さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

スポンサーサイト

Posted by 水市夢の on

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ソフトドリーム・ロジック  Pth 11

Posted by 水市夢の on   0 comments   0 trackback

   ソフトドリーム・ロジック

 白樺湖に到着したのは九時半ごろだった。当初の目的地は諏訪だったが、白州を出てしばらくすると、レノン=亜珠子は突然、
「ミカエル病院はどうなったかな」
「どうなったって? あるでしょ今も」
 駿男のあたりまえすぎる返事は、自分がボディ・ジャックしたはずなのに、サブリミナルな領域に亜珠子のそこはかとない逆侵入をちらちらと意識し始めた不安なレノンの耳に快く聞こえた。
「諏訪じゃなくて茅野に寄ってよ。いえ、どうせなら観光したいから白樺湖に。諏訪は午後からでいいわ。その頃には莉珠子の眼も覚めるし」
「懐かしいの?」
 駿男はメグやシーラのように次元を超えて裏世界のパラレルに入れるわけではないから、三年前、星隷ミカエルで昏睡していたレノンが、眠りの中で白樺湖に自分の鬱屈した感情をオーヴァーラップさせ、老若男女沢山の人間をネガティブな感情の水底に捕えて、退屈しのぎの遊び相手にしていたことまでは知らない。
「そうだよ、見てみたいんだ」
「りょーかい」
 駿男は安請け合いしたが、河口湖から甲府盆地へ降る九十九折の冷や汗を、ルート152の登り急坂で再び流す羽目になった。
 蓼科高原は富士山麓とは違い、カラマツや樅の木などの針葉樹が圧倒的に多い。円錐形の深緑の樹冠をいただく薄茶色のまっすぐな幹が、下草の少ない地面からすっすっと林立する禁欲的な森の眺めは、真夏の季節にも厳寒の雪景色を偲ばせる。
 落葉、広葉樹を雑多に内包した青木ヶ原樹海の森影よりも、こちらは深緑の密度が濃く、下草が少ないのに、車窓から森の内側を覗いても、一メートル向こうの梢のそよぎや木洩れ陽が見透かせない感じだ。
 冬にゲレンデに変わる山は、夏の観光シーズンの今、一面なめらかな黄緑の芝に覆われ、そうでない自然な山並みの濃緑とあざやかな明暗対比で重なり合っていた。車を降りるなり、ここも天地を満たす蝉の声が暑さと一緒に耳に被さってくる。
「意外とこじんまりした湖だ。ほんとに白樺がいっぱい生えてるぞ」
 運転しながら駿男が珍しそうによそ見するので亜珠子はひやひやした。
「パパさん、休憩したいならちゃんとクルマ停めてよ」
「休憩って、こっちへの道草はそもそも君の希望だぜ。後ろのクルーなんかてっきり諏訪湖に着いたと思ってるだろ。彼らが起きてたら、だけど。どこかお目当てあるの?」
「ない。まだ十時前だし、どこのアミューズメントも開いてないから、散歩でもしようかな。ボート漕ぎくらいできるかも」
 りょーかい、と駿男は手頃な駐車場を探した。
 湖畔3・8キロの白樺湖は、もと農業用貯水池の人造湖というが、高原の真ん中に拓かれた緑の水のたたずまいには人工の不自然が感じられず、気品があった。戦国時代に武田信玄の本陣があったという、湖に張り出した小さな出島にメグを連れて踏み入ったレノン=亜珠子は、ごく自然につぶやいた。
「僕がみんなをひっぱりこんだ水はリアルではこんなに綺麗だったんだな」
 メグは睫毛の下から亜珠子の細い顎を透かし見て、
(レノン、罪悪感がないのね)
「ないよ。だって彼らの大部分は生きていたって死んでいたって同じようなものだったんだから。いてもいなくてもどっちでも」
 レノンは強い口調で断定した。メグの心の声はすぐさまレノンに聞えてしまう。メグは
「今もそんな風に物事を見てるんだ」
「なんだよ、僕をなじるのか? 死んだほうがましな連中、世間に害毒しか流さないろくでなしなんか腐るほどいる。僕が正義の味方だったら、月光仮面よろしく悪党どもを残らずパラレルに吸い込んでやったかもしれない。人間掃除機さ。だけど生憎僕は善玉じゃない。僕は僕の気に入った奴と遊びたいだけ」
 そこでレノンはちょっと間を置き、ゆがめた唇に皮肉な笑を浮かべた。
「だった、ってことにしておく。でないとメグがうるさいから。サイコ・ヒーラーとかなんとかいい子ぶって」
 メグは亜珠子の顔とは違うほうへ視線を逸らせた。出島の真ん中に大きな石碑がある。石碑の周囲を数本の白樺が囲み、辺りには白樺林独特のさわさわ、さやさやとレース織のような影が、高原ならではの透明感のある陽光に踊っている。メグは赤いコットンのサファリハットをかぶっていた。
「可愛い帽子ね、パパが買ってくれた?」
 さきほどの辛辣とはうってかわった優しげな口調は亜珠子のものだった。
「自分で選んだの」
「へえ、誰と一緒に?」
 またたちまち豹変して軽い苛立ちの混じるしつこい詮索は、亜珠子ではなくレノンだ。
メグはわざと眉を寄せて怒って見せた。
「レノンはずっとあたしの中にいたんだからわかってるはずよ。そういう言い方って…」
 メグは適切な言葉を自分のボキャブラリーの中から探すためにちょっと息継ぎした。
 あらさがしをするようにレノンは促す。
「どんな言い方?」
 メグは困って周囲をあちこち見回した。出島の水際ちかく、誰かが仕掛けておいた釣り竿が目に入ったので、インスピレーションのの助けを借りてとりいそぎ、
「釣りあげた魚に、今夜おまえを食べてもいいかって、わざわざ訊ねる釣り人みたい」
 
 白樺湖エンジェル美術館に入ると、展示室の四方八方、天井から床まで、大小さまざまな天使のフィギュアのひしめきに圧倒される。
 派手なティア・ドロップがいくつも垂れ下がった大きなペンダントシャンデリアが中央に輝くギャラリーの天井は、ローマかヴェネツィアの寺院のカリカチュアのような白い円蓋になっていて、ラファエルロやミケランジェロの天使の画像コピーが、ボチチェルリ風の花々と一緒に、ギャラリー壁面の至るところに焼き付けられている。
「すごい、全世界の天使像の模型を集めたんですって」
 メグは嬉しそうに展示室正面の大天使ガブリエル像の横に立った。ところどころほのかに薔薇色とクリーム色がマーブルで混じる白い大理石を彫り上げたその彫刻は、美術史に名を残した作家の作品ではないが、レオナルド・ダ・ヴィンチの天使像によく似た巻き毛と丹念な天衣の襞、百合の花を片手に持ち、片膝をたててひざまずいた姿は、人間が望む天使の要素を全て表現しており、清らかで優雅だった。 
 駿男さんは彫像の足元の金属板に刻まれたカリグラフ入りの説明を読み上げた。
「ガブリエルは神の使者って意味だって。妊娠や出産を癒しぃ、肉体を持った地上のメッセンジャー、ええと作家や教師、ジャーナリストを導く」
「このポーズは受胎告知、アヌンツィアータの姿ね」
 亜珠子はそっと天使の頬に指を伸ばした。細い中指は彫刻には触れなかったが、ジンさんは亜珠子の指先と彫刻の肌の白さがほぼ等しいことに目を剥いた。
(そりゃそうだ、二十何年眠ってれば肌もガラスに透きとおるよ)
 チェーンスモークがやめられないジンさんは、喫煙室はどこかときょろきょろし始めた。
 駿男さんは続けて読み上げた。
「受胎告知とはぁ、いいメグ? パレスチナの農家の娘だった少女マリアに彼女がキリストの母になることを伝えたものである」
「パパ、ここに書いてある」
 メグは得意げな父親の顔を呆れたように見上げた。駿男はびくともせず、
「そう、君のために僕読んであげたの。そいでこの単純なトリセツにあらためて僕が付け加えるとだね、僕が神父さんに聞いた話だと、聖母マリアって十五歳でキリストを産んだんだけど、貧しい農民の娘マリアは、ダビデの子孫で、つまりそのなんだ、アダムとイブの元祖人類以降、神の造りたもうた被造物の女の中で最高傑作なんだって」
「パパ、トリセツって使い方違うよ。ただの説明書きだって」
「あそ、つまり僕が君たちに伝えたいのは、神の母となった処女マリアというひとは、クレオパトラよりも楊貴妃よりも優れた美女だったってことだよ。つまり彼女を超える女性は人類に誕生してないってわけだ」
 十五センチヒールを穿いた亜珠子は金色のピンヒールの頂上から富士の裾野を見下すような視線を駿男に流し、
「パパさんには大天使ガブリエルのメッセンジャー守護はないね」
「そお? 僕は妊婦じゃないし作家でもないからね」
 亜珠子=レノンの軽蔑も柳に風と駿男は肩をすくめると、
「メグ、天使といっしょに写真撮ろう。そこに台座があるじゃないか。撮影スポットになってる。もしかして聖母マリアの立ち位置かな。あっちゃんも一緒に。ジンさんはいいから、そっちで煙草でも喫っててください」
 ガブリエルの斜め前に備え付けられた椅子にメグは腰を下ろした。そこは天使の正面ではないから聖母の位置を冒すことにはならなかったが、天使が片手に持った百合の花弁の延長線上に、ちょうど椅子に座ったメグの顔の高さがぴったり重なる構図になった。それ偶然に違いなかったが、その小さな調和のおかげで、スマホ画面の天使とメグは、ぴったりと一枚の絵におさまった感じになった。
 亜珠子はガブリエルの後ろに回った。
「ガブリエルが屈んでいるのにあたしが立っているのは失礼?」
「そうでもない。あっちゃんの服も白いからガブリエルとうまくマッチしてるぞ」
 彫刻、絵画、作家作品の豪華なビスクドールエンジェルからフェティッシュなフィギュアまで、世界各国から玉石混交で集められた
エンジェル美術館はキッチュだが遊園地のような楽しさでみんなを飽きさせなかった。もっともジンさんは入館後十分で煙草を吸いに庭に出て、その足で日帰り露天風呂に駆け込み、花と天使の美術館には戻ってこなかった。
泰地はコインシャワーで藤さんの洗身介助したあと、またキャンピングカーに戻り、インスタントラーメンで腹ごしらえを済ませた後、ジンさんと同じ露天風呂に出かけた。泰地が脱衣場に入ったとき、ちょうどジンさんが天然サウナから休憩室に出てきた。休憩室は脱衣場と暖簾一枚でつながっている。洒落たカウンターのあるフレンチスタイルの軽食コーナーは、過当競争の観光地だけに豊富なアラカルトだ。
「メシ喰ったの?」
 泰地と顔を合わせたジンさんは偶然に驚かない。
「インスタントラーメン食べました。ここ 
いろいろありますね。なんか食べようかな」
 泰地も当然のように答えた。
「俺もさっきここで定食食べたんだけど、喉乾いたな。このサウナ地下百メートルからの天然温泉で蒸し上げるって快適だぜ。芯から疲れがとれる。風ちゃんにも勧めようっと」
「いいすね。今度は僕運転しますから」
「何食べる? 俺おごるよ」
「んー。じゃあアイスクリームかなんか」
 ジンさんはカウンターに行き、自分用にはソフトクリームの山盛りコーヒーゼリーを注文し、泰地にはオレンジココナッツアイスクリームを頼んだ。その後ジンさんがウエイトレスからしっかり領収書を取ったのは言うまでもない。
「それで君社会なんとか士に合格したらどうするの?」
 ジンさんはまず、ソフトクリームのとんがったてっぺんにがぶりと食いついた。
「どうするって?」
「とぼけんな。シャンプーもう三十だろ。あの子はばりばり堅気でしかも耳が悪い。いんちき土建屋のオヤジはともかく、おっかさんがしっかり者だからうまく育ったよ。ミネちゃんを疑うわけじゃないが」
「ちゃんとしますよ」
 珍しく泰地はジンさんの言葉の腰を折った。
「それから早織のお父さんは土建屋じゃなくて建築士です」
「どっちだっていいよ。スイスに女としけこんで帰ってこないんだ。あのおっかさんも再婚せずにもったない話だよ。俺がこんなに引く手あまたじゃなかったら嫁さんにしたいって長年狙っていたんだぜ」
 泰地は口の中のカシューナッツのかけらをガリリと咬んで笑った。大人の表情で髭づらの泰地は笑った。
「すごい論理の飛躍ですねジンさん。ジンさん火宅の人が理想でしょ」
「理想じゃなくて、まあそれは言ってみれば人生のコマーシャルさ。俺リアリストだから
女に酔えないんだ」
 泰地は返事をせずに立て続けにアイスクリームをしゃくって口に運んだが、内心では
(そうかもな。ジンさんが火宅の人だっていう理解より女に酔えない酔っ払いって了解のほうがヒットする。ランナーなしのツーベースヒットだ)
 アイスクリームを二三回呑みこむ間に、泰地はシャンプーと仲のよいジンさんの娘の顔を連想した。二人は同い年だ。
(このでたらめオヤジさん、出来のいい娘を持ったもんだ。とはいえ彼が育てたわけじゃない。それも早織と似てる)
「ジンさん僕ね、もう少ししたらドイツにしばらく行きたいんだよ」
「それはまたどうして?」
「一年くらいかけて、ブレーメンとかデュッセルドルフとかに連立しているベーテルって福祉国家を見てきたいんです」

 針葉樹林が切り開かれた高原の高台にコスモスの群れは夢の連続のように風に揺らいでいた。天気予報では東シナ海から台風何号かが北上中ということで、一面に広がる花の群落をざわざわと、時には抉るように深く揺さぶる風の乱れはその予兆に違いなかった。
 空はまだ抜けるようなコバルトブルーだ。雲の移動も風脚に比例して早いが、嵐を告げる黒雲ではなく、虫捕り網を握った少年がその純白の頂に駆け昇りたいと願うような入道雲、内部に別世界の古代遺跡を秘した天空の城の姿で、どっしりと動いている。
 コスモスの丘の向こうに星隷ミカエルの礼拝堂の十字架が見えた。
「銀座のパラレルはやっぱここか」
 ジンさんはパーカーを丸めて小脇に抱え、傍らの亜珠子を見た。蜩と蝉の大合唱、時折オーシーツクツクの独唱が平板な斉唱を貫いて、ひときわあざやかに青空へ抜ける。数十匹のトンボが、コスモスの上空を、逆風に羽のかたちをゆがめながらも力強くジグザグに飛んでゆく。
 日傘に帽子、手袋の完全装備の亜珠子は車内でエナメルのハイヒールからスニーカーに穿き替えていたので、上背は隣のジンさんより低くなっている。なので亜珠子は不本意ながらもジンさんを見上げ、
「ここだけど、ここだけじゃないと思う」
「そのかっこいい台詞はレノンだな」
 ジンさんはサングラスを外して顔の汗を拭いた。高原のさらりとした暑さだが、午後一時の直射日光真下に空調完備のキャンピングカーから降り立てば、たちどころに背中も首も汗まみれになる。
「亜珠子はかっこよくなかった?」
 レノン=亜珠子はポシェットに提げたスポーツドリンクを一口飲むと、ボトルをジンさんに渡した。ジンさんは黒いレンズ越しに亜珠子を数秒見つめ、
「いいの?」
 亜珠子もサングラスをかけていた。薄い唇に深紅のルージュをきっちり塗っている。白い顔に日傘の影が青く見える。感情を見せずに彼女は揶揄するように、
「昔のよしみ」
 ジンさんは頷いてボトルを口にあてた。
 亜珠子を先頭に、ジンさん、メグ、泰地が続いた。藤さんと駿男は眠っていた。
 夏草の丘の上に聖堂上部のステンドグラスが見え始めたところで亜珠子は呟いた。
「改築したんだ」
 かつて古風な煉瓦を積んだ星隷ミカエル病院は、以前のままの礼拝堂を片側に残して、病棟部分はいかにもそれらしいクリーム色の四角い二階建てに変貌していた。夏草とコスモスの花園は病棟周辺のコンクリート舗装で終わり、エントランスにかけて、プランター栽培の向日葵やダリア、サルビア、百日草の寄せ植えなどが雑然と並んでいる。人気のないガラス張りの正面玄関前は、土を盛り円形に芝生を敷いた花壇で、枝ぶりのよい紅白の百日紅が盛りだったが、歩道から病棟周囲に植えられた樹木や、備え付けのベンチの景色はいかにも新しく若いのだった。
 亜珠子=レノンは迷わず受付に行った。
(三年は人間世界の物事が変化するのに十分な時間だ)
 たった三年、その間にレノンは死に、羽戸千香子はここを去り、レノンが眠っていた病棟は失われた。
「こちらに三年前に入院していた安宅さんの親族ですが、中に入れませんか?」
「申し訳ありませんが、ご予約のない方は面会できません」
 受付嬢の隣に顔を出した看護師のユニフォームは以前と同じ淡いピンク色だった。付近に診察待ちの患者の姿は見えない。クーラーは適度に効いていたが、節電のためホール全体薄暗くがらんしていた。もともと外来患者はほとんどなく、終末期医療と特別養護老人ホームを兼ねた施設だった。
 亜珠子=レノンはこの返事を予想していたので、
「そうですか。以前お見舞いに来たときとずいぶん病院の感じが変わりましたね」
「あら、ご存知なかったんですね。二年くらい前に火事で病棟部分のほとんどが焼けてしまって。厨房から火が出たんです。そのころは病棟も昔の造りだから、あっという間に燃え広がって、麓から消防車が駆け付けたときはもうお手上げ。スタッフの努力で患者さんたちは全員かろうじて無事でしたけど。火災現場と中庭を隔てていた礼拝堂だけはまるまる残ったんです」
「綺麗な病院でした」
「はい、惜しいことですけど。その後皆さんの尽力ですぐに新しい病棟が建ちました」
「良かったです。特養だけじゃなく、精神科も開設したんですか?」
 亜珠子は受付の隣に掲示されているミカエルの病院案内を横目で見て尋ねた。
「ああ、老人ホームは閉鎖したんですよ。今は昏睡状態の患者さんと、心を病んだ方のみ受け入れています」
 亜珠子は病棟の長い廊下を見透かした。待合室の向こう側ずっと回廊が続き、突き当りにアーチ型の扉が見えた。円形のガラス部分はステンドグラスになっていて、赤と青の色ガラスで聖母子がかたどられていた。普通に出入りするには厳かすぎる気配を感じて亜珠子は、
「もしかして閉鎖病棟ですか?」
 看護師は微笑だけで頷き、付け加えるように、精神病院の受付はこちらの病棟の反対側になっています、と言った。
「聖堂には司祭さまがいらっしゃるの?」
「いいえ、日曜日の午後だけ、茅野から出張されます。信者さんですか?」
「いいえ、いえ、そう、いいえ」
 亜珠子=レノンは言いよどんだ。YESとNOの相反する感情が入り混じる。喉元を誰かの手で締めあげられる息苦しさを感じ、
「ありがとうございました」
 とだけ言ってくるりと背を向けた。看護師は奇異な顔をしているだろう、とレノンは考えた。自分の胸元や後頭部で、何かがねっとりと暴れ出している感じがする。記憶を司るなら海馬か、それはじゃじゃ馬か、温和で優しかっただけの亜珠子ならレノンが引き据えて支配してやる。
(亜珠子、ジンさんと好い仲だったのか)
 何度かね、ほんのちょっとよ。
 かすかな囁きが聞こえる。レノンはかっとなった。彼女が目覚めてきた。意思と力を取り戻し、レノンに反抗してくる。
(君は聖少女だと思っていたよ)
(七十一歳のおばあちゃん。莉珠子の母親)
 きれいなソプラノだ。十八歳の乙女の声。
(君の脳味噌なんかすっからかんだぞ)
 ふふふ、とコスモスの繁みを風がなぶるような笑い声がレノンの鼓膜を撫で、レノン=亜珠子は全身に鳥肌が立った。目の中に虚空飛び散る幾百のコスモスの花弁と、色蒼ざめた嬰児の顔が錯綜する。足元はいつしか深淵の闇だ。大地が突き抜け黒い山並みの向こうに吸い込まれてゆく砕けた月光のかけらと、虹の燐光を帯びた顔たち。それも子供だ。
(ユダヤの王の誕生を恐れたヘロデはその年に生まれた男の子すべての虐殺を命じた。マリアとヨセフは天使の守護を得て逃れ……)
 これは僕の知識じゃない、とレノンは叫んだ。僕は神なんか知らない。僕はここで母親に見捨てられ、六歳から三十三歳までただ眠り続けたアウトサイダーだ。レノンの体なんかとうに死んじゃっても僕は死にたくないから君の肉体を間借りしている。それが気に食わないの亜珠子?
「おい、あっちゃん、気が付いたか?」
 顔をあげるとジンさんに寄りかかっていた。
それから、耳にはふたたび蟬時雨。
 蝉時雨があざやかなほど真夏のその場所は静寂ということなのだった。
 冷房はなく、窓が開いている。意識がはっきりするにつれ、開け放たれた窓の外から蝉時雨に混じって土鳩の声も聞こえてきた。
「礼拝堂、いつのまに?」
「いつって、自分からこっち来たいって言ったんだぞ、あっちゃん」
「そう」
 亜珠子はジンさんから離れて信者席の椅子に身を起こした。ほのかな淡黄いろの光の灯る内陣と飾りのついた白い円柱、祭壇背後の壁は左右対称に刳り抜かれて黒と金で縁取りされ、祭壇と信徒を見下ろすような天井高くに、数体の古びた聖人像が配されている。正面の聖櫃にはキリストの体であるホスチアが入っているはずだが。
(日曜日じゃないから今はカラだ)
「みんなは?」
「適当に散歩してるか寝てるんじゃない」
「なんでジンさんだけついてきたの?」
 サングラスを外してジンさんは怪訝な顔をした。
「覚えてないのか」

 あそぼ…
 はかなげな呼び声が耳元に聞えて、ちょうど眠りが浅くなっていた莉珠子は、簡易ベッドの中で背伸びをしながら声のほうに寝返りを打った。なぜだかわからないが久しぶりの熟睡感があり、手足の先までいい気持ちだ。
「遊ぶ? 今何時あっちゃん」
「ほら、これを見て」
 声の主を探す莉珠子の顔の真ん中に、いきなり緑の毛虫のような猫じゃらしとコスモスの束が突きだされ、わっと叫んだ。
「可愛いでしょ、取って来たのよ」
 藤さんだった。にこにこしながら子供っぽい仕草で莉珠子の鼻先を猫じゃらしでくすぐろうとする。
「あれ、外出したの、お母さん」
「退屈だし、みんないなくなっちゃったからあたしもちょっとそこらへん一回りしたんだよ。花がいっぱいできれいだからお姉ちゃんにも見せてあげようと思ったの」
「え、ありがと。でもひとりで車から降りられたんですか?」
 藤さんはもう莉珠子の質問を聞いていなかった。ふっくらした手で莉珠子の二の腕をつかみ、ぐいぐい引っ張る。寝間着のままだが莉珠子は藤さんの誘いに逆らわず床に降りた。そういえば今回は二段ベッドの下の階に寝ている。上は誰だったかな、ジンさんかな。
 片麻痺の藤さんは薄暗いキャビンを、あちらこちらの家具やバーにつかまりながら上手に歩く。介護士の泰地が藤さんの転倒防止に気を配り、車内の床は整理されていた。
 ドアを開けると、閉ざされた車内の暗がりから視界が一気に晴れ拡がった。洗顔前の素顔に降り注ぐ真夏の午後の光は純金のようにまばゆく暑い。日常ほとんど昼の光を浴びない嗜眠症莉珠子のふやけた皮膚に、高原の直射日光の感触は突き刺さるような痛覚すれすれだった。
「わあ、すごい紫外線。日焼け止めを…ちょっと待って藤さん」
 待てもしばしもあらばこそ、片足不自由なはずの藤さんは存外器用にドアの手摺を利用して、やっこらさ、と地面に降りた。
「お姉ちゃん、早くしなさいよ」
「ああはいはい」
 莉珠子は仕方なく帽子も被らず藤さんについていく。多少日焼けしたとしても、亜珠子と莉珠子の肌は劣化も老化もしない。
 キャンピングカーの停まった駐車場は林道に通じる雑木林のはずれにあり、片側は星隷ミカエル病院を包むコスモス畑に面していた。コスモス畑の反対側、森へ続く自然のままの土手にはオレンジ色のニッコウキスゲがあちこちに咲き、白い姫紫苑の枝や葛の花が森の中から這い出して、黒い地面が見えないほど雑草は繁茂していた。陽当たりの加減かその夏草の丈が高い。 
 すごい草の香り、草迷宮だ。
(そういえば、あの主人公も母親を探していたんだっけ)
 昔読んだ泉鏡花の物語が眼の前の風景に重なった。
 藤さんは陽盛りのコスモスの中へずんずん入ってゆく。花々と同じようなベビーピンクのジャージを着、ふんわりした上品な白髪頭の藤さんの姿は、眺めている莉珠子が不安になるほど、淡紅色と白のはなびらの渦にすっかり溶けこんでしまう。
「待って、待って藤さん」
 莉珠子は小走りに藤さんに駆け寄り、そっと藤さんの肩に手を置いた。藤さんはうつむいて、寂しそうな顔で一本、二本とコスモスを折っていた。
「お姉ちゃん、あたしのお母さんどこにいるんだろう、あたしを置いてどこに行っちゃったの?」
「え、お母さん、うん、お母さんはね」
 否定しない、説得しない、と莉珠子はおまじないのように自分に言い聞かせ、
「朝ごはん食べにいったのよ」
 その場しのぎも丸出しの台詞だが、幸い藤さんは納得したようだった。
「お姉ちゃん、あたしの胸や頭には沢山窓が開いているのよ。そこから風が吹いてね、時々すごく寂しいわ。風が運んでくるものはからっぽで、窓から見える景色はきれいすぎて誰もいないの」
「そうなんだ」
「あたしはその窓の中から来たんだけど、今ではそちらに戻ることなんかできないの。お母さんが来ればあたしを家に連れて帰ってくれる。あたしはそれをずっと待ってるんだ」
「お母さんはすぐに帰るわよ藤さん」
 藤さんは悲しそうな笑顔を浮かべた。旅に出て以来、獅子ケ谷の野川家で、亜珠子莉珠子に自分がお母さんと呼ばれていたことを忘れてしまったらしい。
「このコスモスや雑草は窓の中から摘んだのよ。きれいでしょ」
 藤さんは莉珠子の寝ぼけまなこをくすぐった花束を莉珠子に渡した。ごく普通のコスモスと猫じゃらしだ。
「そう、ありがと藤さん」
「お母さんやお兄ちゃんたちにも上げようかな、あたしの思い出の窓から取った植物はこういう」
 藤さんは両手を左右にひろげて周囲のコスモスを指した。
「花たちとはちょっと違って特別なんだよ」
「そうなんだ」
(認知症のBPSDには幻視幻聴・行動異常あり。これかな?) 
 とにかく否定と説得は不可、受容傾聴と呪文のように頭の中で唱えながら、莉珠子はできるだけ優しい表情を保とうとした。じりじりと頭上に炎天が照り付け、目覚めてから水一滴口にしていない慢性スタミナ不足の莉珠子にはきつい状況だ。 
「特別なお花をありがとう」
 莉珠子の丁寧な返事に、藤さんの泣き笑いの表情から少し憂いが減ったようだった。
「お姉ちゃんにあたしの胸の中を見せてあげるね。頭の中も」
 え、と莉珠子が首筋の汗を拭う目の前で藤さんはくるりと後ろを向き、自分の頭髪に両手を差し込んだ。その仕草はどこかで見た覚えがある。ほら、と言って両手で髪を持ち上げて……ぬばたまの髪の中から傷ついた猫や犬や……そのあと莉珠子の部屋の家具が壊れ、テーブルクロスはかぎ裂きになった……あの夢まぼろしの顛末はそういえばまだ究明されていない。
 藤さんやめて、と次なる幻覚を予期する莉珠子は震えあがったが、藤さんはごそごそと指先で白髪を掻き分けて、ピンクいろの頭皮を剥き出しにした。頭の地肌は顔や手よりもデリケートな薄桃色をしている。藤さんはやんわりと言った。
「ここね、ここから覗いて」
「はいはい」
 白髪を掻き分ける藤さんの爪と頭皮の色が同じだ。外気と陽光、時間の侵蝕を受けていないベビーピンク。
「ね、綺麗な野原が見えるでしょ? コスモスも咲いてるし、湖もある」
「はい、藤さんの思い出はきれいです」
 莉珠子は雨の雫のように顔に滴る自分の汗を指で拭いながら答えた。

 

スポンサーサイト

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://donanobispacem717.blog.fc2.com/tb.php/101-69c09708
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。