さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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サイコ・ヒーラー 4 ベリル

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4 ベリル

 タイジは、月曜日から木曜日まで、介護ヘルパーの仕事をしています。
 あの世とこの世が交錯した落雷突風打ち上げ花火みたいな土曜日のあくる日曜日、いつもなら、午後から久我ビルで〈花絵〉のギャラリー番をつとめるはずなのですが、さすがに衝撃でひっくりかえって丸一日、アパートで爆睡してしまいました。
美大の三年から実家を出て、駅ひとつ離れた町に、タイジは六畳一間にキッチントイレ付の部屋を借り、卒業したあともそこに住んでいます。お風呂は銭湯だったり、週一、二回くらい、洗濯物を積んで自転車で実家に帰ったついでに、シャワーで済ませたりして、彼なりに節約していました。
福祉系の仕事を始めたのは、二年前、大学を出てからのことでした。ちょうどその前後、銀座のギャラリーのオーナー企画が稼動しはじめ、でもそんな収入では、とうていお小遣いにも足りないことはわかっていましたし、両親は息子のアート活動には干渉も反対もしませんが、どういう生き方をするにせよ、ノーワークノーペイ、自分の食いぶちは自分で稼げ、とあらかじめ言い渡しました。
 気のいいタイジはあれやこれや考えた末に、高齢社会の到来につれ、キツかろうがなんだろうが、ともかくも手に職をつけようと、さしずめ一生食いっぱぐれのなさそうな福祉職をやってみることにしました。
 きっかけはもうひとつあり、タイジのお母さんが、全国展開の非営利団体福祉サービスに関っていて、地域の高齢者ケア現場で働いていたからでした。
 タイジが入れてもらったのは、隣町に住むお母さんとは違う、自分の住所地の事業所です。人手不足の介護業界でも、ボランティア色の強いこの団体では、一般企業よりさらに人材が集まりにくく、タイジのように身元のしっかりした体力自慢の若手男子は、無資格でも大歓迎されました。
タイジにとって好都合なことには、この団体は世間ふつうの企業と違って、個人のワークの量や時間帯などかなり融通がきき、アート制作やギャラリー関連のスケジュール調整ともうまく折り合いがついたのでした。
 資格は働きながらとればいいし、仕事は現場でおぼえればいいの、としっかり者の先輩主婦たちに叱咤激励されつつ、あちらこちらの訪問ヘルプにかりだされ、それまでも、いちおう実家を離れての自炊生活ではあったから、炊事洗濯まずどうにかこなせましたし、
人に好かれる陽気なタイジは、さほどの抵抗なく、あちこちの利用者さんに可愛がられ、いつのまにか丸二年になったのでした。
 今では、訪問介護のほかに、この非営利団体の経営するデイサービスにも、水曜日と木曜日の二日間、つとめています。
「ひゃー。夢も見ないで睡眠時間二十時間だよっ」
 と目覚まし時計のベル音+携帯アラームのデュエット二十回くらいで飛び起きたタイジは、月曜の朝九時から仕事に周りはじめ、午前中に掃除洗濯一軒、そのあと昼食づくりに一軒。すこし時間をおいて、夕方から晩御飯の支度そのほか雑用ワーク一軒と、自転車で町中を飛び回るのでした。
 月曜日のおしまいワークは、市街中心部のマンション住まいの八十代男性でした。
国際的にも相当有名な写真家だった彼は妻と別れた後再婚せずに、ずっと気ままな独り暮らしを続けていましたが、数年前に糖尿病と脳梗塞をわずらい、左片麻痺となり、リハビリしながら、家事全般をヘルパーの生活援助に頼っています。
「こんばんは。峰元です」
「待ってたよ。ミネちゃん」
玄関チャイムを鳴らしてから、しばらく待ちます。やがて一本杖をついた先生が、ゆっくりと内鍵を開け、往年のエネルギッシュな面影の残る笑顔で迎えてくださいました。独り暮らしでも整容に気を配り、オトコお洒落を怠らず、襟のきちんと伸びたあざやかなオレンジレッドのポロシャツが、お年を召されても精悍な顔によく似合っていました。
こまかな家事などこなせないにせよ、先生は排泄や食事その他、自分の身の回りの始末いっさいは、きちんと自立されていました。入浴は週二回のデイケアを利用しています。
「お変わりありませんか?」
「ああ」
「今晩何召し上がりますか?」
「焼きそばでも作ってもらおうか。知り合いから横浜中華街特選の何とか、餃子詰め合わせが来てるから、それもいっしょに」
「買い物はどうします?」
「まだ大丈夫じゃないか。冷凍野菜も残ってるし、おとといのヘルパーさんが作りおきしておいてくれたキュウリの浅漬けなんかもあるだろ」
「じゃ、それで」
 事業所ロゴ入りエプロンをかけたタイジは手際よく冷蔵庫のなかみを確認すると、食材をとりだし、キャベツや人参を食べやすい大きさに切り、豚肉のコマギレも小さめに刻みわけます。
「これに餃子は、ちょっとオーバーカロリーじゃないスか?」
「そうかね。血糖値は安定しているが」
「先生、インシュリン忘れずにお願いします」
「お、そうだった」
 と、ダイニングに腰を下ろした先生は、ポロシャツをまくりあげておなかをさぐり、おへその周りを清浄綿で消毒すると、いとも無造作に注射針をぶすりと刺しました。
「ヘソ回りが注射で硬くなって、タコができそうなぐらいだよ。肉が硬くなるついでにハラの脂肪も落ちにくくなる」
 苦笑いする写真家先生です。
「節制されてますから、顔色もいいですし、ホント、お元気ですよ、先生。麻痺もだいぶ回復されましたし」
「今のデイケアのリハビリがうまくてね。介護も結局は相性だねえ、ミネちゃん」
「そうですね……餃子どうします?」
「二個ぐらい焼いてよ。君もいっしょにどう?」
「それはまずいッすよ。ぼく仕事中」
「かたいこと言うなって。とっといても僕以外に食べるヤツいないから。君は晩メシまだなんだろ。それともウチに帰るの」
「いえ、寝部屋に戻ります」
「寝部屋か。いいねえ、若いって。ぼくも学生時代は貧乏暮らしして、食うや食わずで金をためて、あっちこっち撮影旅行したもんだよ。なつかしいなあ。ミネちゃん、お父さんは元気か?」
「おかげさまで」
「まだ海外?」
「はい。今ミラノかな」
「お母さんはついていかないのかい」
「めいめいマイペースな家族なもんで」
「それも気楽でいい」
 偶然ですが、写真家先生と工業デザイナーのタイジのお父さんは、仕事を通じて顔見知りだったのでした。
「ここで食べないんなら、持ち帰っておかずにしなさいよ。黙ってればわからないから」
 結局タイジは詰め合わせの餃子を半分解凍調理し、先生には二個、焼きそばに添えて出し、残りはラップに包んでいただくことになりました。もちろん、これはアッテハナラナイ行為なんですが、昔かたぎの高齢の利用者さんは、往々にして、汚れ仕事をにこにこと厭わず働いてくれるヘルパーに、かつて、出入りの職人さんなどにふるまったように、ちょっとした菓子やジュースなど、利用料とは別に、そっとくれたがるのでした。
「召し上がっている間に、ぼくいつもどおり郵便物の整理しますか?」
「新聞紙もまとめてくれるかい。ひろげるのはかんたんだが、片付けるのは厄介だ」
 先生のマンションは、タイジのほかに週二回、介護ヘルパーが入るので、掃除もきれいにゆきとどいていました。瀟洒なバリアフリーマンションの至るところに、先生の往年の栄光のしるし……コンペティションのトロフィーや賞状、感謝状、作品、知人のアーティストから送られたオブジェなどが、杖歩行の障害にならないように配慮されて飾ってあります。リビングにはりっぱな観葉植物。手入れのめんどうな生花などはありません。
 タイジは先生が夕御飯を召し上がっている間に、郵便受けから、週末からその日までに届いた郵便物をとりだし、そのままリサイクルペーパーにするチラシ類と、先生が目を通さなければならないものとを選りわけます。一見して広告とわかるDMやチラシなどは抜き出して古い新聞紙といっしょにまとめ、残りを食卓に持ってゆくと、糖尿でも食欲旺盛な先生は、焼きそばをあらかた食べ終わろうとしていました。
「ミネちゃん、料理だんだんうまくなるな」
「ありがとうございます」
「女性のヘルパーさん、気を使って薄味気味にしてくれるんだが、もういまさら寿命を延ばそうって気にもならないんでね。苦しくさえなけりゃ、いつ娑婆とオサラバしてもいいんだ」
「そんなことおっしゃらずに、元気になって、またヒマラヤ登ってくださいよ。先日女性の最高齢エベレスト制覇ありましたっけ」
「あったねえ、すごいね、七十代で、腰部骨折からの復活だろ? 元気もらえるニュースだった」
「ですねー、だから、いつからでも、大丈夫なんですよ。先生なんて、ぐんぐん回復されてスゴイじゃないすか」
「ふふ、だいぶケアコミュニケーションがイタについてきたな」
「ちぇっ、ヨイショじゃありませんって」
「お世辞とは思ってないよ。料理も気配りもうまくなったって言ってるんだ」
「ありがとうございます」
「男のヘルパー少ないからね。特に訪問は。君みたいな子が来てくれると、話が合って嬉しいんだ」
 どれどれ、と先生は不自由な左手をかばいながら箸を置き、タイジの差し出した郵便物を、ばらばらと眺め始めました。タイジは食卓の皿小鉢をまとめ、手際よく後片付けをすませます。先生の手元からうっかり床にすべり落ちた何枚かをひろいあげ、何気なく表書きを眺めたタイジの眼が大きくなりました。
「……先生、これって」
「ン? ああ、これか。今年の春から孫が働いているんだよ。ちょうど君くらいじゃないか? いや、もうちょっと上だ。親の反対押し切って、自分で選んで地方の病院勤務だ」
「星隷ミカエル病院て、長野県ですか?」
「そう。知ってるの?」
「いいえ、でもこのポストカードの絵、どこかで見た記憶があって」
「ほう。ど派手にポリクロームだが、シロウトにしちゃ悪くない。信州白樺湖畔、茅野だよ。この絵は入院患者の作品かね。なかなかタッチに力がある。コスモスかな……」
(こんなことってある? それとも俺の記憶違いか?)
 先生のお孫さんが、やさしい口調で近況を告げてきた絵葉書の絵は、たしかにタイジの記憶に残るひいおばあさんの作品のどれかに酷似していました。でもそれは、おばあさんが亡くなる直前に、みずからの意思ですべて焼き捨てたはずのものなのです。
 濃い青空に陽炎のように揺れる色あざやかなコスモスの群落。人の見えぬ風景、花野に揺れる丘の彼方に、すうっとそびえるまぼろしの館。白い塔のある、四角い建築。ギャラリー〈花絵〉で上映される「記憶」の絵のどこかにインプットされ、それはタイジの脳裏に繰り返し、あざやかに刷り込まれたワンシーンでした。
「この建物は」
「病院だろ。ぼくも行ったことあるよ。近くにローランサン美術館がある。世界でも有数のローランサンのコレクションだ。ぼくはあの画家は好きじゃないが、仕事で取材写真を撮影に行った。二十年も前だ」
「そのころからあるんですか?」
「そう。田舎道を……松林か何か、針葉樹の森をずうっと人里離れて山へ登っていくと、突然こんなふうに開けて、コスモスやら、鳳仙花やら、夏から秋にかけての花々がいちめんに咲いていたっけ。こんな感じで、病院が花畑のむこうに小さく見えたよ」
「病院に行かれたんですか?」
「いや。ぼくは道をまちがってそちらに入ってしまったので、目的地の美術館は、違う方角だったんだ。行き着く前に、地元のひとに道をたしかめてユーターンした。ホテル経営の美術館にしちゃあ、あたりがさびしすぎるから」
「……」
「思いがけない偶然だろ? まあ、縁というほどのものじゃないが、二十数年も前に、爺さんが道に迷ったその病院で、当時はまだヨチヨチ歩きの孫が働くなんてさ。いいところらしいな。敷地内に教会があるんだと」
 タイジはうわのそらでうなずき、信州茅野、星隷ミカエル記念病院……その単語と画像を、あらためて記憶に刻みこみました。
 

  あむちのこむちのよろづの子
  なむなむや
せんさかもさかも
もちすすり のりもうし
 山のちしき
あましにあましに……

シーラは灯りを消し、音を消したひと部屋に仰臥し、意味不明なその文句を声には出さず、口のなかで、ただ音をころがすように何度も繰り返しました。その部屋には、椅子もベッドも、家具らしい家具は何もなく、フロアリングの床に敷物一枚ありません。
 シーラは素肌に、白地に秋草模様の綿絽の浴衣を軽くまとい、赤い下帯ひとつでゆるく前を合わせ、手足を少しひらいて眼を閉じていました。
 瞼をあけても闇、閉ざしても闇。
 背筋に密着する床のひやりとした堅さがいつしか自分の体温で蒸され、浴衣の背がじんわりと汗ばんできても、シーラは身動きせず、ただ静かに呼吸を整えていました。
 そんな彼女は、こども部屋に静かにしまいこまれた人形のように見えました。
 部屋の一隅に、シンプルなパソコン机ひとつ、そこだけが外界と通じるコーナーになっていて、四方の壁と天井、床すべて防音。ドアを閉ざせば、闇のなかでシーラの耳にまず聞こえるものは自分の呼吸と心拍のみ、やがてそれにも聴覚が慣れてしまうと、より微細な音波が……パソコンの電波なのか、自分の内耳を一定の波長で振るわせる、低い耳鳴りのような、ジー……という振動だけ。
 シーラはトランスしようとしていました。
 メグといっしょにジャンプした他界に、今度は自分ひとりで侵入し、何か手がかりをつかもうとしているのです。メグのおかげで、いくつかの際立ったヴィジョンが彼(女)の心象に残り、それがジャンプの方向を、羅針盤のように示してくれる、という直感があるのでした。
 自分のジャンプや憑依に、秘儀めいた特別な結界や定まった呪文はいらない、とシーラは考えていました。極限まで意識を絞りあげれば、日常を突き破るエネルギーが集まり、それによって時空を超える裂けめが生じる。そこから他界へ飛ぶことができる、と。
(秘儀や呪術、あるいは薬物は、意識を変容させるための〈手続き〉にすぎず、すぐれたサイコトランサーであればあるほど、煩雑な儀式なしに楽々と境界を超えることができるはずだ。メグはまさに想像どおりだった)
 彼女はまるで、テーブルにおいた果物籠から好みの果物を選び出すように、精霊の母親をこの世に出現させ、自分の夢から未知の他者の心象にやすやすと入りこみ、無意識(サブリミナル)の渕に呑まれかけては自力で脱出し、カオスの澱みから、また生と死の境界を渡り、この世に戻るために、生身の豹河の肉体を、異次元との通路に変えてしまう。幽体離脱などではなく、質量をそなえた人間をまるごと……。
 もしも、シーラがそんなことを望むなら、いったいどれほどの念力が要るだろう?
(口惜しいけれど、あたしにはとうていそんなことはできない)
 口惜しいか?
(そうでもない……。こういう能力は、自分より、それを必要とする他者に役立つためにあるものだから。あの子は、たぶん、とてもたくさんのサイコヒーリングをするために、この世に生まれたんだろう。そしてあたしと出会った。いや、あたしが会いに行った)
 
 アムチノコムチノヨロヅノコ
 センサカモサカモ……

 シーラの記憶に埋め込まれた、日本の古代歌謡のひとつでした。彼女は、正確に逐語を記憶しているわけではありません。日本最古の仏教説話集『日本霊異記』に収められているこの古代歌謡にまつわる伝えのあらすじと、解釈は、一説によるとこうです。
 聖武天皇の治世、大和の国十市郡アムチ村に、鏡作造という姓の裕福な家がありました。この家には万の子という名の美しい一人娘があり、近隣から求婚申し込みがたくさんありましたが、どの相手も気に入らず、断り続けていました。その中で、ある男が何度も高価な品物を送って彼女や親の気をひき、結婚を申し込んできました。それは色鮮やかな絹の布を車三台にどっさり積んであるものでした。当時、絹の布は大変貴重な品だったのです。この贈り物に親も娘も心を動かされ、この男との結婚を承諾しました。
 婚礼の夜、男と娘は閨を共にしましたが、別室で寝ている親たちの耳に、その晩三度、娘が「痛い、痛い」と叫ぶ声が聞こえたそうです。けれども聞きつけた親たちは、
「まだ男女の交わりを知らないから痛いのだろう」
 と話し合い、そのまま寝てしまいました。
あくる日、陽が高くなっても娘夫婦が寝床から出てこないので、不審に思った母親が寝室を覗いてみると、男の姿はなく、寝床には娘の頭と、指が一本だけ残され、他はすべて喰い尽くされていたということです。
 両親は驚き悲しんで、男からの贈り物を確かめると、絹布は一変して獣の骨となり、それを積んでいた車もまたぐみの木になっていました。
 シーラが心の中でリフレインしている文句は、この事件の前に、大和の国中で流行った歌なのでした。ひとびとは、誰が歌い始めたかわからないこの歌を、災難の前触れであったのだろうと言い合いました。……。
 意味も音並びも不確かなこの古代歌謡をくちずさんでいると、シーラの内部にひとつひとつの音魂(オトダマ)の結びつき彩なすうねりが生まれ、ばらばらな日常の雑念を離れて、集中された意識の内と外とがメビウスの輪のようにつながる彼岸、あるいは多次元へすべりこむことができるのでした。
 理屈なしに、意味不明であればあるほど、結び合うオトダマの内包する力は隠れた強烈な霊性を持つ、とシーラは直感しているのでした。時にそれは神道の祝詞でもいいし、マハーバーラタの暗誦でも、真言陀羅尼でも、童謡でも和歌でも、またときにはハンプティダンプティだって、阿呆陀羅経でもよい……意識集中さえすれば、彼女(彼)にとっては同じ効果をくれるオトダマでした。
 だいじなことは、その言葉の運んでくる力が表面的な「意味」や解釈に遮られていないことでした。 
 気分やコンディションは、ジャンプの都度異なり、それにあわせて、その瞬間の念を集めるオトダマを、シーラは気ままに選んでいました。
(センサカモサカモモチススリ……モチススリ……モモチススリ)
 厖大に流され、心の深みに沈殿し濁った血の池。
 百血啜り…モモチすすり
(アマシニアマシニ…ススリ)
 天死に………死に天し、余し甘しに
(死に余し)
「死にきれないよっ」
 幼い悲痛な叫び声。
 睫毛の上にバチッと静電気が奔る強い刺激を感じてシーラは閉じていた瞼をひらきました。暗闇の天井に、まっしろなほそい足首が、つまさきを外に向けた姿で、ぐるりと白菊の花弁さながらの円陣となって並んでいます。横たわった遺体から、脛のあたりでざくりと切り取られたようなひとそろいずつの両足たちは、どれもちいさく華奢で、見上げるシーラの頭上三メートルあたりに、土踏まずをシーラに見せて、静かな円形に並んでいるのでした。 青白い皮膚は、一様に薄くなめらかで、静脈が雪の内側を流れる小川のように細部まで透きとおって見えました。 
(地面を歩いたことがないような足だ)
 シーラは仰向けに横たわった自分の手足に、重い眠気に似た痺れを感じつつ、身体の重さとは反対に意識は研ぎ澄まされ、宙吊りになった足首たちの、ポッカリ空いた円陣の黒い真ん中めがけて、自分の意識が肉体の縛めをまぬがれ、鋭いきっさきとなって突きささってゆくのがわかりました。
   
アムチノコムチノヨロヅノコ…
「あっちの子もこっちの子も、みんなみんなおいでよーっ」 
 モモチススリ
 モチススリ
 チススリ
 …
 きれぎれな音のリフレインは、いつしかシーラの喉を離れて勝手に虚空にあふれ出し、空間を満たすユニゾンとなりました。
 白菊の花弁のようにつつましやかに並んでいた足たちは、それと同時にひらひらと足をばたつかせはじめ、まるで墓から蘇ったものの、五体の自由のきかない死者たちが、なんとか歩き出したがってもがいているようです。 
「おいでよ、ぼくさみしいんだ」
 合唱の向うから、異質な声。ず、とシーラはその声にひきずられる操り人形のように起きあがり、そのとたんいきなり菊の花びらの足たちは、イソギンチャクか水母の触手のような青白く太い糸の束になって、ずるりとシーラにからみつきました。
「きみも仲間になるんだねえ」
 ひややかな嘲りを含んだこどもの声。
 声はこどもなのに、そのオトダマはコドモのものではありませんでした。
 シーラは唇をきつく結んで応えず、両目をしっかりとみひらき、全身にからみつくイソギンチャクの触手にからめとられるまま、魚がくわえ込まれるように、その暗黒の口腔の深淵に身を委ねました。
(巨大な血の池に、ずるずると沈んでいった正四面体建築。絶えず耳を揺るがす連祷のようなユニゾン、湖の底に沈んでいるのは誰だ? アスカさん、はっちゃん、ドミ、安美さん……。そのもっと前に、もっとたくさんの仲間を君は引きずり込んだはずだ。君は誰だ、どこにいる。ぼくを連れて行け、望みどおり喰われてやる、喰われてやるが、君の正体も見届けてやるぞ…)
 異空間へひきずりこまれながら、シーラと触手どもとの、脂汗の滲むせめぎあいはひとしきり続き、イソギンチャクの肢に視界さえ奪われたシーラは、ねっとりとした闇紅色の粘膜をぬめるようにころがり、また突然、殺意に似たその呪縛を離れました。
 どすん、と背中からどこかに投げ落とされ、ばさりと顔にふりかかったのは、シーラ自身の髪でした。
 墜落といっても、シーラは、はばたく鳥の翼から抜け落ちた一枚の羽ほどの軽さで、高原を渡るさわやかな夏の風にひらりひらりと重力をまぬがれて、周囲の淡い雲の襞を通り、針葉樹の森影を遠く過ぎ、落葉松林、白樺林と風に乗るまま、心地よく眺めながら、それらの森の真ん中に置かれたまるい鏡のような湖の、さざなみ寄せる水辺に降り立ちました。
 湖畔には、いちめんのコスモス。その白とピンクの群落のあいまあいまに真紅の曼珠沙華も見えるから、季節は晩夏か初秋なのでしょうか。黄色い女郎花、薄紫のはかなげな紫苑もすらりと揺れて、水引草に風の立つ……遠く遠くでミソサザイのさえずりも。
(どこかで見た光景だ、どこで?)
 きれいすぎるポエティック。田園へのピュアな憧れだけ残して、現実のよどみを排除した光景。
 
 勝ってうれしい花いちもんめ
 負けてくやしい花いちもんめ
 あの子がほしい
 あの子じゃわからん
 この子がほしい
 この子じゃわからん

 鳥の声にまじって、また声が響く。誰の声でしょうか? 
(メグ? まさか。いや違う、誰?)
 きっと年のころはメグと同じくらいな少女の声は、湖のどこかから聞こえてきます。
 湖上には、何艘かのボートが浮かんでいました。水に映る太陽の反射があまりにまぶしいので、ボートのシルエットはそのためにかえって暗く、乗っている人、漕いでいる人の姿かたちも、さだかではありません。
 シーラは息を呑みました。数艘の小舟は、互いにつかず離れず、毬のようなものを、一定の間をおいて、ポーンポーンと投げあいながら、ゆっくりと寄り合うように水面を動いています。

 あの子がほしい、
 あの子じゃわからん
 この子がほしい
 この子じゃわからん……

 少女の澄んだ歌声にあわせて、そのいくつかの毬は、舟と舟との間に投げ上げられ、飛び交っています。投げ上げるきっかけ、ひろう手元があやうければ、ボチャンと水に落ちてしまうかもしれませんが、小舟をあやつる人影は、上手にタイミングをはずさず、毬と毬とは、時にあやうく、舟べりすれすれに落下しても、ボートに乗っている人の伸ばした手元にすくいとられているようです。
 シーラは目をほそめ、てのひらを額にかざして、舟の様子を眺めました。
 またポーンと二つばかり毬が放りあげられて、お陽さまの光線を遮って青空に半円を描きます。
 あの子がほしい……
「ドミニクだ」
 まばゆさに次第に慣れたシーラの眼に、それまで毬と見えていたのは、折りかがめた膝を両手で抱えたちいさな白い女の子とわかりました。すこし巻き毛のついたあかるい栗色のショートカット、うつむき加減の顔のなかに、遠目でも際立つまっすぐな高い鼻筋と上瞼の深いくぼみは、東洋の少女のものではなく、その子は、ガーネットの住まいで何度か会ったことのあるドミニク・ヴェルモンに違いありません。
「じゃ、もうひとりの子は、はっちゃん?」
 きっとそうなのでした。ドミニクとおんなじに、吉田初生、はっちゃんも膝をまるめ、顔を膝小僧におしつけた姿は、ふたりともに、羊水に浮かぶ胎児のようでした。
 二人のこどもは、湖面を動く小舟から小舟へと、無造作に投げ渡されながら、怖さも何も感じていないようです。眠っているとも思えるくらいまるまった姿勢のまま、ドミとはっちゃんは、あやうい水上の遊戯を飽きることなく続けていました。
 シーラの耳に聞こえる花いちもんめの歌は、誰が歌っているのでしょう? 
(誰が放り上げているんだ?)
 シーラはコスモスの群生を踏み分けて水辺ぎりぎりに歩みよりました。
……来てはだめよ……
 湖面を撫でる涼風のなかに、また別な声が聞こえます。
「だれ?」
……シーラ、来てはだめ。とりこまれる。
「安美さん、どこにいるの?」
……水の中に……。
 え、とシーラが湖の中を覗きこむと、銀色の反射のまばゆさはいつしか消えて、岸辺のすぐそばから、もう浅瀬の見えない深淵の濃青が湛えられているのでした。
 その青い深みのどこかに、まざまざと白く、細長い寝台が、いくつもいくつも数知れず沈んでいました。
 幅のせまいベッドに、仰向けに寝かせられたひとびとは、一様に薄い白い寝間着を着せられ、胸の上で手を組み、両足をきちんとそろえています。このひとたちは、納棺されるまえに清められた亡骸のように、すがすがしくさびしい姿で、湖の底のまでずらっと並んでいるのかもしれません。そのどれかのひとつから、安美さんの声が聞こえるのです。
「どこにいるんです。助けにきたのよ」
 シーラはぞっとして、うわずった声で叫びました。返ってくる安美さんの声は、かぼそく、さざなみや風のさやぎに紛れてしまいそうでした。
……水に踏みこんではだめ。つめたすぎる。あなた、凍ってしまう。
「なぜ動けないの?」
……悲しみとくやしさばかりが心からあふれて、ここにたまっているのよ。わたしはもうこの世のものではない妖精だから、すこし動ける。でも、あんまり水が重くて、浮かび上がることができないの……。
 こんなにきれいな透明な湖なのに、とシーラは蒼ざめて水のほとりから一歩後退しました。ですが、ようやく探し当てた安美さんを置いて逃げ出すこともできません。
「ドミニクとはっちゃんが舟を飛び交う毬にされている。いったいどうして?」
……投げているのはあの子なの……
「あの子って?」
 舟はゆっくりと湖の上をすべるようにあちら側へと移ってゆこうとしています。
「舟は二つ…、いや三艘だ。ひとりで動かしているの?」
……そう。ドミニクとはっちゃんをおもちゃにして、水に落ちたら、彼らもあたしたちのように眠りに沈む。あの子と同じ、永く冷たい眠り……。
「何? その子も眠っているの?」
……あの子は眠っているけれど、心は目覚めている。あの子がヌシだから。
「ヌシ?」
……水のヌシよ。
「どうすればいい、教えて?」
……現実の制約のない精霊界や中有では、彼の力は強大すぎて、太刀打ちできない。時の流れに風化もせずに、たまりたまった怨念が、傷ついた他の魂も呼び込んで、彼がそれを操る。だからいったん、現実に戻って、そちらからあたしたちに近づいて。
「現実? ここはどこなんです?」
「シーラ、来たね」
 とそこでいきなりうしろから声をかけられ、シーラはあっと驚きました。その動揺で、脳内にかぼそく感応していた安美さんの声はかき消され、ちりぢりになってしまいました。
 ふりむけば、肩のあわない大きすぎるぶかぶかのパジャマを着た男の子。パジャマのズボンはかろうじて着丈に合っていますが、針金のようにほそい青白い足首が、裾からぬっと突き出て、パジャマの中身がないような薄い腰からそのズボンは、今にもずりさがってしまいそうなほど。白地に水色ギンガムチェックのさわやかさが、かえって痩せこけた体のさびしさを強調する印象です。
 前髪の垂れた眉間に、年齢にふさわしくない縦皺を険しく浮かべたこの子は、よく見るとなかなか整った顔立ちをしているのですが、肉の薄い逆三角形の顎をして、食の細い病人特有の、目ばかり大きく見えるのでした。
彼は両手を背中で組み、反り返った姿勢で、シーラの前に立ち、尊大な表情で、唇の両端を吊り上げてにやっと笑うと、すこし不ぞろいな前歯のかたがわに、ちいさな犬歯の八重歯が一本覗きました。
「君は……」
「ぼく、トモダチなら何人でもほしいんだ」
 有無を言わさぬ声。あどけない、でもひややかな声。
「冷たい水底に沈めるのが君の友情なの?」
「ときどきは出してあげる」
「出してあげるって……」
「いっしょに遊ぶんだ、あんなふうに」
 男の子は、小舟の間を毬にされて飛び交うドミとはっちゃんを、顎で示しました。
「無理やり引きずり込んだでしょう」
「見たい夢を見せてやってる」
 シーラになじられて、男の子は不服そうに口をとがらせました。
「ここに居れば、自分の好きな夢に漂っていられるんだ。いつまでも」
「死んでしまうよ。彼らは生身の人間だ」
「眠ったままなら、死は遠い」
「嘘をつけ」
 シーラは凛と声をするどくしました。
「死に切れない死者が、みずから思い迷ってとどまる中有ならともかく、君は生きたこどもや女性を現実から強引にさらったのよ」
 ぐっと詰まった男の子は白眼を剥いてシーラをにらみつけ、湖のほうへ後ろ向きにあとずさりしました。
「ドミとはっちゃん、それに学生のカップルとアスカさんを、安美さんを返してよ」
 逃がすまいとシーラは男の子の肩に手をかけました。ひょい、と男の子はその手を避けてケモノのように跳ね、勢いでくるっと後ろ向きに宙を半回転し、しぶきをあげて、爪先から湖のなかに飛び込みました。
「待って!」
 とシーラは安美さんの忠告を忘れて、真っ青な水に爪先から踏み込もうとした刹那、またいきなり湖面が割れて、シーラの眼の前にぶかっと浮いてきたものがありました。
 シーラはかたちのよい唇を真横にきつくひき結び、喉にこみ上げる悲鳴を抑えました。
 冷たくひらべったい板の上に仰向けに寝かされた女性ひとり。あえぐように舌のはみ出た半開きの口と、息をしていない鼻腔がぽっかりとふたつ、しゃくった器から水がこぼれるように、その大小三つの穴から湖水がぼたぼたと流れしたたり、頬や額に、濡れた黒髪が藻のようにまつわりついています。血の気のない蒼白な皮膚に、うつろに開いた口と鼻腔とのくらがりが陰惨に際立つのでした。
顔をそむけたいほど面変わりしていましたが、彼女はギャラリー深月の朱鳥さんでした。頬、こめかみ、瞼、それから首、腕……濡れた薄い寝間着は肉の起伏にぴったりと、もう一枚の粘膜のように貼りつき、そうして、胸やおなか、膝……アスカさんの顔といわず体といわず、全身に、大小の注射器がさまざまな角度で突き刺さっていました。

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