しさを増し、水平線を重い色合いの雲が飛ぶように走ってゆく。乾き、冴えわたった冬の落日が始まっていた。
 この海、と朱鷺はたちどまり、はるかを見つめる。重い雲の背景の空は、言いようもなく透明なきんいろで、丹沢の青い稜線がくきやかに浮かんでいた。大島の影はそれよりやや淡く、鋭角にきりつける斜陽の眩しさに、断ち切られた墨絵のようだった。
(チェーホフが見つめた海)
 わたしがいなくなっても、人類が消えても海は同じようにこの海岸に寄せる、と彼は呟き、ほどなく結核で死んだ。
 海の沈んだ色調のせいで、水平線に接する空はうっすらと敬虔な明るさに満ち、ほのかな慰めをくれたが、荒ぶる風のまにまに、潮は速み、波は猛って短く、ぎざぎざと海面は逆立ち、ちっぽけな朱鷺を威嚇する。
 何故だろう。これほど荒涼とした海に向かいながら、朱鷺はやすらかだった。過去の、そして現在の傷におびやかされず、得体の知れない呵責にうちひしがれもしないのは。
(わたしが死んでも海は変わらない)
 そうだ、人類が死に絶えてもこの海と空、風のせめぎあいは続く。
 足の下で崩れてゆく魚屑、貝殻のように、朱鷺は小さくなり、かそけく、さらさらとかたちを変えながら沈むともなく浮かぶともなく、海風に吹きちぎられる鴨の叫びと等しくなる。
 死の触覚というものがあるのならその瞬間、まばゆく切りつけられる斜陽に照らされて朱鷺に触れたものは死に違いなかった。
「満ち潮だよ」
 朱鷺は静かに振り向き、そこに樹がいることに少しも驚かずに呟いた。
「不思議ね、ちっとも寒くない」
 
 黒皮のつなぎを着た樹は、常よりもいっそう大人びて見える。
 彼は大きなバイクに両足をつっぱって寄り掛り、考え深げに朱鷺を見ている。
「まだ背が伸びるの?」
 朱鷺の言葉に樹は白い歯並びを快活に見せて笑った。
「半年で三センチくらい。この間とそう変わっていないよ」
 それからひとりごとのように、冴がいなくても習慣でこっちに来てしまう、と言った。
 そう、と朱鷺は返す言葉を捜しあぐねて、後部座席にくくりつけられた赤いヘルメットに目を移す。が、樹はすぐさま調子を変え、「暖かい場所に行こう。ここはもうじき海に沈む」
「まさか」
 樹は冴のヘルメットを朱鷺に渡した。
「本当だよ。俺はあなたが身投げでもするんじゃないかと思って、ずっと後ろにいたんだ。あなたは動かなかったけれど、海がどんどん満ちてきた」
「影が深くなっただけでしょう」
 朱鷺は言いさからったが、樹が正確に自分の心象に踏み込んでいることに、違和感のない驚きを感じていた。
 同じだよ、と樹はぶっきらぼうに言い、早く乗って、と促した。

 女主人のいない館は、三日おきに手伝いの女が風入れにやってくるばかりで、森閑としていた。レザーを脱ぎ捨てた樹はてきぱきと台所を開けて湯を沸かし、無駄のない動作で卵を泡立て、缶詰の封を切り、パンを解凍する。
 朱鷺はゆっくりと暖められてゆく台所に座り、青年の動きを眺めた。葉の落ち尽くした樹に似ている、と朱鷺は思う。簡潔で質朴な動き。風を正確に刻み込む梢のきっさきのように、樹の手には無駄がない。それはまた、ピアノを操る蘭のゆびさきを思わせるものだった。
 あなたはきっと一流のシェフになれる、いいえ、もうなっている、と朱鷺は声に出さず、いきいきと動く樹の広い背に囁きかけた。彼のからだには風が流れていた。青年は風に逆らわず、火と水を操り、素材を選び調え、隙間なく迷いもなく、ひとつの姿から次の姿へ移りゆき、やがて狐いろに焼けたホットケーキが、香ばしい飲みものが、泡立てられたメレンゲと、赤紫のジャムといっしょに現れる。
「これは狩人のテ・オ・レ」
 樹は得意げにマグカップを朱鷺に押しやった。温めた紅茶にこんがりと焼いたバター付きフランスパンをちぎって入れ、たっぷりと牛乳を注ぎ、ふたたびとろ火にかけ、じっくり煮えてとろけそうになったパンの皮が、牛乳の膜といっしょに飲みものの表面を覆うまで煮詰め、グラニュー糖を雪に見立ててふりかける。好みでジャムやメイプルシロップを落とすのもいい。
「ダンサーに甘いものは禁物かな」
 こう言いながら、樹は大きなホットケーキを切り分け、金鳳花の花のいろにふくらんだ塊にたっぷり蜂蜜を注ぐと、さらにメレンゲを盛り上げた。
 このおやつは楽しかった。樹の食べっぷりは気持ちよく、ざっくりと切り、しっかりと噛みしめて食べる。
「累が炊事をやらないから、俺はよくホットケーキやオムレツを作った。累は俺たちが飢え死にしたって平気でさ、ちょっとした失敗で次々と手伝いのひとをくびにする」
「インスタント食品は使わなかったの」
「それは冴のほう。俺はいやだ」
 交代で夕飯を作るとき、冴はもっぱらレトルトで済ませた、と樹はうんざりした顔でおどけて見せる。
「ウラァがまたカップラーメンを好きで。二人とも味なんかわからない」
 ふいに、朱鷺の視界に水族館の青い水槽がひろがった。灰色の巻き毛のウラジーミルの後ろで、今のいままで忘れていた薔薇いろのくらげがふわっと傘をひろげ、蛍光色に輝くしなやかな触手をガラスの円筒いっぱいにふくらませ、舞い上がり、胞子を蒔き、ゆらゆらと沈む。あの魚は雌が雄になるんだ……。
 雄変。
「どうしたのさ」
 冴に似た、整いすぎていくらか均衡を欠いた細面が、長い指を組み合わせてこちらを見つめる。カメラの逆光に針金のようにきらめく襟あし。
「カルメンシータをつけている」
 朱鷺はぐいっと近づいた青年の匂いを嗅いだ。バターやヴァニラの柔らかなきんいろを荒々しく断ち割り、驚愕のためにかっと匂いたつ樹の体臭は、アルカイックな古代の半獣神のようにいかめしく、力強い銅いろをしており、きつい香水の緋色をまとっていたが、それ自体では単純で濃厚なカルメンは、出来合の安織物が、幾星霜を経た彫像に投げかけられて、突然尊い印象を帯びるように、その軽薄さを失い、重厚な存在感にあふれて朱鷺の嗅覚を不意打ちしたのだった。
 樹は黙り込んだ。西の森影が窓にくろぐろと闇を湛えている。轟、と北風が巻き、窓明かりで暗緑の色味を残すヒマラヤ杉が猛禽のように唸った。
「お父さん、ウラジーミルさんに会ったの。水族館にいらしていたわ」
「どうせ女と待ち合わせだろ。ウラァも変わってるよな。もっと気の効いた場所があるだろうに」
 樹はふてくされたように言葉を継ぎ、睫毛でくっきりと縁どられた目にじりりと感情をたぎらせ、
「俺たちを何故ゆるせる?」
「真実だから」
「嫉妬しないのか」
 落ち着こう、と朱鷺は息を調えた。アリアン人のように目と鼻の間が狭く、こめかみから頬にかけて削いだような樹の顔は、ふだんはちっとも冴に似ていないのに、激情の虜になった表情はまったく同じものだった。
 樹の全身から烈しい風が吹きつけてくる。幹がめりめりとしない、枝がきしみ、若くして過剰を振り捨てた者の、堰を切った感情のムーヴマンが朱鷺を襲う。
「あなたはどう?」
 これは逃げ口上だ、と知りながら朱鷺は他に言葉がない。追いつめてはいけないと思いつつ、これほど純粋に感情をたぎらせる青年
の奔流に身をまかせ、爆ぜてしまいたい誘惑に、必死に抗わなければならなかった。
「俺は」
 樹は一瞬言いよどみ、自分の内面をたぐっていたが、やがてふたたび視線を上げ、
「いつか冴を殺すかもしれない。冴でなければあなたを」
「わたしたちが憎いの?」
 いいや、と樹ははっきりかぶりを振り、その仕草は、胸がしめつけられるようなあどけない哀しみに満ちていた。
「俺は自分を憎んでいるんです」
 かちゃりとナイフが落ちた。朱鷺はまったく気がつかなかったが、樹は果物ナイフを握りしめていたのだった。
 
 夜更けて海には小雪が舞いはじめた。
 蒸気に曇る窓を拭きながら、椅子の背に頬杖をついて、いつまでもぼんやりと、海の夜にひらひらと舞い落ちるはなびらのような雪を見つめている朱鷺に、竹内蘭は心の中で言うのだった。
 おまえが今日、何処で何をしてきたか俺は知らない。おまえはいつもどおり俺の許に帰り、こどもっぽく、主観的な独白で一日の出来事を語る。ウラジーミルとあの賢い青年のことを語る。だが俺にはわかる。おまえにとって、ほんとうの人生、真実の時間の流れは、語り聞かせる事件の中にはほんの少ししかなく、朱鷺、おまえのからだは否応なしにこちらにひきとめられているが、おまえの歩む人生の大部分は俺の知らない彼岸にあるんだろう。
「もう止んでしまった」
 朱鷺はがっかりして椅子からずり落ちる。
「湘南で雪が積もることなど滅多にない」
 蘭は象牙のクトーを磨きながら応える。柄に一角獣が彫られたクトーは、蘭の父の遺品で、もう使われることなどなかったが、書物が優雅な夢の器だった時代の香気を、摩滅し、寂びた手触りに包んで伝えてくれる。
「それでひとを刺せる?」
「俺にはできるが、ぼんくらではだめだ」
 朱鷺は立ち上がり、足音をたてない素足の軽い足取りで蘭に近づくと、やにわに着物の胸をはだけ、喉をそらせた。刺して。
 蘭は、静脈が青々と透けて見える首筋をそっと撫で、もういっぽうの手で奥のほうを掴みしめながら静かにひざまづいた。

海の器  vol5 雨

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   雨

 雨こんこんまたいつ逢へると問ふのなら
     別れの言葉を愛に変へてよ

 
 小糠雨のぱらつくローマの街を女たちが歩くと、ほぼ三百メートルおきにいろんな男たちが寄ってきて、巻舌の〈ローマ〉語で誘いかける。どんなあらけた誘いでも、イタリア語で聞くと粋に響くのは奇妙なことだ。
 アジアのはずれから天の都に昇った者の小さなコンプレックスが女たちの底辺に巣食っており、そうした浅はかさは、彼女たちの富裕や美貌をもってしても完全には拭いとれない。日本からやってきた冴の衣装はシルエットの大きく、よろけ縞で多色彩のミッソーニだし、累に至っては無国籍、無方針でひたすらきらびやかだ。
 男たちをぞんざいにあしらって行きすぎようとすると、カンピドリオ広場へぬける長い石段の中途ですり寄って来た黒髪の青年は、いきなり累のハンドバッグをひったくり、くるりと背を向けて逃げ出しかけたが、斜むかいの花屋の軒先でふりかえり、女たちが後を追いかけてこないので、あてがはずれたような顔をした。
「安物よ。かまわないわ」
 累はスーツのポケットからジタンを探し、薬指と小指にはさんだ。
 呆れたことに、その若者は石段を跳ね飛んで戻ってきて、冴が自分のバッグからライターを出す前に、累の鼻先へ手品師さながら軽やかな手つきで、火のついた燐寸をさしだした。
 冴は舌打ちするが、この浅黒い若者が蛇のように優雅な容貌をしているので、ついつい見惚れてしまう。メフィストフェレスみたいな細い眉が、なめらかなこめかみへ流れている。
「無視されるのには慣れていないので。また雨が降ってくるし」
「たいした誘いかた」
 累は、男の奉仕を悠々と嘉納するアグリッピナ、といった尊大な微笑を浮かべて、鼻の穴から煙を洩らさないよう細心の注意を怠らずに、どんよりと曇ったローマの空に、ニコチンとタールを吐き出した。
 原色のマゼンタに金で縁かがりをしたシャネルスーツは、濃化粧の累によく似合っていた。冴の着ている一見派手なミッソーニなどは遠めには多色使いが溶け合って印象があいまいになり、むしろシックに見えるのだが、累のマゼンタは強烈だった。出発まぎわに髪にストレートパーマをかけてボブカットにし、輪郭を狭く見せた顔の両側には、パロマ・ピカソの抽象とも感情移入ともつかない、記号のような大きい金のイヤリング。母親の姿は、日本にいるときよりも数倍美しく見えた。
 まもなく五十歳になる累は、ローマに着いた途端、ゴージャスな存在感でふくれあがるようだ。彼女の、洗練とは程遠い美しさは、歴史的観光地ローマに捧げられた虚飾の花束といった印象で、何百年もたった街並みの、くすんでしめやかな落ち着きを否応なしに際だてる。
 冴は、十七世紀オランダ派が、あふれかえる花輪の隅に暗い髑髏を描くことで、ヴァニトゥスを風刺したことなど知らないが、あらゆる化粧技術を駆使して自分を演出し続ける母親の姿は、若い盛りの娘には、反発を感じる以上に啓示的だった。
 サルヴァトーレのアピールが気に入った累は、誘われるままカフェに入った。
「もう少し早く来れば、ミッレ・ミリアがあった」
 洒落た緑いろのジャケットを脱いだサルヴァトーレは、まるで撮影のポーズのように絶妙なコムポジションで、ローズマーブルがアルコ型の窓辺にリラ紫の影を投げかける一隅に腰を下ろし、カーテンの素晴らしい緑いろにゆったりと上半身を預け、長い脚を丸テーブルから斜めに投げ出し、ヘレニスムの彫刻のように膝を組んだ。彼の靴はたった今磨きあげられたかのように新鮮な光沢を放ち、女たちの視線は無意識に、その星を散らしたように上等な皮革製品に吸い寄せられ、サルヴァトーレのキャラクターが、この靴と同じくらい艶やかに違いない、と思ってしまう。
 彼は片手をテーブルに置き、もう片方の手はさりげなく椅子の背もたれに預けた。所作のためではなく、レモン色のクロスの上に、ただ丁重に示された無為な手は、男にしては綺麗すぎ、磨かれた瑪瑙いろに底光りしながら、男女の境を超えるためのパスポート然として、女たちに差し出されていた。手は雄弁な沈黙を香水の匂いにまじえて発散し、どんな甘い口説きにもまして、女心をひきつけずにはいない、といった風情だった。
「いえね、車にはそれほど興味ないわ。でもミッレ・ミリアの華やかさは知っているの。オールド・ファッションの素敵な車が勢ぞろいするんですってね」
「スポーツ・カーですよ」
 サルヴァトーレはくっきりした眉をぴくりと上下させ、舞踊の仕草のように手を振る。
「とても高価で優美な名車です」
 彼はオールド、という一面的な英語が気に入らない。サルヴァトーレはイタリアの皮製品のように隅々までつやつやしており、どうしても触ってみたい、という願望を女たちに抱かせる。きっと彼は瑕ひとつないハンドバッグのように冷たくしっとりしているのだろう、と冴は瞳をあまり動かさずに周囲を観察するという、モデル業で訓練した視線をサルヴァトーレに注ぐ。
 累はもっとあけすけだった。人見知りに無縁な彼女は、ぽっと上気して頬を染め、世界の金持ちたちが秘蔵のクラシックカーを見せびらかすレースについて熱心に聞き入り、相槌を打つ。
 冴は次第に傍観者でいることに辛抱できなくなり、
「ママは車が苦手なのよね」
 と猫撫で声で言い、ただ母親への不快感からサルヴァトーレに向かって、かすかな、しかしそれとわかるウィンクを送る。ひとりの青年を頂点として二人の女は、やや長めの二等辺三角形の位置を占めているので、冴のコケットリは累には見えない筈だ。
 累は、舌を巻くほどの余裕を持って我が娘を見やり、
「それはおまえのパパの運転がひどかったからよ」
 とやりかえした。パパ、などという言葉を累の口から聞くのは初めてだし、冴が累をママなどと呼んだのは、初潮のはるか前だった。
「ああいう車の乗り心地はよくありません。でも機能がすべてではないでしょう」
 サルヴァトーレは慇懃に応じ、女たちの鍔競り合いに眉も動かさず、小憎らしいほど魅力的な笑顔を見せた。
 つやつやしたオリーブ色の顔に、粒の揃った歯並びが青白く輝き、二人の女は、その冷静な笑顔に魅了されてしまう。完璧なジゴロか、そうでなければジゴロの素質を持つ男だけができる、女の感情を無視しながら女心を殺す、冷酷で誘惑的な表情だった。
「あなたは芸術家?」
 冴はベレをもてあそぶように脱ぎ、皮肉まじりに尋ねる。皮肉もまた、一種の秋波だが、髪を刈り上げた彼女のマスキュランな容貌は、こんな時逆説的に有効で、サルヴァトーレは突然出現した自分より美しい男の錯覚に気圧されて、怯んだように微笑をおさめた。
「ヴィオリノを奏きます」
「あら、素敵ね」
 一オクターブ声を跳ね上げ、累は脇目もふらずにサルヴァトーレを見つめ、小首を傾げてカップの縁を中指で軽く叩き、そわそわと膝頭をこすりあわせ、ハイヒールの踵をコツコツと踏み鳴らす。
 マゼンタのスーツの下で、累のからだは蛇みたいにくねっているのだろう、と冴は急にこの場にいるのがいやになり、同時にローマでこの男を母親と奪い合うのも悪くない、と邪まな気分になる。
 が、そう思った瞬間、サルヴァトーレはふいに生真面目に口を結び、その大切なものを含んだような口許が、偶然樹に似ていたので冴はひやりとする。
「サンタ・チェチリア音楽院で勉強しています」
「ふまじめねえ」
 累は年上の女の、鷹揚で遠慮のないくちをきいた。母性のイメージに若い男を包みこんでしまうと、辛辣な言葉が愛情表現になる。甘やかしに満ちた叱責は、ほんの少しならとても有効なベラドンナやジギタリスの薬効に似ている。自分のこどもたちにはついぞ見せたことのない累の母性愛のジェスチュアは、こんなところで巧妙に洗練されていた。

 フォロ・ロマーノの古蒼な円柱の群れに囲まれて、霧雨のなかで時折飛び立つ鳥の羽ばたきを聴いていると、なぜか冴は日本が恋しくてたまらなくなった。
 死に絶えた優雅さ、刻一刻と亡滅に向かいながら、なおかつ現代のどんなテクノロジーよりも明確な存在感で、見る者の心をとらえてしまう廃墟の印象は、どこかで朱鷺につながっている、と冴は感じた。
 朱鷺は廃墟ではないし、彼女は自分の年齢をはっきりとは言わないのだが、たぶん十九にはなっていず、十七か八、もしかしたら十六あたり、という幼げなからだつきをしている。衰退や亡滅の翳りのない緻密な皮膚と、おそらく竹内蘭の薫陶のみを享けて育ちつつある、ガラス壜のような……密室で培養されたような、無垢なアトモスフェルを湛えていた。それなのに、どうして霧に浮かぶフォロ・ロマーノのたたずまいを見た瞬間、朱鷺の印象がオーヴァーラップしたのだろう?
 朱鷺、という名前は彼女の本名なのか、と冴はここで初めて疑った。絶滅危惧種の鳥、ニッポニア・ニッポン。普通なら高校生だが、樹と同じくドロップ・アウトしたのか、それとも…などという俗世の疑念が、廃墟の映像といっしょに、冴の理性のなかに、いちどに湧き起こってきた。
(今まで彼女について、何も訊かなかったなんてことのほうが変なんだわ)
 と冴は数瞬、横にいる母親の存在を忘れてしまった。
 自己主張をことさらしない朱鷺なのに、彼女の傍にいると、冴はしだいに自分が侵されてゆくような気がする。彼女と接するようになってから、じわじわと自分の彩りが変容してゆくのを感じる。自分の知らない自分が浮かび上がってくる感覚は、少なからず快感ではあったけれど、怯えと、かすかだがはっきりと口惜しさが混じっている。何の口惜しさだろう? 快楽を優先させたい冴は、考えるのが面倒なので、安っぽい恋愛小説風に、自分の心にかたをつけた。
(朱鷺を憎みたくない)
 憎むほど彼女に執着したくなかった。
 リナシメント時代には、フォロ・ロマーノは石切場として使われ、あちこちに倒れ伏した未完成の柱は傷ついた骨のように見える。
「こういうところに来ると、人生がよく見えるわね」
 累はひとりごち、寒さに身震いしてショールを掻きあわせた。冴はちらりと横目で、
「めずらしいことを言う、ママ」
 累はびくともせずに続けた。
「生きているうちが華。ここはすごく重要でりっぱな場所だったのよね。それがどう? これじゃまるで」
 彼女は乏しい語彙の中から、なんとか気の効いた言い回しを探そうと首を振ったが、ちょうどその時、団体旅行のバッジをつけた日本人観光客の娘たちが、
「舞台の大道具置き場って感じ」
 と言いながら、母娘の後ろを通り過ぎていったので、累はとりあえずそれを借りて、
「ただの舞台裏」
 とつけたした。
 思いつきにすぎない累の独白も、数千年の廃滅にいぶされた霧雨のなかではとても奥深く響き、冴は敢えて母親に逆らうのをやめた。累は自分の偶然の比喩がすっかり気に入り、
「生きているうちに楽しまなければ損だわ。見たでしょう、法王のミイラ」
 累と冴はサルヴァトーレと別れたあと、もう一度カンピドリオ広場へ戻り、サンタ・マリア・ド・アッラコエリ教会で、ガラスケースにおさめられた暗緑色のミイラを見物した。
 ミイラは金糸銀糸の衣装にくるまれ、栄養不良のまま母胎からひきだされた胎児と同じように、弱々しくうつろだった。なぜかローマでは陰惨なものがよく似合い、それがグロテスクな感情を呼びおこさず異様な説得力を持って迫ってくる。「カザノヴァ」や「サテリコン」は、この国では時代劇などではなく、街の隅々で数瞬ごとに立ち現れる、過去と呼ばれる永遠の現代劇なのだろう。
 行くさきざきの噴水、彫刻、磨り減った石畳から、あわれみを乞え、あわれみを乞え、というキリエ・エレイゾンが響いてくる。眼窩のくぼみを樹皮のように爛れさせたミイラもまた、ガラスケースの中から叫び続けているのだった。哀れな、あわれな、神の子羊……!
「おおいやだ」
 と累は言った。周囲には数人のアメリカ人が、無邪気で横柄な好奇心いっぱいにひしめき、チャペルの内陣にガムをくちゃくちゃと噛みながら発音する英語が人もなげにこだましていたが、それでも石やモザイクの内側に浸透し、いつか朱鷺が言った陪音のように響く、キリエの幻聴を駆逐するにはいたらなかった。もちろん累がいやがったのは、ガムを噛むアメリカ人夫婦のことではない。
「ねえ、あのきれいな子も死んじゃうとこうなるの?」
 累は決して、わたしたちも、とは言わなかった。そう言われてみると、松ぼっくりみたいに干からびたこの高邁なミイラが、急にサルヴァトーレに似ているように思われ、冴は笑い出してしまった。ケースをとりまいたアメリカンは、おお、とため息をついて、けたたましく湧き上がる冴の笑い声に身をひいたが、彼らの顔には不謹慎な、という非難もなければ同意の親しみもなく、まるで突然、天井の内陣が崩れて、もう一体別なミイラが降ってきたのを目撃したような、遠慮のない驚きと好奇心がありありと現れていた。
「何だってあんな馬鹿笑いしたのよ」
 どこかの教会へ続く小道を、母娘はぴったりと寄り添いながら歩いていた。累の体温がこれほどなつかしく、優しく感じられたことはないような気がした。寒さのためか累の下瞼は黒ずみ、声も嗄れていたが、謙虚な羊飼いの母親のように俯いた彼女は、その窶れのおかげで渋い霧雨の後光にしっくり溶け込んでいた。
「だってサルヴァトーレに似ているなんて言うから。あたし、本当に彼が法王の帷子を着て、ガラスの柩に陳列されている光景を想像したの。そしたら爆発するみたいに喉が震えて」
 くっくっと笑いがまた喉で痙攣する。それはウラジーミルの笑い方だった。娘の笑い方が癪に障ったのか、累は非難がましく、
「人目ってものがあるじゃないの」
 冴はたちどまり、ちょうどそこはコロセウムを見はるかす高台だったが、ひんやりした湿っぽいローマの空気を肺いっぱい吸い込み、アイボリーのコートを風にはためかせ、手足を中空に投げ出してふんばり、数万の古代ローマ人の亡霊と唯一の生きた観客である母親に向かって宣言する。
「ローマは死んだ。アメリカンのチューインガムと、あの狡い守衛のために。彼らはあたしをとがめなかった」
「やめなさい」
 オレンジのオーヴァーを着たラテン系の男女が。冴の即興のパフォーマンスに足を止めたが、彼女の叫びが自分たちにはまったく親しみのないアジア語と気づくと、ほそい顔に煮凝りのような皺を寄せて歩み去った。
「ママ、ねえママ。あの守衛はあたしのチップを受けとった。つまり愛国心をたった何枚かのリラと引き替えた。現代の安っぽいユダがミイラの番人なのね」
 ママ、という普遍的に柔和な響きが累の毒を弱めてしまう。涙もろいママという音律は、十数年ぶりに累の神経をとろかすように響くので、累は体裁の維持と、娘への自己欺瞞に似た愛情に引き裂かれて息を呑む。
 しかし冴は、累への毒舌が自分にブーメランとなって返ってくるのを知り、口を噤んでしまう。

 ナツィオナーレ通りのホテルは、真珠いろの大理石で埋め尽くされ、そのほのかな七色の虹に、さらにおびただしい花が浮かぶ。
 まるで朝焼けの海に盛りあがる水泡のように、水仙や薔薇、カトレアが惜しげなく壁にふくらみ、何百年もたった石のナンフや牧神たちが、さりげなくそれらの花飾りのあわいに身を潜めていた。
シングルで二つ部屋を頼んだのに、ホテルはツインを用意していた。到着の晩は不平を言う元気もなく、そそくさとベッドにもぐりこんだが、ローマの滞在が数日に渡ると、互いの針でつつきあうハリネズミのような不快感が、薔薇いろと真珠いろで覆われた部屋にたちこめてきた。
仕方なく、母と娘は昼間のおおかたを買い物や観光に出歩き、一緒に部屋にこもる時間をなるべく短くしようと努めた。
「エネルギーの過剰消費よ、こんなの」
 イ・バルバリというブティックで、累は蛇皮のロングコートに一目惚れし、お揃いの靴まで買った。
「あらそう」
 累は平然とコートを肩にかけ、鏡の前でさまざまなポーズをとる。
「ママがそれほど辛抱強いなんてね」
 と言いつつ冴は、ウィンドーにかかった黒貂に目を奪われる。大胆なカットのジャケットで、片側の襟に貂の頭が着いている。貂の目は一方がエメラルドで一方がルビーだ。これを着たら、自分はきっと野蛮人に見える、と冴は考え、平板な日々を打ち破る魔法をこの毛皮が秘めていそうな錯覚にとらえられ、血色の悪い店員にそれを見せてくれるように頼んでしまう。
「似合うわよ」
 累は借りてきたような微笑を浮かべるが、その表情の寛容さに、冴の自尊心は却って少し傷ついてしまう。やめよう、と思う前に、すばやく店員は彼女に着せかけ、冴はショーで急かされるように機械的に袖を通す。その上、楕円形の大鏡に映った我が姿、使い魔を肩に乗せた魔女の姿に、うかうかとうっとりしてしまう。
 貂の毛波はしっとりして微かに濡れたような感じがする。なめらかな銀色の光沢が冴のわずかな動作も逃さずに輝きを変え、肩をひねると獣の目はちらちらとそそのかすように揺れ、毛皮にこもる真新しい縫製の残り香がしきりに冴の購買欲を刺激する。
 累はにこやかに決めつけた。
「すごくエネルギッシュ」

「こんなに我慢強いなんて」
 と冴は、数日歩きづめの足の痛みにうんざりしながら言う。
 連れ立つことに嫌気がさしていたが、日を経るごとにくきやかになるお互いの相似に、二人ながら捕えられ、自己愛と自己嫌悪とのせめぎあいによって無限に増殖してゆく見捨てられ不安にかられ、別々に行動することができない。
「こんなに仲がいいなんてね」
 累がまぜかえし、ヴァチカン美術館の厳粛な身廊の真ん中で母娘は悔しそうに睨みあっていた。
 冴は二十三年に渡る人生で、この母に似ないことが自尊心の根拠になっていた。容姿は言わずもがな、趣味やファッションへの好み、その他さまざまな仔細で母の影響を排除し、自分の個性を主張してきたつもりだ。それなのに、何の気まぐれか一緒に旅に出て、そこかしこで娘は、今まで見過ごしてきた影に気づくように、自分のなかに潜む母親に驚く。
 せめて夕食後のいっときくらいは、お互いの粘り着きから逃れようと、冴はラウンジで酒を飲み、累はルーム・サーヴィスでくつろぐことにした。このホテルは比較的中庸の金持ちたちが集まるのか、ヘレニスム様式をふんだんに取り入れた見事な室内装飾にもかかわらず、泊り客たちの雰囲気はおだやかで、際立った贅沢をひけらかす者はいないようだった。周囲は冴の片肘はった洗練に恐れをなし、あるいは我が海域の凪を守り、ひっきりなしに視線を送りつつも、誘いかける者はいない。
 冴はセッコの葡萄酒を傾け、次から次へシガレットに火をつけ、藍色の窓辺にひろがるつつましい夜景を眺める。東京のネオンを見慣れた目には、ローマの夜はいかにも貧相で、天の都は真昼に演出する威厳を、闇の中でたっぷりと補充するための眠りに沈んでいるように見えた。このホテルにはキリエもグレゴリアも滲みこんでいない……。
 夜遅く酔っ払って戻ってきた冴はバスルームの華やかなラムプの明かりで、自分がそのままにしておいたクリスタルの灰皿に目を見張る。
 いくらも吸わないうちに消され、もみくちゃになった煙草が、灰皿の上にうずたかく幾何学模様を描いていた。茎の上に斜めに茎を積み上げ、次の茎は前の二本のまた斜め上にと、吸殻はガラスの柩の上に規則正しく折り重なっていた。
「どうしてすぐ煙草を消すの?」
 礼拝堂のような展示室の清潔さとはそぐわない煤けた喫煙室で、さっそく煙草をくわえた母親に冴は尋ねる。もったいないわよ、という言い訳を添えて、知りたくもない質問をついしてしまう。
 累は決められた台詞のように無感動に応じた。
「自分の健康のほうが大切」
 そうして、見覚えのある手つき、冴とまったく同じ手つきで、不健康な煙草に苛立ちながら揉み消し、それでいてニコチンのくれる眩暈に依存し、縋るような念入りな手つきでその亡骸を積んだ。
 金属の柄のついた吸殻入れは使い古されて黒ずみ、拭いきれない燃え滓が、縁に輪のようにこびりついている。ものみなすべて壮麗なバチカンで、その薄汚れた吸殻入れは、あのミイラの番人のように、虚偽と不平の代弁者のように冴は感じる。そうやって、何かに攻撃的になると自分のやりきれなさがやわらぐ。そして今では、累との小競り合いが、独得のなま暖かさを帯びた親睦に変わりつつあることに気づく。

 ジョヴァンニ・アントニオ・ヴァッツィという画家の描いた聖セバスチャンの前で、累は感に耐えたように足をとめ、しばらく画像を凝視していた。冴もまた、この絵がはるか前方にあるときから気になっていた。
(まるで、からだは二つで頭のどこかが累とつながっているみたい。あたしたちはこんなに似ていたの?)
 累は冴よりずっと早く現状を受け入れ、娘との膠着めいた同行をむしろ楽しんでいた。累は、子供たちよりはるかにたくましく健康だ。どんな不愉快な状況でもネガティブな感情を排斥する自己保存能力において、それは際立っていた。娘と絶えずちくちくつつきあいながらも、累はふっくらと血色のよさを失わなかった。
「この子、樹に似ている」
「そう?」
 冴は気のない返事をしたが同感だった。弟よりずっと優美な聖セバスチャンだが、ものいいたげで、あきらめたような視線がふと重なって見えた。投げやりではないが、殉教の静寂な諦念が若い聖者を素朴な光で包み、射抜かれた血の滴りは、彼から流れ出るものでありながら、彼を愛する、この絵の前にたちどまるひとびとからこぼれ出る何か、でもあった。
 少し見つめた後で、冴は顔をそむけた。なやましく上半身をひねった若者の苦悶は、ある瞬間の樹の表情と、見れば見るほどそっくりだった。姉弟の間で数知れず繰り返された浄化の夜、あるいは真昼の挑み合い、罪と言えば罪の果ての顔が、ヴァチカンの聖域で再現されている。
 累は自分たちの秘密を知っているのか、と冴は母親を盗み見るが、そんな屈託は彼女の横顔には全然ない。にしても累は以外にセンシティヴだ。骨相や人種にとらわれず、画家の表現を見てとれるのだから。だが、累の洞察が自分と同じものなのか、などと冴は考えもしなかった。
 冴の耳に、ふたたび祷りの唱(うた)が響き始める。謹厳な幻聴は、さしせまったカタルシスの願望を逆にそそのかし、冴の血を熱くした。体の奥深くで何かが声をあげていたが、それでいて樹と朱鷺から逃げ出してしまった冴だった。

 最初はそんなに真剣には考えなかった、と冴は泣きながらうなだれた。青い化粧着を着た累は、パラス・アテナのように冷たい労わりをこめて娘の背中に触れる。
「あの子がかわいそうだった。罪悪感もあった。あたしは樹を捨てて家を出たから。あんなにぼろぼろになったあの子を受けとめるのは同感だと」
「嘘をついている」
 累はゆったりと冴の弁解を遮る。あたかも彼女が優れた母親で、こどもたちを手ぬかりなく育てあげた者のように、彼女の声音は厳しく、冴の逸脱を問い糾す。
「あなたは同情から弟と寝たのではないわ」
「……」
「あなたはセックスがしたかった。濃い快楽が欲しかった。樹と寝るのは快感なのよ。秘密ですもの、秘密はそれじたいが快楽」
 容赦なく追い詰められて冴はたじろぐ。累の厳格な無表情は、内省している、あるいは放心している朱鷺の顔に似ている。どちらも白い人形のようだ。白い、かっちりと扉の閉まった心のようだ。甘えを寄せ付けないアルカイックな厳しさが、累の姿を借りて冴を暴く。
「あなたは朱鷺と樹を、自分の不安定な欲望を正当化するための道具にした」
 わたしを除け者にして、と累は突然自堕落に顔を歪め、こどもなんて生むものじゃないわ、と吐き捨ててブランデーをあおる。
 冴は後じさった。後ろ手にドアの把手を捜すが、ホテルの常夜灯がたったひとつ灯る室内は暗く、青いローブをまとった母親の姿だけが大きく、いっさいの調度は光沢を失い、大理石の床は干からびて亀裂が入り、四方からじわじわと沈鬱な闇が来る。
 累が酔い痴れて高笑いすると、彼女の脂づいた豊かな乳房はローブのなかで大きく揺れ、冴が瞬きするうちに尖った乳首が青いサテンを突き上げて光った。母親のなまめかしすぎる乳首の勃起が、責め立てられて脆くなった冴の神経を逆撫でする。
「言い訳なんかやめて、したいようにすればいいの」
 累が立ち上がると同時に、バスルームのドアがいやな軋みをたてて開き、サルヴァトーレが入ってきた。肉体の中心を昂ぶらせ、見事に均整のとれた四肢がオリーブいろの炎のように輝いて迫る。冴は見たこともないほど巨大な彼の欲望に圧倒されて、その場から逃げることも忘れ、彼の圧倒的な漲りから眼を離せない。こんな巨きなものが、と冴がしりごみするうちに、このつややかな青銅のバッカスは実りきった累の乳房に顔を埋め、累は牡丹がくずれるようにからだをひろげ、サルヴァトーレの充血を迎え入れる。 
 男女どちらのものとも聞き分けられない呻きが室内に反響し、冴は耳を塞ぐ。だが、ぴったりとてのひらで蓋をした鼓膜を震わせて、重苦しく響いてくるローマの晩祷にもこらえきれず、よろめきながら壁伝いに出口を探す。手さぐりの壁はつるつるして果てしなく、バロックふうに歪みながら、どこまでも冴を拒む。背後では水浴びのような粘液のもつれと切羽詰まった喘ぎが交錯し続ける。

ほほえむような朝の光がデジュネの皿の金と緑の唐草模様に戯れていた。
 もっとも、この輝きはホールの天井からばら撒かれるシャンデリアの反映で、窓ガラスの向こうの街並みはじっとりと哀しげに濡れそぼっていた。しかしローマは夜闇の底から立ち上がり、無数の鐘の響きとともに、異教のまぼろしとキリストの栄光を矛盾なく身に纏い、異邦人たちにその豪奢な裳裾をひろげている。
 母と娘は、さながらいびつな鏡に向かいあっているかのように口数すくない。
 累は、固いパンにプロヴィンチアのサラミを乗せてひとくち齧る。それが思ったより美味なので、健康な彼女は勢いづいて次々にサラダやチーズに手を伸ばす。
 冴は、そんな母親に昨夜の昏い夢の片鱗もないことを確認し、それでいて、どこか罪深い累の表情に、同じ夢を分かちあったに違いない、というアムビヴァレントな確信を持つ。
 給仕がいとも優雅な仕草でコーヒーを注ぎにやってきたが、トルコふうな鷲鼻で頬骨の高いこの男は、二人の日本女にいかなる親近感も抱かせなかった。
「今の子、どう?」
「まあまあ」
 冴は木苺のジャムをパンになすりつける。累とのわずか一週間の旅が、もう一ヶ月も続いているような気持ちだ。冴は、累の語彙が自分とあまり変わらないことにも気づいていた。隠語でしゃべるように、母娘はごく短い台詞で相手の意図を察する。
 あたしたち、まるで出稼ぎの娼婦みたい、と急に冴は自虐的になる。ナルシシズムの濃厚なこの自虐は彼女を陽気にし、今までにない爽やかな口調で母親に尋ねた。
「なぜあたしと旅行しようと考えたの?」
 累は蔕つき苺をつまむ手をとめて、娘をうかがった。その顔は両頬がかすかにたるみ、目のまわりが黒ずんでいたが、堂々とした女らしさが復活していた。一晩のうちに、昨日までのなりゆきまかせの母性は累から拭われていた。彼女は身構え、表情をつくろい、母親のぬくぬくした安逸をふり捨ててしまったおかげで、性的になっていた。
 若さを失いながらも、最後まで美しい女であるための研磨を厭わない者だけが持つ威厳とデカダンスが、挑発的な累の表情を、修復されたフレスコ画のように、むしろ敬虔に見せていた。
「あなたと一緒だとがっかりしないから」
 なるほど、と冴は頷いた。
「これ以上ないほど、あたしたちの水面下はスリリングだわ」
 累の決め台詞は、たぶん冴と同じシステムの朗らかさで発せられ、二人はとてもなごやかに笑いあった。
 給仕が食卓まで電話を運んできた。
「サルヴァトーレ?」
 累が華やいだ声をあげ、冴はどきりとしたが、累は享楽家の天性を発揮して、娘の顔色など目もくれない。
「彼が街を案内すると言っているわ」
「お独りで」
 冴は食卓から立ち上がった。
「部屋が空いた。あたしたち、今夜からまた別々になれる」
 薔薇いろのメイン・ロビーを、チェック・アウトした旅行者が横切って行った。冴は迷わずフロントに向かう。テラスでは銀色の雨が歌うように落ちかかっている。
 ジリオラ・チンクエッティが、誰かの携帯ラジオから声を張りあげていた。
 冴は微笑んだ。歌詞よりも、メロディよりも、いさましいリズムが彼女を揺さぶり、精気をとりもどしてくれる。
 昨夜の夢はローマの啓示かもしれないが、ワックスをかけたようなサルヴァトーレはあまりにも浅薄な気がして、隠微な雨にも似た
エロティシズムの幻影には遠かった。

海の器 vol4 WALDESRUHE

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  WALDESRUHE

  なだらかに唇織りぬ森のなかで
    よろこびつむぐ呼吸合はすため

 
虹いろの月光がレースのカーテンを透り、朧ろの霧となって室内に流れ込んでくる。
 月影はつめたい床の上にとらえどころのない繊細な模様を描き、この朦朧のなかで、目に見えるいっさいは確かな色彩を失い、憂わしげな、けれども優雅な陰影の波に浮き沈む。
 自分のちいさな寝台に朱鷺はぬくぬくと手足を伸ばしながら、高い窓をゆるやかに動いてゆく月を見つめた。淡い雲が月の面を覆うと、貝の裏と同じ色の虹がかかり、それは夜のただなかにぽっかりと見開かれた、孤独な瞳孔のようだった。
 月光は朱鷺に降りそそぎ、ちょうど寝台を夜闇から切り取るかたちで光を蒔いている。レースとガラスの彼方に微笑む月に手をさしのべると、剥きだしになった二の腕まで薄い月光の感触にひたされた。月の襞は芙蓉のはなびらのように脆く、はかなげに、夢とうつつの境界を行き来して揺れる腕を優しい陰影で包み込む。
 ひとりの感覚は快かった。口に含むとすぐにもろく溶けてしまう糖菓、ミネットの名のついたふんわりした菓子が、紅茶にひたされるように、ひとりの感覚は夜の静寂のなか、朱鷺の神経の端でくずれ、崩れたとみるまに、また淡い悲哀の甘さが喉を滑り、手足のすみずみへ滲んでゆくのだった。
 扉を隔ててすぐ隣には蘭が眠っており、彼が時折打つ寝返りに、古い胡桃の寝台はひっそりときしみ、それは夜のため息のように聞こえる。
 晩秋の夜気は次第に研ぎ澄まされ、風の唸りとともに、落ち葉は雨のように屋根をおとない始める。梢のさやぎが月光を揺さぶり、物影は燻銀めいて沈んでゆき、闇に呑まれるかと見えて、うっすらと明るんだまま、静かに朱鷺の周囲にたゆたい続ける。耳を澄ますと、枯れ葉のざわめきの彼方に潮騒が聞き分けられた。
 わたしは人間だろうか? と朱鷺は蘭と暮らしはじめてからの歳月をふりかえって思う。蘭の朱鷺への接しかたは、人間に対するそれよりも、古い楽器や、智恵のない動物をいつくしむようにこまやかだった。
(人間でいるよりも、楽器になったほうが幸福だ)
 朱鷺が寝返りを打つ。するとからだの熱で温まった寝間着がよじれ、かすかに汗ばんだ皮膚を衣擦れは秘めやかにかすめ、隣の蘭の寝台が、囁くようにまた軋んだ。

 中秋はとうに過ぎていたが、冴の部屋に朱鷺は吾亦紅と薄を持って訪れた。
 秋と冬との境は、春と夏、あるいは夏と秋との行きかいよりも緩慢で、刻一刻と過ぎ去る時の流れに、大気はある一瞬透明な明るさに満ち、次の刹那には重苦しい冷ややかさを湛えながら、空の青も海の碧もすこしずつくすんでゆくのだった。
 抱えた穂薄が弱い陽射しを吸い込み、鈍く輝いている。その寂しい金色を海にかざすと、尾花の背景となった海の、ふるびたモスリンのような灰紫は哀しく、凪の海は由比ガ浜いっぱいに長い波を押し寄せてふくれあがり、汀でもろくも崩れてしまう波頭の白い飛沫は、まるで鍵盤を叩く蘭の指のように見えた。蘭の指が象牙の鍵盤の上を疾走し、たわむれ、音楽にたゆたって宙を泳ぐように、波は尽きることのない生と死のコラールを奏でている。
 扉の鍵をはずしたまま、冴は寝室で寝くたれていた。
 彼女の部屋はいっぷう変わっていて、ビルの最上階にあり、建物の屋根の傾斜がそのまま部屋の三分の一の天井と壁を切り取り、その斜めの部分は厚いガラス張りになっていた。
建築家のウラジーミルがこのビルを建てたとき、この部屋で天体観測をするつもりだったというが、三角形のガラスの切り込みは、たちまち彼の好奇心をそそり、ここへ住みつかせてしまった。
 間仕切りも何もない、だだっぴろい室内の一方の壁際に、こんな部屋には不釣合いに豪奢な寝台があった。無機質な設計の部屋とはうってかわって、ウラジーミルが使っていた寝台は天蓋つきの贅沢な骨董品だった。鉄と銅でできた大きな寝台には、いたるところふんだんにバロコの唐草がほどこされ、かなり褪せた薔薇いろの絹が、夏も冬も取り替えられることなく垂れかかっている。
 ひとりで眠るには広すぎる寝台だが、この優雅な舟がなければ、きっと室内はいたたまれないほど殺風景になってしまう。冴は女性にはめずらしく、自分の住まいのインテリアに無関心で、部屋をいつも雑然と散らかして平気だった。
 いろいろな種類の酒の匂い、喰いちらかされた食物がどこかの隅で黴てしまった匂い、投げ出された衣装に滲みついた汗がゆっくり乾き、濃い酪酸めいた彼女の体臭がこびりついたランドリーの焦げ臭さ。
 戸口で朱鷺はたたずみ、部屋にこもる匂いを吸い込む。不潔だが不快ではない匂い、病院の消毒薬が清潔な畏怖を与えるのとは逆に、冴の衒いのない乱雑には、よく観察するときっちりした選択がある。
 野生動物が自分に必要なものだけかき集めて巣をこしらえるように、冴は本当に気に入ったものだけを室内に入れている。そのために、彼女の部屋は体裁ばらず、いくらかごたごたしてはいたが、ありきたりに平板なきれいさとは異なる活気を帯びていた。この部屋は主と一緒にちゃんと呼吸している、と朱鷺は感じた。だから自分の住まいだったら我慢できない乱雑もここでは許せる。こうした奔放が冴にとっての秩序なのだろう。冴を好くように、朱鷺はこの部屋を好いていた。冴の体の匂いを呼吸するように、この部屋の空気を呼吸する。 
 が、今日はその匂いに違和があった。寝台の帳はかたくなに閉ざされ、きれぎれな寝息が苦しげに室内の空気をそよがせている。
 朱鷺は床にとり散らかされた下着の山やシリアルの空き箱の中から、葡萄酒の緑色の空瓶を拾い、吾亦紅を活けた。尾花は手洗いに無造作に置いてある備前の壷に投げ入れ、また元の場所に置いた。冴の部屋に季節の彩りを持ち込むのは朱鷺のひとりよがりだった。冴は母親への反発もあってか、花を愛でるという習慣のない珍しい娘だ。しかし朱鷺は季節のない空間、植物の潤いのない場所でくつろぐことができなかった。朱鷺と植物との親和はすばらしく、彼女の部屋に切花を持ち込むと、たいていの花は常ならず長持ちし、それどころか薔薇などは花瓶の中で根をはやしてしまう。
 朱鷺はカーテンのない三角窓を眺め、ふてくされた寝息に耳を澄ませる。南面のガラスから日光は人もなげに侵入し、その眩しい熱は真夏のようだ。リノリウムの床に鋭く突き刺さる逆三角形のコントラストは若い娘の部屋の印象にはきつすぎるほどだった。
 しかし、冴にはふさわしいかもしれない。この部屋は獣の匂いがするし、彼女は男性の香料のいくつかを好んで使っている。打ちっぱなしの壁に嵌め込まれた大鏡の前に大小さまざまな化粧品がひしめいているが、それらの甘ったるい彩りと曲線に囲まれ、男物のオー・デ・コロンは肩をいからした感じで混じっていた。
 夏の匂い。獣の記憶。
 冴と知り合ってから半年が過ぎようとしていた。長いのか短いのかわからない人生で、半年もの間、蜜の時間を分け合ってこられたのは、やはり幸福なことだ、と朱鷺は銀盤のような海面を眺めおろして思う。雲ひとつない秋晴れの下で海は巨大な凸面鏡となり、太陽を反射するまばゆさに水平線の影も見分けられない。
「いつ来たの?」
 険のある声にふりむくと、天蓋を跳ね上げ冴が不機嫌に頬杖をついていた。欠伸しながら彼女が上半身を反らせると絹の帳をつらぬいた光線は、オンブル・ローズの影となって冴を包み、絹の被いから逸れた腕と顔は蒼ざめて、彼女の誇らしげにまっすぐな鼻梁は、モローのスフィンクスのように冷たく見える。
「昨夜飲みすぎたわ」
 冴は顔をしかめて枕に顔をおしつける。むくんでいる。あたしを見ないで。
 朱鷺は用心深くベッドの隅に腰を下ろし、どうしたの、と囁いて冴の埃っぽい髪に指を差し入れた。アルコールと煙草の臭気がどんよりとわだかまる黒髪は、ごくわずかに紫がかっている。彼女は髪を染めていない。どういう遺伝子の働きなのか、生粋の日本人よりもこの髪色は濃くつやのある漆黒だ。冴が甘ったれたようにかぶりを振ると、光線の屈曲につれて髪の漆いろは暗い翡翠色に移ってゆく。
 どうしたの?
 朱鷺は囁いて、彼女の髪を探った。しっとりした髪は、汗か、それともアルコールの湿りかのために、差し込んだ指先にかるくもつれる。野分けの吹き荒れたあとのような絡まりをゆるやかにほぐしながらうなじをすべり降りてゆくと、冴の呼吸がせつなくなり、象牙いろの肩甲骨がうねって黒い下着の肩紐がするりとはずれ、すっきりした背中が露わになった。
 冴の首筋から背骨に沿って、こわい産毛が内側に向かって規則正しく描いたように密生していた。虎毛の猫みたいだ。つやつやしたこまかい体毛は彼女の肌を飾り、朱鷺には彼女のからだのこうしたあらびが、言いようもなく好ましい。
 自然のままの皮膚。わかい脂が不摂生も知らぬげにひかり、産毛のいっぽんいっぽんが濡れたような精気に輝き、精悍な筋肉は朱鷺の掌の下ですこやかに呼吸していた。彼女の肺から吐き出される息は澱んで苦かったが、掌にこもる皮膚の熱気は新鮮で甘かった。天蓋をとおった薔薇いろの陽光は、冴をその半ばまで惑わす色あいに染め、もう半分は寝具の窪みのつくる蒼ざめた翳りと同じヴァルールに均されていた。
 薔薇と蒼の照り返しに彩られ、朱鷺に甘やかされながら、冴は物憂げに下半身をくねらせ、サテンのシーツに皺の波紋を寄せながら脚をひろげた。彼女はまだうつ伏せたままだったので、したばきをつけていない臀のふくらみが際立ち、そのひきしまった曲線、絹に覆われたなまめかしい丘陵は、朱鷺に思わずこう呟かせたのだった。
「人間じゃないみたい」
 みなぎる若さ、歪みのない骨格と脂肪、肉の調和が朱鷺の眼を瞠らせる。若くてもたるんでしまう肉もあるし、二十歳をいくつも出ないうちに、もう干からび始める皮膚もある。
充実した骨格と過不足のない筋肉。そしてそれを支える堅固な意志がなければ、肉体、ことに女の肉はたちまちしぼみ、色褪せてしまう。
 かといって過度の筋肉トレーニングはいびつな塊をふくらはぎや肩にこしらえ、とりかえしのつかないぶざまになる、と竹内蘭はいつも吐き捨てるように言っていた。彼はペテルスブルクのマリンスキー劇場にいる間に、ロシアのガラス細工のような美少女たちが、まことにかぼそい手足に、信じられないような筋力と柔軟性を備えている様を、つぶさに観察してきたのであった。
 蝶、でなければ天使だ、と蘭は追憶を甘い言葉で語るのだったが、朱鷺は自分の知らない蘭の憧憬のバレリーナたちに苦しい嫉妬をおぼえながらも、一方ではそんな妖精たちと知り合うことができたら、と何年もせつなく願ってきたものだ。
 今自分の掌に寄り添っている冴は、天使的な軽やかさとは無縁だが、地上を歩む人間の女としては、ほぼ理想的な均衡を整えていた。
この体には無数のこまかい疵があった。肘や背中にはところどころ染みが浮き、ふいに皮膚のどこかが、何かの理由で肌理が粗くなっている部分もある。けれども、そうした繊細なすさびは、オパールが内側の瑕や蛋白質の偏りで虹の変幻を増すように、肉体の美しさに限界を与えると同時に躍動感を添える。
 冴の太腿がすがすがしい流線型のカーヴを描き、サテンの反映がぼんやりと大腿筋をなぞって、刃の錵のような光沢を浮かべる。かたちのよい膝には座り皺もなく、膝蓋骨にはごくうっすらと金褐色の色素が楕円の影になっていた。
 こんな脚だけが、ミラノやニューヨークのトップファッションを着こなすことができる、と冴は妬ましく感じながらも、視線はこの美しさを賞賛してやまない。同性の美しさに無条件で傾倒できるのは、彼女の性格の大きな美点だった。
 嫉妬を蹴散らす感嘆と率直な共感。それなくしては女がおんなを愛することは(おそらく)絶対にできず、これほどまれな感情もないだろう。
 共感。それは同病相哀れむというような惨めな要素を含んではならないものだ。劣等感や優越感に裏打ちされた感情、見せかけの親愛は、どれほど巧妙にとりつくろおうと、そんな感情を抱く人間を食い荒らし、厚化粧の下で無遠慮に進む皮膚の劣化さながら、生命を枯渇させてしまう。
 哀しいことに、偽りの感情は、多かれ少なかれ当人の弱さから生まれるので、誰に責められるものでもない。この世にかたちをとって在るものには、必ず応分の影がある。嘘をつかなくては生きてゆけないし、往々にして自分自身を欺かなければ社会に適応できないだろう。
 もしも、人生の大部分において自己欺瞞から免れるような、硬質で透明な精神が存在するなら、それは孤独に違いない。
 けれども、と朱鷺はまたしても自分の内側の声にひきこまれ、冴に触れている指の感覚を忘れながら思った。今の世の中で、決定的な純粋さや際立った孤独を味わう贅沢が許されるものだろうか。もっともそれは否応なしに当人を見舞う運命に違いないのだけれど。
 何を考えているの?
 冴は枕に顔を埋めたまま、くぐもった声で咎めた。
 何も。ただあなたに見とれている。
 朱鷺の短い答えは冴を満足させない。冴はいつもたくさんの言葉を欲しがる。それが罵倒でも皮肉でも、圧し殺した沈黙は冴には耐えられない。雑音でもいいから鼓膜の刺激があったほうが楽だ、だって自分の不安から逃れられるもの。
 でも、それでいて冴を朱鷺に魅きつけているのは、彼女の茫漠とした内向性なのだった。
 内側へ向かって現象を選別し、包容し、こころの深みで現実とは異なる物語を紡ぐ朱鷺は、どうかするとその場に居ながらにして周囲から離れ、どこかはるかな世界へ行ってしまう。この子は何を見ているの? そんなふうに苛立ちながら、同時に魅惑されていた。
 肌を合わせて、快楽に揺られあったとしても、互いは未知のままで、決して所有には至らないのだった。
 この隔たりはこの先も変わることはないだろう、と冴は突然、今の今、平手で頬をぶたれたように思った。
「お水を持ってこようか」
 朱鷺の顔の柔毛が空調の微風をふくんでいた。色素の少ない朱鷺の体毛は、かみそりをあてられることなく、やんわりとしたモアレで頬にそよいでいた。
「あなた、何を考えているの。何も考えていないなんて」
 冴の険しい顔は、どういうわけか普段よりも美しく見える。まなじりが吊りあがり、瞳が傲慢に光った。日本人にはあまり見かけない弓なりにきっちりした唇がこまかく震え、舌がひらめいて半開きになった。
 冴は弾かれたように起き上がると、朱鷺の肩をつかんだ。あなたは何者? いつもぼんやりして、見透かすような目でわたしを見ている。どこか遠くを見ている。
 見開いた白目にさっと青みがさすと、光がほとばしるように涙があふれてきた。
「あなたは全然あたしを見ていない」
 涙は贅沢に冴の頬を伝い落ちた。ぽたぽたと雫がシーツに音をたてて滴る。ぎりっと冴が唇を締めると、朱鷺の肩先を握った指にまた力が加わり、朱鷺はその痛みに息を呑むけれど、逃げようとはしなかった。発作的な興奮、不安定な感情の波、それらはすべて彼女が通り過ぎ、経験してきたものだ。
 やつ当たりだろうか? と朱鷺は冴から目を反らせたが、彼女を突き放す気にはなれなかった。こうしたまだ未成熟な少女の感受性があればこそ、冴との奇妙な仲らいが保たれる。ただ愛撫の技巧だけでカタルシスが得られるような睦み合いなど朱鷺にはできない。たとえ、冴がどんなにきれいでも、こころの琴線に触れない相手と肌を合わせることはできなかった。
「ショパンは」
 何? と冴は鼻をすすりあげた。朱鷺は冴の顔を両手で包み、汗と涙でべとついて垂れさがる髪を撫でてやり、次から次へ流れ続ける涙の粒を親指ですくった。
「彼はとても孤独で……」

 嵐が来て、海で三人の若者が死んだ。
 暴風雨の吹き荒れる最中にサーフィンを試みる無謀を蘭は苦々しげに罵ったが、朱鷺には彼らの逆上が理解できる気がするのだった。
波のひくい日本の海岸では、せいぜい幼稚園児程度の波乗りしかできないのに、鎌倉海岸では一年中サーフ・ボードを抱えた青年たちのすがたが絶えない。
 海。巨大で厖大なエネルギーの混沌に乗りかかり、不安定で、あやうい、風と潮流の拮抗をあやつり、一瞬でも地上に縛られた存在の重みを忘れることができたら。
 嵐の海に突進していった男たちは、きっと内面に抑制できないすさびと奔騰を抱えていたのだろう。盲目的な爆発、明日を、いや一瞬あとの危険を顧みない愚かしさは、もしかしたら人生のある時期にだけ許される蕩尽であるかもしれない。なるほど向こう見ずで稚拙だが、衝動にまかせてタナトスの奔流に身を投じた若い男たちには、たしかに神話的な高揚があった。
「冴がショパンを聴きたいって」
 蘭は首をすくめた。どうした風のふきまわしだね?
「荒れているの?」
 蘭は、毎日のジュルナリエ(日課)にショパンを好んで奏いていた。練習室で日課をこなす姿は修行僧のように厳しくて朱鷺は入り込めない。
「録音してもいい?」
 いや、と蘭は首を振った。こころが波だっているのなら別なものがいい。
 そうして彼は、グランドピアノの蓋を開けると、不思議な旋律をアルペジオで飾りながら奏きはじめた。
「これはチェロで奏く」
 つけくわえたあとで、視線を少し宙に浮かせ、モデルはあらっぽい仕事だからひどく気持ちがすさむだろう、と呟いた。
「おまえは冴とやっていけるのか」
 朱鷺はすこし躊躇し、曖昧に頷いた。
「今は、まだ」
 まだ大丈夫、なのか、まだそれほど感情移入していないのか、じつのところ朱鷺にもわからなかった。彼女がエロティックな衝動だけで行動できるほど大胆ではないと知っている蘭は、加齢のために縁がモーヴいろに霞み始めた瞳をめぐらし、微笑とも皮肉ともつかない口調で言った。
「おまえのようなのが傍にいると、落ち着く人種がたまにいる。俺もそうだ」
 彼はふいに顔を背け、嵐の過ぎさったあとのまばゆい光線に横顔を晒し、恥じ入るように微笑した。 
 晩秋のひととき、ふいにたち現れた蘭の表情は形容しがたいものだった。路を歩いていると、その季節にそぐわない明るい花が、思いがけない陽だまりを盗むように咲いていることがある。秋深い路地に咲き出たたんぽぽ、あるいは野菫の花のように、蘭はひめやかな微笑を朱鷺のまなざしに晒していた。こうしたみずみずしい顔を、蘭はしばしば浮き上がらせるのだった。
 老いてなお柔軟な欲求。歳月の風雨に耐え抜き、時間によって磨きあげられた感受性に対する頑ななまでの自負と、それをまた容易に他人には明かさず、好意を表すために、蘭は露悪的な善意、または善意をこめた露悪とでも言うべき複雑な表現で周囲に集まる若者たちを煙に巻く。
 そんな独得の様式で積み重ねた年輪を時折飛び越えて、蘭の皺をたたえた顔の上にふいにたち現れる、まだまったく無垢な少年の一瞬を、朱鷺はきれいなはなびらを集めるようにたいせつにしまいこむ。 
「冴を追いつめるな」
 一瞬のちに、蘭はもうしたたかな男の顔にもどっていて、幼いこどもをいさめるように朱鷺に言い聞かせるのだった。
「追いつめる?」
「朱鷺は、自分では気がつかないうちに相手を追い込んでしまう。冴はあたまのいい娘だから、今はおまえとうまく距離を保っているようだが」
 朱鷺はそっと蘭に近寄り、鍵盤に置かれた蘭の手に、自分の手を重ねた。うつむくと、狭まった視界には黒鍵と白鍵の規則正しいつらなりが、はてしなく続くように見える。蘭は朱鷺の手を自分の手に乗せたまま、三度の和音をひとつ叩いた。明るく、濁りのない音のつらなりは、共鳴する陪音の粒子を、枝豆のように大気に散らしながらどこまでも響いてゆく。
 朱鷺は弱々しく微笑し、つぶやいた。
「今だけでもいい」

 森のさやぎ、雨の響き、うら枯れ、夕闇せまる秋の野らを風が渡り、藍いろに垂れ込めた雲間から、残んの黄昏が一房の金色を贈り物のように差し出している。
 季節の歌は朱鷺の裡によどみなくこだまし反復し、時を刻み、夢を紡ぎ、つかのまに過ぎてゆく幸福と、いつまでも記憶に残る苦痛のせめぎあいを中和し、止揚し、さまざまな心の襞から滲み出る水脈は、やがてたからかな流れとなって、海へ、はるかな太古へ、未来を包容する混沌へ向かうのだった。
 永遠の循環、生と死のコラール、無限の、夢幻の旋律へ……。
 これは聴いたことがある、と冴は化粧やつれの残る顔を朱鷺に向けた。
 糸ひとすじまとわぬ肢体の若々しさと、撮影のために塗りこめたマヌカンの個性を消し去る化粧とは際立った対比を見せていた。
 白い服を着た黒人の女の人が歌っていたのを覚えている。騒々しいばかりのCMが、そのときだけとても静かで、とても安らかに思えた、と冴は低い声で、雨の降りしきる海に瞳をさまよわせた。崩れたマスカラがピエロの涙のように頬を汚していた。
「ヘンデルのラルゴという曲なの。ゆっくりとおだやかに歌う」
 ゆっくり、おだやかに?
 冴はのけぞり、朗らかすぎる笑い声が天井に響いた。剥きだしの腹が興奮に波打ち、その下のさかんな叢が、ちらちらと甘い色を見え隠れさせるリズムと一緒に、笑い声は痙攣するメゾ・ソプラノから小刻みに音階を降り、苦々しげにアルトの最低音で滞る。冴はげっそりと唇を舐めた。
「あたしには縁がない。いつも何かに追われて走るだけ」
 見てよ、この顔、と冴は自虐的に唇をひんまげて、営業用の笑顔をつきつけた。きれいに一筆書きした舟のような口のかたちとは裏腹に、両眼が大きく見開かれてこわばっている笑顔。グラビアで見ると美しいのに、現実に間近に見ると違和感のある表情だ。
「メイキャップが自分の顔だなんて思えない。でも、こんなオバケに馴れちゃうと、今度は塗っていない自分は自分じゃないような気になる。お化粧しないでいると不安になるの」
 朱鷺がうなずくと、冴は不服そうに鼻を鳴らした。わかりっこないわ。
「あなた、いつもノーメイクじゃない。すべっとした赤ちゃんみたいな肌で」
 冴は一瞬の躁状態から一転してたちまちナーヴァスに眉を寄せた。すると、プラスティックめいた質感の皮膚が鼻筋の付け根で、生き物の温かみを見せてよじれ、美容パックを引き剥がすように、そこからぴりりと破れてしまいそうに危うい。
「あなた、悩みなんてないみたい」
 ため息といっしょにうっかり言ってしまってから冴はぎくりと口を噤んだ
 不用意なことを言ってしまった、と冴は後悔する。表には出さないだけで、彼女はもちこたえているつらさがある。この子、あたしより年下よね? でもあたしより靭いの。
 朱鷺は冴を見ていない。彼女は、まだこどもっぽい裸身をさらしてたちあがり、夕まぐれの金いろがひとかけら、雨雲の隙間から海に投げ込まれている光景を全身に吸い込もうとして、ほっそりした腕を窓にむかって拡げていた。
 こまかい秋雨が海面を叩き、もうすっかり夜闇に呑みこまれようとしていたが、西の彼方の雲が、まるでそこだけ鑿でえぐったように、深く狭く穿たれ、中から茜いろがこぼれていた。くらい海、くらい空に、茜は恩寵のように透明な帯を曳き、光が反映している水面は、薔薇色とも金色とも、なんの色ともつかない夕惑いの色彩で、波の起伏をきらめかせていた。 
 朱鷺は精霊となったジゼルがアルブレヒトをそっと庇う仕草で腕をひろげ、長くて華奢なくびを傾けながら、漂うように逆三角形の窓に身を投げかけた。
 飛んでいく、と冴は密閉された筈のこの部屋が、ふいにばらばらに壊れ、いまにも地上の束縛から解放された者が、羽ばたきを残して消えさってしまう、という確信にとらえられ、鋭く叫んだ。
 おびえないで、これは森の響き。
 藍いろをつらぬくように、冴をさしつらぬいた茜の幻影は、目を開けたときにはもう低い雲に垂れ籠め、ひたひたとしめやかな絃の諧調に紛れてしまっていた。
 泣かないで、これは優しい曲なの。とても慰められるでしょう?
 泣いてなんかいない、と冴は抗議しようと唇を開いたが、とたんに塩辛い涙が喉に流れこみ、ひどく咽てしまう。
「森のささやき」
 朱鷺は冴の肩を抱き、背中に手を添えて、森が見える? と囁いた。
 冴は頑固にかぶりを振る。
「あたしはあなたとは違う。グラスウォールとポリエステルの城で生きているの。森なんて見えない。森がどこにあるの? 昨日は新宿で撮影。原色のファッションでホームレスの匂いのするタイルにしゃがんだ。埃っぽい空気と煙草。排気ガスに塗れて笑うのよ」
 冴はすすり泣く。欲しいものが何なのか、自分がどこへ行くのか、いったい自分が何なのかわからない、と泣いた。
 わかっているのは心に深い欠落があり、うわべは何不自由なく、快活な毎日の背後に、いつもやりきれない苛立たしさを抱えているということだった。ひとからは美人と言われ、我儘いっぱいに育ち、ちやほやされながら、冴は自分を甘やかす人間を嫌った。こいつらはあたしの皮しか見ていない。皮を剥いでほんとうのあたしを見せてやりたい。
「でも、ほんとうのあたしなんていない。同じ出来事なのに昨日は楽しく、今日はくだらないと思ってしまう。あたし自身もそう。自惚れているくせに、突然自分が醜く感じられて、その度にあの鏡を割る」
 苦しいわ。ねえあたし、朱鷺を好きなのかしら、樹を愛しているかしら、あたしは本当に自分以外の誰かを愛せるの?
 冴は絞るように汗を滲ませ、歯の根も合わない体の震えを押さえこむように膝を抱えてつっぷした。ふくらはぎにぎゅっと食い入る爪は血の気を失い真っ白だ。
 可哀想に、と朱鷺は冴の背中を抱く。掌を伝わる自分の温もりで、冴の苦痛がほぐれてくれたら。
 やがて天鵞絨のような弦楽の深みの、軽やかなたゆたいをとらえて、冴の耳に囁きかけた。寝ようよ……。
 朱鷺のゆびが冴のこわばったこめかみを撫で、喉をすべり、胸をなだめ、触れあう肌のすべては、そうして懐かしさに和らいでゆく。
 ラルゴ、これはアダージオ、どちらもゆるやかに、流れるように、と朱鷺は触れるか触れないかの境、皮膚の産毛を微風が撫でるように、くちびるを、それから舌をすべらせるのだった。
 ラルゴのゆびとアダージオのくちびる、と冴はこわばりを砂糖のように崩してゆく朱鷺の愛撫に身を委ねる。
「音はね」
 と朱鷺は鎖骨のくぼみを小指でなぞって囁く。
「ふつうのひとの耳には聴こえないけれど、空気のなかに、透明な陪音が、ひとつの音の彼方に無数に揺れている」
 だから。……世界はいつも無数の響鳴に溢れている。このチェロとピアノの調べ、冴の喘ぎの、ひとつの音、ひとつの沈黙のあわいに、目に見えない音の森がどこかへ向かって拡散してゆく。
 どこへ、と冴は自分の繁みをひらいてゆく朱鷺のゆびにあやされながら、かろうじて尋ねる。朱鷺は柔らかくて繊い髪を冴の胸に残しながら這いおりてゆき、冴の膝に頬をよせて、やんわりとひかがみに息を吹きかけると、冴の背中の神経が、ふわっと暖まるような快感がひろがる。
 暖かい息はやがて、待ち焦がれたゆびのヴィヴラートに変わり、中心の襞をなよやかにひろげながら波紋を描き、吐息はさしせまったものになり、喘ぎを呼んで髪が乱れる。
 触れ合う肌の歌。雨に叩かれる欅、風になぶられるミモザの、失われゆく森影を女たちは奏でる。チェロがピアノにまつわり流れるように、旋律と伴奏が絡み合うように、女たちは手足を織りひろげる。
 音の粒はどこにあるの?
 ここに、と朱鷺ははなびらをひらき、病み疲れた冴の顔とは裏腹に、みずみずしい滴りにきらめく芽を舌ですくった。あ、と冴が腰をひくのを許さず、扉を押し広げるように腿をひらき、そのひかる紅いろを味わう。
 これで音を、匂いを、時間を見つめる。
 目に見えないものを聴き、耳に聴こえない音を感じとる鍵。
 もっとはやくこうしたかった、と冴はひらかれた快楽のきざはしを、次第に速度を速めて駆け上りながら。みなぎり渡るクレッシェンドの水平線めがけて。

海の器 vol3 INTERMEZZO

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  INTERMEZZO

 金色(こんじき)の獣刈りゆく秋の陽に
海をしのぎて森炎(も)ゆるかな


北鎌倉に入ると景色が変わる。
 低く、まるい丘陵の緑深く、湘南の森は風をひろやかに享けて、広葉樹の梢に陽射しが柔らかく揺れる。
「何億年か、何千万年か前に、伊豆半島は太平洋から日本列島に流れ着いたそうだ」
「だからあたしはこの土地に馴染んだの?
あたしは南方系でしょう」
「そう、だがおまえは少し北の血もある。膚のいろなど南国のものではない」
 蘭は朱鷺の仄白い首筋を覗き込んでつぶやいた。そうかといって、朱鷺の皮膚は北国の皮下脂肪に光る白さではなかった。寒風を弾き返す強靭なあぶらに湿るきめこまかさ、密生するこわい体毛はほとんどない。
 蘭の言葉を、かすかに、小首を傾げて耳を傾ける、ほんの少しの媚態の狭間に覗く、首や腕の青みがかった透明感は、いくらか腺病質な気配をほのめかせたが、米沢紬の紅の反映のために膚が蒼ざめて見えるなめらかさは、朱鷺独得のものだった。
 車内には秋の光があふれていた。過ぎた夏には、垂直に照りつける陽光が濃い影をつくり、明るさよりも影の暗さが際立ってしまうが、傾いた太陽の光のひろがりは、影の領域にも鷹揚に、ほのかな金いろのルフレを許す。
陰影はオーヴァー・コントラストの苛烈を免れ、光と影はかろやかな和音を奏でていた。
 こんな、影のなかにも輝きが揺れる微妙は朱鷺の皮膚の質にそっくりだ、と窓際にゆれる少女の顔の柔らかい影を眺めて、蘭は彼女が閨でひろげる情景を想った。
 繊細な起伏はどこまでも歪みなく、ところどころに少年めいた骨格が浮く。愛撫の極まりで手足が複雑に折れ曲がると、手首や腰に透ける骨のかたちは思いがけずつよく、こうした部分的なあらびは、全体のしなやかさを健やかにひきたてるのだった。
 列車が鎌倉に着き、朱鷺は立ち上がった。
「夜には帰ります。たぶん冴が送ってくれるから」
 蘭は眉をあげ、視界から消えてしまう乳白色の皮膚を惜しむ。ほんのひととき離れるだけだが、哀しみのような痛みがある。
 異邦人として欧州に暮らした経験から、蘭は自分の感情を突き放して味わう術を身につけている。この悲哀は、晩夏のシエナでつまんだ味、農家の庭先で籠に盛られて陽に晒された無花果のように鄙びていた。
(あの娘は俺がつくりあげた)
 蘭は、自分の上を過ぎ去った厖大な時間と、行く手に待つそれほど多いとは言えない季節を、飾りのない野花に目を凝らすように、朱鷺という娘の裡に見出そうとした。朱鷺の中で蘭の過去は還元され、色褪せぬまま未来へ、やがて来るべき死へと昇華してゆくのだった。

 長谷の駅前で、冴は所在なげに煙草をくわえていた。秋立ち深まる鎌倉は観光客であふれ、週末の人手はたいへんなものだった。
 アンバー・グリーンのアーミーシャツなどよほどの美人でなければ、本当に似合いはしない。例えば冴のような、と朱鷺はサングラスをかけた彼女の、衣装の粗雑ゆえに際立つ洗練をまぶしく見上げた。
「待った?」
「来たばかり。暑いわ」
 吸ってもいない煙草を投げ捨てて、冴は頭をあらあらしく振った。夏の間に延びた髪の下がり端がぎざぎざと、中途半端な長さでたてがみのように揺れる。
「あなたがサングラスとは珍しい」
「夜店で買ったの。中国人みたいでしょ」
 冴の喉がすこし嗄れている。鬱屈した感情を朱鷺は感じ、彼女の表情を隠す黒いレンズをじっと見つめて囁く。
「気持ちのいい天気なのに、どうしたの?」
 冴は大きめの口許をきゅっとひきしめ、髪をかきあげた。
「わかる?」
「……」
 行きましょう、と冴はサンダルの音高く歩き始めた。レザーのミニスカートから伸びた脚の長さはすばらしく、しなやかで均衡のとれた肉付きはいくら見ても飽きない。
 いくぶんなげやりなその歩調につれて、秋の照り返しがフット・ライトのように剥き出しのふくらはぎからひかがみを輝かせ、擦れ違う観光客たちが冴をまぶしげに仰ぐ。道行くひとより冴は頭ひとつ背が高い。和服の朱鷺の狭い歩調を気遣って、冴はゆっくり歩いてくれる。
 大通りは観光客相手の店が軒を並べて賑やかだったが、そこから一つ二つ奥に入ると、突然しんと森影深く、色づき初めた楓が繊細な陰影を澄んだ秋空に織りあげる。
 ゆるい坂の途中で、冴はサングラスをむしるようにはずし、朱鷺を振り返った。
「婆ァを見せたくないな」
 視線が逆上していた。フレームの跡が鼻の両脇にくっきりと刻まれ、唇の片側が神経質に震え、ふいにいくつも老け込んで見えた。
「嫌なら帰る」
 朱鷺は袂からハンカチを出し、大粒の汗を滲ませた冴の額に押し当てた。冴はぐらりと人家の石垣に寄り掛り、乾いた唇を舐めた。化粧をしていない唇の珊瑚色の粘膜がひび割れ、愛撫に耽りすぎたあとのように白く剥けていた。
「いいえ、来て。ほんとうにくだらない取材、あたしの家なんて」
 冴はきっぱりと顔を上げたが、朱鷺のまなざしを避けるように横を向き、石垣の上一面に咲きむらがるサルビアに視線をさまよわせた。ギリシア彫刻の完璧さにわずかに及ばない横顔の輪郭は、その不完全ゆえに生気を帯び、頭上に枝さしかわす秋の緑蔭に縁取られて、彼女の顔から苛立ちの澱みが消え、瞑想的な表情に移って見えた。木洩れ陽にちらつく濃い睫毛が頬に落とす影は樹と同じもの、と朱鷺は思った。
「葛の花の匂いがする」
 朱鷺は呟いて冴の腕に触れた。夏の海水浴のせいで彼女の皮膚はブロンズ色に焦げ、秋かけて徐々に褪めてきてはいたが、ことさら自分をいためつけるように海へ立ち向かっていった冴の姿がまざまざと見えるようで、このざらついた感触を朱鷺はいたんだ。
「終わったら……撫でて」
 冴が朱鷺に甘えて手を掴む。朱鷺の手は使い込んだ楽器のように敏感に、しっかりと冴に応えてくれる。この手には曖昧な誤魔化しがない、と冴は考え少し気持ちが楽になる。朱鷺はあたしの望みどおりにしてくれる。冴の指を握った朱鷺の手がそう言っていた。

 樫の重厚な扉を冴が無言で開けた瞬間、彼女のたかぶった熱がさっと匂いたった。
「サーモン・ソテーのオレンジソース。樹の定番」
 冴は朱鷺をふりかえって笑ったが、苦しげに見えた。
 薄暗い廊下はひろく冷たい玄関からまっすぐに長く伸びて、その両脇に一定の間隔で扉が並んでいた。古い木と石の匂いがする。百年も経った昔の小学校の廊下にこもる匂い。あるいは人気のないカトリック教会の大聖堂の匂い。この家には生活している人間の気配が稀薄、と朱鷺は感じた。
 ルネ・マグリットの絵そっくりに超現実味にしつらえた廻廊の突き当たりの高窓から帯状に光線が射しこんでいる。そのまた上の丸窓は鮮やかな青と赤のヴィトリーヌで、花模様の色ガラスの影がひんやりした薄闇に万華鏡のように散る。色ガラスの華やかな拡散のために、高窓から差し込む光の印象はかえって薄れ、朱鷺の視線を助ける明るさはおぼろだった。どこからか冴の母親らしいひとの声が甘く響いてきたが、何を言っているのかはっきりとは聴こえず、はたりはたりとスリッパ穿きの足音だけ近づいてきた。
 ひとつの扉が開いて、美しい女が現れた。彼女は少女ふたりに無表情に笑いかけ、着丈の短い紫色の上着を、オレンジ色のブラウスの上にかるく羽織っていた。香水と、セットしたばかりの髪からたちのぼる薬品の匂い。どちらも甘く、どちらも濃い。香り付けは何かひとつにしてよ、と冴は口の中で呟く。ブラウスのデコラティフな襞と貴金属のきらめきが、やや面長な累の顔を、額縁のように支えている。
「あがっていただきなさい」
 累はだるそうに言う。東洋的に上下の厚さの揃った小さな唇に浮かぶ微笑はいかにもよそゆきだった。
「どうぞ。テラスに」
 累の顔は冴に全く似ていなかった。これだけきちんと造作の整った美人はテレビか雑誌でもなければ、街中ではまずお目にかかれない、という美度において母娘は等しいのだが、たぶん、もう四十半ばを過ぎている筈の累には、年配の女なら漂わせていてほしい柔らかさやおおらかさというものがまるでなかった。
(こどもを産んだひとには見えない)
 すらりと背が高く、ぴっちりしたスカートに貼りついた腿はひきしまり、黒と金の幅広のベルトを締めた腰まわりこそ、すこしだぶついているが、それさえも成熟した重い色香と見える。
「食堂じゃないの?」
 冴がきつい声で尋ねた。この親子はまともに視線を交わそうとしない。
「賑やかな方がいいから、お客様を何人かお招きしたのよ、秋晴れだし」
 ゆらゆらと首を振って累は応じたが、娘を振り返らない。二人は母と娘というよりも商売敵のようにとげとげしたイントネーションで言葉を投げあい、聞いている朱鷺は居心地が悪くなってしまう。
 ある扉の前で累はいきなり立ち止まり、くるりと娘をふりむくと、まるで初めて娘の存在に気がついたとでも言うように、じろじろと無遠慮な視線を注ぎ、いっそう険悪な声で、
「あなた着替えなさい。くすんだ緑ね。服は用意してあるんでしょう?」
「おおきなお世話」
 累の攻撃を冴はむしろ待っていたかのようにはっきりとつっぱねた。
「たかがローカル雑誌の取材じゃない」
 負けずに累は言いつのる。到着早々の険しい雲行きに驚いている朱鷺の存在など無視して、
「でもね、あなたお化粧もしてないし、目脂がついてるわよ。せめて顔を洗うくらいの気遣いはしたらどう?」
 言いながら累は片手で撮って把手を握り、雰囲気に似合わない小娘のような敏捷さで体をすべりこませ、捨て台詞のような音をたてて扉がしまった。
 冴は腹立ち紛れに扉を蹴る。
「いやな女。あらさがしばかり」
 物音を聞きつけて廊下の角から樹がやってきた。白いうわっぱりを着ている。
「どうした」
 樹は怒っている冴と、その横で半分呆れ、半分途方に暮れている朱鷺をかわるがわる眺めた。
「身なりにけちをつけるの」
 樹は灰色の瞳をくるりとめぐらし、皮肉っぽい微笑を浮かべた。
「ダイエットしているからいらいらしているんだろ。冴の脚がきれいだから」
 いいじゃない、それシンプルで、と樹は厚い板のような上半身を大きく反り返らせて背伸びをした。
 青年の伸びやかな腕が風を起こすと、汗とオレンジの匂いに蒸された若い熱が来た。強い陽射しを浴びたように朱鷺は一歩後じさり、彼の濃い体臭から逃げる。彼女は蘭にならって自分の怯えを味わおうとする。けれども、この動揺は蒸留酒のように濃すぎるので、彼女の思い通りにならない。
 
 中二階のテラスは両脇をヒマラヤ杉で囲まれ、杉の枝を厚い帆にはためかせて、彼方の材木座海岸へ乗り出してゆく船の舳先のようだった。
 簡素で堅牢な食卓がもう整えられ、《クラインの青》のテーブルクロスがさわやかに真昼の光を吸い込んでいる。
 先に招かれた者たちは一様に手摺にしがみつき、眼の前にはろばろとひらける海に見とれている。海風が杉の枝を揺さぶり食器で固定されたテーブルクロスの端が帆のように、風をはらんでめくれあがる。秋の憂いは中二階を包む常緑樹の単純な彩りにかき消され、テラスには巻き戻した映像めいて夏の響きがいっぱいにあふれていた。
 隅のロッキング・チェアに座っていたウラジーミルは冴の姿を見て手を振った。光沢のある卵色のシャツに、膝の抜けたブルージーンズを穿き、風変わりな麦藁帽子を斜めにかぶり、それが風に吹き飛ばされそうだ。
 冴は足を速め、しがみつかんばかりの勢いで父親に寄り添い、ひどく甘ったれた表情で朱鷺をひきあわせた。父と娘の背丈はほぼ同じくらいで、杉の翼のつくりだした緑の翳に並ぶ二つの顔は罪作りなほど似ており、この二人のそっけない身なりは対の印象を与えた。
 大きな声で笑うのよ、それがとても好き、と冴はウラジーミルの姿を朱鷺に語っていたが、眼の前にする美青年のまま時間を刻んでしまった男からは、朱鷺が想像していたような磊落さは感じられない。
(引退したバレエ・ダンサーみたい)
 朱鷺は彼の、混血らしく調和のとれた額やこめかみを感動して眺めた。木綿糸のような皺が目もとや口のまわりをとりまいているが、贅肉のない精悍な輪郭を保っている。
「着物、いいね」
 挨拶ぬきに、ウラジーミルはかすかに肩を揺すりながら身を乗り出した。好奇心を丸出しにして朱鷺を見る彼の眼には、女を値踏みする生な感情は皆無で、めずらしい小物を発見した少年のようだった。彼は鍔をざくざくと切り落とした麦藁帽子を伊達に被っていた。
 これが冴と樹の父親、と朱鷺は意外な気がした。ウラジーミルは挫折を知らない二十代の青年のようだった。樹よりもっと淡い双眸には翳がなく、息子のような烈しさは感じられない。うまく隠しているのかも知れないが。
 二十歳の樹のほうが、そのアトモスフェールに、父親よりも豊かなニュアンスをたたえていた。
「御自分でお召しになるの? 若いのにめずらしいわね」
 テラスで、ウラジーミルとは逆の反対側にいた紺色のカーディガンの女が、むしろ冷淡に声をかけてきた。狐のように顎のとがった女は痩せて小柄で、彼女にはあまり似合わないエスティ・ローダーのダイナミックな香りが鼻についた。襟と袖口に二本の白線が入ったシンプルなニットドレスは、名門女子校の制服のように禁欲的だが、首に金貨をあしらったペンダントを下げ、手首や指にも同じようなコインモチーフのアクセサリーを重たげにじゃらつかせていた。
「好きだから、よく着ます」
 朱鷺はこれまで何度も尋ねられた質問に、同じような答えを返した。するとまた、
「めずらしいわ、あなた位の年齢で。まだ十七、八でしょ?」
 朱鷺は曖昧に笑い、うなずいた。年齢と和服を自分で着られることと、どういう関係があるの?
 それから一呼吸おいて別な声が割り込んでくる。
「着物にしたって、あなたがお召しになってるの紬じゃない。でも、似合うわねえ。まだ十代でそんな渋いもの選ぶなんて立派よ」
嗄れているのに甲高い、奇妙な声だ。アペリティフのグラスを手にした男は、時代劇の年増女のようにしなを作った声で、意味のない逆接語を使う。
「でも、いいわねえ、若いひとって。あたしのところにお稽古に来る方たちも、しょうばい柄着物のひとが多いんだけれど」
 しょうばい、という言葉に彼は少し思わせぶりなアクセントを籠めた。半白頭で、背中と腹が同じくらいにまるく肥った男は、茶道の師匠でエッセイストという。五十がらみだろうか。血色のよい丸顔に、戯画のような丸眼鏡をかけていた。イイワネエ。女らしい言葉使いが、すこし気味悪い。蘭も時と場合によって女性めいた言葉を客相手に使うが、この丸眼鏡さんの口ぶりは、あきらかにウェットな男色の気配を悟らせた。
「冴ちゃんはお着物どう?」
 彼は冴に親しげに話しかけた。
「あたし、背が高すぎるから」
 ほら、と冴はみずみずしい仕草で手足を伸ばしてみせた。アオザイにすこし似たカットの大胆なブラウスは,くっきりとその下の裸身を強調し、盛り上がった乳房がいまにもゆるい襟の合せめからこぼれそうだ。絹糸のようなひとすじの金鎖が胸の曲線をなぞってうねり、繊細であらけずりな青春を謳歌していた。
 男は丸眼鏡の金縁を持ち上げて汗を拭き、おざなりなお世辞を言う。
「でも、着映えするんじゃない? あたしのところにも、着物好きなアメリカ人のお弟子いるの」
 すんなりとまっすぐな冴の肢体を間近に見て彼は無意識に背筋を伸ばさずにはいられなくなる。
 やがて累がカメラマンと編集者を伴って現れた。
「お料理が来ます。撮影だから全部運んでしまうわ」
 まばゆい外光の中では、彼女の肌はだいぶ褪せてしまう。累はコンパクトをひらき、かるく脂をおさえた。外で食べるなら、もっと気軽な衣装でもよかったろうが、累はオレンジのブラウスの襟をきちんと合わせてきた。飾りボタンがきらきら光る。アフタヌーンというよりは、夜の装いのようだ。
 厨房から樹が配膳台を押してきた。さまざまな取り合わせの雑然とした献立が、やはり累の好みにしたがって並ぶ。冴は手すりにもたれ、無関心に眺めるだけで、手伝わない。
 豪華ですね、とスーツをまじめに着込んだ編集者が言うと、茶の師匠は少し嘲るような微笑を浮かべ、注釈した。
「これはこの家の坊やの作品なんだよ」
「うまそうだな」
 ウラジーミルは率直に歓声をあげた。小太りの師匠はすばやく表情を変えて、
「腕を上げたわね、息子さん」
「ほどほどに」
 ウラジーミルは答えたが、師匠のほうは見なかった。
「暑いからさっぱりした感じにした。ローストビーフはつけたし」
 樹はソースの染みのついたうわっぱりのままで椅子に座った。
「フィレのステーキじゃなかったのか」 
 父親の不満げな質問に、樹は濃い眉をあげて母親を見やり、唇の端で笑った。
「ローストビーフのほうが健康的よ」
 累はコンパクトを開き、また粉をはたきながら夫と息子を上目に睨んだ。海風が累の顔の周囲のフリルをばたつかせ、肥りはじめた首筋を露わにする。オレンジいろの強烈な反映のために累の顔色はくすんでしまい、もう料理の並んでいるテーブルを前にして、彼女はさらにチークを直しはじめた。
「冷めちゃう」
 冴はずけずけと批判した。朱鷺の横に冴は長い足をもてあますように組んでいた。反射板を加減していたカメラマンは、若い男の貪欲な視線を冴の膝のⅤの字の重なりにすべりこませ、視線に気づいた冴は臆するでもなく、膝をわざと高くあげて脚を組みなおすと、膝頭をわざと開き男の窃視に抗議した。まっとうな弁えのあるカメラマンはこの露骨にあわてて眼を逸らす。
 累の念入りな身仕舞いを待つうちに、海は少しずつ暮れがたの薔薇いろを帯び、水平線は夕靄に溶け始めた。

「もっとおしゃれしてくればいいのに」
 累は食後のけだるさにだらんと椅子によりかかり、かるく顎をつきだしてほそいシガレットを銜えた。夕翳はもう仄暗いが、累の顎から喉にかけてのシルエットはすっきりとなめらかだ。ナルシストの彼女は娘の身なりになど本当は関心がないのだった。娘だけではなく、累が心から興味を持つ他人などいないのだろう。累の覗く鏡は、彼女以外の誰も映らない魔法の鏡だった。
「堅苦しくなくてお似合いですよ」
 風が出てきたので、半袖のTシャツの上にウィンドブレーカーをひっかけたカメラマンは、ちらりと冴の顔を見て言った。おべんちゃらではないから、彼の声は少し喉にひっかかってうわずった。にしても、彼は被写体に向ける光の量を測るように、余計な感情を加えずに褒めたので、その場にいた誰一人気分を害さなかった。
「もうちょっとソースは濃いほうがいいわ。今日はちょっとプロヴィンシャル」
 累は思いついたことを口にした。
「そう? ロワのマスターはちゃんと樹をしこんでくれたよ。この家をいつか料理屋にしよう。もういい加減古いしね」
 ウラジーミルはこともなげに応えた。その場の誰もが、累の口調のかすかな苛立ちを感じとっていたのだが、それを平然と無視しているのは、夫であるウラジーミルただひとりだった。累が舌にからみつくような声遣いで喋りだすと、テーブルの会話は途切れ、なんとなく彼女の声に耳を澄ませてしまう。累と冴が並ぶと、よく言われる形容だが、とうてい母娘には見えず、あまり似ていないが同じくらい器量のいい姉妹に見える。それどころか、まひるの陽射しが弱まるにつれて、累のきらびやかな装飾と隙のない化粧の効果が現れて、素っ気ない姿の冴よりも美しく見えるのだった。
「またイタリアへでも行こうかしら」
 累は自分のほそい指を目の前でかるく握ったりひらいたりした。体に回った酔いの具合を測るときの彼女の癖だった。それほど長くはないけれど、白くみずみずしい指には、ジャンマリア・ブチェラッティの宝石が輝いている。黄金の葉で包まれた黄緑色のペリドット。誰が彼女に贈ったものだろう? 
「最低でも五キロは肥るよ」
 樹が茶化したが累は平気だった。
「本場のオペラを楽しみたいわね」
 彼女の言葉遣いは、内心の苛立ちを抑えきれない我儘な少女のようだ。いらいらに理由などないのだろう。
「北より南のほうがいいんじゃない? これからの季節なら」
 ウラジーミルはふざけているのかまじめなのかわからない口ぶりで、いちおう同意して見せた。すると累は樹に皮肉られたときとはうってかわったきつい眼差しで夫を見つめ、
「スカラ座ですよ、もちろん」
 妻のささくれを、ウラジーミルはもちろん無視した。
 テーブルを囲みながら、あちこちで中途半端な会話が始まっては途中でふいに宙吊りにされる。まとまった話柄など何一つなく、料理や酒や、そのほかの何やかやで会話はいつとはなしにとり紛れ、ばらばらに夕風に散ってゆくのだった。
 カメラマンは冴に話しかけた。
「もしかして……誌に出てます?」
「モデルだから」
「見たことあると思った。素顔だと感じが違います」
「素のほうが冴はきれいだよ」
 樹は両手を頭のうしろに組んで横柄に会話に割り込んだ。所有を侵害される不快感が露わだ。朱鷺は葉隠れに浮かぶ樹の横顔を見つめる。
(樹のほうが親みたい。もう人生の苦さを知っている。この子は自分が何を望んでいるか知っている)
 樹の顔は翳にひたって黒ずんでいた。いましも沈みゆく太陽が木蔭を超えて金色と黒のだんだら縞を織り、その中で樹はジョルジオのように気難しく唇をひきしめていた。光線の縞は、彼のやや起伏のある額、節のある鼻みねを染め、刺青のように呪縛のように見えるのだった。彼はうっすらと眼をほそめ、獲物を狙う豹のような視線を姉に注いでいる。
 それぞれの席で泡のように浮いていた話し声が、なぜか一斉に途切れると、でもね、と茶の師匠がふいに自分の腎臓病の話を始めたが、埋め草にはならなかった。
 朱鷺は一瞬放心していた。感受性が昂ぶって様々な印象で心がいっぱいになると、ブレーカーがばちんと切れるように、いっさいが白っぽい闇に溶けてしまう。だからその時、累が矛先を変え、おもむろに朱鷺に向き直ったのに、まったく気づかなかった。
「ね、あなた」
 冴が朱鷺の脇腹をつつき、想念に沈みこんでいた彼女をひっぱりあげた。
「アーティストでいらっしゃるの?」
 累はあまったるく笑いかけた。ちょうどテラスの四隅に立てられた百合型のランプが灯り、ぽうっとまろやかな淡黄が紺青の闇にひろがった。
「そんなたいしたものでは…。アーティストって」
 と朱鷺は応えに困るのだった。あいまいな、中身のはっきりしないかたかなのかたがき。蘭がひどく嫌うものだった。アーティスト、オブラート、テヌート、ソステヌート、シルフィード…竹内蘭はピアニストで、朱鷺は芸術家なんかじゃない。妖精かと聞かれたら、よろこんで、はい、と答えるかもしれない。妖精じゃないけれど。でも彼女は精霊かもしれない。人間じゃないかもしれない、と朱鷺を見知ったひとの多くは、そんなことを言うのだった。
「月に何度か、パートナーの演奏で踊るくらいですから」
「あら。じゃあダンサー? あたしもバレエを習ってたのよ。パブロワさんのお弟子が居たので。あなたはどちらのバレエ団?」
「ソリストですから」
「お独り?」
 累はたくみに間を置き、中国風の螺鈿のシガレットケースから一本ひきだすと、悠然と火を点け、舞台で演技するようにかたちのよい唇をわずかにゆるめて煙を吐き出した。
「バレリーナの子、知っているけれど、あなたはちょっと変わった雰囲気ね」
「ひとそれぞれじゃないの」
 冴が口をはさんだ。
「変わっていてあたりまえ。樹だって」
「俺は中退だもの」
 樹は露悪的に言ってのけた。
「ドロップアウトだって、コックに学歴はいらないさ」
 肩を揺すりながらウラジーミルが受け流した。あっけらかんとした声音だった。樹は自分の言葉の重みを知っているが、ウラジーミルには底意がない。彼は家族に対して友人のような態度で接する。仲の良い友人、疎遠な友人、同性の、異性の…。鬱陶しさのない親愛と、放埓の裏に守るエゴ。
 誰かがくしゃみをした。
「リビングに戻りましょう。寒いわ」
 家族の心は皆ばらばらなのだけれども、一緒になると、その場を仕切るのはなぜか累なのだった。
 こおろぎの鳴き声が星のまたたきと同じリズムで杉の枝を揺さぶっていた。見透かすと彼方の三浦半島の夜景が湾に沿って曲がり、あの夜露のようなきらめきのどこかに蘭がいる。そこが自分の居場所、と朱鷺は胸がしめつけられる。

 帰る?
 冴の眼に険しい光はもう消えていた。労わりさえ浮かんでいる。
「疲れさせたみたいね」
「いいえ、楽しかった」
 樹は黙って姉の横に立っていた。彼の沈黙が朱鷺と冴を隔ててしまう。
 送るという申し出を断わり、朱鷺はひとりで坂道を下りた。
 冴を今夜撫でる……握るのは樹。いや、冴が弟をつかむのかもしれない。樹はほころびなど見せなかったけれど。
 好意さえも。
 強いひと、と朱鷺は思う。
 リリ、リ、と虫の鳴き音が秋の夜に漣を寄せてくる。
 目をあげると、月にうっすらと暈がかかって真珠貝の内側のような虹いろの波紋が滲み、風吹くままにゆるゆると拡がり、また縮む。
 夜風が朱鷺のなかに流れ込み、感情の澱をすくって流れてゆく。流されずに残った幾つかの記憶が破片となって胸を刺す。
 幸福と不幸は、ひとつの軌跡の上にある。
 どちらも等しい痛みをくれる。
 いつかは、と朱鷺はまた繰り返し思う。いつかはあたしも死ぬ。生きていることの一瞬ごとの痛みから解放され、静かで寂しい無に帰る。
(古い織物がだんだんとほつれて、おしまいには散り散りになるように、時間が織り上げた人生はやがてばらばらになる。どんなに美しいものであっても) 
 あるとき刺繍をひっくり返すように人生の裏が見え、この糸とあの模様とのつながりが見えてくる、と蘭が言った。
 ふいに金木犀が香り、彼岸の灰色の汀にひたりかけた朱鷺を驚かせた。闇の奥から清冽な花の香はおずおずと流れこみ、この素朴な歌声のような香りが朱鷺を此岸に呼び戻した。
 白けた蛍光灯がかえって薄暗さを際立てる駅の改札に、思いがけず蘭が佇んでいた。
「車かもしれないって言ったのに」
 朱鷺は夜気に冷えた蘭の手をとった。柔らかくて厚いこのてのひらは、言葉よりずっと雄弁な時があり、その宵はそんなふうだった。
「なんとなく、ね」
 蘭ははぐらかすように微笑み、自分の感情を語るかわりに、朱鷺の顔を覗き込み、彼女の顔の下瞼の薄青い翳を目ざとく見つけ、疲れたろ、と言った。

海の器 vol2  NOCTURNES

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  NOCTURNES

潮呼び君は響きぬ重なれば
         禁忌より濃く我も流れむ


 誰かを愛したことある?
 ぬるい睡りに漂いはじめた樹に冴はささやきかけた。藍色の闇はびろうどめいて深く、少し開けた西の窓から月光がしらじらと流れ込んでいる。下半身を重ねたままの二人は、この蒼白な月明かりの底で、藻にとらえられたなめらかな魚のようだった。
 樹は濃い睫毛を物憂げに持ち上げ、半透明な瞳で冴を探したが、視線は肉の余韻を反芻している。
 冴は重ねてその耳許にくちを寄せ、ねえ、と囁いてから体毛のわずかに繁る胸に舌を這わせ、野葡萄いろに凝る乳首を噛んだ。
 繁りに籠もる体臭はプロヴァンスのチーズと同じで、冴は自分と同じその匂いを、こよなくなつかしいものに感じている。
「なに」
 樹は灰色の瞳を見開き、不機嫌そうに鼻に皺を寄せた。鑿であらく刻んだような樹の目鼻立ちは、起伏の激しすぎる山並のように深い陰影を彫りあげる。
「冴だけだ」
 そっけなくこたえて両手を頭のうしろに回して欠伸したが、ふと呼吸をとめて冴をまじまじと見つめた。
「俺を愛していないな」
 ……。
 冴は寝そべったまま明かりを点けた。くすんだ金色の光が月明かりに溶け、睦み合いに乱れた寝室を照らし出す。
 樹は長い腕を伸ばし、起き上がろうとする冴の髪をうしろからつかんで引き寄せた。
 のけぞりながら膝に倒れかかった冴の頬を樹は大きな手ではさみ、くちを重ねた。舌がからまり、吐息が溶け合う。
 そのまま樹は冴の乳房を握り、その緻密な量感をたのしみながら、中指と薬指の間に乳首をはさんで、小刻みに揺すりはじめた。
 もうだめ。
 冴は首を振って執拗なくちから逃れようとするが、樹はそのまま冴の腰を抱え込んでしまう。
 濡れてる。
 樹はうれしそうに冴の内部に指をひたす。樹の仕草は単純で駆け引きがない、と冴は粘膜の感覚に捕えられながら思う。冴の顔の前でこわい毛で覆われた樹の腹筋が揺れると、そのまま二人はもつれあってお互いの深みに溺れた。
 やわらかく折りとられたばかりの茎が冴の指なぶりによみがえり、色づいた暈をひろげる。血の色を湛えた粘膜には冴自身の残り香が濃くまつわりついていて、乾きかけた剥落は白く粉を吹いていた。冴はゆるやかに茎をしごいた。切羽詰まった最初の欲望が叶えられた後、二度めの交わりは緩やかで、四肢に滲みとおるような愛撫が好ましい。
 くちを……。
 樹が熱っぽい声で促しても、冴は舌さきで焦らすようにちらちらと茎の輪郭を掠めるのだった。樹は低くうなり、突き上げて無理やり冴のくちびるをこじあけようとする。冴は男のこうした強引が好きだ。
 あたしのも。
 冴が樹の顔を包み込むように腿をひきしめると、樹はまるで果物にありついたように冴のからだを啜りはじめた。獣に嘗められているようなこの感覚は、繊細さとは無縁だったが、荒々しい衝動に冴を駆り立てる。
 冴はかすれ声を迸らせた。
 いちど充血した後で、性器は敏感に熟れていた。うるおいのみだらが流れ出るのが自分でもわかる。冴は露を結んだ弟の昂ぶりをくちに入れた。新鮮ないきものの感触が喉をふさぎ、ぴたぴたと踊るように冴の口腔を叩く。
 強い衝動に駆られた冴が、頬張ったまま息を吸い込むと、樹は少女のような悲鳴をあげて身悶え、腰を退いた。
「ずっとこうしていたい」
 樹は眉間にきつい皺を寄せて、冴を見下ろした。結び合った体には隙間がなかった。冴の肉を樹が塞ぎ、樹の血は冴の中で脈打っている。ふたりの感覚は谺がかえるように、密着した部分で響きあう。
「いいって、言え」
 樹は泣きそうな顔をした。半開きのくちの中で、ひらひらと舌が震える。
 このまま結ばれていたいと呟きながら、でも昂ぶりは樹を突き動かして、砕け散る高みへ追い詰める。その年齢よりは、ずっと大人びて見える樹なのに、極みの刹那には何故かひどく幼げに歪むのだった。
 いい、とても。
 冴は快楽の余韻を楽しみながら樹を迎え入れる。彫刻めいて緩みのない男の背中が腕に快かった。いいわ、このまま。
 冴は膝をたかく掲げ、樹の背中で交差しながら弟の律動に和して腰を使う。猛りが臍の下を突き、内臓をうらがわから突き上げられる歓びで爪先が痙攣する。
 死ぬ!
 弟は姉の片脚を抱え、首を振った。
 浮き出た青年の鎖骨に汗が滴って流れ、二人の両足は楔のかたちで交錯し、嵐に揉まれる帆舟のように薄闇を泳ぎ続けた。

 樹はことし二十歳になった。二年前に高校を中退してから、今は小田原の「ロワ」というリストランテで働いている。
 桔梗山の自宅には月に一度帰ってくるが、このマンションは姉の冴の独り暮らしで、父親は目黒に妻ではない恋人と住まい、彼らの母親の累は長谷の古い屋敷にいる。
 姉弟にとって、母の屋敷も父のマンションも実家とは言いがたかった。奔放な混血児の父親を冴は熱愛していたので、父親の恋人たちをひどく嫌った。けれども、つぎつぎと変わるウラジーミルの女たちの誰よりも、姉と弟が嫌悪しているのは他ならぬ母親の累だった。
 旧家に生まれ、茶と花を修めながら、累は頽廃に堕ちている。茶の湯の稽古と称して通ってくる男たちと、長襦袢の裾を乱してもつれあっているのを冴が眼にしたのは七歳だったろうか。もうその頃はウラジーミルとは別居していた。
 冴は高校から付属の短大に進むと同時に長谷を出て、ウラジーミルからこのマンションを貰いうけた。冴より三歳年下の樹もそのとき一緒に出たがったが、ふだんはすこしも構いつけないくせに、累はこのとき半狂乱になって樹をひきとどめ、弟はいやいやながら母親の許にとどまらなければならなかった。
 そのころ、冴は実家に戻るたびに、弟の急速な変貌ぶりに驚いたものだ。
 樹は冴よりも濃く祖母の血を継いで、幼年時代は透きとおるような皮膚に青みがかった瞳、ゆるく巻いた黒髪の、道ゆくひとが驚嘆の眼をみはるうつくしいこどもだったのが、冴と離れた二年あまりのうちに、昆虫の変態さながら手足が伸びた。少女めいた輪郭は目に見える速さで削り穿たれて、頬骨は高く、鼻筋は鋭く、眼窩は窪んで瞳に沈鬱な翳を湛えた。
 うちにいたくないために、学校の水泳部で閉門直前まで泳ぎ、それからまた浜でトレーニングする。膚はたちまち浅黒く焼け、顔にはそばかすが一面に浮いた。
 海岸からすぐ近くだったが、冴のマンションに樹は来なかった。冴が出てゆく日、累はぐずぐずと泣いたが、樹は休日だったのに海で泳いでいた。三月の花冷えで、大西の海風はまだ真冬だった。誇り高く無口な樹の、母と姉への無言の抵抗だった。
 それから何とはなしに、冴は自分が裏切り者になったように感じ、長谷で顔を合わせても、こども時代の素直な感情には戻れなかった。帰宅するたび累は着物を替えるように男を代え、少年だった樹は孤独の中で先を急ぐように成長していた。冴はといえばスカウトされたファッション雑誌のモデルがいつか本業になると、派手な暮らしの中で、ただ刺激を求めてさまようばかり。
 家族はこうしてばらばらになり、お互いを疎みながら時が過ぎた。
 吐精のあと、樹はからだをつなげたままで眠りたがる。
 冴のうしろから樹は重なって横たわり、たがいちがいに開いた膝で下半身を支える。樹の寝息がうなじを撫でるたびに、くすぶるような感覚が背筋を奔るが、今は冴自身も重い眠りにひきこまれている。
 弛緩したからだのうちがわで、粘膜だけがまだひそかな水音をたてているようだ。
 乳白色の雫が冴を潤してしたたる。体内の宵闇を薄明の雫がほとほととおとない続ける眠りはやすらかだった。
 結び合った性器の扉に封印される夢。性器以外の肉体は水のように溶け、髪も腕も、唇に脚、すべてが契りあった粘膜の感覚に集約される。男と女の無限の中心が螺旋を描きながら冴を貫いている。貫通してゆく螺旋の彼方には海があった。生の極みで海は突然崩れ落ち、波濤は骨いろの飛沫を散らして睦みあう魚たちに牙を剥く……。
 ……。
助けて。
 二年前の秋、樹は初めて助けを乞うた。
 深夜、桔梗山に戻った冴は、扉を開くなり闇に血を嗅いだ。
 リビングの床に倒れている男が樹だと、暫く冴には見分けられなかった。
 人の気配に体を持ち上げようとあがき、呻きながらくずおれた。
 なによ!
 姉の金切り声に、樹は腫れ上がった顔を歪めた。笑ったらしかったが、唇は紫に脹れ、歯茎だけ動いた。ごろごろと喉が鳴り、聴き取りにくい発音で、
「婆ァの男とやりあった」
 ようやくつぶやいて樹は気絶した。
 累の情人は数ヶ月ごとに変わっていたが、こんどの男はこともあろうに息子の学校の体育教師だった。柔道あがりの体育教師は、何かの折に見かけた累にのぼせ、手管をこうじて長谷に入りびたり、たちまち夫婦気取りにのさばった。累の家は鎌倉でも指折りの旧家で、資産もあり、本人がとびきりの美人ときたら、男にとっては目がくらむような獲物にちがいなかった。
 とうに四十路を過ぎた累も、最初はこの年下の男にのぼせあがり、それまでの恋人たちと手を切り、ウラジーミルにまで離婚訴訟を持ち込む騒ぎになった。もちろんウラジーミルはとりあわなかった。彼は妻をよく知っていた。
 はたして三ヶ月ばかり過ぎると累は相手に飽き、避け始めた。捨てられた男は気違いじみたつきまとい方をし、電話をひっきりなしにかけ、さらには夜更け、高い塀を乗り越えて累の寝室に押し入る有様になった。
「婆ァ、嫌だって言うんだ」
 樹は救急車の中で冴に呟いた。
「嫌だって言うけれど、あいつが来るとかんたんに寝るのさ」
 折れた肋骨の激痛に樹は咳き込んだ。
 十七歳の樹に殺意があったかどうか。
 あった、と冴は思っている。朱鷺の琴線に触れてから、冴は人のこころをありのままに見つめるようになっている。
 冴は母親を嫌っていた。が、樹は累を憎悪している。樹の性格なら、累がどう反対しようと長谷を飛び出すことはできたろう。弟はウラジーミルとも仲がよく、冴に白目を剥く父親の若い愛人たちは、少年にはとろけるような媚態さえ示して可愛がった。
 樹が長谷にいたのは母親を慕っていたからだった。節操のない累を罵りながら、心のうらがわで樹は母親を求めていた。罵倒は愛情表現だった。
 母親の寝床から上機嫌で引き上げる体育教師に、樹は木刀で襲いかかった。藪影からびゅっと奔る殺気に男は辛くも身をかわしたが、肋をしたたか打たれて呼吸が止まる。続いて真っ向に踏み込む少年に捨て身の脚払いをかけると、つんのめったところに体を重ね、相手の腕の逆をとった。
 物音を聞きつけて累が門を開けなかったら樹は殺されていたかも知れない。
 樹は全身打撲と肋骨の複雑骨折で三ヶ月の入院加療を強いられ、間男は肋骨の単純骨折に軽い捻挫、打ち身だけだったが、事件は地元の新聞が書きたて、免職になった。
 あの夜、樹は男が累の声に怯んだすきに、逃げ出して姉のマンションに来た。初めから長谷には戻らないつもりだった。
 助けて、冴。
 樹は腫れ上がった瞼を閉じようとはせず、じっと冴を、見つめ続けていた。傷ついた視線、孤独な眼差しが冴の心臓に突き刺さる。肉体の傷ではなかった。弟を置き去りにした
痛みは、二年の間破片のように冴をも苛み続けた。姉弟の欠落を癒すために択んだ術を、冴は間違いだとは思わない。
(あたまは嘘をつくけれど) 
 肉体には嘘がなかった。冴は樹の肉に感応する。何ひとつたしかなものが見出せない世界で、信じられるものは、この肉体だけではないか。
 冴は肉の純粋を信じた。それは朱鷺との睦み合いと同じく、冴の肉体の深みから湧き出る直感なのだった。

 その週末は蘭の会だったので、冴は仕事をキャンセルしていた。バブルが弾けてから中途半端な階級のモデルたちは仕事を失い、さまざまにさすらってゆく中で、冴もまた影響を受けずにはいなかったが、もともとモデル業に野心を抱いているわけでもなく、成功への飢餓感も稀薄だった。
 午後、めずらしく朱鷺から電話が入った。
……会のあと、晩御飯はどう?
「いいわ、蘭さんも?」
……女優さんとおつきあいだから、わたしひとりよ。 
 冴は安堵した。竹内蘭に魅かれながら、彼が苦手だった。たぶん魅了されているので避けたい気持ちになるのだろう。蘭がいない、という安堵の中には落胆と嫉妬が微かに含まれている。冴はこの感情から眼を背けることに決めていた。朱鷺に、も、魅かれているから。
「弟、も、連れて行っていい?」
 冴の声はすこしうわずっていた。
 初秋の蘭の会はいつもよりごったがえしていた。蘭が演出した芝居が上演されて、その関係の人びとが連れ立っていた。常連とはそぐわない雰囲気の客たちがサロンに足を踏み入れると、なんとなく声を抑え、物腰がひきしまるのは不思議な光景だった。
「弟さん?」
 演奏の前に、竹内蘭は人垣を分けて冴に話しかけた。袖にこまかいフリルのついた黒い絹のブラウス、紫がかった緑いろのズボン、アルルカンの履くような、先の尖ったエナメルの靴を履いている。胸ポケットに挿した蘭の花は純白で、ボウ・タイにきらめく紫いろのアメジストのために際立って見えた。
「樹です」
 樹は短く答え、頭を下げた。「ロワ」の主人に客あしらいの作法を教え込まれたおかげで、身ごなしに隙がない。
 蘭はまばたきしながら樹を見上げ、
「きれいな子だ、驚いた」
 と、すこしも動揺のない声で褒めた。
 背のあまり高くない蘭と、百八十センチを超える樹が向かいあう姿は、それぞれの身なりのせいもあり対照的だ。樹は簡素なシャツに、生なりのスラックス、髪を短く刈りこんでいる。樹はいつも余分な装飾を嫌い、蘭はフリルやレースが大好きだった。
 朱鷺は画廊のマダムを手伝っていた。マダムは来客をもてなす手をとめて、しばらく樹に目を奪われた。アンバランスなくらい彫りの深い樹は、決して端正とは言えないのだが、おしなべて扁平な面相の日本人は、輪郭と彫りが鋭い、というだけで憧憬を抱いてしまうようだ。姿かたちだけではなく、樹は強い印象を相手の心に残す青年だった。
 入り口で朱鷺はいそがしく客に応対していたが、ふと瞳をあげ、冴と樹を見つめ、ほのかに笑った。
 ショパンの夕べをお楽しみくださいませ。
 ピアニストが、たったひとこと言っただけで、サロンのざわめきは水を打ったように静まる。
 水面を微風が撫で、雨あがりの梢からはらはらと大粒の雫が滴り、波紋は波紋を重ね、きららかな陽射しがありなしの綾を織る。ショパンの音楽は色彩と感情にあふれ、音楽がやんでも、澪をひくようにさまざまなニュアンスが心に揺れ続ける。
 横に座った朱鷺に、冴は囁いた。
「踊らないの?」
 朱鷺はかぶりを振る。
 音楽に負けてしまうもの。
 冴を挟んで樹は腰を下ろしていたが、このときふと朱鷺を見た。朱鷺もまた、ごく自然に冴から樹に、まなざしを移し、冴は自分を通して二人の視線が絡み合うのを感じた。冴はただ、照明の中で、輝くように奏き続ける蘭を、かみしめるように見つめ続けた。

 立秋を過ぎても、なお暑さが残り、都会のぬるい空気はよどんだ水のようだった。
 朱鷺は姉弟の先に立ってネオンの明滅する街を歩いた。今夜は髪をあげず、襟あしに白いリボンをふわりと結び、藍色の薄絹を着ている。帯の刺繍の銀いろが夜露のように揺れて光る。
 交差点で擦れ違った赤毛の少女はあけすけな色目を樹に投げ、冴を睨む。その後ろから現れた黒人男は冴の大胆に露出させた胸元を覗きこみ、早口で喋ったが、何も聞き分けることができない。
 冴と樹はありったけ周囲の視線を浴び、それでは朱鷺はと言えば、この群集の誰ひとり、彼女を見る者はいないようだった。
(目立たないはずないのに)
 冴は奇妙に思った。自分の前を歩く銀青色のモアレに包まれた女は、闇とネオンの交錯の中に浮き上がっている。まるで原色の氾濫するポップ・アートの画面に気まぐれに舞い降りた白い蝶のようだ。ローズマダーやウルトラマリンを見慣れた目には、この朱鷺の彩りが見えないものだろうか。
 濁った街明かりの中、さらさらと衣擦れをたててなめらかに歩く後ろ姿は、冴にしても、これがうつつとは思えず、まぼろしを見ているような気がする。黒いナイロンドレスにつくろった冴は、この贅沢で浮薄な都会に、ぴったりと調和していた。
 案内されたイタリア料理店は、思いがけず閑静なたたずまいで、曲線の多い室内装飾はデリケートでこれ見よがしではなかった。入って真正面の壁には、百号の大きな風景画が重厚な唐草の額に飾られて架かっていた。シャンデリアは天井にひとつだけ、あとは足つきの燭台に蝋燭が揺れている。テーブルはグラヴュールをほどこした硝子の衝立で、ひとつずつ区切られていた。
「すてきなお店ね」 
 ひとわたりぐるりと見渡して、冴は断定的に言った。遊びなれた冴もこんなリストランテは知らなかった。
「蘭さんがイタリアにいたときのお友達のお店。大勢お客は入れないから」
「僕は来たことある」
 樹は献立を撰びながら言った。
「ロワのマスターに連れられて来たよ。去年のことだけど」
「小田原の?」
「本店のほう。僕はそこで働いている」
 朱鷺は目をまるくした。
「たまに蘭さんと行くわ。でもあなたを見たことはなかった」
 樹は照れたように笑う。
「まだ見習いだから。二号店の忙しい時期はそっちにやらされて玉葱を刻む」
 朱鷺は頷いて微笑みかえした。丸テーブルをはさんで姉と弟は寄り添い、朱鷺はつくづくと二人を眺め、ちいさく吐息を洩らした。
 冴はきまりわるくセルヴィエットを折る。
「なにか変?」
「いいえ。あなたたちは、とてもよく似合っている」
 樹はぴくりと片眉を動かした。弟、と冴は言い添えるが、誰にも聞き取れないほどの声だった。朱鷺はまた黙って微笑う。もう彼女にはわかっている、と冴は肩の荷がおりたような気がするが、樹は険しく眉を寄せた。
 イタリア料理店だが、葡萄酒はフランスで、樹と冴はソーテルヌを一壜もらい、朱鷺もグラスを手にした。
「僕も言っておきたい」
 ふいに樹は朱鷺を睨む。
「冴と貴女もお似合いだ」
 朱鷺は、ほんの少しの葡萄酒で頬を薄く染めている。
「あたしは冴が好き」
「好きなだけ?」
 樹が追求するので、冴は弟の膝をつねった。その手を樹はぎゅっと握り、たたみかける。
「冴は俺のものだよ」
 朱鷺はゆるくわらった。燭台の光りが揺れて、彼女の表情は古い聖像のように静かだ。
 ええ、わかっている。
「嫌じゃないのか」
 樹はさらに追ってくる。
「あなたとは違うかたちで、わたしも冴を愛している」
 樹の激昂を朱鷺がおだやかに遮ると、樹は目のふちをきりきりと凄ませて、
「俺は冴でなければだめだ」
 彼はグラスを置き、冴の指を一本ずつ口に含み始めた。冴が手をひこうとしても許さない。デセールに桃のアイスクリームが運ばれて来たが、超えたイタリア人は人目憚らぬ樹と冴の愛撫に、太い眉を陽気に上下させ、口笛を吹いた。
「何て?」
 朱鷺は落ち着きはらって答える。
「お楽しみは食後に」
 樹は睫毛を伏せた。
 そうだね。

 苦しい?
 そうじゃない。
 朱鷺はよどみない仕草で着物を脱いだ。するすると銀色の帯がほどけて床にたまり、藍が肩先からさらりとすべり、白い襦袢に赤い伊達巻、それからくるくると紐がほどかれてかげろうのような裸身になるまで、まるで日常とは別な時間がそこに流れるようだった。それがはやいのか、ゆるやかなのか、冴は放心して寝台の背に寄り掛り、はなびらを落とすような少女の脱ぎようを眺めた。
「酔ったわけじゃないでしょう」
「まさか」
 朱鷺が冴のドレスに指をかけた。新素材のドレスは果物の皮を剥くように冴のからだから剥がれ落ちる。ブラジャーを着けない冴の乳首は、朱鷺の指が首筋を掠めただけで、もうかたくしこり、待ち焦がれて蕾む。
 逢いたかった。
 朱鷺は重い乳房を両手にいただき、左右交互に口に含んだ。唇をおしつけ、舌先でからめとるように、こまやかな輪を描く。それは優雅な輪舞だった。
 冴は背中に流れ落ちる朱鷺の髪をすくい、窓の外にひろがる黒い海にかざした。アルフォンス・ミュシャの描く女のように、長い髪はきらめきながら磯の遠鳴りを宿し、辺り一面に飛沫を散らす。冴は朱鷺の愛撫に漂いながら、自分でしたばきを脱ぎ捨てた。
 奥にしのびこむ朱鷺の指を押さえ、冴は苦しげにつぶやいた。
 シャワーを。
 いいわ、冴の匂いが好き。
 冴は逆らわず、眼を閉じた。蘭の会の最中に、冴の内から流れ出たものは、樹とのみだらの残滓だったはずだ。栗の花のエッセンスのような蛋白質は、冴の中にとどまるうち、体温でゆっくりとかたまり、蒼白い雫となって下着を汚すのだった。
 裏切っているわけではない、と冴は自分につぶやいた。朱鷺が女で樹が男だから、あるいは樹が血を分けた弟だからという理由ではない。朱鷺の呼吸が、性のくちびるに柔らかく触れた。冴は思わず声をあげる。
「いやじゃないの?」
 朱鷺は喉の奥で笑った。
 なぜ? これはとても自然なもの…。
 待ち焦がれた饗宴が始まる。潮の戯れ、磯のとどろき、つがいあうイルカの幻想。貝たちが白い卵を霧のように海流に奔らせ、青い蛍光が視界に揺れる。朱鷺は目をほそめて冴の奥深くを探りながら、注意深くふたひらをひらき、中指で感覚の頂点をあやす。
 体液は、海の煮こごりなのだった。
 夏の夕べ、海辺を歩くと、打ち寄せられた海草や魚の死骸がえんえんとわだかまり、なまぬるい熱気に塩を含んだ腐臭が、言いようのない惑わしに感じられることがある。発酵と腐敗のごくわずかな隙間で、海辺は濃い酒のような匂いを放った。それはたちまち干上がるか、鳥についばまれ、あるいは潮にさらわれて、蠱惑の匂いはたちまち失われてしまう。
 敏感な朱鷺は、この発酵臭が、上等の香水にほんの僅かに含まれているのを嗅ぎ取るのだった。
 冴は皮膚を波打たせて朱鷺の愛撫に耐える。喘ぎは悲鳴となって高鳴り、ふたたび沈んでは夜の臥所にたゆたう。
 冴の厚みのある性のくちびるはこの間より濃く染まっていた。それを口に含むとかすかな血の味が舌に滲む。
「怪我をしたのね」
 顔をのぞきこむ朱鷺に、冴は訴えるような視線を向けた。 
 あの子の指がささくれているの。きらっと朱鷺の眼がひかった。
「でも快いんでしょう?」
 そう、と冴は頷き、朱鷺の細腰をひきよせて襞の温度をたしかめようとする。 
 朱鷺は身悶えて冴を押さえつけた。ねえ、どんなにいいの?
 冴はうっとりと微笑した。嫉妬は執着の裏返しだ。実を結ぶことのない同性の愛は、その瞬間の官能だけがあかしだてる。
「言っていい?」
「聞かせて」
 冴は、朱鷺のうすい乳房を掌に包んだ。乳房というほどのかさばりもなく、ごく柔らかいガーゼかリネンのハンカチのような感触だった。乳暈も淡く、ほそい静脈が縦横に透ける繊弱を、竹内蘭はどのように愛でるのだろう。
「とても単純なもの。あの子のからだには嘘がない…」
「いちずに?」
 朱鷺は冴の胸に頭をもたれさせた。
 とても一途で、清潔よ。冴は長いためいきを洩らした。性器のかたちや、仕草、手順のいちいちをこまかに語るのは無意味なこと。女同志のこまやかな愛撫が二人をひとつに溶けあわせるものならば、樹の性はただ契りあいの一点に凝縮していた。快楽は彼の渇望の附帯物のようで、たとえ官能が満たされなくても、魚が水を求めるように、樹と冴はお互いを欲しがる。
 冴はまじまじと朱鷺を見つめて囁く。
「樹とするのは自分とするようなものよ」
 そう。
 朱鷺はゆっくりまばたきし、冴の指をさきほど樹がしたように口に含んだ。同じ仕草なのに、彼女の愛撫はなんとまろやかなのだろう。
 冴は、自由なもう片方の腕を朱鷺の背中から下に潜らせ、しっとりした叢を探った。
 ん。
 朱鷺のちいさい洞。ここを誰かの肉が埋め尽くす情景が浮かび、冴は胸苦しいままに、なかへ指を立てた。
 朱鷺の粘膜が収縮して冴の指を締め、また緩むと、次には掴まれるように、そこからさらに奥へひきこまれる。ねばねばした溶液の感触とざらついた粘膜の縁が行く手を阻み、その凝った突起に冴の指がかかると、朱鷺は泣くような声を洩らした。
 中心なの、そっと。
 冴は震えた。舌に味覚を感じあう味蕾があるように、女の奥深く潜むこの丘は、性を味わいとる触角に違いない。
 それは驚くほど繊細なものだ。あらあらしくつかうと磨耗し、修復がむつかしいほど感覚は傷んでしまう。もしかしたら、この丘が女の性愛の和声を峻別する機能を果たしているのではないだろうか?
 男遍歴の絶えない母親への敵意が、自分を同性へ傾かせるのか、それとも父親への執着か、こころの澱みをかきまわしてみても答えなど出ない。目の前にいとおしむ肉体がある。それが同性であろうと弟であろうと、挟雑雑物のないこの瞬間、この感覚ほど、彼女にとって今、確かなものはなかった。
 いい?
 とても、ああ、いきそう。
 冴は奥深くを揺らす指に、襞をめくる手を添えた。粘膜の畝に勃起した尖りが愛撫を待っている。
 潤って、真珠色がひかる。
 冴は唇をあてた。すると自分の匂いがした。樹と自分の匂いがした。

海の器 vol1

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海の器

    
   ほのぼのと光はるけき朝凪に
         響みわたれる海の器よ
 

潮の匂い。
 部屋にこもる海の体温。
 ひるさがり、ひとびとのひしめく浜辺に聞こえない潮騒は、秘めやかなとばりのかげで、濃い旋律を紡ぐ。
 目の前でゆるやかにひらいてゆく女のからだ。つややかな象牙いろのヴォリュームが揺れ、息づかいがひかる。
 なめて……。
 冴の眸がきらきらと濡れる。黒い髪にかくされたものを、冴はみずからかきわけてゆき、あざやかないろどりを象牙いろの中心に展げた。
 かすかな、にこごりのような澱が、紅玉いろの洞にたまっている。乳かすめいた雫は、冴の欲望の波と正確に呼応していた。
 朱鷺はあかい襞をじっと見詰める。いきもののような襞は、朱鷺に見詰められると、焦れるようにうごめいてふくらみ、怒ったような紫を帯びてゆく。
 いや、と冴はさしせまった声をあげ、朱鷺の背中にながい脚をからめた。いじわる。待っていたのに。
「重いわ。しめころす気?」
 朱鷺はうすいからだを苦しげによじった。冴は残酷な微笑をうかべて、恋びとのほそい腕をつかみ、彼女のからだをひっぱりあげた。
「まだ洗っていないの」
「香水の匂いしかしない」
 朱鷺が嗅ぎ取ったのは、酪の匂いより強いフィジーだった。その香はかろやかで、かげりのないあかるい海に似ている。あまりに透明なので、どこかものがなしい香り。食べることを拒んで死んだアメリカの歌手の声に似た香り。
 冴はほがらかにわらい、少女のふっくらした下唇を舐めた。
「そうよ。あんたが好きな匂いなの。洗っていないなんて嘘よ」
 だから、と冴はふたたび眸をうるませ、朱鷺の指をそこにみちびいた。あいして……。
 ゆたかな乳房が朱鷺の顎をさえぎる。朱鷺は冴の乳首をやわらかく噛みながら、叢にひそませた指にヴィヴラートをかけた。
 ゆるく、はじめはゆるく、ときに小刻みに、風が水面を揺らすよりもこまやかに、はなびらがふるえるように。
 ああ、冴は首をそらせた。ひにさらされない顎のうらがわは、なめらかに汗ばむ。
 朱鷺はひとさしゆびと薬ゆびで二枚の襞をわけ、なかゆびで莢をおしあげた。花の莢ぐらは、彼女のゆびを待たずにもうはじけていて、ひときわ熱い蕊がむき出しになっていた。
朱鷺の指が蕊に触れると、冴は息を詰まらせ、もの狂いのように首を振った。わかい体臭がこの一瞬に燃えあがり、フィジーの華奢な香をおしのけ、なまなましい海の息づかいが朱鷺を包み込んでゆく。
 朱鷺は眩暈をこらえながらヴィヴラートを速めた。オイロピードの血が四分の一流れている冴の肉はしたたかだった。皮膚や目のいろは東洋だったが、輪郭のあざやかな目鼻立ちと同様、冴の骨格は充実していた。感覚の頂点で、冴は朱鷺をぎゅっと抱きしめるのだが、朱鷺はしばしば冴の肉に押しひしがれる恐怖を、快楽のなかであじわう。
 あ、いく。
 冴はがくがくと腰をふるわせた。掌が腿にはさみこまれたまま、朱鷺は冴とくちを重ね舌をからめる。冴の叫びが朱鷺のからだのなかでひとしきり反響する。……。
 貝がひらくようにくちびるを離し、舌先でゆるゆると乳房から腹へとすべり降り、あふれかえる潮にひたされたいきものに、朱鷺はためらいなくくちを寄せた。もう、人工の香料はあとかたもなく、あたたかい粘りがくちに流れこむばかりだった。
 ヴィヴラートの嵐のあとのぬるい凪に、冴は胸を波うたせながら漂っている。きれぎれの喘ぎが澪をひいて、朱鷺と冴のあわいに流れる。
「いいわ、とても」
「さっき強すぎた? ひりひりしない?」
 ううん、と冴は半身を持ち上げ、たゆたうまなざしで恋人を見詰めた。ほっそりしたあかるい肌色の少女。光のかげんで全身の血管が透け、あまりに薄い皮膚のために、海辺に澄みながら、照りつける太陽の下では決して泳がない朱鷺。彼女は漣のような指で、あたしをくるわせる……。
 やがて、朱鷺の舌がせつなくなり、するどい感覚が蕊をなぶって背筋をはしりだす。男とは、男には……と冴は息を吐いた。
 こんなにもゆるやかに、ゆるくそしてなめらかに、なめらかなでこまやかに、こまやかさはときに鋭さをひそめ、刃さながらに感覚のきっさきをなぶる。
(かみそり、花びらの舌。ああ)
 意識が靄のように溶けてゆく。冴はからだをうねらせ、朱鷺の下半身にしがみついた。この少女のからだは、日本人にはめずらしく均整がとれている。ロシアのバレリーナのように、トルソがほそく、腰もちいさい。どういう育ちかたをしたのか、ふくらはぎや膝の曲線もなめらかで、ゆがみがなかった。
 このおしりにひとめぼれしたんだわ。
 冴は朱鷺の腰を撫でた。初めて出会ったサロンで、朱鷺は全身銀色のタイツであらわれ、黒尽くめの衣装をまとうたピアニストの奏でる音楽のなかで、波のように漂うた。それはバレエのムーヴメントに違いなかったが、アカデミックとも思えず、もっとナチュラルで、踊り手の心の動きを原石のように取り出した降りつけのように思えた。ポーズからポーズへゆるく流れながらうつろう姿は繊細で、旋律を予兆させないピアノの韻律と不思議な情緒のきしみをかもしだした。
 きしみはいらだたしさでもあり、自分の眼の前にゆらめく銀色の少女への好奇心、さまざまな逸話に飾られた気難しげなピアニストへの畏怖のようでもあった。鳥の名前を持つ少女が、実年齢としてほんとうに少女なのか、あるいはすっかり成年を過ぎた女なのか、とりとめのない表情の澄んだあどけなさから、推し量れるものではなかった。
 その好奇心が、数ヵ月後、初夏の海辺の夜明け方、ただひとりで海辺をあるいている朱鷺と再会したとき、焼けるような欲望に変ったのだった。
おんなのひとならいいの。
 朱鷺のひとみはあかるいものだった。
 女性とのまじはりならば、自分に許されて(誰に?)いるのだと、朱鷺は髪をほどきながら冴の貌を覗き込んだ。誘った冴のほうがたじろぐほど、朱鷺の表情はなだらかで、うしろめたさのかげりもなかった。
 女が女を愛撫するという行為への倒錯的な湿りけも、この少女にはなかった。彼女にとってはきれいなものを愛するということが大切なので、かたくなな道徳や偏見などは、こころを掠めたりしない、と冴はじきに知った。花々を愛でるように、青空をよぎる雲をながめるように、夕茜にかがよう光に見惚れるように、朱鷺はにんげんを自然の輪廻する現象と等しくながめる……それは口にするのはたやすいが、実際にそのように透明な心象は、修得や気取りで具えられるものではなかった。
 あ、とうめいたのは今度は朱鷺だった。冴は朱鷺の尻をうしろから両手で割り、舌をおしつけるように襞をめくった。朱鷺の髪は淡く、性のかたちも奇跡のようにうすい。彼女の顔立ちがひとつずつはっきりしているのと、この秘められたはなびらの儚さとは、悲哀を含んで調和していた。
 淡いはなびらはほのかな紫いろをしてる。冴は夕靄の薄紫のうちがわをさぐる。すると、粘膜のうちらから、目に見えるはやさで夜明けの薔薇いろが滲んでくる。
(まるで、新鮮な貝の呼吸みたいだ)
 やがて、虹いろの粘膜からすきとおった雫がしたたり、冴の唇を濡らし、冴は自分に満ちた磯のとどろきに少女をひきこもうと舌をひらめかせ、朱鷺を中心をついばみ……

         ◇

 竹内蘭、とは男にはあでやかすぎる名前にちがいないのに、ピアニストが、よく整えられた声で、
「ささやかな催しにようこそおいでくださいました」
 とあいさつすると、彼の、おだやかでいながら隙のない物腰と、小柄なからだつきにしては厚みのある大きな手の優雅な手つきからたちのぼる、形容しがたい彩に、皆は目が離せなくなってしまうようだった。
 蘭の会は、不定期に、銀座のあるギャラリーでひらかれていた。天上の高いホールにはちいさなグランドピアノがあり、ピアニストは演奏のあいまあいまに気まぐれに言葉を散らしながら、リナシメントの小品や、印象派の音楽を奏でた。紫いろの蘭を胸にさしたピアニストのかたわらに、朱鷺がいた。朱鷺は水いろの絽小紋を着ていた。
 例によって遅れて到着した冴を見つけると、少女はしなやかに客のあいまを抜けて側に来た。
「蘭さん、いいの?」
「今、画廊のマダムと話をしているから」
 演奏の半ばでカクテルが振舞われる。集まったひとびとは、それぞれに洗練された身なりにつくろうている。もう若い盛りは過ぎていたが、美貌で知られたここの女主人は、崩れぬプロポーションを保ち、灰色の薄絹を幾重にもかさねたマーメイドラインのドレスが似合っていた。夜会巻きに髪をアップしたうなじのすっきりした佳さと、ふくよかな上半身から細腰にかけて流れてゆくラインとが、アール・ヌーヴォーの花瓶のように調和していた。
「あの、マダムはね」と朱鷺は長い睫毛をゆっくりめぐらして微笑した。蘭さんが好きなの。
 冴はちょっと驚いて少女を見た。マスカラを塗らない睫毛はすなおに両目をふちどっていて、朱鷺の透明な視線は水のようだった。少女が竹内蘭と一緒にくらしていることは皆が知っている。ふたりの奇妙な仲らいを表だって取沙汰するようなひとびとは、今ここにはいなかったが、心のどこかではひりひりするような眼差しを感じることもあるだろう。
 冴もそのひとりだった。
「冴は葡萄酒ね」
 紅玉いろのグラスを、冴に向かって朱鷺はたのしそうにかざした。冴が翡翠いろのミニドレスを着ているので、したたるような葡萄酒の彩りが、ことのほか際立ってうつくしいのだった。朱鷺は酒を飲まない。
 これは嫉妬だろうか。冴は自分より頭一つ背の低い朱鷺を横目に見ながら考える。演奏は再開された。ドビュッシーの「雨の庭」
 あっ。
 無数のガラス玉が散らばるようなピアノの流れのなかで、ふいに冴のうちがわがひきつれた。肉じたいはなんの刺激もうけないのに、感覚だけが痙攣し、愛撫の記憶が谺する。冴はしゃっくりをこらえるように、さけびを喉素でおしころす。
 流水に桔梗文様のきものをゆるく着付けた朱鷺は、うすい金いろの檸檬水をすこしずつ飲んでいる。ぐるっと無造作に櫛巻きに結った髪に、みどりいろのびいどろ簪。かすかな、椿油に白檀が混じった香が、冴の欲情を撫でて空間に散ってゆく。
 少女は無心にピアノの調べに身をゆだねている。ながい睫毛に縁取られた瞳は、まばたきも稀に、竹内蘭にそそがれている。冴は衝動的に朱鷺を抱きたくなった。男だったら、と濃い葡萄酒を含みながら思う。
(男だったら、物陰へ朱鷺を連れ込んで、このきものをまくりあげて犯せばいい)
 自分の欲求にほろ酔いが拍車をかける。わざとあらけた空想で神経を刺激するのは感情のマスターベーションのようなものかもしれない。
 男の欲情はなんとあっけないものだろう、と冴は、顔を動かさずに周囲の男たちを一瞥した。不機嫌をひそめてめぐらす自分の視線がきれあがり、凄艶を増すのを知っている冴は、異性を魅惑するために、ことさら険しい感情を自分のなかに練り上げたりするのだった。結局それも媚態なのだけれども。
 男の行為なんて……性器と性器をつないで、激情を吐き出せばカタルシスが得られる。だがおんなはそうはいかない。おんなはからだをつなげない。あたしたちの欲望は性器をいじりまわすだけではだめだ。性器は欲望の一部に過ぎないから。
 ながい、指のたわむれ。くちびると舌のからまり。皮膚への執着。ぬるく、やんわりとした触れ合い。たそがれの、あるいはあけぼののあまったるい吐息。漣の睦みあいが、靄のようにおんなたちの欲望を溶かしてゆく。
 女を焦点化しながら刻んでゆくのが男の欲望なら、おんなたちのそれは、点でも線でもなく、ただ拡散しては収縮を繰り返す海の生きもの、あるいは飽かず満ち引きを繰り返す、茫洋としたわたつみそのもののすがたをしているのかもしれない。凌辱も侵犯もない。
 だが、嫉妬はある。
 冴は朱鷺の視線をたどって蘭を凝視した。ピアニストは、黒いドスキンのジレに、こまかい襞のついたシャツを着ていた。どことなく現代とは違う時代のひとのような雰囲気。端正というよりも、異相。西洋人のようにあかるい髪、うすい皮膚、それらは朱鷺に似ていた。ほのかに老斑の見える顔立ちはビアズリー描く牧神そのもので、自己主張の強い鼻梁、つねに微笑しているように上唇がうねり、睫毛のすくない瞳の表情は、人を射すくめる強さをひそめながら、どこかおどけているようで、つかみどころがなかった。
 彼のこころは、現実の肉体からいつも遊離しようとしているかのようだった。彼の周囲に漂うエロティシズム、きらめくように音楽を紡ぎだすとき、彼は少年にさえ見えた。
 ピアニストを凝視する朱鷺のまなざしは恋人のものだった。
 自分の視線も恋をしている、と冴は口惜しくおもった。少女への欲望なのか、蘭への好奇なのか、彼女自身にもさだかではない。
 少女とピアニストの交歓を想い描くことは難しかった。いや、たやすいかもしれない。いや。
 嫌? いいえ……。
 ふたつの感情がいりまじり、冴はひどい渇きにさいなまれ、グラスをひといきにあおった。
 今夜は蘭さんと……。
 睫毛を伏せる朱鷺に、冴は何とこたえたか覚えていない。サロンが終わり、ひとびとは夜の残りをそれぞれのパートナーと過ごすために別れていった。冴は顔見知りの何人かとどこかの酒場に入り、ブランデーをもらった。
 酔ったまま車を運転するのは慣れていた。夜明けの海岸道路を高速で疾駆して鎌倉に戻るころには、たいていの酔いは抜ける。酒に強いのは、ロシア人の祖母の血かもしれない。イリーナ・セミョノワは、スターリンの圧制を逃れてオホーツクを越えた。
 酔ってはいない、と葉山マリーナを過ぎて思った。自宅はとうに過ぎている。潮が寄せる、と冴はつぶやいた。竹内蘭のすまいはすぐそこだ。酔ってなんかいない。
 竹の枝折戸は古風なものだった。朱鷺の水色桔梗の立ち姿が、一瞬四つ目垣のかなたに浮かび、冴は息を呑む。しかし歩みはとめられなかった。
 あたしは嫉妬している。
(でも、誰に?)
 朱鷺のしなやかな肉が欲しかった。鍵盤に燦爛したピアニストのゆび。あのきらめきが朱鷺を?
 感覚の残響が潮騒に混じって冴のなかに鳴りわたる。蘭と、朱鷺の欲望のかたちを知りたい。あたしはかわいている。
 手入れのゆきとどいた庭を抜け、朝明けの風がカーテンを揺らす寝室にそっとさし寄った。窓はほんの少し開いている。朱鷺がしめきった部屋の空気をきらうから。
 朝靄が木々を香らせ、若葉が息づく。茜とラヴェンダーにつつまれたかはたれのひととき。泉の噴水にシルフィードが舞う。薔薇いろの臥床。こわい毛でおおわれた牧神の下半身をいたづらするシリンクス。うしろから、してね。脚にはさんで……。
 禁じられたもろい欲望。蘭の紫が銀色の潮騒に溶け、朱鷺のうすいろの眠りは、なおゆるやかで……。

         ◇

 足跡が残っていたの。
 たそがれてゆく光線が西の窓からベッドを茜いろに染める。からみあったままの女たちの肌は金いろにかがよい、脚や腰の周囲で、リネンのシーツがしどけない波紋のような影を織る。
 そう、と冴は目を閉じたままつぶやいた。
 冴の漆黒の髪はうまれつき波うっていて、彫りあげたような横顔の輪郭をあざやかに縁取る。
 きれいね、と朱鷺はためいきを吐き、ゆびさきで冴のひいでた額からまっすぐのびる鼻みねをたどった。少女の指がうわくちびるをなぞると、そこにこびりついた魚の白子のような匂いが冴の官能をくすぐる。それは朱鷺と冴の本質の匂いだった。
「何も見えなかったわ。朱鷺は眠っていた」
 はだかで、という言葉を冴はしまいこみ、かわりに朱鷺の指をくわえた。少女の痩せた指はかたい。球体人形みたいに、しろくてほそい。
 蘭の姿はそこにはなかった。
 窓からのぞきこんだ冴のすぐ目の下に朱鷺の寝台があった。こどものベッドのような寝床に朱鷺ははだかの腕を寝具からすこしはみだして寝息をたてていた。淡い、なにかの花模様が少女の部屋のあちこちにあった。たけだけしい感情でしのびこんだ冴は、まるで無垢な朱鷺の眠りにうたれた。
(寝顔に本性が現れるものなら、朱鷺はそのままの朱鷺だった)
 朱鷺はあどけなく眠りに沈んでいた。やすらかでかげりない放心……。
 夏の夜がみるみる明けてゆく間に、朱鷺はいちど寝返りをうち、するとその表情はものがなしげな大人の陰影を浮かべた。だが、やはり無垢な印象は消えなかった。
 冴は朱鷺の指を噛む。
 いたい。
 少女の無垢は冴に痛みの感情を抱かせた。傷口を見るような。それは、ほかならぬ冴自身の傷にちがいなかった。
 朱鷺がしかえしに冴の耳たぶをくわえる。手と手が交錯し、ゆびがそよぎ、微風の触れ合いが始まる。組み合わされた脚がほどけては絡まり、呼吸が寄せ帰り、水音が喘いでみだらをそそる。
 朱鷺は冴のゆたかな胸を揉みほぐしながら、からだの中心へむかって、触れるか触れないかのくちづけで降りてゆく。ああ、と冴はうめいた。あなたはこれを蘭に教わったのね。
言葉にならない嫉妬。草を分けてそよぐゆび。
おののきながら花がふくらむ。いいわ、上手よ……もっと強く吸って。
 やがて密着する貝ふたひら。番いのかたちで蕊が蕊を撫で、淡紫と臙脂紫が快楽の頂点めがけてはばたいてゆく。
 暮れなずむ空に夕星がきらめいて海に散っても、蝶たちの乱れ舞はやまない。
 
 快楽の余韻のものがなしさをいつか知るのかしら……。
 冴の買い換えたジャガーをめずらしがってドライブをねだった少女を乗せて、冴は海岸を走った。
 あいしあった、という充足が皮膚を潤している。愛……なんという実体のない言葉、感覚だろう。その響きどおり、あいまいで、やわらかく、つかみどころのない、あまくあたたかなニュアンス、目には見えない温度と湿度の輻輳。
 くまなく、すきまなく愛撫され、何度となくのぼりつめる感覚がきわまったはてに、少女と全身が溶け合うような時間がきらめく。永遠のような一瞬。あるいは数瞬。もしかしたらとてもながく……?。
「月が昇ったわ」
 朱鷺が首をのばして囁いた。
 夜目にもしろい貌が、不思議に歳を重ねて見えた。性器をつなげない女たちは、肉体のすべてでちぎるのだと、冴は朱鷺によって識った。ただの感覚の刺激では契りに至福は訪れないのだった。
 大磯で車を停め、海岸へ降りた。
「かぐや姫が降りてくるみたいな月だわ」
朱鷺は片手で月光を透かし見た。
「かぐや姫は天に昇ったんでしょう?」
「また還ってくることもあるわよ」
 きっと、それは朱鷺みたいな少女だろう、と冴は想う。白地に秋草の浴衣を着て、浪打ちぎわで月明かりにたたずむ朱鷺は、そのままふつっと消えてしまってもおかしくなかった。月光のつくる影は青く、淡く、それでいて輪郭は鮮明で、なめらかにひかる砂浜に、少女の影は、すり硝子で輪郭を隈どったように透きとおっている……。
 朱鷺はふりかえって冴をみあげ、
「あなたぐらいきれいだったらかぐや姫ね」
 微笑むのだった。
 同じことを想いあっている、という驚きには嬉しさと、それからほんのすこしの怯えが混じる。かすかなたじろぎを隠すために冴は、わざとじゃけんに髪をかきあげて横を向き、
「あたしは月よりジャガーが好き」
 冴は朱鷺の喉に触れた。その一瞬、殺意でゆびさきが冷えた。竹内蘭の姿は、このとき念頭になかった。冴の官能は純粋に研ぎ澄まされ、愛のきわみの感情が殺意にまでせりあがり、冴の濃い眉がきりきりと歪むのを朱鷺は見た。朱鷺には冴の愛がわかる。
「蘭さん、あたしの父かもしれないひと」
 えっ?
 突然の表白を聞き糾す間もなく、背後の暗い松林から乱暴な笑い声が響いた。
 あそぼぉよ。
 いい車。けっ、やっちまえ。
 ざらざらっと砂利まじりの砂を蹴って、男ふたりがたちはだかった。
「……!」
 冴は金切り声で叫び返した。でも自分が発した罵声を自覚できない。心臓がぎゅっとしぼられる狼狽で、全身は硬直する。男たちの嘲り声の抑揚は、新宿や渋谷などにたむろする若者たちとおなじものだった。冴のこめかみに冷や汗がにじむ。くちびるを噛んだ。スポーツジムで鍛えた冴は、ほんとの修羅場なぞ知らない。でも、隙をみてあいてのきんたまぐらい蹴ってやる。でも朱鷺は……。
 おれたちも、ちょうど、ふたりだしさ。
 痩せて背の高い男が舌なめずりするように高笑いしながら近寄ってくる。冴は叫ぶ。
「逃げて、朱鷺」
 だが、なんということだろう。少女は、まるで腑抜けたようにつったっている。おおげさなジェスチュアで朱鷺を捕まえようとした男は、相手の無抵抗に、拍子抜けしたように声を低めた。
「こいつ、おかしいんじゃないの」
 夜中にきものなんか着てるしよ……。
 少女は、男の所在なくひろげた腕のなかに、あたかもみずから身を投げかけ、ぐらりとたおれこんでゆくように見えた……が、
「ぎえっ」
 次の瞬間、絶叫が夜空をつんざいた。男は顔を両手でおおい、のけぞってあとずさり砂浜に尻餅をついた。
 目が、つぶれた。
「なんだって?」
 うろたえて振り返ったもう一人に、すっと朱鷺が影の静けさで走りより、走りながらひろいあげた流木をまっすぐ彼の喉もとにつっこんだ。
 いっさいはまばたきする間の出来事だった。
 声もだせずに呻き泣き、悶絶した少年たちを、朱鷺はひややかに眺めた。血の匂いが潮風に混じる。少女はうなだれた。自分の指に少年の血が、すこし飛んでいる。
 蘭さんに知らせて。
 冴は顎でうなずいた。膝がふるえ、手が痙攣し、携帯の操作がうまくできない。
「死んだの?」
 さあ、と朱鷺はものうげに首を振った。冴はくたくたとしゃがみこむ。……。

         ◇

 事件は、竹内蘭と冴の父親が揉み消した。
男たちは都内在住の大学生で、それまでにも暴行の前科があった。朱鷺の突きをくらった少年は片目の視力を失い、喉を襲われた方は死の寸前だったという。
「もう一歩、朱鷺が踏み込んでいたらたすからなかったろう」
 蘭は憂鬱そうだった。海際の家からはひろびろと相模湾の眺望がひろがる。夏のさかりを越え、海はやや色調を変えた。雲に塞がれた空を渡る風が低い。
「あなたが朱鷺にわざを教えたんですか?」
「身を守るために」
 蘭は横目でちらっと冴を見て、言葉を選びながら続けた。
「朱鷺は朱鷺自身から身を守らなければならなかったんだ」
「わかりません」
「この子が、わたしの前にあらわれたころは……」
 蘭は言いさした。なまなましい苦痛を覗かすと見えて、蘭はすばやくその扉を閉めてしまった。くちもとには、もう皮肉な微笑さえ浮かんでいた。いまどき、めずらしくはないんだろうがね。
 破壊衝動。わたしだって例外じゃないさ。
「でも、朱鷺はあなたを愛しているんでしょう?」
「わたしに感情移入するので、傷口から血が噴出すみたいに、歯止めが利かなくなるのさ。憎悪すべき自分の姿が、鏡に映るように、そこに見えるからね」
「わからない……」
 冴はかたくなに言い張った。わかりたくない。
「愛と憎悪は背中あわせじゃないか」
「今も、朱鷺は?」
「いや。わたしは、彼女を育てながら、いろんな技芸を仕込んだ。自分の感情をポジティブに使うために。感情それじたいはプラスもマイナスもない。きわめて純度の高い無垢なエネルギーなんだ」
 だから、芸の修得には向いていた、こういう子は。
「だが、いったん傷口に手を触れると……」
 悪意に過敏なんだ。自分へのネガティブな攻撃に。コントロールできない原始的な本能は、相手に対して容赦しない。
「殺してしまうほど?」
「ためらいがない。ピュアだから」
 ピュア……こわい言葉だ。こわくて魅力的な響き。
 朱鷺の愛撫、欲望。まっすぐ冴の求めるものを探り当て、満たし、潤し、撫でてくれる少女の鋭敏な触覚。濃い酒にも似た愛撫の裏打ちは、かりそめであれ、死であるのかもしれなかった。
「あの子がこわいかい? 朱鷺は、わたしが教えた芸を、彼女の器のままに、砂が水を吸うように自分のものにしていったんだが、ひとに対しても同じなんだ。愛、憎しみ、行動……」
 冴はかぶりを振った。涙がまなじりを流れる。うらやましいわ。
「彼女は、あなたを父だと」
 蘭は答えなかった。
 扉が音もなくひらいて朱鷺が入ってきた。しのびやかに蘭のかたわらをすりぬけ、冴のうしろの張り出し窓に身をもたせかけた。少女の着物に焚きこめた香がかすかに漂い、滲むように散っていった。
「ピアノを奏いて」
「何がいい」
 ラヴェルの……。
 冴はすすり泣いた。なぜ涙が出るのか、何がうらやましいのかわからなかった。
 海の欲望。果てもなく、かぎりもなく寄せ返り、満ちかえる。愛そして愛撫。
 蘭がピアノの蓋を開けた。水の調べが室内にあふれる。波うつ、青い、碧い、砕けては結ばれる契りの無垢のきらめきよ。
 朱鷺の表情はおだやかだった。冴と朱鷺はどちらからともなく寄り添い、蘭の音楽に身を委ねる。繊い朱鷺の髪を束にして冴はくちに入れた。ひなたの匂いが籠もっている。
 いつか雲が割れ、夏の濃い影が岬の家を包んでかがやき、潮の照り返しはくきやかにおんなたちを彩った。
             

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