さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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ホスト・オン・ザ・ロード  Pth 7

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  ホスト・オン・ザ・ロード

 紫陽花が色褪せてしまったから剪定の準備をしなくては、と眠りから覚めた瞬間に莉珠子は思った。もう七月も下旬、今年の雨量が多かったのか少なかったのか覚えがない。それは毎年のことだ。雨が降り、その雨音を聴き、瞼のなかに透明な虹色を視る。虹の記憶はあるが、一日のうちで彼女が眼覚めていられるほんの数時間の間に、ひそひそとした長雨の音だけに心を遊ばせるゆとりはほとんどなかった。
 莉珠子がやりたいことはたくさんある。行きたいところも。
やらなければならないことも多くはないがやはりある。家事炊事は代行業者に任せているし、介護保険も利用している。季節ごとの庭の手入れも市内の植木屋に頼んでいるが、蔓薔薇や紫陽花の手入れなどは莉珠子のこだわりがあって、すっかり他人任せにはできない仕事の一つだった。
 東面の紫陽花はどの程度衰えたろうか、と莉珠子はベッドから起き上がり窓に近寄ると遮光カーテンを引いた。
さわさわ…緑つややかな紫陽花の葉を揺らせて小雨が降っている。植物の葉をこまかく躍らせる雨がところどころ木漏れ日のようなほのかな光に包まれているから、お天気雨なのだろう。
「狐の嫁入りだわ」
紫陽花の青や紅は、ドライフラワーのように全体に薄茶がかっている。それも風情だが、莉珠子は萎れた紫陽花、冬の枯れ紫陽花を好まない。花は新鮮なほうがいい。植木屋に紫陽花を伐ってもらったあとは、プランターを入れ、サルビアとコスモスで自分の庭を飾ることにしている。西南の亜珠子の庭は冬まで白い夕顔に守られ、反対側の莉珠子の庭は梅雨明けと同時に青紫から薄紅色のコスモスに衣替えをする。
 莉珠子は窓を開け、むっとする湿度を肺いっぱいに吸い込みながら空を仰いだ。鼠色の雲の切れ目から濃い夏色の青がいくつか覗く。天空の青の数だけ、そこから光線が地上に差し込む白い帯も見える。
「天使の梯子。何人の天使が降臨?」
 つぶやいて莉珠子は壁の時計を見ると三時ちょうどだ。今日亜珠子は起こしに来なかった。そのほうがよかった。昨夜亜珠子に対して抱いた疑惑と怯えが蘇ったが、外気のじっとりした蒸し暑さのせいか鳥肌は立たない。起き抜けのだるさに軽い空腹が混じる。昨夜は何を食べたっけ……
(そうだ、ポーンが来るとか言ってた)
 明日の午後にはそちらに到着、と乾いた声でつぶやいた痩せた脚の変なタップダンス。顔がなくて黄色と赤の真新しいバスケットシューズだけだったポーン。もうもしかして亜珠子の部屋にいるのかな。
 ごめんください、とおっとりした声が薔薇の生垣のほうから近づいて莉珠子は飛び上がった。正面玄関に通じる蔓薔薇の門から声が先にやってきた。ポーンのではない。
「どなたもいらっしゃらないみたいだから入らせていただきましたよ」
 すぐに主屋の影から身なりのきちんとした白髪の老婦人が予想外に現われたので、パジャマのままだった莉珠子はどぎまぎしてしまった。少し前かがみに歩く老婦人は藤色のレースのカーディガンに紺のスカートを穿いている。七十歳くらいだろう。ふっくらした丸顔に、ピンクの縁取り眼鏡をかけた笑顔が優しい。片手にぬいぐるみを抱いている。
「どちらさまでしょうか?」
 窓から上半身乗り出して尋ねると、
 ほほ、と彼女は笑って顔の前で手を振った。「あたしはご近所ですよ、野川さん。ほおんとに年をとらないのねえ。あたしはあなたのお母さんと同級生ですってば」
「え、亜珠子さんと友人、ですか」
「そう、小さいころからね。あっちゃんも少女のまんまなんですって? 噂ではたしか寝たきり老人になっちゃったそうじゃない。あたしはひさびさにこっちへ来たからあっちゃんのお見舞いをしようと脚を伸ばしてね」
「はい、ありがとうございます。母は十日ほど前に元気になりまして」
「あらま、それじゃ起きてるの? 会えるかしらね」
 老婦人はぬいぐるみを左手から右手に持ち替えた。お見舞い品だろうか、と莉珠子は眼を凝らしたが、熊のぬいぐるみは古びてあちこち擦り切れている。なんだか奇妙だ。
「ええ、たぶんいると思います。あの、恐れ入りますがお名前を伺いたいのですが」
「ああ、あたしね、あたしはあっちゃんの友人なのよ。六十年来の大親友。彼女のことならなんでも知ってます」
「はい、だからおばあちゃんのお名前を」
「ええまあ、あなたはあっちゃんそっくり。真面目な性格まで同じね」
 あの…と莉珠子は眼の中がちかちかし始めた。噛みあわない攪乱は老婦人がわざと仕掛けているのではない。婦人はすたすたとまっすぐに莉珠子のいる窓まで歩みよってきた。
 莉珠子ははっとした。お天気雨とはいえ、戸外はまだしとしと濡れそぼっている。なのに婦人は傘をさしていない。カーディガンも白いブラウスも、スカートも雨水を吸っている。莉珠子はどきどきして彼女の足元を見た。どこをどう歩いたのか素足を入れた靴は泥まみれだ。衣服は上品な取り合わせなのに、靴はスーパーの軒先に山売りされている派手な原色の赤いサンダルだった。
「待ってください」
 莉珠子はうろたえて窓を離れ、手近な傘をつかんでバルコニーから庭に降りた。紫陽花を押しのけて老婦人の傍に立ち、斜めに傘をさしかけると、彼女は莉珠子を見てにっこりと笑った。真っ白な髪から雫がひっきりなしに頬や首に流れている。
そのときふわっと雲が割れ、きっと真上に天の夏空が覗き、莉珠子と老女の周囲が明るくなった。その光といっしょに老女の周囲に匂いが昇った。哺乳類なら誰しも嗅覚に馴れた薄茶色と金色の異臭だった。
 額の真ん中を軽く殴られるような衝撃だが、その匂いは確かに金色なのだった。老女は無邪気に笑いかけ、ぬいぐるみの熊を幼女のような仕草で、まっすぐ両手で莉珠子に突き出した。
「これあなたにあげる」
 天真爛漫な笑顔を拒めず、莉珠子は傘を持たないほうの手で、擦り切れたぬいぐるみを貰った。莉珠子の手に老婦人の指が触れると、莉珠子の瞼の裏に踊る金色の幻視はいっそう強烈になった。ぺとり、と粘着質の感触といっしょに老婦人の指が莉珠子の手の甲をなぞったとき、莉珠子の喉は自然に悲鳴を放った。
 が、莉珠子には自分の声が聞こえなかった。あまりにも想像外の出来事に聴覚と嗅覚、視覚が混沌としてしまったようだ。自分が大声をあげたのか、それともただ喘いだだけなのかわからない。
「ああらまあまあ」
 老婦人はおっとりと驚いて莉珠子の手を離した。莉珠子は傘を取り落としていたが、もう雨はあがっていた。震えながら老婦人の手を見ると、やはり黄土色の滓が両掌に付着していた。熊のぬいぐるみは、と莉珠子は冷や汗を流しながら考えたが、受け取ったプレゼントを放り出すこともできない。
 りっちゃんお茶にしない、と主屋のほうから声が聞こえた。さきほど老婦人が現れたのと同じ道筋を歩いて、青いワンピースを着た亜珠子が現れた。莉珠子の視界はなお濃厚な金色の幻影で塗りつぶされていたので、青をまとった亜珠子の姿は光背のマドンナのように神々しく見えた。
「あっちゃん、よかった、この方」
 老婦人を前にした莉珠子のうろたえぶりに亜珠子は眉をひそめ、
「こちらはどなた?」
 すい、と亜珠子が細い腕を伸ばして老婦人の肩に触れたとき莉珠子は思わず、
「あっだめっ」
「何よ」
「あっちゃん、このひと」
 それ以上は口にせず、莉珠子は片手で老婦人の足元を示し、自分の汚れた手を見せた。午後の真夏の光が照りつけ、力強い蝉の声が欅の梢から響き始めた。地上のぬかるみが熱気に変わり、老婦人の体臭も濃くなった。
「あっちゃんの幼馴染っておっしゃるの」
「このひと?」
 老婦人は困惑した表情で亜珠子と莉珠子をかわるがわる見ている。ぬいぐるみを莉珠子に渡してしまったあとの両手を所在なくだらりと下げ、両脚を少し開いて直立している。
(まるで叱られた子供みたい)
 莉珠子は思った。ついさっきまでころころと愛想よく喋っていたのに、今は口の周りに皺を集めて黙り込み、眼を伏せ、哀しげにうつむいている。
「それ貰ったの?」
 亜珠子は熊のぬいぐるみに顎をしゃくった。莉珠子の記憶の亜珠子像との間に、ひやりとした違和感の隙間風がまた吹く。昔の亜珠子はこんなぞんざいなジェスチュアをしたろうか?
「ええ、そう」
「とにかく中へお連れして…こちらにどうぞ、足元がひどいから洗いませんか?」
 亜珠子は老婦人の背中に手を添えた。莉珠子は口の中で、あだめ、と力なく呟いたが亜珠子は平気な顔をしていた。亜珠子のつややかな長い黒髪が真夏の陽射しを浴びて輝いている。闖入者と亜珠子が連れだって莉珠子の先に立ち、紫陽花の繁みの中を歩きはじめると、後姿の亜珠子のぬばたまの黒髪に油膜のような虹の環が浮いた。
(天使の輪だわ)
 ず、ぺた、ず、ぺた、と老婦人の赤いサンダルがぬかるみをひきずる足音が聞こえる。脚のどちらかが不自由な様子だった。
 
「亜珠子さんは藤さんととてもうまが合ったんです。藤さんというのは亜珠子さんが付けた名前です。藤色のレース編みのカーディガンを着ていたから」
「はい。藤さんはご近所の住人ではなかったのですね」
 今日のパメラは顔の両側に一房ずつ巻き毛を残し、金髪をうなじでゆるいシニョンにまとめている。飾りのない丸襟の白いブラウスに、光沢のある黒いタイトスカート。一粒ダイヤの清楚なプラチナチェーンが首を飾っている。ピアスとお揃いだろう。
パフォーマンスのない衣装は、パメラをエリートビジネスウーマンか弁護士のように見せる。ストイックな衣装を着ると、パメラの場合受容的な雰囲気が消されるということなのだった。
 今夜のパメラの唯一の自己主張らしきアクセサリーを莉珠子は探しあてた。左腕に銀色の太いバングルを嵌めている。それはネックレスやピアスのスタイルとは異なり、クラシックな工芸品らしく、蔓草かカリグラフのような細かい模様が表にびっしり刻まれていた。銀色だがシルバーではなく、白金かプラチナだろう。 由緒ありげな古びの見える彫金だった。
「ええ、亜珠子さんは藤さんをバスルームに連れて行って、服を脱がせ、自分もキャミソール一枚になって、とても丁寧に洗ってあげました。驚きました。藤さんは、ええと、お漏らしをされていて、お尻とか…」
「はい」
 パメラは眼を細めた。睫毛も金茶色だ、と莉珠子は眺める。ではパメラの金髪はマリリン・モンローのようなフェイクではないのだろう、それとも睫毛も染めているのかな。
「驚いたのは藤さんが汚れていたことじゃなくて、亜珠子さんがとても的確にきびきびといろいろなことを済ませたので。藤さんを脱衣場で脱がせると、すぐに汚れものを仕分けて、簡単に洗えるものはぬいぐるみといっしょに洗濯機に入れ、手に負えないものはビニール袋に放り込んで捨てました。自分もぱっぱっと服を脱いで下着姿になって、おろおろしている藤さんを上手になだめながらシャワーを使わせた。なのにあたしはぼんやりただ見ていただけ。二人がバスルームにいる間、あたしは洗面所で自分の両手を一生懸命洗ってました」
「無理もありません」
 パメラがうなずいてくれたので莉珠子はやや慰められる。カウンセリング机の上に自分の両手を乗せ、ゆっくりと開いたり握ったりした。爪の隙間に汚物が残っていないか確かめるかのように、青い顔をした莉珠子は自分の細い指先をじっと見つめる。爪は伸ばしているがマニキュアは塗っていない。パメラほど完璧なレディフィンガーではないが、莉珠子の手も華奢な先細りの美形だ。桜色の爪はつやつやと健康だった。
「あたしは手を洗いながらまた考えました。寝たきりになる前の亜珠子さんは、こんな行動的なひとじゃなかった。のんびりふんわり、今のあたしよりずっとこどもっぽい感じで、もっとおとなしい性格だったと思うんです」
「おとなしい性格だった、ということは今の亜珠子さんはおとなしくないのですね」
 パメラは首を傾げて莉珠子に問いかけた。目の前の莉珠子は顔もからだつきも柔らかくかぼそくて、どうしても中学生にしか見えない。そして莉珠子の母親は十八歳のまま老化を止めたという。
 信じられない現象だが、ありえないことではない、とパメラは思った。信じられないことを実現するのが歴史の更新だ。深海を這うアンモナイトが翌日ひょっこり人間になることはありえないが、億年の時間をかけるなら進化は実現する。
 時間。時の流れ。この母娘の肉体は時間を止めている。母親は十九、二十歳のまま神の与えた寿命を生き、どこかでぽっくり死ぬのだろう。老いの醜さを免れた死はクレオパトラそれ以前からのあこがれだ。
 海を泳ぐ魚の中で、蒼穹への飛翔にあこがれたものは翼を持ったPterosauriaに進んだ。あこがれなかったものは海に残った。鳥と蛇の先祖は同じ。望んだものは鱗を羽毛に変え空にはばたいた。望むこと、ディザイア、熾烈な願望が遺伝子を変える突然変異、メタモルフォーゼの原動力だ。
 それならば莉珠子と亜珠子は不老を望む人類の進化の予兆なのではないか。何千万年かのちに、人類の肉体は彼女たちのような不老細胞に進化し、少年少女の外見のまま何十年か地上を生きて死ぬようになるのかもしれない。だが、肉体が老いない、という奇跡の代償はなんだろう。
亜珠子はつい最近まで若年性認知症のターミナル、意識を失って寝たきりだった。莉珠子は嗜眠症で健常の五分の一ほどの時間しか目覚めていられない…。
 眠りに浸って人生の流れのおおかたを過ごすなら、世界は戦争の余地もなく平和になる。数時間しか動けない一日の中で、ひとは何をするだろう。永遠の青春が持続するならば大多数の者は恋に耽って過ごすかもしれない。三島由紀夫の「花盛りの森」をパメラは思い出した。
「そう、おとなしくない、というのかしら。意地悪とは違います。あっちゃんは優しいし、前よりずっと察しが早いし、行動的で、機敏で、クリアだし」
「それでは良いことが多いですね?」
 はい、とうつむいていた莉珠子は首だけ動かしてパメラを下から見上げた。打ちひしがれ、途方にくれた顔だった。
「あっちゃんはこんなに頭のいいひとではなかったの。先生、彼女の脳味噌はすっかり委縮してるはずなんですよ。傾眠状態から目が覚めたとしても、藤さんよりもっとずっととろくなっているのが…」
 
 パラレルに通じる崩落した幻影のあと、ギャラリー〈個室〉中正面の壁には、もう新しい展示作品がかけられていた。
「あとかたもないね」
 亜珠子は作品パネルは見ずに、漆喰壁に顔を近づけ、傷跡のないすべすべした平面を撫でてつぶやいた。
「おうさ」
 ギャラリー入口の丸椅子に腰かけたジンさんは、小鼻をひくつかせながら中指で耳の裏をぼりぼりと掻いた。亜珠子は手染めインド更紗のチュニックに赤いスリムジーンズを穿いている。サンダルは横浜中華街で買ったフェイクゴールドのハイヒールだった。手首と足首には七色の貴石を嵌めこんだ細い銀のセルクルを何本も嵌めている。亜珠子の身動きにつれ、そのブレスレットやアンクレットはしゃらしゃらと鈴音をたてる。ふくらはぎまで伸びた長い髪は先細りなく、下り端までたっぷりと量を保っている。
「あれぁまぼろしだったんだろ。ファンタジーなんだから壊れっこないよ、だけど」
 ジンさんは煙草に火を点けた。ホープだ。
「後始末は面倒だったな。海のストールは全部外れてるし床はコスモスだらけだ」
 鼻の穴を上に向け、ぽかっと天井に紫煙を吐くと、
「まぼろしなのにコスモスは飛んで来てここに残った。そら、まだ元気だ」
 入口備え付けの小机には、青いガラス瓶にコスモスの束が活けてあった。亜珠子は微笑んだ。白が三本ピンクは五本。
「元気だね。長持ちしてる」
「捨てらんないよ。花の芯に赤ん坊の顔を見ちゃったんだもん。これは普通のコスモスだけどさ、それこそオーバーラップしてこわいよ」
「以外と小心じゃないの」
「繊細と言え。しかしおまえさん」
 ジンさんは脚を組み、さらに両腕を組んで亜珠子を眺めた。
「野川ママさんじゃないのかい。レノンなんだって? 確かにあっちゃんはおまえさんみたいに真っ赤なパンツは穿いたことなかったな、俺の前で」
「似合うでしょ。亜珠子は細いけどプロポーションいいから」
 亜珠子はギャラリーの真ん中で両手をひろげ、バレリーナのように片足でくるりと回ってみせた。黒髪とチュニックの裾が空間にきれいな円を描き、ジンさんは眼をまるくした。亜珠子が二回転をぴたっと決めるとジンさんは銜え煙草で拍手し、
「ここで踊らないか?」
「それもいいね。だけど他にやりたいことがあるんだ。ジンさんに助けてもらいたい」
「亜珠子は大金持ちで美人で若いんだから、札束で横っ面はたきゃあスーパーマンだろうとブレイドランナーだろうと好き放題に雇えるだろうに、なんでまた俺なの?」
 亜珠子は鼻で笑った。
「ロマンティックな比喩だけど、そんな世界的スケールは必要ない。ぼくはちょっと遠出したいんだ。なんだけど最近野川家に新しい住人が増えてね。彼女を残していくわけにはいかない」
「莉珠子の他に誰よ」
「藤さん。花の藤さん。しばらく前に家に迷い込んできた認知症のおばあちゃん。身元不明、警察に届け出たけれど手がかりなし。失認失語傾向ありで、自分の名前も覚えていないから、藤さんは僕が付けた名前だ。糖尿と緑内障、左足に軽い麻痺、やや高血圧だが目立った持病や既往症はない。あそれから帝王切開のあとがある経産婦で」
「もういいよ」
 ジンさんはうんざりした顔でレノン=亜珠子の長広舌を遮った。
「あなた行方不明老人をひきとったの」
「そうだよ。獅子ケ谷近辺のまともな老人施設はみな満杯。家族が見つかるまでどこかで保護するとしたら、とんでもない僻地へ行くしかない。そこへ無理に押し込まれた藤さんがどんな扱いを受けるか」
「だな」
 ジンさんは大きくうなずいた。がっちりした腕組みをほどき、頭の後ろ側に両手をまわし、胸をひろげて天井を仰いだ。
「うちは部屋と人手と金には不自由しない。今は家政婦に世話してもらってる。排泄がときどきわからなくなるんだ」
「おまえさん、ほんとにレノンなんだな。そのこざかしい喋り方、ったく事実は小説よりおもしろいねえ」
「ジンさんのそういう感性が好きさ。というわけでタクシーとホテルの予定だったけど、ナルコレプシーの莉珠子もついて来るだろうからキャンピングカーで車中泊の旅に変更したんだ。それなら莉珠子は好きなだけ眠れるし、こっちとしても気ままに行きたいところに行ける。ただ藤さんの世話役がね」
「家政婦はだめなのか」
「彼女たちにはパラレルなファンタジーを見せられない。女は口が軽いから」
「だな」
 ジンさんはジャケットのポケットを探り、もう一本煙草に火を点けた。今度はラッキーストライクだった。
「ジンさん運転してよ。金は払う。亜珠子のなかみに共感できるキャラクターが必要なのさ。それからあいつを呼んでほしい。まだこのビルでギャラリーやってるの?」
「ミネちゃん? 〈花絵〉はあるけれどこのごろ絵描きの妹が来て、自分専用のギャラリーみたいに使ってるよ。ミネちゃんも時々は顔を出すけれど、どこかの美術館の学芸員にもぐりこんだとかなんとか」
「彼は介護士だろう?」
「一応ね。峰元に藤さんの世話をさせようって魂胆?」
「そう。僕が僕だってことを彼ならOKする。車の運転もできるんだろう?」
「もちろん。あいつはうまいよ。峰元呼ぶんならシーラやメグも?」
「連中は呼ばなくたって飛んで来るさ。キャンピングカーは一台五人乗り。クルーは峰元まででいい」
 ジンさんは吸い口のないラッキーストライクを親指と人差し指でつまみ、鼻から太い白煙を二本吹き出した。
「で、どこへ行くの?」
「信州上田。レノンが生まれたところよ」
「おまえさんはレノンなのか」
「亜珠子の身体を借りてる」
「どう呼べばいい」
「混乱するから亜珠子でいいよ。上田に行ってレノンの母親に会うんだ。まだ生きていたらね」
 母を訪ねて三千里…ジンさんは義太夫のような節をつけて唸る。
「三千里まではいかない。獅子ケ谷から片道三百キロくらいだろう」
 レノン=亜珠子は眉も動かさず横を向いた。ジンさんは呆れて
「親に会ってどうするの」
「別に。どうってこともないけれど、そうだね、彼女に触ってみたいんだ。じかに自分の手で」
「へえ…名乗らないのか」
 レノンは顔を背けたまま無視した。ジンさんはそそくさと吸いかけのラッキーストライクを缶コーヒーに突っ込んだ。沈黙が気づまりになる前に、レノンは肩先で自分の長い髪を指で梳かしながらおもむろに尋ねた。
「ジンさんいくら欲しい? 峰元への仲介料込みで七日間百万でいいか? 峰元には五十万。彼が非常勤で仕事をしているなら、その賃金ロスの分をプラス」
「こないだのストールの買い上げ代は別でしょ?」
 ジンさんは言わずもがなのことをわざと言った。自分がばかな台詞を口走ったことが恥ずかしかったからだった。
「合わせて二百払う」
「オッケー」
 ジンさんは言葉といっしょに手でもOKを示した。亜珠子=レノンは体操のように背伸びしてにっこり笑った。
「ああ、お腹すいちゃった。ジンさんちょっとお茶しない。大江戸羊羹本店の栗蒸羊羹久しぶりに食べたい」
「あれ、有楽町に本店移ったよ。もうだいぶ前に」
「そう、それじゃ遠いな。めんどくさいからこの近くだと、花鳥庵がいいかな」
「甘味ばっか。そこらへんはリスと同じだ。レノンが中に入っていても味覚の好みはあっちゃんなの?」
「そう、…だよ」
 亜珠子=レノンは笑顔を崩さず答えた。頭の中で忙しく考える。
(大江戸羊羹? レノンは知らない。花鳥庵ってどこだ。なぜ僕はそんなことを思いついたんだ)
 それにイルカの海を模した卯咲苑製ストールを、僕は僕の知らない和名で数えた……。
(亜珠子はまだ生きてるってことだ。レノンの中にほそぼそと流れこんでくる)
 誘っておきながらふいに立ち止まった亜珠子=レノンをジンさんは促した。
「あっちゃん行こうよ。江戸も花鳥も上品な客筋だけど、俺の死んだ女房はくうやの最中が好きだったんだ」

 亜珠子の目の前には見渡す限り、夜空と地面の境目が見えない暗い丘陵が拡がっている。景色はゆるい盆地のようで、手前でいったんゆったりと窪み、広い底辺を作った向こう側で、またなだらかな上り坂となっていた。
(これはどこだ? 上田なのか?) 
 亜珠子=レノンは自分が夢を見ているとわかっていた。自分は丘の縁に立ち、静かな夜風に吹かれている。白いネグリジェの裾が膝まで舞い上がり、すぐそばの大きな満月の面をひらひらとくすぐるように見える。
月面の影は兎、あるいはすっきりと鼻梁の通った…もうこの世から消えてしまった安宅礼音によく似た若い女のプロフィール、いや、まだ羊水に漬かった胎児のしわくちゃな泣き顔。その涙を亜珠子の夜着がガーゼのように撫でている…。
 レノンはぞっとした。
今まで自分は恐怖など感じたことはないが、星を散りばめた夜空より暗い闇の底辺にこれから向かわなければならない。月光が照らしているから進む道はなんとか見えるだろう。だがここから目を凝らしても、下り坂に樹木のそよぎは見えず聞こえず、生きものの気配も感じ取れない。水音も。風のそよぎさえ吸い取る密度の濃い沈黙がひたひたと行く手に溜まっている。
(どうってことない。降って、また登ればいい。この盆地の横断距離は何キロあるかな、十キロ、二十キロ)
 疲れたら目覚めればいいさ、だってこれは夢だもん。僕は夢とうつつの区別と使い分けができるから。
亜珠子は歩きだそうとして空を仰いだ。薄い薔薇色の月。ストロベリームーンというのか、それならば幸運の月のはずだ。
ぴしり、と軽い鞭の音が夜風を打った。風を砕くかと聞こえたが、罅入ったのは満月で、鏡のような桃色の月面に見る見る亀裂が走り、ひとつふたつと数えられる大きな裂け目からすぐに縦横無尽のこまかな罅割れが派生し、月は砕け始めた。
 縁からバラバラと欠け落ちて、破片のひとつひとつは月光の美しさを保ちながら地上に降りてゆく。亜珠子の周囲にも散って来た。
 硬いガラスの破片なら自分は傷つき痛いのではないかと亜珠子は肩をすくめたが、大小の月明かりの粒子は亜珠子を素通りし、真っ暗な盆地の内部にまんべんなく拡散していく。月が砕けて地上へ分解する様は、明るい砂が天から零れ落ちるようだった。
 今や盆地の凹面はビーズのような月のかけらを散りばめ、それらは夜空にあったときの月光の静けさとは違って、赤や青、黄色、紫、オレンジ、グリーン……色とりどりの七色が賑やかに明滅していた。大都市の繁華街の夜景に似ている。
 亜珠子は濃い虹色の中へ歩き出した。暗闇より安心できる。降って登る。つらくなったら目覚めればいい、恐怖なんか感じない、だけど自分の他に人間は誰もいないのかな、例えば莉珠子、例えばメグ、でも誰もいない。
 月光の虹はそろそろと歩く亜珠子の肩や腰の高さで光っていた。虹の渦の中を歩いていく。周囲はもう暗くない。だけど明るくもない。色とりどりが混じり合い、ひとつひとつはきらびやかな色と色との隙間はかえって不透明に濁って見える。いやな感じだ。
月が砕けたために天上では星明りが増し、くっきりと真夏の銀河が流れている。
「誰かいないの?」
 亜珠子=レノンはささやいた。寂しいからメグかシーラか呼び出そうか、連れにするなら可愛い女の子がいいや。
 ここに…と応じる気配が聞こえて亜珠子はあたりを見まわした。
「誰?」
 ひゃあん、と仔猫の鳴き声がして周囲の虹渦はさざなみのようにざわめきたった。それがわっというどよめきに変わり、あっという間に虹色の粒子は見覚えある胎児のくちゃくちゃの顔に変わった。数知れぬ顔がもぞもぞと口を動かし、鼻をひくつかせて、右に左にてんでに揺れ動いている。コスモスの花の中心にあった嬰児の顔が今は虹のかけらの中で燐のように光っていた。びっしりと盆地の凹面を隙間なく埋めた燐光は、長い航海の間に船底にこびりつくウツボの有様に似てグロテスクだ。
 それらはうようよ、ぞろぞろ、という擬音語がぴったりの印象でうごめき、言葉にも声にもならない音が五月蠅のように群がり、わんわんと亜珠子の耳に湧き昇ってくる。
 亜珠子は前進する気持ちを失った。両手で耳をふさぐ。
(うるさい、聴きたくない、生まれ損なったDNAの嘆きなんかうんざりだ、何のために進むんだ)
「人間は同族殺しをするんだよ」
 突然澄んだ声が、濁った虹の混沌をまっすぐに貫いて響いた。
「誰?」
 亜珠子は耳をふさいだまま周囲を探す。ふいにぎゅっとその両腕を上にひっぱられる感じで亜珠子は燐光の中を仰向けに倒れ、そのままずるずるとひきずられてゆく。同時に周囲の胎児の顔たちも亜珠子と同じ方角にぞろぞろと動き始めた。まるで砂鉄が磁石に吸い寄せられるようだった。
 亜珠子は自分の両腕を引き据えている相手を確かめようとした。この膂力は女ではない。(男、シーラか? だけど声が違う)
 手が使えないので眼だけで追ったが、相手のいるべき空間にはねっとりした闇しかない。
 感情のない明晰な声がまた聞える。
「みんな無意味に殺されるんだ。こうやって無理やり穴の中へ連れていかれる、君も」
「やだよ。離せ」
 亜珠子は怒ってレノンの叫び声をあげた。死ぬなんて冗談じゃない。ネグリジェの裾もしどけなく両脚をばたつかせる。地面をこする踵や腰が痛い。
「どの穴だって? どこまで行くんだ」
 ほうら、と膂力の主は少年とも少女ともつかない声で応えた。清らかな声だ。
「あそこだよ。このまま君たちは消える」
 夢の始まりでは登坂になっていた向こう側の丘のかたちが消え、巨大なダストシュートの入口のような漆黒がそこに再現されていた。粉々になった月の破片の虹は、粘液質の流れとなって吸い上げられてゆく。吸い込まれ、無限の宇宙空間のどこへ移動してゆくのか、と亜珠子はもがいた。いざとなったら亜珠子の身体を捨てればいい。僕は死なない、僕だけは生き延びてやる。

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アリスベール・シフト  Pth 6

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  アリスベール・シフト

 ジンさんあたし今久我ビルの前にいるの、と携帯から声が飛び込んできた。
「あたしって誰よ? ぼくと良い仲の女性は数多いんでね、名前下さい」
 携帯の声は失笑したが、
「当ててみて」
「粘るねえ。聞き覚えがあるような、ないような」
 まだ若い姉ちゃんだな、とジンさんは急遽脳内にダウンロードしたガールフレンド一覧を忙しくチェックして首をひねった。確かにどこかで聞いた声だが、最近の検索履歴にひっかからない。
「降参するよ、俺忙しいんだ」
「なあんだ。美女は忘れないってジンさんのモットーじゃなかったの? まあいいや、野川亜珠子です」
「え、秘密のアッコちゃん、こないだ百年の眠りから復活したんだって? リスから聴いたよ。銀座まで出てきたのかい」
「相変わらずダサいオヤジギャグかましてるのね。そう、新鮮な血を吸いたくて夜な夜な獲物探し」
「リスが言いつけたんだろ。君ら母娘吸血鬼だという真実を俺暴露したからな」
「今夜ヒマ?」
「リスもいっしょか? ちょうど今ギャラリー閉めて繰り出そうとしてたんだ」
「残念でした、娘はうちでもうねんね。誰かと先約ありですか?」
「まあね。だけどアッコちゃんなら乱入大歓迎だよ。歩けるんならあがって来ないか。展示を見てくれると嬉しい」
 ギャラリーを入って真正面の壁いっぱい、最も濃くて暗い藍色から始まり、下に向かって次第に色調を明るませ、最後は淡い水色まで、何十枚もの大小さまざまな手染めストールが、波紋のように天井から床まで斜めに吊ってある。生地も手織りのようだ。青味がひきたつように照明は白く調光されていた。
微妙に色相と明度をずらしてゆく藍、瑠璃、藤、青紫、浅葱に縹、桔梗、菫…あてずっぽうでいくつかの青系統の和名が浮かんだが、それ以上の単語は亜珠子=レノンには出てこない。
亜珠子とジンさんが襞に近づいたり離れたりする微妙な空気の動きにつれて、重なりあった薄い紗はゆらゆら揺れた。
「布で織りなす波模様だわね」
「そう、イルカの海だ」
「妃翠房の?」
「いや、卯咲苑のワーカーたちだよ。軽度の知的・身体障がい者さんたちの商品。良かったら買ってくんない」
「いいわ」
 レノンはしばらくぶりに再会するジンさんへの挨拶がわりに二つ返事の買い物をした。ジンさんは亜珠子がレノンだとは気づいていないので、思いがけない相手の気前の良さに目を剥いた。
「やりぃ…ま、あなたがたは金持ちだから」
「骨身を削って稼いでるの」
 亜珠子=レノンは笑いながら、ジンさんをじろりと横目で睨んだ。
 だよなあ、とジンさんは垂れ目を糸のように細くして亜珠子を上から下まで眺め
「にしても変わらないねえ。リスもだけどあなたほんとに俺よかひとまわりも上の方とは見えない。顔も身体もせいぜい十九、十八。羨ましいかぎり」
亜珠子はぽんぽん言い返した。
「外見はね。だけどいつ成仏しちゃうかわかりませんよ。生きているうちにやりたいことを全部やっておきたくて眼を覚ましたの」
「そりゃあ賢い」
 ジンさんは揉み手をして亜珠子の機嫌をとった。で、どのストール買ってくれるの?
「この壁面全部よ。イルカの海をまるごと」
 オアリガトウゴザイ…とジンさんは最敬礼した。作家作品の絹織物はチャリティーとしてもそれほど安くはできない。一枚二万円として…。
 亜珠子はコバルトブルーのストールを手にとった。たっぷりと大きく、それでいて羽根のように軽い。
「これ今羽織りたいわ。袖なし着てるからクーラーの風よけ欲しかった。残りはドルフィン企画が終わったらまとめて送って」
「ワーカーたち喜ぶよ。だけど中の一枚は売却済みなの。それ勘弁して」
「どれ?」
「これから決めるの」
 ジンさんは澄ました顔で答えた。
「何それ」
「もうじき来るよ。買ってくれるという口約束だけしといたんで」
 ジンさんは腕時計を見た。ミッキーマウスの顔型をしたカラフルな児童向けグッズだった。

 サーモンピンクのカットソーに、くしゃっとした黒いリネンのジレを重ねた羽戸千香子がギャラリー入口に現われると、フロアがぱっと明るくなった。
「こちらは」
 羽戸千香子は亜珠子を見て足を止めた。クリーム色のハイヒールの足元は、さりげなく踵を揃えて下向きくの字を見せている。スリムジーンズのふくらはぎから足首にかけて適度に締まった健康的な脚だった。
「リスの母上よ。こちらも永遠少女病で」
 どかっと買い物をしてくれた亜珠子に、ジンさんは媚び見え見えの声音だった。
「あっちゃん、このひとは医者。ほら莉珠子お嬢さまがカウンセラーのところでひっくりかえったとき、羽戸さんのクリニックに担ぎ込まれたの」
 ジンさんの語呂の悪いお世辞を聴き、
(ち、三遍まわってワンと鳴け)
 ちぎれんばかりに尻尾振ってさ、とレノンは亜珠子の顔の裏側で舌打ちしたが、羽戸に向かっては丁寧に、
「娘がご面倒かけたそうね、ありがとうございます」
 羽戸は微苦笑を浮かべた。十八にしか見えない亜珠子には似合わない声づかいと言葉だった。
「亜珠子さんもエイジレスなんですね。ほんとに若い、を通り越して信じられない可愛さだわ」
 ふふ、と亜珠子は羽戸千香子の瞳を覗きこんだ。羽戸の眼のいろは日本人の標準よりやや明るい茶色をしている。
「ここであなたに会えるとは思ってませんでした」
(羽戸先生、あなたは星隷ミカエルでぼくを看取ってくれた。三十いくつになったんだ? 昔より色っぽくなったじゃないか。前より髪が短くなった。そばかすは同じ、ぼくがわかるか?)
 亜珠子=レノンの凝視に羽戸は二三度瞬きしたが、視線をかっちりと受けた。が、笑顔の表情が止まった。 
 か、たーん、と乾いた音がしてギャラリー正面の壁全体にはりめぐらされた青い紗の数々がいっきに落ちた。どん、と床からつきあげる揺れが来て、二人の女の間にぼんやり立っていたジンさんは尻もちをついた。
「うわ、地震だ」
「違う、地震じゃないわ」
 うろたえるジンさんを羽戸は平らな声で制した。
 イルカの泳ぐ平和な海を模した紗の幕が剥がれ落ちたギャラリーの白い壁。百年近い時間を経た古い壁をジンさんはリフォームし、左官を入れて塗りなおしている。クラックも歪みもないはずなのだが、三人の目の前で壁の中央から周囲に向かって蜘蛛の巣のように放射条の亀裂が走ってゆく。まるで壁の中心に目に見えない弾丸が撃ち込まれたようだった。続いて無数のひび割れがパラパラと剥がれ始めたので、床にへたりこんだジンさんは唸り声をあげた。それが恐怖の叫びかと思いきや、腰を抜かしたジンさんはガリガリと指をたてて頭を掻き、
「やあ、これって久しぶり。どっかでこんなことあったよなあ」
 のどかな感想に亜珠子は顔をほころばせた。
「やっぱジンさんはそうでなくちゃ」
 羽戸千香子は亜珠子の顔から眼を離さず、
「何を見せるの? あなた」
 亜珠子はもうレノンのしらばっくれた声で、
「知らない。羽戸先生、これはあなたが見たものだろ」
 なんですって、と羽戸がきっと細い眉を吊り上げた瞬間、もういちど足元からどんと激しく来て、亀裂の走った壁面は瞬時に崩れた。
 
 午後二時に目が覚めたら七時には睡魔が襲って来るはずだった。五時に莉珠子がシャワーを浴びているとき、亜珠子は家を出た。
夕顔は八月半ばには亜珠子の部屋のある西南ウイング全体を覆って満開になるが、今はまだ五部咲きくらいだ。それでも暮れ方になると、白い野花の清冽な香が締め切った屋内まで淡く漂って来る。
 髪を洗ってバスルームから出てくると亜珠子のメモがキッチンのワゴンに置いてあった。
 銀座のジンさんをからかってくるね。
 普段、介護ヘルパーたちとの連絡に使う黄色い大判の附箋に書き付けた一行を、莉珠子は穴の開くほど見つめた。
(これ、あっちゃんの字?)
 書棚や文箱を探せば健康だった昔の亜珠子の直筆が見つかるはずだが、比べるまでもなく以前の亜珠子の温和な筆跡とはまるで違う。走り書きのペン字は別人のようにアクセントが強い。莉珠子は寒気がした。
(目覚めたのはあっちゃんとは違う人)
 曖昧模糊とした疑念が恐怖を帯びた確信に変化する。何かが亜珠子の中に入っている。今の亜珠子が絵を描いたとしたらどんな画面を作るだろう。
 息苦しさに、莉珠子は深呼吸した。
空調の送るゆるい風といっしょに夕顔の匂いがする。それはついさっき扉を開けて出ていった亜珠子と入れ違いにここへ忍び込んできた花の気配かもしれない。
 亜珠子が失踪したとき、自分は夕顔の夢を見ていたのではなかったかしら。あれは夢だったのかな。あっちゃんの髪の中から殺された動物たちがうじゃうじゃ出てきて悲鳴をあげたのも夢じゃなかったの?
(どうすればいいの? 病院に行って脳をスキャンしてもらう? だけど枯れた細胞が再生していようともとのままだろうと、今の亜珠子さんは一体誰?)
 濡れた髪のまま莉珠子は冷蔵庫を開けた。
怯えていてもお腹は空く。ヨーグルトに苺ジャム、生クリーム。冷凍のクロワッサンを二個電子レンジにかける。それからホットココア。両腕の鳥肌がはっきり見えた。
 ようようめずら鳥のりっちゃん。
 ジンさんのお気楽な声が耳元をかすめた。
(マジに鳥状態)
 苦笑して時計を見ると六時を過ぎている。今頃亜珠子はギャラリーに向かっているのだろう。ジンさんと亜珠子の再会は十五年以上の空白を挟んでいる。ジンさんは亜珠子の異変に気付くだろうか。何かを察知したとしても、あの極楽オヤジはへいちゃらだろう。いいじゃん、器量は昔と変わらないんだからさあ、とかなんとか。
 がらんとしたダイニングでぼそぼそ食べるのは嫌なので、トレンチを持って自分の部屋にいく。不安な心にミッフィーのマグカップに作ったミルクココアの湯気が頼もしく感じられた。
 部屋に入ると、調光センサーで自然に明るくなった。東側の莉珠子の部屋は早くたそがれる。室内よりも明るい窓の外の紫陽花はそろそろやつれが目立ってきた。
しーしー、と虫の鳴き声か耳鳴りに似た電子音がたって、莉珠子が座ろうとしていたセンターテーブルの向かいの椅子がぽっかりと白く浮き上がった。
「悩んでるね、莉珠子」
 よれよれジーンズ、ガリガリの膝がおぼろな楕円の光の中ににゅっと現われた。真新しいバスケットシューズを穿いているが、右足は赤、左足は黄色だった。
「顔と身体はどうしたの?」
「今現在空間移動中でね、足だけこっち」
「気味ワルイ。B級ホラーって感じ」
 だがポーンの登場は嬉しかった。プロジェクション・ワープの幽体にせよ、亜珠子を占領している何者かの魂への恐怖よりはリアリティがある。ポーンは足だけなのに、莉珠子の安堵を見逃さなかった。
「笑ったね、莉珠子。ぼくのサービスはなかなかだろ?」
「あたしへの心遣いなの? でも顔があったほうがいいわ。あたしこれから御飯食べるのよ。脚だけと向かい合うのはちょっとね」
「ぼくは移動中なんだ。立体投影が現実に追いつかないってこと」
「関係ないでしょ」
 莉珠子はクロワッサンに苺ジャムを塗って齧りついた。バターとジャムの香ばしさを口いっぱいに頬張ると恐怖はいっきに遠ざかった。
「いや、おおありなんだ」
 顔もないのにポーンの飄々とした声ははっきり聞える。黄色いバスケットシューズの左足に貧乏揺すりが始まった。
「おいしそうなクロワッサンだね。ぼくも食べたい」
 莉珠子は二個目のクロワッサンを縦に真ん中で割り、カスタードクリームをこれでもかと盛り上げた。脚に向かってこれ見よがしに、クリームのはみ出そうなクロワッサンの尻尾に噛みついてから、嫌味たっぷりに、
「画像転送してあげましょうか?」
「その必要はない。明日の午後には莉珠子と亜珠子の家にお邪魔する」
「え、日本に来るの?」
 虚空からポーンの笑い声が降って来た。
「シーザーの命令。亜珠子と莉珠子を庇護せよ、と。君は亜珠子を怖がっている」
「そう、わかるでしょ?」
「ぼくは一部始終を見届けなくてはならないんだ」
 突然ポーンの両脚は莉珠子の目の前でタップダンスを踊り始めた。リズムに乗れないへたくそなタップだが、黄色と赤の靴は、いてもたってもいられない幽霊の地団駄めいて莉珠子の部屋中をそわそわと動き回った。
「監視カメラがあるじゃない。あなたがたはいつもあたしたちを見張っている」
 ポーンの脚は右に左にせわしない
「認めたくない死角。つまり亜珠子の縮んだ脳細胞と頭蓋骨の隙間は肉眼で確かめるしかない」
 言いたいことを喋ってしまうとポーンの幻影は突然ぷつりと消えた。
「待ってよポーン、明日家に直接来るの? 泊まるってこと? いつまで?」
 莉珠子はココアをすすり、消えた両脚に向かって無駄と知りながら尋ねた。ぶつぶつした自分の口調は不平のようだ、と莉珠子は思った。
 午後二時に目覚めたのだから夕方七時、ちょうど今頃睡魔に襲われる予定だった。
 だが思いがけない幻影の登場に加え、翌日の自宅への侵入宣告に睡魔は遠くに追いやられてしまったようだった。甘くておいしい夕飯を全部平らげたおかげで、エイリアン亜珠子への恐ろしさはどこかに消えてしまった。
スイーツの効果は莉珠子にはてきめんだ。昔の亜珠子も甘党だったが、今はどうだろう。(今のあっちゃんもお菓子は好きだ。しょっちゅうアイスクリームとかクッキーとかつまんでるし)
 再び莉珠子はしょんぼりした気持ちになった。復活した亜珠子と他愛のないおしゃべりをしながらお菓子や食事をいっしょに食べるのはとても楽しい。亜珠子が寝たきりだった十年以上の間、莉珠子はほとんどいつも独りで食事していたから。
(エイリアンだとしても亜珠子さんはあたしには優しい)
 それなら深く追及しないで、元気になった母親の肯定的な面だけ見ていればいいのではないか、と莉珠子は日和見に傾いた。周囲に何も害を与えないのなら、着ぐるみ亜珠子のなかみが?であっても問題はない。
(毎日が楽しければ、それ以上は)
 だが明日ポーンはやってくると言った。たぶん莉珠子の目が覚める午後二時か三時過ぎに獅子ケ谷へ到着するだろう。そしてその時その場に亜珠子もいる筈だ。亜珠子はリアルポーンにどんな表情、態度を見せるだろう。
(それに、リアルポーンの声はどんなカラーだろう)
 プロジェクションポーンの声から色彩ラッシュを浴びたことはない。デスクパソコンのキーボードを叩く音と同じ程度に、彼の声は無機質だった。
 眠気がやって来ないので、莉珠子は食器を片付けるとパソコンを開いた。セラフィストパメラのページを眺める。画像は夏向きに更新されていて、トップ画像のパメラは浴衣に団扇を持ち、古蒼な民家の庭先で涼んでいる。金髪は前髪を少し残してふっくらと結っていた。浴衣は藍地に杜若と八橋の柄。帯は朱色。輪郭のきれいな細面に和服もよく似合った。
ホームページにパメラの情報は多くない。ブログめいた日記もあるが、あたりさわりのない画像中心で短い文章が一行か二行。どこかの美術館に行ったとか、何かのセミナーに参加したとか。
 MEMORIESをクリックすると、欧州らしいさまざまな風景写真が出てくる。それがパメラの故郷なのか、それとも観光旅行で撮影した城や森や海なのかわからなかった。そこにパメラ本人は映っていない。パメラ以外の人間の姿もない。
「あなたは何者? この古いお城の女王さまなの?」
 莉珠子は鮮やかな紫色のパメラの声を思い出した。あの声はこじんまりとしたカウンセリングルームの中でさえ、天空にはためく王旗のヴァイオレットを視覚に呼び起こす。彼女の素性を知りたいと莉珠子は願ったがネットのページはカムフラージュでしかない。
 ページの隅にはびっしりとリンクが貼ってあった。パメラの友人なのかフェイクなのかわかりはしない。お気に入りらしいレストラン、バール、ギャラリー、クリニック、ブティック、アーティスト、フォトグラファー、医者、弁護士、作家、著名人らしいもろもろ。いろいろなNPO……。
 クリックするつもりはなかったが、でたらめにスクロールしていた莉珠子の手が偶然ひとつのリンクにひっかかった。画面が変わり、無彩色のファッションページが現れた。ヴォーグ、エル、ハイセンスな海外雑誌の構成によく似ている。
エッフェル塔が見えるからパリだろう。ややソフトフォーカスにぼかされた風景の中で、長身のモデルがポーズを取っている。モノトーンの画像の中でモデルの唇だけが紅い。惹きつけられるように莉珠子のマウスはその唇に触れた。すると白黒画面は鮮やかな天然色に変わり、莉珠子は眼を丸くした。画面の下方を装飾的な銀色のカリグラフィが蛇のようにうねりながら走ってゆく。
YUCARI・DURANTE
「ユカリデュランテ」
 つぶやいて、もういちど莉珠子は眼を見開いた。すんなりしたエッフェル塔を背にして自分と等身大の岡本太郎の太陽の塔を片腕に抱いているモデルは目深にボルサリーノを被っているが、彼女の黒いシャツはあちこちに激しいかぎ裂きがあり、隙間から無造作に白い素肌が覗く。乳房のありかが見えるのではないかと危惧されるが、ざっくりと破れた左胸の裂け目からは、今しも白い鳩が翼を広げて飛び立っていた。下半身のスパッツはいやらしいばかりのこてこてゴールドだ。片足に重心をかけて腰をひねったへレ二スムの古典的なポーズを、太陽の塔が茶化している。アナーキーばんざい。
(あだから穴あきシャツなの?)
 まさかね。
でも優雅なボルサリーノと引き裂かれたシャツ、本物のエッフェル塔とイミテーションの太陽の塔。天使の鳩とヘドニスティックゴールド。モデルの美貌をキャンバスにすればアムヴィヴァレントを寄せ集めても違和は消え、感動を呼ぶ。口紅と同じくらい真っ赤なサンダルのピンヒールは、トゥシューズのように高い。
モデルのシャツにも顔にも見覚えがある。あの晩、彼はこんなクレオパトラ風の眼化粧をしてはいなかったけれど、今のほうがパメラに似ていた。

壁の蜘蛛の巣状の亀裂が中央から盛り上がるように爆発し、破片が四方八方に弾け飛んで、三人はそれぞれ似たようなジェスチュアで顔や頭を腕で覆った。
 床にしゃがんだジンさんは膝を抱えてまるくなり、羽戸は片腕だけで顔を隠した。亜珠子はついさっき買い上げた青いストールで半身をすっぽりと庇う。漆喰のこまかな破片は、突風とともに三人の周囲に吹雪のように飛んできた。
塗装と壁がざっくり剥落したあとは、ビルの内部構造が醜く剝き出しになるはずだったが、羽戸もジンさんも亜珠子もそのような常識的な光景は期待していなかった。
髪や衣装を吹き上げた大風が止むと、三人はほぼ同時に顔をあげ、それぞれ違うことをいっしょに口走った。
「わたしが見た景色じゃないわ」
「三途の河原かね」
「顔がある」
 最初から羽戸、ジンさん、亜珠子の台詞。
亜珠子はすぐにジンさんに向かい、
「三途の河原にコスモスはないよ」
 ギャラリー〈個室〉の向こう側は夜の原野だった。見渡すかぎり白やピンク、紅色のコスモスが揺れている。夜空には明るい金星を従えた半月がかかり、たった今ギャラリーの壁を崩した突風とは違うおだやかな高原の風が野の香りをこちらへ運んでくる。コスモスの匂いは野菊やマーガレットに似ている。甘い香りではないが清涼だった。
「あなたはレノンね」
 羽戸は問いただした。亜珠子は頷き、
「先生、まだ独身なの?」
 直球をひょいと交わしながら無遠慮な口調はレノンだが、澄んだ少女の声は亜珠子のものだ。羽戸は眼を白黒させ、
「天使ちゃん、あなたは天国に行ったとばかり思ってた」
「天使ちゃんか、なつかしいね。身体が死んじゃってから三年経ってもぼくは地上に未練があって往生できないんだ。ミカエルの看板美人女医に再会できて嬉しいです」
「あなたはミカエルでもいろんなポルタ―ガイストを見せてくれた。油絵の位置が変わっていたり、首がちぎれて病室中に血が」
「そう、だけどスプラッタはぼくが見せたイメージじゃなく、先生の感受性がぼくのヴィジョンを視覚のフィルターに乗せたんだ。これもそうだよ」
「コスモス畑はミカエルの周囲?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。僕らが移動した異次元はこちら側の人間の霊的メタファだから。みんな自分たちの内部にあるものだ。三次元であっても四次元だろうと、人は自分のキャパシティに相応の世界を見るだけさ」
「メタファ、それは記憶?」
 羽戸はつぶやき、緊張をほぐすための背伸びといっしょに月下の草原を眺め渡した。頬の後れ毛をなぶる温和な夜風に誘われ、羽戸は花の群におずおずと踏み込むと、幸福そうな表情でかがみこみ、花のうてなに手を添えたが、ふいにしゃっくりのようにひきつった声を漏らした。
「か」
 そのあとが喉に絡みついて出てこない。「お、があるだろ」
 亜珠子=レノンが言葉を補う。羽戸の傍に寄り、ためらわずにぷつんと一茎折った。
 ひゃあん、
 生まれて間もない仔猫のようにコスモスは鳴いた。レノンは冷やかな眼で円形の花を月光にかざした。ピンクの花びらの囲む中心にくちゃくちゃした嬰児の顔がある。赤ん坊よりも胎児に近い。固く閉じた瞼も鼻も口もふよふよした柔らかな皺だらけだ。レノンが冷淡な手つきで花の枝をくるんと虚空で大きく一回転させると、コスモスはまたかぼそい鳴き声をあげた。
 羽戸はぞっとしてレノンの手からコスモスを奪った。
「よしなさいよ。泣いてるじゃない」
「大風がここに吹く度に、こいつらはちぎれて泣き叫ぶんだ。同情してたらきりがない」
 え、と羽戸はギャラリーを振り返った。ジンさんが呆けたような表情で口をあんぐりと開け、自分の周りに飛び散った漆喰の破片を見つめている。いや吹雪に見紛うこまかな薄片は、ちぎれたコスモスの花びらだ。繚乱の中に混じって、まるごと花のかたちのまま吹き飛ばされたものは、ジンさんの周りで今しもじわじわと死んでゆく花の嬰児たちだった。
「やっぱここは三途じゃないか。これ早死にしたこどもでしょう?」
 ジンさんは気弱に怖気をふるっている。しゃがみこんだ周囲に嬰児の顔をした花が飛び散っているのだからグロテスクだ。
 レノンは言った。
「ジンさん、へたばってないでこっちに来たら? そこよか草原のほうが空気がいいよ。死んだ花より生きている花のほうがいい。この子たちは早死じゃないね。羽戸さん。これらの数知れぬコスモスたちは生まれなかった子供じゃない?」
 羽戸は瞬きした。
「なぜそう思うの?」
「だってこれはどう見たって胎児じゃないか。かろうじて人間の顔にはなっているけれど、まだ湿っぽくて魚みたいだ」
 静かな夜風が吹いている。羽戸はレノンから奪ったコスモスの枝を、赤ちゃんを抱くように両手で持った。それから自分の動揺をなだめるために、
「これはヴィジョンなんでしょう? 幻影。あたしたちが呼び出したの?」
「ぼくは先生が見たものだと思う。ジンさんのファンタジーにしちゃえぐすぎる」
「そうだよお」
 ジンさんはよたよたとギャラリーの床を這ってきた。腰がまだ立たないらしい。床に散らばった嬰児の顔に触らないように慎重に紆余曲折し、どうにか羽戸と亜珠子の傍にたどりつくと、やっこらせ、と羽戸の肩にすがって片膝ずつ立ち上がった。
「俺はただの気のいいスケベオヤジだぞ」
 羽戸はげんなりしたジンさんに眼で笑いかけ、レノンに向かってはひっそりと、
「そうね。あたしは今ミカエルの頃とはずいぶん違う世界にいる。産婦人科じゃないけれど、生まれるために準備され、自然淘汰で世界から削除されてゆく無数の命の真っ只中にいるのかもしれない」
 羽戸は折り取られたコスモスの花の真ん中をもう一度覗き込んだ。冷静な表情だった。
ピンクの花弁はまだぴんとしていたが、中心の小さな顔はもう青白く蝋のように固まって動かない。羽戸はささやいた。 
「これは魂なの?」
「かわいそうな運の悪い連中ってこと」
 レノンは苦々しげに言い捨てた。
「健康に育たなかった生命なんて宇宙の星の数よりも多い」
 レノン自身もそうなのだった。六歳で植物人間になり、人工栄養で養われながらこの世の時間を過ごした。それは生きている時間とは別なものだ。死ではないが生でもない。
(ぼくが自意識を持って人格を形成できたのは、ただの偶然なんだ。肉体が死んでもこの世に浮遊しているなんて餓鬼か妖怪か幽霊だ。だけどぼくはそのどれでもない)
「妖精なのね」
 羽戸がふわりとした声で言ったので、内心を掬い取られたレノンはぎょっとした。
「え?」
「ケルトやロシアのフェアリー・テールでは、不幸せに死んだ無垢な子どもたちは妖精になるの。キリスト教以前の世界観よ」
 さわさわ、と三人の視野いっぱいに草なぎの夜風が吹いてきた。月明かりが目に見える速さで増してきて、コスモスの群れの彼方まで見はるかすことができた。遠くには低くてなだらかな群青の山並みが幾重にも連なっている。裾野に谷があり、ひらかれた水田、道路のこまごまと整備された街並みも見える。
「月が太ったぞ」
 ジンさんが叫んだ。
 最初は半月だったのが、今は十三夜ほどに満ちている。そのおかげで三人の周囲に群がり咲いている花々の一つ一つと、彼方の遠景の街とがくきやかに見えた。
「あの町はどこ?」
 羽戸がささやいた。
「諏訪かな、どこだろう?」
 レノンは何度もまばたきした。その街にはここからの遠目に眼立つモニュメントは見えない。平凡な地方都市のようだった。
「諏訪じゃないわ、湖がないもの」
「ぼくは」
 レノンは声を詰まらせた。喉まで出かかっているのにふさわしい言葉が見つからない。いらいらと頭を振って周囲を見回すと、背後の銀座久我ビルのギャラリーは消えて、周り全部が白とピンクのコスモスの海だ。風のまにまに花々は揺れ、爽やかな草の匂いが気流といっしょに高く低く動く。
 上天の月はさっきの十三夜からさらにまろやかに満ちていた。皓々と輝く淡い金色の月面の影は兎、いや、レノンにはさっき自分が折り取って殺めたコスモスの嬰児の顔に見えた。くしゃくしゃした眼と鼻と口。無力で無垢な生まれる前の命のメタファ。
 風が強くなり、あおられた自分の長い髪が回りのコスモスに絡みつくので、亜珠子はうなじで髪を握った。右左を見ると、羽戸もジンもいない。花野の中でいつのまにかひとりだった。星の雫と月の露が天から雪のように降りて、傷ついた花々を潤し、癒された大地は静かにきらめいている。亜珠子自身も淡雪のような露に濡れて立ち尽くしていた。
「どこかに海があるの?」
(ぼくは何の慰謝を求めてこの浄められた光景をパラレルに見ているのか?)
 亜珠子がつぶやくと、花々はいっせいに高く透きとおった笑い声をあげた。風のざわめきと聞こえたのはコスモスの声だった。言葉のない無垢な感情だけの笑い声は小鳥のさえずりのようだ。嬰児たちは小さな口を開けて笑っていた。天地にあふれる花々のユニゾンは潮騒に似ていた。
 

ベスト・サンクチュアリ  Pth 5

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  ベスト・サンクチュアリ

 亜珠子の鹿香失踪事件は結局うやむやになった。亜珠子は獅子ケ谷を脱け出した経緯を何も覚えていないと言い張り、着衣にも身体にも外傷がないのだから、莉珠子には強いて真相を究明しなければならない理由がない。
 誰かにこっそり連れだされたにしても、とにかく本人が無事なのだから、警察沙汰にことを荒立てるのは面倒だった。
 亜珠子がいっとき行方不明になったことよりも、そのあと彼女が意識を取り戻し、嗜眠症の莉珠子などよりずっと健康に日常生活を再開したことのほうが驚異だった。
「りっちゃん……」
 呼びかけられて瞼を開くと、カナリア色の薄い部屋着を羽織った亜珠子が、ベッドに寝ている莉珠子の顔のほぼ真上から覗き込んでいる。亜珠子の背後から窓明かりがカーテン越しのソフトフォーカスで差し込み、衣装のカナリア色に反射して、亜珠子は柔らかい淡黄のオーラに包まれているように見えた。
「おはよう」
 おはよう、と莉珠子は口の中だけで応え、枕元の時計を見た。午後二時。東南ウィングの莉珠子の部屋の光は午後のものだ。この時間、太陽の直射は亜珠子の部屋の方に移っている。夕顔の緑蔭に覆われ、亜珠子の部屋は西陽があたっても涼しい。一方、莉珠子の室内に回りこむ夏の光は静かだった。
 亜珠子はみずみずしい笑顔を浮かべている。目の周りから頬にかけてのゆったりした血色は、新鮮な桃のようだった。目覚めて以来、三度の食事をきちんと摂り、熱心にリハビリを続けているおかげで、ガラス細工のようだった亜珠子は日増しに精気を増している。亜珠子は長い髪を背中に垂らしたままだ。春夏秋冬常に室温二十五度に保たれた完全空調の屋内だから汗もかかない。
「あっちゃんいつ起きたの?」
「今朝五時に。最初に大宮公園まで散歩に行って、帰ってきてから軽く朝ごはん食べて、ソファでうとうとしてたらヘルパーさん来て、昼ごはん作ってくれたわ」
「大宮公園に早朝散歩?」
 莉珠子は驚いてむくっと起き上がった。初耳だった。自宅から一キロ半ほど離れた武蔵野疎水沿いにある八幡宮公園だが、足弱のはずの亜珠子はいつのまにか普通人と同じ程度の健脚を取り戻しつつある。
「往復どれくらいかかるの?」
 亜珠子はにっこりと小首を傾げた。人差し指をかるくまげて立て、ピンクの頬のえくぼあたりに添える。まるでネット画面に頻出するアイドルスマイルだ。器量よし、明るく可愛いという共通項でくくる、誰でも無数に交換更新可能な微笑。莉珠子は襟足にひゅっと冷たい風が触った気がして首をすくめた。
(亜珠子さん、こんな顔したっけ?)
 莉珠子の鳥肌を知らぬげに亜珠子は、
「片道二十分くらい。お宮さんの境内をちょっと歩いて往復約一時間強。朝早く行くとね、動物がいっぱいいて楽しいのよ」
「ああ、ワンコのお散歩タイム」
 うふふ、と亜珠子は両手を背中に回してスキップするようなはずみをつけて後ずさった。亜珠子が部屋の真ん中で爪先立ちし、背中で腕を組んだまま、バランスよくくるりと一回転すると、カナリア色のリネンカーディガンの下に着た白いキャミソールワンピースの裾がひらりと夕顔の花弁のように開いた。
「あっちゃん?」
 莉珠子の喉がひりひりする。莉珠子の記憶フォルダーのどのページをクリックしても、ダンスステップを真似る亜珠子の動画は出てこない。唖然とする莉珠子を観客にして、亜珠子ははしゃぎ続ける。
「手足があるっていいわ。何ていい気持なんでしょう。動けるって、思い通りに歩けるってすごい」
「そうね、そうよね」
 そうに違いない、亜珠子は突然元気になったために躁状態に違いない。ずっと動けなかった、寝たきり、傾眠状態で、若年性認知症で……。
(脳味噌は委縮していたはずなのに)
 十年以上前、CTスキャンで撮影した亜珠子の脳断面図の記憶が莉珠子の瞼の裏を数コマのテロップとなって疾走する。胡桃の実にかたちのよく似た脳は、素人の莉珠子にもわかるほど、はっきりと、ところどころ灰色に硬化していた……いったん壊れた脳細胞は再生しない。ところが、目の前の亜珠子は新鮮な活力に満ちて仕草にも言葉にも全く欠損がない。
 亜珠子は両手を左右に大きくひろげた。
「ワンコだけじゃないわ」
 何? と莉珠子は目をまるくした。
「出会うのは犬や猫だけじゃなく、いろんな動物。みんなあたしに付いてくるの」
 ほら、と亜珠子は両手を翼のようにひろげたままくるりと莉珠子に背中を向けた。
「ごらんなさい」
 つやつやした亜珠子の黒髪は水分を含んだ海藻のように足首までたっぷり届く。亜珠子はうなじに両手を差し入れ、自分の髪を反物のように持ち上げた。宙に浮いたぬばたまがさらりと末広がりに拡がると、ほら。
 最初に金茶色の両目が莉珠子を見た。アーモンド型で、クレオパトラの化粧のように濃い縁取りのある吊目は猫だ。にゃ、とかぼそい声が聞えると、痩せた三毛猫が亜珠子の髪の中から現われた。ふぞろいでばさばさの毛並。おどおどした顔つきで、牝猫は部屋のカーペットの上に降り立った。そのあとに三匹の仔猫が次々と亜珠子の髪の毛の中から転がり落ちてきた。三毛猫の子供たちだろう。どの仔も痩せてよろよろしている。中の一匹は耳がちぎれ、片目が潰れていた。
「あっちゃん、何の手品? マジック?」
「その子の目はねえ、鴉に突つかれちゃったんだって」
「だから? どうして髪の毛の中にしまってきたのよ」
「まだまだ」
 ふう、と溜息を吐いてうちひしがれた様子のコーギーが出てきた。見るからにシニア犬でハアハアと呼吸が荒い。前足に怪我をして血が滲んでいる。ぼろぼろの毛皮は何かに縛り付けられて無理やり引きずり回されたようだった。暗くすさんだ目をしてコーギーは莉珠子を上目に眺めると横を向いた。
 にゃあにゃあと仔猫たちは母猫にまつわりついているが、母猫はぐったりと床に横たわり、呼吸のたびに毛皮の下で痩せた肋がぎょろぎょろと動くのだった。たるんだ腹に仔猫はしがみつくが乳は出そうにない。
 どすん、とレトリバーが身体を揺すって出てきた。ラブラドルなのかゴールデンなのかはっきりしない。全身の毛皮が擦り切れるほどあちこち殴られて傷だらけだ。尻尾は途中でちぎれ、後ろ足の第二関節から骨が露出していた。
 莉珠子はこらえきれず悲鳴をあげた。
「やめてよ、亜珠子さん、なんでこんなかわいそうなものを」
「付いて来ちゃうんだよ」
「どこから」
 みゅう、と猫のような呻き声といっしょに汚れたテリヤが出てきた。使い古しのモップのようにぼろぼろの毛をして、前髪の隙間からわずかに覗く両目は絶望に濁っていた。それからまた野良猫、仔猫、捨て猫、捨て犬……。亜珠子のみどりゆたかな黒髪からぞろぞろと悲しい動物が転がり出てくる。
「みんな捨てられたの。殺されるんだよ」
 それはわかる。これはあちこちに見かける殺処分反対ポスターの動物たちだ。いや、ポスターの動物たちはこんなに汚く傷ついてないけれど、死の予感と絶望と嘆きに満ちたまなざしは同じだ。この子たちはもはや人間の暴力にあらがう気力はなく、牙を剥き出すでもない、ただうずくまり、苦痛にふるえ、死に怯え、同時に早く楽になりたがっている。
 莉珠子は半泣きになった。
「髪の毛の中に、亜珠子さんこの子たちを隠してるの?」
 亜珠子は後ろ向きのまま答えた。
「いっときね。そら、よく言うじゃないか。髪は魂だって。亜珠子はイノセンスだからイノセンスな魂が寄ってくるんだ」
 亜珠子の澄んだ声は変わらないが、いつのまにか話し方が変わっている。
(このシニカルで突き放した口調はどこから来たの?)
 いつのまにか莉珠子の部屋は傷だらけの殺された動物たちでいっぱいだ。
(この子たちは生きてない。亜珠子さん、動物霊をしょってきた!)

「こわいお話ですね」
 パメラは銀色のブラウスに白のスラックスを穿いていた。ブラウスはウエストがしまったテーラードタイプの長袖で、ヨーロッパの民族衣装のボディスに似て、胸前を編み上げ靴のような紐で交互に締め上げている。胸元が強調されるタイトなデザインだが、生地が無彩色なのでエロティックな印象はない。それにパメラはスレンダーだ。両袖の部分だけシースルーだった。髪は後ろで簡単に束ねていた。彩りのない衣装のために、髪の金色と瞳のエメラルドグリーンが余計に鮮やかに感じられる。
 通常の職業カウンセラーはパメラのようなゴージャスで印象的な衣装は着ないはずだ。魅せるのも仕事のうち、いや魅せるのが仕事というセラフィストパメラなのだった。パメラを見ていると莉珠子は同性であってもいい気持になる。この怜悧であでやかな美女が、まるまる一時間真剣に自分の悩みに耳を傾け、日本的な情緒用語を当てはめるなら「親身になって」くれる感触は、他には得難い快楽かもしれない。いや、カウンセラーの受容は親身とはやや異質なポジションなのだけれど。
「ええ、こわかった。目が覚めたときは夢で良かった、と心から思ったんですが、その夢は細部までものすごくはっきり記憶にこびりついて、とても夢とは思えないんです。それにあたしはナルコレプシーで眠っているとき、これまでほとんど夢を見たことがなかった」
 莉珠子は膝の上でハンカチをくしゃっと握った。手のひらに汗をかいている。莉珠子はカジュアルなアニエス・bを着てきた。往復タクシーだから街中でおしゃれをみせびらかす愉しみはないのだが、武蔵野郊外から都心の麻布まで出てくる気合いをこめてのブランドだ。張り合うつもりはないが、パメラのファッションセンスとバランスしようとしているのかもしれなかった。
「今まで夢を見たことがない、記憶がない、ということでしょうか?」
「そうですね。たぶん夢を見ていても覚めた瞬間に忘れてしまって思い出せない、というのが普通だったのに、この夢はほんとうにはっきりしていて、数日経っても、ぞろぞろと部屋に動物があふれた情景の恐怖が消えないの。いえ、それどころか」
 莉珠子は言いかけて口を噤んだ。喉が渇いたと思う。何か飲みたい。
 すっと目の前にハーブティーが出てきた。可愛らしい小花模様のミントンのマグカップだった。心を読まれた驚きよりも喉の渇きの生理的欲求のほうが強かった。パメラはいつお茶を淹れてくれたんだろう、どこにティー・ポットがあったか? などと疑念も湧いたが喉に適温のカモミール茶の芳香に癒されてしまう。
「おいしいわ」
 ほのかな甘みが嬉しい。
「落ち着きましたか? 顔色が真っ青です」
「ありがとうございます。あの、こんなことお話していいのかわからないんですが、あたし、それがただの夢だけじゃなかったんじゃないかって気がしてるの」
「夢だけじゃなかった、ですか。現実の部分もあったということですか?」
 パメラは髪をかきあげて目を細めた。すると目元に軽い小皺がより、アンドロイドのように欠点のない顔が、ふと人間味を帯びて温かく見えた。
「ええそう」
「野川さんのお気持ちに差し支えない範囲でお聞かせくださいますか?」
 美しい日本語だ。
(それにシーラの声に似ている)
 が、今はシーラは後回しにしよう。
「こんなこと信じられないんですが、目が覚め、ああ夢で良かったと思って起きあがり」
「はい」
「それから、あたしはたぶん今みたいに喉が渇いて、飲み物が欲しかったので、冷蔵庫のところへ行きました。うちは母とあたしの部屋と、台所とそれぞれ冷蔵庫があります。ベッドから降りて部屋を横切ろうとしたとき、壁際のキャビネットのガラス扉が割れていたんです。あたしの腰くらいの高さの家具ですが」
「ガラスが割れていた。どんな具合に?」
「二枚の引き戸になってるんですが、そこに嵌まっている曇りガラスが両方とも粉々。まるで叩き割ったように」
「叩き割った。音は聞こえなかったのですね」
「ええ、何も。キャビネットの中にはティーカップとかソーサーとか、ちょっとした食器がしまってあります。それも殆ど割れてしまって。テーブルのクロスもずたずた」
「テーブルクロス、ですね」
「はい、まるで、猫がいたずらして引き裂いたみたいな感じ。何匹もの猫がよってたかって爪を立てて」
「夢には猫がたくさん出てきたんですね」
「そう。痩せこけて怖い顔をした猫、しょんぼりとうなだれた犬、傷だらけの子、みんな絶望を目にいっぱい溜めて。ああ、先生、すごいことですね、人間が泣けるというのは。動物たちは涙なんか流さないけれど、ものすごく視線は雄弁なの。こわかった」
 莉珠子は自分の肩を抱きしめて震えた。
「あの子たちはひょっとして本当にあたしの部屋に来たんじゃないか。あたしはぞっとしました。テーブルクロスを持ち上げると、亜珠子さんの髪の毛が二三本くっついていました。ふだんなら別に驚かないことです。亜珠子さんはしょっちゅうあたしの部屋に来るし、お茶を飲んだりお菓子を食べたりするから」
「髪の毛は本当に亜珠子さんの?」
「長い長い髪の毛。一メートル三十センチはあるわ。とても豊かで真っ黒で、お姫様の髪のようなの。その中から動物たちが」
「はい。でもそれは夢ですね」
「ではクロスの破れは? キャビネットの粉々のガラスは? ポーンじゃないし。ポーンはシーザーの使者なんですけど、物理的な破壊はしません。おしゃべりで嫌味な奴だけど、暴力はふるわない。誰もそんなことをするはずがないんです」
 ハーブティーの効果が薄れ、莉珠子が震え出して感情失禁しそうになったので、パメラはおもむろに口をはさんだ。
「ポーンはあなたがたを監視というか、エイジレスサプリメントの素材として保護してくれるのですよね。あなたのお話をうかがうと、社会常識では信じられないことが多いです。けれどありえないことではない。ある社会のある階級ではプライバシーというものは存在しないのです。人生劇場の仕掛けと心得てそれぞれの役割を演じる」
 パメラの声は晴朗だった。莉珠子の目の中に、この瞬間のパメラの声音の響きにふさわしい曇りのないヴァイオレットが大きな旗のように翻った。
「それは」 
 莉珠子はちょっと間を置いてから、
「ロイヤルファミリー。世界の大富豪、ビリオネアとか、特別な階級のことですね?」
 パメラは気持ちの良い微笑を浮かべた。高貴でありながら親しみやすい表情だ。
「個人であることが許されない人生を生きるひとは大勢います」
「例えばエリザベス一世? パメラ、彼女はあなたの先祖かしら、もしかして」
 パメラはただ微笑している。その笑顔に彼女の感情は読めなかった。カウンセラーは原則自分のプライバシーを明かさない。ルール違反は莉珠子のほうだった。莉珠子はすぐにそれに気づき、自分の方へ話を戻した。
「わたしは庶民です。年をとらないように見えるというだけで平凡な民間人」
「エイジレスは平凡とは言えません」
 パメラは珍しくきっぱりと断定した。 莉珠子は頷いたが、今自分が直面している事態のほうが焦眉の急だった。
「先生、お気付きでしょうけれど、あたしは最初にこちらに伺ったときと今とでは、悩みの内容がまるで違います。一か月前にインテークを受けたのは、ターミナルにさしかかった母との決別、彼女の死の受容がテーマだったと思います」
「そのとおりです」
「でも一週間前に亜珠子さんが目覚めて、失踪して、発見されてからは、彼女はどんどん回復し、もうターミナルとは言えないの。あたしみたいにナルコレプシーじゃないから、早朝から夜遅くまで起きているみたい。きちんと三度のごはんを食べて運動しています。蜉蝣みたいにガリガリだったひとが、今ではつやつや。だから、彼女の死の心配は当分しないで済みます。それだけならカウンセリングは終了のはずですね?」
「野川さんがそうなさりたいなら」
 莉珠子はかぶりをふった。汗は出ていないが額にハンカチを押し当てる。両手に握りしめていたハンカチはぐしゃぐしゃだ。
「ところが、違う悩みが始まりました。今日お話しした夢はやっぱり現実の部分があって……部分というのか、真実なんです」
「真実があるのですか?」
「ええ、亜珠子さんは昔の亜珠子さんと違うひとみたい。若年性認知症が完全に回復するなんてありえません。脳細胞は枯れていたはず。なのに彼女はクリアで快活」
「人が変わったような」
「ええ。あたしは嬉しいんですけど、馴染めない感じもある。怖いっていうのかしら。だからあんな夢をみたのかしら? 覚醒した亜珠子さんへの怯えから? でも割れたガラスや引き裂かれたテーブルクロスは?」
「疑問がいっぱいありすぎる」
「そう。あたしはちょっとおかしいんじゃないかしらなんて考えてしまいます」
 それから莉珠子は黙ってしまった。
 コチコチ、と掛け時計の秒針の音がはっきり聞えた。冷えてしまったカモミールの香りも嗅覚に強く触れてくる。
パメラは腕時計に目をやり、
「野川さん、約束の時間を過ぎてしまいます。カウンセリング時間の延長はできないのですが、もしよろしかったら、次回簡単な心理検査を受けてみませんか?」
「え? 検査。テストですか」
「はい、バウムテストといいます。描画テストの一種で、画用紙に一本の実のなる木を描いていただき、クライエントの内面を推定します。野川さんは画家ですし、取り組み易いのでは?」
「自宅で描くのですか?」
「いえ、このカウンセリングルームで。その場にわたしも同席します。描くのは野川さんですが、カウンセラーとクライエントの相互作用も絵に現われるのですよ。このカウンセリングの行方も推し測れるかも」
「おもしろそう。あたしが変か変じゃないかとか、わかるんですね」
「野川さんは変ではないと思います。混乱していらっしゃるのでしょう」
 パメラは軽く顔を左右に振って笑った。金色の巻き毛が秀でた額から頬にかけてふさふさと揺れる。ボッチチェルリの描いたシモネッタのように清潔な横顔だ。
(このひとこそ、本当は何歳なのかな?)
 美容整形しているかもしれない、と莉珠子はパメラの顔を眺めながら思った。だからといって莉珠子の目に映るパメラの魅力が減るわけではない。美しいということは視覚に無条件の快楽だ。
目の周りをマスカラやシャドーで濃く強調するのと、皮膚を剥がし骨を削って顔面工事するのと、多少歩幅は異なるが、五十歩百歩程度の相違に過ぎない、と莉珠子は思う。

 雑踏。体温と体臭を持った数知れぬ人間のざわめき、足音。扁平な騒音から時々飛び出す甲高い誰かの笑い声。梅雨空から湿度は退屈なプラスティックのようにのしかかる。目に見えない低気圧。拭いても滲む汗のような鬱陶しさでぺたりと皮膚に貼りつく気圧。色とりどりの洋服と傘、色とりどりの視線、たった今傍らを通り過ぎていったハンサムな男の印象がすぐにウィンドーのデコレーションに吸収される繁華街。アイスクリームか白ワインでもおごってよ、そしたら覚えていられるあなた。もしかしたら恋人、ボーイフレンドになれたかもしれない君の記憶。この街はどこだ。どこでもいい。
「レインボー・スプラッシュ・フラッペをください」
 亜珠子はパーラーのウエイトレスに微笑んで見せる。学生アルバイト風のウエイトレスは亜珠子の笑顔につられるように、営業用スマイルよりも感情のこもった笑顔を返した。人なつこい質なのだろう、そして午後五時の店内はお茶の時間のピークから逸れて隙なせいもあって、彼女の笑顔は従業員の顔から若い女の自然な驚きの表情に変わり、亜珠子の注文を受けたあと、
「すごい長い髪、きれい」
 友達に言うような口調だった。ウエイトレスの目には亜珠子は高校生か、大学生としたら学部の一年生くらいにしか見えないはずだ。きっと自分より年下だと思っている。ウエイトレスの視線に嫉妬が混じらないのは亜珠子の飛びぬけた可愛らしさといかにも裕福そうな身なりのせいだろう。
 椅子に座った亜珠子は背中の髪を片側にまとめて膝に置いていた。生地のよい薄紫のコットンツーピース。亜珠子が十年以上も昔に買い込んでクロゼットの中で眠っていた衣裳。白い被布の籐籠バッグ。足元は紺と白のボーダー柄のエスパドリーユ。貝殻を模した銀のピアス。それとお揃いのブレスレット。マニキュアは塗っていない。
 まだ若いウエイトレスは、計算高く客の頭から爪先まで値踏みする。自分よりはるかに豊かなバックグラウンドを持つに違いない亜珠子に妬みの表情を見せたりしない。
 亜珠子は両眼をわざと大きく見開き、
「え、小さいころから長いの」
「そうですか」
 娘は従業員の顔に戻った。このパーラーは銀座に本店を持つ老舗で客筋は上々だった。ティーンエイジャーが集まる甘味屋ではなく、ある程度年齢を重ねた、経済的にゆとりのある女性客がほとんどだ。いかにも高級そうな店構えで、十代後半に見える亜珠子が連れもなしにふらりと入れば目立つ店内だった。
 虹の飛沫のかき氷、はパーラーの今夏目玉商品で、この情報を亜珠子はネットで見つけた。ガラス器の最下層に蜜煮の無花果を入れ、ふわふわのかき氷を積む。氷の中にはアプリコット、ラズベリー、ブルーベリー、白桃、マンゴー、苺、さくらんぼ、などなど、何種類ものフルーツピースが贅沢に詰め込まれている。かき氷というよりは、果物を積んで氷でコーティングしたようだ。氷山のトップは生の夕張メロンソースをかけたヴァニラアイスクリーム。薄緑のメロンソースはその日のうちに使い切る自家製ということだった。
 やがて運ばれて来たフラッペはトップのクリームまで高さが三十センチもあろうかというヴォリュームだった。アイスクリームの腹にはマゼンタのブーゲンビリアが一輪挿してある。色鮮やかなフルーツのてんこ盛りはまさに虹の器だった。
 氷の中でフルーツピースも程よく冷えている。苺などは歯ごたえに快い程度に凍っていた。亜珠子は柄の長いスプーンで氷を崩しながらゆっくり食べた。莉珠子がカウンセリングに出かけた隙に、こっそりと今日は遠出してきたのだった。
 氷とアイスクリームが口の中で溶け、噛み砕いたフルーツピースと一緒に食道を下ってゆく。ベリーの芳香とメロンソースのなめらかな舌触りは、鼻腔の奥から顔じゅうにひろがり、虹の味覚の幻想が眼がしらまで浸透するようだ。
(虹いろはやっぱりお菓子よね)
 雨音が虹色に見えると莉珠子は言うけれど、雨には味がないものね、と亜珠子はしきりに食べ続ける。五感にひろがる新陳代謝の感覚。食物を摂りこみ、味わい、自分の肉体が口に運んだ美味によって養われる快感を亜珠子は楽しむ。
(この前かき氷食べたのはいつだっけ) 
 亜珠子=レノンは考えて、匙を止めた。鼻の奥で木綿糸がぷつりと切れたような虚しさがある。
(そうだ)
 思いがけずつらいものをひきだしてしまったことにレノンは眉をしかめた。
(ぼくかき氷食べたことないや)
 だって六歳から眠っちゃったんだもんね。
 諏訪の星隷ミカエルで、ずっと経管栄養だったレノン。では亜珠子は?
 カランコロン、とレノンは亜珠子の乾いた脳細胞を爪先で蹴った。レノンのヴィジョンの中で亜珠子の崩壊した記憶はサッカーボールのように小さく縮んで読み取れない。
 レノンは気を取り直し、ざっくりとアイスクリームと苺を掬って口に運ぶと、鼓膜に響く音をたてて氷を噛み砕いた。ガリガリ、ばりばり…それからスプーンを氷の山に深く突き入れた。フラッペのバランスが崩れて、何種類かのベリーが氷といっしょにテーブルにざらっと零れ落ちた。
 匙の尖端が器の底の無花果に突き刺さる手ごたえがあった。同時に亜珠子は無意識に両膝をひきしめた。尿意によく似た下腹部の疼痛が来たのだった。痛い? 
 何これ、とレノンは足の上下を入れ替え、組みなおした。それから匙をそのままにして手洗いに立った。何これ?
 五分後にテーブルに戻った亜珠子は、かき氷に斜めに突き刺さしたスプーンをひきぬくと、匙の凹みにこびりついた蜜煮の果肉を、尖らせた舌先で舐めた。

 A4の画用紙の縁に、パメラはまず緑の色鉛筆で枠を描いた。彼女の瞳と同じ色彩だが、エメラルドのように青味がかってはいないビリジアングリーン。
「この枠の内側に一本の実のなる木を描いてください」
「縦書き? 横書き?」
「ご自由にどうぞ。カウンセリング時間内であれば、時間制限もありません」
「着色しなければいけませんか?」
「いいえ。黒だけで十分ですが、色付けしたいなら色鉛筆を使ってもいいですよ」
 パメラはベージュのブラウスを着ていた。白に近いアイボリー。カッティングをわざと曖昧にして、上半身全体に薄い生地がふわっとまつわりつく感じは、ルネサンス絵画に描かれる天使の衣か、ギリシアの神々のまとう巻衣のようだった。それに黒のスリムパンツ。
 今日も彼女は無彩色だ。碧の眼と金髪、そして定位置に座った彼女の背景となるレリーフの孔雀も碧。この部屋の白と黄金と碧の組み合わせは天上的なまばゆさを湛えている。
莉珠子の目の前には、ありふれた十二色の色鉛筆、消しゴム、画用紙。白い画用紙にパメラの枠づけした緑のラインは安心感をくれた。緑の窓、そこから覗き見るわたしのインナー・ツリー。
 莉珠子は画用紙の上から三分の一あたりに
黒い鉛筆で地面の線を横に描いた。まっすぐではなく、地平線のようにやや湾曲させた。 
大地のちょうど真ん中に、莉珠子はさらさらとを幹と枝を描いた。クロッキーよりも雑なタッチで、あまり太くない幹と、その上方に数本の枝を分け、廻りに樹幹の雲形をもくもくとかぶせ、樹冠の中には林檎を三つ四つ描きこんだ。用紙の上三分の一しか地上の空間に使わないので、それでほぼ埋まってしまう。莉珠子は最後に大地と樹木の接点に樹の根を三本描き加えた。
 画用紙の下三分の二は白紙のままだ。
 莉珠子は頬杖をついて緑の枠の中のインナー・ツリーを眺め、顔をあげてパメラを見た。莉珠子と視線が合うと、パメラは肯定するように笑った。透きとおるようなグリーンだ。黒い眼の日本人莉珠子には、この透明な眼が脳につながり、明暗清濁いろいろな感情を伝達するということが神秘的に思える。
「あたしの実のなる木は、まだ続きがあるんですけれど、これ以上描いてはいけないのかしら?」
「続きがあるのですね。納得なさるまで描いていいですよ」
 莉珠子はうつむいて鉛筆を握りなおした。
 三つの根から地中に向かってそれぞれ一本づつ川が流れている。根の続きではなく水の流れる川なのだった。川は地の底で湖となり地下空間は湖の周囲で夜空に変わる。地上の樹冠よりも大きな湖を莉珠子は描いた。湖の中には島があり、中世ヨーロッパのような城がそびえている。高い塔と壁、物見櫓。水中には魚がたくさん泳いでいる。
 湖の周囲は大地なのだが、宇宙空間でもある。莉珠子は黒鉛筆を捨て色鉛筆を取った。
 金色の星、流れ星。林檎の数よりはるかに多い数え切れないほどの星々。星の隙間には赤やピンクの花を描いた。薔薇か、芥子か、宇宙空間には星のきらめき、大地には風にそよぐ花々を。
 次第に絵に集中し、自分のヴィジョンに没入してゆく莉珠子にパメラは眼を瞠った。
莉珠子は頬の輪郭も手のかたちも、下を向いた拍子に襟ぐりの大きく開いた肩先からのぞく背中のかぼそさまで、成長期の真っ只中にある未成熟な少女そのものだった。目に映る全身の皮膚は、内側からあかりが灯っているようにすみずみまで潤っている。
(この子の首筋に噛みついたら…吸血鬼のように)
 青林檎の歯ごたえをパメラは連想し、軽く唾を飲んだ。
 それからパメラは、自分の性的な食欲へのアリバイとして、愛咬癖のある従弟を連想した。吸血鬼はみな美貌だ。病的な従弟も例に違わず人を惑わす容姿に恵まれている。エイジレスサプリメント・ユメテルナを彼も服用しているかもしれない。その原料を従姉がクライエントに迎えていると知ったら、従弟は日本まで飛んで来るかもしれない。だが来ないだろう。
 日本にはジェンティーレがいるから。
 いや、切望するだろう。 
 ジェンティーレと莉珠子を食べてしまいたい、と。

シミュレーション・グラデーション  Pth 4

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  シミュレーション・グラデーション

  イルカはね
  仲間がつかまると
  にんげんにつかまると
  わざわざ戻って 
  仲間といっしょに
  にんげんにつかまって
  ころされちゃうの
  知ってたダーリン?
  あんたがあたいを好きだって
  どのくらい 
  正味なんぼの愛?  

  イルカはね
  にんげんの言葉がわかるし
  水の言葉もわかるし
  風の声も聴く
  仲間が襲われると
  自分だけ助かろうなんて
  しないでいっしょに
  ああ、かなしいね
  いっしょに死ぬために
  仲間のところへ
  戻ってくるの

  ねええダーリン   
  あんたの愛ってどんなもん?
  あたいがイルカだったら
  ダーリンいっしょに
  死ぬほどキスしてくれよ
  正味なんぼの愛
  イルカだったらダーリン
  いっしょに海に血を流し
  にんげんに殺されても
  愛してるって
  イルカはねダーリン

 だあありいん、というリンスの投げやりなフレーズが客席に投げ出されて暗転した。シャンプーのオカリナが暗闇のなかで物悲しい主旋律をひっそりとリフレインしている。それから旋律はすこしずつ転調し、速度を変え、波紋の綾のようにゆっくりと消えた。旋律の途中でふっと、呼吸が途絶えるように歌は「息絶えた」
 数秒の静寂。ギャラリーに立ち見寿司詰め聴衆は約100人。ぱん、と最初はジンさんがしおを心得て両手を打ち合わせた。遠くでぱちぱち、と控え目な拍手は受付嬢たちに違いない。それからわっ、という勢いでギャラリー内に喝采がふくれあがる。
「いつもながらシャワーの歌いいね」
 エキセントリックなバラッドのメロディとリンスの説得力のある声に、莉珠子が息を呑んで固まってしまったところに、後ろから声が来た。
「お、シーラ、来てたの」
「来てたよ。最初立ち見だったけど、席譲ってもらった」
 ジンさんは拍手しながら顎でうしろを振り返った。
(え、この声)
 パメラにそっくり、と固唾を呑んで莉珠子はジンさんのアクションをなぞって振り返る。
「美人は得だぜ。シーラさん来ると知ってたら特等席とっといたけど、ちゃあんと」
 ジンさんは上半身ひねってシーラに話しかけ、拍手していた両手を嬉しそうに揉みあわせた。隣の莉珠子へ顔をめぐらし、
「オーナー密着席はこの子がとっちゃった」
「かえってよかった」
 シーラはジンさんにずけずけと答え、莉珠子には愛想よく笑顔をくれた。
「こんばんは。ニューフェイス」
「はじめまして」
 聴けば聞くほどシーラと呼ばれた少年、いや青年の声はパメラに似ている。声だけでなく、世間普通には、ちょっとお目にかかれない端麗な容貌という点も同じだった。二人の顔だちがそっくりというわけではない。
(美人度、美度同一だわ)
 シーラという女名前だが、こちらはまだ二十歳前後の青年で、黒いシルクの長袖シャツに、やはり光沢のあるスリムパンツをはいていた。シャツはいたるところめったやたらにかぎ裂きがあり、自分でわざと鋏をいれたのか、そもそものデザインなのか薄暗がりではよくわからないが、生地の裂けめから覗く皮膚はなまめかしく白い。秀でた額からまっすぐに伸びる鼻筋と、横一文字にやや大きめの唇のバランスが目に快く、シーラは混血に違いない。広い額に弓なりの高い眉、濃い睫毛に繊細な顎、黒髪はうなじでひとつに束ねている。時折はらりと顔に垂れかかる前髪の感じもパメラを連想させるのだった。
 顔といい姿といい、シーラの容姿にはどこにも荒削りな男性性がないのだけれど、莉珠子には少女が男装しているとは思えなかった。
 何かの拍子にシーラがジンさん寄りの姿勢を変えて莉珠子のほうに向きなおったとき、シーラの左胸ざっくり切り裂かれたシャツの隙間から平らな胸とそこに刻まれた緋色のタトゥが見えた。
(羽根と蛇? 黒い羽根に蛇がからみついている。なんだろう。中世ヨーロッパのエンブレムみたい)
タトゥを見せびらかすためなのか、胸の切り裂きは他の部分より大きめだった。
「どこで拾ったの、この美少女」
 シーラは長い睫毛を思わせぶりに打ち合わせ、ジンさんを睨んだ。
「古株よ、シーラさん。君よか十年もっと前からのつきあいだもん」
 ジンさんはプラスティックコップのビールをぐいっとうまそうに飲んだ。シャワーへの拍手は止んだが客席はまだほの明りのままだ。
「十年以上って、この子がまだ」
 シーラが優しい仕草で首を傾げるのに、
「と思うでしょ。リス、言っていい?」
「いいけど、信じてもらえるかな」
 ジンさんはへらりと笑い、ちょうど目の前に回ってきたポテトチップの皿から二、三枚摘まむと、煙草の脂のついた前歯をわざと見せてパリリと噛んだ。
「シーラ、リスはね、永遠の少女なんだよ。リスと彼女のママさんは、十代のまんま、もう一世紀も生きてんの」
 ちょっと待った、と莉珠子はジンさんの大風呂敷に食ってかかろうとした。あたしたち百年も生きてないジンさんそれじゃお化けだ吸血鬼シーラの青白い美貌はまさにヴァンパイアだけど亜珠子さんは復活したけどどのみちきっともうすぐ死んじゃうのよ。
「へええ」
 シーラは唇を大きく開いて笑った。
「時間旅行してるのね」
「やっぱうまいこと言うなあシーラさん。その通りなんだよ。リスは時間を超えて生きてるんだ」
 本人の同意の一切ないところでシーラとジンさんは意気投合して頷きあい、スポーツドリンクのコマーシャルさながら、さわやかな笑顔で莉珠子を見る。
(この笑顔に疑念はない。いったいこのひとたち何なの?)
 これまで自分たち親子のエイジレス病をディスクロージャーするたびに、数限りなく経験した世間常識の壁がジンさんとシーラにない、ということに莉珠子は逆に不安になる。
(二人とも頭が変なんじゃないかしら)
「あの、勝手なこと言わないでください。あたし病気なんですってば」
「年をとらない病気ね。いいよなあ、リスの肌、十五のまんま、だろ? シーラ」
「ええ、みんながうらやましがる」
「そんな、あたしはすぐに眠くな」
 る、と言いかけたとたん、鼻の奥から脳天にかけて突き上げるような睡魔がやってきた。何かをしゃべりかけていた舌が喉の奥でからまって動かなくなる。
(RK切れ? もう?)
 あらゆる薬物同様、RKも常用は禁物だ、と瞼の中でポーンが雀斑だらけの小鼻に皺を寄せるのが見えた。
「どうしたの、あなた」
 シーラが腕をさしのべてふらつく莉珠子を支えた。
「やあ、眠り姫が始まったぞ。睡眠薬持ってるだろ」
(不眠薬だってば。バッグの中にあるはず)
 が、声は出なかった。そのとき、
 鳩が来たわよ。
 涼しげな声が聞こえた。
(藍色の、雪柳の、ジンさんの娘だわ)
 溶暗のギャラリーにこもるざわめきをつらぬいて、透きとおった声は奥まで届いた。
「シーラ、ジンさん、ハトさんが…」

 アリス…。
 どこからともなく呼びかける声に、ベッドに寝たまま亜珠子は応えた。
「僕はアリスじゃない」
 七夕の夜空は星曇りだった。雨粒は落ちて来ないが、全天に低く重い雲が垂れ込め、いくらか涼しい夜風に乗って、眼に見える速さで上空を動いてゆく。
亜珠子は夏掛けの上の自分の長い三つ編みを片手でもてあそびながら、天使と薔薇模様の壁紙を貼った天井を見つめた。壁紙の幼天使たちはラファエルロ風に肉付きがよく、腕に抱えた花籠から山盛の薔薇を周囲に振りまいている。
 昏睡から覚めた亜珠子の目は天井をつきぬけ、はなびらと天使の向こう側に昏い夜空を見ていた。時に風脚が早まると、厚い雲間から星がわずかに光る。天の川は雨雲に遮られ、小さな星明りでは、ヴェガもスピカもアルタイルも見分けがつかない。だが網膜や水晶体を動かして物を見ているというひさびさの実感は、乾いた砂に水滴が絶えず滴るように亜珠子を歓ばせている。また声がする。窓ガラスの向こう、夜風といっしょに。
 アリス。
「よせよ。ポーンに媚びるのか?」
 亜珠子は両肘をついて上半身を起こした。細い顎を動かして天井をぐるりと百八十度眺める。さながらプラネタリウムの星図を読むように。
 亜珠子の眸は薄茶色で、ガラスのように透明だった。長い時を眠って過ごしたせいで、色素が希薄になってしまったのかもしれない。ベッドサイドのアンティークランプの灯りに、
亜珠子の両目はアルビノで生まれた猫の眼のように血の赤が内側から反射した。
「媚びてない。やっぱりここにいたんだ」
 安堵のこもった可憐な声と一緒に、亜珠子の寝室の天使と薔薇の天井は消えて紺碧の星空に変わった。金銀砂子…きらめきのひとかけらずつが地上に突き刺さるほどに、澄んだ満天の星だ。銀河は白くけぶりながら星合を渡り、両岸のあちらこちらに夏の一等星の輝きがくっきりと見える。星たちの明るさは月光がいくつも集まったかのようだった。
「ここにポーンは来ないわ」
「そうだ、奴らとはもう次元が違う。メグ、おひさ。出て来いよ」
「レノン、なぜ亜珠子に移ったの?」
 天の川の中程に、風間めぐみ、メグが滲むように現れた。まるで銀河の底から浮かび上がったようだった。
 ハローキティ模様の夏パジャマだ。髪は両サイドで分けて三つ編みにしている。
「亜珠子は僕と似たもの同士だからね。莉珠子でもいいんだが、あいつはまだエゴがはっきりしてる。亜珠子はすっからかん。記憶も意志もふやけちゃって、憑依した僕の意のままだもの」
 亜珠子=レノンは無邪気に笑った。
「どうするつもり?」
「遊びたいのさ。君の中に仮住まいも居心地は良かったけど、めぐみはレノンの言いなりにならないからね。僕はせいぜいシーラを寄せ付けない程度にメグを独占してた」
「ええ」
 メグは困った顔をした。
「レノンのおかげであたし、いろんなものを見たわ。いろんな魂、過去の情景」
「僕の力じゃない。メグがもともと持ってるものだ。ただ僕が君と一緒にいると、邪悪な連中が寄ってくる。僕がワルだから」
 あ、は、は、と亜珠子はベッドの上にむくっと起き上がり、無造作にあぐらをかいた。裾のゆったりしたネグリジェなので、あられもない姿にはならなかった。
 亜珠子の露悪にメグはまばたきしながら、
「レノンがワルでも原爆ほどじゃないわ。亡霊も悪霊もジェノサイドはできない」
「ほ、そんな皮肉を言うようになったの。中学生になると違うね。政治意識もお色気の変種だ。シーラはじりじりしてるだろ」
レノンの嫉妬をメグは無視した。
「レノン、遊びたいってどういうこと? 亜珠子さんは、もう長くないんでしょう」
「あと一年くらいかな。ぼくが憑依してこれを酷使するとエネルギーを消耗するから臨終が早まるだろう。機能じたいに老化がない。驚きだよ、ほんとに十八歳だ。関節のこわばりも筋肉の萎縮もないんだから。僕が動かしてれば、じきにすたすた歩けるだろう」
「すたすた歩いてどこへ行くの?」
 メグはつぶらな瞳でレノンを問い詰めた。彼女の背後をすうっと、二つ、三つ流れ星がよぎって消えた。
「行きたいところに行く。実体として」
 亜珠子は立ち上がり、ベッドのスプリングではずみをつけてひょい、と宙に飛び上がると、そのままくるりと回転する。ネグリジェがめくれないよう器用に裾を膝の間に挟み、星空の真ん中に逆立ちした。嬉しそうに、
「この爽快感も久しぶり」
「莉珠子さんのママなのよ」
「莉珠子だって嬉しがってる。寝たきりで会話も出来ない母親よか僕のほうがいい。メグ、僕の正体を明かすな。野暮だぜ」
「レノンが亜珠子になれば、餓鬼や亡霊もここに来るでしょう」
「だから? 何もできないよ。ただ影絵のように莉珠子を驚かすだけだ。そうでなくたってプロジェクション・ワープでポーンやシーザーがしょっちゅう飛んで来ているんだから似たり寄ったりだよ。連中の監視カメラに霊魂は映るだろうか。僕は興味しんしんだが金の亡者どもは亜珠子のエイジレス細胞のほうが超常現象より重要なんだ」
「そうでもない」
 ぬ、とシーラの声が割り込んできた。
 夏の大三角形の頂点あたりから、ひらりと舞い降りる印象でシーラが現れた。額斜めに能面をかけている。ふっくらとした額や頬の風情は小面だが、メグにはわからない。
「莉珠子はユニークだ。彼女と亜珠子が普通に老化しないのは、細胞や遺伝子構造のせいじゃない。ポーンはそれを知りたがり、莉珠子を泳がせている」
「シーラ、男っぷりがあがったな。いや別にメグといっしょにいつも見てたけど」
 亜珠子はまた体をひねって星空の中に横座りになった。夜空の中のメグと亜珠子、シーラの位置は、ごく自然に夏の大三角形に重なった。
「サイコ・ヒーラーの世界だ」
 亜珠子は揶揄半ばにシーラとメグを見た。
 小面をかけたシーラは冷たい顔で、
「人間のしつぶかは修正不可能。驀進する強欲に癒しなど得られない。シーザーには関わらないけれど、亜珠子が動けば莉珠子もついてゆく。彼らも。そして僕らも」
 亜珠子は白い喉を逸らせ、声を出さずに華奢な肩を揺すって笑った。それからぴたっと顎をひき、眉を寄せた三白眼でシーラを見つめた。少女の高く澄んだ笑い声のように亜珠子は喋り出した。
「しつぶかに強欲だって! 王子さまがよく言うよ。能楽鳳凰流宗家千手なにがしのみそっかす、どころか、おまえの母親は欧州最古の王族の一員じゃないか。おまえの美貌、才気、一族固有の超能力、千手紫羅の存在自体、傲岸な欧州アリストクラートが、領民から搾取し、長い年月をかけて練り上げた物欲の結晶だ。おまえが今の日本でふわふわサイコ・ヒーラーを気取っていられるのも、民衆を食い物にしている実家の富あってだろうが」
そこで亜珠子はひとつ息を吸うと、乾いた唇を湿らすように舌なめずりした。
「シーラ、たった今、自分を僕って言ったな、ついにジェンティーレ、ゆかり君に戻るか? 成長期を過ぎて、君のアイデンティティークライシスは誰のおかげで癒された」
 
 癒やされたのか?
 浅い吐息といっしょに瞼を開くと能舞台の柱が見えた。自分は今、世田谷の自宅に戻り暗闇の村雨能楽堂にいる。人けはなく、静まり返っている。自分の呼吸の音だけが耳障りなほどはっきり聞こえる。
 シーラは橋掛かりに横たわっていた。銀座のギャラリーで仲間たちと馬鹿話を交わしていたのではなかったのか、それから次元の環が歪んで獅子ケ谷のメグと亜珠子=レノンにひきよせられた。レノンに見透かされ、彼に少女の声で罵られ、自分は何と言い返しただろう。
「メグはどこに行った」
 最初に口をついて出た言葉にシーラ自身驚かされる。銀河の中でメグは夏のパジャマを着て顔の両側に三つ編みを垂らしていた。あの子に癒された? どうだろう? 癒される、というのは男に戻ってもいい、男性性を受け入れるということかレノン?
「デュランテ・スクリーヴァの血統はそんな単純じゃない。いや、単純かな」
 癒されるというのはメグとセックスすることか、したいと思うことか。去年初潮が始まった彼女は十三歳。十九世紀末なら結婚可能だ。
「レノン、女と寝たいと思うのが癒しなら、僕は十四で癒されている」
 素晴らしい肉体美の従姉ルクレツィア。向日葵のようなブロンドを僕の胸に垂らした。僕は彼女の愛車フェラーリよろしく、彼女を乗せて突っ走った。最初のセックスはアウストラーダ・デル・ソーレを爆走する程度にわかりやすかった。そのまま僕は日本に来た。
「七夕だったのか」
 寝返りを打つと鏡板の松が目に入った。暗がりに緑は深沈と色味を抑えられていたが、拭き磨かれた能舞台自体から自然に発する光を受けて緑の松はうっすらと流麗な雲型を闇に浮かべている。
 すっと切戸口が開いて養父が現れた。正確にはシーラの父親の父親、千手宗雅だ。紺の作務衣を着ている。祖父に見つけられる前にシーラは飛び起きて床に正座し、声をかけた。
「お父さん」
電灯を点さないまま、八十歳近い宗雅は目を細めて薄闇を窺い孫を発見すると、
「ここにいたのか。昨日から姿が見えないと思っていたが」
「母親に呼ばれて銀座に。何か御用ですか」
(昨日? では丸一日経ったのか?)
「弟子から酒が届いたんで、お前と飲もうと思ったんだ」
「いただきます」
 世田谷の住宅街にさりげなく紛れた村雨能楽堂の歴史は古く、明治以来百年に及ぶ伝統を守っている。能舞台に隣接する屋根の大きい切妻造りの昭和家屋は、妻を亡くした宗雅とシーラの二人住いだった。謡仕舞を習う一般弟子の他、時折本家から従兄弟たちが訪れ、鳳凰流シテ方長老に稽古を仰ぐのだった。
 宗雅は八十歳の老人としては上背があるほうだが、三歩下がって後ろからシーラがついてゆくと、自然に見下ろすかたちになる。宗雅の背筋は正しく、足音を立てずに床を歩く腰が低い。行住坐臥、すり足の心得だった。祖父と歩くと、シーラは自分の長身、腰高を恥じる気持ちになる。
「気の早い若い弟子が暑中見舞いにくれたんだが、まあ、子供だましみたいな酒で。おまえに飲ませるにはちょうどいい」
「そうですか」
 宗雅はおもしろそうだった。薄い白髪をきれいに撫でつけた背中が笑っている。
「ヴィオレッタはいつまで日本にいるの?」
「さあ。麻布でカウンセリングルームを開きました」
「儲かるのか?」
「儲かりますね。相談料が破格です」
「ほう」
 いくら、とは宗雅は尋ねなかった。
 渡り廊下から東面に入る。サッシは入れたが庭に突き出た縁側を残した茶室風の八畳間では蚊取り線香が焚かれ、床の間と縁側に和紙の雪洞が灯されていた。窓は開け放たれ、扇風機が回っている。風の音の代りに南部鉄の風鈴が澄んだ音を響かせいる。柱時計に目をやると八時を回っていた。雨の気配はないが、庭の樹木の匂いがふかぶかと座敷のほうまで入ってきている。
 紫檀のテーブルの上に深紅の五合瓶がある。
 色味を抑えた和室でその紅は際立ち、傍らに用意された江戸切子の瑠璃色の杯との対比で、いっそうなまめかしく鮮やかだった。
 肴は紀州の梅干し。九谷の皿に無造作に放り出された感じで木綿豆腐がまるごと一丁乗っていた。座布団に座った宗雅はまず長い箸で肉厚の梅を崩し、それからきれいに木綿豆腐の一角を抉ると、梅といっしょに口に運んだ。その瞬間、上下の総入れ歯が雪洞灯りに豆腐よりも白く光った。胃を労わって、酒よりも豆腐を先に食べる。
「サイダーみたいな酒だ」
 口を動かしながら宗雅は半透明なガラス瓶の鶴首をつまみ、ラベルを睨んで苦笑した。
「今時のきらきら名前とかだ。おまえすぐに読めるか?」
 くるりと指先で壜を回し、シーラに表側を見せた。
「派手な文字だが」
「ええ」
  麗呑
「れ、ど、ん。かな?」
 シーラはわざと間違えた。
「れどんも悪くないが、れのん、だ。発泡日本酒。スパークリングワイン、シャンパンと同じだと。これで大吟醸と言い張る」
「辛口ですね。悪くないですよ」
 シーラはこくんと杯を傾けた。真夏の暑さが粘りつく喉を転がる泡の刺激は快感だった。
 蔵元は信州上田の安宅酒造。
「七月七日新発売。七夕記念だそうです」
「ああ、弟子の…君がわざわざ注文して届けてくれた。おまえめがけてだろう」
 シーラは笑って答えなかった。…氏の顔は覚えていた。四十代後半の裕福な会計士。能の世界で四十代はまだ「若者」。独身だった。千手紫が性同一障害だと彼は知っている。月例会や定例能で顔を合わせるとき、…氏はそっとシーラの傍に来たがるのだった。
「いろいろ御託がありますよ。夏の夜の夢物語。華やかで芳醇なスパークリング大吟醸。数々の名曲を残したジョン・レノンの歌のようにお楽しみください、とか」
「なんだ、恋人向けじゃないか」
「そういうわけでもないでしょうが」
 シーラは宗雅さんの杯に麗呑を注ぎ、自分も次々と干した。五合瓶はすぐに空になりそうな勢いだ。木綿豆腐もあらかた無くなっている。シーラは席を立って台所へ行くと、冷蔵庫から青紫蘇の葉とゴーダ―チーズのブロック、山椒の実の佃煮を持ってきた。チーズをちぎって佃煮を乗せ、紫蘇の葉で包む。シーラは自分が食べる前に、まず祖父に勧めた。
 宗雅は箸を捨てて指で紫蘇の包みを受け取ると、
「その穴だらけのボロ着を代えろ」
 と言った。

  雨あめ降れふれ母さんが 
  蛇の目でお迎えうれしいな
  ほんとによろこんだことなんか
  すっかり忘れた
  嘘でうれしいふりをする
  嘘つきの笑顔を貼り付けて
  自分のありかも忘れてる            
  そうしないとやってらんないの
  あの子はそう言って
  だけどとても澄んだ目をしてる
  自分で自分に嘘ついて
  ほんとのことなんか忘れてる
  そう言ってたあの子
  あたしの彼氏をとっちゃった
  だけどとても澄んだ目をしてる
  雨あめ降れふれ母さんが
  彼氏とあの子の母さんが
  
  嘘ついていつも外は
  雨降りぴちぴちちゃぷちゃぷ
  らんらんらんて
  あたしの涙もらんらんらん
  嘘ついたら針千本の罰なんて
  それも嘘
  彼女はとてもきれいな目
  彼氏はやがて捨てられて
  あたしも別な男といっしょ
  ぴちぴちちゃぷちゃぷ
  あの子はどこに行った
  母さんどこに連れてった
  迎えの蛇の目はどこでしょう
  らんらんらん
  
  嘘のうわぬり恥知らず
  自分のありかを忘れたあたし
  あの子も
  あたしもとても澄んだ目をしてる
  雨あめ降れふれ母さんが 
  迎えに来たら彼氏とあたし
  やってらんない雨の日は
  あの子のように男を捨てる
  ぴちぴちちゃぷちゃぷ
  やってらんらん
  らんらんなあい
  嘘つきの顔を貼り付けて  
  ぜったい何も悲しまない
  ほんとにとってもよろこんで
  大好きよ
 
「おい、気が付いたかい」
 うん、と莉珠子は頭をひとつ振って椅子の背もたれから半身を起こし、猫のように背筋を逸らせた。目を開けると無精髭だらけのジンさんの顔が間近にあり、その煙草臭い息の不愉快で、いっきに目が覚めた。ジンさんの両腕に抱えられていなかったことにまずほっとする。
「あたし眠ってたんですか?」
「うん、シャワーの歌まるごと一曲の間ね。羽戸さんが来てくれてよかった」
 そうだ、ハトが飛んできたとかなんとか。
「ハト?」
 こんばんは、と斜め後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。シーラの記憶があったので振り返ると、ウズラの卵のような雀斑を浮かべたドクター羽戸の顔があった。
「あら、先生、白衣じゃないわね」
「オフよ。クリニックから直行だけど」
 粒の揃ったきれいな歯並びを見せて羽戸医師は笑った。黒い袖なしワンピースに淡水パールのネックレス。
「どうしてここへ?」
「あたしこそびっくりしたわ。こないだの患者さんとここで再会するなんてね。あたしとジンさんは数年来の友人なの。今日のコンサートは前から知らされていたから」
 世間は狭くて広い…いや逆、と莉珠子はまだぼんやりしている頭をもうひとつ振った。
「ジンさん顔がひろいからなあ」
 莉珠子はジンさんからコークを貰い、喉を鳴らして飲んだ。
「でしょお? 俺ッチ美人集め得意なんだ。なんだかわかんないけど、要するに銀座は美女と美男が多いんだなあ」
「それはわかりにくい説明だわ」
「もちろん、こじつけさ」
 しゃあしゃあとジンさんは答えた。こういう駄弁の応酬はきりがないので、莉珠子は羽戸に向かって、
「先生がRKを服ませてくださったの」
「ええ、こないだ聞いてたからね。もうあなたは昏倒してたから無理かなと思ったけど、7分で復活したね。凄いわこの紫の錠剤。分析意欲がそそられる」
「ドラッグじゃないですよ」
 莉珠子は抗弁したが、羽戸の目がきらりと光ったのでどきりとした。リアル・キーパーの成分は本当のところ亜珠子も莉珠子も知らないのだった。覚醒剤、アヘン、そんな成分も混じっているのかもしれない。ポーンの説明では莉珠子の体質にのみ適応する〈専用覚醒剤〉だった。それはやはりドラッグなのかもしれない。
「あたしがずるかったら、一つ二つくすねちゃうんだけどね」
 羽戸は両目を見開いて冗談交じり本気大部分という医者の顔を見せた。
「シーザーが飛んで来るから」
 莉珠子はわざとらしくバッグを大事そうに抑えてみせた。話を逸らせようと、
「そういえばシーラは?」
 羽戸医師の席にはシーラが座っていたのだった。
「あたしに席を譲って、後ろのほうにいるはずでしょ」
 あれ、とジンさんは立ち上がってフロアの混雑を眺め、
「ち、シーラちゃん神隠しだぜ。いつものことだけど我が恋人は風と共に去りぬ」
 その一言で、フロアの喧噪と熱気がジンさんの周囲半径一メートルで冷え込んだ。
「クーラー効きすぎねえ」
 羽戸は強かった。莉珠子はまともにジンさんを批難する。
「奥さんいたんじゃないですか」
 ちょうど受付から鈴音をたてて藍色雪柳の絽小紋が、シャワーの退いた後の舞台に上がってきた。
「奥さんて」
 とぼけるジンさんに莉珠子は小声で、
「あのひと、娘だって言ったじゃない」
 ああ、とジンさんは頷き、
「死んだよ。一昨年ね。もっとも離婚したのはずっとずっと昔だ」
 舞台にあがった雪柳の娘は繊細な顔をきれいな仕草で伏せてお辞儀をした。
「蒸し暑い中、また七夕という伝統的天然ビッグイベントナイトにも関わらず、わたくしども妃翠房と卯咲苑のささやかな催しにお越しくださいましてありがとうございます。
このフォルダー・ドルフィン企画は今夏、鹿香・香枕市共同の海岸美化・地域浄化キャンペーン参加イベントでございます。美しい海を守り、すこやかな自然を育て、戦争や核保有という殺し合いをやめ、平和の象徴イルカのように同胞を助け合える人類でありたい、というメッセージを込めております。
まことに小さな世界でございますが、お運びくださいました方々の記憶のフォルダーにしばらく、いいえできるなら永遠にお残しいただけましたら幸いでございます」
 声の調子は控え目だが、滑舌のよい挨拶だった。筋書きだろう、シャワーのアンコールを、とジンさんがひゅっ、と指笛を吹いて。
 

フォルダー・ドルフィン  pth3

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  フォルダー・ドルフィン

 湘南鹿香といえば隣接の香枕市と並んで関東の古都観光地として名高い。
(鹿香八幡宮や香枕天神は亜珠子さんも好きだった。あたしがまだ小さくて亜珠子さんの失認がそんなにひどくない頃、海沿いのお寺や神社をいっしょに歩いた)
 梅雨明け近い今頃なら紫陽花が盛り、八幡宮の広池には蓮、海棠に梔子…早ければ夏萩。鹿香香枕の寺社はいずれも花の名所を謳っている。
 亜珠子を発見し、保護してくれた風間めぐみの住む藤塚は、高級マンションや瀟洒な別荘の並ぶ海沿いの一等地からはやや離れた住宅街だった。それでもタクシーのドアを開けたとたん、内陸には決して届かない潮の気配が夜風に混じっている。獅子ケ谷を六時過ぎに出て鹿香に到着したのは九時近くで、風光明媚を誇る湘南の姿は夜の闇に沈んでいた。
 感じのいい低層マンションのエントランスにはめぐみが待っていた。タクシーが予定時刻ほぼぴったりに着いたせいもあって、莉珠子もめぐみもお互いにすぐにそれと察した。
「はじめまして」
 夏服のスカートに両手を揃えて軽く会釈をするめぐみは予想どおり可愛らしい少女だった。セーラーカラーの袖なしコットンシャツに、バレエチュチュのようなひらひらした素材のミニスカートは濃いピンク。すらりと伸びた両手足。さらさらしたセミロングの髪は前髪を少し残してワンレングス。大人びた印象だが、形の良い清楚な目鼻立ちは光量を節約したエントランスの間接照明にも際立って見えた。
(びっくり。きれいな子。パメラに羽戸さんに風間さん。このところパリコレレベル女優タレントレベルアイドルレベルオンパレード舌噛みそう。ここまで整った子なら日本美少女コンテストグランプリいけそう)
「遅くなって申し訳ありません」
 年下の自分に丁寧なあいさつを返す莉珠子にめぐみはほっと口許を緩め、
「亜珠子さんにそっくりなんですね。髪が長ければ見分けがつかないかも」
「一卵性母娘だってよく言われます」
 めぐみは両眼をまるくした。
「ほんとのお母さんなんですね? お姉さんじゃなくて」
「はい。説明すると長くなります」
 めぐみは頷いてエレベーターのボタンを押した。
「もうじき父が帰ってきます。うざいかもしれませんが、気にしないでください」
 おっとりしっかりした話し方だった。
「はい」
「亜珠子さん、一時間位前にあたしといっしょに夕ご飯食べました。スパゲティミートソースとサラダと、オレンジジュースです」
「ええっ 彼女ちゃんと食べられましたか」
「はい」
 なぜ、とめぐみは怪訝そうに隣の莉珠子を見上げた。莉珠子はめぐみより頭ひとつ背が高い。
「それは、話すと長くなりそうなことで」
 ここ数年、ヘルパーの介助を受けながらレトルト介護食をほぼ丸飲みにしていた亜珠子だった。もちろん全歯揃っているから認知症でさえなければ咀嚼は可能だ。
(でも、そんなことこの子に言っても信じてもらえそうにない雰囲気。第一、どうやって亜珠子は鹿香まで来たんだろう)
 ここです、とめぐみがフロア角部屋のドアを開けると香ばしいニンニクとオリーブオイルの香りが漂ってきた。
「わあ、いい匂い。めぐみさんの手料理ですか?」
「えへへ、だといいんですけど、パパの作り置きを解凍したの。うちのオヤジはお料理好きなんです」
 カラフルな雨傘が傘立てに何本もある玄関から、短い廊下を抜けて明るいインテリアのリビングダイニング。ほどよく片付けられ、少し散らかった印象も気楽な住人の姿が想像され、眼に快かった。
「莉珠子、来てくれたのね」
 リビングのドアを開けるなり呼びかけられた。亜珠子にはっきりと名前を呼ばれるのも何年ぶりだった。りっちゃん、りすちゃん、りしゅー、などなど顎を開かないぼんやりとした声音に慣れっこになってしまった莉珠子だった。亜珠子は若い女性のいきいきした声を取り戻している。
「あっちゃん、どうして鹿香まで飛べたの。背中に羽根でも生えたの?」
「うふふ」
 亜珠子はリビングの長椅子にゆったりと寄りかかっていた。背中にクッションをあてがい、片腕に幼児ほどの大きさのテディ・ベアを座位を支える枕替わりに抱いている。ネグリジェ寝間着は小花模様のピンクのガーゼ素材で、スリッパ裸足だった。ハローキティの夏スリッパはこの家のものに違いない。髪はサイドで三つ編みにして膝に流していた。それがまるで長い綱のように見える。編んだのはめぐみに違いない。亜珠子の膝にとぐろを巻く三つ編を眼で追った莉珠子は、はっとして傍のめぐみに囁いた。
「あの、彼女、リハビリパンツなんです。どうなったかな」
 めぐみはにこっと笑った。
「汚れてなかったですけど、お風呂に入ったときに変えました」
「変えた? リハパンあるの」
「それはないんだけど、ママの下着があるから」
「お母さんの? わ、すみません」
 そういえばめぐみの母親はどこにいるのだろう。さっき父親はじきに帰宅するだろうと言っていたけれど。
「お母さん、どちらに」
 めぐみはリビングの壁面備え付けの飾り棚の写真を手のひらで示し、
「ママは十年前に亡くなったの。だけど魂はこの世にとどまって柳の妖精になったのよ」
「はあ、それは」
 めぐみの表情に莉珠子をからかっている空気はない。
(とりあえず聞き流そう)
 母を早くに亡くしたらしい幼女の作話よりも、寝たきりの亜珠子がどうやってここまで来たのかという謎のほうが深刻だった。
「亜珠子さん、昨夜のこと覚えてる?」
「さあ」
 亜珠子はテディの耳をいじりながらのほほんと首を振った。
「誰かに自動車で連れられてきたのかな。発見した時、誰かと一緒でしたか?」
 めぐみに尋ねると、
「いいえ、亜珠子さんひとり。今日は日曜日だから、おばあちゃんの家の草むしりと花壇の手入れに朝早く行ったんです。このマンションから自転車で30分くらいのところ。そしたら庭の立葵の中に亜珠子さんがいたの」
 そこでふっとめぐみは黙った。
「タチアオイの花壇の中に、ひとりで」
「はい…」
 めぐみは亜珠子と莉珠子をかわるがわる眺め、思い切ったような口調で尋ねた。
「本当に亜珠子さんは莉珠子さんのお母さんなの? 亜珠子さんは高校生くらいにしか見えません」
「あたし、永遠の少女よ」
 コロコロと亜珠子が笑いながら口をはさんだ。莉珠子は、
「信じられないかもしれないけれど、母は今年七十一歳になるし、わたしはもう三十二年間この浮世を生きてるの」
 うそ、ほんと、という中身のない絶叫はめぐみの口からは洩れなかった。めぐみの眸が莉珠子にぴたりと据えられ、
「長いお話ですね」
 その瞬間、莉珠子は可憐な少女に威を感じた。電話で初めてめぐみの声を聴いたときと同じように、天空のセルリアンと初夏の陽射しの金色が目の中をよぎっていった。
 さらに、自分をまっすぐに見つめるめぐみの両目が鮮やかなコバルトブルーに見えたのだった。

「お母さまは無事に戻られたんですね」
 淡いグリーンのブラウスはパメラの白い肌をひきたてる。首には粒の大きいバロック真珠の一連ネックレス。イヤリングとお揃い。チューリップ型に裾の開いたタイトスカートは白、黄色、グリーンのアイビー模様。白蝶貝とマラカイトをゴールドチェーンで絡めたブレスレットを左手に嵌めている。サンダルはスペインの革細工風。
 カウンセリングルームでパメラが赤系統を着ないのはクライエントを過度に刺激しないためだろう。
「はい。無事かどうかまだよくわからないんですが、ともかく連れて帰ってきました。発見してくれた風間さん親子がよくしてくださって」
「風間さん親子ですか」
 パメラの語調が微妙に変わったことに莉珠子は気が付いた。
「ええ、発見者は風間めぐみさん。中学一年生の子です」
「そうですか」
 パメラは眼を細めて余裕のある微笑を浮かべた。それ以上の詮索は無理、という鉄壁の微笑だった。莉珠子はモノローグを続けることにした。
「家に戻った母は寝たきりではなくなりました。ちゃんと起きて、食事を摂り、自力でお手洗いも済ませます。会話も少しできるみたい。回復したのかもしれないけれど、余命が伸びたわけではないと思います。記憶障害は治っていません。自分がどうやって神奈川県までさまよったのか全然わからないと」
「合理的な説明は難しい出来事ですね」
「非合理、非現実的です。警察に知らせても信じてもらえないからうやむやにしました。ヘルパーさんにも伝えてません。先生に今こうしてお話ししているあたし自身?マークでいっぱい。素足で飛び出したはずなのに亜珠子さんの手足は全然汚れてなかったし、ネグリジェもきれいでした。あちこちさすらったのなら、それ相応の汚れや痛みが服や髪にあるはずなのに」
「そうですね。誰かに連れ出されたのでは」「あたしもそう思います。誰かが亜珠子さんを車に乗せて湘南へ運び、夜明けに放り出した。それなら一応の辻褄は合うんですが、誰が何のために? わからないんです」
「わかりませんね」
 パメラは一呼吸置いて、
「乱暴された形跡はなかったのですね?」
「はい。母は元気でした」
 乱暴された。莉珠子は希薄な空気を無理やり呼吸するような気がした。性の凌辱。性の快楽。何と自分たちの世界に遠いものだろう。(そういえば、あたしセックスしたことなかったかも)
 自分が処女だという自己認識に莉珠子は少しばかり愕然とした。男友達はいるけれど、それらしい関係に至る前に眠気で上下の瞼がくっついてしまう。自分がもし処女でないとしたら昏睡している間に誰かが破ったのだろう。そうだとしても今現在の莉珠子に何の痕跡も残していない、と思う。
「大丈夫ですか? 莉珠子さん」
「そう思いたいです。大丈夫だと。だって何も覚えてないんだもの」
「何も覚えていないのですね」
「ええ」
 莉珠子はパメラのエメラルド色の瞳を見つめた。鉱物質の輝きを湛えた無感動な瞳だ。パメラは莉珠子と亜珠子の性にまつわる斉唱を聴き取っただろうか。どうでもいいことだ。莉珠子はふたたびモノローグを始める。
「微妙に変だな、と感じるんですが、うまく言えないの。記憶障害があるからとんちんかんな行動は当たり前だし、脳も委縮しているはずです。だけど、どう言ったらいいのかしら、亜珠子さん、変なの」
「変ですか? 具体的な出来事が何か」
「具体的には特に。ただ、今の亜珠子さんと失認する前の亜珠子さんと同じ人格ではないような気がするの。だけど彼女が若年性認知症に罹ったのはもう二十年近い昔だから、あたし自身の記憶も曖昧ですし」
「ショック状態かもしれませんね」
「誰が? 亜珠子さんが?」
 パメラはエメラルドの視線を思わせぶりに左右にきらめかせて言った。
「莉珠子さんの方が、です」

 莉珠子の部屋は亜珠子の寝室と対照的だ。すっきりと装飾のない北欧の家具。洗練と無骨が微妙にアンバランスな素朴。半月のかたちの背もたれがついたベッド。部屋の中央に二人掛けの四角いテーブルと椅子。
 クロスの刺繍は手の込んだ白い絹のスワトゥ。椅子のクッションとお揃い。テーブルには伊万里の青いカップとソーサー、ティー・ポット、シュガー・ポット。それからフォションのアップルティーの缶。ラズベリーとアプリコットのジャムがそれぞれ一壜ずつ。銀のスプーン。全部ペアだ。
 このティーセットは今まで何回使われたろうか? まるで今しもお客を待ち受けているようなテーブルだが、一日五時間ほどしか起きていられない莉珠子自身、この贅沢なテーブルにゆったりと時間を遊ばせてお茶を飲むなどということはなかったのではないか。
 さーさーさー、と張り出し窓を濡らす小糠雨が始まった。亜珠子は莉珠子のティーテーブルに腰を下ろし、窓の向こうに盛り上がる青紫と紅の紫陽花を見やった。
 莉珠子の部屋の前には紫陽花が繁茂し、亜珠子の窓は夕顔で覆われている。暮れ方だが、雨が始まっても夏の宵は明るかった。六時半。莉珠子は麻布へカウンセリングを受けに行っている。留守宅に亜珠子は一人だった。鹿香の一件以来自立できるようになった亜珠子は、それまでの朝夕の身体介助は断り、昼間の掃除洗濯などだけ介護保険を利用することにしていた。
 亜珠子は細い手でポットをとりあげ、カップに紅茶を注いだ。十年以上空気より重いものは持たなかった彼女の腕はひきのばしたガラス細工のように繊細になっている。
「いっしょにいかが?」
 くくっ、と亜珠子はアップルティーの芳醇を嗅ぎながら喉で笑った。
 しーしー、と雨音に似た電磁波の音が来ると同時に、自動調節になっている天井灯の光量がすっと落ちた。それから音声だけが来た。
「ハロー、アリス」
「亜珠子よ」
 おもねるようなポーンの猫なで声を亜珠子はひらっとかわす。
「アリスのほうがいい。長い眠りだったね」
「おかげさまで快適」
 室内はどんどん暗くなり、紫陽花の浮かぶ雨の窓のほうが明るくなった。そして亜珠子の座っているティーテーブルの向こうのパソコンデスクの周囲が、そこだけに間接照明を灯したかのように暗がりの中に浮き上がった。
 リクライニングの椅子がひとりでにくるりと回ると、ふいに赤毛のポーンがにやにや笑いながら上半身だけまず現われ、それから数秒置いて痩せたジーンズの両脚も現われた。
「プロジェクションでもお茶は飲める?」
「転送してくれればね。気分は味わえる」
「今はどこにいるの?」
「ニューヨーク。シーザーの御膝元。君の失踪の核心がつかめないので彼は御立腹だ」
 くくっとまた亜珠子は笑った。
「そうかしら。あなたがたはあたしにカマをかけているんじゃないの?」
「君は実体だ。いっぽう僕は幽体プロジェクターにすぎない。超常現象ならペンタゴンでも大喜びで手を貸すだろう。君は誰だ」
「野川亜珠子」
「いや、アリス。君の脳は委縮し、物理的に記憶、感情、言語、もろもろ整合性を保つことはもはやできなくなっている。ところが今や目覚めた新生アリスはりっぱに人格を統合してシーザーと渡り合おうという鼻息だ」
「そんな、恐れ多いこと」
「監視カメラのシステムエラーの原因も不明。クイーンはミスを認識できなかった。空白のグレーゾーンと言うが、厳密には録画は一秒の間隙もなく映され続けている。君は瞬間に寝室から消えた。フワイ」
「ペンタゴンではテレポーテーションの究明も進んでいるはずでしょ」
「君の若年性認知症で劣化した脳味噌からどうやってESPを絞り出すんだ。シーザーは君が死ぬのを待ちきれず、すぐさま宮廷に連れてこい、と」
「いやよ。御心配なく、あたしのこの体は定められた余命にしたがってそこそこで心拍を止めるわ。そしたら好きになさいよ。解剖し、研究し、遺伝子の一本までしゃぶりつくし、不老不死の夢を現実にすればいい」
 あからさまな亜珠子の挑発にポーンは乗って来た。彼はパソコン机の回転椅子の肘置きを両手でつかみ、紅茶をすすっている亜珠子に向かって上半身を乗り出すと、片膝で貧乏ゆすりを始めながらしゃべりだした。
「アリス、君と莉珠子の遺伝子構造は既に調べ尽くした。君たちは全くの突然変異。変異といっても、君らの染色体に異常はない。早老症は百万人に数人という奇病だが、常染色体異常という一般化可能な遺伝子情報を持っている。ゆえにそれは病と言える。ところが君たちは異常や奇形ではなく、現時点では究明不可能な即物的には全くノーマルな超常現象なのさ。一般化できる情報がない以上、今後自然発生的に地球上で君たちの同族が出生するという可能性は限りなくゼロだ」
亜珠子はアプリコットジャムを匙に山盛に掬い、ぬるくなった紅茶に落とした。ひややかに、
「クローンで増やしてるんでしょ」
 ポーンはちょっと黙り、男にしては赤い唇をきゅっとすぼめた。口を噤んでも痙攣のような貧乏ゆすりは停まらない。声をひそめて
「レプリカは生命力が弱いんだよ」
「あたしと娘の死体が山積み」
「それでは文芸的かつウエットな凡百表現だ。最初の質問。アリス、君はどこからやってきた。シーザーの御下問だぞ」
「遊びたいだけだよ。この体はきれいじゃないか、え? ポーン」
 亜珠子はぞんざいに言い捨てると、上目遣いでにたりと笑った。未知の別人格の凄みにポーンが怯んだ次の瞬間、亜珠子は小首をかしげて天真爛漫な笑顔に変わった。自分の長い髪に指をからめながら、
「なあんちゃって」

 カウンセリングは七時に終わった。七夕の宵は低い雲に覆われていたが、雨粒は降りて来ない。派手なイルミネーションを散りばめた高層ビルのシルエットが狭める空のところどころ、薄い夕べの光が残っている。雑木林があちこちに残る武蔵野の抒情とはかけ離れた都心は、無機質で汚れた黄昏だった。
 夜の時間を彩る歓楽街に人間が流れ込んでくる。麻布青山六本木……化粧とコスチュームを凝らした彼らは日常以上の何かに変身して、濃い快楽を求める。口紅、付け睫毛、かつら、美容整形、エナメルのヒール、露出した胸や太腿。剥き出しの皮膚のあちこちで欲望を刺激する針のようにぎらぎらするアクセサリー、ドラッグと酒、札束で贖う淫売と一夜限りの恋愛はしばしば紙一重だ。
(どうしようかな、御飯食べて帰ろうかな)
 パメラのルームから出た後、莉珠子はタクシーを拾うのを躊躇した。これまでなら、生あくびを噛み殺しながらまっすぐ帰宅するのだが、覚醒した亜珠子に異質な気配を感じる莉珠子は、家に戻るのが億劫だった。寄り道しようと外泊しようと亜珠子は詮索も束縛もしないだろう。第一、莉珠子がどこへ行こうと、シーザーには筒抜けなのだった。
(パメラの正体が何なのかポーンに聞いてみよう。テレビに出演しないネットだけのアイコン。ネット上の女神)
 気持ちを亜珠子から逸らすために、パメラの素性を想像しようとした。最初の目的はターミナルにさしかかった母親との決別を納得するためにカウンセリングを受けようとしたのだった。謎の美女パメラを一時間十万円で買うという暇つぶし半分だったにせよ。
(亜珠子さんは当分死にそうにない。だからカウンセリングを続ける意味もなくなっちゃったはずなのに、復活した亜珠子さんに馴染めないあたしが見えてきた。新しいカウンセリングテーマになった。馴染めない? 違う。彼女は優しいわ。でも)
 結局パメラから亜珠子のほうに気持ちは戻り、とつおいつ考えながら、いつの間にか莉珠子はメトロに乗っていた。行き先は銀座。
(ギャラリーにいるかな、ジンさん。突然呼び出して勝手な馬鹿話ができるのって、あのオヤジくらいだもんね)
 銀座の一角に立つ久我ビルは関東大震災にも崩れず、東京大空襲も免れた伝説のアンティークビルだ。もとは銀座の夜の蝶たちのアパートメント、巣だった。今も昔日の面影そのまま、古色蒼然としているが、リフォームと改装を重ね、蝶々たちの住んでいた何十という部屋は、小さなギャラリーやブティックが入っている。風変わりで珍しい小物やアウトサイダーアートが集まる東京の名所になりつつあった。
 ピカソやローランサン、ブラックなどが青春を過ごした洗濯船になぞらえるひともいるが、久我ビルのギャラリー利用者から世界に羽ばたいていったアーティストはなるほど少なくない。
 莉珠子の数少ない男友達のジンさんは、その久我ビルの一部屋を借りてギャラリー経営していた。亜珠子も時折彼のギャラリーで個展を開いたりしていたのだった。
(ギャラリーにいるかなあ、ジンさん。風来坊の遊び人だから。この時間だともう歌舞伎町あたりでクダ巻いてるかも)
 今更メールではらちが明かないので、電話をかける。
「やあ、めずら鳥のりっちゃん。電話をくれるとは嬉しいねえ」
 以外にもジンさんはすぐにつかまり、しかも上機嫌だった。
「やっぱりもう飲んでるのね。どこにいるの?」
「おいらの個室よ。決まってんじゃん。今日ギャラリーのヴェルニサージュでさ。パーチ―やってんの。シンガーとか来て歌ってるし、リスも来いよ。睡眠薬飲めば起きられんでしょ」
 呂律がまわらないほどではないが、送話器の向こう側の人だかりや音楽、喧噪が伝わり、ジンさんは上機嫌だった。
「睡眠薬じゃなくて不眠薬! でもよく覚えてるわねそんなこと」
「美人は忘れないのぼく。ママはどう?眠れる薔薇の美女あっちゃん」
「それが先週復活しちゃったのよ」
「めでたい! じゃママも一緒?」
「リスひとりよ。たまたま麻布まで来たからジンさんと晩御飯できるかな、と」
「おお、食い物ならどさっとあるぜ。来いよ、ここで飲み食いすればいいじゃん」
 そこでいきなり携帯がブツッと切れた。
 莉珠子の顔は自然にほころんでいる。久我ビル内のギャラリー〈個室〉オーナー、ジンさんは、正体不明の面白いキャラクターだった。年齢は六十七、八か。永遠の不良中年を自称し、住所不定、本業画家、副業は詩人と言いふらしていた。ギャラリー経営は若手有望アーティスト育成のためと表向き、本音は人寄せナンパ目的丸出しだった。
 では女癖が悪いのかというと、抜き差しならぬ切ったはった修羅泥沼の痴情沙汰はしょいこまない、ほどよく遊ぶかけひきを心得ているらしい。噂では生みの親には似もつかぬ器量よしの娘がどこかにいるそうだ。
 ジンさんは女をいい気持にさせる悪ふざけの会話術を心得ていて、今も莉珠子はジンさんのお気楽な声を聴くと強張っていた心がほぐれた。相手を受容、傾聴、共感するカウンセリング手法とは真逆に、悪がりを交えてむやみにしゃべりまくるジンさんだが、こんな電話でも莉珠子の機嫌を測る勘は鋭い。通話が途中で切れたのも、ジンさんの手かもしれなかった。
 銀座一丁目の中央通りから二筋ばかり裏に入ったとはいえ一等地には違いない。かつては銀座屈指の高級アパートメントだった久我ビルは、薄緑と茶色のモザイクタイルを貼った外観を百年近くとどめ、アーチ型のエントランス、アールデコ風の手摺のついた広い階段、最古の手動式エレベーターが今も危なげなく可動していた。
 メトロ出口でRKを二錠口に入れ、久我ビルに着いた莉珠子はエレベーターではなくジグザグの階段を上がった。
(起きている時間にできるだけ下肢筋力を使わないと、歩けなくなっちゃう)
 それは亜珠子を介護するヘルパーたちから聴いたアドバイスだった。じっさい、二十年近い眠りから覚めた亜珠子の手足はバレリーナよりもかぼそく、皮膚は薄く、人間の肉体とは思えないほど綺麗だが、家の中をどうにかふらふら歩くのが精いっぱいな現状だった。
(それが当たり前。じゃあ、いったい亜珠子さんはどうやって鹿香まで飛んだの?)
 またしても解けない疑問が莉珠子の気持ちを翳らせる。自分たちを四六時中監視する細胞スポンサーシーザーさえ究明できない謎といっしょに亜珠子は目覚めてきた。
(ジンさんにこの顛末を聴かせたら何て言うかな。めでたいって言うだけかな)
 きっとそうだった。
 ギャラリー〈個室〉の保有スペースはこのビルのギャラリー群の中でも大きい。かつての蝶々さんの部屋を二間ぶちぬき、改装したからだ。この不景気格差社会で、年金暮らしとも思えないジンさんの放埓な資金源も謎と言えば謎だ。銀座とは、まあそんな人種がうようよしている地域ではあるのだが。
〈個室〉の入口には小机が出され、華やかなフラワーアレンジメントの籠がいくつも飾られている。受付に立っている和服姿のすらりとした若い女性に莉珠子は眼をみはった。
 藍色の地に白抜きで柳の枝がおおぶりに描かれた小袖に、丁子色の博多半幅帯を腰の上やや低く結んでいる。半襟は白地に水色の雪の輪、それに今時ふうに金銀のラメが散っている。すっきりとあげた襟足が長く白く、くるりと巻いた髪に平打ちの銀簪も涼しげだった。化粧は薄く、水商売には見えないが、素人にしては着こなしと姿がいかにも水際立っている。二十七、八というところか。
「いらっしゃいませ」
 莉珠子を迎える丁寧な声も顔も、和服と同じように目に快く涼しいのだった。
 彼女の後ろには、桐の長い一枚板に堂々と筆書き看板。
 フォルダー・ドルフィン 
               by妃翠房×卯咲苑
「ひすいぼう? きれい」
「初めてお越しくださいましたか。ありがとうございます。お名前をいただけましたら」
 芳名帳も和綴じだ。受付嬢があまりに上品かつ粋なので、多少莉珠子は凹む。ひすいぼうは読めたが次の卯咲が読めない。
「ちょうど歌い手さんが出るところ。お席はちょっと窮屈ですが、まだ」
 あるわよね、と藍地雪柳嬢は長い首をひねって上半身後ろを向くと、彼女の半幅帯の右前に挿した根付の鈴がちりりと鳴った。
「だいじょうぶよ。どうぞ」
 ごったがえす内側からひらっと袖を返す印象で目鼻だちの濃い女性が出てきた。彼女も和服だが、なんと豹柄の小紋だ。帯は黒麻。朱の帯締めにゴールドチェーンをからめているのもすごい感じだ。髪は前髪にたっぷりとウェーブをとった夜会巻で、モダンな飾り櫛を斜めに挿している。口紅が赤い。
こっち、こっち、と人なつこい強引さで莉珠子を差し招く。アラフォー手前の熟女の迫力に莉珠子は従順にひきよせられる。
「よう、りすが来たぞ」
 どこかからジンさんの声が聞こえた。
 平土間と思いきや椅子席だった。もうほぼ全部埋まっていたが、豹柄小紋は莉珠子の手をとってすいすいと掻き分け、一番前のかぶりつきに座っているジンの隣の席に連れていった。
「この子でしょ? ジンさんのお友達って」
「みんな友達だよ。あなただって僕のガールフレンド」
 斜め上目遣いのジンさんの視線は秋波みえみえだが、豹柄小紋はつれなく
「ガールは余分です。あたし友達の彼氏には興味ないの」
「硬いねえ、香寸(かず)さん」
「相手は選ぶのよ、残念でした」
 ひらりと彼女は袖を返して受付に戻っていった。
(いい感じ。ジンさんと仲いいみたい。誰だろう、美人ばっかり、よくこのひとは集めるなあ)
 ジンジャーエールをちびちび舐めながら莉珠子はジンさんをじろじろ眺める。パフォーマンス前の半溶暗で展示物はよく見えなかったが、隣に座ったジンさんの様子は昔とほとんど変わっていない。
 ヘアダイし過ぎの中途半端な毛染めのようなぱさぱさした茶髪。いつも笑っているような垂れ目、いつも上機嫌に口角の吊り上がった口許。存外中高で部品の悪くない顔はこまかい皺と無精ひげでいっぱいだ。心なし小皺が増えたかもしれない。
身なりはというと、結構おしゃれだったという以前の記憶どおり、ジンさんは夏向きに爪先の空いた白と茶色のメッシュコンビの革靴を履いている。サンダルと靴の中間みたいな遊び靴だった。黄色っぽいコットンのズボンも原色ベタなアロハシャツもいっぱしのブランド品に違いない。顔のパーツも衣裳も、ひとつひとつは結構イケてるのに、全体ぱっと見の印象はなんとなくふやけた…こぎたない。いや、これは言い過ぎだ。
 ピザ食べる?とジンさんは莉珠子に紙皿を突き出した。空腹だった莉珠子はこれも素直に受け取り、お愛想まじりに、
「きれいな受付さんですね」
「ああ、あれね、俺の娘よ。似てるでしょ」
 似てない、藍色も豹柄もどっちも似てない。雰囲気がジンさんと全然違う。
「え、え、どっちのひと?」
「若い方。地味な絽小紋着てたのが娘」
「そうだったの。ジンさん天涯孤独じゃなかったんだね」
 とんび鷹のことわざが莉珠子の喉まで昇ってきた。ピザとジンジャー・エールといっしょにぐいっとお腹へ押し戻す。
「いやあ、俺は一匹狼ですよ」
 ジンさんは得意げにキャビアを乗せたカナッペをバリバリと噛んだ。
「今夜はどんなパフォーマンス?」
「シャンプーリンス。これも可愛いんだ。あ、リンスのほうはリスとご近所だぜ。あいつたしか吉祥寺だから。リスは獅子ケ谷だろ。リンスとリスと名前も近い」
「それって全然関係ないよね」
「奇縁偶然赤い糸ってさ」
「あたしマザコンだけどレズじゃないの」
「お、始まるぜ、しいー」
 自分勝手にジンさんは唇をとがらせ、ご丁寧に唇の前に人差し指を一本たてた

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