さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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白いひとびと   後編

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 7 夫人の恐れ

 マクネアン氏とその母上のために、わたくしはその年にかぎって、ロンドンに数週間も長く滞在しました。この二人の傍を離れがたかったのでした。
 マクネアン夫人は、もうすでに語ったことですが、とても不思議な魅力的な女性でした。この方の傍にいると、わたくしは自分がすこしも内気ではなく、それに世界のすべてが他の場所で見るときとは違って眼に映りました。これはヘクター・マクネアン氏と一緒にいるときも同様だったのです。
 この母子はとても聡明で、この世のあらゆるおもしろいことを知り尽くしていましたが、決してその才気や知識のひけらかしで、わたくしをまごつかせたり威圧したりしませんでした。
「あなたは生まれながらに素敵な子だったのよ、イザベル。その上、アンガス・マカイアがあなたの心を変わった華やかな飾りやすばらしい彩と形で充たしてくれたのよ」
 夫人はわたくしの手をとり、そっとゆっくり撫でながら話してくれました。わたくしの手や腕、髪などに触るのは、彼女の癖だったのですが、また夫人はいつもできるだけわたくしをそばにひきとめておきたがりました。
「あなたがほんとうに傍に在て、消えたりしないのを確かめるために、あなたに触るのが好きなのよ」
 と夫人は言いました。なぜそんなことを言うのか、そのときはわからなかったのですが、あとになってわかりました。
 その夏のわたくしの思い出といえば、マクネアン夫人と彼女の息子、それにわたくしとの三人で、大きな林檎の木陰でゆったりと過ごしたお茶の時間のすばらしさで埋め尽くされています。
折節、わたくしたちは暮れなずむ夕闇が深くなり、庭園に棲む夜鶯が囀り初めるまで林檎の樹の下に座っていたものでした。それはまるで、永遠に続くたのしい満ち足りた時間のように感じられ、三人とも言葉を消して、しだいに濃くなりまさる夕闇の中、爽やかな声で歌い続ける小夜鳴鳥に聞き入るのでした。      ああ、わたくしはなんとこの親子を愛していたことでしょう。マクネアン氏と母上とわたくしは、まるで古い幼馴染のウィー・ブラウン・エルスぺスと同じように、いえ、それ以上に、言葉なしでお互いに優しく慕わしい愛情を通わせることができました。
 ある晩、マクネアン夫人は言いました。
「人がもし、暗闇の中で小鳥の姿を見たり、その声を聴くことができたら。もし死すべき人間が闇のなかに光を垣間見ることができたら、《死の恐れ》などは永久に消えてなくなることでしょうに」
 林檎の樹とわたくしたちは、そのときもうすっかり深い闇に包まれていました。椅子に腰かけ、野薔薇やアイリスの香の漂う夏の大気を呼吸しながら、わたくしはこんなに美しい時間のなかで、マクネアン夫人の声がはっきりといつになく怯えを含み、歎きに充ちているのを感じ、驚いたのでした。すぐに彼女の息子が応えました。
「おそらく、あらゆる神秘はそんなふうに単純なのかもしれない。人間の耳では捕えがたい精妙な旋律があるように、人間の眼には見えない光の振動があるのかも知れない。音や形、色があるのかもしれない。人間の認識を超えているにもかかわらず、我々が存在しているのと同様に、確かに実在し、かたちをなしているもの。それは異次元の存在だろう」
「おお、神秘とは! この世を去り、もはや共に生きることかなわぬと思われている者たちが……じつはすぐ傍にいて共に生きているのに、わたしたちはその姿を見、声を聴くこともできないということにすぎないといういう、せめてその証が得られたら」
 夫人が両手で顔を覆っているのがわたくしにはわかりました。そこにはまだランプも灯もなく、月明かりもなかったので三人ともお互いの姿を見ることができなかったのです。
「ヘクター、そう確信できたら、わたしは《死への恐れ》など感じないのですよ」
「だいじなひと!」
 マクネアン氏は声に力をこめて母親に呼びかけました。彼は母上のことをしばしばそう呼んでいました。その闇の中で、相手を力づけようとする彼の声は特にすてきな響きを帯びていました。
「恐れるべきではないと誓い合ったではありませんか。信じようと」
「ええ、ええ、そうよ。でもヘクター。時にはわたしも、ときには」
 夫人の声はもうはっきりと震えていました。
 けれど、マクネアン氏はますます落ち着いた声で言いました。
「ミュアキャリーさんは恐れていらっしゃらないのですよ」
「イザベルと呼んでください、おねがい」
「イザベルはね、ぼくと出会った最初の晩に、不思議なことを話してくれたのです。彼女の父上は不慮の事故で亡くなったあと、愛する妻の許を離れず、赤ちゃんがーーイザベルがこの世に誕生するまで、妻とともに城にとどまっていたのだ、という」
「そんなことが?」
「本当のことですわ。父はあの世に旅立つのを遅らせ、ショックで倒れたきり、意識不明の母にずっと呼びかけ続けたのです。そして母はもうこの世に何の未練も持ちませんでしたが、半分生きている身ながら、はっきり父の声を聴いていたのです」
「どうしてそんなことがわかるの?」
 夫人のわたくしへの質問は涙を抑えているために低く、くぐもっていました。
「なぜでしょう? わたしはそうしたことを疑問に思ったことがないのです。高地人の間ではそうしたことがよく信じられているからでしょうね。千里眼の持ち主のこととか。それに人間に変身して陸にあがり、娘に恋して結ばれる海豹の話など」
「それは、どんな? 聞かせてくださいな」
「ええ、昔、ミュアキャリーからほど遠からぬ所に、濡れたような黒い眼の、きれいな見かけぬ若者がふらりと現われ、船頭の娘と結婚しました。ところがそれからしばらくたったある夜のこと、彼はまんじりともせずに転々としていましたが、起き上がると妻を残して出てゆき、それきり二度と戻りませんでした。数日後、小屋の近くの浜にみごとな海豹の死骸が打ち上げられました。海豹は人間の妻との中を裂こうとする仲間たちと戦ったあげくに殺されたのだ、と漁師たちは言います。残された妻には父親そっくりの、風変わりな天鵞絨のような眼をした息子が生まれましたが、彼女はこの子を水から遠ざけておくことはできませんでした。息子は大きくなって泳げるようになると、沖に泳ぎ出てしまい、それきり陸には…人間の世界には戻って来ませんでした。父親の一族に連れ去られたのだと漁師たちは噂しました。
 こんな言い伝えを聞きますと、一生のうちに特に不思議なことはない、という気がいたします」
 わたくしのおしゃべりをひきとってヘクターが続けました。
「そう、ほんとうになにごとも不思議ではないのだ。あらゆる時代を通じて人間は繰り返し神々の不可思議と『掟』の驚異を教えられてきた。人々はそれを崇め吹聴してきたが、実際には信じなかった者が大部分だ。だが、すべては単純かつ明快なのだ、と信じれば恐れはなくなるだろう。イザベル、伝説を信じるあなたには恐れがない。母に言ってやってください」
 暗がりのなかで耳に聞えるヘクターの声は切実な哀願のようでした。彼は何かの理由でわたくしに救いを求めているのだとわかりました。そうして、今、この闇の中で、わたくしは自分にとってかけがえのない友人となった二人の声によって、自分でも知らなかった
天性のような力が呼び覚まされるような気がしました。わたくしの躊躇を推し測るヘクターの穏やかな声がもういちど聞えました。
「イザベル、ぼくにはわかっているんです。あなたはあなたの心に浮かぶままお話しになればいい。そうすればぼくたちは慰められ、母には救いになるだろう。あなたの言葉はあなたを超えたところから発せられるものだ」
 

 8 夢

 ヘクターに促されてわたくしは語り始めました。
「あなたのおっしゃる《死への恐れ》の感情をわたしはついぞ覚えたことがないのです。かりに何かについてそうした恐れを懐いたとしても、以前に見たある夢のおかげで、恐れの感情は消えてしまうのです。その夢は……わたしは夢だったとは思えないのですが、かりに〈夢〉と呼んでいます。とても単純で、ことさらお話するまでもない、短い、夢うつつの経験です。でも、それはわたしとっては大切な人生の一部なのです。『丘の中腹』にいたあのとき。そう、わたしはその夢を『丘の中腹』と呼んでいます。
 ある晩のこと、わたしはミュアキャリーで眠っていました。するとふいに、いつのまにかわたしは今まで見たこともないほどやわらかく美しい月明かりのもとで丘の中腹に立っていたのでした。たぶん寝間着姿のままで。素足の下には草があり、寝間着は何か軽くて白いもののようでした。着ていても、それは肌に触れていないかのようでした。同じように足の裏にある草むらも、そこにはあってこちらの肌には触ってこない。ほんのすこしばかり宙に浮かんでいるような感覚でした。
 そこは低い丘で、中腹に浮かんでいるのはわたしひとり。心ときめく美しい月光がきらめいているのに、わたしが立っているあたりは上も下も、やわらかく美しい影にひたされているのでした。
 そこでわたしは言葉には表し難い幸福感を味わっていました。純粋で、晴れやかで、うっとりとした感覚と感情! ああ、とても言い表すことができません。言葉はなんと貧しいのでしょう。わたしの言葉は!
 わたしの感覚、わたしの感情、わたしは自分の肉体を忘れてしまったかのようでした。わたしは幸せそのもの、歓びそのものでした。
月光、夜、空、きらめく星々、丘の中腹をひたひたと包む影、そのすべてがこの上なく美しく、それでいてわたしはそれらを見てはいませんでした。見ないで、ただ、わたしはそれらすべての一部であり、同時にすべてと一体だったのです。
 うまく言えないわ。わたしはただその場にたたずみ、たたずみ……顔をあげ、そこに自分が在ることの歓びと驚きに満たされていたのです。耳にはかすかに声が聞こえていました。自分の声、自分のつぶやきです。
〈まあ、なんて、美しいこと、うつくしいこと!〉
 自分でも意識できないわたし自身の声は、それから消え入りそうに低く、ゆっくりした声になって、こう言っていました。
〈おお、この、草の、上に、横たわり、眠り、ましょう。一、晩、じゅう、この、つき、かげの、もとで……わたしは……ねむり、ましょう〉
 たとえようもないほど深い安堵と悦びに包まれ、わたしは足元の草原にゆっくりくずおれるように伏しました。そして横になった頬が草に触れたと思った瞬間、夢が終わったのです」
「まあ、目が覚めたのね?」
 マクネアン夫人は言った。わたくしはかぶりを振りました。
「いいえ、目が覚めたのではなく、戻ってきたのです。わたしはどこか、外、に出かけていて戻って来たのです」
 わたしは闇の中でマクネアン夫人の手をとりました。
「どう申し上げても嘘になります。説明のしようがないの。でも、いくらかは分かっていただけたかしら?」
「ええ、ええ、夢なんぞであるものですか。あなたは丘の中腹から戻ってきて、この世には帰らぬひとたちが、あなたが味わったような陶酔のなかで目覚めているのだと、わたしに教えてくれたことを、神に感謝します。そうね、きっとそうね、《死の恐れ》なんてないのよね。この世の時間を離れて目覚めた者たちは丘の中腹にいるのだわ。ああ、ほら、また小夜鳴鳥の歌が聞こえるわ」
「鳥たちは知っている」
 ヘクターの低い声がナイチンゲールのさえずりに混じって響きました。
「イザベルのそれが、夢でなかったことを」
 鳥のさえずりがはたりと止んだとき、ヘクターは静かに椅子から立ち上がり、わたくしたちを残して去ってゆきました。
「ぼくはさきに行くよ。おやすみ」
 息子が行ってしまうと、マクネアン夫人はささやくような声音で打ち明けました。
「イザベル、わたしとあの子は単なる母と息子以上に愛し合っていたのよ。二人だけでとても満たされていたの。でもね、あの子は汽車の中であなたを初めて見たときから、あなたを愛するようになったの。あなたの夢見るようなまなざしにひかれたのですって」
 そんなことを告げる夫人の声音は優しくてわたくしの困惑も動揺も包み込むかのようでした。それでわたくしもごく自然に
「わたしもあの方を愛するようになりました。」
 告白するのにためらいも恥ずかしさも感じませんでした。
「イザベル、できれば三人でいっしょに暮らせたらよかったのに。そうしたら何も言うことはなかったでしょうに。でも、でもね」
 夫人は静かに椅子から立ち上がり、わたくしのほうに身をかがめると、腕を伸ばしてわたくしを抱きしめ、
「あの子は、いなくなるの、イザベル」
「いなくなる、ですって?」
「ああ、いつかはそんな悦ばしい日が来るでしょうね。愛し合う者たちが別れなくてすむ日、老いや病が消え去る時、苦しみや悲しみのいっさいが地上からなくなる時が。
 でもそれは今の時代ではないわ。ああ、イザベル、ヘクターの心臓には生まれつき致命的な欠陥があり、いつ…逝ってしまうとも限らないのよ。話しかけ、仕事をし、眠っている最中に、そうなるかもしれないの。ただいなくなるだけのことだけれど、あの子はいなくなるのよ」
 わたくしの心臓が止まるような想いでした。呼吸をのみ、瞼を閉じ、わたくしは夫人の震える体のぬくもりを抱きしめていました。数瞬がゆっくりと流れゆき、それからふいにナイチンゲールの澄んだ歌声が耳に飛び込んできました。するとあの美しい幻影が、暗闇の中に鮮やかに揺らぎ始めたのでした。
「丘の、中腹に、行くのね」
 わたくしはささやき、夫人の髪や腕をそっと撫でてあげました。夫人がよくわたくしにしてくれたようにやさしい手つきで、
「ヘクターは丘の中腹に行くのね」
 わたくしにはそのときようやく、この母と息子が真剣な面持ちで《死の恐れ》について語り合ってきた理由がわかりました。一心同体のこの二人は、死を身近なものにしながら、別離の悲しみに耐え、本質的には決して引き離されることはないと信じようとしていたのでした。
 夫人はわたくしをかたく抱きしめてつぶやきました。
「ナイチンゲール! ナイチンゲール! おまえはなにを語りかけているの?」


 9 ダーク・マルコムとイアン・レッド・ハンド

 そのころ、まだほんの小娘にすぎなかったのに、わたくしは人生に偶発時など存在しないと確信するに至っていました。不祥事が起こるのは、わたくしたちがみずからの是非を弁えないか意に介さないためであり、善い結果がもたらされるのは、わたくしたちが意識的にか無意識的にか、その理由を認識しないままに義を選んでいるからなのだと。
 それはわたくしの育ての親アンガス・マカイアとともにミュアキャリー城の書庫のさまざまな古書、奇書、現代書を読み進め、彼とお互いの心の奥深くまで分け合って語り合ううちに得られた信条でした。
アンガスはミュアキャリーに所蔵されている古書や古文書のことごとくを熟読していました。彼はとてもすばらしいひとです! アンガスは、偶然なるものが存在しないことを知っています。人間自体が、超越者の定めたもうた『掟』の現われなのだ、と。
 ロンドンから戻ったわたくしは、城に帰り着いたその日からマクネアン親子の訪問を待ちわびる気持ちでいっぱいでした。彼らはわたくしの語ったミュアキャリーと、この荒野が垣間見せてくれる神秘に惹かれ、その一週間ほど後には、やってくることに決まっていたのです。
 ジーンとアンガスはマクネアン親子とわたくしの友情をとてもよろこんでくれました。ことにアンガスは、天才作家であり、自分にも劣らぬ博識のヘクターのために、書庫の整理を始めました。文献目録を調べたり、書棚を点検したり、そこかしこの本をとりだしては、マクネアン氏が関心を寄せるに違いないと思われる写本や書籍の注釈をつくったりしました。彼はこの書庫を心から愛していたので、自分と同じようにここを愛するに違いない人と会話するのを心待ちにしていたのです。
 ある日のこと、わたくしは何気なくアンガスの留守に書棚に入りました。書庫を点検中のアンガスは脚立を書棚の前に出しっぱなしにしていまおり、いつもなら届かない高い棚にある古書に目をやったわたくしは、そこに立てかけてあった脚立に登って、その写本にめぐりあったのでした。
 長い精密な写本には、ダーク・マルコムとその子供にまつわる残酷な復讐譚が含まれていました。その子供とは、ウィー・ブラウン・エルスぺスだったのです。
 二つの氏族の間で、三代にわたり抗争が繰りひろげられました。ダーク・マルコムとイアン・レッド・ハンドの逸話はその一部にすぎませんでしたが、身の毛もよだつおそろしい話でした。血で血を洗う残酷な所業で知られたダーク・マルコムの生涯で、唯一の人間らしい感情は幼いわが娘への愛情だけでした。彼女は茶色の眸と茶色の髪をしていたので、彼女を深く愛する者たちは彼女を、「小さな茶色のエリザベスちゃん、ウィー・ブラウン・エルスぺス」と呼んでいました。
 イアン・レッド・ハンドはグレン家のマルコムよりも富裕で権勢を誇ったので、マルコムよりもたやすく暴虐の限りを尽くすことができました。彼は敵のマルコムが娘を溺愛しているのをよく知っていたので、その子を利用して相手を苦しめるはかりごとをたくらみました。
 ある夜のこと、攻略に失敗し、部下の多くと兵力を失い、意気消沈して自分の城に戻ってきたマルコムは、我が子ウィー・ブラウン・エルスぺスが連れ去られ、イアンとその部下たちが愚弄と狼藉のかぎりを尽くしていったのを知りました。ダーク・マルコムは躊躇なく、即座に、傷口に包帯もせず、折れた短剣とぼろぼろの剣を帯びて、生き残りの兵士たちと世闇に出撃しました。
 彼は憤然として喚きました。
「人力でも、武器をもってしても、わが娘を取り戻すことはならぬ。よいか、娘の小さな胸を短剣で突き、イアンめによるさらにむごい死から救い出すために、儂が傍に寄るのに死力を尽くせ」
 彼らは絶望のどん底に突き落とされた狂気の一団でした。彼らがいかにして闇夜を駆け抜け、イアンの城壁に見張りのいない盲点を見つけ、攻め入り、彼らの通り道に死体を残しながら戦い進んだかは知られていませんでした。泣き出されて居場所が発覚しないように、イアンの子とかくれんぼ遊びをさせられていたエルスぺスを、奇妙な偶然からダーク・マルコムはついに見つけ出し、その胸ぐらをとらえ、心臓に短剣を突き立てました。
我が子を敵の手による惨殺から救い出した父親もまたすでに深傷を負っており、茶色の髪を振り乱した娘を抱きかかえたまま、その場に倒れ死んだのです。その夜、生きて自分たちの城に戻ったグレン家の兵士はただの一人もいなかったのでした。
「お嬢さんが読んでいるのは、ダーク・マルコムとイアン・レッド・ハンドの話だね」
 脚立に座ったまま時のたつのを忘れて長い物語に没頭していたわたしに、足元の薄暗がりからアンガスが声をかけました。いつしか陽はかたむき、書庫の床のほうは戸外の夕闇と同じようにとっぷりと暗くなり、わたくしが腰を据えていた脚立の上のほうは、夕空の残照を享けて、ほのかな明るさに包まれていました。
「ウィー・ブラウン・エルスぺスは、殺されたのね。争奪の的になり、そのあげく父親の手にかかったの」
 アンガスは落ち着いた声で応えました。
「マルコムにしてみればそうするより外なかったのですよ。イアンは地獄の番犬みたいな男だった。人でなしだったんですから」
「アンガス、この本を書棚のこんな高いところに隠したのはあなた?」
「そうです。それは子供が読む本じゃない。だけど、あなたは小さなころから書庫の隅々まで歩き回っていたからね。イザベル」
「なぜ、わたしは一緒に遊んだ女の子のことをウィー・ブラウン・エルスぺスと読んだのかしら?」
「気まぐれでしょう。それとも女中たちのおしゃべりから、あなたは小耳にはさんだのかもしれません」
 アンガスの端正な顔は彼の足元から這い上がってくる夕闇にしずしずと覆われはじめていました。彼は蝋燭を手にしていましたが、天井近い高みから見下ろすわたくしの眼には、彼の顔があたかも、膨大な古文書を収めた書庫の闇から浮かび上がる伝説の登場人物のように思われました。
もちろんウィー・ブラウン・エルスぺスのような白いひとではありません。アンガスのふだんは温和な灰色の両目は、そのとき蝋燭を映してなのか、古代の松明の残り火のように、かすかな、でもはっきりとした光をたたえているように見えました。
「最初にあの子をわたしのところに連れてきた浅黒い男たちは誰だったのかしら? あの日、荒地で。覚えているわ。彼らは蒼ざめ、凶暴で、勝ち誇った様子をしていた。破れて
血まみれの服、折れた短剣と刀。でも喜ばしげな顔をしていた。誰だったの? あれは」
「私は見なかった。霧が深かったので。きっと興奮した狩人たちだったんです」
「思い出そうとすると奇妙な気持ちになるの。わたしはまだ赤ちゃん同然の幼さで、まるで忘れかけた夢を思い出そうとするみたい」
「おやめなさい。その写本をこちらへよこしなさい。わたしといっしょにマクネアン氏のために作った文献リストを見ましょう」
 わたくしはぼんやりした気持ちでアンガスの傍に降りました。床に足がつくと、それまで夢うつつのまま中空に浮かんでいた自分がアンガスの属している現実に戻って来た気持ちになれましたが、蝋燭を手にしたアンガス自身のほうが、今度はわたくしより深い物思いに、なお浸っているように感じられました。
 書庫を出て、晩餐に供えて着替えるために階上の自分の部屋に行こうとした時、アンガスはゆっくりと、低い声で言いました。
「今まであなたに打ち明けようかと、ジーンと二人して迷いに迷ったんです。ヘクター・マクネアン氏は凡庸な人物ではない。我々は彼と母堂とお嬢様との親交を心から喜んでいます。マクネアン氏は凡人には確信できないことでも決着をつけることができる俊敏で立派な御仁だ。きっとその母上もね。私は氏に、ジーンは母堂に、私たちが今まで守ってきたことを話すつもりだ。我々は正しかったのか、そしてこれからどうすべきなのか、と」
「あなたとジーンは、ずっと昔から大きな秘密を知っていたのね。でもこわくないわ。なぜなら、あなたがたはそれがわたしを傷つけるような秘密だったら、決して明かさずに、墓の中まで持っていくでしょうからね」
 アンガスはわたくしの両手をとり、くちづけをしました。彼は感極まったようにつぶやきました。
「お嬢様。ああ、お嬢様」
 けれども、それ以上は何も言いませんでした。わたくしは彼が手を放すと、その部屋を出てゆきました。


 10 親子の訪問

 マクネアン親子は約束の当日、午後おそくにミュアキャリーに到着しました。彼らをテラスに案内したときは、夕陽が荒地を紅く染め上げ、城壁近い粗造りの望楼も薔薇色に染まっていました。あたりには眠り前の小鳥たちが歌う美しい夕べの調べが流れており、眼下の庭園の眺めはさながら宝石をちりばめた絢爛たるタペストリーのようでした。
「ここか! ここなんだね」
 おもむろにあたりを見渡してヘクターが言いました。それから続いて、
「あなたを育んだのはここなのねイザベル」
 彼の母親がきれいな声で静かに重ねました。
この荒野を深く静かに味わい、ここがわたくしの一部であり、わたくしがここの一部であると考えてくれるとは、この方たちはほんとうに天使のようでした。
 やがて月がさしのぼり、夏の陽炎とそよ風のせいで、眼に映る月あかりはひたひたと優美にふるえていました。微風はヒースや羊歯をやさしくゆさぶり、ナイチンゲールがあの夜、林檎の樹下のお茶会の夜と同じように鳴いていました。小夜鳴鳥の歌はミュアキャリーの高原に棲む精霊の声に違いないのでした。
 林檎の樹の下でマクネアン夫人からヘクターの死を予告されてから、わたくしは彼を、地上を歩く天使長のように感じてきました。きっと、そのときのわたくしの感じ方は大袈裟だったに違いありません。
 ヘクターは自分の身にいつ大きな変化が起こり、この地上とはまったく別なところで目覚めるとも限らないと知りながら、ごく自然にわたくしたちの間を歩き回り、仕事をし、友人たちと会って談笑していました。
 もし彼が普通の男性で、わたくしもまた普通の娘であったら、愛する人を見舞う容赦ない運命の事実を聞かされたその夜から、悲しみにうちひしがれ、泣き暮らしたあげく、自分も死んでしまいかねなかったでしょう。
 けれども彼もわたくしもそうはなりませんでした。なぜなのでしょう? 当のヘクターがいかなる嘆きにもとらわれないのだから、二人の間に悲しみが訪れることはありえない、と感じていたのです。彼が死ぬなんてこと自体、ありえない。――死ぬなんて。もし彼を見ることができなければ、それはただ、わたくしの眼力がそれだけ強くも鋭くもないせいなのです。死――それは存在の変化のひとつの姿に過ぎないのでした。わたくしは何事かを待ち受けている気持ちでした。いつまでもヘクターの傍に居たかった……。
「あそこですわ。ウィー・ブラウン・エルスぺスが初めて連れてこられたのは」
 指さす荒野のその一帯には、針金雀花がまっさかりで、明るい月光の中で、大きな金の塊が丘のように盛り上がって見えました。
 椅子にもたれてくつろいでいたヘクターは背筋を伸ばしてそちらを眺めやり、
「明日案内してもらえないかな。そこを見たいとつねづね思っていたんだ」
「明日の朝早くはどうかしら? そのころでしたら霧がたちこめているでしょうね。あの日のようにね。とても神秘的で美しいわ」
「願ってもない! 朝出かけよう」
「今夜はあのウィー・ブラウン・エルスぺスがとても身近に感じられるの。ふしぎね。しばらく前、わたしは書庫の高い書架にある写本を発見しました。アンガスはそれが残酷な物語なのでわたしに見せまいと隠したのだと言っていますが。イアン・レッド・ハンドとダーク・マルコムとの間の殺戮。マルコムの子はウィー・ブラウン・エルスぺスと呼ばれていたの。たぶん五百年ほど前に。わたしは自分が幼女のころいっしょに遊んだ幼馴染のことを思い出すと、とても奇妙な気持ちになるの」
「あなたと遊んだ子は、きっとその中世の姫君の名前を受け継いだ子供なんだろう。実を言うとちょっと驚いたけどね」
「マルコムの娘は……かわいそうに、心臓から血を流し、茶色の髪を父親の胸に振り乱して! ああ、今思い出したわ。わたしのあの子もドレスの刺繍飾りに大きな染みをつけていたわ。彼女はそれをじっと見ていた。どうしてこんな染みがついたのかしら、といぶかるように。あの子は胸の染みを青い花をつけた釣鐘草で隠したわ」
 荒野の丘にむらがり咲く金雀花は月明かりを映す透明な水たまりのように見えました。幼いころ霧の中でかくれんぼをした草むらにウィー・ブラウン・エルスぺスが今も潜んでいそうな気持がしました。
何気なく顔をあげると、わたくしのほうをじっと見つめるヘクターのやさしいまなざしに出会いました。それはひたむきで、ふしぎな、やさしいまなざしでした。


 11 霧の中

 夜明け前に起きだすと、荒野は期待通り、神秘的な装いに包まれていました。城の周囲はたいそう柔らかな、雪のような白さの渦巻く霧に覆われ、霧が薄くなったところには黒ずんだ樅の木が聳え立ち、あるかなきかの風につれて、霧は濃く薄く、とぎれたかと思うと、また漂い流れていました。それはヘクターに見せてあげたいと願っていたとおりの光景でした。
 小道に続く垣の廻り木戸に出るためにわたくしたちは猟園をつっきってゆきました。ここの一部はかつては荒野で、ほそい樅ノ木とヒースや金雀花の鬱蒼たるしげみで薄暗かったので、わたくしが道をよく知っていなければ、きっと霧の中で迷ってしまったことでしょう。純白の霧の中で羊歯とヒースの湿った薫香が鼻を突き、さらさらと歌う小川のせせらぎを聞きながらわたくしたちは丘へ登る坂道を歩きました。
「この辺りにはこの世ならぬ美しさがあるね」
「わたしたちは幽霊かもしれませんわ。霧の中に隠れているものたちの仲間なのかも」
「そのうちの一人に出会っても、あなたはこわがったりしないでしょう」
「ええ、きっとね、自分達は似たもの同士だと思うでしょうよ。彼らの声が聞こえるなら、彼らは、きっと、わたしが知りたいと思っていることを教えてくれるはず」
「あなたの知りたいことは何? イザベル」
 低い声でヘクターが尋ねました。彼の声や話し方は母親によく似ていました。
「みんなが知りたいと思っているに違いないことです。真に、自由に、目覚めていること。新しい状況に備えること。驚異の只中に自分自身を見出すこと。過去現在未来のどこにも恐れの責苦なしに美を見ること。その美、とは竪琴と冠を帯びた天使ではなく、今わたしたちが目にしているような美、という意味ですが。
 恐れる理由など何もありません。人はみな、恐れすぎています。わたしたちは、何を、いかに、恐れるべきかを知らないのよ」
 わたくしはヒースの藪の間で立ち止まり、両腕をひろげました。
「こんなふうに、自由にね! わたしが一番だいじに思うのは自由、かがやかしくすばらしい自由だわ!」
「自由か! そう、自由だ。いっさいの恐れから解き放たれた自由だ!」
「美しさとは。わたしはこの荒野に数限りなく立ち、そのたびに身震いするような美を見てきました。人の魂はもはやそれ以上を望まないでしょう。《丘の中腹》では自らが美の一部であり、美は陶酔だと知りました。美は自由だと」
「そう、自由だ」
 彼は繰り返して答えました。
 そこから散歩の目当ての針金雀花のしげみにたどり着くまで、わたくしたちはもう一言も話しませんでした。言葉は不要だったのです。彼はわたくしを知り、深く理解し、身近に感じていてくれる。それはヘクターと母親との間に通う感情と同じものでした。
 前日の夕方に見た金色の輝きのところまできたとき、そこはふたたび黄金の炎のように燃え上がりました。ほんの一瞬でしたが霧が晴れて、金雀花の上に朝陽が降り注いだからでした。
 金色まばゆい炎のなかにたたずんでいると、ヘクターは辺りの美しさに棒立ちになり、ゆっくりと両手をひろげました。朝陽と花々の照り返しで彼の全身と顔は天と地の両方から明るく照らされていました。わたくし自身の姿も彼と同じだったことでしょう。
 その輝きはすぐにまた白い霧に閉ざされ、花々と羊歯植物の香が霧の流れに濃く漂い始めました。ふとわたくしは霧の中に、小鳥のさえずりとは異なる聞き馴れた音色を聞きつけました。
「あれはバグパイプの音だわ。フィアガスね。こんな早朝に荒野で、いったいどうしたこと?」
「ぼくには聞えない。きっと遠くに違いない。小鳥の声ではないの?」
「いいえ、バグパイプよ。たしかに変った曲だけれど、小鳥ではないわ」
 霧の彼方を見やると、透けて見えるように薄くなっている荒野の上のほうで、一人の男がバグパイプを演奏しているのがわかりました。間違いなく城のフィアガスでした。彼は牡鹿のような足取りでヒースの間を誇らしげに歩いてこちらにやってきました。
「フィアガス! どうしたの?」
 彼は丘の上からこちらをふりかえり、にこにこと笑いかけ、礼儀正しく帽子をとって挨拶しました。それからすぐに彼は再び霧の中に紛れ込んでしまったのでした。
「こんな時間にフィアガスが荒野にいるなんて。返事もせずに行ってしまったわ」
「どんな様子だったの?」
「青白かったわ。いえ、具合が悪そうだったわけではなく、陽気に笑っていたのだけれど、真っ白な貌をして、まるで《白いひと》のように見えたの」
「ぼくが夕べ彼に会った時、彼が白いひとでなかったのは事実だよ」
 ヘクターはわたくしの手をとり、じっとこちらを長い間見つめました。彼の真剣な凝視にわたくしはきまりがわるくなりましたが、ヘクターはわたくしの手をしっかりと握ったまま離そうとはしないのでした。
「可愛いイザベル、不思議なイザベル」
「わたしがふしぎ?ですって?」
「そう、神に感謝するよ」
 ヘクターはわたくしの手にくちづけをすると、
「ぼくのことは母から聞いたね?」
「はい」
「ぼくがあなたを愛している、ということも」
「ええ、わたしもあなたを愛しています。あなたやお母様と、もっと早く、いつも一緒にいられたなら、わたしの人生はこの上なく幸福だったことでしょう」
 ヘクターはわたくしを抱き寄せました。粗いツィードの上着の胸にかたく抱きしめられながらわたくしは言いました。
「いつ出会っていたとしても、きっとその瞬間から、わたしの心と魂はあなたがたお二人のものだったわ。わたしは二度と孤独になることはなく、何が起ころうとも、優しい喜びを感じるばかりだったことでしょう」
「何が起ころうとも? イザベル。今、この瞬間何が起きても、あなたは喜びを感じるだけなんだね。あなたなら大丈夫だ。丘の中腹を覚えておこう」
 顔をあげてわたくしは囁きました。
「ええ、丘の中腹を忘れないで、忘れないわ」


 12 自由に

 城へ戻り始めるころ、霧はふわふわとかき消え、荒野はなめらかな金色の朝日にひたされていました。城門をくぐると犬の吠え声が聞こえました。それはさっき霧の向こうへ歩み去っていったフィアガスの飼い犬ギーラトでした。
「ひどく吠えているわね。どこかへ閉じ込めているの?」
 わたくしたちを迎えに出た従僕は、生真面目な顔で少しためらい、
「いかにもギーラトでございます。お嬢様、あれは主人を探し求めて吠えておりますんで、しかたなく小屋に閉じ込めたのです」
「フィアガスならもう城に着いているはずよ」
 そこにアンガス・マカイアが現れました。彼は小脇に何冊か書物を抱え、たった今書庫から出てきたばかりの様子です。アンガスはわたくしの腕に触り、従僕に代って口を開きました。
「お聞かせするに忍びないが、フィアガスはいい奴でした。頼りになる召使でした。彼は昨夜母親に会いに出かけ、夜が更けてから荒野を帰ってきたんです。きっと道に迷ったんでしょう。あけがた、羊飼いが山の中の湖で彼の遺体を発見しました」
「そんなはずないわ! わたし、ついさっき彼を見たのよ。霧の中で、丘の上をバグパイプを吹きながら通り過ぎたわ。いままでに聞いたこともないような陽気な曲、愉快な、すばらしい音楽を吹き鳴らしながら、彼は」
 わたくしは隣のヘクターに視線を移しました。その時その場に彼もいたのですから。
「ヘクター、あなたも見たでしょう? 聴いたでしょう? フィアガスと彼のバグパイプを」
「いや、ぼくは見なかった。ぼくには見えなかった。音楽も聞こえなかった。だけどあなたははっきり、見て、聴いた」
「そうよ、とてもはっきりとね」
 アンガスとヘクターが蒼ざめているのに気付いてわたくしはうろたえました。二人の表情は優しかったものの、ありありと恐れの感情が見えたのです。
「フィアガスは数十ヤード先にいて、笑顔で、まるで白いひとびとのような肌のいろをしていたわ」
 わたくしはそれ以上続けることができず口をつぐみました。わたくしの説明へのヘクターの同意はなく、かといって否定もなく、ただ静かな沈黙がわたくしを取り巻いていました。アンガスが再びおだやかに言いました。
「お嬢様、ジーンもわたしもウィー・ブラウン・エルスぺスを見たことはありません。田が、あなたは見た。あなただけはいつも、他のひとには見えないものをしょっちゅう見てきたんです、しょっちゅう」
「他の人には見えないですって? それでは、わたしの見たものは何なの?」
 混乱してしどろもどろのわたくしをアンガスはいたわるように言いました。
「あなたは御自分で見た人たちを《白いひとびと》と呼んだのですよ。わたしとジーンはそのことをお嬢様がとても幼いころからわかっていたんです。あなたが赤ちゃんだったころ、あなたの顔を見た高齢の羊飼いは〈この子の目は透視する目〉と言いました。透視する目、とは古代高地人の俗説でしたが、あなたがウィー・ブラウン・エルスぺスと出会い、彼女を連れてきた浅黒い男たちのことを話したときに、わたしもジーンも俗説は真実だと信じるに至ったのです。ダーク・マルコムの伝説をわたしは知っていました。もちろんあなたは何も知らなかった。しかし幼いイザベルがわたしたちに話した少女は、まさにウィー・ブラウン・エルスぺスとしか思えませんでした。
 わたしとジーンはあなたの視力のことを秘密にしようと決めました。親族に対しても、です。話したって誰も信じないでしょうし、あなたはきっと異常な子どもとして嫌悪されてしまうでしょうからね。だから、あなたにとって、あなただけに見えるさまざまなことどもが、ナンセンスではなく、むしろナチュラルであると考えられるように努力したんです」
「二人ともずっとわたしを守ってくれたのね。何となくわたしは気付いていました」
「お嬢様、そうでしょうとも。あなたの周囲で起こるすべてのことが、自然で、ナチュラルであることが肝要だった。
 だが、わたしはしばしば自問自答したものです。あなたとも話し合いましたね。自然、とはいったい何なのか。何が自然で何がそうではないのか? 人間はまだすべての自然法則を知っているわけではありません。自然は豊かで、偉大で、無限だ。人間の眼には新しく見えることを書き付けた巻物を絶えず繰り出してくる。だがそれは新しくはない。人間の知らないはるか太古から、それはすでに書かれていたが、人間にはわからなかっただけのことだ。法則は破られることもなく、新しく生まれることもない。ただ、その巻物を読み取る、より強靭な眼が生まれ、それが新しく思えるだけのことなのですよ」
「そうだったわ。アンガス。わたしとあなたはいつだったか『聖書』のイザヤ書にある詩句〈見よ、先に予言せしことは既に成らんとす、我また新しきことを告げん〉とは、きっとその自然の繰り出す巻物が次々とときほぐされていくにすぎない、という意味なのでしょう?」
「そう、そのとおり。『聖書』には意味深い格言がたくさんあるのに、誰一人として耳を貸そうとしない。私ら人間は自分たちを完全無欠だと考えている。だが見るがいい、百万人人類がいたとして、その中のいったい幾人が美と健康、大いなる活力を兼ね備えているだろうか? しかも神の掟は反故にすべきもの、刻々と粉砕すべきものと考えているのだ。調子の狂ってばかりいる時計をわざわざつくる者がいるものか! ときが経てばもっといろいろなことがわかる。だから、今こそ、神の掟に思いを凝らすほうがよい。これがわたしらの精神の為すべきことなのだ。
 ところで、この神の御心以外の〈精神〉とはなにか? よく考えてみるなら自明の理。人の魂は眼よりもはっきりとそれを見る」
「魂が見るのね? わたしが見たもの、それらを見たのは、眼ではなく魂だと?」
「そうです。イザベル、あなたを産み落とされたとき、母上はこの世の外から呼びかける父上の声に耳を傾けておられた。その父上の声が、あなたに神秘の道を拓いてくれたのですよ」
 そこでヘクターが口を開きました。
「イザベル、あなたはぼくに、ロンドンへ来る途中の駅で乗り込んできた喪服の御婦人の膝に白い子がしがみついていたと言ったね」
「ええ、ええ、だけど母親は気付かなかった。自分自身の悲嘆にうちひしがれていて」
「いや、彼女には見ても見えなかったんだ。ぼくもそうだ。ぼくたちには見えない。しかしあなたには見えたし、見える。それから夜、イアン卿のパーティで再会したとき、あなたはウィー・ブラウン・エルスぺスについて話をした。ぼくは顔には表さなかったが内心仰天したんだ。ぼくはしばらく前に、スコットランド北部のある族長から、その伝説を聞かされたばかりだったからね。ところがあなたはその子と遊んだという。嘘を言っていないことはすぐにわかった」
 ヘクターの声はしっかりとして、熱を帯びていました。
「ぼくは帰宅するなり、すぐあなたのことを母に話した。母はぼくが心臓発作で逝ってしまうのを恐れ、苦しんでいる。ぼくは普通人にはない透視力を持ったあなたを母にひきあわせたら、彼女の哀しみはやわらぎ、すっかり消えてしまわないまでも、ぼくの存在が彼女の世界から失われてしまうのではないということで慰められるのではと考えた。
 あなたの透視力は林檎の樹下のお茶会ではからずも立証された。母は一目であなたを気に入っていたが、庭園散策の時に、彼女の好意は決定的になった。ル・ブレトン氏を覚えている?」
「ええ、著名な画家。たしか最近娘さんを事故で亡くされたという」
「そうだ。あなたはアイリスの花の前でブレトン氏の腕に手をかけて寄り添っている白い少女がいたと母に告げた。しかし母には見えなかった。それはブレトン氏の娘さんだった」
「そうよ、彼女はほほえんで父親を見上げていたわ。心配そうに、嬉しそうに」
「《白いひとびと》はいるんだ。あなたにだけそれが見える」
 断言するヘクターは爽やかな笑顔を見せました。少し離れたところに立っているアンガスも微笑んでいたが、彼のほうは微笑み終わった次の瞬間泣きだしそうな表情でした。アンガスはヘクターの余命少ないことを知っていたからです。わたくしも。
 でも、それがどうだというのでしょう。わたくしたちはいずれ年を取り、病気か、不意の事故か、でこの世を去るとしても、その次の瞬間には丘の中腹へ行くのです。足の裏には草の感触もないのに、翼も冠もないのに、わたくしは限りなく晴れやかな気持ちで月明かりを浴びていました。そのときわたくしはただのイザベル、だけど自由なイザベルでした。
 マクネアン親子はミュアキャリーで三週間を過ごしました。それは楽園の日々にも似た素晴らしい美しい時間でした。太陽と露のもたらすあらゆる悦び、愛とやさしさと理解を、わたくしたちは分かち合いました。
 その日、わたくしたち三人は昼の間ずっと荒野で過ごしました。城に戻ると、夏の夕陽のこの世ならぬ耀きや、深い陰影の刻々と移ろいゆく景色のすばらしさに心打たれ、きよらかな夏の宵闇が大地をすっかり覆うまで、そのままテラスに座っていました。
 マクネアン夫人とわたくしは晩餐にそなえて着替えるために中に入ったとき、ヘクターは目の前の静寂の美に心打たれ、その場を去りがたい風情でテラスに腰をおろしていました。
 マクネアン夫人よりも先に衣裳を整えたわたくしは、屋外の椅子に座っているヘクターの寛いだ姿を見たくて、もう一度テラスに戻りました。ナイチンゲールのさえずりがもう始まっていました。わたくしは小鳥たちの歌声に自分の気配を隠し、足音を忍ばせて後ろから近寄りました。そうっと手摺にもたれかかり、声をかけようと彼の方に身をかかめました。
 次の瞬間、わたくしは声を忘れました。
 まじまじと彼を見つめて……。
 彼はそこに居ました。
 でも、何かが違っていました。
 わたくしには、彼が逝ってしまった、という感情すら湧きませんでした。
 でも、何かが違っていました。
 あくる日の夕方まで、わたくしもマクネアン夫人もテラスには出ませんでした。わたくしたちは窓から荒野が一望される寝室でヘクターの傍に座り、わたくしは夫人にぴったりとよりそっていました。一昼夜のうちに何が起こったのか、わたくしは語る言葉を持ちません。
 翌日は前日よりもさらに美しい日没が見られ、宵になるとわたくしは無意識のうちにテラスへ出てゆきました。夫人の傍を片時も離れないつもりでしたのに、いつのまにか、ふらふらと足がそちらへ向かってしまったのです。
 テラスから荒野のはるか彼方を眺めやり、眼は自然に丘の中腹を視界のなかに探し求めていました。きっと、そこにヘクターは佇んでいるのです。あるかなきかのそよ風に吹かれて、静寂そのもののような夕闇に包まれて、あるいはほのぼのとした霧に守られ、もしかしたら月光にひたされているかもしれない。彼は自由になって、うっとりと、世界そのものと一体となっているに違いない、と。
 ふとわたくしはゆっくりとふりかえりました。少しも動揺しませんでした。
 以前にと同じような姿勢で、身をかがめ、こちらを覗きこむ優しいまなざしを向けて、ヘクターが微笑んでいました。
 そのときから、わたくしは何度となく彼の姿を見ています。
わたくしが彼を見るとき、彼はいつもそこに立ち、微笑んでいます。

              ( 了 )

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   白いひとびと

 1  ミュアキャリーに生まれる

 あのような体験をしたのは、もしかしたらこの世でわたくしだけなのかもしれません。自分の経験と同じ事件が他のひとの身にふりかかった、ということは、これまでついぞ聞いたためしもないのですから。わたくしの生涯をふりかえると、それらの一連はじつに奇怪な出来事だった、としみじみ感じます。
 わたくしはスコットランドの荒涼たる僻地ミュアキャリーに城主の子供として生まれました。中世に建築された大きな城はヒースの繁みの点在する岩山の一角に、厳めしい銃眼つき胸壁をめぐらしてそそりたっております。わたくしは生まれ落ちたときからこの城の主で、スコットランドおよび全イングランドに枝分かれしているおびただしい氏族を統べる女族長となったのでした。
 それと申しますのも、わたくしを出産すると同時にうら若い母は息をひきとり、城主であった父はといえば、その何か月も前にすでに亡くなっていたからなのでした。
 両親はともに若く、スコットランドきっての美男美女であったそうです。二人は結婚すると同時にミュアキャリーにやってきて、新婚の楽しい一年を過ごしました。釣りに乗馬、荒野の散策、あるいは書庫の炉辺で、古書を
若い城主夫妻の新生活の介添えをいたしましたのは、後にわたくしの守り役となった遠縁のアンガス・マカイア、それにやはり一族の女、ジーン・ブレイドヒュートでした。両親の生前のよろこばしいさまざまな逸話は、この賢明なふたりの縁者がわたくしに伝えてくれたものなのです。
 母がわたくしをみごもって間もないある晴れた十月の昼下がり、妻を残して友人たちと狩りに出かけた父はものいわぬ姿となって戻りました。父はヒースの繁みに足をとられ、そのはずみに発射した自らの銃弾に倒れたのです。変わり果てた姿の夫が友人たちに運ばれて城門に近づいてきたとき、母は城の礎をなす岩の張り出したテラスで、城を訪れた婦人客たちとともにゆったりと座り、おしゃべりに打ち興じておりました。
そのテラスからは、幾重にも坂をつらねる荒地の紫けむる世界が一望されました。樅の木の担架に亡骸を乗せ、ヒースの繁みをぬってうねうねとゆっくり進んでくる一行を眺めたとたん、母は弾かれたように立ち上がり、あたかも跳びかかろうと身構える若い女豹のように、石つくりの手摺にしがみついたそうです。母は、担架を囲んだ男たちが一様にうなだれ、帽子を被っているものが一人もいないことがはっきりとわかるほど行列が接近するまで、声もたてず身じろぎもしませんでした。それからごくゆっくりと、
「みんな……帽子を脱いでいるわ」
 と言ったかと思うと、落石のようにテラスにくずおれたのでした。
 母はそのまま意識を失い、ロンドンから駆け付けた名医たちはアンガス・マカイアとジーン・ブレイドヒュードに硬直症(カタプレシー)だと告げました。眼も開けず、声もなく、蒼ざめ冷たくなって倒れた母はわたくしが生まれたことも知りませんでした。
 わたくしを育てた保母兼家庭教師のジーンは、わたくしが成長してからこう語りました。
「お母様は、はじめ死んだようになっていらっしゃいました。まるで最初から命を持たないひとのようにね。ところが時計の針が十二時をまわり、お父様の死の翌日、新しい一日が始まったとき、そのお顔にかすかな変化が生じたのを見て、わたしはベッドに屈みこんだの。べつに血の気が射したのではなく、顔に変化の表情が動いたわけでもありません。わたしは今までそれを、男であれ女であれ、誰にも話さなかったわ。なぜならそんなことを口にしたら気がふれたと思われてしまうでしょうから。でもイザベル、あなたにはお話ししましょう。わたしにはね、あなたのお母様が何かに耳を澄ませているように見えたの。じいっと、ね。遠くはるかな物音に。
 石のように冷たく蒼ざめたお顔に、やがてほんのりと安らぎが、それからはっきりと悦びの色が浮かんだの。お母様はあなたを生み落すまでその硬直した肉体にとどまっていらっしゃいました。そうして、あなたをこの世に送り出すと同時に力尽きてしまわれたのよ。
 ねえ、イザベル、わたしはわかるの。お父様が亡くなられたとき、彼の魂はその体からあまり遠く離れていかなかったのよ。そうしてすぐに、御自分の心臓と同じくらいにたいせつなお母様に呼びかけ始めたの。それがお母様の聞いた声だったのよ。そうして、その次にはきっと夫の姿が見えたのね。何故ならお母様のほうも半ばこの世を離れていたから。そして彼女は夫が自分を待っていてくれ、自分と一緒でなければどこへも行かない、と知ったの。あなたのお母様は身じろぎもせず固まってしまったので、お医者様は一度ならず死んだものと考えたほどでしたが、そうではなかったの。お母様はお父様の魂の呼びかけを絶えず聞きながら、イザベル、あなたのためにだけ、しばらくこの世にとどまっていらっしゃったのよ」
 

 2 ウィー・ブラウン・エルスぺス

 先祖伝来の古城に、わたくしは同じ年頃の友人を持たず、召使と従者に囲まれて育ちました。幼女のころ、わたくしは自分が重要人物だとも思わず、氏族の女族長であることの
意味も弁えませんでした。いつも城で暮らしていましたが、城の一隅しか知らず、ここにはごくわずかな住人しかおらず、城の住人は行きずりの人すべてから挨拶を受けるものだとばかり思いこんでおりました。また、あらゆる幼い少女にはテラスを行きつ戻りつするバグパイプを吹く従者がついており、客たちが大食堂でもてなされるときは、バグパイプが演奏されるものとばかり思っていました。
 たまにロンドンや南イングランドの親切な親類縁者が、わたくしの遊び相手になりそうな小さい子供をわざわざ連れて訪れることもありましたが、そうした都会っ子たちは、荒野に聳える中世以来の暗く広大な城で、すでに族長として周囲の大人たちに重々しくかしづかれているわたくしのことを、まるで自分たちとは毛色の違う異人種を眺めるような壁のある目で見据え、よそよそしく黙りこくったまま、訪問の時間が過ぎてしまうのでした。
 そのため、幼児期のわたくしのお相手は守り役のアンガスと家庭教師のジーンだけでした。彼と彼女は心からわたくしをいつくしみ、三人で毎日のように荒地を散歩したものです。 
 アンガス、ジーン、そしてわたくしは、荒野につきものの天候の変化を恐れませんでした。もしも驟雨や霧を懸念していたら、到底荒野のピクニックなどは楽しめません。保温と雨除けの準備はいつもぬかりなく、一族伝統の織模様の格子縞の肩掛けを持参したものです。
 唯一の幼馴染ウィー・ブラウン・エルスぺスに出会ったのは、たぶん六、七歳のころでした。その日も、散策の最中、ふいに霧がたちこめてきましたが、わたくしたちは戻ろうとは考えませんでした。そのうち晴れるだろうと考え、霧の湿気をできるだけ避けて岩陰に腰を下ろしてやりすごそうとしました。ほんのしばらく前、出発したころには、陽射しが燦々と降り注いでいたからです。
 待っていることに退屈したわたくしは、ふたりのお守から少し離れて一人遊びを始めました。わたくしは冒険好きな幼児ではありませんでしたが、霧は大好きでした。荒地独特の濃い霧に包まれると、恐怖よりも安らぎを覚えるのでした。白くてふわふわしたものに包み込まれる感じが好きだったのです。
 わたくしと守り役たちの距離を、じきに霧が厚く隔て、お互いの姿は見えなくなりました。ですがわたくしも彼らも驚きませんでした。霧の中でイザベルの一人遊びはいつものことだったのです。
 ふと、わたくしの耳にくぐもってゆるやかな馬の蹄の音が聞こえてきました。それから騎兵が通り過ぎるときに聞える武器や鎖のガチャガチャ鳴る音にも気づきました。いろいろな音が何の音なのか見当がつくとすぐに、白い霧を分けて、武装した騎兵の男たちが現れました。男たちは粗野で無骨で、衣服や鎧は敗れて薄汚れ、体中のそこかしこに血糊が飛んでいる者も見えました。いずれも蒼白な貌をして、携えている剣や短剣は激闘のために折れ、刃がぼろぼろに欠けていました。     
領袖とおぼしき男は、長身痩躯の浅黒い人物でしたが、地肌の黒さにかかわらず、やはり彼の顔色は蒼白な印象でした。彼は黒い馬にまたがり、きらびやかな衣装をまとった七歳くらいの小さな女の子を左の腕にしっかりと抱きしめていました。少女の服は茶色、髪も茶色、仔鹿のようにつぶらな瞳も薄茶色でした。少女の左胸のあたりには暗赤色の大きな染みがひろがり、男は手のひらを大きく広げて、少女の胸の染みをどうにかして隠そうとしているようでしたが、わたくしの眼にも、その赤い滲みは男の手からはみ出して見てとれました。
 黒い馬はわたしの目の前で立ち止まると、馬から降りた長身の大男はわたくしにじっと目をとめ、屈みこむと、腕に抱えていた少女をそっとわたくしの隣に下ろしました。
 わたくしは少女を一目見て好きになり、相手もこちらが気に入ったのがわかりました。少女とわたくしがお互いに微笑んで挨拶を交わすと、その瞬間男はひらりと再び黒い馬にまたがり、一隊をひきつれ、くぐもった蹄の音をたてて白い霧の中へ駈け込んでしまいました。
 わたくしは騎馬隊の登場も、長身痩躯の男も、そして茶色い髪の少女が残されたこと、何一つ不思議とも思わず、自分に同じ年頃の遊び友達が初めてできたと心得、霧の中で楽しく遊び始めたのでした。ヒースや金雀花の繁みのなかで、わたくしと少女はすぐにうちとけ、長いこと一緒に遊びました。少女は最初に、自分の左胸にひろがった暗赤色の染みを隠すために、周囲に群がり咲く青い釣鐘草の一束を摘み取り、ベルトに挟みこみました。
 それにしてもわたくしたちはどんな遊び方をしていたのでしょう? それは言葉でうまく説明することはむつかしいのです。霧と草むらの中で、何か不思議なことがおこるので、わたくしたちは一緒に逃げて、架空の城に隠れるような遊びだったかしら。
 その遊びの途中で、少し霧が晴れてきたころ、少女は針金雀花のこんもりとした大きな藪に駆け込んで、それきり姿が見えないので、わたくしは諦めてジーンとアンガスのもとに帰りました。彼らに会うなり、わたくしは、
「あの子、どこへ行ってしまったの?」
 にこにこしていたアンガスとジーンは顔を見合わせて黙りました。ジーンは蒼白になり、すこし震えているようでした。
「あの子って、誰?」
「あたしと遊ぶために男の人に連れられてきたの。茶色い髪、仔鹿みたいに薄茶色の眼をしていたわ。黒い馬に乗った男の人の額には、星がついていたわ」
 わたしは男の傷痕のあった額のあたりを自分の顔で指し示しました。とたんにアンガスは顔色をはっきりと変え、だしぬけに叫びました。
「それはグレン家のダーク・マルコムとウィー・ブラウン・エルスペスだ」
「でもあの子は色白よ。とても白いの。あの子はどこに行ってしまったの?」
 こちらに差しのべられたジーンの腕がぶるぶる震えているのがわかりました。彼女は動揺を抑えながらわたくしを抱き寄せ、ささやきました。
「そうね、色の白い子よ。また来ますよ。何度でも来るわ。でも、今はもうあの子は帰ってしまったのだから、わたしたちも城に戻りましょう」
 城へ戻る道すがら、賢い大人たちはわたくしに何ひとつ問いただしたりしませんでした。おかげでわたくしは、不可思議な出会いをしたという奇妙な違和感なく、ただ嬉しい思いだけ胸に残すことができたのでした。ただ一言アンガスはさりげなくこう尋ねました。
「その子は話しかけてきたの?」
「いいえ」
 そのとき初めて、わたくしは自分と少女とがひとことも言葉を交わさなかったことに気付きました。言葉なしでもわたくしは少女の言いたいことがわかりましたし、ウィー・ブラウン・エルスぺスもそうでした。そのほうがすてきだったのです。


 3 幼年時代

 ジーン・ブレイドヒュートの言ったとおり、それから少女は自分から城へ何度もやってくるようになりました。思い返せば、幼年時代、エルスぺスは数日おきに現われ、わたくしたちは最初の出会いの日と同様、まったく言葉を交わすことなく、長い時間楽しく遊んだのです。もっとも、少女を抱いていたいかめしい長身の男や、歴戦の騎馬隊は二度と見ることはなかったのです。
 わたくしはまだ七歳になるかならずでしたから、この年頃の子供が一般に遊び相手の素性などまったく気にしない例に違わず、わたくしは少女が荒野のどこに住んでいて、どんな家族に囲まれているのかなどといっこうに知りたいとは思いませんでした。彼女が不意に城内の子供部屋に現われたときも、わたくしはちっとも驚かず、それが当然予定されていた登場であると弁え、無邪気に喜びました。
 少女がやってきたとき、ジーンはさりげなくわたくしたちを二人きりで遊ばせました。いつもわたくしの傍についている子守女を、エルスぺスが来ているときだけは城内の別棟に下がらせたのです。それがなぜなのかわかりませんでしたが、少女はジーンの気配りを喜んでいるようでしたし、わたくしも、なぜかはわかりませんが、二人きりのほうが安心できました。
 二度目にやって来た時、初対面のきらびやかなドレスではなく、少女は落ちついた青か白の服を着ていました。清楚な服には左胸の赤黒い染みはありませんでした。衣裳が変わったからといって、相手が仔鹿のような眸と抜けるように白い肌、とても綺麗に整ったちいさな顔のウィー・ブラウン・エルスぺスであることに変わりはありませんでした。
 少女や、少女を取り巻いていた荒地の騎馬隊の顔面は、一様に冴えた青白い色をしていました。ふしぎなほどの色の白さです。わたくしや、アンガス、ジーン、城の住人や、周囲の村人たちと全く違います。けれどもわたくしは少女と出会って以来、彼女の他にもあちこちで時折、同じような顔色のひとを見かけるようになりましたので、数少ないけれど、世間にはこんなに蒼白なひとびともいるのだと考えるようになっていました。わたくし自身、それに親類縁者の誰一人として、エルスぺスのような顔いろのひとはいなかったのですが。
 十歳になったころ、ふっつりとウィー・ブラウン・エルスぺスは姿を見せなくなりました。わたくしはしばらく彼女を恋しがったものの、それほど深い悲哀はおぼえませんでした。初めて出会ったときと同じように、エルスぺスは荒地のどこかへ行ってしまっただけのこと。そんな感情だったのです。
 変わってアンガス・マカイアがわたくしの家庭教師となりました。彼は博学の士で、書物に囲まれて生きてきたひとでした。
 彼はわたくしに古代ゲール語、ラテン語、ギリシャ語を教えました。城の膨大な書庫に入り、二人して古書をひもといて学んだのです。それは少女の教育方法としては風変わりであり、こうした独特な教育のおかげで、わたくしは以前にもまして風変わりな女の子に育っていたのに違いありません。ですが、わたくしはそんな毎日が好きだったのです。
アンガスとともに学び、わたくしの部屋は四方を本で囲まれた書庫にようになりました。
 いっぽう、ジーンは気立てのよいしっかりした女性で、わたくしの相手を勤めるために申し分のない教育を受けており、アンガスと二人して、わたくしの幼年時代のよい家庭教師でした。古書に埋もれ、数百年来風景や人情に変化のない城の周囲の高原や農場しか知らないわたくしを眺めて、彼女はアンガスに告げました。
「イザベルは古代ではなく、現代に生きているのよ。この世から何も学ばせないのはよくないわ」
 彼女の口調は、まるでわたくしが以前別の世々を経てきて、いつかまた別の世々に移ろいゆくとでもいうように、「この世」という特殊な言い回しを使いましたが、でもそれは彼女の口癖で、誰もその言い方がおかしいとは感じていないようでした。
 アンガスは言いました。
「ジーン、君は賢明な女性だ。君の言う通りだよ」
 彼はロンドンの本屋に現代の最良書を手紙で注文し、わたくしに与えました。現代の書物に触れた当初、わたくしは不可解な世界に突き落とされた気がして困惑し、それどころか怒りさえ覚えたものです。なぜなら、アンガスとともに学び、親しんだいにしへのことがらが、現代の書物の世界においては、もはや忘れ去られた昔の人物の織りなす信憑性のない歴史であるがごとくに言及されているからでした。しばしば、偉大な人物によるもっとも偉大な時代は、史実であったかもしれない単なる伝説として軽視されていました。けれどもわたくしはまだ少女でありながらも、なぜ人が死に、殺され、暗澹たる恐怖を覚えるのかその理由を知っていました。古書や写本を読み漁り、何世紀にもわたって父親から息子へと受け継がれてきた物語を聞かされていたからなのです。
 多くは空疎な読後感しか得られない現代書にがっかりしかけたわたくしでしたが、ただひとり共感できる作家を見出しました。その作家は、世界が自分とともに始まり、自分とともに終わるのだと信じている書きぶりでした。彼は己れがただひとりしか存在せず、しかも、その他すべての人々の一部であることを弁えていました。彼の名前はヘクター・マクネアン。スコットランド生まれですが、諸国を遍歴して暮らしてきたひとでした。


 4 出会い

 ヘクター・マクネアンの著作に接したとき、わたくしは現代書の中から始めて気の合う友人を見つけたと思いました。とはいえ、このひととじかに顔を合わせることがあろうとは夢にも思いませんでした。彼は全世界から称賛される錚々たる作家です。それにひきかえわたくしはミュアキャリー高原の辺鄙な城にひきこもっており、やせっぽちで見栄えのしない容貌、聡明さとも無縁でした。女族長としての責任を果たすために、節目には豪華なイブニングドレスに身を包み、宝石をちりばめた装身具を飾って一族の式典に臨んでも、自分の姿が似合わない晴れ着を着せられた田舎の鼠のように思われるばかりだったのです。
 マクネアン氏のすべての著作をわたくしは繰り返し熟読しました。彼は随筆、詩、そして虚構とはいえ現実感あふれたすばらしい短編小説を著していました。それらを常に座右の書とし、ときには書庫の炉辺に座って小一時間もそのどれかを膝にひろげていたものですが、そうしたことは、とりもなおさずわたくしにとっては、温かで親密な友情のひとときを持つことでした。炉辺のかすかな火明りのなかで、作家はわたくしのかたわらに座っており、わたくしと彼とは言わず語らずのうちに互いに理解しあっているように感じられたのです。それはちょうど、もっと幼いころ、ウィー・ブラウン・エルスぺスと言葉なしに心を通わせ合ったことに似ていました。
 わたくしは尊敬する作家、またひそかな親友として彼の存在を身近に感じつつ、その後の数年を過ごし、その間にマクネアン氏の名声は高まる一方でした。
 ある年の六月のこと、ロンドン在住のわたくしの後見人イアン卿から、土地の管理に関する重要書類にサインするために顧問弁護士と相談の必要ありとの要請をうけて、わたくしはミュアキャリーから後見人の許を訪れ、一週間あまり彼の館に滞在しました。この間は連日のように、族長の親類縁者への義務として沢山の客人と会い、大パーティーに出席したのですが、毎年恒例の、こうしたさまざまなロンドンでの企ては、わたくしがみなの前に顔を出さないために後見人が義務不履行を咎められたり、あるいは族長たるわたくしが不健全な精神の持ち主で、わざとミュアキャリーにひきこもっていると思われないようにするための、イアン卿夫妻の配慮であったかと察せられます。後見人は立派な人物で、夫人も温和な女性でした。
 わたくしは夫妻の配慮をないがしろにしたくなかったので、イアン卿に呼ばれるたびに彼らを訪問し、後見人の望むように振舞っていたのですが、社交場で豪華な晴れ着をまとい、ダイヤモンドの装身具で頭のてっぺんから爪先まできらきらと飾りたてるのは、どうしても好きになれませんでした。
ロンドン滞在中は、どうしてもこの、自分には似合わない仰々しい仮装パーティにいくつも出席しなければならず、それを思うと後見人夫妻の人当りのよさにもかかわらず、ミュアキャリーを出発する気持ちは重くなるのが常でした。
 ところが、その六月にかぎっては、旅立ちにつきものの憂鬱がなく、むしろ心待ちに嬉しくさえ感じられました。大都会ロンドンは高原から出てきた者の眼には、人がひしめきあう絶え間ない喧噪が渦巻き、そこに入ってゆかねばならない自分はただのちっぽけな田舎の鼠で、もみくちゃにされてしまいそうな不安を感じたものなのですが、今度だけはそうした不快感は少しもなかったのです。心の落ち着きと晴れやかさに我ながら驚いたのですが、それは、あとあと起こることになっていた不思議な変化の前兆だったのだ、とのちに理解することができました。
 例によって、ジーン・ブレイドヒュートが旅に同行しました。長い汽車の旅の終わりごろ、ロンドン到着の一、二時間前にわたくしたちの乗っている車両に、一人の男性が乗り込んできて、片側の隅に腰を下ろしました。それからしばらくして汽車は、名高く美しい墓地のある駅に停車しました。ここのプラットフォームには必ずといっていいほど、悲しげな顔と喪服のひとを見かけるのでした。
 その日は、悲哀に沈んだ家族は一組以上おりました。わたくしとジーンの席の反対側に座った男性は、慈愛に満ちた視線で、そうしたひとびとを眺めていました。やがて駅から喪服の婦人が子供連れでよろめくように車内に入って来ますと、彼は立ち上がり、手をさしのべて彼女に自分の席を譲りました。混んではいない車内でしたが、喪服の婦人は泣き濡れて眼がかすみ、その足元が危なっかしくふらついていました。上品な容貌の婦人でしたが、辺りはばからぬ激しい悲嘆ぶりで、見ているわたくしもジーンも胸が詰まるほどでした。きっと彼女は墓地に自分の心も魂も置き去りにしてきたのでしょう。そうせざるをえないほど、愛しい亡骸を葬ってきたのです。
 わたくしは、彼女が弔いをしてきたのは彼女の子供の墓で、そこを立ち去るときに、彼女は限りない孤独に突き落とされたのだということが、はっきりわかったのでした。理由のひとつには、婦人の喪服のドレスに、ひしととりすがっている幼児に、彼女がいっこうに気付く気配がないからなのでした。この女性がもう一人の子を亡くしたにせよ、こちらの子供はまだ生きており、母親の膝にとりすがった小さなその顔は、とても悲しげだというのに! 
 わたくしは、母親が膝の幼児をおざなりにして、自分だけの悲愁に暮れているのは不公平に感じられました。その小さな子は、母親のスカートにしがみついて乗車したのですが、そうでなければプラットフォームに置き去りにされたかもしれない、と思われるほど、泣き続ける母親は膝にすがる幼児に目もくれないのでした。
 どんなだいじな子を亡くしてしまったにせよ、そこにいるもうひとりの幼児を慰めてあげなければいけないのじゃないかしら、とわたしははらはらしながら見つめておりましたが、母親はハンカチに顔を埋め、ただ啜り泣くばかりでした。しがみついている幼児は無邪気に、一心に母親を慰めようとしているかのようでした。婦人に体をすりよせ、腕やヴェェールに何度も口づけしては彼女の注意を惹こうとしていたのです。年のころは五、六歳で、百合の花のように色白な小柄な子どもでした。
 この小さな白い子は、一生懸命に母親に仕草で訴えかけるのですが、はっきりとした言葉を話すには幼すぎるようでした。
 気の毒な婦人はあまり遠くまで同乗しませんでした。彼女の近くに座っていた相客のさきほどの優しい男性は、数駅目で彼女が下車するとき、ホームに先に降りて、乗車のときと同じように手を貸してあげました。彼は礼儀正しく帽子をとっていたのですが、泣きじゃくる婦人は親切な彼さえ見向きもしませんでした。色白な小さい子供も、母親に相手にされないまま、スカートにすがったまま、引きずられるようにして降りてゆきました。小さな子が車両の出口に立ったとき、わたくしはこの子が転ぶのではないかと心配になり、思わず立ち上がって手を差し伸べました。でもその子は落ちませんでした。子どもは小さな白い顔をこちらにむけ、にっこりとほほ笑みました。
 母親に手を貸した親切な男性が車両に戻ると同時に汽車は駅を離れ、動き始めた窓から眺めますと、あのヴェールをかぶった黒衣の婦人はうなだれ、ハンカチを顔におしつけながら、プラットフォームをゆっくりと歩いており、彼女のスカートには、相変わらず白い小さな子供がとりすがり、自分を見てくれない母親を一心に見上げているのでした。


 5 白いひと

 ロンドンに到着したその晩、後見人はわたくしのために盛大なパーティを準備していました。招かれる上流人士のなかには、たいてい著名な文士が必ず若干ふくまれており、今夜はその中にヘクター・マクネアンがいる、とジーンが教えてくれました。
「イザベル、あなたが彼の著書をいかに愛読しているかお話なさいな」
 ジーンは晩餐会のためのわたくしの盛装を着付けながらにこにこして言いました。ジーンはもの静かで、母親のような雰囲気のあるひとでした。
「あの方に話しかけたがる人は、私以外にも大勢いるでしょう? それに私は内気だからそんなことをちゃんと言えるかどうか」
「彼を恐れてはいけないわ。きっと御自分の著作と違わぬ人物でしょうし、彼の作品はあなたにとっての生きる喜びなんですよ」
 縁者の立派な年配の男性にエスコートされて晩餐会の席についたものの、わたくしは例によって口が重く、華やかな会場で豪華な衣装に身を包みながら、社交用の作り笑いの下ではそこはかとない孤独を味合わなければなりませんでした。
 どこにヘクター・マクネアンがいるのかしら、とわたくしはパートナーとの会話もそっちのけで、広間のあちこちにそれらしい人物を探しましたが、これは、と思うひとはなかなか見つかりませんでした。ところが、自分が座った食卓中央の飾り皿の向こう側にふと目を移したとき、見知った顔に出会ったのです。それは、数時間前、ロンドン到着前の汽車の中で喪服の婦人に手を貸し、彼女の悲嘆に脱帽して敬意を表したあの親切な相客の顔でした。
嬉しくなったわたくしは、思わす隣席のパートナーに尋ねました。
「あの方はどなたですの? テーブルのはす向かいのあの方」
「彼こそは、最近世界中の人々の話題をさらっている作家ですよ。ヘクター・マクネアン氏、あなたもご存知でしょうな?」
 わたくしは嬉しさで飛び上がりそうになりました。文字通り、椅子から立ち上がってしまいそうになるのを我慢しなければなりませんでした。とはいえ、憧れの作家にすぐさま話しかけられるほどの勇気はなく、わたしはどきどきしながら、食卓に飾られた花瓶の山盛の花越しに彼を見つめたのでした。
 何かの拍子に、マクネアン氏はこちらに目を向け、わたくしと偶然のように視線があいました。それはほんの数瞬のことでしたが、わたくしは彼もわたくしを覚えていて、ここで思いがけず再会したことを驚きながら喜んでいることがはっきりとわかりました。
 晩餐のあと、イアン卿は男性の客たちを女性たちとは別なサロンに案内しましたが、しばらくすると、こちらの女性客の部屋にだれかを伴ってやってきました。なんとそのひとはヘクター・マクネアン氏でした。イアン卿はこちらに合図して、
「ミス・ミュアキャリー、マクネアン氏の話ではあなたがたは今日の午後、偶然同じ汽車に乗り合わせたそうだね」
「そうですわ」
「彼はミュアキャリーのことを噂に聞いておられ、あなたにもっといろいろな話を聞かせてほしいそうだよ、イザベル。マクネアンさん、この子は中世風のお城で小さな幽霊みたいに独りきりで暮らしておいでなんですよ。なんとかしてロンドンを好きになってもらおうと努力したんだが、だめなようです」
 察しのよい後見人は適当な紹介を済ませると、わたくしたちを二人きりにして出て行きました。マクネアン氏とわたくしの両方にとって好ましい配慮でした。
 ヘクター・マクネアン氏はミュアキャリーについて豊富な知識を持っていました。わたくしたちはサロンに並んで座り、たくさんのことを語り合いました。ミュアキャリーのように独特な風土の土地はイングランド、スコットランドじゅうに数少なかったので、彼は書物で手に入れられるかぎりのことは残らず知っていたのでした。家庭教師のアンガス・マカイアに劣らない豊かな知識とミュアキャリーに好意ある理解だとわたくしは感じました。
 彼との会話はいつまでも尽きませんでした。城の書庫の管理人のようなアンガスについて、それから思慮深く物静かな育ての親ジーン・ブレイドヒュートにも話が及び、
「ジーンはいつも私と一緒にロンドンに来るのです。今日、あなたが喪服の御婦人と彼女の幼い子供を庇ってさしあげていたときも、ジーンはわたくしの隣にいて、あの御婦人の愁嘆に胸をいためていましたわ」
「子供…幼い子供ですって?」
 ヘクターは怪訝な顔をしました。
「ええ、とても小さな色の白い子で、きっと婦人の二番目のお子さんなんでしょう。お母様のほうにすがって、なんとか慰めようと小さい白い手で撫でたりさすったりしていましたわ。なのに、婦人のほうはその子のほうを見ようともしないんです」
 マクネアンはしばらく口ごもり、優しい目つきでわたくしの顔をじっと見つめ、
「そう? こどもだって? しかしぼくはきっとその子とは反対側に座っていたからなあ。それに母上のほうに気をとられていたから見えなかったのかもしれない。その子のことを話してくれませんか」
「そのかわいそうな子は、たぶん六歳よりは下でしたわ。とても色白で……わたしは時々あの子と同じような透きとおるように肌の白いひとたちを見かけるのですが、その子もそうでした。お母様とは違いますね。母親のほうは《白いひと》ではありませんもの」
「しろいひと?」
 マクネアン氏はゆっくりとわたくしの言葉を繰り返しました。
「あの御婦人が白いひとでない、ということは白色人種ではない、とおっしゃるのですか。そうではありませんね」
「ええ、もちろん。ごめんなさい。わたしは自分で勝手に《白いひとびと》と呼んでいるのです。時折見かけるそのひとたちは、わたしたちとは明らかに違う透きとおって見えるほど白い肌をしているの。数は多くありません。ですがあの人たちが通りを行き過ぎたり部屋に入ってきたりすると、あまりに白いので人目を惹かずにはいないのです。あなただってご覧になればきっと眼を瞠ることでしょう。あの子のお母様は白いひとびとではありませんでしたが、子供のほうは透けるような肌をして、繊細な顔立ちの、白いひとだったのよ」
 マクネアン氏は考え深げに、おだやかな口調で言いました。
「そうだね、僕ももっとその小さな子を見ておけばよかった。その子は泣いていたの?」
「いいえ、お母様にしがみついて、母親を慰めようとでもするかのように黒い喪服の袖を撫でたり、ヴェールにキスしたり。見ているわたしのほうが泣きたいくらいでした。なぜって、お母様がその子が生きて傍にいて、自分を愛しているのに気が付いてやれば、その子は母親を慰めたことになるんですもの。誰かに死なれても、それですべてが終わりだなどと感じなければよいのに。その子はちゃんと傍にいて、生きているのに」
「どう思うの、イザベル、死について」
「分かりませんわ。瀕死のひとを見たことがないんですもの。わたしには、死なんてとても信じられない」
 マクネアン氏は静かな声で応えました。
「信じられない? それはすばらしいことだ。誰も死を信じなかったらどんなにすばらしいだろう」
「ええ、気の毒なあの母親は死にうちのめされていましたわ。もう、何もかも消え失せてしまったかのように」
「あなたが彼女にそれを話しておやりになったら彼女は慰められたかもしれない」
「わたしはとても内気なんですもの。彼女に話しかける勇気はきっとなかったわ。自分でも自分のことを臆病だと思います。それに婦人はわたしを煩わしくお感じになったかもしれませんわ」
「いや、あなたがお話になったとしても、彼女にはわからなかったかもしれん」
 マクネアン氏は、自分はまだ白いひとびとを見たことがないといいました。そう聞いても、わたくしは驚きませんでした。
「教えて下さいませんか? かれらはまるで別種の人間であるかのようなあなたの口ぶりから察すると、彼らと我々とははっきりとした相違があるんだね?」
「そう、おっしゃるとおりですわ。わたしはあなたに指摘されて、今初めてそのことに気付きました。なぜかあの人たちのことを自分達とは違う別物、異人種と思っていたんですわ。あたかも土着インディアンか日本人に対するような感情で」
「うまい比喩だね。かれらはそんなにも違っているのですか。あなたはかれらをよく知っているの?」
「いいえ、わたしは親しい友人としてはウィー・ブラウン・エルスぺスしか知らないんです」
「なんだって! 今なんと言った、イザベル」
「ウィー・ブラウン・エルスぺス。十歳になるまでの、わたしのたったひとりの遊び友達でした。彼女が何か?」
 マクネアン氏のおだやかな微笑はウィー・ブラウン・エルスぺスの名を耳にした途端、さっと蒼ざめ、こわばった表情に変わっていました。わたくしはおそるおそる尋ねました。
「エルスぺスは幼馴染ですわ。いつのまにか城に現れなくなってしまいましたが」
 わたくしの怖気づいた動顛ぶりに、マクネアン氏は表情をやわらげ、おかしそうに笑いながら、
「いや、失敬、ぼくはこのごろ体調が悪くて少し神経質なんだ。君は幼馴染のことを語っただけなのにね。どうぞ彼女のことを話してください」
「エルスぺスも、今日の小さな子と同じように色白でした。周囲の誰とも違う白い肌色の子で、荒地で出会ったのよ。深い霧の中を騎馬隊に守られてやって来たの」
 わたくしはマクネアン氏の求めるままに、幼少の思い出をできる限り詳しく話しました。荒野のぶきみさ、白い霧のなかに隠れているものたちへの幼い夢想、岩盤にそびえる城、塔のなかのこども部屋で窓ガラスに顔をおしつけて高原を見つめた幼いイザベル、博学多識のアンガスと書庫、優しく賢いジーン……言葉を交わさずに、互いに意志を通じ合ったウィー・ブラウン・エルスぺスとの数年間の楽しかった遊びのさまざま。マクネアンは熱心にわたくしの多言に耳を傾けてくれました。
「誰だったのだろう。エルスぺスを運んできた騎馬の男たちは?」
「わかりませんわ」
「エルスぺスに聞いたことはなかったの?」
「お互いに無頓着だったのです。ただ一緒に遊んだだけ。それに男の人たちは最初だけ現われ、二度とやってくることはなかったから、まるで幻影のような感じですわ」
「彼らは不思議な運命を負った者たちのようだ。物知りのアンガスは?」
「アンガスは何一つ詮索したりしませんでしたわ。何か知っているのかもしれませんが、話してはくれませんでした。子どもの頃はいつも、アンガスとジーンとは幼いわたしに聞かせたくない秘密を持っているような気がしたものです。彼らは悲しいことや醜いこと、子どもの心に耐えられないおそろしいことを隠していてくれたのです。とてもしっかりしたひとたちなのよ」
「そうに違いない」
 マクネアンは考え深げに相槌を打ちました。それからサロンをぐるりと見渡すと、
「ここに今、白いひとびとはいますか?」
「いいえ、一人もおりませんわ」
 わたくしは少し恥ずかしくなりました。当代きっての天才作家相手に、自分が一生懸命滔々と説明したことを証明できない羞恥心で顔が赤くなるのがわかりました。
「ごめんなさい。わたしはつまらないことをながながお話いたしましたわ」
「いいえ、とんでもない! あなたとお話できて僕がどんなに嬉しく思っているか、イザベル、おわかりにならないでしょう。イアン卿のお話ではあなたはおしゃべりではないということでした。だからこそ、僕はあなたとお話ししたいと願ったんですよ」
「ミュアキャリーのような土地がお好きなんですね? だからわたしがお話しする前からあんなにも詳しくミュアキャリーについてご存知だったのでしょう」
「ええそうです。イザベル、あなたの眼のなかにはミュアキャリーの荒野があり、霧があり、その霧のなかにひそんでいる不思議なエルスぺスたちが見て取れる、まさしくね」
「汽車のなかでわたしのほうをご覧になったのですか? わたしもあなたに気が付いていました。あの気の毒な御婦人に親切にしておやりだったとき、あなたの眼にはわたしはきっと野暮ったい田舎の小娘に見えたことでしょうね」
「ぼくが気付いていたのは、あなたのなかの夢見るようなまなざしだった」
 マクネアン氏はつぶやきました。
「ぼくと母とで住む郊外の家にお茶にいらっしゃいませんか。大きな林檎の木陰で、天鵞絨のようなやわらかな影が芝生に落ちる午後に。きっとそれは一日のうちで一番美しい時刻だ」
「ぜひうかがいますわ。さあ、マクネアンさん、そろそろわたしたちはみんなのところへ戻らなければなりません。ミュアキャリーには無関心な人たちのところへね」


 6 林檎樹の下のお茶会

 マクネアン氏とその母の住む家は、かたちのよい煙突と,角櫓づきの風変わりな高い壁で囲まれた大庭園のある館でした。彼の母親は美しいひとで、その日の午後、わたくしを迎えるために夫人が庭の林檎の木陰の椅子から立ち上がり、こちらに近づいてきたとき、わたくしは、まず彼女のかろやかな足取りに感動したのでした。それから象牙で彫り込まれたようなすっきりした横顔と形の良い顎、きれいに結われた髪型に気付きました。頭や腕、身のこなしのいちいちがすべて優雅でした。と言っても華やかに現代風な初老の女性というわけではなく、古風で、どこかしら一般的な女性たちとは異なるみずぎわだった雰囲気が感じられました。ヘクター・マクネアンが母親をこの上なく愛しているのはすぐにわかりましたし、夫人の姿や物腰を拝見すればもっともなことでした。
 わたくしの他にも数人の人がお茶に招かれておりましたが、夫人を敬愛するそれらの友人たちも、マクネアン氏や母上と似た雰囲気のすてきな人々でした。
林檎樹は若木のころから数えるなら、きっと数百年はこの世に存在していそうな大樹で、何本もの大きな枝が広く張り出し、枝々はよじれまがり、節くれだち、幹はすこやかに樹齢を重ねた美しさに充ちていました。マクネアン氏がつぶやいたとおり、広い庭に落ちるこの樹の影は、天鵞絨のようになめらかで、濃く、やわらかでした。マクネアン氏の母がお茶の用意のためにその木の下に佇んでいる姿は、わたくしには、まるでこの樹が夫人をいとおしむために、そのおごそかで美しい影をのべながら生い育ってきたような気がしました。
 夫人はわたくしを自分の傍にひきとめ、息子と同じ柔らかい瞳に愛情をこめて、お茶会の親しい会話に誘ってくれましたので、わたくしは見知らぬひとびとの中ではいつも味わう窮屈さや居心地の悪さを、その日は微塵も感じることがありませんでした。わたくしだけでなく、マクネアン夫人の傍に居ると、みんな幸せな気持ちになるようでした。
 わたくしは夫人を慕って集まる客たちのなかに、ひとり興味をひかれる人物を見出しました。見るからに俊敏な容貌で、鷲のように立派な顔立ちをしており、談話をリードする話しぶりにユーモアがあふれ、しばしば彼の話術のおかげで一座に笑い声があふれました。それなのに、当人の眼は少しも笑ってはいず、深い哀しみのいろが浮かんでいるのが、わたくしには見えたのでした。顔では笑ったりほほえんだりしていましたが、眼は決して笑っていなかったのです。気になったわたくしは、そっと隣のマクネアン夫人に尋ねました。
「あちらはどういう方ですの?」
 夫人は静かに応えました。
「彼は英国最高の画家、ル・ブレトン氏よ。とても才能のある方。でもお気の毒なことに、最近お嬢様が亡くなってしまったの。それはそれは綺麗なお嬢様でしたけれど、不運な事故で、こともあろうにあの方の目の前で墜落死なさったの。お嬢様は彼の生きる悦びでした。あれ以来、彼の眼には宙に座ったような奇妙な表情が浮かんでいるの。お気づきなのね、イザベル」
 お茶のあと、わたくしたちは手入れのゆきとどいた花壇づたいにそぞろ歩きました。庭園の片隅に群がり咲く青い飛燕草をマクネアン氏に見せてもらっているとき、わたくしはふと、少し離れた向こうの小道で、白と紫のアイリスを眺めているル・ブレトン氏の傍らに、まごうかたなき《白いひとびと》の姿を見つけて、マクネアン氏に言いました。
「ほら、ル・ブレトンさんの腕に手をかけて立っている若い女のひと。彼女は白いひとです。これであなたもおわかりになるわね」
「ル・ブレトンさんだって?」
 マクネアン氏はとまどった口調でわたくしとル・ブレトン氏の両方を眺めました。
「彼と腕を組んでいる女性だって?」
「ええ、ほら、透きとおるように白い顔をしているわ。とても綺麗」
「そう……だね」
 マクネアン氏はわたくしの視線をたどってル・ブレトン氏と娘さんのふたりをしばらく凝視していました。
「ええ、わかったよ。あなたのおっしゃる意味がね。たいへん綺麗だね。あまりこのお茶会では見かけないお嬢さんだが、きっと母の友人に違いない。彼女はあなたの言う《白いひとびと》の一人なんだね?」
「そうよ。美しい方ね。まるで白いアイリスそのもののような娘さんだわ」
「ああ、わかった」
 そのあとで、わたくしはマクネアン夫人にその白い娘さんのことを訊ねてみました。自分同様マクネアン夫人にも白いひとびとの一員である友人がいるとは嬉しいことだったのです。そのときにはもうル・ブレトン氏は席を辞しており、白いアイリスのような娘さんもいなくなっていました。
「霧みたいな淡いグレーの服を着た、背の高い、とても色白な娘さんでしたわ。ル・ブレトンさんがアイリスの花の前に立っていらしたとき、あなたは数ヤード離れた先で薔薇を摘んでおいででした。きっと、あの色白な娘さんに気付いたでしょう」
 マクネアン夫人は少し黙り込み、怪訝な面持ちになりました。
「ミルドレッド・キースは色白だけれど、あのときには居なかったわ。娘さんなんていたかしら? わたしはアンストランサー夫人のために薔薇を摘んでいて…」
 夫人は息子のほうをゆっくりと振り返り、まばたきするぐらいの間、二人は視線を合わせました。そしてマクネアン氏は快活な声で、
「ミルドレッドではありませんよ。その娘さんは、ミュアキャリーさんのおっしゃる《白いひとびと》の一人だったんです。ぼくも見たことがないひとだったな」
 息子の陽気な声のあと、とても短い沈黙が
林檎の枝のざわめきのように三人の間を通り抜けました。マクネアン夫人は木陰を抜けてゆく風のそよぎよりもっと柔らかい声で言いました。
「ああ、思い出したわ。《白いひとびと》ね。
ヘクターはわたしもその一人ではないかと思っているのですよ」
 わたくしは遠慮がちにおずおずと首を振りました。マクネアン夫人は白いひとびとに似ていましたが、違うのでした。
 夫人はそれからそっと、わたくしの腕に触れました。まるで心に触れるように、そっと。
「たぶん、その娘さんはアナベル・メアよ。ミルドレッドよりも透きとおるように白い肌をしていて、髪ももっと淡い鳶色の。おそらく彼女でしょうよ」

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