さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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ラスト・マザー・イン・サマー  Pth 14  fin

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  ラスト・マザー・イン・サマー
 
 八月一日から立秋まで安宅醸造で無料試飲コーナーがあるって、とメグはスマホで探し出した。観光客めあてのイベントが盛りだくさんなシーズンだ。
「それいいね、ちょうど今日が一日だ。何時からなの?」
 ジンさんは早速身を乗り出した。
「十時から夕方五時まで。五時以降は有料バーになるんですって」
「場所どこ?」
 メグがスマホ画面を読み上げる前に亜珠子は言った。
「三好町に酒蔵があったと思う。バーは別かな」
「試飲は鷹匠町ってある」
「なら今から行けば結構飲めるぜ」
「ジンさん、飲み放題じゃないからね。あくまでも試飲よ」
 亜珠子=レノンがたしなめるとジンさんは
「俺そんな意地汚くないよ、見損なうな」
 澄ました顔で答えた。
 キャンピングカーはその晩美ヶ原に泊める予定だったから、当座は上田城周辺のパーキングに入れることにした。シーラに電話すると彼女も同行すると言ってきた。
「総花試飲ツアーだね。羽戸さん、ミネちゃん留守番で悪いなあ」
 千香子はあっさりと、
「いいわよ。飲みが目的でシーラについてきたわけじゃないし」
 失調した藤さんの他に、まだ目が覚めない莉珠子、駿男と泰地、羽戸が車中に残った。今のところジンさんはまだ一度もドライバー席に座っていない。
 上田城から鷹匠町までは歩いて行ける。シーラは昨夜とはうって変わってナチュラルな紺のシャツブラウスに赤いパンツ姿だった。洗練されたデザインは特に奇抜な取り合わせではなかったが、飛びぬけた背の高さと着こなしの良さ、歩く姿の水際立った美しさは、帽子やサングラスで顔を隠していても、日常を歩く人垣に紛れようもなかった。
 安宅醸造は、表通りに古風な商家の居住まいを残した白漆喰に連子窓の店構えを出していた。よく手入れされた塗り壁の純白があざやかで、昔のままの瓦屋根や木組みも磨かれた艶を保っている。前近代の間尺のためか周囲の新しいビルや商店と比較すると、あまり大きな建築という印象はない。軒先にぱらりと藍の長暖簾が下がり、家紋が白く染め抜かれている。南部鉄の風鈴が深い軒のどこかに下がっているらしく、陽炎のゆらめきのぼる八月油照りの路上に、水を打つような透きとおった音色が絶えず響いている。
 初日の試飲コーナーは既に人気で、一行が暖簾をくぐると奥まったバー・コーナーには十人近い男女が用意された丸椅子に座り、美酒を楽しんでいた。
「広いね、それに涼しい」
 メグは嬉しそうにきょろきょろした。屋根を大きく造る日本建築は外見より内側のほうがひろくたっぷりして感じられる。クーラーはなく、勝手口から表まで開け放った自然の風と風鈴だけが涼のよすがだが、炎天から入るとひいやりとした空気の流れに汗も退く。
(レノンはここに見覚えがあるか?)
 レノン=亜珠子は高い天井や店内両側の壁を埋める和洋とりどりの酒瓶酒樽の並びを見、清潔に浄められたコンクリートの床を眺めて自問した。店の奥、勝手口のほうに小さな庭があるらしく、薄暗い通路の向こうにまぶしい緑蔭が見え、そこからの風の通り抜けと一緒に油蝉の声がかまびすしい。
(幼児のレノンは依子に抱かれてここに着たことがあるのかもしれない。僕は小さな手で安宅と書かれたあの一斗樽や、ガラスのショーケースをべたべた触ったかもしれない。依子はどんな顔をしているんだろう)
 CAMOSSのマダムの顔が思い出された。
 懐かしさとは違うが、ここにいるはずだったもうひとつのレノンの時間が悲哀を帯びてふくらんでくる。それはパラレルよりも具体的で、現在の彼の時間とは相いれない悲哀だった。レノンはじめじめした感情が嫌いだから、たった今心にふくらみかけた悲哀の感情を無造作に圧し潰した。すると安宅醸造本店の景色は、まるで偶然アルバムからこぼれ出た見知らぬ土地の古いモノクロ写真のようにごく一般的な郷愁で眺めることができた。
天井には昭和風に長い蛍光管が並び、太い梁から煤のこびりついた登山用ランプが何台も下がっている。誰か家人に山登りの趣味を持つ人物がいるのだろうか。
 従業員がやってきてお辞儀をした。試飲用の白陶器のぐい飲みを丸盆に乗せて差し出しながら、メグを見て、
「申し訳ありませんがお子様は御遠慮いただだきます。かき氷などもございますので」
 それからあらためて、シーラと亜珠子、メグとジンさんを眺め、中年の主婦らしい店員はおずおずと、
「あの、恐れ入りますが何か、雑誌かテレビの取材さまでしょうか」
「いいえ」
 亜珠子は首を振り、丸盆からぐい飲みをとりあげた。底に紺色の三重丸が描いてある。
 丸盆を捧げたおだやかな容貌の主婦は、少女とも成人ともつかない、初々しい亜珠子の容姿に困ったような顔をした。亜珠子はそ知らぬ顔で、
「ここに来る前に、諏訪のCAMOSSでディナーをいただいたんです。麗呑ってお酒がそこのおすすめだったから皆で飲んで、美味しかったので、ここへ来たんです」
「まあそうですか、ありがとうございます」
 店員はほっと表情を緩めた。
「あそこはお料理も素敵でした。ここの息子さんだっておっしゃってました」
「はい、リンゴさん」
 頷く店員に亜珠子はつるつると言葉を継いだ。
「そのシェフに、麗呑って名前はどういう謂われがあるのかってお訊きしたんですけど、わからないっておっしゃって。おばさんご存知ですか? すごく綺麗な名前ですよね。日本酒ってみんな夢のあるネーミングだけど」
「リンゴさんわからないって言いました?
それはすみませんねえ、ほんとに気のいいおぼっちゃんで。知っているはずですけど、お嬢様たちがみんな可愛いから、きっとフリーズしちゃったんでしょうね」
 店員は口を手にあてて、コロコロと笑った。ただの使用人にしては物腰が上品だった。
「教えていただけますか? れのんって読むからあたしはジョン・レノンかなって思ったんですけど」
「お待ちくださいね、今主を呼んできますから。間違えちゃいけませんからね」
 小太りの体を身軽にひねって店員は試飲客の間をすりぬけ、カウンターの奥へ消えた。
 その間にジンさんその他は、難なく他の観光客に立ち紛れ、とっかえひっかえ何種類かの銘酒を楽しんでいた。
メグはいちごのかき氷を食べている。ピンクのかき氷にはなんとトッピングに安宅の甘酒がとろりと注がれている。シーラは利き酒を断り、メグと同じかき氷だが、甘いシロップ抜きの酒氷をしゃくっていた。ぐい飲み試飲の代りに氷サービスもしているのだった。かき氷はガラスの器だが、酒氷は焼き印の入った檜の二合升だ。それも気が利いていた。
 どうも…、と日焼けした顔の店長が奥から現われ律儀に頭を下げる。亜珠子は先走って尋ねた。
「社長さんですか?」
「ええ、そうです。諏訪の店までありがとうございます」
 赤く焼けた顔の目元に深い笑い皺がある。ほとんど禿げに近い白髪頭から顔、太い首まで地続きの土地のように丈夫そうな厚い皮膚をして、店のロゴ入りのTシャツに膝から下を切り離したデニムの半ズボンにゴム草履、首に日本手ぬぐいをさげている。年のころは六十代前半というところだ。一見してがっしりした体格以外リンゴに似てはいない。スマート、ハンサムとは言い難いが、見るからに人好きのする社長だった。
「麗呑の意味はですね」
 彼は亜珠子を顔から足までおおざっぱに見てにこにこした。めっちゃかわいいなあ、と嬉しがっている感情が眼鏡の奥の目に現われている。
(わかりやすい性格は息子…リンゴと同じなんだ)
 レノンは心がきしむような気がした。だが笑顔を浮かべた。とびきり可愛い笑顔を。
「あれ、ジョン・レノンなんですよ。家内が好きでして。若い人受けするスパークリングを企画したとき、これにしようって奥さんの意見を通しましたら、当たりまして。いやあ、ビートルズは永遠ですねえ」
 そこでさらにレノン=亜珠子は踏み込んだ。
「奥様ってセンスいいですね。さっきの方ですか?」
 と別な接客に回ってしまった中年女性を目で探すふりをした。社長は、ちょっと眉を曇らせ、
「いや、家内は療養中で店にはいません」

 簡易ベッドの個室シェードを開けると、ドアを締め切ったキャビン内部はベッドのほうより暗かった。そして寒い。クーラーが効きすぎではないか、と莉珠子は上着を探した。無痛症を発した藤さんの自律神経失調を危ぶみ、エアコンをフルに稼働させており、暗さはそのバッテリー節約のための消灯だったが、莉珠子にはわからない。冷気や薄暗さよりも、しんと静まり返っていることが気になった。
(亜珠子さんはどこ? 彼女の正体はレノンだってポーンが言った。そして皆レノンの仲間だって。ジンさんもそうなの? 確かめなけりゃ)
「ジンさん、あっちゃん、どこ? 寝ているの」
 相手を探す呼び声はすぐに小さくなった。クルーの安眠妨害に気付いたからだった。キャビンフロア両脇の二段簡易ベッドのいくつかはシェードが降り、寝息も聞こえる。どこに亜珠子がいるのか。そもそもここはどこなんだろう。
「あら、莉珠子さん起きたの?」
 後方から羽戸千香子が顔を出した。そこは藤さんのベッドでもある。藤さんの隣で千香子は寝ていたが、ただならぬ莉珠子の気配に目を覚ましたのだった。
 千香子のいつもと変わらないさっぱりした笑顔を見た莉珠子は、逆にわけもなくかっとなった。それで血相変えて叫んでしまう。
「先生、先生もレノンの仲間だったの?」
「え、え?」
 莉珠子はばたばたと千香子の方へ飛んでいった。早口で、
「先生、今ポーンが来たのよ。それで言ったわ。亜珠子のなかみはレノンて幽霊が憑依していて、皆そのことを承知している。知らないのはあたしだけだって。それ本当ですか」
「ちょっと落ち着いて野川さん」
「それでねそれでね、藤さんはポーンとシーザーが我が家に送り込んだスパイなんだって。あっちゃんの人格が何なのか確認するためにわざと認知症のおばあちゃんをシーザーが寄越して、それで」
「野川さん、お話を伺う前にちょっと水分補給をしましょうか」
 興奮状態の相手を前に、職業柄自然に診察口調になった千香子は胸元に喰ってかかる莉珠子を腕でかるく押しやり、枕元に用意したスポーツドリンクのボトルを渡す。起き抜けに逆上した莉珠子は喉がカラカラだったので、貰ったボトルを素直に両手で掴んだ。
「ああおいしい」
 飲み終えてボトルを口から離し、ふう、と息を吐く莉珠子は、先生の前の中学生のように可愛らしい。千香子は静かにゆっくりと、
「ポーンがアメリカからあなたの個室にプロジェクションしてきたの?」
「はい、さっき。アメリカが発信地かどうか本当のところはわからないんだけど」
 ほのかに甘いドリンクのおかげで莉珠子は幾分落ち着いた声に戻った。
「凄いわね、このキャンピングカー自体シーザーのオーダーなんじゃないかしら」
 千香子はすんなりとかたちのよい足を組んでベッドの端に座りなおした。
「さっきの質問の続き。先生、あっちゃんの中身がレノンてほんとなの?」
「ええ、そうよ。わたしは彼を昔……といっても五年ほど前だけど、茅野のミカエル病院で担当していた医師なの」
「そうだったんですか! それであたしたちに付いてきたの? じゃあ、パメラとは」
「パメラは……彼女とはまた別な偶然で知り合いになったのだけれど、文脈が逸れてしまうから今は無関係にしておきます。そう、亜珠子さんの肉体をレノンが占領しているわ」
「レノンて誰なの?」
 なにを朝っぱらから揉めてるんですかあ、と脇の個室がまた開いて、半白髪の駿男がぬっと這い出した。するとその上段のベッドから、ジーンズの裾を二つ折りにした足がまずぶらっと現われ、どすんと泰地が床に降りてきた。泰地は気の毒そうな顔で莉珠子に、
「だいたいいつまでも隠し通せるわけなかったんだよ。りっちゃん、僕ら君を騙すつもりじゃなかったんだ。だってレノンを亜珠子さんから引き離したら、また亜珠子さんはコーマに戻ってしまう。りっちゃんもレノンの亜珠子とうまくいってたみたいだし」
「だからレノンて何ですか」
 莉珠子がまたいらついてきたので千香子は、
「生まれつき重度の心臓疾患だった彼は六歳から三十三歳まで意識不明のまま、星隷ミカエルにいたの。彼は三年前に亡くなり、だけど彼の霊魂は成仏したくなくてあちこちさまよい……」
「あんちくしょう、うちの娘に寄生してたんだよね」
 と深刻度ゼロの声で横から駿男がぼやき、よぉいしょっ、とじじむさい掛け声とともに腰を撫でながら上半身を起こすと、
「ミネちゃん冷蔵庫の中からスポドリ取ってくれる。いやあ五十八歳高齢接近オヤジには、この冷房は足腰に来るね。なのに喉が渇く」
「外気35度ですからね。路面輻射で体感温度は限りなく赤道直下状態。それに風間さん結構運転してますもん。ジンさん狡いよ、もともと亜珠子さんはジンさんにドライバー頼んだのに、全然ハンドル握らないんだから」
「えー二日酔いの彼の運転で安眠はできないよ、命がいくつあっても足りんわ。それなら腰痛体操しながら俺が回したほうがはるかにましだ」
「あやっぱそう思います? 僕も同感す」
「今夜またどっか温泉行こうよミネちゃん」
「だから、レノンの話をしてってば!」
 莉珠子はキャビンの真ん中に仁王立ちした。

 ふたたびコスモスに吹く風の中。
 星隷ミカエル病棟の聖堂が嵐を含む東風の向こうに見える。その風は白とピンクのコスモスの群落に彩られている。
東シナ海からの低気圧とともに信州上空にせりだしてきた重い鈍いろの雲と、地上の淡い桜いろのうねりとのはざま、ひたむきに祈る手の姿のように聖堂の細い三角屋根が夏空にそそり立っている。
森の木立ち以外、周囲に高い建物が何一つないので、ミカエル聖堂はとても孤独に、また清らかな人の姿に見えた。聖堂の天辺に頂く十字架は、厚い雲間から時折こぼれる真夏の陽光に、その都度きらりきらりと強い力で輝くのだった。その輝きはあたかも地上から天上に向かって放たれる切れ切れの唱(うた)のようだ。憐れみたまえ、キリスト憐れみたまえ、めでたし元后……憐れみの母……。
今夜遅くか明日の早暁、台風がこちらへ上陸するかもしれない。
「おっかさん、ここに入っていたとはな」
 ジンさんはジャケットのポケットからミンティアのケースを取り出し、何粒かを口に放り込んだ。そして亜珠子に差し出す。
「食べる?」
 いらない、と亜珠子は丘の中腹で立ち止まり、首を振った。
 この位置ではまだ星隷ミカエル病院の新築病棟は見えない。聖堂の尖端だけがコスモスの花の上にある。下のクリーム色の現代的な建物のどこかに心を病んだ安宅依子が一年前から入院しているという。
 昨日安宅醸造本店の試飲サービスから戻った亜珠子=レノンは、キャンピングカーに戻るとすぐにシーラに頼んで、パソコンから安宅醸造の管理会計データに侵入したのだった。老舗だが家族経営の有限会社である安宅醸造の帳簿は、大きな出費は公私とりまぜてひとつのデータに保存されているはずだ。そう睨んだのはレノンで、もう一つ想像通り、会計ソフトのセキュリティもごく一般的なものだったので、やすやすと読み込むことができた。
昨年秋以来、安宅醸造の会計から星隷ミカエルに月々の入院費が振り込まれている。
 閉鎖病棟だが、面会の予約は簡単だった。
「姪ってことにしたの。ジンさんはあたしの父親で、彼女のお兄さんだと」
「そうかい」
 亜珠子とジンさんは上田から二人だけのレンタカーで茅野にやってきた。ジンさんは亜珠子との最初のドライバー契約を初めて果たしたことになった。
登り坂で立ち止まり、なかなか前に進めない亜珠子=レノンの様子に、
「おい、かわいそうだな、あっちゃん、いやレノン、気が重いか? 無理して逢う必要なんかないだろうに」
「いいえ、あるのよ」
 強い風に飛ばされそうな帽子を頭上両手で抑えて亜珠子は笑った。気のせいか、ジンさんの目にはかぼそい笑顔に見えた。
「だってレノンはそのために目覚めたんですもの」
 だな、とジンさんは口の中で呟きミンティアを噛み砕いた。夏帽子の影に顔を伏せた亜珠子の横顔を見つめてジンさんは考える。
(こいつは今どっちの人格なんだろう)
 耳と目に入ってくる亜珠子の姿は、レノンの演技にしても、優しく柔らかかった。
 精神科の入口は一般病棟と別れており、これもレノンの予想通り受付も別人だった。こちらはブルーの制服を着た三十代の青年で、亜珠子とジンさんの二人連れは難なく面会室に案内された。リノリウムの床に丸テーブルと椅子が四脚。テーブルの上の花瓶には、オレンジのニッコウキスゲと薄紫の都忘れが活けてある。五人ほどの職員が聖母子のステンドグラスのこちら側のメインステーションに詰めていた。一般病棟もそうだったが、こちらでも閉鎖病棟の入口は青と赤の聖母子の飾り窓で隔てられている。
「本人の状態が良ければ、直接叔母の部屋に行きたいんですけど。叔母に会うのはしばらくぶりですし、ここ、なんだかよそよそしい感じでお互い緊張しそうです」
 待合室に入ると、亜珠子はきれいな声ではっきり言った。案内してくれた水色の制服の男性職員は笑顔に困惑を混ぜ、
「そうですか。安宅さんは最近割合落ち着いておられますから、可能だと思いますよ。しばらくお待ちください」
 それからすぐに二人は安宅依子の部屋に導かれた。
 まっすぐな無垢材を張った白い廊下の両側、左右対称に長方形のドアがある。天井が高く、廊下の幅が広いので息苦しさは感じられない。簡素で質の良いホテルのフロアを歩いているようだった。それぞれのドアの横に、ガラスの一輪挿しを置く細長い猫足の物置きが据えられ、その斜め横の壁には、やはり一枚ずつ中世ミニアチュールのイコンの額絵が飾られている。レノンはそれに見覚えがあった。
「この絵は」
 思わずまた立ち止まる。職員が、
「複製ですけど、いや模写かな? 旧病棟の焼け残りですよ。火事のとき、誰かが持ち出したのか、所蔵の美術作品はずいぶん残ったんです。有名な作品なんですか?」
 尋ねられて亜珠子はつつましく、
「いいえ。たぶん初めて見る絵ですけれど、なんだかなつかしいわ」
 と答えた。ジンさんは黙って亜珠子の横を歩きながら、鼻をひくつかせ、
「ラヴェンダーの香りがしますね」
 職員はジンさんに驚きの目を向けた。
「鋭いですね。これも旧病棟の古き良き慣習を残しているんです。香料は茅野の女子修道院の製品です。アロマテラピーはこのごろ精神安定効果が科学的に証明されましたしね」
 額絵の下の小机に野花が活けてあるのも、レノンが眠っていたころのままだ。
(レノンの記憶はここから始まっている。もう焼け落ちてしまったミカエルの病棟から)
 中庭に面したガラスがガタガタと激しく鳴った。台風の予兆だろう。嵐の音はレノン=亜珠子の寂しさと虚無感を荒々しく塗りつぶしてくれる。依子と会ったとして、それが何だろう、何になるんだ。
(何も変わらない、だけど)
 どうぞ、と職員はいくつめかのドアを開けた。
 白いベッドと南向きの窓に面して書きもの机、椅子。椅子は三つあり、ひとつは机に備え付けの木の椅子で、一つはクッションのついた来客用の肘掛け椅子。もうひとつはパイプ椅子だった。
真正面の窓から見える風景は森を背負ったコスモスの群落だった。次第に激しくなる風に揉まれ、まだ陽射しの中にある花の波は樹々の梢のように揺れ動いている。空は雲に埋められてさっきよりさらに暗い部分と、なお鮮明なまばゆい濃青の部分とが入り乱れ、その明暗は病室の入口にほんの少し佇んでいる間にも刻々と移り変わってゆく。
ベッドの端に腰かけて窓の方を眺めていた依子は寝間着ではなく普段着だった。青い薄手のカーディガンに白い上着、パンツも白い。薄茶色の髪は肩のあたりで切りそろえ、ヘアバンドをしている。半分以上後姿の逆光の影のかたまりから、訪問者の気配に気づいた依子は滲むような速度で振り返った。
「おばさん、おひさしぶりです」
 ごゆっくり、と小声を残して職員は去っていった。亜珠子=レノンはもう一度、
「元気そうね、前より、ずっと」
「そう、あなたは」
 この娘は誰だったろう、と首を傾げて亜珠子の顔をしげしげと見る安宅依子の頭に目立つ白髪がないことにレノンは驚いた。若い女の黒髪ではないが、全体に色素が薄くなり、薄茶色をしている。そして両目も髪同様淡い色なのだった。
(ミカエルで眠っていた頃、僕も髪や肌から色素が抜けて金髪みたいになった)
 眼の前の依子が確かにレノンの母親だ、という実感が全身に湧きあがった。
が、依子は無表情だった。向精神薬のためか、力のない視線が、ふわふわとゆらゆらと亜珠子とジンさんの上を何度か往復したが、病んだ心から伸びるまなざしの触手は、初対面の美少女のどこにもつかまることができず、やがて力なく窓の方へ戻ってしまった。
(オカアサン)
 レノンはつぶやいた。リンゴとCAMOSSのマダムより依子は繊細な顔立ちをしていた。やつれは目立たず、顔も姿もこざっぱりとしていたが、内側で分解してしまったものを完全にまとめきれないでいる、どんよりとした弱々しさが依子の表情に浮き出ていた。
 窓の方を向いてしまった依子にレノンはすっと一歩、二歩近づいた。
「お母さん、レノンのことおぼえてる?」
「……」
 おい、よせ、とジンさんが亜珠子の手首をつかんだが、そのまま亜珠子は依子の傍に寄り、一音ずつ区切りながら、
「れ、の、ん。あなたがここに置き去りにした病気の子供を覚えていますか」
「……」
 レノンはジンさんの手を振り払い、両手で依子の肩をつかんだ。
「おかあさん、僕レノンなんだ」
 レノンが揺さぶる勢いで、がくっと上顎を逸らせ、依子は薄茶色の目で亜珠子を見た。あたかも熱烈な口づけを待つように依子の唇がレノンの顔の真下で半開きになり、肉の薄い鼻筋と色素の薄くなった髪と瞳が揺さぶられ、抗うでもなく、ただ力なく乱れていた。
(思い出せ、あなたは僕の名前を酒に冠せたんだ。会いたかったと言ってくれ、覚えていると、息子を捨てたことを)
「レノンなんだ、わからないのか」
「やめろ、落ち着け亜珠子、君は今レノンじゃなく亜珠子なんだぞ」
 ジンさんは後ろから亜珠子の上半身を抱え込んだ。亜珠子はもがいたがすぐに力を抜き、ジンさんに抱えられたまま床に座り込んだ。
「泣けよ。おまえ泣くしかないだろうが」 
 ジンさんは羽交い絞めにした亜珠子の長い髪に額を押しつけて囁いた。レノンは答えた。
「泣いてるさ、最初から」
 だが見開かれた亜珠子の両目からは一滴の涙もこぼれなかった。拭き磨かれた病室の床に自分=亜珠子の長い髪のきれいな端がさらりと流れ、投げ出されたジンさんの足、それから安宅依子の白いパンツの裾が見える。彼女は青いリボンのついた可愛い室内履きを穿いている。
青いリボンはベッドからたちあがり、すすす、と床をこすって机の方へゆき、また戻り、レノンの聴覚に薄い書物のページを繰る音、それから声が降ってきた。
「ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周囲にいた二歳以下の男の子たちを一人残らず殺させた」
(なんだって?)
(仕方がなかったのよ)
 鸚鵡返しにレノンに応えた声はレノンの中からの反響だった。
(ある奇蹟を…壊れやすい繊細な心を持った安宅依子が新しい人生を選び取るために、無垢なあなたを犠牲にしなければならなかった。命が生まれ、育ち、幸福を掴み、長く生き延びてゆく過程は、そのすべてが奇蹟の偶然)
(亜珠子、口を出すな)
 安宅依子の朗読は続いた。
「こうして預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。

  ラマで声が聞こえた
  激しく嘆き悲しむ声だ
  ラケルは子供たちのことで泣き、 
  慰めてもらおうともしない
  もう子供たちがいないから

あたしは…あなたにこれを読んだの。眠ったままの坊やの枕元で。聞えないかもしれないけれど、こんなに言い訳しなければあなたと離れることができなかった。何度もこの部分を読んで、世界にはこんなひどい殺戮もあるんだとあなたと自分に言い聞かせ、あなたを残し、そして二度とミカエルには戻って来ないつもりだったのよ」
 レノンは顔をあげた。青いカーディガンを羽織り、白い服、痩せた手首を頬に添え、俯いてこちらを眺め降ろしている依子の細い顔に涙が静かに流れていた。
(あなたはここに戻ってきた。あたしはあなたを覚えていますよ。忘れてなんかいない。だって今現在のあたしの人格がばらばらになってしまっても、坊やの記憶は大きなガラスの破片のようにそのままあたしの中に残っている。あなたはまるごとガラスのかけら)
(オカアサン)
(たくさんのたくさんの罪のない幼児が殺されたんだもの。それが主の思し召しにより。だったらあたしが自分の子を捨てたって…)
(殺されているのよ、今も、あたしたちの子供が) 
 依子と亜珠子の声がレノンの中で錯綜する。
(無垢な子供たち、あたしの分身が殺戮されている。ヘロデの虐殺よりもたくさん)
 レノンはジンさんの腕からもう一度たちあがり、吸い寄せられるように植物たちが嵐の前触れに騒ぎ立つ病院の庭を見た。無数のコスモスはまだ茎の上でひらひらざわざわしているだけだ。だが今夜嵐が襲って来たら、脆い花のうてなは吹き飛ばされ、はなびらはちぎれ、それらの幾十、幾百の花の蕊はもしかしたら嬰児の顔で泣き叫ぶのかもしれない。そしてねじれた時間軸は一か月前の銀座久我ビルに入っていって、暴風はギャラリー壁面のイルカの海をなぎ倒し、亜珠子とジンさん、羽戸千香子を驚かすのかもしれない。
(ここから始まるんだ、ここから)
(坊や、あたしの子供たちを助けてちょうだい)
 この声は亜珠子か。レノンは両の拳を耳に押しつけ、かぶりをふった。聞くまいとしたが、内側からの訴えは消し去ることができない。悲しげに、しかし強い意志を持って亜珠子の声は言った。
(あなたの同胞が今も殺され続けている。シーザーに利用された藤さんもやがて死ぬわ、そしてあたしの細胞から増産された数限りないサプリメント用赤ちゃんたちがシーザーの牧場で累々と死体を並べる)
 耳鳴りにこらえかねてレノンはガラス窓に額を強くおしつけた。内側からハンマーで頭蓋骨をがんがん殴ってくるようだ。
(僕に何の関係がある。僕はレノン。亜珠子のクローンは僕の兄弟じゃない)
(いいえ、坊や、あなたはあたしの中にいる。あたしの肉体に宿り、あたしの記憶を滋養にし、あたしの血と肉をあなたの魂は食べている。安宅依子とあなたの縁はすでに前世のもの、この世ではもう終わったの。あたしはマザー。あなたの新しいマザー。レノン、亜珠子と一緒にニューヨークへ行くのよ)
(なんだって?)
 頭痛に耐えかねてレノンはガラス窓の上で身悶えた。動顛したジンさんがその肩を抱きしめる。
「どうしたんだ。レノン、いやあっちゃん」
(あなたの知力と狡猾、怜悧を駆使してシーザーと亜珠子との契約を解消するの。もう十分に報酬はいただいた。あたしの肉体はもうじき命を終える。そして残された莉珠子があと何十年生きるにせよ、使いきれないほどの資産は保証されています。レノン、あなたはシーラとともにアメリカへ行き、シーザーと交渉してください)
「なぜシーラなんだ」
 頭の痛みと苦しさのあまりレノンは子犬のようにジンさんの腕に噛みついた。わっとジンさんは叫んだが、レノンの耳元に向かって怒鳴った。
「え、シーラが何だって?」
(コングロマリットシーザーと取引するには亜珠子ひとりではだめ。シーラは欧州セレブリティの裏表に無数の人脈血脈を持つデュランテ・スクリーヴァのやがて当主となる。彼を後盾に利用しなさい。さもないとシーザーは、飛んで火に入る夏の虫とばかりに亜珠子と莉珠子を捕獲して日本に帰さないわ)
「勝手に仕切るな、僕に命令するな」
「誰も何も言ってないよ、あっちゃん、それとも苦しがってるのはレノンなのか」  
 答えはなく、がくんと亜珠子は気を失った。ジンさんは依子のベッドに亜珠子を横たえ、病室のドアの傍からガラス花瓶を持ってくると、キスゲの活花を抜き取り、気付け水代わりに顔の上に振りかけた。
「あっちゃん、聞えるか?」
 ジンさんの後ろに立った安宅依子は、意識を失った亜珠子の寝姿をじっと見つめ、ふたたびぱらりと聖書を開いた。
「ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現われて言った」

  起きなさい。
  子供とその母親を連れて
  イスラエルの地に行きなさい
  この子の命を狙っていた者どもは
  死んでしまった。

 ジンさんが唇に垂らしたキスゲの水を、亜珠子は眼を閉じたまま、ちらりとピンクの舌の先を出して舐めた。それから微笑が浮かび、
「夏の味がする」
「大丈夫かあっちゃん、それともレノン?」
 いいえ、と仰臥した亜珠子はようやく栗色の瞳をぱっちりと開いた。野の精気を吸ったかのように活き活きと潤うまなざしでジンさんを見上げ、
「ニューヨークには莉珠子も連れて行かなければね。あたしはマザー、今のあたしは新しいマザー」

       (パメラ・セラフィスト 了)

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ゲノム・リリカル・ジャッジメント  Pth 13

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   ゲノム・リリカル・ジャッジメント

 星見が丘でごろ寝の明け方三時、泰地は横の藤さんに揺り起こされた。
「お兄さん、悪いけどお手洗い」
 はぁい、と泰地は腹筋に弾みをつけて起き上がった。周囲を見回すと皆熟睡している。空はまだ隅から隅まで真っ暗だ。地上の町明りも消えたこの時間、夜は今が一番暗く澄み渡り、星々の震えるようなまたたきがはっきりと、ひとつひとつ大きく見える。
 全天を横切る白く濁った銀河はもとより、何等星と数えられない芥子粒のような星屑まで夜空の奥深く見え、大宇宙の無限感が胸にひしひしと迫ってくる。あたかも小舟に乗って渡る太平洋の真ん中で、今自分が浮かんでいる船底一枚下の海の深淵を測るような、肌身に近いおそろしさに似た畏敬をかきたてられる瞬間だった。
 泰地の介助で片膝ずつゆっくりと立ち上がりながら藤さんも星を見上げ、
「きれいな星空ね。どこまでわたしたちは旅するんですか?」
 と尋ねた。
「今日で三泊だから、あともう三日か四日ですね」
「ずっとこうして旅していられたらどんなにいいでしょうねえ。行きたいところへ行き、星空を見ながら眠り、悲しいことも苦しいことも、いやなことは何にも考えない、嫌いな人には合わないで、きれいな景色や美味しい食べ物だけを追いかけて、このままずっと旅していられたら」
 そうですね、とおだやかに相槌を打ちながら、藤さんの今の感慨が首尾一貫してクリアなのに泰地は驚いた。
(まだら認知症にしても、いつもは〈ありがとう〉とか〈美味しい〉とか言葉数が少ないのに。星見レクリエーションの効果かも)
「まだしばらく旅は続きますし、きっと亜珠子さんはこれからもこんな旅行を計画すると思いますよ」
 泰地が言葉を選んで淋しそうな藤さんを慰めると、藤さんは、
「はいありがとう」
 いつものように、にこっと笑った。
 公衆トイレに入る前から、藤さんは肩をすくめて立て続けにくしゃみを始めた。丁度夜明け前で、その日の最低温度を記録する時間だった。
「あ、寒いですか。カーディガン持ってくればよかったです」
「ありが……」
 くしょん、と言葉の途中で藤さんはトイレットペーパーで洟を噛み、鼻と口をもごもごさせた。そのまま個室に入り、その間は静かだったが、ドアを開けて出てくるやいなや、またアレルギーが始まったので、
「風邪かなあ、もしかして」
「いいえ、お兄さん、これ」
 藤さんは泰地の手にトイレットペーパーの包を乗せた。汚れものかと泰地はちょっと鼻白んだが、平気な顔を装い、開いてみた。
 くしゃっと丸められたペーパーの中には奥歯が二本、前歯が二本。
「藤さん、これ? 藤さんの?」
 たった今藤さんの歯茎からくしゃみといっしょに抜け落ちたらしい歯に血はほとんど附着していない。泰地が藤さんに最初に接した時から奇妙に感じたとおり、虫歯も汚れもない白い歯が公衆トイレの蛍光灯の灯りにつやつやと光って見えた。
「痛くないですか、ちょっと口の中見せて」
 仰天した泰地はあやうくどもりそうだった。義歯なら……安定剤を忘れた総入れ歯がくしゃみではずれて口腔から吹っ飛ぶ椿事はたまにある。が、健康な歯が、たかが十回のくしゃみでぽろぽろ抜け落ちるという珍事は経験したことがない。
 藤さんはおとなしく口を開けてなかみを見せた。舌苔もなく、気持ちのいい鮭紅色の口腔だった。昨晩彼女はCAMOSSのディナーをクルーと一緒に健康に平らげ、その後泰地が付き添って口腔ケアを済ませ、星見が丘に横になった。起き抜けだからそこそこの口臭はあるが、不快なほどではない。藤さんに歯槽膿漏がないことも泰地は最初にチェックしている。
(外見おばあちゃんだけど、藤さんは歯も手足もほとんど〈未使用〉だ。白髪だって色素が抜けているけどつやつやしてる。緑内障とか糖尿とかは僕には判断できないけれど、このひとはいったい……)
 歯が抜け落ちた下奥歯の穴はかすかに血が滲んでいるが、たいしたことはない。前歯も下が二枚抜けた。こちらも出血はわずか。
「痛いですか?」
 藤さんはふるふるとかぶりを振った。泰地の表情が切羽詰っているのを見て、藤さんの顔に恐怖が拡がる。それに気づいた泰地はぱっと表情を変えて明るく笑って見せた。
「藤さん綺麗な歯ですねえ。なぜだかわかんないけれど、たった今奥歯と前歯が抜けちゃったんですよ。とりあえず戻って眠りましょう。まだ夜明けまでには時間があるし、風邪ひくとヤバいすから」
「ありがとう」
 すいません、ちょっと触らせてもらっていいですか、と泰地は藤さんの顎を開き、指を差し入れて残った歯を上下何本か軽く揺すってみた。ぞっとした。どれもグラグラだ。
「行きましょう」
(どうしたんだいったい。夕べ藤さんは鹿肉グリルやサラダを僕の前でばりばり食べていたんだぞ。不摂生しているジンさんなんかよか藤さんのほうがずっとしっかり咀嚼していたはずだ。それが突然くしゃみで?)
 あ、と泰地の腕をとって歩いていた藤さんがぐらついた。つまづいたのかと泰地はあわてて彼女の脇腹に腕を回したが、藤さんは傾いた姿勢を自分の足で支え直すことができず、そのままへなへなとアスファルトの路面に沈んでしまた。
「藤さん、足を挫いたの?」
「どうかしら。変ねえ、立とうとしてるんだけど。思い通りにならないの」
 藤さんは眉を八の字に寄せた。
「両脚だめですか」
「どうかしら、よいしょ」
 藤さんは肩と腕をぶるぶる震わせながら力を込めて泰地の上半身に乗りかかった。彼女のほぼ全体重を支えながら、泰地は藤さんの麻痺でないほうの足がむなしく路面を蹴るのを見た。患足はまったく動かない。しかし健足だったほうも、藤さんの必死で立ちあがろうとする意志とはまるで裏腹に、痙攣のようなはかない動きをするばかりだ。
「ああ、だめだわ、ごめんねえ」
 藤さんは懸命に数分頑張ったが、やがてあきらめてぐにゃぐにゃと尻もちをついてしまった。
泰地は藤さんを背負うことにした。
「痛いですか?」
 ううん、と藤さんは泰地の背中で小さな声で返事をした。
「ちっとも痛くはないんだけれど、両方とも力が入らないんだよ」
「そうですか。ちょうどよかったですよ、昨夜東京から女医さんが加わりましたからね、きっと直してくれますよ」
 湖水を囲む諏訪盆地に東雲の光が昇ってきた。山の端が明るんでも高台から望む諏訪湖は夜の蓋のように静かな藍色を保っている。上空はさきほどまでの紺青一色からほのかな紅色を帯び始め、それにつれて星辰のきらめきは。
 
 無痛病というやまいがあるの、と羽戸千香子はキャンピングカー中央のパイプ椅子に座って自分の両肘を手のひらで包むように抱えた。敵の攻撃を防ぐ心理的城塞を胸前に腕で作るようないかつい腕組みのジェスチュアとは異なり、落ち着いた困惑と受容、しかも女性らしい柔らかさが感じられる千香子の手と腕だった。
「無痛病って痛みがなくなるんですか?」
 汗を拭いながら泰地は尋ねた。足腰が立たなくなった藤さんを背負って泰地は星見が丘から一キロほど離れた霧の駅のマザーに戻り、藤さんをベッドに寝かせてから、もういちど羽戸と亜珠子だけを呼ぶために丘を往復したのだった。既に朝陽が昇っていた。
「後天的になくなるのではなくて、先天的な遺伝子異常なのよ。そういう意味ではダウン症や早老症と同じ疾患ね。生まれたときから痛覚がない、汗もかかない自律神経異常。簡単にまとめましょう。痛覚がない状態は生体にとても危険だわ。怪我をしてもわからないし、火傷をしても感じない。どんな傷であれ、それが致命傷になってしまっても、本人は無自覚で平気なの」
「藤さんがそれだということ?」
 亜珠子は藤さんを寝かせた奥のベッドを見やった。羽戸は亜珠子の目を見て、しっかりと否定した。
「いいえ、彼女はたぶん無痛病ではないわ。生まれたときからそんな持病を持っていた高齢者が、あんなにきれいな体のはずがない。拝見したけれど全身に傷もしみもほとんどないんですもの。それどころか羨ましいようなほくろひとつない背中。普通の高齢者と較べても藤さんは…」
「やっぱそう思いますか先生、藤さんは」
 思わず口を挟んだ泰地がそこで詰まったのを亜珠子はじろりと横目に見て、
「藤さんはこのまま旅を続けられる? 入院する必要があるかしら」
 と冷ややかに千香子に尋ねた。千香子ははっとして亜珠子の表情に合わせた。
「歯はほぼ全歯ぐらぐら。たぶんもうじき抜けてしまうでしょう。体幹のほうは下半身が効かなくなっただけで骨折も捻挫もありません。だけど彼女は汗をかかなくなっています。そして痛みを感じない。皮膚感覚は保たれているけれど、体温調節ができない自律神経症状などなど、いくつかの点で無痛病に似ている。どちらにせよ大病院での検査でなければ詳しいことはわからないでしょうね」
「これまでに後天性無痛覚症患者っていないんですか?」
 亜珠子の問いに千香子は、
「藤さんを論文対象にしたいという研究者がきっと沢山現れるわね」
 と答えた。亜珠子は細い眉を吊り上げ、
「それでは旅を続けよう。地方病院で彼女は癒せないし、車椅子は持ってきたし、エアコン完備のマザー車内にいれば熱中症も防げるだろう。彼女も旅行を楽しんでいるからね」
 泰地は亜珠子=レノンのつんとした顔を眺めた。欧米人とは違うが、東洋人には貴重な細く高い鼻筋と、鼻筋の帰結のようなかたちのよい三角形の鼻孔が二つ並んで、薄い上唇の上で怜悧にひらいている。
(あ、思い出したよ。これレノンの顔だ。星隷ミカエルで病室に寝ていた金髪の〈天使ちゃん〉もこんな何様顔だったっけ。亜珠子はだんだんレノンの顔になっていく。同じ顔立ちだけど莉珠子は可愛いままなのに)
「そうだ、莉珠子を運んでこなくちゃ。もう皆ひきあげてくる時刻でしょ」
 またふいにがらりと亜珠子が優しい顔と声に戻り、泰地に清純な笑顔を向けたので、内心の反感を見透かされたような気がして泰地は髭づらの顔を赤らめたが、
「ジンさんか駿男パパがおぶってくれるでしょう。シーラさんだってああ見えて…ああ見えてシーラさん凄い怪力なんだよね」
 そう言った瞬間二十七歳の男の心にシーラの記憶のいくつかが甘く切なく蘇る。三年前泰地はシーラを類まれな美少女と思い込み、それこそ気が狂うほど好きだった。
 が、泰地が触ったシーラの胸は少年だった。泰地の手にはシーラの胸の詰め物になっていた紅の絹が残り、そのあといろいろな個人的ごちゃごちゃの末にシャンプーのほうへ行った。あの絹のハンカチーフはどこいったかな。(僕はまだ彼女が好きだ。そう、彼じゃなくて彼女だって思ってるもん。ホモじゃなくても忘れられない同性愛ってあるんだ)
 お、は、よ、と一音ずつに音符マークをくっつけてジンさんがマザーに登ってきた。その後ろから駿男が莉珠子をおんぶし、メグが続き、シーラが入って来た。全員揃ったマザー車内の温度はいっきに上昇する。
 ジンさんは亜珠子に向かって不服そうに、
「なんで黙って帰ったのさ。昨夜は素敵なロマンチックナイトだったよね。星見酒飲めなかったのがイマイチだけど」
「CAMOSSでフレスコバルディまるまる一本開けたんだからいいじゃないの」
 言いながら亜珠子はエアコンの温度を下げた。駿男の背中で熟睡している莉珠子の頬を人差し指でつついて、
「呼吸していないみたいだな。この寝顔」
 とつぶやいた。
「またそういうヤバい言い方する。もうあなたレノンやめて亜珠子さんで生きなさい」
 ぶつくさ言いながら駿男は莉珠子をベッドに下ろした。莉珠子が眠っているので、レノンは亜珠子のふりをする必要がない。が、誰も亜珠子をレノンとは呼ばないのだった。
 駿男は車の天井を気にしながらラジオ体操のように背中と腰を延ばし、
「今日はどうしますか。上田に行く? それとも諏訪観光?」
「上田移動前に諏訪大社にお参りしましょうか。ここは湖の神の国。山梨は富士山の神だったし信州は諏訪湖の主が治める。旅人は敬意を表さなくては」
 カミサマの前にアサメシにしようぜ、とジンさん。

 上田は僕の故郷じゃない…とレノン=亜珠子はルート141沿いの車窓から、諏訪とよく似た勾配のおだやかな上田盆地の山並みを眺めながら考えた。通り過ぎる景色に湖はなかったが、上田市に入ると千曲川の流れに沿ってキャンピングカーは速度を緩めて走る。ドライバーは一番上手な泰地だった。失調した藤さんのケアは合流した女医羽戸に任せている。
 シーラと羽戸はシーラの運転するジャガーで東京からやってきた。シーラは足の遅いマザーより先に上田に入ったはずだ。
 小諸なる古城のほとり……教育を受けたある世代以上ならば自然に口遊めるに違いない島崎藤村の詩のみならず、千曲川は万葉時代から多くの詩歌の母となった。長野県以北、下流の信濃川と併せて日本一長い川とされる。
 夏の川原には夏草が高く繁り、川瀬の波が静かな広い水面は、青空と雲の姿をたっぷりと映している。自然の景物は人間の邪悪を吸収しない、とレノンは考えた。この川面にレノンが寄せる情緒は、ふるさとへの思慕ではないが、そのおかげで自分を病院に置き去りにし、別な男と再婚し、造り酒屋の裏方をとりしきっているであろう裕福な主婦への反感を和らげてはくれるのだった。
 この素朴な田舎の景色を見て、毒々しい憎悪をかきたてられるとしたら僕は本当の悪魔だ、とレノンは自分の感情の移り行きを、空の雲を仰ぐように眺めた。悪魔であってもレノンはいっこうにさしつかえないが、緑と水の風景に今登場するのはトンボの群れと白鷺だった。
(僕は上田で生まれたんじゃない。東京の美大生だった依子はどこかのロック青年と一緒になり、僕が生まれ、やがて二人は別れた。東京の思い出もないけれど、僕は六歳で茅野に来るまでどうしていたんだろう。いつまで両親は同棲していたんだろう。レノンが生まれて数年は上田市にいたんだろうか)
突然閃きのようなショックを感じてレノン=亜珠子はごくりと唾を飲んだ。
(レノンはどうして父親を恋しがらないんだ? そうだ、僕のいんちき親父はどこでどうしているんだろう)
 父性への希求がないことの認識は、のどかな信州の景色を眺める眼にいきなり氷のかたまりが押し当てられたような感じだ。
「深刻な顔だな、あっちゃん。ビールでも飲んだら?」
 とジンさんが物思いの鼻先へ氷ならぬ発泡酒の缶を突きだしたので、亜珠子は遠慮なく嫌な顔をした。
「あたし昼間からお酒はちょっとね」
「そう、じゃ俺だけ飲む」
 諏訪で昼食のうなぎを平らげたばかりといいうのに、車中のジンさんはもう酔っぱらいだった。
「どこか見覚えのある風景ある?」
 車は市街地に乗り入れた。湖を繁栄の中心とする諏訪の街並とは異なり、こちらは経済効果優先でランダムに成長したごく普通の地方都市に見える。一見すると西東京あたりのベッドタウンシティの風景に似ているかもしれなかった。
古くからの個性的な商店街があり、大資本のデパートがある。戦国時代に城塞だった上田城に向かって坂が多く、現在の宣伝では真田氏ゆかりの城下町を謳う。上田城址公園は街の中心ではなく、観光特別地域となって市の外郭に保存されている。
 レノン=亜珠子は素っ気なく応えた。
「ないね」
「行きたいところは?」
「安宅醸造の本家が目的地だけど、この大勢でいっきに押し寄せるのはまずい」
「ひとりで行けば?」
「そのつもり」
 亜珠子=レノンはそう言ったあとですぐに、
「あなたも来る?」
 含み声で目を細め、誘うように微笑した。
 へえ、とジンさんは眉をあげた。その口調に聞き覚えがある、ような気がしたからだった。あなたも…アナタモクル…。
(確かにレノンと亜珠子は混じってやがる。あっちゃんの中で主導権を握っているのはレノンなんだろうけれど、あっちゃんのこんな話し方、表情を俺は覚えてるぞ)
女が一線を超えた相手だけに見せる甘ったれた声と視線、絶対に相手が自分を拒まないと承知している媚態。
そんな複雑で淫靡な情緒が、六歳のまま大人になったレノンにあるはずがない。
(こいつはいったいどっちなんだ、まあどっちでもいいか。レノンが憑依しなけりゃ亜珠子は目覚めなかったんだから)
 ジンさんは発泡酒をこくんと飲んだ。酔いはどこかに行ってしまった。だが亜珠子に惹かれた。彼は男の欲望に忠実なので、それに従うことに躊躇はしなかった。
「それじゃ俺の娘ってふれこみで行こう」
 亜珠子は眼を丸くして頷いた。
「あたしも行く」
 ジンさんの後ろからメグがにゅっと顔を出した。無邪気な少女の登場に、ジンさんはほっとしたように顔を緩め、
「んじゃ亜珠子の妹ってことにするか」
相手に疑われる恐れなど皆無だが、器量のいい姉妹二人と父親の家族連れなら、それはもう。

ハロー莉珠子…。
 キャンピングカーのベッドを包む眠りの闇は象牙色をしている、と莉珠子は少し瞼を開けて思った。厚い遮光カーテンや個室シェードを下ろしても、外光はどこからともなく浸み込んで、繭の内部のような薄ら明りだ。
「ポーン、どうしてここに」
 莉珠子は眠気に重い瞬きを数度繰り返し、ようやく寝ている自分の真上、ベッドの天井にポーンの痩せこけた雀斑顔を発見した。
「おはよう、僕がよく見えるだろう」
「何とか映ってるって感じよ。相変わらずチェックのシャツ、赤と黄色と茶色ね。それに西部劇のズボンのようなサスペンダー。……足がないわ」
「このシチュエーションで足は不要だ。それに足は前回特別サービスしたからね」
「ああ、あの」
 へんちくりんなダンス、という下の句は言わなかった。代わりに莉珠子は大あくびをして尋ねた。
「パソコンもないのにどうして二段ベッドの天井に映ってるの? ここでもプロジクション・ワープは可能だったのね」
「この車にはシーザーの監視装置と事故防止のための自動制御システムが入っている。どんなカメラであれわが社のクイーンは侵入する。自家用車やスマホ程度のシミュレーション書き換えなんかお茶の子だ。白い無地の反射板があれば僕はどこでも投影される」
「あそう」
 よくわからないがとりあえず同意する。
「何か用事?」
「呆れたね、君は僕の言葉をすっかり忘れているのか。復活した亜珠子の正体が何なのか不安がっていたじゃないか」
「まあね。だけどあっちゃんのなかみがどうでもよくなったわ。ええと」
 莉珠子はパメラとのセッションの会話を思い出した。
「あたしは今のあっちゃんといて得することのほうが多いもん。だからこのままでいい」
 ちっ、とポーンは薄い上唇の一方を憎らしげに吊り上げた。戯画のような悪役顔だが赤ッ毛のポーンには愛嬌があった。
「僕は君に約束した。君の家にお邪魔するって」
「そう言えばそうだったわね」
 危機感のない莉珠子の返事に、ちっ、とポーンは反対側の口角をさらに吊り上げた。
「今さら言うまでもないが君は大トロ娘だ。亜珠子は昔の人格ではなく、驚いたことに奇妙な亡霊が憑依しているんだぞ」
「……」
「君の観察は正しかったんだ。僕らは監視カメラで亜珠子の一挙手一投足を分析したが、突然覚醒した彼女が多重人格症を発症した可能性もあった。だからシーザーはすばらしい奇想天外を駆使して藤さんを遣わした」
「え、藤さんはシーザーの使者なの?」
「そうだ。ほんとに君はトロいな。シーザーが自家薬籠中の球もしくはただの掌中の珠にして秘蔵する亜珠子莉珠子の傍に、自分の息のかかっていない人物を密着させると思うのか。それがたとえ老婆であっても、だ」
「何のために? 藤さんは認知症で」
「SOSO、シーザーは亜珠子の生理的反応を夾雑物のない、また亜珠子に警戒心を抱かせない〈肉眼〉でキャッチしたがった。スパイを送り込むならできるだけ無垢で空疎な、自分自身の人格を持たない人形に近い肉体。だが最新鋭のアンドロイド技術にしても、それほど高度な人工人体に到達していない」 
 莉珠子の眼と頭はポーンのこの台詞の間にはっきりしてきた。それと同時に恐怖が来た。
「藤さんは、いったい誰なの?」
「ベイビーグランマ・ウィスタリアは君たちの一部から作られた君たち自身でもある。だから本能的に君たちはベイビーグランマをすぐに好きになり、保護し」
「クローンなのね」
 にかっ、とポーンは笑った。莉珠子は怒りとも哀しみともつかない衝動に駆られ、天井画像のポーンに両手でむしゃぶりついた。
「この人でなし! サプリメントを作るだけじゃなかったの? それに……それにユメテルナを飲んで頭がおかしくなった人も」
 莉珠子の両手は幻影のポーンの顔と胸を突き抜け、二段ベッドの天井板を虚しくかきむしるばかりだ。
 ポーンは動じなかった。
「君たちから採取した卵子及び細胞、遺伝子はすべて当社の建設的社会貢献的な恣意の達成に利用する。素材提供の報酬としてシーザーは契約通り全世界のユメテルナ売り上げ純益の1パーセントを月次で払う。それが二十年このかた違反なく、しかも増額する一方で続いているから、君たちは既に悪魔のように大金持ちだ」
「悪魔ですって?」
「大金持ちの天使などいるか?」
 莉珠子は黙った。
 深呼吸をいくつかする間に、莉珠子はポーンの言葉には嘘偽りも違反もないことを確認した。そうだった、自分たちの細胞からエイジレスの夢をかなえるために、クローン幼児が生産されていることは知っていたではないか。その子供たちはシーザーの宮廷牧場で育てられ……育てられ、それ以上その後の彼らのことは気にしなかった莉珠子だ。
 若年性認知症、コーマに沈んでいた亜珠子はどうだったろう。ちゃんとしたことなど何も考えられなかったはずだ。
 ポーンを責められない莉珠子は弱々しく言った。
「クローンは弱いんだって。レプリカは生命力が希薄だと聞いたわ」
「そのとおり。ベイビーグランマは三年前に誕生したが、保護室の中で急速に老いてしまった。亜珠子か莉珠子か、どちらかの遺伝子と、不特定多数の優秀で健康な男性遺伝子との交配で生産されたのだが、残念な子だ」
「藤さんはどうなるの? その前に、藤さんを使ってあなたがたは何を察知したの?」
「シーザーはウィスタリアの網膜と皮膚の随所にミクロン単位のセンサーを埋め込んだ。ベイビーウィスタリア・グランマと亜珠子の視線が合うと、両者の間に言葉以上に感情の交流がある。感情はおおざっぱに説明すれば電磁波の一種だ。発汗や体温上昇、PH、心拍、震えや高揚などの皮膚反応も、相互作用の結果だ。グランマと亜珠子相互間の感情その他、ここ一か月余りの分析によると、グランマが知覚した亜珠子の人格は、多重人格障害者のそれではなく、安定し、統一され、しかも通常より冷静かつ鋭敏な何者かであると推定される。もちろん以前の亜珠子ではない」
「誰それ」
「君の友人たちは彼をレノンと呼んでいる」
「レノン?」
「盗聴でそれはわかっていたんだが、荒唐無稽なポゼッションなどシーザーは容認しなかった。だが今は違う。シーザーはレノンに非常に興味を持っているし、レノンの仲間たちにも関心を示している。彼らはエスパーだ。超常現象そのものは」
「もういいわ。あなたは藤さんをどうするつもりなの?」
 莉珠子は得意げなポーンの饒舌を打ち切った。亡霊がどうのエスパーがどうしたの、そんなことより、自分たちの分身であると明かされた藤さんのほうが大切だった。
「レプリカはひ弱なんだって言ったじゃない」
 莉珠子は涙がこぼれそうだった。罪悪感が……今まで知らぬ存ぜぬで蓋をしてきたクローンたちの末路に対する自責の念で胸がしめつけられる。
「そう、彼女はもう耐用期限が迫っている。もっともそれは彼女を送り込む前に予測されていたから、我々は大切なわが社のベイビーに倫理的配慮を怠っていない」
「あなたのペダンチックな日本語力には敬服するわ。ネイティブだけど睡眠障害のあたしなんかよかずっと格好良く、むつかしい言葉をすいすい脳味噌から取り出すのね。それともポーンなんてただのクイーンの生みだした幻像なの? でもあなたなんかどうでもいいわ、ようするに藤さんはどうなるんですか」
「クローンの死に方はさまざまなんだが、まずもって急激に免疫能力が低下し、癌や多臓器不全その他の病を発症する。実に興味深く、また君たちの奇跡性を証しすることだが、肉体の外見上の若さの持続と、脳を含めた内部の健康を長時間両立できた生体成功がまだないんだ」
「亜珠子さんは若年性認知症」
 そしてあたしはナルコレプシーだ……。莉珠子はポーンの話を聞いているのがつらくなってきた。
「そう、ガラスの部屋であっというまに年をとってしまったグランマも脳の機能不全だった。シーザーはいくつかの日本語記憶を彼女の脳に刷り込み、同時に日本で彼女がどのような運命に翻弄されようとも、いっさい苦痛を感じないで死ねるように、あらかじめゲノム操作したんだ。それはもう一体、ベイビーと同じベイビーを生産することで解決した」
「わけがわからない。藤さんがもうひとりいるってこと?」
 ポーンは怪訝な顔をした。何を言っているのか、と莉珠子の鈍さを咎めるような乾いた口調で、
「ウィスタリアの複製は一体じゃないよ。日本に送り込んだ彼女は、万が一君たちが彼女を保護せず、彼女が路頭に迷ったとき、死の苦痛を感じないですむためのゲノム情報を新たに書き加えて生産された、それだけ」
「痛みを感じない?」
「痛覚の麻痺と同時に知性も衰える。もっとも君たちがウィスタリアをひきとったとしても、異邦での死は苦しいからね。癌にしても白血病にしても、間もなく訪れるベイビーの死は安らかだし、分身を看取る君たちのストレスも最小限で済むだろう」
 ぶつんとポーンの幻影が消えた。それと同時に、がたがたと揺れる車の振動が仰臥したままの莉珠子の背中にはっきりと感じられた。なぜだろう、こんな寝心地の悪いクッションじゃなかったはずなのに。
 莉珠子はぽろぽろと涙を流した。これこそ夢ではないだろうか。
「ポーン、言いたいことだけ喋ってこれからどうするつもりよ。亜珠子の正体がレノンでシーザーが興味を持ってるって。レノンの友人はエスパーで、藤さんはもうじき死んじゃうんだって……。あたしたちのクローンだった藤さんはシーザーの用が済んだらいらないから……死ぬとき痛くないからそれでいいでしょって言い草なにそれ」

ハート・ゴースト・ケーキ   Pth 12

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   ハート・ゴースト・ケーキ

 諏訪湖に着いたら特別ディナーよ、と亜珠子が言い出したのでクルー全員驚いた。
「寝耳に水だぜ。どこ行くの」
 キャビン備え付けのパイプ椅子に座ったジンさんが尋ねた。二段ベッドの下のほうは安眠シェードを上げると、二つ並びのマットの角度を調節してソファにもなり、運転席に行った泰地とメグ以外は、それぞれ手足を伸ばしてくつろいでいるところだった。
「昔馴染みのレストランがあるの」
 亜珠子は澄まして応えたが、横に座った莉珠子にだけ見えないように、肩に羽織った黄色いカーディガンの影から、ジンさんに人差し指を左右に振って合図した。
「あそうか。そういえばあっちゃん昔は結構売れてるイラストレーターだったもんな」
「そう、昔々。二十年も前だからね。ジンさんに貶されても仕方ないな」
「貶しちゃいない。しかしいったい、いつ予約したの」
「もちろん旅行前よ」
 茅野を二時過ぎに出発して、諏訪まで小一時間で着いた。標高は高いに違いないが、諏訪湖の周囲は平野で、風光明媚と言うほどに整備されていない新興市街が湖水周辺に環状に広がっている。甲府盆地のように濃い山並みが四方間近に迫っている印象はなく、莉珠子は車窓風景を眺めながら、諏訪という神秘的な言葉の響きを持つ湖が、この平凡な市街のどこにあるのかしらと考えていた。
「太古は湖の周囲すべて森だったのに違いないのよ」
 いつのまにか莉珠子と同じ姿勢で窓の外を眺めている亜珠子が傍にいてつぶやいた。莉珠子は自分の疑念を亜珠子に盗み読まれた気がしたが、今の亜珠子の囁きが自分の想念と重なったのは、偶然と思いなして自然な感じだった。
「諏訪には古い神社があるのよね。どこかで習った気がするけれど、日本で最も由緒あるお宮さんの一つなんでしょ?」
「らしいわ。諏訪の御柱祭って天下の三大奇祭のひとつ」
「あっちゃんここに来たことあるの?」
 亜珠子は窓ガラスから顔を離して寂しげな微笑で莉珠子を見た。
「あったんでしょうね。だけど何もかも忘れてしまったの。ただここに来たいという切望だけがあるのよ。自分でも不思議な感じ。デジャヴュがあるかというとそんなロマンチックはないわ。消えてしまった記憶の白紙部分を少しずつ埋めているのかも」
 今の亜珠子の表情も台詞も素敵だ、と莉珠子は思った。
「知り合いってどんな人? その人のことは覚えているのね」
「うん。だけどその人は多分もう亡くなっていて、その人の縁者がレストランをやっているのよ」
 辻褄の合わない亜珠子の様子に、莉珠子はそれ以上の詮索をやめた。
 夕暮れの湖面にさざ波が立ち、空全体が茜に染まる薄曇りだった。まだ立秋前の四時過ぎでは斜陽であっても明るく、水を渡る風は湯のようにぬるかった。湖をぐるりと取り巻く道路沿いの駐車場は、その晩一行が停泊するには狭かったが、泰地は大きな車体を操り無難に乗り入れた。
「予約は何時からだい」
 ジンさんはねじり鉢巻きにした豆絞りの日本手ぬぐいをバンダナ替わりの汗止めにしている。実用よりはきっとただの伊達だ。
「六時から。ミネちゃん気の毒だけどお酒控えてくれますか。ドライバーの誰かは素面でないと。お店で飲めない分君にはお土産にボトル一本プレゼントするから車中で飲んで」
 泰地はにこにこした。外見は自分より一回り若い、というよりも幼い亜珠子が、澄んだ少女の声のままマダム口調であれこれ仕切るのがとても可愛らしく感じられる。泰地も亜珠子=レノンであることを知っている。知っていても駿男やジンさん同様、外見の可愛さのほうが小生意気な正体より、感情をはるかに左右するということなのだった。
「そんな気をつかわなくてもいいすよ。でもま、いただいとくねさんきゅ」
 どこで今夜は泊まるの? と脇から莉珠子が口を挟んだ。亜珠子はすらすら答えた。
「お天気がいいから、車中泊じゃなく野外で星見でもしようかなって思うの。湖に近い上諏訪の霧の駅。高島城の近くよ。レストランもちょうどそのあたり」
「レストランの名前は何て言うんですか」
 駿男は早速スマホ画面で霧の駅を探しながら尋ねた。
「CAMOSS、カモスって言うの」
「あ、みっけ。おしゃれな感じの店構えじゃないですか。全食材信州産ですって。肉も魚も。てことは海の魚はないんだ。まいいや僕肉食オヤジだから。日本酒と洋食の和合を狙うシェフ、まだ若いなあ、幾つなんだろ」
 どれ、とジンさんが首を伸ばした。駿男の手からスマホを奪い取り、シェフの顔をためつすがめつして不平そうに鼻を鳴らした。
「ミネちゃんとどっこいだな。イケメンじゃんか。こいつがあっちゃんのオトモダチ?」
「いいえ、このひとじゃなくて」
 亜珠子は仔狐のように笑った。
「移動前に、ちょっと諏訪湖の周り見てきたいんだけど」
 莉珠子が言い出したので、亜珠子は、
「それならタクシーで後からCAMOSSに来たら? 夏休みだし観光地だし、もう早めに霧の駅の駐車場で夜の星見に都合のいい停泊場所取っておいたほうがいいと思うから、マザーは先に行くわよ」
 マザーとはキャンピングカーのことだ。
 一行はそこで二つに分かれた。亜珠子と泰地、ジンさん藤さんは一足先に霧の駅へ。風間親子と莉珠子は長く物憂い夏の湖の黄昏を堪能することにした。
「これ林檎でしょ。街路樹? 湖畔樹に林檎が植えてあるなんてやっぱ信州だな」
 歩き出した駿男はすぐ近くの林檎の木を珍しがった。諏訪湖をめぐる道沿いには背丈の揃った林檎が一定間隔で延々と植樹されており、もういくつも実をつけているらしく、一個ずつ白い保護袋が被せてある。温暖な湘南に生まれ育った駿男やメグには、林檎の木は異国情緒をかきたてる北国の象徴だった。香枕鹿香では蜜柑や柚子の庭木は多いが、林檎というと乙女林檎のような鑑賞品種以外には見られない。
「秋には収穫するんでしょうね」
 と莉珠子。そっと袋の上から指で触ってみる。紙袋はすかすかで、内側の実生に指の感覚が届かない。痛めてはいけないから莉珠子はそれ以上袋を圧さなかった。
 湖畔の人出は多かった。
 県外、国外からの観光客、それに犬を連れた散歩、ジョギング、ウォーキング、高齢者のそぞろ歩き…。腰を降ろして休める芝生と涼を呼ぶ欅の街路樹は丁寧に調えられ、あちこちにコンテンポラリーアートのオブジェや、名所案内を刻んだ石板などが目を引く。
「河口湖と諏訪湖どっちが大きい?」
 駿男が尋ねると、メグは小首を傾げてちょっと考えてから、
「見た感じ河口湖のほうが深い感じ」
「深い? 大きいじゃなくて?」
 父親の問いにメグは瞬きしながら頷き、
「景色の中に富士山が見えていた分、湖も深く感じるの」
 なるほど、と駿男も莉珠子も納得した。
「水上に聳える富士山の影の分だけ水底深く見えるってことね。メグちゃん凄い、あたしそんなこと考え付かない。詩人になれるよ」
 十三歳の少女の感受性に莉珠子が素直に感嘆したとき、背中をどしんと誰かにつきとばされ、前につんのめった。
「そこあたしの席よ、どいてよ」
 え、と振り返って自分を突き飛ばした相手の姿を確かめる間もなくもう一度、今度は腰骨をどつかれた。
不意を衝かれてよろける莉珠子を、先に歩いていた駿男がとっさに身体をひねって支えた。
「何するんだよ」
 血相変えて駿男は怒鳴った。
「あたしの歩く道なの、どいてよ」
 駿男と莉珠子の目の前で、色白の眼の大きい少女が、頬を紅潮させ地団駄を踏んで怒っている。少女の腕力に負けて地面に両膝をついてしまった莉珠子は、駿男に助けられて立ち上がりながら、相手の姿を観察した。
 茶色に染めた髪をポニーテールに高く結び、髪と同じ色のオフショルダーのカットソー、黒いチュールのミニスカートをはいている。細い素足にレース編みのフラットパンプス、彼女の衣装は全部おしゃれで高価そうだ、特に靴。莉珠子の好きなブランド名が浮かぶ。
「あなたの席とか道とかって? ここは遊歩道です」
 少女は赤い口紅にグロスを重ねてきちっと塗っている。青紫のシャドーはラメ入り。いや顔色が白く見えたのもよくよく見ると女優肌ファンデーションの成果らしい。シックな服はともかく、顔はポスターモデル並みの濃厚化粧だが、十七、八歳以上には見えない。
(なんだかこの子変)
 駿男を見上げると、莉珠子の異和感と同じ色の視線をくれた。
 すいません、と遊歩道の外側からこちらへ叫ぶ声が来た。少女の弟らしい少年が息せき切って林檎並木の土手の下から駆け上がって来ると、
「ああここにいた。またなんかやった?」
「散歩に来たの」
 片腕を鷲づかみにされたが、少年をふりはらうでもなく、少女はただ素っ気なく応えた。
「散歩? 朝も昼も来たよ。もういいよ歩かなくて」
「美容と健康に運動しなくちゃ」
「大丈夫だって」
 少年はうんざりした顔つきだった。日焼けして浅黒いが顔の造作が姉によく似ていた。
(運動って、そのおしゃれなパンプス) 
 莉珠子は少女の足首からふくらはぎまで紐を交叉させて編み上げる華奢な皮靴を見た。半透明のチュール重ねの黒いスカートといい、とてもウォーキング向きには思えない。
「もう帰ろうよ」
 姉の腕をだるそうに引っ張る少年と、なお愚図る少女との押し問答には駿男や莉珠子の存在がない。少女が迷惑をかけた第三者の存在はまったく無視され、ちゃんとした気遣いや謝罪の一言もない。
 唖然とするばかりの莉珠子とメグだが、さすがに駿男は口を出した。
「ちょっと、君自分のことばっかり言ってないで。君のお姉さんこのひとを不意に突き飛ばしたんだよ。怪我でもしたらどうするの」
「え、どこか怪我しましたか?」
 二の句が継げず、駿男は呆れて口を半分開けた。
「実際に怪我したとかしないとかじゃなく、君のお姉さん暴力行為をやらかしたんだよ。未成年じゃなかったら警察沙汰にするぜ」
「え、姉じゃないですよ。これ母親で」
 少年は視線を左右にせわしなく動かしながら、ひきつった顔に誤魔化すような笑いを浮かべた。彼は駿男と莉珠子をまともに見ようとせず、捕獲した野性動物を抑え込むように少女の腕をぎゅっと掴んで離さない。
「お母さん、まさか」
 駿男はもういちど茶髪ポニーテール厚化粧の娘をじっくり眺めた。若すぎる。少女はせいぜい十八、少年は十五か。少女はふてくされた様子で少年の脇腹をつついた。
「あんた帽子か日傘持ってこなかったの?
たく気が利かないんだから。どうせ追っかけてくるんなら持ってきてよ」
「これだよ。ママもう夕飯食べないとやばいんでしょ。六時過ぎるよ」
「え、もうそんなになるの」
 少女は急にそわそわし始めた。夕靄のたなびく湖面にうつろな目をやり、欅の梢を見上げ、この騒動をそ知らぬ顔で傍らを過ぎてゆく通行人を眺めたが、彼女の視線が外の世界の景物に少しも触れていないことは明らかだった。少女は切羽詰った声で、
「帰る、六時までにご飯食べなくちゃ」
 うん、と少年はほっとしたように少女の腕を握った手の緊張を緩めた。
「ちょっと待てよ君、お姉さんじゃなくて君のお母さんて、ほんとか」
 駿男は暴力行為よりも信じられない現象に好奇心を動かされ、少年を問い詰めた。
「え、マジです。このひと僕のママ。だけど十年くらい前からこんなふうに時々おかしくなるんだよね。変な薬飲み始めたらどんどん若返って。そのころから頭がいかれた」
 少年は悪びれたふうもなくぺらぺらと喋った。
「頭がいかれた……どんなふうに?」
 莉珠子は消え入りそうな声を無理やり励まして尋ねた。突き飛ばされたショックなどどこかにいってしまった。少年は蒼ざめた莉珠子の顔を横目で眺め、また曖昧に笑った。
「外見自分と同じくらいの年頃の可愛い子見ると乱暴するんだ。かっとなるんだ。それでそのことを後で思い出せないんだよ。自分が何をしたかまるっきり覚えてない」
 ごくりと駿男は呼吸を飲んで、
「立ち入って悪いけど、君、このママと二人暮らし?」
「そうだよ、親父と別れてから彼女は妙なドラッグにはまってやめられない。普段は割とおとなしいっていうか、マンションで自閉してる。毎日ダイエットで夜は六時以降にものを喰わない。太るのやなんだと。おじさんもういい? 遅くなって食事するとママはまたヒステリーみたいに夜間ジョギング始めるからもう帰らせてよ」

 CAMOSSは鼠色の瓦を葺いた白い塗り壁を囲い、数寄屋門を構えた古民家風だった。料亭といかめしく形容するには全体にこぶりで鄙びており、表通りから二本ほど路地を奥へ入った住宅地の中で、周囲の一般住宅とかけ離れた華美豪勢を衒うこともなく、見る目に快い風情だった。
 莉珠子と風間親子が湖畔からタクシーで駆け付けたとき、別行動をとった仲間はまだ着いていなかったが、数寄屋門の軒下には千手シーラと羽戸千香子が立っていた。
「わぉシーラちゃん」
 駿男はハートマークを声音に添えた。ボルサリーノを被ったシーラは駿男に向かって右手を軽くあげ、それからメグと莉珠子に平等な視線を向けた。ほんの少しメグのほうにシーラの目が長くとどまったのは仕方のないことだった。
 グリーンとグレイの太いストライプ模様のテーラードジャケットを着ており、赤銅色のバロックなバックルを嵌めた共布のベルトで腰を締めている。ジャケットの下は光沢のある黒無地シャツ。胸元に太い金鎖のペンダントを提げている。ペンダントヘッドはイミテーションでなければアンティークのメダルだった。ボトムスはアラビアンナイトの踊り子のようなパンツで、黒に近い濃紫の生地に金糸の細かな唐草刺繍が鱗のように施されている。砂漠を歩く遊牧民のサンダルのような猛々しいハイヒール……。
 そこに立っているのはパメラではないかと莉珠子は思った。背格好は同じくらいかもしれないが、シーラは髪も目も黒い。顔立ちがそっくりというわけではないし、カウンセリングルームのパメラはただの一度もこんな無国籍ド派手な格好をしたことはなかったのだが、莉珠子の目にはシーラの姿が最初の数秒、金髪碧眼アンドロイドセラフィストパメラに見えたのだった。
「こんばんは。ちょうどお休みとれたんで付いてきちゃったの」
 粒の揃った白い歯並びをテレビ女優のように見せて笑う羽戸は、シーラより頭一つ背が低い。連れに比べると日常想定圏内のおしゃれで、花柄のプリントワンピースを着ていた。とはいえ、熱帯の花鳥を更紗ふうに染め出したフェミニンなドレスは、オレンジ、黄色、赤にブルーと、普段は白衣のイメージが強い羽戸千香子を極楽鳥のように見せた。
 先に入ろう、とシーラは言い、皆の同意を待たずに数寄屋門をくぐった。百八十センチの上背にハイヒールだから、シーラは背を軽くかがめなければならない。
 モデルレベルのプロポーションはすごいなあ、と莉珠子は再々感動するが、それにしてもシーラの一挙一動にパメラのイメージが重なるのはどうしたことだろうと考えた。
(パメラのホームページにリンクしてたアパレルブランド、YUCARIのアイコンはたぶんこのひとだ。今被っている帽子もそれなんじゃないの?)
 CAMOSSの内部は和風建築の外観とは異なり、奥まったほうの店の半分はひんやりとした印象の黒と白のモザイクの床で、庭園に面したフロアは土間に似せたコンクリートの打ちっぱなしになっている。椅子やテーブルの家具調度も奥と表でスタイルを変えており、モザイク床のほうは華奢でシンプルな現代のデザイン家具、土間のほうはグリム童話の挿絵に描かれそうな重厚で黒っぽいクラシカルなテーブルと椅子が配置されている。天井板は取り払われて、黒光りのする太い檜の梁構造が露わで、吹き抜けにも似た開放感を演出していた。
 どこに光源があるのかわからないが、店内は間接照明の影を作らない淡黄の光にひたひたと満たされ、忙しく煮炊きする厨房の活気のほうが客室より明るい。小さな音量で旋律の素朴なルネサンスリュート音楽が流れている。単調でも長調でもない古代音楽は、陰翳を作らないCAMOSSの照明の穏やかさと一致していた。
 テーブルは奥も表も来客でほぼ埋まっていて、亜珠子たちの予約席はモザイク床の真ん中あたりだった。客筋はさまざまで、おしゃれはしていてもみなカジュアルだった。観光客がほとんどのようだ。
 シーラが店に入り着席するまでの一分半、店内の空気は一変し、ざわめきは止み、香気を増すために料理の仕上げに注がれるオリーブオイルのような視線が彼に集中した。話し声が止んだフロアに、舞曲のような弾んだリュートの旋律だけが聞こえる。
 いらっしゃいませ、と入口からにこやかに案内してくれた女性は五十代初めくらいで、白黒のギャルソンコスチュームを着ていたが、黒髪に遊びを持たせて高く結い上げた和装のような襟足の美しさは、ただの従業員には見えなかった。
このひとが女店主だろうか、と莉珠子は彼女を眺めた。スマホアイコンのハンサムシェフは厨房だろう。切れ長の目元や鼻筋のかたちが似ているし、二人の年齢から推して親子なのかもしれない。
「ご予約は九名様でいらしゃいますね」
 声も言葉もきれいだった。
 アラカルトと水を置き、コース料理の注文を聞いたマダムが奥へ入ってしまうと駿男は、
「信州弁とか甲州弁とか聞かないねえ。今時はみんな標準語ですらすら。今のあのひとなんか東京人よかきれいな発音じゃない」
「東京人て、つまり上京人ですからね。江戸っ子とは違うのよ」
 と、あっさり羽戸千香子がかたをつけた。
「そうだよね、三代続いてやっと本物の江戸っ子って言うんだけど、昔の江戸の区域内に代々生存してる都民なんてまあいないだろ。あとはみんな時代の寄せ集めなんだ」
 駿男は嬉しそうに羽戸とシーラを眺めて同意した。クロスをかけた長テーブルをはさんで駿男の左右にメグと莉珠子、正面にシーラと羽戸が並ぶ。今のところパパは花園に黒一点の楽園有頂天だ。
「ところでシーラちゃんなんでここに来たの?」
「亜珠子に呼ばれたのよ」
 駿男の前ではシーラは女性言葉になった。
「そもそもあたしがこの店のこと彼女に教えてあげたのよね。ここは」
 とシーラは少し間を置き、駿男の隣に座った莉珠子にちょっと視線を泳がせ、
「莉珠子はお酒飲めなくてかわいそうだけど、信州で有数の蔵元直営レストランを亜珠子に教えてあげたのよ」
「へええ蔵元。ああ、だからCAMOSSは醸すなんだね」
 そう、とシーラは頷き、さりげなく
「蔵元は安宅醸造というの」
 ふうん、と察しのよい駿男はそこで唸った。
 そこに三十分遅刻して亜珠子たちが入って来た。どたどたというジンさんの足音といっしょに、
「結構もう混んでてね。だけど頑張って今夜の星見特等席は取ったよ。何飲んでるの? まだ水か」
「そちらを待ってたのよ、どうする?」
 シーラは亜珠子を見た。亜珠子は莉珠子の隣に座ると、マダムを呼んで、と短くシーラに言ったので、ジンさんは目を剥いた。
(シーラを顎で使うのか? あっちゃんレノン。いや昔の亜珠子にこんな威厳があったかねもちろんないよ)
 マダムがやってくると、亜珠子はワインメニューを開き、
「こちら日本酒と洋食の調和を目指してらっしゃるんですってね、おすすめのお酒は例えば?」
 マダムは亜珠子莉珠子の顔と姿をしげしげ見較べて、駿男に向かい
「お二方はお嬢様でいらっしゃいますか? 未成年の方にお酒はちょっと」
「このひと幼く見えるけど一応二十歳過ぎてるの。こっちはお酒飲まないから大丈夫です。ね、りっちゃんそうだよね?」
 わかりやすい念押しと目配せのダブル合図に莉珠子はうんうんとひたすら頷く。年齢はともかくどのみち飲めない。
 それでは、とマダムがリーフレットを開く前に、亜珠子=レノンは口早に、
「麗呑てスパークリングを聴いたんですが」
「ございます。当店蔵元が毎年六月から八月だけの夏季限定で出しております大吟醸スパークリングです。肉料理にも魚料理にも御好評いただいております」
「あたしはそれがいいわ。あと赤ワインはそっちが詳しいから」
 とシーラに舵を渡したが、またマダムを呼びとめ、
「ここのチーフさん、ホームページに出てる方ですか?」
「さようでございます」
 初老のマダムは、二十歳そこそこの少女にしては高飛車な亜珠子の口調にも、初めからの微笑を変えなかった。
「酒造りの家に生まれ、美酒で味覚を磨かれ料理人に転身したんですって?」
「はい、ありがとうございます」
「安宅醸造の跡取り息子さんが凄いわ」
 マダムの微笑が深くなった。
「本家は大騒ぎしましたけれど、おかげさまでこうして皆さまの御贔屓にあずかっております。本人もこれが天職と心得て、頑張ってますね。凛号を呼んでまいりましょうか?」
「りんご?」
「甥の名前です。凛号と書いて、信州林檎のリンゴと読ませました」

 いい奴だった…。
 亜珠子=レノンは地面に寝そべって夜空を見ながら胸の中で何度となく呟いた。
 右隣に莉珠子。RKを飲んで睡魔を遠ざけ星見に頑張っている。左にメグ、その向こうにシーラ、ジンさん。それから駿男、千香子、藤さん、泰地と、星見が丘のかなりの面積を占領状態だった。
 諏訪市は霧の駅駐車場から少し離れた高島城周辺に、旅人が安心して寝そべることのできる星見が丘という空間をいくつか用意している。気候の良い時期には星空観賞の場となり、冬場は普通に駐車場として使われる。公衆トイレがあり、洗面所、またコインシャワーやランドリーもあった。それらの施設の灯りは夜になると、星明りを妨げないよう早々に消える。
 星晴れさやかなその晩は、彼らと同じく地べたにマットを敷いて一夜の清涼浪漫を楽しむ宿泊客が結構いて、中には夜桜見物さながら車座になって宴会をするグループもあったが、おおかたは他の旅人の迷惑にならない程度に好みの音楽をかける程度で、口数少なく、澄んだ高原の星の光を追っているようだった。
「あっちゃんの知り合いのひといた?」
 銀河の流れは街明りに弱められて淡かったが、都会の夜空とは比較にならない星のきらめきだった。
「いたわ」
 亜珠子の短い返事を聞いて莉珠子は黙ってしまった。誰があっちゃんの昔馴染み?
 それを尋ねることのできない亜珠子の声音だった。この声は何色だろう。いたわ、いたわ……耳の中でエコーがかかるリフレイン。
 ぼやけた反響がふっと消えると、莉珠子の耳の奥ではっきりこう変わった。
 …イタイワ。
(痛かったのね、あっちゃん。何も言えないくらい。その人がいて、その人を見て、あっちゃんの胸はイタカッタノ)
 莉珠子は生欠伸をした。何故だかわからないが目頭に滲んできた涙の粒を紛らわすためだ。星屑の光と亜珠子の痛みに共感する涙の露が瞼の裏で七色に耀き、莉珠子の瞼の中で銀河の虹の輝きは増した。それは莉珠子の耳が聴き取った亜珠子の痛みの声の色だ。莉珠子は涙をこぼさないように目をつぶった。
 あれがスピカで…その下にアークトゥルスが光ってる。
 すぐにそれとわかる一等星をかぞえているのは誰の声だろう、と亜珠子=レノンは考えた。自分が率いるツアークルーではないかもしれない。少し離れたところに寝ている親子連れの父親の声かもしれない。でなければさっきから煙草の匂いがするからジンさんが寝煙草しながらしゃべっているのかも。
(レノンの心臓が壊れてなくて、健康な幼児だったら、安宅依子はレノンを連れて再婚し、レノンはリンゴと顔と背格好がよく似て、悧巧な青年に成長していたろう。まともに育てば今頃レノンは安宅醸造の若社長か) 
 叔母に呼ばれて厨房からコック帽を被って出てきたリンゴはスマホ写真より肥ってふっくらしていたが、鼻筋のとおった好青年で、フロアを仕切る叔母に似ていた。長テーブルに揃った亜珠子たちを見て開口一番、
「なんか夢みたいな美少女ツアーですね、団体様の場合、可愛い女性にはデザートサービスさせていただいてますからよろしく」 
 と宣言して叔母と周囲を失笑させた。
(あんまり頭はよくないな、だけどいい奴だった)
 亜珠子は何気ない風を装い、店のリーフレットにリンゴのサインをもらった。
「シェフはイケメンだし、将来カリスマ料理長になるかもね」
 ウインクすれすれの可愛い視線を送ると、リンゴは他愛なく相好を崩し、
「あ、東京に支店出したらご案内しますので是非食べに来てください、デザートサービスしますからね」……。
 イケイケドンドンの強気もレノンと同じだった。それからサインペンでリーフレットに書き付けた右肩上がりの癖字も。
(マダムが叔母だとしたら依子は上田の本家に夫といるのか)
 安宅醸造のバックアップで甥とともにレストランCAMOSSを差配するマダムなら、おそらく家付娘の依子の妹に違いないと思う。依子は今年五十七歳のはずだ。
 どこかからラジオのディスクジョッキーが雑音混じりに高く聞こえ出した。くぐもった喋りに続いて音楽。すぐに誰かがそれをぶつっと切る。寝息と鼾。ぼそぼそと話し声。子供の声。遠くで車のクラクション。
 視界一杯に星空があふれる。聖夜ではないが金銀の鈴音が聞こえそうだ。高原の夜は肌寒いほどではなく涼しい。素肌に夜風が触れてくる音も鈴の音色だ。
「莉珠子起きてる?」
 返事がない。横を向くと人形のような白い寝顔があった。RKの効果が切れたようだ。反対側のメグを見た。
「メグはまだ大丈夫なの?」
「うん、お星さまきれいね、プラネタリウムみたい。ゆっくり動いているのね、今あたしたちが夜を旅している時間は星の移動する時間と速さがおんなじね」
「星が動くんじゃなくて地球が動いているのよ」
「そう? お星さまも地球も同じように広い宇宙空間に浮かんでいるんだから、ほんとはどっちが動いてどっちが止まってるなんて誰にもわからないんじゃない?」
 ぷふっと駿男が笑った。吹き出したが声はしみじみと、
「血は争えないねえ、メグ、安美さんが若いころ今の君とおんなじことを僕に言った。たった今それ思い出したよ」
「ママが?」
 メグは嬉しそうな声になった。駿男さんは揶揄うように、
「うん、彼女も理科は苦手だった」
 ふーんだ、とメグは鼻を鳴らしたが嬉しそうな感じは変わらなかった。駿男は娘の御機嫌をとるように、
「サービスケーキおいしかったね、メグたちのおかげで僕らまでロハだ。やっぱ女の子はオトクですね」
 ふーんだ、とまたメグは返事をし、亜珠子の方を向いた。父親には聞えないように、
(レノン、諏訪湖のほとりでユメテルナを飲んでおかしくなったひとに会ったの)
(莉珠子とパパがその場にいたね)
(彼女は十年前からお薬を飲んで若返ったの。それから精神状態が変になったって息子が言っていたわ。莉珠子は十八歳にしか見えない彼女に後ろから殴られたのよ)
(莉珠子は何も言わなかった)
(言えないんじゃないの。だってユメテルナは亜珠子と莉珠子の…)
 メグの想念はそこで途絶えた。
 流星だ、と子供の声が聞こえた。まだ目を覚ましている星見が丘の全員が満天の星空に視線を集めたとき、どこかでまたラジオのスイッチが入り、深夜0時の時報とともに、雑音混じりのニュースアナウンスが始まった。
 長野県上諏訪……午後八時、マンション七階から女性が転落し、病院に搬送……ました……取り調べによると同居していた女性の息子十六歳の少年が……過失致死で……
 ノイズがひどくなり、ラジオは切られた

ソフトドリーム・ロジック  Pth 11

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   ソフトドリーム・ロジック

 白樺湖に到着したのは九時半ごろだった。当初の目的地は諏訪だったが、白州を出てしばらくすると、レノン=亜珠子は突然、
「ミカエル病院はどうなったかな」
「どうなったって? あるでしょ今も」
 駿男のあたりまえすぎる返事は、自分がボディ・ジャックしたはずなのに、サブリミナルな領域に亜珠子のそこはかとない逆侵入をちらちらと意識し始めた不安なレノンの耳に快く聞こえた。
「諏訪じゃなくて茅野に寄ってよ。いえ、どうせなら観光したいから白樺湖に。諏訪は午後からでいいわ。その頃には莉珠子の眼も覚めるし」
「懐かしいの?」
 駿男はメグやシーラのように次元を超えて裏世界のパラレルに入れるわけではないから、三年前、星隷ミカエルで昏睡していたレノンが、眠りの中で白樺湖に自分の鬱屈した感情をオーヴァーラップさせ、老若男女沢山の人間をネガティブな感情の水底に捕えて、退屈しのぎの遊び相手にしていたことまでは知らない。
「そうだよ、見てみたいんだ」
「りょーかい」
 駿男は安請け合いしたが、河口湖から甲府盆地へ降る九十九折の冷や汗を、ルート152の登り急坂で再び流す羽目になった。
 蓼科高原は富士山麓とは違い、カラマツや樅の木などの針葉樹が圧倒的に多い。円錐形の深緑の樹冠をいただく薄茶色のまっすぐな幹が、下草の少ない地面からすっすっと林立する禁欲的な森の眺めは、真夏の季節にも厳寒の雪景色を偲ばせる。
 落葉、広葉樹を雑多に内包した青木ヶ原樹海の森影よりも、こちらは深緑の密度が濃く、下草が少ないのに、車窓から森の内側を覗いても、一メートル向こうの梢のそよぎや木洩れ陽が見透かせない感じだ。
 冬にゲレンデに変わる山は、夏の観光シーズンの今、一面なめらかな黄緑の芝に覆われ、そうでない自然な山並みの濃緑とあざやかな明暗対比で重なり合っていた。車を降りるなり、ここも天地を満たす蝉の声が暑さと一緒に耳に被さってくる。
「意外とこじんまりした湖だ。ほんとに白樺がいっぱい生えてるぞ」
 運転しながら駿男が珍しそうによそ見するので亜珠子はひやひやした。
「パパさん、休憩したいならちゃんとクルマ停めてよ」
「休憩って、こっちへの道草はそもそも君の希望だぜ。後ろのクルーなんかてっきり諏訪湖に着いたと思ってるだろ。彼らが起きてたら、だけど。どこかお目当てあるの?」
「ない。まだ十時前だし、どこのアミューズメントも開いてないから、散歩でもしようかな。ボート漕ぎくらいできるかも」
 りょーかい、と駿男は手頃な駐車場を探した。
 湖畔3・8キロの白樺湖は、もと農業用貯水池の人造湖というが、高原の真ん中に拓かれた緑の水のたたずまいには人工の不自然が感じられず、気品があった。戦国時代に武田信玄の本陣があったという、湖に張り出した小さな出島にメグを連れて踏み入ったレノン=亜珠子は、ごく自然につぶやいた。
「僕がみんなをひっぱりこんだ水はリアルではこんなに綺麗だったんだな」
 メグは睫毛の下から亜珠子の細い顎を透かし見て、
(レノン、罪悪感がないのね)
「ないよ。だって彼らの大部分は生きていたって死んでいたって同じようなものだったんだから。いてもいなくてもどっちでも」
 レノンは強い口調で断定した。メグの心の声はすぐさまレノンに聞えてしまう。メグは
「今もそんな風に物事を見てるんだ」
「なんだよ、僕をなじるのか? 死んだほうがましな連中、世間に害毒しか流さないろくでなしなんか腐るほどいる。僕が正義の味方だったら、月光仮面よろしく悪党どもを残らずパラレルに吸い込んでやったかもしれない。人間掃除機さ。だけど生憎僕は善玉じゃない。僕は僕の気に入った奴と遊びたいだけ」
 そこでレノンはちょっと間を置き、ゆがめた唇に皮肉な笑を浮かべた。
「だった、ってことにしておく。でないとメグがうるさいから。サイコ・ヒーラーとかなんとかいい子ぶって」
 メグは亜珠子の顔とは違うほうへ視線を逸らせた。出島の真ん中に大きな石碑がある。石碑の周囲を数本の白樺が囲み、辺りには白樺林独特のさわさわ、さやさやとレース織のような影が、高原ならではの透明感のある陽光に踊っている。メグは赤いコットンのサファリハットをかぶっていた。
「可愛い帽子ね、パパが買ってくれた?」
 さきほどの辛辣とはうってかわった優しげな口調は亜珠子のものだった。
「自分で選んだの」
「へえ、誰と一緒に?」
 またたちまち豹変して軽い苛立ちの混じるしつこい詮索は、亜珠子ではなくレノンだ。
メグはわざと眉を寄せて怒って見せた。
「レノンはずっとあたしの中にいたんだからわかってるはずよ。そういう言い方って…」
 メグは適切な言葉を自分のボキャブラリーの中から探すためにちょっと息継ぎした。
 あらさがしをするようにレノンは促す。
「どんな言い方?」
 メグは困って周囲をあちこち見回した。出島の水際ちかく、誰かが仕掛けておいた釣り竿が目に入ったので、インスピレーションのの助けを借りてとりいそぎ、
「釣りあげた魚に、今夜おまえを食べてもいいかって、わざわざ訊ねる釣り人みたい」
 
 白樺湖エンジェル美術館に入ると、展示室の四方八方、天井から床まで、大小さまざまな天使のフィギュアのひしめきに圧倒される。
 派手なティア・ドロップがいくつも垂れ下がった大きなペンダントシャンデリアが中央に輝くギャラリーの天井は、ローマかヴェネツィアの寺院のカリカチュアのような白い円蓋になっていて、ラファエルロやミケランジェロの天使の画像コピーが、ボチチェルリ風の花々と一緒に、ギャラリー壁面の至るところに焼き付けられている。
「すごい、全世界の天使像の模型を集めたんですって」
 メグは嬉しそうに展示室正面の大天使ガブリエル像の横に立った。ところどころほのかに薔薇色とクリーム色がマーブルで混じる白い大理石を彫り上げたその彫刻は、美術史に名を残した作家の作品ではないが、レオナルド・ダ・ヴィンチの天使像によく似た巻き毛と丹念な天衣の襞、百合の花を片手に持ち、片膝をたててひざまずいた姿は、人間が望む天使の要素を全て表現しており、清らかで優雅だった。 
 駿男さんは彫像の足元の金属板に刻まれたカリグラフ入りの説明を読み上げた。
「ガブリエルは神の使者って意味だって。妊娠や出産を癒しぃ、肉体を持った地上のメッセンジャー、ええと作家や教師、ジャーナリストを導く」
「このポーズは受胎告知、アヌンツィアータの姿ね」
 亜珠子はそっと天使の頬に指を伸ばした。細い中指は彫刻には触れなかったが、ジンさんは亜珠子の指先と彫刻の肌の白さがほぼ等しいことに目を剥いた。
(そりゃそうだ、二十何年眠ってれば肌もガラスに透きとおるよ)
 チェーンスモークがやめられないジンさんは、喫煙室はどこかときょろきょろし始めた。
 駿男さんは続けて読み上げた。
「受胎告知とはぁ、いいメグ? パレスチナの農家の娘だった少女マリアに彼女がキリストの母になることを伝えたものである」
「パパ、ここに書いてある」
 メグは得意げな父親の顔を呆れたように見上げた。駿男はびくともせず、
「そう、君のために僕読んであげたの。そいでこの単純なトリセツにあらためて僕が付け加えるとだね、僕が神父さんに聞いた話だと、聖母マリアって十五歳でキリストを産んだんだけど、貧しい農民の娘マリアは、ダビデの子孫で、つまりそのなんだ、アダムとイブの元祖人類以降、神の造りたもうた被造物の女の中で最高傑作なんだって」
「パパ、トリセツって使い方違うよ。ただの説明書きだって」
「あそ、つまり僕が君たちに伝えたいのは、神の母となった処女マリアというひとは、クレオパトラよりも楊貴妃よりも優れた美女だったってことだよ。つまり彼女を超える女性は人類に誕生してないってわけだ」
 十五センチヒールを穿いた亜珠子は金色のピンヒールの頂上から富士の裾野を見下すような視線を駿男に流し、
「パパさんには大天使ガブリエルのメッセンジャー守護はないね」
「そお? 僕は妊婦じゃないし作家でもないからね」
 亜珠子=レノンの軽蔑も柳に風と駿男は肩をすくめると、
「メグ、天使といっしょに写真撮ろう。そこに台座があるじゃないか。撮影スポットになってる。もしかして聖母マリアの立ち位置かな。あっちゃんも一緒に。ジンさんはいいから、そっちで煙草でも喫っててください」
 ガブリエルの斜め前に備え付けられた椅子にメグは腰を下ろした。そこは天使の正面ではないから聖母の位置を冒すことにはならなかったが、天使が片手に持った百合の花弁の延長線上に、ちょうど椅子に座ったメグの顔の高さがぴったり重なる構図になった。それ偶然に違いなかったが、その小さな調和のおかげで、スマホ画面の天使とメグは、ぴったりと一枚の絵におさまった感じになった。
 亜珠子はガブリエルの後ろに回った。
「ガブリエルが屈んでいるのにあたしが立っているのは失礼?」
「そうでもない。あっちゃんの服も白いからガブリエルとうまくマッチしてるぞ」
 彫刻、絵画、作家作品の豪華なビスクドールエンジェルからフェティッシュなフィギュアまで、世界各国から玉石混交で集められた
エンジェル美術館はキッチュだが遊園地のような楽しさでみんなを飽きさせなかった。もっともジンさんは入館後十分で煙草を吸いに庭に出て、その足で日帰り露天風呂に駆け込み、花と天使の美術館には戻ってこなかった。
泰地はコインシャワーで藤さんの洗身介助したあと、またキャンピングカーに戻り、インスタントラーメンで腹ごしらえを済ませた後、ジンさんと同じ露天風呂に出かけた。泰地が脱衣場に入ったとき、ちょうどジンさんが天然サウナから休憩室に出てきた。休憩室は脱衣場と暖簾一枚でつながっている。洒落たカウンターのあるフレンチスタイルの軽食コーナーは、過当競争の観光地だけに豊富なアラカルトだ。
「メシ喰ったの?」
 泰地と顔を合わせたジンさんは偶然に驚かない。
「インスタントラーメン食べました。ここ 
いろいろありますね。なんか食べようかな」
 泰地も当然のように答えた。
「俺もさっきここで定食食べたんだけど、喉乾いたな。このサウナ地下百メートルからの天然温泉で蒸し上げるって快適だぜ。芯から疲れがとれる。風ちゃんにも勧めようっと」
「いいすね。今度は僕運転しますから」
「何食べる? 俺おごるよ」
「んー。じゃあアイスクリームかなんか」
 ジンさんはカウンターに行き、自分用にはソフトクリームの山盛りコーヒーゼリーを注文し、泰地にはオレンジココナッツアイスクリームを頼んだ。その後ジンさんがウエイトレスからしっかり領収書を取ったのは言うまでもない。
「それで君社会なんとか士に合格したらどうするの?」
 ジンさんはまず、ソフトクリームのとんがったてっぺんにがぶりと食いついた。
「どうするって?」
「とぼけんな。シャンプーもう三十だろ。あの子はばりばり堅気でしかも耳が悪い。いんちき土建屋のオヤジはともかく、おっかさんがしっかり者だからうまく育ったよ。ミネちゃんを疑うわけじゃないが」
「ちゃんとしますよ」
 珍しく泰地はジンさんの言葉の腰を折った。
「それから早織のお父さんは土建屋じゃなくて建築士です」
「どっちだっていいよ。スイスに女としけこんで帰ってこないんだ。あのおっかさんも再婚せずにもったない話だよ。俺がこんなに引く手あまたじゃなかったら嫁さんにしたいって長年狙っていたんだぜ」
 泰地は口の中のカシューナッツのかけらをガリリと咬んで笑った。大人の表情で髭づらの泰地は笑った。
「すごい論理の飛躍ですねジンさん。ジンさん火宅の人が理想でしょ」
「理想じゃなくて、まあそれは言ってみれば人生のコマーシャルさ。俺リアリストだから
女に酔えないんだ」
 泰地は返事をせずに立て続けにアイスクリームをしゃくって口に運んだが、内心では
(そうかもな。ジンさんが火宅の人だっていう理解より女に酔えない酔っ払いって了解のほうがヒットする。ランナーなしのツーベースヒットだ)
 アイスクリームを二三回呑みこむ間に、泰地はシャンプーと仲のよいジンさんの娘の顔を連想した。二人は同い年だ。
(このでたらめオヤジさん、出来のいい娘を持ったもんだ。とはいえ彼が育てたわけじゃない。それも早織と似てる)
「ジンさん僕ね、もう少ししたらドイツにしばらく行きたいんだよ」
「それはまたどうして?」
「一年くらいかけて、ブレーメンとかデュッセルドルフとかに連立しているベーテルって福祉国家を見てきたいんです」

 針葉樹林が切り開かれた高原の高台にコスモスの群れは夢の連続のように風に揺らいでいた。天気予報では東シナ海から台風何号かが北上中ということで、一面に広がる花の群落をざわざわと、時には抉るように深く揺さぶる風の乱れはその予兆に違いなかった。
 空はまだ抜けるようなコバルトブルーだ。雲の移動も風脚に比例して早いが、嵐を告げる黒雲ではなく、虫捕り網を握った少年がその純白の頂に駆け昇りたいと願うような入道雲、内部に別世界の古代遺跡を秘した天空の城の姿で、どっしりと動いている。
 コスモスの丘の向こうに星隷ミカエルの礼拝堂の十字架が見えた。
「銀座のパラレルはやっぱここか」
 ジンさんはパーカーを丸めて小脇に抱え、傍らの亜珠子を見た。蜩と蝉の大合唱、時折オーシーツクツクの独唱が平板な斉唱を貫いて、ひときわあざやかに青空へ抜ける。数十匹のトンボが、コスモスの上空を、逆風に羽のかたちをゆがめながらも力強くジグザグに飛んでゆく。
 日傘に帽子、手袋の完全装備の亜珠子は車内でエナメルのハイヒールからスニーカーに穿き替えていたので、上背は隣のジンさんより低くなっている。なので亜珠子は不本意ながらもジンさんを見上げ、
「ここだけど、ここだけじゃないと思う」
「そのかっこいい台詞はレノンだな」
 ジンさんはサングラスを外して顔の汗を拭いた。高原のさらりとした暑さだが、午後一時の直射日光真下に空調完備のキャンピングカーから降り立てば、たちどころに背中も首も汗まみれになる。
「亜珠子はかっこよくなかった?」
 レノン=亜珠子はポシェットに提げたスポーツドリンクを一口飲むと、ボトルをジンさんに渡した。ジンさんは黒いレンズ越しに亜珠子を数秒見つめ、
「いいの?」
 亜珠子もサングラスをかけていた。薄い唇に深紅のルージュをきっちり塗っている。白い顔に日傘の影が青く見える。感情を見せずに彼女は揶揄するように、
「昔のよしみ」
 ジンさんは頷いてボトルを口にあてた。
 亜珠子を先頭に、ジンさん、メグ、泰地が続いた。藤さんと駿男は眠っていた。
 夏草の丘の上に聖堂上部のステンドグラスが見え始めたところで亜珠子は呟いた。
「改築したんだ」
 かつて古風な煉瓦を積んだ星隷ミカエル病院は、以前のままの礼拝堂を片側に残して、病棟部分はいかにもそれらしいクリーム色の四角い二階建てに変貌していた。夏草とコスモスの花園は病棟周辺のコンクリート舗装で終わり、エントランスにかけて、プランター栽培の向日葵やダリア、サルビア、百日草の寄せ植えなどが雑然と並んでいる。人気のないガラス張りの正面玄関前は、土を盛り円形に芝生を敷いた花壇で、枝ぶりのよい紅白の百日紅が盛りだったが、歩道から病棟周囲に植えられた樹木や、備え付けのベンチの景色はいかにも新しく若いのだった。
 亜珠子=レノンは迷わず受付に行った。
(三年は人間世界の物事が変化するのに十分な時間だ)
 たった三年、その間にレノンは死に、羽戸千香子はここを去り、レノンが眠っていた病棟は失われた。
「こちらに三年前に入院していた安宅さんの親族ですが、中に入れませんか?」
「申し訳ありませんが、ご予約のない方は面会できません」
 受付嬢の隣に顔を出した看護師のユニフォームは以前と同じ淡いピンク色だった。付近に診察待ちの患者の姿は見えない。クーラーは適度に効いていたが、節電のためホール全体薄暗くがらんしていた。もともと外来患者はほとんどなく、終末期医療と特別養護老人ホームを兼ねた施設だった。
 亜珠子=レノンはこの返事を予想していたので、
「そうですか。以前お見舞いに来たときとずいぶん病院の感じが変わりましたね」
「あら、ご存知なかったんですね。二年くらい前に火事で病棟部分のほとんどが焼けてしまって。厨房から火が出たんです。そのころは病棟も昔の造りだから、あっという間に燃え広がって、麓から消防車が駆け付けたときはもうお手上げ。スタッフの努力で患者さんたちは全員かろうじて無事でしたけど。火災現場と中庭を隔てていた礼拝堂だけはまるまる残ったんです」
「綺麗な病院でした」
「はい、惜しいことですけど。その後皆さんの尽力ですぐに新しい病棟が建ちました」
「良かったです。特養だけじゃなく、精神科も開設したんですか?」
 亜珠子は受付の隣に掲示されているミカエルの病院案内を横目で見て尋ねた。
「ああ、老人ホームは閉鎖したんですよ。今は昏睡状態の患者さんと、心を病んだ方のみ受け入れています」
 亜珠子は病棟の長い廊下を見透かした。待合室の向こう側ずっと回廊が続き、突き当りにアーチ型の扉が見えた。円形のガラス部分はステンドグラスになっていて、赤と青の色ガラスで聖母子がかたどられていた。普通に出入りするには厳かすぎる気配を感じて亜珠子は、
「もしかして閉鎖病棟ですか?」
 看護師は微笑だけで頷き、付け加えるように、精神病院の受付はこちらの病棟の反対側になっています、と言った。
「聖堂には司祭さまがいらっしゃるの?」
「いいえ、日曜日の午後だけ、茅野から出張されます。信者さんですか?」
「いいえ、いえ、そう、いいえ」
 亜珠子=レノンは言いよどんだ。YESとNOの相反する感情が入り混じる。喉元を誰かの手で締めあげられる息苦しさを感じ、
「ありがとうございました」
 とだけ言ってくるりと背を向けた。看護師は奇異な顔をしているだろう、とレノンは考えた。自分の胸元や後頭部で、何かがねっとりと暴れ出している感じがする。記憶を司るなら海馬か、それはじゃじゃ馬か、温和で優しかっただけの亜珠子ならレノンが引き据えて支配してやる。
(亜珠子、ジンさんと好い仲だったのか)
 何度かね、ほんのちょっとよ。
 かすかな囁きが聞こえる。レノンはかっとなった。彼女が目覚めてきた。意思と力を取り戻し、レノンに反抗してくる。
(君は聖少女だと思っていたよ)
(七十一歳のおばあちゃん。莉珠子の母親)
 きれいなソプラノだ。十八歳の乙女の声。
(君の脳味噌なんかすっからかんだぞ)
 ふふふ、とコスモスの繁みを風がなぶるような笑い声がレノンの鼓膜を撫で、レノン=亜珠子は全身に鳥肌が立った。目の中に虚空飛び散る幾百のコスモスの花弁と、色蒼ざめた嬰児の顔が錯綜する。足元はいつしか深淵の闇だ。大地が突き抜け黒い山並みの向こうに吸い込まれてゆく砕けた月光のかけらと、虹の燐光を帯びた顔たち。それも子供だ。
(ユダヤの王の誕生を恐れたヘロデはその年に生まれた男の子すべての虐殺を命じた。マリアとヨセフは天使の守護を得て逃れ……)
 これは僕の知識じゃない、とレノンは叫んだ。僕は神なんか知らない。僕はここで母親に見捨てられ、六歳から三十三歳までただ眠り続けたアウトサイダーだ。レノンの体なんかとうに死んじゃっても僕は死にたくないから君の肉体を間借りしている。それが気に食わないの亜珠子?
「おい、あっちゃん、気が付いたか?」
 顔をあげるとジンさんに寄りかかっていた。
それから、耳にはふたたび蟬時雨。
 蝉時雨があざやかなほど真夏のその場所は静寂ということなのだった。
 冷房はなく、窓が開いている。意識がはっきりするにつれ、開け放たれた窓の外から蝉時雨に混じって土鳩の声も聞こえてきた。
「礼拝堂、いつのまに?」
「いつって、自分からこっち来たいって言ったんだぞ、あっちゃん」
「そう」
 亜珠子はジンさんから離れて信者席の椅子に身を起こした。ほのかな淡黄いろの光の灯る内陣と飾りのついた白い円柱、祭壇背後の壁は左右対称に刳り抜かれて黒と金で縁取りされ、祭壇と信徒を見下ろすような天井高くに、数体の古びた聖人像が配されている。正面の聖櫃にはキリストの体であるホスチアが入っているはずだが。
(日曜日じゃないから今はカラだ)
「みんなは?」
「適当に散歩してるか寝てるんじゃない」
「なんでジンさんだけついてきたの?」
 サングラスを外してジンさんは怪訝な顔をした。
「覚えてないのか」

 あそぼ…
 はかなげな呼び声が耳元に聞えて、ちょうど眠りが浅くなっていた莉珠子は、簡易ベッドの中で背伸びをしながら声のほうに寝返りを打った。なぜだかわからないが久しぶりの熟睡感があり、手足の先までいい気持ちだ。
「遊ぶ? 今何時あっちゃん」
「ほら、これを見て」
 声の主を探す莉珠子の顔の真ん中に、いきなり緑の毛虫のような猫じゃらしとコスモスの束が突きだされ、わっと叫んだ。
「可愛いでしょ、取って来たのよ」
 藤さんだった。にこにこしながら子供っぽい仕草で莉珠子の鼻先を猫じゃらしでくすぐろうとする。
「あれ、外出したの、お母さん」
「退屈だし、みんないなくなっちゃったからあたしもちょっとそこらへん一回りしたんだよ。花がいっぱいできれいだからお姉ちゃんにも見せてあげようと思ったの」
「え、ありがと。でもひとりで車から降りられたんですか?」
 藤さんはもう莉珠子の質問を聞いていなかった。ふっくらした手で莉珠子の二の腕をつかみ、ぐいぐい引っ張る。寝間着のままだが莉珠子は藤さんの誘いに逆らわず床に降りた。そういえば今回は二段ベッドの下の階に寝ている。上は誰だったかな、ジンさんかな。
 片麻痺の藤さんは薄暗いキャビンを、あちらこちらの家具やバーにつかまりながら上手に歩く。介護士の泰地が藤さんの転倒防止に気を配り、車内の床は整理されていた。
 ドアを開けると、閉ざされた車内の暗がりから視界が一気に晴れ拡がった。洗顔前の素顔に降り注ぐ真夏の午後の光は純金のようにまばゆく暑い。日常ほとんど昼の光を浴びない嗜眠症莉珠子のふやけた皮膚に、高原の直射日光の感触は突き刺さるような痛覚すれすれだった。
「わあ、すごい紫外線。日焼け止めを…ちょっと待って藤さん」
 待てもしばしもあらばこそ、片足不自由なはずの藤さんは存外器用にドアの手摺を利用して、やっこらさ、と地面に降りた。
「お姉ちゃん、早くしなさいよ」
「ああはいはい」
 莉珠子は仕方なく帽子も被らず藤さんについていく。多少日焼けしたとしても、亜珠子と莉珠子の肌は劣化も老化もしない。
 キャンピングカーの停まった駐車場は林道に通じる雑木林のはずれにあり、片側は星隷ミカエル病院を包むコスモス畑に面していた。コスモス畑の反対側、森へ続く自然のままの土手にはオレンジ色のニッコウキスゲがあちこちに咲き、白い姫紫苑の枝や葛の花が森の中から這い出して、黒い地面が見えないほど雑草は繁茂していた。陽当たりの加減かその夏草の丈が高い。 
 すごい草の香り、草迷宮だ。
(そういえば、あの主人公も母親を探していたんだっけ)
 昔読んだ泉鏡花の物語が眼の前の風景に重なった。
 藤さんは陽盛りのコスモスの中へずんずん入ってゆく。花々と同じようなベビーピンクのジャージを着、ふんわりした上品な白髪頭の藤さんの姿は、眺めている莉珠子が不安になるほど、淡紅色と白のはなびらの渦にすっかり溶けこんでしまう。
「待って、待って藤さん」
 莉珠子は小走りに藤さんに駆け寄り、そっと藤さんの肩に手を置いた。藤さんはうつむいて、寂しそうな顔で一本、二本とコスモスを折っていた。
「お姉ちゃん、あたしのお母さんどこにいるんだろう、あたしを置いてどこに行っちゃったの?」
「え、お母さん、うん、お母さんはね」
 否定しない、説得しない、と莉珠子はおまじないのように自分に言い聞かせ、
「朝ごはん食べにいったのよ」
 その場しのぎも丸出しの台詞だが、幸い藤さんは納得したようだった。
「お姉ちゃん、あたしの胸や頭には沢山窓が開いているのよ。そこから風が吹いてね、時々すごく寂しいわ。風が運んでくるものはからっぽで、窓から見える景色はきれいすぎて誰もいないの」
「そうなんだ」
「あたしはその窓の中から来たんだけど、今ではそちらに戻ることなんかできないの。お母さんが来ればあたしを家に連れて帰ってくれる。あたしはそれをずっと待ってるんだ」
「お母さんはすぐに帰るわよ藤さん」
 藤さんは悲しそうな笑顔を浮かべた。旅に出て以来、獅子ケ谷の野川家で、亜珠子莉珠子に自分がお母さんと呼ばれていたことを忘れてしまったらしい。
「このコスモスや雑草は窓の中から摘んだのよ。きれいでしょ」
 藤さんは莉珠子の寝ぼけまなこをくすぐった花束を莉珠子に渡した。ごく普通のコスモスと猫じゃらしだ。
「そう、ありがと藤さん」
「お母さんやお兄ちゃんたちにも上げようかな、あたしの思い出の窓から取った植物はこういう」
 藤さんは両手を左右にひろげて周囲のコスモスを指した。
「花たちとはちょっと違って特別なんだよ」
「そうなんだ」
(認知症のBPSDには幻視幻聴・行動異常あり。これかな?) 
 とにかく否定と説得は不可、受容傾聴と呪文のように頭の中で唱えながら、莉珠子はできるだけ優しい表情を保とうとした。じりじりと頭上に炎天が照り付け、目覚めてから水一滴口にしていない慢性スタミナ不足の莉珠子にはきつい状況だ。 
「特別なお花をありがとう」
 莉珠子の丁寧な返事に、藤さんの泣き笑いの表情から少し憂いが減ったようだった。
「お姉ちゃんにあたしの胸の中を見せてあげるね。頭の中も」
 え、と莉珠子が首筋の汗を拭う目の前で藤さんはくるりと後ろを向き、自分の頭髪に両手を差し込んだ。その仕草はどこかで見た覚えがある。ほら、と言って両手で髪を持ち上げて……ぬばたまの髪の中から傷ついた猫や犬や……そのあと莉珠子の部屋の家具が壊れ、テーブルクロスはかぎ裂きになった……あの夢まぼろしの顛末はそういえばまだ究明されていない。
 藤さんやめて、と次なる幻覚を予期する莉珠子は震えあがったが、藤さんはごそごそと指先で白髪を掻き分けて、ピンクいろの頭皮を剥き出しにした。頭の地肌は顔や手よりもデリケートな薄桃色をしている。藤さんはやんわりと言った。
「ここね、ここから覗いて」
「はいはい」
 白髪を掻き分ける藤さんの爪と頭皮の色が同じだ。外気と陽光、時間の侵蝕を受けていないベビーピンク。
「ね、綺麗な野原が見えるでしょ? コスモスも咲いてるし、湖もある」
「はい、藤さんの思い出はきれいです」
 莉珠子は雨の雫のように顔に滴る自分の汗を指で拭いながら答えた。

 

ジャスト・ティファニー  Pth 10

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   ジャスト・ティファニー

「楽しい旅をなさっていらっしゃるのですね」
「はい、一週間の夏の旅。亜珠子さんの気まぐれなんですが、キャンピングカーのクルーはいっきに大家族、和気あいあい」
 テレビ電話の画面の中でパメラは小首を傾げて笑った。ノートパソコンの高い解像機能のおかげで、画像のパメラは麻布のカウンセリングルームでの実際の面接時よりもクリアに見ることができる。パメラのホームページ画像が生気を持って動き始めた感じだ。
(目の前にいると気後れしちゃって逆に先生の顔をじっくり見られないんだけど、こうやって液晶画面に映すとすごい迫力だわ。アンドロイドみたいに完璧。睫毛の先までぴかぴか。きれいな耳のかたち、バレリーナみたいだな)
 どこかで聞いた話だが、ロシアのバレリーナはバレエ学校入学時に顔かたち、プロポーション、運動能力精神力、知力体力はもとより、耳のかたちまで審査されるとか。なるほど髪をアップしたときに耳やうなじの風情は重要な美度になる。
(パメラならきっと三重マルで合格ね)
 対面ではとてもこんなにじろじろ見つめることはできない。
 テレビ電話でのカウンセリング料金は面接セッションよりも五割増しだった。リアルよりヴァーチャルのほうが高額なのはいかがなものかと普通は考えるだろうが、莉珠子の場合、旅先からのアクセスは、毎週定時の面接とは大幅にずれる時間帯になる。
莉珠子の希望するヴァーチャルセッション日時の二十四時間前までに、パメラにメールでカウンセリングの可否を打診してOKをもらうという面倒な手順なので、スケジュール調整するカウンセラー側の労力込みの増額だった。
「亜珠子さんともうまくいってます。別に前だって喧嘩をしていたわけじゃないですから。ただわたしのほうで彼女の正体に不安が募って、時々いてもたってもいられない気持ちになりました」
「はい、その不安が今は解消、やわらいだのですね?」
「解消はされません。そうですね、やわらいだ、という感じかな。証拠は何にもないんですもん。昔のあっちゃんと今の彼女といろんなことが違っている。百八十度じゃないけれど、九十度くらい違っている。だけどそれであたしは別に損しているわけではないし、むしろもしかしたら以前のあっちゃんより活発で才気のある今の亜珠子さんのほうが好きかもしれない」
「はい、迷っておられましたね」
 パソコンの中のパメラはきまじめな表情で頷いた。きれいな耳たぶに華奢なダイヤモンドのダブルチェーンピアスが揺れる。
(目立たないけれどいつも素敵なアクセサリー。どこのブランドだろう)
 いくつかの老舗ブランドの名前が莉珠子の後頭部を地味なテロップで疾走して消えた。莉珠子も亜珠子も宝石は好きだが、普段ほとんど身につけることがない。莉珠子は嗜眠症だし亜珠子は認知症。だが金はありあまるほど持っているのにゴージャスなジュエリーに凝らない本当の理由は、二人の肉体的外見がいつまでもティーンエイジャーなままで、自然の光を皮膚の内側に保っているためだった。ことに、十四、五歳にしかに見えない莉珠子に高価なジュエリーはアンバランスだ。
「ええ。亜珠子さんは外見若く見えても七十一歳で、自分でもそんなに長くこの世にはいないんだ、なんて言うの。あたしはそれを聞いて悲しかった。自分で悲しいと思ったことに気付いて、あっちゃんのなかみが本物であれエイリアンであれ、どうでもいいんじゃないかって感じました。あたしが彼女を好きなんだから」
「そうですね。現在と未来の現実にトラブルや災いをもたらすことがなければ亜珠子さんの人格が変わっていたとしても、ね」
 カウンセリングテーブルの前に座ったパメラはすこし右半身を斜めに後ろに引き、膝を組みなおした。翡翠の孔雀を背にして、スリムな膝がしらに長い左手をゆったりと添わせたひねりのポーズはファッション雑誌のグラビア写真そのものだった。白い七分袖のブラウス、タイトスカートは両サイドに控え目な三角スリットが入った紺、白、グリーンの太いストライプ。テレビのニュースキャスターみたいに華やかで知的な衣装だ。
(女優さんよりも、大きなテレビ局のニュースキャスターやアナウンサーは、きっと世間で最も優秀で家柄のいい美形がなれるものなんだろうけれど、パメラの生い立ちや履歴はそのレベルか、それ以上みたい)
 眠気のあまり近所の高校を入学早々ドロップアウトしてしまった莉珠子は少しばかりうつむき加減な気持ちになる。心のままにきっと仕草も萎れたのだろう。そのままテレビ電話の画面を通じて相手に伝わり、パメラから優しい声がかかった。
「問題がパーフェクトに解消・解決しなくても、莉珠子さんのほうで精神的なストレスがなくなったのであれば、そろそろお別れの時を決めても良いと思います」
「えっ それはだめです」
 驚いた莉珠子はしゃきっと顔をあげ、即座に否定した。パメラと会えなくなる。話を聞いてもらえなくなる。それは寂しい。
「まだ、だめです、だってまだ沢山の問題がこれからまだ」
 これから。
 まだこれから何か起きるだろうか。トラブルやストレスがないとパメラとセッションを続けることはできなくなる。

 河口湖から長野県までは中央高速ではなくルート358を、とジンさんと駿男は主張した。次の停泊地は諏訪湖畔だった。
「うねうね山道はキングサイズには厳しいけど、白雲湧く真夏の青木ヶ原樹海を抜けて甲府盆地までビュー抜群。最高ですよ」
 駿男が嬉しそうに勧めるとジンさんも、
「金に糸目をつけないあっちゃんのメセナ旅だけど、地上ゆらゆら走ったってまあ四時間か五時間で信州に入れる。気まま旅なんだからいいんじゃないか。もしか込み合うようだったら甲府南か双葉あたりで高速入れば」
 というわけで今度のドライバーは駿男になった。まだ星の残る明け暮れ、世界を満たす噴水のように蜩の湧く河口湖畔を、やはり早暁四時に出発する。
 助手席には亜珠子が乗り込んだ。
「ナビよろしくねあっちゃん」
 駿男は満面の笑顔だ。が、彼は亜珠子のなかみがレノンだと知っている。知っていても、長い髪の十八歳美少女に車内数時間密着できる体感温度はちっとも下らないのだった。
「あたし運転できないわパパさん」
「はい、任せてちょうだいよ、君はただ助手席できれいな声で歌でもうたってくれれば」
 亜珠子は吹き出した。そういう駿男さんの台詞自体が、おかしな歌声のように弾んでいる。で、つい
「変わんないね、パパ」
 駿男は口笛のようにアクセルをふかした。
キャンピングカーは東雲の薔薇色を背にしながら、星月夜のきらめく西へ走ってゆく。まだ涼しい。クーラーは使わず窓を開ける。湖の匂いはすぐに消えて、樹海の森と土の匂いがひんやりと流れ込んでくる。
「そう、やっぱり君レノンか。メグに憑依してたんだってね」
「うん、気が付かなかった?」
「そうだなあ、メグは生まれたときから運命的な子だったから何か奇妙な出来事が彼女の周辺で起きたとしても、僕らわりかし、あまたかみたいな感受性になっちゃっていたんだよね。僕と死んだにょうぼ」
「安美さん。僕のところへ飛び込んで来た」
「そう、その母親探しがメグの本格的な旅の始まりになったかな。あれから彼女はずっと旅している。オヤジの僕ははらはらしながら見守ってる」
 駿男は少し声を低めた。
「二年ほど前、メグが鹿香霊園で大怪我したとき、医者もたまげるほど異常に回復が早かった。君のおかげなの?」
「いや、それはメグ自身の力」
 それから駿男はしばらく黙ってハンドルを切った。車は樹海を抜けて富士河口湖地域から盆地へ降りる複雑な急カーブにさしかかったのだった。
 この時刻でも亜珠子たちと同様、真昼の混雑を避けたい観光車のバンやワゴン、それに貨物トラックなどは結構走っている。山襞がくらぐらと重なり合う隘路九十九折の前方はるかには、なお澄んだ星空が残っており、キャンピングカーはまるでその夜空をめがけて失踪してゆくようだった。
 駿男さんは重いハンドルを慎重に切る。事故多発の降り急カーブ続きの山道で、図体のでかいキャンピングカーの操縦は、マイクロバスの運転に馴れた泰地と違い、普通車しか乗らない彼にとっては正直冷や汗三斗だ。が、言いだしっぺの沽券にかけて、うわべは何食わぬ顔でレノン=亜珠子に話しかける。
「君も母親探しの旅なんだって?」
「メグはおしゃべりだ。女はこれだから」
 亜珠子=レノンが少女の声で舌打ちするのでそれを聞いた駿男さんは顔をほころばせた。
「君、レノンのアイデンティーをやめてレディ亜珠子で生涯過ごせないの?」
 亜珠子=レノンはつんとした表情でにべもなく否定した。
「残念ながらこの体はあんまり長くない。だいたい老化しない肉体というのがありえない話で、それを実現している亜珠子莉珠子の肉体は、いったいどこで若さを保つエネルギーを補充しているんだろう。エネルギー普遍の法則は宇宙を貫く物語だから、シーザーは金儲けといっしょにその神秘も手に入れたいんだろう」
「シーザー?」
 駿男はレノンの講釈を耳半分の適当で聞き流し、呆れたように、
「やたら話を複雑にするね。宇宙の法則がどうでも、可愛い女の子の姿のまま人生を過ごせるのは神様のプレゼントって考えたら?」
「そうしてる。亜珠子と莉珠子は人類の奇蹟のひとつだからね。僕は楽しんでる。五感を通じて現実世界を吸収するのは素敵だ」
「奇蹟ね…オヤジの僕にしたら、普通に可愛く生まれるのだけでも大宇宙の大いなる恩恵だと思うよ」
 キャンピングカーは長いトンネルに差し掛かった。駿男は額と首筋の汗を拭う。
「トンネルを抜けると甲府盆地だ。やはり暑くなってきたな」
 空は黎明の紫から朝明けの白色光に変わった。やがて濃い夏空のブルーが頭上に開ける。そして富士山麓の冷涼は夜明けとともに消え、全開の窓から吹き込む樹々の薫りは熱気を帯びた地上の森のものに変わりつつある。
 トンネルに突入する。内壁灯のオレンジ色がぬるいお湯のように視界に溢れる。長い隧道だ。出口の光がいつまでも見えない。
「夜中だったらちょいとおっかないかも」
 駿男さんはつぶやいた。そしてすぐ、
「抜ければ朝だ」
 亜珠子=レノンはまぜっかえした。
「ずっと夜だったら? トンネルを抜けたらそこは星空でした」
「昇天ギャクかい? 八人の命を預かってますからね。洒落になんない」
「八人? 七人だろ」
 レノンは指折り数えた。自分を入れて莉珠子、メグ、泰地、ジンさん、藤さん、それに駿男パパで。
 汗でずれた眼鏡を人差し指で持ち上げ、駿男はきっぱりと言った。
「君の体は君ひとりのものじゃない。レノンと亜珠子の二人分だ」

 車内では小さな騒動が始まっていた。
「ここはどこですか」
 二人組の簡易ベッドの下の階で、メグとペアになっていた藤さんは、キャンピングカーが動き出すやいなや目を覚ました。窓側のメグは飛行機のようなキャビンの円窓から、星空と夜明けのせめぎあう樹海のグラデーションに見惚れていた。
「藤さん? ここはキャンピングカーよ」
「え、知らないわ。帰らせて。お母さんが待ってるの」
 藤さんは思い詰めた顔でメグを見て、夏掛けを乱暴な仕草で膝から払いのけると、二段ベッドの天井の低さを忘れて起き上がったので、ごちんと音をたてておでこを天井にぶつけてしまった。もちろんデラックス装備だから、ベッドの天井にはこうした寝ぼけ事故防止のために柔らかな衝撃吸収材がはりめぐらされている。が、藤さんはおでこに手をあてて泣き始めてしまった。
「痛いわあ、もう帰るおうちに帰るお母さんどこ、お父さんは」
「藤さん、藤さんの家って」
 慰めようがなく、メグは困り果てた。藤さんは自分の名前も住所も忘れて野川家に闖入してきた。藤さんの家が東京獅子ケ谷の野川邸ではないことはわかっている。
「お母さん、うちに帰るのあたし」
 藤さんは大粒の涙をぽろぽろとこぼして子供のように泣きじゃくった。ピンクのパジャマを着たまるい肩を揺すって、本当に悲しんでいる。メグはおろおろしたが、こういう場合にあらかじめ泰地に言い含められていたとおり、藤さんの混乱を否定しないように、理性でひたすら優しく慰めた。
「そうね、家に帰りましょうね」
 藤さんは顔を上げてメグを見つめ、ちょっと嬉しそうに、
「お嬢ちゃん、可愛いわね、白い顔。あなたはあたしのお姉ちゃんなのね?」
 メグは絶句したが、ともかく頷いた。藤さんが何をどう取り乱しても、決して否定してはいけない、と泰地に言われていたからだった。うなずきながらメグは携帯で上階に寝ている泰地をコールした。
「藤さん、待っててね、今優しいお兄ちゃんが来るから」
「家に連れてってくれるの? あたしのお母さんとお父さんが待ってるの」
「そうよ、大丈夫藤さん」
 泰地はすぐに降りてきた。
「藤さん、どうしたの?」
「お母さんがいないの。あたし家に帰らなくちゃいけないわ。帰りたい」
 泰地は藤さんの手をとり、
「今、僕らはみんなで藤さんの自宅に向かっているんですよ、大丈夫。まだしばらく時間がかかるけど、じきに着きます」
「え、そうなの?」
 藤さんは両目をまるくした。泰地は涙に濡れた藤さんとしっかりアイコンタクトしながら、額にも口許にもあまり皺のない、肌のきれいな藤さんの顔を眺め、
(いったい藤さんはほんとのところ何歳なんだろうな)
 と考えた。高齢者の容貌容姿はそのひとの歩んできた人生によって大幅に左右される。生来の美醜器量はもちろんだが、ある年齢を過ぎると、確かにどこかの偉人が残した格言のように「四十歳以降の顔は自分が作る」ということがリアルに真実だと実感する泰地だった。この偉人が格言した時代よりも、富裕な人類の平均寿命は十五年ばかり延びているので、現代ならさしづめ五十代以後とでも言うのかもしれない。
 野川邸に突然迷い込んできた藤さんは、たるんだ顔の輪郭、全身の衰え、いくつかの基礎疾患などから、大雑把に七十代だろうと推定したのだが、日常大勢の高齢者に接している泰地には奇妙に感じられることがある。
(糖尿なのに全歯揃っている。虫歯もない。片麻痺、だけど爪水虫がない)
 手足の爪が変色、肥厚する爪白癬は六十代からぼつぼつと始まり、八十歳ではまず罹患していない高齢者はいないといえる疾病だが、藤さんの爪は全部きれいで薄く、すべすべしている。それに外反母趾もないのだった。
(七十代としても若い盛りにはきっとおしゃれなハイヒールなんか穿いた世代だ。それなら足の変形があるはずなのに)
 藤さんの両足は奇形なほどちいさく、泰地の手のひらに片足がすっかり乗るほどのサイズだ。くるぶしも踵の皮膚も柔らかい。
(谷崎潤一郎なんかが藤さんを見たら、大喜びしそうな手足をしてるよね)
 泰地が握っている藤さんの手の皮膚は足以上になめらかで、多少枯れてはいるものの、世間普通の労働や家事で鍛えられた気配がない。これもおかしなことだ。高齢者の皮膚は、陽射しや外気に長年さらされ、かつ使用頻度の高い手の皮膚のほうが、靴下や靴で保護される足より窶れているのが当たり前だからだった。藤さんのように片足麻痺の歩行不自由なら、なおさらだ。
「お母さんどこにいるの? 帰りたい」
 なかなか嗚咽のとまらない藤さんが鼻水と涙をいっしょに啜り上げたのでメグがティッシュを渡した。
「ありがとうお姉ちゃん、お姉ちゃんといっしょで良かったわ」
 うん、とメグは泰地のうしろからおずおずと笑って見せた。
 泰地はメグを振り返り、囁いた。
「おしっこ漏らしてるかな。ちょっと交換しようか。カラーボックスからリハパンとウェット持ってきてくれる? それからパジャマの着替えも。一応上下で」
 はい、とメグは体を退いた。
 キャンピングカー後部には急場しのぎのトイレットがあった。狭苦しいのでクルーの誰も滅多に使わないのだが、こうした緊急微妙のプライバシーには大助かりだ。
 普段使われない個室には空調も届かず、湯  
のような熱気が籠っている。泰地は藤さんの下腹部に淡く浮き出たケロイド状の帝王切開オペ痕をちらりと眺め、つぶやいた。
「帝王って、シーザーだよね。彼の出生がこうだったから」

 甲州街道、国道二十号線に入ると交通量はやや増えたが、高速道路に乗り入れるほどではないと駿男は判断した。彼の目測は正しくて、甲府市郊外を南に大きく迂回するバイパスを走りぬけ、釜無川を左手に見る韮崎あたりからは、もう前後の視界まばらに車両の少ない快適な走りで県境へ向かった。時刻は六時前、まだ通勤ラッシュには遠い。
「ほんとに山が綺麗ね」
 亜珠子は眠い眼を見開いた。丹沢山系の青い稜線を遠く眺める程度の海沿いの神奈川鹿香、また関東平野からやってきた者に、富士山麓、南アルプスを擁する山がちの風景はどこもかしこも新鮮だ。緑深い夏山の裾には素朴な部落、街並みが小さなおもちゃのように遠近に集まり、ゆったりした山肌に朝陽と雲の影の映り行きがくきやかに見える。空はもう青かった。今日は朝曇りにならず、削りたてのかき氷のような純白の厚い雲が濃青の画面に威勢よく湧き出ている。熱帯の空だ。
「あれ八ヶ岳だよ」
 駿男は嬉しそうに顎をしゃくった。西の方に淡い青紫の山影が見え、亜珠子は思わず胸が締め付けられるほどのなつかしさに捕えられた。それでつい溜息のように、
「帰ってきたわ」
「そう思うの? やっぱレノン君」
 亜珠子=レノンは少し険しい顔つきになった。表情と同じくらい少し投げやりな口調で、
「僕は生まれたときから心臓が悪くってろくに外出なんかできなかった。そうして六歳になるかならずでコーマに突入。だから肉眼でこの位置から八ヶ岳を眺めるなんて経験は皆無なはずさ。だけどパパの言うとおりなつかしいよ、何故だろう」
「それじゃ君の御先祖の記憶が君の中でなつかしがっているんだろ」
 レノンは顔を動かさず眼だけで駿男を横目で見、口許をぷっとふくらませて長いこと返事をしなかった。
(あれ、僕なんかヤバいこと言ったかな) 
 と駿男は頭の中で首をひねったが、何がレノンの癇に障ったのかわからないので、触らぬ神に祟りなしと、ここはとぼけてCDをかけることにした。
 泰地とジンさんが入れっぱなしだったシャワーのCDがひとまわりする頃、車は白州の道の駅に到着した。
「トイレ休憩しよ。あとコーヒー欲しい」
 駿男が気を使って朗らかに促すので、亜珠子はさっきの不機嫌が嘘のような笑顔で応えた。
「何か買いましょうか。お腹すいたでしょ? でもまだ売店開いてないわ」
「コンビニあるでしょ、そこでおにぎりかなんか適当に」
 本体のクルーのほとんどはまだ眠っているようだったが、駿男は起こしに行った。
 道の駅の飲食店はまだ閉まっていたが、ちょうど地元農家の朝市が開かれている。朝摂りの夏野菜、果物、花卉などが駅の一隅に所狭しと並べられている。近隣の住民や車で乗り込んだ観光客がぱらぱらと集まっていた。
 買うつもりはなかったが、人集まりの賑やかに惹かれて亜珠子はそちらのほうへ足を向けた。
 いくつもの発泡スチロールの容器に水を張り、大小の金魚を売っている娘がいた。金魚は素朴な和金で、一つの水槽に数匹派手なランチュウの幼魚が混じっている。夜店の金魚掬いの水槽と同じだった。
 水槽の前に座った娘は、農作業の様な鍔の広い麦わら帽子をかぶり、白いスカートを穿いている。帽子の影にかくれて顔は見えないが、腰かけた体全体の感じが幼くて、他の野菜果物売りの女たちとは異質な感じだった。
「おはよう」
 亜珠子は声をかけてみた。
「いらっしゃい」
 帽子の影から娘は答えた。顔は見せない。
「この金魚はここであなたが養殖したの?」
「ええそう」
 娘の答えはぶっきらぼうだった。が、亜珠子はどういうわけか立ち去りがたく、
「育てるのは大変でしょ?」
「そうでもないの。金魚はしょっちゅう生まれるからね」
 黄色い麦わら帽子がゆらゆら揺れた。笑っているのか、と亜珠子は思った。
「しょっちゅう生まれるって、どこで?」
「こんなふうに」
 娘はかぶりをふって麦わら帽子を頭からふり落とした。さあっと一陣の風がその麦わら帽子を天高く吹きあげ、朝陽の位置と等しい高さで帽子はくるくると踊った。
 ほら見て。
 娘は顔をあげて亜珠子を見た。亜珠子は息を呑んだ。娘には顔がない。何か得体の知れない靄のようなものが漂い、娘の顔立ちをわからなくしている。鼻も口も見えないが、ただ彼女の両目のありかはわかる。娘はつぶらな瞳を大きく開いて亜珠子を見つめ、ほろほろ、はらはらと泣き始めた。大粒の、水晶のような真珠のような涙が、ソフトフォーカスにぼかされた娘の頬を次々と流れ落ちる。
 朝日を受けて涙の雫はきらきらと輝き、ティア・ドロップのしたたりが透きとおった尾を引いて娘の膝にこぼれ落ちた瞬間、ひとつぶづつに手足が生え、小さな子供の姿に変わった。透きとおった子供だ。
「涙が、こびとになった」
 亜珠子が驚くと、娘は泣きじゃくりながら、
「これはあたしの赤ちゃんなの。こうしてたくさんたくさん生まれてくるのにみんな金魚になってしまうの」
 涙から生まれた透明な子供たちは、娘の白いスカートの上で、仲間同士しばらくじゃれ合っては、すぐさまぽちゃんぽちゃんと水槽へと飛び込んでゆく、いや落ちてゆく。水に触れるとそれらは一瞬虹いろの波紋となり、瞬きする間に金色の小魚に変化してゆくのだった。その様を見つめて娘は両手で顔を覆って激しくしゃくりあげた。
「あたしの涙ちゃん、みんな魚になってみんな殺されてしまう」
「なんですって?」
 亜珠子が顔色を変えて娘にその意味を問いただすと、彼女はさっき風に吹き上げられ、今また空から降ってきた麦わら帽子を両手でつかみ、目深に被って顔を隠してしまった…
「道の駅だよ、白州に着いた。一服しよ」
 駿男はうたたねしている亜珠子の頬をつついた。

「河口湖から白州まで三時間なら上等だ」
 車から降りてくるなりジンさんは寝くたれて皺が寄ったパーカーのポケットからジタンを取り出すと、両手で風を庇いながら燐寸で火を点けた。
カーキ色のチノパンにダークグリーンのハイキングシューズ、パーカーはシックなブルーグレイで袖口と首回りに黄色とグリーンの縁取りが洒落ていた。就寝時もそのまま着替えないごろ寝は銀座のギャラリー番の時と同じで、上も下もみんなすっかりよれよれだが、結構高価なブランドものをわざとくたびれさせてひけらかすところまで、ジンさんの衣装は彼の重要な舞台衣装だった。その上、その人寄せパフォーマンスは何故かたいてい成功するのだった。
「この風は八ヶ岳下ろしかね?」
 ジンさんは今日の猛暑を告げる朝曇りに霞む東西の空を見回し、誰にともなく尋ねた。ぼさぼさしたジンさんの赤ッ毛が風に吹かれて乱れ、鼻と口から吐き出す煙草の煙と眠そうな表情とあいまっておかしな感じだった。
「違いますよ、八つ下ろしってのは冬の北風でしょお?」
 駿男は早速コンビニで買ってきた缶コーヒーをぐびりとうまそうに飲んで言った。
 起きてきたのはジンさんだけで、あとのクルーは出てこない。莉珠子は午後にならなければ目覚めないし、泰地にメグ、藤さんは出発早々に起こった藤さんの帰宅願望騒ぎの始末でくたびれて、ぐっすり眠っていた。
 亜珠子=レノンは男たちから離れて道の駅のマーケットのほうへ歩いて行った。全面シャッターが降りている。それもさっきの夢と同じだ。樹々に囲まれた広い駐車場には七、八台停まっていて、それらはみな観光目的らしかった。
 マーケットの裏手はすぐに山に接していて、蝉と蜩の大合唱がもくもくした白雲にも劣らない盛大さに湧き上がっている。一面の濃い夏の緑の中に、ところどころ百日紅や凌霄花の赤が点在していた。ここ北斗市は標高が河口湖ほど高くないので、朝七時過ぎのこちらの風に冷たさは感じられず、水田と森の匂いが波のように風に乗って渡ってくる。
 旧甲州街道はうねうねした山並みに沿ってひらかれており、武川あたりからここまで道路のどちらかの片側の谷間は必ずすっきりと豊かな田園風景が整えられている。みはるかす平野ではなく、入り組んだ崖や岩壁にはさまれた内陸風景だが、黒や赤茶色の岩肌と萌黄に緑の水田、温帯樹林の対比が非常に美しく、都会人でなくとも眼が洗われる景色が延々と続いている。ここにはまだ針葉樹はほとんどない。下生えのさかんな草むらから時折ぴょいぴょいとバッタが飛び出す。
 マーケットの周囲をゆっくりと歩きながら亜珠子はしらじらとした朝陽を浴びているコンクリートの駐車場を見回した。あの娘が座っていたのはどこらへんだったろう。もちろん朝市などはない。
(僕の見る夢は人間普通に見る夢じゃない) 
 亜珠子=レノンは真っ白な紙に、切先をぴんと削った鉛筆をまっすぐに下ろす気持で断定した。
 マーケットと裏手の野山を隔てる垣根には紫の朝顔とピンクの昼顔の両方が絡んでいる。昨今は長生きの朝顔が何十と咲き連なり、昼顔はまだつぼんでいる。この垣根の前あたりに娘は白い水槽を並べていた…。周囲には農家の女たち、男たちが野菜果物を売りさばき、少し隔たったところで彼女は透きとおった涙を金魚に変えた…。
(出て来いよ。君はここの地縛霊か、亡霊か、それとも森の妖精なのか? 人間に蹂躙され、踏みにじられ、抵抗できずにただ透きとおった涙を流し、その涙にまた生命を吹き込み、そして悲嘆から生み出した無垢な生命さえも身勝手な人間の暴力によっておもちゃにされ、むざむざと殺されてゆくのを見守っている白州の森の精なのか?)
 あっちゃんレティ飲まない? と肩ごしに駿男さんが檸檬紅茶の缶をくれた。亜珠子は何食わぬ笑顔で駿男さんから受け取り、ウインクのハートアップサービスも忘れなかった。
(メグが寝ててよかったよ。あいつがいたら僕の今の心を読まれちまう)
 檸檬紅茶は適度に冷えており、外気よりも激しい無言の激情に熱した喉に快かった。
(赤ちゃん、子供、嬰児、胎児……この旅の始まりからまつわりつく大量嬰児殺人ヴィジョンのリフレインは何だ? まるで新約聖書のヘロデ王の男児虐殺じゃないか。レノンは母親を恋しがっている。ほんとか? 僕は本当に自分自身の感情で、僕を茅野の病室に置き去りにした安宅依子を慕っているのか?)
 わかるもんか。亜珠子と同一化した僕の動機が真実かどうか、なんて。
(それに僕は聖書を繙いたことなんか…)
再び自分の想念に入り込む亜珠子の思考を認識したレノンは、考えるのが煩わしくなり、思い切り喉を逸らせて缶紅茶を飲んだ。
「わあ、お姉ちゃんすごい長い髪」
 親から小銭を貰って自動販売機へ駆け寄ろうとした五歳くらいの男の子が、人なつこい笑顔で傍に来ると、短い手でいきなりむんずと亜珠子の髪の端をつかんだ。陽に灼けた頬の血色が黄桃のように可愛い。
「僕はどこから来たの?」
 亜珠子は嫌な顔をせずに尋ねた。
 あっち、と男の子が駐車場のどこかを指さしたとき、八ヶ岳を包む青い夏空から緑の匂いの風がまた来て、男の子の帽子と亜珠子のロングヘアを、まるで白い入道雲に届けるかのように、同じ高さに吹き上げた。

ブルドッグ・クッション  Pth 9

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   ブルドッグ・クッション

 亜珠子と並んで眠るのは久しぶりだった。久しい、という形容詞がふさわしくないほど遠い昔のように莉珠子には感じられた。
「驚いた、意外に気持ちいいわね」
 莉珠子の隣に上がり込んだ亜珠子は浮き浮きした声で言い、細い脚を宙に投げる感じで勢いよくころんと仰向けになった。キャンピングカー本体がキングなら簡易ベッドはクイーンだ。もちろんコンパクトサイズだが、マットは硬からず柔らかずぎず、人体の凹凸を適度に吸収して上等な寝心地をくれる。清潔なのは言うまでもなく、軽い夏掛けからほのかなジャスミンの香りがした。
 二段ベッドの各階は安眠を保証するためにオプション・コックピットに設計されている。亜珠子が枕元の液晶ボタンに触れると、すうっと薄いシャッターが天井から降りて、ちょうどシングルベッドの大きさの箱型密室になった。それで窮屈になるかというと、ベッドの真ん中に仕切りがあるそれぞれのマットは人体が横になるかたちに添って中央が緩い曲線で窪んでいる。寝がえりしても気にならない快適なサスペンションで、二人が別々に寝ようとするなら、繭のように柔らかく体を受容してくれる。コックピット内の二人が寄り添ったとしても、繭はやんわりと彼らの欲求を容れてくれるだろう。
「うわ、密室ね、なまめかしい」
 くくく、と亜珠子は鳩のように喉で笑った。「防音になってるのかな、このすべすべしたカバーは」
 莉珠子は肌色の厚い帆布のようなシャッターの繊維を撫でながら言った。
「そこまでは」
 亜珠子がつぶやき、莉珠子が応じなかったので会話に小さな沈黙が入り込んだ。そのまま莉珠子は眼をつぶった。眠気は膝上まで昇っている。無理して夜明けに起きたのだが、RKの効果はもう切れる。そのほうがいい。母親の亜珠子とコックピットに二人きりになるのは自然だし怯えているわけでもないが、もうこのごろは、いつなんどき亜珠子に向かって彼女の正体を詰問してしまいかねないほど、亜珠子が亜珠子でない誰かの器になっていることを確信しているからだった。
 莉珠子が黙ったまま狸寝入りをきめたので向こう向きの亜珠子も寝息を立て始めた。耳の中で亜珠子の規則正しい呼吸と蝉の声、道路の騒音が混じり合う。他のクルーはどうしただろう。ジンさんと泰地が運転席で、風間親子とそれから藤さん。
(ポーンはどうしたんだろう。あれっきり音沙汰がない)
 ふいに心配になった。胸元まで這い上がっていた眠気が十センチほど後退する。
「あっちゃんまだ起きてる?」
「もちろん」
 寝息の亜珠子から思いがけずしっかりした声が返って来たので莉珠子は驚いた。
「シーザーの監視カメラはこのクルマにも入ってるよね?」
「もちろん」
 明快な声だった。
「あっちゃん、いつからシーザーと知り合いになったんだっけ。あたしそのことを聞いていなかった」
 亜珠子は寝返りを打って莉珠子のほうを向いた。長い睫毛をぱちりと拍手のように一回閉じて開き、にこっと笑った。
「おぼえてないの」
 ぬけぬけとした亜珠子の返事に莉珠子は思わずがばっと跳ね起き、クルマの天井に頭をぶつけた。
「いたっ。ちょっとそれどういうこと?」
「そんなに驚くことないじゃない。あたしはついこの間まで若年性認知症だったんだから記憶障害があって当然でしょ?」
 それもそうだ、と莉珠子は言い負かされて力が抜けた感じでベッドにうつ伏せた。
「心配することないわ。銀行口座をチェックすれば、いつからシーザーがあたしたちを食い物にし始めたか一目瞭然。あたしとシーザーの情緒的ななれそめなんかうやむやになっても、金の流れは隠しようがない」
 それもそうだ、と莉珠子は自分の両腕の上で頷いた。それからまた、
「シーザーに会ったことある?」
「たぶんね、あるんでしょ、いえ、ないかもしれない。あたしの脳味噌の海馬にはそれらしい画像は一枚もないわ」
 亜珠子も莉珠子と同じようにうつ伏せになり、組み合わせた両手の上に顎を乗せた。二人は二匹の小動物のように同じ姿勢で並んだ。
「もしあたしに鮮明なシーザーの記憶があっても、それが本物かどうかわかりゃしない時代よ、りっちゃん」
「マインドコントロールされてるって?」
「そう。あたしは二十年以上コーマだった。その間にシーザーが自社のテクノロジーを駆使して、エイジレス眠り姫亜珠子の脳味噌をいじり、自社に有利な記憶画像や動画を巧妙にインプットしていたらどうなる? 目覚めたあたしの人格までシーザーのロボット、言いなりになっているとしたら」
「やだ、ぞっとすること言わないでよ。それSFアニメかゲームの世界」
「現代と近未来にはありうる話よ。あたしはそれでおかしいのかもしれないわ。あたし自身にもわからないけど」
 亜珠子は睫毛を伏せてしんみりした口調で言った。白い横顔を寝乱れた長い黒髪がひとふさすっとすべり落ち、そのまま肩先にはらはらと散りかかる。
「あっちゃんはシーザーやポーンのお人形にはなってないよ」
 はかなげな亜珠子の風情に、気のいい莉珠子はつい庇う気持ちになる。
(そうか、そういうことかも。あっちゃんの変さは、もしかしてシーザーの? でも)
「でもだったら亜珠子さんはキャンピングカーで信州へ行こうなんて言わないでしょ」
 亜珠子は自分の額髪を指でかきあげ、眼を細めて両方の口角をきれいに吊り上げた。亜珠子が本当に笑っているのか莉珠子にはわからなかった。それまでの微笑に氷を乗せて無理やり引っ張り上げた感じの笑顔に見えた。
「あたしが誰の人格を持っているかなんてどうだっていいのよ。シーザーに利用されていようと、認知症のままだろうと、肝心なのは、今を生きて歩いているあたし自身が、あたしの人生を楽しんでいるかどうかってこと」

 ついたわよ、と肩を揺すられて莉珠子は眼を覚ました。
「湖についたの」
 頭の芯どころか、まだ全身がだるく瞼も開かない。東京を四時半に出発し、亜珠子とお喋りしているうちに、いつしかことんと眠りに落ちた。最初の目的地は信州ではなく、隣の山梨県のなんとか湖だったから、多分まだ三時間、四時間ほどしか眠れていない。これっぽっちではとても覚醒は無理。あたしは嗜眠症だから到着しても夕方までは眠らせてね、って伝言したのに。
「お姉ちゃん,起きてください」
 可憐な声が莉珠子の鼓膜をぴしりと打つとなぜか莉珠子の瞼は新しいがま口財布のように、ぱっちりと小気味よい音をたてて開いた。
「メグちゃん。ありがとう」
 起き抜けジェスチュアの定石どおり、莉珠子は手の甲で瞼をこすりながら半身を起こした。隣に亜珠子はいない。
「山梨県?」
「こっちへ、さあ」
 めぐみはぽちゃぽちゃとまだ子供っぽい腕を伸ばして莉珠子の手首をつかんだ。十三歳の少女の皮膚はどこもかしこもみずみずしく柔らかで、しっとりと湿ったような感触がする。
 うながされ、手を引かれた莉珠子は朦朧とした頭のまま、キャンピングカーのサイドドアから湖畔の駐車場に降り立った。
「風が涼しいわ」
 新鮮な外気を深く吸い込んで莉珠子は喜んだ。豪華キャンピングカーの完全空調とはいえ、密室の車内とは大違いだ。大都会東京、関東平野のうだるように汚れた熱気はここになく、鼻腔から喉、肺へと流れこむ清涼に、体の中から浄められる気がした。
 それほど広くない駐車場は舗装されておらず、足元は自然の黒土のままだった。ところどころに朝顔やヒルガオ、紫苑などの野花が咲き、轍の凹凸を埋めるために砂利が敷かれている。整備された駐車場ではなく、ただの空き地という感じで、周囲は西洋古典絵画のようなこんもりと暗緑色の深い森だ。呼吸する空気に朝霧に濡れた樹木の薫りが混じっている。
 さえざえと高鳴きの始まった夏鶯に耳が驚き、目の前にひろびろと風凪わたるさざなみに眼を奪われた。鶯は二声,三声とコロラトゥラを誇らかに歌い続け、ソリストの背後を飾るように蜩の鈴振り声が湧き上がる。
 山と形容するにはおだやかな曲線の丘陵が湖の周囲に重なり合い、その斜面をゆるやかに朝霧が上空へ動いてゆく。山襞を這う白い霧は深山の森が呼吸しているように見えた。
今何時だろう。お日さまはどこだろうと空を見上げたが、夏の朝曇りのためか高原の気候のせいか、朝陽のまばゆさは見当たらない。
 それに他のクルーはどこに行ったのだろう。
「メグちゃん、お父さんとか亜珠子さんはどこ?」
 メグは莉珠子の手を握ったままだ。横顔の顎を軽く上向けて、片手をまっすぐに上げ
「あそこに藤さんがいる」
 湖の低い波打ち際に薄紫のカーディガンとピンクのジャージを穿いた藤さんの後姿が立っていた。綺麗にまとまった白髪がふんわりと優しく、まるい撫で肩の両肩から手先まで、朝礼の小学生の「気を付け」の姿のように体の両脇にぴたっとつけている。
「藤さあん、どこに行くの?」
 莉珠子とメグは手をつないだまま小走りに藤さんに近寄ろうとした。
 藤さんは後ろを振り向かず、そのまま湖の中に入ってゆく。ズックを穿いた足首からふくらはぎ、膝……どんどん湖水にひたってゆく。
「危ない藤さん、海よりも湖は突然深くなったりするんだから」
 莉珠子は叫んだ。
「大丈夫だよ、他にもいっぱい子供たちが泳いでいるじゃないの」
 頭の中で藤さんらしき声が聞こえた。その声は鼓膜から聴覚に入ってきたのではなかった。なぜなら声と同時に藤さんの姿は崖から足を踏み外したように湖に没してしまったからだ。莉珠子は悲鳴をあげた。
「メグちゃん、みんなを呼んできて」
「心配しなくても大丈夫、他にも大勢泳いでいる子がいるから」
 ひっそりした声似たような言葉でメグは答え、莉珠子を見上げた。メグの両目が鮮やかなコバルトブルーに変化している。青い宝石のようだ。
「大勢って、どこに?」
 ほら、と再びメグは片腕をまっすぐ持ち上げ湖面を一本指で示した。
 さきほどまで朝曇りの平らなさざなみがゆったりと動いていた水面に藤さんが沈んだあと、どこから現われたのか、沢山の子供たちが水遊びしていた。赤や黄色、緑に紫……色とりどりの原色の水泳帽をかぶり、数十人、数百人の子供たちは、まるで屋内プールで泳ぐように湖面を右往左往しながら遊んでいる。
 いや、遊んでいるようには見えなかった。
 なぜなら子供たちには首から下の体がなく、スイミングキャップを被った頭だけが水面をボールのように動き回っているからだった。首も腕も見えない。そして子供たちには表情がなかった。苦しんではいないが笑顔でもない。七色のゴム帽子を被った無数の人形の首だけが銀色の湖面に漂っているかのようだ。
「メグ、あの子たち体がないわ」
 莉珠子が震え声で言うと、
「そう、頭でっかちだから仕方ないの」
 メグには動揺がなかった。あたりまえの景色のように湖を見渡し、内部から光を放つ青い眼で莉珠子を見つめ、
「それでもこっちの方よりましなの」
「こっちって?」
 莉珠子の手を握ったまま、メグは二人の手で後ろを指した。キャンピングカーを停車した駐車場のほうだ。
 うわ、と莉珠子はすくみあがった。野花が咲き、砂利が敷かれていた森の中の空き地は
黄土と褐色の混じった泥土と化し、莉珠子たちの乗ってきた白とオレンジの素敵なキャンピングカーは後ろからその泥沼の中へはまり込んでいた。ず、ず、と重荷をひきずるような音が鈍く不吉に聞こえ、巨大な車体は見る見る地中に沈んでゆく。中にはまだクルーが眠っているはずなのに。
「亜珠子さん、ジンさん、逃げて!」
 絶叫する莉珠子はメグの手をふりほどこうとした。が、メグは莉珠子を離さない。
「水が多すぎて藤さんは人身御供になったのよ、あの子たちも」
 何わけわかんないこと言ってるの、とメグを突き飛ばそうとした莉珠子の両肩は、もう一度新しい力で揺さぶられた。
「野外リハ始まるわよ、まあ凄い汗」
 視線を返す……眼を開けると真正面に上機嫌の亜珠子の顔があった。カナリア色の何かを身につけているようだ。
「何ですって?」
 莉珠子の聴覚には自分の絶叫の響きが焼き付いている。黄色い声だ。それでは今自分の網膜に映っているイエローは亜珠子の衣服の色ではなく自分の声の残像なのかしら?
「もう五時過ぎ。ジンさんの友達がここでジャズロックやるんだって。そのリハ―サルが今から」

 湖畔の日没は、山肌がまず樹相の細部を消すと全体になめらかな紺青となってかき暗がり、山並みの上の空と湖面は等しい明るさをいつまでも保っていた。大気が澄んでいるので、くっきりとした稜線や木立ちのシルエットが天空との境目で精巧な切り絵のよう潔く見える。透明な夕べの空のところどころで、夜には一等星の輝きを放つ夕星たちが、今はまだ夕焼けの茜を帯びてきらめいていた。
 キャンピングカーが今夜停泊するのは水のほとりからやや離れた道の駅で、莉珠子が車外に降り立つと、莉珠子たちの車ほどデラックスではないが、何台かのキャンピングカーとミニバン、ワゴンなどが今夜のキャンプの準備を始めている。
ちょうど夕景の富士山が鮮やかに見える。濃い群青の裾山を従えた真夏の大富士は、地上とは隔たる高嶺の空気を偲ばせて、見る目に冷たい銀青色と滅紫色で堂々と聳えていた。刻々と日没が深まる中で、空にはそれほどはっきりと夕陽の朱が見えないのに、富士山のひややかな青味の周囲は、あたかも霊山の後光のような茜いろの深みを空間に加えている。美しかった。
「富士日和だ、俺ら運がいいねえ」
 まずジンさんの声が聞こえ、すぐにキャンピングカーの裏手から本人と駿男が連れだって現われた。駿男はオレンジ色のエプロンをかけている。
「や、おはようございます。眠れましたか」
 莉珠子を見ると駿男はエプロンの裾で手を吹きながらにこにこした。ぱっと見はとぼけた印象で、よく見ると適度に角と起伏のあるなかなか立派な顔立ちだが、駿男の雰囲気には泰地同様にまったく険がなかった。
めぐみは父親似だろうか母親似だろうかと莉珠子は駿男を眺めて二人の顔をだぶらせた。少しずつは似通うが、ぴったりとは重ならない。めぐみは母親の血が濃いようだ。早くに死んでしまったという母親の写真を見たいな、と莉珠子は思った。
「パパが御飯の支度ですか?」
 莉珠子が驚くと駿男はうんうんと二度頷き、
「バーベキューとお好み焼きですよ。誰がやっても失敗ないのね。ぼくクッキングパパなんで」
 へえ、と莉珠子は眼を瞠った。オヤジ二人が現れたほうを透かし見ると、キャンピングカーの腹を開けてバーベキューテーブルと椅子、素材や調味料などの缶壜類がごたごたしていた。そのときほつほつと駐車場のあちこちの電灯に明かりが点き始め、あたりはふわりとした暖色の快さに包まれる。湖畔の清涼は橙色の光を帯びても変わらなかった。素肌の二の腕が薄冷たいほどの夜気だ。
「みんなはどこ?」
「先にコロンのライブに入ってます。ぼくらも行きましょう。夕飯はリハのあと東スタの連中といっしょにって」
「風ちゃん、そんなに食材あるの?」
 ジンさんの質問に駿男は澄ました顔で、
「買ってくればいいですよ。地野菜とか地酒とかスーパーで。何もここ絶海の孤島じゃないんだからね」
「だな」
 とジンさんはジーパンの後ろポケットからウイスキーの平たい小瓶を取り出し、くいっと飲んだ。莉珠子は亜珠子に尋ねた。
「コロンて?」
「近くのペンションのオープンカフェバー。湖の籠って書いてコロンと読むのよ。おしゃれよね。明日湖畔のオーヴァルプラザで東京スタコラーズってバンドがライブやるんだけど、そのリハを兼ねて今夜はそこで」
 亜珠子のすらすらとした口上を聞かされて莉珠子は眼を白黒させた。目が覚めたとき亜珠子に黄色のイメージが映ったが、目の前の彼女は湖よりも深いマリンブルーのカットソーを着ている。
 長い髪が背中に垂れて、傍をすれ違うひとびとは亜珠子の顔の前で呼吸を変えて可愛らしい顔を見つめ、その後もう一度、ひかがみまで届く長い髪の光沢に讃嘆の眼を瞠る。莉珠子と亜珠子は顔立ちはそっくりなのだが、滝のようなぬばたまの髪の妖艶が亜珠子を常ならぬミステリアスに見せる。
莉珠子は亜珠子に尋ね返す。
「東スタ何?」
「東京スタコラーズ。ジンさんと風間さんのお友達」
「が何人か入ってるってことだよ」
 すかさずジンさんが享け狙いのフォローをぺらぺらとまくしたてる。
「全員友達じゃなくて、友達の友達は皆友達全世界ファミリーってこと。リーダーのフルートが一番古い友達でピアノマンは甥っ子」
「ジンさん結構な人脈ね」
 莉珠子がおだて加減に驚いてみせると、ジンさんはまなじりにハンカチのような皺を寄せてウインクした。
 湖籠は駐車場から山の方に歩いて五分ほどの距離で、赤レンガと樫の太い木材を山小屋風に組み合わせた三階建ての宿泊施設が三分の二を占め、道のほうの手前が隙間に何種類ものハーブを植えこんだ荒削りな組み石のエントランスだ。レストランの正面は地面より一段高い敷石になっていた。
 もう必要ないはずだが屋外のカフェには日よけの大きなパラソルが開かれ、十脚ほどのテーブルが気ままな感じで置いてあり、ペンションの宿泊客らしいラフな身なりの家族連れ、客たちで埋まっている。テーブルの上には電気キャンドルが光っていたが、まだ夏の宵のほうが明るかった。
 リハのバンドはどこかしらと莉珠子が首を伸ばして店の奥を覗くと、外光の届かないカウンター周りの暗がりの中で、音響機材のがちゃがちゃする音といっしょに赤や黄色の光がちかちかしている。まだどこにも照明は点いていない。戸外より店内のほうが客が詰まっている感じだ。湖の匂いを運ぶ夕風とは異なるクーラーの乾いた送風が内から外へ来る。
 闇に目が慣れると、丸いステージいっぱいにグランドピアノが一台。その前に誰かが座っているのが見える。ピアノもプレイヤーも今はただの黒いシルエットだ。弦楽器を調律する気配。管楽器…多分アルトサックスの試し吹きは、喉の細い少年の抑えた笑い声のようだ。酒を注ぐ薄いグラスの触れ合うかちゃかちゃという軽い音、ビールジョッキの音はがちゃがちゃと鈍い。ざわめき、リゾートを満喫する大人と子供の声が雑多に入り混じるテラスで洒落たアミューズメントが始まる。
 ぱっとカクテル光線が点いた。素朴でちょっと野暮ったい、古いタイプのミラーボールがピアノの横に立った歌手の頭上でくるくると間延びした速度で回る。そこへいきなり、
 ゆうぅやあぁァけこやぁァけえぇのぉォあぁかぁとぉんぼおおおォォ
 民謡歌手顔負けの節回しにこぶしをきかせ、母音を思い切り引っ張り、マイクなしのアカペラで歌い出した歌手は黒人の少女だった。チリチリアフロヘアにミニーマウス顔負けの巨大ドットピンクリボン。真っ赤なミニスカートワンピースの裾と袖口には金魚の背びれのようなフリルがついている。フェティッシュな超ハイヒールはルージュとお揃いシグナルレッドだ。ヴォリュームのある胸を揺すって歌われる赤とんぼは拡声装置なしでも真夏のテラスに十分に行き渡り、小さい子供たちは喜んで手を叩いた。赤とんぼだってママ!
 しっ、と優しい叱責がどの席から聞こえたのかわからない。
 1フレーズを歌い納めた歌手がにっこり笑って客席に手を振る数瞬の間に、カクテル光線は転がし照明を加えて華やぎを増し、溶暗の中から浮かび出たバンドマンたちが賑やかに赤とんぼのジャズアレンジを始めた。歌手以外の衣装はみんな上下黒ずくめだ。ピアノ、フルート、サックス、パーカッション、それにチェロとベース。弦楽器以外のメンバーは十代から二十代そこそこに見える。チェリストは中年の女性で、シルクハットをかぶった白髪のベースはジンさんより年配に違いない。この編成ではやはり真っ赤なミニワンピのブラックガールが目立つ。
「あの子すごいナイスバディ」
 莉珠子がジンさんに耳打ちすると、
「へへ、アフリカつうんだよ。ンとにいい声だよな。CMソングとかも歌ってるらしいけど、ルックスもパンチある」
「うん、スゴイ可愛い。ちびくろサンボが女の子でグラマラスに大きくなった感じ」
「おーぴったし」


  いつもあたしは誰かといっしょ
  ひとりになることがない
  抱きしめられてキスされて
  可愛いだいすき離さない 
  そして突然
  くしゃくしゃに踏んずけられる
  とどめの一言で愛してるなんて
  あたしの顔をちゃんと見て
  わかってるんだから
  あたしはクッション
  あなたのでたらめな言い訳で
  いつもへこんでクッション
  愛してるなんて
  嘘のかたちにあたしは凹む
  愛の深さで女が窪む
  抱きしめられてキスされて
  くしゃくしゃクッション
  LOVING

  いつもあなたはあたしといっしょ
  あたしはあなたの用心棒  
  別な子があなたに色目を使ったら
  おそろしい顔で唸り声
  そのとき思いきりブスになるの
  あなたはあたしにお尻を乗せて
  もてる男はどんな気分?
  あたしをへこませて
  あなたはいい気分 
  ふざけてるクッション
  あたしはクッションブルドッグ
  女同士はブルドッグ
  イケメン気取りのあなたなんか
  あたしってブス
  最高の美女顔はただ
  あなたのために
  LOVING

  犬を騙すように女を使う
  それしかできないブルドッグ
  あなたは迷子のブルドッグ
  クッション抱えて男はさびしい
  ただいい気分でセッション
  現実は寂しいクッション
  くしゃみをすればハックション
  ブルドッグクッション
  言いなりに踏める女が可愛い
  可愛いだいすき離さない
  あなたの愛もブルドッグ
  ぼこぼこに愛されて
  でこぼこなかたち
  最高の美女顔はブルドッグ
  あなたは迷子のブルドッグ
  ブルドッグクッション
  LOVING


 河口湖オーヴァルプラザは湖畔に近い多目的ホールだった。白い半円ドームを中心に、両翼にピラミッド型の張り出しスペースを設けている。中央ドーム真下がキャパ百五十人のシアター兼コンサート会場、天井までの吹き抜けを持つ両ウィングはギャラリーと喫茶、書店などを兼ねている。中に入ると構造部分に角や直線はほとんど見えず、全体にまったりした楕円形になっていた。ギャラリーの底面積はそれほど広くないが、天井が高いので、彫刻や、多様な素材を組み合わせる立体アートの展示などに適していた。
 東京スタコラーズの公演の日、オーヴァルギャラリーに県内外の視覚聴覚障がい者のアートが展示されていた。この数日後の河口湖湖上祭と連動して地元商店街が主宰するコンサートも、チャリティーとメセナが半々だそうだ。
 午後六時の開演一時間前にプラザに入った泰地は、ギャラリー脇の喫煙コーナーでくつろいでいるジンさんにばったり出くわした。
「あれ、早いね」
 ジンさんは垂れ目を細くして、パイプ椅子に座った銜え煙草のまま泰地を見上げた。
「そっちこそ。ジンさんは楽屋でアフリカべったりかと思ったよ」
「そら、そうしたいとこだけど本番前に子分にちょっかい出すと大将の機嫌が悪くなるから遠慮すんだ」
「へえ、ジンさんでも遠慮すか?」
「あいつには麻雀の借金があるんだよ」
 泰地はもうジンさんを相手にするのはやめて、ギャラリーの方へ行った。
 ホールには今夜の観客が集まり始めていて、思い思いに展示を眺め、気に入った作品の前で立ち止まり、自由に触ったりしていた。
 視覚障がい者の作品エリアの一部は触れてもよいことになっていた。そこにはこんなキャッチコピーが添えられている。
  
わたしたちの手触り
  わたしたちの呼吸
  わたしたちが聴き取ったもの
  わたしたちの嗅いだ匂い
  あなたに伝わったなら
  それがわたしたちの作品
  大事に受け取ってくださいね

 はこ、という作品があった。一辺が十五センチほどの白い厚紙の正六面体で蓋がない。
手に取ると、かさかさ、さらさら、すすす、コロコロ……乾いて軽い雑多な物音が内側で動くのが聞こえる。両手で強く揺さぶったが軽い雑音の騒動が早まるだけで、何が入っているのかわからない。
(なんだろう、ゴミの少ない屑籠を振ったらこんな感じだ)
 もうひとつ手にとった。こちらも大きさは似たような正六面体だが、それぞれの面には新聞紙、つるつるした挟みこみの広告、デパートの包装紙などがきちっと貼り付けてある。
持ち上げて同じように振ってみると、今度は軟らかく薄い紙屑のかたまりが揺れる気配がする。これも蓋がない。
(外箱が白紙じゃなくて新聞、ラッピングペーパーなのにも理由があるんだろうな)
「なかみ、おわかりですか?」
 ギャラリーの学芸員らしい若い女性が泰地の後ろから声をかけてくれた。泰地は箱を両手に持ったままふりかえり、
「わかんないです。紙か、小石か葉っぱ?
紙屑みたいだけど」
 学芸員は頷き、
「この作家さんはだいたい一か月に一個作られるそうです」
 泰地は頷いて展示台を見た。十二個ある。
「一年分ですか。どういう方?」
「眼の不自由な女性なんですけど、箱にはすべて副題がついています」
 彼女の指さす先に泰地が目をやると、箱が置いてあった場所には、眼立たない大きさの紙に目立たない鉛筆書きで「風の音」と書いてあった。
「風の音?」
「はい。この女性に風の音を伝えてくれたいろいろなものを集めて箱にいれたのだそうです。葉っぱ、小枝、雑誌のページ」
「なるほどそれは風ですね。じゃこっちの包装紙の箱のなかみは何ですか」
 言いながら泰地が下を見ると、同じような鉛筆書きで「視線」とある。
「視線。箱の中に視線が入ってる?」
「はい、ちょっと悲しいエピソードなんですが、この方が就労支援を受けて面接に行った先で手にしたいろいろなものが入っています。
この方は全盲ではなく弱視なので、民間企業で働きたくていろいろ努力されたそうです」
 そこで学芸員は言葉を控えた。
「そうですか。今はどうなさってますか」
「在宅で。ここに陶芸作品なども出されてますよ」
 学芸員は少し離れた場所を手で示した。備前か益子に似た壺や皿がある。
「そうですか。箱にはどんな視線が入ってるんでしょうね」
「はい。痛かったそうです」
「あ、それで」
 泰地は耳元で「視線」の箱を揺さぶった。ひそひそと紙の繊維がこすれる感触といっしょに、硬いひややかな音も聞こえる。ホチキスの針か縫い針か、あるいは挫いたカッターナイフの刃かもしれない。

ホロスコープ・ジャスティファイ  Pth 8

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  ホロスコープ・ジャスティファイ

 ポーンはついにやって来ず、身元不明の認知症老女藤さんが野川家の住人となった。莉珠子は亜珠子のケアサービスを依頼している介護事業所のアドバイスで、警察と市役所、それから地域包括支援センターにこの椿事を届けたが、数日を経ても手がかりはなく、インターネットや市のホームページで捜索願いの情報をアップしても、やはりはかばかしいアプローチはない。藤さん本人は自分の名前さえ覚えていないのだった。
「最初藤さんはこの近所の住人で、あっちゃんの幼馴染だと言ったのよ」
 と莉珠子は躍起になって亜珠子に説明したのだが、
「そぉ、あたしも昔のことはあんまり覚えてないしね。写真を見ても、クラスメートの名前なんか頭の中から出て来やしない。それに町内を訊いて回ったけど、藤さんの家なんかなかった」
「じゃあ、いったいどうして藤さんはあっちゃんのこと知ってたの?」
「たぶん、茫々六十五年往時のどこかでいっしょに遊んだことがあったんじゃないの。それだけのことを彼女は思い出したんだわ」
「それだけのためにどこからともなく獅子ケ谷へ来たの? 不自然よ」
 必死で整合性を探そうとする莉珠子の抗弁に亜珠子は淡々と、
「不自然? 何がどう不自然なの? ケアマネさんの言うことには、日本中で行方不明になる認知症老人は毎年一万人を超えるそうよ。そのひとたちは帰って来ない。どこへ消えたのかしら。藤さんもその一人ってこと」
「家族は探さないの?」
 莉珠子が言い募ると、亜珠子は薄茶色の瞳で莉珠子の顔を二呼吸ほど見据え、
「あのおばあちゃんが嫌いなの?」
「いいえ」
 莉珠子はどきりとして即答した。
「嫌いとか好きとかじゃなくて、なんだか不安なのよ。何者なんだろう」
「あたしに言わせればポーンやシーザーのほうがよっぽど不安ですよ。まああたしたちの金づるですからね、ちゃんと報酬を振り込んでくれてるから文句は言わないけれど。」
「そうそう、ポーンが来るはずだったのに」
「どこかのセレブか王様に呼び出されたんじゃないの。あんな神経質男がやってきたら大迷惑です」
 亜珠子はつんとした顔で、大、にアクセントをつける。莉珠子はべろを出した。
「あっちゃん言うなあ。ポーン神経質?」
「さあね、おばあちゃんのほうがずっといいってことよ」
 さらにさらりとかわされ、藤さん闖入の困惑とは別な、新生亜珠子の正体への不安と疑念がまたぞろ首をもたげる。が、そうしたマイナス感情に増して、小気味よい亜珠子の当意即妙に魅了されてしまう。
(このひとはあっちゃんじゃない。だけどおもしろいなあ、あなたは誰? どこからきたの? 何のために?)
「お腹すいたわね。今五時か。りっちゃんカウンセリングは今日ないの?」
「ない。週一だからあさって、くらいかな」
 莉珠子はちらりとカレンダーを探した。世間とのコンスタントな交渉が少ないので、野川家には日付の感覚が無くなっており、七夕や十五夜、クリスマスといった節句以外は、曜日でスケジュールが回っている。莉珠子の視線より早く亜珠子が言った。
「もう海の日も過ぎたのね。学校は夏休み突入」
「そういえばそうね」
 亜珠子はソファの背にもたれて舌打ちし、
「ったく、夏休みのレジャーの記憶もこの脳味噌からは出てこないわ。りっちゃん、あたしせっかく眼を覚ましたんだから、この夏は
ちょっと旅行しようと思う」
「どこへ?」
「涼しいところがいいと思って、軽井沢とか諏訪、小諸などなど」
 嬉しくて莉珠子は顔を輝かせた。
「わあ、地名聞いただけで涼感ばっちり。だけどあたし無理よ。タクシーで行ったって寝てるだけになるから」
「うふふ、だからキャンピングカーレンタルで、りっちゃんは車中で眠りたいだけゆったりどうぞ。要所要所で起こしたげる」
 亜珠子はすいと立ち上がってキッチンへ行き、冷凍庫からピザを取り出すとレンジにかけた。瞬間湯沸かし器のスイッチを入れ、ミルでコーヒー豆を挽く。
「え、レンタルって手配済みなの? 誰が運転するの」
 ガリガリ、と香ばしい音を立てながら亜珠子は澄ました顔で答えた。
「ジンさんと峰元さん。ミネちゃんのことはまだ知らない? 好青年よ。りっちゃん気に入るわ」
「その言い方は事後承諾。断れない感じ」
「モチよぉ。藤さんも連れていきます。おとなしいひとだから大丈夫でしょ。それにミネちゃんはヘルパー経験あるんだって」
「あっちゃんすごい、用意周到」
「でしょ」
 莉珠子は呼吸を三回分ほど抑えてから思い切って言った。
「その手際良さとリーダーシップは昔のあっちゃんにひとかけらもなかった」
 ふふ、と亜珠子は莉珠子の突っ込みに微動だにせず、可愛らしいえくぼをつくって我が娘を見やった。
「そりゃそうよ。だって眠っている間にも年齢は重なるわ、否応なしに。亀の甲より年の功です。あたしはどのみちもうすぐこの世からおさらばするんだから、周到に準備して再生してきたのよ?」
「え、どんな?」
「好きなだけ遊ぶの。りっちゃんとも母娘水入らずの思い出を作りましょうと。あなた、わたしが死んじゃったらわたしの何を思い出す? 寝たきり少女のわたし? わたしはあなたに何が残せるかしら」
「そんな早く死んじゃいや」
 莉珠子は立ち上がった。それは本当の気持ちだった。今楽しい、亜珠子はエイリアンみたいだが面白い、魅力的だ。昔のあっちゃんよりずっときらきらしていて飽きない。
「死なないで」
「今すぐじゃないでしょうけれどね。人間いつ何が起こるかわからないから、亜珠子は危機感と母性愛に迫られてジーニアスになったのです」
「ジーニアス…ジーニ亜珠子、え、ジンさんと亜珠子ぉ、まさか」
 莉珠子の飛躍に亜珠子は吹き出した。手にしたコーヒーポットがカタカタ揺れる。莉珠子には聞えないように口の中で、
「その外しのボケぶりは天然だ」
 チーンとレンジが鳴った。亜珠子はピッツァ・マルゲリータを大皿に乗せ、とろけたチーズの上に蜂蜜をたっぷりとかけた。

 藤さんは名前も年齢も覚えていない。迷子になった幼児に出会ったら、たいてい最初に「名前は?」、それから「いくつ?」と尋ねるだろう。藤さんはどちらもわからなくなっている。記憶障害と失認が認知症の中核症状としたら、彼女のそれはかなり重度だ。
 推定年齢はやはり七十歳前後ということだった。やや小柄な中肉中背、染めていない髪は真っ白で、ウィッグのように上品なパーマがかかっている。肌のきれいな色白に、顔には大きな皺や目立つ老斑もなく、手足もすんなりしていた。
口数は少なく、自分からはほとんど喋らない。野川家に迷い込んできたとき莉珠子に話しかけた愛想のよい饒舌が嘘のようだった。
 食好みはなく、上下の歯が揃っているので咀嚼も健康だ。排泄の失敗は一日に一回ほどあり、幸い亜珠子が傾眠状態のときに使っていたリハビリパンツがある。尿意をちゃんと弁えていても、手洗いの場所がわからなくなるのだった。
藤さんの失禁や徘徊は真夜中のことが多かった。亜珠子も莉珠子も眠っている時間だ。日中身のまわりに誰かがいると安心するせいか失敗しない。
「お母さん、ミルクコーヒーでしょ?」
 亜珠子が優しく尋ねると藤さんはにっこり笑って答える。
「はい、ありがとうね」
「お砂糖はたくさん?」
「はい、ありがと」
 亜珠子はカフェオレにパルスイートを二袋入れる。藤さんには糖尿の気があるから。亜珠子と莉珠子はいつのまにか藤さんを「お母さん」と呼ぶようになっている。
「お母さん、ピザ、こぼさないように気をつけて、チーズと蜂蜜が糸をひくから」
 亜珠子はかいがいしく藤さんの前にランチプレートを寄せる。ピザの隅には食べやすく切った果物が添えてある。
「ありがとうね」
 藤さんは亜珠子からカフェオレやピッツァを受け取るたび、いちいち丁寧にありがとうとお礼を言って笑う。
「ほんといい笑顔、お母さん」
 これは莉珠子。実母の亜珠子が復活した莉珠子としては、藤さんはおばあちゃんと呼びたいが、何事も亜珠子の采配に従っていた。
 莉珠子のランチプレートにもメロンとパイナップルが付いている。ぶつ切りのパイナップルは缶詰だが、メロンは生果だ。ナイフの痕がいかにも不器用で、亜珠子の指先がうっかり果肉にめりこんだ窪みもついている。
(亜珠子さん、お料理結構うまかったのに)
 莉珠子はそ知らぬ顔でピッツァを手でつまんで口に入れた。蜂蜜とモツァレラチーズの相性がいい。
(甘党なのは同じだ)
 亜珠子について気持ちの安定しない莉珠子は視線を浮かせ、自分と向かい合った藤さんと亜珠子の背景の庭を眺めた。
ダイニングルームとリビングは東西にウイングを広げた家の中央にある。南面は全部ハーフミラーの強化ガラス張りで、庭がひろびろと見渡せる。街路に通じる薔薇のアイアンアーチをくぐって藤さんがやってきた。紫陽花の繁みは数日前に植木屋を入れてばっさりと思い切りよく片付けてしまい、莉珠子の部屋のほうには今プランターのコスモスが桃色の小山のように群生している。
 真夏の黄昏のゆるい陽脚がコスモスの花弁にあざやかな朱を加えると、白い花はオレンジに、ピンクのはなびらは赤葡萄酒のような濃い彩に変化する。この時刻なら亜珠子の部屋のほうでは夕顔がつぎつぎと花弁を開いているだろう。梅雨が明け、湿度が低くなったせいか、これまでしばしば暮れ方の気配に重なっていた夕顔の匂いがしない。いやピッツァのチーズに負けているのかも。
 遠くで亜珠子のはしゃぎ声が聞こえる。なぜだろう、その声がとても遠い感じがする。(目の前にあっちゃんと藤さんはいるのに。まるで二人は自分と隔たった水槽の中で喋っているみたい)
 そして莉珠子自身も水槽の中だ。緋色と朱色のコスモスの花弁が足元から水泡といっしょにごぼごぼと音をたてて上昇し、莉珠子の髪や首をくすぐる。この水槽も夕陽を浴びて金色だ。
 いつのまにか両脚が床から浮き上がっている。両手で大きく水をかきわけると、弾みのついた莉珠子の身体はゆらりと反転し、強化ガラスで外界と隔てられたリビングルームへ流れていった。
(わあ、この家はいつのまにか水族館になっちゃった。あたしは魚になったのかな)
 窓ガラスに額をくっつけて外をうかがうと、相変わらず木漏れ日に金色の夕陽が踊り、コスモスは風の吹くまま揺れている。
莉珠子は床を離れて水中に浮かび上がったので、高くなった視線からコスモスの周囲に植えた真っ赤なサルビアの群れも見えた。
丈の低いサルビアはコスモスの植え込みを縁取るように二重三重に移植されている。サルビアは夕暮れの気配を早く吸って黒みがかった赤に燃えていた。
 莉珠子がサルビアの深紅に見惚れていると、その一本からシャボン玉が吹き出したように、花と同じ色の真っ赤なワンピースを着た少女が現れた。つやつやした背中までの長い黒髪が衣裳の深緋に映える。伸びてゆく身長に肉付きが追いつかないローティーンの手足がかぼそく、あたまでっかちに見える少女はこちらをふり仰ぎ、
「お姉さん」
 話しかけてきた。ガラスの向こうなのに少女の声は鮮明に莉珠子の耳に届く。
「風間さん。どうしてどこから?」
 風間めぐみは長い睫毛をぱたぱたと瞬きさせ、ガラスの家の中で藻のようにたゆたっている莉珠子に訴えた。
「心配でここに来たんです」
「何が?」
 めぐみは胸の前で両手を握り、喋る前に口許をきゅっと引き締めてから、
「おばあちゃんをレノンが殺してしまうんじゃないかって」

 もう一枚いける?って亜珠子さんに言われて…亜珠子さんの声が聞こえて宙に浮いていたわたしは床をふりかえったら、いつのまにかダイニングテーブルに腰かけて、ちゃんとマルゲリータを食べていたんです。
「ちょうどお皿のピッツァを食べ終えたところでした。たぶん三分、五分くらいだったんじゃないかしら。自分が空想、もしかしたら妄想に耽っていたのねと思いましたが、頭の中だけにせよ、あんまりはっきりと鮮やかな動画を見たので、目の前の亜珠子さんと藤さんのほうが虚像なんじゃないか、と混乱してしまった」
「はい、空想、幻影を見たのですね。亜珠子さんは何もおっしゃらなかったのですか?」
 パメラは椅子の背に上半身をもたせかけ、ゆったりとお腹の上で指を組んだ。その手つきが、幻影の終わりにあらわれた風間めぐみの思い詰めた仕草に似ていて、莉珠子はぎょっとする。パメラは莉珠子の幻視を見ていない…見られないはずだが、まるで脳内を窃視されているような気がする。
「あっちゃんは別に何も。ピザとアイスクリームを分けてくれて、コーヒーのおかわりをくれて。それだけです」
「それでは特に莉珠子さんは取り乱してはいなかったということでしょう」
「そうですね。わたしもそのあと普通に食べたり飲んだりしました。動揺を隠してわざと平静に振る舞ったわけじゃなく自分でもわけがわからなかったんです。リアルの時間ではきっと数分なのに、幻影はたっぷりとしていました」
「はい、夢はたいていそうです」
 パメラはエメラルドグリーンの瞳の焦点をクライエントの莉珠子よりも、どこか遠くへ投げて答えた。彼女の背景に翡翠のパヴォが見える。既に二か月に渡るこれまでのカウンセリングのどこかで、莉珠子がそのレリーフの由緒をパメラに尋ねたら、十九世紀に夭折したフランスの女流彫刻家の作品ということだった。
 その彫刻家を莉珠子は名前だけは知っていたが、天才を謳われた彼女の真作は世界に数少ないはずだった。そのような貴重な美術品が麻布のパメラのカウンセリングルームのインテリアにさりげなく飾られているのは、私設美術館の厳重な展示よりも自然で高貴な印象を作品に与えた。それにこんな巨大な翡翠は歴史的にも珍しいに違いない。
 パメラの相談料一時間十万円は、稀有な美術品鑑賞料込みということだ。
莉珠子は続けた。
「あたしは気が変になったんじゃないでしょうか? 夜の夢なら納得できますが、あたしの妄想はまっぴるま。ピッツァをひとかけ齧っている間にふわふわゆらゆらと、幽体離脱していったなんて」
「妄想とは言いません、莉珠子さん。あなたの場合、妄想という形容は過激で病的過ぎです。このごろメディアではわりと気軽に妄想という単語を日常レベルのファンタジーの表現として使うようですが、ふさわしくない。おそらくは視聴者の歓心をひくための露悪と媚態なのでしょうけれど、発した言葉は自動的にその言葉の器に等しいエネルギーを当人にひきよせる。社会現象の一端としてはかすかな兆しですが、日本語を愛するわたしは、危うい未来の予兆を感じるのです」
 うつむき加減に肩をすぼめていた莉珠子は顔をあげた。翡翠の孔雀を背にした金髪碧眼のパメラはパンテオンの女神のように厳かに見える。いや、男性にも女性にも見えるパメラの端麗は、このときデルフォイの神殿で巫女に託宣を告げる太陽神アポロの顔をしていた。
 莉珠子は弱々しい声で訪ねた。
「あたし、病気じゃないですか? このごろ…あっちゃんが元気になってから、あたしはおかしくなったみたいな気がするの。あっちゃんの中身がエイリアンかもしれないなんて妄、いえ想像したり、白昼夢を見たり。先生に精神科病院を紹介していただこうかなんて考えています。あの羽戸先生は精神科医ではないですよね」
「彼女は内科医です。六本木で医療関係の相談を受けていますが、莉珠子さんはその必要はまだないと思いますよ」
「まだ、ということはそのうち必要になるのですか?」
 莉珠子が蒼ざめて食い下がったので、パメラは笑顔を晴れやかにした。
「そう、誰だってそうです。深刻な悩みを抱いているひとなら誰しも、何かのきっかけで通院が必要にならないとは限りません。人間は誰しも少しずつ狂っている、と十九世紀の哲学者の喝破です」
「はあ」
「今日わたしは職域を超えて喋りすぎています。それはきっとあなたとあなたのお母様が他に類を見ないuniqueな運命の方だからでしょう。でもカウンセラーはクライエントに寛容を求めてはいけません」
「……先生と親しくなれるなら、悩みが解決しなくてもクライエントの領分を超えたいと願う人だらけじゃないかしら」
「それではわたしは命がいくつあっても足りません。話を戻しましょう。莉珠子、ピッツァをひとくち食べている間に長いまぼろしを見たからといってこわがる必要は全然ない。マルセル・プルーストはマドレーヌを紅茶にひたして口に含む、その数瞬間のうちに数百ページもの人生の物語を紡いだのですから」
「プルースト? 名前だけは」
 莉珠子はへどもどした。そんなグランドファンタジーをひきあいに出されても困る。

 夜明け前というのに早くも盛大な蝉時雨が森から湧き上がり、夏空を埋め尽くすかのようだ。太古の武蔵野を残した自然林をとりこむ大宮公園の駐車場午前四時前、蒼穹の中央にはなお淡く星影がちらつくが、広大な関東平野の東の空は薄茜に染まり、矢羽のかたちの太陽光線が地の底から放射状に空を飾り始めた。
「おはようございます」
 白とオレンジのキャンピングカーから降り立った峰元泰地は全身万遍なく日焼けした髭づらで、頭に手ぬぐいを巻き、紺色の無地Tシャツに白いジーンズを穿いている。ボトムが白でなければ、しっかりした体つきの彼はガテン系だ。人なつこい青年の笑顔は初対面でも莉珠子を緊張させない。
「はじめまして。長丁場ですがよろしくお願いします」
「僕クルマ好きだから安心してください。それと、念のためもう一人ドライバーを連れてきました」
「え?」
「ジンさん酔っ払いますからね。セーフティネットが要るなと思って」
 と泰地が言い始めたところでサイドドアが開き、ジンさんと風間親子がぞろぞろと降りてきた。亜珠子は自分と莉珠子の前に自然と横並びに並んだ面々をずらっと見て、
「三年は長いな。結構みんな成長したね」
「あっちゃんそれ何のこと?」
 亜珠子がうっかり口を滑らせたレノンの感慨を聴き洩らさず、莉珠子が追及しかけるのに
「ばかいえ、俺は変わらないよ。永遠の青年だぜ」
 生あくびを噛み殺しながらジンさんは知らん顔でうそぶいて莉珠子の質問をもみ消した。それに重ねて風間駿男は、
「あ野川さんですか、このたびは娘ともどもお世話になります」
 亜珠子に向かって顧客に対する殊勝な店長ジェスチュアで頭を下げた。亜珠子は惚れ惚れするような美少女スマイルおばさん口調で、
「その節はごめんどうをおかけしました。風間さんには御親切にしていただいて感謝しております。急に信州まで出かけることに決めまして、あれも御縁かしらと思って、ご多忙の風間さんに旅の道連れ、運転をお願いしたのですから、こちらこそ恐れ入ります、よ」
 最後の「よ」をちょっとアクセントして亜珠子は黄色い麦わら帽子の鍔の影から駿男にウインクした。駿男は他愛なく目と口を緩ませ、でれでれと、
「いや、ちょうど有給残ってましたしね。アゴアシつきにボーナス超えるpayいただけるなんてジンさんから聴いたら、もうこれはどうしたって行くしかないでしょ」
「ちょっと、パパ」
 めぐみは眉を寄せて父親の肘をつついた。すらりと背丈が伸びて駿男の肩より頭が高くなっている。小麦色に日焼けし、サンバイザーを被り、髪はポニーテールにまとめている。ピンクのタンクトップと白地にブルーの太いストライプの入ったサブリナパンツ。ハロー・キティの顔が乗ったサンダルはフラットだが、両足首には赤いビーズのアンクレットを嵌めていた。
腕時計もハローキティだ。
 好みのグッズはまだ幼いが、清楚に整った顔からうなじにかけて、夜明けの薔薇いろのような若い女らしさがもう滲んでいた。めぐみは子供の声だが大人の口調で挨拶した。
「亜珠子さん、莉珠子さんよろしく」
「こちらこそよろしくね」
 莉珠子は年長らしく返事をしたが、亜珠子は黙って微笑で応じた。めぐみと亜珠子の視線が合った瞬間、傍にいる莉珠子の眼にはサルビアの花壇からふわりとふくらんできた緋色のシャボン玉が見えた。数日前、藤さんと亜珠子と三人でピッツァを食べている間に垣間見た一瞬の幻影で、シャボン玉の中からめぐみが現れてこう言ったのだった。
「レノンがおばあちゃんを殺してしまうんじゃないかって心配なの……」
(そうだ、レノン、レノンて誰!)
 莉珠子は亜珠子を振り返った。黄色い麦わら帽子を被り、白いリネンのミニスカートワンピースを着た亜珠子のなかみは誰?
 これで全員揃ったわね、と亜珠子が甲高い声で宣言した。高く澄んだ亜珠子のソプラノは、単調でぶあつい蝉時雨に埋められた空間を、光る鋭い矢のように飛んだ。
 ジンさんが借りてきたキャンピングカーは八人まで車内に泊まれるキングサイズだ。二人並んで眠れる二段ベッドが両サイドに二つ付いている。外観より内部は広く天井が高くて、大人が立っても頭上窮屈な感じがない。ままごとのようだがミニキッチン、小型冷蔵庫もある。
「すごいわね、まるでペンションの一部屋まるごと車に乗せたみたいな感じ」
 亜珠子は面白そうに内部を見回した。奥のほうは収納スペースになっている。クルーの荷物が専用カラーボックスに仕分けられ、そこにきっちり積み重なった上に、立派な天体望遠鏡が剝き出しのまま置いてあるのに眼をとめ、
「これ誰の望遠鏡? ジンさんの?」
「そ」
 ジンさんはミニキッチンでコーヒーを沸かしながら答えた。車内禁煙なのでくちゃくちゃとガムを噛んでいる。
「そんな趣味あったの?」
 莉珠子が尋ねた。
 キャンピングカーのカラーと同じオレンジのラコステポロを着たジンさんはひゅっと
口笛を吹いて笑った。
「星を仰ぐのはロマンスだかんね。山紫水明の高原をキャラバン作って走るんだから、釣り竿とか天体望遠鏡とかのフィーリングアクセサリーは必須だろ」
「要するに見栄っ張り」
 ツアー金主の亜珠子にジンさんへの遠慮はなかった。ジンさんも平気で言い返す。
「あらゆる文化文明ってのはそもそも見栄と体裁が昇華されたもんだぜ」
 ジンさんが丁重な手つきで淹れたてのコーヒーを莉珠子亜珠子に配ったところに泰地が藤さんを介助しながら入ってきた。
「ありがとうありがとうまあ広いわね」
 藤さんは若い男性にかしずかれて嬉しそうだった。泰地は藤さんの手を握り、片手を背中に回していた。階段を登る際に麻痺の足がつらいが、段差のない平面歩行は介助があれば大丈夫そうだった。泰地は簡易テーブル前のソファに藤さんを座らせると、腰をかがめて藤さんの顔を覗きこみ、こめかみに汗の雫を滲ませた笑顔で訪ねた。
「藤さん、お腹空きましたか? サンドイッチあるけど食べる?」
 泰地の手を離そうとせず、藤さんは口を開けて若者より大きく笑った。
「はい、ありがとう」

「ルートは信州まっしぐらじゃないんだ」
 最初にハンドルを握ったのは泰地だった。助手席にはジンさんが座る。
「調布インターから中央高速乗って大月ジャンクションで富士吉田」
「いいけど、どこ行くの? って俺も暢気だよね、ジンさんのいい加減な口利きに釣られてホイホイ仕事休んじゃったんだから」
 泰地はサングラスをかけて苦笑した。長時間ドライブに夏の光はもうまぶしい。ジンさんは、煙草吸っていい?と尋ね、泰地が何も答えないうちに窓を開けてショッポに燐寸で火をつけた。
「燐寸の火のほうが煙草がうまいなんてジジイの感傷になっちまう世の中だ」
「なんでよ」
「猫も杓子も健康増進、国をあげての禁煙政策でさ。今や煙草は贅沢品だ」
「愚痴るなんて感傷以前だ。ジンさんしょぼいです」
「だな」
 ぷ、とジンさんは夜明けの街に紫煙のかたまりを吐き出して頷いた。図体のでかいキャンピングカーは窓から聞こえる排気音も重い。早朝の一般道は空いている。通勤ラッシュが始まる前に高速に乗りたいところだった。
「ところで今日の行き先は河口湖のどこ」
「河口湖オーヴァルプラザ。キャパ150人のホールだよ」
「てことは、豹たちと合流?」
「半分当たり。東京スタコラーズのライブ明日やるんだと。チケット完売だけど手を回した。だけど合流はしない。一夜限りのお楽しみさ」
「それ誰のさしがね?」
 泰地はゆったりと大きくハンドルをまわしながら車体を運ぶ。大型車両ほどではないにせよ、キングサイズのキャンピングカーは運転しにくいだろうに、泰地のドライビングはスムーズだ。ジンさんは感心して眺めた。
「君がそんなに車の運転うまかったとは驚きだよ。タクシー運ちゃんできるんじゃない」
「さんきゅ、今も週二回デイサービス行ってるからね、送迎はマイクロだもん」
「なるほど。だけど介護って堅気だろ。君の髭づらどうしたんだ。俺見違えたよ」
「へへ、おふくろのコネというか、福祉コミュの人手不足のおかげですよ。送迎ドライバーも若い男がいないコミュだから」
「福祉コミュか。あそこはほんと母ちゃんたちの善意で回ってる」
「知ってるの?」
「俺の娘神奈川県民だもん。福祉コミュのメインは神奈川でしょ」
「はあ、世間は広くて狭いね」
「だな」
 とジンさんはちらっと横目で泰地を眺め
「髭生やしたら男っぽくなったじゃない。どころか君結構イケメンだったのね」
「そうすか?」
「お、ばっくれやがった。最近銀座に来ないのは介護で忙しいからじゃないだろ」
「ええ、別な仕事もしてます」
「どっかの美術館の職員とか、風の噂」
「知りたい?」
 泰地はジンさんを見ずに笑った。
「こないだうちでシャワーが歌ったぜ」
 ジンさんは泰地のストレートジャブをひょいとかわしながらサイドを狙う。泰地は、ふん、と鼻で呼吸しただけで答えない。
 シカトされたジンさんは多少いやみな声音になった。
「彼女の歌変わったな。いやリンスじゃなくシャンプー。凄みが出てきた。前はきれいかわいい純情路線だったのによ」
「そうすか」
「年増の色気かなあ、なんて」
 節を付けるように畳みかけてジンさんはショッポを吸って吐いた。聞いている泰地の運転はなめらかで変化がない。
「彼女も三十ですからね。歌詞に凄みが出たんなら成長したってこと」
「君はいくつだっけミネちゃん」
「二十七歳」
 ほう、とジンさんは黙った。下りの道路には少しずつ車が増えてくる。やがてインターチェンジだ。信号待ちで泰地はすばやくカーポケットからCDを出した。
「かけてもらっていいですか?」
「シャワーの? やっぱりな」
 ちぇ、とジンさんはぶつぶつ言いながらインストールした。信号が変わり、アクセルをやや強く踏み込んで泰地は言った。
「働きながら通信で勉強してます。社会福祉士とろうと思って」

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