さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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カフェ・アンジェリコ  チェリー・トート・ロードVOL11

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   カフェ・アンジェリコ

イースターは今年の四月第一週なので、茴はその前に自分たちのパフォーマンスをしようと考えた。三月下旬でもいい。場所はここ十年ほどおつきあいのある青山骨董通りのギャラリー〈EspritAerien〉天使、だった。ここは現代作家の絵画・オブジェも扱うが、主にフランスのアールデコの小さい家具や、ガラスなどを商っている。
 それほど広いスペースではないのにフロアにはグランドピアノがある。オーナーの夫人が音大でピアノ専攻だった。彼女は今も季節ごとに自分のギャラリーでサロンコンサートを開いている。客席は三十から詰めて五十席ほどだろうか。骨董通りという土地柄もよく、茴が考える少しひねって洒落たパフォーマンスの箱として最適だった。二年に一度くらい亜咲もここで個展を開いている。
「曲は決まった?」
 仕事始めであたふたしているころ亜咲から気楽な声で電話がかかってきた。
「だいたいね」
「何を奏くの。一月中に吉良君と三人でコンセプトと演出の打合せしたいんだけど」
「質問が多いわね。今のところドビュッシーとフォーレの小品いくつか。リリ・ブーランジェの夜想曲も」
「いいんじゃない。茴らしい。それならあたしたちが何演奏しようと…」
 亜咲はうまい言い回しを探して黙った。
「ええ、何?」
 茴は苦笑する。結果を仕切りたがるひとだ。
「茴はおいしい水よね」
 期待しなかったが、亜咲の許容範囲でまずまずの形容をくれた。
「褒めてるんでしょ」
「もちろん」
「亜咲は?」
「いろいろとりどり。ジャズとシャンソン、クラシックにロック。Jポップも入れようかなんて」
「テクニックあるんだからリスト弾くとかしないの?」
「飽きちゃうのよ、途中で」
「吉良さんは?」
「わからない。技芸に関しては予測不可。でも周囲に気配りして折り合いはつけるし、バンドをちゃんとまとめられる子だから」
「バンドやってるんだ。見た目ド派手だから普通のフルートじゃないと思った」
「いつかライブいきましょう。東京スタコラーズって。みんな可愛いの」
「あそう。で、いつ打合せする? 基本土日空いてるけど、成人式の日はだめ。場所はやっぱり東京?」
「豹はちょくちょく神奈川にバイトで来るから、上京しなくても済むかも」
 吉良豹河の話題になると亜咲の声は弾む。年末の銀座で豹河の恋人という紫羅にひきあわされ、その場で竦んだ亜咲だったが、紫羅は男性だし、豹河とは微妙なニュアンスで隙間が見えた。亜咲には嬉しい隙間だ。
 こじあけて割り込むのに亜咲は躊躇しないだろうが、気軽にとっかえひっかえする相手にしては、豹河は色合いがヘビーだ。真面目な青年とは思えないが、紫羅を見る眼や茴への接し方にくずれた弱さがなく、浮ついた子には見えない。
「じゃあ陽奈の成人式が終わった次の週末に横浜くらいで。上京してもいいけれど」
「わかった。伝えます」
 じゃあね、とうきうきした雰囲気で亜咲は電話を切った。豹河とコンタクトできる口実がうれしいのかな、と茴は珍しく気を回す。いったいに茴は他人について関心が乏しいのだが、吉良豹河については常になく心が…感情までいかない…動く。
(ちょっと待て、ポールetシモンどころじゃないわ。二十一歳。陽奈とほぼ同い年か) 
 異性をめぐる亜咲の嫉妬の激しさを友人として推測する茴は、それだけで吉良豹河には自分的距離を置こうと思う。向こうだって相手にしないだろうが、亜咲に釣られる坊や程度なら、横並びどんぐりよろしくすべった視線は茴にも向くだろう、という自意識は過剰でなくある。
(亜咲はいいやつなんだけど)
 ここで考えを切った。誰憚るところのない寡婦歴十三年なのだから、どんな交際も自由だ。吉良豹河の初夏の梢のような青春を渇望する気持ちはよくわかる。
 くいっとスカートのすそを引っ張られて茴は腰の下にすりよったカイトに気付いた。
「ハロー」
 茴はカイトのむくむくした頭を撫でた。カイトは黒い鼻に小皺を寄せて頭を振り、茴の愛撫を振り払うようなジェスチュアをした。うう、と喉から不機嫌な唸り声。
「怒ってるの? 機嫌悪いの?」
(豹君のこと考えてたからかな)
 そうだよ、と言わんばかりにカイトは左右の牙をちらりと覗かせた。それから茴の手の甲を舌の先でぺろりと舐める。
「お腹すいた? 今日は人魂食べてないの?おまえ、毬が泊まっているときはどこに隠れていたの?」
 独り言をつぶやきながら冷凍庫から袋売りのクリームパンを出し、電子レンジにいれた。それから牛乳の1リットルパック全部を大鍋でぬるめに沸かし、バケツに注ぐ。カイトはミルクバケツに顔を突っ込んでぴちゃぴちゃ飲み始めた。矢印の先端のついた赤いしっぽが嬉しそうに左右に触れる。
(これで人間を刺した)
 茴は鋼のような鈍い光沢のあるカイトの尾を手にとった。カイトは横を向いて茴を片目に伺い、ミルクから顔を離したが、じきにクリームパン六個の山に噛みついた。
(人間じゃなくて死霊か。自殺した男の魂はカイトの体内からどこに行ったのかしら。お腹の銀河の一粒に変わったのかな)
 そうするとカイトは異次元ポケット、または巨大な宇宙キメラということか。
 あ、と茴はカイトの尻尾を握る自分の手にべったりと付着した黒い粘液に眼を剥いた。
黒ずんで見えたが二度目に見直すとやはり血だった。尻尾の全体に粘液は乾ききらないでべたべたしている。それが動脈なのか静脈なのかわからない。獣の血なのかもしれない。ただはっきりと、動物の血のなまぐさい匂いが両手から立ち上ってくる。

 一月も半ば近くなると大寒前にしても空気が潤い、早朝見上げる冬空の青は師走の乾燥とは異なる、ふっくらと視線を吸い込む柔らかさを帯びている。
 朝八時。この時間帯は通勤ラッシュで、松井駅近くの大手企業の化学プラントに勤務するひとがここで大量に降りる。おしあいへしあいするサラリーマンやウーマンに囲まれ、モノレールの各駅中、化学プラントの恩恵で、この駅だけのエスカレーターに乗り込みながら、茴は周囲のいくたりかの男たちの後姿に櫂を錯覚する。
こんな惑わしは早く消えてくれればいいと願いながら、錯覚の揺れるたび、かたん、ころん、と乾いた音のするフリーズドライの塊を、心の指でもてあそんでいるのかもしれないと思う。
 ギャザリングは茴よりも早く来ていた。門構えの大きい農家の庭先に向野さんの電動自転車が留めてある。りっぱなものだ。上り下りの急な坂道ばかりという香枕桜沢地区を、向野さんは地域貢献高齢者介護の旗印を背中にしょって、小さな電動自電車で雨の日も風の日も縦横無尽に駆け回る。いや、これでは冗談すぎる。仰々しい旗指物など何も持たず、世に目立たない地道なケア活動で高齢社会を支えるひとびとが、向野さん以外にもいる。
「こんにちは」 
 土間のように三和土のひろい玄関で声をかけると遠くから向野さんの返事。
「もう来てます」
 十二月に入院。それから年を越して一か月半ぶりだろうか。古い台所や、一足ごとに床板の鳴る建付けの傷みはじめた廊下がひんやりと黴臭い。
(それもそうよね、月さんが退院してきて一週間くらいだし、彼女が留守中この古家は無人だったんだもの)
 寝室に入るといきなり暖房が強くなった。向野さんは電動ベッドの背をあげて、もう月さんの上半身を起こしている。ベッド脇のパイプ椅子に座っているギャザリングに目礼し、茴は篠崎さんに向かって大きい声で挨拶した。
「あけましておめでとうございます。森です、お久しぶりですね、退院されてよかった」
 ああ? と月さんは茴のほうに顔を向けた。
 ああ、と茴は心の中で息を吐いた。月さんの顔かたちは昨年とそんなに変わっていない。頬骨の張った肉の厚い丸顔、福耳と呼ばれる耳たぶが赤い。愛嬌のある団子鼻、ちんまりした口元。夢に見た「痩せ女」の凄絶はないが、全体に生気が抜けている。
 染めてはいなかったが、いつも見目よくカットし後ろに撫でつけていた髪が、今日はすっかり乾いて枯れ薄のようにばさばさと顔の周りで乱れているのが痛々しい。器量よしではないが、昨年までの月さんはいつもさっぱりと身じまいのよい女性だった。
 茴を見ようと首をめぐらす表情は茫然と、視線が緩んでまとまらない。つやつやと浅黒かった肌の色も、入院中日に当たらなかったのか、水っぽくふやけて見える。いのちの密度がはっきりと淡くなってしまった月さんに、茴は胸を突かれた。
「ああ、森さん、よろしくねえ」
 間を置いてかぼそい声が来た。即座にギャザリングが明るく返す。
「やあだ、ちゃんと覚えてるんじゃない。大丈夫大丈夫、これから森がちゃんと篠崎さんのケアしますからね。あたしも時々は来るしね。だからごはん食べましょう」
 月さんに話しかける向野さんの声が大きく感じられる。茴は向野さんに尋ねた。
「前よりお耳が遠くなったんですか?」
「そうじゃないと思うけど、ちょっと意識がまだぼんやりしてるようなんだ」
 向野ギャザリングは茴には声をひそめ、また月さんに向かってはきはきと、
「おしっこしましょうか。起きれたんだからポータブルでできるでしょ」
「はいはい、まあどうだかねえ。すっかりへにゃへにゃになっちゃって、すいません」
 向野さんの肩に月さんは片方の腕をかけ、もう一方の手でベッドのサイドレールをつかんで体を回し、どうにか両足を床につけた。向野さんは月さんを介助しながら茴に、
「今日はこれあたしがやるから、あなた朝ごはんお願い。お嫁さんがお粥と卵焼き作っておいてくれたって。とろみなしで大丈夫だから、急須にあったかいほうじ茶ね」
 小柄な向野さんが抱えると、老衰したとはいえ骨太な農婦だった月さんの体格のよさが目立った。ある拍子に、月さんのよじれた寝間着の首元からはだけた鎖骨と肋骨が見え、その奥の痩せた上半身が予想され、茴はまた初夢を連想してどきんとする。抱えられてポータブルに移乗する月さんは身体のどこかが痛むのか、きつく眉間に皺を寄せた。あたしゃ鬱陶しくてならないよ。夢で聴いた月さんの声が耳の中でもう一度リフレインする。
「あとお箸じゃなくてスプーンにして。いや、お箸も一応持ってきて」
「わかりました」
 床にも壁際にも、いろいろな保存食品やミネラルウォーターのボトルがひしめく倉庫のような台所の雑然は去年に変わらなかった。ガス台に乗った小鍋にお膳二杯分くらいのお粥。冷蔵庫を開けるとタッパーに市販らしい大きな出汁巻き卵のかたまり。こんなに沢山どうするんだろう。
 別居の息子夫婦はこちらで食事はしない。まさか月さんのおかずだけ三食全部これで済ませるするつもりではないだろうに、冬にしてもそんなに日保ちがしないのに、と茴は持ち重りのする厚焼き玉子を二切れほど食べやすい大きさに切った。

 月さんの後そのまま鶸のところへ行く。「やすらぎ」の玄関先には亀田さんもといメダカちゃんが、箒と塵取りをそれぞれ両手に持って、甲斐甲斐しく掃いていた。もう昼食戦線スタンバイという十一時なのに、「やすらぎ」職員は休みなく働いている。メダカちゃんは茴を見とめると、血色のよい笑顔で
「あら、今日は早いね。外出だっけ?」
「そう、美容院に連れていく日、どう?お母さんは」
 メダカちゃんは浮かべた笑顔を変えずに
「鶸さん変わらないよ。先週何人か友達が年始のお見舞いに来て、楽しそうだったよ。だからかな、夜間も割に安定してたみたい」
「そう。誰かな。付き合いの多いひとだったから、忘れずに来てくれるのは嬉しいわ」
 茴はメダカちゃんの「夜間安定」には触れずに避けた。今週安定とわざわざ告げるのなら、いつもは不安定ということだった。夜勤の職員はどれほど母の妄想と愁訴に煩わされていることか。麻痺による失認が回復しても意識がクリアであればなおさら、家を出て施設に移住した我が身の寂しさが衝迫となって鶸を揺さぶるらしい。
「これ、みなさんで召しあがって」
 茴はメダカちゃんに菓子折りを見せた。
「悪いねえ、いつも。そんな気を使わなくても、こっちはちゃんといただくものはいただいてるんだからさ」
「そういう問題じゃないよね。さぞ疲れるだろうと思うわ。だからちょこっと甘いもの」
「あ、り、が、と。ご家族がみんな森さんみたいだったらこっちも楽なんだけどね」
「クレーム来る?」
「うーん。欲と我儘はきりがないよ」
 メダカちゃんの天真爛漫な笑顔が、少し酸っぱくなった。
「あたしは同業者だから、ここにひとつも文句なんか言えません。よく見てもらって、母にとっては最高の終の住処と思ってる」
「おお、感激。あやば。出撃準備しないと」
 メダカちゃんは腕時計に眼をやり、大きい身振りでがさがさとあちこちのごみを集めた。
 両手を消毒し、専用のスリッパに履き替えて居室フロアにあがると、インフルエンザの季節柄、職員はマスク着用していた。
 鶸の部屋は南西の角部屋で、二面ある窓からの採光と眺めは悪くない。早春の柔らかい陽光がカーテンを大きく開けた窓から鶸に降り注いでいた。テーブルの上には黄色いフリージアの花が白い花瓶に活けてある。鶸は椅子に座り膝上に週刊誌を拡げていたが、雑誌の活字の何を眺めるでもなく、視線はぼんやりと窓のほうへ泳いでいた。茴が入ってゆくと、鶸は彼女を見て驚いたように、
「毬ちゃんかと思った」
「こないだ毬は来たわよ」
「ああ、見違えた。あの子元気になっちゃって。昔とすっかり変わって」
 鶸はタレント時代の毬の姿を茴に見たのだろうか。顔と体型は似ているが、雰囲気や物腰はかなり違っていたと思う。体重だけなら茴のほうが今も以前も毬よりだいぶ軽い。
「そうかな? 昔と変わんないわよ。五キロ太ったくらいでしょ」
「五キロって大きいわよねえ」
「昔ダイエットしすぎだったから、今が健康なんじゃないの」
「そうかしら」
 鶸はミッソーニのアンサンブルを着せてもらっていた。二十年も前にミラノで買ったものだが、鶸のお気に入りで今の彼女にもよく似合った。今朝の身支度を整えてくれたワーカーに茴は感謝する。
 ここは朝食まで夜勤ワーカーが勤め、そのあと日勤に変わる。ただ一人のフロア職員にとっては、十人いる入居者のモーニングケアも、食事どきに劣らぬ汗まみれの修羅場だ。着替えてもらってもすぐに脱いでしまう人、起床拒否、また脱衣拒否、目覚めるやいなや不安発作にとりつかれ、フロアを徘徊して施設脱出をはかる人…。それらすべてを万遍なく目配りしながら、一人ずつの服薬、中にはインシュリンの注射、トイレ誘導、おむつ交換をこなし、同時に着替えを見守る。全介助の入居者の場合は全部職員が更衣する。
 もう鶸をケアしてくれた職員はいないが、早朝分刻みの重労働の中で、鶸の外出予定を弁え、いつもよりおしゃれな装いに着付けてくれた彼女の心遣いは、掛け値なしにすばらしい。こんな気持ちも現場の忙しさを仲間内の噂話で知る茴でなければ起こらないに違いない。
「これ、陽奈の成人式の写真よ」
 B5に拡大された義理の孫娘の画像に鶸は柔らかく眼をほそめた。素直に嬉しい感情が彼女の頬に昇ってきた。肌理のこまかい白い顔に、高ぶるとその感情が血の色となってきれいな朱鷺いろが射す。
「お父さん似で、いいじゃない」
「そう思う?」
 紅地裾暈しの中振袖に合わせた袋帯は黒地に金糸で雲立涌の有職文様をとりあわせた。京友禅の振袖がややごたごたと華美なので、帯は幾何学模様のシンプルをと、これも茴が決めた。自分のときにはこの帯ではなく、金地に五色で六歌仙の歌留多が刺繍された昔の丸帯を締めた。丸帯は現代ではほとんど着用されない。少女時代の鶸の帯だった。
六歌仙の帯はさすがに古びてもいるし、黒地のほうが陽奈には似合うはずだった。
 前髪をあげて舞妓さんのようなお福に結い、花簪と櫛を飾り、目元に紅をさした陽奈は、どう見ても父親の顔や姿を連想させないが、茴は鶸の感想が微笑ましかった。鶸は陽奈をとても可愛がっていたから、その気持ちの表れなのだろう。だが、櫂も陽奈も、鶸が一番危うかったころ、実際に鶸を介護したことはない。もっとも陽奈はまだ幼かったし、中年男性の櫂に、まだ色香の残る姑の肌を浄める業などできるはずはなく、茴も望まなかった。
「寒いから帽子かぶりましょう、お母さん」
 茴は衣装箪笥を開けて鍔の広い黒いフェルトの帽子を探した。小作りな鶸の顔と、色とりどりのミッソーニに似合うだろう。今は茴が母親の衣服を選ぶほうになっている。
「あらよく覚えてるわね、この帽子」
 外出がうれしい鶸はにこにこしながら帽子を被り、コートに腕を通した。黒いフェルトの鍔の影からすこし上目づかいに茴の表情を測る表情は、いたずらっぽく若々しい。古稀に近づき病んではいても、物を書く、創造する営みを血肉として人生を過ごした鶸は、その精神のおかげで肉体もまた通常の褪色速度から免れ、同年齢の高齢者よりはみずみずしさ を多分に残していた。内的な潤いが彼女を美しくする…。それはドストエフスキーの慧眼だった。
 『罪と罰』は二十歳そこそこだった茴の読後感としては、やはり重苦しかったが、重厚な文脈から茴は当時の自分の好きな表現だけを記憶し、温和で澄んだ青い眼のソーニャに会いたいといろいろ空想したものだった。
アニエスbのフェルトの帽子は毬が鶸にプレゼントしたものだったと思う。鍔の影から斜めに覗く鶸の顎の輪郭が、あらためてすっきりと若々しく見えた。老女とは思えない。感心してそう眺めたとき、目の前の鶸よりさらに洗練された輪郭を持つ紫羅の顔が連想された。
(彼に連絡しよう。彼女? どっちでもいい。カイトについてちゃんと知らなくては、あのしっぽの血はいったい…)
 吉良や亜咲とのミーティングよりも餓鬼というカイトのほうが茴や陽奈の生活にとって重要に違いない。師走の銀座で紫羅は茴の背後にカイトを見ていた。だが茴にはそのときカイトの姿がわからなかった。茴にも見えるときと見えないときがある。今もカイトは自分に付いてここに来ているのかもしれない。
(お母さん、見えていないわね)
「茴、今日は何を食べさせてくれるの?」
 上目遣いのまま甘えるように鶸は言う。施設に入居以来、心細さが募るのか、鶸は茴に依存的な感情を向けるようになっている。

「今、あなたが囚われているものはなんだろう。それがたぶんカイトなんですよ」
 もらった名刺のメアドにテストメールとアポイントメントを送信したら、意外なことにその日のうちに紫羅から電話がかかってきた。直接すぐに会話が始まるとは予想していなかった茴はかなりうろたえ、言葉を選ぶゆとりもなく、単刀直入に、カイトは何なのかしらと質問した。紫羅はすこし含み笑いしながら
「餓鬼って、さまざまな妄執のかたまりです。西洋なら悪魔とか妖精とかそんなものだ。日本なら妖怪ね」
「そんなおとぎ話のようなことが!」
「人間は必ず自分の見たいものを見るんです。いや、もっとはっきり言ってしまえば、自分の見たいもの、自分の内面の投影が、その人物の世界観のすべてです。わかりますか?」
 わかりますか? 茴の理解を気遣っての言い回しなのだろうが、いかにも怜悧で、ごく自然に相手を見下すエリート意識がまる見えだった。この子はよほどのアリストクラートの出自なのかと茴は考える。言葉や語調に癖がなく明晰で、この世代の若者らしいアクセントの歪みやねじれがない。
「ええ、わかります。でも妖怪が実在するなんて」
「実在します、森さん。あなたがこの世に存在している。その確かさと悪魔や天使、神の存在の確かさは等しい」
「形而上的なことおっしゃられても」
「そうですか。とてもプラクティカルな答えなんですが。あなたはカイト・キメラを飼っている。食べ物と飲み物を与え、カイトはあなたの部屋に排泄物も汚れも残さず、ときには投身自殺者をまるごと食い尽くし、鏃の尾を血塗れにして戻ってくる。神出鬼没のカイトは文字通り鬼神です」
「そうでしょうね」
 茴は素直にうなずいた。よく調えられた声の紫羅と話すことが楽しくなってきた。聴覚に快い声だ。紫羅の声は少女のそれではないが、すっかり青年の太い響きでもない。感情は控え目に抑制され、生来の高貴さが端正な言葉となって滲み出る。だが、聴いていて茴は窮屈な感じがしない。この声には気取りや威圧の力みが皆無だからだろう。
(王子様とお話ししているみたいね)
 ふふふ、と一人笑いが浮かぶ。電話の向こうの紫羅は今どんな衣装を着ているの?。
「わたしはどうすればいいのかしら?」
「ご自分ではどう望んでらっしゃるんですか? どうしたいのか」
「え?」
「カイトはあなたやあなたの娘さんに今のところ災いをなさない。だけどあなたの生活領域周辺の人間に牙を剥く。精神エネルギーの集合体が何かの機縁でひとかたまりの現象となって餓鬼化する。機縁は怨念でも執念でもいい。激しく強い一つまたは複数の念を芯として、出現したんだ」
「念? こわいわね」
「そうですか。恐ろしいことを念じる人間のほうの罪なんですけれども」
 紫羅は茴の怯えを察して声を柔らげたようだった。
「念がきよらかな祈りであるなら、出現するものは天使です。自然への素朴な憧憬ならフェアリー」
「カイトは…」
 茴は言いよどんだ。丁寧に茴に教えようとしている紫羅の意図が見えてきた。
「カイトは天使や妖精じゃないわ」
「はい」
「あなたの説明だと、つまりカイトは私が念じたものということね?」
「そうです」
「誰かにたいする怨念や恨みを?」
「森さん。僕がお会いしたあなたにはそんな澱みは見られなかった。そして」
 そこで紫羅は黙った。
「あなたは福祉のお仕事をなさっているそうですね」
「ええ、介護福祉士」
「愛がなければできない仕事だ。低い処遇に甘んじ、死にゆく老病人の心を労わる。満足していますか?」
「どういう意味?」
「失礼ですが、御主人はどんな」
「三年、いえ四年前に亡くなりました」
「それからおひとりで?」
 茴は笑い出した。二十歳そこそこの青年が身の上相談めいた話柄に淡々と踏み込んでくるおかしさ。物悲しさを含んだ可笑しさに揺さぶられ、茴は紫羅を無視して携帯の送話口を手で抑えて笑った。
 動揺を静めてからあらためて携帯に戻ると、紫羅は電話を切らずに待っていてくれた。
「ごめんなさい。あなたたぶん娘と同じ位の子なのよ。それでそういう言い方って」
 紫のアンドロギュノスは鋼のような声で告げた。
「ええ、失礼を承知ですが、カイトはあなたのデザイアです」
 
 金曜日の五時、星月夜岬のシルエットが甘い紫を帯びて桜守灘に伸びている。立春にはまだ間があるが、結衣ヶ浜に押し寄せる波は真冬の険しさを緩め、なだらかに一続きに長く、沖から高さを変えずにやって来た白い波濤が砂浜で脆い角砂糖のように崩れた。風景の一部が砂糖のように見えるのは紫羅の言い方を借りるなら、茴がそのように眺めたいからなのだろう。茴の心の中に、甘い砂糖の塊、あるいはブランディに浸してぽっと燃え上がる官能のマッスがあるのだろうか。
 あるに違いない、と茴はウエイトレスが運んできた珈琲をブラックのまま口に含んで思う。まだ亜咲も吉良も来ていない。
 吉良豹河が金曜日の真夜中に千ヶ崎のクラブに出演するというので、打合せの場所は香枕になった。星月夜岬にほど近いここはカフェ・アンジェリコ。櫂とよく来たイタリアン・カフェだ。得の電駅からほど近く、昼間は海岸や長谷界隈を散策する観光客が多いが、夕方から夜にかけては遠近の常連がやってくる。おもしろいことに、アンジェリコの従業員は昼間女性で、夜間は男だけになる。従業員の入れ替え時間は八時くらいなのだろうか。今茴の周囲を動いているのは二十代初めのウエイトレスばかりだった。
 アンジェリコと夜間のウエイターが何かの雑誌で紹介されているのを見たことがあるが、照明を抑えたロココ風のサロンでモノトーンのお仕着せを着てポーズしている男たちの雰囲気は、婉曲にアンモラルな愉しみを誘っているように見えた。ヴィスコンティのどれかの映画のワンシーンに似ていた。
 アンジェリコ、と名付けるだけあってインテリアは天使が多い。多少悪趣味なほど装飾過剰な猫足テーブルに椅子。光沢のあるたっぷりした豪奢なカーテン、すべて曲線の出窓。天井や壁にフラ・アンジェリコそのほか初期ルネサンスのフレスコ。ホール中央には緑がかった大理石のエンタシスを左右に飾った巨大な暖炉。秋冬は一日中、夏には夜だけ火が入っているが、これはフェイクだった。
絵のない壁面のいたるところにマリンブルーかシルバーグリーンのモザイクが施されている。カウンターを除いて十席ほどある丸テーブルのすべてに、白鳥の取っ手のついた一輪挿しと、天使が抱えた砂時計が置いてある。一輪挿しには季節の花、砂時計はポットサービスの紅茶のためだった。
「天使が時を計るというのがみそだ」
 櫂の趣味にはそぐわない少女趣味な空間だが、茴と陽奈が喜ぶので時々来ていた。そのたびに櫂は天使が抱えた砂時計を手にとってしたり顔で同じ台詞を言っていたような記憶がある。夫が亡くなってから、ここへ来たのは初めてかもしれない。
(天使は両性具有)
 茴は日が落ちて、ガラス越しに次第に見えにくくなる海を見つめた。もう内部の明るい情景のほうがガラスに映って、外景の海面や空は見えなくなっている。ここに紫羅が来たらどうだろう。いや、とても不調和だろう。
「何が見えますか?」
 背中から声をかけられて茴は飛び上がった。あやうく椅子を後ろにひっくり返しかねない勢いで振り返ると、豹柄の金髪を後ろに束ね、真赤なレザーのジャケットをミリタリー迷彩のシャツにひっかけた吉良豹河が笑っていた。
彼のざっくりと大きいレザーに貼りつくように寄りそった少女がいる。
髪を額の真ん中で分けて、ふんわりした猫耳両シニヨンにまとめている。濃いブルーのタートルネック、それに豹と同じような迷彩柄のブルゾンを着ている。やはりミリタリー迷彩の膝上十センチのミニスカートから柔らかくて白い素足がひょろりと伸び、ブーツは赤い。これも豹河とお揃いのつもりなのだろうか、ヒール十五センチはあるエナメルブーツだ。
「この子僕らのマネージャーです。家が横浜なんで、四月のイベントの話を聴きたいって付いてきたんです」
四人掛けの丸テーブルで、吉良と少女は茴の向こう側に並んで座った。座ると少女は吉良より頭一つ分背が低い。彼女は茴に向かってぺこりと頭を下げ、可憐な声で、
「厦蝶児です。はじめましてよろしくお願いします」
「かちょうじさん? 中国の方?」
「三世、いえ四世かな。おばあさんのほうならもう五世くらいです」
 人なつこい笑顔を見せた。十七、八だろうか。どう見ても二十歳はすぎていない。頬が光って見えるほど肌のきれいな丸顔で、目鼻がちんまりと顔の中心に集まっているのは、眼だけ大きくした東北のこけしに似ている。くりくりした両眼はアイラインで何重にも輪郭をなぞったのではないかと思えるほど、鼻や唇に較べて顔の中で際立って大きい。だがノーメイク、口紅も塗っていないすっぴんだ。
「マネージャーって、あなたぐらいの年齢でもうお仕事してるの」
 蝶児は豹を見上げて眼で促した。豹河は、
「彼女は学校行ってないんです。行く必要がない。もう八ヵ国語、九かな? ペラペラ喋れる」
「まあ、語学の天才ね」
「ハイ、みなさんそうおっしゃいます」
 謙遜せずに蝶児は頷いた。大柄な豹河の隣に小さい蝶がくっついているのはなかなかさまになる。この子は豹のガールフレンドなのかしらそのひとりなのかしら。
「マネージャーって、あなたの?」
 そこにようやく亜咲が到着した。約束は六時だから、そんなに遅くなったわけではない。
ライトグレーのムートンコートの下には鮮やかなオレンジ色の開襟シャツ、白いパンツ。淡水パールのネックレス。ルージュもオレンジ。どこもかしこも春先取りだ。ネイビーブルーのキャスケットが全体の印象を引き締めてよく似合う。
が、挨拶も早々に亜咲は、小柄だがステレオタイプグラマーのニューベビーフェイスに眼を光らせた。
「こちらは?」
「東京スタコラーズマネージャーの厦蝶児。四月のパフォーマンスに興味があるからって付いてきたんです。飛び入りですいません」
 豹は慇懃に答えた。
「よろしくおねがいしまぁす」
 蝶児は亜咲に向かっては、茴に対してよりさらに愛らしい声で小首を傾げた。亜咲は細い眉を吊り上げたが、にっこり笑って、
「若いのにね。お世話になります」
「スタコラーズって、どんな活動なさってるんですか?」
 茴は尋ねた。仲間うちの趣味バンドかと思っていたのに、目から鼻へ抜ける天才少女をマネージャーに従えて何をしでかすつもりなんだろう。
 豹は丈夫そうな歯を剥き出してにやりと笑った。
「期間限定バンドです。帰納的芸能活動って言うのかな。解散まであと一年ちょっと。来年の八月で打ち上げ予定です。その間僕らは音楽を通じて自分探しの旅をする」
「一年やそこらで自分が見つかるの?」
 思わず茴は吉良に質した。彼は平気な顔で、「自分に至る門を見出す」
「イニシエーションってわけね」
 亜咲が口を挟んだ。豹河は頷き、
「そうです。通過儀礼と言えるかな。でも正直そんな気張ったものじゃなく、面白い連中がたまたま出会ったから、人生で好きなことできる時代に好きなことやろうよって乗りです」
「じんせい…」
 茴は肩をすくめた。こんなすべすべした顔の坊やの口から「人生」なんて単語が飛び出ると嘘っぽく聞こえる。豹は真面目な顔して
「ガキだけが寄り集ってるわけじゃないですよ、茴さん。一度ライブに来てください。酸いも甘いも嚙み分けたオヤジ達がけっこうフォローしてるし」
「お父様? ピアニスト?」
「違います、父親は無関係。ええと、オヤジっていうのは、ベースにひとり、オブザーバーにひとり」
「ちょっと、スタコラーズは後にして、四月のイベントについてお話ししない?」
 逸脱しそうな会話の流れを亜咲が軌道修正してくれた。彼女はウエイトレスを人差し指一本で呼び寄せ、オーダーを促す。物を命じる手の仕草が毅然として優雅だった。
「四月のイベントのタイトルは決まった?」
 亜咲は茴に尋ねた。
 茴は頷いて、
「ラグレアブルアノニムl,Agreableanonyme。秘めた快楽。どう?」

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タマゴ・ダンディ  チェリー・トート・ロードvol10

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タマゴ・ダンディ

「それは大きな間違いよ」
「間違い?」
「そう、勘違いと言ったほうがいいかも」
 亜咲は両耳の大きなゴールドのイヤリングを揺すって豪快に笑った。イヤリングではなくてピアスだ。プリミティブでシンプルな正円のリングが彼女のふっくらした耳たぶをちょうどよい具合に貫いて、リングのぶらさがる重心の真ん中にサファイア色の大粒のビーズがきらめいている。ビーズは今彼女が来ている長いガウンと同じ色だ。ガウンの下は白いレース地のワンピース一枚。こんな薄着でも汗ばむほど部屋の暖房が利いている。
 東洋人の女性にしてはややきつく見える輪郭で、顎と頬のほそい彼女には、直径十センチくらいのヴォリュームのあるゴールドリングは細面の顔の周囲に、亜咲を華やかに見せる空間を補ってとてもよく似合う。いつものように口紅のラインをきっちりと曳き、シャドウもチークも丁寧に塗っている。気の置けない女友達ひとりを相手にするためなら、もっとくだけた顔でもいいのではないか、と茴は眺めたが、これは化粧を好まない自分のための弁解がましい感想だった。
 もうじき除夜の鐘が鳴り始める。得鳥羽島の亜咲のマンションからは、橋を渡った本土の龍光寺の鐘が聞えるはずだ。茴は大晦日の夕方から亜咲の招きに応じて泊まり込んでいる。陽奈は大学の友達と蔵王にスキーに行ってしまった。
「あなたみたいに真向勝負カラタケ割りの文学少女だと、まんまと真に受けちゃうんでしょうけれどね、ポールは全然自分のことおばあさんなんて思ってないわよ、だから言えるのよ、そういう自分にとって残酷な台詞」
 亜咲はワイングラスの茎を親指と一指し指できれいにつまんで、くいっと傾けた。酒が強い割にはすぐに顔が赤くなる。ボルドーの赤葡萄酒は茴が持ってきたものだが、半分くらい飲んでしまった。この赤の前にすでにフルボトルの白を空けている。茴はうわばみのお相伴といった感じで、グラスの縁を舐めるようによちよちと亜咲についていく。全然飲まないのもつまらない。
「残酷、そうよね。おばあさんって、きびしい自覚よ」
「だから自覚してないから言うの。ほんとに自分の衰えを自覚してたら絶対言わないわ。ポールはまだ自分の容色に自信があったの」
「自覚じゃなくて自信?」
 無意味な語呂合わせが茴の口から酔いといっしょにこぼれ出た。茴の酒量の限度は日本酒なら二合、ワインならグラス二杯というところか。白を一杯開けた。この赤ワインも自分の好みで甘口を買ってきたから、用心して飲まないと元日早々宿酔で苦しむことになる。
「自分自身を叩くのは、叩いても凹まないキャパがあるからできるの。だからフランソワ―ズの本音は四十歳でもまだまだって」
「ポールよ」
「サガンのヒロインはみんなサガンよ」
 あっさり決めつけて亜咲はソファに上半身を反り返らせ、ワンピースの裾を大きくはだけて膝を組んだ。その下はちゃんと黒いタイツを穿いている。亜咲は茴に尋ねた。
「だってあなた、自分のことバアサンだってほんとに今思える? 思ってないわよ、その顔じゃあ。あたしだって思えない」
「おばさんだとは思ってるかも」
「あたしそれもいやね。お姉さんか先生で通す。おばさんなんて誰にも呼ばせない」
「ばあちゃんじょうちゃん」
「よく覚えてるわね千尋の口癖。いいわよそれで。いい子ぶって、あたしはもう女ではございません、非戦闘員ですからよしなに、なんて冗談じゃない」
「非戦闘員?」
「そうよ。女であること、男であること、つまり性的であることというのは徹底的にハンターであるってことじゃない? おばんはプレデターとは言えないもん」
「亜咲、だんだん呂律が」
「明日は極楽寝正月よ、あ、鐘が鳴るわ」
 ふふふ、と亜咲は片手を青いガウンの合わせ目から胸に差し込み、汗を確かめるような、あるいは自分の肉体のありかをさぐるような仕草をしながら含み笑いした。
 それからまたさっと顔をあげると、
「茴は品行方正に福祉やって、これからどうするの」
「方正じゃないわよ、別に」
 酔うほどに口調がぞんざいになってゆく亜咲を、茴はいい気分で眺めた。酒量がこなせない茴は、へべれけに酔うという楽しさがわからない。だが相方の亜咲が酔うと、その乱れに自分も同化できる気がするのだった。
「でも、ひとりなんでしょ」
 夜気を動かして除夜が始まった。海風の向きによって響き方が違うというが、今夜はセロニアス・モンクのピアノを流していても、はっきりと煩悩失滅の鐘が聴き取れる。
「気になる? あなたこそ。シャトーは誰と乗るのよ」
「えへへ、豹河と。嘘よ。今のところソロ。アカンパニュマンなし」
「ナビゲーターは」
 茴の私生活の詮索よりも、亜咲は自分のことを話すほうがうれしいのだった。顔の表情をぱっと拡げると、
「ナビはね、それなら掃いて捨てるほどいるわ。あんなものは機械的だから」
 これを聞いて茴はちょっと黙った。虚栄の声ではなさそうだった。機械的…亜咲らしい攻撃的な言い方だ。
自分もワイングラスを傾け、口の中で液体をころがしてからこくんと飲み下し、茴は奢る亜咲を言葉で軽く刺した。
「非戦闘員のほうが確かに楽ね。機械にならなくてすむもん」
 亜咲は一瞬きりっと眉を吊り上げたが、茴の目が笑っているので、すぐさま癇を抑え、茴の皮肉と同じ程度のユーモアを投げ返した
「わかったわ、茴、あなたってやっぱり被略奪願望のまんま、あなたもばあちゃんじょうちゃんなんだわ」
 そう、と茴は臆せず頷いた。除夜の鐘はいくつ鳴ったろう。煩悩はちっとも減らず、あたしたちは本能の探り合いで年越し。
亜咲は畳みかけた。
「ポールは土俵を降りるふりをしたのよ。自分はおばあさんだなんてシモンに言うのは。だけど嘘。すぐに次の戦場に出ていくわ」
「そしてロジェも彼女以外の若い愛人を離さない。年をとるって、エイジレス志向の現代人には自然にできないことになっちゃった」
「ええ、年齢を重ねるというメイクはするけれど。でも化粧しない素顔をさらすよりはメイクした自分のほうがあたしは好き」

 ほのぐらい部屋の、何も敷いていない床上に女性が仰向けに寝ていた。灰色の短い髪にはきれいにパーマがかかっている。着衣は病院の入院患者が着るような白い前開きの寝間着だった。
 茴は室外に立っていて、開いたドアの外から眺めている。茴の位置からは女性の全身は見えず、床に倒れた上半身だけが見えた。うすら寒い蛍光灯の光は、心臓麻痺で倒れた櫂が直行した地下室に似ている。櫂はパイプベッドに寝かされていたが、老女は無造作に地べたに投げ出された感じだった。
(誰だろう? 知っているひとかな?)
 茴は老女の顔を確かめたかったが、その場に立ちすくんだまま足が動かない。青黒く痩せた顔は、茴の視点からは細かい面相の判断がしにくかったが、鶸ではない。施設に入った今でも鶸は、毎月一回美容室に通い、髪をセットし、きれいな茶色に染めている。
(誰かいないの? こんな冷たいフロアに寝間着一枚で寝ていたら風邪ひいちゃう)
 でなければ死体なのだろうか。
 そう思ったとき、ううん、と老女は唸って顔を横に向けた。苦悶の縦皺が眉間にくっきりと刻まれている。真上からの平板な蛍光照明は、横向きになると急に顔の陰影を深くし、老女の腱の浮き上がった首筋のやつれや、はだけた寝間着の胸元から肉の落ちた胸の肋骨の起伏が険しく覗かれた。
(ああ、かわいそうに、毛布でもかけてあげなくちゃ)
 だが茴は棒のようにつったったままだ。開いたドアの向こうが見えているのに、茴はそこへ入ってゆけない。部屋の中は明るく、茴の居る外側の場所は闇ではないにせよ、ぼんやりとした暗さに覆われていた。
 室内の白っぽい床を踏んで、のっそりとカイトが茴の視野の中に現れた。カイトはもとからそちらにいたようだ。カイトは茴のほうを一瞥し、睫毛の濃い両眼をほそめ、人間のする冷笑のように広い口角を吊りあげた。
「やめなさい」
 カイトが何をするのかわからなかったが、茴は声をあげた。動けないのに声は出る。カイトはぶるるっと黒い鼻を馬のように震わせ茴の制止を無視するように横を向いた。そのまま老女の上に顎を寄せる。
「だめよ」
 喰い始めるのではないか、と茴は全身が冷たくなったが、カイトは片方の前足を老女の胸に乗せ、ぐいっと手前に引き寄せた。その仕草を繰り返す。
前足で寝間着を引き剥がすと見えて、そうではなく、寝そべった体はカイトのひっかく動作につれて、ゆらゆらぐらぐらとこまかく痙攣し、どこかでカイトの前足の爪は老女の皮膚に程よく食い入り、びりびりと薄皮を剥ぐように、上半身全部が剥け始めた。
 剥ける、という言い方はおかしいかもしれない。皮膚を剥ぐのではなく、半透明な老女の被膜がカイトの爪で引き裂かれる。パーマをかけた白髪の頭から首、寝間着ごとまず上半身が、そしてきっと下半身まで、果物の皮を剥がすようにずるりと本体から分かれてゆく。カイトはときどき牙や顎で剥がしにくいところを喰い破り、そうすると人体の生皮が剥がれるウェットな音とは違う希薄であやふやな剥離の音が、凝視している茴の耳にまで聞こえるのだった。
 剥がれた被膜の下にはもう一体の老婦人が変わらずに残っていた。前と同じ寝間着をちゃんと着ている。そして血は一滴も出ていない。冷たい床にあおむけになり、しらじらとした蛍光灯に照らされた老女は、落ち窪んだ眼窩とこけた頬、半開きの口のそれぞれにぱっくりと濃い影を満たし、はだけた胸元から除くあばらの畝もそのままだった。
「あんた、いったい何をしたの」
 怒鳴ろうとした茴は前に倒れた。まるで自分の怒りに後ろから突きとばされたように転んだ。床に手をついた感覚があるのに闇に覆われて茴自身の手も膝も見えない。そうか、と茴は今の事態がわかった。あたし肉体がないんだわ、あたし声だけなんだ。それじゃ彼女の傍にだって行けるはずよ。
 そう思ったとたん、茴は老女の横にいた。視線はしゃがんだ位置にある。血の気のない荒れた肌が洗いざらした古い布のよう。だれ、このひと、知らない、こんなおばあさん。 
 カイトがやってきた。ぐふふ、と唸り、たった今自分が掻き集めた老女の被膜を両前足の間に抱えこんでいる。
「おまえ、それを食べるの?」
 がっ、とカイトは赤い口腔を開いた。肉食獣の鋭い牙の列が蛍光灯の光を弾き返してぎらぎらと光る。
「森さん、あたしゃ鬱陶しくってならないよ。あんたにはまたお世話になるねえ」
 カイトの喉から聞こえる声の芯はしっかりと明朗だった。鬱陶しい、と放り出された自分の状態にうんざりしながら、茴の驚きを面白がっている。篠崎月さんの声だ。

 元日はそのまま得鳥羽島の亜咲の許で過ごし、二日には妹の毬が桜沢にやってきた。毬は茴とは三つ違いで今年は三十八歳になる。六月生まれの双子座。大学を中退して劇団に走り、器量がよく、きれいな声で上手に歌もうたえたので、ちいさな成功をいくつかおさめ、三十まで芸能界の外堀を泳いだあと、おだやかに釣り上げられた。釣った男は彼女の学生時代の友人で、地方公務員をしている。
 道を歩いているとみんなあたしのこと振り返るの、と無邪気に嬉しがっていた少女時代と、四捨五入すれば四十歳の大台に上る今と、ほとんど顔立ちも人相も変わらない。昔から茴とは双子のように似ていると言われたが、引退して気楽な主婦生活に入ってから、毬はのんびりと太ったようだ。それも容貌を損なう中年太りではないので、茴は夫婦の仲がよいのだろうと、派手好みだった妹のまるい変化を眺めていた。
 二日の昼過ぎ、ピンクの取っ手のついたコーチのトートバッグを抱え、フェイクファーの襟の白いダッフルコートを着た毬がやってきた。玄関先で妹を迎えたとき、茴は一瞬蔵王から陽奈が戻ってきたのかと錯覚してしまった。衣装や持ち物のの好みが二人ともよく似ている。
「混んだ?」
「そうでもない。鹿香通過で王船からでしょ。初詣の観光客はあっちで降りるし、モノレールはまあ、普通程度のラッシュ」
 茴と毬が育った実家は鶸の施設入所のときに整理して、茴の判断で貸家にしていた。その家賃が現在の鶸の施設入居費用の大部分になっている。今では毬の戻る故郷は姉のところしかない。そう思うと茴は妹に対してすまない気持ちになる。家を始末するとき妹は文句ひとつ言わなかったが、姉妹にとってなつかしい道具類のおおかたを勝手に処分してしまったのはすまないと茴は自責している。
「志方さんご実家?」
 結婚後の毬の姓だ。毬は頷き、
「直之は今日まであちら。明日戻ってくる」
「毬ちゃん行かなくてよかったの?」
「もちろん行きました。二十九日から昨日まで高知。一日に飛行機で戻って来たんだからママに褒めてもらえる。褒めてくれなくてもいいけど」
 コーラルピンクのルージュを塗った唇の上下をきれいな船型に開いて笑った。お昼ごはん買ってきた、と言って毬はデパートの包み紙をばりばりとひらいた。パーティーメニューのような各種オードブル盛り合わせだ。茴は軽い白味噌仕立のお雑煮など用意していたのだが、自分ひとりの正月にお節の重箱などは調えなかったので、毬の買い物はちょうどよかった。
「ありがとう」
「よしてよ。お姉ちゃんどうしてた?」
「いつも通りよ。でもないか。昨日おととい千尋さんのところでうだうだ」
「亜咲さん? まだ独身貴族なの」
「もちろん。変わらないわよ。毬ちゃん来るって言ったら連れてこいだって」
「会いたいけど時間ないな。明日の昼はママのお相手でしょ。夕方からちょっと会いたい友達とかいるし」
「そう。で、そのまま帰る? 陽奈とすれ違いになるわね。あの子は明日の晩には戻ってくるの」
「ああ、残念。きれいになったでしょ。何年ぶりかなあ。二年ぶり? 今年成人式」
「そう。あたしの振袖あげるの」
「気前いいわね、お姉ちゃん。これから先自分の子供が女の子だったらどうするの」
 え、と茴は毬の顔をしっかりと見た。さらりとすごいことを言う、と妹の感情を測ったが、毬はさばさばした他意のない口調で続けた。
「直ちゃんとときどき話してるのよ。お姉ちゃん、ずっと一人なのかなって。亜咲さんとは性格違うしね。まだ若いんだから」
「そういう言い方、もろおばさんぽい」
「そう? だってずっと一人ってわけに行かないでしょ」
 よく言うよ、と茴は呆れて毬を眺めた。耳元までウエーブをかけた髪にビーズのカチューシャを挿している。見た目二十代を固守してしっかり女優肌キープ。胸も腰もゆったりとまるい彼女に旦那さんはうれしいだろうが、妻の姉の心配をするよりは自分たちの子孫繁栄に励めと勧めたい。
「お雑煮、伸びるわよ」
 面倒な時には話を逸らすにかぎる。毬は食道楽だ。茴と同じで小料理上手だった。お雑煮は関東風ではなく白味噌と湯葉、ささみ、椎茸、百合根などで調えた。これは櫂の好みだった。だいたいに濃い味付が好きな男だったが、雑煮は白味噌を好んでいた。
「うーん」
 毬はお椀を口にあてて知ったかぶりに唸った。
「櫂さん、生きてるね」
「わかる? まだ死んでない」
「去る者は追わずって、お姉ちゃんの座右の銘じゃない?」
「その日本語変だよ。モットーにしてるわけじゃありませんが、介護やると人生観変わる」
「なんで介護なんか」
 毬ははっきり言葉を切って一呼吸置いた。
「やるの?」
「たくさんのひとがそう言うわ」
 茴は受け流す。毬は知らない。もう結婚して他県にいたから、鶸の錯乱の夜毎、茴が揺さぶられた感情の嵐がわからない。
「お姉ちゃんのことちょっと知っている人はみんな言うよ。よくあのひとに介護ができるって。えらいと思うけれど、もっと楽な仕事でもよかったんじゃない」
「介護って言っても、今の仕事はそんなハードじゃないもん」
「そうかなあ」
 毬はうさん臭そうに姉を見上げた。食事のとき、毬は少し前かがみにものを食べる癖がある。それを自分でもわかっていて、人に見られる商売の女優業のときに意識して姿勢矯正したのだが、姉や母の前ではなんとなく昔の姿に戻ってしまう。
 身長は茴とほぼ同じなのだった。姉は四十一になるのか、自分のことはさておき、介護職という重労働のなかで、昔に変わらずなめらかな顔をしていると思う。
 サーモンピンクのニットワンピースを着て、クリームモヘアのカーディガン。通販カタログのモデルのように普段着の姿が整っている。茴のまっすぐなままの睫毛と自分のマスカラで伸ばした睫毛のどちらが長いだろうと毬は考える。茴は毬の視線をつかまえて軽く目だけで笑った。鶸の介護をほとんど知らなかった妹をなじることはできない。あのころ自分も優しいとは言えなかった。それどころか。
 何のための信仰なのか、とずっと考えている。何のためにキリスト者なのか。好きこのんで「身をかがめて他者の足を洗う」仕事を選ぶひとは少ない。また自分もイエスに倣うほど真摯な姿ではないと思う。福祉コミュの善良な同僚たちも。
物質的な報酬以上の何かを無力な他者に捧げる気持ちが続かなければ、こうした仕事はつとまらないにせよ。
 信仰のおかげで、イエズスを身近に想うことはできる。それは人間との対話とは別だ。キリストその人こそ、生涯迫害され卑しめられたではないか。「他者の足を洗うものになれ」という御言葉を茴はアリバイにしたくない。だがしているかもしれない。
 茴は窓のほうを見た。クリスマスの名残のポインセチアとシクラメンが小春日和になごんでいる。シクラメンは白い。陽奈が買ってきた。言葉を選んで茴は言った。
「お母さん、施設ですっかり落ち着いたの」
 妹に知らせずこらえた苦痛はやがて彼女の誇りに変わる。それを誇りとひとに知らせなければさらに。
ころりん。携帯が鳴ってメールが入った。
ギャザリングからの連絡。篠崎月さんと湯浅徳蔵さん退院、ケア再開。それでは初夢は正夢だった。

「篠崎さんは今ほとんど寝た状態よ。身体介護、あなた大丈夫ですか?」
「もちろんできます。どの程度ですか。退院が速かったので驚きました。骨折したのに一か月で」
「そうねえ。だから重症じゃなかったってことなんだけど、何と言ってもお年でしょ。入院すればどうしたってがっくり来るのよ」
「はい」
「介護認定の更新はまだなんだけど、とにかく、前より負担は大きいわ。もうお掃除はいいから、まず食事介助とオムツ交換」
「食事介助も必要なんですか」
 茴は胸が縮んだ。あの闊達でほがらかな、満月のような丸顔の篠崎さんが、自分でごはんも食べられなくなったのかしら。
「ケア依頼書にも書いたけど、朝の朝食ケアから始めて欲しいの。八時半からね。下肢筋力がだいぶ衰えて、もう自分では歩けないから、朝行って、できたらポータブルに座らせて下さい。起きれないようなら、オムツ交換になるね。息子さん夫婦も毎日は来れないからワーカーが入る日はあたしたちがやる。で、そのあとベッドにサイドテーブル寄せて、篠崎さんをベッドに座らせて、朝食を食べてもらって下さい。今のところ、お粥とかおかずとかだいたい普通食も食べれるらしいけど、気が向かないときはいやがるって。そういうときは、とにかくラコールだけでも飲ませて服薬。これだけでまあ、一時間半は過ぎちゃうわよね」
「ですね…。お食事は自分でできますか」
「食べたいときは自分で食べてるって」
「朝ごはんは、前みたいにあたしたちが作るんじゃないんですね」
「レトルト介護食中心。台所の段ボールの中にいろいろ種類があるから、見繕ってください。ときどきはお嫁さんが夜のうちにお粥とかご飯を用意してくれることもあるし、そのときはメモがあるから、そちらを食べさせてって。ご飯かお粥とおかず一品ね」
「わかりました。リハビリは行ってらっしゃるんですか?」
「まだですよ。退院したばっかりだから、自宅生活に慣れてから、デイケアに通うかどうか。それにしてもねえ」
 ギャザリンングはさっぱりとした、余分な感情のこもらない声で言った。
「篠崎さんも年だからね。これ以上落ちないようにケアしていくという方向で」
「はい。で、湯浅さんは」
「あちらは前とほぼ同じです。結局首の腫れも癌じゃなく、リンパ腫ということで、このひとももう手術する年齢でもないから様子見ってことなんだけど」
 ギャザリングの声は少し沈んだ。
「もう直しようがないということだから、たぶん自宅療養で通院。結構腫れちゃったらしいよ」
「患部を見てないんですか?」
「まだね。篠崎さんところと湯浅さんのところは、担当者会議が正月明けにあって、詳しい相談をするんだけど、とにかくヘルパーがとりいそぎ入らないとどっちもやってけないからって。息子さんの話だと、湯浅さん、ちょっと排泄危ないらしい」
「オムツとか?」
「自分で座ることはできるらしいんだけど、始末がわからなくなっちゃったって。リハパンをあげるとか、お尻を拭くとかね。ご飯なんかは前と同じように食べれる。だから、ちょっとてんてこまいだけれど、排泄の見守りと介助お願いします。お尻とか、床ずれとか、痒いところあったらアズノール塗る」
「湯浅さんと篠崎さん、認知どうですか?」
「はっきりとは言えないけれど、前ほどクリアじゃないよ。高齢者が長期入院するとやっぱ鈍るのよ。だけど自宅でまた活性化するかもしれないじゃない」
 向野ギャザリングは、それが彼女の性格らしく最後は明るい声で締めた。彼女はよく働くワーカーだった。六十代半ばくらいだろう。茴が福祉コミュで働き始めたとき、最初の訪問介護に同行して付き添ってくれたのが彼女で、待ちあわせ場所に自転車で現われた初対面の向野さんは、おずおずした茴を頭のてっぺんから爪先まで眺め、あよろしくと短く挨拶をくれた。可もなく不可もない声。何度も洗濯され、陽に干されて古くなった履き心地のよい布の運動靴のような挨拶だった。
 電話を切って茴は改めて新年のカレンダーを確かめた。篠崎月さんのケア日程は新年から変わり、月曜日ではなく水曜日の朝一番、八時半から十時になる。鶸のところへは彼女のあとに回ればいい。去年までの水曜日のワーカーの都合が悪くなったとかで、これまでの月曜日の茴のケアと交代だ。
 仕事初めは湯浅さんから。それにしても篠崎さんの激変がこわい。夢に見た老女は記憶の月さんとは似ても似つかない。まるで能面の「痩せ女」だった。そんなひどく変貌していなければいい。身体介護もひさしぶりだ。腰大丈夫かな。肩首、腕、だいじにしないとチェロ弾けなくなるぞ、と茴は右手を上から、左手を下から背中で組んで握手した。無理せず左右の手を肩甲骨の上で結べる、まだ柔らかい。そんなに丈夫でもない細い体でいくつかの身体介護をこなせたのは、持ち前の柔軟性のおかげだ。
 そこでもう一度携帯が鳴った。
「あ、忙しいところたびたび悪いんですけどね。あたし心配だから篠崎さんの年明けケア、あなたと行くわ。あたしも状態見ておきたいし。月曜日は別なケアがあるから行けないので。利用者宅五分前待ち合わせでいいよね」

 火曜日は午前中から空模様がぐずつき、朝の天気予報で昼過ぎから湘南でも雪が舞うかもしれないと聞いた。モノレール蘇芳山で降りると桜沢の自宅を出たときよりも空はずっと重い鈍色によどんでいて、ちらちらとほそい雨の糸が顔に降りかかってきた。駅周辺の桜並木はそれでも新芽を枝にはぐくみ、つぶらかな膨らみが雨の気配にしっとりと濡れて、寒さのなかでも活き活きして見えた。彩を消した冬の街並みのところどころに寒椿の赤が目立つ。
「こんにちは、いっぽの森です」
 昨年と同じように、入口のドアは鍵がかかっていない。息子さんは仕事。老父をひとり瀟洒なマンションに置いて、強盗も犯罪も心配しなくてすむのは、やはり鹿香・香枕という風光明媚な風致都市ならではの恩恵だ。
 玄関もきれいに浄めてある。松は過ぎたのに、まだ正月のリースが壁に飾ってある。靴箱の上に五色の錦を敷いて、紅白の梅の盆栽小鉢が見慣れずあたらしい。
「おひさしぶりです。森です。あけまして」
 挨拶と一緒に暖簾をくぐったが、リビングとダイニングに人けがない。こんな悪天候では日当たりもないので、外から入った茴の目に、屋内は真っ暗に見える。暖房だけ入っている。室内に漂う、嗅ぎ慣れないが覚えのあるいくつかの薬品の匂いが昨年と違う。それにかすかな尿臭。
湯浅さんは寝室だった。
「こんにちは」
 声を柔らかくしてドアを押す。
 湯浅さんは電動ベッドに寝ている。去年までは普通のパイプベッドだったのに。茴は天井灯をリモコンで点けた。徳ちゃんは両眼をぱっちり開けていて、茴のほうを見て笑った。
「やあ、おめでとう」
 枯れてはいるがはっきりした声で新年の挨拶をくれた。
顔はすこしもやつれて見えない。むしろ両頬がふっくらと、太ったように見える。バーバリーの赤と茶色、ベージュの格子模様の素敵なパジャマ。首には薄いブルーのチーフ。
 顔が去年よりふくよかに見えるのは、リンパ腫のせいかもしれない。
それはあとで確かめよう。
「今年もよろしくお願いします。バイタル測りますね」
 上下の血圧やや高め。血中酸素もまず平常。
「お起きになれますか。お手洗いすませてそれからお昼にしましょうね」
「ははあ」
 にこにこと徳ちゃんは笑う。あんまり無邪気な笑顔で素直に茴の指示に従ってくれるので、うっかり涙もろくなる。安全で優しいケアのためには余分な感情移入はしない。
 ごほっ、と徳ちゃんは咳き込み、
「トイレ行こう」
 電動ベッドの背上げをしなくても徳ちゃんは自力でサイドレールにつかまって体を起こし、ゆっくりとベッドから足を下ろした。素足に室内履きを急いで穿いてもらう。
 杖なしでは室内でも移動できないひとなので、茴の両肘をつかんでもらってトイレへ誘導した。足どりは以前よりずっと弱々しい。予想はしていても多少こわい。うっかりよろけて徳ちゃんが転んだら、茴は彼の全体重を支えられるだろうか。いきおい声かけが必死になった。
「いいですか、左右かわりばんこに足を出して、いち、に、いち、に」
「あかんぼじゃないんだからわかりますよ」
 徳ちゃんは閉口したように茴を遮る。茴は逆に嬉しくなった。
「あはは、それならオッケーね、はいすみません、このまま、ゆっくり」
「はい、はい」
 元気そうな応えを聞きつつ、ふとまた思う。徳ちゃんの余命はあとどのくらいだろう。リンパ腫ってどんな? 
 徳ちゃんは個室の便器の前に立つと、茫然とした顔で茴を見た。
「すまないがねえ、手が利かないんで、下ろしてくれますか」
 手が不自由ということはギャザリングも言ってなかったぞ。でも湯浅さんがそうおっしゃるんだから、そうしよう。
「はい、じゃおズボンとパンツ下ろしますから便器に座っていただけますね?」
 集合住宅の個室は狭い。互いの肌がすりあう近接距離での男性高齢者の排泄介助は経験がないので、覚悟はしていたものの茴の額と脇の下に汗がにじむ。ついでに誘導の敬語が妙な具合に歪む。ときめきとは真逆の心拍が聞こえる。これもちいさな修羅場なんだろう。
 膝まで露出させてから徳ちゃんの背中に両手をまわし、抱えこんで支えながらゆっくり座ってもらった。茴の背中と壁面はぎりぎりだ。体格のいいワーカーではこの介助は無理だ。他のひとはどうやっているんだろう。
「ありがとう」
 徳ちゃんは爽やかな声で茴を労わった。
「じゃ、外でお待ちしてますから、終わったらノックしてね」
 お小水だろうか、大きいほうかな。待ち時間が惜しいから、手早く両手を洗い、キッチンに行って昼ご飯をセットする。冷蔵庫には去年と同じできれいに調えられた1プレートランチ。おみおつけはなし。かわりにヨーグルトドリンク…。
 ノックが聞こえ、あたふたと戻る。徳ちゃんは便器に座ったままだ。
「すみませんが、よろしく」
 介護用ゴム手袋をぴたっと填める。グローブの手は自分の手ではないみたい。
「おしっこですか? 大きいほう?」
「うん、小さいほうだよ」
 座らせたときと同じように両手を背中に回して立ってもらう。そして備付の手すりにつかまって暫くそのままの姿勢を保持してもらう。
 もらう、元気をもらう。介護ではずいぶんたくさん高齢者さんからもらうことやものが多い。福祉コミュの同僚も、また世間一般の介護職のコメントなどでも「利用者さんから元気と笑顔をもらってます」と何度となく耳にし、また目にする。ケアさせていただく、さまざまな学びをいただく…こんな心と言葉ですべての高齢者を労り尊ぶことができる介護福祉がいつまでも続けられるなら、日本は幸せな国だと思う。
 パジャマズボンは重かった。交換し忘れたパットが尿を吸っている。新しいものをパンツに入れようとした茴の手に、ぽとんと雫が落ちた。それから続けざまにまたぽたぽた。
「あれえ」
 徳ちゃんは残り僅少な白髪頭をガリガリと掻いた。終わったと思ったんですけどね。
「ちょ、っとだけですね」
 ちょっとばかり茴の言葉が切れる。失禁ではなく残尿だろう。トイレットペーパーをからからと巻き、まず自分の手と、それからパジャマの上着をまくりあげて徳ちゃんを拭く。
 袋の真ん中に頭を埋めた先端に、涙のような露が膨らんでいる。攻撃性を失いこじんまりと落ち着いた楕円形の受け口に、茴はそっとペーパーを押し当てた。力は入れない。肉を押すなまな感触もなく、紙を隔ててなかみのない袋が揺れる。
「悪いねえ、あなたみたいに若い子にこんなことさせて」
「いえ」
 そんなに若くもありません、と口の中だけで呟く。若くても若くなくても、こういう場合の驚きの質は変わらないだろう。既婚未婚性体験云々とも別だと思う。目の前の、静かにタナトスに向かい始めた肌一枚の寂しさをエロスの眼で判断するのこそ、ケアワーカーとしては失礼で冒瀆と思える。他の職業のひとは知らない。
 ごく自然に、主よ、と茴は心のなかでイエスを想った。母との葛藤、夫の急死、さらに介護を始めてからというもの、何千回マリアとイエスを想ったろう。恨んだこともある。だがそれでも、イエス、イエズスは必ず終生裏切らない隣人なのだった。
「すっきりなさいましたか?」
 徳ちゃんは少し顔をしかめて笑った。苦笑いのようだ。いくつもの情緒を含んだ微妙な笑顔が作れるのはまだ意識が…少なくとも今は…クリアということだ。
 声は明快だった。からりと一言、
「サンキュー」
 茴は吹き出した。サンキュー? 初耳かも。病院で覚えたのかな。今まで聴いたことないぞ徳ちゃん。

ハッシャバイ・オーライ  チェリー・トート・ロード vol9

Posted by 水市夢の on   0 comments   0 trackback

   ハッシャバイ・オーライ

 峰元君は機敏に働いてくれた。茴と飯島さんを水品紗縒の家に連れてゆき、故人の娘というひとに二人を委ねてしまうと、
「僕、薬局に行ってリハパンかおむつ買ってきます。駅前のドラッグストアならいろいろあるはずだから」
 くるりと踵を返して、駆け足に今来た道を戻っていった。
 遺作展示に訪れた当人の血縁に助けられる、という偶然のなりゆきに、茴は驚く余裕もなかった。
門のところまで来て、飯島さんはまた立ち止まり、見知らぬ古民家に足を踏み入れるのをいやがったが、重厚な大島をすっきりと襟を抜き、裾短かにきりっと着付けた若い女主人は、いやがる気配をつゆも見せず、飯島さんの手をとってくれた。
「お茶さしあげますから、どうぞ」
「あなた、お召し物が汚れるわ」
「え、そうですね」
 茴が気遣うと、紗縒の娘は端正な横顔にかるく笑みを浮かべ、手は握ったままだが、足元あやうくよろよろしている飯島さんから少し体を離した。いい娘さんだな、と茴は眺めた。過度な善人アクションをしない。峰元君のコットンデニムと彼女の泥染め大島とでは善意の犠牲度がざっくり違う。
 いい紬だ。着丈を短く着付けてもおはしょりの襞がちいさい。ということは彼女に合わせた仕立ではなく、譲られたものか、アンティーク、もしかしたらヴィンテージレベルかもしれない。箱根細工のような細かい亀甲の織模様、こくのある染めの風合いなど、現代の生地とは思えない。和服好きな茴は、こんな非常時でも大島紬の品定めに眼が動いてしまう。ケアワーカーとしてはたいへんよろしくない物欲根性だが、飯島さん本人も、
「いいねえ」
 と涙の後の残る顔に他愛ない笑をひろげて、着物の袂を触った。茴はひやりとする。幸い飯島さんの手は汚れていなかった。
 表玄関からではなく裏口に案内された。昔の農家のようなつくりだ。勝手口からすぐにバスルームに入れるという。
「お風呂お使いになりますか?」
「そんな申し訳ありません。シャワーで大丈夫。でもいいんですか? この方」
 茴は最後まで言いあぐねる。飯島さんの腰から下、そして靴の中まで汚れているだろう。屋内に上がる前に、まず足を拭かなければ。
「あの、ほんとに失礼なんですが、ぼろ布ありますか? 使い捨てできるような」
「雑巾では?」
 落ち着かなければならないのだが、茴は泣き笑いしたい気分だ。若い彼女は失禁した高齢者の下半身を想像できない。足首までぐずぐずした汚物で覆われているかもしれないことを、どうやって婉曲的に伝えたらいいだろう。
「こちらの始末をしたら使いまわしはできないでしょうから。古いタオルのような」
「はい…」
 ダイニングの向こう側の引き戸がからからと開いて見知った顔が現れた。百合原だ。
「あら、茴さん」
 臙脂色のタートルネックのセーターに、きっと自分で染めたに違いない鬱金と藍の片身代わりのトーガを重ねている。サッシュはセーターと同じ臙脂。大きな緑色の天然石をゴールドチェーンと組み合わせたペンダントを下げている。華やかな姿は記憶に残る以前の百合原と寸分違わない。じかに顔を合わせるのは二年ぶりくらいだろうか。
「どうしてここへ、おひさしぶり」
 勝手口に立ったまま途方に暮れた茴と、その横で茫然としている飯島さんを見ると、挨拶の半ばで百合原はすばやく事情を察してくれた。彼女は障がい者支援事業をしている。
「透姫子さん、タオル出して、それからキッチンペーパーでもいいから、どっさりお願い。早くしないとこの方風邪ひいてしまうわ。浴室に暖房つけて」
 てきぱきと追い立てる。百合原香寸と紗縒がどんな関わりだったのかわからないが、香寸は紗縒の娘をすっかり支配している。助かった、と茴は神と聖母に感謝した。今は香寸も紗縒の娘も天使に思える。紗縒の娘はすきこ、というのか。
「着替えがいるでしょう。透姫さん、何かある?」
 いったん消えて、また現われた透姫子は白い割烹着を紬の上に着ている。キッチンペーパーのロールを二巻茴に手渡すと、すっかりこの場を仕切っている百合原に向かって、
「母の寝間着があります。でも下着は」
 茴は慌てて口をはさんだ。
「下着はいりません。さっき峰元君が買いに行ってくださったので」
 
  陽奈と連れだって銀座に出かけた先週の主日に増して、この日曜もめまぐるしく過ぎた。結局水品紗縒の展示も見るどころではなく、飯島さんの体を浄め、彼女をタクシーで「やすらぎ」に連れ帰ったら、短い冬の日中は終わってしまった。
 バスルームで飯島さんのパジャマを脱がせたら、リハパンではなく、普通の下着に厚手の尿取パッドを装着していただけだった。これでは尿が溢れても無理はない。高齢者用のリハパンは高性能で、種類にもよるが、相当な吸水力と、横洩れ防止機能があるはずだった。幸いお尻のほうは、アクシデントに逆上した茴が危惧したほど軟便ではなかったので、ペーパーであらかたを拭き取り、そのあとシャワーで陰部洗浄した。
 普段入浴介助を受けている飯島さんは、脱衣場までくると条件反射的に温和で、自分から上半身の脱衣をしてくれたが、セーターの下にパジャマを着て、その下にさらに薄手のブラウスを重ねていた。長袖の肌着も二枚着ていて、今は真冬であり、本人が痩せ細ってもいるから、ちょっと見には異様な厚着がわからなかった。下半身はパジャマとパンツだけで、靴下も穿いていなかった。
 「やすらぎ」の職員は何をしているのだろう、と茴は降ってわいた事件の疲れも加わって怒りを覚えた。施設では毎朝職員が入居者へ個人対応し、寝間着から普段着への身支度をケアするはずだ。こんな手抜きをして、と茴は母親を任せていることもあり、いやな気持になったが、すぐに、これは飯島さん自身がワーカーの着せたものとは違う衣類を、手当たり次第に着替えてしまったのかもしれないと思い当たった。
衣服の混乱は認知症高齢者にはありがちだった。だが、それにしてもリハパンを穿かせていないのはいかがなものかと思う。飯島さんは日中尿取パットで過ごせるひとではないだろう。
 峰元君と透姫子が用意してくれたあれこれに着替えてバスルームを出ると、百合原だけがほうじ茶を用意して待っていてくれた。
「透姫子さんと峰元君、ギャラリー行ったわ。もう客入れが始まるのよ」
「助かりました。あなたがこちらと昵懇だとは知らなかった」
「水品紗縒の仲間だったの。茴さんのお母様といっしょ」
「母も?」
「知らなかった? 結構仲が良かったんじゃないかしら。鶸さんはファンというよりは紗縒さんの遠くの知人という感じかな。あなたは妃翠房に来たことないわね」
「ええ」
「この家の表半分、ちょっと凝ったショップになってます。今度寄って。あなたの好きそうな骨董あるわ」
「ここが妃翠房なの? 名前だけは知ってます」
「そう、今は紗縒の娘さんが継いで、あたしたちも共同経営してるの」
「骨董って、かんざしや櫛笄もある?」
「ええ。数は多くないけれど、いいものよ」
「覗きたいけれど、別な日に来るわ。娘さんにお礼もしなくちゃいけないし」
 タクシーに乗ってから、茴は「やすらぎ」に電話した。もう三時だった。もっと早く連絡しなければいけなかったのだろう。
座席に座ると、茴は自分の穿いたブルージーンズの膝から下がすっかり湿って冷たくなっているのに気付いた。飯島さんを浄めるとき、裾をまくっていたはずだが、湯気や飛沫を吸ってしまったのか。上に着たアルパカのチュニックはそれほどでもないようだ。それにしても師走の街からいきなりバスルーム、そしてまた外へ、と気温差の激しい出入りで、暖房の効いた車内にいるのにずっと背筋が寒い。
 飯島さんはどうだろう。様子を眺めると、襟元をきっちり合わせたコートとマフラーに埋もれるようにうつむき、眼をつぶってタクシーの揺れに身をまかせている。眠りかけているのかもしれない。彼女が風邪をひかないといいけれど、と茴は心配する。高齢者の風邪はやすやすと肺炎に進行するから。
 「やすらぎ」事務担当者とつながると、聞き覚えのある誰かの、悲鳴のような安堵の声が携帯の小さい送話口から飛んできた。
「よかった、よかった。もう警察に連絡しなくちゃとか、消防がいいかとか、心配どころじゃなく、ああ、ありがとう」
 三藤町の施設事務室の電話口にかじりついている職員の取り乱した姿が目に浮かんだ。
「いつ飯島さんいなくなったんですか?」
「昼ご飯の前よ。風邪気味でお昼欲しくないって駄々こねて、ワーカーが勧めても拒否して自室にひっこんじゃったの。こっちも忙しいでしょ。日曜は〈いっぽ〉の介助ワーカーも来ないから、下の事務も総出でフロアに入るじゃない。みんなてっきり飯島さんお部屋にいると思ってたのよ」
「それじゃ、飯島さんタクシーで鹿香まで来たんでしょうか?」
「でしょうねえ。通院で鹿香にいつも行く医院があるでしょ。そのとき介助ワーカーがタクシーの運転手に話すことを聴いてて覚えてたんじゃない。お財布だけはいつも肌身離さず持ち歩くひとだから、お金もちゃんと払ったんでしょ」
 事務担当ワーカーの声にも安堵のうちに疲労が滲んでいた。「やすらぎ」の食事時は、介助ワーカーにとって分刻みの戦争だ。自立して食事がとれない入居者が、各フロア五人はいる。週日なら茴の属する〈いっぽ〉など外部の介護士がヘルプで入るが、日曜はそれがない。
 食事介助ヘルプは、往復の通勤時間がかかるのに時給対象になる仕事時間は短く、非営利を標榜する福祉コミュでもワーカーの好まない仕事のひとつだった。ことに日曜となれば、夫や家族の世話のために主婦は家にいなければならない。
 平日より少ない人手で、施設ワーカーたちは各フロア十人の入居者について、食事開始前のトイレ誘導から始まり、ひとりひとりの食前食後の服薬管理、厨房からワゴンで人数分送られてくる食事の盛り付け、配膳、中で食事拒否する入居者がいれば、そのひとが食べ始めるまで、あの手この手で食べることを勧めなければならない。
 摂食拒否は体調からというよりも、やはり認知症高齢者の食欲中枢の狂いから起こることが多いようだった。でなければ、わざとワーカーを困らせて、自分に関心を引き寄せたがる心理かもしれない。
 そして後片付け。食器洗い、お茶出し。この他にも嚥下障害のあるひとにはとろみをつけたスープ、お茶を準備する。
 「やすらぎ」のフロア日勤職員は、原則一人でこのすべてをこなさなければならないのだった。茴は毎週水曜日に鶸のために昼から夕方まで「やすらぎ」に詰めるので、およその事情を知っていた。つくづく「やすらぎ」の職員はよく働くと感心する。入居者の一人が食事拒否などして騒ぎ始めたときに、別な誰かがトイレへ行きたがる、そして対応するフロアワーカーは一人、という事態が頻繁に起こっていた。
 ワーカーはアクシデントに優先順位をつけて、手際よくさばいてゆく。しかし不手際があってもおかしくない坩堝の時間だ。そして坩堝は大小とりまぜたくさんあるのだった。

 騒動の疲労は翌日も茴の中に溜まって抜けなかった。今年は第四主日の翌日の月曜がイヴ、続いて降誕祭というあわただしい暦になっていた。
 イヴが櫂の命日に当たるので、夫の死以来、心重い季節になっている。それでも去年はイヴも降誕祭もちゃんとミサにあずかった。ホスチアをいただいたからといって、櫂への哀惜がやわらぐということは正直全くなかったが、いっさいを主の御旨に委ねる、という諦念に似た静けさは与えられた。自分がいったいどんな罪を犯して突然夫を奪われたのか、と神に訴えた時間もあった。それは長い時間だった。
 三年過ぎて、自分に形見として残された娘が成人するという今年に入ってから、櫂の死、ではなく櫂の不在あるいは非在が、記憶と感覚のなかでぎざぎざした刺を失い、角をまるめ、あたかもリビングにいつのまにか備え付けられた小さい家具のように、茴の心のなかで眼立たない一部となって日常に同化してきた。歌人の大西民子だったろうか、夫と別れた後の空白を、象徴的に「椅子」に象って歌ったのは。
 椅子、なるほど生きていたころの櫂は座り心地のよい大きな椅子ではあった。そして今、茴がときどき心の中で腰をおろす思い出の椅子は、踏み台くらいの小さな木の丸椅子で、長く座り続けることはできなかった。
 悪寒をがまんしながら月曜午後の松井須磨子さんのケアを済ませたあと、自宅に戻って熱を測ったら三十七度七分ある。好都合なことに、明日火曜日の湯浅徳蔵さんは、首の腫瘍の検査入院で、ケアキャンセルになっていた。降誕祭には出席しよう、と今夜のミサは休むことにした。そうでなくとも、荘厳なミサの最中、突然櫂の急死の衝撃があたかもトラウマ記憶のフラッシュバックのように襲ってきて、ベールを被り祭壇の前にこうべを垂れても、この晩の祈りは到底心安らかとは言えなかった。
 飯島さんは大丈夫かしら、と茴は寝床で昨日の騒動を思い返した。自分が責任を負わねばならないアクシデントではないから心配することは少なかったが、認知症高齢者の失認と失行をありのままに受け止めると、かつての鶸との葛藤がよみがえってきて、これは喜怒哀楽よりもずっと乾いた、人間の終末を眺める寂しい景色で心を流れた。この穏やかな風化も、鶸の安定と施設入居によって確保できた距離のおかげだ。
 夫の命日だからというわけではなく、微熱に浮かされた体が中途半端に苦しく、茴は自分の衣装箪笥の一番下の抽斗から、櫂の遺品をいくつか取り出して、寝床の中に持って行った。匂いが残っている。性を忘れたわけではないが、女とは不自由なものだ。少なくとも、主婦の日常をだいじにしたい平凡な女にとって、肉体の渇きは、それが道徳的法律的に正当な欲求であっても、たやすく満たされるわけではない。
(陽奈がいる)
 陽奈の敵意をおそれてはいない。だが、七歳から愛情を注いで、我ながら上出来に育てたと眺める娘の視線に、うすぐらいものを見るのは、同居しているうちは耐えられないだろう。それなら、下手でもチェロのアルペジオに苦闘しているほうがいい。性欲はときにエキセントリックなアレグロ・アパッショナートのように襲ってくる。風邪の高熱とどっちがましだろう? 衝迫をあやす自分の弓使いは。
 掛け布団にすっぽり頭まで埋めて猫のようにまるまっているうちに、緩い睡魔が来てくれた。魔というほど強くないから眠りの精が訪れて、茴のでたらめなボーイングをなだめてくれたようだ。体の節々の痛みをいつしか忘れ、滅多にないことだが櫂の思い出がそのまま夢につながった。命日なのに、茴は花も用意しなかった。妻のつれなさをなじって櫂が冥土から戻ってきたのだろうか。
「茴ちゃん、大丈夫?」
 覚めたくない夢ほど途中で終わってしまう。寝顔をぽちゃぽちゃした手で触られて眼を開けると、毛糸の帽子を被ったままの陽奈がベッドの真上から自分を覗き込んでいる。天地逆さになった義理の娘の顔が、今まで自分の傍に…夢で…いた櫂に酷似していることに茴は驚いた。それほど似通っているとはふだん感じられなかったのに。
「熱っぽいね」
 陽奈は手のひらをぴったりと茴の額に押しつけて目をくりくりとさせた。少し笑っている。寝込んでいる母親を心配している顔ではなかった。きっと茴の寝顔はそんなにやつれていなかったのだろう。いつからわたしを見ていたのかしら、と茴は陽奈の目を覗いた。もうじき二十歳になる娘の目は澄みきって、茴の羞恥心を測る屈折は見えない。
「微熱よ。喉乾いた。ポットからお茶か…」
「葛湯作ってあげようか」
「できるの?」
「幸府のおばちゃんが葛湯セットくれたでしょ」
「ああ、それでいいわ」
 幸府市には鶸の実家がある。故郷に鶸の兄と姉は健在で、今も夏と秋にはその地方名産の桃と葡萄が兄姉どちらかから送られてくる。箱の中には果物以外にも必ず地元のお菓子や山菜などが入っていた。
「晩御飯はどうしましょうか」
 尋ねる茴の声はキッチンに入ってしまった陽奈には聞えなかったようだ。代わりに、開けっ放しの寝室の入口からカイトがぬっと現われた。むくむくした首の回りの毛並が暖房の風にふくらんでたてがみのように見えなくもない。もともとライオン顔だから、正面から見るなら百獣の王だ。けれどもぴんとたって柔毛がそよぐ二本の兎耳は、王者にしてはどうしようもなく可愛らしかった。
「あんた、いたの」
 茴は上半身を起こした。夕方戻ったときにはいなかった。体と頭が重い茴は、カイトのために、袋売りのアンパンをどさっと大皿に積み、それといっしょにボンレスハムのブロックをまるごとひとつ開封しておいた。神出鬼没のカイトが視野に見えても見えなくても、茴も陽奈も気にしなかった。世話も手間もかからない大きな愛玩動物だった。茴が寝ているときにカイトはどこからか戻ってきたのだろう。
 おいで、と手招きするとカイトは嬉しそうに目をほそめてベッドに両前足をかけ、ぐいぐいと茴を壁に押しつけるように大きな頭で甘えてきた。ふさふさした首回りの手触りはやはり兎の毛のように柔らかかったが、顔のほうでは短い剛毛に変わっている。金褐色に黒い楕円の縦筋の入った両眼だけが、おおらかな顔のなかで酷薄な印象だった。
「鳴かないね、おまえ」
 うん、とカイトは茴の手を舐めた。濡れたサンドペーパーみたいにざらざらした触感だった。カイトの舌は茴の手よりも大きい。この口腔にひきずりこまれた死霊を見たことこそ夢の出来事のようだった。
 ひょい、とカイトはベッドに飛び乗った。茴の伸ばした足の上にどっしりと腰を据え、両前足はひろげて茴を自分の体の下に抱え込む姿勢をとった。金と黒の山羊の目が、今は茴の顔を斜め上から見つめている。カイトの口が半開きになった。
このけものの匂いをどう形容したらよいのだろう。動物は食べたものの匂いを放つ。カイトに茴が食べさせているものはこどもだましの菓子パンやハムだが、本当のところカイトが栄養を摂っているのは横死した人間の魂、ということらしい。それなら、この酵母のような、あるいは蒸れた干し草のような香ばしさは、人魂のものということだろうか。
 茴に覆いかぶさる金褐色のカイトは温かく、餓鬼とはいえ墓場の陰惨な景色は少しも連想されない。匂いは心地よく、けものらしく熱っぽいが植物質とも思える。人体を離れた霊魂は進化の過程を遡り、植物の静けさに還るのかもしれない。
カイトは雄だろうか。厚ぼったい腹の紺青の毛波はところどころ毛先が光って、その光沢はまるで螺旋の銀河、巻貝の渦のように見える。
ふわっ、とカイトは大口を開けた。茴は両肘をベッドについて、けものを見上げ、
「おまえの重さは、夢の重さ?」
 くずゆできたよっと勢いよく陽奈が入ってきた。ミッフィーとハローキティのマグ。ミッフィーが茴だ。
「あ、こら、カイトはあ、茴ちゃんを喰おうとしてる。あんたはアンパン食べてなさい」
 葛湯を載せたトレンチをサイドテーブルに置いて、陽奈はぱしんとカイトの頭の後ろを叩いた。カイトは眉間に皺を寄せたが、反抗して吠えるでもなく足音をたてずにベッドから飛び降りた。その跳躍は猫のようにしなやかだった。
「夢を見たのよ」
 カイトは陽奈と茴の間にうずくまった。ぺろりと舌を出して自分の鼻の頭を舐めている。
「どんな夢?」
「櫂さんが出てきた」
「今日命日だもん。すごい。やっぱパパ寂しくって成仏できないんだよ。あたしね、パパに上げようと思ってお酒買ってきたんだ」
 リビングの食器棚と本棚の間に、小さな祭壇を設けていた。十字架、イエズスの画像、白い陶器の聖母子、そこに櫂の遺影もある。
 茴は櫂のために毎朝故人の愛用のティーカップに紅茶を上げていたが、娘は飲兵衛だった父親の好みを承知して、毎年酒壜を買ってきた。日本酒の年もあり、ワインの年もある。
「何を買ってきたの?」
「ヘネシー」
「うわ、高かったでしょ」
「だってどうせ一年かけて二人で飲むじゃない。紅茶に入れたらおいしいよ」
 けろりと陽奈は言う。それもそうだ。毎朝櫂に上げるダージリンに垂らせば、彼も文句はないだろう。
「えらいなあ。あたし今年も何もしてない」
「茴ちゃんまだそんな余裕ないよね。そういう顔してる」
 まだ帽子を被ったままの陽奈は葛湯を啜りこんで言った。茴は驚き、
「どんな顔?」
「うーん。深刻っていうか、でもへらへらしてるんだけど、つまり、普段の顔の向こうにもうひとつ悲しそうな顔が見える」
「うまいこと言うわね。お母さんに褒めてもらえるよ」
「ママの小説の受け売りじゃないよ。ママはそういうの書かないじゃない?」
「あはは」
 軽く笑ったが、娘の洞察と表現の鋭さに舌を巻く。少女のアンテナは敏感だ。悲しい、か。でも。
「あたしは、まだ実感できないのよ。櫂さんがいないってことがね。それが情けない。自分の中で対象化されないでいる。宙ぶらりん」
「だから命日に動けないんだよ」
 ずずず、と陽奈は音をたてて葛湯を啜り、あっけらかんとしめくくった。
「茴ちゃん、そういうのやっぱ未練だって」
「あ、そう」
 ここは陽奈の結論に同意しておこう。フリーズドライに固めた感情の塊が茴の内部で、ことん、と揺れる。残り少なくなったお菓子の箱を揺するように、夢が覚めたあとの今寂しい。
 茴は話をもとに戻した。
「それでね、目が覚めたらあなたが見えて驚いた」
「あたし? なんで」
「あなたたち親子がこんなに似てるなんて初めて気づいたの」
「え、そう?」
 陽奈は茴の鏡台を覗いてはにかんだ顔をした。
「あんまり似てないと思う、あ、でも部分似てるかも」
「絵をひっくり返すと、正位置では見えない要点がちゃんと見えるでしょ。さっきそうだった。あたしも陽奈がこんなに面変わりしたのに気が付かなかったのよ。やっぱり成人するんだなあって、しみじみ」
「風邪っぴきのときにしみじみしないで」
「まあね」
「小さいころのあたしの顔のほうがよかったってこと?」
 陽奈は不満そうに口を尖らせた。
「そうじゃないの。まあね、あんたはアイドル顔で可愛いわよ。それは櫂さんとは違う。あたしが育てたんですもの」
「ナニそれ」
「育て方で顔は、ていうか印象は変わるのよ。つまりデッサンが同じでも置いてゆく色彩と絵筆のタッチが変われば、まったく違うものになる」
「うん」
「あたし、やっぱりあなたの育て方間違ってなかったって、さっき思ったの」
「ナニそれ」
 今度は陽奈は嬉しそうだった。茴の言葉は半分真実、半分嘘だった。嘘の半分は、陽奈の目を逸らせるために言った。布団のなかにはまだ櫂の遺品がある。陽奈は気付かない。気付いていないだろうが、この娘は処女であっても女なのだった。
分母を等しくする加減乗除の計算心理の気恥ずかしさが饒舌を呼ぶ。夫の夢を見たなどと、最初から話さなければよかったのだろう、だがそれでは心を包む表情の折り目からきっとこぼれてしまうものがある。
「陽奈、あなたボーイフレンドとかいないの」
「ギャー、茴ちゃん熱あるよ。そういう質問初めて聞いた」
「そうだっけ」
「うん。どうして? 気になる?」
「二十歳だもんね。もう」
「そういう問題かな。年齢って関係ないよ。あたし、ユニコーンとお友達」
「ふうん」
「ユニコーンなんて空想の動物だと思ってたけど、カイトが出てきたから、もしかしたら実在するのかもって」
「そうね、いるかもね。明日クリスマス、じゃあ先約はなし?」
「例年どおりフリー、アルコールフリーplusシュガーレス。糖質ゼロ。健全すぎ。あ、もしかしてこのほうが不健康?」
「どっちでもいいわよ。病気でなければ。約束ないのなら、観光気分でいいからいっしょにミサに行こうよ。その前にあなたに成人式とクリスマスのプレゼント買ってあげる」

 花飾りなどは縮緬の細工物で、色の褪めたアンティークよりは新作のほうが人生の門出にはふさわしいだろう。
 妃翠房の品揃えは現代作家のジュエリーとアンティークが半々、という印象だった。作家作品は手に取りやすい棚にはだかで並び、高価な時代物は鍵つきのガラスケースの中にある。ケースの中身は和の装飾品がほとんどだが、西洋のアクセサリーも少しあった。
「先日はお世話になりまして」
 まず茴はお礼を述べて、若い女主人の透姫子に菓子折りを渡した。古風な大島がよく似合った透姫子は、今日はピンクのプルオーヴァーに銀色のスパッツを穿いている。何気ないシンプルが舞台衣装のように見えるのは彼女の膝とふくらはぎがすんなりときれいだからだろう、と茴は好ましく眺めた。透姫子さんの恋人ってどんな感じなんだろう。こないだの峰元くんかな、彼も好青年だったけど。
「途中で消えてしまってすみません。百合原さんがいてくれたから大丈夫と思って」
「ええ、もちろん。出番ですから。わたしもあなたのトーク聞きたかったのに。ギャラリーにはこのあと参ります」
 ありがとうございます、と透姫子は営業用スマイルで返した。陽奈は眼をぱちぱちさせて女主人を見ている。店内には透姫子の他に店番はいない。有線放送かラジオからか、オルゴールのクリスマスメドレーが小さく鳴っている。客は観光客らしい二十代のカップルがふたり、棚のビーズアクセサリーの前で、たぶん男の子が女の子に贈るプレゼントの品定めをしている。
「どれがいい?」
 ガラスケースの前で、茴は一応陽奈に尋ねてはみたが、応えを期待してはいなかった。和服を着るのもほぼ初めてという陽奈に、時代物の櫛かんざしのよしあしがわかるはずがない。また茴はこの買い物は自分の好みで選ぼうと最初から腹を括っていた。安いものではないのだし、いつかは手放さなければならない陽奈に、ある意味で感謝のしるしとして贈る。
 夫は突然死んだ。何の前ぶれもなく。そしてこの業界にしてはゆるい職場とはいえ、いのちの終末を見守る介護現場で働き、いくたりかの死を見届けてきた茴は、四十代という、二十世紀のサガンならずとも、古典の世界ならば「媼」「姥」という世代に入って、自分もまたいつ天に召されるかわからない、という感覚を大切なものにしていた。
 二十代初めのころ、ふと思い立って古語辞書をひきながらぼつぼつと読みふけった源氏物語から、相手に櫛を贈ることは、そのひととの「別れ」の意味を含むと知った。それは時の帝が伊勢の斎宮に冊立される皇女の髪に挿す「別れの小櫛」の儀式によるのだが、フォークロアを昇華させた宮廷儀式には必ず深層心理の裏打ちがある。
考えてみれば七歳から手元に置いた娘に対して、可愛がりながらも茴はいつも少しづつ隙間をおこうと努めてきたようだ。きっと母娘というよりは、友人に対する節度を、陽奈について守ろうとしたのだろう。寂しくなく、また息苦しさのない距離。
 これがうまくいったのは茴よりも陽奈のほうが本能的にかしこかったせいだ。
「着物が赤いから、どうしようかなあ」
 陽奈は開けてもらったガラスケースの中におそるおそる手を入れる。彼女が最初に取ったのは黒い蒔絵櫛だった。朱漆と金で杜若と流水、橋桁が描かれている。伊勢物語の八橋を意匠にしたものだろう。なるほど、赤、黒、金の組み合わせは迫力があってよく似合う。
「髪に挿すんだから、衣装の色はあんまり考えなくていいのよ。悪くないのを選んだね」
 透姫子は茴の無遠慮な感想を遠聞きにして笑ったようだった。妃翠房に悪いものはございません、と言いたげな微笑でこちらを眺めている。
「あたしはこれをあなたに贈りたいけれど」
 茴は水色のサテンを張った箱からひらりと一枚を掬った。この櫛一枚と振袖に締める西陣の全通袋帯と値段がほぼ等しい。それくらいいいではないか。着物一式揃える出費がないのだから。
 扇流し文様螺鈿櫛。黒漆の地に螺鈿の扇流水が虹を浮かべて典雅だった。二枚中啓に開いた扇面の模様は片方が桜、もう一枚は秋の菊。春秋の華をかざして末広がりを祝う。これなら陽奈がやがて白髪になっても似合う。また洋装にもひきたつだろう。陽奈はうわずった声で、ぼそっと言った。
「渋いね」
「いや?」
「いやじゃないけど、いいの?」
 陽奈の頬が上気している。この子がこれまでにもらったプレゼントの中で一番高価だ。
茴は自分の成人式のころを思い出した。母があちこちの着物のカタログを取り寄せて何か言っていた。自分はいい加減に聞き流し、写真を見せられてもはかばかしい返事をしなかった。娘が何を言おうと、鶸は自分の買いたいものを選ぶとわかっていたせいもあったが、あのころの自分に帯と着物の値段を気に掛ける配慮があったろうか。妹に至っては、振袖よりも海外旅行のほうがいいと宣言したくらいだった。
 茴は陽奈が最初に選んだ黒と金の櫛を見て言った。
「杜若もいいけれど、伊勢物語の別離を暗示するようでちょっとね。扇は吉祥だし、あなたにとっては最初の櫛だから」
「あたしわかんない。いせ?」
「からころもきつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞおもふ。夫婦離別の逸話よ」
 古典和歌をよどみなく暗誦する茴を見る陽奈の眼に畏怖が混じる。これも距離だ。
これでいい、と茴は思う。この子をちょっとずつ心から離してゆこう。鶸のように知性では自立を言挙げしながら、情緒で娘を締め付ける女になりたくない。
「これに決めた」
 茴はこちらを見ている透姫子に決定の視線を送った。
陽奈は感動した口調で呟いた。
「きっとこの櫛が最初で最後の櫛かも」
「そうね…。指輪やネックレスとは違うから。まあ、ままははとしては、おばあさんになっても白髪になっても日本の女なら
髪をだいじにしなさいっておせっかい」

ミッション・イノセンタブル  チェリー・トート・ロード vol8

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   ミッション・イノセンタブル

 まぶしいですか、と茴はさっきからずっと冷蔵庫と電子レンジを往復している自分を見ている湯浅徳蔵さんの耳元へ口を寄せて尋ねた。茴の立ち働いているキッチンは、陽射しから離れた北側で、蛍光照明はついているが薄暗い。湯浅さんは 日の当たるリビングルームから顔を背けるように、台所のほうばかり見ている。
耳元で尋ねるのは、湯浅さんの耳が遠いせいだ。多くの難聴高齢者と同じように湯浅さん、もとい徳ちゃんも補聴器をいやがり、ほとんど装着しない。それほど重症ではないから、大声でなくても、傍ではっきりと発音すれば意思の疎通ができる。
「んー、あー、ねえ」
 徳ちゃんはきりっとした男前に、曖昧な笑みを浮かべ、キッチンで動きまわる茴から眼を離さない。
 火曜日の十一時半から蘇芳山での昼食介助ケア。父親と息子だけの男所帯というのに掃除の行き届き、無駄のない清潔なダイニングには、いつものように、レストランシェフの長男が調えた美味しそうな1プレートランチ。
先週、徳ちゃんは口癖の「ああおいしい」を連発しながら、茴の羨ましそうな視線に見守られて、御馳走をぱくぱく食べていたのに、今日はちっとも箸が進まない。
「食欲ないの? 徳ちゃん」
「なんだかねえ」
 ぼうっとした表情で、徳ちゃんは箸の先でマカロニサラダをこねた。こねるだけで口に運ぼうとしない。眼をしょぼしょぼさせて、茴をじっと見つめる。
 おかしいな、と茴はそこで気合いを変えて徳ちゃんの様子を観察する。両眼は充血していない、顔色も悪くない。ケア開始時に測った体温血圧心拍酸素量のバイタルも平常。
 この間ずっと、徳ちゃんはキッチンのシンク前に立っている茴を見たままの姿勢を変えない。眼だけしきりにぱちぱちしている。
変だ、と茴は徐々に異常に気付いてゆく。
 日光は南面のリビングにあふれ、そちらのガラステーブルには長男が豪華な紅いシクラメンを飾り、その隣にはとりどりのオーナメントや星を吊ったミニチュアのクリスマスツリーまで立っている。目に快いのはごたごたしたシンクの暗がりではなく、花や樅の木の飾られた明るい居間の方だろうに。
「徳ちゃん、あっち、シクラメンきれいですね」
 茴はにこにこしながらリビングのほうに徳ちゃんの注意を向けた。うん、と徳ちゃんは素直に頷いて、リビングルームに首をねじったが、視線はシクラメンとツリーをほんの一瞬掠めて、すぐにまた茴の立っている暗いほうに戻ってしまった。
「まぶしいの? あっち」
「まぶしくない」
 またぼそっと徳ちゃんは答えた。茴は時計でケア時間を測り、ともかく食事を進めようと、徳ちゃんの手に箸を握らせた。徳ちゃんは気のない手つきで箸を持ち、ご飯を口に入れたが、茴が期待した「ああおいしい」発言は出てこなかった。それどころか、
「もういいや」
「え、なぜですか。だめですよ」
 だめですよ。言ってはいけないケア禁句もつい洩れてしまう。
「食えねえ」
 徳ちゃんは箸をテーブルにぱらりと置き、その手で無精ひげの生えた下顎のあたりを撫でまわしている。茴はかがみこんで眼を凝らすと、徳ちゃんが指三本でしきりに抑えている顎の付け根にしこりを見つけた。
首のそちら側は南から光のあたる方で、高齢者の乾いた皮膚の下に、骨や腱の硬ばりとは明らかに違った不健康な白い隆起がありありと見えた。
(これのせいで、窓のほうを見なかったの)
 そちらを向くと首の腫瘍が痛むのかもしれなかった。 
「ここ、痛いですか?」
 徳ちゃんの指の上から、茴はそっと患部を指摘する。徳ちゃんは首を振った。茴を見上げるその怯えた表情に、はっとして笑顔を作る。徳ちゃんはまた首を振って、用心深く、
「痛く、ない」
 いつも気が向けば、するするつるつる喋り続ける陽気な徳ちゃんの口が、今日はほとんど回っていなかった。失語傾向の高齢者のように、ごく短い単語しか出てこない。
 それも腫瘍のせいだろうか。
「いじらないほうがいいかな、徳ちゃん。ご飯無理なら、お薬だけ飲みましょうか」
 できるだけ温かい声で服薬を勧めた。食欲がないのも、もしかしたら飲み込みにくいせいかもしれない。息子さんはまだ知らないのだろう。こうやって徳ちゃんが日光から顔を背ける姿勢で首をねじらなければ、組織に埋もれた腫れ物は見えてこないのだから。
 患部を発見したものの、ケアワーカーは医療行為はできないので、茴はともあれ昼食後の服薬を見守り、トイレ誘導、それから寝室で休ませた。トイレは湯浅さん一人で済ませたし、用を足した後の手洗い、歯磨きもいつもどおりできた。着脱は介助が要るが、これまで以上に体の動きが鈍いということはなく、痛みも訴えない。ただぼんやりと言葉すくなく、横になると徳ちゃんはすぐに目を瞑り、軽い鼾をかき始めた。
 茴は寝室の扉をちゃんと閉め、キッチンに戻ると、自分の携帯からギャザリングに電話した。ケアの異変は地域ギャザリングワーカーにまず知らせることになっている。運よく向野さんはすぐにつかまった。
「息子さん知らないみたいだね、それじゃ」
「だと思います。腫れ物に痛みはないようですし、パジャマに着替えるときに全身の素肌を確かめましたが、首以外に異常なむくみや湿疹などもありません」
「ケアマネに連絡して、できるだけ早いうちに医者に行ってもらうことにしましょう。湯浅さんもじき特養の空きが出るってときに、気の毒だねえ」
「はい。息子さんに特別にメモ残しますか?」
「いいよ、あたしから言う。普通に連絡ノートに状態を記録しといて。それに晩御飯のワーカーがまた入るしね。彼女にもこれは知らせておくし、首の患部の確認とってもらって、ひょっとしたらまた状況が変わるかもしれないからね」

 来週の今日はもう降誕祭、いや、心臓に正直に思い出すならその前日に櫂の命日が来る。しかし、茴は櫂の一周忌はしなかったし、三回忌もしない。彼は主の慈悲にあずかってきっと天国にいることだろう。洗礼は受けさせてあげられなかったが、イエズスのふところは宇宙大に広いからあたしは安心しよう。
 それに今年は、迂闊にも突然気づいた陽奈の成人式の衣装で茴の心痛はだいぶ紛れる。
 湯浅さんの家を出てしまうと、茴は徳ちゃんの症状についてくどくどと気を回すことはしない。介護をはじめて足かけ四年、この間に茴の担当した高齢者さんの何人かがひっそりと他界していった。その方たちは最終的に病院で息をひきとったので、在宅介護で最期の看取りまで経験したことはまだないが、認知症であろうと、クリアであろうと、死に近い高齢者には共通する寂滅の気配があって、それを見守り寄り添ううちに、哀悼を超えた諦観のようなものが身についてくる。
 もちろん利用者は他人だから冷静でいられるという理由もあるが、人ひとりなだらかにこの世から彼岸へ送り出す煩雑を底辺で支えていると、悲嘆の感情に揺さぶられること自体、病者に対する非礼のような気がしてくるのだった。高齢者の晩年に寄り添う、というつとめは介護従事者の個人的な感情とは別なものだろう。その一方で、いくばくかの利用料で一定時間淡々と働くだけのワーカーのほうが、ときには、いや、しばしば高齢者のかけがえのない心の支えになっていたりすることもある。
 家事介護に入る独居高齢者の家族が懇切に老親を見舞うことは少ない、と茴は思う。茴自身、心身ともに手に余る母の介護を他人であるヘルパーたちにおしつけ、ある時期呵責から逃げたから、それを責めることはできない。肉親の錯乱は血がつながっていればいるほど耐え難いだろう。
幸い鶸は施設で安定し、回復はみこめないが、破綻と平穏の波を客観的に見極められるようになった。
 湯浅さん宅か ら戻ると、茴は鶸の残した衣裳箪笥を開いた。三棹ある桐の箪笥のなかには、鶸と茴と毬の和服が百五十枚ほどある。
 曾祖母の代から着物道楽の家系だった。茴の成人式のとき、鶸は二枚中振袖をあつらえ、毬のためには一枚新調した。長女と次女とで差別したのではなく、毬は振袖は要らないと言ったのだが、鶸は着ない娘のためにも加賀友禅を作った。和服をあつらえるのは、きっと鶸自身の楽しみのためなのだった。
 結局毬は茴の結婚式のときにだけ振袖をまとい、それはまだ茴の箪笥の中にある。舞台女優を目指した毬は中途半端にさすらって自力で和服を着るたしなみをおぼえなかった。それでも性格のよさと美貌は彼女を救い、毬の夫は寛容な暮らしを妻に与えた。この夫婦にも子供がいない。
 どうせ着ないから和服はいらない、と毬はつねづね言っていたから、叔母の加賀友禅を陽奈に譲ってもいいかもしれない。地色は藍色。肩と裾模様に宝尽くしと四君子を組み合わせた古典柄は、今時の趣向とは違うが気品があり、華やかだ。
 色白の毬には藍色がさえざえと映えたが、小麦色の陽奈の顔にはひんやりとした藍よりも可憐な赤系統のほうが似合うかもしれない。紅地に、贅沢な匹田絞りを飛び雲に大きく意匠した京友禅のほうが、ごく普通に可愛らしい。鶸は袋帯まで、振袖一枚ごとに彼女の好みで揃えていた。ずいぶん贅沢をしたものだ、と茴は畳紙をひらいて、文字通り絢爛豪華な全通袋帯の金襴緞子を眺めた。
 チェロ も弾かなくてはいけない。だけど櫂のためにも、陽奈の二十代の初めはできるだけ華やかに調えてあげたい。
くふん、と鼻を鳴らして、茴の寝室から猫のような忍び足でカイト・キメラがすりよってきた。
「触っちゃだめ。染みになるからね」
 人間の皮脂、それに動物の肉球の湿り気などは、上等の絹には厳禁だ。
 カイトは兎耳をやわらかく後ろに寝かせ、くつろいだ表情でぴったりと茴の脇腹に頭をおしつけてきた。
 この甘ったれなけものが餓鬼だとは。しかし餓鬼とはいったいどういう邪悪なのだろう。古典文学を気の向くままに読み込んだくらいで、仏教には疎いクリスチャンの茴には、むしろ悪魔、悪霊のほうがわかりやすい概念だ。
一昨日の横須賀線で自殺者の魂を貪りくらっていたカイトの凶暴と獰猛は今、微塵も感じられない。銀座で出会った紫羅という美しいヘルマプロディトスにもっと詳しいことを聞いてみようか。メアドが記された名刺をもらっている。信じられないほど端麗な青年だが、応対に権高な雰囲気はなかった。茴を好いたようだし。
 ひょい、とカイトは紅の長着に片方の前足をかけた。こら、と茴がライオン顔カイトの長い鼻筋を叩いてしかると、けものは金褐色とモスグリーンの背中の毛波をふうっと機嫌悪く逆立てたが、牙を剥く反抗は見せずにひきさがり、両前足を重ねて顎を載せた。
「可愛いね」
 茴は敏感な兎耳を避けてカイトの頬や首を撫でてやる。緻密な毛並にゆったりと、冬の寒気にかじかんだ手のひらが沈んであたたかい。悪魔でも餓鬼でも手につたわるカイトの感触は心地よい。餓鬼というものが死霊のヴァリエーションなら、陽奈の言うとおり、これは中途半端に突然死した櫂の、茴への愛惜かもしれない。それなら。

 翌日水曜日は「やすらぎ」のクリスマス演奏会だった。義理の娘の晴れ着に気を取られ、チェロの準備は怠ってしまったが、午前中全曲をざっと総ざらいして、まんべんなく瑕のない程度にまとめた。茴の演奏を聴いてもらうというよりも、唱歌やクリスマスメドレーなどは、主な聴衆である入居者さんたちに、いっしょに歌ってもらうために弾くようなものだ。
認知症が重くなって、音楽を受け身に鑑賞することができない高齢者も、自分自身参加して歌うことはできるのだった。歌ったそばからすぐ歌詞を忘れてしまうにしても、みんなの脳裏を走りぬけてゆくその日その時の一瞬、心からのよろこびとともに声をあげてくれる、ことがある。が、その逆も。
 やさしい笑顔で丁寧に誘っても受け入れず、どうにかヘルパーに誘導されて客席に座ったものの、むっつりと中座し、介助さえも拒んで失認状態のままどこかへ行ってしまうひともいる。常態ではないそれぞれの感情の機微を傍から予測できない。
 鶸は依然からのクラシックファンなので、茴のチェロを喜んでくれる。ただし褒めない。「やすらぎ」入居後もプレイヤーを持ち込み、気分のいいときには世界のヴィルトゥオーゾの演奏を鑑賞するだけの知性が鶸にはまだたっぷり残っていた。
 衣裳やチェロの搬送に手間取り、昼食時間より少し過ぎて鶸の部屋に入ると、鶸は自室のテーブルの上にデリバリーのピッツァを用意して茴を待っていた。
「ひよこは来ないの?」
「忘年会だそうよ」
「そう。おまえ今夜何を着るの。まさかジーンズじゃないでしょうね」
「ブラウスとロングスカート。ピンクのサテン。どっちも」
「ああそう。まあ、どうせ音楽のおおかたはみんなわかりゃしないんだけどね」
 鶸が投げやりな口調で言い捨てたので、茴はひやりとした。周囲を見下したような物言いは、鶸の脳血管障害と片麻痺が回復するにつれ、増えてきているような気がする。
 病の兆候もなく健康なとき、こうした唯我独尊的なまなざしは、苦労知らずの鶸の個性のひとつだった。それは欠点とばかりも言えない。おどおど周囲の顔色を伺うことなく、鶸は独善的な自分の感性を信じて文章を書いていたから。もっとも、負けず嫌いでよく勉強する作家ではあった。旧家に生まれ器量もよく、人並み以上の才能に恵まれ、さまざまなめぐりの良さにあずかって、皆が羨む望み通りの職業に就くことができた女というものは、家族にとってはときどき嬉しくない存在になることがある。
 脳血管が破裂して数年前に絶筆した鶸の作品は、ボールペンよりも高速度で文芸が費消されてゆく当世では、すでに過去のものとなりつつあるが、代表作のいくつかは電子化されて余命を保っている。病んで年齢を重ねても、なお美しい女なので、その魅力もあるのだろう。絵描きの長女と女優志願だった次女は、母親の文芸作品よりも、鶸の「絵になる」美貌のほうが、よろずの価値がデジタル・ヴィジュアル化されるこの世の通行手形としては確実だと思っていた。
「ピザ、お母さんが頼んだの?」
「そうよ。たまにはこういうあらっぽいの食べたいわ」
「夜は御馳走なのに」
「だってピザは出ないからね」
 昼食が済んだ階下の厨房では、そろそろスタッフが勢ぞろいしてケーキやチキンの仕上げを始めているころだろう。福祉コミュの配食サービスは、施設高齢者向けのパーティメニューも商品に揃えていて、キッシュやサラダ、ローストビーフやカナッペなどは、じつに食べやすい大きさと歯ごたえに調えられてワゴンで運ばれてくる。「やすらぎ」のスタッフはそうした外注メニューとは別に、フルーツポンチやデコレーションケーキなどを自作する慣わしだ。主婦歴○十年に相応の料理自慢もいるのだった。
「ピザなんか…でもまあ、いいか」
 茴はデリバリーピザのケースを開き、母親と自分の前に紙皿を置いた。鶸は、
「オレンジジュース、ううん、トマトジュースにしておこうかな、夜甘いものたくさん食べるから」
「お母さん、その前にお手洗い行きましょうか」
 茴はこういうとき、ケア時の他人行儀な声になる。鶸は素直に立ち上がった。洗面所とトイレは共同ではなく、入居者それぞれの個室にある。高額な有料施設だけあって、車椅子でもゆったりと出入りでき、手すりや洗面の位置も配慮が行き届いていた。
 便座の前に立って、鶸は茴に一切を任せて満足そうな顔をしている。片麻痺もずいぶん回復したから、時間をかければ排泄も一人でできるが、やはり茴は急いであれこれさっさと片付けてしまう。これが仕事なら、「高齢者の残存能力を生かす」ために、不必要な手は出さないに違いなかった。
 施設に入ってから、鶸は常時リハパン着用になっている。膝まで下ろしたリハパンの股間部に濃い茶色い染みがあった。下着は水分を溜めてかなり重くなっている。一回だけの排尿ではなさそうだ。鶸には失禁の自覚がない。鼠蹊部に麻痺があるのかもしれない。それは娘でも尋ねにくいことだった。問いただしても鶸はきっと正確に応えない。
食事前だが、腰まわりを交換したほうがよさそうだ。午前中のワーカーは何をしていたのだろう、と茴は憤慨気味にフロア担当者を思い浮かべるが、借りたい猫の手も見つからない施設の状況を察することにした。午後に仲間内ケアワーカーの茴が来ることがわかっていれば、こんな物日はどうしたって、介護度の軽い鶸などは後回しにされる。

 アドベントの最終、第四主日のミサはもうじき降誕祭ということもあってか、聖堂に集まった信徒の数は多くなかった。ミサにあずかる熱心な信者は、どうしても高齢者が多いから、イヴと当日の夜間聖体拝領めざして、ふだんの日曜ミサは体調管理のため自宅に籠っているのかもしれない。
 司祭の純白のアルバの上に、長い掛け帯のように左右均等まっすぐ垂れた濃紫のストラが目に鮮やかだった。大聖堂内陣は白い漆喰で、眼に立つ色彩は司祭の紫とカリスの黄金だけだ。献花は白百合、淡いピンクの透かし百合。紫の印象の方が圧倒的に強い。
 紫と黄金の組み合わせなら、たぶん一般には王権の象徴だろうが、キリスト者にとって紫は受難の色だ。悔い改め、懺悔、苦行、節制、キリストの尊厳と待望、悲しみ、厳粛さ、そして祈りを象るという。
 アレルヤ唱を歌おうとして、茴は声が出ないことに気付いた。それでようやく、自分の肉体がすっかり疲れているとわかった。
 この一週間何をしていたろう。月曜日はさりげなく過ぎた。火曜には湯浅さんの腫瘍を発見し、水曜日には母のケア、それからクリスマス演奏会。木曜日は休んで、陽奈を連れて振袖に合わせる正装用の草履そのほかの小物を買いに横浜へ出かけた。和服など着たことのない娘だが、茴の勧める紅地裾暈しの中振袖をコスプレ感覚で喜んでいた。
 彼女がこれから和服を着こなす女に成長するかどうかわからないが、最初に髪を結うかんざしや髪飾りなど、成人式だけのその場しのぎでなく、一生ものの上等を買ってやりたかった。これをきっかけに和のものに興味を持ってくれたなら、あの世の櫂も喜ぶだろう。
 帯揚げ、草履はデパートで適当な品が見つかったが、かんざしは気に入ったものがなかった。晴れの当日まであまり時間がないが、買い急がないで伝手をたどろうと思う。新作よりはアンティークでもよいのではないか。現代工芸には見られない優雅がある。
 金曜日、土曜日、そして今日だった。司祭のストラの紫は、ちょうど陽奈が選んだ絞りの帯揚げの色と同じだった。生地全体にびっしりと高いしぼの帯揚げは振袖の濃紅によく映るだろう。若い娘のまとう着物は派手なほうがいい。着物がすっかり過去の文化遺産、非日常になってしまった今日びはなおのこと、思い切って華やかに身を飾るのがいい、と茴は思う。
 陽奈の選んだ色には受難の匂いはなく、助六由縁江戸桜の粋な鉢巻の江戸紫に近い。
 声が出なくなるほどなぜ疲れているのだろう。ケアワークの合間にチェロに集中し始めた。そのせいかもしれない。演奏するときは必ず歌う。心で歌う。実際に発声していなくても、声帯は緊張し、粘膜は充血するから、数時間も弾き続けると、そのあと喉がひりひりすることもあった、と茴は昔の経験を思い出して、少し安心した。
 教会を出ると、段かづらから鹿香八幡宮につながる小町通に足を向けた。春夏秋冬観光客で混雑する騒然とした表通りから、さらに奥へひとつふたつ路を分け入ると、間口の静かな、さりげない居住まいのショップが民家に混じって点在している。民家といっても地価税金のただならぬ旧鹿香市街に一戸を構えていられるのだから、こじんまりとしていても壁が厚く、戸主の住まいへの好みを自在に表した瀟洒な建築が多かった。どの家も少し手を入れればギャラリーでもブティックでも、また喫茶店、バーなりとも開業できそうな雰囲気だ。
 その一角のあるギャラリーで、鶸の旧知の挿絵画家の展示がある。女流歌人でもある作家は一昨年亡くなっている。このひととはまた、百合原香寸を通じてもつながっており、ダイレクトメールは香寸から来たのだった。
今日が日曜の午後では、平日ならそれほど混雑しない鹿香の奥向きも人波しきりだ。作家本人は亡くなっているが、今日は画廊にそのひとの娘と百合原がいるはずだった。香寸は会えば楽しい女友達のひとりだし、彼女は茴に歌人の娘を紹介したがっているようだった。
 花屋、古書店、一膳飯屋、骨董屋、低い軒をばらばらにつらねた街並みは鄙びて、また雅びに感じられる。おかしなことだ。古語では鄙と雅とは対照される景色のはずなのに。金属と硬化ガラスで武装する都会の洗練とは別に、二十一世紀の日本では、土と緑の湿潤を豊富にまとうのも、地価の高い鹿香ならではの贅と雅の演出だった。
 手入れの行き届いた山茶花の生け垣が丈低くつらなる一筋の先に、目当てのギャラリーがあるはずだ。
先を急ぎかけてふと茴は足をとめ、眼をみはった。
「イイジマさん?」
 紅い山茶花が咲きこぼれる垣根のそばに、見覚えのある老婦人が一本杖をついて立っていた。鍔の短い青いベルベットの帽子、グレーのコート、首にベージュのモヘアのマフラー。それは確か、孫が編んでくれたの、嬉しそうに茴に見せてくれたものではなかったかしら。
 飯島多江さん。そうだ、間違いない。「やすらぎ」の入居者さんで、昨年は茴もこの方の通院時外出介助をつとめたことがある。確か水曜日の演奏会にはいらっしゃらなかった。風邪でもひいていたのだろうか。なぜ今ここに、一人で立っているのだろう。介助のワーカーはどこにいる。
 茴の方を見て、多江さんは曖昧な微笑を浮かべた。それは顔なじみへの親しい挨拶ではなく、途方にくれた認知症高齢者の警戒心を潜めた笑顔だった。
「いいじまさん」
 茴は相手を驚かさないような小声で、でも抑えきれない動揺でうわずっていた。
「どうしてここに? 通院ですか」
 そんなはずはない、今日は日曜日。言ってしまってから気づいた。
「お天気いいですねえ」
 飯島さんはのんびりと返し、古風に指先を揃えて青い帽子の縁に片手を添え、茴に向ける笑顔をさらにひろげた。大きく剥き出しになった総入れ歯が茶色く汚れている。
茴はグレーのコートの下を見た。まず革靴。外履き用に違いない。そして、ズボンはピンクに青い花模様がプリントされたコットンのパジャマらしかった。パジャマの上にコートを着て彼女は街に出てきた。徘徊だ。
「ひ、ひとりで」
 思わずどもる。北香枕から鹿香まで歩いて来られる距離では、一応ある。だが一番近道でも茴の足で二時間はかかるだろう。源氏山を越えたのだろうか。それとも迂回したのだろうか、どちらにせよ。
「誰かいないんですか」
 的外れな言葉しか出ない。
「できますよ、あたし一人でやれるんだからねえ。あなた」
 飯島さんは険しく白目を剥き、一本杖であらあらしくアスファルトを叩いた。茴の頭に血が昇る。
「ええ、そうですね。おできになります。ごめんなさい、失礼なことを申し上げて。飯島さん、でもここは車も通るし危ないから、ちょっと私と御一緒してくださいませんか。お天気もいいですし、お茶召し上がりましょうか」
「うるさいね」
 どん、と骨ばった手のひらで思い切り胸の真ん中を突き飛ばされ、茴のほうが車道にあおむけに転倒しそうになる。認知症高齢者は、譫妄状態になると、平素からは信じられない膂力、腕力を発揮することもある。
茴は一瞬よろけたが踏みとどまって飯島さんの手をつかんだ。譫妄中に走って転んだらまず間違いなく骨折だ。施設内に人気の少ない日曜日、飯島さんはふらふらと「やすらぎ」から抜け出してしまったのだろう。徘徊発見の連絡を事務所にいれなくては。
 片手に飯島さんの手をつかみ、もう一方の手でかばんから携帯をとりだそうとしたとき、多江さんは、きいっ、と声をあげて茴の手に噛みついた。わっ、と茴は叫びそうになったが、がまんした。噛まれるのは初めてではない。また、噛むのは飯島さんだけではなかった。かばんを探る茴の視線は、飯島さんの転倒を恐れて足元に集中した。一瞬、二瞬、視線が泳いで茴は声にならない声を漏らした。
 飯島さんの周囲のアスファルトに、小さな染みが点々とついていた。飯島さんの足跡だった。乾燥した冬晴れの乾いたアスファルトに、水分を含んだ多江さんの小さな足跡。香ばしい尿臭は視覚での気づきのあとに嗅覚に来た。
飯島さんはもう一回茴の手の甲を噛んだ。
「おばあちゃん、何してるの」
通りすがりの観光客が、異様を察して集まってくる。
「血が出てきた、手を離したら」
 今は飯島さんの方が、茴の手をつかんで離さない。
「痛い、です」
 さすがに茴は唸って、飯島さんの口から手を引き抜いた。総入れ歯だから噛む力はそんなに強くないはずだった。だが甲と手のひらには、渾身の反抗で喰いついた歯型と爪痕が赤紫に残っている。血は出ていない。茴の手は飯島さんのよだれでべたべただ。
「放してよったら」
 周囲の誰も多江さんの権幕を恐れて手は出していないというのに、多江さんは幼児のように肩を震わせて身を揉んだ。地団太を踏む多江さんの体からじんわりと滲むあたらしい異臭を嗅ぎ付け、茴は心臓が縮むかと思う。
(冷静に、落ち着け、ああマリア様)
 正直、信仰がなければとても対処できない「予想外」が介護経験ではたくさんあった。泣き叫んでいるのは自分ではなく飯島さんのほうだ。怯え、錯乱し、おしっこを漏らし、その上さらにこの寒気の中で粗相が始まった。
(どうしよう、事務所に電話して、でもお漏らししたまんまタクシーに乗れるかしら。多江さんのリハパンにおさまってくれるなら)
 それは望み薄だ。既に尿が漏れている。粗相が緩ければ、足首に滴ってくるかもしれない。そしたら…。
「ね、暖かいところいきませんか」
 数人か十数人か、周囲の人だかりから飯島さんに声をかけ、近づいてきたひとがいた。失禁に気付いたおおかたの観光客は汚れに触るのをおそれて遠巻きだというのに、赤いダウンジャケットを着た青年はごく自然な仕草で飯島さんのリーチ圏内に入ると、すっと彼女の背中を撫でた。
 老人が彼を振り払うかと危ぶんだが、飯島さんはあんぐりと口を開けて青年を見上げ、抗わなかった。青年は、
「寒いでしょ、風邪ひくとヤバいからね。歩けますね、こっちですよ」
 飯島さんの肩にぐるりと手を回し、彼女を胸の中に抱えるようにした。自分の衣服が汚れるのも平気だ。
「あなた、どこへ」
 尋ねる茴は、親切な青年の語調で同業者だと気づいていた。経験を積んだ介護者が高齢者に接するとき、話し方に独特のイントネーションが加わる。青年にもそれがあった。
「この近くに知り合いがいるんです。このままじゃタクシー乗せられないでしょ。ものわかりのいい家だから、いったん避難させましょう。あなた高齢者さんの知り合い?」
「ええ。この方のケア担当したことあります。ケアワーカー」
「やっぱり。俺もヘルパーなんで、こういう状況慣れてますし、とにかく人目があるからこの方を落ち着かせましょ」
「よろしくお願いします」
 茴は頭を下げた。血色のいい頬に人なつこい笑をたたえた青年は、飯島さんをうまく誘導した。いっとき荒れ狂った飯島さんは、今は青年の広い腕に庇われ、虚脱した表情でこつんこつんと杖をついて従ってゆく。が、
「いやよ、ひとりでやれるからね」
 小さく、子供が駄々をこねるように、飯島さんはずっとぶつぶつ訴え続けている。
「帰るの、もう帰る。家に帰るんだ」
 帰宅願望による徘徊。飯島さんの息子夫婦は実家を整理して遠い関西に移住している。飯島さんの帰りたい故郷はもうない。
 青年は優しく応える。頬の皮膚がきれいで、顎髭などうっすらと生やしているが、きっとまだ三十にもならない、二十代半ばくらいだろうと茴は彼を眺めた。
「帰りましょうね、すぐ着きます。みんな優しいからね」
「こんなとこやですよ」
「だよね。だから帰りましょう」
茴は二人の後ろから付いていった。飯島さんの足跡だけが地面に黒く残る。
 彼の言うものわかりのいい家というのが何なのかわからないが、飯島さんの下半身は相当凄いことになっているはずだ。このままタクシーに乗るにしても、座席にビニールシートか何か敷かなければならないだろう。
「足元気を付けてね」
 青年はおだやかに声かけを続ける。心破れて打ちひしがれた飯島さんはむっつりと押し黙ったままだが、茴の見つめる彼女の横顔から険しさは消えている。一応の安定を見計らい、茴はまず自分の名前を名乗り、
「お名前なんておっしゃるんですか」
「僕、峰元です」
「ヘルパーって、常勤で?」
「いやあ、アルバイトですよ。でも来年介護福祉士受けます」
「あなたみたいな若いひとが増えてくれたら、この業界も将来明るいわ」
「はあ、でも本業にするかどうかわかりません。今のところ本職は別かな」
「あらそう」
「あなたは常勤ですか」
「いえ、わたしもパート」
「そうですか。重労働ですから。女性のほうが忍耐力はあるけど、きついですよね」
 ふと青年は歩みを止め、それまでとは違う種類の声をあげた。
「あ、水品さん、ちょうどよかった」
 青年が合図の手を振る先に、笑顔で応える和服の立ち姿が見えた。みずしな?
 とっさに茴は百合原から届いたダイレクトメールを思い出す。挿絵画家の名前はたしか水品紗縒だった。驚く茴に、青年は続けて符牒の確信をくれた。
「すいません、ちょっと人助け、お願いしたいんだ。ギャラリートークの前でそちらが忙しいのわかってるけど」
 アスファルトの県道はいつのまにか黒土の私道に変わっていた。両側には竹藪や柊の雑木が目につく。観光客の視線を意識した表の瀟洒な街並みからさらにひっこんで、ここらは質素なしもたや風景になっていた。こちらのほうがもともとの鹿香村の姿なのだろう。
 片側の石組みのはざまに石蕗の黄色が数輪、つめたくはなやかに咲き伸びている。師走の陽射しはまひるも寂しい。明るい静けさをまとって、石組みのまたひとつ向こうの木戸の前から、うら若い女性が大島紬の裾前を片手に庇いながら、着物になれたきれいな足取りでこちらに駆け寄ってきた。彼女の若さにはやや渋い紬の袂から、伽羅の香の漂いそうな顔をしている

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