さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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ひとり芝居 吸血鬼カーミラ

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   吸血鬼カーミラ

 1 最初の夢

 子どもの頃、わたくしは不思議な夢を見ました。
 ある晩、ふと夜中に目をさまし、ぼんやりとあたりを見回しました。子守も、乳母の姿も見えませんでしたので、わたくしは自分が一人でいるのだとわかりました。怖い気はいたしませんでした。わたくしはその頃、お化けの話も、幽霊の言い伝えも知らず、蝋燭の火影が壁にゆらゆら揺れたり、夜風に古い扉がひとりでにギイッと鳴っても、それを怖いと感じる理由を知らない、まるで無邪気な子どもだったのでございます。
 恐ろしくはございませんでしたが、わたくしは自分がみんなに取り残され、、一人ぼっちなんだと思い、寝台に座り込んで泣き出したのでした。すると、ベッドの端から、わたくしの寝間着の裾をそっとひっぱるひとがいます。わたくしが顔をあげると、寝台の下に横座りになり、見たこともないきれいな若い女のひとがいるではありませんか。
 わたくしは見知らぬひとに泣き顔を見られたのがきまり悪く、布団のなかへそろそろと後ずさりして潜りこもうといたしますと、女のひとは、わたくしの寝間着の裾を握ったまま、後について寝台にすべりこんでいらっしゃいました。
 嬉しいような、怪訝なような心もちで、どうしたらよいかわからず、わたくしはじっと女のひとに抱かれていました。女のひとはわたくしを優しく撫でながら、小声で歌をうたってくれました。ひんやりとつめたい、その方の肌の感触も泣きべその頬には気持ちよく、また、この方からはなんともいえないよい香がいたしました。
 後年、わたくしが大人になり、夜の花園を散歩いたしましたとき、薔薇の繁みからふんわりと漂う匂いを闇の中で嗅ぎましたが、それはあの夜の不思議な香によく似ているようでございました。
 わたくしはじきにいい気持になり、うとうとと眠りこんでしまいました。ところが、眠ったと思ったとたん、胸のあたりに針でずぶりと刺されたような鋭い感触に、叫び声をあげて飛び起きました。
 女のひとは寝台の傍らに立って息をひそめ、無言でわたくしをじっと見下ろしていました。その瞳は闇の中できらきらと緑色に輝き、まるで獲物を狙う猫の目のようでした。
 ただならぬわたくしの叫び声を聞きつけて、乳母たちが階段を登ってくる物音がいたしますと、女のひとはさっと後ずさり、でも少しも慌てた気配はなく、わたくしの首筋をほっそりした手で撫でて、
「きっと、また会いましょうね」
 とつぶやいたのですが、わたくしは逆に、その指のしっとりとした氷のような冷たさにぞっと恐ろしくなり、あらんかぎりの大声で泣きわめきました。女のひとは眉根を険しく寄せたかと思うと、するりと身をひるがえして床にすべり下り、寝台の下に隠れたようでございました。 
 すぐに大人たちが駆け込んでまいりましたが、部屋のどこにも女の影もかたちもなく、みんなはしゃくりあげるわたくしを、怖い夢を見ただけとなだめすかすのでした。ですが、その一方で、大人たちは小声でささやいておりました。
「ちょいと、嬢やの寝床の脇をご覧よ。誰かあそこに寝ていたんだよ。窪んでいるじゃないか」
「ええ、それにこのむっとする匂いったら!
まるで棺桶の薔薇をぶちまけたようだよ」
 乳母はわたくしが刺されたと言い張る胸のあたりを丹念に調べましたが、何の傷痕もないということでした。
 育ちざかりの子どももこととて、しばらくは毎晩夢魔におびやかされたものの、いつしかこの夢は記憶からおぼろに遠ざかってしまったのでございました。
 十八の年の、あの出来事が起こるまで…
 もっとも、ほんとうにあった現実の経験であっても、時が過ぎてしまえば、記憶の中では夢と区別がつきません。曖昧な現実の思い出と、鮮烈な夢の経験とでは、あざやかな夢のほうが人生に深い影響を与えるとしたら、夢とうつつは、時に優劣を逆転することもございますのでしょう。


 2 登場

 わたくしどもがそのころ住んでおりましたお城は、森の中の小高いところに建っておりました。お城は中世からの建物でして、くすんだ古い石壁に、えぐったような小さい窓がたくさんあり、ゴチックふうの高い礼拝堂や、もう使われなくなって久しい、反り返った跳ね橋などが遺跡のように残っておりました。
 馬車がようやっと一台通れるくらいの小道は、雑木林を抜けて、一方は村里に、もういっぽうは、父のお友達のスピエルドルフ将軍がお住まいの、古城に通じておりました。将軍のお城もまた、わたくしどもの住いにしている城のかつての主で、今はもう断絶してしまったカルンスタイン伯爵家とゆかりがあるらしく、将軍のお城の近くには、カルンスタイン家の納骨堂が、すっかり荒廃した姿で残っているそうでございました。
 爽やかな夏の宵のことでございました。
 わたくしは父とお城の森を散歩しておりました。父は歩きながら申しました。
「スピエルドルフ将軍は御予定どおりにお越しになれないそうだ」
「それではいつごろいらっしゃいますの?」
「秋までは無理らしいな。お気の毒なことに、お嬢さんが亡くなられたのだよ」
 わたくしはびっくりいたしました。将軍は二、三週間前にこちらに遊びにいらっしゃるはずでした。将軍の姪御さんはわたくしと同じ年頃で、たいそうきれいな方と聞いておりましたので、お友達になれるのを楽しみにしていたのでございます。
「これが、今朝届いた将軍のお手紙なんだが、あの気丈なひとがすっかり動顛しておられるようだ。支離滅裂で、ひどく迷信的に興奮しておいでなので、おまえに見せるのは憚られたんだが」
 と、父は将軍からの手紙をひらき、声に出してゆっくりと読みはじめました。
«私は最愛の娘を失った。まさかこんなことになろうとは夢にも思わなかったのです。我々は誠心誠意で歓待した悪魔めにまんまとしてやられた。ベルタのために、わたしは陽気で美しい友人を迎え入れたと思っていたのに、なんと愚かだったことか。せめてもの慰めは、ベルタが自分の死の原因をつゆ知らずにみまかったことです。
 私は自分の余生を、怪物の捜査と撲滅に捧げることを決意いたしました。貴君のもとに参上するのは、いくばくの成果を得てからのことにさせていただきたい。条理のないこの文面のまことに非礼ながら、子を失った親の闇をお察しください。とりあえず調査のためウィーンへ向かう»
 しどろもどろの手紙を、父が読み終えた頃には、夕陽は既に沈み、あたりには黄昏にいろが濃くなっておりました。わたくしは言葉もなく、将軍のお手紙の激した内容を思いめぐらしながら、なんともいえずあやしい気持ちでございました。
 父も無言で、わたくしたちは寄りそって森の小道を歩き、ぐるりとひとめぐりしてまいりましたころには、城の荒れ果てた物見櫓を影にして、ぬるいお濠からたちのぼる、夕暮れのうっすらとした狭霧の彼方に、キラキラと夏の月が輝き昇っておりました。
 父は嘆息して呟きました。
「何とも静かな美しい眺めだね。将軍の悲嘆もこんな月を見ればいくぶんか和らごうというものじゃないか」
 と、その言葉をおしまいまで言い終えぬうちに、城の跳ね橋の前で、馬の鋭いいななきと、絹を裂く悲鳴が同時に聞え、わたくしははっと身をすくめました。
 城の前の小道は片側に大きな菩提樹があり、そのためにいっそう道が狭くなっており、もう片側には、無縁仏のしるしが傾きかかって残っております。夕陽の残影がくろぐろとたなびく丘の彼方から全力疾走してきた馬車は、両側からふいに狭まった曲がり角で均衡を失い、その上、四頭の馬が道に突き出た十字架に驚いて菩提樹のほうへ車輪を乗り上げるように身をよじったものですから、馬車はガラガラっとすさまじい音をたててひっくりかえってしまいました。
 父とわたくしが小走りに駆けよりますと、馬車の中から気絶した少女が担ぎ出されてきたところでした。傍らの年配の婦人が少女を無理に掻き起そうとする様子を見かねた父が、
「奥様、しばらくお嬢さんを休ませなくてはならんでしょうな。ご覧なさい、血の気がぜんぜんありませんよ。無理に動かすと大事にもなりかねんでしょう」
「まあ、大事ですって。この旅ほどわたくしども一家にとっての大事件はございませんのに!」
 と婦人はふりかえり、父をきっと見据えました。ほう、と父が思わず声を呑んだほど、お美しい方でした。すらりとした痩せがたちに、高価な黒びろうどのお召し物、抜けるように白いお顔は少女の母上にしてはみずみずしく、只今の驚きに表情は険しく取り乱しておいでですが、並々でない気品がおありで、一見しただけでよほど高貴な方のお忍びと察せられました。
「生きるか死ぬかのお家の命運をかけてここまで参りましたのに、このありさま。娘の容態は心配ながらも、一刻の猶予もなりません。これでは、この子はここに残し、大願を果たしたあかつきに、またここに娘を拾いに戻るしかございますまい。恐れ入りますが、この近くに娘を託せる手頃な宿をご存知かしら」
「奥様、こんな田舎にお嬢さまにふさわしい宿などありませんよ」
 父は婦人の切羽詰った権幕にたじたじとなりながら答えました。貴婦人は御自分の娘の容態より、御家優先という態度があからさまでしたが、それも高い御身分の方にはありがちなことなのでしょう。
「お父様、この方をお城におひきとめしましょうよ」
 わたくしは父の袖をひっぱり小声でささやきました。召使に囲まれて介抱されている少女の華奢な風情に、わたくしはすっかり同情してしまったのでした。
「奥様がもしもわたくしどもを御信頼してくださるならば、うちの娘のお客さまとしてお迎え申し上げようと存じますが」
「旅先で見ず知らずの方の、偶然の御好意をこうむるのは厚かましすぎるいうものでございますわ」
「娘はかねてより同じ年頃の友達を欲しがっておったのでございますよ。間もなくこちらへ逗留するはずだったある娘さんが、突然お亡くなりになった知らせが届きまして、これはたいそうがっかりしておった矢先でして。いや、貴女のお嬢様には演技でもないことですが、そういう偶然から、こちらにはお客様を迎える用意はすっかり整っておった「わけでして」
 婦人は父の言葉を半ばで遮り、青白い額に手の甲をおしあて、もう結構、とばかりに横を向きました。その人もなげなそぶりに、父が憮然として口をつぐむと、貴婦人はうってかわったしおらしさで、
「それでは偶然のゆかりに甘えて、この子をお預けいたします。不幸な事故もそちらさまのお嬢様とうちの情けない娘との運命の輪が結び合う機縁だったのでしょう。うちの子とお嬢様との相性がよろしければ、未知の偶然、この世ならぬ運命の扉もひらくというものでございましょうから」
 とひどく重々しい口調でおっしゃると、おざなりに父の手を握り、気絶したままの少女にはキスもせず、さっさと馬車に乗り込んでしまいました。
 黒塗りの四頭立て馬車は、それから夏の夕霧をつんざく蹄の音をたてて、疾風のように森影に消えてしまいました。
 馬車が行ってしまうと、あたりはまたひっそりとして、こうこうと輝く月光だけが、水のように城内にあふれています。
 なにもかも、あっという間の出来事でございました。


 3 カーミラ

 翌日、わたくしは午後もだいぶ遅くなってからまれびとのお部屋を訪ねました。
 眠りから覚めたばかりの病人に過度の刺激を避けるため、窓の帳はすべて降ろされ、室内の灯りは寝台の傍らに蝋燭が一本きり。そのほの闇の中で、一族に置き去りにされた少女は寝台の背に寄りかかってもの憂げに俯き、わたくしにきれいな横顔を見せて、傍らのゆらゆら揺れる蝋燭の火に見入っていらっしゃるようでした。
 どきどきしながら少女に近寄り、軽く会釈をしたわたくしは、次の瞬間、あっと息を呑んで立ちすくみました。
 青い絹の花模様の部屋着を着た少女は、わたくしの会釈に応えて、ゆっくり顔を上げ、まだ夢の中のような笑顔を浮かべたのでした。 
 そのお顔が!
 きれいな、非の打ちどころのない美貌でいらっしゃいました。ですが、そのお顔は!
 ……あの、幼いころの夢魔に現われた女の方そのものだったのでございます。
 わたくしは呼吸をとめて、ただしげしげと少女の顔を見つめたまま、挨拶のお言葉を申し上げることもできませんでした。
「まあ」
 凍りついたような沈黙を破り、少女の方から口をひらきました。
「不思議なこともありますのね。わたくし、あなたとそっくりな方に、昔、夢でお会いしたことありますのよ」
「なんですって?」
「もう、十二、三年前にもなりますかしら。わたくし、どこかの古いお城の見知らぬ部屋に参りましたの。夢ですわよ。子ども心にも、ここは自分の知らないおとぎの国なんだと思って、あちこち見回しておりますと、大きな寝台の上に、あなたそっくりのお姉様が泣きながら座っていらっしゃるの。ほんとうにあなたそっくり! 金髪で、青い目で、色白の頬にすこし雀斑が浮いて、お優しそうな方。
 わたくし泣いているお姉様がとてもおいたわしく感じられて、寝台に上がり、そっとお姉様に抱きついたの。わたくしたちはそれから寄り添って寝床に入りましたら、しばらくしてお姉様がキャッと叫び声をあげ、わたくしを突き飛ばしたものですから、わたくしは仰向けに寝台から転がり落ち、そこで泣きながら目が覚めました」
「泣きながらですって?」
「ええ、わたくしてっきりお姉様に嫌われたんだと思って、眠りながらわあわあ大泣きしたものですから、自分の泣き声で目が覚めました。乳母がすぐにびっくりして飛んで参りまして、悪夢だとかなんだとか言い聞かせてくれたんですけれど、わたくし、それから長いこと夢の哀しさを忘れられず、どうかして、もういちどあの夢のお姉様にお会いして、わたくしの不作法を許していただきたいって、そればかり願って夜眠ったものでしたのに、二度と同じ夢を見ることはかないませんでした」
「何ていう偶然でしょう。わたくしも六つくらいのときに、今あなたがおっしゃった夢を裏返したような夢を見ましたの。とても怖かったの。自分でも、何故あんなに怯えてしまったのかわかりませんわ。夢に現れた女の方は、今のあなたとまるっきり同じお顔で、ほんとうにおきれいで、優しくしてくださったのに」
「それでは、わたくしたちは、もうずっと前からここでめぐりあうように決まっていたんですわ。それこそこの世ならぬ縁(えにし)というものでしょう」
 少女はぱっちりした黒い瞳で、じっとわたくしを見つめ、嬉しそうに微笑みました。
 こうしてわたくしと少女はいっぺんに初対面のぎこちなさを飛び越えてしまったのでございます。
 彼女は、カーミラという名前以外、いっさいの経歴を明かそうとはしませんでした。
「なにごとも母が戻ってまいりましたら包み隠さず申し上げますわ。それまでは古臭い血筋の面倒な掟と思し召し、御寛容くださいませ」
 と、カーミラはそれこそ王女のような威厳で冷然と父に申しましたので、人の良い父はさばけた鷹揚な人柄のせいもあり、それ以上の詮索は控えました。
「まあ、あの晩ちらりと拝見した母上の御様子といい、カーミラの姿かたちといい、ただ者ではない。いかがわしい身分でないことは明らかだから、あの冷淡なおっかさまにしても、このまま娘を放り出して雲隠れするような仕打はしないだろうさ」
 父はどうやら、政変がらみの急場だろうと見当をつけているようでした。
「もしもご家族が戻っていらっしゃらなかったら、カーミラはずっとここにとどまることになるのね。わたしそのほうがうれしいわ」
「おやおや、おまえはすっかりあのお姫様に夢中なようだね」
 父はわたくしをからかうのでしたが、ほうんとうに、わたくしは数日のうちにすっかりカーミラにひきつけられてしまったのでございます。
 カーミラは、女性にしては背が高く、ほっそりした姿は風に揺れる柳のようになよやかでした。ちょっとした身のこなしやしぐさにいかにも優雅な風情がおありで、目鼻だちはほんとに非の打ちどころなく整い、憂いを含んだ黒い瞳は表情豊かに、透けるような白い肌をして、ふさふさとしたおぐしが、またとなく見事でございました。
 わたくしはたびたび、ほどいたカーミラの髪の下に手を入れ、そっとそれを持ち上げては、髪の重みに目を見張ったものでございます。すなおな、まっすぐなおぐしで、色は金茶の混じった焦げ茶いろでございました。
 わたくしは、カーミラがお部屋で椅子の背にもたれ、低い、甘い、彼女独特の耳に快い声でお話しているとき、こっそり彼女の後ろにまわっては、ほどいた髪が自然の重さでしどけなく結ばれたのを、手で梳いてあげながら、はらりとまたほぐして髪いじりをするのが好きでございました。まあ、それこそ、なにもかも存じておりましたなら、どうしてそんなことを……


 4 彼女の奇妙な性癖

 カーミラは生来体が弱いというので、一緒に住んでおりましても、わたくしどもとはまるで違った起き伏しをしておりました。
 貧血の持病といって、昼過ぎでなければサロンには降りて来ず、また食の細さは家政婦泣かせでした。
 カーミラが起きてくる時間は、わたくしどもの午後のお茶のころでしたので、カーミラはわたくしたちと一緒にチョコレートを一杯飲み、他はせいぜいお菓子か果物をつまむくらい。お夕食もおおかたは手をつけず、こんなひよわでは、なるほど遠路の旅などできるはずもございません。起きてまいりましても、昼は室内で寝椅子によりかかるか、客間のピアノを弾くかして、決して外に出ようとはいたしませんでした。
「カーミラ、少しお外を散歩しない? 森の風が気持ちいいわよ」
「ありがとう、でもわたくし強い光を浴びると頭がくらくらするの。夕方になったら御一緒してちょうだい。夜風は好きよ。舞踏会の晩、踊り疲れて庭に出ると、広い庭園一面に、色とりどりの提灯が、夜のしめった風に揺れていたのを思い出すから」
「カーミラ、あなた舞踏会に出たことがあるのね。どんな様子なのか聞かせて」
「そんな……あまり昔のことなので忘れてしまったわ」
「あなたときたら、わたしと年も違わないって言うのに、まるでおばあさんみたいな言い方をなさるのね。それとも、そんなことまで万事秘密にしなければならないあなたの御身分柄なの?」
 わたくしが恨めしげに申しますと、カーミラはうら悲しげに眉を寄せ、謎めいた微笑を口許に浮かべました。カーミラはわたくしの手をとってひきよせ、自分の頬に押し当て、低い声で囁くのでした。
「わたくしが素性を明かさないのは薄情のせいではないのよ。むしろその逆。あなたをあまりに大切に思っているから、今は何も申し上げられないの。でも、いつかおわかりになるわ。いずれあなたとわたくしが一心同体になったら」
「それは大袈裟過ぎてよ、カーミラ」
「あなたには、まだ、わからないのよ。無理もないわ。だって、まだ、わずかしか生きていないんですものね。かわいいひと! 人間はなんてみじめなものかしら。この世にごくわずかな時間しか存在を許されず、本当の美や官能のすばらしさを知らぬまま、あっという間に死んでしまうのよ。ごく稀な僥倖にあずかった者だけが、かりそめの人生に隠された永遠の美の世界に入ることができるの。そこでは時の流れは消え、夢は覚めることなく、闇に輝く宝石のように輝き続ける」
「カーミラ、何をおっしゃるのかわからないわ」
「あなたにも今にわかるときが来るの。わたくしがあなたをこの上なく愛しているということだけ、わかってちょうだい」
「あなたの友情を疑ってはいないわ」
 その時のただならぬカーミラの口調に、わたくしは薄気味わるくなり、そうかといって彼女の手をふりはらうこともできず、そうこうするうちに、青白い額にうっすらと汗の粒さえ滲ませているカーミラの顔をはらはらしながら見つめていました。
「カーミラ。あなた変よ? おからだの具合が悪くなったのね。ちょっと横になって」
「平気よ。わたくしには聞えるの。ねえ、あれは讃美歌ね? お葬式の歌だわ。いや、いや、ぞっとする。きっと、村の若い娘が死神の餌食になったのよ。朽ちてしまう者などほっておけばいいのだわ。ああ、怖い。わたくしは死にたくないわ。ねえ、あなた、わたくしを抱きしめて、ほら、窓の外を十字架が通る!」
 カーミラは歯を食いしばり、蒼白になってわなわなと震えだしました。最初わたくしは彼女が何を怖がっているのかさっぱりわからなかったのですが、カーミラが悶絶するほど身をよじり、こちらにぎゅっとしがみついたとき、ようやく城の前の遠い森の名から、風に乗って、きれぎれに葬列の歌声が聞こえてまいりました。
「窓を閉めて、カーテンを下ろして!」
 カーミラが悲鳴をあげますので、わたくしは慌てて窓を閉ざし、帳をぴったりと下ろしました。カーミラは今にも失神せんばかりに寝椅子に仰向けに倒れて四肢をこわばらせ、両の拳をぎゅっと胸の上で握りしめていました。
「カーミラ、カーミラ、今お医者さまを呼ぶわ。しっかりして」
「いいの、誰も呼ばないで。あなた以外のひとを部屋に入れてはだめ。ああ、行ってしまう。汚れた娘の棺が去ってゆく。あれはね、蝶になれなかった芋虫なの。わたくしにはわかるわ」
 カーミラはうわごとのように口走りながら、わたくしの首に両腕を巻き付け、こめかみに唇を押し当てました。そうしていると次第に全身のけいれんがおさまり、氷のような冷たさがほぐれてまいります。
 わたくしは身震いいたしました。カーミラの口づけは、父や乳母がわたくしに情愛でするやさしいキスとはまったく違った感触だったのでございます。
 ひんやりと、それでいて執拗な、餓えた獣のような貪欲が直観され、わたくしは反射的にカーミラを押しのけました。
 カーミラは怒るでもなく、椅子の背にぐにゃりともたれかかり、瞼を閉じたまま、うわごとのようにつぶやくのでした。
「蝶のように、羽化するわ。きっと」


 5 悪夢

 物狂いのようなカーミラの振る舞いに、わたくしは怖気をふるいましたが、発作が治まると、カーミラはまた優雅な美しさで、そうした平静の姿からはよこしまな気配など微塵も感じられません。
 その後も、ときおりカーミラの眸の奥に、得体のしれない光がわたくしに注がれるような気がすることもございましたが、ちょうどその頃、城の周辺にひどく物騒な出来事が持ち上がってまいりまして、カーミラとのささいな波風など、念頭から消し飛んでしまいました。
 領地の村は、長年事件もなく、平和な田舎暮らしが続いておりましたが、最近になって奇妙な疫病が発生したというのです。
 何ですか、村のそこかしこで、娘や、若い嫁などが、理由もなく二、三日患ったあげくに死んでしまったのでございます。慎重な父はむやみに騒ぎ立てることを嫌い、
「たった数人の死人が出たからといって、伝染病だの悪霊だのと騒ぎ立ててはならん。共同井戸の水が悪いのかもしれん。まず十分な調査をしてからでなくては」
「お父様、病気ってどんな症状なの?」
「よくは知らんのだがね、夜ひどく寝苦しく、悪夢に悩まされる状態がしばらく続き、そうこうするうちに全身が衰弱してしまうらしいんだ。しかし、女性というものは本性的にそうしたヒポコンデリーに陥りやすいものなんだよ。偶然引き続いて起こっただけかもしれん。迷信深い村人には困ったものだ」
 ところが、わたくしは心配かけまいと父に黙っておりましたが、その時分似たような症状に悩まされ始めていたのでした。
 夜、眠っておりますと、得体のしれないものが胸の上にのしかかってまいります。それは、ぞっとするような冷たい感触で、喉や胸を撫でまわし、ときには湿った唇のような感じに変わります。胸苦しいものなのですが、熟睡の寸前で意識と無意識の間をとろとろとさまようような、ものうい快さも伴っておりました。
 それから先は全身が冷たい川の流れにひたされるようで、耳の中にさまざまな幻聴が聞こえてまいります。遠くで歌っている澄んだ歌声のようであり、または切ないすすり泣きにも聞こえ、それがじきにハアハアと気違いじみた喘ぎに変わり、強い力で全身をぎゅっと抱きしめられたかと思うと、急に突き放され、暗闇の中をゆっくりと落ちてゆきますが、泣き声のようなせつない喘ぎ声はその間中耳元でずっと続いているのでした。
 朝になって目が覚めると全身冷や汗まみれで、ぐったりと疲れておりますが、悲鳴をあげて飛び起きるようなはっきりとした怖い夢とは違って、まったくわけのわからない混沌とした幻覚でした。
 ですから、村の女房たちが悪夢に苦しんで……という話には一瞬ぎょっとしたのでしたが、そうした女たちは数日のうちに悪化しているのに、わたくしの方は、何が何だかわからない、不透明なまま、ぐずぐずとした状態が何週間も続いておりますので、自分では神経を患っているのかしらと、誰にも言わずにいたのでした。
 ところが、わたくしの変調に、カーミラは目ざとく気付きました。
「あなた、どこかお悪いのじゃなくて?」
「別に――ただちょっと夜の眠りが浅いようなのよ」
「うそ、嘘。あなたの顔色の悪さはただごとじゃないわ。恋煩いのとき、そうした隅が浮くものなのだけれど、あなたはまったくのねんねなのだもの」
「カーミラ、からかわないで」
「いいえ、実はわたくしもずっとおかしな夢にとりつかれているの。まるで暗い沼の底を見えない手でどんよりとひきまわされるような」
 カーミラの打ち明け話は、まったくわたくしの病状と同じでしたので、わたくしはほっとしたような、またかえって不安が倍加したような思いでございました。
「ともかく、村娘たちみたいな急性の疫病でないことは確かね。古いお城には神秘的な力が潜むのかもしれない。あなたのように感じやすい、きれいな少女には、そうした魑魅魍魎が力を及ぼしやすいのね。わたくしの方は、きっとあなたの巻き添えなんだわ」
「なんてことをおっしゃるの!」
「でも、あなたのお付き合いなら、わたくし夜毎の夢くらいなんでもないわ。遠い昔の夢といい、今の二人の症状といい、わたくし、あなたとの絆の深さに驚いているの」
 カーミラはゆるやかな微笑をひろげました。
得も言われぬ笑顔でございました。わたくしは思わず彼女に魅せられながら、またしても始まりそうな、いつもの物狂おしいカーミラの発作を、どうにか冗談事にしてしまおうと、笑いながら、
「カーミラ? それも立派な殿方が現れるまでのことよ。いずれあなたのお母様がお戻りになり、あなたをどこか遠い宮廷にお連れして、あなたはわたしなど想像もできない方と恋をなさるのよ」
「わたくし、恋などしないつもりよ」
 カーミラは、ぷい、と立ち上がり、わたくしから離れて窓にもたれかかりました。
 折しも窓辺には十六夜の月が濡れしたたるように覗いておりました。
 月光を背負って、暗い影になったカーミラの表情はわたくしには見えません。カーミラが窓ガラスに額を押し当てると、月明かりに彼女の端麗な横顔のシルエットがくっきりと浮き上がりました。
 カーミラは低い、びろうどのような甘い声で囁きました。
「あなたとでなければ」


 6 マーカラ

 不思議な女友達に惹かれるいっぽう、彼女の度を越した奇異な愛情表現に、わたくしはしばしば困惑いたしました。カーミラの風変わりは、あるいは都会の爛熟した社交界で培われたものかもしれないと考えることもございました。繁栄がきわまると退廃した快楽がはびこるようになり、そうした社会では逸脱もたいした悪徳とはみなされないことなど、わたくしはうすうす存じておりましたが、田舎者のわたくしには無縁な世界としか思えませんでした。
 とはいえ、夜毎の悪夢のせいか、カーミラはますますものうげになり、熱にうかされたようなまなざしでわたくしを見つめることはしょっちゅうでしたが、なれなれしすぎる行為は絶えてなくなりましたので、わたくしの方はおかげで彼女に対する警戒心が消え、傍目には二人の仲は前にも増して親しくなったように見えたことでございましょう。
 ある晩のこと、グラッツからお城に表具屋がまいりました。父はだいぶ以前に、、お城に長年所蔵されていた絵画を修繕に出していたのでございます。
 ホールにこうこうと燭台が灯され、すっかりきれいになった絵や美術品が、一枚いちまい丁寧に箱から取り出されました。それらの絵の多くはハンガリアの旧家の出だった母が里から嫁入りのときに持参してきたものでございます。
 大部分が肖像画でしたが、どれもが何百年もの歳月に煤けきって、何がなんだかわからなくなっていたものなのです。
「旦那様、これが一番の傑作でございますな。お預かりしたお道具の中では、一番美しい、できのいい骨董でございますよ」
 最後に表具屋が得意満面で取り出した肖像画は、縦の大きさが一フィート半ほどで、大作ではございませんが、なるほど華麗な肖像画のようです。
 一目見て、わたくしは驚きの声をあげました。
「まあ、カーミラ! ここにもうひとりあなたがいるわ。まるでこの絵は生きていらっしゃるみたい。にこにこして」
「なるほど、瓜二つだな」
 父も申しましたが、内心ひどくぎょっとした様子でした。
 バロックふうに広いフープスカートの裳裾を長くひき、ふんだんにリボンをつけたバッスル・スタイルのあでやかな婦人は、まったくカーミラそのひとと言ってさしつかえございませんでしたが、こちらは一六八九年に描かれたマーカラ・カルンスタイン伯爵夫人なのでした。
「マーカラ夫人は、見ればみるほどあなたそっくり」
「そうかしら?」
 カーミラ本人はむしろ気のないふうでした。
「わたくしの先祖にはカルンスタイン家の血も入っているから、きっとそのおかげね」
「この伯爵夫人の、お喉にあるほくろまであなたと同じだわ。あなたは、まるで絵から抜け出た画像のようよ」
 カーミラの長い睫毛がゆっくりと瞬きをしましたが、口許にはまた例の曖昧な微笑が浮かんだだけ、何も答えませんでした。
 父は表具屋と熱心に話し込んでおりましたが、絵を見終わったわたくしとカーミラは、連れだって夜の庭に出てゆきました。
 カーミラはわたくしの背中に手をまわし、うれしそうにささやきました。
「あなたのお母様がカルンスタイン家のお血筋なら、あなたも末裔のひとりというわけね。それではわたくしたちは夢のつながりだけではなく、実際の血縁でもあるわけよ。あの肖像画のおかげで、わたくしは自分がどうしてこうもあなたに惹かれるのか、その理由が少しわかったわ」
 またおかしなことを、とわたくしはどきんとしてカーミラの様子をうかがいましたが、カーミラはしなやかな首を傾け、夜風のさやぎに耳を澄ませているようでした。
「夜の闇は素敵ね。闇は何もかも隠してしまうなんて、想像力のない連中の言い草よ。じっと耳を澄まし、目を凝らすと。月明かりの靄や、暗い森影の中に、さまざまな幻影が湧きあがってくる。闇は自分の内面を映し出す鏡なのよ。夢もまた。もし誰かが、昼の光で見るものよりも、甘美な幻影を夜の闇に描けるとしたら、きっとそのひとは夢まぼろしに身を捧げてしまって、二度と退屈な白日の世界に戻って来たがらないでしょうよ」
「それ、あなたのこと? カーミラ」
 カーミラはわたくしの首に額を押し当てたまま、何も申しませんでした。


 7 スピエルドルフ将軍

 それからしばらく経った朝、父がわたくしに告げました。
「スピエルドルフ将軍が、昨日御領地に戻られたそうだ。至急こちらに会いたいと使いをよこされた」
「ご無事でお戻りになったのね」
「うむ、しかし容易ならん事態のようだ」
 父はうかない顔で将軍からの手紙を眺めておりました。
「お父様、何かあったの?」
「お前は何も案じることはない。将軍は十二時にカルンスタインで待っているということだから、お前もおいで。この季節、遺跡のあたりはピクニックにはもってこいだろう。カーミラはまだ起きて来ないなろうから、目が覚めたら女中を連れて後を追いかけてくるように伝言しておこう」
 父はほがらかな口調でわたくしを誘いましたが、何か隠し事をしている気配がはっきりと感じ取れました。
「お父様、何か隠していらっしゃるの?」
「実はね、あのマーカラ伯爵夫人の肖像画が気にかかってな。先日の将軍へのお便りにちょっと書いたのだよ」
「カーミラのことも?」
「いや、まあ、そう詳しくは書かなんだがね。そしたら将軍はひどく関心を持たれて、即刻ウィーンから帰国されるという。その返事がまた取り乱したものでね」
 ともあれ、父とわたくしは支度をし、馬車に乗ってカルンスタインの廃墟へ出かけました。
 森の中を馬車でドライブするくらい、楽しいものはございません。なだらかな丘や谷間を縫い、どちらを向いても夏の樹木のみずみずしい緑があふれています。高い緑の丸天井に陽光がきらめき、小鳥がさわやかな声でさえずっています。そうして、しみとおるような緑蔭のはざまに、遠い山の景色、近くの小川のせせらぎなどが、とりどりに目を楽しませながら変化してゆくのでした。
 林道を逸れ、カルンスタインの古城の影が青い染みのように森の彼方に見えはじめる山の三叉で、わたくしたちは道の反対側からやってくる、騎馬のスピエルドルフ将軍にばったり出会いました。
「これは将軍! おひさしぶりでございますな」
 父はにこやかに帽子を取って挨拶をしかけたものの、次の言葉を呑みこんでしまいました。わたくしも目を疑いました。しばらくお目にかからなかった間に、将軍は何とまあ面変わりなさったことでしょう。
 陽気な、剛毅な方でしたのに、別人のようにめっきりとお痩せになり、晴れやかだった青い瞳はとげとげしく光り、眉間と口許には深い皺が刻まれ、色褪せた灰色の巻き毛はもじゃもじゃと乱れて垂れ下がり、顔全体に拭いきれない暗い怒りと悲嘆がみなぎっているのでした。
 将軍は馬を降りてこちらの馬車にお移りになりました。馬車がふたたびカルンスタインめざして走り始めますと、将軍は軍人らしい率直さで、御息女を亡くされた悲しみと、それにまつわる不可解な顛末について、呻くように口を切りました。
「いったい、神ともあろうものが、ああいう不埒千万な地獄の惑溺をのさばらせておくのは理解できんよ。奇怪極まりない。悪魔の犠牲になった憐れな娘を思うと、わしは神の存在を疑う」
「たびたび君から手紙をもらったがね。正直わたしにはよくわからんのだ。令嬢を失ったのは本当にお気の毒だが、他の物騒な敬意は君の文面からは察することもできなかった。ただごとではないね。ひとつ、こちらにもわかるように説明してくれないか」
「そりゃ、話せというならば喜んで話すさ。しかし君らは決して信用せんだろう」
「なぜだね」
「つまり、ほかならぬ儂自身も含めて、人間というものは、自分の短い人生経験と浅い洞察で培ったちっぽけな料簡に見あう考え以外はよう認めようとはせんのよ。この事件の前まで、儂自身がそうじゃった。しかし、この悲劇以来、さんざ苦労したおかげで、愚鈍な儂もだいぶ利口になったよ」
「とにかく話してくれないか。わたしは長年君とつきあって、君がむやみに乱心する輩ではないということを熟知しておるよ」
「儂も君の寛容な友情は心から信頼しておる。しかし、人間の条理をはるかに超える奇怪な事実を第三者に信じさせるには、やはり動かぬ証拠がないといかん。君たちをカルンスタインの廃墟へ連れ出したのはそのためだ。あそこには儂の正気と憤怒の正当性を明らかにするものが巣食っておるのよ」


 8 舞踏会

 儂は娘を心から愛しておった。あの子は養女だったが、儂は目に入れても痛くないほどかわいがったし、あの子も儂の人生を楽しくすべく、誠心誠意儂を慕ってくれた。ベルタの望みはできるかぎりかなえてやったよ。もっとも娘はつつましい質だったから、父親を困らせるような我儘などついぞしなかった。
 この春先のころだ。知人のカルルスフェルド伯爵から仮面舞踏会の招待が来た。なんでもシャルル大公がお見えになる祝いということだった。儂は娘を着かざらせて出かけた。たいそう盛大な舞踏会で、城の庭は全部解放され、空には花火、バンド演奏は超一流で、歌手はわざわざイタリアから呼んでくるという凝りようだ。招待客はやんごとない貴族ばかりで、それぞれ趣向を凝らした仮面をつけ、仮面をつけない者も、これでもかと言わんばかりに衣裳を派手にしておった。儂の娘は仮面を付けずに踊っておった。親の欲目のせいか、あの子の器量はめかしこんだ何百人もの貴婦人の中でもずばぬけておったよ。
 遊び疲れた儂と娘が、城の回廊で冷たい飲み物をもらっておると、人ごみの中から近づいてきた婦人がおる。ひときわ豪華なドレスで、身分ありげな威のある姿だが、仮面をかぶっておったので顔は半ばしか見えん。しかし、それにしても相当な美人のようだった。
 彼女は儂に挨拶し、実はどこそこの宮廷や貴族のサロンで、儂とはしょっちゅう会っていると言うのだ。ひどく親しげな口調で、あれやこれや言い立てる。それから、自分の娘と言って、年の頃は十七、八の目の覚めるような美少女を紹介した。
「娘のミラーカですの。体が弱いものですから、ついぞ社交界にも出しかねておりますが、今夜は気分がよいようなので、連れてまいりましたのよ」
 儂とベルタはほれぼれとミラーカに見とれた。正直、あんな別嬪を見たことがない。目鼻立ちが美しい上に、人なつこくて愛嬌があり、初対面というのに娘に冗談を言いかけて笑わせ、あっという間にベルタと仲良しになってしまった。
 儂もだいぶ酔いがまわっておったので、平静よりも気が大きくなっておったんだね。仮面をつけた母親のほうも娘の顔立ちから推測すればさぞ……と、まあ、年甲斐もない好き心が動いたんだね。こっちの気持ちが緩むのを見計らって貴婦人はこんなことを切り出した。
「昔馴染みのよすがに甘えて、ひと月ほどミラーカをお宅様にお預かりいただけませんかしら。わたくしは今抜き差しならぬ大事を抱え、至急パリへ参らなければなりません。あいにくミラーカは蒲柳の質。今夜はこうして機嫌よくしておりますが、明日はどうなることか。あなたさまのお心の広さはよく存じております。こうして偶然お目にかかったのは、わたくしどもにとって幸運でございました」
「しかし、マダム。儂はあなたがどなたか存じ上げんのですよ。そちらの身分相応のお世話が、儂のような下衆につとまりますかどうか」
「将軍ともあろう方が、あまり御謙遜に過ぎますわ。わたくしのほうがあなたを十年来存じておりましてよ。いずれ万事かたがつきましたら、きれいさっぱり秘密ぬきでお目にかかりましょう。わたくしが今夜ここに参っておりますこと、皆に内緒にしておりますの。後生ですから、この子の命を救うと思し召し、ひと月ばかりお屋敷で雨露をしのがせてやってくださいませんかしら」
 貴婦人は両手を合わせて頼む。よほど高貴と察する女にこうも下出に頼まれれば悪い気はしない。その上娘が脇から、
「お父様、ミラーカをお泊めしましょう」
 と加勢する。儂と母親が押し問答している間に、ベルタはミラーカとすっかり意気投合してしまったんだね。女二人にやいのやいのと責められて、儂もつい首を縦に振ってしまったが、それこそうまうまと妖魔につけいる隙をくれてやったことになった。


 9 ミラーカ
 
 さて、儂はその晩のうちにミラーカを城へ連れ帰った。
 体が弱いと聞いておったが、なるほどミラーカはひどく風変わりな暮らしぶりでな、午後遅くなってからでなければ寝室から出ては来ない。またほとんどものを食べないんだ。儂もミラーカの一挙一動を見張っておったわけではないから、その当座は、この娘は食が細いんだろうぐらいに思っておったが、今にして考えれば、一日にお茶を一杯かそこらで、生身の人間が命をつなげるはずはない。何分、ベルタとミラーカの仲がたいそういいので、万事めくらまされてしまったのよ。
 ところが、それからしばらくしてベルタの具合がおかしくなってきた。なんでも悪夢が続くという。体が水に漬かるように冷たくなり、喉に太い針のようなものが二本刺さると、首筋を締めあげられるような眩暈に眠りの最中遅われ、それきり何もわからなくなると訴える。最初は気の病だと思っておった儂も、たった十日ばかりのうちにみるみるベルタが衰弱してきたのに驚き、あわててグラッツから医者を呼んだ。
 医者は娘を丹念に診察したあと、儂を別室い呼びつけ、すぐに牧師を呼べとぬかす。こっちは何がなにやらさっぱりわからん。医者はおおまじめに、娘は吸血鬼に襲われたのだと言って譲らない。この症状は古来、吸血鬼にとりつかれた人間の記録そのままで、首筋の針を刺したような二つの傷跡は、吸血鬼の牙のせいだという。ほっておくと病人の命は旦夕にかかわる。こんど襲撃にあったら、残ったわずかな精気がすっかりむさぼり尽くされるだろう、とな。
 あまりのばかばかしさに、儂は呆れて医者を追い出したが、さて夜になってみると、やはり心配になってきた。儂の屋敷に妖怪変化が潜んでおるのかしらん。ひとつこの眼で見届け、ついでに病人の寝ずの晩をしようと、誰にも内緒で、その夜はこっそり娘の衣装戸棚に刀を抱いて隠れた。 
 夜じゅう病室には蝋燭が一つ灯っておるだけじゃった。しんしんと夜は更け、一時をちょっと過ぎたころ壁にゆらゆら揺れる蝋燭の影が、ふいにぐっと膨らんだように見え、儂は目をこすった。蝋燭の薄い火影の中からすうっと、影よりもっと濃い影が、伸びをするように現れると、そのおぼろげな塊は、寝台に寝ている娘の上に翼をひろげ、さっと覆いかぶさったではないか。
 影の塊は波打つように広がって,うごめきながら娘の喉に喰らいついた。思いもよらぬ成り行きに、衣装箪笥の影に呆然と突っ立っておった儂は、そこでようやっと我に返り、わざものをふりかざして飛び出した。
 と、影はするりと寝台の裾に退き、床の上にぬうっと立ち上がった。いやもう、身の毛もよだつとか、身体が凍りつくとか、月並みな形容では追いつかんよ。
 闇の中に巨大な、爛々と輝く緑の目が儂を睨んでおる。ぐわっと、こう、両手を宙にあげたものすごい魔性の形相は、まごうかたなきミラーカじゃった。
思案の余裕もあらばこそ、儂が夢中でふりおろした刀の先をミラーカはするりとかいくぐり、ギロリと儂を睨みつけると、扉のほうへとびすさった。化け物を逃がさじと必死でもう一太刀浴びせると、閉ざしたままの扉に、儂の刃は化け物の体をつきぬけてぐさりと突き刺さり、ミラーカはそのまま雲を霞とかき消えてしまった。
さあ、屋敷は上を下への大騒ぎよ。ミラーカの幽霊はどこにもおらん。そうこうするうちに重態の娘の息は弱まってゆき、儂らはなすすべもなく、夜明け前にベルタはこときれてしまった」
 ……将軍のお話を伺いながらのわたくしの心中をお察しいただけますかしら? わたくしは半信半疑でした。もしや将軍の語るミラーカとは、カーミラではないのかしら。令嬢の患った悪夢といい、今の自分の悪夢といい、なにもかも、なにもかも。……。
「これでベルタの死にまつわる話は終わりだが、儂は妖怪変化に仇をなされて泣き寝入りをする男ではない。かたき討ちを果たさねば娘も浮かばれん。儂はこの夏、ヨーロッパじゅう手掛かりを求めて旅した挙句、ようやく解決の糸口を見つけたのだ。君はマーカラ・カルンスタイン伯爵夫人がどうとかと手紙に書いておったな」
「うむ。うちの先祖の一人だ」
「そうかね。そりゃあ奇遇だ。残念ながらその由緒が君の一家にとって名誉かどうか。マーカラ伯爵夫人は美人には違いないが」
「ああ、肖像画から測るに、生前はさぞ美しいひとだったろう」
「いや、彼女は今も別嬪だ。儂は伯爵夫人そのひとに会ったのでよく知っておる」
「おいおい、カルンスタイン伯爵夫人は百五十年以上も前に亡くなっているんだぞ」
「ところが死んではおらんのだ。おお、あそこが名門、カルンスタインの荒れ城だな」
 はるか昔に血筋が絶えて以来、寂しくだだっぴろい古城の奥、崩れたやぐらや胸壁、ひろい回廊、暗い廊下などの残骸が、昼なお暗い鬱蒼とした森に覆われ、馬車は恐ろしい夢の中に踏み込んだようでございました。

 10吸血鬼カーミラ

 積み石がすっかり崩れた城の門の手前でわたくしどもが馬車を降りると、奥のほうのゴチックふうの大きな納骨堂へ繋がるどっしりしたアーチには、おどろおどろしい彫刻が蔦に絡められるように立っていました。家系断絶以来誰も寄り付かない荒れ城に、夏の樹木はほしいままにはびこり、かろうじて踏み分けられる城内の小道を進むにつれて、廃墟にはますます陰気で不吉な雰囲気が増してまいりました。
 わたくしはもう薄気味悪くてならず、後戻りしたくてたまりませんでしたが、将軍が断固とした足取りで進んでいらっしゃいますので、仕方なしについてまいりました。もとは中庭らしい、壁に囲まれた広場を抜け、裏手の丘の上の礼拝堂へは、うねうねと敷石の小道が爪先上がりとなり、登りの傾斜が急になる途中から、広い刻みのついた階段がございました。
 将軍は石畳の傍の石碑に目をとめ、真剣な面持ちで、すり減った碑文を拾い読みしておいでなので、わたくしと父は将軍より先に礼拝堂へ続く長い石段を登りはじめました。
 すると、彼方に見えるお堂の傾いた門柱の前に、なんともうカーミラが着いており、嬉しそうにこちらに手を振っているではありませんか。素肌にしみとおるような翡翠いろの木陰に、カーミラの小さな顔はふだんよりも青白く透きとおるようで、それなのに晴れやかな笑顔のなんとも言えず美しいのに、わたくしはついさっき耳にしたミラーカ云々のお話などはすっかり忘れ、思わず歩みを速めて石段を上がろうとしたとき、
「この悪魔めが!」
 突然わたくしどもの後ろからスピエルドルフ将軍が叫びながら躍り出ると、刀をふりあげ、石段をだだっと駆け上がり、カーミラに襲いかかりました。
 将軍の姿を見たとたん、天使のようにきよらかだったカーミラの顔はがらりと一変し、悪鬼の形相に変わりました。日頃の物憂げな風情からは想像もつかない敏捷さで、後ろへさっと退いて、うちかかる将軍の刃をするりとかいくぐり、次の瞬間には何と逆に将軍の胸倉に飛び込むと、華奢な拳で、たくましい将軍の手首をぐいっと鷲づかみにねじりあげたではありませんか! 
 カーミラの手をふりほどこうとする将軍と揉みあううちに、将軍の方が手首をつかまれた痛みに絶えかね、握りしめたサーベルがばさりと地面に落ち、それと同時にカーミラの姿もその場からあとかたもなくかき消えてしまいました。
 将軍はカーミラに握られた手首をもう一方の手でさすりながら、
「お嬢さん,今見ただろう? あれがミラーカだ。いや、正確にはマーカラ・カルンスタイン伯爵夫人だ。あなたも吸血鬼の餌食になるところだった。もうじきここに牧師が来る。
一刻の猶予もならんのだ。あの鬼が根城を移さんうちに、儂はこの老骨に鞭打って、きゃつの息の根を止めねばならぬ」
 将軍は顔いっぱいに脂汗をにじませ、苦しそうに肩で息をしておいででしたが、気持ちはしっかりしておいででした。
 わたくしどもは礼拝堂の前で、牧師様の到着を待ち、しきたりどおりに吸血鬼退治の儀式が執行されたのでございます。
 将軍がウィーンで手に入れた古い平面図を頼りに、礼拝堂の側壁に隠された伯爵夫人の秘密の墓室に至る扉があばかれました。
 精巧な彫刻で飾られた大理石の重厚な棺の蓋を開けると、そこには今しがた消え失せたカーミラが眠っておりました。内側に鉛を張った棺の内部には七インチも血がたまっており、少女はその血だまりのなかに眠っていたのでした。棺の蓋をあけたとたん、忘れもしない、幼いころの悪夢に嗅いだ、あやしい香がはっきりとたちのぼりました。朽ちた薔薇の臭気とばかり思っておりましたのに、なんとそれは血の匂いだったのでございます。
 それからあとのことは、あまりに無残でございました。父はわたくしをこの場から遠ざけ、残酷だから見てはならない、と申しましたが、わたくしは礼拝堂の片隅からこっそりと、女友達に裁きの鉄槌が下される一部始終を見届けました。おそろしゅうございましたが、そうしないではいられなかったのでございます。おわかりになりますかしら?
 礼拝堂の天井の破れ目から白い帯のような一筋の光が差し込み、将軍と父と、それから低い声で聖書を朗誦される牧師さまを照らしています。百年の荒廃に降り積もった埃が、日光にこまかな無数の白い粒となって中空に舞い上がり、暗い半影になった死刑執行人たちの周囲にきらめき、まるで古代の厳めしい秘密の儀式を目の当りにしているようでございました。
 将軍と父が二人してカーミラの体を棺から持ち上げますと、牧師さまは一段と声を張り上げてお経を唱え、声音は堂宇にいんいんとこだまします。カーミラの体は準備された処刑台に横たえられ、将軍が吸血鬼の胸に先のとがった杭を打ち込みますと、カーミラはかっと両目を見開き、ほそい両手で虚空をつかむようにあがき、彼女の喉から耳をつんざくような絶叫がほとばしりました。
 断末魔の叫喚は牧師さまの朗誦をかき消して、はるか彼方の村落まで聞えたということでございます。勇敢な将軍はすこしも動じることなく、さらにカーミラの首を斧で打ち落としますと、切り口から真っ赤な血潮がどっとほとばしり、ごとん、とカーミラの頭が床に落ちた音が聞こえました。
 そこでわたくしは気を失ってしまい、後のことは存じません。なんでも、切り離された胴体と首は薪を積んだ火に焼いて灰となし、その灰は近くの川に流されたそうでございます。
 その秋から、わたくしは神経衰弱のようになって病臥いたしましたが、二度とあのような悪夢を見ることはございませんでした。
 翌年の春、父はようやく床上げしたわたくしをともなってイタリアへ旅に出、一年以上も城へは戻りませんでした。
 不思議なことに、時がたつにつれて事件の恐ろしさは消えてしまい、凄惨な最後の処刑の記憶でさえ、古い絵画の情景のように思いなされます。
 カーミラは、カルンスタインの納骨堂でかいま見た断末魔の形相で思い出されることもございますが、月明かりの下で物憂げに微笑むすらりとした少女の姿で浮かぶことのほうが多うございます。そんな時、客間の入口に、ふっとカーミラの軽い足音が聞こえたような気がして、わたくしは夢のような記憶から、はっと驚くのでございます。

                                                 ( 了 )

 

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アンドロメダ・マスカレード  チェリー・トート・ロードvol17

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アンドロメダ・マスカレード

 満席だ。立ち見も出ている。
 〈ラグレアブルアノ二ム〉開演十分前、茴と亜咲と豹河はもう舞台にいる。
 茴は黒のサテン生地に孔雀の羽根を裾回りに刺繍したドレスを選んだ。金ラメの深い裳裾に、孔雀の羽根のヘッドだけは刺繍ではなく本物。たくさんの孔雀の羽根を腰で束ねて深緋のサッシュで絞り、長い裾まで末広がりの、まるで極彩色の羽扇を重ねたようなデザインだった。
 片肌脱ぎに襟ぐりの大きい胸元もエメラルドグリーンの孔雀の羽根で飾り、あらわになった二の腕と首には、サッシュと同じ緋色のスワロフスキ―のクリスタルチョーカーとリングを嵌めた。茴は自分のほっそりした腕や鎖骨のかたちがきれいなのをよくわかっているので、豪華な孔雀の羽根でヴォリュームのない胸や腰をカヴァーし、見せるところは華やかに魅せる。髪はうなじを見せて高く結い、髪飾りもやはり孔雀の櫛を挿した。スカートに万遍なく散った金色のラメは上半身で規則的な青海波模様になっている。
 亜咲はワインレッドの衣装を選んだ。自分の肉体美をよく承知して、胸と腰をはっきり強調するシンプルなマーメイドラインだ。バレーボールのような胸のふくらみ二つを見せて、マリリンモンローばりに細い今夜のウエストは、あるいは秘密のコルセットのおかげかもしれない。お互いほとんど夜の蝶ね、と亜咲は控え室で茴にささやいたが、夜の蝶々なんて大時代な言葉いまどきわかるんだろうか、と心で思って茴は返事をしなかった。亜咲は髪を上げず、肩の上で大きく内巻きにし、長い黒真珠の二連ネックレスをつけている。イヤリングはバロックパールだった。『シェリ』のヒロイン、レオニー・ロンヴァルの太い首を飾った四十九粒の真珠より、亜咲の黒真珠はずっと数が多いだろう。
 マジック・ミラーの機能を備えた半透明なシェードで仕切られた向こう側で、客のざわめきがやまない。まだ照明があかるいそちらから薄暗い舞台は見えないが、茴たちのほうからは観客のさんざめきが透視できる。ギャラリーは高さの変わらない平土間を適当に仕切っただけの舞台空間だった。
 最初に茴の無伴奏チェロ組曲五番サラバンドから始める。万が一出しものが足りなくなったときの用心にと、あとからつけ加えた曲を意外にも豹河と亜咲は気に入り、出のつかみに弾くことに決まった。
「サラバンドの途中から俺が被ります」
 豹河は今日になって言い出した。出演者の着替えが終わった直前に、だ。
 茴は微笑した。否も応もない。彼がやると言ったらやる。茴は違うことを言った。
「あなたの衣装はロットバルト?」
「わかります? ガーネットの弟子から借りてきた」
 ベルベットのような手触りの、濃紺に黄金の羽根をつらねた両翼とタイツ。フルートを吹くために両手は翼のさきから出るようになっている。背面正中線に沿って恐竜の背びれに似た雲母いろのぎざぎざがついている。悪魔のひれはいったん腰でとまり、タイツの膝から下、ひかがみから足首にかけてまた続いていた。
  豹河の腰の大きさに茴はおどろく。自分よりはるかにしっかりした厚みとしなやかな起伏を青年の下肢は備えている。茴の骨格が普通の女性一般より華奢なのだとわかっていても、手の届く距離に見る溌剌とした異性の若い弾力はまぶしかった。櫂はどうだったろう、と考えようとしたが、これはどうもアリバイめいて茴自身に説得力を持たなかった。
 豹の胸前はインディゴ・ノイズとおなじようにざっくり臍の上までⅤの字に切れ込み、乳首をあやうく隠し、なめらかな胸板と腹筋を見せている。臍上ぎりぎりで節度を保ってくれたのは茴への配慮というものだろう。挑発しなければ豹のファンは不満だろうし、逆に茴や亜咲の友達は眼を剥く。あやうさとぎりぎり、影を見せずに欲望を喝破する豹河の表情は、贅肉がなく大きい。
 開演三分前。少しずつ、観客の気付かない速度で会場の照明が落ちてゆく。夕闇の気配がしのびよる。茜色の倦怠に気付かない観客の無駄話はやまない。
 一分前、はっきりと宵闇。誰が指示したわけでもないのに、話声は静かになる。溶暗はひとの視線を外から内面にいざなう。ざわめきが騒音からひそひそ声に移ったあたりで、観客の耳はぼんやりとした時計の音を聞きはじめる。一分は六十秒。チクタクでもカチコチでもない、水音でもなく、角を柔らげられた秒針の進む音。聴くと聞かないとにかかわらず、わたしたちが乗せられている世界の秤の進む音が聴衆の鼓膜を叩く。
 さあ、すっかり真っ暗だ。だけどプレーンシェードは上がらない。パフォーマーはガラスの壁の向こうがわ。突然藍色の光が帳に弾けて、正面いっぱいにアンドロメダ星雲がゆったりと旋回を始める。観客が座った白いギャラリーの壁や床に渦巻の銀河はひろがり、時を呑みこむ宇宙空間がl,espritaeriensを覆う。もう秒針の音はない。銀河の向こうから、時の流れに変わって、茴のサラバンドが始まった。

 鶸は苦しまずに逝った。
篠崎月さんの介助を済ませ、王船市民病院に茴がかけつけたときもう意識はなく、それから一両日、点滴や酸素吸入でベッドにつながれていたが、さしせまった死はあきらかで、また茴は苦しい延命をのぞまなかった。
最初に茴が見た病院の鶸の顔は、眉間に薄く縦皺を寄せていたが、茴はそっと指で母親の眉を開いた。半開きの口許は吸入器のためにいじらなかったが、臨終を告げられると同時に、茴はへの字のかたちを上向きの微笑に整えた。眉をひらきうっすらと笑った顔は、もっとも鶸らしく美しくなった。
  鶸もカトリック信者だったので葬儀は近所の王船教会ですませた。〈やすらぎ〉職員が参列し、妹夫婦と、それに幸府在住の鶸の兄姉もやってきた。鶸は作家としてまだ一応名前を保っていたから、懇意にしていた編集者も何人か来たが、茴はできるだけ簡素にと願い、新聞広告もすぐには出さなかった。
 櫂が亡くなっているので、親類縁者を狭くした葬式の参列者はほとんど女になった。
「鶸さんいいお顔で」
 着物の喪服の襟をさわやかに抜いた百合原が、ハンカチを鼻先に押し当て、絵のような仕草ですすり泣きながら、きれいな言葉をくれた。棺の中の鶸の顔は死化粧を厚くして、口紅を塗り眉を細く描き、皺もしみも消え、とりどりの花と折鶴に埋もれ、さながら能の女面のように清々として見えた。
 くしゅくしゅと陽奈は茴の脇で泣いた。鶸は陽奈を特に可愛がっていたから、衝撃は実の娘の茴や毬よりも、陽奈に大きかった。
「こんなに急に死んじゃうなんて。一言でも話ができたらよかったのに」
 陽奈は講義を休んで病院の鶸に付き添い、臨終後の湯灌を茴といっしょに浄めた。死顔のメイクも茴や毬ではなく陽奈がした。
「おつかれさま」
 亜咲は言葉を連ねず、ごく短く茴を労わってくれた。それが耳に浸みるように聞こえ、茴の頭のてっぺんが、亜咲の一言で天高く突き抜ける感じを覚えた。
(疲れていたんだ、わたしは)
 司祭の司式で聖歌を歌い、死者を悼む言葉を聞く。しめやかな葬儀の最中ずっと茴はぼんやりしていた。放心のはざまにこんな問いが湧く。わたしに悲しみがあるだろうか。鶸が施設に入ってから、すっかり楽になったと思っていたのに、今の自分の感情の淡さはどうだろう。
「お姉ちゃんありがとう」
 毬は言った。葬儀でも毬はちゃんと付け睫毛にアイシャドー、チークは濃いめだった。口紅だけ淡い。
(妹のメイクがしっかり観察できるということは、わたしは冷静なんだわ。悲しい?)
 茴の顔を見つめて、それからさらに毬は言った。
「ママは幸せなひとだったよね。実の娘にこんなに世話してもらえたんだから」
 茴は答えられなかった。悲しみの実感がわかない。〈やすらぎ〉の職員は一様に涙をこぼしてくれる。メダカちゃんもケアの合間に来てくれて、眼を赤くして茴に言った。
「鶸さん、うちで一番若くて美人だったのにこんなにあっという間に逝っちゃうなんて。ほかの入居者さんも悲しがってる」
「みんなにさんざんお世話になって」
 夜毎の鶸の愁訴や失認に、どれだけ職員は手こずったことかと茴は想像する。
「世話がかかるから施設に入るんだから当たり前よ。クリアなときはいい人だったし」
 メダカちゃんは涙をこぼしながら茴を労わってくれた。茴は言った。
「みんなに優しくしてもらって、母は幸福だったわよ」
 それはほんとうだった。
 全能の神の憐れみにより、マリア・ベアータ…鶸は帰天する。地上におけるいっさいの束縛を免れ、母にまつわる茴の罪悪感も鶸の魂といっしょに天に昇る。
 聖堂の前にまだ若木の桜がある。これは染井吉野だろうが、関東一般の開花よりずっと早く、ちらほらと咲き始めている。
 軽くなった、と茴は早咲きの桜を眺めて思った。七十前の死は早いが、鶸の状態は不可逆で、肉体はともかく心はゆるゆると壊れていくばかりだった。妄想や強迫神経に加え、認知症がひどくなったら、周囲への迷惑もさりながら、抑鬱や発作に蝕まれる鶸のほうが苦しいだろう。
 『恍惚の人』の舅はアルツハイマーで、最期は嬰児のような笑顔になって崩れていったが、鶸はそうはいかないはずだった。茴には鶸の行方が見えたから、水曜日に母親のケアに入るたび、自宅で介護していたころとは色合いの違う虚無感を湛えて鶸を見ていた。
 ターミナルは予想以上に迅速に、それこそ神の恩寵のような一撃で鶸に訪れた。
「これでよかったの」
 ぼそりとつぶやくと、ちょうど傍にいた毬と陽奈がいっしょに、
「茴ちゃんがいちばんしんどかったよね」
「お姉ちゃんにお母さん感謝してるよ」
 今日、虚無は青空の色をしている。せめて初桜の枝ごしに青い色を眺めたくて茴は樹下に立った。

 四十九日は〈ラグレアブル・アノ二ム〉を終えてからと決め、だとしてもイベントまでいくばくのゆとりもない茴は、チェロの傍ら母を天に送ったあと現世の手続きに忙しかった。この間ケアは休んだ。
 篠崎さんも湯浅さんも気がかりではあるし、人手が足りている福祉コミュではないけれど、冠婚葬祭は別だ。またそうでなくても「地域貢献人助けはお互いさま」の精神で主婦たちが集まるコミュニティの縛りはゆるく、ワーカー本人が体調を崩したり、子供が熱を出したり…といった割合些細な急の事情の際もかなり気楽に休めた。誰かの休みは別なワーカーが補う。これも助け合いの精神だ。一般企業ではとてもこうはいかない。
 気楽に参加し、束縛はゆるく、質の悪い職場でのいじめも、まあ、ない。反面、しっかりした企業が労働者に保証する労災や保険、年金などの福利厚生も、まあ、ない。ワーカーは分配金を共有するので雇用関係にある労働者ではない、という思想だからだ。
 長い眼で将来を見据え、家族を持とうとする若者が安心して長く働ける所ではないから、おのずとある程度暮らしにゆとりがある主婦たちか、男性ならば現役を引退した年金世代の、ボランティア半ばアルバイト半ばという善意がコミュ運営の頼りになっている。
 茴の休みはきっと向野ギャザリングが補うことになるのだろう。桜沢地区の福祉コミュヘルパーは他の地域に比べて多いほうだが、請け負う仕事に派遣の数はいつも追いつかない。家庭をちゃんと守りながら働く主婦たちはそれぞれ無理をしない範囲で、めいっぱい仕事を入れている。七十歳という向野ギャザリングは、コミュの役員をいくつか務めながら、自分もケアワークに行き、さらに休んだワーカーの穴埋めに走る。心身ともに丈夫なひとだ。
 〈やすらぎ〉の鶸の部屋を片付け、役場の手続きを済ませ、霊園に納骨し…形見分けも相応に。書きにくいボールペンで日記を書くように母の死が感情を離れて整理されてゆく。 
 自分はもっと悲しまなければいけないのではないか、と茴は時々考えたが、この起伏のないすべすべした気持ちのまま、神の手に母を委ねて安心していても構わないだろう。
 鶸の死の後、世界はいっきに春爛漫に突入していった。教会で青空を透かし見た早咲きの染井吉野から始まり、連翹、木瓜、杏、たんぽぽ、道端の犬ふぐり、しろつめくさ。温暖な湘南の大地にはしっとりした若緑が柔らかく広がり、雑草のなかでクローバーだけが可愛らしい姿でひとの注目を浴びる。桜前線が日々南から北へと登ってくる。
「今度の演奏会に友達連れてく」
 陽奈は言った。
「ありがと。どんな子?」
「ないしょ。見てのおたのしみ」
 陽奈がちょっとずるそうな顔をするので、茴はつついてみたくなる。
「それ、本命君?」
「なにそれ」
「命短し恋せよ乙女。この台詞はヘッドに音符つきで言うのよ」
「めちゃくちゃ懐メロだね」
「そうね、懐メロも懐メロ、ペトラルカだったか、ロレンツォ・デ・メディチだったか。でも中国の詩文にもたくさんあるの」
「古すぎる。懐メロ通り越して化石」
「心のルーツです」
 陽奈は肩をすくめた。この子の世代は文庫本をひらくよりスマホを撫でる時間のほうがはるかに多い。茴がダンテと言ってもトーマス・マンと言っても噛みあわない。これはこれでいい、と茴は娘を眺める。東西古典の大文豪を語って茴とぴったりうまがあうような二十歳だったら、そのほうがむしろ心配だ。
「カイトはどこにいるんだろう」
 茴は娘の気持ちを逸らす話題にした。ついでにキッチンに行って陽奈にココアを作ってやる。砂糖とヴァニラ。少女と妖精はお菓子が大好き。もうしばらく陽奈をここに、自分の傍にひきとめておきたい。甘いもので手なづけ、フリルやレースのいっぱいついたピンクのドレスを着せて。だけど陽奈はもうじき野暮ったいお人形ドレスを捨て、すっかり生えそろった長い羽を伸ばし飛び立ってゆく。

 イエスタディ。
どこにいましたか? 今日誰と会いますか、明日は? 昨日のわたしにわたしは戻れない。
 亜咲はビートルズを選んできた。
 茴のバッハに豹河は途中から被さり、短い舞曲は合奏してごく自然に二度、繰り返された。それから静寂。シェードの銀河は滲むように消えて、舞台に照明が灯り、するするとプレーンシェードが巻き上がった。
 中央にグランドピアノの亜咲、その手前左右に茴と豹河。ロットバルトの豹は亜咲の斜め前に黄金のフルートを構えて立っている。デヴィッド・ボウイふうに前髪をたてて額の生え際に黒と金の輪をインディゴ・ノイズの「神風」鉢巻と同じように飾っている。今夜の鉢巻のエンブレムは金色の眼の蝙蝠だ。
三人が姿を見せた瞬間、観客席から熱気のような嘆声が湧き、茴は〈ラグレアブル・アノ二ム〉の成功を確信した。芸もさりながら、舞台はまずパフォーマー登場の瞬間に客の心を魅了しなければ。見た目百とは言わないが、舞台の成功九十までは容姿で決まる。
 亜咲はすぐに弾きはじめない。いったん完全に沈黙し、二重奏のサラバンドの余韻を残す空間に、またひそひそと何かの雑音が忍びこんだ。
 車の排気音、エンジンの唸る音、駅に電車の入ってくる、あるいは出てゆく音。雑踏の騒音、急ブレーキ、御乗車になってお待ちくださいのアナウンス、おしあいへしあいしてひとびとが歩いてゆく繁華街の気配。靴音。笑い声。だよね、とか,マジ、とか、めちゃ、とか、アイスクリームのトッピングのように小さくて、感覚に鋭い単語。
道路と街にあふれるノイズの多重奏は出だしの秒針と同じように音質の角をまるめられ、あるいは空間のゼリーに包まれたようだ。ゼリーの塊の中に、時折ふいに「え、やば」という笑い声が原色で突出する。すぐにそれは引っ込み、またとろりとしたゼラチンの鈍さに全体が沈む。
 亜咲はピアニシモでイエスタディを弾いた。これにも豹河は途中からフルートを付ける。二人の間に打ちあわせがあったのかどうか茴は知らない。リハでは三人それぞれソロで通すはずだった。もちろん亜咲と豹の個性だからアドリブ乱入あり、という前提でだったけれど。
 イエスタディを全部しめやかに弾き終えてまたノイズ。今度ゼリーが包む音のかたまりは人間の話し声だ。子音が曖昧なので何を言っているのかはっきりとは聞き取れない。耳が慣れてくると、世界各国の言葉だとわかる。映画だろうか、ニュースだろうか、ラジオのパーソナリティの喋りか、あるいはネットの動画からか、いくつもの国の言葉が脈絡なく重なり、ピアノの休む沈黙を不透明な渦で埋める。
 それからまたピアノ。バッハのゴールドベルグ変奏曲。グレン・グールド風に? だがバッハは途中で止み、またノイズが入る。多彩なコラージュのはざまを人間世界の雑音を鈍くしたノイズがつなぐ。感情を揺さぶる旋律のはざまで、曇りをかけた騒音は無彩色に〈聞こえる〉。
 時を想うのは人間だけ。わたしたちの時間はひたすら前へ突き進む。人間が消えてしまえば世界に時間は消える。宇宙空間に燦然と輝く超新星も、ブラックホールも、銀河も、生成と消滅は直線の時間軸上ではなく、永遠に循環する螺旋軌道。始めも終わりもない。愛すべき人類を失った神は素粒子の天使団を従え、絶対0度の宇宙に孤独に君臨する。
 六十年代から八十年代にかけてのロックミュージックを亜咲は選んできた。亜咲にしてはメロウな演目で、パッチワーク技法にせよ、バラードを弾くときは中断せず、ジャニス・ジョプリンなどは無造作に切った。モダンのはざまには必ず、まずノイズとそれからゴールドベルグを入れるのだった。
 豹河は亜咲のポップス演奏に気ままに出入りしていた。豹河が旋律に侵入すると、亜咲は器用に伴奏にまわる。豹はバッハには触れなかった。ノイズを挟みながら亜咲のパートのラストは〈TAKE5〉 
その直前のノイズは何かがたたきつけられ、粉々に砕ける音だった。いくつもの、いくつかの、重く軽い破壊音。すべてゼリーの中だ。
 記憶の中に封じ込められた音の破片は、時間によってまるめられ、胸を突き刺す痛みを消して、わたしが砕け散ったその日その時の残響となって、会場にぬるく拡散してゆく。
 森、入って。
 出だしのスイングで豹の命令が茴に飛んだ。いきなり呼び捨てだ。茴は弓を握った。亜咲を見ると頷きながら笑っている。いいわよ、と茴は弦に弓を添えて高く肘圧をかけた。それを見た亜咲の鍵盤を叩く両手が、一段と高くあがった。
ジャズは初めてだが、聞き覚えがある名曲なのでコードでどうにかつけられる。掛け合いの呼吸は勘、音量はベタ弓で勝負。肘をかけて全部フォルテ、啖呵のようにフォルテッシモ。

「お母さんのことで大変な時期なのはわかってるんだけど、他にどうしても都合がつかないから悪いんだけど入ってもらえますか?」
 向野ギャザリングから電話が入った。〈ラグレアブル・アノニム〉上演直前の火曜日だった。篠崎さんのケアはパフォーマンスが終わるまでお休みということにさせていただいた茴だが、変わりのヘルパーが風邪で倒れてしまったということだった。鶸の死後のあれこれはひととおり済んでいたので茴は承知した。鶸を悼む香典やらお花など連日届き、チェロのお稽古以外はそれぞれへの香典返しをしたためるために、気持ちだけが忙しい。相続のことも早めに毬と相談しなければならないが、施設に鶸を入れるときに、いろいろな整理を済ませておいたから、揉める心配はなかった。
 鶸の急を知らされたのは篠崎さんのケアの最中だった。それから半月近く過ぎている。この週末はキリスト教暦では「枝の主日」にあたり、同時に茴たちの〈ラグレアブル・アノ二ム〉当日になる。「枝の主日」とはイエスのエルサレム入城記念日だった。
 三月下旬の朝、前回訪問のときより、篠崎邸の景色は木立や庭草に萌黄みどりがいきいきと繁りを増している。庭の黒土も飛び石を敷いた通路以外はびっしりと雑草に覆われ、緑のなかにしろつめくさやタンポポがたくさん咲き出ていた。チューリップと水仙の咲いていた花壇には、今日は水仙だけたくさん残っている。開花を終えたチューリップの茎と葉は雑草に紛れていた。茴はまた水仙を摘んで玄関に入った。
「おはようございます、月さん、お具合いかがですか?」
 月さんはベッドで寝息をたてている。カーテンを開けると、室内はいつものようによく片付いている。たぶん長いこと未使用のポータブルトイレは乾いて、臭気もない。
 窓からの光の射し方が前回と変わり、濃い明るさのせいでひっそりした月さんの寝室の印象が違って感じられる。明るさはより明るく、ベッドや家具の作る物影は、ユトリロの筆のように太い。
「聞こえますか、森ですよ、月さん」
 ああい、と月さんは眼をつぶったまま口を開けた。もう義歯は入っていない。ゼロ歳児のように歯茎だけで笑う。たぶん笑ってくれている。茴が来たので、声をかけたので、月さんは白く乾いた丸顔に笑顔を浮かべた。
「お顔を蒸しタオルで拭きますよ」
 ん、ん、と下顎が動く。掛け布団から両手の細い指が出る。爪が伸びている。あとで切ってあげよう。月さんの声が来た。
「おあよう」
「はい、おはようございます。ご飯召し上がりましょうね」
 物置と化したキッチンで蒸しタオルを作る。ついでに水仙を活ける花瓶を探す。青い信楽ガラスの器。
(ザシキワラシのメグが来ていたんだっけ、カイトと一緒に。あの日、振り返るとメグはいなかった。青い夏服のまま、このガラスに溶けちゃったのかな)
 脈絡のない連想が茴の頭の中をよぎってゆく。物悲しかった。空気の抜けた風船のように、見るたびに月さんの顔や体は小さくなってゆく。美少女のメグが幸福をもたらす妖精なら、月さんを早くどこかへ連れて行って、と茴は祈るように願ってしまう。身体介助は重労働だが、たぶん介助されるほうが苦しいだろう。それでもまだ病院でのチューブ漬けよりましだ。
(メグ? めぐみ、恩寵、グレイシア、ガラシャ。細川ガラシャというひともいたっけ。アメイジング・グレイス)
 あの子はほんとに天使なのかも、と茴は思った。まぼろしでも、死に近い高齢者の枕頭に天使が現れるのはすばらしい。
 蒸しタオルで月さんの瞼を拭く。鼻と口の周り、こめかみまで、薄くなった皮膚をいためないように拭いてあげる。睫毛はほとんど残っていない。
 ぱちりと月さんの眼が開いた。
「おかげんいかがですか?」
「まあまあよ」
 はっきりした月さんの答えに茴は笑った。月さんは大袈裟に眉間に皺を寄せ、いたずらっぽく言う。
「なかなかお迎えが来ないねえって、おじいさんにこぼしてたところ」
「夢ですか? 御主人見えたの。いいなあ」
「夢でがっかりしちゃったよ」
「御主人はいつも月さんの傍にいらっしゃいますよ」
「そうお?」
 満面に笑い皺を作る月さんは機嫌よさそうだった。朝ごはんの前に月さんのお下を交換しようか。茴はゴム手袋をはめた。ふと何かが窓をよぎった気がしてそちらを見ると、いつのまにか両開きの張り出し窓が開いている。カーテンを開けたときは、確かに閉まっていた。古いクレセント錠はどうなっていただろうか。レースのカーテンが春風をはらんでふくらんでいる。
 窓を閉めようと茴は窓辺に寄った。寝室の前は正面とは離れた中庭になっていて、ここにものどかな春の光があふれている。この庭を今までケア中にちゃんと見たことがなかったが、母屋の壁で隔てられた敷地いっぱいが天然の花壇のような小さい野原だ。
 あ、月さん。
 茴は心で呼びかけた。中庭の真ん中に介護用のピンクのつなぎパジャマを着た月さんが座っていた。クロッカスと水仙、たんぽぽ、フリージアにチューリップ、紫禁草の群れに囲まれ、月さんは痩せた背をまるめて顎を前に突き出し、よもぎか何かの若草を摘んでいるようだった。月さんの肩のあたりに紋白蝶とキアゲハが飛んでいる。
 その月さんの前に明るい茶色の野兎がいる。
 いえ、兎ではなくて。
「カイト! ミニチュアカイト」
 茴は窓から上半身を乗り出した。月さんの前に、兎の耳のライオンカイトは、かたちはそのまま、大きさは十分の一以下になって、ちょこんと月さんを見上げていた。月さんはミニカイトに、自分が摘んだよもぎを少しずつ食べさせている。カイトは仔山羊のように口を動かして月さんの手から草をもらって食べていた。ほら、と月さんはカイトに草をやる。カイトはぐいっと顔をひねってそれをひきむしり、ついでに茴のほうを見ると、ぴくんと片耳を中程で折って挨拶した。
 茴は室内を振り返った。月さんはベッドに寝ている。寝具の中からピンクの袖の細い片腕が上がり、茴の佇む窓のほうに向かって、おいでおいでと、手が動いた。
 もう一度茴は中庭を見た。
 春の野花がいっぱいだ。
 光に踊る蝶々と。

 照明が豹河ひとりに絞られる。
ピアノもチェロも消え、舞台には若い豹一頭、黄金のフルートを構える。上半身をやや前かがみにひねり、あらわになった胸と腹の筋肉を彫り上げるスポットライトを独占した濃くなめらかな影がまぶしい。汗ばみ、濡れた皮膚の上に、ところどころ光が七色のプリズムで走る。豹河は地肌の部分にも金ラメをまぶしている、と茴はそこでようやく気付いた。
 彼のフルートは何だろう? 聞いたことがない。洋楽でも邦楽でもない。アラブ、インド、アフリカ、世界の民族音楽のどれでもない未知の音程を自在に行き来する。茴は楽典をきっちり学んだわけではないが、単純に聴覚から、音楽のさまざまなハーモニーが綴る物語を感じるセンスはある。
 民族音楽でも西洋クラシックでも、一つの音の次に来る音は、まるでスタンダードなおとぎ話の展開のように、人間の心がこうあってほしい、そうだったらとても気持ちがいい、という普遍的な希求に適う。だから楽曲出だしの動機を聞けば、ほぼ全体の構図を予測することもできる。
 だが、豹河のフルートは次の音を予兆させない。
(Fで、その次はC? 今度はAで、さらに♯A)
 シェーンベルクの十二音技法の響きとも違う。また耳障りな不協和音でもない。体温を持たない音符の散らばり。音と音とがつらなって美しいハーモニーを醸しだす古典音楽の世界以前の、あるいはその世界の裏側にひそむ…
(これは宇宙空間を旅するいくつもの星の光が、億年隔ててすれ違う響き)
 茴は豹河のフルートを、すこしロマンチックに形容して耳を澄ませた。豹の吹き鳴らす一粒ずつの音には、互いに遠い距離感があった。人間感情に抵触しない音列は、ドビュッシーとはまた違うクールな慰めをくれる。
(G、C、E、♯GでA)
 豹の肉声を聞くようだった。自分は確かにこの青年に欲情している、と茴は疚しさのない自覚を溶暗の中で想った。恋でも愛でもない、ダイレクトなリビドーを彼の音色はかきたてる。
(嘘だわ、あたしはこの子に恋してる、今とても)
ピアノの前の亜咲もきっとそうだ。女なら、いや女性でなくても、彼に魅了されて当然だと思う。インディゴ・ノイズよりも、パヴォのリサイタルよりも、今聞くフルートソロはラグレアブルだった。
くらやみに豹河の体臭が濃くなる。彼のフルートと一緒にわたしたちは彼の匂いを〈聴いている〉
ふっと音列が途絶えると照明も豹も消え、真闇にノイズのゼリーが被さってくる。
ゼラチンに封印されているのは、今度はさまざまな音楽だ。ベートーベン、ビートルズ、Jポップ、演歌、民謡、スペインのカンテ・ホンドは魂に届く深い声で…ボサノバ、レッド・ツェッペリンに、リュシェンヌ・ボワイエ、カザルスの鳥の歌は茴への敬意かしら、それからショパンは亜咲? マリア・カラスも、あ、藤山一郎の軍歌まで。いやだ、最後は絶世の美女李香蘭の歌う蘇州夜曲のフラグメントってことにして、みんなみんな半透明な虹色のゼラチンの中でねっとりと輪郭をゆるめて溶け合う。混じり合う音楽のノイズ。わたしたちのきおくにごちゃごちゃとまじりあううたのこんとん。
するするとシェードが降りてくる。
  客席と舞台がまたハーフミラーで遮られると、淡い明かりがパフォーマーを照らし出した。三人は互いの顔を確認する。豹は最初にどちらの女を見ただろう? 亜咲の両目は潤んでいた。豹河だけが自分の愉しみじゃない、と言い切った彼女だが、中年過ぎて追い求める快楽の限界は女性のほうが早く知る。聡明であればなおのこと。サガンに戻ってふりだしだ。だが、人恋ふる心は泉のように、その人自身を潤してくれる。亜咲の濡れた瞳と唇。
 茴は弓を構えた。少しA線が下がっている。すばやく調節して豹の合図を待つ。
 客たちはシェードに新しいプロジェクションを見ている。生暖かい粘液と体腔、長い産道を螺旋に回転しながら地上に降りてくる嬰児の頭。赤ん坊の画像の上にアンモナイトの化石が被る。誕生のムーヴメントと貝殻の成長の軌跡は等しい黄金比。嬰児の顔がアンモナイトの中心から突出すると化石は消えて、今この季節、イースター直前の春爛漫、関東に踏み込んだ桜前線の光景が降誕のキリストのような赤ちゃんの顔の周囲を包む。花散らしの風に吹かれて虚空をぐるぐる旋回する花びらの渦もまた、銀河と同じ黄金比率で日本の春を覆う。
 クライマックスはトリオで。
「time to say goodbye」
 シェードのこちら側から客席に向かって、少ししゃがれた声で豹が言った。
何かが彼のハートを抑えつけ、たぶんそのせつなさが喉を締めた。誰? 茴は豹河の声の向こう側のシルエットに淡く嫉妬する。気のせいかもしれない、豹はフルートのソロに疲れて声が歪んだのかもしれない。そして茴の疼きも、きっと今このいっときだけのものかもしれない。舞台幻想にしても、恋に嫉妬はつきものだ。
観客は生まれたてのピンクいろの赤ちゃんと桜吹雪と、その上に重なる藍色の宇宙空間に輝く銀河の多重映像を見ている。
 豹河は前だけを見てeinsatzした。
 GO!
これまでのわたしにさよなら。
明日のわたしにわたしは会える。
   
                                                         (チェリー・トート・ロード 了)

メシア・エントロピー  チェリー・トート・ロードvol16

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   メシア・エントロピー

 三月に入るともう心は桜前線到来が待たれる。毎週火曜日、湯浅徳蔵さんケアのため蘇芳山にモノレールで登るたび、駅前ロータリーの桜並木の枝の莟が、あたかも春の大気をまとうかのように、先週よりもほんのりと大きくなってゆくのが目に嬉しく見えた。
 ネットで調べたら開花予想は弥生の下旬。まだ間がある。しかし桜の枝の樹皮は、つぶつぶした固い莟といっしょに全体にうっすらと鈍い紅色を帯びている。
  年々歳々人相似
  歳々年々人不同
 七世紀初唐の詩人劉希夷の長詩を、櫂は何故か諳んじていた。いっぱしの読書家ではあったが、それほど古典に興味のあるひとではなかったのに、「白頭吟」の有名ないくつかのフレーズだけ、酔っぱらったついでに呟くこともあった。何の感傷だったのだろう。彼はすっかり白髪頭になる前に逝ってしまった。
このごろは文芸誌をめくっても漢詩を血肉にした作品などあまり読めない。茴にしても唐代の有名な絶句律詩のいくつかを教養の一部にしているにすぎないけれど、ふだん忘れているフレーズが、この花盛りの季節の前後、静かに心に昇ってくる。
  今年花落顔色改
  明年花開復誰在
 湯浅徳蔵さんは今年必ず蘇芳山の爛漫を見られるだろう。だけど来年はどうだろう。
 首のリンパ腫の憎悪が速いのかどうなのか茴にはわからなかった。高齢者は新陳代謝が低いので癌の進行も遅いはずだが、二月下旬から衰弱は顕著だった。
「起きられますか」
「うーん」
 目をぱちぱちさせて徳蔵さんはにこっと笑った。顔じゅう皺だらけにして茴に向ける笑顔は無邪気で明るいが、起きられるとも起きたくないとも判断がつかない。無理してベッドから起こさなくていいから、という指示も出ているので、茴はゆっくりと電動ベッドの背中をあげて、脇のサイドテーブルを昼食のために引き寄せた。 
 徳ちゃんの顔は首の腫瘍のためにむくんで、皮膚がぴしっと張りつめたように丸みを帯びていた。徳ちゃんが茴の声かけに応じていろいろな表情を作ると、ここ数か月ろくに陽に当たらず、栄養不良で脆く薄くなった皮膚に無数の縮緬皺が寄る。
 ごほん、徳ちゃんが咳き込んだので茴はティッシュペーパーを二三枚あげた。腫瘍の膿が喉に出るのか、徳ちゃんは頻繁に黄色い痰を吐いた。他人の手で喀痰吸引を要するほどになったら、もう自宅介護ではおぼつかないかもしれない。
 昼食は息子さん手作りの1プレートランチではなく、レトルト介護食とラコール、経口補水液OS―1をその都度〈臨機応変〉に組み合わせたものに変わっている。レトルトのお粥や肉団子をプラスティックの器に移し、サイドテーブルに乗せてすすめると、徳ちゃんはげそげそに細くなった手首をパジャマの袖からにゅっと突き出して受け取る。スプーンもプラスティックだ。箸だけが以前と同じ塗り箸。
「あ、あ、おいしい」
「そう、よかったね、よかったですね」
 精一杯大きく口をあけて食べることを楽しむ徳ちゃんの笑顔は今もこれからも明るいだろう。だが、喉の具合が悪いので、徳ちゃんはせいぜいスプーンで三口か四口ほどしか食べられない。噎せるという感じではなく、レトルト食材を飲み込むたびに、ごろごろ、と徳ちゃんの口の奥で粘液が泡立つような音が聞こえる。何の原因なのか茴にはわからない。
 看護師だったらよかったのに、と思うことがこれまで何度もあった。介護では医療行為ができない。もっとも現場はそんなに厳密に仕切りできないこともあるから、茴自身どこまで介護でどこからが看護師の領分なのかはっきりわからない場面がある。じわじわと苦しんでいる徳ちゃんや、また月さんを見ていると、何と自分は無力なのだろうと思う。
(無力と思わないで、今できることをしなくちゃ)
 気持ちが滅入りそうになると、茴は自分に言い聞かせる。茴が笑ってくれると嬉しいというひとがたくさんいるのだから。
 レトルト食材が無理になった後に、ラコールをストローで飲んでもらう。とろみはついていないが、飲料なら喉も楽に通るようだ。ラコールが飲めるなら経口補水液はいらない。
「ラコール、おいしい?」
「へへえ、まあ」
 徳ちゃんは眉を寄せた。ストローを銜えたままの口許は笑っている。ミルクコーヒーのような匂いと色だが、味はさてどうだろう。
 こんな食事のあと、パジャマの胸をあけて蒸しタオルで手早く肌を拭く。下着は前開きに変わっている。寝ていることが多いので、背中や腰の床ずれなども調べる。赤みを帯びた部分にはアズノールを塗る。むくんで丸くなった顔に較べると、栄養不良の体の衰えは茴の目につらい。タオルで拭くと、脂肪の激減した肋や腰の黄ばんだ皮膚が、骨から離れてタオルといっしょに皺を作って動いた。

 美しいものを見ると命が伸びる、と茴は二十一歳のころ『源氏物語』の若紫巻で読み、当時はそれほどの感銘もなかったのに、心に残っていつまでも忘れなかった。視覚はともかく、美しい音を聞くと、その感動はリフレインしていつまでも記憶にとどまると知っていたので、若紫の印象がそれに重なったのかもしれない。介護という仕事に対して誠実であろうとするなら、茴は自分のためにこの職業を美化するまいと思っていた。
 利用者さん、高齢者さんからさまざまな学びやパワーをいただく。それは間違いないが、同時に、できれば日常避けていたいつらくむごいことを五感で体験しなければならない。さらにまた社会的には3Kの汚名が被せられ、よい資質を持ったケアワーカーが人生を拓くためには難しい問題が多い。
 福祉コミュがおだやかで険しさのない職場というのも、ここが報酬を活動の目的にしない非営利福祉団体だからだ。主婦たちの温和、やさしさ、思いやり、ケア時間を無料で延長して高齢者の心に寄り添おうとするおおらかも、経済行為の凌ぎを免れているおかげが多分にある、と茴は眺めている。
 一般の介護現場はどうだろう。さまざまな困難に介護従事者の心身が痛めつけられない社会であればよいのだが、ネットを覗いても身近な噂でも、社会貢献のやりがい以上に厳しい現実が介護福祉の未来を暗くしている。
徳ちゃんのケアを済ませた後、茴は家に戻らずそのまま鹿香翡翠房に足を延ばした。チェロの総ざらいもしなければいけないのだが、たった今目にし、手で触れ、ほんのすこしは心で分かち合った湯浅さんの老衰に、気持ちが萎えてしまった。雛人形を見るのは楽しいだろう。命が伸びるだろうか。
(それでは介護現場では命が縮むの?)
 そう考えたくはないが、どんなに元気な利用者さんと接するにせよ、タナトスの波が絶えず静かに聞こえる時間ではある。快楽について唯美主義を貫徹した三島由紀夫が老いを恐怖したのも無理はない。
(何を得られるか、ではなく、何を捧げられるか、そう思わないと挫けちゃうな) 
 自分の中から生のエネルギーが溢れて、老病の利用者さんに流れていく。他のケアワーカーとこんなことは話さないが、茴のひそかな実感だった。
 古都鹿香は観光客で混雑していた。二月の梅から始まり、三月はもう市内あちこちの古寺名刹に花を楽しむひとが押し寄せる。鹿香八幡宮では寒牡丹が最後の見ごろだ。二月下旬までが盛りというが、今年はまだ花の寿命が長いらしい。雛人形でなく寒牡丹もよいかもしれない、だが開花に疲れた大輪よりも、うら若い透姫子や気丈な百合原の守る翡翠房のほうがいい。そうだ、これも紫式部のつぶやきだった。「植物の花はよく見るときっと歪みや傷があるが、美しい女というものの魅力は〈際なき〉かぎりがない」と。
(どこだったろう? 野分巻だったかな)
 人間の女はいつまで花でいられるものだろう。まちがいなく透姫子は花だ。たとえるなら水仙か、杏か…。初対面の大島紬の清楚な印象がそのように想わせる。百合原も。
百合原と自分は同年代だから、彼女が花なら自分もまだ花と言えるかしら。介護を働きながら茴は老いをみつめている。避けがたい傾斜、凋落、愛のありか。キリストの愛は貧しい者病んだ者を包む。
 まだ自分を恃む奢りを魅惑と信じて日々を生きる亜咲や自分、百合原はどうだろう。茴以外はクリスチャンではないけれど。

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
 わたしは敵対させるために来たからである。 
 人をその父に
 娘を母に
 嫁と姑に
 こうして自分の家族の者が敵となる。

 マタイ34章が茴には不可解な真実となって心に迫る。「汝の敵を愛せよ」という御言葉は素直な感動とモーチベーションをくれる。だけれども、34章の糾弾はどういうことなのだろう。いつか懇意にしている神父に尋ねようと思っているが、理屈でわかっても、魂で受け入れられるかどうかわからない。エロスへの執着、嫉妬を醜いとも、またそのような感情の歪みから免れて、最後まで女性として美しくありたいとも願う自尊心が四十の声を聴いて切実に見えてきてから、この御言葉が茴の感情に食い入る。義理の娘に知られたくない葛藤だった。

 うらうらとした午後の弥生の陽射しは蘇芳山よりもまろやかで、上着を脱いでしまいたいほど心地よかった。小町通をしばらくぶらぶらし、賑やかな観光地の景色を眼に入れる。女性とカップルが多かった。働き盛りの男性はウィークデイにはふつう遊べないはずだ。徳ちゃんや月さん、矢田部さん、松井さん…利用者さんの誰彼に似通う観光客はいない。あたりまえだがいない。
 みんな自分の足で歩き、腕を組み、笑い、喋り、甘酒を飲んだり、クレープをぱくつきながら自由に遊んでいる。ほっとする日常だ。三十分前に自分が置いてきた徳ちゃんの光景が、このなごやかな日常の裏側に感じられる。
 翡翠房の前にもう一軒覗きたいアンティークドールの店がある。鹿香八幡宮に近い奥まった平屋で、さほど品数は多くないがジュモーの人形など、めずらしいビスクドールをいくつか所蔵していた。せっかく来たのだからと茴はそちらにまず足を向けた。翡翠房の後に立ち寄るのは面倒な気分になるだろう。どちらもひっそりした小家だが、手入れをした庭と、奥行のあるたっぷりした間取りの翡翠房のほうが、通りに面した展示室ひとつの西洋人形の家よりも華やかだった。
 小町通は駅前から離れて八幡宮に近づくほど、個性的な店が多くなる。お香や人形、文具、菓子、和紙、アクセサリー、ジュエリー、古書店、和服、陶器、鹿香彫りの店いろいろ、店の構えも凝って、並べた品物の値段も高くなるようだ。
 歩きながら、ふと陽射しを含んで漂う白檀の匂いに惹かれた。藍色の暖簾に紅白の飛梅が大きく染め抜かれている。凛としたたたずまいのそちらへ近づきかけ、途中で茴は立ち止まった。香店の隣は大きな文具店で、便箋葉書、封筒といった一般文具以外にも、日本各地さまざまな和紙の品揃えで知られていた。茴も一年に一度くらいは入る。普段使いの習字紙から高級料紙まで幅広く、見ても触れても楽しい。ちょうど、ひときわ明るい彩の少女が上半身を半ばうしろにひねるように振り返りながら、店から出てきた。
 橙色のショートコートに黒い膝上のミニスカート。キャメルのショートブーツにすっぽりおさまる膝から足がのびのびときれいだった。脚がきれいだなと感じるのと、それが陽奈だと気付くのと、どちらが先だったろう。自分が実母ではないと自覚する一瞬だが、実の母親でもすっかり女性になった娘を偶然街で見かけたとき、品定めのような視線をまず注ぐのだろうか。そうかもしれない。
 ひな、
 声をかけようとしてまた茴は停まった。陽奈の向こう側、文具屋の中から男が出てきて娘に寄り添う近さで笑いかけたからだった。反射的に茴はすっと人波に隠れた。陽奈より青年はだいぶ背が高い。陽奈が顔を仰向けてにこにこしながら何か答えている。もちろん声は聞こえない。陽奈はこの店で買ったらしい巻紙を大事そうに持っている。青年は青いダウンベストを着ていた。彼はすぐ後姿になってしまったので顔がはっきり見えない。
(予想本命君かな) 
 妙な具合に胸がどきどきする。が、青年のまた後から、もうひとり陽奈の友達らしい女の子が出てきて、二人に何か言いかけ、弾けるようにみんなで笑った。陽奈の友達はベレーのような毛糸の帽子をかぶり、白いダウンに赤いロングスカートを穿いている。その子はスマホをとりだすと、文具店の軒先でまず自分撮りし、それから青年を真ん中に挟み、三人で肩をくっつけて撮影した。
(声かけてもよさそうな感じなんだけど)
 茴が人ごみの中で迷っている間に若者たちは行ってしまった。
(別にあたりまえのことよね)
 中学、高校と陽奈の遊び相手に男の子は多かった。そのひとりを時々家に連れてくることもあったし、今年の正月のスキーだって女の子だけで行ったわけではないだろう。今見た男の子もそんなボーイフレンドの一人だと思う。それにしても、陽奈が家に男の子を連れて来た時には感じなかった今の寂しさは何だろう。カップルでもなく、女友達もいたのに、茴はまだちょっとどきどきしている。
(きれいになったわ、陽奈は)
 遠目に眺めて、家庭内の至近距離では気付かなかった手足のすこやかさと顔立ちのみずみずしさが周囲のワンサと比べて際立って見えた。最初自分の娘だと気付かずに、のほほんと視線を誘われたことへの驚きのせいかもしれない。
 春の光が小町通を八幡宮へ遠ざかってゆく陽奈の上にまぶしい。その光は道端に所在なくつったっている自分にも注がれている。汗ばんできた。さしずめコートをちょっと脱ごうかしら。
 
 翡翠房の庭先には姿のよい山桜が二本あって、陽当たりに恵まれ両方とも目の粗い竹箒を逆さにしたようにまっすぐで豊かな枝ぶりを空にひろげている。春空の青に山桜の枝が銀色にいきいきと光り、樹木全体が春を深呼吸しているようだった。二人連れ、三人連れの女性客ばかりが次々と翡翠房へ入ってゆく。ちょうど旧暦雛祭りのころだから、店は繁盛しているのだろう。
 それほど広くはないが、錦木の生け垣や庭石の並べ方の古風な庭の奥のほうに緋毛氈を敷いた縁台と赤い花見傘があって、そちらのほうに数人、やはり女性たちがさんざめいている。中にひとりだけ粋な黄八丈を黒い帯で着付けているのは透姫子でも百合原でもないが、翡翠房のスタッフに違いないと茴は好ましく眺めた。帯は喪服の帯か、黒繻子だろう。近寄って彼女の着こなしを鑑賞したい気がしたが、雛人形を見てから、と古めかしい千本格子を残した引き戸をあけた。
「や、また会いましたね」
 早々親しげに男の声が飛んできて、違和感に茴は驚いた。ここは女性しかいないものといつのまにか固定観念ができてしまっている。
(藪から棒に何よ誰?)
 いまどき古い形容だが、男の声は「藪から棒」にぴったりの頓狂な感じがした。そのすぐあとに
「いらっしゃいませ」
 控えめな声がして、いくつか並んだガラスのショーケースの向こうに透姫子が見えた。彼女は和服ではなく、春らしい水色のゆったりしたチュニックを着ている。ここの作家作品なのか、イヤリングとお揃いの天然石のペンダントを胸前に長く下げている。石は何だろう。透明感のある黄緑色のブロックだった。
「どうもお」
 また横から声が来て、茴は多少いやいやながらという気持ちでそのほうを見た。男は店の奥、天井から色とりどりの可愛らしい吊るし雛が垂れ下がり、古風な五段飾りの雛壇を壁に添っていくつも横並びに飾った薄暗がりに座っていて、声をかけた後に立ち上がってこちらに挨拶に来るでもなく、組んだ足の上のほうをぶらぶらさせて腕組みしている。
「またって、わたしのこと?」
「はいそうよ」
 男はまなじりを下げて笑い、片手でくしゃくしゃした赤毛を掻いた。
「失礼ですが、どちらさま?」
「銀座で会ったでしょ」
 銀座、ああ、東京スタコラーズの。
 茴は当日の出来事を脳裏に巻き戻して彼の姿を探すが、言葉を交わした何人かのなかに垂れ目貧乏ゆすりの記憶はみつからない。
「これわたしの父です。ずうずうしくて申し訳ありません」
 すまなそうな声で透姫子がやってきて、ちょこんを頭を下げ、茴はさらにびっくりした。仰天に近い。
「あなたの、おとうさん、まあ」
 親子というのはたとえ顔が似なくてもどこか空気がつながるものだと思うけれど。にやにや笑っている垂れ目貧乏ゆすりを茴は再三見た。清楚のせの字も彼にはない。椅子に深くもたれかかる猫背。着ているものはくたびれたデニムのジャケット、ジーンズ、年のころは六十代、半ば、かな。
爪先を小刻みに上下ゆらゆらさせている靴は、たいそうおしゃれな白と茶色のメッシュコンビだ。日本人一般の足にはなかなか合わない先細のデザインはイタリアだろうか。さぞ面倒くさいはずの網目のすみずみまで手入れが行き届いて、薄暗がりにも細かい革細工がつやつやしている。
 蓬髪にやすっぽい上着と気取った靴のアンバランス。悪がり、実はおぼっちゃま。デニムジャケットの下のコットンシャツは黄色。
思い出した。色は雄弁、おBなオヤジ。
「会場入り口で挨拶してらした方」
「そ、あなた渋い結城着てたでしょ。あの窮屈そうな着付けが忘れられなくてさ」
「……それはどうも」
「森さん、ジンさんはいつもこうなんです。気になさらないでください。あがってお人形をご覧ください。二階にもいろいろ可愛い子たちが来ていますから」
 二人のやりとりを見かねた透姫子がひきつった顔で割って入り、とりなす。
「ジンさんて」
「おいらジンさん、よろしくね。口は悪いけど女性の味方よ」
(味方? その〈女性〉はあたしにはあてはまらないってこと?)
 茴はむかつくが営業用スマイルで微笑んだ。「お父さんのこと、ジンさんて呼んでるの、透姫さんは」
「一昨年再会したんです。もうおわかりでしょうけど、我が道だけしか歩かないひとなので」
 察すればむつかしい経緯をすらすらと面白く透姫子は言った。
「ジンさんて呼んでくださいよ。女にはやさしいですから」
 そうかなあ、と茴は疑惑を伏せた営業用スマイルのままジンさんに会釈して、透姫子の勧めるまま二階に上がった。福祉の仕事をしているせいか、茴は自分の言葉遣いに気を遣う。むやみやたらに食いつくひとには近寄らない方がいい。普段、多少大袈裟かも、と自制するくらい、柔らかい優しい言葉で病人や高齢者に接するようにしている。
だが結局それは、壮年や若者相手でも同じではないかと思う。言葉は力をふるう。キリストは神のみことば、と称えられているではないか。プラスに働く愛の言葉ならいいが、暴力はだめだ。ジンさんはやばいな、と茴の心に警戒心がちょっと涌いた。
が、それなのに茴が二階に登ると、すぐ後ろからとんとん、と板を踏む足音を高く立ててジンさんが追って来た。
「え…何か」
「いや、これらの人形の由来をあなたに説明してさしあげようと思いましてね」
 ジンさんは顎を少し斜めに傾け、いつも笑っているような垂れ目をさらに細くして、やや横目に茴を見ると、ポケットから仁丹のケースを取り出し、手のひらに何粒かこぼしてぽんと口に放り込んだ。ガリガリ、と奥歯で粒を噛む音が聞こえる。
「はあ」
 要りません結構ですとも断れず、娘の透姫子がまた出てきてくれないかと念じたが、階下では新しい客が入ったらしく賑やかで、不良オヤジの監督どころではなさそうだ。
 半ば仕方なく茴はジンさんに従って、二階の雛人形、市松人形、現代作家の新作まで彼の長い説明を拝聴してまわった。
 ジンさんの薀蓄はじっさいたいしたもので、端々に山田徳兵衛の『日本人形史』を引く。現代の一点制作の球体関節人形作家の名前もぽんぽん飛び出し、茴はいつのまにか煙に巻かれ、すっかり感心してしまった。
 博識の披瀝の最中、ジンさんは自分の流暢に陶酔してしまうのか、とげとげした嫌なちょっかいも言葉に出てこないので、素直に気持ち良く聞けた。ただ、貧乏ゆすりの癖は講釈の間も止まず、Tシャツと同じ黄色い五本指ソックスをはいたどちらかの踵を、常に交互にかたかたと上下させている。相手をしている茴は自然に職業意識が働いた。
(もう少し目つきや様子がおかしかったり、高年齢のひとだったら、抗精神薬服用による副作用かもって思うところだけれど)
 しかし、多動性障害ではないようだった。
ぺらぺらへらへらと知識を並べる口車のなめらかさに、第一印象の悪さも払拭されそうになったころ、百合原が登ってきた。
「森さん来てるんですって?」
 階段を登りきらない彼女のあっけらかんとした声が下から聞こえた。そのあとでまったりとした濃い袖香の匂いといっしょに、あでやかな和装の本人が現れた。絨毯のような濃いペーズリー模様の更紗の小袖を着ている。趣味の着物らしく元禄袖だ。海老茶の綴れ帯に、大きな貝殻の帯どめをしていた
「小一時間もひっぱりまわされて、茴さん、ジンさんの長広舌にふりまわされちゃだめよ。庭でお抹茶点てるからどうぞ。ジンさんもういいでしょ。さんざんしゃべったでしょ」
「ちぇっ、うるさいのが来やがった」
 いたずらを見つかった子供のような表情で舌打ちしたジンさんは眼を細め、両手をGジャンのポケットに突っ込み、ぷいと踵を返して、またとんとんと階下へ降りてしまった。
 あっけにとられた感じで茴は香寸を見た。
 うさぎの国の女王陛下、百合原香寸は配慮はしても遠慮はしない。
「偏屈な女好きだから、森さん騙されちゃだめ。あのひとはあれで親切ではあるのよ」

 百合原に忠告されたが、ウォーキングオンリーマイロードジンさんのおかげで、この午後の自由時間はたいそう楽しく、湯浅さんケアの気疲れはとれた。雛人形はもちろん、お茶もお菓子も、翡翠房の女性たちの応対も快く、軽くなった気分で翡翠房から自宅に戻ると、中から玄関にぬっとカイトが迎えに来た。
「あらどこにいたの」
 カイトはいつものように何も答えず、湿った鼻先を茴の手に押しつけて甘えた。茴はカイトのしっぽを見た。赤銅いろの矢印がついた悪魔の尾。また血で濡れているかしら。
 茴の怯えた視線に気づいたのか、カイトの尾は宙を飛んで、ぴしりと茴の腿を叩いた。鞭でかるく叱責されたような気がする。鮮血はない。どこかに乾いた血痕は残っているかもしれない。餓鬼妖怪だとしても、何かを餌食にせずには生命を維持できないはずだ。
「あなた、いつまでわたしの傍にいるの?」
 リビングに上がり、冷凍庫からアンパンを取り出して解凍すると、話しかけながらカイトにやった。カイトはパン一個をひと舐めで皿から掬い取り、噛まずに飲み込む。返事はない。
「今日、陽奈に会ったのよ。男の子と一緒だった。女の子もいたけど。何だかこっちが変な気分になっちゃった。どう思う?」
 山盛りのパン皿にうつむいていたカイトは金褐色の眼をあげ、長い睫毛をゆっくり瞬きさせると口を半分ほどゆるく開けた。上顎口角に二本の長い尖った牙が光る。
「茴ちゃん、このままだといつかカイトに食べられちゃうよ。そのためにカイトは来たんだから」
 いきなり陽奈の声だった。陽奈はカイトの喉の奥からさらに言い募る。
「キリストは自分の体と血を契約のしるしに弟子たちに与えたんでしょ。司祭さまは言うじゃない。これはキリストの体、キリストの血。愛する者に自分を与えるって、食べさせるってことでしょ。カイトは茴ちゃんに愛されたくて、茴ちゃんを食べるためにいるの、このままだと」
「陽奈、あなたどこにいるの?」
「あたし餌食になるのいやだからね。カイトは可愛いけど、喰われるより喰うほうが」
 むう、とカイトは口を締め、牙が隠れた。陽奈の声もそこで途切れた。
 同時に、まだジャケットを着たままの茴のポケットの携帯にCメールが届いた。陽奈からだった。
「今夜みんなとばんごはんたべますいりませんごめん」
 帰りは何時になるのか、と質問を折り返そうと思ったがやめた。ばかなことをする子ではないし、もう二十歳なんだから。
 カイトがぐいぐいと胴体を茴の膝に押しつけてきた。茴はたった今キメラの口から聞いた陽奈の忠告とメールのなかみと何か係り結びがあるのかと思いめぐらしたが、心あたりはつかなかった。陽奈の声だったろうか?
(確かにカイトは陽奈の声でしゃべった)
 だがリアルタイムで陽奈は友達と楽しく遊んでいるようだ。須磨子さん宅にうかがった時のカイトは、隣室の須磨子さんの拡声器となっていた。今とは違う。
「わからないわね。あなたわたしを食べたいの? ほかの人も食べたの? わたしが死ぬのを待ってるの?」
 夭折の予感なんかちっともないけれど、と茴は膝元のカイトの背中をぽんと手でひとつ叩き、ようやくコートを脱いだ。四十過ぎてもう夭折とは言えないかも、それともまだ若死と惜しまれるかしら、と茴はリビングを通りながら櫂の写真を見た。四十代半ばで逝った夫は、まだ今の自分より老けている。それが嬉しかった。夫の遺影がいつか自分より若く見える時がくる。どんな気がするだろう。
何はともあれ、ラグレアブル・アノ二ムのために、もう一曲手に入れておこう。バッハ無伴奏チェロ組曲五番サラバンド。

水曜日の朝、篠崎月さんのケアには腰ベルトを準備した。汗まみれの奮闘が今日は起こらないよう祈りつつ、とはいえ重度の身体介護に予想外はつきものという心構えもベルトといっしょに持ってきた。
 モノレール松井駅で降りると、こちらも桃や紅梅が盛りだった。農家の居住まいを残す月さんの家の広い庭にも蝋梅や山茱萸、沈丁花などが気ままに咲いて、春おだやかな朝の光に馥郁と香っている。手入れを怠っているのは一目瞭然なのに、前庭の花壇にはチューリップや水仙がにょきにょきと咲いていた。
(月さんに見せてあげたいなあ、殺風景だから、あの寝室)
 花壇から水仙とチューリップを数本摘んで玄関に上がった。
「おはようございます、篠崎さん、森です。起きられますかあ?」
 声掛けして、窓の遮光カーテンを開けた。明るくなった室内はいつものようによく片付いている。今朝の月さんはちゃんとベッドに寝ている。すすす、と軽い鼾が聞こえる。
「月さん、ごはんにしましょうか」
 上半身をかがめて月さんを覗いた。浅黒かった顔がすっかり白くなったと思う。血の気がないというのだろうか。入院してから眉が薄くなり、染めなくなった頭髪は綿のように柔らかく、顔の回りでふわふわしている。上瞼と下瞼が目脂で糊付けされてくっついていた。その裏側で眼球が動いているのがわかるから、月さんは眼を開けたくても開けられないのかもしれない。
「月さん、お顔拭きましょうね。聞こえますか?。これお庭のお花、切って来たんです。いい匂いでしょ、ほら」
 茴が月さんの鼻に水仙を近づけると、
「はあい」
上下の義歯が入っていない口が開いて、欠伸のような返事が来た。月さんの声が呑気に聞こえた茴は、つい余計な冗談口をきいた。
「今日は脱走しませんでしたね。よかった」
 茴は腰ベルトをきつめに巻いた背中に無意識に片手をやった。これが活躍しないですむケアだと助かるんだけど。
半ば物置と化したキッチンでおしぼりを電子レンジにかけ、蒸しタオルを作る。その間に周囲のどこかから適当な花瓶を探し出し、花を活けた。毎日ヘルパーが入るから、誰か水を換えてくれるだろう。
 花瓶とおしぼりを持って月さんの寝室に戻りドアを開けると、そこにまたカイトが来ていた。カイトの傍にはもうひとり青い服の女の子が立っていて、ほっそりした上半身をかがめ、さっき茴がしていたように月さんの顔を覗いていた。
カイトは狛犬のように床に腰を落とし、少女の脇に控えている。茴が入ってゆくと首だけこちらへ向けて歯を剥いた。にっと笑った感じだった。
「お姉ちゃん、こんにちは」
 人なつこい笑顔で茴に挨拶する少女の両目はあざやかなセルリアン・ブルーだ。
「あなたはメグさんだっけ」
 茴はもう動揺しなかった。世の中に不思議が存在しないことのほうがおかしい、いつのまにかそんな気持ちになっている。
 こくん、と可愛い仕草で少女は頷き、また月さんを見て
「おばあちゃんをそろそろ連れていかなくちゃいけないの」
「あなたは天使なの? 月さんをどこへ運ぶの?」
「あたしはおばあちゃんに呼ばれて来たのです。行きたいところを知ってるのは月さんで、あたしはそれを助けるだけです」
「月さんに呼ばれた?」
「はい。あたしはどうして自分がここにいるのかわからない。今までも何度か、気が付いたら月さんの傍に来てるの」
 眼の色と同じ色の夏服を着た少女は、細い腕を伸ばして月さんの顔を撫でた。茴ははっとして自分の役割を思い出した。
「顔を拭くので、ちょっと離れてください」
 まぼろしと話すうちにも現実のケア時間は過ぎてゆく。
「カイトはあなたの知り合い?」
 月さんの眼脂を拭いながら茴はメグに尋ねる。
「この動物はお姉ちゃんの一部だわ」
「あなたもそう言うの」
「も?」
「紫羅も、そんなことを言った。あなた、銀座のパヴォで彼女?彼と並んでいたわね」
 応えがないので振り替えると、そこには誰もいなかった。メグもカイトも姿を消していた。メグが立っていた床の上には水仙とチューリップを活けた青い信楽ガラスがある。
(あたし大丈夫? 統合失調とかだったらどうしよう、幻影がちらつくなんて)
 世の中に不思議がないほうがおかしい、とさっき思ったそばから自分の正気を疑う茴。(でも精神て、きっとむしろ首尾一貫しない乱れがあるほうがナチュラルよね。かちんかちんに思い詰め、全然揺らぎがないなんて、それこそ狂信、パラノイア)
 ともかくケア中だ、ケア続行。既に二十分経過している。時の支配は狂気幻想にも及ぶ。
「おはよう」
 眼脂を拭いてしまうと月さんは両眼をむずむずと開き、大きく口をひらいて挨拶をくれた。
「気分いかがですか」
「ンー、ねえ」
 月さんはかなしそうな八の字の皺を眉間に寄せて、顔の前で痩せた片手を振り、サイドテーブルのほうを示した。介護用グローブやマスクの備品がある。失禁始末用のポリ袋や雑巾なども。しっかり者の月さんは茴に指示をする。
「マスクして」
はい、と茴は月さんの羞恥心を察してマスク手袋を装着した。羽根布団を剥ぐ。月さんはつなぎの介護用パジャマを着ている。腰の下に手を入れてみる。なまあたたかいが、シーツまで濡れてはいない。パジャマの中で留まっているようだ。
陰部洗浄をベッドでするのは初めてではないけれど、手際に自信がない。だけどやらなくちゃ。たくさんぼろ布がいる。ビニール袋と、それから。
 このおむつ交換に何分かかるかしら。十五分もっと必要だろう。月さんは朝ごはん食べられるかな。
陰洗用のボトルはどこだっけ、テーブルの下じゃなくて、たしかトイレか脱衣場か。時計を横目に見ながら小走りに廊下に出ると、エプロンのポケットの中で携帯が鳴る。ケア中だが三藤町の事務所からなので出る。
「あ森さん、やすらぎの事務です」
 本部事務所の電話番号は入居施設と訪問介護と共通だった。
「今ケア中ですけど」
 思わず切羽詰った返事をしてしまう。が、相手は茴よりも息せききった声で言った。
「鶸さんがね、さっき救急車で運ばれたのよ。朝からひどい頭痛がするって言ってたんだけどあなたが来るからって鶸さん我慢してたんだけど、さっきバターンて倒れたの。クモ膜下出血じゃないかって」

カノン・エアリウム  チェリー・トート・ロード vol15

Posted by 水市夢の on   0 comments   0 trackback

   カノン・エアリウム

 灰の水曜日はバレンタインデーのすぐ後に来る。受難節、レントの始まりの日だ。この四十六日あとにイースター。茴たちのパフォーマンス〈匿名の愉しみ/ラグレアブル・アノ二ム〉は復活祭直前の土日に決まっている。本番までもうほぼ四十日しかない。
 教会では灰の水曜日の特別ミサがあるが、働いている茴は毎年受けられない。今年は水曜日朝一番に篠崎さんのケア、それから施設の母の相手をする。母も洗礼を受けたカトリック信者なので、時々思い出したようにミサに行きたがる。灰の水曜日のことも覚えていて、雛祭りや端午の節句と同じ程度の季語として話柄にすることもあった。
「これ、今度のダイレクトメール」
 ラグレアブル・アノ二ムのカードを見せると、鶸は眼をほそめ、化粧気のない白い顔にきれいな笑顔を浮かべた。おしろいを塗らなくても肌は白く唇が赤い。病に倒れてから髪は短く切ったが、毎月美容院でヘアダイしてつやつやと明るい栗色に整えている。頭のかたちが扁平な短頭形ではなく、適度に長頭形なのでショートカットもよく似合った。
「こちら千尋さんで、もうひとり誰?」
「吉良豹河君。まだ少年ぽい青年。イケメンでしょ」
「うん、ロック少年ね」
「ジャズだって。でもクラシックも」
「へえ、髪がすごいわ。毛皮みたい」
「でしょ。亜咲がもう、夢中でもないか、ちょっと気がある」
 鶸は吹き出した。
「千尋さん落ち着かないのね」
「一生お姉さんか先生でいるって豪語してるわ。おばさんなんかいやだって」
「おばさんになりそうもないひとじゃない」
 毒のない笑顔を見せる鶸の左目だけが充血している。茴は気になって顔を近づけた。
「お母さん、頭痛する?」
「別に」
 幼児のように鶸はかぶりを振った。
「ものが見えにくいとかない?」
「もう老眼だからね。本も読まないわ」
 鶸は茴の凝視をよけて顔を背けた。病院へ連れて行ったほうがいいだろうか。麻痺はどちらだったろう、と茴がとっさに迷うほど、ほとんど体の麻痺は回復したが、修復されない脳血管のどこかが綻びたのかもしれない。もちろんただの眼の充血、夜間の不安衝動の際、涙に濡れた眼を強くこすったせいかもしれなかった。
 昔から鶸は自分の傍に誰かがいれば安定していた。家にいるときは茴か毬、ここでは「やすらぎ」の職員か。流行作家として全盛だった数年間は、何人もの編集者が入れ替わりに香枕の家に来ていた。
 不安発作、不定愁訴は身のまわりに人けがなくなると始まる。これは脳血管障害の認知症状とは関係ないのではないかと茴は内心思っている。若いころの鶸の写真を見るとタレント志願だった娘の毬よりもくっきりした目鼻だちをしている。さぞ周囲からちやほやされたことだろう。
誰からもかまわれなくなる恐怖が鶸を失調させる。脳血管が破れたあと、まだ施設に入らず、夕方から夜にかけては茴ひとりが自宅で介護しているとき、鶸は深夜になると形容しがたい声で泣き叫んだ。ひとりはいや、誰か来て、こわい、さびしい、お願い、おねがぁい…。隣室に寝ている娘が不眠症になるのもまるでお構いなしだった。
 体裁も恥もかなぐり捨て、慰めを求めてすすり泣く鶸のほうが彼女の本質なのではと茴は眺める。距離をおいて、淡々と眺めている。
「今日は灰の水曜日よ、お母さん」
「そうだったわね。すっかり忘れちゃった。このころになると、庭に春の小鳥が来るのよ。目白とか、鶯とか。今も来る?」
「家はひとに貸しちゃったわ。でもきっと来てるでしょう」
「そうか。それも忘れてた。もうぼんやりしてしょうがない。お父さんは元気?」
 茴は呼吸を呑んだ。五、六秒考えてから、
「お父さん? ここにいるじゃない」
 衣装箪笥の上の写真を指した。イランの手織りタペストリーを敷いた上に家族写真が飾ってある。父親の写真は黒枠の遺影ではなく夏の芦ノ湖を背景に鶸と並んで笑っていた。何の不足もない仲の良い夫婦に見える。
「これは昔のでしょ。ひさゆきはどこよ」
 ひさゆき、という名前が鶸の口から洩れたとき、茴は父の名前の漢字がすぐに思い浮かばなかった。一瞬、誰のことかと面喰ったほどだ。そうだった、鶸はもう長いこと、夫の名前を呼んだことがなかった。鶸の声と父親の名前が結びつかない自分の記憶回路を、茴は歪んだレールのように感じた。感情はいびつな軌道を走ることができない。どこかで覆ってしまって…。父の葬式の時、母はどんな顔、姿だったろう。
 とっくの昔に死んじゃったわ。我ながら根拠のない怒りがこみあげ、突き飛ばすように鶸に向かって現実を告げたい衝動を、茴は喉元でこらえた。ケアワーカーとして適切な回答を、適切な笑顔、やさしい声で言う。
「藤塚で元気に仕事してるわ。お母さんのこと心配してるよ。だけど会いたくないでしょ。お母さんのほうが」
「時間が解決するってこともあるかしらね」
 鶸はまぶしそうに眼をほそめて早春の日光がさんさんと輝く窓のほうを見た。

「これは夢じゃない、茴ちゃん」
 バレンタインデーを過ぎたら髪を肩の上で切りそろえた陽奈が真顔で言った。ジャン・ピエール・ジュネの『アメリ』のヒロインのような髪型だ。髪が短くなって前よりあらわになった顔は女優のオドレイ・トトゥよりおっとりとまるい。
「わたしはわたしで勝手にやるから大丈夫よ」
 荒い言葉の語気をやわらげて茴はつぶやいた。何を勝手にするのか考えの埒外だった。
 茴と陽奈は最近開館した得鳥羽エアリウムに来ていた。隣接の水族館はずっと前から湘南の観光スポットになっている。新しい別館エアリウムは列柱や前庭のないタージ・マハルといった第一印象だ。こじんまりとしているが、中央にドームを内包した白亜のすがたはアクアリウムとほぼ同じ。早春のくきやかな海の陽を浴びて、波のうねりを模した青と白のモザイク壁画がまぶしい。
 世界中さまざまな名所旧跡の大気をご堪能になれます、歴史に残る宮殿、神殿、霊廟、ピラミッドからマヤ・アステカの墳墓内陣の空気を臨場感とともに御体験できるエアリウム。さらにはお客様が追体験なさりたい思い出の季節、気候、場所の空気を可能なかぎり再構成してご提供いたします。
 エントランスからすぐにほのぐらい円形の展示室に入る。周囲の壁には隙間なく色とりどりのガラスの筒がびっしりと並んでいる。まるで密教の曼荼羅画面にそのまま入りこんだようだ。きらきら光るガラスの筒は試験管よりも太く、おひやのコップよりも細い。どれも金属の蓋が付いているので、解剖標本を保管する壜に似ている。ひとつひとつの筒の中には、世界各地、各時代の空気が詰まっていると係員が説明してくれる。
 大聖堂のように建築の中心真上に向かって、壁の一定の高さから円錐形の傾斜が伸びるギャラリーには茴と陽奈のほかに今十人ほどの観光客がいる。開館したてのエアリウムの職員は、まとまった数の客を集めては、再現された過去の空気を追体験する楽しみ方を、宣伝を兼ねて説明してくれるという趣旨らしい。
「この中に空気が入っているんですか?」
 客のひとりが周囲のガラスの列を指でさした。まるでピアノの鍵盤を指いっぽんでなぞるような手つきだ。エアリウムの学芸員は青と黄色の制服を着た若い女性で、にこやかに答えた。
「空気そのものが入っているのではなく、空気の記憶を封じ込めてあるのです。このアクリルガラスの中には、世界各地、各時代のオブジェから読み取った大気構成要素のチップが無菌状態で保存されております。お客様がどれかひとつお選びになって、個別ブースにお入りいただきますと、当館エアリウムのコンピューターマザーがチップを解析しブースのお客様の感覚器官に空気の記憶を提供させていただくということでございまして」
 まわりくどい説明も妙齢ウグイス嬢の美声で囀られると、それだけでいい気持ちになって納得させられる。
 陽奈が興味しんしんの顔付きで手をあげた。
「質問! つまり空気そのものを保存してるわけじゃないのね」
「さようでございます」
「過去のオブジェって何ですか?」
「たとえば、衣服などの繊維。また大理石の石や、当時からそこに生えていたとおぼしき樹木の細胞などから読み取ります。衣装の繊維などはオブジェとしてはとくにすぐれものでございまして、匂いや触感、織りかたや、その衣装をまとうていた貴婦人や貴公子の汗などの残留成分から、膨大な往時の記憶を再構成することが可能なのです」
「じゃあ、ミイラの髪の毛とか、土や砂も」
「はい。こちらにはツタンカーメン王のミイラはじめ、副葬品などの宝物から採集し、再構成した紀元前三千年のピラミッド内の空気を御体験できます」
 うわあ、と陽奈が眼をくりくりさせる。観光客たちも一様に、ほおお、と吐息を漏らした。嘘かほんとかわからないが、つまりは脳細胞にマザーコンピューターから電気信号を送って、その空気を味わったのと同じ感覚を味あわせる。つまり幻想。
「つまり、マザコンの子守唄ね」
 ぽろりと茴がつぶやくと、学芸員はじろっと冷たい横目をくれた。
「皆様どうぞお好きなエアをお選びください。当館のブースは百五十ございます。一回の入館につき追体験できるエアの本数は特に制限されてはおりませんが、空気を味わう、ということは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、さらに記憶や情緒を含めた全人格的時間体験となりますので、せいぜい三つ、できれば一つか二つの追体験になさったほうがよろしゅうございます。事後の情緒障害などの事例はまだ報告されておりませんが、タイムワープはドラえもんのどこでもドアでもないかぎり、大変エネルギーを消耗いたしますから」
 ドラえもんを引き合いに出しても誰も笑わなかった。
「あたし、これにする」
 わらわらと観光客の輪が学芸員の周囲からほどけて、レインボーカラーに発光している壁に散った。陽奈はほとんど迷わずひとつのエアを探し当てた。
「何にしたの?」
「マリー・アントワネット全盛期のヴェルサイユ宮殿」
「ええ、そんなのあるの」
「あったのです」
 陽奈が両手で握りしめたガラスの筒は鮮やかなマゼンタとワインレッドのマーブルが液体のように揺れている。まさにべるばら色。この着色はきっとエアリウムの演出だろう。
「オスカルはいませんよ」
「そんなことわかってる。あの金ぴか時代を追体験したいんだ」
 さて自分はどうしよう。茴はゆっくり曼荼羅の円陣を一周した。腰の高さから天井への円錐の傾斜が始まる一線まで、壁面に隙間のない膨大な色付きガラスの陳列は、さながらイスラム寺院のモスクのようにも見える。
追体験したい時代、記憶、一瞬か数分かのタイムワープが許されるとしてどこへ行こう。嗅ぎたい匂い、触れたい感覚、見つめたい光、聴きたい音あるいは声は。

 帰ってきちゃったのよぉ、と向野ギャザリングはおかしそうに告げた。
「有料老人ホームに入ったんだけど、何か不都合があって昨日から西香枕の自宅に戻ってるの。入居してまだ日が浅いから、家に住むのに支障はないんだけど、とりいそぎヘルパーに来てほしいって」
 一月に施設入居した松井須磨子さんは、無断で自宅に戻ってしまったという。
「お元気なんですか」
「自力ですたすた出てくるんだから元気でなくちゃ。まあ、彼女の性格ならそういうこともありと思うけど」
「そうですね」
 いじめにでもあったのかな? でなければ食事が合わないとか。だけど自宅で松井さんが食べていたのは、果物やパンの他は宅配弁当かコンビニの惣菜などだったから、施設の御飯のほうがずっとよかったはずだ。
まあ、我儘なひとだから、周囲といろいろ衝突はあったろう。独り住まいの孤独よりも集団の中の孤立のほうがやりきれないというのは推測できた。独りなら女王さまだけれど、集団生活ではともすると魔女にもされる。
「変則だけど、明日の午後行ける?」
「ちょうどまるまる空いてますから。ケア内容は同じですか?」
 三月近い木曜日、大気はしっとりと潤って松井さんの家に登る坂道沿いの梅林には、紅白の梅が満開で、蘇芳山から澄んだ鶯の声も響く。西香枕住宅地には、まだあちらこちらに畑があって大根や青菜など作っている。そうした菜園や家々の庭先の陽だまりに、菜の花に雪柳、たんぽぽ、木瓜などなどがゆったりと咲いていた。
(こういうのんびりした景色から離れて、施設に移るのはいやだろうな)
 目に映る世界中に弥生の土と陽射しの匂いが溢れている。気温は冷たいが、日光はジャケットを貫いて体の芯まで温めてくれる。小鳥のさえずりが絶え間ない。あれはミソサザイだろうか。施設だってお日さまも小鳥も来るだろうけれど。
「森さん、出てきちゃったの、またよろしくお願いしますね」
 松井さんはすべすべした顔に泣き笑いのような表情で迎えてくれた。前と同じくフリースのパジャマに毛糸のカーディガン、素足で居間の長椅子に寝ていた。BGMがわりのテレビが大きい音で鳴っている。茴が入ると、須磨子さんはぱちっとテレビを消した。
「合わなかったですか?」
「うーん、なんかねえ、疲れちゃって。四六時中回りを気にしてなくちゃいけないってやっぱりねえ。自由がない気がして。入居しているひとたちはそんなに悪くなかったんだけど、認知の人が多いから、噛みあわないっていうのか、話しをしててもあんまり楽しくないの。スタッフは忙しいでしょ」
「そうですね、しんどいですよね」
 溜息まじりにこぼす松井さんの顔はさっぱりとしてむしろ明るく、やつれた気配はない。体もしゃんとしているように見える。
「髪を洗ってもらえる? 施設にシャンプー持ってくの忘れちゃって参ったわあ。髪の匂いってあたしこだわりがあるから。施設の近所に売ってないのよね」
「あはは、そうですか」
 湯船に入る前に須磨子さんは頭髪から始めて全身を洗う。
「もっと強くこすって」
「こう、ですか」
「がりがり洗ってよ」
 全身の骨格が表面からたどれるほど皮下脂肪のほとんどない須磨子さんは、かたい頭蓋骨の形が薄い頭皮の下にじかに感じられる。髪の量が少ないせいもある。セミロングの髪はお湯をかけながら指で梳くと、ところどころに大きく地肌が覗く。力をこめてこすったら、皮膚がもろく破れてしまいそうな気がして、茴は須磨子さんの気に入る強さで洗えない。茴のぬるい手つきに、須磨子さんはシャワーの中で笑ったようだ。
「いいわ、あたしやる」
 がりり、と須磨子さんは指四本をほぼ直角にたてて、音が聞こえるほど自分の頭を掻いた。茴の洗い方でも十分汚れは落ちているだろうに、また改めてシャンプーをとり、くしゃくしゃと泡立てた。
「痛くないですか?」
 聞かなくてもいいことを、つい尋ねたくなってしまう。
「いい気持なのよ。リンスください」
 地肌と髪に丁寧に椿オイルを揉みこんで、須磨子さんはタオルを頭に巻いた。それから体を洗う。施設入居まで洗身は自立していた。
「森さん」
「はい」
「もういっぺんシャワー頭にかけてよ」
「は?」
「髪、あたし洗ったわよね」
「はい」
「心配だからもう一回洗う」
「今リンスをお使いになりましたよ」
「でも気になる」
 ざあっ、とシャワーの水流をさっきよりも強くして須磨子さんはもう一度髪を洗い始めた。がりがり、と指を直角にして頭皮をこする音がまたきこえる。
茴は須磨子さんの体から離れ、ヒーターで暖めた脱衣場で見守った。
(強迫神経症みたいだけれど、認知かな)
 気も強く口も達者な須磨子さんを、すっかりクリアだとは思っていなかった。これまではっきりした記憶障害や失認などは見られなかったが、頑なさや気まぐれ、短気など、人格の縁で綻びは広がってきていた。
 須磨子さんは何度も何度も髪を洗いなおした。洗いあげてリンスをつける。またシャワーをかける…。いつまで続くこの循環。
「松井さん、もう風邪ひいちゃいますよ。髪はぴかぴかですから」
 どこかで見かねた茴の口から妙な形容が飛び出した。反復強迫に憑かれた須磨子さんを無理やり制止したら、茴はこの風呂場で突き飛ばされるかもしれない。
「ぴかぴか? うまいこと言うね、森さん」
 須磨子さんは両手を頭髪に差し込んだまま、茴のほうをふりかえり、笑った。

 茴の報告を聞いたギャザリングは小さく唸ったが動じなかった。
「そりゃあなた大変だったね、寒かったでしょ。長いこと」
「ヒーターが脱衣場にありますからあたしはそんなに疲れませんでしたけど、松井さんこれからどうなるのかしら」
「どうって言っても本人が施設いやなんだから自宅でやってくしかないよ。洗髪で、その、何度も何度も皮がすりむけるくらいこするっていうのも、ヘルパーが付かなければお風呂には入れないんだから、命にかかわることじゃないでしょ。万が一頭皮が破れて出血とかそういう事態になって、痛くなったら松井さんだって考えるっていうか、おさまるかもしれないじゃない。痛いのはやだからね」
「はい」
「骨折とか肺炎とかに気をつけて、見守ってください。強引にすると、彼女なんか、まあ松井さんだけじゃないけど、認知症のひとは逆上することがありうるから、そこのところは臨機応変に、淡々と」
 老衰しても髪や肌のお手入れに気を使ってきた松井さんが気の毒だった。かわいそうだと思うのは失礼なのだろうが、洗髪のたびに十回も洗い直しが続いたら、そうでなくとも弱くなった地肌や髪はどうなることか。施設での入居生活はやはり相当のストレスだったのかもしれない。そこでいやいや使った安物のシャンプーが彼女の誇りを傷つけたのかもしれない。
 茴はそこで考えをやめた。余計な詮索というものだ。臨機応変、何が起こっても対処できるように柔軟な心で見守るのがいい。
 チェロを弾かなくては。
 自宅での演奏なら、音色、ディナミズム、アゴギグすべて、ほぼ自分の思い通りの表現ができる。だけど舞台に出たら、お稽古のときの半分くらいのレベルになるだろう。コロリ―ト、音色だけは練習よりむしろ舞台のほうがいいかもしれない。大勢を前にして肉体が緊張しても心は逆にリラックスするということが、茴のようなタイプにはあるらしい。家事と仕事の合間の四時間のお稽古では多いとは言えないが、これでめいっぱいだ。
陽奈が大学生になり、手のかかる夫がいないからこれだけの勉強時間が確保できる。福祉コミュの同僚同士の会話でも、大きくなった子供たちより、中年過ぎた夫のほうがよほど世話が焼けるということだ。
 疲れた気分転換にパソコンを覗くとPanthegrue550ga豹河と亜咲からメールが来ていた。二人ともラグレアブル・アノニムのクライマックスをどうするか、という問い合わせだ。
(アナーキー、フラグメント、偶然、ノイズ。ジョン・ケージをモチーフにするのは壮大すぎたかな)
 巨匠の名前を引用して、はったりのつもりはないが、豹河のインディゴ・ノイズを観た茴は、少しばかり気分が低迷した。あれだけのパフォーマンスは自分の力量ではできない。
(ユニークなアーティストと共演できるんだから。怖気づくことじゃないわ。若いのに吉良君は場数を踏んで弁えがあるし)
大道具もプロジェクションもダンスも使わず、演奏だけ、音響と照明効果だけで日常とは異なる次元へ聴衆を運ぶ。
出演者三人の色彩は揃っている。統一する主観的意図を追い出すにせよ、ソロの継ぎはぎ、パッチワークや平面コラージュでなく、音楽の幻想は立体が好きだ。
メールボックスを掃除しかけて茴は雑多なスパムの中に翡翠房通信を見つけた。暮に挿櫛を買ったときにショップ&ギャラリー翡翠房の会員登録し、それからランダムに催しの案内が来る。メアドはajadenaturalw
(あじゃでなちゅらるう?)
 メアドはネットのハンドルネームと同じくらい興味深い。個人なら個人の、集団なら集団を表象するエンブレムを察することができる。Jadeは翡翠だ。A翡翠ナチュラルW?
 弥生のぬくもり、春の花の気配が古都にあふれる今日このごろ、翡翠房の奥座敷にて、当方所蔵また拝借の古典雛人形の展示。新作人形および吊るし雛の即売を行います。古典人形は江戸期流行の享保雛、芥子粒大の可憐な芥子雛、さらには個人所蔵の、雛人形原型という立ち雛、御所人形など、日本各地の貴重な文化財を御覧いただけます。また吊るし雛は鹿香丹階堂の地域ふれあい作業所〈うさぎの国〉スタッフ制作です。華麗で可愛く、気品ある雛人形の世界にどうぞお越しください。季節の和菓子付お茶席も設けてございます。期間は新暦四月三日まで、皆様の御来駕お待ち申し上げます。
 なんとなく、麗句の多いこの文章を書いたのは百合原ではないかという気がした。行ってみようか。お稽古も気になるが、亜咲や吉良ともういっぺんラグレアブル・アノ二ムを詰めなければならない。打合せに亜咲がこちらに来てくれるなら、そのついでに翡翠房を覗ける。
合わせ稽古はどうしよう。茴のマンションにはピアノはないし、亜咲のところでも無理だろう。市民センターか教養センターの一室を借りるなら早く予約しなくては。
「吉良君のダンススタジオ拝借できると思うのよ」
 電話をかけるとあっさり亜咲は解決策を提示した。
「彼のお母さん、青山でスタジオ兼喫茶店をやってるの。夜はジュエリー占い」
「ジュエリー占い?」
「ネット見ないの、あなた。しょうがないわね。珠螺木ってマニアックな中国茶を出すところ。そこの地下でガーネットさん、お弟子さんとって教えてるから、教室の都合がつけばそこで合わせられるでしょう」
「フェイスブック?」
「そうよ。東京スタコラーズのホームページもあるわ。まだあんまりコンテンツないけどね」
「あなたこないだパヴォのライブに来なかったわね」
「うふふ、別な先約で」
 亜咲はしれっとした声で言った
「あそう、それはそれは」
 が、茴は少し亜咲をつついてみたくなった。
「吉良が好きなんでしょう、いいの?」
「ええ、好きよ。だけど彼だけが今私の愉しみじゃないから」
「ふるってるわね」
「正直なだけよ。あなたとは違うの」
「…何よそれ」
 色をなす茴に応える亜咲の声は晴朗だった。
「ありもしない罪悪感をこしらえて天使ごっこ。森茴はもっと邪悪でいいと思う」
 正直な女、と茴は思った。自分の奔放の弁護のために茴をそそのかしているのとはちがう。また茴をことさら聖女貞女に仕立てあげ、エロスの圏外ラベルを貼ろうとする姑息でもない。千尋唯由は若い妻の精神に佳いものを残して亡くなったのだな、と茴は想像する。とりいそぎの返事はこうしよう、
「おあいにくさま。あたしはフローレンス・ナイチンゲールのファンなの」

 アレグロアパッショナートで、アクセントを強調する音を上げ弓で弾け、という千尋唯由の指示は、時折茴にはきつかった。丸一年かけて丹念に弾きこんだが、サン・サーンスの作品特有の奇抜でテクノモルフィックなフレーズにさしかかると、身覚えの抒情で暗譜できていたはずの楽譜が記憶から飛んでしまうのだった。
 これはどういうことだろう、と茴はたびたび言い訳がましく千尋の前で小さくなってみせたが、千尋先生は弟子の不勉強を甘やかさなかった。一日中頭のなかで歌ってれば弾けますよ、といとも簡単に言う。泣き言こぼすならおやめなさい、むいてないよと。彼に弟子が少ないのはそのせいだったろう。
(森のささやきはどうにかなるんだけど)
 茴はチェロのソフトケースを右から左の肩にかけなおした。撫で肩なのでうっかりするとベルトが背中からずり落ちてしまう。薄いコットンシャツの上からケースのベルトが食い込む。重ね着してくればよかったのかもしれないが、真夏の炎天下でタンクトップの上からシャツを被るだけでも汗びっしょりだ。冷房の効いた車内に座っても、チェロを庇う気遣いのために涼しさを感じられない。
 もうじき恵比寿に着く。会場に入る前にそこらへんの喫茶店で何か食べよう。開演は午後七時からだから、五時に会場に入れば間に合う。亜咲と先生はもう入っているだろう。他の演奏者も。
 メトロを上がったところに世界チェーンのカフェがあった。ここでいい、半端な時刻だからそんなに混んでいない。ちゃんと禁煙コーナーもあるし、奥のほうは空席が目立つ。チェロを抱えて入っても大丈夫みたい。
 チェロを運んでいるときはとにかく自分よりも楽器の場所を探す。ガラス越しに確かめたとおり、店内は混んでも空いてもいない。入口付近の二人掛け丸テーブル二つは、ノートパソコンを開いた男性と女性がそれぞれ独占している。窓際カウンターには、荷物置きの椅子を一つずつ隔ててカップル、シングルが飛び飛びに座る。大きな人形を運ぶようにチェロを背中から胸に抱え直し、茴は体を横向きにして丸テーブルの横を通った。ぱたぱた、とキーボードを叩いている男が顔をあげて椅子をずらして通路を広くしてくれた。
「ありがとうございます」
 男は笑って頷いた。もうひとつのテーブルでパソコンを開いていた女性はノートを閉じ、茴が通り過ぎたあと席を立って出て行った。どちらもサラリーマン、ウーマンのようだ。この梅雨明けの夏空に、二人とも禁欲的なダークスーツを着ている。もっとも、店内の冷房は効きすぎるほどだった。電車の中ではずっとひたひた汗ばんでいたのに、カフェに入ったとたん、すうっと襟足に風が入った。コーヒーの風だ。本日おすすめのコーヒーは何だろう。
(何だったろう?)
 壁沿いの長椅子をとって、奥にチェロケースを置いた。楽器の背中を上にして弦を張った表板を庇う。
(わたしは何を飲んだかしら? 何を食べたかしら)
 運ばれて、いやセルフサービスでガラスケースから選んだのはたぶんブルーベリーのベーグルサンドとチーズケーキだった。甘いものが欲しい。演奏前にアイスクリームはお腹をこわすからだめ。飲み物もホット。コーヒーではなくミルクティだったと思う。
 陽盛りの香枕からここまでチェロを担いで来るだけで、もうかなり疲れてしまった感じがする。亜咲の運転する車に同乗してくればよかったのかも、と考えるのだが、呑気な亜咲はともかく千尋がこわい。要所を抑えてくどくど言わない彼の指示を一年経っても十分に消化できていない茴の気分は疚しい。するすると音符を鳴らす程度ならつっかえないで最期までとおせる。誤魔化すことも。
 頭のなかで楽譜を読んでいる。ケーキもベーグルも、ミルクティも、カフェの中に流れている有線放送も聞こえない。楽譜をすっかり暗譜してもどうしてどこかでまっしろになるの? 
 今夜弾く楽曲三つを頭の中で最初から最後まで三回鳴らすと三十分たった。弾いてもいないのに左手の指とてのひらが汗でべったりしている。背筋は寒い。くしゃみが出た。
 そろそろ出よう。場所の確認をして。
 バッグからフライヤーを取り出す。チラシには千尋の大きい顔写真と亜咲、それからチェンバロ奏者とソプラノのディーヴァ。茴も写っている。千尋の伴奏をするのは亜咲ではなくチェンバロ奏者だった。
 座っている奥から出口までの通路を確認する。ぶつからないでちゃんと通れるかな。さっきよりも店内は混みあってきたみたい。
 さっき道を開けてくれたサラリーマンはまだ残っている。アイスコーヒーをお代わりしたのか、グラスが増えている。まだノートパソコンを叩いている。どんな仕事なんだろう。サラリーウーマンが出て行ったほうのテーブルには子供連れの若い母親が座った。二歳くらいの男の子の足は椅子から床にとどかず、靴をはいたまま宙にぶらぶらしている。あの爪先でチェロを蹴られたらどうしよう。だけどそこを迂回しては出口にゆけない。
 茴はチェロを残したまま立ち上がり、親子の脇を抜けて、親切だったサラリーマンの方へゆき、彼がテーブルの端に置いたアイスコーヒーのグラスを少し内側へ押した。
「すみません。失礼ですが、チェロを運びますので、これがあぶないかもって」
 ああ、と男はさっきよりもはっきり笑顔を見せた。そのとき二十五歳だった茴よりも彼はだいぶ年嵩のように思えた。
「気が付かなくて申し訳ありません」
「いいえ、こっちが我儘なんです」
 茴はそれを意図していなかったが、幼児を連れた母親は茴と男のやりとりを見て、子供の膝をテーブルの下に入れてくれた。
 茴は男と、その隣席の母親に目礼して席に戻り,改めて楽器を運んだ。
 チェーン店を出ると、午後の油照りは頂点を過ぎたようだった。だが太陽を溜めこんだアスファルトの輻射熱は湿度を増して暮れ方にはさらにひどい。冷房でいったん涼んだ体温はまたいっきに上昇し、胸にも顔にも汗が滲む。顔をハンカチで拭いても布にファンデーションは着かなかった。まだわたしはノーメイクだったから。舞台の前には口紅だけ、下手な手つきで曳いていたころ。
ここから先は地図を頼りに歩いてゆく。タクシーに乗るほどの距離ではないと聞いた。チェロケースのポケットから、さっきのフライヤーを取り出し、信号やら銀行やらポイントを確かめていると、肩ごしに櫂が声をかけてきた。
「どちらで演奏されるんですか? これから?」
 ふりかえると、カフェの中で来ていた上着は脱いで肩に担ぎ、ネクタイもはずしている。白いシャツの襟が開いて、屈託のない顔と首筋に大粒の汗が光っていた。
 時間をさかのぼり再会できるものなら、その日、その時に行きたい。

ジルベルト・ブリッジ  チェリー・トート・ロードvol14

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   ジルベルト・ブリッジ

 陽奈と二人きりの暮らしになってから、いや、その前から洗濯物を片付けるのは茴の役目になっている。櫂の生前は陽奈がまだ高校生だったこともあって、家事全般茴が済ませていた。娘は片付けがあまり得意ではない。乱雑というほどではないが、家の中で陽奈が動きまわるそのまわりは、なんとなく家具の姿や雑貨のありかが緩くなった。
櫂が逝き、翌年大学生になってから、茴は娘と家事をシェアすることにした。福祉コミュの仕事を始め、決心してチェロを再開したためもある。
 立春を過ぎてもなお寒さは厳しいが、日中の陽射しはふっくらと大きく、風の中にふと早春の香り高い花の気配が混じる。洗濯物の籠を抱えてベランダに出ると、五階の高みまでどこからか沈丁花の匂いが漂ってきた。
 女ふたりだけの生活の割には、他の家庭より洗い物の量が多いかもしれない。衣類肌着などはもちろん、キッチンや浴用タオルなどをまめに交換する。
 いくつかある洗濯ネットのひとつは陽奈だけの小物だ。下洗いしてからネットに入れるように、陽奈が初潮を迎えた十三歳の春に教えた。そうだ、ちょうどこの季節だったのではないだろうか。
 ピンクやすみれ色、白、ブルー、ときどき赤、黒。ストライプに水玉、ハローキティに小花模様。柔らかいフリルや透かしの入った陽奈の小さく賑やかな布を洗濯ばさみに挟みながら、茴はこのごろ、このかるく甘い彩りが、陽奈という少女鳥が日ごとに自分から抜き散らすふわふわした羽毛のように見えることがある。
よごれどめを使っているそれらは、繊維が擦り切れても視覚にはただ甘い。陽奈がいつから生理の期間以外にもよごれどめを使うようになったのか茴にはわからない。そうしろと茴が教えたわけではないが、真似をしたのかもしれない。
 茴の小物は陽奈のそれより白や黒が多くなる。赤系統の下着は昔からほとんどなかった。水色、ピンク、生成り、白、黒。大きさは娘と変わらないがレースの装飾などは若い陽奈よりむしろ多いかもしれない。このごろは生成りの薄いシンプルな下着を選ぶようになっている。飾りや透かしが鬱陶しくなってきたようだ。櫂がいなくなったからだろうか、それとも介護福祉、あるいはチェロを始めたからだろうか。肉体をラッピングする手始めの布一枚の装飾を五線譜への感情移入に移し替えた、と青空にひるがえる洗濯物を眺めればきれいな言葉だが、娘のあれこれと並べるとやはり寂しさがあらわに見えた。
 嗅覚は二月の大気に透きとおる沈丁花の香を嗅いでいる。
(女ってめんどうだなあ) 
「茴ちゃん、コーヒー淹れたよ」
 何してるの、と陽奈が出てきた。水色のセーターにたまご色のミニスカートを穿き、セーターの上に紺のジャケットをひっかけている。陽奈にはぶかぶかしてしまうそれは櫂のニューヨーカーだった。
 陽奈が出てきたとたん、彼女のうしろからトーストとコーヒーの焦茶色の香りがベランダにあふれ、沈丁花と青空の透明感を駆逐してしまった。陽奈は手に黄色いマフラーを握っている。それもジャケットと同じブランドで、もう出かける寸前という顔だった。
「それ大きすぎるわ」
「ジャケット? いいの、これ着てく。あったかいもん」
 陽奈は口をとがらせた。口紅のグロスが朝陽にぴかっと光る。
「それとも茴ちゃん欲しいの?」
「欲しくない。着られない、重くて」
「重いかなあ」
「メンズ用品てほとんどは鎧みたいよ」
「そういう意味ね。あたし違う意味かと」
「気持ちが重いかって? そんなことありませんよ。あたしそんなにウェットじゃない」
 あそう、と陽奈は茴の口癖をなぞって眉をあげ、室内に戻っていった。窓はあけっぱなしのままだ。暖房の風がゆるゆると外気に流れてくる。茴は窓を閉めた。
 陽奈の洗濯ネットから濃いグリーンのブラジャーを出す。濃い緑に濃い赤のドットが飛んでいる。ワイヤーの入った曲線を飾る細かいレースも赤。カップの真ん中に黒い小さなリボンが金のビーズボタンで標本箱の蝶のように留まっている。サイズは
「まあ、あたしより大きいの」
 おかしくなった。自分より体格がいいのだからあたりまえではないか。胸も腰も、陽奈は健康にまるい。そのように育ってほしいと願い、ひそかに自分が童話の継母みたいになったら怖いと自制しながら、亜咲の言い草を借りるなら慎重に雛鳥を餌付けしてきたのだから、何を驚くことがあるの?
「陽奈のおっぱいと、あたし、か」
 四十代に入った自分の胸の触り心地はどうだろうか、と茴は考えようとした。考えられなかった。
 リビングに戻るともう陽奈鳥は飛び立って姿が見えなかった。食卓の上にトースト、ママレードの壜、コーヒーと食べきりサイズのミニヨーグルト、それに自家製野菜ジュースがランチョンマットの上に並んでいた。
 野菜のスムージーはその都度陽奈が作ることになっている。ミキサーにバナナかリンゴ、ニンジン、アボガド、セロリなど、そして必ずプルーン、蜂蜜、豆乳を加えている。
 このごろ陽奈はダイエットを始め、朝食は自作のスムージーとカルシウムウェハースだけの日もあるようだ。まったりと濃いスムージーのグラスがどかんとテーブルに出ているということは、陽奈は今朝もダイエット食で済ませたに違いない。茴の眼に陽奈が太っているとは見えない。痩せてはいないが、プロポーションはよいのに、と思う。だが本人の自分を見る眼は厳しいのだろう。
「パパさんへの紅茶忘れてる」
 つぶやいて、自分ひとりの声の大きさに面喰らった。ラジオもBGMもないリビングに、かすかな風の音とエアコンの振動、いくつかある掛け時計、置時計の音だけが、茴以外の気配だ。陽奈がいない、ひとりの空間の静けさ広さが、きれいに整理された住まいの中で圧迫に近い確かさで浮き上がってきた。
 とっさに、独居高齢者、身寄りのないそのひとたちを抑える静寂の嵩はどれほどだろう、と茴は今感じた幾瞬間かのストレスを自分より弱い他者を思いやることでカタルシス…かるく…した。自己防衛かもしれない。陽奈がいなくなったら。週に一度は、いつか来る親離れの未来が心をかすめる。
 茴はアッサムの紅茶を淹れて、陽奈が買ってきたヘネシーを垂らすと櫂の遺影に供えた。生前愛用していた赤茶色の唐津のマグカップは、紅茶には向かない厚手だが、土の感触をほのぼのと手に伝える器の質感は櫂そのひとを偲ばせる。
(カイトはどこかしら。陽奈の部屋かな)
 ケアは午後からなのでチェロを弾く時間もある。そういえば一両日カイトが現れない。茴も陽奈もすっかり能天気にカイトの出没を気にかけなくなっているが、もしかしたら人間側のこうした非現実な許容を誘うことが、キメラの妖怪性なのかもしれない。
 茴はチェロの箱を開く前に陽奈の部屋を覗いた。櫂と結婚したとき、七歳の陽奈の部屋は、親たちの寝室から遠く離れた西側の洋間になった。
「カイト、いる?」
 言いながら、茴は多少やましい気分になった。娘の部屋を親が覗くのはいけないことではないはずだが、茴ははっきり気持ちが小さくなる。他人の室内に踏み込む躊躇を打ち消すための言い訳に、ことさらカイトを呼んでみる。いないことはわかっているのに。
「カイト?」
 壁紙から始まってピンク色の多い室内の家具は少なく、整理整頓されてはいなかったが、雑誌や衣類の散らかりようも女の子らしくつつましかった。入ってすぐ目の前の壁にアンディ・ウォーホールのポスターがわっと大きい。サイケなブルーバイオレットとレッドのマイケル・ジャクソンの顔。すぐ傍の窓際の机の上にはパソコンとミッキー&ミニーの大きいぬいぐるみ、画材いろいろ。ベッドの上には彼女の幼馴染のトトロがみっつ。レースのカーテンが吊られた小さい張り出し窓にプリムラの鉢。
 マイケルが陽奈の好みのタイプ? いいえ、ベッドヘッドの間上の壁にはカラフルなレイモン・ペイネの額絵が飾ってあった。コバルトブルーの空のなかで赤い服を着た少女と黒いジャケットを着た青年が白い鳥に乗って寄り添う。恋人たちの周囲には南国のような色とりどりの小鳥がたくさん飛んでいる。
 陽奈の部屋のアンディもペイネも、ポリクロームで抑圧がない、と茴は眺める。銀髪のアンディは少し上目遣いで「世界は遊園地だ!」と皮肉る。だけど彼はきっと自分の台詞じたいちっとも信用しなかった。ペイネはどうだろうか? 血のつながらない娘。七歳から時間と空間をシェアしてきた無垢な友人の選ぶ世界はシニスムやニヒリズムではなく、鳥たちに祝われたまるいペイネふうな花輪の中であれと願う。
 ミッキー&ミニーの前に、色鮮やかな手提げ紙袋がきちんと肩を並べている。隙間なく並んだ赤と茶色と金の手提げ紙袋は、茴も好きなショコラの名店のものだ。
(バレンタインデー、誰にあげるのかしら)
 のんびりした部屋の中で、そこだけぴしりと揃ったお菓子の姿に陽奈の緊張感を見て茴は微笑んだ。ひとつ、ふたつ…。
 六個ある。義理と感謝のチョコサービスも高級ブランドを選ぶとお財布がたいへんだ。ホワイトデーに元がとれるのかな? 似たようなショコラ、貰う相手はどんなひと。
 袋にはそれぞれ目印に小さい附箋が貼ってある。蛍光色のピンク、ブルー、イエロー、グリーン、オレンジ。
ではそれぞれ中身が違うんだわ、と茴は次第に詮索を始める。五色、ひとつだけ附箋がない。袋の大きさは同じだけれど、似たような袋の中で目印なしでチョコレートを贈るということは、中身と受取人を陽奈が絶対に間違えない大切な相手ということだ。
(マジ告白チョコだったりして)
 それをそっと袋ごと手に取ってみる。おきまりの派手なラッピングペーパーで包まれた小箱はどれも大きくはない。他の袋と手重り具合を比べてみる。思いなしか、予想本命君は附箋付対抗君より軽い感じだ。
(ということは甘いものがあんまり好きじゃない相手なんだ、本命ほんと?)
 アーモンドチョコと思って噛んだら、ウィスキーボンボンだった、というほどの驚き。

 水曜日に篠崎さんの朝ケアが入るようになって、昨年よりもこの日はずっと慌ただしい。自信たっぷりにひきうけたものの、老衰が重くなった月さんの身体介護は、しばらく家事介護ばかりつとめていた茴には、やはりうろたえる場面が続出するのだった。
 九十歳を超える高齢ということもあって、一月退院以来、月さんの回復はおぼつかない。排泄はできればポータブルで自立してもらい、ベッドに寝たきりにさせず、寝間着から普段着への更衣もする、などとケア依頼書にはあったが、ヘルパーが入らない時間帯は、結局寝かされきりの月さんの脚は萎えて、すぐにおむつになった。
「時々は自分で動いてポータブルも使うんだって」
 ギャザリングの向野さんからサポート電話が時折入る。福祉コミュのギャザリングは上司とは違うが、温かい声と気遣いがうれしい。じっさい、単独で重度介護者のケアを済ませるのは、体力と度胸がいる。
「動くって、どうやって」
「さあ。お嫁さんから連絡があったんだけど、ポータブルに済ませて、それからがんばって自分でベッドに戻ったんだけど、ほら、疲れちゃうでしょ、お尻とかうまくきれいにできないで、おむつも剥いじゃって、自分で直せなくて、夜になってお嫁さんが行ってみたら、まあ、後始末がどうしたとかってさ。夜までほっとかれた月さんのほうが大変だよ」
「ヘルパー入ってなかったんですか?」
「家族対応で日曜は済ませたかったらしい」
「月さんおむつ嫌なんでしょうね」
「だろうね。ぼんやりしてるように見えても本人は結構クリアなのよ。自尊心があるから、やれることはやりたいんじゃない。だから、森さんケアに入って篠崎さんが返事しなくても、ちゃんと彼女の意思を尊重して、いちいち聞いてからおむつ交換してください。ヘルパー都合でがんがんやると、きっとほら悲しいのよ」
「ですね」
 わかりました、と答えたが、この翌日、時間よりも少し早目に入った月さんの寝室のベッドはからっぽだった。
「うそでしょ」
 茴は布団がずれてめくれた月さんのベッドを手でさぐる。シーツはひんやりしているが、掛け布団の奥には体温が残っている。
 ポータブルの蓋を開ける。使っていない。
「うそでしょ」
 まぬけなつぶやきが繰り返し漏れる。アドレナリンが急上昇して硬直しそうだ。
「月さん、どちらにいらっしゃるの?」
 寝室の暖房は適切だが、この古い家で空調が整っているのはここだけだ。廊下もキッチンも外気と変わらぬ二月の冷気そのまま。
 空腹をこらえかねたのか、と最初に台所を探す。朽ちた木造家屋の、湿った土によく似た匂いが籠るキッチンは、茴が毎週水曜日に来るたび荒れまさる雰囲気で、今朝はLED照明まで動顛のあまり暗く見える。月さんの影も形もない。茴はぞっと鳥肌がたった。
「月さあん」
 トイレ、いない。風呂場、いない。寝室以外の生活空間はどこも暗くて寒い。納戸はどうだろう? 月さんが納戸と言っていただけで、昔は立派な奥座敷だった。今は篠崎家の古道具や葛籠が積んである襖の奥は?
「歩けないわけじゃないんだった。這っていけるかもしれないんだわ」
 襖絵は住吉の浜に金銀箔の松風が吹く。いつだったかこの襖障子を夢に見た。
(月さん、ふくれんぼうが来るとおっしゃっていたわね)
 夢の中で、黒塗りの取っ手から血がたらたらと流れたことを茴は思い出し、寒気のせいではなく背筋が冷たくなるが、ケア中だから余分な恐怖は蹴飛ばす。月さんの身に万が一のことがあったらそのほうが怖い。
「入ります、月さん、いる?」
 建付けが歪んだ座敷の敷居は力一杯でなければ開かなかった。ずっと前に覗いたときは、唐草模様の布団袋のようなものが見えた、気がする。
 軋みながら細く開いた中はまっくらだ。閉めきり同然の雨戸と襖を隔てて日光はここに届かない。茴は体をひねってするりと入り込み、眼が慣れた薄闇のなかで裸電球を点けた。
 いた。
 布団袋から紅絹の真綿布団をひきずりだし、月さんはその上に肘枕で横たわっている。豪華な金銀の日本刺繍で鶴亀が縫い取りされた厚い昔布団は、婚礼用でもあったのだろうか。
 凍える寒さなのに、月さんはパジャマ一枚で、ズボンから二本の槍のように両足が覗いている。痩せた両肩に較べて、夜用おむつをあてた腰回りが大きい。視線を腰から下半身に移すと、パジャマから突き出た足の細さが余計に痛々しく見える。
「月さん? 風邪ひいちゃうよ」
 とりいそぎ呼吸を確認。はっきり寝息が聞こえる。顔の表情はしろくおだやかだ。苦悶を表す眉間の縦皺、口元のすぼみ皺はない。頬はこけてしまったが、こんなに寒いのに、月さんは気持ちよさそうに、眉を高くして眼をつぶり、すうすう寝息をたてている。
 認知症のひとは、往々にして温度の感受性が狂う。それかもしれない。
「這ってきたの? ここまで」
 茴は月さんの腰の周囲を探った。夜間は大量失禁対応のおむつの中にさらにパットを重ねているおかげで、美しい婚礼布団は汚れていない。だが、これから茴はひとりで月さんを寝室へ移動しなければならない。車椅子を持って来よう。

「それで、あなたどうしたの?」
 向野さんが呆れ半分、感心半ばで尋ねてくる。電話の向こうのギャザリングのちょっとめんどくさそうな顔が見えるような声だ。福祉コミュの古株ワーカーは現役時代相当のキャリアを積んで、まだ働ける職後余勢のエネルギーを、社会貢献に捧げる女性が多い。彼女は幼稚園の園長先生だったそうだ。
 それを聞いて茴はなるほどと思った。向野さんは初対面の高齢者を少しも緊張させない。堅苦しくなく相手の警戒心や不安を、気さくな口調でやすやすとほぐしてしまう。園長先生だったころ、向野さんが幼児にしっかりと、だけど優しく話しかける表情と腰をかがめた低い姿勢が茴には見える気がする。
「車椅子でベッドの傍に運んで移乗させたんですけれど、時間がかかってしまって」
「重かったの?」
「いえ、納戸で寝ていた篠崎さんを引き起こして車椅子に座ってもらうのがちょっと力仕事で」
「ああ。腰がたたないからね。抱き上げたのまさか」
「はい、まあそうです」
 やつれたとはいえ月さんの体重は茴とほぼ同じくらいある。全体にぐにゃりとして、同時に手足の硬い篠崎さんは、最初車椅子の肘当てをしっかり掴んでくれず、頭もぐらぐらしてまるごと茴にもたれかかってきた。
(ああ、腰やっちゃいそう)
 篠崎さんの後ろに回り、膝の筋肉を梃子にして、どうにか月さんの上半身を起こした。
「なんだい、できますよ」
「はい、起きてください、あたしひとりじゃできませんよ」
「あんた仕事でしょ、ちゃんとやってよ」
「なんだ月さんしっかりしてるじゃない。どうしてここに来たんですか、寒いのに」
「お姫さまとかくれんぼう」
「え、何ですって? お姫さまって、あのザシキワラシ症状、学名なんだっけ」
 レビー小体何とかだっけ。またあの青い眼のきれいな子が来たの? 彼女は、え?
 茴の脳裏を甘美な耽美が錯綜するが、目下それどころではない。正気づいた月さんは遠慮なく文句を言う。
「寒いよ、森さん」
「はいはい」
 汗みずくになって茴が格闘しているうちに月さんの意識はしっかりしてきたようだ。肘骨の突き出た腕を自分から伸ばして車椅子の肘当てをつかんでくれた。
「ハイ、オッケー、立ちますよ、いいですか、せえの」
 もういっぺん身体介護の技術をおさらいしなくちゃ、と茴はしみじみ思った。介護福祉士試験のとき実技を必死になって先輩介護士から習ったが、現場で使わないとすぐ忘れ、あたふたしてしまう。
「いたた、やだよ森さん」
「すみません、我慢してください」
 骨折後の膝は今も立たない。最後に茴は火事場の馬鹿力をふり絞り、大柄な月さんを後ろから赤ちゃんのように抱えて腕ずくで立たせたのだった。
 ここまで話すと、電話の向こうの向野ギャザリングはけらけらと笑い転げた。
「あんた、そんなこと重ねるとぎっくり腰やっちゃうよ。腰ベルトしてください」
「今度から持っていきます」
「大丈夫? 体は」
「少し首と腕が…。腰も」
「仕事できるの?」
「え、なんとか」
 から元気でもへこたれない。向野さんはまだ笑っている。それで、
「何事も経験よ。じゃこれからもよろしく」

 師走にケア担当となった矢田部冨美男さんは回復めざましい。ヘルパー訪問は今のところ週二回。その他にデイケアにやはり週二回通い、きちんと時間をとってリハビリにつとめ、自宅ではちゃんと食事療法を守る。認知症状はまったくない。車椅子生活の今も、パソコンを使って負担のない程度に会計士の仕事を続けている。向野ギャザリングから前もって忠告された易怒発作も、リハビリ計画を立て、日々実践する消耗に紛れるのか、今のところ茴は蒙っていない。
 奥様が亡くなってから独り住まいなので、晩御飯は福祉コミュの配食サービスを利用し、朝昼は野菜中心の医食同源を心がけていた。包丁を使えなくてもいまどきは千切りも薄切りも専用スライサーで簡単にできる。主な食材は、離れて住む息子さんや娘さんが宅急便で送ってくれる。
「うどんお願いします」
 矢田部さんが茴に頼む昼食は麺類が多い。連絡ノートに記録された相方ヘルパーの献立を見ても、そうめんやそば、たまにパスタなどとなっている。
「うどんは半玉でいいです」
 カロリーを計算して主食を減らし、その分野菜をたっぷり入れる。うどんの時の蛋白質は鳥ささみ二本と決まっていた。 
 茴が料理を作っている間、矢田部さんは大画面で健康体操のDVDを見ながら手足を動かしている。移動はまだ車椅子だが、動画のインストラクターの運動に合わせて、上半身をストレッチし、下肢筋力トレーニングに膝上げ運動を左右決まった数だけこなす。このごろは膝上げのとき足首に重りを巻いている。
「がんばってらっしゃいますね、すごい」
「死ぬまで元気でいたいからね」
 茴が声をかけると矢田部さんは微苦笑を浮かべた。たぶん、自分の子供たちよりはるかに若い茴に真顔に褒められるのは微妙な気分なのだろう。大手町にオフィスを持つ矢田部さんの眼から見たら、茴や相方の澤田さんなど小魚に見えるかもしれない。
 だがヘルパーやギャザリングに対する言葉遣いは丁寧だった。そして時々、茴の耳にせつなく聞こえることを言う。
「ねえ、森さん」
「はい」
「僕はこうやってちゃんとリハビリして調子を取り戻したらあと十年かそこらは生きられるよね」
「もちろんです。ご立派です。矢田部さんくらいきちっとお食事や運動に自己管理されて、意欲がおありなら、百歳までも」
 矢田部さんは口を開けて笑った。
「ははあ、百まではしんどいね。だけどあと十年はぴんぴんしていたいよ」
 いくらかその笑い声に力がないのは、不自由な下肢がつらいからだろう。元気なときはスポーツマンだった矢田部さんのリビングには、ゴルフのトロフィが何本もある。そしてトロフィの並んだ飾り棚の中には、高価な洋酒の壜が沢山。
 鳥ささみうどんは簡単だから、二十分の動画体操が終わるころ、ちょうどできあがる。
「あなた料理うまいね」
「そうですか? ありがとうございます」
「もうちょっと味付け濃くしてくれてもいいよ」
「はい」
 茴は内心小さく舌を出す。人の上に立つ賢いひとはこういう物言いをするのかと思う。苦情も褒め言葉のオブラートで包む。糖尿病を気遣う茴や澤田さんの手料理は、美食に馴れた矢田部さんの味覚には物足りない感じがするのかもしれない。高齢者と病人対象の配食サービスも基本は薄味だが、
「このごろあなたのところの弁当もうまくなったよ」
 と、矢田部さんはまたしてもデリケートな感想をぽろりとこぼして箸をとった。
「森さんの御主人どんなひと?」
 うどんを啜りながら茴の身の上を尋ねる。
「亡くなりました」
「なんだ、悪かったね。じゃやっぱり結婚してたんだ」
「はい」
「お子さんはいるのかい」
「娘がひとり」
「ほう」
 昼ご飯を食べている間はどたばたしないでほしい、という矢田部さんの希望で、ヘルパーはキッチンで待機することになっていた。無理もない、ご飯を食べているすぐ傍で洗濯だの掃除だの忙しくされては、食べた気がしないだろう。矢田部さんはテレビや新聞を眺めながらゆっくりと食事をする。よく噛んで、味わって食べるひとだ。きっと回復して九十五歳目標を達成するに違いない。
 テレビや新聞に飽きるとヘルパーに話しかける。
「娘さんいくつですか」
「今年二十歳になりました」
 矢田部さんは箸を動かす手をとめ、眼を丸くして茴をまじまじと見た。
「あなた、そんな大きい娘がいたのか。驚いたね」
「そうですね、よくみんなに驚かれます」
「僕は君がまだ三十そこそこだと思ったんだよ」
「ありがとうございます。四十代です」
「娘さんひとりじゃ寂しいでしょ」
「そうかもしれないんですけど、忙しくしてると感じないですね」
「介護で?」
「他にもいくつか」
 そうですか、と矢田部さんは頷き、そこで質問をやめた。きれいな音をたてて残った麺をすすりこみ、きりのいいところで、かたん、と丼に箸を入れて離した。
 ごちそうさん。
 無造作な言葉を投げ出すと同時に両手をテーブルに置き、胸郭をひらいて背を伸ばす。まるで、このあとすぐに次の仕事が迫っているかのような声と雰囲気だ。いくつかの日本のテレビドラマで繰り返し見た〈多忙な男のごちそうさん〉ジェスチュアを、矢田部さんもする。櫂もしていた。
 父親はどうだったろう? 鶸と仲が悪かった父は、矢田部さんと似た職業の税理士で、藤塚に事務所を開いていた。交通事故で急死する前の数年間は、事務所の近所に賃貸マンションを借り、鶸とは別居状態だったから、茴は彼の日常の姿をよく覚えていない。両親がいっしょにいるときの、なごやかとはいえない家内の雰囲気が嫌で、茴は自分の記憶から消去してしまっているのかもしれない。
父は娘たちには潤沢に小遣いをくれた。親子らしい暖かい団欒の時間は少なかったが、それなりに思いやりのある男だったと思う。公平に眺めれば、家庭よりも才能を選んでさまざまな手段を講じた鶸のほうが、妻の姿としては無理だった。が、鶸は娘二人を自分の傍から離さなかった。これも奇妙な心理だ。櫂が亡くなったあと、ひとりで陽奈を育て上げた今、茴はいくらか鶸の心を理解できそうな気がしている。まだできていない。
 櫂はたぶん父よりも我儘な男だった。だが優しいひとでもあったので、櫂の我儘に自分の器を合わせてゆくのは、女としてむしろ楽だった。櫂のいろいろをくまなく思い出にするのは、まだ苦痛だ。非在の不在。部屋のどこかに夫がひそんでいる気がしている。
あるキャラクターのサラリーマンはこういう動作をするのだろうか、と茴はデジャビュと記憶を照らし合わせる。空き時間をチェロに集中するこのごろはテレビも見なくなっている。矢田部さんの恰幅のよい上半身にはっきり重なるのは、死後四年になるというのにまだ櫂だけだった。

「バレンタインデーにお墓参りって寂しくない?」
「付いて来なくたっていいのよ」
「もう遅い。こんなところまで来ちゃったんだもん」
 海面から吹き上げる西風に帽子を吹き飛ばされそうになった陽奈は慌てて片手で頭を抑えた。もう一方の手は自分たちが跨っているカイト・キメラのうなじの毛をしっかりつかんでいる。長毛スカイウォーカー種のカイトは見た目を裏切らず、大きな胴体の背はひろく、乗り心地は悪くない。陽奈が前、茴はその後ろ。
 カイトはマンションの窓からまず結衣ヶ浜へ飛んで、桜守湾上空を鹿香に向かって進み始めた。飛ぶといっても犬が大股で走る程度の悠々とした速度のように感じられる。茴も陽奈もダウンジャケットの襟を立てて、毛糸の帽子やマフラーで完全装備だ。二月半ばの海風は冷たい。鼻の頭がじんじんする。マスクをかけて来なかったことを茴も陽奈も悔やんだ。海辺に出た当初、肺いっぱいに爽やかだった潮の香も寒気のせいで鼻が麻痺し、じきに感じなくなった。
 視線を落とすと、陸を離れた海面が午後の太陽にぎらぎらと荒い波の織目を際立てている。星月夜岬周辺の岩場で砕ける波濤に、光線の加減で明るい虹がまたたくまに浮かんでは消えるのも見える。得鳥ヶ浜や結衣ヶ浜にはウィンドサーフィンの帆が何艘もひらめく。虚空から眺めおろすその帆は、青い水面に貼りついた蜻蛉の羽根のようにかぼそい。
「ここ上空何メートルかしら?」
 茴が尋ねると、陽奈は顔を横に向けて返事を怒鳴った。
「百メートルくらい? テキトーで」
海風の音が時折強くなると、くっついているのにお互いの声が聴き取れない。
星月夜岬の向こうには得鳥羽島が黒い模型の船のようにくっきりと見える。青空に突き出た白い展望台は帆柱、島は航海をやめて鉄の橋で陸につながれている。亜咲はどうしているだろう。パヴォには現われなかったが。
 得鳥羽島の左手真横はるか遠くに大島と丹沢山系が、距離によって濃淡を変えた青い影となって海と空の境目に浮かぶ。
 それより右手にうっすらと、雪を冠ったいただきだけ鮮やかに白く、裾広がりのなかみは透明な影のような富士山の稜線がある。なだらかな輪郭のなかに青空はその透明感のまま抱き取られて、周囲の空と山肌とは同じ色をしている。
 内陸に眼を向けると蘇芳山、源氏山、桔梗山、鹿香八幡宮の鎮座する丈の低い緑の山容、いくつもの谷間に家が集まって、それぞれが山から海へ向かう扇型にひらけた香枕鹿香の街並が見える。海辺からまっすぐ朱塗りの大鳥居につながる若宮大路が、入り組んだ大小の道路の中でひときわ白く明確だ。それらの道路を走るバスや自動車の姿はミニカーのように愛らしい。茴はまた、
「下界からあたしたちが飛んでるの見えるかな?」
「フツーだったら見えるんだろうけど、カイトはモンスターだから、きっとあたしたちは見えないよ。カイトって、日本の昔話の天狗とかそんな生き物なんだ」
 陽奈は面白そうに断定する。
「天狗って生き物? よね」
「茴ちゃんだってそう思うでしょ」
 カイトはゆるいギャロップで虚空を行く。長い兎耳は風にもめげずぴんと立ち、嬉しそうに胸を張り、堂々たるスカイウォーカー。陽奈が後戻りできるわけがない。今幻想から放り出されたら桜守湾に沈没するしかない。
「寂しくない? チョコあげるのパパだけなの茴ちゃん」
「運と努力の甲斐もなく、あたしはフーテンの茴ちゃん、ごひいきに」
「ばっかみたい」
 そういう陽奈の声は〈ばっかみたい〉な声ではない。
「マジよ。チェロのほうがいい、男より」
「うそつき」
「何よ」
「チェロと仕事だけで満足してるなら、カイトなんか来ない」
 茴は黙った。西の空に眼をやる。陽射しはまだ黄昏には早い。風の流れをなぞって横雲がいくつもたなびき、青紫の空の中でそれぞれが真昼のくっきりした白から、大気と溶け合う淡い茜を輪郭に帯び始めている。鹿香霊園からの帰路には、西方浄土の燦然たる耀きの只中を飛べるかもしれない。
 茴と陽奈の真横を鷗が数羽、大きく羽ばたきながら追い越して行った。すごい音だ。濡れたコットンシーツが風を孕んで空気を叩くような音。鳥といっしょに新鮮な汐の匂いが嗅覚に来た。鷗の翼に乗って下から運ばれたのかもしれない。
 ふ、おん、とカイトが吠えた。おおう、と風が応える。鷗たちは次々と、リモコン操作のグライダーのように斜めになってカイトの鼻先をかすめ、茴たちより早く櫂の眠る鹿香の山へと飛んでゆく。そこに櫂はいるの? 
いない。現世に残された者にとって死者は常に永遠という無時間の思い出の中だ。時の流れに生きているかぎり、幽明隔てた向こう側へは渡れない。
「茴ちゃん。女の時間がもったいないよ」
 陽奈が詰めてくる。彼女の背中にしがみついている茴は、頬と胸に伝わる娘のしっかりした温かさを快く味わいながら答えた。
「陽奈、今の台詞は親切すぎてリアルじゃないわ。そういうわたしに優しい詰問を聞くと
いうことは、きっとこれは夢なんだわね」

セデス・カデンツァ  チェリー・トート・ロード vol13

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セデス・カデンツァ

 L,Agreableanonymの邦題は、最初の「秘めた快楽」から亜咲の提案を容れて「匿名の愉しみ」に変わった。
「秘めた快楽ってちょっといかがわしい語感じゃない? 何ていうのかしら、例えばハーレクインロマンスの副題にありそう」
 カフェ・アンジェリコ名物ピッツアの八分の一ピースを長い指でひとつかみにし、フォークなど使わず、大胆できれいな手つきで亜咲は頬張った。ピッツァは片身変わりのマルゲリータで、正円の半分は一般的なトマトの赤、バジリコの緑、それにモツァレラチーズのカラフルな組み合わせで、もう一方はチーズとオリーブだけで焼かれていた。
トリコロールでない反面のほうがチーズの量が多い。ピザ生地の何倍もの厚さでたっぷりとしたチースがとろけ、アクセント程度に表面にオリーブが乗っている。マルゲリータはピッツアの中ではシンプルで低カロリーというのが魅力なのだろうが、アンジェリコはその逆を売る。じっさい芳醇なチーズを口いっぱい頬張る美味しさは格別だった。
チーズはやわらかいモツァレラだけではなく、味の奥行を深めるために、ブルーチーズのような癖のあるものも混じっている。それに松の実なのか、しっとりとした歯ごたえのあるかけらも混じる。
「ワインが欲しいところだけれど、今夜はだめね、車だから」
 言いながら亜咲の視線はまず豹河にゆき、その隣の蝶に流れる。蝶児は亜咲の無遠慮なじろ見にちっとも臆せず、小皿にサラダとピッツァをとりわけ、亜咲と同じようにピースを手でちぎって口に運んだ。蝶の食べる仕草もきれいだった。
「ハーレクインロマンス、なるほどね、そうかも。やぼったいかな」
 茴は同意し、指を汚さずチーズをからめる女たちの手つきを感心して眺めた。手でじかにいただくのはマナーに反するのか、どうか。気軽な食べ物なのだから、ナイフとフォークで食べるのも似合わない気がする。亜咲のこういうセンスは好ましい。
 豹河はチンザノドライをジンジャーエールで割っている。マルゲリータは二枚ある。豹は遠慮なく自分の前にギリシア風の黒い半獣神が縁に描かれた陶器の大皿を引き寄せ、ピッツァを四分の一に切り分けると、そのひときれをサンドイッチのようにさらにまた二つ折りにし、がぶりと噛みちぎった。豹の名前は伊達ではない。茴は彼が噛んでいるピッツァの中身が小羊の肉でないのが残念な気がした。
「匿名のほうがいい」
 豹も同意した。
「秘めた、だと個人的に狭い感じだけど、匿名って単語なら不特定多数の感性にひっかかる」
「その説明いいわ、吉良さん」
 茴は豹を見る目を改めた。この子はどういう育ち方をしたのだろう。勢いのいい派手な音楽少年だけではなさそう。気品のある地唄舞の母親といい、いずれ並の家の子供ではないだろうが、才能はもとより、知性や感性はただ金を注ぎこんでも培われない。
「あなたは仲間と定期的なライブ活動しているの?」
「はい」
「何人で?」
「七人」
「いわゆるロック?」
 もってまわった形容詞に豹は噴き出した。
「いわゆるって何ですか? そう、いわゆるロックもやるけど、基本ジャズバンド」
「みんなうまいですよ」
 蝶がにこっと笑う。笑うとぷっくりした頬にえくぼが浮かぶ。可愛い。この子がただのマネージャーなんてもったいない、と茴は眺める。
「オリジナルを演奏?」
「いろいろよね、コピーも」
 亜咲が言う。彼女はアルコールなしのジンジャーエール。蝶はレモネード。
 トマトジュースをストローで吸い込んでから、茴は重ねて豹に尋ねた。
「作曲するのもあなた?」
「いや、スナフキンてペッター。それとピアニストも曲は作るけど」
「すごいわね」
「やりたいことをやる、他人の意見は無視しあうってのが俺たちの最小公倍数、同時に最大公約数」
「ごめんなさい、算数わからないの」
「テキトーなこと言ってますから」
 にたっと豹は口を開けて笑った。その口腔に白い牙を期待した茴は、自分の心の動きにぎょっとする。
豹河の牙で噛まれたら気持ちいいだろう、と求める感覚が、この驚きのすぐ傍にあった。隣の亜咲の顔を見ないように茴は緊張する。けれども、今この瞬間、彼女の眼がちかりと光った気がする。
「森さんに二月のライブ情報送ります。メアドいただけますか?」
 近寄ってくる豹の声は丁寧だった。

 いつも亜咲といっしょでなくてもいい、と思いながら、茴はこの翌日の夜、早速届いた豹河のメールを読んだ。
メアドはpanthegrue550gaとある。
「ぱんてぐりゅ、が」
 フランス語の辞書を引くと、ガルガンチュワの息子パンタグリュエルの名前に豹河の意味と綴りをひっかけたものとあたりがついた。フランス古典文学の素地があの青年の中にあると知って茴は嬉しくなった。幼児期にジュブナイル版で読んだガルガンチュワ物語は毒消しされていて、ほのぼのした印象しかなかった。 
 豹河が自分のキャラクターにかぶせているのは度はずれな快楽と哄笑に溢れたあく抜きしない原作のほうだろう。なるほどわかりやすい、と茴はパソコンを眺めた。数字は5が好きなのね。黄金比の聖数だ。偶然でなければ弱冠二十一歳の現代ロック青年にしてはキャパがひろい。いや、ジャズメンか。
(どう違うの?)
 とにかくいっぺんは聴きに行こう。他のメンバーも見てみたいし。
 二月の第二週の土曜日、夕方五時開演。銀座金春通りクラブ〈パヴォ〉1ドリンク付きで三千円。五時からという早い開演は幼い冬狼のためだろう。誘うなら亜咲が適当なのだろうけれど、と茴はパソコンの前で迷った。
 きっと亜咲にもメールは届いている。彼女が行くならいっしょに行けばいい。そうでなければ…と考えたとき茴は苦笑してしまった。
「ほんと、誘いたい男友達っていないわ」
 バレンタインデーに近いし、花の銀座というおしゃれな場所なのだから、気軽で親切なボーイフレンドといっしょにライブを覗けたら楽しいだろうに。
(だけど、堅気の主婦ってそんなものよね。旦那以外の男性と、ただの娯楽のために土曜の夜にいっしょに出かけましょうなんて福祉コミュの誰もたぶんできないな)
 溜息が出た。櫂が亡くなってから、今の仕事のおかげで福祉コミュ的主婦意識がしっかりと心の真ん中に根を張り、実は自分も亜咲と同じくやもめフリーランス、という感覚が皆無なことに今気づいた。なんて滑稽な自己認識だろう。
 パソコンから離れてリビングの卓袱台に座った茴の背中に、柔らかくて重いカイトがするりと身を寄せてきた。ライオン顔が茴の首にくっつく。ふふん、と舌なめずりしかねない呼気がうなじにかかった。
「おまえ、あたしのリビドーですって?」
 茴は半身をひねってカイトの顔を胸前にまわし、ぺしんと鼻づらを叩いた。これが自分のデザイアのごんげなんかではなくて、櫂のへんげだったらよかったのに。だけどそれでは無理して教会葬に押しこんだ天国送りの企みが無駄になる。
「かわいいね。櫂さんの声で何か言って」
 カイトは長い睫毛をかぶった金と黒の山羊の両目をぐるりと動かし、茴の胸にぐいっと片頬をおしつけ、その押しつけた強さのまま茴の膝に頭を乗せてのうのうとフロアに横になった。声は聞こえないが、この仕草は酔っぱらったときの夫に似ていた。

 福祉コミュの同僚たちの中でライブに誘えそうなひとはいないだろうか、と考えた。三藤町の本部で事務ワークを担当しているのでもないかぎり、訪問介護いっぽのワーカー同士ふだん顔を合わせることはない。職場は直行直帰の利用者宅。多くのワーカーたちは子供を育て終えた中年以降の世代で、堅実な暮らしのひとたちだった。亜咲のような有閑マダム然としたひとはいない。二月半ばのイベントまで、もうあまり日もない。人手不足の業界だから、いっぽのワーカーで誘えそうな女性は、たぶん週末でもひとつかふたつ訪問を入れているのではないだろうか。
介護は誰でもできる仕事と勘違いされていると思う。確かにそういう面もあるし、学歴や特殊能力がいるわけではないが、家族とさえも疎遠になりがちな殺伐とした世相のなかで、時間労働以外にも、利用者の孤独や痛みを見守る暖かく丁寧な心を届けるのは、文字通り円満な人間力の成熟がいる。
介護従事者は派遣のお手伝いさんではないのだった。同じ労働時間で高い報酬を得たいのなら、そういう働きかたもある。ワーカーたちは報酬とは違うものを求め、そこに誇りや自己実現を見出しているのだろうと茴は思っている。
 いっぽのワーカーの中で、年に一度の茴の演奏会に欠かさず来てくれる春日さんという女性がいた。年齢は茴と同じか、少し上に見える。高校生と中学生の子供がいる。御主人の職業は知らない。彼女は今三藤町本部の役員をしていて、事務所に電話を入れると、品のよい声と言葉で応対に出てくる。月一回のワーカーの例会幹事も担当していて、その場では春日さんはよくベージュやグリーンの服を着ていた。眼に鮮やかな赤系統を着ているのを、茴はこれまで見たことがない。ベージュ、グリーン、母親、主婦の色だ。
彼女は事務ワークだけでなくケアも入っているから、余計に隙ではないだろうけれど、このひとならいいかもしれない、と茴は思い切って電話をかけてみる
「ジャズライブのチケットがあるんですけれど、いかがですか?」
「ジャズ? あんまり知らないけど、面白そうね、行きたいなあ。場所どこですか?」
「銀座金春通り」
「へえ、あたし銀座は目抜きの大通りしか知らないわ。興味あるけれど」
「あたしも行ったことないです、そんなところ。チケット二枚あるから春日さんいつもあたしの舞台来て下さるし、どうかなって」
「たぶん大丈夫と思うけど、家の予定確かめます。待っていただけますか?」
 電話を切って茴はほっと息を吐いた。チケットが二枚あるというのは嘘だ。多少強引だけれど、このひとといっしょに時間を過ごすのは楽しいだろうという気がした。家庭を守っている主婦の自由時間は少ない。経済的な配慮もある。銀座まで往復の足代、チケット代、そして銀座でのお茶や外食費用まで考えたら、一万円はかかるだろう。
春日さんの御主人は寛容なひとなのかな、と茴は想像する。おだやかに笑っている表情が多い銀縁眼鏡の春日さんの向こうに、彼女の夫の顔は思い浮かばない。熊や猪を連想するほうが楽だ。
 春日さんと電話で話した後で、思いついて百合原にも電話をかけた。飯島さんの徘徊騒動で彼女や水品紗縒の娘に助けられたのに、きちんとしたお礼もしないまま一月は過ぎてしまった。もっとも、妃翠房で陽奈のために螺鈿の櫛を買ったからあちらは喜んでいた。
「その後あの方はいかが?」
 春日さんの丁寧さとは違うニュアンスで、百合原の口調も鷹揚だ。
「おかげさまで風邪もひかずに無事に暮らしてらっしゃるそうよ。ほんとに助かった。百合原さんにお礼しなくちゃって思ってるのにもう二月」
「気にしなくていいわ。透姫さん大喜びだったし。挿櫛ひとりお嫁に行ったって」
「ええ、一生ものどころか七代あとまで娘の宝物になるでしょう、いい品と出会えてこちらこそ感謝」
「お母さんどう?」
「ときどきお見舞いしてくださるんでしょう。ありがとう。彼女は相変わらず良くも悪くも変化はないわ。ただ落ち着いているから」
「それが一番じゃない? 本人が楽なように過ごせるのが。せっかくの才能は惜しいけれど」
「母はもうあんまり書いてなかったから、そんなに未練はないみたい。ただ今も作家って誇りはあるわね、これは手放さない」
「でしょうね、アイデンティティですもの。ところで二月の第二土曜日空いてる?」
「残念、予定入れちゃった。何?」
「なあんだ。銀座で友達の子がジャズやるの。ただうまいだけじゃなくライツがあるのね。ライツって、つまり魅惑よ。あなたの感性に合いそうだからどうかって」
「それ東京スタコラーズ? もしかして」
「え、そうよ、なぜ?」
 とたんにいつも落ち着き払った百合原の声は転調して高ぶった。つられて茴も少し早口になる。
「あたし、そこのバンマス吉良さんと共演するの。今年の四月」

 〈パヴォ〉は銀座中央通りの一筋内側にはいった小路「金春通り」沿いの地下にあった。長さ百三十メートルほどの金春通りの名は、古く江戸時代に能楽金春流の屋敷があった史実に由来するという。JR駅からもメトロからもやや距離があって、あらかじめネットで付近の地図など確かめておいたものの、夜遊びや繁華街には疎い春日さんと茴は、都会に迷いこんだ田舎の鼠よろしく、目的地にたどり着くまでうろうろしてしまった。
 百合原は茴たちとは別に、自分の友人と鹿香から上京するということだった。連れは透姫子で、彼女の従弟がスタコラーズのピアノマンだという。世の中はどこで縁の糸がつながっているかわからない。
 茴は今回亜咲に連絡しなかった。彼女が誘いたければあちらから言ってくるだろうと思ったからだ。茴に来た黄金比豹河のメールは必ず亜咲にも届いている。が、亜咲からは何もなかった。ライブ会場で顔を合わせるならそれもいい。亜咲は亜咲で別な誰かを連れにしたいのかもしれない。
春日さんは目黒に生まれ育ったという。
「おばあちゃんのお伴で銀ブラしたことあるけれど、結婚したらもう忙しくなっちゃって、こんな奥はあたし全然わからないわ」
 ベージュのコートに茶色のロングブーツ。ヒールは五センチ。コートの下にはコーラルピンクのモヘアのセーター、クリスタルの二重のロングネックレスはイヤリングとお揃いだ。マーメイドラインの膝を隠す程度に長いタイトスカートは濃いブルーの地に萌黄のジャガード織が重なっている。二人の子持ちというのに春日さんもほっそりしている。いつものように化粧は薄い。
 茴は着物を着てきた。ジャズライブに和服もどうかと考えたが、透姫子が来るというので、多少負けん気が動いたようだ。透姫子はうら若いのに大島紬を裾つぼまりに上手に着付け、よく似合っていた。髪をくるりと巻いてあげた襟足が白かった。自分もそんな姿に装いたいと思う。それに日頃ケアワーク中心の暮らしをしていて、和服を着る機会もあまりないから、こういうときに着物に風を通しておこうとも。
選んだのは結城紬だった。銀鼠色というのか利休鼠というのか、花曇りの空のような色合いは、如月ではやや早いが、これに藍色の刺繍半襟を重ね、帯だけ明るく錆朱の地に銀桧垣の大柄を選んだ。着物も帯も鶸のものだった。彼女はこれをお茶席に着ていた。丈も裄も少しずつ茴には短い。
 風月堂のティータイムセットをいただいてから、予定では開演三十分前に到着するはずだったが、夕暮迫ればネオンが灯る銀座の街は物憂げに面変わりし、午後とは景色が違って見え、茴ひとりでは眩惑されてしまう。春日さんは冷静に通りを読み、目印をかぞえてくれた。
「雰囲気あるところよね」
「派手な店がないところがコアな感じ」
 金春通りに入るとこんなセリフが二人の女の口から時々こぼれた。観光地ではないから特におしゃれな店構えが目に入るわけではないが、小料理屋なのか飲み屋なのか、それともいわゆる高級なバーなのかクラブなのか、チェーン店とは違う構えはどれも、表は小造りに瀟洒で、客を惹くぎらぎらした彩りがないのは気持ちよかった。
「こういうところで遊ぶひとってどんな人かしら、春日さん」
「さあ。会社の社長さんとか? 芸能人?」
 櫂もそれなりに遊んだ男だし、営業接待などもあったから、こういうところに入り込んでいたのかもしれない。茴はまた自分の無関心にあきれる。わたしは自分のテリトリー内の夫しか興味を持たなかった。領域の向こう側で男が何をしているのか、茴はほとんど気にかけたことがない。櫂が自他の境目をきちっとつける、家庭に対してまともな男だったということかもしれない。思わずぽつりと、
「あたし幸せだったんだ」
「なに?」
「春日さんの御主人、お仕事どんな?」
 さらりと訊けた。相手のプライヴァシーを質問するのは職場のタブーではないが、夫の仕事≒社会的なランク付けになりがちなのでなるべく踏み込まないほうがよいのだろう。おおざっぱに見て福祉コミュは程よい暮らし向きの主婦の集まりだった。ただ必ずしも夫婦仲がよいとはかぎらない。働き蜂だった夫が退職後、妻への過依存にたまりかねて福祉活動に逃げこんだという女性もいる。
 春日さんはごく自然に、
「サラリーマンよ」
 それから茴も知っているある企業の名前を挙げた。エンジニアなの、と。
「働き盛りですね」
「そうね、だって先が長いもの。しっかり働いてもらわなくちゃ」
「どうして福祉コミュに参加したんですか」
「自分のため。社会に自分の力で貢献できるっていう実感が欲しかったの。それとやっぱり自由に使えるお金が欲しいから。あと、おじいちゃんおばあちゃんが好きだからかな。森さんは?」
「あたしも自分のためです。楽器だけじゃなく、何かしっかり社会に足場が欲しかった」
「そういう意味ではうちはやさしいところよね。いじめとかないし、お局さんもいない」
「そう、ほんとに。人間関係の難しさがないですよね」
「森さん、楽器が弾けていいわね。あたしも小学生のころまでヴァイオリン習っていたのよ。やめなければよかった」
ここでしょう、と春日さんはヒールの足音を速めた。茴たちの前に数人、さらにその先に十人近くのグループがまとまって、皆ぞろぞろと黒いビルの脇に入ってゆくのはきっとライブの客に違いない。
このビルの一階は呉服屋で、ショーウィンドーに袋帯、名古屋帯、帯締め、紬の反物などが飾ってある。列に並んで待つ茴は、ウィンドーの名古屋帯のお太鼓部分の飄げた一筆書きの絵に眼を奪われる。染めではなくきっと一点制作だ。面壁九年の達磨大師をうまへたで大胆に描く名人芸の筆は、仙がいさんに似ている。やっぱり銀座はちがう、と茴は他愛なく感心してしまう。
「お寒い中、お待たせして申しわけありません。エレベーターに多人数は乗り込めないので、もう少々お待ちください」
 パヴォのバーテンか、スタコラーズの関係者とおぼしき声の柔らかい中年の男性が出てきて、寒気にさらされながら入場を待つ行列に軽く挨拶してまわった。予定五時の開演時間は過ぎている。彼は余裕のある物腰で客にいちいちお辞儀をする。その姿が自然で大きく、何かの使用人という小さい感じがしない。光沢のある黒いシャツ、黒いズボン、頭を赤いバンダナで覆っている。
続いてもうひとり、エレベーター口とは異なる非常階段扉から現われた。夜目にも鮮やかな黄色いジャケットを着て、黒服の男の後ろからぬっと首だけ突き出すような感じでこちら側を見ている。天に逆立つふわふわもしゃもしゃした髪が、黒服のぴしっとした赤いバンダナと対象的だ。彼はわざわざ首を右左に大きくめぐらして長い行列を見渡すと、前歯を見せてひゅひゅっと笛を吹き、言った。
「満席だ、いたでめ」
 いたでめ?
 隣で春日さんがくすっと笑った。ああ、めでたい、ね。茴はささやいた。
「ちょっとおBなオヤジじゃないですか?」
「おB、ほおんと。あ、エレベーターに乗れそう」
 会場は半照明でほの明るい。ステージにはグランドピアノ、ドラムセット、いろいろ並んでいる。間口は狭いが奥行があって、客席は百くらいありそうだ。ライブ会場として大きいのか小さいのか茴にはよくわからない。
椅子を真横に十ずつ並べた客席の反対側にL字型のカウンターがあり、そこに東京スタコラーズのメンバーらしい少年たちが屯している。そちらは照明を絞ってあるので、顔見知りの豹河と、もうひとりスカーレットレーキのワンピースを着たグラマラスな黒人の少女以外の印象がつかめない。
髪を縮らせ、スカーレットにお盆のような大柄の白抜きドットを飛ばせた膝上ミニワンピースの彼女は少年の群れの中で太陽のように輝いて見える。客の視線はきっと全部彼女に集まるだろう。黒い顔の中で不敵な光を放つ彼女の白目が際立って大きい。シンガーのアフリカというのはこの少女、と茴は眼を見張る。目立って小さい冬狼はカウンターの前の高い回転椅子に座って、ペットボトルのドリンクを飲んでいる。
空席を探す茴に、客のざわめきの中から百合原の声が聞こえた。
「ここよ、席とっておいた」
 前から二列目の、ほぼかぶりつきに近い椅子に百合原香寸と透姫子がいる。透姫子は今夜は和服ではない、と茴はまず彼女の衣装をチェックし、当てが外れたような気になった。
 百合原は立ち見も出る混雑の中で、堂々と自分たち以外の席を二つ確保してくれた。
「ありがとうございます、迷っちゃって」
「そうだと思った。こちらは?」
「森さんの同僚です、よろしく」
 春日さんが言うと、百合原は、
「あら、じゃ介護の。あたし丹階堂で助け合い作業所やってます。ご存知でしょうか。卯咲苑、一般にはうさぎの国」
「え、知ってます。うさぎの国って、福祉バザーで商品出されてますよね。うちの配食サービスにもそちらさまの方がワーカーで参加されてますね」
「そうよ、まあ偶然。でも湘南エリアなら当然な偶然よね」
 百合原と春日さんはうまがあうようだ。二人とも弱者を庇う仕事をしているから、すぐに相手との適切な心理的バランスをとる。
 茴は後ろのほうを見回した。亜咲がいるだろうか。彼女の姿は見えない。別な誰かが首を伸ばした茴に向かって長い手を振ったように見えた。紫羅だった。太陽の反対側に月光が射す。紫羅は会場中程に座っているが、姿は周囲のすし詰めにちっとも紛れず、彼(彼女)の美貌の特徴である卵型の輪郭と,眉間からまっすぐに抜ける快い高さの鼻梁で異国の血を明らかにしていた。
茴はまた紫羅の隣の少女にも驚いた。遠目だが、少女が紫羅の連れだとはっきりわかる。別におそろいの服を着ているわけではない。アンドロギュヌスは黒っぽい服を、十二、三の少女は白いタートルネックのようだ。これぞ端麗という紫羅に並んでも、少女の清楚で晴れやかな印象は見劣りしない。まだ幼げな、今は昔の全盛期少女漫画のヒロイン顔そのまま、絵に映しとりたいほど。少女は美しいが、東洋人に違いない。いや、日本人。大和撫子…若紫。自然にそんな言葉が茴の記憶から紡がれる。
(あの子、どこかで)
 見たこと…会ったことがある、と脳裏をよぎった瞬間、少女と茴は視線が絡み、彼女の眸がぱっと大きく見開かれ、茴の海馬にセルリアンブルーのフラッシュが走った。
 マイルスに捧ぐ!
 ざわめきをつんざいて絶叫。同時にいきなり暗転した。茴は溶暗の眩暈でぐらりとする上半身をどうにか椅子に納めた。
 グランドピアノを取り巻いて演奏が始まった。トランペットがメインの出だし。茴はこの楽器をよく知らないが、緑の帽子を被ったプレイヤーが相当うまいということだけはわかる。強弱、アクセント、タンギング、ときに指使いを駆使して、弦楽器のグリッサンドのような水飴音を作る。
「TUTUよ。マイルス・デイヴィス晩年の名曲」
 茴の隣で百合原が教えてくれた。
「初めて聞くけど、いいわね」
「ペットがうまくなくちゃ聴けない曲よ」
 百合原もたしかピアノを嗜んでいた筈だ。
 トランぺッター・スナフキンは、その名前のとおり、緑色のスナフキン帽を目深にかぶっている。帽子の山裾には黄色と赤の花輪。それに白い半そでTシャツに膝の抜けたジーンズ。着ているものはラフだ。彼は客席に背を向け、猫のように上半身をまるくして演奏しているので顔が見えない。がっちりした中肉中背は二十歳をだいぶ過ぎているように見える。Tシャツの背中には初老のハンサムな黒人男性の顔が大きくプリントされている。威厳のある王族のような顔だ。
「あれがマイルスよ」
 百合原がまたささやく。茴は思わず、
「あなた、ジャズ好きだったの?」
「そうね、どっちかといえば好きよ。透姫さんの従弟がジャズメン目指すって聞いてから、前より聴くようになったわ」
 茴は百合原の向こうの透姫子を見やった。ステージに注がれる彼女の睫毛が長い。誰を見ているのかしら。従弟かな? 茴は透姫子の視線を追ったが、ミラーボールのカクテル光線に透姫子のまなざしのベクトルはかき消されてしまう。
 豹河のフルートがひかえめにトランペットに絡んでくる。緩急吹きまくり遊びまくるペットをそっと脇から支えるような、自分を抑えた吹きかたをして、昨年末の〈インディゴ・ノイズ〉の独壇場とはまるで違う。
彼も白いシャツにジーンズだが、彼のボトムスには何色ものポスターカラーをぶちまけたようなカラーリングがしてあった。ジーンズの上からめちゃくちゃにいくつもの原色絵の具の壜をひっくりかえしたような色味だ。〈インディゴ・ノイズ〉で豹河は額に「神風」を貼り付けていたけれど、このジーンズも暴走族っぽいキッチュだった。
 ピアノにサックス、それにパーカッション、奥のベースは長い白髪を豹河と同じように後ろに束ねていた。
(高齢者もメンバーなんだ)
 つい茴はベースをしげしげ見てしまう。少年団と思ったのに、異色の顔だ。鼻の下のカイゼル髭はきっと付け髭だろう。老けたチャップリンのような感じだった。演奏はうまくない。ジャズ初めての茴の耳にも、彼の弾く音がときどきずれているのがわかる。それとも意図した不協和音なのかな、と首を傾げるが、ペットとフルートのハーモニーがぴたっと調和しているので、ベースの指の不随意運動の結果と知れた。
 ピアノマンは長めの前髪をときどきかきあげながら、さもめんどくさそうに鍵盤を叩いている。気取りかたが若いなあと思う。これも可愛げなんだろうな、きっと上がってるんじゃないかな。さらさらした癖のないきれいな髪だ。後ろは短く刈り上げて、前髪だけ長い。髪をかきあげるたび、顎を上に向けると、すっきりした横顔があらわになり、そのシルエットが紗縒の娘に似ている。なるほどこの少年が透姫子の従弟。
「みんな何歳くらいかしら」
 春日さんがつぶやいた。
「フルーティストは二十一だって言ってました。あとは…ベース以外はハイティーンか二十歳前後じゃないかしら」
 茴が応えると、春日さんはさらに、
「どうしてトランペットさん、ずっと後ろ向きなの?」
「さあ…」
 茴も同感だった。シャイなのかな。その割にはトランペットを吹きまくる後姿のアクションが大きい。
 シンガーが出てこないままTUTUは終わった。フルートとペットが客席に横向きに背中合わせになり、膝で弾みをつけてステージの真ん中でジャンプし、最期の音を高く吹きとばした。瞬間に暗転。 
しゃらしゃら…と残った闇の静寂を撫で、冬狼のスプラッシュだけが続く。闇の中で白いシャツの少年たちが移動するのが雲のようにおぼろに見える。客席の茴には一曲終えた彼らの弾んだ呼吸が聞こえる気がした。
再び照明。スポットライトだ。明かりは二本で、一本は背景の冬狼に、もうひとつはカウンターから長く豊かな膝を伸ばして、腰を揺すりながら中央に歩むアフリカに注がれた。ナイスバディのアフリカの胸や腰が歩くたびにふるふると揺れる。ウエストってどこ?と三回見てもくびれのわからない堂々とした美女、いや美少女かな? だ。粘膜の外側に大きくめくれでた唇が薔薇の一番外側のはなびらのように紅くしろい。闇の中でさざ波を寄せていたスプラッシュの刻む拍子が八分の六になった。

あたしはパパがいない
あたしはママをしらない
ヤカンの中はからっぽ
 夜には神様が来てヤカンをわかす 
 水のないヤカンのなかで
 神様は言う
 愛だけが人生
 愛だけが真実
 だけどあたしはあんたが好き

 あたしは家がない 
 あたしはふるさとがない
 パンティを洗うのはキッチン
 夜には神様が来てせっけんをくれる
 お湯の出ない蛇口で
 せっけんをくれる神様は言う
 悔い改めよ
こころを浄めよ
 だけどあたしが好きなのはあんた

 あたしは日本人じゃない
 あたしは地球人じゃない
 もうこの星がいやになった
 夜には神様がいろいろ言う
 パパもママもいらない
 地球が壊れたら天国があると
 バカヤロー
 あたしはあんたが好き
 あんたって

 誰? と小首を傾げてアフリカは冬狼の飾るリズムの中だけでブルースを歌い納めると、粒のそろった白い歯をゆったりと滲ませ、まだ少女っぽい笑顔を見せた。

プネウマ・シェル チェリー・トート・ロード vol12

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   プネウマ・シェル

「あのひとをバンドに入れようよ」
 レモンイエローの二人乗りスマートを運転しているのは蝶児だ。豹はシートを後ろに倒して眼をつぶっていたが、
「あのひとってどっちだ」
 はっきりした声で聴き返した。
「白いほうのひと」
 可愛らしい声で蝶児は答えた。
「白い? ああ、顔がね。着てた服は何色だったかなあ」
 欠伸まじりに豹が言う。
「黒のレースブラウスよ。爪は短く切って銀色」
「おまえ、よく見てるな」
 豹は感心して蝶を見上げ、弾みをつけてシートから起き上がった。八時半。店を出たのが七時四十五分だったから…。
金曜宵の湾岸道路は他県から乗り入れてくる車両が増えるために渋滞気味で、テールランプがイルミネーションのように連なってところどころ動かない。車内BGMはソーヤ・クリスタル。
「ソーヤ、すてきね」
「ああ、色褪せない、彼女」
「いくつ?」
「誰が」
「白ちゃん」
「森さん? さああ、千尋さんと同い年くらいだろ。とすると四十」
「いいよ、彼女入れよう。ファンがつく」
 蝶は自信たっぷりに断言すると、豹河は濃い眉を左右非対称に動かして疑念を表明した。
「そうか? きれいだけど目立たないぜ」
「それがいい。今スタコラーズの女はアフリカだけでしょ。アフリカ目当てに千人くらいの男は寄ってくる。だけど違うタイプの彼女がいると、三千人になるよ」
「どっからそういう数が弾きだされるんだ」
「ものは言いようだって。白髪三千丈とか。唐代の酔っ払い大詩人李白の秋の歌。豹は知らない?」
 蝶はころころと笑った。渋滞が緩んだので彼女は大胆にアクセルを踏む。黄色いスマートは敏捷でこまわりが利く。
「知らん。教えてくれ。いや後で調べる。彼女をアフリカの引き立て役にしようっての?
だめだよ、彼女プライド高いから」
「違う。バンドってたくさんの色が見えたほうがいいんだ。いろんな集まり方があるだろうけど、うちの場合、男たちってみんな主役はるじゃない? 豹も、鬱金も、餡爺、緋朗、冬狼、それとスナフキンね。誰が一番でこれが二番手ってことがない。だから、女もアフリカ紅一点じゃないほうがいい」
「千尋さんは?」
「女剥き出しだからアフリカとぶつかるし、キャラは派手だけど、エンタメの舞台は抑えられない。あたりまえすぎる何もかも」
「きついね」
「正味なんぼが人生」
「なぐるぞ、たかが十八で」
 つんのめるほど急ブレーキでスマートは信号停車した。ソーヤのソプラノがクレシェンドする。オンブラ・マイフ。懐かしい木陰。そよ風きらめく木漏れ陽の代わりに、狭いスマートの内部を赤信号と青信号の点滅が機械的にリフレインする。
「豹はいくつなんだ?」
 どこまでも愛らしい声で蝶は刺す。
「二十一」
「お互いなぐりっこしようか」
「お前の親父に殺される」
 うふふ、と蝶は眼をほそめた。
「ペンタゴンから戻ってこない」
「いくらでも手下がいるだろ」
「そうだね、スマートのうしろのうしろの」
「げ、マジ?」
 豹河はシートベルトを着用したまま上体をひねって後ろを窺うふりをしたが、蝶児にどんな監視がくっついていようと本音はどうでもいいのだった。
「わかんない。あたしにも。子供はあたしだけじゃないしね」
「だけどお気に入りなんだろ、おまえ」
「面白がってるだけよ。子供は財産だって言ってた」
「華僑の親分は肝っ玉が違う」
「あたしは日本人。日本にいるときは日本人。アメリカに渡ればアメリカ人」
「気分は、だろ」
 それ以上蝶児は応えず、話を戻した。
「あのひと相当弾けると思う」
「たぶん」
「彼女混ぜると東スタファンはさらに広範囲になる。一年こっきりなんだから」
「おまえ、森さん気に入ったの」
 豹河は首筋をがりがりと掻いた。暖房が暑すぎる。レザーのジャケットをむしるように脱ぐ。迷彩シャツを盛り上げる胸と腕の筋肉が大きい。蝶児は豹を横目でちらちらと見て
「女は全員ライバルよ。アフリカも、シーラも彼女も。女が女を気に入るなんてありっこない。スタコラーズはゲリラで移動するんだから、全天候、全方向型戦闘機にする」
豹河はうれしそうに舌打ちした。
「ったく親父の血か」

 二つの情景が茴の目の前を流れている。いっぽうの世界に茴は主に属し、もうひとつの物語は空間全体が実物大の画面となって、片方の世界にいる茴のすぐ傍らで事件を映していた。それを見ているのは茴だけだ。
 茴は病院かデパートのような四角い建物の中にいる。白っぽいネグリジェのような軽いふわっとした寛衣を着て、まだ二十代のような気分がする。これからエスカレーターを昇って誰かに会いに行く。
ところが茴が乗ったエスカレーターは昇りではなく降りで、茴以外にもそこに並んだ人達は、階上からこちらへ降りてくるエスカレーターを死にもの狂いに駆け上ってゆく。茴は途中でこの無理に気付いて離れた。
 だがそれでは目的に到達できない。
(どうしよう、会わなくちゃいけないのに) 
 茴は途方に暮れて階上を眺める。それはそうと、いったい自分は誰に会いにいくんだろう。ここは騒々しく、おかしなところだ。なぜ不自然に〈さかのぼろう〉とするの? あたしもそうしなくちゃいけないの? 
再度周囲を見回すと、いつのまにか降りエスカレーターを逆走していた人びとはいなくなり、がらんとした上のホールから少女がひとり、エスカレーターに乗ってこちらに降りてきた。髪をポニーテールに結んで、茴と同じような白い貫頭衣を着ている。陽奈だ。立ちすくんでいる茴に陽奈は言った。
「遅くなったね」
「何が遅かったの?」
「いいから、こっち」
 陽奈は茴の質問に答えず、建物の別な場所へ案内してくれる。
「この部屋」
 示された部屋は壁も床も真綿のような柔らかいもので覆われている。部屋全体がそのまま鳥の巣か繭のようだ。
「二人目が生まれるから」
「二人目って?」
 陽奈は困ったような笑みを浮かべた。
「最初は女の子だったの。今度は」
 陽奈は茴のお腹に触った。驚いたことに茴は臨月のお腹になっている。もうじきよ、きっとこれは男の子、と陽奈が言う。
 大きなお腹を抱えて陽奈と会話しながらも、茴にはこの世界と並んで進行してゆく世界が見える。そちら側では、茴は雲の上か、塔の窓のような高所から一部始終を眺めている。
 凶暴な囚人が刑務所から脱走してきた。彼を捕まえようとする男たちに、囚人は日本刀を振り回し反抗する。追手は彼に迫り刃物を取り上げようとする。何かの拍子にその刀はひとりでに宙に舞い上がり、みんなの頭上で半回転すると脱走者自身の顔を真横に斬った。ちょうど唇の両方の角を裂くように刃が閃き、男の顔から鮮血がほとばしる。
まるで口裂け男だわ、と茴はぼんやり見物している。怖いがどうすることもできない。男は見たこともない人物で、三十そこそこの西洋人のような髭面だった。少女時代に読んだ『罪と罰』の解説に掲載されていたドストエフスキーの肖像写真、あるいはフィンセント・ファン・ゴッホの自画像に似ている。どちらも眼に狂気がある。
こちらの世界で自分はもうじきもうひとりの子供を産む。誰の子供だろう。櫂はもういないのに、と二十代の茴は現実年齢の思考回路で思いめぐらしている。そこにもう陽奈はいない。胎内で赤ちゃんが動いている。痛くないの、すぐに出てくるよ、と耳の傍で誰かが言っている。
がたん、と物音が聞こえて茴は眼をあけた。真っ暗だ。何の音だろう。まだ夢かしら。ごとん、ともう一度、今度ははっきりと重いものが床に落ちる音だった。
 灯りをつけると足元にカイトがいる。カイトは巨大な猫のようにベッドの端に丸くなり、カイトの顔が乗っていた茴の膝から下は獣の体温で温かかった。ふうふうという寝息が聞こえる。熟睡している。カイトの閉じた眼の長い睫毛が自分の鼻息で薄い扇のようにひらひら上下に揺れていた。
(この子のたてた音じゃない)
 サイドテーブルに畳んであるカーディガンをひっかけて廊下に出る。まだ厳冬の深夜の空気がひっそりと冷たい。玄関に照明。ごろん、と陽奈の片腕と手が角の向こうに見えた。手の先に花柄のサマンサタバサのバッグがひっくりかえっている。ひっくりかえっているのは持ち主も同じだろう。ダイニングの掛け時計を見れば午前一時半。
「午前様。幽霊出現丑三つにはまだ間があるぞ、こら」
 スリッパの爪先で、仰向けに寝そべっている陽奈の肩を軽く蹴った。この娘が泥酔の醜態を見せたのはこれが初めてかしら。成人式済ませたらいきなりこれだ。お酒強いのかな。
「生きてる? 陽奈」
「健在」
 眼をつぶり、眉をしかめたまま、陽奈は片手を顔の高さまで持ち上げてチョキを作った。

 松井須磨子さん宅の台所はいつもよく片付いていた。松井さんだけではない。茴が見る範囲でなら、介護保険を利用して生活援助のヘルパーが週二回以上派遣される高齢者宅は、忙しい主婦が自宅を整理するよりもきれいになる。現行の制度では生活援助を受けられるのは独居高齢者か、家族がいても、日中一人暮らし同然の状態になるひとに限られている。
 ヘルパーによって掃除が行き届くとはいえ、冷蔵庫やシンク回りなどは古い食品、食材などがうっかりすると何か月、ときには何年も放置されていることがある。腐敗し、黴が生え、ときにはかちかちに干からびていても、ほとんどすべての当人は自分で捨てようとはしない。自分で冷蔵庫を開けてみれば、そこにそれがあるのは目に見える筈なのだが、ヘルパーが処分を促すまでいつまでも、何年でも残されている。
「今日はお昼に何を召し上がりましたか?」
 ケア開始のたびごとの挨拶と食事や体調の確認。これを紋切型の生活チェックにしないように、もっと優しくさりげない尋ね方ができないだろうかと茴は毎回考えるが、今のところうまい言葉は見つからない。
 居間の長椅子に足を投げ出すように横になり、背中にクッションをあてがい、日中BGMがわりに点けているテレビをリモコンで切ってから須磨子さんは答えた。
「バナナと紅茶。それからパンを少しね」
 長椅子の前のガラステーブルの上には山積みの雑誌、新聞紙、メモ帳などの谷間にすっかり黒くなったバナナの皮と汚れたティーカップが残っている。カップの中にはまだ紅茶が半分ほどある。
「お風呂の前にもうちょっと水分補給なさったほうがいいですよ」
 茴が勧めると須磨子さんはにこっと笑って
「じゃ冷蔵庫からエビアン持ってきて。ミニボトルがポケットにあるから」
「はい。あの、素足で寒くないですか?」
 厚手フリースのパジャマにウールの膝掛をしているが、ズボンの下からにゅっと細い足首が突き出ているのがさむざむと痛々しい。
「あたし平気なのよ。昔から割と寒さには強いのね。だいたいもう寝てばっかりいるじゃない。暖房してるし。ねえ、ところで」
 寝そべったまま須磨子さんは茴を下から眺める。自分が利用者さんを見おろす位置はよくないので、茴は膝をかがめて須磨子さんと同じ高さの目線にする。
「何か?」
「あたしこのままここにいていいのかしら。森さんどう思う?」
「ご不自由ですか?」
「まあね。一人だから面倒なこと多いのよ。不用心だし、寂しいし。施設に入ろうかって時々考えるわ」
「それは施設に入れば、医療や介護、お食事も全部提供されますから安全は安全ですけど、あたしの知っている限りでは、みなさん自宅のほうがいいっておっしゃいますね」
「そお?」
 松井さんは長年手入れを続けたおかげで、今もつるつるしているおでこに長い横皺三本を寄せて眼をまるくした。
「自由がなくなるってほどじゃないですけど、やっぱり制限されますし、施設内の他の入居者さんとの相性がいいかどうかわからないですから」
「じゃ、喧嘩とかいじめとかあるの?」
「うーん。誰でも好き嫌いはありますよね。うまくいけばいいんですが、例えばご飯にしたって口に合わないことあるでしょう。だからケアマネやご家族と御相談なさって、どこかよさそうなところがあったら、一週間くらいお試し入居なさるといいんですよね。それでお食事とか雰囲気とかだいたいわかりますでしょ」
「そういうことできるの?」
「はい、やっぱり下見は必要です」
「あなた、どっちがいいと思う? あたしがここにいるのと、集団生活に入るのと」
 尋ねられて自然に茴は須磨子さんの居間とその向こうの和室を眺め渡した。洋間の隣は広い床の間のついた八畳間で、今では家具は何もない。使われていないポータブルトイレだけが部屋の隅に無造作に置かれている。床の間には山岡鉄舟の書という立派な掛け軸が下がっている。その前にからっぽの青磁の花瓶。和室とリビングの隣の幅一間のサンルーム兼縁側は、今では洗濯物の干場だ。
何度か骨折を繰り返した重い骨粗鬆症の松井さんは、もう二階に自力で登ることが難しくなり、親から譲られたこの重厚な日本家屋の一階だけが生活空間になっていた。
「施設にお入りになったら、個室でもおひとりで六畳間か八畳間になりますよ」
「やだ狭いわね」
 須磨子さんは顔をしかめた。
「ええ」
 茴は須磨子さんの無邪気な表情と感想に微笑んだ。狭いわね。それはそうだ、ここの居住空間を有料老人ホームにまるごと持っていけるわけがない。
「ここよりのびのびとお住まいになれる施設なんてありませんよ」
「そりゃそうだけど、不安なの。これからどんどんあたしが衰弱していったらどうしようかって」
「在宅で最期まで過ごされる方も結構おいでです。介護度が重くなったら、それに応じてヘルパーを朝昼晩三回入れれば在宅でも大丈夫ですよ」
「家でお亡くなりになったの?」
「そのようです。私はまだ未経験ですが」
「そおおおう」
 須磨子さんは溜息まじりに長い返事をした。
「どうしようかな。お金はまあ、貧乏だけどないことはないのよ」
「はいはい」
 茴は笑った。須磨子さんなら貧乏ではないだろう。今の年金や資産に加えて、この家を活用すれば、高齢者施設で充分安楽な余生が送れる。
「気苦労があるってことよね」
「はい。どの方も好きで施設に入るわけではないと思います。中には御自分で決心して入居される方もいらっしゃいますが。至れり尽くせりで楽ちんだけれど、自宅がいちばんいいって、あたしの知っている方はみなさんおっしゃいますね。あたしも御自宅にいらっしゃるのがいいと思います。ここより広い快適な空間は、施設ではないでしょう」
 Plus須磨子さんの性格で施設内の人間関係その他、さまざまな制約を受容できるかわからない。今後認知症がどんな具合に出現するかにもよる。認知がなくても、気は強いがほっそりと神経質な須磨子さんはみんなからいじめられそうな感じだ。
「うーん。やっぱりここにいようかな。気兼ねや管理はいやだわね」
「ええ、そう思います」
 須磨子さんはさっぱりとした笑顔を見せた。
「やっぱり森さんに相談してよかった!」
 それから数日後茴にギャザリングからCメールが来た。まついさん入居決心されたそうです。今後どうなるかわかりませんが一応ケア終了。

 火曜日の徳蔵さんは新年のケア再開からまだ数週間というのに、目に見える速さで病状が進んでゆく。ケアのたびに、首の腫瘍は大きくなっていた。ガーゼ交換、薬剤塗布などの手当ては看護師か息子がしている。
おしゃれな徳ちゃんは初めネッカチーフを首に巻いて患部を茴に見せたがらなかった。ところが翌週は患部を覆う滅菌ガーゼの幅がチーフよりも大きくなっていた。そして眼をこらすと徳ちゃんの耳の後ろから顎にかけて紫いろの変色が生じているのが見えた。
「いやだねえ、これは」
 徳ちゃんはそれでもからりとした明るさでこぼすのだった。
「お医者様のおっしゃるとおりにお薬飲んで治療すれば治りますから」
 茴は気休めを承知で答える。今自分が心から温かい笑顔を浮かべていればいいと願う。徳ちゃんの施設入居はやめになった。悪化したら入院。しかし手術はしない。きっと退院はない。
それがいつかわからない。徳ちゃんの体力と寿命は紫色のリンパ腫の中で刻々と喰われている。徳ちゃんは時々ふいにぼんやりすることがあるけれど、一月下旬の時点ではおおむね快活だ。食事の量は減ったが、自分で箸を取って食べている。
「ああ、おいしい」
「はい、おいしそうです」
 小さいオムライスにミートボール、かぼちゃをつぶしたサラダ、煮豆、ミニトマトは湯むきしてあるし、柔らかめのチキンライスに
は色鮮やかなグリンピースが混ぜてある。みートボールはどこかで見たことがありそうだから、市販レトルトか、もしかしたら介護食かもしれない。ちょっとばかり鮮やかすぎるかぼちゃのサラダも。
食事に出来合いの品が混じるようになったところに、老親を在宅で看取る覚悟の息子さんの苦労も察せられる。そろそろ六十代のはずだ。重労働の厨房につとめながら、こざっぱりと父親の身のまわりを調える息子の根気は、きっと茴も及ばない。連日昼と夜、合わせて三時間ほどヘルパーが入っていた。
 ごほん、と徳ちゃんが咳をする。茴は急いでティッシュを渡す。軽くむせながら徳ちゃんは苦しそうに首の上を手でさわり、顔をぐいっと北側にねじった。そうしないと腫れた患部が食道か頸椎かを圧迫し、飲み込むのが苦しいらしい。勢い徳ちゃんは台所の殺風景なシンクのほうばかり見ることになる。
(次から椅子を反対側にしよう。そしたら窓のほうを眺めることができるわ)
 窓辺に飾ってある真紅のシクラメンが真っ盛りのリビングを、茴が残念そうに眺めたとき、徳ちゃんは言った。
「俺、紀州熊野灘にいたんだ」
「はい」
「あそこから舟に乗って沖へ出て、それからずっとずっと海の向こうまでいくとふだらくがあって、そこは極楽浄土なんだよ」
「はい、ああ、補陀落ですか」
「森さん知ってるの? えらいねえ」
「名前だけです。補陀落渡海」
「そう。俺今年病院で夢見たんだ。舟に乗って浜から沖へ乗り出す初夢。俺はその浜はここの結衣ヶ浜か得鳥浜かと思ったんだが、そうじゃないね、紀州だね。婆さんが迎えに来てくれるんだ」
「やだそんな。まだ早いですよ」
「あはは」
 徳ちゃんはオムライスを半分、そのほかのおかずを三分の一ほど食べ残した。
「あいつには悪いが、もういいや。あいつもさんざん親を泣かせたが、こうやって最期の最期までうまいもの喰わせてくれるんだからありがたいね。あいつは子供のころからほんとうに…」
 ぶつんと徳ちゃんは黙った。茴は次の言葉を待つ。だが行間余韻の数瞬が自失の空白一分になる前に茴は言った。
「お薬飲んでいただけますか? そしてお口ゆすぎましょう」
 感情を静めてケアの流れに漕ぎ出さないと
徳ちゃんの生命の残照がぎらぎらする補陀落の波濤に二人とも呑みこまれてしまいそうだ。
「ン、ああ」
 徳ちゃんはふわっとした笑顔になった。腫瘍のできたほうの頬がふくらみ、顔の輪郭が変わっている。痛みはないんだって、とギャザリングが教えてくれたが、痛覚や不快感を共有することはできない。苦しんでいる相手の痛みがわかるなどと自惚れてはいけない。痛いでしょうね、と心の中でつぶやいてさらさらした水のような心でそこに佇み、決められた仕事を果たすのがいい。
「立てますか」
「はい、どうにか」
 徳ちゃんは真面目な口調で言い、食卓に両手をついて膝をがくがくさせながら立とうとした。徳ちゃんの弱くなった腕もわなわなして食卓と食器がカタカタ鳴る。あわてて茴は徳ちゃんの椅子をどけて背後から腰を支えた。重い。全部の体重でないにせよ、茴の両手にもたれてくる体は大きかった。
「いち、に、で」
「やあ、どうも」
 さん、で立ち上がった徳ちゃんは、すまないと言いながら、その声は震えて笑っているようだった。何がすまないのだろう。茴に支えてもらっていることかしら。
 立った徳ちゃんの首は中腰になった茴の丁度目の前にある。後ろのほうにはガーゼが回っていない。まだ自然な皮膚の色をしている。

四月のパフォーマンスの茴の持ち時間はだいたい十五分から二十分だ。演奏曲目は十五年ほど前、まだ千尋先生に付いていたころ得意にしていたレパルトワールで、ドビュッシーの「グリーン」、「亜麻色の髪の乙女」「海は伽藍よりも」。フォーレから一曲「月の光」、才能を謳われながら夭折したリリ・ブーランジェの「夜想曲」に決めた。このほかにもう一曲フォーレの「パピヨン」を加えてもいいと考えている。どの曲も可憐で、♯やbで水飴のように暈された音符のはざまから月光や大気のそよぎが響いてくる。
やや長いパピヨンを入れると二十分を過ぎるかもしれない。足りないよりはいい。もしも時間が余るようなら、趣向を変えて三味線の都節の音階を使ってアンプロヴィザシオンの断片で場をつなげようと考えた。
ドビュッシーに接していると肉体感覚を忘れる。なまなましい人間ドラマから離れ、感覚は月光や海の響き、水面に映って 揺れ動く空や梢のとりとめのない陰影に浸される。フォーレのいくつかの曲も。
フォーレの「月の光」は同じベルレーヌの詩に付けられたドビュッシーの作品とは異なり、音触に当時のフランスの髪の美しい女性がまとう長い裳裾の襞や、繊細なレースの影が混じる。月明かりの中でささやくひとの声が聞こえるのだった。
一方のドビュッシーは時間と空間の限定を突きぬけ、人の気配も消して、ただひたひたと澄んだ月明かりの世界をうたった。
ドビュッシーの「月の光」のほうがフォーレより支持者が多い。千尋唯由は茴によく言っていた。音符を鳴らしたって音楽にはなりませんよ、あなたフォーレお好きってお言いなら、心がけて優雅なおひとになりなさい。そうでないとあらっぽくって聴けないよ。
千尋の言葉は丁寧だが、痛い言葉だった。痛い自覚をくれるから先生なのだろう。
 お稽古時間は夜明け前の一時間、運指とソルフェージュ。怠けていたので三指と四指がすっかり弱くなっている。指板を叩くとその音が指のなかに入ってくる気がする。だが音楽の優雅は指で刻んだ音のまたひとつ向こうにある。それから日々のケアワーク、家事の合間に二時間。これでは少ないな、と思うが仕事をやめるつもりはない。
きっと、もしかしたら一生介護福祉の世界を自分のフィールドにするかもしれない。キリストはそれをのぞんでいるようだ。高齢者さんから学びをいただく。そういう局面もあるが、介護職がさまざまな面で「荒野」であることは否めない。年を取らないひとはいない。誰でもいずれその荒野に入ってゆく。野の果てに何が見えるだろう。
 なろうことなら、ひとであることの反面の醜さを免れて生涯過ごしたい、と茴は思う。ドビュッシーを奏でているとことに思う。
「茴ちゃん、いい?」
 朝練を終えてチェロをケースにしまっていると、こんこん、とノックといっしょに陽奈が入ってきた。七時。陽奈にしては早起きだ。まだパジャマを着ている。襟や袖口にフリルのいっぱいついたハローキティブランド。
「これ、こないだのお詫び」
 B5サイズのピンクと薄紫のリボンキティの封筒を茴の胸元に突き出した。
「こないだって?」
「はつげろ」
 ああ、と茴は頷いた。
「懲りたでしょ。もうやめなさいって言ってもやるんだよね、性懲りもなく」
「えへへ」
 初めて泥酔午前様で玄関に転がった陽奈はそのあとさんざん茴を手こずらせた。吐くほど飲むなと口では叱ったが、まだ飲み方も限界もわからないのだから仕方がない。翌日宿酔で寝込んだが、もうけろりとして昨夜もどこかで飲んできたらしい。起き抜けの陽奈の口からかすかに酒の匂いがする。
「女子会、でもないか。先生といっしょだから」
「先生?」
「手漉き和紙の先生。ユネスコの無形文化遺産になったでしょ。美濃と埼玉から職人さんを招いて新年から半年間の特別講座。そこでこれ作ったの。初和紙です」
 封筒を開けると、ぽたぽたした手触りの葉書サイズが五枚、黄色と青、黄緑のリボンを結んだ栞が三つ入っている。
「和紙って、カルチャーセンターとかでも作れる…」
 ぼそっと言いかける茴に、陽奈は憤然と
「レベルが違います。そういう台詞茴ちゃんから聴きたくない」
「あそう。これあんたが漉いたの?」
「はい」
 お世辞にも肌理が整っているとは言えない。綿を薄くひきのばした感じで、葉書らしい厚みがぼこぼこしている。陽奈が何と言おうと、どう見ても趣味の日曜講座カルチャースクールレベルだが、葉書にも栞にも紅葉や押し花が漉きこんであり、繊維越しの半透明な彩りがそれなりに美しい。
「昔は紙が貴重品だったから、使った和紙を何度も漉きかえして使ったんだって。だから最初はまっさらでも、書いた墨色が溶け込んで、マーブルみたいな模様になるの」
「『源氏物語』や『栄花物語』などに、亡くなったひとからもらった手紙を漉きかえし、それに写経して死者の供養にしたって」
「知ってるの、そうだよね、茴ちゃん源氏好きだもんね」
「エコリサイクル。昔は無駄なものがなかったんだわね」
 ありがとう、と言って茴は葉書を朝日に透かし見た。不揃いな繊維に光がむらむら透けてきれいだ。この葉書に使える筆記具はサインペンか筆ペンだろうか。万年筆やボールペンでは繊維にひっかかってしまいそう。
 死者の手紙だけでなく、遺髪を漉きこみ、それに写経して供養したとも記憶している。紫の上の髪を源氏がそのようにしたと。茴は櫂の髪を一掴みしまってある。この子には見せていないが、そのうち光源氏よろしく和紙に仕上げてもらおうか。そしたらそこに自分は何を描くだろう。とはいえたかが半年の腰かけ講習では入門知識ならともかく、技芸は手に入らない。
朝ごはんの支度をしなければ。ケアは午後からだが、午前中できれば二時間の日課をこなしてしまいたい。ケアから戻ればもう五時近い。家事を 怠ければ時間はいくらでも作れるが、茴はいやだった。
 トースターに食パンを二枚いれ、卵を割る。今朝はチーズオムレツにしよう。それとほうれん草とベーコンのソテー。卵をかき混ぜながら陽奈に、
「実習で和紙を漉いてるのね」
「そう」
「どんな職人さん?」
「六十歳、五十歳、三十歳のおじさん」
「それはそれは」
 茴は軽く笑った。二十歳の娘にとっては三十男はおじさんか、そうに違いない。
「三十で一人前なんて職人としては若い」
「彼は助手みたいな役割。美濃の職人なんだけど、茴ちゃんが好きなカルチャースクールで、これまでも講師をしてる」
「別に好きじゃありませんよ。亜咲が藤塚の何とかセンターでデッサン教えてるでしょ。だからそう思っただけ」
「ふうん。あ、あたしベーコンいらない。パンもいらない」
「食欲ない?」
「昨夜食べ過ぎたから」
 茴は陽奈の顔を見た。きっと顔も洗っていない寝起きのままだが、サーモンピンクの頬は不摂生も知らぬげに光っている。体のなかに自然の明かりが灯っているような。
 

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