さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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ジャスト・ティファニー  Pth 10

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   ジャスト・ティファニー

「楽しい旅をなさっていらっしゃるのですね」
「はい、一週間の夏の旅。亜珠子さんの気まぐれなんですが、キャンピングカーのクルーはいっきに大家族、和気あいあい」
 テレビ電話の画面の中でパメラは小首を傾げて笑った。ノートパソコンの高い解像機能のおかげで、画像のパメラは麻布のカウンセリングルームでの実際の面接時よりもクリアに見ることができる。パメラのホームページ画像が生気を持って動き始めた感じだ。
(目の前にいると気後れしちゃって逆に先生の顔をじっくり見られないんだけど、こうやって液晶画面に映すとすごい迫力だわ。アンドロイドみたいに完璧。睫毛の先までぴかぴか。きれいな耳のかたち、バレリーナみたいだな)
 どこかで聞いた話だが、ロシアのバレリーナはバレエ学校入学時に顔かたち、プロポーション、運動能力精神力、知力体力はもとより、耳のかたちまで審査されるとか。なるほど髪をアップしたときに耳やうなじの風情は重要な美度になる。
(パメラならきっと三重マルで合格ね)
 対面ではとてもこんなにじろじろ見つめることはできない。
 テレビ電話でのカウンセリング料金は面接セッションよりも五割増しだった。リアルよりヴァーチャルのほうが高額なのはいかがなものかと普通は考えるだろうが、莉珠子の場合、旅先からのアクセスは、毎週定時の面接とは大幅にずれる時間帯になる。
莉珠子の希望するヴァーチャルセッション日時の二十四時間前までに、パメラにメールでカウンセリングの可否を打診してOKをもらうという面倒な手順なので、スケジュール調整するカウンセラー側の労力込みの増額だった。
「亜珠子さんともうまくいってます。別に前だって喧嘩をしていたわけじゃないですから。ただわたしのほうで彼女の正体に不安が募って、時々いてもたってもいられない気持ちになりました」
「はい、その不安が今は解消、やわらいだのですね?」
「解消はされません。そうですね、やわらいだ、という感じかな。証拠は何にもないんですもん。昔のあっちゃんと今の彼女といろんなことが違っている。百八十度じゃないけれど、九十度くらい違っている。だけどそれであたしは別に損しているわけではないし、むしろもしかしたら以前のあっちゃんより活発で才気のある今の亜珠子さんのほうが好きかもしれない」
「はい、迷っておられましたね」
 パソコンの中のパメラはきまじめな表情で頷いた。きれいな耳たぶに華奢なダイヤモンドのダブルチェーンピアスが揺れる。
(目立たないけれどいつも素敵なアクセサリー。どこのブランドだろう)
 いくつかの老舗ブランドの名前が莉珠子の後頭部を地味なテロップで疾走して消えた。莉珠子も亜珠子も宝石は好きだが、普段ほとんど身につけることがない。莉珠子は嗜眠症だし亜珠子は認知症。だが金はありあまるほど持っているのにゴージャスなジュエリーに凝らない本当の理由は、二人の肉体的外見がいつまでもティーンエイジャーなままで、自然の光を皮膚の内側に保っているためだった。ことに、十四、五歳にしかに見えない莉珠子に高価なジュエリーはアンバランスだ。
「ええ。亜珠子さんは外見若く見えても七十一歳で、自分でもそんなに長くこの世にはいないんだ、なんて言うの。あたしはそれを聞いて悲しかった。自分で悲しいと思ったことに気付いて、あっちゃんのなかみが本物であれエイリアンであれ、どうでもいいんじゃないかって感じました。あたしが彼女を好きなんだから」
「そうですね。現在と未来の現実にトラブルや災いをもたらすことがなければ亜珠子さんの人格が変わっていたとしても、ね」
 カウンセリングテーブルの前に座ったパメラはすこし右半身を斜めに後ろに引き、膝を組みなおした。翡翠の孔雀を背にして、スリムな膝がしらに長い左手をゆったりと添わせたひねりのポーズはファッション雑誌のグラビア写真そのものだった。白い七分袖のブラウス、タイトスカートは両サイドに控え目な三角スリットが入った紺、白、グリーンの太いストライプ。テレビのニュースキャスターみたいに華やかで知的な衣装だ。
(女優さんよりも、大きなテレビ局のニュースキャスターやアナウンサーは、きっと世間で最も優秀で家柄のいい美形がなれるものなんだろうけれど、パメラの生い立ちや履歴はそのレベルか、それ以上みたい)
 眠気のあまり近所の高校を入学早々ドロップアウトしてしまった莉珠子は少しばかりうつむき加減な気持ちになる。心のままにきっと仕草も萎れたのだろう。そのままテレビ電話の画面を通じて相手に伝わり、パメラから優しい声がかかった。
「問題がパーフェクトに解消・解決しなくても、莉珠子さんのほうで精神的なストレスがなくなったのであれば、そろそろお別れの時を決めても良いと思います」
「えっ それはだめです」
 驚いた莉珠子はしゃきっと顔をあげ、即座に否定した。パメラと会えなくなる。話を聞いてもらえなくなる。それは寂しい。
「まだ、だめです、だってまだ沢山の問題がこれからまだ」
 これから。
 まだこれから何か起きるだろうか。トラブルやストレスがないとパメラとセッションを続けることはできなくなる。

 河口湖から長野県までは中央高速ではなくルート358を、とジンさんと駿男は主張した。次の停泊地は諏訪湖畔だった。
「うねうね山道はキングサイズには厳しいけど、白雲湧く真夏の青木ヶ原樹海を抜けて甲府盆地までビュー抜群。最高ですよ」
 駿男が嬉しそうに勧めるとジンさんも、
「金に糸目をつけないあっちゃんのメセナ旅だけど、地上ゆらゆら走ったってまあ四時間か五時間で信州に入れる。気まま旅なんだからいいんじゃないか。もしか込み合うようだったら甲府南か双葉あたりで高速入れば」
 というわけで今度のドライバーは駿男になった。まだ星の残る明け暮れ、世界を満たす噴水のように蜩の湧く河口湖畔を、やはり早暁四時に出発する。
 助手席には亜珠子が乗り込んだ。
「ナビよろしくねあっちゃん」
 駿男は満面の笑顔だ。が、彼は亜珠子のなかみがレノンだと知っている。知っていても、長い髪の十八歳美少女に車内数時間密着できる体感温度はちっとも下らないのだった。
「あたし運転できないわパパさん」
「はい、任せてちょうだいよ、君はただ助手席できれいな声で歌でもうたってくれれば」
 亜珠子は吹き出した。そういう駿男さんの台詞自体が、おかしな歌声のように弾んでいる。で、つい
「変わんないね、パパ」
 駿男は口笛のようにアクセルをふかした。
キャンピングカーは東雲の薔薇色を背にしながら、星月夜のきらめく西へ走ってゆく。まだ涼しい。クーラーは使わず窓を開ける。湖の匂いはすぐに消えて、樹海の森と土の匂いがひんやりと流れ込んでくる。
「そう、やっぱり君レノンか。メグに憑依してたんだってね」
「うん、気が付かなかった?」
「そうだなあ、メグは生まれたときから運命的な子だったから何か奇妙な出来事が彼女の周辺で起きたとしても、僕らわりかし、あまたかみたいな感受性になっちゃっていたんだよね。僕と死んだにょうぼ」
「安美さん。僕のところへ飛び込んで来た」
「そう、その母親探しがメグの本格的な旅の始まりになったかな。あれから彼女はずっと旅している。オヤジの僕ははらはらしながら見守ってる」
 駿男は少し声を低めた。
「二年ほど前、メグが鹿香霊園で大怪我したとき、医者もたまげるほど異常に回復が早かった。君のおかげなの?」
「いや、それはメグ自身の力」
 それから駿男はしばらく黙ってハンドルを切った。車は樹海を抜けて富士河口湖地域から盆地へ降りる複雑な急カーブにさしかかったのだった。
 この時刻でも亜珠子たちと同様、真昼の混雑を避けたい観光車のバンやワゴン、それに貨物トラックなどは結構走っている。山襞がくらぐらと重なり合う隘路九十九折の前方はるかには、なお澄んだ星空が残っており、キャンピングカーはまるでその夜空をめがけて失踪してゆくようだった。
 駿男さんは重いハンドルを慎重に切る。事故多発の降り急カーブ続きの山道で、図体のでかいキャンピングカーの操縦は、マイクロバスの運転に馴れた泰地と違い、普通車しか乗らない彼にとっては正直冷や汗三斗だ。が、言いだしっぺの沽券にかけて、うわべは何食わぬ顔でレノン=亜珠子に話しかける。
「君も母親探しの旅なんだって?」
「メグはおしゃべりだ。女はこれだから」
 亜珠子=レノンが少女の声で舌打ちするのでそれを聞いた駿男さんは顔をほころばせた。
「君、レノンのアイデンティーをやめてレディ亜珠子で生涯過ごせないの?」
 亜珠子=レノンはつんとした表情でにべもなく否定した。
「残念ながらこの体はあんまり長くない。だいたい老化しない肉体というのがありえない話で、それを実現している亜珠子莉珠子の肉体は、いったいどこで若さを保つエネルギーを補充しているんだろう。エネルギー普遍の法則は宇宙を貫く物語だから、シーザーは金儲けといっしょにその神秘も手に入れたいんだろう」
「シーザー?」
 駿男はレノンの講釈を耳半分の適当で聞き流し、呆れたように、
「やたら話を複雑にするね。宇宙の法則がどうでも、可愛い女の子の姿のまま人生を過ごせるのは神様のプレゼントって考えたら?」
「そうしてる。亜珠子と莉珠子は人類の奇蹟のひとつだからね。僕は楽しんでる。五感を通じて現実世界を吸収するのは素敵だ」
「奇蹟ね…オヤジの僕にしたら、普通に可愛く生まれるのだけでも大宇宙の大いなる恩恵だと思うよ」
 キャンピングカーは長いトンネルに差し掛かった。駿男は額と首筋の汗を拭う。
「トンネルを抜けると甲府盆地だ。やはり暑くなってきたな」
 空は黎明の紫から朝明けの白色光に変わった。やがて濃い夏空のブルーが頭上に開ける。そして富士山麓の冷涼は夜明けとともに消え、全開の窓から吹き込む樹々の薫りは熱気を帯びた地上の森のものに変わりつつある。
 トンネルに突入する。内壁灯のオレンジ色がぬるいお湯のように視界に溢れる。長い隧道だ。出口の光がいつまでも見えない。
「夜中だったらちょいとおっかないかも」
 駿男さんはつぶやいた。そしてすぐ、
「抜ければ朝だ」
 亜珠子=レノンはまぜっかえした。
「ずっと夜だったら? トンネルを抜けたらそこは星空でした」
「昇天ギャクかい? 八人の命を預かってますからね。洒落になんない」
「八人? 七人だろ」
 レノンは指折り数えた。自分を入れて莉珠子、メグ、泰地、ジンさん、藤さん、それに駿男パパで。
 汗でずれた眼鏡を人差し指で持ち上げ、駿男はきっぱりと言った。
「君の体は君ひとりのものじゃない。レノンと亜珠子の二人分だ」

 車内では小さな騒動が始まっていた。
「ここはどこですか」
 二人組の簡易ベッドの下の階で、メグとペアになっていた藤さんは、キャンピングカーが動き出すやいなや目を覚ました。窓側のメグは飛行機のようなキャビンの円窓から、星空と夜明けのせめぎあう樹海のグラデーションに見惚れていた。
「藤さん? ここはキャンピングカーよ」
「え、知らないわ。帰らせて。お母さんが待ってるの」
 藤さんは思い詰めた顔でメグを見て、夏掛けを乱暴な仕草で膝から払いのけると、二段ベッドの天井の低さを忘れて起き上がったので、ごちんと音をたてておでこを天井にぶつけてしまった。もちろんデラックス装備だから、ベッドの天井にはこうした寝ぼけ事故防止のために柔らかな衝撃吸収材がはりめぐらされている。が、藤さんはおでこに手をあてて泣き始めてしまった。
「痛いわあ、もう帰るおうちに帰るお母さんどこ、お父さんは」
「藤さん、藤さんの家って」
 慰めようがなく、メグは困り果てた。藤さんは自分の名前も住所も忘れて野川家に闖入してきた。藤さんの家が東京獅子ケ谷の野川邸ではないことはわかっている。
「お母さん、うちに帰るのあたし」
 藤さんは大粒の涙をぽろぽろとこぼして子供のように泣きじゃくった。ピンクのパジャマを着たまるい肩を揺すって、本当に悲しんでいる。メグはおろおろしたが、こういう場合にあらかじめ泰地に言い含められていたとおり、藤さんの混乱を否定しないように、理性でひたすら優しく慰めた。
「そうね、家に帰りましょうね」
 藤さんは顔を上げてメグを見つめ、ちょっと嬉しそうに、
「お嬢ちゃん、可愛いわね、白い顔。あなたはあたしのお姉ちゃんなのね?」
 メグは絶句したが、ともかく頷いた。藤さんが何をどう取り乱しても、決して否定してはいけない、と泰地に言われていたからだった。うなずきながらメグは携帯で上階に寝ている泰地をコールした。
「藤さん、待っててね、今優しいお兄ちゃんが来るから」
「家に連れてってくれるの? あたしのお母さんとお父さんが待ってるの」
「そうよ、大丈夫藤さん」
 泰地はすぐに降りてきた。
「藤さん、どうしたの?」
「お母さんがいないの。あたし家に帰らなくちゃいけないわ。帰りたい」
 泰地は藤さんの手をとり、
「今、僕らはみんなで藤さんの自宅に向かっているんですよ、大丈夫。まだしばらく時間がかかるけど、じきに着きます」
「え、そうなの?」
 藤さんは両目をまるくした。泰地は涙に濡れた藤さんとしっかりアイコンタクトしながら、額にも口許にもあまり皺のない、肌のきれいな藤さんの顔を眺め、
(いったい藤さんはほんとのところ何歳なんだろうな)
 と考えた。高齢者の容貌容姿はそのひとの歩んできた人生によって大幅に左右される。生来の美醜器量はもちろんだが、ある年齢を過ぎると、確かにどこかの偉人が残した格言のように「四十歳以降の顔は自分が作る」ということがリアルに真実だと実感する泰地だった。この偉人が格言した時代よりも、富裕な人類の平均寿命は十五年ばかり延びているので、現代ならさしづめ五十代以後とでも言うのかもしれない。
 野川邸に突然迷い込んできた藤さんは、たるんだ顔の輪郭、全身の衰え、いくつかの基礎疾患などから、大雑把に七十代だろうと推定したのだが、日常大勢の高齢者に接している泰地には奇妙に感じられることがある。
(糖尿なのに全歯揃っている。虫歯もない。片麻痺、だけど爪水虫がない)
 手足の爪が変色、肥厚する爪白癬は六十代からぼつぼつと始まり、八十歳ではまず罹患していない高齢者はいないといえる疾病だが、藤さんの爪は全部きれいで薄く、すべすべしている。それに外反母趾もないのだった。
(七十代としても若い盛りにはきっとおしゃれなハイヒールなんか穿いた世代だ。それなら足の変形があるはずなのに)
 藤さんの両足は奇形なほどちいさく、泰地の手のひらに片足がすっかり乗るほどのサイズだ。くるぶしも踵の皮膚も柔らかい。
(谷崎潤一郎なんかが藤さんを見たら、大喜びしそうな手足をしてるよね)
 泰地が握っている藤さんの手の皮膚は足以上になめらかで、多少枯れてはいるものの、世間普通の労働や家事で鍛えられた気配がない。これもおかしなことだ。高齢者の皮膚は、陽射しや外気に長年さらされ、かつ使用頻度の高い手の皮膚のほうが、靴下や靴で保護される足より窶れているのが当たり前だからだった。藤さんのように片足麻痺の歩行不自由なら、なおさらだ。
「お母さんどこにいるの? 帰りたい」
 なかなか嗚咽のとまらない藤さんが鼻水と涙をいっしょに啜り上げたのでメグがティッシュを渡した。
「ありがとうお姉ちゃん、お姉ちゃんといっしょで良かったわ」
 うん、とメグは泰地のうしろからおずおずと笑って見せた。
 泰地はメグを振り返り、囁いた。
「おしっこ漏らしてるかな。ちょっと交換しようか。カラーボックスからリハパンとウェット持ってきてくれる? それからパジャマの着替えも。一応上下で」
 はい、とメグは体を退いた。
 キャンピングカー後部には急場しのぎのトイレットがあった。狭苦しいのでクルーの誰も滅多に使わないのだが、こうした緊急微妙のプライバシーには大助かりだ。
 普段使われない個室には空調も届かず、湯  
のような熱気が籠っている。泰地は藤さんの下腹部に淡く浮き出たケロイド状の帝王切開オペ痕をちらりと眺め、つぶやいた。
「帝王って、シーザーだよね。彼の出生がこうだったから」

 甲州街道、国道二十号線に入ると交通量はやや増えたが、高速道路に乗り入れるほどではないと駿男は判断した。彼の目測は正しくて、甲府市郊外を南に大きく迂回するバイパスを走りぬけ、釜無川を左手に見る韮崎あたりからは、もう前後の視界まばらに車両の少ない快適な走りで県境へ向かった。時刻は六時前、まだ通勤ラッシュには遠い。
「ほんとに山が綺麗ね」
 亜珠子は眠い眼を見開いた。丹沢山系の青い稜線を遠く眺める程度の海沿いの神奈川鹿香、また関東平野からやってきた者に、富士山麓、南アルプスを擁する山がちの風景はどこもかしこも新鮮だ。緑深い夏山の裾には素朴な部落、街並みが小さなおもちゃのように遠近に集まり、ゆったりした山肌に朝陽と雲の影の映り行きがくきやかに見える。空はもう青かった。今日は朝曇りにならず、削りたてのかき氷のような純白の厚い雲が濃青の画面に威勢よく湧き出ている。熱帯の空だ。
「あれ八ヶ岳だよ」
 駿男は嬉しそうに顎をしゃくった。西の方に淡い青紫の山影が見え、亜珠子は思わず胸が締め付けられるほどのなつかしさに捕えられた。それでつい溜息のように、
「帰ってきたわ」
「そう思うの? やっぱレノン君」
 亜珠子=レノンは少し険しい顔つきになった。表情と同じくらい少し投げやりな口調で、
「僕は生まれたときから心臓が悪くってろくに外出なんかできなかった。そうして六歳になるかならずでコーマに突入。だから肉眼でこの位置から八ヶ岳を眺めるなんて経験は皆無なはずさ。だけどパパの言うとおりなつかしいよ、何故だろう」
「それじゃ君の御先祖の記憶が君の中でなつかしがっているんだろ」
 レノンは顔を動かさず眼だけで駿男を横目で見、口許をぷっとふくらませて長いこと返事をしなかった。
(あれ、僕なんかヤバいこと言ったかな) 
 と駿男は頭の中で首をひねったが、何がレノンの癇に障ったのかわからないので、触らぬ神に祟りなしと、ここはとぼけてCDをかけることにした。
 泰地とジンさんが入れっぱなしだったシャワーのCDがひとまわりする頃、車は白州の道の駅に到着した。
「トイレ休憩しよ。あとコーヒー欲しい」
 駿男が気を使って朗らかに促すので、亜珠子はさっきの不機嫌が嘘のような笑顔で応えた。
「何か買いましょうか。お腹すいたでしょ? でもまだ売店開いてないわ」
「コンビニあるでしょ、そこでおにぎりかなんか適当に」
 本体のクルーのほとんどはまだ眠っているようだったが、駿男は起こしに行った。
 道の駅の飲食店はまだ閉まっていたが、ちょうど地元農家の朝市が開かれている。朝摂りの夏野菜、果物、花卉などが駅の一隅に所狭しと並べられている。近隣の住民や車で乗り込んだ観光客がぱらぱらと集まっていた。
 買うつもりはなかったが、人集まりの賑やかに惹かれて亜珠子はそちらのほうへ足を向けた。
 いくつもの発泡スチロールの容器に水を張り、大小の金魚を売っている娘がいた。金魚は素朴な和金で、一つの水槽に数匹派手なランチュウの幼魚が混じっている。夜店の金魚掬いの水槽と同じだった。
 水槽の前に座った娘は、農作業の様な鍔の広い麦わら帽子をかぶり、白いスカートを穿いている。帽子の影にかくれて顔は見えないが、腰かけた体全体の感じが幼くて、他の野菜果物売りの女たちとは異質な感じだった。
「おはよう」
 亜珠子は声をかけてみた。
「いらっしゃい」
 帽子の影から娘は答えた。顔は見せない。
「この金魚はここであなたが養殖したの?」
「ええそう」
 娘の答えはぶっきらぼうだった。が、亜珠子はどういうわけか立ち去りがたく、
「育てるのは大変でしょ?」
「そうでもないの。金魚はしょっちゅう生まれるからね」
 黄色い麦わら帽子がゆらゆら揺れた。笑っているのか、と亜珠子は思った。
「しょっちゅう生まれるって、どこで?」
「こんなふうに」
 娘はかぶりをふって麦わら帽子を頭からふり落とした。さあっと一陣の風がその麦わら帽子を天高く吹きあげ、朝陽の位置と等しい高さで帽子はくるくると踊った。
 ほら見て。
 娘は顔をあげて亜珠子を見た。亜珠子は息を呑んだ。娘には顔がない。何か得体の知れない靄のようなものが漂い、娘の顔立ちをわからなくしている。鼻も口も見えないが、ただ彼女の両目のありかはわかる。娘はつぶらな瞳を大きく開いて亜珠子を見つめ、ほろほろ、はらはらと泣き始めた。大粒の、水晶のような真珠のような涙が、ソフトフォーカスにぼかされた娘の頬を次々と流れ落ちる。
 朝日を受けて涙の雫はきらきらと輝き、ティア・ドロップのしたたりが透きとおった尾を引いて娘の膝にこぼれ落ちた瞬間、ひとつぶづつに手足が生え、小さな子供の姿に変わった。透きとおった子供だ。
「涙が、こびとになった」
 亜珠子が驚くと、娘は泣きじゃくりながら、
「これはあたしの赤ちゃんなの。こうしてたくさんたくさん生まれてくるのにみんな金魚になってしまうの」
 涙から生まれた透明な子供たちは、娘の白いスカートの上で、仲間同士しばらくじゃれ合っては、すぐさまぽちゃんぽちゃんと水槽へと飛び込んでゆく、いや落ちてゆく。水に触れるとそれらは一瞬虹いろの波紋となり、瞬きする間に金色の小魚に変化してゆくのだった。その様を見つめて娘は両手で顔を覆って激しくしゃくりあげた。
「あたしの涙ちゃん、みんな魚になってみんな殺されてしまう」
「なんですって?」
 亜珠子が顔色を変えて娘にその意味を問いただすと、彼女はさっき風に吹き上げられ、今また空から降ってきた麦わら帽子を両手でつかみ、目深に被って顔を隠してしまった…
「道の駅だよ、白州に着いた。一服しよ」
 駿男はうたたねしている亜珠子の頬をつついた。

「河口湖から白州まで三時間なら上等だ」
 車から降りてくるなりジンさんは寝くたれて皺が寄ったパーカーのポケットからジタンを取り出すと、両手で風を庇いながら燐寸で火を点けた。
カーキ色のチノパンにダークグリーンのハイキングシューズ、パーカーはシックなブルーグレイで袖口と首回りに黄色とグリーンの縁取りが洒落ていた。就寝時もそのまま着替えないごろ寝は銀座のギャラリー番の時と同じで、上も下もみんなすっかりよれよれだが、結構高価なブランドものをわざとくたびれさせてひけらかすところまで、ジンさんの衣装は彼の重要な舞台衣装だった。その上、その人寄せパフォーマンスは何故かたいてい成功するのだった。
「この風は八ヶ岳下ろしかね?」
 ジンさんは今日の猛暑を告げる朝曇りに霞む東西の空を見回し、誰にともなく尋ねた。ぼさぼさしたジンさんの赤ッ毛が風に吹かれて乱れ、鼻と口から吐き出す煙草の煙と眠そうな表情とあいまっておかしな感じだった。
「違いますよ、八つ下ろしってのは冬の北風でしょお?」
 駿男は早速コンビニで買ってきた缶コーヒーをぐびりとうまそうに飲んで言った。
 起きてきたのはジンさんだけで、あとのクルーは出てこない。莉珠子は午後にならなければ目覚めないし、泰地にメグ、藤さんは出発早々に起こった藤さんの帰宅願望騒ぎの始末でくたびれて、ぐっすり眠っていた。
 亜珠子=レノンは男たちから離れて道の駅のマーケットのほうへ歩いて行った。全面シャッターが降りている。それもさっきの夢と同じだ。樹々に囲まれた広い駐車場には七、八台停まっていて、それらはみな観光目的らしかった。
 マーケットの裏手はすぐに山に接していて、蝉と蜩の大合唱がもくもくした白雲にも劣らない盛大さに湧き上がっている。一面の濃い夏の緑の中に、ところどころ百日紅や凌霄花の赤が点在していた。ここ北斗市は標高が河口湖ほど高くないので、朝七時過ぎのこちらの風に冷たさは感じられず、水田と森の匂いが波のように風に乗って渡ってくる。
 旧甲州街道はうねうねした山並みに沿ってひらかれており、武川あたりからここまで道路のどちらかの片側の谷間は必ずすっきりと豊かな田園風景が整えられている。みはるかす平野ではなく、入り組んだ崖や岩壁にはさまれた内陸風景だが、黒や赤茶色の岩肌と萌黄に緑の水田、温帯樹林の対比が非常に美しく、都会人でなくとも眼が洗われる景色が延々と続いている。ここにはまだ針葉樹はほとんどない。下生えのさかんな草むらから時折ぴょいぴょいとバッタが飛び出す。
 マーケットの周囲をゆっくりと歩きながら亜珠子はしらじらとした朝陽を浴びているコンクリートの駐車場を見回した。あの娘が座っていたのはどこらへんだったろう。もちろん朝市などはない。
(僕の見る夢は人間普通に見る夢じゃない) 
 亜珠子=レノンは真っ白な紙に、切先をぴんと削った鉛筆をまっすぐに下ろす気持で断定した。
 マーケットと裏手の野山を隔てる垣根には紫の朝顔とピンクの昼顔の両方が絡んでいる。昨今は長生きの朝顔が何十と咲き連なり、昼顔はまだつぼんでいる。この垣根の前あたりに娘は白い水槽を並べていた…。周囲には農家の女たち、男たちが野菜果物を売りさばき、少し隔たったところで彼女は透きとおった涙を金魚に変えた…。
(出て来いよ。君はここの地縛霊か、亡霊か、それとも森の妖精なのか? 人間に蹂躙され、踏みにじられ、抵抗できずにただ透きとおった涙を流し、その涙にまた生命を吹き込み、そして悲嘆から生み出した無垢な生命さえも身勝手な人間の暴力によっておもちゃにされ、むざむざと殺されてゆくのを見守っている白州の森の精なのか?)
 あっちゃんレティ飲まない? と肩ごしに駿男さんが檸檬紅茶の缶をくれた。亜珠子は何食わぬ笑顔で駿男さんから受け取り、ウインクのハートアップサービスも忘れなかった。
(メグが寝ててよかったよ。あいつがいたら僕の今の心を読まれちまう)
 檸檬紅茶は適度に冷えており、外気よりも激しい無言の激情に熱した喉に快かった。
(赤ちゃん、子供、嬰児、胎児……この旅の始まりからまつわりつく大量嬰児殺人ヴィジョンのリフレインは何だ? まるで新約聖書のヘロデ王の男児虐殺じゃないか。レノンは母親を恋しがっている。ほんとか? 僕は本当に自分自身の感情で、僕を茅野の病室に置き去りにした安宅依子を慕っているのか?)
 わかるもんか。亜珠子と同一化した僕の動機が真実かどうか、なんて。
(それに僕は聖書を繙いたことなんか…)
再び自分の想念に入り込む亜珠子の思考を認識したレノンは、考えるのが煩わしくなり、思い切り喉を逸らせて缶紅茶を飲んだ。
「わあ、お姉ちゃんすごい長い髪」
 親から小銭を貰って自動販売機へ駆け寄ろうとした五歳くらいの男の子が、人なつこい笑顔で傍に来ると、短い手でいきなりむんずと亜珠子の髪の端をつかんだ。陽に灼けた頬の血色が黄桃のように可愛い。
「僕はどこから来たの?」
 亜珠子は嫌な顔をせずに尋ねた。
 あっち、と男の子が駐車場のどこかを指さしたとき、八ヶ岳を包む青い夏空から緑の匂いの風がまた来て、男の子の帽子と亜珠子のロングヘアを、まるで白い入道雲に届けるかのように、同じ高さに吹き上げた。

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