さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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インディゴ・ノイズ  チェリー・トートロードvol7

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   インディゴ・ノイズ

 『ブラームスはお好き』のヒロインは三十九歳で二十五歳の青年と恋に陥り、四十歳で別れた。これを読んだのは茴が十六歳の時だが、恋人と別れる際のヒロインの台詞を覚えている。あるいは自分自身が四十代に入って唐突に思い出したものかもしれない。
「わたし、もうおばあさんなの、おばあさんなの!」
 哀切な叫びだ。半世紀前のフランスでは四十代から老女の自覚をしなければならなかった。当時の日本なら三十歳を過ぎればもう姥桜、くらいだったかもしれない。
 少女時代の終わりに、茴はもう一冊女と老女のさかいめを揺れる美女の物語に出会った。こちらのほうがサガンの通俗小説より濃厚な感動をくれた。
 時代は世紀末パリ。もと高級娼婦のレアは二十四歳年下の愛人と四十五歳から同棲し、四十九歳で別れる。レアの人生は、彼女のゴージャスな首を飾る四十九粒の大玉真珠に象徴されていた。レアは我が子のような愛人をシェリと呼び、甘やかし、育て、最後には諦念とともに別れる、いや手放す。したたかな作家コレットは自分の実人生を織り込ませながら、衰えていくヒロインに同情することなく、若い強者が奢る結末を冷静に描き切っている。
 コレットはそれからしばらく茴の愛読作家になったが、この『シェリ』の続編として書かれた『シェリの最期』は太っ腹なはずのシドニー・コレットの姑息な復讐譚のような気がしてつまらなかった。アラビアンナイトの王子のように美しいシェリは、初編でレアと別れた後、若い妻とともに第二の人生を成熟させることができず、またレアのもとに戻ることもできず、拳銃自殺するのだった。
 コレットがどこまでも芳醇で冷徹な著述家であるのなら、ビクトル・ユゴーのように人間の盛衰を華麗な油彩で描き抜いて欲しいと茴は残念だったが、多少の瑕を見せたからといって、ユニークなコレットの魅力が減るわけではなかった。
 そして、二十一世紀の日本ではどうだろうか。認知症ケアに携わっていると、男女ひとしく、心弱くなった人間は、自分がもっとも輝いていた時期の精神年齢を離れることができない。八十、九十になろうと、当人の中では自分のはたらき盛り女盛りだった年齢が、加齢後の今の時間と錯綜しながら循環し続けている。ケアワーカーたちは、そうした高齢者たちの幻想を破ることなく見守る。もっともそれは女性性のアイデンティティボーダーラインとは別な次元だった。
別次元ではあるが、かぎりなく近接している、と介護経験を積んだ茴は思うのだった。わたし、いつまでセクシーな女性でいられるかしら、と。
 三島由紀夫がどこかで書いていた。そう、ニヒルな口調で、屈折したインテリの口を借りて、あれはきっと『暁の寺』だった。「美とは性的だってことですから」
 それが三島本人の主張かどうかはわからないが、毒を含んだアフォリズムは、少女期の茴の心象に濃い蘇芳いろの沁みのように、不快感とともに鮮烈に残った。急所を直撃された不快感だった。それにしても『豊饒の海』四部作は、なんときらびやかな極彩色で人間性の裏表を造形していることだろう。これを愛読するという人を、茴は自分と千尋唯由以外についぞ聞かない。
 夫に選んだ櫂は茴に劣らぬ読書家だったが、彼は現実に即したプラクティカルな教養主義で、芸術的な感受性には遠かった。カトリック信仰を眺める視線と同様、櫂は三島文学を遠くから眺めて中庸に感心する、という程度の理解だった。社会人としては、櫂のありかたのほうが有能でありまた健康なのだろう。
それにしても、言葉や文章が難解だの思想がどうの、と核心とはほど遠いところで『豊饒の海』は理不尽に敬遠されている。
 しかし、茴の読後感では、三島の思考はきわめてシンプルで、耽美から破局に至る長い物語は、三島自身が語った「浜松中納言物語」よりも、さらに古代の「竹取物語」に依拠しているのではないかと思う。
 永遠の二十歳、永遠の処女、美しい若者たちは、俗世の垢にまみれることなく、次元を超えて天上月世界へ飛び去ってゆく。なぜ三島はかぐや姫の物語をひきあいに出さなかったのだろう。天才の気取りだろうか。かぐや姫では平凡すぎると思ったのだろうか。それでは『シェリの最期』に私怨を込めたコレットとちょっとばかり親しすぎる。紫式部はもっと素直で誠実だった。彼女は言った。「(竹取物語は)ものがたりのいできはじめのおや」
 今、溶暗の舞台で純白の裾を引き、透明な踊り傘をかすかに傾け、日本髪を結い、緋色の蹴出しを褄どりから裳裾にかけてただしく三角形に見せた舞手は、彼女の周囲だけに霏々と降る白雪を小さな片手に享け、静かにたたずんでいた。
 銀座のモダンダンスパフォーマンスで武原はんさんの芸に遭遇するとは思わなかった、と茴は最前席から数列下がった座席で、わずかな舞台照明を頼りに、もういちどダイレクトメールを眺めなおした。もちろん地唄舞などとはいっさい書かれていない。ダンサーはガーネット、笛は豹河、パーカッション〈水珠〉は冬狼。ふゆおおかみ? ルビが欲しいなあ、と茴はまた首をかしげる。それに水珠ってなんだろう。パフォーマンスのタイトルは〈インディゴ・ノイズ〉
「きっれーいい」 
 茴を挟んで右手に亜咲、左に陽奈が座る。亜咲は白と赤の薔薇の花束を抱えている。正直な嘆声は左右どちらからのものだろう。
 白塗りにくっきりと富士額を描いたダンサーの年齢は至近距離でも測れない。晩年のおはんさんは八十余歳というのに、舞台では三十そこそこにしか見えない艶冶な芸を見せたというが、今、眼前で背筋を伸ばし、深く膝をかがめ、プロジェクションマッピングの青い雪のなかをゆるゆると、片足を軸にしてなめらかに回転しているガーネットは細い首に高島田がいたいたしいほどあどけなく、十代の少女のように見えた。雪をみつめて立ち尽くすかと見えて、ごくわずかな呼吸のはざまにゆらり、と手首を返し、踊り傘を回し、うつむき、白妙の袖を返す。
 踊り手とともに舞台に流れ始めた低いフルートは日本調ではなく、ドビュッシーだった。牧神の午後への前奏曲。打楽器はまだ何も聞こえない。舞台上には踊り手の姿しか見えない。いい音だ、これが豹だな。若いのに音のおしまいをたっぷり余らせて吹く。これは千尋の教えと同じだ。情を紡ぐ楽曲において余韻のない演奏はみすぼらしい。せっかちにリズムを急ぐな、と。
 どこにいるのだろう豹と狼は。あるいはこの暗闇の中に、再びカイト・キメラが潜んでいるのかもしれない。ここに自殺願望者がいないことを茴はイエズスに祈る。
 打楽器が聞こえない。始めはなびらのようにあえかにひらりはらりと間歇的に天上から舞い降りていた青い牡丹雪は、フルートの緩急に添うようにやがて小止みなくひらひらと視界を覆う粉雪になってゆく。舞手の背後は群青の闇。雪の斜線はただ舞手の白い衣装と透きとおった踊り傘の上にだけ見える。
 フルートの音色、それから半畳の空間を天からの操り人形のように動いてゆく白い裾曳きの衣擦れの音だけ?
(ちがう、繊維の音じゃない) 
 かすかな雑音。ざざざ、ごおっ、ふうっ、どしん、と地鳴りのようにも嵐の前触れのようにも聞こえる。茴の感想はいつも唯美に傾く。現実を美的に脚色したがるのは、中途半端な作家だった鶸の遺伝だろうか。娘二人をほとんどかまいつけず、夫さえないがしろにして奔放な文筆生活を続けたあと、鶸の思考回路は壊れた。母性の欠落した成長期を姉は内向して読書と絵と音楽で埋め、妹は女優に憧れて家を飛び出し、成功はしなかったが良縁を得て、今は安穏な地方公務員の妻におさまっている。……。
「洗濯機の音かなあ」
 ぼそりと陽奈がささやき茴は頷いた。
「それ正しい。全自動じゃなくて、古い昔の二槽式みたいな」
 陽奈のほうが茴よりもずっと現実認識能力は高いようだ。この子は現実逃避をする必要はなく、父親と母親と義理の母親と祖母の庇護の中で、温かく守られて育った。
「違うわよ、わからない? あれ心臓の音よ。でなければ聴診器で聴く血流の音」
 亜咲は唇の前に指を一本まっすぐたてて、
茴と陽奈をかるく睨んだ。
 ころりん、ちーん、と小さい鈴のような響きがいくつかころがってきた。同時に、こちらを睨む亜咲の背後で濃い舞台溶暗はふわっと緩み、会場全体が深海の底から日光の届く水面近くまで昇ってゆく浮遊感がきた。

「髪を染めていらしゃるんですか?」
「そんなめんどうなことしないわよ。洗いっぱなし。あ、リンスちゃんとして」
「はい」
 若井須磨子さんの髪は八十二歳というのに遠目にほとんど白髪が見えない。今日のように茴が髪を洗ってあげるときには、さすがに根本から幾筋もの銀髪がちらほらと、冬の枯れ草のようにそよいでいるのがわかる。
「お若いですね、ほとんど白髪がないです」
「そうねえ、すっかり薄くなっちゃってあなたみたいに若くてきれいなひとにやってもらうの恥ずかしいんだけれど、底冷えがするともう肩とか痛くて上がらなくなっちゃうのよ。年は取りたくないよねえ」
「ははは」
 うっかり同意するわけにはいかない。おだやかに曖昧に笑顔でまるめるのが最適だ。若いころおしゃれだった須磨子さんは籠りきりの生活になってから、服装はすっかりかまわなくなっているが、石鹸やシャンプー、リンスなどは結構な高級ブランドを使っている。
「若井さんこそいつもきちんとしていらしゃいますよね。お肌もきれいですよ」
 ここはともかく相手を持ち上げる。お世辞だろうと何だろうと、相手の美点をつかまえて話題にし、沈みがちな高齢者をよろこばせる。いや、こうしたことをお世辞というにはあたらない。高齢者の心身を労り、慰め、見守るのが、具体的な労働以外の精神的なケアだから。
「そお? ありがと。まあ、顔はお金をかけたからねえ」
「?」
「あなた化粧品何使ってらっしゃるの」
「え、その、ありふれた何かです」
 茴の前に痩せ細った背中をまるめてしゃがんだ須磨子さんは、がはは、とシャワーを浴びながら豪快に笑った、ようだった。もしかしたらシャワーが開いた口腔に飛び込んでがぼがぼ、という音になったのかもしれない。
「若いっていいわねえ、雑にしててもお肌ぴかぴかだもんね。でもあたし若いうちからお手入れしたのよ、五十年も」
 と、茴もよく知っている有名化粧品会社の名前をあげた。
「まあ、おしゃれ、さすがです」
「何おっしゃいます。もういいから、お湯に入るから、ごくろうさん」
 須磨子さんの顔はやつれてはいるのだが、額も頬も磨いた石のようになめらかだった。それはまだ健康だったころの鶸が、定期的にスキンケアしていたパックのあとの皮膚の光沢と同じだった。須磨子さんはそれに加えて、未婚だったためか顔全体に浮かぶ表情がこどもっぽく若々しい、そして無防備だった。てひどい悪意や攻撃をうけた経験のない顔。そして自分の主張をおおむね気兼ねなく周囲に通せる安全な人生の範囲を選んだ女性の顔だった。
 が、このひともまた福祉コミュのヘルパーたちの間ではいくらか持て余し気味だった。矢田部さんほどではないが、女性ワーカーとの折り合いが悪く、自分の意に添わないワーカーとはかなり凄まじい口論になり、ケアを断って追い出すこともあるというのだった。茴は三人目か四人目のバトンタッチでここに来た。実年齢よりずっと若く、いや幼く見えるので、矢田部さんが茴を好くのと同じ理由で、須磨子さんも茴を気に入った。
 脱衣場で手を洗うと、爪の隙間に須磨子さんの黒髪がまつわりついている。パーマをかけていないまっすぐなセミロングヘアだ。八十代なのに奇跡のような黒髪だった。ストレスの少ない人生を過ごしてきたんだろうな、と誰でも思うに違いない須磨子さんの黒髪。
 浴室の湯あみの気配が長い。茴はリビングの室温を確認し、手早く掃除機をかける。いつだったかここにカイトが来た。今日はいない。部屋に残ってクリームパンを食べているのか、それとも脱け出してどこぞで人間の魂を喰っているのか。
(たいへんなものが来ちゃったなあ)
「おまえは餓鬼の一種なんだって、カイト」
 どういうマジックなのか、フルートと心拍それとも血流の体内ノイズとのセッションがクレッシェンドし、続いてガラスの風鈴をいくつも打ちたたくまろやかで澄んだ響鳴が始まるとすぐに、舞台中央の雪の精はかき消えた。舞手が奈落に降りたにしては、舞台からの彼女の喪失は一瞬で、それこそトリックとしか思えなかった。
そして、舞手が消えた舞台後方に、天上から目に見えないテグス糸でそこかしこにこどもの頭ほどのガラスのボールが吊り下げられているのが見えてきた。碧や青、透明なガラス鉢は、最初海にうかぶブイのように思えたが、薄闇の明るさに眼が慣れると、ブイよりもよほど薄い透明度の高いガラスの球と楕円であることがわかった。その中には少しずつ水が入っているようだ。
 いくつあるかしら、と茴は心の中で呟き、ゆらゆらと宙に浮いている珠をかぞえた。水珠に違いないが、下からのころがし照明を浴びて、たぶん蛍光剤の混じった水はLED照明のように闇の中で鋭く青光りし、人魂のようにも思えるのだった。ガラス水珠は大小とりまぜ二十個もうすこしあるようだ。
 そのガラス玉を、十歳くらいの男の子が、両手の金色の棒で叩いている。ピックは木製ではなく、金色をしている。ガラスの縁を叩いて砕かない硬度ならば、きらきら光って見えても金属ではなく、珪素に限りなく近い素材だろう。
「あの子ほんとにそこにいるのかな。アニメキャラのプロジェクションみたい」
 陽奈がささやき、茴も同感だった。
彼は幼くて、まだ頭でっかちなマッチ棒体型だが、すんなりと手足が伸び、鼻筋のくっきりと通った清楚な顔だちの男の子だ。のび太くんのような前髪揃えた坊ちゃん刈りの髪は染めているのか照明の加減なのか、周囲のガラスよりも明るい純白に光っているし、両眼はルビーのように紅い。これが冬狼、狼少年か。にしては品がよく可愛らしい。
「眼はきっとカラコンよね。すごいレッド」
 とまた陽奈がぽそぽそつぶやく。
 男の子はフリルの襟飾りの派手な緑色のコスチュームを着ている。中世のロビンフッドかディズニーのピーターパンみたいだ。彼らのように三角帽子はかぶっていないが、尖った爪先にどんぐりのボンボンのついた黄色い長靴が洒落ている。
すごく手首が柔らかい、と茴は冬狼のピックに感嘆する。さざなみのようにガラスの縁を金色のピックが小刻みに走る。ただ一直線に水珠の縁を撫でてゆくのではなく、きりっと鋭い拍を刻み、要所で強弱のアクセントをつけながら、肉眼では測りがたいスィングでフルートの背景を飾ってゆく。
(あれがガラスだとしたら、そんなに強く叩いたら割れてしまうだろうに、あんな脆いものでこれだけディナミズムを表現できるのはすごい。まだこどもじゃない? よっぽど手首と指が柔らかいんだ。打楽器というよりも、この子はリストっぽいわ、いっそ)
 さきほど雪の精が消えた舞台中央にまた明かりが射し、今度もマジックのようにフルーティストが出現した。これも奈落から昇ってきたにしては突然で瞬間の登場だった。
「きゃー」 
 隣で亜咲がちいさく猫声をあげ、茴はぎょっとして半身をひいた。だいじょうぶ?
「あれ、豹よ、かっこいいでしょ」
「はいはい」
 吉良豹河は背が高く、胸板の厚い大きな体をして、背中まで豹柄の金髪をばさらに垂らしてしていた。額には黒い革のセルクルを巻いている。セルクルの真ん中には、暴走族じゃあるまいし〈神風〉の筆文字。彫りの深い,俗に言う濃い顔だち。京人形のような典雅な容貌の母親に全然似ていない。印象的だけれど、これが美形かどうかわからない、と茴は眺める。整っているというのなら狼少年のほうが美しい。
だがセクシーだ。黒い光沢のあるボディスーツは、若いころのレディガガがよく着ていたラバーではなかろうか。それこそ肉体の線がどこからどこまでぴったり現れる。スーツには金色の鋲がびっしりついている。それがギラギラ光って彼は巨大な爬虫類のようにも見える。
 黒いラバーは胸元から臍のあたりまでざっくりⅤに切れ込み、胸郭と鍛えた腹筋の地肌が見える。視線が集まる下腹部のあやういところで太い金属のベルトで腰回りを隠し、バックルは日本刀の鍔のような髑髏。亜咲がのぼせるはずだ。性を挑発してるじゃない。思わず茴はつぶやいた。
「ド、派手」
 亜咲は知ったかぶりで、
「あら、豹は礼儀正しい子よ、シャイだし」
「うん、レディガガも基本ナイーブだしね、表現は逆噴射で」
「見た目九割って言うでしょ?」
「まあね。だけど、こういう子があたしのパフォーマンスに調和するかなあ」
「視覚的に逆ベクトルだからいいんじゃない。いまさらひかないでよ」
「え、じゃあ決めてきたの?」
「もちろん」
「そんな!」
 顔を寄せ合ってぶつぶつ喋っていると、近くの観客からいくつも白い眼が飛んで来た。
 豹河のフルートは純金だ。柔らかい音がする。牧神の後は何だろう。旋律が途絶えても、狼少年のスィングパーカッションは時間の空白を埋めて雪の降る音のように続いている。強靭な筋肉だ。力任せにひっぱたくのではなく、十分にコントロールしたバチさばきが叩いた音を適切に空間に拡げている。遮二無二ぶん殴った音は遠くまで響かず、すぐに力尽きて重く沈む。ピアノでもチェロでも、歌声でも同じことだ。
 ふわり、と巨大な薄衣が舞台全体にかぶさるように、あたらしいプロジェクションが始まった。緑色、あかるいエメラルドグリーン、襞のような流線型の波紋がおおきく揺れ、観客の眩暈を誘う。水流? それともオーロラだろうか。舞台全体に青と水色、エメラルドグリーンの波が立った。狼の打ち鳴らす水珠のビートが続けざまに高く響く。豹がフルートを構える。
 フルートの旋律の直前にレクイエムが入った。誰だろう、数小節の断片のような合唱。モーツアルトだろうか、フォーレか。いつもなら聴き取れるはずなのに、レクイエムといっしょにマッピング画面に落ちてきたグランドピアノの映像に驚いてしまう。ピアノは水上からゆっくりと海中に沈んでゆく。実物の何倍も拡大されたグランドピアノの映像に豹と狼と青い人魂が透け、水底に沈んでゆく黒いピアノの箱は、当然ながら棺のメタファのように思える。
 スローモーションでリピートされる入水ピアノの動画の中で、豹が吹き始めたのはやはりドビュッシーの「沈める寺」だった。旋律の隙間を狼のパーカッションが埋める。水珠の中に入っていた蛍光色の水の意味がここでわかる。狼はピアノがわりに水珠で音程をつくり、単音のフルートでは表現しきれないピアノの伴奏譜を強拍で、そうでないリズムは弱拍で、この上なくデリケートに表現する。
原理を誰かに教え込まれたとしても、この表現力ならば狼は天才肌といえる。これから本物の天才に育っていくのかもしれない。
「茴ちゃん、あれジョン・ケージでしょ」
 陽奈がささやいた。
「よく覚えてたね」
「強烈だったから」
 そうだ、水中ピアノを音楽と言い張った永遠の少年ジョン・ケージ。ああ、だから狼はピーターパンのコスチュームなんだ。
 大人になれない永遠の少年ピーター。
 なれない、じゃなくならないんだ。
 ピーターパンはむっとして茴にまぜっかえしたようだった。 
 パフォーマンスはそれから群舞が入り、また別なプロジェクション、そして最後に再びガーネットが舞って締めた。
群舞は彼女の弟子たちだろう。色とりどりの花を飾った少女たちはロマンティックバレエの長いチュチュを着て、いかにもパフォーマンスの中休み、ただ気楽な眼の楽しみのためだけに、可愛らしいしぐさで飛んだり跳ねたりして、観客の緊張をほぐしてくれた。
 群舞の間は狼も豹も演奏しなかった。ただ通奏低音のような体内ノイズだけが聞えていた。リズムも旋律も聞こえない舞台空間で、青い水珠を背景に、花飾りの可憐な少女たちが血流の音響を背負って踊る姿は、すこしデカダンスに視点を変えるなら、ディベルティスマンではなく、シニカルなダンス・マカブルとも眺められた。
どれほど耳驚かす大音響であろうと、人工ノイズは〈無〉及び〈不毛〉の拡大再生産にすぎない。それでは生体出現の瞬間からいのちと切り離せない心拍や循環器の雑音はなんだろう。こちらは海の音に近い。いや、そのものだ。心臓や血流の音波数列を解析するなら、きっと黄金比で割り出される自然界の美度に比例するはずだ。
 パフォーマンスが終わっても、一礼して退場した出演者はアンコールに応じず、客席には追い出しのアナウンスが流れた。亜咲はいそいそと花束を抱えて楽屋に向かい、茴もついていった。
「吉良豹河です。はじめまして、よろしくお願いします」
 茴が何も言わないうちに、でかいラバーボーイはきちんと豹柄の頭を下げた。間近で見ると童顔で、西洋風五月人形のような印象だ。
「素晴らしかった。いい演奏でした」
 つつましく応じる。そうとしか言いようがない。こんな手練れは茴自身の演奏能力をはるかに超える。亜咲にしたって足元にも及ばない。音楽の有機的なアゴギグ、ディナミズムが作れないから亜咲はパッチワークの曲芸に走る。
豹は違う。どういう研鑽を積んだのかわからないが、ヘルツもテクニックもある。勘もいい。なにより見た目百パーセントの舞台映えもするし、これはいったいどうなることやら。言い出したらきかない亜咲だから、なあんだ、つまりあたしは彼女が豹に接近するためのダシの素。まあいいか。
「四月に共演してくださいますの」
「はい、よろこんで。チェリストって、千尋さんの御弟子なんですね」
「先生と親しかったんですか?」
「ピアノ習ってました。二年くらい。もうすごくて、お稽古のたびにスリッパでひっぱたかれて、きっと俺あの経験で打たれ強くなったんだと思ってます」
「ああ、よくわかります、その雰囲気」
 茴は声をあげて笑った。いい子だ。
 豹からは全身全霊のパフォーマンスをつとめあげた若い異性のさわやかな汗と精気が熱くかぶさってくる。もしかしたら茴は上気して頬が赤らんでいるかもしれない。掛け値なしに豹は魅力的な男だ。悩殺されたとして、大胆にアプローチするのが亜咲なのだろうし、一歩ひいて自分の状態を客観視してしまうのが茴なのか。
なぜだろう、自信がないわけではない。すれ違う男たちの視線は、陽奈へ向かう直線とはちがうニュアンスを含みつつ、まだ茴に吸い付いてくる、それがわかる。何が自分にブレーキをかけるのだろう。茴としては、いっそ豹河に一目惚れしたいところだ。
 サガンの全盛期から五十年、コレットから百年ばかり過ぎて、茴は四十歳にして、いや茴だけではない、多くの現代の女たちが「わたし、おばあさんなの」とはいつまでたっても自己認識できない。たぶん…異性の側からのまなざしに我が身を測るしかないのだろう。男たちは社会的な配慮や体裁を剥げば残酷だ。うまみのありかを熟知している。
女であり続けることだけがアイデンティティだなどと思いたくはない。にしても。
 豹でなくてもいい。自分の心のなかで櫂の急死と同時にフリーズしてしまった塊をぶち壊すくらいの衝撃があったら。
 意気投合しそうな豹と茴の様子に、横から亜咲がやきもきと割り込んできた。ボリュームのある肩で茴の全身をぐいっと豹河の前からおしのける感じだ。
「ねえねえ、そうと決まったらどこかで打ちあわせしましょうよ。まだあたしたちラストクライマックスのオチを考えてないんだ、豹君に何かいいアイデアもらいたい」
「いいですよ」
 突然すっと豹河の視線が目の前の茴と亜咲から逸れ、楽屋口に泳いだ。表情が変わる。
「来てたの?」
 茴と亜咲はいっしょに振り向いた。
真冬というのにシルバーグレイのタンクトップ、豹と同じ黒のラバータイツという一見ダンサーに見まがう長身が入ってきた。下から上へ這い上がってゆく視線の第一印象で、まずファッションモデルのように膝が長いのに驚く。
その場の空気が変わるとはこういうことか、と茴は眼をみはる。顔もモデル仕様だ。東洋とも西洋ともつかない完璧な比例。白系ロシア、スラブ、中東にならばこの種の美貌がうようよしているらしいが、極東の島国ではめったに見ない。テレビに出たとしても九頭身の造型は高貴すぎて他のタレントと調和しないだろう。やっぱりモデルかな。
 長い首にダイヤをちりばめたチョーカーをつけている。さらりとしたセミロングの黒髪は毛先だけ金色。睫毛が長い。付け睫毛か、指でつかめそう、マッチ棒なら三、四本乗せられそう。胸はまったいら。ニューハーフにしても姿態にも物腰にも荒削りなところがまるでない。不自然な媚態も皆無。このひと女性?男性どっち?
声は低い。
「途中から聞いてたよ。沈める寺くらいから。とうるは?」
「上々だった。親が迎えに来てて、終わったらさっさと帰った。児童の就労可能時刻ぎりぎり」
「こちらは?」
 東西混じり合ってエキゾチックな目鼻だちは、角度によってイザベル・アジャーニか、ペネロペ・クルスにちょっと似ているかしら、と茴は最初の驚きのあと、自分に納得できる既成のフォルムに当てはめて観察していた。未知のものを既知の要素に転換する手順。
テリトリー内では勝気で鼻っ柱の強い亜咲は、自分のアベレジを突き破る太刀打ちできない相手には、あっさり気圧され、鼻白んだまま口を開かない。
そこで茴が応える。
「吉良さんと来年四月に共演するチェリストの森茴です。あなたは?」
「千手紫羅です。吉良の友達」
 ぴくりと豹のこめかみに癇が走ったのを茴は見逃さなかった。
「いまのところ、まだ僕の女です」
 即座に豹は縄張り宣言し、紫羅は紅い唇を少し緩め、豹河が抱えた白と赤の薔薇の花束を、香を嗅ぐような仕草で覗きこんだ。
「きれい、いい薔薇だね」
 亜咲は深呼吸する多少の間をおいて、
「ピアニストの千尋亜咲です。あなたモデルさん? お美しいわ」
「モデルもしますよ。本業じゃないですけど」
「本業がおありなの? まだお若いのに」
 亜咲の声はとりつくろって硬い。彼女は紫羅の存在を知らなかったようだ。もちろんイケメンパフォーマーの豹にガールフレンドがいないとは思っていなかったろうけれど、女友達がここまで飛びぬけた美人だとは予想していなかったに違いない。しかも一瞬でばれるが、豹河は彼女にぞっこんじゃないか。
「本業あります。いくつか」
「いくつか?」
 ほほほ、と亜咲は気の抜けたお愛想を返した。紫羅は亜咲から茴に視線をめぐらし、数秒呼吸をとめた。唇だけの微笑が深くなる。
「あなたは、いつもペット同伴なんですね」
 あ、と茴は察する。紫羅には見えているんだわ。
「ええ、ついてくるんです。どこでも。紫羅さん、ご存知なの」
「はい。森さん、勇気ありますね」
「そうですか? ふだんおとなしいわ」
「そばに?」
「ええ、だいたいいつも近くに。家にいるときはべったり」
「ひよこは甘ったれだから」
 亜咲が軽い声を挟んだ。すると、
「呼んだ?」
 と入口からコートを着た陽奈がおずおずと前かがみになって入ってきた。すぐ紫羅に眼を奪われ、無邪気に口が半開きになる。
 紫羅は首輪のような自分のダイヤのチョーカーに触り、
「ペットは餓鬼だよ。餓えた鬼だ。森さん甘やかしちゃいけない」
「まあすごい、ひよこ聞いた?」
 訳もわからず亜咲は笑い、陽奈の両眼にはクエスチョンマークが浮かんでいる。豹河はむしろおだやかなまなざしで紫羅と茴のやりとりを眺めている。
「餓えてる…。どうしたいのかしら」
「森さんのこと好きなんですよ。あなたは全然喰い荒らされていないから。そうでなかったら、あなたはとっくの昔に廃人になるか、死ぬかしてる」
 あたしお腹すいた、と陽奈が小さい声でぼやいた。豹河が噴き出す。彼は会話の裏を察しているのにいい顔で笑う。陽気な青年だ。
「これからもあたしのそばに居続けるかしら」
「自立目指してますう」 
 陽奈は指でⅤの字をアピールし、アヒル口の変な声で応える。
「悪さしなければ、共存もありかな」
 結論を避ける表情で紫羅は茴から顔を背けた。すると正面からは見えなかった男の喉の太さがチョーカーの下にはっきり見えた。豹河の女は、性転換手術はしていないということだ。

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スコルピオン・ハイ  チェリー・トート・ロード vol6

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   スコルピオン・ハイ

 待降節に入ったというのに、今年は何故か街全体にクリスマスの華やぎが感じられなかった。
十一月にもなれば、気の早いクリスマス商戦で、デパートも商店街も、あらゆるショップのウィンドーには色とりどりのデコレーションや電飾が踊りきらめくものなのだが、
 初冬から真冬にかけて、茴の眼に映る街のたたずまいは、ひっそりと普段着のまま肩をすくめて、気まぐれな木枯らしの風向きをおそるおそる窺っているように見えた。
 が、それは茴の思い過ごしかもしれない。もしかしたら、去年も一昨年も、イルミネーションやツリー、サンタクロースやトナカイはキリスト教の典礼歴とは無縁に、資本主義物欲システムの販売促進フェスティバルとして利用され、茴はその有様を今年のように、自身が彩を欠いたまなざしで、茫然と眺めていたのかも知れなかった。
 茫然と、なすすべもない感覚で、この季節は茴の上をすべってゆく。三年前、櫂はこともあろうにクリスマスイヴに亡くなったのだった。
 ミサには出られる、と櫂は二十四日の朝、いつもと同じように機嫌よく出社していった。茴は数日前に仕込んだローストチキンの味を一日じゅう気にしていたと思う。櫂は食材には好き嫌いのない男だが、香辛料の好みに癖があり、遠慮なく茴の料理を品評したから。もっとも、文句を言っても、出されたものはちゃんと平らげた。食事に関しては扱いやすい夫だったと思う。そして櫂は食事以外のことで家庭の茴に不平を言ったことがない。だいたいが外向きの性格だった。
 夕方、櫂はもう冷たくなって霊安室にいた。心臓麻痺。耳を疑う隙もなかった。担ぎ込まれた横浜の某大学付属病院の地下で、茴は震えながらひとりで櫂の体を浄めた。陽奈に知らせることさえ忘れていた。葬儀のことも、死亡報告書も、二十四日の夕方から夜にかけての数時間、茴の脳裏から、言葉がすべて消し飛んでしまった。
 茴に話しかける医師や看護師たちの言葉が認識できない。何を言っているのだろう。蒼ざめた冷たい空気がこもる消毒薬臭いこの死体置き場で、口をぱくぱくさせて縁の太い黒い眼鏡をかけた救急医は、グロテスクな深海魚のようだ。
 白衣のぼたんがかけちがっているよそれでは死しゃの海をおよげないでしょかんごしのつめがひどくとがっている〈夫〉にさわらないであなたがふいたって?いいえわたしがもういっかいきれいにしますからおゆとたおるをちょうだいなんならこおりみづだっていいおさなごイエスが今夜馬小屋に降誕する、何事もなければ櫂といっしょにミサにあずかるはずだった、現在進行形の架空の光景が、亡骸を拭き清める間中、茴の頭の中で回っていた。
 顔、首、胸、腹…と清拭してゆき、どこかでぶつんと空白の緊張がちぎれた。まるで握り潰されたぼろくずのように、呻き声が洩れた。
「あなた、仏教徒のまんま」
 櫂はカトリック信者ではないから、死んでしまえば天国に行けない。現世肯定鳩派快楽主義の櫂は神仏混交即物利益の日本宗教によくなじんでおり、茴のカトリック信仰については、通りすがりの観光客的なおおらかさで眺めていた。茴は気のいい連れ合いが好きだったから、そのうち、最悪の場合は瀕死の枕元で洗礼を受けさせ、終油の秘蹟でなし崩しに天国に持ち込もうとたくらんでいたのが全部ぱあになった。
「バイバイ、バイバイ」
 気が狂うのではないかと思ったが、涙も出なかった。手に触れる夫の体はもう死後硬直が始まっている。……。
 日常、茴は櫂の追憶に耽ることはほとんどない。死を迎えるためのいっさいの心の準備なく櫂は次元をまたいで消えてしまったので、悲嘆が成熟するゆとりがまったくなかった。まるで、世界の裏側に長期単身赴任に出かけてしまったひとのように、櫂は生きているともなく、さりとて死者とも思えず、いつまでも「櫂の不在は何かの間違い」ではないかと、茴は心身の空白をぼんやりと、三年経った今も、持て余し続けているのだった。その空白がキャンバスならば、茴はいずれ新しい絵を描くだろうと思う。
 まだ十七歳だった陽奈は大泣きしたが、泣かない茴を睨むこともなかった。
「パパかわいそう」
 それから、まっさおな顔をして娘と自分の喪服を揃えている茴に抱きつき、
「茴ちゃんかわいそう」
 わあわあと気持ちよいほどの大声をあげて泣いていた。
 葬儀は、茴の希望で降誕祭のミサが終わったあと、鹿香の教会で簡素に行われた。生前信者ではなかったが、茴は夫がカトリック入信を切望していたと捏造して、無理やり天国行の切符を握らせたのだった。死後洗礼はない。茴の気休めだった。

「こんにちは、おひさしぶりです」
 おお、と車椅子で玄関フロアに現われた矢田部冨美男さんは、ギャザリングの後ろから首を出した茴を見て、顔をほころばせた。
「やあ、森さん、前あなたに世話になったよねえ、よくスパゲティ作ってくれた、アルデンテで」
 ははは、とギャザリング向野さんは、自分を素通りして茴に流れてゆく矢田部さんの視線の中に、よいしょ、と小太りの体を横から割り込ませ、
「はいはい、若いの連れてきましたよ。もうおなじみだから。大丈夫だとは思いますが、いちおう前と違うところもあるからね、今回は二人でさせていただきます」
「よろしく頼むよ」
 白髪頭は二年前より薄くなり、なにより頬の削げ具合が目立った。全体にひとまわり小さくなった矢田部さんの上半身はセーターをかぶっているが、下半身はパジャマズボンのままだった。
「どうです、調子は」
 向野さんはエプロンをつけ、矢田部さんの後に続いてリビングに入った。
「悪くないよ。病院はとにかくめしがまずくてかなわない。食べないと点滴ですからね。点滴ばっかりだと、喰うのが面倒になってくる。それが自分でもわかるから、つくづく入院なんぞいやなものだと思い知ったね」
「さすが先生、でも入院前にしたっておひとりで自立して暮らしてらっしゃったんだから男のひとにとってはすごいことですよ」
「そうかね」
 矢田部さんは奥さんを亡くしたあと、桔梗山の広い一戸建てに一人暮らしだった。桔梗山界隈も湘南エリアの高級住宅地と言える。須磨子さんの住む西香枕よりグレードは高いかもしれない。西香枕より後で開発され、もとの地価が高いから、冠木門のついた長い土塀越しに見越しの松が枝を伸ばすという邸宅はないが、ほどほどの庭を備えた瀟洒でモダンな建築が目立つ。矢田部さんの家もそのひとつで、一階フロアは広い玄関から扉を入ると全面バリアフリーのリビングダイニングだった。二十五畳はあるだろう。キッチンは仕切りの向こうに隠されているが、ダイニングテーブルとリビングセットが1フロアに並んでいる。
「あら、すっかり片付けたんですね」
 向野さんはきょろきょろとあたりを見回した。茴もお愛想でひかえめな歓声を添える。
「ほんと、パーフェクトなびょ、寝室」
 病室と言っては矢田部さんの機嫌をそこねる。
 茴が生活援助で通っていたころは冨美男さんの寝室は二階にあったが、車椅子生活になった今、ダイニングとリビングの家具を半分取り払い、入口近くにパラマウントの電動ベッドを置いていた。トイレの都合のためだろう。ベッドの真向いに大画面のテレビがあり、応接セットだった低いマホガニーのテーブルがベッドサイドの物置になっている。
 その上に事務整理用の小抽斗があり、書類ケースが並び、雑誌や薬、インシュリンセットなどが冨美男さんの几帳面な性格を映して整頓されている。ベッドの頭のほうには半透明なプラスティックの衣装ケース。下着やパジャマなどが詰まっているようだ。衣装ケースを三つ重ねた隣にパソコンがある。車椅子で入れる高さと幅の、シンプルなパソコン机が用意されていた。衣装ケースの上にはノートやCDが、こちらは乱雑な感じで散らばっている。何もかも、ベッドの冨美男さんのすぐ手の届くところにある。
「矢田部さんのお宅は間取りがたっぷりしてるからいいですよね、悠々車椅子でトイレでもどこでも入れるからさ」
「そう」
 向野さんの言葉に矢田部さんは苦笑した。地域ギャザリングの向野さんには矢田部さんもいちおうの敬意は払う。
「森さん、それじゃあたし簡単にここら掃除機かけるから、あなた夕飯の支度とか」
「あ、今日はいいんだ。晩に娘夫婦が来るんでね、彼らといっしょに喰う」
「あそう。娘さんえらいよね、ここの整理整頓全部やってくれたんでしょ?」
 会話しているうちに向野さんの口調はどんどん気さくになってゆく。気位の高い矢田部さんも、素朴なギャザリングのため口を面白がっている様子が見える。
「全部ってわけじゃないが、まあよくやってくれたかな。婿も性格がいいから」
「うんうん、どのくらいの頻度で来てくれるの?」
 頻度、という向野さんのおばちゃんボキャブラリーには馴染まない厳めしい単語に矢田部さんは妙な顔をしたが、両手を頭の後ろに組んで、ちょっと天井を眺め、
「退院してからはときどきね」
 もう向野さんは矢田部さんの返事を聞き流す感じで、茴のほうを向いた。
「それじゃ森さん、向野さんの足浴してください。フットバス、洗面所にあるはずだから」
「お湯はやかんで沸かしなおしますね?」
「そうだね、給湯じゃあ、ちょっとぬるいから、気持ち熱くする程度でいいから」
 茴は矢田部さんに尋ねた。
「足浴はお風呂場で? それともここで?」
「こっちでやれたらやってください」
 電動足浴機はお湯を張ってスイッチを入れるとミニジャグジーのような気泡噴射の水流が起こる。鶸が自宅にいたころも愛用していたが、思うように入浴できない者にとって、足浴はとても気持ちがいいのだった。
足は第二の心臓というが、母親の鶸をはじめ、何人かの、何人もの身体介護を経験すると、足の状態である程度利用者の体調が洞察できるようになった。
 矢田部さんのパジャマズボンをたくしあげ、すっかり細くなった脛と、脛の太さのまま足首のめりはりのないまま薄紫に変色してむくんだ甲を見た。茴が動顛するほど、どちらの足もまだ病んではいない。良家の子息でゆったりと育ったに違いない矢田部さんの足は、玄関に並んでいる何足もの上品な皮靴にふさわしく、指が長く甲が狭かった。顔の皮膚よりも足のほうが白く柔らかいかもしれない。とがったハイヒールや無理な先細りのパンプスで歪曲された女性の足より、健康ならば矢田部さんの足はうつくしいに違いなかった。
 茴は矢田部さんの気持ちを驚かさないように、いったんたくしあげたパジャマズボンの手を放し、ベッドサイドに介護用ゴム手袋を探した。見当たらないので洗面所に行く。以前矢田部さんは浣腸をしていたので、それがそこにあることを茴は覚えていた。手袋をぴちっとはめたあとで、さりげなく尋ねる。
「ルリコン液はお使いですか?」
「そっち」
 自分が両足を晒したあとで、ゴム手袋装着をした茴を見て、矢田部さんの口調は多少ぶっきらぼうな感じになった。浮腫でふくらみ、静脈が紫がかるほど蜘蛛の巣状に走っているのがはっきり見える矢田部さんの足の爪は全部、肥厚し、渇き、ねじれていた。
 ごく普通の老化現象でも爪水虫は出現するが、糖尿などではことにそれが際立つ。命にかかわる兆候ではないが、今すでに死後硬直のように蒼ざめ、ところどころ皮膚の色むらが生じているくすんだ両足は、今後病勢の進行によっては切断の憂き目を見るかもしれない。鋭敏な矢田部さんはきっと承知しているに違いない。

 十六日日曜ミサのあと、茴は陽奈も連れて上京した。亜咲とは新橋駅で待ち合わせる。
陽奈は信者ではないが、近頃はカトリックに気持ちが動いているのか茴についてくる。若い娘を連れていくと、顔見知りの信者たちは一様によろこんだ。日本じゅういたるところで進む高齢社会の波は、キリスト教会にも例外でなく押し寄せている。ミサにあずかる二百人ほどの信徒をながめわたせば、十代、二十代は数えるほどしかいない。
 森さんのお嬢さん、お母さんに似てかわいいわねえ、と二人の面相部品をよく確かめもしないで老婦人が褒めあげる。いや、茴と陽奈とではきっと遺伝子の原型が南北遠ざかっているからちっとも似ていない。しかしお母さんに似てかわいい、とくすぐられれば茴は黙ってにこにこしている。
「娘さん、おいくつですの」
「もうじき二十歳ね、成人式」
「あら、いいわねえ、お振袖?」
 すぐに返事をせず、よそゆきの笑顔のまま陽奈は茴を見た。
「どうする、陽奈ちゃん、お着物にする?」
 茴はどきんとして陽奈にすまない気持ちになった。そうだ、この子はもうじき成人式だった。あたしは櫂の命日にひっかかってクリスマスも何も本当には見えないでいる。だけど一生に一度の陽奈の晴れ着まで忘れるなんて、ばか。
 死だっていっぺんこっきりだが、陽奈の人生はまだ過ぎ去ってしまったわけではない。
「うーん、どっちでも」
 聖体拝領は、信者ではない陽奈はいただけないが、司祭からの祝福は受けられる。先に立って陽奈を歩かせ、軽くウェーブのかかった娘の茶色い髪を眺めながら、茴はいまさらながら血のつながらない自分の母性の希薄を恥じる。  
実の母親なら夫の命日がどうであろうと、娘の晴れ着を忘れることはないはずだ。そういえば陽奈の実母はどうしたのだろう。櫂の葬儀のとき、離婚した前の妻は現われず、学生服を着た中学生の弟だけが列席した。陽奈にも櫂にも少年はあまり似ていなかった。最期の別れの際、棺に注ぐ視線も涙ぐんではいたが、姉のように大きな感情をまる出しにする子ではないようだった。
「ごめんあたし忘れてた、成人式のこと」
 教会を出たあとで、茴はしおしおと娘に謝った。そらぞらしくつくろってもすぐばれるから、とにかく正直にしよう。陽奈は茴を斜めに見て、笑顔半分でしかめっつらをした。
「だよね。でも茴ちゃんこの時期いつもよりさらにぼんやりだからしょうがないかって思った。パパのこと考えてくれてるんでしょ」
「そうねえ」
 考えてる? 考えている偲んでいるというのはどうもあたらない。未消化な感情の塊が病院の霊安室でフリーズしたまま茴の中でふらふらしている。それがときどき胸や頭にぶつかると、叫びたいようなその逆に膝を抱えてうずくまってしまいたいような衝動にかられる。あちらに揺れこちらにぶつかる感情のはざまで、ようやくチェロの弓を取ってフリーズドライの何かに潤いを注げるようになってきたところだ…。
「まだるこしいね」
 陽奈はそっけなく決めつけた。
「茴ちゃんがそんなにクールじゃあ、パパも無念だよ」
「え、そう?」
「やっぱりカイトはパパの未練の権化かもしれないよ」
「未練て」
 そんなにウェットなひとではなかったと思うけれど、それにカイトは怨霊モードには遠いキャラクターだし。
「未練て、エネルギーの無駄遣いじゃない?櫂さんはそういうことしないでしょ」
 ぱたっと陽奈はロングブーツの両足を揃えて立ち止まった。ちょうど駅前交差点、段かづらの石段が終わるあたりだった。
「何?」
「茴ちゃん、いまさらですが、なんでパパといっしょになったのよ」
「ええ?」
「未練はエネルギーの無駄遣いってすごい。まるでスケコマシの捨て台詞」
「どこでそんな単語仕入れたの」
 言い合っているうちに駅に着き、横須賀線に乗る。小腹が空いたので駅前で鯛焼きを買うことにする。昼食は銀座で亜咲と一緒にする約束だが、ありつくまでに小一時間はかかる。栗餡だの抹茶餡だのと揉めているうちに未練モードは飛んでゆく。
「カイトの朝ごはんは何だっけ」
 師走の寒さに湯気の立つ焼きたての鯛をはぐはぐしながら陽奈が尋ねる。
「クリームパン三つとフライドチキン。牛乳一パック、ニンジン二本、それから」
「晩御飯は」
「ドッグフード盛っておいた。あとジャムパンとボンレスハムブロック」
「雑食だね、あいつどこから来たんだろう」
 考え出せばきりがないおかしな不思議な生物だった。鍵のかかったマンションの部屋になぜ自由に出入りできるのか。利用者さんの自宅になぜ上がり込めるのか。いや、空に浮かぶこともできる。先日西香枕で、苦し紛れに「スカイウォーカー」と言ったが、カイトは確かに羽もないのに空を歩ける生き物なのだった。
「きっと宇宙人なのよ」
「そうだね、きっとUFOの乗組員でさ、あたしたちなんかよかIQ高いんだ」
「目的は何かしら」
「だから茴ちゃんへの執念モード」
「気味わるいからやめようよ」
「再婚したら? そしたらあたしも出ていける」
 陽奈は横目で涼しく笑った。

 鹿香、北香枕、王船。優雅な文字を連ねた風光明媚を謳われる湘南の風景は、王船から樹相が変わる。
「大昔にね、まだ中国大陸で恐竜がいばっていたころ、三浦半島は太平洋をゆっくり旅して日本にくっついたのよ。だから香枕あたりの植物の先祖はきっとムー大陸とかアトランティスとかの名残で、葉っぱが広くてつやつやした樹が多いでしょ?」
「そういえばそうかも」
 陽奈は小春日和になごんでいる車窓からの景色に視線を泳がせながらテキトーに相槌を打った。ほんとうのところ茴のセンチメンタルな解説は、陽奈には自分の付け睫毛の重さほどにも実感を伴わない。
王船にせよ、鳥束(とつか)にせよ、コンクリートの無表情な集合住宅が山肌を埋め、駅前には一様に総合開発された各駅モールが、規模の大きいパチンコ屋さながら、ポリクロームのど派手な外壁を誇示している。線路沿いに見る植樹はごくありふれた街路樹のいろいろで、そこから数百万、数千万年前の原始樹林、あまつさえ伝説の古代大陸を彷彿とさせるのは常識的に無理だった。
(ほんとに茴ちゃんて変だよね。パパはなんでこのひとと結婚したんだろ。なんでこのシチュエーションで恐竜が出てくるの? カイトのせいかな。カイトだってきっと茴ちゃんにひかれて寄って来たんだ。類ともだよ)
 日曜の横須賀線はほどほど混雑していた。鹿香から乗り込んだ陽奈たちは座れずに、出入り口近くに立っていた。
この時間帯は、寝坊した周辺住民が遅いブランチの後、横浜へ出撃するのにちょうどよいのだろう。車内は家族連れが目立つ。クリスマス前の最終日曜日、こどもたちはきっとさんざめきながらデパートのおもちゃ売り場やファンシーショップで、パパママサンタにいろんなおねだりをするのだろう。
(恐竜空想するんだったら、あたしのクリスマスでも考えてよ茴ちゃん)
 陽奈は隣で携帯メールを打っている茴をチラ見して心の中でぶつくさ言ったが、すると
「陽奈ちゃん、プレゼント何がいい。今日銀座で、ついでにあなたの欲しいもの買ってあげようか」
「ほ、ほんと」
(マジコワイときがある茴ちゃん)
 がたんごとんと悠長に横須賀線は走る。鳥束を過ぎ、やがて横浜、というあたりでいきなり電車は停まった。
 不意の異変にざわざわ、と乗客は色めき立ったが、すぐに取り繕ったアナウンスが入る。
「やだ、飛び込みみたい」
「この季節多いのよ、中央線とか横須賀線とか、特に多いそうよ」
「なんでだろうね」
 陽奈は興味なさそうに欠伸した。たった今、自分たちの乗った車両の一部が誰かの命を轢いた。すぐそばで無残な残骸があわただしく取り片づけられ始めている。迷惑そうに小鼻に皺を寄せる陽奈の顔には自殺者への憐れみは微塵もなく、茴もまたそうだろう。
「この分だと一時間か、三十分は動かない」
「茴ちゃん先生にメール、遅れるって」
 見渡せば乗客たちはいっせいに目の前に携帯をとりだし、そっくり同じ手つきで、そっくりけだるい表情で、こちょこちょとどこかへこのアクシデントを知らせていた。
 うん、と茴もガラケーを取り出し、亜咲へメールを送る。しかし、ぽつぽつと文字を打ち込みながら、鼻の奥から延髄にかけて奇妙な違和感を感じ始めていた。
「茴ちゃん? 気分悪いの?」
 ガラケーを放り出し、いつしか両目の上を手で抑えていた。眼精疲労のような鈍い痛みが眼球の底から膨らんでくる。それと同時に、さっきまでまったく気にならなかった周囲の匂いが、喉にむかつく激しさで嗅覚につきささってくる。こどもたちのつまみぐいのジャンクフード、缶コーヒー、若い男のきつい整髪料、埃、アスファルトの匂い、焼けたゴムのような化学繊維の焦げ臭さ。暖房と日光に温められた車両シートの人間臭さ。禁煙なのに煙草の臭気は誰のもの?
 中でも、茴ちゃん、と自分の肩に手をかけ、おろおろとこちらを覗く陽奈の肩先から、彼女のパルファムがハイクロマなピンクで圧迫する。平常なら、子供っぽいが可愛らしい香と笑ってやり過ごせるものが、こういう瞬間には耐えがたい汚臭に感じられる。まずいな、と茴は陽奈の手をおしのけ、
「ちょっと過呼吸みたいだから、乗務員さんに頼んで外の空気もらう」
「それあり? できるの?」
「動かないんだから、大丈夫でしょ」
 吐くよりましだ、と茴は空元気を振り絞ってすたすたと最前列の車掌室にゆき、自分の状態を説明した。血相ただならぬ茴の顔に若い乗務員はおそれをなしたのか、割合素直に聞き入れてくれた。都合よく東鳥束駅からほとんど離れていなかった。
「十分くらいでいいです。深呼吸すれば、なんとかなりますから」
「現場には寄らないでください」
 黒と黄色の制服制帽の男たちがどこかで作業をしている。茴は車掌室の反対側の出口からこっそり地面に戻った。降りるなり、目の前の枯れた薄原の淡い光が視覚にあふれた。薄の中には十二月になってもまだ静かに咲き続けている野菊の群れが混じる。白、紫、茜に蘇芳薄蘇芳、ゆるし色など花弁にも茎にもほのぼのまじる自然色の繊細が、陽奈の体臭で感覚を殴られた茴の凹みを埋めてくれた。
 そして、より鮮明に血と異臭。
 身体介護で体液に接した経験がなければ感じ取れないかもしれなかったが。
 茴は薄と残菊に向かって、後ろ側から忍び寄る破けた体腔からのなまあたたかい伝播に背を向けた。茴の心象からムー大陸とアトランティスを隔てて現実に轢死した亡骸が搬送されつつある。放水で浄められ、飛び散ったあれこれはじきに野鳥に食い尽くされ、バクテリアが土に戻す。
 あおっ
 聞き覚えのある声は木枯らしの咆哮ではなかった。茴は地面を避けて車両の上をふりかえった。声は上から聞こえた。もう驚かない。
横須賀線の紺色と白の車両真上に、カイトが四肢をふんばって乗っていた。冬の陽光と烈風を浴びて、金属質に体毛が逆立ち、兎耳は逆光に黒々と二本の角のように光っていた。
「付いてきたの、また」
 カイトは茴を見下ろし、見たこともない表情でぐわっと顎を大きく開いた。何本もの牙が凄まじく光る。ごつん、とカイトの尻のほうで物音がしたが、それはきっと矢印の尾で電車の屋根を叩いたのに違いない。今日の進行方向はどっちだ。
 ばしん、とカイトはもういちど尾を打ち鳴らしたようだった。彼の体毛は、一方向からの風にふきつけられて、べったりと厚く体に張り付き、まるで背びれを立てた甲殻類のように硬張って見えた。カイトは腰を落とし、背骨を反らし、両前足をまっすぐ突っ張って、背伸びをするように顎を天に向けた。 
 茴は眼をまるくした。
 背伸びをしたカイトは、その反動で獲物を貫いた鏃をびゅん、と自分の顔のほうへ振った。赤いしっぽはいつもの三倍くらいの太さに膨張している。カイトの後ろ足と同じくらいの逞しさだ。ぎらりと鋭い鏃の先端はどす黒く濡れ光り、男の延髄から顎の下まで、きっとひとおもいに貫通し、彼は即死だったはずだ。大の男の人体ひとつ、らくらくと刺し貫かれたまま宙を半回転に飛んで、カイトの待ち構えた口腔へ来た。
 蛇が蛙を飲み込むより早い。カイトの顔はぜんぶ牙と舌なめずりの粘膜と化し、ずるずると男はカイトの中へ吸収されていく。
 茴は腰を抜かすこともなかった。どこかで、きっとこうに違いないと予感していたことが現実を侵食している。カイトがむさぼっているのは、きっと只今制服制帽の鉄道職員たちが必至で清潔にしている投身自殺した男なのだろう。男の肉体は散り散りかずたずたか物切れかに裁断され、カイトは死の瞬間の男の魂を串刺しにし、美味として味わっている。悪魔がクリームパンやジャムパンで養われるはずはなかった。
「もういいでしょうか」
 おそるおそる、車掌室から声が降ってきた。
「ええ、すっかりさっぱりしました」
 茴は調えた笑顔を返した。彼女は自分が美しいことをよくわかっているので、どこでも、そうしようと思えば、その場にふさわしいきれいな表情で時間をつなぐことができた。
「貧血ですか?」
 車掌はほっとしたように、自分も思わず明るい表情になり、茴に手をさしのべた。
「そう、低血圧で、ときどきね」
 茴は逆らわず男の手をつかんだ。そして淡泊な感情のまま、櫂の死後、成人した健常な異性の肌に触ったのはこれが初めてかもしれない、と考えた。ホワイトカラーの櫂の手は大きくて柔らかかった。この青年もそうだ。
車内へ上がり込む寸前に、カイトの姿を車両上空に探したがもう見えなかった。見えないとしても、彼はどこへでもついてくる。きっともしかしたら銀座でも姿を見せるかもしれない。陽奈にはカイトが見えた。亜咲にはどうだろう。そして銀ブラを楽しむ大衆には、カイト・キメラの姿が見えるのかしら。
「あとどのくらいかかりますか?」
「三十分はかからないと思いますが」
「亡くなった方は男性?」
「それは申し上げられません」
 車掌は笑顔を強張らせた。
 茴は会釈をして陽奈の待つもとの車両に戻った。
「大丈夫?」
 陽奈はしっかりした足取りで帰ってきた茴の姿に頬を緩め、また頭の片隅で、なぜあたしは茴ちゃんについていかなかったんだろうと考えた。介抱してあげるべきだったんじゃない? 
 何か、そのときの茴には陽奈を寄せ付けない感じがしたのだった。蒼白になってうつむいた茴の顔はきれいだった。普段よりもいっそう血の気がひいて、こめかみから頬まで透きとおるように白い。唇だけ紅い。母と姉のはざまでゆったりと陽奈がくつろげる日常の慕わしさには相容れない美しさ。陽奈はきっと怯えたのだ。さらには嫉ましかったのだろう。
茴はしばしば年齢を超えた表情をする。それは古代から現代まで、数々の名画に残る女性たちの顔に共通する何かだった。喜怒哀楽のいずれでもない顔。

フラクタル・ムーン   チェリー・トート・ロードvol5

Posted by 水市夢の on   0 comments   0 trackback

   フラクタル・ムーン

 すっかり積もったよ、という嬉しそうな声に呼び出されて茴は長い廊下を歩いた。踏みしめるたびにかすかな鼠鳴きの聞こえる磨かれた木造建築の床は素足に冷たい。幅一間ほどの回廊は、ひときわ太い柱に区切られたところどころで規則的に折れ、傾斜は天守閣をゆっくりと登っていくようなゆるい爪先上がりだ。さらに、周囲に漂う古い建築内陣独特の黴臭い気流の感触で、ここがどこか非日常的な屋敷の中なのだとわかる。
 第一声はすぐそばで聞えた。誰の声、鶸の声だったろうか。鶸なら施設にいるはずだ。茴を案内してくれる人影は見えない。灯もないが、回廊隅々に翳のないひたひたとした平淡な明るさがゆきわたっている。
(積もったというのは雪かしら、そしたらこれは雪あかりかしら)
 そんなことを考えると楽しくなった。
 空間には古代神殿の廃墟のように回廊から中空へ延びる柱の列だけが見え、壁はない。銀鼠いろの濃淡がわだかまる無彩色の左右には、剛毅な木造建築の骨格だけが茴の視界遠くまでおぼろに霞みながら連なって見える。
「ここですよ」
 やはり鶸だった。いつのまにか目の前には大きな襖障子があり、唐紙には四条円山派ふうの四君子がさらりと描かれている。緻密に描きこんでも清潔な画面を印象付ける四条派の薄から、茴の目の前に、いますぐにでも応挙のなよやかな幽霊が現れそうだ。襖を開けるより画に見とれる茴に、内側にいる茴は苛々と、
「早く来てよ、ひとりにしないで。ここはどこ。誰か来て、こわい」
 ああまた始まったと茴は黄菊白菊から眼を離し、雪の輪型の取っ手に手をかけた。睡眠薬が足りなかったのか、鶸の愁訴よりは応挙の幽霊と出会いたい。だが目の前には失認した母親が嬰児のようにしゃくりあげ、手足をばたばたさせて排尿をせがんでいる。ポータブルはどこだったろう。たしかベッドの脇に置いたはずだ。夕方ヘルパーがちゃんと洗っていってくれた。
「茴ちゃん、ああよかった来てくれた」
 鶸は茴の顔を見ると、涙を吹いてにっこりと笑った。色の白い、眉の濃い小造りな顔はベッドサイドの淡い光に加齢を暈されて、皺も見えず、盛りのままに愛らしかった。
「立てる?」
「ひとりにしないで」
「お母さん、一人じゃないよ。隣の部屋にあたしがいるって」
「でも姿が見えないんだもの」
「あたしだって眠いもん」
「そりゃそうだけど」
「おしっこ?」
「うん」
 茴は鶸の両膝を揃えて立ててから背中と腰に腕を回した。それから仰向けに寝そべった鶸の尻を軸にして、彼女の体をフロアのほうに半回転させながら、自分は中腰になってゆっくりとひきおこした。ヘルパーの所作を真似ているのだが、彼女たちのようにスムーズにはできない。腰にも背中にも相当負担がかかるきつい動作だ。鶸自身も茴の所作が痛みを伴うらしく、両眉をしかめている。だが文句は言わない。
 ポータブルの肘置きを鶸の利き手で握らせ、どうにか立たせてから、これは娘の無遠慮で、パジャマズボンの中を後ろ側から素手で探った。おむつではないが、夜にはリハビリパンツを使用している。体温のくぐもった熱さは鶸の股間に濃かったが、茴の指先のパットはさらりと乾いていた。ほっとする。
「ああ、情けないわ」
「なに?」
「あんたにおしめをあててもらうなんて」
「これおむつじゃないわ」
「似たようなもんですよ」
「激しく違うわよ。いいから、ポータブルに座って、座れるでしょ」
「急かさないで」
 座ってしまうと鶸は急にしおらしく肩をすぼめた。もともと撫で肩小柄なので、うつむいて前髪など掻きあげていると、小さい子供をおまるにさせているような感じにもなる。足首までおろしたズボンとパンツからにゅっとのびる感じで白いふくらはぎが伸び、片麻痺のために、すこし左右の太さが違っていた。
「じろじろ見ないで」
 鶸は眼をとがらせた。
「ごめん」
 茴は重圧のかかった自分の腰をさすりながら後ろをむいた。
「あたし、重い? 茴ちゃん」
「んー、軽くはない」
「ヘルパーさんたちはあたしのこと細くて軽いって言うわ」
 これだ、と茴は内心舌打ちし、自分の背中から手を放した。謝っているのかなじっているのか。とりあえず話題をそらそう。
「お母さん、雪が降ったの?」
「積もったわね」
「カーテン開けていい?」
「いいわよ」
 排尿困難なのか、ここでようやくプラスティックにせせらぎの音。いや雫かな。ほとほと、ほと。おしっこの色を確認するほど深夜の娘は優しくない。
 窓はどこだろう。窓の代わりに煤けた古い襖が見えた。さきほどの優婉な京襖ではなく、ごくありふれた白砂青松に金銀箔の、それでも由緒ありげな、黄ばんだ、ところどころ破れた、馴染みのある埃臭さは。
 あらかた塗りの剥げた取っ手も罅の入った平凡な木枠の円だ。引き開けようとして、茴は悲鳴を抑えた。
 ぷつぷつ、と泡だちながら深紅の湧出が漆の輪の底から溢れ、見る間に襖を汚して流れ出した。襖は四枚ある。どれも擦り切れて芝居の道具のようだ。その引手も四つ。そこからだらだらと緋色の流血が始まっている。
「これ、なに」
 茴の声は震えている。
「ああ、しょうがないねえ」
 しわがれた声。ふりかえると、ポータブルには鶸ではなく、篠崎月さんが座っていた。月さんの顔はベッド側の半分は翳になって青く、茴に近いもう半分は黄ばんで、その両面のどちらにせよ不健康にくすんでいた。
 月さんはばさばさに乱れた髪をして、あきらめたように首を振った。
「膨れんぼうが来たんだ」

 師走に入ると曇りがちの天気が多くなった。朝から上空いちめん雲の蓋に覆われ、昼になっても気温は上がらず、時折の西風とともに香枕の街中になだれこんでくる汐の気配も底澱みして爽やかさを欠いた。
 十二月最初の月曜日の午後、茴は西香枕のケアに入った。午前中のケアが急にキャンセルになったので、気分はゆったりとしていた。
昨夜、福祉コミュ桜沢地区のギャザリングワーカーから、篠崎月さんが大腿骨骨折のために入院し、しばらくケアは休みとなったというメールが来た。ギャザリング、とは人と仕事を集めるという意味合いだろうか。原則上下関係を作らない福祉コミュでは地区ごとのワーカーの元締めを、ギャザリングと呼んでいた。このひとを中心に、地域訪問介護の派遣が回るのだった。
福祉コミュでは、ケアマネージャーの依頼はまず三藤町のセンター事務所ヘ届き、それから地区のギャザリングに連絡が来る。地域に長く住んで経験豊かな、人間的にもそつのないギャザリングは、自分もケア活動をつとめながら、依頼先の高齢者に適切なヘルパーを割り振る。ギャザリングの介在は福祉コミュ独特だが、地域に根差した身近な介護を届けるためには、必須の存在と言える。ひらたくいえば、大昔の口利きおばさんということだが。
膨れんぼうが来たんだ、というあたりでうなされながら飛び起きた茴は、それからすぐに当の月さんのアクシデントを聞いて、予知夢だったのかと思った。夢の中の月さんの顔は、日ごろの円満な温顔とはがらりと変わり、苦しげに険しかった。九十歳過ぎての骨折は大袈裟でなく命とりだ。
おおかたの病院では事故をおそれて怪我人病人を寝かせきりにする。するとてきめんに全身の筋力が衰え、ひどい場合には嚥下能力さえも失って退院してくることもある。肺炎で入院したら、安静第一の療養生活に肉体の機能は却って衰え、自宅に戻ってきたときには食事を飲み込むこともできなくなり、さらに介護負担が増して家族の嘆きの種になったという話は少なくない。
入院前には、歩行器と杖でよく歩いていた月さんは、よしんば順調に退院できたとしても、もとどおり自立できるかおぼつかなかった。茴はしゃっきりした陽気な月さんが好きだったので、悪夢の符号に胸が痛んだ。だが、おかげで余暇は増えた。
 西香枕の午後の訪問先は三時から四時まで一時間の入浴見守りで、一人暮らしの八十二歳の女性だった。鬱傾向にあり、ほとんど外出せず、居間のソファに横たわってテレビを見ている毎日を過ごしているが認知はなく、室内ならば重度の骨粗鬆症の四肢も普通に動かせる。お風呂もほぼすべて自分だけですませている。
茴の仕事はお風呂の準備と後片付け、頼まれれば髪を洗ってあげること。彼女が入浴している間に簡単にリビングとトイレの掃除をすることだった。時間的にはせわしないが、身体介護の負担が少ないので気楽ではある。
「こんにちは、いっぽです」
 呼び鈴が故障しているので、玄関先で大声で名乗る。聞えはクリアだから、茴の声は彼女に届いているはずだ。
「はい、開いてるから、入って」
 甲走った高い声が聞こえた。生涯未婚のまま通した須磨子さんの声には、声帯が枯れ衰えても、どこか少女っぽい硬さが残る。
(開いている、と言っても開いてないんだ、これが)
 茴は通過儀礼的に、玄関脇に置かれたアロエの植木鉢をずらし、ビニール袋に包まれた鍵を取り出した。洒落たファサードの壁面は古色蒼然としかけてはいたが、色石を張ったモザイクで飾られていた。あがりかまちは御影石だ。須磨子さんの家は豪邸とまでは言えないが、造作のひとつひとつがいかにも裕福で幅がひろかった。
 西香枕も湘南地域でまずまずの高級住宅地と言える。高度経済成長期に計画整備された家並みは、いずれも小庭ながら余白がたっぷりとして、数寄屋造りの軒深い、いかにも重厚な昭和建築が眼立つ。庭の植樹もイチイや松など格の高い木が多く、たいていきちんと刈り込まれている。
 バブル期以降いっきに観光地化し、それにともなって地価の高騰ただならぬ鹿香旧市街地では、古い住人は法外な税金を納めきれず、広い邸宅をつぶし手放し、郊外の集合住宅に逃げてゆくが、観光には無縁の香枕では急激な沈没は免れ、おっとりした数十年前の風情を残していた。
 玄関の扉も蝶番の錆ついたぶあつい欅と樫の寄木細工だ。開閉の具合がよろしくないので、鍵が外れても、ノブを握る手にある一定の角度で力を集めなければ開かない。ぎしぎしばたんと、開けるたびに扉は文句を言う。
「あっ」
 茴は口を手で抑えた。こぶりのシャンデリアが天井からぶらさがる小さい玄関ホールには、午前中丁寧にブラッシングしてやったばかりのカイトがうれしそうな顔をして腹ばい、茴を待っていた。一瞬めまいがするが、かろうじて須磨子さんの居室を伺うと、リビングのドアはうまいことしまっている。
おかしいな、あたしには須磨子さんの声が聞こえたのに、と安堵しながらもさらなる疑問に茴は首を傾げる。二枚の古風な厚い扉を貫いて外に届くほど須磨子さんの甲走った声は大きくない、はずなのだが。
そこでカイトはあんぐりと口をあけた。
「森さんでしょ。入ってちょうだい」
 茴は再度眼を剥いた。兎耳ライオン顔のカイトの鮭紅色の口から、まぎれもなく神経質なお嬢さま須磨子さんの声が聞こえてくる。
「早くったら!」
「は、はい」
 反射的に返事をしてしまう。カイトは赤い鏃もとい矢印のついたしっぽで、パタン、と床をたたき、眼を白黒させている茴をうながすように、しっぽの先端矢印で、斜め向こう側のリビングの扉を指し示した。進行方向はあっち。
「あんた、いったい何なの」
「お湯、ちょっとぬるめにして、脱衣場にヒーターつけてくださいよ。寒いわねえ」
 肉食獣の獰猛な牙を備えたカイトの口腔を通して須磨子さんの催促が来る。

「それでケアは無事済ませたの?」
「ばっちり。カイトはほんとに賢いわあ。あたしがお風呂場の準備してるでしょ、その間じゅう台所のほうに行っていた。須磨子さんは必要のないところへは歩かないから、カイトを発見することはないって、この子察してるの。リビングでテレビを見ている須磨子さんにはカイトが見えないし、そのうちお風呂の準備ができて須磨子さんが出てくると、すっと物陰に入っちゃった。まあ、大きなお家だから隠れるところは結構あるの」
「カイトだって結構大きいよ」
「須磨子さんのお家は昔の間取りだから空間デザインがいまどきの建築とは根本的に違うのよ」
 うん、と陽奈はエビフライにタルタルソースをなすりつけながら曖昧な顔でうなずいた。めずらしく早く帰ってきた陽奈と茴はダイニングで夕食を一緒に摂っている。ふたりの足元には毛深いライオンという感じで、ふさふさした毛皮のカイトがのうのうと前足に長い顎を載せて寝そべっている。
「カイトの口から利用者さんの声が聞こえたって?」
「そうなの。でも扉を開けて、ふつうに須磨子さんの声が聞ける距離になったら、カイトは黙っちゃった」
「音声伝達機能不要モードってわけ」
「まあね」
 陽奈は指に自分の皿からエビフライを一本つまむと寝ているカイトの鼻先に向けて、
「カイト、よしよし、これ食べる? ごほうびだよ」
「何のごほうび?」
「茴ちゃんのお守」
「お守なの?」
「それ以外にある?」
 陽奈は疑問のない笑顔で、にやっと笑ってみせた。
「カイトはさあ、やっぱパパなんだよ。茴ちゃんが心配で、あの世からモンスターに変身してやって来たの」
 茴の指からカイトはエビフライをひきちぎり、一瞬で飲み込んでしまうと、一本では不満と言いたげにぶるぶるっと鼻を鳴らした。
「あんた、さっきハンバーグ食べたでしょ」
 叱りながら、茴はうれしい気持ちになって自分のエビフライを分けてやる。兎耳のライオン顔カイトは、原型櫂とは似ても似つかないが、彼岸からの力で自分が庇護されているかもしれない、と想像するのはファンタスティックで楽しい。
「で、帰りにカイトはモノレールにいっしょに乗ったの」
「いいえ、駅で別れた」
「一人で帰れるって? 茴ちゃんカイトがちゃんとここに戻るって確信してたの」
「たぶん」
「いいなあ、そういうアバウト」
「だって大型犬はモノレール乗れないしね」
 いなくなったらそれまでのことではないか、と茴はハーネス替わりに握っていたカイトの矢印しっぽを西香枕駅前で放したのだった。
 冬の夕闇が迫っていた。日中から陽射しのないまま、木枯らしが葉の落ちつくした雑木林の枝のあわいを凄まじく揺すって吹き抜けてゆく。どんよりした大気が動き始めたのなら、明日は雨、その逆に西高東低の冬晴れになるかもしれない。只今茴たちを揺さぶって過ぎていった大風に汐の匂いは希薄で、明日の冷たく乾いた朝を予兆させた。
「まあ、大きい。珍しい子ね」
 おだやかな笑顔の主婦がカイトを暗がりに見つけて近寄ってくる。彼女はつやつやした小型犬を連れていた。シルキーテリアだ。気弱なテリアはカイトを見ると、両足をつっぱってこちらに来るのをいやがったが、上品な主婦はさっさと愛犬を抱き上げ、ものめずらしげに傍に来た。
「初めて見るわ。ほんとに犬って多種類だから。みたところバーナードでもない、ラインベルガーに似てるけど、ボルゾイみたいな長毛だし、ピレネーなら白だし」
「ええと、十年くらい前から限定繁殖された新種なんです。何ていったかな、その」
「おとなしいわねえ」
 主婦はしきりにカイトの頭や首を撫でまわした。
「思い出した、スカイウォーカーです。ほら、スターウォーズのヒーローにちなんで」
「まあ、ぴったりね、この耳」
 主婦が耳に触ろうとすると、カイトははっきりあとずさった。主婦は手をひっこめ、好奇心まる出しのまなざしを申し訳なさそうな笑顔に変えた。いい人だなあ、と茴は思う。  
主婦の胸に抱かれたシルキーテリアはまだ怯えていたが、金色の瞳孔の中央が縦に裂けた眼でカイトが小犬をちらりと見つめると、服従するように、そろそろとしっぽを振り、顔を飼い主の胸に押し付けたままキューンと鳴き、鼻をひくつかせた。
 主婦は臆病な愛犬を抱き上げた片手で撫でながら苦笑し、
「おたくさまのワンちゃん威厳があるわ、名前は?」
「カイトです」
「スカイの?」
 はい、と茴は頷いた。

火曜日、水曜日…それからの日々はなだらかに過ぎていった。火曜日の湯浅さんケアのあと自宅に戻ると、ちょうどスカイプで亜咲からまた得鳥羽島へ来ないかと誘われた。
「もうレパートリーは決めたの?」
 昨今精度を増したスカイプ画像に映る亜咲は真昼なのに瞼の上を紫に塗っていた。
「だいたいね。ドビュッシーの小品と、バッハかな。ところでこれからお出掛け?」
「わかる?」
「その目の周り、ラメすごい」
「これ、ひよこに教えてもらったのよ」
「へえ、あたしにはあの子そんなことしてくれない」
 陽奈は化粧好きだろうか、どうだろうか。健康的な小麦色の地肌はきめ細かくきれいだった。ファンデーションなど塗ったら惜しい肌だと茴は見ている。
「そう? 茴はまだいつもすっぴんなのね」
 亜咲の言葉に微妙なニュアンスが籠る。亜咲は茴の皮膚のきれいさを羨ましがっていた。念入りに化粧を凝らしても、薄化粧の茴の顔の白い透明感は出ないのだった。四十歳というのに、森茴の顔には小皺ひとつない。二十代の肌だ、と亜咲は茴に会うたびに女友達のみずみずしさに驚くほかない。が、そうした内心のやっかみを茴に知られるのは口惜しいので、さりげなく、
「茴はお化粧する必要ないんでしょ」
「そうでもない。口紅くらいつけないと貫禄がないもん」
 それは自慢で、謙遜にならない、と亜咲はのうのうとした茴の返事にいらっとするが、
「ところで、茴、十五日前後ヒマある?」
「土日は基本的にお休みだけど」
「銀座ですてきなパフォーマンスがあるの。ダンスとフルート、水珠のコラボ」
「みづたま?」
「そう書いてある。土曜の午後。あたし、あなたとのセッションに、もうひとりタレント入れたいって考えてるんだけど、このフルートいいの」
「あ、そのはずんだ声、イケメンだな」
「あたり。でも腕もいいよ。千尋関係だもん、お母様も超美人」
「おかあさまって」
「踊りなのよ。ときどきテレビのバラエティにゲストで出てるけど、あなたは知らないよね、吉良娥網さん」
「うーん」
「いい、期待してないから。だから、あなたに彼の腕を測ってもらいたいのね、まず」
 そうきたか、と茴は亜咲の抜かりなさに感心する。だけど、あたしのパフォーマンスなんだけれど、どうも亜咲のやりたい放題にされそう、まあいいか、あたしはあたしの音で好きな曲を丁寧に奏でる。
 亜咲の先回りにむっとしないところは茴のいいところだろう。亜咲がどれだけエゴでかきまわしても乱されないという自信がある。
「いいわ、ちょうど予定ないから聞かせてもらう。千尋先生の弟子筋なら、まあ」
「弟子ではないけどね、交流はあった、という程度、千尋はフルートとの共演を嫌ったしね。だからつまりそうね、年下の友人。あたしこれから実は彼に会いに行くのよ」
「へえ」
 新しい恋人なのかしら、と気を回したくなる茴。亜咲はあっさり言ってのけた。
「出演交渉よ」
 茴は開いた口がふさがらない感じだった。まだわたしはOKしてないぞ、演奏を聴いてもいないのに。
「亜咲、わたしまだ了解してないわ」
「絶対気に入るわよ」
「ギャラ出ないかも」
「あたしと豹で集客するから」
 それなら話は別だ。社交家の亜咲は一定数の客をつかんでいる。亜咲の口振りから察するとフルーティストも相応のタレントのようだ。
「彼、名前なんて言うの?」
「吉良豹河。知らないでしょうけど、ジャズピアニストの丸茂譲の息子」
「本人も母親も父親も知らないわね…で、いくつ」
「二十一」
「ちょっと、若い」
 千尋が亡くなったのは一昔前だから、交流も何も、今二十一歳というフルーティストは当時まだやんちゃな児童だったはずだ。茴の躊躇を亜咲は快活に蹴とばした。
「活きのいい子も入れましょうよ」
 亜咲がマスカラで伸ばした黒い睫毛をばちり、とウィンクしたところでスカイプは突然切れた。亜咲は強引だが無礼な女ではないから、電波かパソコンの具合が悪いのだろう。切れてくれて茴にはちょうどよかった。吉良は亜咲の男友達のひとりらしいが、ここまで彼女が執着するなら呑むしかない。
 ふうん…やわらかい溜息は自分のものではなかった。椅子の脇に垂らした左手の甲にくい、と湿った鼻を圧しつけてカイトがすりよっていた。ぴくぴくと兎耳が茴の眼下で訴えかけるように動く。
「何?」
 カイトは亜咲の膝に前足をかけて、顎をしゃくった。寝室のほうだ。
「お稽古しろってこと?」
 カイトは眼を細めて薄く笑ったようだった。茴はカイトの耳に触らないように、くりくりとけものの頭を撫でてやった。そういえばカイトの地声、というか吠え声を聞いたことがない。カイトがこの部屋に出現して以来聞いた声といえば、甘えるような鼻息と溜息、驚嘆すべきは利用者さんの声の媒介だけだ。
「あなたってどんな声なの?」
 椅子から降りてかがみこみ、カイトの顔の前に自分の顔を真正面に据えてまじめに尋ねると、カイトはぷいと横を向いた。これだけの図体なのだから、きっと凄い咆哮が太い喉から放たれるはずだが。
「櫂さんの声でも伝えてくれないかしらね」
 つぶやいたが、カイトは知らん顔のまま立ち上がり、足音を立てずに悠々と寝室へ行く。
 十二月第三週の水曜日には三藤町の「やすらぎ」でクリスマス会がある。そこではソロで小さい童謡を何曲か弾く。たまたま水曜日で、ちょうど母親の家族対応のために午後いっぱい「やすらぎ」に詰める日なのは好都合だった。
浜辺の歌、赤とんぼ、故郷、四季の歌、この道。これらは認知症のかなり重くなった高齢者でもよく歌える。不思議なことだが、失認し、文字が識別できなくなったひとでも、幼いころ歌った唱歌はうたう。とてもたのしそうに歌ってくれる。そしてジングルベル、きよしこの夜、グローリア、グノーのアベマリア。グノーはもう茴自身の楽しみのために奏でる。
 今回で二度目の「やすらぎ」クリスマス演奏会聴衆の半数は、クラシックの名曲を味わう認識能力を失っている。かなしいことだが事実だった。意識が鮮明な若かりし日は、財力に恵まれたここの入居者は相当に、嗜みと教養を備えたひとたちだったろう。年末のお楽しみ会に通常シフト外の臨時で狩り出される施設職員たちは、メダカちゃんにせよ誰にせよ、会場に集まった重度要介護者のケアにつききりで、心澄まして弦楽器の音色を味わうことなどできない。
 それでも、茴のチェロの音を聞いて大喜びする入居者さんも少なくなかった。演奏中に席を立って近づき、いきなりぺたりと楽器の表板にてのひらをあてて
「震えてるわねえ」
 と幼児のような笑顔を見せたひともいた。曲想はわからないが、演奏者の心を映す音色はきっと聞こえている。
 クリスマス会より来年四月、イースターのころに作るパフォーマンスの下準備をもう始めなければ。亜咲はロマン派のテクノモルフィックな断片をランダムに弾くかもしれない。ほとんど芸当、それも奇芸としか思えない。あれこれのソナタやコンチェルトの楽譜を恣意に継ぎはぎ、切れ目なく弾いてゆく。いいとこどりといえばわかりやすいが、才気走った亜咲は曲の抒情的なムーヴメントが有機的にクレッシェンドしてゆく頂点手前で、いきなりポップスの、たとえばビートルズのイエロー・サブマリンなど叩きはじめる。
 それは洗練されたコラージュとも思えなかった。無意味に、気まぐれに繰り出される音楽の断片は、あたかもシュレッダーに粉砕された感情のパッチワークのよう、でなければ音楽のめちゃくちゃなチャンネル回し、と茴は亜咲の仕業をながめた。
 千尋忠由が教えたのだろうか。が、いいとこどりは亜咲の性格の本質だから、彼女は自力で舞台幻想を塗りつぶす手品を覚えたのだろう。奇妙奇天烈意想外、それもパフォーマンスのだいじな華だから茴は否定しない。
でも茴はドビュッシーの繊細であやしいハーモニーを好む。水面に滴らせたひとしずくの水彩絵の具が、ゆるい波動につれてゆらゆらとマーブル模様に拡がってゆく。彩りは海の碧、aquarell、みどりを奏でよう。海ではなく、あれはモネの睡蓮から発想した楽曲だったろうか、それはそれで。

「急で悪いんだけどさ、明日金曜の午後、森さん空いてる?」
 木曜日の朝、桜沢地区ギャザリングワーカー向野さんから携帯に連絡が来た。
「午前中仕事がありますけど、午後は場所によっては一時くらいからなら」
「ほんと悪いんだけどさ、いつも入ってるワーカーがぎっくり腰になっちゃって、もうあたししっちゃかめっちゃかで代わりを集めてるの。いろいろお忙しいとは思うけれど、何とか行ってもらえますか、ほら、あなたも一時ケアしてた矢田部さん」
「ああ、退院してこられたんですね」
 会計士の矢田部冨美男さんは心臓弁膜症、糖尿病、肝臓障害、などなどこじらせ長期入院をしていた。この入院前、まだかくしゃくとしていたころに茴は家事介護で矢田部さんの昼食づくりを務めていたことがある。
八十五歳、長身痩躯でダンディだと桜沢地区ヘルパーには人気があった。ただし頭の良いやり手自営業主矢田部さんは使用人を選ぶ感覚でヘルパーの好き嫌いが激しく、ただでさえ人手の少ない現状では、ギャザリングの向野さんは人材の工面に四苦八苦したそうだ。
「あのころだって大変だったのに、今はもっと介護度が重くなってるのよ。でも意識はクリアでさ、余計こっちは気骨が折れるっていうか。資格持ってないと身体できないしね」
 向野さんは半泣きのようにこぼした。福祉コミュでは無資格から活動できるが、家事援助以外に、利用者さんの身体をケアするためにはヘルパー資格が最低限必要だった。以前の矢田部さんは家事介護だけを利用していたのが、今度は入浴排泄食事の介助が必要になっている、ということなのだろう。確かに、プライドの高い高齢男性にとって、女性ヘルパーから慣れない身体介護を受けるのは、ただの羞恥心以上に、はっきりと心理的な苦痛があるかもしれない。
  幸い茴は昨年介護福祉士に合格、登録していた。福祉コミュでは国家試験に合格したからといって分配金や待遇があがるわけではない。いい意味でシンプルな達成感のため、またケアのスキルアップのために、福祉コミュのワーカーはさまざまな資格取得を奨励されている。茴はまた、いずれガイドヘルパーの資格も取りたいと考え始めている。視覚聴覚障がい者の支援にも関心が芽生えていた。
「矢田部さんのところにはどのワーカーが入っていたんですか?」
「ベテランよ。澤田さん。矢田部さんのところに行ってもらうんじゃあ、弱っちいひとだとすぐめげるからね。あなたなら大丈夫」
「はあ」
 それにしても急なことだった。澤田さんのあと別なワーカーが仕事に入って、矢田部さんの気に入らなかったのかもしれない。茴は代打のそのまた代打あたりかもしれない。
 矢田部さんは、世間でひそひそ噂されるヘルパーへの陰湿な乱暴行為などは決してしない往年の紳士だが、糖尿と脳溢血の発作を繰り返すうちに、いつからか易怒性格になり、ささいなことで声を荒げたり、ヘルパーの視線では洞察しえない何かのきっかけで、不意に端正な顔を形相おそろしくゆがめたりするので、もともとの人気はあるものの、その一方、修羅場を経験しない福祉クラブのおっとりした主婦ワーカーたちから、怖がられているらしい。

カイト・キメラⅡ    チェリー・トート・ロード vol4

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   カイト・キメラ2

「それで茴ちゃんはどう答えたの?」
 レーズン・ウィッチの真ん中にかっちりと前歯をあて、笑うような表情をつくって陽奈はビスケットを噛み砕いた。レーズン・ウィッチは水曜日の施設訪問手土産の自宅副産物だった。
毎週水曜日は昼食から午後五時まで茴は母親について、食事、排泄、入浴介助、また車椅子あるいは杖での散歩など、ふだん職員が担当している介護ケアのいっさいをすませる。介護保険を利用してヘルパーを頼むことはできるが、施設費用とヘルパー利用料は別だ。五時間分の節約と寂しがりやの母親への思いやりだった。
「あたしが帰ってきたとき、ぜんぜんそんな深刻な状況には見えなかったよ」
「深刻じゃないわよ。ていうか、お母さんは
あなたがお弁当持ってきたら、もうすっかり忘れちゃって…まあ、いつものことなんだけれど」
 陽奈は近所のスーパーではなく、王船まで松花堂弁当を買いに行ったのだった。「やすらぎ」の三度の食事はなかなかおいしい。老病人相手の調理なのでだいたいにおいて味は薄いが、もとは濃い味志向だった鶸も、片麻痺の今となっては文句は言えない。それでも茴たちが見舞う水曜日だけは外食の味をあげたくて、ちょっと贅沢な懐石弁当を買うのだった。ずいぶん歩けるようにはなったが、すぐ近くの香枕王船の街を散策できるほどではなかった。
 彩りあざやかな弁当箱を開いたとたん、鶸の頭から茴の縁談などは飛んでしまった。茴も面倒だから蒸し返さなかった。世話焼きの百合原香寸が何か言ってきたのだろうかと想像したが、彼女の親切心はそういう方面に発揮されることはないはずだ。
「じゃ、作り話ってことかな」
「まあねたぶんね」
「お母さん茴ちゃんのこと心配してるんじゃないの」
「まあね」
「パパが亡くなってもう二年?三年になるんだから、あたらしい恋人できたって誰も非難しないよ」
「たぶんね」
「てゆーか、あたし茴ちゃんこっそり見つけてるんじゃないかと思ってた」
 まあね、と言いかけて茴は目を剥き、ふるふると首を振った。ティー・ポットからアップルティーを注ぐ一息おいて、
「残念ながらアルコールフリー」
「酔ってる場合じゃないって?」
 ころころと陽奈は笑う。木曜日の午前十時、この時間まで自宅でごろごろしている彼女の今日の講義は午後からということか。素顔の娘の頬や手首のすがすがしさに茴は目をとめる。茴の話などよりこの子こそどうなのかな、と探りたくなるけれど、これはただの人情で、母親ごころというものではない。
「もう多少酔っぱらってもいいんじゃない。まだ若いからねえ」
 いきなりしたり顔のおばさん口調で同情されて茴は口に含んだ紅茶を吹きそうになる。陽奈はけろけろと続ける。
「茴ちゃん、継子のあたしにもやさしいし、美人なんだから、セールかければ売れ行きいいんじゃない」
「なんだそりゃ」
 ままこにセール。つまりあたしは継母か。
「ままはは、ってこわい語感じゃない?」
「そぉ? ママと母とミックスで、悪くないと思うよ」
「けど、セールって褒め言葉になんないよ」
「まあね」
 陽奈は茴の口癖をむしりとる感じで、にっと笑った。自分の意地悪を承知しているつやつやしたもうじき二十歳の笑顔を眺めると、小憎らしさにむかっ腹がたつよりも、茴はへのへのもへじ気分になる。まあね、この子たちなら早生か先走りなんだろうけれど、あたしは旬とは言えないよね。四十代、中年直球どまんなか。事実はストレートにうけとめよう。剛速球ではないにせよ、時は過ぎてゆく。でも、
「安売りしないよ。冗談じゃない」
 でも、と茴は二つ目のビスケットに手を伸ばした陽奈に
「お菓子ばっかり食べないでちゃんとごはんにしなさいよ。太るわよ。お父さんみたいにリンゴ腹になったらどうすんの」
 とたんにぱっと陽奈はクッキーを離した。風をうかがう小動物のように小鼻に皺を寄せて茴を上目に見て
「ふうん。まあだパパのこと覚えてるんだ」
「もちろん。だからね、あたしは人間の男といっしょになるより、大型の動物、いや怪物と暮らしたいって思うことがあるわ」
「犬とかじゃなく?」
「犬だけじゃなく、いろんな種類の動物が混じり合った人間大の、強烈なキャラ」
「スフィンクスとかウナギイヌとか? 茴ちゃんらしいけれど非現実だ」
「現実ってちょっと酔っぱらうには面倒なことが多いの。ウナギイヌじゃあ小型よ」
「そうは思えない」
「どっちのこと?」

 この日の午後は月末の最終週なので、三藤町の福祉コミュ総合事務所で月例会議があった。月に一度、香枕王船エリアのワーカーたちが集まって、月ごとの活動を知らせ合い、簡単な研修、連絡、交流をする。家事介護は基本的に自宅から各利用者宅への直行直帰なので、月例会または新年会でもなければ同僚と会うことはほとんどない。せいぜい近所のスーパーで顔を合わせたりすることがあるくらいだ。
 茴が福祉コミュに参加して数年たつが、ワーカー仲間と茶飲み友達以上のつきあいをすることはなかった。メンバーは一番若くて三十代後半。最年長は七十代もいる。子育ては一段落し、子供たちが手を離れていったあと、ぽこんと生じた時間の余白に、地域奉仕の福祉コミュの輪が入った。余白の労働で得られる金額は多くないが、地味で、かつ汚れ仕事ばかりの介護など、芯が強く優しくなければ続かない仕事だから、あえてこうした活動を選ぶ主婦たちの心の充足は、人生にとってかけがえのないものであるはずだった。
 労働ではなく活動。福祉コミュの基本理念は非営利なので、仕事の代償として受け取る時給は賃金ではなく分配金、さらに自分たちは金稼ぎの労働者ではなく〈ワーカー〉と呼び合っていた。
「帰りがけにひきとめられて…。おことわりするのも何だから、いただくんですよ」
 六十前後のワーカーがぽつぽつと温和な声で話す。茴も顔見知り程度に彼女を覚えている。いつも会議の最初にひとわたり、それぞれの名前と活動地域を告げる自己紹介をするのだが、名札でもつけていないかぎり、出席者の名前を最後まで覚えているのはむつかしい。月例会が始まって一時間。茴もすでに、いったん耳にした彼女の姓名を忘れている。月にいっぺんの顔見せ会議の席は、事務局の役員でもないかぎり、同じ顔ぶれにはならないからだった。
二時間ほどの月例会では通常の報告のあと、ケア活動について懇談の時間を設けている。出席ワーカーの困ったこと嬉しかったことなど自由に話し、その経験をみんなでシェアする。
「いただいたっていいんじゃないですか?その方にとっては、お茶するのもワーカーとのだいじなコミュニケーションの一環ですからね。ただ時間的にあんまり負担にならないようにしないと」
 会議を束ねる事務局理事が発言者に劣らずおだやかに応じる。彼女も六十代半ばだろう。
福祉コミュでは四十代はまだ若手でとおる。ここで主力となって高齢者福祉を支えているのは子供をちゃんと育て上げ、自然に夫とも距離を抱え込むようになった五十代六十代の意識性の高い主婦たちだ。
 発言者は目じりにいくつも健康な笑い皺を作って、困惑したような、嬉しいような、曖昧だが明るい表情を見せた。
「それがね、こないだはそのお菓子、おまんじゅうだったんだけど、食べかけたところで包み紙を見たら、賞味期限がねえ」
 ああ、と会議室に集まった一同は終わりまで聞かずに微苦笑でさざめいた。
「去年の十一月何日かまで、だったんです」
「ええ、じゃあ丸一年?」
「そう、ちょっと固いなって思ってたんですけれど、ごそごそしてるし味も乾いてるし。でも吐き出すわけにもいかないんで、飲み込んじゃった」
「あら、おトイレに行くとかすればよかったんじゃない?」
 発言者斜向いのワーカーが笑いながら口をはさむ。彼女は七十代だろうか。福祉コミュ創立のときからの古株のひとりだった。理事もうんうんとうなずいている。
「そのときは智恵がまわらなくて、相手を傷つけちゃいけないってまず考えちゃったんですよ。だからお茶を飲んでぐいっと」
「まあ、やさしい。ワーカーの鏡ですよ、その気遣いは。お腹こわすほどじゃないわね、それぐらいじゃあ。生菓子じゃなかったんでしょ?」
 古株さんは動揺のない声で受ける。進行の理事よりすばやく対話の舵を取れるのはやはり伝統的な年功かな、と茴は眺めている。
「もとは生だったんじゃないかしら。もう一年間菓子箱のなかにあったから、すっかり乾いてミイラ状態で」
「お砂糖は腐らないから大丈夫。よくあるのよ。羊羹を食べきれないで何年もとっといたりね。干菓子と思えば気分もなおらない?」
「さあああ」
 若干あ音が一呼吸多いあたりに、発言者のワーカーと古株さんとの腰の据わり方の落差が知れる。この程度は愛嬌だった。認知症が進行すれば味覚がなくなるから、一人暮らしの高齢者などは、ひょっとすると腐った惣菜を捨て忘れ、そのまま口にすることもある。いや、この程度なら、なおディープ介護の底には遠い。「いっぽ」が受けるケア訪問ではそれほど崩壊の深淵は見なくて済むが、鶸の世話になっている「やすらぎ」では日常茶飯に起こりうることだ。
「それで、そのことを利用者さんにお伝えしたものかどうかって、迷って。傷つけてはいけないでしょ」
「そうそう、高齢者の皆さん、プライドが高いですからね。でも申し上げないわけにはいかないわねえ。だってその方完全な認知、この言い方も変だけど、そんなに混乱しているひとじゃないですもんね。他にも痛んだ食品がたまってるかも」
「それそれ、あたしが心配なのもそこなんですよ。おひとりでしょ、ご家族は月に一度くらいしか寄らないし、自立してらっしゃるからほんとにご立派なんですけれど、そろそろもう落ちてきてもおかしくない」
「おいくつでしたっけね、その方」
 理事がようやくハンドルを握る。
「ええと、まだ九十歳にはなってない。たしか八十八、九」
「うーん、むつかしいですね。なんといっても自尊心がおありですからね。婉曲的にお伝えしたほうが。冷蔵庫のなかみなんかはどうなんですか」
「配食サービスを利用されてて、わたしの場合、調理は電子レンジでチン、です。だからあんまり点検してみることもしなかったんですけれど、今度お許しをいただいて、調べてみたほうがいいでしょうか」
「そうですね、ただその理由をソフトにお伝えしないと」
「あたしも似たような経験あります」
 茴の隣のワーカーがはずんだ声をあげた。
「あたしは帰りがけにチーズケーキの包をいただいたんですけど、家で開けて見たら、発酵してて」
 ざわわ、と棕櫚の梢を揺するような会議出席者の控え目な笑い声。
「それであなたどうしたの?」
 古株さん。彼女はグリーンのセーターとカーディガンのアンサンブルに、くるぶしまでのベージュのロングスカートを穿いている。エレガントでさえある服装に反して、靴は用心深く底の厚いウォーキングシューズだった。彼女はさすがに訪問介護の第一線からは退いて、自動車の運転能力を生かし、デイサービスの送迎などを担当している。ワーカーたちは皆、この集団の作り出す雰囲気を壊さない程度にアクセサリーをつけ、化粧をし、地味だが…この単語はもしかしたら福祉コミュの雰囲気をよく表現するかもしれない…あくせく働く雰囲気には遠い、ささやかなおしゃれで身を飾っていた。
 介護従事者としては、本来ならいけないことなのだろう。ネックレスもイヤリングも、石のはまった指輪など、相手の体を傷つけるおそれがあるから。手と指、爪の清潔を保ち、調理をする場合にはマニキュアも基本的にしない。ユニフォームはないが、グループごとにおそろいのエプロンをかけ、控え目な日常着でケアに入る。今日は月例会だから現場ではない。だがほとんどのワーカーは、この前後にどこかの訪問を入れている。
 重度身体介護をのべつまくなし働かねばならない「やすらぎ」でさえ、女たちは自分をあざやかに見せるものをひとつかふたつ、きっと工夫していた。 

 月例会は定刻の四時を過ぎて終わった。出席者の中では茴が一番若いので、世話役の理事ではないが、湯呑茶碗や菓子皿などの片付けを手伝う。帰り支度をしたり、また事務所に残って仲良しと歓談し続けているワーカーたちの動作を眺めていると、時の流れのなかでそれぞれの老いに向かって、自然なよいかたちでまとまってゆく温かさが感じられた。そうすると、反射的に思い返されるのは亜咲であり、また自分自身だった。
「森ちゃん、いつ見てもスリムねえ」
 事務所の誰かが声をかけてくれる。聞き覚えのある声だが、顔は思い浮かばない。痩せているのがワーカー同士なら、まだ褒め言葉になる。微妙な感じだ。高齢者の身体介護をいくつか経験した茴は、痩せ細り、やつれたひとのいたましさを心に刻んでしまった。それは若いさかりに罹る摂食障害による痩身などとは異質な、静かで残酷なオブジェだった。この場合、感情を除くためにはオブジェ、と形容したほうがいい。生きているものの優越感を茴の視線から除くために。わずらわしい思考回路だが、美術と音楽を半端に蓄積した茴の海馬ゆえにいたしかたない。病み衰えたひとの肌をぬぐうとき茴は優しいが、骨と皮膚のつくる陰影の微妙を幾何学に移し替える視線をつくってしまっている。それは冷静になるための、一種の自己防衛でもある。
 介護に携わってから、茴の作るパレットの彩は柔らかく、さらに優しくなった。おそろしいものを見通してしまったために。病気も老も、死も文学的絵画的なおもちゃではない。
「彼女はガラス食べて生きてるんでしょ」
 ガラス? 誰だこのろまんちっくすぎる不自然な形容は、と振り返ると、それも古株さんのひとりで、こちらは目にしみるような真っ赤な合成皮革のベストに、白黒豹柄のタートルネックを着ている。かなり威厳のある体型をものともせず、ボトムは大胆にもべロアふう光沢のある黒いスパッツだ。さらにベストと同じ色のフラットパンプス。両耳にはルビー色のティアドロップピアス。ショートカットのヘアはオレンジ色のシャギーに決め、目張り口紅しっかりと、言わぬが花の御年も、このひとぐらいになると褒めてもらえるおそらくは最年長の七十五歳、現役ワーカーだった。もちろんハードケアには入らず、介護度の軽い高齢者の外出介助、通院の付き添い、茶飲み相手、またイケイケの外見どおり自動車の運転が得意なので、送迎などもできる。名前は忘れたがこのひとも福祉コミュたちあげからの〈顔〉だった。
「ガラス、ですか」
 おずおずと肩をすくめる茴はこのひとがちょっとこわい。彼女は茴が「いっぽ」の新人として参加し始めたとき、福祉コミュにもようやく孫と同じ年の若い子が入るようになったとよろこび、いっとき事務所で会うたびに傍に来て、茴の髪や腕をしきりに撫でまわし、困惑する新米を無造作におもちゃにしたのだが、やがて茴の実年齢がわかったとたん、彼女の茴への関心は八割がた消えた。彼女の孫、というのは大学生だった。茴は三十六だったから、十五歳ばかり若く見てもらえたわけだ。
「ガラス食べられませんよね」
 ばかみたいな返事だが、目の前の女史の圧倒的な色彩感&存在感にたじたじとなり、ひたすら笑顔でへらへらとかわす。女史は茴をハナエモリのロゴのついた金縁眼鏡ごしにじろりと見て、
「あなたまた演奏会なさんの」
「ハイ、来年」
「それじゃクリスマスなんてどう、お忙しいかしら?」
「そうでもありません」
「イブ当日じゃないんですけどね、「やすらぎ」で毎年クリスマス会あるでしょ。あのときいつも出演してくれてるヴァイオリニストがだめらしいんで、あなたどうですかきよしこの夜とかジングルベルとかグローリアとかわかりやすい歌弾いてくれません?」
「え、いいですよ。あたしでよければ。都合つくなら友達のピアニストも連れてきます」
「ピアノ? 電子ピアノなら調達できます。ただギャラは出ないの」
 女史は口紅をきっちり塗った唇の両端をつり上げてにっこりと笑った。茴はふと、三島由紀夫ならこういうひとをどんなふうに形容するかなあ、などと考えてしまう。三島由紀夫は加齢に対して酷かった。『豊饒の海』四部作の最終巻「天人五衰」を読んだのは高校生のころだが、思春期のただ中だったのに、老醜に対する作家の叙述の苛烈に茴はたじろいだ記憶がある。
中年を過ぎると、化粧するたび女は皺を鏡のなかに捨てる。いいではないか、と思う。自分の見苦しいものをナルシシズムの鏡に捨て去り、華やかに日常に立ち上がることができるのなら、老い衰え、死のその日までうつくしく化粧を続けるのがいい。
ごとんごとんとモノレールが揺れる。高架線から吊られた銀色の箱は、すっかり夜に沈んだ町を見下ろすかたちで、ゆっくりと走ってゆく。三藤町、松井駅、それから湘南桜沢。
松井辺は片側の山手がとっぷりと暗がっていて、裾回り数軒の人家の窓明かりから離れて、紅葉の残る小山の中腹にうすぼんやりと青白い電燈が見える。松井公園の常夜灯だろう。
(月さんどうしたかな、またあの子来てるのかな)
 そうだ、篠崎月さんの家で青い服のレビーちゃん、いやメグさんに遭ったのは、まだ今週のことだったっけ。今五時半だから、どこかのヘルパーが来て夕ご飯の介助か、でなければ息子さんが付いているかもしれない。木曜日はたしか「いっぽ」ではなく別な事業所の担当だったと思う。ヘルパーも息子さんも月さんの食事、排泄、就寝まで付き添い、夜には月さんひとりで古家に眠る。フランス風出窓のついた、朽ちかけた木の匂いが漂う寝室。遮光カーテンに集まった埃が黴臭い部屋。そこに毎晩、月さんの枕元に青い服の美少女が出現するのかと想像すると、寂しい心が慰められた。なぜ寂しいの?
(ひよこはじきに飛んでくなあ)
 義理の娘に依存しているわけはないが、これから帰っても夕食はひとりだ。会議のお茶菓子で小腹が満たされ、食欲はあまりない。櫂がいたころは、あちら中心に食生活が回っていたから、死後三年たっても、茴は帰り道には律儀にチェリー・ロードでお惣菜を買おうとしてしまう。今夜は鯵の開きに切り干し大根の煮物でもしようか。
陽奈はバイト先で済ませてくるだろう。そういえば、彼女のバイトが何なのか知らない。どこで働くとか言っていたけれど、ああそうそう、と聞き流してしまった。櫂だったらきっと目くじらをたてることだろう。やっぱりわたしは血のつながらないままはは。

「この子、何?」
「何って言われても…」
 バイトから戻った陽奈はリビングのカーペットにながながと寝そべっている異物を見て息を呑み、それから壁の鳩時計に眼をやった。十時半。
鳩時計は鶸の家にあったもので、彼女が「やすらぎ」に入所するときこちらへ移した。手作りの一品物だが、もう三十年近く働き続けて、時間は狂わないが定刻のたびに両開きの窓から飛び出す鳩は、九時であろうと十時であろうとたったいっぺんきりになっていた。鳩も年をとったということだろうか。ポッポ―、という一声はすべすべした木彫りの姿にふさわしく、まだ枯れもせず可愛い。
 リビングで茴はカーペットの上にクッションを敷いて横座りに膝を崩し、重ねた彼女の片膝に大きな顎を預けるようにして一頭のけものがいた。
「茴ちゃん、拾ってきたの?」
 陽奈は肩から帆布のザックをはずしてダウンジャケットを脱ぐと、カーペットに両手をつき、まるで彼女自身が大型犬になったような四つん這いの姿勢でそろそろと茴とけものに近寄ってきた。
ダウンの下に陽奈の着ているモスグリーンとクリーム色のセーターと、茴の膝で眼を細めているけものは偶然だが似たような毛色の背中をしており、けものの体温で膝をあたためられている茴は、這い寄る陽奈の背中とけものとを見比べ、ちょうど背中の面積が変わらないことに気付き、まるで大きな双子を自分の周囲に引き寄せているような気がした。ハイハイする、毛深い、可愛げのある巨大な四足の双子。
「拾ったんじゃないの、家に帰ったらこの子がいたのよ」
「わけわかんない。ロック解除して動物が勝手に上がり込んでいたってこと?」
「そうよ。あたし、六時に戻ったの。ちゃんと鍵を開けたわ。玄関からリビングに入って…」
 いや、その前に洗面所に行ってうがい手洗いをした。それからキッチンで晩御飯のおかずとして買ってきた惣菜を並べ、それからリビングルームを通り、自分の部屋に入った。
以前は夫と茴の寝室だった南面の部屋。そこにはまだシングルのベッドが二つあり、あるじのいなくなった片方の寝台は、チェロケースと楽譜、それから古い人形ぬいぐるみなどの無造作な置場になっていた。部屋は真っ暗だ。リビングの明かりもドアを閉めてしまえば届かない。リモコンで天井灯を点ける。
 黒いチェロのハードケースの周囲に、イミテーションと本物とりまぜたテディベアのぬいぐるみがいくつもある、はずだった。見慣れた安全な光景の中から、大きな首と前足を伸ばして茴の視界に立ち上がってきた獣が見えた。はう、という荒い呼吸のような唸り声が聞こえ、次の瞬間茴は床にあおむけに押し倒されていた。けものは無邪気に茴に全体重を預けて飛び乗り、茴はふんわりと腰から崩れるように転んだ。おかしい、とケアで鍛えた介護の常識が茴の脳裏を走った。こんなにゆっくり倒れるはずがない、この状況では背中と腰を思いきり床にぶつけるはずだ。
 わ、と茴はいちおう声をあげてけものに抗議してみせたが、恐怖もおどろきも皆無なので叫び声に迫力がなかった。
「あんた、どこからどうして来たの?」
 うん、とけものは茴の鼻先に湿った鼻を圧しつけて茴の匂いを嗅いでいる。顔はライオンに似ているがたてがみはない。真上にぴんと伸びた両耳はうさぎのように長く、両眼は大きく、つやつやした金いろの長い睫毛が生えている。猫の顔に生えているような毛は触覚かもしれない。大きな眼は睫毛より濃い蜂蜜色で、その中心に山羊のような楕円の瞳孔が黒く上下に裂けている。顔の毛色も金いろで、撫でてみるとふくふくと指を吸い込む毛並が厚く柔らかい。首筋から背中にかけて金色は光沢を抑えたクリーム色に変わり、モスグリーンにところどころ金茶色を混じえた虎毛に変わっている。顎から首にかけて、たてがみではないがふさふさとした長毛が伸び、そのままずんぐりした感じで胴体につながっている。
「あんた重いわよ、大きいなあ」
 未知との遭遇なのにちっとも驚かないのは『隣のトトロ』の薫陶のおかげかな、と茴は吹き出した。
(これ、ほんものかなあ。月さんじゃないけれど、あたしもひょっとしてレビー小体症候群なのかもしれない)
 ついさっき、モノレールの中で篠崎さんのことを考えていた茴は、突然出現した幻獣が実体なのかどうか自信がなかった。
 けものは、自分をしげしげ眺めて驚きもせず、妙な顔をしてただ首をひねっている茴の片頬を、いきなり長い舌で舐めた。ピンク色で表面がざらざらしており、外から帰ってきたばかりの茴の頬にはけものの粘膜がひどく熱く感じられた。動揺に冷や水を浴びせられるのとは反対に、せわしい呼吸を鼓膜に感じ、茴は喰われるんじゃないかと上半身をひねって脱け出そうとするが、けものはぼってりした二本の前足で茴の膝と肩をおさえつけ、しきりにふんふんと匂いを嗅ぎまわる。
顔をしかめながら、兎耳がなければ変種のレットリバーではないかと茴は眺めたが、しつこくべろで顔を舐めたがるけものをどうにか肘でおしのけ、自由になった片腕でけもののむくむくした首にしがみついた。おとなしく茴の腕に背中を預けたけものは、人間を喰うつもりはないようだった。
(お腹がすいてるんだ。何か食べさせてみよう。そしたら幻か実物かわかるわ)
 よしよし、とけものの耳を撫でてみる。ぴくんと耳は敏感に動いて、茴の手の先を逃げ回った。耳に触られるのは嫌なんだとわかり、けものが大人しいので、ふさふさした首の体毛を握って、
「こっちに来て、ほら、ごはんあげるから」
 キッチンまでけものはちゃんと茴についてきた。かしこいなあ、と感心する茴に警戒心は消えている。第一これが幻ならば物理的に怪我をする恐れはないし、実体ならばこんな動物は見たこともないからきっと実体ではないに違いないと確信していた。
「でもあたしにも見えるよ」
「そう、それにこの子ちゃんとご飯食べたのよ」
 陽奈と茴は示し合わせたように、意味もなく深く頷き合った。
「こいつ、何食べたの」
「ジャムトーストとぬるめのホットミルク、バナナ、プリン、バターのかたまり。陽奈が昨日食べ残してたピーカンパイ」
「あ、それ今夜これから食べようと楽しみにしてたのにぃ」
「全部食べちゃったわよ、この子。トーストは六枚切り二枚ペロリ。雑食みたいね、よかった」
「よかったって、茴ちゃんまさかこいつを飼うつもり?」
 陽奈は二重の眼をさらにおおきくまるくした。ナイスなオドロキ顔は櫂にそっくりだ、と茴は眺める。ほとんどぐずつきのない今夜の気分は涼しい。暖房があるから涼しい気分は快適だ。
「だってどうするの。こんな子保健所に連れてったって引き取り手なんかいない。すっかり大人でしょうから。どう考えても殺処分」
「待ってよ、この子、犬、なの?」
「たぶんね」
「耳長いよ」
「変種? 改良品種かも」
「どこから入ってきたのよ」
「さあ、窓からかしら」
「戸締りはどうだったの」
 これがこうでこうだから、と理詰めで陽奈は押して来る。茴はかわすともなくへらへらと応じ、自分の都合のいい結論に持ってゆく。
「玄関は閉めたけど、窓はどうだったか覚えがないなあ。だってここ五階だから窓のチェックなんていらないでしょ」
「それはそうなんだけど、犬や兎は空飛ばないよ」
 陽奈は泣き声にも笑い声にも聞こえる声で言った。
 すると、茴の膝で半眼を閉じてまどろんでいたけものは、ぴくっと両耳動かし、長い、睫毛を震わせてかっちりと眼を開けると、陽奈のほうをふりあおぎ、ぶるぶるっと全身ふるわせてたちあがった。
「あ、しっぽ赤い」
「ほんと、バイキン君のやすり型しっぽじゃない。シュールだなあ」
「茴ちゃんどうしてそんなとろいの」
「どこが」
「これ、何かの陰謀だよ。ダースベイダーとか理研とかの実験動物が迷いこんできたんだよ。顔はライオン、兎耳、胴体は熊で脚は犬、しっぽはアクマ君だなんて黒魔術」
 陽奈の台詞は適切な時代性を欠いて信憑性がない。が、茴は半分聞き流しながらもうなずいてやる。
「陰謀ねえ、それ変な語彙よ。ブラックマジックだとしたら、ちょうど極め付けに両眼は山羊の金いろだわねえ」
 けもののしっぽは、茴も迂闊に今気が付いたのだが、鮮やかな紅色だった。熊よりもずっと濃い長毛で、抱きつくのに気持ちよく覆われた体から、突然な爬虫類的印象で金属質の赤い尾が太い蛇のように伸び、先端は鏃型に鍔をひろげてとがっている。蛍光灯の明かりを照り返して、今の今気づいた真っ赤なしっぽは、ゆらゆらとけものの後ろで揺れ、ふいに、鏃がすたん、と鎌首のように床を叩くと、金褐色のけものは、茴と陽奈の目の前でいきなり倍ぐらいに膨れ上がった。
 ふさふさした全身の金褐色と黄緑の体毛が、空気を吸い込んで、まるで襟をひろげて相手を威嚇するエリマキトカゲのように大きくなった。陽奈は大きな口をあけ、茴は反対に唇をひきしめて微笑した。
「浮いてる…」
「これ綿毛なのよ、綿毛モンスター。ワタモン。この子の毛が空気を吸って、たんぽぽふうに開いたんだわよ」
「茴ちゃん、もっと真剣に考えてよ」
「おおまじめですが」
「こんな動物いるわけないじゃない」
「いるのよ、ここに」
 茴は、体毛に空気を呼び込んでふっくらと床上十五センチから三十センチほどに浮かび上がった綿毛モンスターの、尻からだらんとぶら下がった赤いしっぽを触ってみた。しっぽは長く、先のほうはカーペットの上で短いとぐろになっていた。
冷たい。鉄のように固い。太さは幼児の腕くらいかな。ひんやりして、苺のアイスキャンデーバーみたい。じっくり見つめると、毛彫り細工のようなこまかい鱗でおおわれている。しっぽは蛇なのね。ふうん、つまりスタンダードな、この子はキメラそのものなんだ。
「茴ちゃんてば」
 陽奈は茴も自分もおかしくなったのではないかと泣きたくなった。だが同時に笑っていた。なんだかうれしい、なんだかおかしい。おばけの出現なんて、もしかしたらあたしたちラッキー&ハッピー。
「あんた、空飛べるの、飛んでみてよ」
 茴は矢印を握ったままけものに言った。
 けものはふふん、と鼻を鳴らすと四足を大きくひろげ、人間ならば大の字という姿で、茴にしっぽをつかまれたまま、リビングの天井近くまでふわっと昇った。
 四本の脚を凧のように開ききったけものの腹部に、人間の女二人は目を奪われた。
 体色はけものの胸から急激に彩りを濃くし、藍色と黒褐色の混じった、なめらかな光沢のある闇を後ろ足の付け根まで拡げている。
深々とした腹の毛並の中に、いくつものきらめく星座が見えた。正確には、全身の虎毛模様が腹のところでは明暗のコントラストを強めて、まるでマゼラン星雲か銀河の縮図のように金色の渦となっているのだった。黒い深々した体毛のなかで、きらきらちかちかと色変わりした毛先が光って描く模様は、光線の加減で、巻貝か、DNAの螺旋模様のようにも見える。陽奈は感動して、
「おなかに銀河があるよ、こいつ」
「おめぐみですよ。主は祝せられたまへ」
「茴ちゃん冒涜的、こいつデビルマンのしっぽだし」
「おとなしいわ。たとえ悪魔でもあたしたちを好きなのよ。良いアクマに決まってる」
「どうするの」
「名前はカイトに決めたわ。凧みたいじゃない?」
「茴ちゃんはぁ。それってパパと、でしょ」

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