さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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海と月のこども

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海と月のこども
 櫂は、五歳の男の子です。
 パパとふたりで、海沿いの小さな町に住んでいます。家族はパパだけ。ママはいません。ママは、櫂の妹を春に生んで、具合が悪くなり、赤ちゃんを産んだ病院で、その後、間もなくパパと櫂に見守られて亡くなったのです。
 生まれたばかりの妹は、ママのお母さん、櫂のおばあちゃんがひきとってゆきました。おばあちゃんは、櫂とパパの住む町から少し離れた町に住んでいて、ときどき櫂とパパの世話をするために来てくれます。櫂もパパが休みのときには、パパといっしょにおばあちゃんの家に遊びにゆきますが、ママが亡くなったばかりのころは、会社を休むこともそれほどむずかしくなかったパパはこのごろ、忙しくなって、櫂は赤ちゃんの妹に、もうずっと会っていません。
 ママがいなくなった部屋は、からっぽで寂しい部屋でした。幼稚園から帰ってくると、櫂は、空っぽの部屋で、テレビもつけずに、ぼんやりとパパを待っていました。テレビやラジオをつけると、耳に残っているママの声が聞こえなくなるからつけません。櫂は、たったひとりで、記憶に残っているママのなつかしい声とお話していました。
 玄関の扉をあけると、うすぐらい室内から、暖かくやわらかいママの声が聞こえるのでした。
おかえりなさい、櫂
 おかえりなさい…その声は、世界じゅうの誰よりも優しい声でした。ただいま、と櫂は心のなかで答えます。今日はね、幼稚園の花壇に朝顔の種を撒いたよ。
  早く芽が出るといいわね。
  うん。
 声に出さなくても、ママと櫂は、心の中でいろんな会話をしていたのです。櫂にはママの姿は見えません。でも、たしかに、誰かが
櫂の心の声に答えてくれて、それはたしかにママなのでした。
 パパは、なるべく早く帰ってこようとするのですが、帰宅はたいてい、櫂が眠ってしまってからでした。晩御飯は、冷蔵庫の買い置きのお弁当を、チンして、櫂ひとりで食べました。あんまりおいしくありません。
櫂は、いつのまにか、口が利けなくなってしまいました。パパがそのことに気づいたのは、櫂の症状が、かなりシンコウしてからだそうです。パパとおばあちゃんはびっくりして、櫂をあちこちのお医者さまに連れて行ったのですが、治りませんでした。お医者さまの声は、固くてこわくて、櫂は両手で耳をふさいで反抗したので、パパもおばあちゃんも、びっくりして、櫂を病院へ連れてゆくのをやめてしまいました。
ハッタツショウガイのカノウセイが…パパとお医者さまは、難しい言葉を難しい顔で交わしていました。パパは泣き出しそうに見えたので、帰り道、櫂はパパを慰めようとににっこり笑ってパパに抱きついたのですが、
やっぱり声は出ませんでした。パパ、ぼくだいじょうぶだからね、元気出して。櫂はそれを心のなかでパパに言ったのですが、声にはならず、パパの耳には聞こえなかったのです。
 
 夏が過ぎ、秋が終わり、また春になって、櫂はもう幼稚園にも行きません。みんなが櫂を仲間はずれにするので、幼稚園に出かけるふりをして、櫂はぶらぶらと家に帰ってきてしまうか、ときにはそのまま海辺へ出て、暖かい日は、ぼんやりと海をながめて過ごしていました。
 自宅に帰ると、櫂を心配するママの声が聞こえるのです。
  櫂、どうしてこんなに早く帰ってきちゃうの?
 姿の見えないママの声は、とてもかなしそうです。その声を聴くのがつらくて、櫂は、だんだんママにも話しかけなくなりました。
 晴れの日の海はゆったりと大きく動いて、浜辺に打ち寄せる波音は深くひろくざわめき、たくさんのママの声を寄せ集めたように聞こえました。ちいさい櫂は、浜辺の公園のベンチに膝を抱えて、きらきら光る水面をぼんやりとながめていました。
 波音のざわめきは、とてもたくさんの声が入り混じっていて、その全部がママの声なのか、それとも違う誰かの声も混じっているのかわからないのですが、ママのかなしい言葉はもうきこえなくなり、ただおっとりとうたうような、歌詞のわからない子守唄の合唱のようでした。
 海から櫂の家までは、すぐ近くでした。
 櫂は、パパがなかなか戻ってこない、眠れない夜は、ベッドをぬけ出して海へゆきました。
 眠れない夜に聞こえてくるママの声は、ときおりすごくかなしげだったからです。
 夏近いある夜、櫂はまた渚へゆきました。
 月のあかるい夜でした。満月がきらきらと空のまんなかでひかっていました。櫂が時間を潰そうとしたいつもの海辺のベンチには、その晩、見たこともないちいさい女の子が坐っていました。
女の子は、ベンチに深く寄りかかって、地面にとどかない足をぶらぶら揺すりながら、月を眺めていましたが、櫂に気づいて、
「あなた、だあれ、」
「……」
「名前を教えてよ」
 ぼく言葉が出ないんだ、と櫂は心のなかで答えました。
「ちゃんと話してるじゃない」
 女の子はませた口調で言い返しました。女の子は、櫂と同じくらいの年齢か、もっとちいさいくらいでしたが、おとなっぽいしぐさで、両肩にふりかかる髪をかきあげ、櫂に笑顔を向けました。
「話してる?」
「ほらね」
口を閉じた貝のようにひらかなかった櫂の喉が、なめらかにひらいて、声が出てきました。女の子は人見知りをしないあかるい笑い声をあげ、櫂のために、横にずれて座りなおし、
「ここに来て坐って」
「うん」
「わたしはカイよ」
「僕も」
「同じ名前?」
「僕の名前は、舟をあやつる櫂」
「わたしは貝殻のカイなの」
 貝は、つぶらな目をみひらいてしげしげと櫂を見つめ、いっしょに遊ぼうよ、といいました。
「何をして遊ぶの?」
「貝殻をひろうのよ」
「暗くて見えない」
「そんなことないわ、ほら」
貝が砂浜を指差すと、満月の光りが渚いっぱいに満ちあふれて、まひるよりもっと透明な明るさに包まれています。
「引き潮なの」
まぶしくなく、翳もなく、澄んだ波のあいだから、波よりも透きとおった光の反射で淡い光がまたさしのぼるように、月光と海は照り返しあい、貝はベンチからとびおりると、光る渚へ向かって、長い髪をなびかせてまっすぐに走ってゆきました。
「すごく長い髪の毛」
 櫂は女の子の後を追いながら、目をみはりました。貝の髪は頭のてっぺんから背中まで王女さまのドレスみたいにふわりと扇型にひろがり、一本ずつの髪が、光る絹糸のように潮風にもつれもせずきらきら、さらさらと流れるのでした。
「こんなきれいな髪の毛、ぼく見たことない」
「ありがとう」
 貝はぱっと顔をかがやかせて櫂をみつめました。
「あなたって、とってもすなおな子なのね」
「子?」
「そうよ」
「君だってこどもじゃないか」
 櫂は自分が貝よりも幼いこども扱いされたみたいでちょっとむっとしたのです。貝とぼくは、同じくらいの年だろ?
「わたし、ながいきしてるのよ」
 貝はつん、と横をむきました。月光は人形のような貝の白い頬をなめらかに縁取り、長いながい貝の髪の毛は、海と渚のおぼろな翳につつまれて、うすぼんやりと水色に滲んで見えました。
「ながいきって?」
「ねえ、貝殻をひろいましょう」
 ちょうど引き潮で、濡れた浜辺には、貝殻がたくさん打ち寄せられていました。それらは、まひるに櫂が見かける貝殻とはちがって、ひとつひとつが、磨かれたようにきらめき
ガラス細工のようでした。貝はそのひとつひとつを丁寧にひろいあげ、スカートのポケットにしまいました。櫂も、いっしょに貝殻をひろいました。ひとつ拾うたび、貝殻からきよらかな水が流れ出し、櫂と貝の周りには、貝殻からこぼれた水が虹色の飛沫となってしたたるのでした。貝殻から水が砂浜にしたたるとき、ごくかすかな音が聞こえました。それは、りんりん、りーんと鈴が触れ合うような響きでした。
 巻貝や、二枚貝、ヒトデの乾いたみたいなのや、でこぼこした石ころみたいな貝殻……「いろいろな貝殻があるね」
「これは、海の魂なの」
「たましいって?」
 貝は櫂の質問にはこたえず、うれしそうに、にこにこしていました。貝は、ママにはぜんぜん似ていませんが、ママのような笑顔でした。
「今夜はもうたくさんひろったからいいわ。明日の晩も来てくれる?」
 貝はスカートのポケットをふくらませ、満足そうに言いました。スカートにはポケットが二つついていましたが、濡れた貝殻をいっぱいに詰め込んで、いまにもはじけそうな風船みたいでした。
「ぼくも貝殻もらっていい?」
 貝はちょっと黙りこみ、困ったように小首を傾げました。しばらくまじまじと櫂の顔をながめて
「じゃあ、明日もきっと来てね。ひとつだけあげるわ」
「けちだなあ。だってぼくがひろった貝殻なのに、ひとつしかだめなの?」
「ひとりのひとに魂はひとつって決まっているもの」
「君はそんなにいっぱい持って帰るの?」
「わたしは、帰らない」
 貝はなんだかさびしそうでした。
「帰らないって?」
「まだ帰らない。いつかは帰るんだけど、それまでは、ずっとここにいるの」
「ここに?」
「そうよ」
「お家はどこなの?」
「ここよ」
 パパや、ママは?
 と櫂が口を開く前に、貝はくるりと背を向けて、小鳥のようにぴょんぴょんと走って行ってしまいました。ながいゆたかな髪が、あかるい月の光りにふわふわと輝いてひろがり、なんだか翼をひろげながら、砂浜を伝い飛んでゆく鴫や千鳥の姿に似ています。
「明日もきっと来て……」
 見る見る遠ざかってゆく貝の声が、櫂の頭のなかで、はっきり聞こえました。
 櫂の手の中には、巻貝がひとつぶ残りました。それは、きっとどこか遠くの南の国の貝殻で、いろんな飾りをトッピングしたアイスクリームのさきっぽのように、赤や、青や、紫、緑いろの筋が縞模様を描き、ところどころに、明るい茶色の斑点がスパンコールみたいに散っている、見たこともないほどきれいな巻貝でした。

 それから、毎晩のように櫂は海に下りて貝と遊びました。貝殻をひろうこともあれば、砂遊びをすることもありました。湿った砂を積んでお城をつくったり、ふたりでもりあげた砂山のまんなかにトンネルを掘ったりしました。
 貝と遊ぶとき、夜の海はいつも引き潮なのでした。昼間櫂は海辺にやってきて、貝を探したのですが、それらしい女の子はどこにもいずに、満ち潮の海は青く深いみどりや、濁った灰色にざわめいて、狭い浜辺の防波堤やテトラポットに襲いかかるような波しぶきをあげ、貝のいる月夜の遠浅のおだやかな渚とは、別な海みたいでした。
 また、引き潮の海でも、貝のいる海とはぜんぜんちがっていました。濡れた砂浜も波も、真夜中ほどのひろびろした感じはなく、いろいろなものがはっきりと見え、物音はやかましく波の合唱も濁って聞こえました。きれいな貝殻もみつかりません。空き缶やくだけたガラス、心ない誰かが捨てたゴミなどがちらばって、櫂の幼心にも、不潔でごたごたして見えました。
「同じ海じゃないみたいだなあ」
 と櫂は考えました。貝のいる海は、いつも風は凪いでいて波は遠くで静まり、お月様が中空にゆったりと昇り、ふたりのこどもをながめていました。流木や、藻屑みたいな残骸があちこちにおぼろな翳を作っていましたが、
半透明な月明かりのなかで、いろんなかたまりや翳は、ぜんぶうっすらと蛍のように発光しているのでした。
「貝殻をひろいましょう」
 幾晩めかの夜に、いつものように貝は渚へ降っていきました。そのうしろ姿を見て、櫂はびっくりしました。
「貝、君の髪の毛、伸びたね」
 貝と初めて会ってから、十日とたっていないはずでした。満月だったお月様は、ひとばんごとにほっそり痩せていって、今は三日月顔の頬がちょっとふっくらしているくらいです。腰のすぐ上にふりかかっていた貝の髪の毛は、いつのまにかどんどん伸びて、膝小僧に届いています。
 立っている貝の全身を、ゆたかな髪がすっぽりとくるみ、月光のかげんで、女の子をつつむ虹のマントのように見えました。
「もうじきあたしの背丈とおなじになるわ」
 貝は困ったように月を見上げました。
「どうして君と遊ぶとき、海はいつもひろいんだろう?」
 思い切って櫂はたずねてみました。
「この海は、ふだんの海とはぜんぜん違う。昼間の海はもっと……」
「もっと?」
「ちいさいし、せまい」
「同じ海よ」
「でも違うふうに見える」
「これがほんとうの海なんだけど」
「ほんとうの?」
「変わらない海ってこと」
「雨や台風はないの?」
「あるわよ」
「でも君と遊びはじめてから、そんな日はない」
「あたしがもうじき帰らなくちゃいけないから、海は静かにしていてくれるの」
「帰る? お家へ?」
 うん、と貝はうなずきましたが、また月をみあげて、おおきな目いっぱいに涙をためて言いました。
「あたしの髪の毛が、あたしの背丈と同じに伸びたら、あたしは帰れるんだけれど、もうずっとここから離れられないでいたの。でも櫂が来て、いっしょに遊んでくれたから、力がついて、貝殻が集まり髪の毛が伸びたの」
「?」
「この貝殻は海の魂なの」
「うん」
「人間が死ぬと、その魂はいろんなところへゆくの」
 貝は砂浜にしゃがんで、ひとつひとつの貝殻を丁寧にひろい始めました。雫がほたほたとしたたって、砂地に触れると、秋の松虫みたいな音がチーンと聞こえました。
「山へゆく魂もあるし、川をえらぶ魂もある。海が好きなひとは、海へ来るの」
「好きなところへ?」
「そう」
 ママはどこへ行ったのかなあ、と思わず櫂は考えました。ママはどこを好きだったろう。
「山や海で、魂はしばらく暮らして、いろんなものを波や風で洗い流してから、空に昇るのよ」
「お星様になる?」
「星や月になるし、もっと遠くに散ってゆくこともある。あたしは、海でくらしたひとの魂を集めて空へ運んでゆく」
「どうやって」
 櫂はおどろいてたずねました。
「君、空を飛べるの?」
「あたしの髪の毛は、拾い集めた貝殻なの、ほら、よく見て」
 貝は、自分のふさふさした髪の毛をひとたば櫂の手に渡しました。櫂がながい髪の毛を月明かりに透かすと、ほそい髪の毛はレンズのようにひかって、さまざまな貝殻たちの姿
がまぼろしのように浮かんだり消えたりしました。
「あたしを運べるくらいに、貝殻が集まったら、あたしは満ち潮に乗って空へゆける、でも」
「でも?」
「海をきらいな思いが増えると、潮が満ちる力がすくなくなって、貝殻も集まらない」
「海をきらいな思い?」
「大きな災害が起こって、海のせいでたくさんのひとが死んでから、海は嫌われるようになっちゃった」
 貝はうつむいて、涙をぽとりと落としました。砂浜におちた貝の涙は、ちりんちりんと、ふたつみっつ、涼しい音をたてて砂に吸い込まれました。 
「でも、災害は海のせいじゃないのに。人間は眠っているとき、何度も寝返りを打つわ。ぐっすり眠りこんでいても。海底や、大地だって、ゆっくり動いているのよ。あくびもするし、のびもする。それに、このごろ、大地ぜんたいが暑くなってきて、海の底の温度もあがり、寝苦しくなった海は、ちょっと寝相が悪くなった」
「ふうん」
 むずかしいことを言うなあ、と櫂は思いました。貝がぼくよりながいきしているというのはほんとうのことみたい…。
「海の底がずれたら大津波が起きて、たくさんのひとが命を失った。悲しみがたくさん打ち寄せる海になってから、あたし、もうずっとここにいたの。でも櫂が来て、あたしをほめてくれたし、いっしょに遊んでくれたので、安心した貝殻がたくさん集まってきて髪の毛がどんどん伸びたわ」
「貝殻が安心する?」
「こわがったり、不安になったりすると、貝殻は海の中に隠れて、出てこない。あたしが呼んでも、海の魂は出てこないの」
「ぼくが君を好きだと、安心する?」
 うん、と貝はにこにこしました。
「帰っちゃやだ」
 櫂は貝の腕をつかんで言いました。
「ずっといっしょに遊んでよ」
「また戻ってくるわ。いったん帰って、海の魂を送り届けたら、あたしまた戻ってくる」
「また会える?」
「必ず」
 貝は笑顔でこたえました。
「だから、貝殻をひろってね。そしたら、海が満ちてくるから。新月になる前に髪の毛が背丈より伸びたら、それで空を渡れる。潮が満ちて、あたしを押し上げ、魂の飛ぶちからで、あたしも飛んでゆく」
「間に合わなかったら?」
「集めた魂は、またちりぢりばらばらになり、海へもぐってしまう。新月の晩はまっくらで、空の道も見えないの。そうすると、髪の毛も短くなって、あたしはまた最初から海の魂をひとつひとつ呼び集め、貝殻をひろう」

 櫂と貝は、それから毎晩、砂浜で貝殻を集め始めました。お月様がだんだん痩せて逝く海辺は、すこしずつ暗くなってゆきましたが、貝のまわりには、おぼろな虹色の光りが集まって、それはちょうど闇夜を静かに照らし出すぼんぼりの灯りのようでした。虹色の光りは、よく見ると、貝の髪の毛から放たれていました。
「君の髪の毛が光っているね」
「そうよ。ほら、これは海の魂たちの光り」
 貝の髪の毛は、まるで裏返した二枚貝のように淡いきれいな、薄いあぶらのような、真珠のような、七色の光りを滲ませているのでした。
「貝の光りなんだね」
「うん」
 貝は、ふたつのスカートのポケットがいっぱいになると、貝拾いをやめました。そのあとは、いそいで駆けてどこかへ消えてしまうこともあれば、すこしだけ櫂と砂遊びをしてくれることもありました。
 ぽちゃぽちゃとした貝の手は、ほのかなピンクいろをしていました。そのちいさな手は砂や、泥で汚れても、櫂の両手とはちがって、いつのまにかきれいな桃いろに戻っていました。
 貝殻をひろっているときも、砂遊びをしているときも、櫂はもう前のように、心の全部が楽しいわけではありませんでした。なぜって、櫂が貝を好きになればなるほど、たくさんの貝殻が集まってきて、貝はもうじきいなくなってしまうからです。
 貝の髪の毛は、ぐんぐん伸びました。
 そして、三日月が、やがて夜空にきらりと光る猫のつめみたいにするどくなったころ、とうとう貝の髪の毛は、足首よりも伸びて、ながいながい髪の毛のさきっぽが、砂浜にさわさわと触れるくらいに長くなりました。
「これでいいわ。あたし、帰れる」
 貝は初めて会ったときのように、睫毛をみひらいて櫂をみつめ、にこにこしました。
 月あかりはすっかり衰えていましたが、そのぶん、貝の虹色の髪の毛は、おとぎばなしの仙女さまのように水の輪のような輝きを放ちました。
「海が満ちてくるわ」
 貝は、遠くの磯をながめて両手を振りました。まるで、誰かに合図するみたいです。すると、海のはての、どこか見えない、ずっと遠くで、あたらしい風のかたまりが生まれるような低い唸り声が聞こえました。
「行っちゃいやだ」
 櫂は女の子の手をつかみました。やわらかい、ちいさな暖かい手でした。
「ぼくひとりぼっちになる」
「ひとりじゃないわ」
「ぼくは貝といたい。いつまでも遊んでいたいよ」
「戻ってくるから」
「いつ戻ってくるの?」
 貝は、まじめな顔をして、櫂の顔を覗き込みました。
「櫂が大きくなって、おとなになって、いろんな出来事があって、いろんな心を知って、流れる時間のうらおもてを知ったあとで、もういちどあたしに会うわ」
「それ、すごく先のことだろ」
「櫂は表の世界で生きているときに、あたしとこんな風に遊んだから、櫂がここで生きているうちは、もう会えないの。でも、あたしは櫂に、海の魂をあげたわ。だから櫂は死んだら海に来ることが決まっているの」
 貝は両手で、櫂の片手を握りました。すると、櫂のにぎりこぶしのなかに、いつのまにか、貝からもらった巻貝がありました。赤や青、緑、紫の縞目に金茶いろの斑点がきらきらしている不思議な異国の貝殻でした。
「誰かの魂をもらったひとは、そのひとのために、亡くなったあとそのひとを連れて同じところへ来なくちゃいけなくなるのよ。山の魂をもらったら、山へ。川の魂なら川へ」
 ぼくは海と貝が好きだから、ちっともいやじゃない、と櫂は思いましたが、かなしくて言葉になりませんでした。涙がぽたぽた流れました。櫂の涙も、砂浜に落ちて、りんりん、ろーん、とまろやかな響きをたてました。
「これは誰の魂なの? そのひとはいつ死んだの?」
「それはあたしにもわからないの。その魂が生きているうちにまとったかなしさや忘れてしまいたいものが、すっかり流れて洗われて、もう雲や風や、水と同じくらいに透明になってしまったら、その魂は貝殻にかたちを変えて、あたしのところへ来るの。忘れたくないものを忘れないで、いつまでも波に揺られ、海に棲んでいるのが好きな魂は、この世の終わりまでそこにいるの。いたいだけいるのよ。
苦しいことなんて、なにもないから。そうして思い出の歌をうたっている。海や、風のうたう声が、櫂の耳には聞こえるのよね」
「そうだよ」
 櫂は興奮して叫びました。
「ぼく、ママの声も聞こえるんだ」
「櫂のママはどこへ行ったのかしら」
「ママはぼくの家にいるよ。ぼくママとお話できたんだ。でも」
「でも?」
「ママの声が、だんだんさびしく、かなしくなっていったから、ぼくここへ来たのかもしれない」
「きっとそうよ。誰かにひきとどめられて、海にも山にも行けない魂は、表の世界では、だんだん元気をなくして澱んで沈んでしまうの。ママは苦しいのね。何処にも行けず、苦しい思いだけが増えてくるから」
「どうすればいいの」
「櫂が元気になればいいのよ。ほら、これをごらんなさい」
 と、貝は空の真ん中をゆびさしました。貝の指のまわりで、闇色はぽうっと白く滲んで割れ、櫂のパパが映りました。
「パパだ」
「櫂を心配しているのよ」
 櫂のパパはちょうど、会社から戻ったところでした。家に帰り着いたら櫂の姿が見えないのにおどろいて、かばんを放り出し、道へ飛び出したところでした。パパの顔はくしゃくしゃに歪んで、疲れきっていました。外に飛び出しても、どこへ行ったらよいのかわからず、パパは右左をうろうろしていましたが、櫂のいる海辺とはぎゃくの、まだ街灯りの残っているほうへせかせかと歩いてゆきました。
「ママが、こんなパパを見たら、かなしいし、心配するわ」
「そうだね」
「ママもきれいな貝殻になって……でなければ山の魂になって、汚れたものを洗い流して、歌って、きよめられたいでしょう」
「ママはぼくのこと忘れちゃうの?」
「そのひとが心に抱いたきれいな思いは、魂になったあとも残って、それで光るのよ。魂の光はそのひとの心を残すの」
「そうだね、君の髪の毛光っている」
 櫂は、もうどうしたらいいかわからずに、ただ貝をひきとめたくて、でもひきとめられないこともわかっていて、せつなくて貝の髪の毛をつかみました。ふわん、と櫂の手の中で、髪の束は風船が弾むようにふくらみました。櫂は一瞬でもいいから、貝をきらいになろうとしました。そしたら、貝はここにいてくれる? でもそんなことは無理でした。櫂は貝が大好きでした。このお別れの最後まで、お別れのあとまでも、ますます貝が大好きでした。
満ちてくる海のうしおは銀色に、また金いろに波を蹴立ててふくれあがり、今では、貝の足元にひたひたと寄せていました。
 お月様の光りがするどく、まっしろに世界を覆いました。
「あたし、飛ぶ」
 さわさわと貝の髪が、おおきな翼のようにひろがって、扇形に風を呼び込みました。櫂の握っていた髪の毛の束はするりと櫂の手から逃げ、海風が女の子の足元から上空にむかって透きとおったしぶきをあげて吹き上げ、その勢いに乗りかかるように、貝はのびのびと手足をひろげ、舞い上がりました。
 月明かりが藍色の夜空にまっしろな道筋をひいたように光線を投げて、貝はまるでひきよせられるようにぐいぐいと昇ってゆきます。虹よりももっとあかるい光り、ひろがった貝の髪の毛はそのまま翼になって夜空にはためき、遠くへ遠くへ見る見る去ってしまいます。
「また会えるわ。きっと会える。うらがわの世界はこわいことないの。あたしがいるから、きっと会いに来てね」
 遠ざかってゆく女の子は、鳥のようなかたちの光りの影となりました。りんりんと、いつのまにか、櫂の周りで砂浜がいっせいに鳴りだしました。幾百、幾千もの鈴を振り鳴らすような声をあげて、砂浜の砂粒がうたいだしたかのようでした。
 みあげる櫂の顔に、こまかな霧のようなしずくが降り注いできました。
「貝の涙だ」
 櫂は思いました。この世とお別れする貝殻の涙なのか、女の子の涙なのか、きっとその両方でした。
 海水が櫂の膝まで押し寄せ、水の勢いで櫂はぐらぐら揺れました。
「櫂、動くな!」 
 ふりかえると、パパが海岸をつっきって、
こちらへ走ってくるところでした。パパは懐中電灯をふりまわして、会社帰りの格好のまま、ざぶざぶと水のなかに入り、潮に呑まれそうな息子を抱き上げ、その間にもどんどんおしよせる暗い海水から逃れて、浜辺へ戻りました。
「なぜこんなとこにいたんだ」
 パパは大泣きしていました。櫂のほっぺたにぐいぐい顔をこすりつけて、パパは泣き出しました。溺れ死にするところだよ。
「貝と遊んでいたんだ」
 とても自然に、櫂はパパに答えていました。
「え?」
「貝といっしょに、貝殻をひろいあつめていたの」
 パパは、櫂が行方不明になりかけたことと、突然また声をとりもどした、というふたついっぺんの驚きで、パパのほうが声を失いそうでした。
 櫂はそこからうまく説明できませんでした。
「あのね、貝はお月様といっしょに、空へいっちゃったの」
 櫂は夜空を見上げました。
 三日月よりもっとほっそりしたお月様が淡く光り、その周りいちめん、ちいさな星々が 風や海に揺られて磨かれた貝殻のようにきらきらと光っていました。

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