さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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ラスト・マザー・イン・サマー  Pth 14  fin

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  ラスト・マザー・イン・サマー
 
 八月一日から立秋まで安宅醸造で無料試飲コーナーがあるって、とメグはスマホで探し出した。観光客めあてのイベントが盛りだくさんなシーズンだ。
「それいいね、ちょうど今日が一日だ。何時からなの?」
 ジンさんは早速身を乗り出した。
「十時から夕方五時まで。五時以降は有料バーになるんですって」
「場所どこ?」
 メグがスマホ画面を読み上げる前に亜珠子は言った。
「三好町に酒蔵があったと思う。バーは別かな」
「試飲は鷹匠町ってある」
「なら今から行けば結構飲めるぜ」
「ジンさん、飲み放題じゃないからね。あくまでも試飲よ」
 亜珠子=レノンがたしなめるとジンさんは
「俺そんな意地汚くないよ、見損なうな」
 澄ました顔で答えた。
 キャンピングカーはその晩美ヶ原に泊める予定だったから、当座は上田城周辺のパーキングに入れることにした。シーラに電話すると彼女も同行すると言ってきた。
「総花試飲ツアーだね。羽戸さん、ミネちゃん留守番で悪いなあ」
 千香子はあっさりと、
「いいわよ。飲みが目的でシーラについてきたわけじゃないし」
 失調した藤さんの他に、まだ目が覚めない莉珠子、駿男と泰地、羽戸が車中に残った。今のところジンさんはまだ一度もドライバー席に座っていない。
 上田城から鷹匠町までは歩いて行ける。シーラは昨夜とはうって変わってナチュラルな紺のシャツブラウスに赤いパンツ姿だった。洗練されたデザインは特に奇抜な取り合わせではなかったが、飛びぬけた背の高さと着こなしの良さ、歩く姿の水際立った美しさは、帽子やサングラスで顔を隠していても、日常を歩く人垣に紛れようもなかった。
 安宅醸造は、表通りに古風な商家の居住まいを残した白漆喰に連子窓の店構えを出していた。よく手入れされた塗り壁の純白があざやかで、昔のままの瓦屋根や木組みも磨かれた艶を保っている。前近代の間尺のためか周囲の新しいビルや商店と比較すると、あまり大きな建築という印象はない。軒先にぱらりと藍の長暖簾が下がり、家紋が白く染め抜かれている。南部鉄の風鈴が深い軒のどこかに下がっているらしく、陽炎のゆらめきのぼる八月油照りの路上に、水を打つような透きとおった音色が絶えず響いている。
 初日の試飲コーナーは既に人気で、一行が暖簾をくぐると奥まったバー・コーナーには十人近い男女が用意された丸椅子に座り、美酒を楽しんでいた。
「広いね、それに涼しい」
 メグは嬉しそうにきょろきょろした。屋根を大きく造る日本建築は外見より内側のほうがひろくたっぷりして感じられる。クーラーはなく、勝手口から表まで開け放った自然の風と風鈴だけが涼のよすがだが、炎天から入るとひいやりとした空気の流れに汗も退く。
(レノンはここに見覚えがあるか?)
 レノン=亜珠子は高い天井や店内両側の壁を埋める和洋とりどりの酒瓶酒樽の並びを見、清潔に浄められたコンクリートの床を眺めて自問した。店の奥、勝手口のほうに小さな庭があるらしく、薄暗い通路の向こうにまぶしい緑蔭が見え、そこからの風の通り抜けと一緒に油蝉の声がかまびすしい。
(幼児のレノンは依子に抱かれてここに着たことがあるのかもしれない。僕は小さな手で安宅と書かれたあの一斗樽や、ガラスのショーケースをべたべた触ったかもしれない。依子はどんな顔をしているんだろう)
 CAMOSSのマダムの顔が思い出された。
 懐かしさとは違うが、ここにいるはずだったもうひとつのレノンの時間が悲哀を帯びてふくらんでくる。それはパラレルよりも具体的で、現在の彼の時間とは相いれない悲哀だった。レノンはじめじめした感情が嫌いだから、たった今心にふくらみかけた悲哀の感情を無造作に圧し潰した。すると安宅醸造本店の景色は、まるで偶然アルバムからこぼれ出た見知らぬ土地の古いモノクロ写真のようにごく一般的な郷愁で眺めることができた。
天井には昭和風に長い蛍光管が並び、太い梁から煤のこびりついた登山用ランプが何台も下がっている。誰か家人に山登りの趣味を持つ人物がいるのだろうか。
 従業員がやってきてお辞儀をした。試飲用の白陶器のぐい飲みを丸盆に乗せて差し出しながら、メグを見て、
「申し訳ありませんがお子様は御遠慮いただだきます。かき氷などもございますので」
 それからあらためて、シーラと亜珠子、メグとジンさんを眺め、中年の主婦らしい店員はおずおずと、
「あの、恐れ入りますが何か、雑誌かテレビの取材さまでしょうか」
「いいえ」
 亜珠子は首を振り、丸盆からぐい飲みをとりあげた。底に紺色の三重丸が描いてある。
 丸盆を捧げたおだやかな容貌の主婦は、少女とも成人ともつかない、初々しい亜珠子の容姿に困ったような顔をした。亜珠子はそ知らぬ顔で、
「ここに来る前に、諏訪のCAMOSSでディナーをいただいたんです。麗呑ってお酒がそこのおすすめだったから皆で飲んで、美味しかったので、ここへ来たんです」
「まあそうですか、ありがとうございます」
 店員はほっと表情を緩めた。
「あそこはお料理も素敵でした。ここの息子さんだっておっしゃってました」
「はい、リンゴさん」
 頷く店員に亜珠子はつるつると言葉を継いだ。
「そのシェフに、麗呑って名前はどういう謂われがあるのかってお訊きしたんですけど、わからないっておっしゃって。おばさんご存知ですか? すごく綺麗な名前ですよね。日本酒ってみんな夢のあるネーミングだけど」
「リンゴさんわからないって言いました?
それはすみませんねえ、ほんとに気のいいおぼっちゃんで。知っているはずですけど、お嬢様たちがみんな可愛いから、きっとフリーズしちゃったんでしょうね」
 店員は口を手にあてて、コロコロと笑った。ただの使用人にしては物腰が上品だった。
「教えていただけますか? れのんって読むからあたしはジョン・レノンかなって思ったんですけど」
「お待ちくださいね、今主を呼んできますから。間違えちゃいけませんからね」
 小太りの体を身軽にひねって店員は試飲客の間をすりぬけ、カウンターの奥へ消えた。
 その間にジンさんその他は、難なく他の観光客に立ち紛れ、とっかえひっかえ何種類かの銘酒を楽しんでいた。
メグはいちごのかき氷を食べている。ピンクのかき氷にはなんとトッピングに安宅の甘酒がとろりと注がれている。シーラは利き酒を断り、メグと同じかき氷だが、甘いシロップ抜きの酒氷をしゃくっていた。ぐい飲み試飲の代りに氷サービスもしているのだった。かき氷はガラスの器だが、酒氷は焼き印の入った檜の二合升だ。それも気が利いていた。
 どうも…、と日焼けした顔の店長が奥から現われ律儀に頭を下げる。亜珠子は先走って尋ねた。
「社長さんですか?」
「ええ、そうです。諏訪の店までありがとうございます」
 赤く焼けた顔の目元に深い笑い皺がある。ほとんど禿げに近い白髪頭から顔、太い首まで地続きの土地のように丈夫そうな厚い皮膚をして、店のロゴ入りのTシャツに膝から下を切り離したデニムの半ズボンにゴム草履、首に日本手ぬぐいをさげている。年のころは六十代前半というところだ。一見してがっしりした体格以外リンゴに似てはいない。スマート、ハンサムとは言い難いが、見るからに人好きのする社長だった。
「麗呑の意味はですね」
 彼は亜珠子を顔から足までおおざっぱに見てにこにこした。めっちゃかわいいなあ、と嬉しがっている感情が眼鏡の奥の目に現われている。
(わかりやすい性格は息子…リンゴと同じなんだ)
 レノンは心がきしむような気がした。だが笑顔を浮かべた。とびきり可愛い笑顔を。
「あれ、ジョン・レノンなんですよ。家内が好きでして。若い人受けするスパークリングを企画したとき、これにしようって奥さんの意見を通しましたら、当たりまして。いやあ、ビートルズは永遠ですねえ」
 そこでさらにレノン=亜珠子は踏み込んだ。
「奥様ってセンスいいですね。さっきの方ですか?」
 と別な接客に回ってしまった中年女性を目で探すふりをした。社長は、ちょっと眉を曇らせ、
「いや、家内は療養中で店にはいません」

 簡易ベッドの個室シェードを開けると、ドアを締め切ったキャビン内部はベッドのほうより暗かった。そして寒い。クーラーが効きすぎではないか、と莉珠子は上着を探した。無痛症を発した藤さんの自律神経失調を危ぶみ、エアコンをフルに稼働させており、暗さはそのバッテリー節約のための消灯だったが、莉珠子にはわからない。冷気や薄暗さよりも、しんと静まり返っていることが気になった。
(亜珠子さんはどこ? 彼女の正体はレノンだってポーンが言った。そして皆レノンの仲間だって。ジンさんもそうなの? 確かめなけりゃ)
「ジンさん、あっちゃん、どこ? 寝ているの」
 相手を探す呼び声はすぐに小さくなった。クルーの安眠妨害に気付いたからだった。キャビンフロア両脇の二段簡易ベッドのいくつかはシェードが降り、寝息も聞こえる。どこに亜珠子がいるのか。そもそもここはどこなんだろう。
「あら、莉珠子さん起きたの?」
 後方から羽戸千香子が顔を出した。そこは藤さんのベッドでもある。藤さんの隣で千香子は寝ていたが、ただならぬ莉珠子の気配に目を覚ましたのだった。
 千香子のいつもと変わらないさっぱりした笑顔を見た莉珠子は、逆にわけもなくかっとなった。それで血相変えて叫んでしまう。
「先生、先生もレノンの仲間だったの?」
「え、え?」
 莉珠子はばたばたと千香子の方へ飛んでいった。早口で、
「先生、今ポーンが来たのよ。それで言ったわ。亜珠子のなかみはレノンて幽霊が憑依していて、皆そのことを承知している。知らないのはあたしだけだって。それ本当ですか」
「ちょっと落ち着いて野川さん」
「それでねそれでね、藤さんはポーンとシーザーが我が家に送り込んだスパイなんだって。あっちゃんの人格が何なのか確認するためにわざと認知症のおばあちゃんをシーザーが寄越して、それで」
「野川さん、お話を伺う前にちょっと水分補給をしましょうか」
 興奮状態の相手を前に、職業柄自然に診察口調になった千香子は胸元に喰ってかかる莉珠子を腕でかるく押しやり、枕元に用意したスポーツドリンクのボトルを渡す。起き抜けに逆上した莉珠子は喉がカラカラだったので、貰ったボトルを素直に両手で掴んだ。
「ああおいしい」
 飲み終えてボトルを口から離し、ふう、と息を吐く莉珠子は、先生の前の中学生のように可愛らしい。千香子は静かにゆっくりと、
「ポーンがアメリカからあなたの個室にプロジェクションしてきたの?」
「はい、さっき。アメリカが発信地かどうか本当のところはわからないんだけど」
 ほのかに甘いドリンクのおかげで莉珠子は幾分落ち着いた声に戻った。
「凄いわね、このキャンピングカー自体シーザーのオーダーなんじゃないかしら」
 千香子はすんなりとかたちのよい足を組んでベッドの端に座りなおした。
「さっきの質問の続き。先生、あっちゃんの中身がレノンてほんとなの?」
「ええ、そうよ。わたしは彼を昔……といっても五年ほど前だけど、茅野のミカエル病院で担当していた医師なの」
「そうだったんですか! それであたしたちに付いてきたの? じゃあ、パメラとは」
「パメラは……彼女とはまた別な偶然で知り合いになったのだけれど、文脈が逸れてしまうから今は無関係にしておきます。そう、亜珠子さんの肉体をレノンが占領しているわ」
「レノンて誰なの?」
 なにを朝っぱらから揉めてるんですかあ、と脇の個室がまた開いて、半白髪の駿男がぬっと這い出した。するとその上段のベッドから、ジーンズの裾を二つ折りにした足がまずぶらっと現われ、どすんと泰地が床に降りてきた。泰地は気の毒そうな顔で莉珠子に、
「だいたいいつまでも隠し通せるわけなかったんだよ。りっちゃん、僕ら君を騙すつもりじゃなかったんだ。だってレノンを亜珠子さんから引き離したら、また亜珠子さんはコーマに戻ってしまう。りっちゃんもレノンの亜珠子とうまくいってたみたいだし」
「だからレノンて何ですか」
 莉珠子がまたいらついてきたので千香子は、
「生まれつき重度の心臓疾患だった彼は六歳から三十三歳まで意識不明のまま、星隷ミカエルにいたの。彼は三年前に亡くなり、だけど彼の霊魂は成仏したくなくてあちこちさまよい……」
「あんちくしょう、うちの娘に寄生してたんだよね」
 と深刻度ゼロの声で横から駿男がぼやき、よぉいしょっ、とじじむさい掛け声とともに腰を撫でながら上半身を起こすと、
「ミネちゃん冷蔵庫の中からスポドリ取ってくれる。いやあ五十八歳高齢接近オヤジには、この冷房は足腰に来るね。なのに喉が渇く」
「外気35度ですからね。路面輻射で体感温度は限りなく赤道直下状態。それに風間さん結構運転してますもん。ジンさん狡いよ、もともと亜珠子さんはジンさんにドライバー頼んだのに、全然ハンドル握らないんだから」
「えー二日酔いの彼の運転で安眠はできないよ、命がいくつあっても足りんわ。それなら腰痛体操しながら俺が回したほうがはるかにましだ」
「あやっぱそう思います? 僕も同感す」
「今夜またどっか温泉行こうよミネちゃん」
「だから、レノンの話をしてってば!」
 莉珠子はキャビンの真ん中に仁王立ちした。

 ふたたびコスモスに吹く風の中。
 星隷ミカエル病棟の聖堂が嵐を含む東風の向こうに見える。その風は白とピンクのコスモスの群落に彩られている。
東シナ海からの低気圧とともに信州上空にせりだしてきた重い鈍いろの雲と、地上の淡い桜いろのうねりとのはざま、ひたむきに祈る手の姿のように聖堂の細い三角屋根が夏空にそそり立っている。
森の木立ち以外、周囲に高い建物が何一つないので、ミカエル聖堂はとても孤独に、また清らかな人の姿に見えた。聖堂の天辺に頂く十字架は、厚い雲間から時折こぼれる真夏の陽光に、その都度きらりきらりと強い力で輝くのだった。その輝きはあたかも地上から天上に向かって放たれる切れ切れの唱(うた)のようだ。憐れみたまえ、キリスト憐れみたまえ、めでたし元后……憐れみの母……。
今夜遅くか明日の早暁、台風がこちらへ上陸するかもしれない。
「おっかさん、ここに入っていたとはな」
 ジンさんはジャケットのポケットからミンティアのケースを取り出し、何粒かを口に放り込んだ。そして亜珠子に差し出す。
「食べる?」
 いらない、と亜珠子は丘の中腹で立ち止まり、首を振った。
 この位置ではまだ星隷ミカエル病院の新築病棟は見えない。聖堂の尖端だけがコスモスの花の上にある。下のクリーム色の現代的な建物のどこかに心を病んだ安宅依子が一年前から入院しているという。
 昨日安宅醸造本店の試飲サービスから戻った亜珠子=レノンは、キャンピングカーに戻るとすぐにシーラに頼んで、パソコンから安宅醸造の管理会計データに侵入したのだった。老舗だが家族経営の有限会社である安宅醸造の帳簿は、大きな出費は公私とりまぜてひとつのデータに保存されているはずだ。そう睨んだのはレノンで、もう一つ想像通り、会計ソフトのセキュリティもごく一般的なものだったので、やすやすと読み込むことができた。
昨年秋以来、安宅醸造の会計から星隷ミカエルに月々の入院費が振り込まれている。
 閉鎖病棟だが、面会の予約は簡単だった。
「姪ってことにしたの。ジンさんはあたしの父親で、彼女のお兄さんだと」
「そうかい」
 亜珠子とジンさんは上田から二人だけのレンタカーで茅野にやってきた。ジンさんは亜珠子との最初のドライバー契約を初めて果たしたことになった。
登り坂で立ち止まり、なかなか前に進めない亜珠子=レノンの様子に、
「おい、かわいそうだな、あっちゃん、いやレノン、気が重いか? 無理して逢う必要なんかないだろうに」
「いいえ、あるのよ」
 強い風に飛ばされそうな帽子を頭上両手で抑えて亜珠子は笑った。気のせいか、ジンさんの目にはかぼそい笑顔に見えた。
「だってレノンはそのために目覚めたんですもの」
 だな、とジンさんは口の中で呟きミンティアを噛み砕いた。夏帽子の影に顔を伏せた亜珠子の横顔を見つめてジンさんは考える。
(こいつは今どっちの人格なんだろう)
 耳と目に入ってくる亜珠子の姿は、レノンの演技にしても、優しく柔らかかった。
 精神科の入口は一般病棟と別れており、これもレノンの予想通り受付も別人だった。こちらはブルーの制服を着た三十代の青年で、亜珠子とジンさんの二人連れは難なく面会室に案内された。リノリウムの床に丸テーブルと椅子が四脚。テーブルの上の花瓶には、オレンジのニッコウキスゲと薄紫の都忘れが活けてある。五人ほどの職員が聖母子のステンドグラスのこちら側のメインステーションに詰めていた。一般病棟もそうだったが、こちらでも閉鎖病棟の入口は青と赤の聖母子の飾り窓で隔てられている。
「本人の状態が良ければ、直接叔母の部屋に行きたいんですけど。叔母に会うのはしばらくぶりですし、ここ、なんだかよそよそしい感じでお互い緊張しそうです」
 待合室に入ると、亜珠子はきれいな声ではっきり言った。案内してくれた水色の制服の男性職員は笑顔に困惑を混ぜ、
「そうですか。安宅さんは最近割合落ち着いておられますから、可能だと思いますよ。しばらくお待ちください」
 それからすぐに二人は安宅依子の部屋に導かれた。
 まっすぐな無垢材を張った白い廊下の両側、左右対称に長方形のドアがある。天井が高く、廊下の幅が広いので息苦しさは感じられない。簡素で質の良いホテルのフロアを歩いているようだった。それぞれのドアの横に、ガラスの一輪挿しを置く細長い猫足の物置きが据えられ、その斜め横の壁には、やはり一枚ずつ中世ミニアチュールのイコンの額絵が飾られている。レノンはそれに見覚えがあった。
「この絵は」
 思わずまた立ち止まる。職員が、
「複製ですけど、いや模写かな? 旧病棟の焼け残りですよ。火事のとき、誰かが持ち出したのか、所蔵の美術作品はずいぶん残ったんです。有名な作品なんですか?」
 尋ねられて亜珠子はつつましく、
「いいえ。たぶん初めて見る絵ですけれど、なんだかなつかしいわ」
 と答えた。ジンさんは黙って亜珠子の横を歩きながら、鼻をひくつかせ、
「ラヴェンダーの香りがしますね」
 職員はジンさんに驚きの目を向けた。
「鋭いですね。これも旧病棟の古き良き慣習を残しているんです。香料は茅野の女子修道院の製品です。アロマテラピーはこのごろ精神安定効果が科学的に証明されましたしね」
 額絵の下の小机に野花が活けてあるのも、レノンが眠っていたころのままだ。
(レノンの記憶はここから始まっている。もう焼け落ちてしまったミカエルの病棟から)
 中庭に面したガラスがガタガタと激しく鳴った。台風の予兆だろう。嵐の音はレノン=亜珠子の寂しさと虚無感を荒々しく塗りつぶしてくれる。依子と会ったとして、それが何だろう、何になるんだ。
(何も変わらない、だけど)
 どうぞ、と職員はいくつめかのドアを開けた。
 白いベッドと南向きの窓に面して書きもの机、椅子。椅子は三つあり、ひとつは机に備え付けの木の椅子で、一つはクッションのついた来客用の肘掛け椅子。もうひとつはパイプ椅子だった。
真正面の窓から見える風景は森を背負ったコスモスの群落だった。次第に激しくなる風に揉まれ、まだ陽射しの中にある花の波は樹々の梢のように揺れ動いている。空は雲に埋められてさっきよりさらに暗い部分と、なお鮮明なまばゆい濃青の部分とが入り乱れ、その明暗は病室の入口にほんの少し佇んでいる間にも刻々と移り変わってゆく。
ベッドの端に腰かけて窓の方を眺めていた依子は寝間着ではなく普段着だった。青い薄手のカーディガンに白い上着、パンツも白い。薄茶色の髪は肩のあたりで切りそろえ、ヘアバンドをしている。半分以上後姿の逆光の影のかたまりから、訪問者の気配に気づいた依子は滲むような速度で振り返った。
「おばさん、おひさしぶりです」
 ごゆっくり、と小声を残して職員は去っていった。亜珠子=レノンはもう一度、
「元気そうね、前より、ずっと」
「そう、あなたは」
 この娘は誰だったろう、と首を傾げて亜珠子の顔をしげしげと見る安宅依子の頭に目立つ白髪がないことにレノンは驚いた。若い女の黒髪ではないが、全体に色素が薄くなり、薄茶色をしている。そして両目も髪同様淡い色なのだった。
(ミカエルで眠っていた頃、僕も髪や肌から色素が抜けて金髪みたいになった)
 眼の前の依子が確かにレノンの母親だ、という実感が全身に湧きあがった。
が、依子は無表情だった。向精神薬のためか、力のない視線が、ふわふわとゆらゆらと亜珠子とジンさんの上を何度か往復したが、病んだ心から伸びるまなざしの触手は、初対面の美少女のどこにもつかまることができず、やがて力なく窓の方へ戻ってしまった。
(オカアサン)
 レノンはつぶやいた。リンゴとCAMOSSのマダムより依子は繊細な顔立ちをしていた。やつれは目立たず、顔も姿もこざっぱりとしていたが、内側で分解してしまったものを完全にまとめきれないでいる、どんよりとした弱々しさが依子の表情に浮き出ていた。
 窓の方を向いてしまった依子にレノンはすっと一歩、二歩近づいた。
「お母さん、レノンのことおぼえてる?」
「……」
 おい、よせ、とジンさんが亜珠子の手首をつかんだが、そのまま亜珠子は依子の傍に寄り、一音ずつ区切りながら、
「れ、の、ん。あなたがここに置き去りにした病気の子供を覚えていますか」
「……」
 レノンはジンさんの手を振り払い、両手で依子の肩をつかんだ。
「おかあさん、僕レノンなんだ」
 レノンが揺さぶる勢いで、がくっと上顎を逸らせ、依子は薄茶色の目で亜珠子を見た。あたかも熱烈な口づけを待つように依子の唇がレノンの顔の真下で半開きになり、肉の薄い鼻筋と色素の薄くなった髪と瞳が揺さぶられ、抗うでもなく、ただ力なく乱れていた。
(思い出せ、あなたは僕の名前を酒に冠せたんだ。会いたかったと言ってくれ、覚えていると、息子を捨てたことを)
「レノンなんだ、わからないのか」
「やめろ、落ち着け亜珠子、君は今レノンじゃなく亜珠子なんだぞ」
 ジンさんは後ろから亜珠子の上半身を抱え込んだ。亜珠子はもがいたがすぐに力を抜き、ジンさんに抱えられたまま床に座り込んだ。
「泣けよ。おまえ泣くしかないだろうが」 
 ジンさんは羽交い絞めにした亜珠子の長い髪に額を押しつけて囁いた。レノンは答えた。
「泣いてるさ、最初から」
 だが見開かれた亜珠子の両目からは一滴の涙もこぼれなかった。拭き磨かれた病室の床に自分=亜珠子の長い髪のきれいな端がさらりと流れ、投げ出されたジンさんの足、それから安宅依子の白いパンツの裾が見える。彼女は青いリボンのついた可愛い室内履きを穿いている。
青いリボンはベッドからたちあがり、すすす、と床をこすって机の方へゆき、また戻り、レノンの聴覚に薄い書物のページを繰る音、それから声が降ってきた。
「ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周囲にいた二歳以下の男の子たちを一人残らず殺させた」
(なんだって?)
(仕方がなかったのよ)
 鸚鵡返しにレノンに応えた声はレノンの中からの反響だった。
(ある奇蹟を…壊れやすい繊細な心を持った安宅依子が新しい人生を選び取るために、無垢なあなたを犠牲にしなければならなかった。命が生まれ、育ち、幸福を掴み、長く生き延びてゆく過程は、そのすべてが奇蹟の偶然)
(亜珠子、口を出すな)
 安宅依子の朗読は続いた。
「こうして預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。

  ラマで声が聞こえた
  激しく嘆き悲しむ声だ
  ラケルは子供たちのことで泣き、 
  慰めてもらおうともしない
  もう子供たちがいないから

あたしは…あなたにこれを読んだの。眠ったままの坊やの枕元で。聞えないかもしれないけれど、こんなに言い訳しなければあなたと離れることができなかった。何度もこの部分を読んで、世界にはこんなひどい殺戮もあるんだとあなたと自分に言い聞かせ、あなたを残し、そして二度とミカエルには戻って来ないつもりだったのよ」
 レノンは顔をあげた。青いカーディガンを羽織り、白い服、痩せた手首を頬に添え、俯いてこちらを眺め降ろしている依子の細い顔に涙が静かに流れていた。
(あなたはここに戻ってきた。あたしはあなたを覚えていますよ。忘れてなんかいない。だって今現在のあたしの人格がばらばらになってしまっても、坊やの記憶は大きなガラスの破片のようにそのままあたしの中に残っている。あなたはまるごとガラスのかけら)
(オカアサン)
(たくさんのたくさんの罪のない幼児が殺されたんだもの。それが主の思し召しにより。だったらあたしが自分の子を捨てたって…)
(殺されているのよ、今も、あたしたちの子供が) 
 依子と亜珠子の声がレノンの中で錯綜する。
(無垢な子供たち、あたしの分身が殺戮されている。ヘロデの虐殺よりもたくさん)
 レノンはジンさんの腕からもう一度たちあがり、吸い寄せられるように植物たちが嵐の前触れに騒ぎ立つ病院の庭を見た。無数のコスモスはまだ茎の上でひらひらざわざわしているだけだ。だが今夜嵐が襲って来たら、脆い花のうてなは吹き飛ばされ、はなびらはちぎれ、それらの幾十、幾百の花の蕊はもしかしたら嬰児の顔で泣き叫ぶのかもしれない。そしてねじれた時間軸は一か月前の銀座久我ビルに入っていって、暴風はギャラリー壁面のイルカの海をなぎ倒し、亜珠子とジンさん、羽戸千香子を驚かすのかもしれない。
(ここから始まるんだ、ここから)
(坊や、あたしの子供たちを助けてちょうだい)
 この声は亜珠子か。レノンは両の拳を耳に押しつけ、かぶりをふった。聞くまいとしたが、内側からの訴えは消し去ることができない。悲しげに、しかし強い意志を持って亜珠子の声は言った。
(あなたの同胞が今も殺され続けている。シーザーに利用された藤さんもやがて死ぬわ、そしてあたしの細胞から増産された数限りないサプリメント用赤ちゃんたちがシーザーの牧場で累々と死体を並べる)
 耳鳴りにこらえかねてレノンはガラス窓に額を強くおしつけた。内側からハンマーで頭蓋骨をがんがん殴ってくるようだ。
(僕に何の関係がある。僕はレノン。亜珠子のクローンは僕の兄弟じゃない)
(いいえ、坊や、あなたはあたしの中にいる。あたしの肉体に宿り、あたしの記憶を滋養にし、あたしの血と肉をあなたの魂は食べている。安宅依子とあなたの縁はすでに前世のもの、この世ではもう終わったの。あたしはマザー。あなたの新しいマザー。レノン、亜珠子と一緒にニューヨークへ行くのよ)
(なんだって?)
 頭痛に耐えかねてレノンはガラス窓の上で身悶えた。動顛したジンさんがその肩を抱きしめる。
「どうしたんだ。レノン、いやあっちゃん」
(あなたの知力と狡猾、怜悧を駆使してシーザーと亜珠子との契約を解消するの。もう十分に報酬はいただいた。あたしの肉体はもうじき命を終える。そして残された莉珠子があと何十年生きるにせよ、使いきれないほどの資産は保証されています。レノン、あなたはシーラとともにアメリカへ行き、シーザーと交渉してください)
「なぜシーラなんだ」
 頭の痛みと苦しさのあまりレノンは子犬のようにジンさんの腕に噛みついた。わっとジンさんは叫んだが、レノンの耳元に向かって怒鳴った。
「え、シーラが何だって?」
(コングロマリットシーザーと取引するには亜珠子ひとりではだめ。シーラは欧州セレブリティの裏表に無数の人脈血脈を持つデュランテ・スクリーヴァのやがて当主となる。彼を後盾に利用しなさい。さもないとシーザーは、飛んで火に入る夏の虫とばかりに亜珠子と莉珠子を捕獲して日本に帰さないわ)
「勝手に仕切るな、僕に命令するな」
「誰も何も言ってないよ、あっちゃん、それとも苦しがってるのはレノンなのか」  
 答えはなく、がくんと亜珠子は気を失った。ジンさんは依子のベッドに亜珠子を横たえ、病室のドアの傍からガラス花瓶を持ってくると、キスゲの活花を抜き取り、気付け水代わりに顔の上に振りかけた。
「あっちゃん、聞えるか?」
 ジンさんの後ろに立った安宅依子は、意識を失った亜珠子の寝姿をじっと見つめ、ふたたびぱらりと聖書を開いた。
「ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現われて言った」

  起きなさい。
  子供とその母親を連れて
  イスラエルの地に行きなさい
  この子の命を狙っていた者どもは
  死んでしまった。

 ジンさんが唇に垂らしたキスゲの水を、亜珠子は眼を閉じたまま、ちらりとピンクの舌の先を出して舐めた。それから微笑が浮かび、
「夏の味がする」
「大丈夫かあっちゃん、それともレノン?」
 いいえ、と仰臥した亜珠子はようやく栗色の瞳をぱっちりと開いた。野の精気を吸ったかのように活き活きと潤うまなざしでジンさんを見上げ、
「ニューヨークには莉珠子も連れて行かなければね。あたしはマザー、今のあたしは新しいマザー」

       (パメラ・セラフィスト 了)

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