さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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サイコ・ヒーラー 5 モルガナイト

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    5 モルガナイト

 その年は七月の半ばには梅雨があけ、連日猛暑の太陽が照りつける真夏に突入しました。
 シーラは、メグを自宅にプジョーで送ってきた夜、パパとメグと三人で、ワイワイたのしく晩御飯をいただき、すっかりシーラのファンになってしまった(本音一目ぼれ)パパは、デジカメやら何やらに、さんざん〈彼女〉と自分とをツーショットで撮りまくりました。シーラは、ホドホドのところできりあげ、家まで送ってあげる、というパパの親切を丁寧に断り、電車で帰るふりをして、自分の車をパパには見せずに、風のように帰ってゆきました。
 どこへともなく。
 それっきり、もう一週間以上たつのに、シーラはメグの前に姿を現しません。
 水彩画のように街をしっとりと飾っていた紫陽花も、のすたるじっくな匂いの梔子も、梅雨明けと一緒に色褪せ、入れ替わりに夾竹桃や百日紅、芙蓉にカンナ、ハイビスカスといった、直射日光に強烈な色彩を放つ花木の登場となりました。
(シーラさんって、ほんとにいた人なのかなあ)
 とメグはときどき思うのでした。彼女とは二回会ったきり。シーラのメアドも何も尋ねなかったのは、メグの関心が、ただママのほうばかりに向かっていたからでした。
何者かにママを奪い取られた他界トリップのあと、プジョーの中で、
「二人でママを取り返そう」
 と約束したのが、うそのよう。
メグはときどきテレビで、すごくきれいな少女タレントや女優を見ると、ある瞬間のシーラの顔かたちに少しずつ似通っているのにはっとするのですが、ただそれだけでした。
「ママ、メグは夢でも見たの?」
 とメグは通学路にすらりと伸びた柳の樹に尋ねるのでした。学校の敷地と町の領域との境に植えられた、姿のよい大きな柳の樹から、若返った安美さんがすっと現れた、なんてこと自体、自分でも信じられない記憶でした。でも、ほんとにあったことなのでした。
 柳の樹はすっかり青葉深く繁り、夏の濃い照りつけにも、通りぬける葉風はさらさらと涼しげに、伸びすぎたメグの前髪を静かに撫でてくれるのでした。
「ママ、出てきて」
 小声でメグが柳の枝にささやきかけても、
緑の葉蔭はおだやかな風音とともに、すりぬけるばかり。
「メーグちゃん、どうしたの?」
「あ、羊子ちゃん」
「いないと思ったら、こんなところに。何してるの?」
「ええと、カブトムシを探してるの」
 とメグは苦しまぎれに、へんな嘘をつきました。
羊子は笑って、
「こんなところにカブトムシいないよ。蝉はいるかもしれないけれど。ホラ、そこに、蝉のヌケガラがある」
「えっ」
 メグが触っている柳の幹の、すぐ上のほうに、薄茶色のヌケガラが、かっちりと樹肌にツメをたてていました。羊子は言いました。
「きっと、今朝羽化した蝉なんだ」
「ふしぎだねえ。ほんとにぜんぶ虫の形を残してからからに乾いてる」
「蝉って、地面の奥に七年も潜っているんだって」
「へえ」
「それで、地上に出てきたら、たった三日くらいしか生きていないんだって」
「三日?」
 メグは目をまるくしました。
「そ、たったの三日」
 羊子はちょっとひややかな口調で言い切り、蝉のヌケガラから目を逸らし、帰ろうよ、とメグを誘いました。羊子のランドセルはパステルカラーの水色。メグはサーモンピンク。
「メグ、髪の毛伸びたね」
「そう?」
 六月の初めには、ちゃんと切りそろえていたはずですが、いつのまにかメグの前髪は眉を超えて、額や鼻筋にまつわるくらい。そして、束ねなければそのまま肩や背中にゆらゆらと末広がりに濃い髪は、羊子がうらやましがるのもなるほど、つやつやと青みがかって質のよい自然な光沢をたたえていました。その色艶は、どこか、もうこどもっぽさを離れかけていました。幼児から少女へと、メグは自分でもそれと気づかずに、日増しに、新鮮できれいな季節に入っているのでした。
 二人で並んで歩きながら、すこし黙ったそのあとで、羊子はぽつんと言いました。
「あたし受験する」
「中学受験? やっぱり」
「ママが夏休みになったら、毎日進学塾に通えって」
「どこ?」
 羊子は、隣町の有名な塾名をあげました。
「すごい、あそこって、塾に入るだけでも難しいテストあるんじゃない」
「うん。うかった」
「羊子ちゃんならうかるよ。もしか、一番とか二番とか」
「わかんない」
 と羊子は澄まして答えませんでしたが、メグの勘は外れてはいませんでした。
「メグは受験しない?」
「あたし、勉強苦手だし」
「うそお。やればできるのに」
「そうかなあ。あたしは、たぶん公立でずっといくと思う」
 羊子は首をかしげてメグの横顔をながめ、
(メグくらい綺麗な顔になりたかったなあ)
 なんてひねくれもせず、素直に考えるのでした。そんな羊子も、すっきりと、中高にまとまったいい顔立ちをしていました。
「夏休み、どこかに行く?」
「わかんない。パパがお休みとれたら、マザー牧場に連れて行ってくれるって。あとはパパの田舎にいくかも」
 メグは話しながら、道端に群がり咲いた紫陽花が、今ではすっかり萎れて茶色くなっているのに目を留め、
(シーラさんと最初に出会ったのもこの辺だったよね)
 とまた思い出してしまいました。あの日も羊子といっしょだった。そして雨がざあざあ降っていた。……。
 今ではすっかり紫陽花は薄茶色に萎えて、そのうしろから赤やピンクのタチアオイが、丈高く何本も咲き伸びています。
 羊子はその一本に触り、
「ずいぶんたくさん咲いてる」
「このタチアオイが下からじゅんじゅんに咲いていって、てっぺんまで咲くと、夏休みになるんだよ。夏休みの花」
「メグは、よくいろんな花や植物見てるね。あたし気がつかなかった」
「ママが、オシエテクレタ」
 オシエテ、クレタ、ママガ…。
 そう言った自分の言葉が、その寸前の他愛ない会話とは違ったひびきで、メグの脳裏にこだまを呼ぶ異様な感覚がありました。
(えっ)
 ママガオシエテ…
 うす紅、ピンク、濃紅。やわらかな花弁を幾重にも重ねたタチアオイ。奇妙な寒気、どこかで経験した、足元の地面がねじれるような眩暈に、メグは立ち止まりました。
「どうしたの、メグ」
 メグは何と応えてよいのかわからず、たちすくむだけです。頭上には午後遅く照りつけるあぶら照りの熱射。目の端にはタチアオイ。繊細であざやかな深い緋色のはなびらに、シーラの面影がふと重なりました。
「タチアオイ、何色が好き?」
 とにかく何か言わなくっちゃ、とメグは口を動かしました。身動きできないほど鋭い寒気がつきぬけ、爪先から麻痺しそうです。
「あたし? ピンクがいい」
 羊子は、異変を感じてメグの顔を確かめようとしました。メグはそんな彼女の視線を避けて横を向き、
「あたしは、この」
 と濃紅の際立つ一本を手に取ろうとしたそのせつな、その花弁はさあっとコバルトブルーに変色し、黒みがかった芯の紫が目にしみるようです。錯乱しかけたメグは、乱暴な手つきで茎を握り、わっ、と声をあげてまたすぐ放しました。手が握ったのは、火傷のようなきつい冷感だったからでした。
「つめたい」
「どうしたの、メグ」
 羊子はうろたえました。
「この花の色」
「タチアオイ、どうかした?」
 羊子の眼には、同じ紅色にしか見えないタチアオイでした。夏休みの花、その形容どおり、下から日を追って長い茎の莟を咲きあげる花のつらなりは、頭上に残る莟いくつかを残して、下のほうからもう枯れがれ。羊子は花とメグとをおろおろと見比べ、
「どうかした?」
「なんでもない。忘れ物思い出したの。ここでバイバイ。あたし学校に帰らなけりゃ」
「そう……」
 羊子はもの問いたげに、口元をすぼめましたが、察しもよく回転も早い少女は、それ以上メグに踏み込まず、心配そうなまなざしを残して、
「バイバイ」
「また明日ね、バイバイ」
 メグの視覚には、さっきまで紅色だったタチアオイが、今は極限までの濃い青紫に見えるのでした。花弁に触れると、まるで氷のように冷たいと感じるのです。
(ヘンダヘンダへンダ)
 警報機のように高鳴る心臓の音。怖い?
 怖くない、呼んでる。
(誰が?)
 サファイアブルーのまなざしをしたきれいなひと、今、どこ?
 羊子の姿が向こうの家の角に消えるのを待って、メグは何かに衝き動かされるように、ずい、とタチアオイの花弁のまんなかに片手を入れました。襞を重ねた大きな花弁は、その瞬間ぶるっと生き物のように身もだえして、メグの手を頬張ってのみこみ、メグは現実意識が遠のく他界からの吸引に身を委ね、ひんやりとした青紫の膜をくぐるように片手からするすると、タチアオイの花の裏側へと入ってゆきました。
(花の後ろに、あたし入ってゆくの?)
そんなことありっこない、と脳裏では常識が抗いましたが、それよりもずっと強い力で、メグの全身はぬるりと蘂の中心で捩じれて回転し、飴のように細長く引き伸ばされ、けれども苦しさは感じられず、肉体と精神の大事な芯だけ残して、余分なものが絞られてゆく気持ちよさがありました。
 
六道めぐりは生命を洗う、六根清浄……
 
意味のわからない、いくつかのささやきが聴覚をかすめた気もしました。
(君は何にでもなれる。だから恐れるな)
 そちらはシーラの声でした。
「シーラさん、どこ?」
 と捩じれた五体が、またぐるりと逆回転して、ふたたび意識が平らに戻った瞬間、メグは自分が凍りつくような水中深く沈んでいるのを知りました。
 シーラ、のシの字を口にしたとたん、重い水が喉いっぱい侵入し、ガボッとメグは水中でもがきました。パニックと水の揺らぎで視界が曇り、何がなんだかわかりません。懸命に水を掻き分けて、呼吸のできる水面に浮かび上がろうとしても、両手に感じる水の重みはとほうもなく、また深海にでもひきずりこまれたように、視覚に感じる日の光は遠くかすかでした。
コワイ、とメグは死の恐怖に悶えました。溺れ死んじゃう。動けない。
(あたし、なぜここに沈んでるの?)
(怖がっちゃだめ。メグ、あなたはこの水の中でも平気なのよ。意識を変えなさい。あなたが凍りつくことはないの)
(ママ? 助けて)
(あなたは自分を変えられる。この水の中で、自分の中から火のエレメントを呼び覚ませばいい。そうすれば自由に動ける)
(えれめんと?)
(あなたは、メタモルフォーゼ……〈変容する者〉なのよ。肉体も意識も、だから、なんの制約なしにあらゆる世界を行き来できる。はやく、さあ)
(火?)
(自分の周囲に熱を集めて、結界をつくるの。水圧と冷気に負けない)
 
六根清浄六根清浄……   
 
ナニソレ、とメグは水のなかでもがきながら、頭のなかで響き始めた鈴の音を聴きました。つめたい、イヤッ、と両腕で顔を覆うと、自分の長い髪の毛が、不気味に喉や首にまつわって、まるで自分で自分の首を締めつけてくるようです。
(やあ、来たね)
 頭のなかで、また別な声が聞こえました。
(目なんか見えなくても、君、ぼくが見えるだろ)
 聴き覚えのある、皮肉っぽいかすれた少年の声。
(変な言い方しないで)
(だってほら、メグはちゃんとぼくを見ている)
 その言葉通り、メグには、眼の前の真っ暗な水のなかに、ざわざわと頭髪を逆さに揺らめかせた、あの小さい男の子が見えて来ました。彼の大きすぎるパジャマが、痩せた肩や足からずれて漂い、エイか、深海魚の長い鰭のように、静止した少年の本体とは関係なしに、どろんとした水の重い動きにそってゆらゆらしています。
 少年の両目は、真っ赤でした。充血しているのではなく、瞳孔だけが、ルビイのようにぎらぎらと光っているのでした。暗い水のなかで、それは異様に赤く明るく、ふたつの火の玉が小さい顔のなかで燃えているようです。
(火を呼べよ、ぼくと同じふうにさ)
 少年は冷たく笑いました。
(死にたくなけりゃ、火を集めろ。君とぼく、同類なんだぜ)
(あんたとドウルイですって?)
(そうだよ。鈍いヤツだな。そうでもなけりゃ、とっくにぼくに捕まってる。ぼくが簡単に捕まえられないのは、君はぼくと、だいたい似たような力を持ってるからだ。そんなの、初めてだ。おもしろいね。君を捕まえたい)
(なんのためにそんなことするの)
(答える前に、まず自分を熱くしろって。凍っちまうぜ。他の連中みたいに)
(他のって?)
 そこらへん、と少年は顎をしゃくりあげました。
 メグは顔にまとわりつく自分の髪の毛を押さえて、真っ暗な水の四方を見回しました。
 最初、それは、延々と連なるピアノの黒鍵と白鍵が、水圧のために螺旋のように歪んで、水上はるかから、沈没船に絡みつく鎖のように、何本も垂れ下がっているのかと見えました。暗緑色にかき暗がる水底のはてまで、何本も何本も連なる、壊れてつぶれそうな白と黒の板。でも、〈目〉をこらすと、それは鍵盤ではありませんでした。
 ひとつずつは、白い細長い板に、ぴったりと貼り付けられた、蒼黒い人体でした。遺体を載せた実験台か、柩のような板を、何百、何千も、びっしりと横並びにつなぎ合わせたものが、遠目に鎖みたいに見えたのです。
冷たい水のなかで、板に横たわった肉体は朽ちも滅びもせず、どんよりと蒼ざめ、果て見えぬ水の底まで、板に貼りついたまま、交錯し、また離れながら、ぞろぞろとつながっているのでした。
 メグの驚愕を楽しそうに眺めて、少年は神経質な甲高い声で笑いました。
(ぼーっとしてるとメグもそうなる)
 メグはきっと眉を吊り上げました。
(あなたって、ナニモノ?。えらそうに。このひとたちをこんなふうにしたのはあなたでしょ。あたしはあなたと同類じゃない。あたしはこんなひどいことしない)
 逆上した瞬間、メグは自分の髪の毛がバリッと音をたてて膨らむ気がしました。戦闘態勢に入った猫のしっぽが、いきなり三倍くらいにふくらむ感じです。同時に凍えかけていた手足の先にどっと新しい血が流れ、手首足首、首筋からお湯のように熱が吹き出る感覚と、その数瞬後には、メグの全身を囲んで、楕円形の火の輪が回り始めました。
(その調子その調子)
 と少年はますます皮肉っぽい口調で、暗緑色によどんだ水中の、朱色に輝く輪の中心で、肩肘はって自分をにらみつけるメグを眺めてつぶやきました。
(それでいい。どうだい、ぼくのコレクション、よりどりみどり)
(コレクション?)
(こいつら、みんな)
(殺したの?)
(死んじゃいない。あ、でも死んじゃったのもいるかも。眠っているうちに、寿命が尽きれば、完全にあの世ゆきだけど。ぼくいちいち確かめないんだ。めんどくさいから)
(あなたがひきずりこんだの、こんな冷たい水底に)
(そうだよ)
(なぜ?)
(ひとりじゃ退屈だからさ。ここでは、ひとりひとり、凍りついた魂がいろんな夢を見てる。ぼくは自分に飽きると、こいつらの夢をのぞきこんで、いっしょに遊ぶこともある)
 聞いているメグは、ますます腹が立ってきました。
(かわいそうじゃないの。暗い冷たい水の中に閉じこめて、おもちゃにするなんて)
(ぼくがそうしてやらなかったら、この魂たちは、もっと悲惨だ)
 少年はきらりと両目を光らせました。この子の炎はメグのように全身をくるみこんで燃えているのではなく、大きな両目だけが、朱を垂らしたように闇に際立っているのでした。
 どういうこと? とメグは考えました。
(あなたがこうしなかったら、もっと悲惨ですって?)
(メグ、上を見て)
 少年との謎めいた水中会話に、突然、安美さんの声が割り込んできました。
(ママ? どこ?)
 メグは、かたわらに延々と並ぶ平たい柩板に張り付いた魂か人体のどこかにママがいるのかと、ウロウロと探しました。
(上を見なさい、あたしのことより。シーラがいるから)
(えっ)
 メグは水面を透かし見ました。さっきまではぶあつい水の壁に隔てられて見通すことができなかった水上ですが、炎の結界をめぐらしたメグが上をむくと、メグの周囲の火花が突然鋭く発光して、吹き上げるように水を押し分け、あっというまに頭上が割れ、闇に慣れた目には、まぶしすぎる陽光が差し込んできました。そして、その晴れた外気の逆光に、シーラがたたずみ、この冷たい水にかがみこみ、顔を傾けているのが見えたのでした。
(シーラさん、入っちゃだめ)
 メグは叫びましたが、シーラの耳には届かないようでした。
(邪魔が入った。でも、シーラも捕まえる。ほら、捕まるよ)
 少年は舌なめずりするような声で、メグの肩先に近寄りました。
(彼女がいると、君うれしいんだろ? ママもいるしね)
 仲間になろう、と少年はメグの腕に手を伸ばしましたが、メグに触れる前に、少年はメグの周囲にぱっと燃え上がった炎にその指を炙られて、ひっ、と息をころし、伸ばした手をひっこめなければなりませんでした。
 そのとき、ぐらりとメグの前に流れてきた一枚の板と凍った人体がありました。板は、なんのはずみか鍵盤の並びを抜けて、よどんだ水流にぐらぐらしながら、幽霊船みたいにメグの前にやってきました。
 一目見るなり、メグは気絶しそうになりました。
 顔といわず体といわず、全身に無数の注射器を突き刺された女性。いくつかの注射器には、彼女の体から吸い取った血らしい液体が黒く溜まっているのもあります。落ち窪んだ頬、肉が落ちて、瞼の下の骨のかたちがはっきりみえるへこんだ眼窩、とがった鼻筋と、あえぐようにひらいた口。その口からはみだした水ぶくれの舌は、藻草かと見誤るほどだらんと長く、喉から伸びているのでした。
(君、このひと知らないんだっけ?)
 少年は、メグを見つめ、火傷しかけた自分のこぶしを口に押し付け、喉の奥で、くくっと、しゃっくりのように低く嘲いました。
(知らない、だれ)
 メグの周囲の火の輪が縮んで、かぼそく消えそうになりました。恐怖にすくむと、熱が奪われ、炎は低くなってしまうのでした。少年は意地悪い上目づかいで、蒼ざめたメグから視線を離さず、
(君の探しているひとりだよ。ギャラリー深月のマダム。朱鳥だ)
(このひとがアスカさん? なんでこんなにいっぱい注射器が刺さってるの)
(これが、今彼女の魂が見ている夢なんだ)
(なんですって)
(自分の夢の姿を彼女は表現してる)
(どんな夢見てるの)
 こわくてメグは泣きそうになりました。反対に少年は勢いづいて、ふんぞりかえり、そのまま水中で楽しそうに膝をまるめて後ろ向きにくるんと回転しました。
(何にも知らないんだろ。このひとね、ヤク中なんだ)
(ヤク中?)
(シャブだよ)
(シャブって)
 少年は、メグの無知に呆れ顔を隠さず、また少しイラついた様子でした。
(シャブも知らないの? 麻薬だよ。覚醒剤。芸能人とか、ときどきスキャンダルになるじゃないか)
 頭ごなしにケンケンと言い立てられても、知らないものは知らないんだから仕方ありません。少年は小生意気な顔で、メグの前にたちはだかり、アスカをずけずけと指差して、
(アスカさんてね、こういうのにはまってたんだ。ギャラリーなんて、ただのカモフラージュ、カクレ蓑。裏ではヤクの中間売人。それでしたい放題の暮らしをしてたわけ)
(……)
(いずれ警察の手が入るか、病院行き。うまく中毒から抜けたって、そんなの長持ちしない。いったんヤクを覚えたら、抜けだすのは容易じゃないだろ)
 メグは喉がカラカラに渇きました。聞かされることは、十一歳のメグの理解の範囲を超えていました。ヤクがどうの中毒がなんのと脅されても想像できず、まったく実感がありません。メグはただ眼の前に突きつけられたアスカさんの無惨がおそろしいのでした。
 少年はメグの恐怖を知ってか知らずか、遠慮なしにしゃべりまくりました。
(夢の中まで、アスカはひたすらシャブにふけってる。そうしてさらに濃い中毒に酔ってる。無制限に打ちたいだけ麻薬を打って)
 少年のおしまいの声は、苦々しく、吐き捨てるような感じでした。
 ソンナノ、ドウダッテイイ、とメグは小さな呻き声を洩らしました。
(メグ、シーラを!)
 ふたたび、頭のてっぺんから光がさしこむように、安美さんの声が聞こえました。メグがはっとして、また頭上を見上げると、シーラは水面に顔を伏せて、いまにもこちらへ飛び込んできそうな気配でした。
(だめ、来ちゃだめ!)
 メグは叫びました。少年はいきなりそのメグにとびつき、痩せた両手でメグの口をふさごうとしました。おびえきったメグの炎は、最初よりもすっかりちいさく細くなっていて、少年はやすやすと結界をくぐり、メグをつかんでしまったのです。
(つーかーまーえーた)
 少年は鼻唄みたいに嬉しそうに言い、メグはその手をふりほどこうとしゃにむに暴れながら、シーラを見上げ、とっさに、眼の前のアスカさんの横たわった板を水面にむかって蹴り上げました。
 よこしまな夢魔に耽った魂の張り付いた板は重く、メグは、板の裏側から、何度も何度も蹴飛ばしました。
(行け、行くのよ、アスカさん。目をさまして、ここにいちゃいけない、シーラといっしょに目をさますの)
 メグは叫び続けました。すると、火勢の衰えていた結界の炎は、叫ぶメグの声につれてメラメラとまた吹き上げ、メグの首っ玉にしがみついた少年のパジャマを焦がし始めました。
 ギャッ、と彼は悲鳴をあげてメグの体からとびすさり、口惜しそうな表情をしました。
(そんなにぼくが嫌いか?)
(ダイッキライ)
 メグは遠慮なんかしませんでした。
(あなたなんか、二度と会いたくない。意地悪、ザンコク、自分勝手!)
 叫んでいるうちに、涙がぽろぽろ流れてきました。
(ママを返してよ)
(君のママなんて、ほんとは死んでいるんだぜ)
(でもあなたが捕まえてる)
(もともと生の世界のひとではないんだからぼくがどうしようといいじゃないか)
(それが、自分勝手なの)
 言いまくられて、少年はちょっと黙りました。二人が怒鳴りあっているうちに、アスカさんを乗せた板は、ぐらりぐらりと水面に向かって上昇してゆきました。
(そうよ、アスカさん、シーラさんのところへ行って!)
 フーン、と少年は、いきなり興奮をおさめてつまらなそうな顔にもどり、パジャマのズボンのポケットに両手をつっこみ、その姿のまま、水中で器用にまたくるっと後ろむきに一回転しました。
(メグなんて、ぼくのこと何にも知らないくせにさ。よく言うよ。ぼく、ほんとはいいことしてるのかもしれないんだよ)

 信州茅野、星隷ミカエル病院をネットで検索したタイジは、そのホームページトップに、写真家先生の部屋で見た絵葉書と同じ画像がイメージアップされているのを見つけました。
すぐさま、データ化された花緒さんの作品を探り、ほとんど同じ、いいえ、両者の微妙な色彩調整のズレはさておき、構図といい基本色相といい、また画面で推測できるタッチといい、完全に同一作家の作品が、花絵の〈記憶〉画像に残されているのを確認すると、この奇妙で不思議な符合に、胸がドキドキしました。
(ばあちゃんの燃やしたはずの絵が、どうして信州にあるんだ? しかも病院に?)
 シーラやメグをめぐって、このパラレルワールド行方不明捜索は、平穏な三次元的常識や理詰めでは理解できないことだらけなので、タイジは日常のごく身近で、こんなにやすやすと手がかりの糸が絡み合ったことのほうが、不思議な気がしたのでした。
(誰だっけなあ、シーラさんだったかな、偶然というのは存在しない。すべては必然なんだ、とか言っていたっけ)
 とタイジは考え、ともかくもシーラに連絡をとろうとしました。
 ところが携帯は電源を切ってあって通じないし、メールを出してもなしのつぶて、たった一本も返事はないのでした。
(そういえば、俺、彼女がどこに住んでいるのかさえ知らなかったんだ……)
 今さらながら、タイジは自分とシーラとの近くて遠い関係に愕然としました。シーラとは娥網を通じて知り合いになったのでした。男なら誰だってシーラにボーッとなるように、タイジも彼女にひと目惚れ。でも自分と彼女とではつりあいっこない、とひとりで決めてしまっていたので、タイジはときどき会うシーラの使い走りを進んでつとめ、ちょっとでも長く傍にいられると嬉しい、という気持ちを大事に保っていたのでした。
「あー、コンチクショ。どうしよう」
 じたばたしているうちに週の前半は、介護ワーカーとしての激務アルバイトに追われてあっというまに過ぎ、その間、何度もシーラにメールや電話を送りましたが、やっぱり返事はありません。木曜の夜、デイサービス仕事を終えてようやく落ち着き、タイジはガーネットに電話してみました。
「あたしも心配しているのよ、こっちにも何にも言ってこないから。捜索でもトリップでも、彼女はプロフェッショナルだから、進展があればコンタクトしてくるはず。難航しているのかと思ってあたしからは催促しなかったわ。……シーラの住所?」
 ガーネットは、ちょっと沈黙しました。
「豹なら知ってるでしょうけど」
「てことは、ガーネットさんも知らない?」
「まあね。本人が言わないことは尋ねない」
「豹河は?」
 ガーネットの言葉に、タイジはまたびっくりしました。
「七月の末から八月いっぱい、八ヶ岳よ」
「ええっ」
「今は清里音楽祭に出演してる。夏フェスイベントで、信州から清里高原にかけて、あっちこっちでキャラバンしながらジプシーしてます。知らなかった? あの子ね、調理師免許持っているのよ。だからフェスティバルのカラ日は、知人のオーベルジュでバイトしてるわ」
「えらいね」
「峰元くんだって、ちゃんとカタギやってるじゃない。あたしは、あの子をほったらかしに育てたのだけれど、男一匹(豹なら一頭ってとこね)どんな境遇でも自分の力で生計を立てるって、だいじなことだわ」
「知らなかった」
「そんなに驚くことかしら?」
「そうじゃなくて、ガーネットさんが、そういう考え方のひとだってこと。ぼく、ヒョウガは珠螺木を継ぐのかと思ってた」
「そうなるかもしれないし、そうならないかもしれない。でもどのみち占い師には向いてない。父親に似て頑固だし、我が強すぎるから……話がずれたわね。とにかく豹はこっちにいません……」
 そこでタイジは急いでヒョウガにメールを送り、かんたんないきさつを知らせ、シーラとのコンタクトを頼みました。
(ヒョウガはシーラさんの住まいを知ってるのかー、てことは)
 そこで考えるのを止めて、タイジはちょっと(かなり)落ち込みかけたのですが、なんとかヘコミを喰いとめて、木曜日の晩はいつもどおりチャリで実家にもどり、ありったけ自分の洗濯をかたづけ、お母さんの手料理を妹(タイジには女子大生の妹がいます)といっしょにたいらげ、泊まっていけ、というのをまたいつもどおり断って、真夜中に自分の巣に帰ってきました。
学生時代から変わらない六畳一間のアパートは、ひとり住まいのトリの巣暮らし。さらに、冷房ナシのエコ暮らし。木造二階の角部屋だから、窓を全開にすれば、風通しは悪くないけれど、エアコン完備の快適な実家とは比べようもなく、熱帯夜ぶち抜くチャリ漕ぎのあと、さらにうだるような自室の熱気に突っ込んで、タイジは全身たちまち汗みずく。それでもヒトリの巣のほうが、今のタイジには実家より気楽でした。
 ヒョウガの返信は、携帯ではなくパソコンに届いていました。
 ……ミネさん、わるいけど、本人の了解なしに、ぼくからシーラのアドレスは教えられない。今戸隠にいる。明日イベントひとつ消化したら、とにかくそっちに帰り、ぼくがシーラを連れて行く……
 過不足ないけれど、グサッとタイジのハートにヒビが入る返信ではありました。
(当然だよなあ。個人情報保護だもの。オレとシーラさんて、所詮、この程度)
 タイジの太眉が、ざっくり垂れて、顔に八の字を描きましたが、
(とにかくこれでなんとかなるさ)
 と気をとりなおしたとき、手元の携帯がマナーモードで唸りました。もう深夜も三時近い時刻です。今頃なんだよ、もしかしてヒョウガ?ジンさん?
「あたし」
 と聴き覚えのあるなめらかな低音ヴォイス。タイジは嬉しくって思わずたちあがり、あたりはばからぬ大声をあげてしまいました。
「何してたんですか、どんなに心配したか」
「多次元トリップ」
「……」
 その言葉も、もうタイジは聴きなれたはずですが、ガーネットのスタジオで、現実には起こりえない光景を直視したにも関わらず、タイジはいつも、トリップ、という単語には、ドラッグめいたいかがわしさを感じてしまうのでした。タイジの絶句の中身を察してか、電話の向こう側でシーラはかすかに笑ったようでした。
「ヤクでも脱法ハーブでもない。正真正銘、ひきずりこまれていたの。自分で飛び込んだのだけれどね」
(シーラさん、疲れてるな)
 口調はしっかりしているけれど、喉で笑ったシーラの含み声に、ただごとでない疲労が滲んでいました。タイジは思わずまた大きな声を出してしまいました。
「ぐあい悪いの?」
「今何日?」
「え?」
「さっき正気づいた、ていうか、こっちに戻れたのよ。アスカさんを発見した。でも連れては来られなかった。今日は何曜日?」
「木曜日、じゃなかった、金曜の朝です」
 受話器の向うの長い吐息が聞こえました。声にならない呻きに近い。
「涅槃に入ったのは月曜だった」
「ネハン? それ何ですか?」
 タイジはせっかちに質問しました。シーラはひとりごとのように、
「三途の川原を渡ってまる三日過ぎた。消耗するわけだ」
 それから、また冷静な声に戻ると、ゆっくり区切りながら、
「アスカさん、注射、ざんまいだった」
「注射…注射って?」
 タイジはじりじりしました。見えそうで見えないものが、すぐそこにあって、手を伸ばせばつかめるに違いない中身が感じられる。自分がものすごくダウンロードの鈍くなったパソコンみたいな気がしたのです。
(オレ、何ヤッテンダロ。もっと回転ハヤクナレヨ)
 シーラが疲労困憊している気配がありありと感じられるにつけ、タイジの口惜しさはつのります。
「わからない。彼女の全身に突き刺さっていた針がなんなのか」
 タイジとは反対に、シーラの声はゆったりとしていました。いいえ、トリップからようやく覚醒し、疲れきったシーラは、あらためて泥みたいな睡魔におそわれ、正直、口をひらくのもようやく、というところだったのです。ですが、彼女はそんな消耗をこらえて、切迫したタイジの様子を察し、たぐりよせるべき要所を問い直しました。
「この三日間に何があったんだ。どうして注射が気になる?」
「ばあちゃんの絵が茅野のサナトリウムにあったんですよ。たぶん花緒さんの原画」
「サナトリウム?」
「違うかな。とにかく終末医療の病院みたいなところ」
 タイジはなんとか簡潔に話をまとめようと焦りながら、写真家先生のところで〈偶然〉見つけたカードから、ネット検索でつきとめた画像までを伝えました。でも、豹河と連絡をとったことはどうにもつらくて言えませんでした。
 携帯を耳にあてて、タイジの不器用な説明を聴き取りながら、シーラはもう目をつぶっていました。眼球の奥に疲労がたまり、鈍い痛覚がちかちかしています。
(視床下部の過労)
 とシーラはすこし自虐的に自分の疲れを測りました。自虐的になると、シーラの思考回路は、少年に傾くようでした。
「わかった」
 ぜんぶ聞いてしまうと、シーラは乱れた浴衣の襟や裾を整えるように、タイジに伝える自分の声音を意識して女性に戻しました。
「安美さんも言ってた……多次元領域では、〈彼〉の力が強すぎて太刀打ちできない。リアルワールドから来い、って。そこに行ってみましょう。行く価値はある」
(それしかない)
 今はともかく、とシーラは心でつぶやき、かすかな声で付け加えました。
「メグを連れて行く。彼女が必要だ……」
 シーラの残存エネルギーはそこまで。プツッと携帯は切れました。
 音信の途絶えたタイジの携帯ホームには、シーラの画像がぼうっと浮かびました。正面撮りではなく、斜めうつむき加減四十五度のシーラは、ちょうど耳を見せて髪をかきあげ、弓なりの眉の輪郭が清潔に高く、伏目がちに睫毛の長さがことに際立つ眉間から唇まで、流れるような隙のない陰影を見せていました。ミケランジェロのピエタや、ボッチチェリに描かれたイコンたち、とほうもなく遠い、手の届かない世界の女性の画像のようでした。
「今のオレの心境ピッタシ、これ」
 とタイジはごろんと畳に仰向けにひっくりかえりました。
タイジの携帯ホーム画像のシーラは、じつは十何枚か内蔵されていて、オートセレクトで、使用終了のたびごとに、異なるシーラの映像が浮かぶセッティングになっていました。もちろん誰にも(表向き)ナイショです。だから、笑顔のカワイコちゃんシーラや、不機嫌顔、すまし顔、ドレスアップ、街角カジュアルシーン、とひそかに集めまくったシーラを、彼は一日じゅう抱きしめている(じつはみんな知っている)のですが、今の会話のあとに浮かんだシーラの声のニュアンスは、なぜか自分と彼女との距離感を深めて、そんなタイジのさびしい恋心に、的中ズバリの映像でした。
「なあ、おい」
 とタイジは携帯につぶやきました。
「ハズレ? アタリ?」
(何がだよ、ぶぁか)
 タイジは自分で自分の質問をあしらい、携帯をそっと胸ポケットにしまいました。時刻はもう四時半をまわり、しらじらと夜明けの光が窓ガラスに昇ってきたようです。

 バイバイ、またね、と手を振ってサヨナラしたものの、普通と違うメグの様子がどうにも気になった羊子。その日は夕方から学習塾にゆくはずだったのですが、街角をいくつか曲がって駅へ向かうバス亭手前で立ち止まりました。
(なんだかメグ、変だった。もしかして、ネッチュウショウかも!)
ちょうどその頃は、学校でもしきりに熱中症に脱水予防ナドナド、夏休み前の健康保持、猛暑対策の注意報がしきりに出されていました。環境美化委員と学級委員を兼ねる羊子は人一倍責任感も強い。くるりときびすを返すと、パタパタと小走りに来た道を逆戻り。でも、走り出す前に、彼女はちゃんと携帯で時刻を確認しました。
(バイバイしてからまだ十分もたってない)
 角を二つ逆戻りして、校門と目印の柳が遠くに見える、県道から国道への分岐点すぐ、そこらへんは木蔭をつくる街路樹もなく、うだるような西陽が、さっきよりもさらに暑くアスファルトを焼いていました。
 不吉な予感はあたり、メグは陽炎のたちのぼる路面に、仰向けに倒れていました。
「メグ!」
 駆け寄った羊子は、学校で教わったとおり、メグの体温を確かめようと額に手を伸ばしかけて、でも、メグに触れる前にぎょっとすくんでしまいました。メグは片手に赤い花の咲いたタチアオイの茎を一本しっかりと握り、麦藁帽子をかぶったまま、かすかに顔を横に向けて倒れ、うっすらと半目を開いていました。その顔を覗いた羊子は、メグのとろんとして動かない両目が、麦藁帽子の鍔の下で真っ青に光っているのに気づきました。
「……どうしたの」
 まるで蛍光ペンのインクを、ぽたりとしぼったような濃い青色の瞳。錯覚かしらと羊子は自分の眼を手の甲でこすりましたが、見誤りではなく、メグの細い睫毛の影が、くっきりと、内側から光りを放つ青い逆光でいちいち数えられるくらい、メグの両目は、生気の失せた蒼白な顔とは裏腹に、強烈に輝いているのでした。
 その上、メグは全身汗まみれでした。髪、顔、胸、おなか、両手両足、頭のてっぺんからつまさきまで濡れとおり、ラベンダー色のプリントチュニックTシャツから、デニムのショートパンツまで、衣服の繊維が肌に貼り付くほどです。
「すごい汗、どうしよう」
 さすがの羊子も途方にくれました。
「どうしたの、貧血?」
 とタチアオイの生えている家の生垣ごしに、正面サッシをがらりと開けて、その家の主婦らしい女性が、異変に気づいて声をかけてくれました。
「わ、タイヘン。救急車呼ばなくちゃ」
 おばさんはメグをひと目見るなり判断して連絡、じきにサイレンが鳴り響き、救急隊員が飛んできてくれました。
 救急車には羊子とおばさんが乗り込みましたが、そのときメグはもう目をかたく閉じていて、羊子は一瞬かいまみたメグの青い眼を、二度見ることはできませんでした。
「なんだこりゃあ」  
 と救急車のおじさんは、メグを抱き上げたとたん、思わず奇声をあげました。メグは全身びしょぬれで、だらんと垂れた髪や指先からぼたぼたと大粒の水が滴るのに眼を剥き、
「この子、水遊びでもしたの?」
 状況を尋ねられた羊子は口をへの字に結んで首を振り、
「下校途中で、お花を見ていただけです。そのあとすぐあたしは別れたんだけれど、メグちゃんは忘れ物をとりに学校へもう一度行くと言っていました」
「それじゃ汗か。エライコッチャ」
 と救急隊員のおじさんはメグのバイタルを測り、また違った奇妙な声音で唸りました。
「エラー。測れない? 計測不可? どういうことだ。血圧も、パルスも。いったいどうしたってんだ。故障か」 
「ひどい不整脈だ。しかし呼吸正常。眼底出血なし。すごい発熱。測定器エラーだから、数値不明だが、すごい、としか言えない」
 燃えるようだ、とふたりの救急隊員はメグの腋の下にかわるがわる差し入れた手をじきにひっこめ、ちょっと蒼ざめてお互いに目配せしました。それから下瞼を器用にめくり、貧血状態を確かめました。とっさに羊子は、おじさんの手元を覗きこんだのですが、メグの白い眼球から、さっきの青い光はもう消えていました。
 この子の保護者は? と尋ねられ、羊子は、携帯のアドレスから、メグの自宅の電話番号だけを伝えました。救急車からメグの自宅に電話すると、そのままパパの携帯に転送され、メグが市民病院に担ぎこまれて一時間後には、あわてふためいた駿男さんが現れたのでした。
 その晩メグは点滴を受けました。パパが現れるとすぐに、メグはぱっちりと目を開け、
「パパ、どうしたの?」
「メグは熱中症でひっくりかえったんだよ」
「……」
 メグは自分がタチアオイの花を通って、裏側の世界に入ったことを、パパにうちあけたいと思いました。でも黙っていました。話してもパパには理解できないだろうし、困らせてしまうに違いない、と考えたのでした。
「あたし、どのくらい貧血だったの?」
「羊子ちゃんは、すぐにまた戻ってくれたんだって。だから五分か十分だろう」
(たったそれだけ?)
 メグはびっくりしました。ずいぶん長い間、冷たい水底で、あの男の子と争っていた気がしたのに、こちらがわではたった五分かそこらだったというのです。
「羊子ちゃんは?」
「帰ってもらったよ。あとでよくお礼を言っておくんだよ」 
 パパはメグの濡れてまだ乾かない前髪をいとおしそうに撫でてつぶやきました。
「メグは、そろそろ髪の毛を切らないとね」
 点滴を外しに処置室に入ってきた看護師は、そんなパパとメグのこまやかな情景を眺めて、
「今から将来が楽しみなきれいな娘さんで……お父様、目に入れても痛くない、って感じですわ」
「いやあ」
 ハハ、と駿男さんは、ちょっと小鼻を人差し指でこすり、照れたように、
「男手一つで育ててますからねえ。いろいろ気がかりで」
 あら、と看護師は、うっかり駿男さんが洩らしたプライベートに触れたために、微妙な表情を浮かべましたが、次の瞬間にはもう、隙のない感情のゆきとどいた微笑に変化していました。メグの腕から点滴の針を抜き、看護師は顔に整えた微笑を絶やさず、
「体温、血圧、心拍。すべて正常値です。脱水症状もありませんので、ご自宅で安静になされば、問題はありません」
 その晩遅く、メグはパパと自宅へ戻りました。頭の片隅にはまだ、他界の残像が重く渦巻いていましたが、体はもう元気で、家に帰り着くなり、
「パパ、おなかすいたっ」
「パパも。メグは何が食べたい?」
「オムライス」
「いいよ。ただしパパ疲れたから、チキンライスはリーズナブルにケチャップ」
「いいよ。でもデザートにアイスクリーム付けて」
「肥るぞ」
「背が伸びるもん」
 メグの両頬に、内側からあかりが射すようにほのかな紅色が昇っているのをパパさんはつくづく見つめて、安心すると同時に、娘に対してやるせない思いを抱きました。
(基本的に母親似だが、この子はたいした器量よしだよ。コドモだコドモだと思っていても、このほっぺたのピンクはどことなく大人っぽくて(色っぽくて、と言いたいところだがイイタクナイ)もうそこまで青春到来って感じだ。そうしていつか、この娘をさらっていくヤツが現れる。それもそんなに遠くないだろう。あー父親ってカナシイ……)
「ナーンチャッテ」
 と駿男さんは自分のしめっぽい物思いに向かって、ことさらわざとらしく、あっかんべー(我ながら古いぜ、とボヤキつつ)しました。メグは戸棚から食器をとりだしながら、パパのヒトリゴトにふりかえり、顔にふりかかる伸びすぎた前髪をおとなびた仕草でかきあげ、
「なにブツブツ言ってるの?」
「いや、なに、その」と、パパはへどもどし
「明日は学校休んで、髪の毛を切りに行きなさい」
 とごまかしました。もう翌々日から、小学校の夏休みが始まります。

 八月に信州で、演劇パフォーマンスのセミナーがあるんですけれど、とシーラから電話が入ったのは、メグの夏休み初日の夜でした。
「ああ、シーラちゃん。元気?」
 パパは受話器を握りしめ、露骨に嬉しそうな声をあげました。
「おかげさまで。先日はいろいろご馳走になりました。とても楽しかったです。メグちゃん、変わりありませんか?」
「うーん、いっとき熱中症で倒れてね。三日くらい前、市民病院に救急車騒ぎだよ。それ以外は何にもない。今はもうピンピンしてる。
うちの子に算数見てやるついでに、遊びに来てよ。そういえば、全然例のミュージカル練習始まってないみたいだけれど」
「ハイ。なかなかメンバーそれぞれ都合のよいスケジュール調整むつかしくって。だから思い切って、何日かバンドメンバーをまとめて、いっきに舞台あわせとお稽古をしちゃおうかな、と計画したんです。ちょうど長野県で音楽祭に出演しているミュージシャンの子がいて、彼の知り合いの民宿に空きがあるって聞いたので。オトモダチ価格で費用も格安だし、往復の足代は…」
「え、それっていついつ?」
 突然興奮したパパはシーラの説明の腰を折って割り込みました。
「信州音フェスって、諏訪湖ロックとかジャズinTOGAKUSHIとか? もしかして」
「それです。戸隠、ご存知ですか?」
「モチですよー。すごいねえ、内外の一流どころのアーティストが、かわりばんこに来るでしょ。そのステージも、シアタータイプじゃなく、神社とか、古民家とか、アーティストの息づかいが感じられるような近接ナマで聴けるレアじゃなかった?」
「そういうシーンもあるようですね」
(パパさん、ボキャがグチャだよ。乗せられやすいタイプだね)
「うちのバンドの子、戸隠で丸茂醸のバックに入っていたみたいですよ」
「ええっ、ぼく長年マルモファンなの」
「あらあ、残念。もう彼はマンハッタンに帰っちゃった」
「シーラちゃん、ぼくも参加しちゃだめ?」
「えっ」
 携帯にぎってシーラは思わず二三度瞬きしました。彼女の横には、聞き耳を思いきりたてたタイジがくっついています。
「有給とってぼくクルマ出すからさ。メンバーって何人くらい?」
「いまのところ、こっちにいる子だけで五六人くらいかしら」
「全員は無理だけど、もう一台車出せれば、ぼくのとそっちとで、長野に突撃できるよ」
「トツゲキ……」
「分乗まずかったら、いっそレンタカー」
「そうですねえ」
(なりゆきまかせとはいえ、さあどうする。このパパさんをデカイ付録に積んで珍道中、行く先は茅野なんだが、まあいい、いざとなったら暗示にかけて眠ってもらうか)
 とにかくメグははずせない、とシーラは即座に判断し、声のトーンをすこし甘くして
「それじゃ、お願いしちゃおうかな。でも、風間さん、そんなに簡単に有給休暇って、大丈夫ですか?」
「これでも店長権限よ。女房亡くなって以来、三年半ぶんくらい溜まってるもんね。シーズンだから、長期は無理だけど」
「あたしたち、たぶんあっちに七日くらい詰めますけど、風間さんのお帰りになったあとも、メグちゃん、セミナー終了までおあずかりしていいですか?」
「シーラちゃんがいっしょならいいよ」
「そうですか、ところで」
 と、シーラはそこでようやく本命にたどりつきました。
「メグちゃんと代わっていただけますかあ」
「ハイヨ。メグ、シーラちゃんだぞお」
 ダイニングのテーブルで、今日の絵日記に向日葵を描きかけたまま手をとめ、頬杖をついてパパの姿を眺めていたメグは、ぱっと椅子から飛び降りると、受話器にとびつきました。開口いちばん、これ聞けよがしの太字ゴシックで、
「シーラさん、うちのパパってうるさいよねー」
 ちょうど発泡酒を飲みかけていたパパは、メグの冷たい言葉に咳き込んでブッとふきだし、メグはそんなパパを横目でじろっとにらみつけ、
「ずうずうしくてごめんなさぁい。長野でキャンプするの?」
「キャンプじゃなくてね。……例の失踪事件、パラレルと三次元の混在点がまたひとつ見つかったみたいなんだ」
「どこ?」
「パパ大丈夫?」
「お酒飲んでる」
「信州なの。偶然だけど、豹河はもうあっちにいる。来週早々、峰元くんとあたしと、もしかしたらガーネットさんもいっしょに現場へ向かう。あなたも来てほしいの」
「いくいく。それでパパも?」
「あたしはかまわない。車はあたしのほうでも出すわ。たぶん風間さんは最後まではいられないでしょうから」
「どこ泊まるの?」
「予定では、ヒョウガのバイト先。佐久だったかしら、どっちみち、八ヶ岳の向こうがわ」
「あたしね、シーラさん、熱中症で倒れたとき、こわいもの見た」
「……メグ。そこにパパいるね。それ以上〈声〉でしゃべらなくていい。携帯はこれで切るけど、自分の部屋に戻って、耳からじゃなく、頭の中であたしの〈声〉を聞いて」
 え、とメグは目をみひらきました。シーラはおだやかに言いました。
「あなたとあたしなら、携帯なしでコミュニケーション可能なの。もうそれを教えてもいい時期だ……」
少し大きい文字

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