さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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翠琴晶  夢浮橋vol6

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   翠琴晶

 少女たちの赴(ゆ)く野は踊る
   ほそやかに爪先立てて風が光るよ 
 
 六歳の僕と十三歳の僕との間に、約七年のギャップがある。夢の中の僕は、この七年間の出来事を想起できない。だって、僕は自分を十三歳だと思っているけれど、目が覚めたらまだ六歳かも知れないんだ。そして、ママも桜織も僕の両側にいて、僕たちは川の字になって、香枕海岸の古い家に楽しく暮らしているのかも知れない。そうだったらどんなにいいだろう。
 僕の見る夢はてんでばらばらなつぎはぎだけれど、ゲネラルバスみたいに一貫して心に流れてやまないのは、桜織がいなくなってしまったかなしさ、彼女にもう一度会いたい、ということだ。もうここにはいないひと、手からすりぬけてしまったアルカディアの記憶、ただ幸福にだけ満たされていた時間。その真ん中に叔母がいる。
「でもあなた、そのひとほんとにいたの?」
 なに、と僕は耳をそばだてる。それから、声のほうに顔を向けた。
キイ、とブランコが僕の眼の前でこきざみに揺れていた。からっぽの、誰も乗っていない古いブランコ。鉄塔と鎖は剥げかかった赤いペンキが塗られている。昔風に木の坐り板。ふいにぐいっと鎖と板が大きく傾いて、ブランコは中空へ飛んだ。誰かがそこに坐り、力いっぱい漕ぎ出した瞬間のようだ。
だけど誰もいない。ブランコと鉄塔の向こうに黄色と青のジャングルジム。ゾウのかたちの幼児用滑り台。ここは僕がちいさいころ遊んだ近所の公園らしい。ブランコが往来する風景は雑草が繁茂する荒れた公園。僕以外にここには誰もいない。だけど声は聞こえる。キイキイときしむブランコの中から。
「いたの?、彼女は」
「姿を見せろよ」
 僕は言い返した。すると、
「見せたくても、実体がないのよ」
 どこかで聞いた声だ。
 キイ、キイ、とブランコがしきりにきしむ。前後に大きく揺れながら、キイ…。
「美青? もしかして」
「あたり。よくわかったわね」
「車椅子の回転音とブランコの錆びつき具合の相似が絶妙だよ」
「そう。あたしが意図したわけじゃないけれど、ヴァリエーションには必ず原型と展開があるからね」
「理窟っぽいな。透明人間になった気分はどう?」
「人間じゃないわ。あたしいったんは人魚になっていたじゃない」
 そうだった。
「人魚草を食べて、のっぺらぼうになったんだっけ」
「それどころかあたしは、無、になってしまったの。最初に表情を失い、それから表情だけじゃなく、しだいしだいに肉体のすべてが気化していくように消えてしまった。そして心だけ残っている。魂じゃないわ。美青というキャラクターはちゃんとあるんだもの。記憶も、感情も失われていないの」
「人魚草の副作用かい?」
「副作用じゃなく、たぶん、どういう筋道であれ、人魚って水の泡か空気の精になってしまうんじゃないの? 最終的に」
「アンデルセン童話ならね」
 ブランコはそこでぴたりと静止した。ちょうど僕が立っている目の前で、運動を終えた坐り板はちょっと揺れ、目に見えない美青がブランコから地面に降り立ったのがわかった。
「無じゃないよ。君はちゃんとブランコも漕ぐし、地面も歩ける、移動できる」
「歩いているんじゃないの。あたし自分の好きなところへ瞬時に行ける。海でも、空でもどこへでも。だけど誰にもあたしが見えない。
さびしいわ」
「人間に戻りたいのか」
「いいえ」
 きっぱりと美青は否定した。僕は何もない風景だけの空間に向かって話しかけている。たしかに彼女の声は聞こえるのだが、どちらの方角から耳に届いてくるのか定まらないのだった。僕は漠然と赤い鉄のブランコに向かっている。
ブランコの向こうに青と黄色のジャングルジムが見える。ネコジャラシやアザミなどの秋の雑草がそこらじゅう伸び放題だ。古びた遊具のペンキはどれも剥落が目立ち、赤茶けた地金が露わになっている。滑り台のゾウの模型は、片方の耳が半ばで欠けている。荒廃した公園。風が吹くたび、ざわざわと草が壊れかけた遊具をなぶる。このどこかに実体を失った美青。
「人間にではなく、あたしはあたしの風景を取り戻したいのよ」
「どういうこと?」
「草紫、あなたが見ているこの廃園の姿が、今のあたしの風景なの。さびしいでしょ。実体を失った美青は、こんな景色になってしまった。見捨てられた児童公園。幼児のかたちのまま時間だけが過ぎていった空間。あたしは世界中どこにでも行ける。でも、どこに行ってもあたしの見ている風景はこう。人間は―人魚でも―見えるものしか見えないの」
「君の取り戻したい風景って?」
「いちばんきれいなあたしの顔」
 僕はしばらく考えた。ヴァリエーションには原型と展開がある。美青の提示したテーマをここでひとつ束ねるために、僕は少し残酷な台詞を選ぶことにする。
「いちばんきれいな瞬間って、誰が決めるんだ。ほんとにあるものなのか?」
美青は落ち着き払って答えた。
「有を無に変えればいいんだと思う。その逆でも」
 それからさらに付け加えた。
「だから桜織は消えたのよ。消えたことで彼女は必ず〈いた〉ことになったの」

「昨日ははなびらだったものが今日は砂糖になる。恋の初めってそんなものじゃないかしら?」
「それでは明日は? その砂糖は今日の翌日には何になるの?」
 水晶と桜織が対話していた。草紫は居間の炬燵に潜りこみ、大きなテディ・ベアを枕にうとうとしかけていた。半分眠っている頭に、大人たちの声が聞こえ、同時に、春のつぶらかな陽光あふれる新緑の丘いちめん、桃の花が咲きつらなっている光景を見ていた。声は幻聴ではなかったし、濃いピンクいろの桃の花もまぼろしではなかった。居眠りからはっと覚醒すると、横になった子供の顔から炬燵布団の向こう、居間と二間続きの部屋の床の間に、花ざかりの桃の枝が長々と活けられているのが目に飛び込んできた。それに、草紫が潜っているところまでは届かなかったが、午後の陽射しが目と鼻の先の縁側に斜めに差し込んでおり、埃のない床に光はルフレして、幼児の顔をほんのりと暖めていた。
 桃の花は肌のふっくらとした淡紅色の萩の花器に活けてある。その濃いピンクいろを飾って、純白の雪柳もゆったりと房を桃の花の周囲に伸ばしていた。
 母と叔母の声は炬燵布団に隠れて見えない所から聞こえている。古い漆の匂いがふわりと漂ってきた。きっと午後の春の陽に暖められて、匂いの粒子はこちらに動いてきたのだろう。湿った黴と埃の陰気な匂い、樟脳と絹の佳い香りがする。子供はまだ眠い目を少しこすって、もぞもぞと炬燵から這い出した。小腹の空く時刻でもあった。
 桜織の声はちいさかったが、まだ続いている。
「花が砂糖になって、その次にはジャムか蜂蜜になるのなら、それではまるで影を書かない色彩だけの油絵のよう」
「鬱陶しい?」
 水晶は笑っているようだった。顔だけでなく女たちは声もよく似ていたので、耳だけで聞いていると水晶か桜織か、どちらかが独りごとをつぶやいているようにも聞こえる。
「陰影は最初から入っているのよ。はなびらにもお砂糖にも裏表はあるんだもの。どんな微細な粒だとしても裏は絶対にあるわ。点であってもね」
「言わないだけ?」
「わかりきったことは言わないほうがスマートだわ」
 水晶の声はそこでややひややかになった。子供はその冷たいニュアンスに刺激されて炬燵から抜けだし、母親たちの方に行った。
 昔風に長い廊下が部屋の隣にある床の間はよく掃除されていたが、普段使われてはいなかった。
違い戸棚は造り変えられ、紫檀に螺鈿細工をほどこしたアールデコの飾り箪笥がその空間にきっちりと嵌めこまれている。仏壇がわりで、青い色ガラスの開き戸の中には、先祖の遺影や形見の品が納められていた。ステンドグラスのように厚みのある青いガラスは滅多にひらかれることがなく、そのときも陽光を弾いた鈍い光沢を畳に落としながらひっそりと閉まっていた。
「そうちゃん…」
 子供は言いかけて口ごもり、それから先へ言葉が続かなかった。障子を開けて、母親は庭から射しこむ陽だまりをのどかに浴びている。彼女の周囲には古い茶箱やダンボール、桐の小箱などが置いてあり、緋毛氈、大小の花台、ままごとの道具のような厨司。古い絵本の中からそのままとりだしたような造りものの桜、橘。
藤沢樟脳の、鼻腔から頭の天辺にすうっとつきぬけるよい匂いが強くなっている。水晶は雛人形を取り出していた。ホットカーペットを敷いてその上に横坐りした彼女の膝には赤い十二単の雛の体があり、手にはおすべらかしの人形の首があった。雛と対のお内裏さまはまだ桐箱の中らしい。水晶は両手でそっと雛の顔を包んでいる。桜織はいなかった。水晶は手の中の雛の顔をかるく揺すり、
「これは、おばあさんが生れたときに揃えたお雛さま」
 現代雛のまるみを強めた可愛らしさとは明らかに違う細面に、きつねのような切れ長の眼元口許。百年以上もたって人形の地肌はくすんでいるのに唇は赤い。そして口紅の上下の色が微妙に異なる玉虫に塗られているのを、子供は敏感に見て取った。陽射しを享けて、人形の肌は皺のない老女のそれのようにもろくなめらかに見えた。もしかしたら、桜織がその口紅の色をどこかで足したのかもしれなかった。雛にせがまれて。
 ここに桜織の姿はない。
水晶はつやつやした漆黒のおすべらかしを乱さないように、人形の首を十二単の体に嵌めた。人形たちの髪は本物の人間の女の髪を細工したものだった。匠の手になる人形の肌は古びたが、人毛の光沢は時間の経過とともに妖しいぬばたまの精気を増す。
雛の顔を胴体に当て、細い指先でかるく頭を左右にねじり、力をこめて押す。きゅ、と囀りをたてて首は平安装束におさまった。そのとき細面の古い雛は、緑と朱の唇を開いて笑ったように見えた。

海沿いのマンションかホテルのような四角い大きなビルに僕はいる。ここは寄宿学校かもしれない。住人はこの建物のどこかに散在しているようだが、はっきりと姿は見せない。
外は大嵐だ。大波がこのビルの外壁に打ち寄せる音、風雨のどよめきがひっきりなしに聞こえてくる。まるで何十人もの男たちが空と海にひしめき、このビルめがけて怒鳴り声を浴びせているみたいに、空間が叫ぶ。
「こわい?」
 耳許で静かな声が聞こえた。また声だけ?
それでは、さおちゃん、あなたは僕の幻聴のよう。あなたは実在せず、僕が空想で捏造した〈もうひとりの、実母以上にやさしい母〉と誰かに揶揄されても仕方ないね。
「ひねくれすぎです」
「そう?」
 凛とした否定は、今とても嬉しい。
「じゃあ、なぜ僕にはさおちゃんの姿が見えないの?」
 僕の訴えは自然と甘ったれた声音になっていたろう。言い終えるやいなや、僕は僕の斜め後ろ側、左肩甲骨のあたりに、桜織が現れたのを感じた。十三歳の僕より彼女はまだ少し背が高い。僕の背中に桜織の体温が触れる。ちょうど心臓の裏側、貝柄骨に、彼女はそっとてのひらをあて、
「下へ行きましょう。外から還ってきたひとたちを迎えに」
 聴覚と触覚、それに嗅覚は桜織を感じ取っている。ヴァーベナの香りではないけれど、例えば体を洗ったあとで、その石鹸の残り香が消え、きれいな温かい、そのひと独得の皮膚の匂いがふっくらと昇る。それは嗅覚に快く馴染んで彼女の記憶の忘れられない一部となっている。香りが僕にぴったりと寄り添っていた。
 だけど僕はうしろを振り向くことができない。なぜかできない。これではまるでオルフェウスではないか? 振り向けばエウリデーチェは冥界の闇に吸い込まれてしまうかもしれない? いや、僕はそんなことは考えない。だって、桜織はじかに僕に触っているじゃないか。
 かるく顔を俯けると目の端に彼女の衣服の裾が見える。白っぽい、香枕で彼女がいつも着ていた衣装のどれかの色。青でもクリーム色でも、ピンクでも、どれもほとんど白に近いパステルを春夏秋冬変わらず彼女は選んでいた、そのスカートの色。
 嵐が咆哮している今は夏か秋だろうか。でも海沿いには冬でも凄まじい低気圧が押し寄せることもある。空調の利いたビルの中は暑くも寒くもなく、かすかに汗ばむくらいに湿度が高くなっている。それはきっと外壁を揺るがす大波のせいだろう。
昼か夜かわからない。がらんと飾りけのない室内は、机や椅子を片付けたあとの会議室のようで、天井の長い蛍光灯が、しらじらと影の薄い明るさを撒いている。
桜織 と僕との会話が途絶えると、その隙間に、どっと雨風、海の轟きがなだれ込んでくる。僕たちはさながら嵐の海岸に並んだテトラポッドのように寄り添っている。僕と彼女のつかず離れぬ空隙に、波濤は間断なく襲い掛かり、叔母と甥の微妙なすきまを押し広げようとする。僕らが口の重いコンクリートなのが幸いだ。
僕らは風音のわずかな間を選んでほんのすこしの言葉を交わす。短い会話で、とうてい互いの感情を全部すくいとることなんかできない。僕らは―少なくとも僕は言葉に表せない自分の感情を探しあぐねて、嵐に揺さぶられるまま、時間の潮にずぶぬれだ。
桜織りの手が僕の背中をかるく押した。
「こっち」
 促されるまま、僕は階段を下りてゆく。エレベーターやエスカレーターではなく、古典的に階段というのがいい。腰までの高さの簡素な手摺りには、いたるところ折り紙の花や鶴がいっぱい飾り付けられ、密閉したビルの中でも、どこからともなく吹き込む風に、鮮やかな千代紙細工がちらちら揺れる。
ここは病院なのかもしれない。折り紙は入院患者の手芸か、お見舞いなのかも。それにしても医師も看護師もいない。遠くで人の声らしい物音、気配はするけれど、僕の眼に映るのは無機物ばかりだ。
 有機的な要素は眼に見えない。気配、温度、声、この建物内部の温かいシチュエーションを集約した桜織が僕の背後にぴったりくっついて、僕たちは階段を降る。
 地下ではなく、二階か三階で僕たちは立ち止まった。このビルの入り口は、一階ではなく二階にあるらしい。一階のエントランスは国道に通じ、二階は崖際の岩場に向いている。
外から還ってくるひとは、海のほうの玄関から入ってきた。開口一番、
「命の危険はないよ」
 彼は彫刻のように均整のとれた白い体と顔をしている。僕たちを見て、かるく唇を緩めたが、笑顔には遠かった。表情が硬いのは血の気のない頬のせいかもしれない。少女にしては首が太く、胸がまったいらでなかったら、混血美女だと誰でも勘違いするだろう。眉間からまっすぐ伸びる鼻梁は生粋の西洋人ほど高すぎないが、日本人には滅多にない彫りの深さだ。
二十歳くらいかな。もう少し上かな。そうだ、豹河と同じくらいだ。肩にかかる長髪は黒い。青みがかって見えるほど黒い。インド人の髪の毛みたい。嵐のために濡れてしまったのか、僕たちの眼の前に現れたとき、すでに彼はすっかり衣服を脱いで、タオルを体に巻きつけていた。崖に続くエントランスから彼の足元まで、濡れた体からしたたった水が帯のようにつながっている。濡れ羽いろの髪をひとまとめに片手でしぼり、
「シャワーを浴びる」
 短く言うと、背を向けてすたすたと歩き始めた。尊大な印象。ちょっと細いけれどまっすぐな肩と背骨、腰に巻いたタオルの下から伸びる膝の線の、日本人離れしたなめらかさに驚く。白くて半透明で、まるで美術館で見たアラバスターの彫刻みたいだ。いや彫像なのかな。これは夢だから、そういうものが動いていたっておかしくないぞ。
 海から彫刻が歩いてきたなんて、いかにも夢らしい夢だ。僕と桜織はヒトデみたいなテトラポッドで、こいつは芸術作品だなんて多少むっとするが、桜織が側にいてくれるなら許容範囲だ。今、僕のキャパシティは広い。
 そのまま僕たちはなんとなく彼の後をついていった。こいつは豹河とどことなく雰囲気が似ている。豹は人なつこくて、触れば気持ちのよい熱のかたまりみたいな印象だったけれど、こちらはひんやりしている。
白い顔に黒髪、黒い眼。唇は赤い。睫毛が濃い。それは強い雨風に打たれても、瞳の周りにまっすぐ開いたまま剥げ落ちないから、天然睫毛だ。ひややかに見えるのは、彼の肌や唇の鮮やかすぎる艶のせいかな。男には見えない。でも少女でも女でも、もちろんない彼。僕らの前に現れてから、ほんのわずかな時間だけれど、いちいちの行動があらかじめプログラムされたアンドロイドみたいに落ち着き払っている。豹河とどこが似ているんだろう?
似ているものを眺めていると安心する。
安心する…。そうだ、こいつはあいつと同じように、リラックスした雰囲気なんだ。α波って言うのかな。豹河もこの青年も表情や動作の中にいつも青空がある。冷たくても温かくても、ふり仰ぐなら青い空がいい。

何度めのクリスマスだったかプレゼントの空き箱を数えればきっと思い出せる。赤い服に白い髭の肥ったサンタクロースは画像や夜の夢のなかにだけいて、イヴの真夜中、草紫の枕元にそっと贈り物を置いてくれたのは叔母だった。水晶ではなく桜織。なぜなら桜織がいなくなった年から、クリスマスイヴの夜は水晶と二人で祝うことになり、プレゼントは枕元ではなく、ローストチキンやミニサイズのホールケーキが並んだ食卓で、じかに母親から貰うことになったからだ。
贈り物の包装紙と空き箱を草紫は捨てなかった。草紫がというよりも桜織がしまっておいたのだった。こどもの寝室の押入れに、大小の箱は自分の中に包装紙とリボンをおさめて並んでいた。ラッピングペーパーもリボンも桜織の好みだったのだろう。棚に並んだ空き箱とリボンを眺めると、ショップで一律に飾ってくれる包装ではなく、幼児のよろこびそうな模様と色どりを、彼女は毎年念入りに選んでいた。
 草紫をよろこばすためではなく、きれいな箱や包み紙、リボンをそろえるということを、桜織のほうが好んでいたのだろう。とてもたくさんの女が、箱や袋、布や紙を必要以上に好むのは、それが女性性の最たる象徴だからだ。きっとナルシシズムに近い。  
時々彼女は押入れの棚に並んだ空き箱を、コレクションを鑑賞するように眺めていた。
「箱がからっぽなのはさびしいわね」
「さびしい?」
「中身が入っていたほうが箱らしいの」
晩秋で、風が強かった。風いろはもう木枯らしめいて、間歇的に音をたてて樹々をなぶる風の穂先は冷えてするどく、残り少なくなった枝のあわいをすり抜ける北風の響きは夕方にはことに際立った。強い風音のたびに、枝から離れた、あるいはどこかの樹木からむしられて飛んできた落葉の、屋根にぶつかる音がばらばらと聞こえた。
風はひっきりなしに吹くのではなく、時々唸りながらやってきて、草紫たちの小さい家の周りで地団太を踏むように樹々を揺すってあばれ、いつのまにか去っている。そしてしばらくするとまたやってきて、さっき自分が枝から弾き落とした庭の枯葉をすくい上げるように吹きあげ、中空にきりきり舞いさせ始めるのだった。
冷たい風がやむと桜織は窓をあけて部屋の空気を入れ替えることがあった。きれい好きなこのひとは、締め切った押入れや納戸の澱んだ臭気を嫌い、数日置きにあたらしい空気を入れた。子供の宝物箱を眺めていた日もきっとそうだったのに違いない。
 桜織は薄いクリーム色の箱をひとつ棚からとって、大きなさいころを降るように、子供の眼の前でカタカタと振った。音は彼女が箱の中にしまったリボンの束が揺れる気配だ。
「ね、つまらないって文句を言っている」
「リボンの音でしょ?」
「違う。空き箱の寂しさです」
 にこっと桜織は笑った。数字の配列と同じように左詰めに整理されたコレクションの何番目のものだったか。押入れを開ければいつでも確認できる。子供の顔くらいの大きさの、なめらかに樹脂コーティングされた光沢のある正四面体。手にとった桜織が箱を揺さぶるたび、ちかちかきらきらとこまかい粒子が光を弾くのは、箱に塗られた樹脂加工にマーブルのラメが練りこまれているせいだった。  
クリーム色の地に、やはり薄青や緑の細かいラメの渦が表面をくるりと巻いている。箱だけでもずいぶん高価だったはずで、おもちゃしか興味を持たない幼児に、箱の細工の価値がわかるはずもなかったから、それは贈るひとの楽しみのために違いない。
「箱が寂しいの?」
「たぶんね。きっと」
 子供は叔母の手から空き箱を受け取り、その軽さに少し驚いた。大きくて、見た目もきらびやかなので重さがあるように想像されるのだった。けれども、手にもらった箱はほんとうにあっけなく軽く、子供はうっかり箱を取り落とした。無意識に重いものを待ち受けていた両腕のあてがはずれた勢いは、空き箱を下から跳ね飛ばしてしまったのだった。
 かたん、と箱はつぶやくような音をたてて下に転がり、蓋がはずれた。
 桜織は空き箱をひろい、中身のないからっぽの内部を覗き込んだ。箱の中にはリボンの束がひとつあるはずだ。桜織は白い歯を見せて笑った。晩秋の薄暗い室内で、彼女の顔は物影の薄紫に表情を消していた。笑顔を薄闇のなかに窓のようにひろげると、桜織は草紫に言った。
「そうちゃん、この箱のなかに去年の風がいた」
「去年?」
「この箱を最後に開けたのは去年だったから、それが残っている。ほら、それが今出て行く。窓が開いているから」
 桜織は蓋のとれた箱を開け放った窓に向けた。いっとき止んでいた北風は、いつのまにか小刻みに木々の枝を揺さぶり始め、夕焼けを兆して茜に染まった雲のかたまりが、黒ずんだ裸木の向こうを速度を増して飛んでゆく。
 ほら、と桜織は力をこめて箱の中身を外へ放り出した。まるで盥の水を縁側から庭先にうちやるような所作だった。
 そのとき吹き始めたのは北からの風だったから、窓を開けていても南面のこの部屋に飛び込んでくるはずはない。けれども、桜織が放った箱から巻貝のように束ねられた赤いリボンが飛び出し、同時に開けた窓がめりめりと軋むように鳴ると、あっ、とふたりの人間が顔を背けてうしろに片足を一歩引くほど強い風がなだれこんできた。風はばたん、と片手開きの押入れの扉を閉め、桜織と草紫のおそろいのギャザースカートをカーテンのように煽り、宙に飛んだリボンは風の中でころがり、リボンを束ねていたゴム輪がぷつりと切れた。
 ほどけた赤いリボンは羽根さながら、のびのびと空に吹きあげられ、風の流体運動をなぞって飛んでいく。
「迎えが来たのね」
 晴れやかな桜織の声。

「僕はあのとき箱の中に残ったんだ」
「何も見えなかったぞ」
「風や水は不透明より無色とうめいなのがいいだろう?」
「中身はリボンだけかと思った」
 僕は半信半疑でクリーム色の箱を覗いた。赤いリボンが赤い鳥になって飛び立ち、晩秋の夕焼けに紛れてしまった日、あのあと必ず
桜織は箱の蓋を閉め、片手開きの押入れの棚に戻したと思う、よく覚えていないけれど。
 深くて滑らかな、ラメのマーブルで飾られた手箱の中に、膝を抱え、額をその膝頭にくっつけたこびとがいる。苔いろの上着に黄色いズボン。髪は縮れてもしゃもしゃだ。顔を伏せているから、いったいどんな奴なのかわからない。マルチーズとかシーズーとかの仔犬くらいの大きさで、見た感じもころころしておもちゃの人形のようだ。なぜ顔を伏せて猫のようにまるまっているんだ?
あのとき僕の顔くらいの大きさに感じられた箱の様子は、十三歳の今も変わっていない。頭の大きさはあのころと同じくらいということか。違うのは、六歳の僕は四頭身くらいだったけれど、今は六頭身半はある。僕の体の横に僕の頭が六つ半、この箱もまた六つ半並ぶ。
「痛いんだ」
「何だって?」
「体じゅうちくちくずきずきするんだよ。身動きできない」
 こびとは小さい声で言った。激痛のため顔をあげることができないって? だけどその割には彼の声ははきはきしており、苦悶に歪んでいない。
「いつから?」
「ずっと前から」
「どうしてそうなったの。病気かい?」
 僕はこびとの入った箱を膝に抱えて座り込んだ。ここはどこだろう。家ではない。座った底面には、灰色と緑のペーズリー模様みたいなでこぼこした襞が、ところどころ剥げかかった魚の鱗のように平らに続いている。この床のこの模様は絨毯なんだろうか。いや、床を手で探ると、それは繊維の柔らかさではなく、つるつるしたプラスティックの床に、肌理の粗いアクリル樹脂のペイントが施されている感じだ。整然とはほど遠い行き当たりばったりな床のでこぼこ。
上のほうは起伏のないクリーム色。この箱と同じ中間色だ。この空間は建築でもなければ自然のイメージでもない、中途半端にねじれた空間のヴィジョン。ここはまるでどこかに到着するために歩き始めた僕が迷いこんだ脳細胞のひずみのようだ。どこでもなく、ここでもない。僕の意思や願望とは想定外の空間。底面に描かれている、ぐにゃりと歪んだ灰色のペーズリーは、僕がこれまでに流した冷や汗の雫をプレスして長く広くひきのばした模様かも。それは嫌な汗に決まっていた。
 そうして箱の中で苦しがっている、冷静に苦しがっているこびと。
「いつのころからかわからない。だいじなのは今痛いんだ。いつからなんてどうだっていいだろ」
「それもそうだね。僕は医者じゃないしね。何故痛むのか理由はわかっているの?」
「ああ」
 こびとはもぞもぞと箱の中で顔を動かした。肯いているみたい。そして、
「僕は全身刺だらけだ。体のいたるところから鋭い刺か角が飛び出して、僕の周りの空間を突き刺す。すると突き刺された空気の痛みが僕に跳ね返って、ぞれでひっきりなしに全身が傷むんだよ」
「何も生えてないぜ。もこもこして、緑いろの上着と黄色いズボンしかない。刺も角もないよ」
「きみに見えないだけだ」
 こびとは頑固に言い張った。
「僕がちょっとでも身動きすると、周囲の空気は僕の刺に触れてぴしぴし言う。僕の首も背中も足も、空気の粒子の痛みをくらってひどいもんだ」
「それじゃ、僕、きみに触ってもいいか?
刺があるんなら、僕の手もそれを感じるはずだよな」
「いいよ」
 僕は両手で小動物を抱えあげるようにこびとを箱の中から取り出した。温かくて柔らかい。仔犬か兎のような手触りだ。
「痛くもなんともないよ」
「そりゃそうだよ。だって、僕の刺によって傷ついたきみのてのひらが感じるべき痛覚は、全部僕の方にフィードバックされるんだから。僕は今内臓まで深々とえぐられる激痛だ。だって人間の手を突き刺すなんて、空気をちょっとひっかくのとは、桁外れの苦痛だろ?」
「激痛って言うけど、きみの声ぜんぜん落ち着いてる。冷静だ」
「わめいたって痛みが減るわけじゃない」
「ごもっとも」
 僕の腕に抱き上げられたこびとは、相変わらず膝をかがめたままだ。僕はこいつの顔が見たい。
「きみの顔を見せてよ」
「そんなことをしたら僕は爆発しちゃうかもしれない、痛くて」
こびとはますますかたく体を縮めた。まるで毛糸の毬みたいだ。もこもこしたアルマジロの編みぐるみ。こびとは両手で自分のそれぞれの肩を抱いて、ちいさい手のちいさい爪が苔いろの上着に食い込んでいる。たしかに痛いんだろう。だけど、と僕はふと考えた。空気に触っても痛い、のべつまくなしずきずき、ちくちく、ひりひりし続けるなんて、それは生きていること自体が苦痛ってことだ。
「爆発するの?」
「たぶんね」
「ずっとこうしてまるまって震えているのと、爆発して苦痛ごときみも消えてなくなるのとどっちがいい?」
「僕を消すの? 草紫」
 こびとは僕を名前で呼んだ。
「僕は思い出なんだ。箱の中にしまわれていた思い出さ。桜織は箱の中から鳥を追い出したけれど、僕は出て行かなかった。だってきみは叔母さんのことをずっと忘れないじゃないか」
「きみの台詞こそ謎だよ。きみが僕の記憶のかたちなのか」
「思い出だよ。記憶と思い出はちがう。きみのてのひらは何も感じない。だけど僕はこんなに痛んでいる」
 僕はたちあがり、こびとの手をいっぽんずつ彼の肩からひきはがしていった。生れたばかりの赤ん坊よりもちいさい手、爪、腕。こびとは抵抗らしい抵抗をせず、僕が彼の四肢をひろげる感触は、針金でつながった抱き人形の手足をひらくことと変わらなかった。錆びついた針金。しまわれていた思い出。こいつが爆発したら、僕の心か肉体に激痛が奔るの? 
 最後に顔。僕は、顔を顎にくっつけてもじゃもじゃと垂れかかる髪に覆われたこびとの顎に指をかけて、ぐい、と持ち上げた。
 悲鳴か絶叫を、僕は少し期待した。
 それが僕の喉から洩れるものであっても。
 こびとが僕の一部なら、彼を破壊する罪悪感はない。さらに、僕は自分の知らない自分の思い出なら全部知りたい。そのどこかに、六歳までのアルカディアが残っているかもしれない。思い出が爆発したら僕の心は痛むのか? それはきっと僕の記憶から滲み出た灰色のペーズリー模様を粉々にし、僕を覆うこのクリームいろの立方体の壁を崩し、すなわち箱の外の箱を吹き飛ばし、その爆発の中から閃光とともにこぼれてくる声は、きっとなつかしい、どこかの瞬間で耳にした母親たちの声の残響なんだ。

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透花源  夢浮橋 vol5

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透花源

 腕(かひな)より透月昇るあえかにも
   触れなば韻(ひび)く虹の音聴かな

「あたしの夢を聞いてね」
「いいよ」
 僕と水香は真綿をはりめぐらしたような洞窟に向かいあって座っている。これはどちらの夢なんだろう。僕の夢かな。僕はどうも綿が好きみたいだ。このコラージュ・ストーリイのいちばん最初の夢では、僕は両側をピンクとブルーのふっくらとした羽布団にはさまれて、身動きできない状態でたちすくんでいたんじゃないかな。それを水香にこてんぱんにアナリゼされた。けなされたわけじゃないけれど、評価は好意的ではなかった。
 ふわふわした綿はコットンみたいだ。足元から天上まで、ふたりの周囲に、両手をひろげたくらいの四方八方をすきまなく覆っている。ここには繭の中に潜んでいる幼虫の安心感がある。キーワードは包容による安心。実に簡単だ。ばかでもわかるわかりやすさ。してみればこれもまた水香の辛辣な夢分析にあずかるなら、おおかた「自己防衛機制」だの「退嬰的マザコン」だのとあっさり片付けられてしまうんだろう。
 でもかまわない。僕は居心地の悪い夢は見ない。人魚の叔母と、たぶん人魚族の女王候補の母親のおかげで、僕は夢の特権だけは造物主からいただいているようだ。悪夢なんか見るもんか。水香には気に入らないかもね。
「何ぶつぶつ文句言ってるの?」
「言ってないよ。何か聴こえた?」
 水香は睫毛越しに上目遣いで僕をかるく睨んだ。染めているわけでもないのに、彼女の髪は生まれつき日本人の平均よりも茶色っぽいと思う。ふぞろいに伸びた前髪と肩のあたりで中途半端に揺れる毛先はすこし金色がかってあかるい。目も茶色いな。色素が少ないのか、白眼の部分はときどき青みがかって見えるんだ。いつのころからか、水香は、僕を見るとき、最初に二、三度瞬きするようになった。まるで、これからきみを見るけれど、いい? ってちいさい声で挨拶しているみたいな瞬き。ぱちぱちぱちと、睫毛の触れ合う音が響きそう。そして僕に視線を定めた後も、水香の感情はすぐに表面には出てこないで、ガラス窓をゆっくりひらくように、時間差を置いて僕に注がれる。
 なんてわかりやすい彼女の好意。だけどりこうぶった夢のアナリゼとは違って、この機微はばかにはわからない。
 水香は笑窪を浮かべて笑った。いつもそんなふうに笑っていてよ。分析より無駄話より、そうやって微笑んでいてくれるほうがずっといい。素直に言える、君のことが好きだよって。でも僕の〈好き〉で彼女がよろこぶとは限らない。僕のは告白には遠い〈好き〉だから。水香のくれた向日葵の一撃とは違う……。
「三、四人の男の人がわたしたちを待っているの。どこか駅か、学校みたいなところ。わたしたち、というのはわたしの他に年配の男性がいる。彼は、まだよぼよぼではない六十歳前後。白いワイシャツにノーネクタイ。メタボリックおじさんみたいで、ぷっくりお腹がりんごみたいにふくらんでいる。ちゃんと整えた半白髪で、がっちりした中肉中背のひと。わたしは彼のボディガードという役目らしい。彼は命を狙われている」
 いっきにしゃべると水香はそこで息をついた。すごいな。悪夢とは言わないが、僕ののどかなマザコンモチーフがつきまとう夢と比較すると、少女の彼女のヴィジョンのほうがはるかにスリリング。
「わたしたちは道を歩いている。クリーム色の道。この色は…そうね、ムンクの「叫び」で多用されている中間色によく似ている。周囲はふつうの街並み、市街地みたい。人通りはほとんどない。時刻は朝昼夜どれだろう。暗くはないけれど、太陽も月も見えない。夜みたいだった。そして数人の暴漢が襲いかかってくる。三人の若い男たち。ジャッキー・チェンみたいな格闘技でわたしの守っているおじさんを殺そうとする」
「殺す? すごいね、おっかない」
「ええ。でも夢の中では全然わたし怖いとは感じないの。ただこのひとを守らなくちゃって、必死で撃退するの。それがすごくおもしろいのよ。夢のなかで闘っているわたし自身、自分のやっていることをおもしろいって感じていたわ」
「へええ」
 僕は身を乗り出した。水香のはなしを聞いているうちに、なんだか心も体もむずむずしてきて、じっとしていられなくなった僕は、いつのまにか周囲の綿毛をむしっていた。やわらかい柔毛は僕の手に揉まれると、まるで蒲公英の綿毛のようなかたちに変化した。あれ、ほんとにはしっこに細長く固い種子がついている。あれ、てっぺんの綿の羽も。これを青空に飛ばしてやりたい。
 水香のはなしの途中だったが、僕は無遠慮に側の繭の壁を両手でめりめりと裂こうとした。この壁の向こうには、晴れやかな青い空と太陽があると疑わなかった。そこにはこの蒲公英の親玉のような太陽が、特大の顔文字で口を開けて笑いながら、地平線の彼方までさんさんと輝いているのに違いない。

 母親が子供を洗う手順は桜織とまったく違っていた。まず、彼女は浴槽に入浴剤を入れた。ジャスミン、ハーブ、ミント、オレンジ、ローズ……それらは透明なお湯を明暗さまざまなグリーンまたは濃い桃色に染めた。オレンジの芳香剤でも、湯の色は赤みがかった微妙なみどり、フレグランスのほうは確かに甘く爽やかな柑橘に違いなかった。草紫は、母親とお湯に入るまで、着色された湯を見たことがなかった。桜織のお風呂は無色透明だったから。
 水晶は時々さらに、この色鮮やかな湯船に、生の花やハーブを加えることもある。胡蝶蘭、梔子、クリザンテーム、もちろん薔薇。ローズマリー、サフラン、ラヴェンダー、もちろんヴァーベナ。…。
 緑の水面にゆらゆらと花びらがほぐれて浮き沈み、湯につかった母親は、自分の姿が必ず美しく幼児の記憶に焼きつくに違いない、と熟知しているかのようだった。彼女はそのために花びらを採集してきたのかもしれない。たとえばラファエル前派のオフェリアの画像などの中から、魔法をつかって綺麗な花や蕾を集めていたのかもしれない。
 彼女は草紫のからだを、桜織がしたようにまめやかに洗わない。もう子供が大きくなっていたせいもあるが、いっしょに湯船に入りはしても、その膝に乗せ、胸元に抱き寄せて甘やかしてくれるにせよ、子供の体の隅々に手を伸ばし、ということはなかった。そしてたぶん草紫もそれは拒んだに違いない。
 桜織なら嬉しかったことが、実の母親では恥ずかしくてたまらない、というねじれが幼児の心に育っていた。しかし、水晶が実母で桜織が乳母、という証拠はない。おおやけの戸籍と、人魚の系譜とは必ずしも一致しない。その必要もない。
 青緑いろの水底に母親のまるい膝がふたつ並んで寛いでいる。湯船は昭和半ばの、四角く深いステンレス張りだった。浴槽の銀色の縁に沼のようなグリーンがあふれ、そこに母親がまるく体をかがめて浸ると、暗い緑いろは彼女の皮膚の白さを反映してぱっと明るさを加え、珊瑚礁に支えられた南国の海のような透明感をたたえた。桃色珊瑚は水晶の肉体だ。そして、もう体を洗ってもらえず、シャンプーの泡で自分の頭をいい加減にかきまわしているちいさいおなかの草紫は、さしづめイソギンチャクに食べてもらえない海月の幼生といったところだった。人魚族のこどもは幼児にしても猛毒がある。母親はそれをよくわかっていた。
 食べてはもらえないが、母親に抱っこされるのはいい気持ちだ。それにまた、母親が髪を洗うのを見ているのも好きだった。緑のお湯から昇る湯気はお湯よりもずっと淡いグリーンだった。
水音がタイルの壁面に華やかに響く、昔の間尺のままの浴室は親子ふたりで使うには広すぎたけれど、高い天井まで透明な碧の微粒子は水滴を呼びながら、ふんわりとした霧となって漂い、たちこめ、時折不意に、ぽたり、はたりと光る雫を子供の肩や胸にしたたらせた。それも水晶の使った魔法だろうか。
 湯気は細かい枝葉を空間に縦横に絡ませる風船蔓のように、浴室のいたるところに伸びた。光りながら、雫を垂らしながら、雨だれのような子供と母親の湯浴みの響きを、彼らが身動きのたびにかきまわす浴室の穏やかな甘ったるい風とともに、その透きとおった花と碧のはざま。植物は笑い声のように成長してゆく。

 相手のギャングがものすごく手練れなのであたしはまともに戦ったら勝てないと思い、テクニックを使うことにした。相手は三人もいるのに、こちらはおじさんと自分だけ。おじさんも相当戦闘能力はあるらしい。昔の陸軍とか海軍とか、もしかしたらヤクザの親分さんとか、とにかく〈ぶった切る〉修羅場を数々経験しているひと。でもやっぱりおじさんはおじさんなのよね。だってあたしみたいな小娘がボディガードだなんて、人手不足なんじゃない、などどちょっと気の毒がる。
でも目前そんな悠長な状況じゃない。
 敵はみんな三十そこそこ、黒いボディスーツを着て完全武装した男たち。よく覚えていないけれど、何種類もの凶器をふりまわし、それが建物の壁や柱に触れると、そこだけ簡単にぼろぼろと砕けてしまう。彼らがひしひしとあたしに迫ってくる。喰うか喰われるかだなとあたしは思う。相手はこちらを殺すことに躊躇しない。どうしたらいいか。
めくらましをしかける。あたしは何もない空間に幻のスクリーンを張ることができる。縦横無尽に、自分の分身の幻を見せると、男たちは右往左往し始める。幻に向かって彼らは突進してゆくので、あたしは平気で彼らをうしろから〈ぶった切る〉
うしろから攻撃するのは卑怯? でも女と老人を暗殺するために、血気盛んな刺客を送り込むテロリスト相手に、あたしはたった十三歳のいたいけな少女なんだから、何したっていいのよ。容赦しない。
 夢だから、見たくないものは見なくてすむのか、血は出ないの。まるでなつかしの名画『ブレードランナー』のレプリカントか『エイリアン』のアンドロイド、ビショップみたいに黄色い体液がぐしゃっと空間に弾ける。あたしの解剖学的知識不足は、叩き殺した相手の脳味噌が脳漿や血液とともに飛散する現象なんか夢にせよ現れず、ただアンドロイドフィギュアが溶けた蝋のように砕かれる情景を描いた。男って幻想に弱いの。
 あたしは三人のうちふたりまでは棍棒でぶん殴ってやっつけてしまった。あたしが張りめぐらせた幻影のエントラップメントに彼らははまってしまったのね。
最後にひとり残っている。彼はあたしが他の男たちを相手にしている間、おじさんに突進して、白髪のおじさんと一騎打ちになっている。銃やレーザー、ショットガンとか、SFちっくな武器はお互い使わない。何故かしら? それもあたしの顕在的知識不足と銃器に対する関心のなさのせいかも。夢って正直。
 だから男とおじさんは鉄の棒で殴りあい。男のほうが強いので、おじさんは、それこそばっこーん、と威勢よい音をたてて、頭蓋骨の上半分、金属バットか手斧で〈かっとばされて〉しまうのだけれど、なぜか死なない。そうか、おじさん族はけっこうしぶといんだ。だよね、バブル崩壊リーマンショックを生き延びてきたんだものね。でもおじさん退職金出るの? 企業年金かなあ、などあたしはどこかで聞きかじった妙な感慨を抱きながらおじさんの戦いぶりを眺めている。おじさんがヤクザなら、ヤクザにリストラはないよね。引退はあるだろうけれど。
だけどお腹のでっぱったメタボ運動不足あらわなおじさんにドスの効いた殺気は皆無。
死なないにせよ、脳味噌飛ばされちゃったんだからあたしの出番よね。というわけであたしはたぶん日本刀をかまえて、飛んでゆく。
 勝たなくちゃ生き残れないから、あたしはこいつにも幻のスクリーンを張って注意をそらした。あちらとこちら、あたしがふたりいる。どちらかというと幻のあたしのほうがアップで迫力がある。アップで迫力がある、とこのなりゆきの一部始終を鑑賞しているあたしが、もうひとりいる。おじさんはどたまかちわられたのに結構のうのうと、小娘の参戦を眺めている。呑気。
 ちゃんばらの描写は夢でも苦手。だから助かりたいあたしは、刺客の頭から肩にかけて斜め上からざっくり斬った。男は刃を上にむけて下からすくいあげるようにこちらの喉を狙う。頸動脈削がれたらおしまい。あ、でもそういう知識がなければ、夢ならば平気なんだろうな。知らなければ、この帰結はインプットされないだろう。
だから夢の中で最強なのは、訓練を享けたスナイパーでも特殊部隊でもなくて、イノセントってことになる。自分を傷つける、自分が傷つける何の脈絡も知らないから、何度いためつけても、殺しても蘇ってくるゾンビチックイノセンス。ただし夢で、ね。
 あたしがぶった切った男も血は流さない。あたしってよっぽど血を見るのがきらいなのね。でも、もしかしたら、この無血の立ち回りは昨日かおととい見た勧善懲悪安全保障のテレビ時代劇のおかげかもしれない。誰だって痛いのはやだもんね。
 おじさんは地べたにしゃがみこんでズボンのポケットから白いハンカチを出して顔の汗を拭いている。脳味噌や体液、血飛沫ではなくただの汗。彼の叩き潰されたはずの頭蓋骨上部はいつのまにか修復されている。あたしも多少どこかを負傷したらしいけれど、とにかくぜんぶやっつけた。おじさんは、まるで台本の台詞のように「やれやれ」と言った。

 僕のこじあけた白い繭の壁の向こうに何があったか。僕は水香の独白を聞き流していた。水香も僕が聞いていようといまいと関係ないみたいだった。僕は自分の手の中に握りしめた蒲公英の種を空に飛ばしてやりたい。
 セルリアンブルー! 出現せよ君ただひとつと言う驕りと世界を僕にくれ空。繭を食い破って外界に進出する羽はまだ湿って青い。僕は両肩を縮め、背中を反らし、おなかをまるめ、左右それぞれ四本の足をうごめかせ、壁の切れ目にひっかかるまだぶよぶよのお腹をひきずりながら、冷たくあたらしい外気に全身をさらしてゆく。太陽が昇ればまだくしゃくしゃしている羽も乾いてひろがる。今はまだ夜明け前だ。切望した青はそこにない。
ただ遠い稜線をほのかな薔薇いろに透かして東雲の光がまっすぐに昇ってくる。僕は繭を捨てる。僕が翼だ。僕は虫か? 僕の丸まったくちばしは蜜か樹液を吸うためのもの。
僕が雄ならば、できるだけ早く羽根を乾かし、ここを離れて飛んでいかなければならない。成虫でいられる時間は短い。僕は健康な雌を見つけ、求愛し交尾をし、彼女が丈夫な卵をたくさん産むのを待って、また土に沈む。
許された短いうつしよの滞空時間のなかに、僕はひとりの伴侶にめぐりあえるのだろうか。時がたてば、僕の意識は冷えた亡骸とともに地に堕ち、四散し、水滴とともに蒸発し、どこかに還ってゆく。僕は僕の一部だったものを次の世代に託すことができないにせよ、彼らは僕が変化した水滴を飲んで繁殖するに違いない。

 真夜中に目を覚まし、隣に母親がいないことがあった。もう桜織は消えており、添い寝してくれるのは水晶ひとりになっていた。妹がいなくなってから水晶の夜の帰宅は少し早くなり、朝出かける時間は遅くなった。
草紫は六歳。すぐに七歳。母親の側でなければ眠れないという年齢ではなくなりつつある。水晶はそれをわかっていて、子供が小学校にあがると同時に寝室を分けた。小学校入学と同時に草紫は男の子になったせいもあるだろう。
だから母親とふたりで眠ったのは師走から翌年四月までだ。水晶は桜織とはまったく違う匂いがした。一言でまとめると、それは外の匂いだ。だが子供にはそのころまだ〈外〉がどういうものかわからない。いや、ずっと後になってもわかりようがないものを、水晶は毎日潜って戻るのだろう。肌理のあらい…。
 が、彼女は自宅にそうした雑音を持ち込むことは決してしなかった。衣装を乱して戻ったこともない。子供が見ていたのはせいせいとした母親の姿だけ。部屋着に身なりを改めても水晶は自分のペルソナの向こう半分を決して見せなかった。そちらはたぶん深くて波の荒い外海なのだ。おそろしい獰猛な魚や、巨大な甲殻類が潜んでいる。水晶はきっとぎりぎりの深海までもぐり、提灯鮟鱇や蛍光色のエイやシーラカンスと商売をしているのではなかろうか。
寝ぼけ眼で母親の寝床を探ると、ひんやりとその布団がつめたい。彼女はいない。子供は不安になって起きだす。桜織を探して泣いたときとは違う。草紫は、叔母が消えて以来、いつか水晶も自分を残してどこかに行ってしまうのではないか、と考え始めていた。三人で楽しく過ごしていたころ、この家はアルカディアだった。夜中に桜織がいないにせよ、それはきっとどこかにいて、戻ってくるに違いない不在だった。子供は甘えて泣いただけだ。
 でも今は違う。きっと母親も消えてしまう。今ではないにせよ、今かもしれない、いつかわからない、そうちゃんは置いていかれる。
 まるで足元からいきなり暗闇に転げ落ちそうな不安だった。
 母親の消えた寝床はすっかリ冷たく、部屋の空気も静かだった。草紫は気配を探して廊下に出る。虫の声が聴こえる。鈴虫か、松虫か? まさか、今は一月も終わり。師走の大雪を経て、年明けにはもういちど降雪があった。雪の積もることなど滅多にない湘南には災難と言えるほどの豪雪だ。だから秋の虫の声など聴こえるはずはないではないか。
 でも聴こえる。かぼそく、震えるような、陶器の縁をてのひらでかるくこすったときのような。そうすると焼きの佳い器は、澄んだ吐息を漏らす。あれとこれとの混じりあう音色が遠くから草紫の三番目か四番目の耳に聞こえる。行ってはいけないのかもしれない。でも夜を探検する好奇心は、闇の恐怖と不安に尻を叩かれ、みんな露わな真昼よりさらに強くなるものらしい。
 しゅ、と蛇が床をすべるような物音。
 するり、と畳の上を柔らかいものが移動する気配。
 古屋の奥の二部屋は、桜織がいたころから使っていない。納戸兼用の道具置き場のはず。
そのひと部屋から、ほのかな光が襖の隙間からほんのりと橙いろ。
 どうぞ覗きなさい、と言わんばかりにたてつけの歪んだ襖障子の間。草紫はちいさい顔をくっつけた。火の気のない廊下を歩いてきた素足がかじかんでいる。手も、顔も。寒いので余計にそこの橙いろに惹かれる。
 ここの明かりは裸電球だったはず。
 畳は黴と埃にまみれ、あちこち破れた葛篭や茶箱、長持箪笥などがごたごたしていたはず。
 が、子供の眼が見たそこにがらくたは一切ない。底光りするほど清められた床に、水晶は仰向けに寝そべり、水を含んで黒々とした髪を枕上に末広がりに放っている。着ているものは寝間着ではなく、水色の着物。もしかしたら長襦袢だったかもしれない。帯は締めていなかった。赤い伊達締め、それに赤い下紐数本が、体の下であやふやにほどけていた。彼女の上を、ゆっくりと馬が踏んでゆく。栗色の、毛並みのつやつやした馬が、水晶を蹄の下に敷いていた。
顔を左右にひとつ振って、馬がうなだれると、さらさらしたきれいなたてがみが水晶の首や顔に触れる。こんな大きな動物に全身を踏まれて母親は痛くも苦しくもなさそうに、薄く笑っていた。
 馬の蹄の大きさに草紫は目をまるくした。自分のてのひらほどもある。腹と尻の逞しさ、首の強靭など、こんな目と鼻の先に大型哺乳類を見たことがなかった。
馬は草原を歩むように母親の肉体をゆっくりと、念入りに踏み続ける。そのたびに鈴虫の声が水晶の喉から漏れる。

「人魚になったおばさんはどこに行ったの」
「きっと海だ。でなければ大きな湖」
 水香は髪をポニーテールにまとめ、襟ぐりのおおきく開いた袋のようなワンピースを着ている。大きな袋に頭と手を通す穴をあけた
どこかの山間地帯の民俗衣装みたいに見える。白い生地には向日葵が大きくプリントされていた。僕が水香に抱いている潜在的なイメージは向日葵なのか? そうかもしれない。夢にせよ、果敢にテロリスト三人ぶった切っていい気持ち、かどうかわからないけれど、意気揚々としている水香に、朗らかな向日葵はふさわしいだろう。
 僕たちは大きな水面の上に浮かんでいる。ここは海か、湖の真上だ。くるりと周りを見渡しても四方八方はるかに曖昧な靄につつまれ、水平も地平も、山の稜線もまったく見えない。線のない世界。ゆるやかな凸面に輝く水と空の曲面だけが見える。
 上空は青い。雲ひとつないが太陽もない。時折無数の黒い細かい鳥の群れが、ゆっくり東から西へ、あるいは南から北へ、かんだかい声でさえずりながら渡ってゆく。でも東西南北がどうなっているのか,ほんとうのところわかりはしない。だから上空には、僕たちの左右前後に渡り鳥がひっきりなしに飛んでゆく、と表現したほうが正確かもしれない。だけど〈左右前後〉では僕の見ている青い虚空のひろさと高さが伝わらないだろう。
鳥たちは、水の周囲に唐草模様のように渦巻いている低い靄から現れ、頭上高く飛んでゆく。靄は絶えず風にあおられ、いろいろな姿に変わっている。熱湯から白い湯気がたちのぼるようにも見える。
「それではこの中にいるのかもしれない」
 水香は顔を下に向けた。僕たちは水面から十メートルくらいの高さに浮かんでいて、ここからある程度の深さまで、水の中の様子が見えるのだった。
「これ、海なの? それとも湖?」
 僕の問いに水香は両手を腰にあて、上半身をすこし反り返らせた。児童を叱る先生のような格好に僕は吹き出す。だってそのとき、僕は自分の背丈がほんの少しにせよ、水香より高いことがわかったからだ。夢の中でも僕は成長している。僕は十四歳になったのか? これは夢で現実の僕は何歳なんだろう、という疑問がちらりと脳裏を掠めたが、僕が自分の問いに耽る前に、水香は
「言わずと知れた、これはあなたのコンプレックスエナジーなのよ」
「コンプレックス? なんだって?」
「深層心理学では、たとえばぬかるみや沼のイメージは、母親コンプレックスの端的な象徴とされる。でもあなたは泥沼に這いこんでうろうろしているわけではなく、足元にひろびろした巨大な水がめを眺め下ろして宙に浮いているんだから」
 水香はいまいましげに口をとがらせた。
「だから? どうなの」
「水とか海とかって、エネルギーそのものなのよ。現実でもそうよね。水力や火力で発電するわ。そのひとに内在する力あるいはそのひとの個性ではないにせよ、サブリミナルな無意識の象徴として海や湖が夢に現れる」
「で、これは?」
 僕は風に前髪をなぶられながら、親指を下にして水香に尋ねた。ほんとうのところ、もう訊かなくてもよかったんだけれど、水香と何か言葉をかわしていたかったんだ。
 さっきまで僕たちの周りは無風状態だったのに、今はそよそよと微風が通り過ぎてゆく。水香の白い向日葵のワンピースの裾がはためく。僕は自分が何を着ているのかわからない。
「この四方のどこにも陸地が見えない。草紫の上陸先はどこなんだろうな」
 水香は何もない空間にいきなり腹ばいになった。そして下を見る。
 海水なのか淡水なのかわからないが、透度の高い水中を、ゆったりと小魚の群れが銀輪を輝かせながら往来していた。水族館で見た鰯や鯵の魚群のようだ。鉱物質の光がこもる水中を、無数の魚のかたまりは、おだやかな水のたゆたいに細かな織目をつけるように、縦横に泳いでいる。彼らを襲う天敵の鮫や鯱はここにいないようだ。水面には上空を渡る鳥影が映っている。彼らの啼き交わす声が単調に、時間を測るリズムのように聞こえる
見上げれば空には鳥、海には―仮に海としておこう―魚たちが悠々と寛いでいる。水に映る鳥影と水面に浮かぶ魚影とは、中空の僕の眼からするとほとんど変わらない。僕は理解した。空の魂は鳥で水の魂は魚だ、水は空で空は水。鳥と魚はふたつに隔てられた世界で、空と海とが互いに呼び合う夢の指先のようなものだ。
 それでは詩的想像力に加担しすぎだろうか。だが世界創造の当初光あり、それから水と陸が形づくられたときから、永遠に空と海とは隔たって結ばれない。水平線のあわいは永遠の曲面であり、二つの世界は、ただ風や雨で互いを確かめ合うしかない。鳥は海への空からの贈り物。そして魚は空を見つめる海のまなざしだ、と僕は思う。そしてまた宇宙創成のとき、超新星の爆発によって飛び散る幾億の遺伝子記憶。それもまた鳥たち魚たちの姿で、僕たちの夢に導かれる。
 だから鳥や魚は、決して僕たちの思い通りにはならない。訪れるのは彼らのほうからで、僕たちには魚や鳥を支配することは、決してできないんだ。夢であっても。夢だから。
「では人魚はどうなの、あなたのおばさん」
 夢の水香は遠慮なく僕の心を読む。僕はそれをいぶからない。だいたい、水香という彼女はほんとにうつつの世界にいるのだろうか。夢の中の僕には現実の自分を確認する術などない。なぜなら理非善悪条理の係り結びなど、無意識無時間のこちらがわでは、それこそナンセンスだからだ。無条件にすべて受け入れるのが夢と仲良くする方法のひとつだ。
「人魚? 彼女たちは、水中から空を見つめるだけでは飽き足りない海が、魚を半分人間にして、上半身だけでもずうっと空に身を寄せることができるように願ったんだろ」
「願えば叶えられる、と?」
「そうさ。だって鳥はもともと魚だったんだぜ。みんな水の中にいたんだ。飛びたいと切望した魚たちはゆっくりと何世代もかけて自分の遺伝子をそのように変化させていった」
「なぜ人魚の半分は人間なのかしら。半分鳥で、半分魚なら」
「女の子とも思えないな。あ、怒るなよ。とてもわかりやすいことだと僕は思う。海と空はいつもいっしょになりたいって思ってるのさ。だから、魚や鳥じゃなく人の姿を選んだんだ。だってのべつまくなし恋歌をうたうのは、地球上のあらゆる生物の中で人間だけだよ。それに人間以外の動物や昆虫では、歌うのはたいてい雄だ。人間だけが男も女も歌ったり踊ったりする」
「男の人魚は?」
「僕にはわからない。いるのかもしれない。だけど、海の化身としてイメージするなら、やっぱりきれいな女性のほうがいいよ」
水香はごろりと空中で寝返りをうち、こんどは渡り鳥の行き交う空を見上げた。そして両手を空に差し出し、無限に高い青の空間を自分のほうに抱きとろうとするジェスチュアをした。水香のほそい両腕はもちろん空に届かず、吹き抜ける風をすうっとよぎって、向日葵のワンピースの胸元に静かな十字を組んだ。彼女は自分の胸を抱きしめる腕の形のまま、小声で言った。
「でも草紫は桜織さんに再会したら人魚族になるんでしょ?」
「決めてないよ。人間もきらいじゃないし。僕はただ、何とかして桜織にもういちど会いたいだけ」
「会いたいだけ?」
 言葉がまっすぐ来たので、僕も言い切った。
「だけじゃないよ」
 どうするの、という水香の突っ込みを予想したが、彼女は節度を守って、ただ笑った。
 それから、
「桜織さんがもうすでに人間であることをやめて、この源に還ってしまっているのだとしたら、こんな風に謎が解けるわ。花々は大地に据えられた樹と枝の、天に向かう憧れだと。花々はいっとき地の夢をうつして咲き、やがて風に吹かれて朽ちてしまう。だけどあたしたちのもらった爛漫のヴィジョンは重く暗い土の中にではなく、この水がめのような、あふれる大きなたゆたいの中に戻ってゆくのよね。花は樹々の歌なのよ」

双星嬬  夢浮橋vol4

Posted by 水市夢の on   0 comments   0 trackback

   双星嬬

 花桜は少女に並ぶ不可思議の
   箱ひらくごと頬やはらかし

 幼児期を過ごした海沿いの家は、なんと居心地のよい場所だったろう、と草紫は何度となく思い出す。幼児期とは六歳までのことだ。
曾祖母の代に建てられた茅葺農家を何度となく改築した住まいは、広いことは広かったが凝ったつくりではなく、窓や玄関のたてつけなど相当歪んでいた。母屋の天井には太い梁が何本も渡り、廊下を歩けばきしきしと鳴り、昔風に深い押入れは蜘蛛の巣だらけで、奥の何部屋かはもう出入りすることもなく、蓋を開けてみることもない長持や煤けた屏風、埃を被ったがらくたなどがひえびえと黴臭く溜まっていた。この中にはきっとかなり高価な骨董もあるのかもしれなかったが、水晶も桜織も、道具類の手入れはおろか見向きもしなかった。彼女たちが執着したのは衣装や装飾品で、ことに水晶は和服を好み、結城や大島紬を関東風にきりりと着付けて外出する。
桜織は紬よりも小紋などのやわらかものを選んだが、ふだん幼児の世話役だったためか、着物姿の記憶は少ない。桜織はいつも白っぽい、色味のあっさりした洋服を着ていたと思う。純白ではなく、生成りか薄い青、淡いピンク、ベージュ色のブラウス、シャツ、ワンピース、チュニック。それらは今も彼女の衣装箪笥のなかに残っている。
 匂いは不思議なもので、桜織の使っていた部屋を開け、引き出しを開けると、樟脳や洗剤の匂いに混ざっていつまでも、言葉には形容しがたい靄のような気配となって、衣類の中にはっきりと保たれているのだった。
桜織はどこに消えたのだろう。草紫は泣いたが、水晶は鏡のように涼しい顔をして、幼児の訴えを無視した。母親らしく子供を撫であやしてはくれたが、子育てには向かないひとらしく、撫でられている草紫のほうが、母親の、あたかもすべすべした陶器を鑑賞するような手つきになごむことができす、自分から嗚咽をしまってしまった。
 叔母がいなくなったのは、七歳になる直前の冬だったろうか。師走の雪催い、数日鼠がかった空に低気圧が沈滞し、海はたぶん荒れていた。慌しさの微塵もなく、ある瞬間ーーある朝、ある夜、という長い時間の枠ではなく――ある刹那、ある一瞬、ふっ、と桜織は草紫の側から消えたという感じだった。たった今までそこにいたのに、子供が何かにちょっと気を取られた数秒後、ふりかえったらもういなかった。そんな感じと思われるのだった。
桜織が姿を消してから何日かたって初雪が降った。草紫はてのひらを上にむけて散りくる雪のひとひらふたひらを天からいただいたが、冷たさをそれと感じる前に、最初の薄片は草紫の手の暖かさのために溶けてしまった。そして消えた雪のひとひらを惜しむ間もなく、次々と柔らかい粉雪が子供の手の中に降ってきて、草紫は初雪の最初のひとひらの感触を思い出すことができなかった。そうしようと思ったわけではないが、消えてしまったうつくしいちいさいものの記憶を確かめることのできないもどかしさが、そのときふいに、母親の手でなだめられなかった悲嘆をもう一度引きずり出し、草紫は初雪のなかで声をあげて泣いた。そして、そのときこの子を暖めてくれる誰もいなかった。そのために子供は、なんの気兼ねもなくたくさん涙を流すことができた。
子供は泣きながら家を飛び出し、坂道を降り、またどこかの小道を曲がり、こんこんと積もり始めた雪の中を歩いた。どこへ行こうというあてもなく、ただじっとしていられなかったのだった。この子に毛糸の帽子を被せ、オーヴァーを着せ、手袋を嵌め、雪ならば底にしっかりと刻みめのあるショートブーツを揃えてくれたひとはいない。家を飛び出した子供は赤いセーターに黄色いウールのスカート、白いタイツに運動靴という軽装だった。まだ女の子だったので、背中の辺りまで長く伸ばしていた髪は自分で梳かし、飾りのついた髪留めで前髪を分けた。桜織がしてくれたような編みこみは草紫にはできない。
子供はそれでも、雪の降り来る空模様を見上げて、赤いセーターに、かろうじてモヘアのマフラーを巻いた。それから暖房を切る。
母親はいつものようにでかけていた。台所には昼ごはんとおやつが香枕彫の盆にサランラップをぴっちりかけて整えてある。冷蔵庫には夕飯。それも水晶のしわざらしく、冷凍食品に少し工夫を添えた程度の料理であったが、見た目きれいに盛り付けてはあった。母親は自分の得手不得手をちゃんと弁え、家事炊事がうまくない、ということを不必要に恥じたりはしない。それにしても幼い子供にとっては、どんなご馳走だろうとひとりでぼそぼそ向かう食卓は寂しくつまらない。
雨の空を見上げても空の深さを測ることはむつかしいが、雪の舞散る空を見つめるなら、小止みなく霏々と訪れる雪の彼方に、手応えを拒む空白の深さを逆に感じとることができる。灰色と薄い青みがかったこまかい雪は、じきにアスファルトを覆い、常緑の庭木の枝に、塀に、やがては地表のすべてを埋めてゆく。雪はまた自分の訪れる世界一帯の音の気配も吸い取るから、人気の途絶えた街を小走りに歩いてゆく子供の耳は、自分の無我夢中な呼吸の音だけを聴いた。雪が子供のふっくらした顔じゅうにまつわりつき、草紫はいつのまにか泣き止んでいる。

「あの雪は繚乱の花吹雪でもよかったのよ」
 僕は白一色の波打際に立っている。ここはたぶん、いつも見慣れた香枕海岸だ。遠浅の入り江はゆったりとひろく、なだらかな曲線が遠く鹿占(かうら)半島まで続いているように見える桜守(さがみ)湾。香枕から隣の鹿香にかけては、百合とともに桜の名所で、地元の昔話に、昔この海は岸ぎりぎりまで岩がちで深く、そのため波が荒く、住民の水死者が多かった。心いためた桜の精と百合の化身の女が協力して海底の砂を運び上げ、波を穏やかにしたのだという。それで桜守湾とついた。昔はただ桜守の海と言ったそうだ。今は水神として香枕宮に鎮座する弁才天はその桜の精で、百合の精霊のほうは宮に祀られることを拒み、のんびりと香枕の大地に還ったのだという。女神ばかり登場して男神の出番がないぞ。夢のシナリオのでっちあげか?いやいや。
世界各地のフォークロアを俯瞰するなら、聖母子に代表される母子神、女神崇拝は民衆にひろく指示される。そして子神を孕ませた天神は、うやうやしく天にましまして、土俗に降臨することはない。民衆のアイドルとして活躍するのはキリスト金太郎ヘラクレスよろしく、神の子供たちのほうだ。
 僕はすらすらとこんな伝説を思い出したが、果たして夢が醒めたとき覚えているだろうか? これは夢のまた夢の作話かもしれない、などと、考えながら海岸に立っている。幻聴かと疑ったが、もういちど、胸がしめつけられるなつかしい声が聴こえた。
「わたしの名前は神さまからいただいたの」
「探したんだ」
 声だけ聴こえるが、眼の前にしんしんと降り積もる雪のなかにそのひとの姿は見えない。
人魚になったのなら、この視界が閉ざされた海のどこかにこもっていて、声だけを僕に送ってくれているのかも。桜織。
「どこにいるの。顔を見せてよ」
「あなたの眼の前にいる」
 風のない海面に、雪は静かに降っている。夢の視野は、ただしく桜織が消えた六歳の終わりに駆けつけた冬の海を再現している。渚は早くもくるぶしまで雪が積もり、視界数メートル先までは鈍い灰色の波襞が見える。風がないので波はむしろおだやかで、波頭の先端に盛り上がる白い泡が、降る雪を含んでさらにふくらんで見える。そして波のさざめきは低い。波音さえ雪は吸い込み、鼓膜に触れてくる物音は、波音よりもむしろ、自分の吐く息吸う息のほうがはっきりしている。音のひややかさ。抵抗できない、いや抗いたくない純白の凝固。僕の眼に映るのは降る雪に水平線を消された、手前三メートルの蒼白な波の襞ばかり。海の中は暖かいのだろう?
「そうでもないけれど、凍えるほどではないわ」
「人魚草を食べたの?」
「いいえ」
「でも海の中にいるんだね」
「そうとも言えるし、違うとも言うわ」
「なぜ?」
「あなたがそうしたいのなら、この雪景色の壁紙を剥がして別なテンプレートを貼り付けたらいいのよ」
「なんだって?」
 くくっ、と桜織は笑った。
「だって、この情景は深刻すぎない? なるほど美の極みでは色は捨てられ、リビドーは清められて、微茫滲淡としたモノトーンの世界に至るのだけれど、あなたにもわたしにも、そんな大人の世界は似合わないわ。もっとのどかでうっとりする情景でわたしを慕ってよ」
 おっしゃるとおりだ、叔母さま。
トーマス・マン曰く、「美は官能を通って認識にいたる」マンはかなしげに同性愛を隠し持ち、実生活でヴェニスに死ぬことはなかったが、もう初期作品で美の本質を的確に射抜いたアフォリズムを残した。だけど、そこにはオムレツの湯気も炊き立てご飯の嬉しさもない。焼きあがったパンの香ばしさも。だから僕はせめて雪景色ではなく、淡々と薄紅色の慕情を添えて、だいすきな叔母のためにこの雪の海辺から一転して、春爛漫香枕山の桜吹雪を運んでくることにしよう。
雪の渚のさざめき、視界を覆って顔に降りしきるものたちのひややかなぬくもり。
冷たいぬくもり。
そうだ、雪片と桜吹雪とをつなぐ感覚を僕は記憶の堆積から探し出した。触れた刹那はひやりと淡く、次の瞬間にはその冷たさで自分の体温の暖かさをあえかに知る。それは……誰かに会えない寂しさを感じることで、そのひとが自分にとってだいじな存在だと…自分の思慕に気付くことと似ていた。
 桜守湾をみはるかす崖っぷちに僕は立っている。両腕をかるく預けているのは、稲妻に裂かれた欅の樹。新緑にはまだ早く、黒々となめらかな裸の幹と枝が青い海にくっきりと冴える。そして欅の周囲には山桜。ここは廃れた古宮のあとなので、昔防風林として植えられた樹々の中に、姿のよい山桜があった。江戸時代に人工交配によって作り出された染井吉野よりも、原生種の山桜はすらりと背が高く、ねじれのない樹相が清潔だ。おもしろいことだが、和服で渋い紬を好む母親は染井吉野を好み、桜織は山桜を愛でた。
 山桜は赤い若葉と白い花とが同時に現れる。染井吉野は空を覆う濃い爛漫が散り果ててから、控えめに葉桜の季節を迎える。
 僕は染井吉野ふうに視野ぜんぶを埋め尽くす百花繚乱春爛漫を選択したかったのだが、どこかで桜織の記憶データが自動的にアウトプットされ、彼女好みの海と空と樹々、そして古代の樹相を保つ薄紅色の山桜が夢のテンプレートとして選択されたんだろう。でも彼女が喜ぶのなら結構だ。
「ここにあなたを座らせて、海のことを訊いたわ」
「僕はまだ女の子で、スカートを穿いていて、木登りのたびに膝が擦りむけて血が出た」
「小さなかわいい子だった」
 相変わらず桜織は声だけで僕にコンタクトしてくる。どこにいるんだ? 声はすぐ側から、まるでこの欅の枝のどこかに留まっている頬白か四十雀のさえずりのように、ちいさいが、とてもはっきりと聴こえる。
 そんなことを思っていると、欅の裸木のほうに満開の腕をさしのべた山桜の花房を揺すって、目白がはたはたと飛び立った。花喰い鳥だ。蜜が甘いんだろう。
「草紫は、あのころの倍くらいに背が伸びたわね」
「今一五八センチだから、倍でもない。これからもっと大きくなる。桜織よりずっと」
「どこまで成長したい?」
「どういう意味?」
「海に人死にはあるかしら。もう草紫には見えないかしら」
「なぜ水死者にこだわるの?」
 言いながら僕は欅の股から香枕海岸を見つめた。海はどう見える。六歳までの僕には、海や空にいろいろ神秘的な予兆を見ることができた。らしい。らしい、というのは幼い僕にはそれが異常なこととわからなかったからだ。ごく自然な現象だったので、自分の能力に〈超〉というプレミアムがつくとは知らなかった。それがわかったとき、僕はもう男の子で、ギャングエイジをそとづらだけでもしぶとく駆け抜けるために、海に漂う魂だの樹々の下にたたずむ精霊だのといったやわらかいものはいったん封印しなければならなかった。
やわらかいものはみんな自宅の、桜織の部屋に封印した。その部屋では妖精だろうと幽霊だろうと想像力のほしいまま。だけど僕は超常現象なんか何も欲しくなかった。
「七歳になって僕を男の子に戻したんだから、もう桜織が期待するような神秘は見えない」
「でも、今はわたしがいっしょに見ているのだから」
「どういうこと?」
「わたしはあなたの眼であなたの夢を一緒に楽しんでいるのよ。あなたのイマジネーションはわたしのヴィジョン」
「僕をマインドコントロールしてるのか?」
「いいえ。あなたが見たいものを、わたしが見つけてあげているのよ」
「僕は魂なんか見たくない。海なんかほんとのこといってどうでもいい。僕はあなたにあいたい」
「夢でいいの?」
「夢でもいい」
「あの家で、わたしたちは時々魚や鳥になったわね。それは夢なんかじゃなかったのよ」
「僕が七歳未満で女の子だったから見えたんだろ?」
「そしてわたしはあなたといっしょにいる。もう人間をやめてしまったわたしが」
「人魚になりたかったって」
「感傷的に。
 感傷ってプラクティカルなの。
 たとえば、パスタの茹で加減みたいなものよ」 
「アルデンテの落としどころは」
「わたし、シリアス苦手だから」
 人魚になっても。

その初雪はそのまま記録的な豪雪となった。午前中から降り始めた雪は昼過ぎにはさらに激しさを増し、まるで嵐の雨のように海辺一帯に降り注いだ。
 薄着で香枕海岸に走っていった草紫は、渚でぼんやり灰色の波襞を眺めているうちに、こんもりと雪に埋もれ、ちいさい子供は弱いから危うくそのまま凍死でもしかねないところを、運よく犬の散歩に出ていた近所の主婦に助けられた。物好きにも大雪の中を海をめがけてやってきた主婦は、犬はよろこび海駆け回るなどと歌いながら、ロマンチックな無人予想の白い海辺に、理想的な雪だるまのすがたで硬直している幼児を発見し、シベリアンハスキーといっしょになってこの子を掘り返し、そのころは脛近くまで積もり始めた雪に足をとられながら、道路までひきあげてくれたのだった。陽気で親切な主婦がいなかったら、子供は凍死していたろう。
 県道はまだ車の通行があったので、渚ほど深く積もってはいなかった。草紫から雪をはらってやった主婦は、子供の薄着に二度驚き、真っ白に硬直して口もきけない有様を見てとると、背中におんぶしてふうふう言いながら自宅へ戻った。同じ海辺の住人だったが、草紫の保護者たちと顔見知りになるほど近所ではなかった。草紫たちは香枕山のふところに、彼女は海辺を逆方向になぞって星月夜岬に住んでいた。
 マンション住まいだが、シベリアンハスキーは内犬で、よくしつけられており、玄関先にひろげたタオルを、自分から四足でふみふみして汚れを落とし、それからリビングに走ってゆく。部屋に入ったとき、草紫は主婦の背中と腕の温かさでほとんど人心地をとりもどしていたので、黒白くっきりと隈取のような厳しい顔をした犬の行儀のよさを可愛く、また頼もしく感じた。
 意識はしっかりしてきたが、雪がとけてびしょぬれになった膝やお腹が冷えて、かじかんだ爪先が痛んでじんじんする。床におろされたが、子供はうまくたちあがれず、濡れたぬいぐるみのようにぐずぐずとしゃがみこんで動けない。
「わあ、たいへん」
 ちっとも大変そうではない声で主婦はつぶやき、自分のフードつきのオーヴァーを脱ぎ、髪に残った雪の結晶をきらきら光らせながら、もういちど幼児を抱き上げ、バスルームに連れていった。草紫は目をみはって彼女のなすがままに任せた。まだ人馴れしていないので、初対面の彼女の顔に驚いているのだった。
 主婦はてきぱきと湯船に浅くお湯をはり、中を蒸気で十分にあたためてから、子供を脱がせた。そして彼女は途中で奇妙な表情になった。長い草紫の髪を自分のゴム紐でまとめ、お団子をつくってやり、人形のような幼児の体にシャワーをかけてやりながら、彼女の困惑と驚きの表情は、温和な笑顔の裏表にかわるがわる見え隠れし、草紫にはそれが見えるのだった。その理由はわからなかったけれど。
 が、彼女は水晶よりずっと手際よく、子供の世話ができた。
 風呂上りに彼女はまた躊躇の表情を露わにしたが、クリーム色の厚いバスタオルにもこもことくるまった子供の長い髪の毛を見て、だいぶ古くなった女の子のパジャマを出してきた。下着はない。
「すぐにお洗濯して、乾かしちゃうから、それまで娘のを着ていてね」
 主婦はにこっと笑った。耳に大きな輪のイヤリングが揺れている。それも草紫にはめずらしい。
手渡されたピンクとブルーの寝間着は、防虫剤の匂いがした。草紫の知らない匂いだ。だがハートとキティのプリント模様のパジャマの色が桜織好みだったので、草紫は素直にそれを着た。ふわふわした厚手のパジャマを着てしまうと、見知らぬ顔に対する違和感も消えていた。主婦は、ダイニングに子供を連れて行き、ミルクココアを作ってくれた。
「ありがとう」
 そこで初めて草紫は声を出した。床暖房のダイニングにはいつのまにかシべリアンハスキーが待っていて、お腹を暖かい床につけたままテーブルの下からもそもそと這ってゆくと、興味深そうにパジャマのズボンから出ている草紫の素足を舐めた。犬の唐突なアピールにも子供が驚かないので主婦は安心し、
「名前は何ていうの?」
「ゆいそうし」
「そうし。どんな字?」
「草の紫」
「それはすてきね。ゆいさんて、結衣ヶ浜の結衣?」
 草紫は食卓の上に人差し指でおおきく書いた。由井。画数が少ない字なのですぐにわかる。主婦は頷いた。その姓なら覚えがある。
「わたしは美於。あなたは何歳?」
 草紫は相手の顔をしげしげ眺めた。母親たちよりだいぶ年配だ。髪を茶色く染めてパーマをかけている。オレンジ色の口紅。オレンジ色のセーター。爪も同じ色。普段着だが両耳に金の輪。ふんわりした外巻の毛先にゴールドのメッシュ。わざとむらをつけているので、光の加減でいろいろにちかちかして金粉みたいだ。部屋着のパンツはアーミーふうの迷彩模様だけれど、犬と同じブラック&ホワイトのゆったりデニムなので、とても派手だ。左手には耳輪とお揃いの金のバングル。
彼女と水晶桜織と、世界観が違うということは身なりでわかる。幼児にもわかる。いや子供には大人よりずっと明確にわかる。なぜなら、ごく幼い子供にとっては、肉体と衣装は別々のものではなく、ひとかたまりの表現だからだ。自分を温めてくれる母親の、皮膚とブラウスの違いなど赤ん坊にはない。
身なりは派手だが、美於の背景のシステムキッチンはよく片付いている。味噌と牛乳、しょっちゅう焼いているに違いない自家製のパンの匂いがする。犬をよくしつけ、迷子の子供を気軽に世話する彼女の目がやさしい。
 ずいぶんきれいな子供だわ、と美於は考えていた。清楚に顔立ちの整った、女の子。小学校に上っているくらいの年齢だけれど。もしかしたら年長組かしら、などなど。女の子。これには鍵カッコないしは横書きならばアンダーラインが要る。もしかしたら波線の。
「六歳」
「なぜ海に来たの?」
 なぜ学校に行かなかったの、とは尋ねなかった。不登校児童かもしれない。よくある話だ。いじめかな? それで、女の子?
「桜織がいなくなったから」
「さおりって?」
「ママの妹」

 適度に暖めたテフロンのフライパンにバターを落とし、くるりと一回り揺すって全体に馴染ませる。ふつふつと金色のバターの周囲にクリーム色の泡が浮き、とろりと全体に透きとおった香ばしさがひろがってゆく。
「干し葡萄を混ぜたの、それからアーモンドのパウダーとね」
 フライパンを握る水晶の頬がめずらしく紅潮している。こめかみから頬骨にかけて細い静脈がうっすらと透けるほど白くなめらかな皮膚をしている。顔の輪郭は定規で線をひいたようにすっきりと歪みがなく、それでいて頬のあたりは気持ちよくふくらんでいた。それは顔全体の端麗を崩す素朴な風情を添えたが、同時にまろやかに、親しみやすくも見えた。妹の桜織も同じで、ぱっと見に驚くほどよく似た、美しい姉妹なのだが、頬と顎の適度なふくよかさのおかげで、痩せがたちの美人につきものの険から免れている。
 大雪が降り、水晶の仕事はキャンセルになったということだ。いったい彼女の仕事とは何なのだろう? 妹が人魚に変身するくらいだから、水晶の職業も人間並みのものとは思えないが、それもまた、六歳の草紫の想像外だった。
 海辺で親切な主婦、美於に救助された草紫は、夕方になって彼女の車で自宅に送ってもらった。美於は美少女と美少年の両方をイノセントに―無知のまま―過ごしている草紫が気に入ったようだった。彼女の飼い犬も。だが子供の衣服が、ランドリーで気持ちよく乾くころ、突然発熱が始まった。子供は急に熱を出す。それも子育てを終えた中年の美於には慣れた出来事だった。
 絶え間ない大雪が流れるように降る中を、美於の運転する車の後部座席に乗せられ、毛布にくるまれ、シベリアンハスキーによりかかって草紫は戻ってきた。自宅は無人かと思いきや、母親も仕事を休んで戻っていたのだった。美於は水晶よりひとまわりくらい年長なのだろう。それにしても、呼び鈴に応じて薄暗い小家からすうっと玄関先に現れた若い母親の、常ならぬみずみずしさに、美於は驚いていた。
 それから一晩中雪は降り続け、草紫の熱も下がらなかった。水晶は眠らずに側についてくれたが、夢うつつで子供はやはり桜織を慕って時々泣いた。水晶は子供の泣き声を聞いたが、眉ひとすじ動かさず、ちいさいきれいな声でグノーのアベマリアやモツァルトの子守唄などを歌っていた。こういう事態は百も承知の上だったから、母親は白い顔を崩さなかった。
 朝になると子供は回復し、喉の乾きと空腹を訴えた。
 それでフライパンとホットケーキになった。
 冷凍庫には電子レンジで加熱すれば、すぐにいただけるピザもおむすびもたっぷりあるのだが、病気の子供のために水晶は数少ない得意な手料理を始めたのだった。
「ホットケーキをばかにしないで」
「誰もしてないよ、ママ」
「そお? じゃ、わたしのそらみみね」
「ママにはたくさん耳があるんだ」
「草紫の耳はいくつ?」
「ふたつ。右と左に」
「少なすぎるわ。耳と目はね、いくつあってもいいの。そしてそうしようと思えば、身体のどこでも耳になるのよ」
「どういうこと?」
「背中に目がついてるって、聞いたことないの?」
「さおちゃんが言ったかも。そうちゃんを欅に座らせたとき」
「死者の魂が見えたのね?」
「そうちゃんわかんない。死んだひとかどうかもわかんない。そう言ったのはさおちゃん」
「ほら、つまりね、草紫には目が二つ以上あるのよ。耳もね、そうしたいと強く願えば」
「でも鏡にはうつらない」
「そうよ。映ったら変でしょ。目には見えない眼、目には見えないお耳だからいいの」
「ママも? さおちゃんも?」
「わたしたちはみんなそうなの」
「わたしたちって?」
「わたしたちよ」
「ママ、さおちゃんはどこ?」
 水晶はフライパンを器用に振り、狐いろのケーキをひっくりかえす。火加減を調節し、裏にも焦げ目を加えてから、ミントグリーンの皿に移した。すぐに蜂蜜をかけ、シナモンを振った。この上に次のケーキを重ねるつもりだ。バターに焼かれたレーズンの香りがふんわりと漂う。水晶は思いついて、ほんのすこしチンザノビアンコを垂らした。この間彼女は黙っていた。
 それから、
「ジャムもつけて、どう?」
 草紫の新しい耳は、首のあたりにもうひとつ芽生えたようだ。微熱のだるさと心拍がことことことと音をたてて波打っている首の付け根のあたり、ひんやりとさびしい気持ちが母親から伝わる。水晶の声はやわらかいのだけれど。桜織はいない。帰ってこない。草紫はおとなしく答えた。
「蜂蜜がいい。メープルシロップがなければ」
うん、とうなずくクリーム色のタートルネックのセーターにサーモンピンクのエプロンをつけた水晶ははしゃいでいた。和服をまとうときには乱れなく結う髪を、わざと緩く束ねて顔の周りに後れ毛を遊ばせている。
しどけなさが彼女を幼く見せる。金色のケーキの焼き加減をはかるために竹串をつきさすときのうれしそうな表情は妹と同じだ。もしかしたら、水晶は子供を慰めるために妹の姿を真似ているのかもしれない。そのときは、きっとそうだったに違いない。
草紫は母親が調理をする姿を滅多に見たことがない。ピンクのエプロンをかけた母親の、エプロンの色と同じくらいきれいな鮭紅色に染まった顔を見て、草紫は真剣に、母親は今すぐ蛸に変身するのではないか、と危惧していた。そうしたらせっかく焼きあがりそうな美味しそうなホットケーキはどうなるのだろう? 蛸の触手ではフライパンは握れないにちがいない。火傷をしてしまうかもしれない。そして子供の嗅覚はまったく罪なく、ごく自然にたこ焼きの匂いを思い出すのだった。卵と牛乳、レーズンと……たこ焼きとホットケーキの共通点は多い。
 まだ少し熱が残っている。昨日の雪はおさまったが、雨にはならず、夜明けの冷気で、大気は湘南にはめずらしく零度を切った。それでも母がいて、ヒーターが唸り、バターとヴァニラの香りがあふれる家は楽しかった。
ここに叔母がいたら、バターの金色に何かが…。
「どうしたの?」
 水晶は何枚めかを焼き始める前のフライ返しを置き、キッチンペーパーで両手を拭いてから、こどもの頬をその手ではさんだ。そして自分の額を子供のおでこをくっつけて、
「むつかしい顔をするな、こら。まだお熱があるぞ。おいしいこと楽しいことだけ考えて元気出せ」
「うん」
 母親の手で顔をくるんでもらったことは、それまでにもたぶんあったに違いない。だが思い出せない。思い出せる最初は、このときが初めてになった。水晶はちょっとべそをかきそうな子供のおでこを自分の額でぐいぐいと軽く押し、にこっと笑ってまた、
「めそめそしてると食べちゃうぞ」
 ぺろり、とピンクの舌を出して、草紫の鼻の頭を舐めた。水晶の息はヴァニラとチンザノの匂いがした。手は暖かかった。ママ、と草紫は言った。かなしさと嬉しさがいっしょにあふれ、幼児の心が光った。台詞はこうだ。
「ブルーベリージャムとヨーグルトソース」
 目と耳は二つ以上あってもいいけれど、口は一つかそれ以下のほうがいい、と母親は子供に教えたのだった。 

月光丹 夢浮橋 vol3

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     月光丹

 ひとつぶを砕く歯白し月光に
    尾より変じて魂忘れなむ

夏が終わって秋雨、中秋、それと前後して激しい台風がいくつも日本列島を蹂躙し、十月も半ばを過ぎるころ、温暖な湘南一帯の大気はようやくからりと澄んだ。内陸と異なり秋冬でも湿度は高く、潤う海風になぶられながらゆるやかに色づいてゆく紅葉の錦は、晩秋に入ってから、鮮やかに冴えてくる。
 嵐の後の数日、なごやかな秋晴れが続くのを見計らい、水晶桜織は納戸から葛篭をいくつも引き出し、何十枚かの着物の虫干しをした。風通しのよい一部屋の梁に長い竹竿を三、四本さしわたし、やはり細竹を切って真ん中を紐で括った昔の衣紋掛けに、色とりどりの長着、襦袢を丁寧に吊って干した。
 絹の重さは人肌の重さ、桜織は抜けるような青空に、一枚ずつの着物を丁寧な手つきでひろげながら、白い額に汗を滲ませた。家内の仕事はほとんど桜織に任されており、厖大な衣装の手入れも同様だった。
「そうちゃん、これ着てみ」
 中休みに、桜織は古い衣装のどれかを子供の肩に着せてみる。肩上げのある赤い小袖は姉妹の祖母のものだったという。椿に牡丹、桜に菊、花は四君子の極彩色に金糸銀糸の縫取りと、ところどころの飛雲には匹田絞り、悪趣味なほど縁起物の意匠がどっさりと詰まった可愛い晴れ着は少女のものにしても、六歳の草紫にはなお裄も着丈もずるりと余る。
「重い」
「そうよ。これはお蚕さんが吐いた糸で作ったものだから。人間の肌の重さと同じなの」
「ふうん」
 想像を働かせて真剣に辻褄を合わせれば、凄く恐ろしい台詞なのだった。
「これはおばあちゃんが着たの?」
 草紫の耳は言葉の意味を素通りし、ただふわりと柔らかい桜織の声だけを残す。部屋じゅうに吊った衣装はゆったりと風にあおられ、ひらひら、さやさやと裾袂を揺らし、黴臭さと虫除けの樟脳と、それから葛篭にいっしょに収めてあった伽羅だの白檀だの、いいかげん古色蒼然とした練香などの混ざった、不思議な深い匂いがたちこめている。それは海風にさらされても消えることがなかった。
「そうよ。お姉ちゃんが着て、わたしも着たの」
「そうちゃんも?」
「さあ、それはどうかしら」
 桜織はふふ、と笑った。七歳になれば草紫は男の子になる。
「そうちゃんは着られないの?」
「いいえ。そうちゃんの好きなようにしていいのよ」
 桜織は言葉をぼかし、飴色に古びた葛篭の底から、藤模様の一枚を取り出し自分も袖を通した。袂のまるい元禄袖で、若い仕立とはっきり異なり、歳月を経た絹は柔らかく腰がぬけている。が、丹念な昔の染は幼児の眼にも晴れ晴れと華やかな紫で、長い藤の枝が総模様に肩から裾まで大きく垂れ下がり、大正風な図柄の派手さと色合いの深さとがほどよく和して、桜織の線の細いからだつきによく似合った。
「お姉ちゃんには内緒」
「なんで?」
「これからそうちゃんと魔法を使うから」
「魔法?」
「そう。あのね、着物って、何十年、何百年と経つうちに、それを着たひとの魂が少しずつ移ってゆくの。その着物をだいじにした女性の心が残るのよ。着物を着ているときに、そのひとが味わったよろこびやかなしみが、着物の繊維に滲みこんでゆくの。だから着物は着てあげないといけないの。着ないでしまっておくと、昔々の誰彼の魂が淋しがって」
「淋しい? そしてどうなるの」
「もといた場所に戻ろうとするの」
 立ち上がって藤の小袖の前を合わせていた桜織は、そこで膝を屈めて子供の顔と自分の顔を同じ高さにし、
「これからそこに行ってみましょうか。このお藤さんは、長いこと忘れ去られたままなので、しきりにわたしに訴えるのよ。還りたい、還りたいって」
「どこなの」
縁側に立つ桜織に近づこうとした草紫は、母、叔母、曾祖母が着回した肩上げの裾を踏みぐらりとすべった。わ、と子供は手近なものにしがみつこうとし、掴んだものが棹にかけた振袖か紬か、せっかく叔母がきれいに吊るした着物のどれかだったので、そのなよなよでは子供を支える何の力もなく、草紫の転倒といっしょに、それこそ紅葉の枝が揺らぐように綺羅とりどり、掴んだ着物がぶらさがる一棹まるまる、畳にがっさり崩れて。

地べたにしゃがみこんだ僕の周囲にはたくさんの小さな卵型のガラスがこぼれている。鶏卵ぐらいのものから、鳩や十姉妹のそれのようにもろくてちいさいものまで、十数個。ガラスと形容したのは、どれもつめたく透き通っているからだが、無色透明なものはなく、大小すべての卵は虹の七色を内側からぼんやりと浮かべている。目に心地よいプリズムの輪がひとつぶひとつぶの卵の周囲に浮かんでいる。発光しているみたいだ。ここはどこだろう? 太陽も見えない。
 地面だと思って見回したが、あたりはしろっぽい薄明で、僕自身の影もない。浮世絵とか、マティスの画面みたいな、縦横の基軸がないベージュ色の空白にぼくはつくねんと座らされている。これはいくつめの夢かな。
あれ、笛の音が聞こえてきた。マティスの笛を吹く少年を連想したとたんに、フルートが響いてくる。ついでに演奏者も現れてほしい。ガラス玉は何だろう。僕は耳に快い旋律をたどりながら、卵のいくつかを周囲に転がしてみる。虹色の卵ガラスは思うような方向に転がってゆかず、かりんちりんと、思いがけない方向にねじれてぶつかりあった。卵は透きとおり、ゼリーのようにしっとりとした感触がする。それでいて、鈴のようにかたくきれいな音で弾きあうのだった。
「ひとつくれ」
 頭の上から声をかけられて顔をあげると、ガラス玉の散らばった向こう側に背の高い男が立っていた。でっかいな。僕とけっこう距離があるのに、発声源が高いので、彼の声は頭上から聴こえた。
「やだ」
 僕は初対面の野郎に舐められまいと、即座に断った。相手は僕より七つ八つ年上だ。二十歳は過ぎているが二十五歳以下だと思う。さらに、こいつはかなりイケメンだと思う。日本人離れして眼窩から鼻梁の彫りが深いが、ひとつひとつの造作の輪郭はのんびりと甘いので、混血には見えない。男らしくしっかりした顎。その土台に見合って大きい口。光のある黒い瞳が僕を眺めて笑っていた。彼の眼は悪くない。僕はいやな眼つきの奴は受け入れない。
好奇心をかきたてられて、しげしげと観察する。眉と髪は金色。はっきりソメモノとわかる蛍光色の黄色に近い。あ、髪は金だけじゃなく、豹柄に染まっている。チーターかな、豹かな、ありきたりのフェイクファーよりずっとつやつやしてきれいな彼の髪模様はどうやって染めたんだろう。褐色の顔のまわりに、豹柄の髪がばさらに垂れている。
面相の次は服装チェック。光沢のある黒いカッターシャツに、香枕海岸の漁師が使う網に似た、織りの粗いざくざくしたタイツをはいている。腰のところまでは皮のパンツで、腿のところだけ網素材だ。網はまた脛から皮に変わり、そのままブーツになっている。ブーツには光る鋲がいっぱい。
「おじさん、おもしろい服着てる」
先制攻撃だ。はなっから見くびられてたまるか、と僕は顎を突き出し、ことさら偉そうな口調で言った。微笑していた相手は、口を開けて大きく笑った。くしゃっと目が細くなり、すごくいい感じの笑顔になった。
「おじさんよせよ。おれ、豹河」
「ヒョウガ。僕は草紫」
 つられて僕は自然に名乗っていた。ここでもう僕の警戒心はあらかた消え失せていた。
「音の玉をひとつくれないか?」
「音の玉?」
「そう、音の魂ともいう。おれは笛吹きで、さっきまで、きみおれの音色聞いていたろ」
「あれ、豹河だったのか。うまいね」
「そりゃプロだから。ときどきこんな具合に夢にさまよってると、草紫みたいな初対面がある。きみの周りにごろごろしているのは、不特定複数の人物が夢に残した心のエッセンスなんだ」
「心のエッセンスって?」
「感情と言えばわかりやすいが、草紫くらいの年になればもうわかるだろう。心の中に湧き起こる喜怒哀楽のおおかたは、そのガラス玉みたいに透明でも虹色でもないってこと」
「…うん」
 僕はしぶしぶ頷いた。豹河の言い方だと、僕を含めて人の感情は大部分きれいじゃないってことになる。それはそうなんだろうが、素直に同意したくない感じだ。なんだか自分の心に△ないしは×をもらう気がする。
「癇に障るか?」
 豹河は膝に手を置いて僕の前にかがみこみ、にたっと面白そうに笑って見せた。
「人間て不純だからいいんだよ。純粋無垢だったら何のドラマも生れないぜ」
「豹河の言ってること、わかんない」
 僕は正直に答えた。純粋と無垢とドラマは共存しないって? 十三歳の僕には純粋無垢はわかりやすいが、ドラマは想像するしかない。フィクション以外の人生ドラマは僕の前方未知の領域にあって、僕の経験域にはない。ドラマってつまり葛藤だろ? そんな悩んだことないよ。桜織が消えたとき、男の子になったとき、混乱して哀しくて会いたくて、寂しくて……でもそれはドラマとは違うんだ。
僕の躊躇を眺め、豹河は嬉しそうに、
「そうか? きみ、そんなに初心なの」
 今度こそ僕は頭に来た。
「僕をからかってるの?」
 僕はぱっとたちあがり豹河に詰め寄った。ころんちりんと膝からガラス色の音玉がプリズムのきらめきを散らしてころがり落ちる。
 目を怒らせて食ってかかったが、どうしたって僕の方が不利だ。僕は相手の肩くらいの背丈しかない。おまけに少年にしても細くて華奢だから、取っ組み合いになる前から勝負はついている。
「からかってないよ。まだ恋したことないのか」
「え?」
 豹河は、自分のほうに転がってきた青と黄緑に金色の筋目がこまかく入った音の玉をひろいあげ、ぽーん、と真上に高く放り上げた。
上空に青空はなく、靄がかかったようなあかるい鼠いろかベージュだ。どこからも陽光は差し込んでこないのに、青い玉は光線の屈折を虹色に散らしながら、一定の高さまで上がり、それからゆっくり落下してきた。上るのは速やかなのに、玉が落ちてくるときは、まるで薄い花びらが風に舞い落ちるかのように、ゆらゆら、ふらふらと、時間をかけて戻ってくる。
「ようし、それでいい。昇りはすばやく降りはゆったり」
 豹河はふわふわと降りてくる――落下というより目に見えない大気の階段を、ゆるやかに降ってくるスローモーションのー―玉を眺めて、手を後ろに回し、刀を抜くように金色のフルートを背筋から抜き出した。どこにしまってあったんだろう? 
「草紫。濁る容量が多ければ、それだけ凝縮されるものも増える。心にわだかまるいろんなざわざわごたごたを蒸留して濾過して、こうした音玉ができあがる。そら」
 豹河は鞭を握るような手つきでフルートを持ち、ちょうど鼻先に降りてきた玉を、ひゅっ、とつついた。ころりん、と鈍くて涼しい音をたてて青と黄緑のガラスは弾け、その色の雫がフルートの周囲でちかちか光った。
「こいつはどんな音色をくれるだろう。夢の中には、誰かれの見残した感情の残りかすがたくさん溜まってる。そのなかで純度の高いものが、どういう偶然かで凝固し圧縮されてきれいな玉になるんだ。魂ってつまり良質な精神の宝石みたいなものだよ」
「豹河はいつもそれを探しているの?」
「いや」
 豹河は音の雫を享けたフルートを唇にあてた。
「いつも見たい夢に入れるわけじゃない。音の玉に出くわすのは、とびきり上等な夢なんだ。笛吹きのおれはこれを自分の演奏に生かす。だけど、人によっては別な使い方をするし、どんな風にでも応用できる」

 防波堤の際いっぱいに夜の潮が満ち、大波に沈みかけたテトラポットの内部では、受け入れた海の重量を伝えて水のざわめきが低くこだましている。
結衣ヶ浜の湾曲に沿って街明かりは、その時刻まだ色々に輝き、黒い水面に眺める者を必ずうっとりさせる光の綾が揺れている。だが、間近で耳を傾ける夜の満潮はまひるの晴朗とは響きを違えて、子供の耳には唸り声のように聞こえた。桜織に手をひかれていても、海と空が墨色に溶け合い、自分を庇護してくれる唯一の女性は、地鳴りのようにどよめく海と空が一体となった夜の巨人に対しては、いかにも弱々しい。それにまた、粘り気のある水面の下には、昼は隠れているが、きっと夜には顔を出す、自分の知らない不気味な生物が潜んでいるに違いない、と恐怖を抱かせたりもする。あと何時間か後の夜明けにはすっかり海は退いて、曙の輝きが油膜のようなぬめりを残す遠浅の海底を露わにするとわかっているのに。
「鳥たちは眠っているの」
 浜へ下りる石段の手前で立ち止まり、桜織は幼児の手をしっかり握ってつぶやいた。
「さおちゃん、どこ行くの?」
「海へ降りたいの」
「まっくらだよ」
 海岸の潮位の最も高い時刻のようだった。防波堤が終わって、傷んだ網や浮を無造作に投げ出してあるコンクリートの護岸から、県道沿いのガードレールが始まり、こちらは道路から渚へ降りる階段がところどころに設けてある。その石段の中ほどまで、今黒い海は押し寄せ、潮といっしょに海風もまたひしひしと吹きつけてくるのだった。
「降りられないよ、海だもの」
「あ、お月さま」
 不安にかられ、自分のお腹に手を回してしがみつく草紫の頭を撫でて、桜織は言った。
「ほら、これで潮が変わるわ。月が出たから、海はじきに引いていく」
 え、と子供は桜織のスカートに埋めていた顔をあげた。
 それまで塗りこめたような闇だった中天の一画にふっと半月が浮かんでいた。同時に空と海とのさかいも見えなかった水平線に、月光の反映が白い糸くずのような波の綾となって揺れ始め、すると、さきほどまで暗い空間いっぱいにひとかたまりとなって幼児の想像力を威嚇していた夜の巨人は消え、風の唸り声は潮流の変化とともに単調なリフレインに変わった。安堵のもたらす眠気のようなリフレイン。あるいは世界じゅうで、今この時間安らかに眠っているものたちの寝息を寄せ集めたような流体の反復と継続。
 子供の眼の前で、月明かりを浴びた海はゆっくりと寝返りを打ったように見えた。まるで海の表面だけではなく、海の裏側も月光を享けようとするかのように、ざわ、と水が一方向に逆巻き、数瞬ぴたりと風が止まり、子供の視界いっぱいに、海がふくれあがり、中天にかがやく月まで波の尾根はきらきらともりあがり、それから海はまた、静かに下へ戻っていった。
 月明かりひたひたと、桜織は子供の手をひいて渚に降りてゆく。草紫はぎゅっと肘を締めて抵抗しかけたが、
「今、そこに散らばっているものをひろいあつめて帰りましょう。お月さまの雫」
 あ、と子供は息を呑んだ。そんなに潮は早く退くはずはない。だから結衣ヶ浜はまだ海の中にある。けれども月下の入り江の景色は海の寝返りとともにはっきり変わってしまい、
それまで黒いシルエットの中で絶えず動いていた波はぴたりとおさまり、月光を享けた銀色の鏡面となって静止しているのだった。
この渚はもう海には見えず、さりとて砂浜や、潮が引いた後の海底とも思われない。藍色の夜空に半円の月。そしてふたりの眼の前には、月の色を映して、入り江から水平線までひろがるなめらかな銀盤があった。湾曲した渚から水平線にかけての水のまろやかな半円は、ちょうど上空の半月の片割れのようだ。月と海とは大小の相似形を見せていた。
「歩けるわ」
 桜織は子供の手をひっぱって銀色の水面に両足を乗せた。草紫も叔母にならっておそるおそる踏み出した。膝を高くあげ、かわるがわる足元をたしかめるように海面を蹴ってみたが、下はしっかりと固く、大地に立っているのと変わらない。海の上に移ってみると、空の半月の光よりも、水底から自分たちの方におぼろに昇ってくる明るさの方が強いのだった。
「そこらへんに、たくさん海の鱗が剥がれているでしょう」
「海の鱗?」
「そう、月光の雫、裏返った海が月の光を浴びて零した時間のかけら」
「海の時間?」
「時間は海の裏側にあるの。海底ではなく」
 桜織は腰をかがめて、ほら、と海面に光る落ち葉のような一枚をひろいあげた。目を丸くする草紫に、トランプのカードの絵模様を見せるように人差し指と親指ではさんで月明かりに透かしかざすと、海から剥がれたという時間の雫は、赤ん坊のてのひらくらいの大きさの半透明な楕円で、はっきりと色彩は見えなかったが、月光と同じ銀の地に、雲母片のような金や黒の斑が浮かんでいる。なるほど、大きな魚の鱗に似ている。とすると、海は魚族に違いなかった。
 薄片をはさむ人差し指と親指に桜織が力を集めると、ぱちっと小さい音がして、時間のかけらは鱗の真ん中で割れ、金粉が散った。桜織りはあらかじめもう一方の手を下に添えていたので、はらはらと砕けたものはてのひらの窪みが享けとめた。
「この粉々を集めて、練り上げてお薬にすると、飲んだひとはいろんなことを全部忘れて、それから思い出すことができる」
「忘れて思い出すって?」
 桜織は膝を抱えて子供の横に坐り、目の高さを同じにして言った。
「覚えていなければならないことを忘れ、忘れなければならないことをしつこく覚えているという病気が治るお薬」
「そうちゃんわからない」
「まだわたしたちといっしょにいるからね。でもこれから違う世界に入ってゆけば、そういうことがたくさんわかってくる。そして」
 桜織は子供から目を逸らし、顔を伏せた。
「必要なことだけわかってしまう、ということはさようならするという意味になることもあるの」
「なぜ? どこへ行くの?」
「そのひとにとっていちばん気持ちのよい時間の中に入ってゆくのよ。そこはたいてい現実とは違う場所でね」

「魂はいつだって、自分がもといた世界に帰ろうとするんだよ」
 豹河はフルートを構えると、吹き始める前の一呼吸で僕に言った。それは変だ、と僕は思った。なぜなら音の魂は不特定複数のひとの見残した感情のエッセンスの集合体と聞いた。だったら、魂を構成しているという大勢の、それぞれの原風景、原点、原っぱ、に帰るというのは、つまるところ、せっかく美しく精錬された結晶をほどいて、またばらばらに拡散するってこと?
 僕は問い返したかったのだけれど、豹河は音の魂から自分が享けとったものを奏で始めた。 
この曲は何だろう、僕の知らないきれいな旋律は、さっき彼が砕いた青と黄緑、金色の卵から流れてくるものなんだろうか。それにしてもこんな間近でプロのミュージシャンの演奏を見たことはない。しかも聴衆はぼくひとりだ。豹河の吹き鳴らす音は、彼の金色のフルートから聴こえてくるというよりも、彼の全身が歌詞のない歌をうたっているみたい。
 あれ、天上が暗くなってきた。豹河の笛が始まったら、それまでうすぼんやりとした薄明世界に明暗が分かれてきた。上が暗くなってきたということは、夜になったってことかな。下を見れば、僕たちの立っているところは、さっきと同じベージュ色だけれど、夜空が現れたおかげで、地面のあかるさがいっそうはっきりしてきたみたいだ。地面がうっすらと発光しているような感じだ。
 それから僕は、見間違いではないかと目をこすった。夢では、現実に起こったとしたら驚くに違いない現象が多いのだが、夢見の最中はそれが当然のことのように納得されて、驚きを味わうことは少ない。夢の中では理性よりもはるかに強い、プリミティブな無意識の力に、個人の人格が操縦されてしまうからだと思う。でも時にはこんなふうに驚きを味わうこともある。
 この夢の始まりから僕の周囲に集まっていた十数個のガラス玉は、豹河のフルート演奏とともに世界の上下が別れ、藍色の夜空と白い地面との境界がくっきりとしてくるにつれ、まるで磁石で移動する砂鉄のように、ひとりでにあちこちへ移動し始めた。大小虹いろの半透明ガラスたちは、好き勝手な方向へ転がっている、いや動いている。転がっているんじゃない。宙に少し浮かび上がって平行移動。卵に目鼻がついていたらハンプティ・ダンプティ。だけど顔は…。
 ゆらり、とひとつのガラスの卵型の輪郭が崩れ、ぽうっと暖かなオレンジ色の火が立ち上がった。中心部分が鮮やかなグリーンで、その周囲はレモンイエロー、炎の一番外郭は明るいスカーレットだ。人魂にしては陽気な色彩じゃないか? 僕は豹河を見た。彼は笛から唇を離さず、目だけで笑った。
 ひとつ変形すると、ガラス玉は次々と卵型を崩し、地面からふわりと跳ね、ひとつふたつ身震いしてガラスの質感を緩めると、緑、紫、紅色、それこそ虹のグラデーションさながら、あらゆる色の灯となって燃え始めた。
その一方で上空はますます暗くなってくる。ほどなく全天の端から端まで奥行きのあるネイビーブルーに染まって、すっかり夜空だ。星も見える。これはどこの半球だろう。見慣れた湘南の星図と違う。夢の宇宙を流れる天の川は大気の隔てがないおかげで、乳白色の流れの中のひとつぶずつの星の光までとても微細に見分けられる。
やがて周囲の音の玉たちは、全部明るい火の柱になり、豹河の笛の音につれて気ままに踊り始めた。それは人魂というよりも、それまでの卵を薄く長く引き延ばした雫形に見えた。火の雫だ。そういえば「生命の火」なんて言葉があったっけ。それにしても、どの炎も澄んだ明るい色で燃えている。豹河が言ったようにたしかにこの魂の成分は純度の高い良質な精神なんだろう。豹河のフルートに溶けこんだ仲間の歌に合わせて、彼らはたのしそうに踊っているんだ。
やがて豹河は笛を口から放して、にこにこしながら魂たちのダンスを見渡した。彼のフルートの一方の先端から、上のほうにすうっと光が昇り、それはたちまち初夏の新緑のような黄緑色の蔓となって、虚空へ螺旋を描きながら昇っていく。昇りながら萌黄の蔓は枝葉を伸ばし、星を散りばめた夜空の真ん中でぐんぐん成長していった。
「おおお、元気だなあ」
 豹河はフルートをまた背中にしまい、両手を腰にあてて上を向き、のんきな口調で言った。
「おれの音楽性どう? たいしたもんだろ」
「おんがくせい? 音楽の精?」
 ボキャブラリーのずれを、豹河は気に入ったようだった。
「違いない。あれはおれが今吹いた音の樹なんだ。天の樹は草紫とのコラボってこと。きみがここに来たんで、音の玉たちはきみに引かれて集まってきた」
「ぼくに引かれて?」
「凝固した魂って、よかれあしかれ、蜂蜜みたいに純粋だ。蜂蜜は何千年たっても腐敗しない。エジプトのピラミッドから発見された蜂蜜は、三千年以上の時の経過をものともせず、全くその成分に変化がなかった。純度が高ければ高いほど、不壊のものとなる。ダイヤモンドもそうだ。ほんとの透明性・きらめきって、そういうものだ。内部に凄い圧縮されたエネルギーを秘めている」
「純粋と無垢は両立する。だけどドラマとはだめだって言ったよね」
「そうだ」
「どうして?」
 豹河は僕を見下ろして、まじめな顔をした。
上から目線は気に入らないが、この場合は仕方がない。僕はたぶん、すっかり成長期を過ぎても、彼より背が高くはならないだろう。
「自分だけで満たされている存在なら、内面においても社会的にも葛藤はおきない。他者を必要としないから」
「それじゃひとりぼっちだ」
「そう。草紫は六歳まで女の子。いや女の子とも思えない。不思議な庇護者たちはきみを、まるで水槽で飼う昆虫の幼生のように、社会から隔てられた小さい世界の中、性別のない状態で育てた。物理的にはそれで正しかったんだろうけれど、人類としてはどうだろう。七歳から少年になったってきみが集団生活に適応できたとは思えない。順応はできた?
でも、ずっと孤独だったんだろう」
長い台詞だなあ、と僕は豹河の突っ込みを聞きながら途中で飽きてしまった。いっぽうで彼はとても暖かい男だとさらに実感した。でも、水香の向日葵の一撃はおとなしく頭に受けてやったけれど、豹河のジャブはかわすにかぎる。なんてったってリーチもパワーも違いすぎるからね。勝負するなら五年先。
「音楽の樹があんなに大きくなったよ。枝のあちこちに夜空の星が光って、まるで星の樹みたいだ」
 僕は彼から目を逸らし、頭上のつやつやと生茂る〈樹〉を見上げた。豹河の笛からたちのぼった一閃の光から成長した〈樹〉は、地上につながる幹がないので、植物というよりも、黄緑の枝葉のついた金色の大きな蜘蛛の巣のようにも見える。
 ちいさなガラス玉から始まって、今や上天にひろがった光の雫だ。あれ、しずく、どこかで誰かが僕に…。
 海の時間、月明かりの雫を集めて。いちばん気持ちのいい場所へ帰ってゆくの。
「豹河、ねえ、魂はもといた場所に戻りたがるってどういうこと?」
「今見てるだろ。この」
 と豹河は人差し指をたてて上空を示し、それからその手をひらいて、僕たちの周りで揺れている火の雫たちへ向けた。
「蜂蜜みたいに、これは人間だけじゃなく、あらゆる生命体にとって薬だ。そして毒でもある。毒は薬で薬は毒。宇宙的夢幻レベルでも、それは普遍的真実なんだ」
 豹河もかわすのか? ずれたぞ。でも僕はその流れに乗ってやる。もといた場所なんて、ほんとはどこにもない、〈ネバーランド〉かもしれないし。
「わかりやすく説明して」
 豹河はちょっと困ったような顔をした。
「わかりやすく、ね。きみは十三歳にしても、一般児童より、とても純粋な部分が多いから、この夢のなかで音の玉たちはきみを慕って集まってきた。きみの側はこれらにとって居心地がいいんだ。そうして、魂はエネルギーポテンシャルが高い、純粋であればあるだけエネルギーは強烈だから、常に変化を望む。草紫、訊くけどエネルギーとは何だ?」
「なに?」
「変化する、動く、前進する力」
 豹河は僕の眼を覗き込んだ。きみの周りには高純度のエネルギー集合体が集まる。それらの力は使用されることを欲するんだ。
「力は使用を欲する。使われない力は内向し、鬱屈して、その持ち主を破壊してしまう。そして再び拡散してゆくんだ。あたらしい強靭な器を求めて」
「なんだかこわいね」
「神話伝説はでたらめじゃない。力は使われるべきなんだ。この魂たちも、この姿から次の姿、形へ移りたがる。僕はひとつの魂を解放してやった。きみの集めたエネルギーのひとつぶを、無限の宇宙のなかへ還元してやったのさ」
 豹河の言葉とともに、周囲に浮かんでいた炎の群は、さらに宙宇に高くのびあがり、それはさながら、頭上はるかで枝葉をひろげ、星をちりばめた仲間の変容に倣うかのように、僕たちから離れて、ゆらゆらと虚空に昇っていった。
エメラルドグリーンの澪が昇天の軌跡を残して流れる。彼らは一様に、なかばでふと動きを止め、こどもが小首をかしげてふりかえるように、名残惜しそうに炎の先端を地上の僕たちに向け、それからまたちらちらと七色の光を撒き散らしながら、楽しそうに上へ向かう。たしかに、僕は連中に好かれてる。
「みんな行ってしまう」
「ああ。誰も一箇所にとどまれない、生命体は停止してはいけないんだ」
「僕、その言葉を前にも聞いた」
「きみの庇護者?」
「今はいない」
 彼女は人魚になった。きっといちばんきれいな表情で、彼女のだいすきな海の中にいるんだ。彼女に会いたい。
「豹河、きみはどこに行くの?」

人魚草  夢浮橋vol2

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人魚草

  ひさかたの天なる君へ幾重ね
     潮数へて逢ふよしもがな

 七歳まで母親と叔母に甘やかされて育った僕は、それから学校に上がり、否応なく集団生活のまっただなかに突き飛ばされた。考えてみればこのとき桜織が消えたのは、僕の成長にとって、とても賢い思いやりだったとわかる。桜織がいたら、僕はきっと小学校なんて一日で止めてしまったろう。
テンペラ画像から脱け出したような水晶桜織、ふたりの女王の統治する温和な小王国で、彼女たちの愛玩動物よろしく、フリルやリボンのついた衣装を着、定期的に樹登りをして海の色を眺め、ときどき水死者の発見を叔母に報せる、おやつにシュークリームかカステラをいただく、女たちは突然海の生き物の姿に変化し、古民家はその数瞬わたつみの精霊の結界に入ってしまう。そんな時間から離れられなかったにちがいない。
 水晶は、桜織と顔立ちは似ていたが、僕に接する温度が、叔母より格段に低いのだった。実の母親に違いないが、僕にはどこか近寄りがたい存在だった。そして桜織がいなくなって初めて実感したのだが、水晶はほとんど家にいなかった。どこで何をしていたのか、僕にはわからない。僕の父親と逢っていたのかもしれない。僕は父親を知らない。桜織が消えると、三人住まいにしてもだだっぴろい古屋は、以前よりさらに森閑とした。
小学校から帰っても誰もいない。水晶は夜遅くでなければ帰宅せず、ただ冷蔵庫にきちんとおやつと夕ご飯が調えてある。乳母の役目を終えた桜織はどこに行ったのだろう。
僕は家で過ごすひとりの時間を、たいてい桜織の部屋に居た。部屋は桜織が暮らしていたころとまったく変わらない。鏡台も、書棚も、ベッドも、壁に飾られた桜織が模写したボッチチェルリの絵も。
布団、クッション、人形、ぬいぐるみ、ドレッサーの中には使いかけの愛用の香水とすこしの化粧品などがそのまま残され、引き出しや洋服箪笥には、やはり衣類小間物、アクセサリーがすっきりと整頓されたまま。荷作りの慌しさの気配皆無。これではこの部屋の主は、引っ越しではなく突然消え失せた、あるいは急死した、と説明するほうが自然だ。叔母は着のみ着のまま、僕たちの世界から出て行った。そうだ、桜織はここから何を着て行ったのだろう?
「たとえばこんな感じ?」
 キイキイ、と廊下の床板が鼠鳴きをして、桜織の部屋の入り口に、車椅子に乗った少女が現れた。呆然と叔母への思慕に耽っていた僕はぎょっとして、手にしていた叔母の日用品を取り落としそうになった。桜織が昔の草紫の髪を梳かしてくれていたかもしれない――当然彼女自身の髪も――柘植の櫛だった。
丁寧に手入れを怠らなかった一枚の櫛は、こっくりと椿油がいい色に染みている。鼻に寄せれば、油に溶けて、持ち主そのひとの頭髪の匂いがまだ嗅げる。……運よく僕は、突然の闖入者の前で、気恥ずかしいジェスチュアを見せてはいなかった。ただ手にとって、手作りのきれいな櫛の歯並びに見惚れていた。それはピアノの鍵盤の整正に似ている。
「あたしのような姿で、桜織さんは行ったのだと思う」
 車椅子に座った少女は言った。彼女は自分の両サイドの大きな車輪を自在にあやつり、扉をいっぱいに開いて、僕のゆるしを請うことなく、部屋に入ってしまった。真っ黒なおかっぱ。赤いワンピース。白いレースの襟飾りはヴィンテージ。ちょっとアリスのお茶会風なクラシック。でなければゴスロリか。車椅子に座り、青紫の絹の膝掛けで腰から下を隠している。みんな原色だ。おかっぱ髪に挿した幅広カチューシャは、ワンピースと共布に違いない深紅。
「きみ、誰? どこから来たの?」
 これも夢だ。なぜってこの子の顔には、目鼻がないから。くろぐろした厚髪に囲まれた卵型の色白なのっぺらぼう。きみ、顔をどこに忘れてきたの?
「あたし、感情がないの。だから顔もいらない」
「どういうこと?」
 口がないのにどこから声を出しているんだ。耳はある。では耳から発声してるのか? 耳も喉も同じ粘膜なので、非常時には代用可能、もとい夢だから不条理可能。
「桜織は顔があったよ。美人だった。やさしかった。ときどきこわかったけど」
「あたしも昔は顔があったの。だけど、とても好きになった人がいて、その人のために顔を消したわ」
「すごいね。まるで大人の台詞じゃないか。大恋愛して顔がなくなった? 失恋したということ? 感情を使い果たすほど?」
「人魚草を食べたの」
「え?」
「それを食べると、永遠にたったひとつの美しい表情を保ってゆける、という魔法よ」
「にんぎょそう。だけどきみ、文字通り無表情だぜ。真っ白だ」
「そうなの。人魚草を食べてわかったことは、つまりわたしはそのひとのことが全然好きじゃなかったのに、好きになったふりをしていた。自分自身を欺いていたので、人魚草を食べたら、嘘偽りをすっかり取り去ったいちばん美しいわたしの顔、空白、がわたしに与えられたのよ」
「冗談きついぜ。まるで妖怪だ」
「そしてまだあるの。人魚草の作用は」
「まだ?」
「ええ、ほら、これよ。あなたの叔母さん、わたしみたいになっているはず」
 おかっぱ頭をうつむけて、片手の親指と人差し指で膝のスカーフをつまみ、それからロングスカートを膝小僧までたくしあげた。
「歩けなくなっちゃったの」
 僕は頷いた。ここは何かうまい帰結で落ちをつけよう。落ちはつけてもけちをつけるのはいやだ。どうせ見る夢ならおもしろい方がいい。この子の変身をカフカ哲学的不運不幸のドツボにしないで笑い飛ばすには…
「顔がなくても、マーメイドなら後姿だけで皆を篭絡できるよ。少なくともアマゾンの半魚人よりましじゃないか?」
 でも、これと叔母とどういう関係があるんだろう。叔母には足があったし、のっぺらぼうなんかじゃなく。

 海と陸とがせめぎあう境界に、水晶、桜織、草紫の三人があおむけに寝そべり、刻一刻と明けてゆく空の景色を眺めていると、時間と空間が自分たちを中心とするひとつの巨大な天蓋に、世界は波音を響かせる壮麗なカテドラルのように感じられた。引き潮といっしょに外海めがけて疾走してゆく雲と風は闇を拭い去り、同時に星を運び、月光を消し、代ってめくるめく夏の曙の朱、紫、濃淡の薔薇いろを惜しみなく拡散しながら、こちらのちっぽけな命を蒼穹へひきあげてゆくような気がした。
「あたたかいね」
 草紫がぽつんと言った。ついさっきまでここは海だった。結衣ヶ浜から鹿香海岸まで遠浅の入り江で、ひろやかな波がしりぞくと、海底はゆったりと光沢のある素肌を見せ、ひとびとは数時間、海の匂いがむせかえるなめらかな地面を楽しむことができる。もっともそこが地面だとは誰も思ってはいなかった。
潮が引いても、そこは海底なのだった。黒いごつごつした岩や藻、ねじれた流木、地上で目にすることはたぶんできない海底の砂が、潮の流れを映して優美な曲線を描く、目に快い無彩色のグラデーション。それから観光客が投げ込んだ、空き缶や瓶。ところどころに魚の死体。食い散らされた水死者の魂、などがざわざわとわだかまり、それでいてさわやかな海の体温がいつまでもたちのぼる入り江。
海の素肌からたちのぼる匂いは、どこかに死者の腐臭をふくみ、また太陽と月光、貝殻のかけら、砕けたガラスの粉末、人間のあらゆる体液の混淆を抱え、うっとりするなまぐさい魅惑をくれるのだった。この匂いを拒める生物はたぶんいない。海は地球上の全生命の母胎なのだから。
草紫は濡れた砂にめりこみそうな自分のおしりをむずむずと動かした。もしかしたらさっき見かけたヤドカリが近くににじりよって来ているかもしれない。酷暑の真夏、熱帯夜の温度を大気よりも濃く残した砂浜は三人の全身を胎盤のように包んでいる、真上にもう星の光は見えない。まひるの熱を予告する純白と青紫が、じりじりと啼き始めた蝉の声とともに、波のさんざめきに覆いかぶさってくる。
 こどもを真ん中にはさんで左右に母親と叔母。川の字のスタイルはいつもどおりで、草紫は橙色の水着を着ていたと思う。腰に白いミニのギャザースカートがついた幼児用水着。胸にディズニーのティンカーベルのプリントがある。橙色を選んだのは水晶だろう。桜織ならピンク色を着せたがるはずだから。
 水晶は白いインド綿のワンピース。桜織は何を着ていたろうか。姉と同じような薄い綿の夜着をまとっていたかもしれない。水晶も桜織も、どんな色相であれ、原色という強引を身につけたがらなかった。が、それでいて幼児の草紫にはいかにも子供らしい派手なブランドの洋服なども面白がって着せていた。
母親と叔母は、衣装がびしょぬれになってしまうのも構わなかった。髪も皮膚も砂に埋もれ、波にひたし、退いてゆく潮の気配を爪先ではかり、いかにも気持ちよさそうだった。
草紫は寝そべったまま母と叔母をかわるがわる眺めた。頭を動かすと、首筋から耳にかけて、しゃりしゃりと砂が動き、肩甲骨のあたりで、自分ではない生き物がそろっと動き、鹿占半島の山並から顔を覗かせた太陽が、わっと光線を顔に浴びせてきた。
 太陽のまばゆさから顔を背けるように母と叔母の横顔を見ると、彼女たちの髪の生え際から繊細な鼻梁、その下にくっきりと快い起伏をリズムのように刻む唇から顎にかけて、まったく同じ山並の影のように見えた。太陽の逆光になった女の顔は青く、光線を享ける反対側の女は白い。どちらも眼をつぶっているので、まるで鏡に映ったひとりの女の映像のように見える。
どちらが実体でどちらが虚像なのだろう、などとは考えない。誰も考えない。虚実は用途に応じて交換可能なコンタクトレンズだ。それが仮に金茶やブルーの色つきレンズであっても、外見が変わるだけであって、使用している本人にはさしつかえない。今、草紫が母と叔母の間で彼女たちの鏡になっているとしても。
「こうしていると、わたしたちだけが世界に生きているって気がする」
 桜織が言った。
「傲慢な感想」
 水晶は応じた。
「そう? でも、世界は当人の見たいものしか見えないものなのでしょ?」
「いいえ、すこし違うわ。こうよ。世界はそのひとの見えるものだけが見えるの」
 桜織は黙った。草紫は眼を閉じた。太陽が眩しくなってきた。蝉の声が分秒刻みで増してくる。散歩に連れ出された犬の声も。それから、県道を走る通勤か行楽の自動車の喧騒。
さんざめく波音。犬たちの唸り声のように退いてゆく海。海岸通りに人の気配が増え始めた。

「きみは夢なんだろう?」
「いいえ。あたしは夢じゃない。あなたが夢を見ているのよ」
「そういう言葉の末端ではぐらかすのは、これが夢だろうと僕はやだね。つまりさ、きみは僕の夢の中の登場人物だ」
「夢の中だけじゃないかもしれないのよ」
「現実のほうにきみの本体があるのか」
「その言い方。夢はかりそめで現実が本体なんて古くさいわ」
「理窟っぽいな。感情をなくしてもへらず口はたたけるんだ」
「そうねえ。だって感情がなくなったらあとは角がたつ知性理性しかないもの」
「こういう会話じたい、むなしくないか?きみはいったい何のためにここに車椅子でやってきたの。そうだ、名前を教えてよ。ぼくは草紫。くさのむらさきと書いて、そうしって読む」
「わたしの名前?」
 のっぺらぼうの少女は小首をかしげて、人差し指をかるくたて、頬にあてた。借りてきたようなポーズだが、困惑を表現するのにはぴったりだ。なぜなら部品のないすべすべした顔には皺ひとつ寄らないのだから。渋い縦皺を作りたくても眉間がない。
「あたしの名前は」
 少女は自分の真っ赤なワンピースをつまんで、膝の上で揺すった。最初赤一色と見えた衣装は、原色の強烈に目が慣れると、生地にこまかく黒い水玉がプリントされているのが見えてきた。
「あたし、こんな赤いお洋服を着ているけれど、名前は青なの」
「青?」
「美しい青、と書いてみさお、美青」
「なぜここに?」
「あなたが桜織さんを慕っていたから」
「きみと彼女とどういうつながりがあるの」
「言ったでしょう。桜織さんは、あたしと同じ人魚になってこちらがわからいなくなったのよ。だから人間の使う品物は何も要らなかったの。服も、化粧品も、アクセサリー、お金。何にも必要ないわ」
「じゃあ彼女は海に?」
「ええ」
「きみは海から来たの?」
「そう、いいえ、まだよ。これから海に還ろうとしてたところ。なのに顔がなくなってしまったから」
「結局どうしたいんだ」
 僕はいらいらし始めていた。真っ黒なおかっぱに、固ゆでたまごをつるんと剥いたような美青と向き合っているのは少なからず薄気味悪い。彼女が着ている赤いワンピースも、桜織をなつかしむ僕には暑苦しすぎていただけない。真っ赤な刺激のおかげで無意味に胸がどきどきするけれど、目鼻のない顔相手では、かきたてられた胸の動悸だって異性へのときめきには到底ならず、未知との遭遇アドレナリンとドッキング。そうさ、気味悪いときにはだじゃれをかます。カラ元気でも笑い飛ばせばセロトニン&エンドルフィン分泌。で、口笛吹いて妖怪くらいへ、い、き。
 この台詞とともに、夢の中でもぼくはウィンクしてかたほうの肩に自分の頬をすりつけ、にっこりと笑うべきなんだろう。母親似で、まだ声変わりもしていない僕は少女にも見える美少年だからね。
「来てよ」
「え?」
 うまいぐあいに不気味を脱出してナルシシズムのハイポジションに突入しかけていた僕は、まじめくさった美青の声に我に返った。
「いっしょに来て。そしてあたしのなくしてしまった感情を探してほしいの。失った情緒をとりもどすことができるなら、あたしの顔は復元できる。そしたら海に行ける。人魚草を食べて変身したなら、絶対に海か湖に還らなければいけないの」
「非合理にしても、わかりやすいメルヘンな命題だけど、僕がなぜ?」
「あたしと桜織さんが同族だからよ。人魚族」
「それだけ?」
「そう、同族相憐れむ」
「人魚になるのが病気なら、そのひっかけは正しい」
「人間であることは、地球生命体にとって認識的な自己破壊かもしれないのよ」
「そうだね、人類は常に確信犯だ。四つん這いから立ち上がり、遠くを見つめる高い姿勢を選んだ突然変異の瞬間から」
「だからね、人魚になるってことは、人の罪障を逃れて、無垢無意味な永遠の循環時間に戻ることなのよ。むしろ病からの回復」
 僕はユニバーサルな正義感に根ざした説得にうかうかとは乗らなかった。少年は形而上的存在であると同時に、ずっと切実に多感なんだ。だから条件をつけた。夢でもかけひきは重要だ。ユーモアと同じくらいに。
「桜織に会えるなら美青といっしょに行ってもいいよ」

夜中に眼を覚まして側に誰もいないとわかると、子供は心細くなり、仔猫のような声で泣き出すこともあった。早寝の草紫がふいに目を覚ます夜中は、大人にとってはまだ宵の口で、たいてい水晶はまだ帰宅していなかった。お守役の桜織は、草紫が眠りつくまで添い寝をし、やがて自室へ戻る。やがて母親が帰ってくると、草紫の隣に夜具を敷き延べて就寝するのだった。
草紫は眠りの前に桜織、目覚めには水晶の顔を見る。ふたつの顔は安定して似通い、美しく、幼児の視線は歪みのない二等辺三角形を常に見ていた。草紫を頂点とする三角の二等辺の長さは、幼児のひろげた両腕の長さに比例し、また水晶桜織の子供を抱き取ろうとする腕の長さでもあった。間尺というおっとりした昔の物差しの距離で、ふたりの女と子供は均衡していた。
「どこ…」
 ぐずぐず泣きまねをしても、誰も現れないと悟ると草紫は布団から抜け出て、きっと親指をしゃぶりながら、桜織の部屋に行ったのだった。桜織がいないのなら水晶も帰ってはいない。
 たいてい桜織は起きていた。その晩も彼女は自分の部屋にいて、窓を開けていたから冬ではなかった。そうだ、部屋の天井明かりは消えていて、書き物机の上の小さい照明だけが灯っていた。桜織は長い髪を左右に分けて竹久夢二の女学生のような三編みにし、光度を低くした枕明かりの側で、何か本を読んでいたかもしれない。本は、もしかしたらパソコンタブレットだったかもしれない。
だが草紫の追憶する桜織の画像に夢二を被せるなら、メタリックシルバーのタブレットよりは、セピアな画集か詩集のほうがふさわしい。それはこの文脈では、まったく意味のない小道具なのだから。リアリティを無視し、大正浪漫の画像に桜織の顔をはめこんだ追憶であっても、少年の叔母への思慕が妨げられるおそれは皆無だ。
「こわい夢を見たの」
 目をこすりながら子供が訴えると桜織は、
「わたしたちは、こわい夢なんか決して見ないはずよ」
 と微笑みながら言った。水晶も自分も、そして自分たちの子供の草紫も、悪夢を見ることはないと言うのだった。
「なぜ?」
「わたしたちは、樹や海に近いいきものだから。わたしたちが見る夢は樹のゆめ、海のゆめ。水のもの」
「そうちゃんも?」
「もちろん」
「雨が降ったら雨になる?」
「そういうこともあるでしょう。そうしたければ」
「でもそうちゃんはほんとにこわかったんだよ」
「どんなふうに?」
 おいで、と桜織はほっそりした腕を伸ばして幼児を抱き取った。体温と匂い。くしゃっとよじれた寝間着の柔らかい感触。その下で呼吸している湿った胸のヴォリューム。わたしたちは水のもの、と言いながら水晶も桜織も肉体じたいはいつも暖かかった。
「何が出てきたの?」
「……」
 幼児には答えられない。おばけ、あくま、かいじゅう、ようかい、そんな言葉を女たちは子供に教えなかったから。
「へび」
 かろうじて草紫は言葉をさがす。子供の恐怖心をすくいとる具体的ないきものはとりいそぎ蛇。
「蛇だけ? 蛇は暗いところをするする這うだけ。何もしないよ。ときどき郵便受けの中にいて、蓋をあけるととぐろを巻いて脅かす。それだけ」
桜織はくすくす笑うのだった。笑うたび木綿の寝間着の下で、彼女の肌の弾力がふるふると波打つ。それが子供には海の浅瀬のさざなみのように感じられる。幼児の全身を安心と嬉しさで満たしてくれた桜織の匂いは何だったろう? 彼女はたまに香水や日本の香も使ったが、ふだんは何もつけなかった。
 からだを洗うのは、ボディシャンプーではなく固形石鹸だった。草紫はよく覚えている。お風呂には母か叔母といつもいっしょに入っていたから。桜織は石鹸を泡立てて、まず子供をくるくると洗い、それから自分を清めた。  
石鹸はヴァーベナを好んでいたが、こだわるということはなかった。石鹸の香りは、湯上りのいっとき肌にとどまって嗅覚をなごませ、体臭と溶け合うこともなく、ひと晩のうちに気化してしまう。 
 だから桜織の匂いの追憶は人工香料によって再現されない彼女だけのものだ。ひとたび鼻をかすめれば、たちどころに鮮やかに彼女であることを気付かせてくれるのだけれど、花や植物の名前で形容できない、植物と動物の境界を行き来する体臭。桜織は水晶と、匂いだけが似ていなかった。

「とてもかんたんなシチュエーション」
 鍔をばさばさに切りとばした麦藁帽子を被り、大輪の向日葵を肩に担いだ水香は言う。
 真夏の炎天下。周囲は見渡すかぎりのもろこし畑だ。いや煙草畑かもしれない。もしかしたら僕たちの立っている道の片側は向日葵に埋め尽くされていたかも。とにかく、濃い青空にげんこつ型の白雲がぽんぽんと浮き、太陽は中天に照りつけ、水香は太陽をなぞったような黄色い麦藁帽子と向日葵を担ぎ、僕の目には、直射日光に照りつけられたあかるい黄緑と黄色ばかりが見えた。
「かんたんって何のことだよ」
「草紫の夢」
 鍔広の帽子の影に隠れた水香の胸元から上は周囲の金褐色のまばゆさに、濃い青紫の影になっている。印象派の絵のようだ。目鼻も見えないが、セルリアンのシルエットの中、かっちりと小舟のかたちに開いた口に、粒の揃った歯並びが雫のように白く滲んだ。
「夢?」
 ようやく僕は思い出した。僕は水香と夢日記の交換をしていた。僕と水香はお互いの夢を分かち合う約束をし、覚えているかぎりの夢をノートに記録して相手に見せる。だけど水香が、多少軽蔑的な口調で批評している僕の夢って、どの夢のことなんだろう。
「あなたってば美人のお母さんと叔母様に猫可愛がりされ、世の中とほとんど接することなく、女子供だけの一面的世界で生きてきたの。その世界は男性性皆無、さらにはドングリの背比べ的同年齢横並び集団において必要な第一次成長期を駆け抜ける逞しい競争心も育たず、のんびりあなたは王子さま、どころか王女さまだったのでしょ? 驚きだわ。自分の性別を知らないなんて。でも小学校に入り、カルチャーどころかヴァイタルショック。スカートから半ズボンに衣替え。男の子として行動するうち、あやまちにようやく気付いて――十二歳半で実存認識するのなら遅くはないよね。甘ったるい綿菓子的母性愛の締め付けから脱け出し、あたらしい世界へ踏み出そうとする。そんな筋書きが丸見え」
 ぺらぺらとセルリアンブルーの水香はまくしたてた。長い台詞の途中で息継ぎするたび、肩に担いだ向日葵はゆさっと揺れ、水香の顔が相変わらず影になって見えない代わりに、黄色い花弁を規則正しく円盤の周りに開いた向日葵は、あっけらかんと大口開けて笑っているように見えるのだった。
「ああ、羽根布団の夢か」
 僕は頷いた。綿菓子的母性愛とはおそれいった適切な分析。確かに僕を守ってくれていた桜織の感触はそれに近い。だけどべたつきゃしないぜ。それにママなんか綿菓子とか羽布団とかいうよりは、さらさらすべすべしたシルクのスカーフみたいだった。たしかに絹は夏に涼しく冬暖かい優れものの繊維。だけど子供のおくるみなら、やっぱり布一枚では薄すぎる。
「きみ、僕の夢を創作だと思ってるの?」
「創作だってかまわないわよ。作品には必ず作者の問題点が露呈するものだから」
 水香は僕に背を向け、道の真ん中を歩き始めた。彼女の足元にわだかまる短い影も、太陽向日葵と正反対、本体の延長のようなウルトラマリン。説得力のある神秘的な青紫に僕の心は吸い込まれそうになる。捕らわれるのがいやで僕は強いて目を上げる。
のびのびと上背のある水香は白と緑のギンガムチェックの夏服を着ている。膝のあたりでフレアースカートのスクエアがさわやかにひるがえる。僕は自分がスカートを穿いていたころの膝と腿の開放的な楽しさをまざまざと思い出す。それは半ズボンとはぜんぜん違う開放感だった。
水香のふくらはぎは、もう厚ぼったく実ってきた上半身に比べると肉付きが薄く、そのために足首が長く見える。女の足は細いほうが魅力的なのかな。痛々しく見えるけれど。僕はセロリパセリよりふっくらした石鹸が好きだ。ヴァーべナなら最適。だけど肝心なのは居心地のよさだよ。
「問題提起のためにきみと夢交換しているんじゃない」
 水香の後ろからついてゆきながら僕はできるだけ穏やかに言い返した。
「それに、夢の後半はどう分析するの。こびとが現れ、ママが棺桶に座っていたあたり」
「あたしは草紫の意識を違う角度から眺めるの。サブリミナルは常に理解を要求するから。夢は無意識からのメッセージ」
「こびとの登場は?」
「通過儀礼。イニシエートでしょうね。神話伝説の主人公は難題を解決して高いステージに上る」
「難題ってなんだい? 僕ただ数字を答えただけだ。決闘もしないし、魔物をやっつけたわけでもない」
「難題とは、夢においては個人的葛藤の課題解決の象徴なのだから、その表現は別に刃かざして切ったはったスプラッタである必要なんかないの」
「なあんだい」
「徹底的に言語快楽主義ね、草紫」
「わかる? 僕は七歳で集団の中に於ける孤独を味わい尽くすことで、人生を生きぬく最もだいじな必要十分条件は、あらゆることを楽しむ、笑いとばす態度だと理解したのさ。そのためにならあえて無意味な繁文縟礼もいとわないし縟礼だってジョークにしてしまえば有効な生命賦活作用がある。雑巾飛ぼうが生卵投げられようが、いや無視黙殺されようが、生体における物理的反応は単純率直だ。享けようと享けまいと僕は笑う」
「草紫の顔でその台詞はなかなかよ。可愛げ皆無な、世にもまれなる美少年」
僕の長広舌に対して、後姿の水香は同意のしるしに向日葵を肩先で軽く上下に揺すり、茶化す口ぶりでさらに、
「十年後、成長完了時のきみのペルソナは偏屈な天才肌心理学者か孤高のアーティスト」
「どれもやだね」
 ずばり天才、ではなく天才肌ないし天才的、とクッションひとつ挟むところが彼女の僕に対する防衛的逆アグレッション。
 嬉しくない僕は遠慮なく否定した。
「どっちも興味ない。心理学にはまりそうなのは水香のほうだろう。いや、精神科の女医さんか何か。向日葵担いで何のパフォーマンス? だいいち、ここはどこなんだい」
「くどい、切り捨て御免」
 水香はくるりとふりむき、向日葵を竹刀のように両手でつかみ、頭上にふりかざした。両腕の勢いにあおられて麦藁帽子が彼女の背中に落ち、ふわっと薄茶色の髪が顔の周囲に乱れる。切れ長の眼が笑っている。
「草紫は何になりたいの。どうしたいの。答えてくれなければ一刀両断」
「一刀冗談。向日葵で人間がぶったぎれるもんか」
 水香の暗黙の要望に応えて僕はさらなる笑いを提供。にこっと口を開ける水香の笑窪がかわいい。
「これは夢だから植物だって思いの強さによっては人切り包丁にもなるの」
「これも夢なの。きみと僕どちらの夢?」
「どちらかだけのものである必要はないでしょ。あなただけの現実、わたしだけの現実なんてものはないわ。夢も同じ。見える部分だけが見える。夢であれ現実であれ」
「それは誰か別なひとも言った…」
「夢も現実も当人のキャパシティによって容量が伸縮する」
 水香の頭上高くふりかぶった向日葵の枝はゆっくりまっすぐに僕に向かい、ぱさり、と軽く僕は頭を打たれた。水香本人のてのひらで打たれたより軽い一撃。僕には彼女の声が聴こえる。ソウシガスキ。黄色い花びらが地面にいくひらかこぼれ落ちた。
「ほら、もう変わってしまう。道ではなくここは水の流れになっている」
 足元のでこぼこ道は、向日葵が散り零れた瞬間、透明な水が僕たちの膝下くらいの水位に流れる小川に変わっていた。三、四枚の花びらはそのまま銀色の薄い小魚に変わり、ちりちり、と尾鰭を降って、どこかに泳ぎ去ってしまった。水の感触が脛に冷たい。頭上の炎天は変わらない。太陽にとろかされそうな脳細胞。僕は濡れてしまったジーンズをまくりあげる。僕の足は細い。   
水を吸ったデニムの生地が重い。水香のギンガムチェックのスカートは小川の運ぶ風にかろやかにひるがえっている。膝と腿、お腹を抜けてゆく透きとおった夏の風を思った。
七歳までは僕のものだった快感。僕の足は、すぐ側の水香の足と同じくらいにほっそりしている。そして彼女よりもずっと白い皮膚をしている。僕のものではないそのひとの足の記憶が、脳天を焼く太陽の鮮やかさで蘇ってきた。小川の流れに檸檬ヴァーべナの香りはしない。だけどヴァーべナである必要はないんだ。僕は顔をあげた。二三度瞬きし、水香の顔を見て
「僕は人魚になりたい」
 人魚草を食べにいく。イニシエートは大人になるためだけに経験するものじゃない。

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