さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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ゲノム・リリカル・ジャッジメント  Pth 13

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   ゲノム・リリカル・ジャッジメント

 星見が丘でごろ寝の明け方三時、泰地は横の藤さんに揺り起こされた。
「お兄さん、悪いけどお手洗い」
 はぁい、と泰地は腹筋に弾みをつけて起き上がった。周囲を見回すと皆熟睡している。空はまだ隅から隅まで真っ暗だ。地上の町明りも消えたこの時間、夜は今が一番暗く澄み渡り、星々の震えるようなまたたきがはっきりと、ひとつひとつ大きく見える。
 全天を横切る白く濁った銀河はもとより、何等星と数えられない芥子粒のような星屑まで夜空の奥深く見え、大宇宙の無限感が胸にひしひしと迫ってくる。あたかも小舟に乗って渡る太平洋の真ん中で、今自分が浮かんでいる船底一枚下の海の深淵を測るような、肌身に近いおそろしさに似た畏敬をかきたてられる瞬間だった。
 泰地の介助で片膝ずつゆっくりと立ち上がりながら藤さんも星を見上げ、
「きれいな星空ね。どこまでわたしたちは旅するんですか?」
 と尋ねた。
「今日で三泊だから、あともう三日か四日ですね」
「ずっとこうして旅していられたらどんなにいいでしょうねえ。行きたいところへ行き、星空を見ながら眠り、悲しいことも苦しいことも、いやなことは何にも考えない、嫌いな人には合わないで、きれいな景色や美味しい食べ物だけを追いかけて、このままずっと旅していられたら」
 そうですね、とおだやかに相槌を打ちながら、藤さんの今の感慨が首尾一貫してクリアなのに泰地は驚いた。
(まだら認知症にしても、いつもは〈ありがとう〉とか〈美味しい〉とか言葉数が少ないのに。星見レクリエーションの効果かも)
「まだしばらく旅は続きますし、きっと亜珠子さんはこれからもこんな旅行を計画すると思いますよ」
 泰地が言葉を選んで淋しそうな藤さんを慰めると、藤さんは、
「はいありがとう」
 いつものように、にこっと笑った。
 公衆トイレに入る前から、藤さんは肩をすくめて立て続けにくしゃみを始めた。丁度夜明け前で、その日の最低温度を記録する時間だった。
「あ、寒いですか。カーディガン持ってくればよかったです」
「ありが……」
 くしょん、と言葉の途中で藤さんはトイレットペーパーで洟を噛み、鼻と口をもごもごさせた。そのまま個室に入り、その間は静かだったが、ドアを開けて出てくるやいなや、またアレルギーが始まったので、
「風邪かなあ、もしかして」
「いいえ、お兄さん、これ」
 藤さんは泰地の手にトイレットペーパーの包を乗せた。汚れものかと泰地はちょっと鼻白んだが、平気な顔を装い、開いてみた。
 くしゃっと丸められたペーパーの中には奥歯が二本、前歯が二本。
「藤さん、これ? 藤さんの?」
 たった今藤さんの歯茎からくしゃみといっしょに抜け落ちたらしい歯に血はほとんど附着していない。泰地が藤さんに最初に接した時から奇妙に感じたとおり、虫歯も汚れもない白い歯が公衆トイレの蛍光灯の灯りにつやつやと光って見えた。
「痛くないですか、ちょっと口の中見せて」
 仰天した泰地はあやうくどもりそうだった。義歯なら……安定剤を忘れた総入れ歯がくしゃみではずれて口腔から吹っ飛ぶ椿事はたまにある。が、健康な歯が、たかが十回のくしゃみでぽろぽろ抜け落ちるという珍事は経験したことがない。
 藤さんはおとなしく口を開けてなかみを見せた。舌苔もなく、気持ちのいい鮭紅色の口腔だった。昨晩彼女はCAMOSSのディナーをクルーと一緒に健康に平らげ、その後泰地が付き添って口腔ケアを済ませ、星見が丘に横になった。起き抜けだからそこそこの口臭はあるが、不快なほどではない。藤さんに歯槽膿漏がないことも泰地は最初にチェックしている。
(外見おばあちゃんだけど、藤さんは歯も手足もほとんど〈未使用〉だ。白髪だって色素が抜けているけどつやつやしてる。緑内障とか糖尿とかは僕には判断できないけれど、このひとはいったい……)
 歯が抜け落ちた下奥歯の穴はかすかに血が滲んでいるが、たいしたことはない。前歯も下が二枚抜けた。こちらも出血はわずか。
「痛いですか?」
 藤さんはふるふるとかぶりを振った。泰地の表情が切羽詰っているのを見て、藤さんの顔に恐怖が拡がる。それに気づいた泰地はぱっと表情を変えて明るく笑って見せた。
「藤さん綺麗な歯ですねえ。なぜだかわかんないけれど、たった今奥歯と前歯が抜けちゃったんですよ。とりあえず戻って眠りましょう。まだ夜明けまでには時間があるし、風邪ひくとヤバいすから」
「ありがとう」
 すいません、ちょっと触らせてもらっていいですか、と泰地は藤さんの顎を開き、指を差し入れて残った歯を上下何本か軽く揺すってみた。ぞっとした。どれもグラグラだ。
「行きましょう」
(どうしたんだいったい。夕べ藤さんは鹿肉グリルやサラダを僕の前でばりばり食べていたんだぞ。不摂生しているジンさんなんかよか藤さんのほうがずっとしっかり咀嚼していたはずだ。それが突然くしゃみで?)
 あ、と泰地の腕をとって歩いていた藤さんがぐらついた。つまづいたのかと泰地はあわてて彼女の脇腹に腕を回したが、藤さんは傾いた姿勢を自分の足で支え直すことができず、そのままへなへなとアスファルトの路面に沈んでしまた。
「藤さん、足を挫いたの?」
「どうかしら。変ねえ、立とうとしてるんだけど。思い通りにならないの」
 藤さんは眉を八の字に寄せた。
「両脚だめですか」
「どうかしら、よいしょ」
 藤さんは肩と腕をぶるぶる震わせながら力を込めて泰地の上半身に乗りかかった。彼女のほぼ全体重を支えながら、泰地は藤さんの麻痺でないほうの足がむなしく路面を蹴るのを見た。患足はまったく動かない。しかし健足だったほうも、藤さんの必死で立ちあがろうとする意志とはまるで裏腹に、痙攣のようなはかない動きをするばかりだ。
「ああ、だめだわ、ごめんねえ」
 藤さんは懸命に数分頑張ったが、やがてあきらめてぐにゃぐにゃと尻もちをついてしまった。
泰地は藤さんを背負うことにした。
「痛いですか?」
 ううん、と藤さんは泰地の背中で小さな声で返事をした。
「ちっとも痛くはないんだけれど、両方とも力が入らないんだよ」
「そうですか。ちょうどよかったですよ、昨夜東京から女医さんが加わりましたからね、きっと直してくれますよ」
 湖水を囲む諏訪盆地に東雲の光が昇ってきた。山の端が明るんでも高台から望む諏訪湖は夜の蓋のように静かな藍色を保っている。上空はさきほどまでの紺青一色からほのかな紅色を帯び始め、それにつれて星辰のきらめきは。
 
 無痛病というやまいがあるの、と羽戸千香子はキャンピングカー中央のパイプ椅子に座って自分の両肘を手のひらで包むように抱えた。敵の攻撃を防ぐ心理的城塞を胸前に腕で作るようないかつい腕組みのジェスチュアとは異なり、落ち着いた困惑と受容、しかも女性らしい柔らかさが感じられる千香子の手と腕だった。
「無痛病って痛みがなくなるんですか?」
 汗を拭いながら泰地は尋ねた。足腰が立たなくなった藤さんを背負って泰地は星見が丘から一キロほど離れた霧の駅のマザーに戻り、藤さんをベッドに寝かせてから、もういちど羽戸と亜珠子だけを呼ぶために丘を往復したのだった。既に朝陽が昇っていた。
「後天的になくなるのではなくて、先天的な遺伝子異常なのよ。そういう意味ではダウン症や早老症と同じ疾患ね。生まれたときから痛覚がない、汗もかかない自律神経異常。簡単にまとめましょう。痛覚がない状態は生体にとても危険だわ。怪我をしてもわからないし、火傷をしても感じない。どんな傷であれ、それが致命傷になってしまっても、本人は無自覚で平気なの」
「藤さんがそれだということ?」
 亜珠子は藤さんを寝かせた奥のベッドを見やった。羽戸は亜珠子の目を見て、しっかりと否定した。
「いいえ、彼女はたぶん無痛病ではないわ。生まれたときからそんな持病を持っていた高齢者が、あんなにきれいな体のはずがない。拝見したけれど全身に傷もしみもほとんどないんですもの。それどころか羨ましいようなほくろひとつない背中。普通の高齢者と較べても藤さんは…」
「やっぱそう思いますか先生、藤さんは」
 思わず口を挟んだ泰地がそこで詰まったのを亜珠子はじろりと横目に見て、
「藤さんはこのまま旅を続けられる? 入院する必要があるかしら」
 と冷ややかに千香子に尋ねた。千香子ははっとして亜珠子の表情に合わせた。
「歯はほぼ全歯ぐらぐら。たぶんもうじき抜けてしまうでしょう。体幹のほうは下半身が効かなくなっただけで骨折も捻挫もありません。だけど彼女は汗をかかなくなっています。そして痛みを感じない。皮膚感覚は保たれているけれど、体温調節ができない自律神経症状などなど、いくつかの点で無痛病に似ている。どちらにせよ大病院での検査でなければ詳しいことはわからないでしょうね」
「これまでに後天性無痛覚症患者っていないんですか?」
 亜珠子の問いに千香子は、
「藤さんを論文対象にしたいという研究者がきっと沢山現れるわね」
 と答えた。亜珠子は細い眉を吊り上げ、
「それでは旅を続けよう。地方病院で彼女は癒せないし、車椅子は持ってきたし、エアコン完備のマザー車内にいれば熱中症も防げるだろう。彼女も旅行を楽しんでいるからね」
 泰地は亜珠子=レノンのつんとした顔を眺めた。欧米人とは違うが、東洋人には貴重な細く高い鼻筋と、鼻筋の帰結のようなかたちのよい三角形の鼻孔が二つ並んで、薄い上唇の上で怜悧にひらいている。
(あ、思い出したよ。これレノンの顔だ。星隷ミカエルで病室に寝ていた金髪の〈天使ちゃん〉もこんな何様顔だったっけ。亜珠子はだんだんレノンの顔になっていく。同じ顔立ちだけど莉珠子は可愛いままなのに)
「そうだ、莉珠子を運んでこなくちゃ。もう皆ひきあげてくる時刻でしょ」
 またふいにがらりと亜珠子が優しい顔と声に戻り、泰地に清純な笑顔を向けたので、内心の反感を見透かされたような気がして泰地は髭づらの顔を赤らめたが、
「ジンさんか駿男パパがおぶってくれるでしょう。シーラさんだってああ見えて…ああ見えてシーラさん凄い怪力なんだよね」
 そう言った瞬間二十七歳の男の心にシーラの記憶のいくつかが甘く切なく蘇る。三年前泰地はシーラを類まれな美少女と思い込み、それこそ気が狂うほど好きだった。
 が、泰地が触ったシーラの胸は少年だった。泰地の手にはシーラの胸の詰め物になっていた紅の絹が残り、そのあといろいろな個人的ごちゃごちゃの末にシャンプーのほうへ行った。あの絹のハンカチーフはどこいったかな。(僕はまだ彼女が好きだ。そう、彼じゃなくて彼女だって思ってるもん。ホモじゃなくても忘れられない同性愛ってあるんだ)
 お、は、よ、と一音ずつに音符マークをくっつけてジンさんがマザーに登ってきた。その後ろから駿男が莉珠子をおんぶし、メグが続き、シーラが入って来た。全員揃ったマザー車内の温度はいっきに上昇する。
 ジンさんは亜珠子に向かって不服そうに、
「なんで黙って帰ったのさ。昨夜は素敵なロマンチックナイトだったよね。星見酒飲めなかったのがイマイチだけど」
「CAMOSSでフレスコバルディまるまる一本開けたんだからいいじゃないの」
 言いながら亜珠子はエアコンの温度を下げた。駿男の背中で熟睡している莉珠子の頬を人差し指でつついて、
「呼吸していないみたいだな。この寝顔」
 とつぶやいた。
「またそういうヤバい言い方する。もうあなたレノンやめて亜珠子さんで生きなさい」
 ぶつくさ言いながら駿男は莉珠子をベッドに下ろした。莉珠子が眠っているので、レノンは亜珠子のふりをする必要がない。が、誰も亜珠子をレノンとは呼ばないのだった。
 駿男は車の天井を気にしながらラジオ体操のように背中と腰を延ばし、
「今日はどうしますか。上田に行く? それとも諏訪観光?」
「上田移動前に諏訪大社にお参りしましょうか。ここは湖の神の国。山梨は富士山の神だったし信州は諏訪湖の主が治める。旅人は敬意を表さなくては」
 カミサマの前にアサメシにしようぜ、とジンさん。

 上田は僕の故郷じゃない…とレノン=亜珠子はルート141沿いの車窓から、諏訪とよく似た勾配のおだやかな上田盆地の山並みを眺めながら考えた。通り過ぎる景色に湖はなかったが、上田市に入ると千曲川の流れに沿ってキャンピングカーは速度を緩めて走る。ドライバーは一番上手な泰地だった。失調した藤さんのケアは合流した女医羽戸に任せている。
 シーラと羽戸はシーラの運転するジャガーで東京からやってきた。シーラは足の遅いマザーより先に上田に入ったはずだ。
 小諸なる古城のほとり……教育を受けたある世代以上ならば自然に口遊めるに違いない島崎藤村の詩のみならず、千曲川は万葉時代から多くの詩歌の母となった。長野県以北、下流の信濃川と併せて日本一長い川とされる。
 夏の川原には夏草が高く繁り、川瀬の波が静かな広い水面は、青空と雲の姿をたっぷりと映している。自然の景物は人間の邪悪を吸収しない、とレノンは考えた。この川面にレノンが寄せる情緒は、ふるさとへの思慕ではないが、そのおかげで自分を病院に置き去りにし、別な男と再婚し、造り酒屋の裏方をとりしきっているであろう裕福な主婦への反感を和らげてはくれるのだった。
 この素朴な田舎の景色を見て、毒々しい憎悪をかきたてられるとしたら僕は本当の悪魔だ、とレノンは自分の感情の移り行きを、空の雲を仰ぐように眺めた。悪魔であってもレノンはいっこうにさしつかえないが、緑と水の風景に今登場するのはトンボの群れと白鷺だった。
(僕は上田で生まれたんじゃない。東京の美大生だった依子はどこかのロック青年と一緒になり、僕が生まれ、やがて二人は別れた。東京の思い出もないけれど、僕は六歳で茅野に来るまでどうしていたんだろう。いつまで両親は同棲していたんだろう。レノンが生まれて数年は上田市にいたんだろうか)
突然閃きのようなショックを感じてレノン=亜珠子はごくりと唾を飲んだ。
(レノンはどうして父親を恋しがらないんだ? そうだ、僕のいんちき親父はどこでどうしているんだろう)
 父性への希求がないことの認識は、のどかな信州の景色を眺める眼にいきなり氷のかたまりが押し当てられたような感じだ。
「深刻な顔だな、あっちゃん。ビールでも飲んだら?」
 とジンさんが物思いの鼻先へ氷ならぬ発泡酒の缶を突きだしたので、亜珠子は遠慮なく嫌な顔をした。
「あたし昼間からお酒はちょっとね」
「そう、じゃ俺だけ飲む」
 諏訪で昼食のうなぎを平らげたばかりといいうのに、車中のジンさんはもう酔っぱらいだった。
「どこか見覚えのある風景ある?」
 車は市街地に乗り入れた。湖を繁栄の中心とする諏訪の街並とは異なり、こちらは経済効果優先でランダムに成長したごく普通の地方都市に見える。一見すると西東京あたりのベッドタウンシティの風景に似ているかもしれなかった。
古くからの個性的な商店街があり、大資本のデパートがある。戦国時代に城塞だった上田城に向かって坂が多く、現在の宣伝では真田氏ゆかりの城下町を謳う。上田城址公園は街の中心ではなく、観光特別地域となって市の外郭に保存されている。
 レノン=亜珠子は素っ気なく応えた。
「ないね」
「行きたいところは?」
「安宅醸造の本家が目的地だけど、この大勢でいっきに押し寄せるのはまずい」
「ひとりで行けば?」
「そのつもり」
 亜珠子=レノンはそう言ったあとですぐに、
「あなたも来る?」
 含み声で目を細め、誘うように微笑した。
 へえ、とジンさんは眉をあげた。その口調に聞き覚えがある、ような気がしたからだった。あなたも…アナタモクル…。
(確かにレノンと亜珠子は混じってやがる。あっちゃんの中で主導権を握っているのはレノンなんだろうけれど、あっちゃんのこんな話し方、表情を俺は覚えてるぞ)
女が一線を超えた相手だけに見せる甘ったれた声と視線、絶対に相手が自分を拒まないと承知している媚態。
そんな複雑で淫靡な情緒が、六歳のまま大人になったレノンにあるはずがない。
(こいつはいったいどっちなんだ、まあどっちでもいいか。レノンが憑依しなけりゃ亜珠子は目覚めなかったんだから)
 ジンさんは発泡酒をこくんと飲んだ。酔いはどこかに行ってしまった。だが亜珠子に惹かれた。彼は男の欲望に忠実なので、それに従うことに躊躇はしなかった。
「それじゃ俺の娘ってふれこみで行こう」
 亜珠子は眼を丸くして頷いた。
「あたしも行く」
 ジンさんの後ろからメグがにゅっと顔を出した。無邪気な少女の登場に、ジンさんはほっとしたように顔を緩め、
「んじゃ亜珠子の妹ってことにするか」
相手に疑われる恐れなど皆無だが、器量のいい姉妹二人と父親の家族連れなら、それはもう。

ハロー莉珠子…。
 キャンピングカーのベッドを包む眠りの闇は象牙色をしている、と莉珠子は少し瞼を開けて思った。厚い遮光カーテンや個室シェードを下ろしても、外光はどこからともなく浸み込んで、繭の内部のような薄ら明りだ。
「ポーン、どうしてここに」
 莉珠子は眠気に重い瞬きを数度繰り返し、ようやく寝ている自分の真上、ベッドの天井にポーンの痩せこけた雀斑顔を発見した。
「おはよう、僕がよく見えるだろう」
「何とか映ってるって感じよ。相変わらずチェックのシャツ、赤と黄色と茶色ね。それに西部劇のズボンのようなサスペンダー。……足がないわ」
「このシチュエーションで足は不要だ。それに足は前回特別サービスしたからね」
「ああ、あの」
 へんちくりんなダンス、という下の句は言わなかった。代わりに莉珠子は大あくびをして尋ねた。
「パソコンもないのにどうして二段ベッドの天井に映ってるの? ここでもプロジクション・ワープは可能だったのね」
「この車にはシーザーの監視装置と事故防止のための自動制御システムが入っている。どんなカメラであれわが社のクイーンは侵入する。自家用車やスマホ程度のシミュレーション書き換えなんかお茶の子だ。白い無地の反射板があれば僕はどこでも投影される」
「あそう」
 よくわからないがとりあえず同意する。
「何か用事?」
「呆れたね、君は僕の言葉をすっかり忘れているのか。復活した亜珠子の正体が何なのか不安がっていたじゃないか」
「まあね。だけどあっちゃんのなかみがどうでもよくなったわ。ええと」
 莉珠子はパメラとのセッションの会話を思い出した。
「あたしは今のあっちゃんといて得することのほうが多いもん。だからこのままでいい」
 ちっ、とポーンは薄い上唇の一方を憎らしげに吊り上げた。戯画のような悪役顔だが赤ッ毛のポーンには愛嬌があった。
「僕は君に約束した。君の家にお邪魔するって」
「そう言えばそうだったわね」
 危機感のない莉珠子の返事に、ちっ、とポーンは反対側の口角をさらに吊り上げた。
「今さら言うまでもないが君は大トロ娘だ。亜珠子は昔の人格ではなく、驚いたことに奇妙な亡霊が憑依しているんだぞ」
「……」
「君の観察は正しかったんだ。僕らは監視カメラで亜珠子の一挙手一投足を分析したが、突然覚醒した彼女が多重人格症を発症した可能性もあった。だからシーザーはすばらしい奇想天外を駆使して藤さんを遣わした」
「え、藤さんはシーザーの使者なの?」
「そうだ。ほんとに君はトロいな。シーザーが自家薬籠中の球もしくはただの掌中の珠にして秘蔵する亜珠子莉珠子の傍に、自分の息のかかっていない人物を密着させると思うのか。それがたとえ老婆であっても、だ」
「何のために? 藤さんは認知症で」
「SOSO、シーザーは亜珠子の生理的反応を夾雑物のない、また亜珠子に警戒心を抱かせない〈肉眼〉でキャッチしたがった。スパイを送り込むならできるだけ無垢で空疎な、自分自身の人格を持たない人形に近い肉体。だが最新鋭のアンドロイド技術にしても、それほど高度な人工人体に到達していない」 
 莉珠子の眼と頭はポーンのこの台詞の間にはっきりしてきた。それと同時に恐怖が来た。
「藤さんは、いったい誰なの?」
「ベイビーグランマ・ウィスタリアは君たちの一部から作られた君たち自身でもある。だから本能的に君たちはベイビーグランマをすぐに好きになり、保護し」
「クローンなのね」
 にかっ、とポーンは笑った。莉珠子は怒りとも哀しみともつかない衝動に駆られ、天井画像のポーンに両手でむしゃぶりついた。
「この人でなし! サプリメントを作るだけじゃなかったの? それに……それにユメテルナを飲んで頭がおかしくなった人も」
 莉珠子の両手は幻影のポーンの顔と胸を突き抜け、二段ベッドの天井板を虚しくかきむしるばかりだ。
 ポーンは動じなかった。
「君たちから採取した卵子及び細胞、遺伝子はすべて当社の建設的社会貢献的な恣意の達成に利用する。素材提供の報酬としてシーザーは契約通り全世界のユメテルナ売り上げ純益の1パーセントを月次で払う。それが二十年このかた違反なく、しかも増額する一方で続いているから、君たちは既に悪魔のように大金持ちだ」
「悪魔ですって?」
「大金持ちの天使などいるか?」
 莉珠子は黙った。
 深呼吸をいくつかする間に、莉珠子はポーンの言葉には嘘偽りも違反もないことを確認した。そうだった、自分たちの細胞からエイジレスの夢をかなえるために、クローン幼児が生産されていることは知っていたではないか。その子供たちはシーザーの宮廷牧場で育てられ……育てられ、それ以上その後の彼らのことは気にしなかった莉珠子だ。
 若年性認知症、コーマに沈んでいた亜珠子はどうだったろう。ちゃんとしたことなど何も考えられなかったはずだ。
 ポーンを責められない莉珠子は弱々しく言った。
「クローンは弱いんだって。レプリカは生命力が希薄だと聞いたわ」
「そのとおり。ベイビーグランマは三年前に誕生したが、保護室の中で急速に老いてしまった。亜珠子か莉珠子か、どちらかの遺伝子と、不特定多数の優秀で健康な男性遺伝子との交配で生産されたのだが、残念な子だ」
「藤さんはどうなるの? その前に、藤さんを使ってあなたがたは何を察知したの?」
「シーザーはウィスタリアの網膜と皮膚の随所にミクロン単位のセンサーを埋め込んだ。ベイビーウィスタリア・グランマと亜珠子の視線が合うと、両者の間に言葉以上に感情の交流がある。感情はおおざっぱに説明すれば電磁波の一種だ。発汗や体温上昇、PH、心拍、震えや高揚などの皮膚反応も、相互作用の結果だ。グランマと亜珠子相互間の感情その他、ここ一か月余りの分析によると、グランマが知覚した亜珠子の人格は、多重人格障害者のそれではなく、安定し、統一され、しかも通常より冷静かつ鋭敏な何者かであると推定される。もちろん以前の亜珠子ではない」
「誰それ」
「君の友人たちは彼をレノンと呼んでいる」
「レノン?」
「盗聴でそれはわかっていたんだが、荒唐無稽なポゼッションなどシーザーは容認しなかった。だが今は違う。シーザーはレノンに非常に興味を持っているし、レノンの仲間たちにも関心を示している。彼らはエスパーだ。超常現象そのものは」
「もういいわ。あなたは藤さんをどうするつもりなの?」
 莉珠子は得意げなポーンの饒舌を打ち切った。亡霊がどうのエスパーがどうしたの、そんなことより、自分たちの分身であると明かされた藤さんのほうが大切だった。
「レプリカはひ弱なんだって言ったじゃない」
 莉珠子は涙がこぼれそうだった。罪悪感が……今まで知らぬ存ぜぬで蓋をしてきたクローンたちの末路に対する自責の念で胸がしめつけられる。
「そう、彼女はもう耐用期限が迫っている。もっともそれは彼女を送り込む前に予測されていたから、我々は大切なわが社のベイビーに倫理的配慮を怠っていない」
「あなたのペダンチックな日本語力には敬服するわ。ネイティブだけど睡眠障害のあたしなんかよかずっと格好良く、むつかしい言葉をすいすい脳味噌から取り出すのね。それともポーンなんてただのクイーンの生みだした幻像なの? でもあなたなんかどうでもいいわ、ようするに藤さんはどうなるんですか」
「クローンの死に方はさまざまなんだが、まずもって急激に免疫能力が低下し、癌や多臓器不全その他の病を発症する。実に興味深く、また君たちの奇跡性を証しすることだが、肉体の外見上の若さの持続と、脳を含めた内部の健康を長時間両立できた生体成功がまだないんだ」
「亜珠子さんは若年性認知症」
 そしてあたしはナルコレプシーだ……。莉珠子はポーンの話を聞いているのがつらくなってきた。
「そう、ガラスの部屋であっというまに年をとってしまったグランマも脳の機能不全だった。シーザーはいくつかの日本語記憶を彼女の脳に刷り込み、同時に日本で彼女がどのような運命に翻弄されようとも、いっさい苦痛を感じないで死ねるように、あらかじめゲノム操作したんだ。それはもう一体、ベイビーと同じベイビーを生産することで解決した」
「わけがわからない。藤さんがもうひとりいるってこと?」
 ポーンは怪訝な顔をした。何を言っているのか、と莉珠子の鈍さを咎めるような乾いた口調で、
「ウィスタリアの複製は一体じゃないよ。日本に送り込んだ彼女は、万が一君たちが彼女を保護せず、彼女が路頭に迷ったとき、死の苦痛を感じないですむためのゲノム情報を新たに書き加えて生産された、それだけ」
「痛みを感じない?」
「痛覚の麻痺と同時に知性も衰える。もっとも君たちがウィスタリアをひきとったとしても、異邦での死は苦しいからね。癌にしても白血病にしても、間もなく訪れるベイビーの死は安らかだし、分身を看取る君たちのストレスも最小限で済むだろう」
 ぶつんとポーンの幻影が消えた。それと同時に、がたがたと揺れる車の振動が仰臥したままの莉珠子の背中にはっきりと感じられた。なぜだろう、こんな寝心地の悪いクッションじゃなかったはずなのに。
 莉珠子はぽろぽろと涙を流した。これこそ夢ではないだろうか。
「ポーン、言いたいことだけ喋ってこれからどうするつもりよ。亜珠子の正体がレノンでシーザーが興味を持ってるって。レノンの友人はエスパーで、藤さんはもうじき死んじゃうんだって……。あたしたちのクローンだった藤さんはシーザーの用が済んだらいらないから……死ぬとき痛くないからそれでいいでしょって言い草なにそれ」

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