さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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ハート・ゴースト・ケーキ   Pth 12

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   ハート・ゴースト・ケーキ

 諏訪湖に着いたら特別ディナーよ、と亜珠子が言い出したのでクルー全員驚いた。
「寝耳に水だぜ。どこ行くの」
 キャビン備え付けのパイプ椅子に座ったジンさんが尋ねた。二段ベッドの下のほうは安眠シェードを上げると、二つ並びのマットの角度を調節してソファにもなり、運転席に行った泰地とメグ以外は、それぞれ手足を伸ばしてくつろいでいるところだった。
「昔馴染みのレストランがあるの」
 亜珠子は澄まして応えたが、横に座った莉珠子にだけ見えないように、肩に羽織った黄色いカーディガンの影から、ジンさんに人差し指を左右に振って合図した。
「あそうか。そういえばあっちゃん昔は結構売れてるイラストレーターだったもんな」
「そう、昔々。二十年も前だからね。ジンさんに貶されても仕方ないな」
「貶しちゃいない。しかしいったい、いつ予約したの」
「もちろん旅行前よ」
 茅野を二時過ぎに出発して、諏訪まで小一時間で着いた。標高は高いに違いないが、諏訪湖の周囲は平野で、風光明媚と言うほどに整備されていない新興市街が湖水周辺に環状に広がっている。甲府盆地のように濃い山並みが四方間近に迫っている印象はなく、莉珠子は車窓風景を眺めながら、諏訪という神秘的な言葉の響きを持つ湖が、この平凡な市街のどこにあるのかしらと考えていた。
「太古は湖の周囲すべて森だったのに違いないのよ」
 いつのまにか莉珠子と同じ姿勢で窓の外を眺めている亜珠子が傍にいてつぶやいた。莉珠子は自分の疑念を亜珠子に盗み読まれた気がしたが、今の亜珠子の囁きが自分の想念と重なったのは、偶然と思いなして自然な感じだった。
「諏訪には古い神社があるのよね。どこかで習った気がするけれど、日本で最も由緒あるお宮さんの一つなんでしょ?」
「らしいわ。諏訪の御柱祭って天下の三大奇祭のひとつ」
「あっちゃんここに来たことあるの?」
 亜珠子は窓ガラスから顔を離して寂しげな微笑で莉珠子を見た。
「あったんでしょうね。だけど何もかも忘れてしまったの。ただここに来たいという切望だけがあるのよ。自分でも不思議な感じ。デジャヴュがあるかというとそんなロマンチックはないわ。消えてしまった記憶の白紙部分を少しずつ埋めているのかも」
 今の亜珠子の表情も台詞も素敵だ、と莉珠子は思った。
「知り合いってどんな人? その人のことは覚えているのね」
「うん。だけどその人は多分もう亡くなっていて、その人の縁者がレストランをやっているのよ」
 辻褄の合わない亜珠子の様子に、莉珠子はそれ以上の詮索をやめた。
 夕暮れの湖面にさざ波が立ち、空全体が茜に染まる薄曇りだった。まだ立秋前の四時過ぎでは斜陽であっても明るく、水を渡る風は湯のようにぬるかった。湖をぐるりと取り巻く道路沿いの駐車場は、その晩一行が停泊するには狭かったが、泰地は大きな車体を操り無難に乗り入れた。
「予約は何時からだい」
 ジンさんはねじり鉢巻きにした豆絞りの日本手ぬぐいをバンダナ替わりの汗止めにしている。実用よりはきっとただの伊達だ。
「六時から。ミネちゃん気の毒だけどお酒控えてくれますか。ドライバーの誰かは素面でないと。お店で飲めない分君にはお土産にボトル一本プレゼントするから車中で飲んで」
 泰地はにこにこした。外見は自分より一回り若い、というよりも幼い亜珠子が、澄んだ少女の声のままマダム口調であれこれ仕切るのがとても可愛らしく感じられる。泰地も亜珠子=レノンであることを知っている。知っていても駿男やジンさん同様、外見の可愛さのほうが小生意気な正体より、感情をはるかに左右するということなのだった。
「そんな気をつかわなくてもいいすよ。でもま、いただいとくねさんきゅ」
 どこで今夜は泊まるの? と脇から莉珠子が口を挟んだ。亜珠子はすらすら答えた。
「お天気がいいから、車中泊じゃなく野外で星見でもしようかなって思うの。湖に近い上諏訪の霧の駅。高島城の近くよ。レストランもちょうどそのあたり」
「レストランの名前は何て言うんですか」
 駿男は早速スマホ画面で霧の駅を探しながら尋ねた。
「CAMOSS、カモスって言うの」
「あ、みっけ。おしゃれな感じの店構えじゃないですか。全食材信州産ですって。肉も魚も。てことは海の魚はないんだ。まいいや僕肉食オヤジだから。日本酒と洋食の和合を狙うシェフ、まだ若いなあ、幾つなんだろ」
 どれ、とジンさんが首を伸ばした。駿男の手からスマホを奪い取り、シェフの顔をためつすがめつして不平そうに鼻を鳴らした。
「ミネちゃんとどっこいだな。イケメンじゃんか。こいつがあっちゃんのオトモダチ?」
「いいえ、このひとじゃなくて」
 亜珠子は仔狐のように笑った。
「移動前に、ちょっと諏訪湖の周り見てきたいんだけど」
 莉珠子が言い出したので、亜珠子は、
「それならタクシーで後からCAMOSSに来たら? 夏休みだし観光地だし、もう早めに霧の駅の駐車場で夜の星見に都合のいい停泊場所取っておいたほうがいいと思うから、マザーは先に行くわよ」
 マザーとはキャンピングカーのことだ。
 一行はそこで二つに分かれた。亜珠子と泰地、ジンさん藤さんは一足先に霧の駅へ。風間親子と莉珠子は長く物憂い夏の湖の黄昏を堪能することにした。
「これ林檎でしょ。街路樹? 湖畔樹に林檎が植えてあるなんてやっぱ信州だな」
 歩き出した駿男はすぐ近くの林檎の木を珍しがった。諏訪湖をめぐる道沿いには背丈の揃った林檎が一定間隔で延々と植樹されており、もういくつも実をつけているらしく、一個ずつ白い保護袋が被せてある。温暖な湘南に生まれ育った駿男やメグには、林檎の木は異国情緒をかきたてる北国の象徴だった。香枕鹿香では蜜柑や柚子の庭木は多いが、林檎というと乙女林檎のような鑑賞品種以外には見られない。
「秋には収穫するんでしょうね」
 と莉珠子。そっと袋の上から指で触ってみる。紙袋はすかすかで、内側の実生に指の感覚が届かない。痛めてはいけないから莉珠子はそれ以上袋を圧さなかった。
 湖畔の人出は多かった。
 県外、国外からの観光客、それに犬を連れた散歩、ジョギング、ウォーキング、高齢者のそぞろ歩き…。腰を降ろして休める芝生と涼を呼ぶ欅の街路樹は丁寧に調えられ、あちこちにコンテンポラリーアートのオブジェや、名所案内を刻んだ石板などが目を引く。
「河口湖と諏訪湖どっちが大きい?」
 駿男が尋ねると、メグは小首を傾げてちょっと考えてから、
「見た感じ河口湖のほうが深い感じ」
「深い? 大きいじゃなくて?」
 父親の問いにメグは瞬きしながら頷き、
「景色の中に富士山が見えていた分、湖も深く感じるの」
 なるほど、と駿男も莉珠子も納得した。
「水上に聳える富士山の影の分だけ水底深く見えるってことね。メグちゃん凄い、あたしそんなこと考え付かない。詩人になれるよ」
 十三歳の少女の感受性に莉珠子が素直に感嘆したとき、背中をどしんと誰かにつきとばされ、前につんのめった。
「そこあたしの席よ、どいてよ」
 え、と振り返って自分を突き飛ばした相手の姿を確かめる間もなくもう一度、今度は腰骨をどつかれた。
不意を衝かれてよろける莉珠子を、先に歩いていた駿男がとっさに身体をひねって支えた。
「何するんだよ」
 血相変えて駿男は怒鳴った。
「あたしの歩く道なの、どいてよ」
 駿男と莉珠子の目の前で、色白の眼の大きい少女が、頬を紅潮させ地団駄を踏んで怒っている。少女の腕力に負けて地面に両膝をついてしまった莉珠子は、駿男に助けられて立ち上がりながら、相手の姿を観察した。
 茶色に染めた髪をポニーテールに高く結び、髪と同じ色のオフショルダーのカットソー、黒いチュールのミニスカートをはいている。細い素足にレース編みのフラットパンプス、彼女の衣装は全部おしゃれで高価そうだ、特に靴。莉珠子の好きなブランド名が浮かぶ。
「あなたの席とか道とかって? ここは遊歩道です」
 少女は赤い口紅にグロスを重ねてきちっと塗っている。青紫のシャドーはラメ入り。いや顔色が白く見えたのもよくよく見ると女優肌ファンデーションの成果らしい。シックな服はともかく、顔はポスターモデル並みの濃厚化粧だが、十七、八歳以上には見えない。
(なんだかこの子変)
 駿男を見上げると、莉珠子の異和感と同じ色の視線をくれた。
 すいません、と遊歩道の外側からこちらへ叫ぶ声が来た。少女の弟らしい少年が息せき切って林檎並木の土手の下から駆け上がって来ると、
「ああここにいた。またなんかやった?」
「散歩に来たの」
 片腕を鷲づかみにされたが、少年をふりはらうでもなく、少女はただ素っ気なく応えた。
「散歩? 朝も昼も来たよ。もういいよ歩かなくて」
「美容と健康に運動しなくちゃ」
「大丈夫だって」
 少年はうんざりした顔つきだった。日焼けして浅黒いが顔の造作が姉によく似ていた。
(運動って、そのおしゃれなパンプス) 
 莉珠子は少女の足首からふくらはぎまで紐を交叉させて編み上げる華奢な皮靴を見た。半透明のチュール重ねの黒いスカートといい、とてもウォーキング向きには思えない。
「もう帰ろうよ」
 姉の腕をだるそうに引っ張る少年と、なお愚図る少女との押し問答には駿男や莉珠子の存在がない。少女が迷惑をかけた第三者の存在はまったく無視され、ちゃんとした気遣いや謝罪の一言もない。
 唖然とするばかりの莉珠子とメグだが、さすがに駿男は口を出した。
「ちょっと、君自分のことばっかり言ってないで。君のお姉さんこのひとを不意に突き飛ばしたんだよ。怪我でもしたらどうするの」
「え、どこか怪我しましたか?」
 二の句が継げず、駿男は呆れて口を半分開けた。
「実際に怪我したとかしないとかじゃなく、君のお姉さん暴力行為をやらかしたんだよ。未成年じゃなかったら警察沙汰にするぜ」
「え、姉じゃないですよ。これ母親で」
 少年は視線を左右にせわしなく動かしながら、ひきつった顔に誤魔化すような笑いを浮かべた。彼は駿男と莉珠子をまともに見ようとせず、捕獲した野性動物を抑え込むように少女の腕をぎゅっと掴んで離さない。
「お母さん、まさか」
 駿男はもういちど茶髪ポニーテール厚化粧の娘をじっくり眺めた。若すぎる。少女はせいぜい十八、少年は十五か。少女はふてくされた様子で少年の脇腹をつついた。
「あんた帽子か日傘持ってこなかったの?
たく気が利かないんだから。どうせ追っかけてくるんなら持ってきてよ」
「これだよ。ママもう夕飯食べないとやばいんでしょ。六時過ぎるよ」
「え、もうそんなになるの」
 少女は急にそわそわし始めた。夕靄のたなびく湖面にうつろな目をやり、欅の梢を見上げ、この騒動をそ知らぬ顔で傍らを過ぎてゆく通行人を眺めたが、彼女の視線が外の世界の景物に少しも触れていないことは明らかだった。少女は切羽詰った声で、
「帰る、六時までにご飯食べなくちゃ」
 うん、と少年はほっとしたように少女の腕を握った手の緊張を緩めた。
「ちょっと待てよ君、お姉さんじゃなくて君のお母さんて、ほんとか」
 駿男は暴力行為よりも信じられない現象に好奇心を動かされ、少年を問い詰めた。
「え、マジです。このひと僕のママ。だけど十年くらい前からこんなふうに時々おかしくなるんだよね。変な薬飲み始めたらどんどん若返って。そのころから頭がいかれた」
 少年は悪びれたふうもなくぺらぺらと喋った。
「頭がいかれた……どんなふうに?」
 莉珠子は消え入りそうな声を無理やり励まして尋ねた。突き飛ばされたショックなどどこかにいってしまった。少年は蒼ざめた莉珠子の顔を横目で眺め、また曖昧に笑った。
「外見自分と同じくらいの年頃の可愛い子見ると乱暴するんだ。かっとなるんだ。それでそのことを後で思い出せないんだよ。自分が何をしたかまるっきり覚えてない」
 ごくりと駿男は呼吸を飲んで、
「立ち入って悪いけど、君、このママと二人暮らし?」
「そうだよ、親父と別れてから彼女は妙なドラッグにはまってやめられない。普段は割とおとなしいっていうか、マンションで自閉してる。毎日ダイエットで夜は六時以降にものを喰わない。太るのやなんだと。おじさんもういい? 遅くなって食事するとママはまたヒステリーみたいに夜間ジョギング始めるからもう帰らせてよ」

 CAMOSSは鼠色の瓦を葺いた白い塗り壁を囲い、数寄屋門を構えた古民家風だった。料亭といかめしく形容するには全体にこぶりで鄙びており、表通りから二本ほど路地を奥へ入った住宅地の中で、周囲の一般住宅とかけ離れた華美豪勢を衒うこともなく、見る目に快い風情だった。
 莉珠子と風間親子が湖畔からタクシーで駆け付けたとき、別行動をとった仲間はまだ着いていなかったが、数寄屋門の軒下には千手シーラと羽戸千香子が立っていた。
「わぉシーラちゃん」
 駿男はハートマークを声音に添えた。ボルサリーノを被ったシーラは駿男に向かって右手を軽くあげ、それからメグと莉珠子に平等な視線を向けた。ほんの少しメグのほうにシーラの目が長くとどまったのは仕方のないことだった。
 グリーンとグレイの太いストライプ模様のテーラードジャケットを着ており、赤銅色のバロックなバックルを嵌めた共布のベルトで腰を締めている。ジャケットの下は光沢のある黒無地シャツ。胸元に太い金鎖のペンダントを提げている。ペンダントヘッドはイミテーションでなければアンティークのメダルだった。ボトムスはアラビアンナイトの踊り子のようなパンツで、黒に近い濃紫の生地に金糸の細かな唐草刺繍が鱗のように施されている。砂漠を歩く遊牧民のサンダルのような猛々しいハイヒール……。
 そこに立っているのはパメラではないかと莉珠子は思った。背格好は同じくらいかもしれないが、シーラは髪も目も黒い。顔立ちがそっくりというわけではないし、カウンセリングルームのパメラはただの一度もこんな無国籍ド派手な格好をしたことはなかったのだが、莉珠子の目にはシーラの姿が最初の数秒、金髪碧眼アンドロイドセラフィストパメラに見えたのだった。
「こんばんは。ちょうどお休みとれたんで付いてきちゃったの」
 粒の揃った白い歯並びをテレビ女優のように見せて笑う羽戸は、シーラより頭一つ背が低い。連れに比べると日常想定圏内のおしゃれで、花柄のプリントワンピースを着ていた。とはいえ、熱帯の花鳥を更紗ふうに染め出したフェミニンなドレスは、オレンジ、黄色、赤にブルーと、普段は白衣のイメージが強い羽戸千香子を極楽鳥のように見せた。
 先に入ろう、とシーラは言い、皆の同意を待たずに数寄屋門をくぐった。百八十センチの上背にハイヒールだから、シーラは背を軽くかがめなければならない。
 モデルレベルのプロポーションはすごいなあ、と莉珠子は再々感動するが、それにしてもシーラの一挙一動にパメラのイメージが重なるのはどうしたことだろうと考えた。
(パメラのホームページにリンクしてたアパレルブランド、YUCARIのアイコンはたぶんこのひとだ。今被っている帽子もそれなんじゃないの?)
 CAMOSSの内部は和風建築の外観とは異なり、奥まったほうの店の半分はひんやりとした印象の黒と白のモザイクの床で、庭園に面したフロアは土間に似せたコンクリートの打ちっぱなしになっている。椅子やテーブルの家具調度も奥と表でスタイルを変えており、モザイク床のほうは華奢でシンプルな現代のデザイン家具、土間のほうはグリム童話の挿絵に描かれそうな重厚で黒っぽいクラシカルなテーブルと椅子が配置されている。天井板は取り払われて、黒光りのする太い檜の梁構造が露わで、吹き抜けにも似た開放感を演出していた。
 どこに光源があるのかわからないが、店内は間接照明の影を作らない淡黄の光にひたひたと満たされ、忙しく煮炊きする厨房の活気のほうが客室より明るい。小さな音量で旋律の素朴なルネサンスリュート音楽が流れている。単調でも長調でもない古代音楽は、陰翳を作らないCAMOSSの照明の穏やかさと一致していた。
 テーブルは奥も表も来客でほぼ埋まっていて、亜珠子たちの予約席はモザイク床の真ん中あたりだった。客筋はさまざまで、おしゃれはしていてもみなカジュアルだった。観光客がほとんどのようだ。
 シーラが店に入り着席するまでの一分半、店内の空気は一変し、ざわめきは止み、香気を増すために料理の仕上げに注がれるオリーブオイルのような視線が彼に集中した。話し声が止んだフロアに、舞曲のような弾んだリュートの旋律だけが聞こえる。
 いらっしゃいませ、と入口からにこやかに案内してくれた女性は五十代初めくらいで、白黒のギャルソンコスチュームを着ていたが、黒髪に遊びを持たせて高く結い上げた和装のような襟足の美しさは、ただの従業員には見えなかった。
このひとが女店主だろうか、と莉珠子は彼女を眺めた。スマホアイコンのハンサムシェフは厨房だろう。切れ長の目元や鼻筋のかたちが似ているし、二人の年齢から推して親子なのかもしれない。
「ご予約は九名様でいらしゃいますね」
 声も言葉もきれいだった。
 アラカルトと水を置き、コース料理の注文を聞いたマダムが奥へ入ってしまうと駿男は、
「信州弁とか甲州弁とか聞かないねえ。今時はみんな標準語ですらすら。今のあのひとなんか東京人よかきれいな発音じゃない」
「東京人て、つまり上京人ですからね。江戸っ子とは違うのよ」
 と、あっさり羽戸千香子がかたをつけた。
「そうだよね、三代続いてやっと本物の江戸っ子って言うんだけど、昔の江戸の区域内に代々生存してる都民なんてまあいないだろ。あとはみんな時代の寄せ集めなんだ」
 駿男は嬉しそうに羽戸とシーラを眺めて同意した。クロスをかけた長テーブルをはさんで駿男の左右にメグと莉珠子、正面にシーラと羽戸が並ぶ。今のところパパは花園に黒一点の楽園有頂天だ。
「ところでシーラちゃんなんでここに来たの?」
「亜珠子に呼ばれたのよ」
 駿男の前ではシーラは女性言葉になった。
「そもそもあたしがこの店のこと彼女に教えてあげたのよね。ここは」
 とシーラは少し間を置き、駿男の隣に座った莉珠子にちょっと視線を泳がせ、
「莉珠子はお酒飲めなくてかわいそうだけど、信州で有数の蔵元直営レストランを亜珠子に教えてあげたのよ」
「へええ蔵元。ああ、だからCAMOSSは醸すなんだね」
 そう、とシーラは頷き、さりげなく
「蔵元は安宅醸造というの」
 ふうん、と察しのよい駿男はそこで唸った。
 そこに三十分遅刻して亜珠子たちが入って来た。どたどたというジンさんの足音といっしょに、
「結構もう混んでてね。だけど頑張って今夜の星見特等席は取ったよ。何飲んでるの? まだ水か」
「そちらを待ってたのよ、どうする?」
 シーラは亜珠子を見た。亜珠子は莉珠子の隣に座ると、マダムを呼んで、と短くシーラに言ったので、ジンさんは目を剥いた。
(シーラを顎で使うのか? あっちゃんレノン。いや昔の亜珠子にこんな威厳があったかねもちろんないよ)
 マダムがやってくると、亜珠子はワインメニューを開き、
「こちら日本酒と洋食の調和を目指してらっしゃるんですってね、おすすめのお酒は例えば?」
 マダムは亜珠子莉珠子の顔と姿をしげしげ見較べて、駿男に向かい
「お二方はお嬢様でいらっしゃいますか? 未成年の方にお酒はちょっと」
「このひと幼く見えるけど一応二十歳過ぎてるの。こっちはお酒飲まないから大丈夫です。ね、りっちゃんそうだよね?」
 わかりやすい念押しと目配せのダブル合図に莉珠子はうんうんとひたすら頷く。年齢はともかくどのみち飲めない。
 それでは、とマダムがリーフレットを開く前に、亜珠子=レノンは口早に、
「麗呑てスパークリングを聴いたんですが」
「ございます。当店蔵元が毎年六月から八月だけの夏季限定で出しております大吟醸スパークリングです。肉料理にも魚料理にも御好評いただいております」
「あたしはそれがいいわ。あと赤ワインはそっちが詳しいから」
 とシーラに舵を渡したが、またマダムを呼びとめ、
「ここのチーフさん、ホームページに出てる方ですか?」
「さようでございます」
 初老のマダムは、二十歳そこそこの少女にしては高飛車な亜珠子の口調にも、初めからの微笑を変えなかった。
「酒造りの家に生まれ、美酒で味覚を磨かれ料理人に転身したんですって?」
「はい、ありがとうございます」
「安宅醸造の跡取り息子さんが凄いわ」
 マダムの微笑が深くなった。
「本家は大騒ぎしましたけれど、おかげさまでこうして皆さまの御贔屓にあずかっております。本人もこれが天職と心得て、頑張ってますね。凛号を呼んでまいりましょうか?」
「りんご?」
「甥の名前です。凛号と書いて、信州林檎のリンゴと読ませました」

 いい奴だった…。
 亜珠子=レノンは地面に寝そべって夜空を見ながら胸の中で何度となく呟いた。
 右隣に莉珠子。RKを飲んで睡魔を遠ざけ星見に頑張っている。左にメグ、その向こうにシーラ、ジンさん。それから駿男、千香子、藤さん、泰地と、星見が丘のかなりの面積を占領状態だった。
 諏訪市は霧の駅駐車場から少し離れた高島城周辺に、旅人が安心して寝そべることのできる星見が丘という空間をいくつか用意している。気候の良い時期には星空観賞の場となり、冬場は普通に駐車場として使われる。公衆トイレがあり、洗面所、またコインシャワーやランドリーもあった。それらの施設の灯りは夜になると、星明りを妨げないよう早々に消える。
 星晴れさやかなその晩は、彼らと同じく地べたにマットを敷いて一夜の清涼浪漫を楽しむ宿泊客が結構いて、中には夜桜見物さながら車座になって宴会をするグループもあったが、おおかたは他の旅人の迷惑にならない程度に好みの音楽をかける程度で、口数少なく、澄んだ高原の星の光を追っているようだった。
「あっちゃんの知り合いのひといた?」
 銀河の流れは街明りに弱められて淡かったが、都会の夜空とは比較にならない星のきらめきだった。
「いたわ」
 亜珠子の短い返事を聞いて莉珠子は黙ってしまった。誰があっちゃんの昔馴染み?
 それを尋ねることのできない亜珠子の声音だった。この声は何色だろう。いたわ、いたわ……耳の中でエコーがかかるリフレイン。
 ぼやけた反響がふっと消えると、莉珠子の耳の奥ではっきりこう変わった。
 …イタイワ。
(痛かったのね、あっちゃん。何も言えないくらい。その人がいて、その人を見て、あっちゃんの胸はイタカッタノ)
 莉珠子は生欠伸をした。何故だかわからないが目頭に滲んできた涙の粒を紛らわすためだ。星屑の光と亜珠子の痛みに共感する涙の露が瞼の裏で七色に耀き、莉珠子の瞼の中で銀河の虹の輝きは増した。それは莉珠子の耳が聴き取った亜珠子の痛みの声の色だ。莉珠子は涙をこぼさないように目をつぶった。
 あれがスピカで…その下にアークトゥルスが光ってる。
 すぐにそれとわかる一等星をかぞえているのは誰の声だろう、と亜珠子=レノンは考えた。自分が率いるツアークルーではないかもしれない。少し離れたところに寝ている親子連れの父親の声かもしれない。でなければさっきから煙草の匂いがするからジンさんが寝煙草しながらしゃべっているのかも。
(レノンの心臓が壊れてなくて、健康な幼児だったら、安宅依子はレノンを連れて再婚し、レノンはリンゴと顔と背格好がよく似て、悧巧な青年に成長していたろう。まともに育てば今頃レノンは安宅醸造の若社長か) 
 叔母に呼ばれて厨房からコック帽を被って出てきたリンゴはスマホ写真より肥ってふっくらしていたが、鼻筋のとおった好青年で、フロアを仕切る叔母に似ていた。長テーブルに揃った亜珠子たちを見て開口一番、
「なんか夢みたいな美少女ツアーですね、団体様の場合、可愛い女性にはデザートサービスさせていただいてますからよろしく」 
 と宣言して叔母と周囲を失笑させた。
(あんまり頭はよくないな、だけどいい奴だった)
 亜珠子は何気ない風を装い、店のリーフレットにリンゴのサインをもらった。
「シェフはイケメンだし、将来カリスマ料理長になるかもね」
 ウインクすれすれの可愛い視線を送ると、リンゴは他愛なく相好を崩し、
「あ、東京に支店出したらご案内しますので是非食べに来てください、デザートサービスしますからね」……。
 イケイケドンドンの強気もレノンと同じだった。それからサインペンでリーフレットに書き付けた右肩上がりの癖字も。
(マダムが叔母だとしたら依子は上田の本家に夫といるのか)
 安宅醸造のバックアップで甥とともにレストランCAMOSSを差配するマダムなら、おそらく家付娘の依子の妹に違いないと思う。依子は今年五十七歳のはずだ。
 どこかからラジオのディスクジョッキーが雑音混じりに高く聞こえ出した。くぐもった喋りに続いて音楽。すぐに誰かがそれをぶつっと切る。寝息と鼾。ぼそぼそと話し声。子供の声。遠くで車のクラクション。
 視界一杯に星空があふれる。聖夜ではないが金銀の鈴音が聞こえそうだ。高原の夜は肌寒いほどではなく涼しい。素肌に夜風が触れてくる音も鈴の音色だ。
「莉珠子起きてる?」
 返事がない。横を向くと人形のような白い寝顔があった。RKの効果が切れたようだ。反対側のメグを見た。
「メグはまだ大丈夫なの?」
「うん、お星さまきれいね、プラネタリウムみたい。ゆっくり動いているのね、今あたしたちが夜を旅している時間は星の移動する時間と速さがおんなじね」
「星が動くんじゃなくて地球が動いているのよ」
「そう? お星さまも地球も同じように広い宇宙空間に浮かんでいるんだから、ほんとはどっちが動いてどっちが止まってるなんて誰にもわからないんじゃない?」
 ぷふっと駿男が笑った。吹き出したが声はしみじみと、
「血は争えないねえ、メグ、安美さんが若いころ今の君とおんなじことを僕に言った。たった今それ思い出したよ」
「ママが?」
 メグは嬉しそうな声になった。駿男さんは揶揄うように、
「うん、彼女も理科は苦手だった」
 ふーんだ、とメグは鼻を鳴らしたが嬉しそうな感じは変わらなかった。駿男は娘の御機嫌をとるように、
「サービスケーキおいしかったね、メグたちのおかげで僕らまでロハだ。やっぱ女の子はオトクですね」
 ふーんだ、とまたメグは返事をし、亜珠子の方を向いた。父親には聞えないように、
(レノン、諏訪湖のほとりでユメテルナを飲んでおかしくなったひとに会ったの)
(莉珠子とパパがその場にいたね)
(彼女は十年前からお薬を飲んで若返ったの。それから精神状態が変になったって息子が言っていたわ。莉珠子は十八歳にしか見えない彼女に後ろから殴られたのよ)
(莉珠子は何も言わなかった)
(言えないんじゃないの。だってユメテルナは亜珠子と莉珠子の…)
 メグの想念はそこで途絶えた。
 流星だ、と子供の声が聞こえた。まだ目を覚ましている星見が丘の全員が満天の星空に視線を集めたとき、どこかでまたラジオのスイッチが入り、深夜0時の時報とともに、雑音混じりのニュースアナウンスが始まった。
 長野県上諏訪……午後八時、マンション七階から女性が転落し、病院に搬送……ました……取り調べによると同居していた女性の息子十六歳の少年が……過失致死で……
 ノイズがひどくなり、ラジオは切られた

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