さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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サイコ・ヒーラー 6 シトリン

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6 シトリン   

 結局、レンタカーではなく、合宿メンバーとは現地集合、諏訪南ICで待ち合わせになりました。シーラを助手席に乗せてルンルン気分(メグや他のメンバーのことなんか、ほとんど念頭にない)という都合のよい夢をふくらませていたパパは内心ずいぶんガッカリしたのですか、そこはそれ、男手ひとつで愛娘を育てている人一倍の子煩悩だから、当日は夜明け前からお弁当づくりに精を出し、お稲荷さんに唐揚げ、出し巻き卵やら、もうピクニック気分上々でメグといっしょに朝六時には高速道路に乗りこんだのでした。
「メグー。シーラさん以外のメンバーってどんなひと?」
「えっとね。峰元太地さんていう美大の男の人と、ガーネットさんと、それからヒョウガっていう子とー」
「なに? ガーネット?」
「うん。美人だよ」
「へー。ダンサーか何か?」
「アタリ」
 美人と聞いてパパはニコニコし、峰元君の名前は、そのままローリングストーンズのBGMといっしょに開けた車窓から消えてしまいました。
「女優さん? シーラさんみたいな感じ?」
「会えばわかるよ」
 ったく、とメグは眠気覚ましのクールミントガムを噛みながら、ガムよりひややかにパパのにやけ顔を観察するのでした。
(しょうがないよね。美人しかキョウミないんじゃない、パパはぁ)
 あ、でもシーラさんも男なんだっけ、とメグはすこし思慮を深くしました。
(それわかったら落ち込むかなー。でも、シーラさんの魅力って男とか女とか関係ない感じ)
 高井戸ICから乗り入れた中央高速は観光シーズンとはいえ、お盆の帰省ラッシュ前なので、ところどころ短い渋滞はあったものの、割合空いていました。
 メグは、ふだん忙しくてゆっくり音楽も聞けないパパが、ここぞとばかりにかけまくるオールディーズのBGMを聞き流し、ごたごたした都心を抜けてほどなく、ひとつトンネルを抜けるごとに眼の前に次々に現れる緑深い山間の光景、やがてなだらかに傾く斜面に葡萄園を擁した甲府盆地のすがしさ、その向こう側にひろがる朝の夏空はるか、真正面にゆったりと青い裾野をひく八ヶ岳の山容に目を奪われていました。
「やあ、きれいだなあ、とうとう来たぞ」
「もう長野県?」
「まだ山梨。この青い山越えたら、信州だ。八ヶ岳って、パパも初めて見たけれどいいねえ。てっぺんのぎざぎざは、昔富士山と喧嘩して出来たんだって」
「喧嘩?」
「まだ人間がこの世にいない頃、富士山と八ヶ岳と、どっちが背が高いか競争して戦った。勝負は富士山が勝って、槍でぼこぼこに八ヶ岳のアタマをぶんなぐったから、あんなふうに八つもたんこぶにナッタンダトサ」
「たんこぶが固まったの?」
「そういうことらしい」
「特大ウソっぽい」
「パパもそう思う。だけどさ、神話とか伝説、オトギバナシとかって、その嘘っぽさが浪漫なんじゃない? わかる? 浪漫ですよ」
「あ、そういう言い方って、メグをばかにしてるよ」
「違います。パパは君に敬意をはらってる」
「ケイイ?」
「そ。君がね…」
 パパはちょっと口を噤みました。パパの口元は、そのときとてもおいしいものをだいじに頬に溜めて、なかなか飲み込まないでいるリスみたいに、すこし膨らみました。
(メグが、まだしばらく当分、人生では嘘っぽいくらいピュアなシーズンを生きているってことに)
 なぁんちゃって、とパパは、ごっくんと溜めた言葉を呑みこんでから、声には出さずにつぶやきました。メグは眼の前にひろがり、どんどん裾野をひろげながら近づいてゆく八ヶ岳の美しさに見とれています。

 高速で、何度かトイレ休憩をはさみながら、親子が茅野に着いたのは約束の時刻より少し遅く、もう午後にさしかかっていました。陽射しは濃く照りつけていますが、車から降り立ったメグは、高原の風と光とが、高速道路の排気ガスにも遮られずに、ここまで涼しく流れ、肺に吸い込む空気がそれまでとはっきりと違う澄んだ快さに深呼吸しました。
パパは、その時刻にはもうぎっしりと混雑しているインターチェンジの駐車場をきょろきょろと見回し、
「シーラちゃん来てる? 彼女どんな車?
運転するの?」
「どんなって言っても、メグよくわかんないけど、かっこいい車だった」
「カッコイイねえ。ガーネットちゃんその他大勢といっしょだろ?」
「わかんない……あ、あそこ、ガーネットさんだ!」
 駐車場いっぱいに出入り絶え間なく、ひしめいている車の並びの中には、外車も何台か混じっています。ひときわ目立つ洗練されたボディラインと、特注カラーに違いない深緋のシトロエンのそばに立ったガーネットが、すばやくメグを見つけ手を振って合図しました。
「おおーすごい。セレブ車じゃないか」
 パパは目をまるくしましたが、こっちにやってきたガーネットには、もっと圧倒されてしまいました。
 胸の鎖骨を見せて、大胆に鋭いⅤネックの切れ込んだ爬虫類パイソン柄の袖なしトップス、たぶん日焼け止めのミティをかねた、幾何学模様の黒レースの長手袋。パイソンは腰骨の上までぴっちりと上半身を包み、胸からは同色ヌードカラーのシースルーネックになっていました。ボトムは車と同じ深緋と黒の混じったシルクリネンのタイトスカート。パパはあんぐりと口をあけてガーネットの胸元からタイトスリットまで眺めおろし、とっさに挨拶の言葉も見つからないようでした。
東京からここまで、ガーネットが運転してきたのでしょう。サンダルはヒールの高いものではありませんが、オープントップスの、甲の部分だけ豹柄の毛皮で、踵や足首は繊細な手編みベルトとおしゃれでした。トップスもスカートも、小柄ながら均整のとれたスタイルの彼女によく似合っていました。
 ガーネットは毛先までつやつやと手入れした耳までの黒髪を、かるく左右に揺するように微笑み、
「はじめまして」 
 とても可愛らしい声でした。
ルージュつややかな口角をつりあげて笑顔をつくると、しみ一つ見えないなめらかな頬と目元に、ふわっと淡い笑い皺がうかびましたが、それさえも実年齢を測れない不思議な魅惑のアクセントとなるようでした。
「吉良ガーネットです。風間さんですね」
「風間駿男です。メグの父で。娘がお世話になっております」
 いやあ、とパパは気圧されて、まだ次の言葉が出せないのでした。
(キラ・ガーネット? オドロイタネー…シーラちゃんといい、どっちもタダモノじゃないし、タダゴトとちがうぜ、もしかして)
 そのとき、ガーネットのうしろから、
「こんちはあ」
 とその他大勢の二人がぬっと現れ、現場の雰囲気はガラリと変わりました。
「あれージンさんも来たの?」
「そうよぉ。だってメグのパパも来るって言うからさ。ぼくだって負けてらんないよ」
 ジンさんは、絶句しているパパを歯牙にもかけず、フリルいっぱい姫系花柄ワンピを着たメグを見て、にやっと笑いました。黒い麻の長袖シャツに、ベージュのコットンパンツ。どこのブランドなのかわかりませんが、どっちも結構高そうです。靴は彼のトレードマーク、ちょっとクラシカルな白と黒のコンビでした。このひと、服装はいつもずいぶん洒落ているのに、これもいつもながら、なぜか顔は無精ひげだらけで、ヒゲヅラだって、ちゃんと手入れして伸ばせばそれなりにサマになるものを、わざと中途半端に見苦しくしたいのか、顔中もしゃもしゃにしているのでした。
「はあ?」
「ジンさん、まず挨拶だってば」
 とタイジはジンさんの脇腹をつついて促し、
「峰元です。よろしくお願いします」
「どうも」
 パパはハンカチをポケットからとりだして、オデコの汗を拭き、日常レベルに頑丈な好青年のタイジにほっと息を吐きました。
「それで、シーラちゃんは」
「あそこ。いちばん早く来てた」
「どこ、ええっ」
 とパパはまたすっとんきょうな声をあげました。
 車両の駐車区画からはずれて、二輪車の列。そんなに遠く離れてはいないものの、彼女の姿がパパにわからなかったのも当然で、サングラスをかけたままのシーラはパパの驚きを楽しんでいるみたいに腕組みしてこっちを眺め、メグと目があうと、かるく片手の親指をたてて、ほのかに笑って見せました。
「シーラちゃんの愛車って、ハーレーダビッドソンかあ」
(たしかにカッコイイ。よすぎる)
と、またパパはため息を吐きました。
 ハーレーにかるく寄りかかるように立ったシーラはセミロングの髪を無造作にうしろでひとつ束ね、白っぽいTシャツに膝の抜けた、こちらはたぶんヴィンテージのブラックジーンズ。かなり履きこんだブルーと黒のバイクブーツ。
「あたしが一番早かった。たいていそうだわね、どこでも」 
「二輪はコマワリが効くからよ」
 ガーネットは、シーラのTシャツの派手なプリントをちらりと見て、すこし愁わしげに眉を寄せ、
「曼荼羅?」
「そう、胎蔵界曼荼羅。背中には金剛界」
 シーラは唇の端だけでふふっと笑い、バイクの前で、くるりとうしろを向きました。
 正面は緑と赤の正方形に密教の諸仏巡らす胎蔵界、背面には青地に金色、九つの正円チャクラのまわる金剛界マンダラ。
「夏の旅はじめ終わりの果てしなさ」
 シーラのつぶやきにジンさんはあっさりと
「だよなあ…。いくら食っても、時間がたてば必ず腹は減るもんなあ。生きるって腹が減るなり果てしなく」
「それって健康ですよ。空腹感じなくなったら、ヤバイ」
 とタイジ。みんななんだかちょっとシンとしました。
「なんだよ、集合そうそう頭上を天使が飛んでいくぜ」 
 とジンさんは酸っぱい顔です。
「ぼくお弁当作って来ましたけど」
 駿男さんがおそるおそる口を挟みました。
「へえ、何?」
 ジンさんは、しゃあしゃあとパパを覗き込み、でも視線だけは相手の眼から逸らして尋ねました。
「五目稲荷とサンドイッチ」
「お、オチが出た」
「なんすかあ」 
 と。タイジはむしろほっとしたように聴きました。ジンさんは、体のどこにも芯がないように、ゆらゆらしながら、暑そうに髪をかきあげ、
「成仏するときもさ、気楽がいいよな」
「だから?」
「南無三 カーサン、ハムサンド」
「あー、いっきに冷えました」
「ばかいえ、ちゃんとかあちゃんにだけは礼は言うもんだ」

 ICを降りて長野県側から八ヶ岳をながめる152号線を登り、道は途中で二股に別れ、一方は南側の茅野市寄りに蓼科湖、そこからさらに音無川沿いに大門街道を北に登ると車山高原と白樺高原がひらけて、白樺湖。どちらも八ヶ岳の山容美しい森の湖でした。
「蓼科ローランサン美術館は、もう閉館していて、先生は蓼科湖と白樺湖を勘違いしておられたんです。ネットで調べたら星隷ミカエルは白樺湖畔、しかもずっと山奥、ていうか霧が峰に近い。先生が信州に来られたのは、もうだいぶ前のことだから、間違っていても無理ないです」
 タイジは後部座席で、メグのパパから分けてもらった五目稲荷を頬張りながら説明しました。
「残念ね。あたしはローランサン好きなの。シャネルの肖像描いてるでしょ? 甘い色彩で……柔らかくって、でもココ・シャネルの内面の陰影をちゃんと表現してるわ」
「ガーネットさん、シャネル好き? だろうナー」
 と助手席に陣取ったジンさんは片方の眉をぴくりと動かすと、やはり駿男さんの手作りサンドイッチを一切れ食いちぎり、
「今日の香水は五番?」
 と違う方に話題を逸らしました。
「いいえ。五番は東京で、夜に〈着る〉つもり。モンロー風に」
「じゃ、何?」
「クリスタル」
「へえ、行く先が高原の湖だから?」
「違います。……それもあるかしら。でもどっちかっていうと、豹のため」
「ヒョウガ? なんで?」
「今にわかるわ」
 いまに、と少し強めのイントネーションで、ガーネットは、ジンさんのへらへらした問いかけをさりげなく打ち切り、
「ミネちゃん、どうしてミカエルがパラレルの混在点と予測できたの? 花緒さんの作品にそっくりな絵というだけで?」
「ぼく、星隷ミカエルに、直接問い合わせたんです。トップ画面の絵がとてもすてきで、気に入ったんですが、なんていう画家の作品でしょうかって」
「それで?」
「代表のひとも詳しい事情は知らなかったんです。事務職ですもんね。だけど親切で、ホームページ制作担当した部署につないでくれて……個人情報だから、どうしようか迷ったんですけど、利用者さんの先生の名前と、その病院に勤務しているっていうお孫さんのことを話したら、すらすらと運んだ」
 星隷ミカエルのホームページは、プロではなく、院内のパソコンマニアの看護師と広報担当の事務職員の何人かが共同で作っているそうです。そのひとりが、タイジの問いに、
「写真家のお孫さんて、内科の羽戸先生ですね。トップ画像も、羽戸先生が選んだんです。今日、先生は茅野地区に往診されてご不在なんですが、あの絵は、先生が院内で担当されている患者さんの病室にある作品です」
「それじゃ本物なんですか?」
「複製画じゃないと思いますよ。画家の名前まではわたしたち知りません。先生ならご存知かもしれません。ただその絵は、羽戸先生の所有ではなく、患者さんのものだと思います。もちろん使用について、ご家族の許可はいただきましたけど…ね」
 言葉のおしまいは、全部をはっきりと言い切れない、あるいは言いたくないような、曖昧で、困惑したニュアンスが漂いました。タイジはすばやくそれを察して、
「わかりました。また改めてお電話さしあげます。念のため、羽戸先生のお名前をフルネームで教えていただけますか?」
「羽戸千香子先生です」
 ありがとうございました、と言って電話をきってから、その後何度かタイジはミカエルに連絡したのですが、千香子先生とはそのたびに行き違い、直接話すことはできなかったのでした。……
「それだけなんですが、シーラさんは、もう充分だって」
「そう。あのひとが決めたんなら、右に出ようと左に向かおうと間違いないでしょ」
「うまいこと言うねえ。たしかに道は急カーブ。二転三転、どうなることやら」
 とジンさん。タイジもめずらしくジンさんのからかい半分な言葉にうなずき、
「ほんと、ピッタリですね。当っていようとハズレだろうと、シーラさんなら間違わないという」
「はずれはないのよ。この世界に。迂回もするし落とし穴もある。行き詰まりもね。だけど行き詰まっても、必ずどこかに抜け道がある、というパラレルの迷宮」
「さて、こぉこはどぉこの細道だろうね」
 とジンさんちょっと鼻歌まじりになりかけ、そこでふと真顔に戻ると、
「ところで、俺いっぺんもちゃんと訊いてなかったけど、あの親子、親父はともかく、娘はどうなの?」
「どうって?」
 とタイジ。
「可愛いし、素直でいい子だ。何も知らずに親父さん、掌中の珠みたいにかわいがっているじゃないか。俺たちの旅って、実は相当危ないんだろ?」
「ええ…」
 とタイジは、飲み込んだ稲荷寿司が胃袋のなかで(シャレでなく)ずしっと重くなりました。
「メグさんだけを連れ出すわけには行かなかったんです」
「まだ子供だもんな」
「でも、あの子だけが、たぶんその〈少年〉とじかにコンタクトできるのよ。戦う、とは言わない。あたしたちは戦士ではなく癒し手、ヒーラーだから」
「あたしたち……って、俺も?」
 とジンさんは缶コーヒーを飲みながら、目をまるくしました。タイジは、ガーネットが否定するのを期待したのですが、彼女は何のためらいもなく、
「そうよ」
(ええー? ジンさんも?)
 とタイジは正直、テンションとモーチベーションが激減する気がしました。ところが、ガーネットは、そんな彼の動揺を察したように、
「ヒーリング、というのは個人ではなく時空が与えるものなのよ。その時空、磁場に居合わせ、働く力の容器になるものは、誰でもヒーラーなの。もちろんひとりの人間に向かって、その力が集中して現れることもある。でもそうじゃないときも多々あるの。一個人に集中するほうがむしろ稀れ」
「わけわからん」
「あなた、カチカチの現代アタマだもの」
「現代じゃなかったらわかるのかい」
「ええ」
 ガーネットの口調には少しも迷いがありませんでした。彼女は、ゆるゆるとシーラのハーレーを目で追いながら、バックミラーに映るタイジにも、謎めいた微笑を泳がせ、
「だから、ミネちゃんもそのひとりなのよ。がっかりしなさんな」
 へえん、とジンさんは肩をすくめました。
「オイラ、かちかち山のたぬきでござんすってとこ?」
 ガーネットは銀色のシャドウを散らした睫毛を片方、ぱちんとかるく助手席のジンさんにウィンクして見せて、
「ご謙遜を。あなたずっとハムサンドよ」
 ガーネットさぁん、とタイジはサスペンションたっぷりのシートに座ったままズリこけ、
「ハンサムって言いたいわけ!」

 葉風さやぐブナや小楢、ダケカンバの森に囲まれた星隷ミカエル病院の駐車場に降りたとたん、頭上いっぱいあふれかえって鳴きしきるヒグラシの声に、メグは驚きました。それまでずうっと車中で鼓膜にねじこまれていたパパの趣味のロックサウンドがいきなり止んで、ふいに四方八方、地面からまでも湧き上がるように数知れず、鈴を降るそのユニゾンは響きわたり、声は樹間に谺を呼んで、いっときも絶えない鈴声の連続です。
それでも、最初数秒の驚きを過ぎると感覚はじきに刺激を忘れ、ずっと前からそこにいたように気持ちのなごむ晩夏の気配一足早いヒグラシの森でした。
 潅木、針葉樹の自然林の中に涼しげな白樺の幹が目立つ森影は、西に傾く陽光したたり、流れる風にさらさら、さわさわと葉裏を見せて木洩れ日がそこかしこで踊っていました。
「病棟と駐車場は離れているんです」
 シーラはヘルメットを脱いで、駿男さんに近づくとサングラスをはずし、彼の眼を見据えて、
「風間さん、あたしたち、この病院で慰問公演することになっているの。今日はとりあえず御挨拶と下見に来た、ということ」
 パパのすぐそばに立っていたメグは、シーラの眼がカチリと鋭く光り、メガネの奥のパパの瞳孔が、それに反応して、瞬間パッと拡がったのがわかりました。
「パパ…」
 メグは心配になり、パパの手を握って、ひっぱりました。シーラはそんなメグを柔らかく見下ろし、
(暗示にかけたのよ。パパは何も知らない。説明しても混乱するだけだから)
 シーラの声は、頭の中で聞こえるのでした。シーラの言うとおり、駿男さんはまるで顔の周囲に群がる薮蚊を追うように、ちょっと首を左右に振ると、
「もう慰問先まで決まってるんだねえ。メグは歌とか台詞とか覚えられるの?」
 と、のどかなリアクションを返しました。
 メグはほっとしてパパに笑いかけ、シーラに、
(これでもうパパは何も心配いらないの?)
(パパが心配することは何もないし、あたしたちがパパに気兼ねすることもないわ)
 傍目には、じっと黙って視線を合わせているように見えるシーラとメグの様子を、シトロエンの三人組は、すこし距離を置いて、複雑なまなざしで眺めていました。
「ガーちゃんには、あの二人の間に飛び交う信号か何かが聞こえる?」
 ジンさんはガーネットに尋ねました。ガーネットは小首をかしげてnonと答え、タイジは寂しそうに横を向き、さみどりの葉っぱの重なりさやぐ夏空にむかって両手をのばし、思い切り背伸びをしながら、
「キモチいい。空気の味が違う」
 とわざとらしい大声で言いました。
 こっち、とシーラはタイジに向かって手まねきし、雑木林の踏み分け道を申し訳程度に煉瓦敷きにした小道を、すたすたと歩きはじめました。ジンさんはまたちょっと鼻唄モードに入って、通りゃんせをうなり始めました。
「行きはヨイヨイ帰りは……どうなるんでしょうねー」
 と他人事みたいなジンさんのぼやきに、
「帰りもヨイヨイに決まってます」
 とタイジは言い返しました。
「そぉ? 俺は、ヨレヨレになってなけりゃメッケモノだぜ」
「この際、フツカヨイで妥協」 
 とタイジ。
「ほー。もしかしてキミと僕、絶妙かも」
「お互い嬉しくないコンビです」
「それ最高、ミネちゃん」
 ジンさんは、タイジの背中をうしろからぱしんとたたきました。
「二人とも、チンタラ歩いてないで、速く来て」
 と、呼びかけたシーラとメグ、パパ、ガーネットの一団は、もう森を抜けて、病棟手前にひらけた草原に出ていました。
 タイジは眼をまるくしました。
 ヒグラシと白樺の葉風のざわめきを後ろに残し、眼前には一面コスモスの群れ、腰のあたりまで高く揺れる花の合間をくねくねと、ゆるい上り坂になった道まで覆いつくすようにいろんな夏草秋草はみだして繁り、ひとつ吹く風と次に来る風との隙間には絶えず、コスモスの白とピンクの花弁が揺れていました。鳳仙花、矢車菊、昼顔、百日草…とりどりさまざまな草花の種は、誰がどのようにばら撒いたのか、淡いコスモスの中に気ままに濃いアクセントを置いて、花の丘の向うに、星隷ミカエルの白亜の病棟が、蜃気楼のようにたたずんでいます。
思わずひとりごとがタイジの口からこぼれました。
「ばあちゃんの絵に入ったみたい」
(だけど、彼女があの絵を描いたのは戦前だよ。この病院のこの風景は、どう考えたって、そんなに古くない)
 タイジは手にしたクリヤーファイルをひらき、パソコンデータからプリントアウトした花緒さんの絵と、星隷ミカエルのトップ画像、そうして今、八月の光まばゆい蜃気楼のように立っている花畑の中の病院の実景とを、かわるがわる比べてみるのでした。
「きれいな病院だねえ」
 と何も知らないパパは普通に感動しています。メグはうなずき、
「ヒグラシとコスモスって、ここでは同じなんだね」
「?」
 その言葉の意味がわからず、パパは怪訝な顔をしました。ですがシーラは、すっきりと細く濃い眉をあげて微笑み、
「うまいことを言うね、メグ。ヒグラシは森を埋め尽くし、コスモスはこの夏の野原にあふれている……」
(この子には聴覚も視覚も同じだ。この瞳、この網膜は…澄んだクリスタルガラスとおんなじで、光りも色も無抵抗に通過してゆく。反応しているのはじかに脳なんだ。だから音も光も同じレベルで感覚する)
「考えれば不思議なことなのに、メグが言うと自然に聞こえる」
 とシーラはつぶやくのでした。
「耳と眼と、きれいな音と色彩がいっぱいで……別世界ね。花緒さんはこういうものを描いたんでしょう」
 いつのまにか、ガーネットは中国刺繍のいっぱい施されたこぶりな日傘を、自分の頭上にひろげていました。タイジは、
「ハイ」
「でも、彼女はここをじかにスケッチしたわけではないのよね」
「そうです」
「空想と現実が、作者と時空をはるかに離れてぴったり重なるところ」
「ありえない?」
「ところが結構あるんだよなー」
 とジンさん。
「そのネタはあとまわし。とりあえず〈彼〉に会う」
 シーラは傍らのコスモスをすこし摘んで、メグの緩みかけた麦わら帽子のリボンに挿しました。

 全体の色調をおだやかなアイボリーに統一された病棟は、北と南のウィングに分かれ、中庭の教会を囲んで、コの字型をしていました。由緒は古く、大正時代の中ほどまでさかのぼるそうです。
「最初はカルメル会の修道院から始まったのです。そのあと診療所と孤児院が出来、戦後は聖堂だけのこしてほかを建て直し、南ウィングは長期療養病床、北ウィングには……」
 と受付の職員は一同を案内しながら、親切に施設の概要を説明してくれるのでした。この女性職員にもシーラはパパと同じように暗示をかけ、突然の一行訪問を、あらかじめ予定されていた親族面会に操作したのでした。
「北ウィングの患者さんは、今何人いらっしゃるのですか?」
 とシーラは尋ねました。
「十人です」
「みなさん、眠って…?」
「はい。意識が戻られるまで、ずっと」
「お医者様は何人おられるんです」
「現在、北と南の常勤医師は二人です」
「たったそれだけ!」
 とジンさんとメグは声をそろえてびっくりしました。事務職員には、聞き手のそんな驚きはいつものことらしく、馴れた笑顔を作り
「内科と外科にひとりずつ。入院患者さんの医療は、急変しないかぎり看護師で充分ですから。南のほうも」
 タイジはちょっと顔が暗くなりました。
「療養病床ってことは、南にはそれじゃあ、介護士もけっこういるんでしょうね」
「はい。ここでは看護師、介護ヘルパーのほうが、医師よりも通常多用です。医師の先生方は、平日このあたりのあちこちの無医村に往診されていて、そちらのほうが」
「日本中、どこもかしこも福祉医療の人手不足か」
 とこれはジンさん。ぱたぱた、カツカツ、と一向の足音が、きれいに磨きあげた病棟の床に響きます。タイルや壁などすこし古びてはいるものの、クレゾールの匂いがほのかに漂う廊下にはチリひとつなく、ところどころの壁沿いにアンティークな花台が置かれ、前庭の草花が、無造作に活けられていました。花台の傍の壁には必ず、これはたぶん複製の中世細密画のイコンが飾られていました。
「この病院は、なんの消毒薬を使っているの? ふつうの病院と違ったいい香りがするわ」
「まあ、するどい」
 と女子職員は、際立って華やかなガーネットをまぶしそうに横目に仰ぎ、
「これは茅野の星隷女子修道院で作っている、ラヴェンダーを基本ノートにした消毒薬だそうです。この修道院独自のもので、ほかの病院では嗅げないんですけれど、そんなことをおっしゃったのは、奥様が始めてです」
 話すうちに、ウィングの一番奥の部屋にたどりつきました。
「ここのお部屋の方が、いちばん古株さんです。入院された順番に、病室が入り口に近くなっていて」
「個室」  
 ジンさんがつぶやきました。
「十人すべての患者さん、個室です」
 101号室、安宅礼音
「あたか、れいおん?」
「レノン、です」
「ジョン・レノンのレノン?」
 ジンさんは腰に両手をあてて、顎を突き出すように、ネームプレートを眺めます。
「ジョンが射殺された日に生まれたのでレノンと名づけたそうですよ。早死にしたジョンの分まで長生きするようにって」 
 一同のうしろから澄んだ声が、さわやかにひびきました。みんながいっせいにふりむくと、空色のワンピースを着た、まだうら若い女性がいつのまにかそこに立っていました。
「はじめまして、安宅君の担当医の羽戸です。遠いところから、よくおいでくださいました。彼もうれしいでしょう。ずっとひとりで遊んでいましたから」
 遊んで、と言ったとき、羽戸医師のまなざしは一同の上をすべるように流れて、シーラの顔に注がれました。うなじを見せて襟足でほどよく調えられたボーイッシュなショートカット、うっすらとそばかすの浮いたなめらかな小麦色の肌に知的な顔立ち。口紅は夏らしく、日焼けした地肌に近いコーラルオレンジ。年齢は見たところ三十ちょっと前くらいでしょうか。タイジは写真家先生の精悍な目に、千香子医師の切れ長な目許がよく似ているなあ、と思い比べました。
「遊んで?」 
 シーラはさりげなく繰りかえしました。
(そう、独り遊び。わたし、あなたが来るのを待っていたの。よく来てくれました)
 ハトの声は、シーラの脳に直接響いて来ました。
 彼女からの心の呼びかけが終わらないうちに、シーラの周囲の光景は左右天地の軸いっさい失われた溶暗となり、ハトとシーラ、それにメグだけがくっきりと立っていました。あたりは真っ暗闇なのに、それぞれの姿は、三次元空間の午後のほのぐらい室内光にたたずんでいた実像よりも、よぶんな影を認識から消し去ったために、3Dアニメのように鮮やかに細部までブラッシュアップされ、はっきりと見えました。
(こんにちは、あなたが風間メグさんね)
 ハト先生は人なつこい笑顔を浮かべ、膝をかがめて、立っているメグの眼と同じ高さまで顔を近づけてあいさつしました。
(先生もサイコヒーラーなの?)
 もうメグは驚いたりしませんでした。ハトは首をふり、
(いいえ、そうではない、と思うわ。わたしはあなたやシーラさんのように霊魂に直接アクセスするようなことはしたことがないし、次元の壁をつきぬけて跳躍するなんて芸当もできない。ただ、ある種のひとたちとは、こんなふうにシンクロすることができるだけ)
(ただのシンクロじゃないわ。あたしたちが今来ているのは既にパラレル、あるいはあなたの心象に記憶されている世界でしょう)
(たぶん、その両方。シーラ、わたしはあなたに、わたしがこのミカエルで何度か目撃した幻を、一刻も早く見せたかったの。だからちょっと急ぎすぎかな、と思ったけれど)
(その方がいい。……〈彼〉はどこ?)
 ハトさんは片腕をすっと真横に伸ばして少年の眠っているベッドを示しました。指さすのではなく、てのひらを軽く上にむけ、あたかもその手の上に、自分のまなざしを一緒に添えて少年の居場所を教えるような仕草に、シーラとメグは、ハトの気遣いと優しさを感じ取りました。
(シーラ、メグ、これはあたしの記憶の再現で、実景とは違うの。ここに勤務してから、彼の寝室で何度か見たものよ)
 ハト医師は「病室」とは言いませんでした。
 白く細い金属で組み立てられた、サイドレールつきのパイプベッドに、少年はひっそりと仰向けに寝ていました。胸元まで夏物のうすい羽根布団で覆われ、両腕はその上に、こわれやすい置物みたいに出ていました。水色と白のギンガムチェックのパジャマにメグははっとし、そのパジャマの袖口からのぞく痩せた手首や、異様にほそい五本の指にも、たしかに見覚えがありました。
(きれいな子でしょう?)
 ハトの言葉にシーラはうなずきました。
少年は十二、三歳くらいでしょうか。すこし不ぞろいな前髪がなめらかな額に乱れて、頬から顎にかけて、ふっくらとやわらかい輪郭を残しています。彼の髪や眉毛は淡い金色で、睫毛も半透明でした。ながいこと陽光にあたらないために、皮膚は透けるようにうすく、こめかみや、唇の周囲にはほんのりと葉脈めいた青さがただよい、その小さな顔に刻んだような整った目鼻立ちを並べて動かない彼は、未完成の人形か彫刻みたいでした。
 次の刹那、溶暗のどこからともなく、ほそいビニールチューブが伸びてきて、意思を持った蛇のように闇をしゅるしゅるとうねりながら泳ぎ、眠っている少年の鼻腔にずぶっと突き刺さりました。ひっと息を呑んでメグはシーラにしがみつきました。少年はびくりと全身をこわばらせ、掛けぶとんの上に出した両手を、一本づつの指が反り返るほど強くひろげました。でも両手を持ち上げることはできず、ずるずると鼻からチューブは少年の喉に侵入してゆき、すぐにその管から、黄色っぽい液体が、どろどろと少年の内臓に流れ込んでゆきます。
 少年は閉じていた両目を開き、顔をかすかに左右に振りました。
(イヤダ)  
 彼は、絞るように声をあげました。両手が意のままに動かないので彼は最初首だけじりじりと振っていたのですが、そうするうちにその首振りはだんだん激しさの度合いを増して、バタンバタンと顔を右左にたたきつけるように大きく揺れ始め、それでも首から下は動かないので、あたかも目に見えない大きな手のいっぽうが彼の頭をつかんで、もういっぽうは体を動かないように押さえつけて、頭をぐいぐいと乱暴にひねっているようです。
(イヤダ)
 もういちど彼はうめき、すると掛け布団ごと、彼の全身はパイプベッドから空中に浮き上がり、ふわふわした上掛けは、するりと下に落ちてしまいました。パジャマズボンからにゅっと足首が長く突き出て、手首や顔と同じように、寝間着からのぞいた薄い皮膚のところどころで静脈が透け、体毛のまったくない脛から爪先まで、不自然なほどまっすぐな水平でした。少年の身長に比べ、手や足は未発達に小さく華奢で、空中に浮き上がった彼は、激しくかぶりを振り続ける頭以外は、てのひらと足の指だけを必死で動かし、管の注入の苦痛に耐えていました。
(ちぎれる!)
 あんまり少年が激しく首を振り続けるので、今にもその首は、まるで果物がもぎ取られるように痩せた体から離れて、ふっ飛んでしまいそうでした。メグは恐怖の叫び声をあげ、シーラはドクターをちらりと眺めました。ハトはこわばった表情でしたが、自分の記憶想起を中断しようとはしませんでした。
 びちっ、か、ぐちゃっ、か……肉体の腱と骨、錯雑した皮膚組織が無理やりちぎれる、なんとも形容しがたい、いやな濁った音がいくつもして、浮かびあがった少年の首が、とうとうぐるりとひとつ方向に一回転すると、鼻チューブをつけた顔だけがその回転の余勢で肉体よりもさらに高く飛び上がりました。銀色のチューブはなお執拗に鼻に差し込まれたままでしたので、絶えず流し込まれる金褐色の流動物は、ぼたぼたと喉から下に垂れ流すままです。
 浮き上がった頭から、血は一滴も流れませんでした。頭を失った少年の肉体は、すぐにどすんと下に沈み、その捥がれたトルソの首から、どっと大量の血液が流れはじめました。黒ずみ、粘り気のある血液は、横倒しになった花瓶から水が零れるようにあふれました。そうして、動かない肉体の重りを逃れた少年の頭は、ようやく回転をおさめて、ぽかっと虚空に浮かんでいました。
(ジユウニナッタ)
 彼は回転の間じゅう閉じていた眼を、ぱちっと開きました。彼には、この幻視の目撃者ハトの姿が見えてはいず、頭がグルグル回りを止めても、両目の瞳孔はなお、てんでばらばらに四方八方にせわしなく流れています。彼の首は自分の鼻にさしこまれた管をはずそうとして、もういっぺん、頭髪が土星の輪みたいに見えるほど、ものすごい速度でびゅんっと回転し、チューブを飛ばし抜きました。
 はずれたチューブは床に落ち、いつのまにか少年の肉体は、みずからの内部からあふれる血液にひたされ、ほとんど沈みかけています。
 床の存在にシーラははっとしました。上下左右のない空間は、いつしか天井と床、窓をそなえた真夜中の病室に変わっていて、六畳ほどの病室の床は、もうシーラのくるぶしまでの高さに血潮はせりあがっていました。
 宙に浮かんだ首は、下を向いて、自分の肉体から流れ出し、今もどんどんあふれ続ける真っ赤な液体を、無感動に見つめました。暗い病室で、彼のちぎれた顔には、もう苦痛のかけらもなく、静かで、端麗で、あどけなくもあり、またその無表情は、どこかしらに、ひどい残忍な衝動をもてあましているように、冷たくこわばって見えるのでした。
 首はゆらゆらと虚空を動いて病室の窓に近寄りました。カーテンがしまっているので、少年は口と歯でカーテンをひきあけて、病室の窓から外を眺めました。
 満月が皓皓と輝いています。ひろい野原の上にぽっかりと、まるで少年の顔が遠くの鏡に映ったような月の姿でした。暗い地面から陽炎が揺れたつようにコスモスの群れがしいんとひろがり、どこにも人影は見えず、風のそよぐ気配もありません。時間と空間の停まったパラレルの手前で、少年は、ようやく手に入れた自由と、肉体のない宙ぶらりんなおぼつかなさに、すこしとまどっているようでしたが、そんな間にも、室内にはどんどん彼の血があふれ、いったいかぼそい少年のからだのどこにそんな血液があるのか、液体はどんどん嵩をまして、そのうち四角い病室いっぱいにみなぎってしまいそうです。
 シーラはふと周囲を見回し、メグもハトも消えているのに気がつきました。すると頭の中で、ハトの声が聞こえました。
(シーラもメグも、今はあたしの記憶の眼で見ているの。だからそこではひとりなのよ)
 そう、とシーラはうなずきました。メグの恐怖が気になったので、
(メグ、怖い?)
(だいじょうぶ)
 とハトとは違うほうから、メグのしっかりした返事が聞こえました。
(すごい血だね。もう水槽みたいに、部屋いっぱいになりそう)
(このあふれる血液は、彼の動けずに過ごした苦痛の時間のエネルギーなのよ、たぶん。
あふれて、流れて、どこまでも際限がない)
 そちらはハトの声でした。
 少年の首は、自分の眼下にどんどん溜まってゆく黒い液体をうとましげに眺めて、じきに顔をそむけると、窓ガラスにおでこをおしつけてじっと外を眺めました。そうするうちに彼の両眼がふたたびてんでばらばらに激しく動き始め、あんぐりと開けた口から、べろが犬のあえぎのようにひらめくと、おしつけたおでこの周囲のガラスに、瞬時に無数の亀裂が蜘蛛の巣状に走り、さらにグイグイと少年の頭が前へ進むと、窓ガラスは亀裂そのままにはじけ、八方に飛び散りました。

「……と呼んでいるんです、わたしたち」
 ハト先生のさわやかな声が、少年の生首弾む暗色の幻影を散り散りにして、メグの耳に夏の青空のように飛び込んできました。
(え?)
 とメグは汗に濡れたおでこの前髪をかきあげ、無意識にまずシーラを探しました。いつのまにか、自分の身近に彼女の姿を確かめようとする癖がついていました。
「このお部屋、ミカエルの部屋って呼ばれているんですよ」
 ハト先生は、自分の台詞をリフレインしてもう一度繰り返し、一行を見回すと、輪郭のたしかな形のよいくちびるに、おだやかな微笑を浮かべました。彼女の挙措動作のどこにも、陰惨な幻影の翳りは感じられません。
(あたしたち、いったいどのくらいの時間をトリップしていたの?)
 メグはとまどいました。パパやジンさん、峰元さんにガーネットさん……そこに居合わせ、ハトの記憶想起に現れなかった仲間たちは、何事もなかったように、簡素な病院の午後の光にたたずんでいました。パパは汗なんかかいていないのにしきりに首筋をぬぐう仕草をして、ジンさんはポケットからとりだしたミンティアを何粒か口に放り込み、くちゃくちゃと噛みはじめたところです。ガーネットは、中国扇子でかるく風を作って自分の顔に送っています。
 空調のほどよく効いた夕暮れの病室は静かで、こまかいレースのふちどりのついたあかるいカナリア色のカーテンがゆったりと南側の窓をひろく覆って垂れかかり、ミッキーマウスやプーさんなどの、小さなぬいぐるみの並んだ子供用の机に、おそろいの椅子、その椅子には大きなテディベアのぬいぐるみがうつむきかげんに腰掛け、その横に白いパイプベッド。部屋の片隅のちょっとした私物をしまう五段のチェストは、オフホワイトの地に、長いスカーフを斜めになびかせた星の王子さまのイラストレーションが前面に描かれ、上には、何冊か絵本らしいハードカバーと、やはりちいさい子供のよろこびそうなお人形やぬいぐるみが所狭しと置いてありました。
たくさんのおもちゃやお人形に囲まれ、若い女性が赤ん坊を抱いた写真が花模様のフレームに入って立っているのは、たぶんレノンの母親とレノン本人なのでしょう。パイプベッドは子供用にだいぶ小さめで、そのおかげで、病室というよりも、子供部屋という印象の空間はずいぶんひろく感じられましたが、ハト先生に続いてどやどやとみんなが入っていくと、さすがに窮屈です。
 シーラは一番前で、女性の事務職員とハト先生の間に立って、ベッドの少年を見下ろしていました。メグの視線に気づいたのか、シーラはかるくうしろを振り向いて、メグを眼で呼び寄せました。
(一瞬以下のことよ、メグ)
 シーラの声がメグの頭の中で聞こえました。
(あたしたちがハト先生の記憶にシンクロしていた間、こちらでは一秒も経ってはいない)
(記憶想起の共有は、時間の裂けめでもあるということかしら)
 それはハトの声でした。シーラは、メグとハトをかわるがわる見つめ、
(こちら側では誰も何も気づいていない、
ということにも、だんだん慣れていって)
 シーラの〈声〉が消えると、メグの耳には、ふたたび夕暮れのヒグラシの大合唱が聴こえ始めました。フイフイフイ、とひとつの澄んだ高啼きのあとを追って、無数のユニゾンがおしよせ、ものがなしく、狂おしく、寄せては還す潮の揺り返しのように、天地をいっとき埋め尽くし、聴覚になだれこんでくるヒグラシの声でした。
「天使の小部屋か、なるほど」
 とジンさんは、日頃の悪ふざけの気配もなく、素直にうなずきました。    
 小さなベッドに目を閉じて動かない少年レノンは、メグやシーラのひきずりこまれたパラレルに現れた幼児よりは、ずいぶん大人びていました。ハト医師の記憶に見た、思春期にさしかかったばかりの十二、三歳くらいでしょうか……すこし癖のある巻き毛の前髪、濃い睫毛、頬骨のかたちが皮膚の上からほのかになぞれるくらい痩せていましたが、どちらかというと面長な顔ぜんたいの印象はやわらかく、すっきりとしたまっすぐな鼻筋、やや大きめの薄い唇に温かい血の気はほとんど見えません。生気の通っている人間にしては、彼の顔にはしみもそばかすも、ほくろひとつなく、清潔すぎる印象がかえってさびしく、それは掛けぶとんの上にこわれやすい置きもののように、そっと置かれたかぼそい両手も同様でした。
 ハト先生が来られたから、わたしはこれで失礼します、とそこらへんで事務職員は姿を消しました。
「金髪…ということは混血なの?」
 ガーネットがつぶやきました。
「いいえ、この方は生粋の日本人、だと思います。ここに入院した当初、レノン君はふつうに真っ黒な髪だったそうです。でもこうして眠り続けるうちに、どういう作用でか……陽にあたらないからかしら、だんだん全身の色素が抜けて。でも、こんなにきれいな金いろに変化するひとも、珍しいの。他の寝たきりの入院患者さんも、やはり皮膚などは蒼白になるんですけど、髪や眉までは脱色しませんから。もしかしたらとても遠い遺伝子に、西洋人のものが混ざっていて、偶然ここで出現したのかも知れません」
「眠ったきり?」
 ジンさんはハト先生に問いかけました。
「そう」
「いつからですか」
 さすがのジンさんも、神妙に控えめな声でした。
「レノン君が六歳のときに、心臓発作で意識を失ってから、ずっと」
「てことは、六年くらい前?」
 いいえ、とハト医師は微妙に声をあらためました。
「申し上げたとおり、安宅レノンさんは、ジョン・レノンの亡くなった日に生まれたので……三十二歳になられます」
 部屋の空気を一変させる一同そろった驚愕は声にならず、それぞれの喉にしまいこまれました。
「……すごい不思議ですねえ。この少年は、十三歳より上には見えませんが」
 と沈黙すれすれの間を、素朴な感想を洩らして一番先に破ったのは、駿男さん。
「時間が停まっているのね……」
 とガーネット。
「そういうこと、世間話には聞いたことがあるが、実際にあるんだねえ」  
 とジンさん。タイジはひとり黙って、いたましげな視線をレノンに注いでいます。彼は介護ヘルパー二級の最終資格研修で見た、いくつかのケースを思い出していたのでした。脳梗塞、心臓発作…さまざまな原因で意識喪失し、寝たきりになったままベッドで何年も過ごしていた高齢者。病院の長期療養病床に点滴と、定期的な体位変換、さまざまな生理的介助を受けながら、ゆっくりと死への時間を小舟のように流れてゆく患者たちは、このレノンに似て、皮膚は高齢とも思えないほど冷たく白く、静脈は透け、手足はこわばり……顔はそのひとそれぞれ、ある瞬間の表情を刻んで動かないのでした。
 タイジが研修で眺めた、意識のない患者たちの顔に張り付いた表情というのは、このレノンのように静かな眠りの姿ではありませんでした。
それから数年、病院勤務の厳しさとはやや遠い、訪問とデイサービスという、わりあい穏やかな領域であっても、介護ヘルパーとして経験を積んだ職業柄、タイジは漠然とレノンの肉体に閉じ込められている苦痛と病巣のあれこれを推量し、優しい彼は、ジンさんやガーネットたちとは違った感受性で、眼の前の〈不思議〉を受け止めたのでした。
 タイジのまなざしは、無意識にレノンの足元に注がれました。
(やっぱりこのひと、バレエ足になってる。かわいそうに)
うすい夏掛けから、すこしはみ出た爪先から足の甲、脛にかけて一直線。それはタイジには何度も見覚えのある、寝たきり患者独得の廃用症候群…尖足でした。長期間動かずに、仰向けになったままの足首から爪先まで、まるでバレエのトウシューズを履いてまっすぐに立ったようなかたちのまま固まってしまった足。いったん硬化した尖足は足首の柔軟を失い、もはやふたたび地面に土踏まずをつけて歩くことはできないのです。……そこまで寝たきり状態が進んだ患者さんが、ふたたび歩く活力を取り戻すことも、また奇跡にちかい稀ではありました。
「レノン君は、発作で倒れ、そのまま意識のない植物状態になってすぐに、こちらに入りましたから、二十六年になります。」
「うーん」
 とジンさんは腕組みしてうなりました。
「家族はつらいわね」
 シーラがぽつんとつぶやきました。
 夏の長い夕暮れにも、いつしか宵は迫り、ヒグラシのユニゾンがどこかでふつっと止むと、下界とは明らかにちがう高原のひんやりとした夜気と仄闇が同時に、エアコンの効いた室内まで、足元から忍び寄ってきました。
「レノン君のご家族は…」
 ハト医師が言いかけたとき、ワゴンの気配とノックが扉に聴こえ、看護師が人工栄養のチューブを運んできました。
「御面会の最中、おそれいりますが、安宅さんのお食事の時間です」
 にこにこと気持ちのよい笑顔を浮かべた看護師はハト先生と同じ病院のユニフォームを着ていました。
「今日はにぎやかで、レノン君、うれしいでしょう。ひさしぶりですよね、先生、天使ちゃんのお部屋がご親族でいっぱいになるなんて」
 看護師は、何の気なしにレノンを「天使ちゃん」と呼んでいます。天使ちゃん、ミカエル君……きっとそれが彼の院内でのニックネームなのだろう、とみんなは思いました。
「そうね……。みなさん、お時間はまだ?」
 ハト先生は、すこし気を回すような目になり、中でもメグの表情を心配げに測りました。
「そうね、そろそろ失礼しなくてはいけないのですが…もうひとつ、絵のこともまだお伺いしてませんので」
 シーラはそつなく応えました。
「そうでした。あの絵は今、院長先生のお部屋にあります。御覧になりますか?」
「はい。できましたらお願いします」
 シーラとハトが、丁寧なやりとりをかわしている間に、看護師は手馴れたやりかたでレノンの食事の準備を済ませました。ベテラン看護師の手許から、白くて細いプラスティックチューブは、まるでそれ自体生きているようにするするとのびて、レノンの優美な鼻腔に差し込まれます。メグはどきんとして息を呑みましたが、アナログ世界で昏睡を続けるレノンの肉体や表情に微塵も変化はなく、あたかも花瓶の草花が鮮度を保つために茎を切り戻される手際にも似て、ひっそりと、固くほそい栄養チューブはズズッと深く侵入し、ほどなく吊り下げられたビニール袋から、いろんな栄養が、彼の命をつなぐためにとろとろと流れ始めました。
差し込まれたチューブの長さからして、きっとかなり喉の奥深くまで入っていったのだろう、とメグは思い、その感触を想像すると、自分の舌の付け根や喉がひりひりするような気持ちになるのでした。ですが、レノン本人は、やはり無表情で、薄い血の気のない唇が、チューブを差し込んだとき、いっしょに押し込まれて口腔を動く空気の加減で、規則正しい眠りのリズムとは無関係に、ヒュッとかすかな音をたてて開いたくらい。看護師はレノンの開いた顎と小鼻とを、自分の親指と人差し指で、小箱の蓋を閉めるように、元通りにかるく合せました。
「院長先生は、今日はお留守ですが、許可をいただいておりますので」
 とハト先生は、また一行を別な棟に案内してくれました。
 メグは、なんとなくレノンの傍を離れがたい気持ちでした。
 メグなんか、ぼくのことなぁんにも知らないくせにさ……と口をとがらせてバック転して消えた男の子の面影が、眠っているレノンの顔によぎりました。ふたりは同一人物なのに、ぜんぜん印象が違っていました。
(レノンの眼がもしも覚めたら、あんなひねくれた感じに見えるのかな)
 とメグがベッドの傍で立ったまま思案していると、もう廊下に出ていたパパが、
「おーい、メグ、置いてくぞー」
 とうながしました。半分暗示にかかったままの駿男さんは、前後の辻褄のズレはほとんど考えられず、シーラの身内のお見舞い、というインプリンティングを、すっかり納得しきっていました。
「はあい」
 とメグは返事をして、小走りに病室を出てゆきました。ハトについて、みんなはもう廻廊をだいぶ先へ行っています。うすぐらい廊下の向こうで、パパが手招きしていました。
 扉を閉める前にメグは、ふと、もういっぺんレノンのベッドをふりかえりました。すると、小太りの背中をまるめて経管栄養を注入している看護師の傍に、痩せたレノンが立って、メグをじっと見ているのでした。金髪の彼は、もう六歳の幼児の姿ではなく、やはり十二歳くらいでした。白い顔にくっきりとした黒目がちの眼をみひらいて首をかしげ、メグに向かって斜めにすくい上げるような視線を注ぐ彼の赤い唇には、これも見覚えのある皮肉っぽい微笑が浮かんでいました。
(やあ、来たね!)
 口癖みたいな彼の第一声が胸の中にじかに伝わって、メグは立ち停まりました。怖くはないけれど、やっぱり驚かずにはいられませんでした。レノンは、ひょいとほそい指先でメグの麦藁帽子をつまんで、自分の胸の前でクルクルと器用に回して見せました。
「あっ」
 とメグはそのときようやく自分が帽子をレノンの部屋に忘れたことに気づいたのですが、レノンはすばやく帽子を背中に隠し、
(行きなよ。みんな心配してるぜ。すぐまた会えるさ)
 ふ、と目をほそめて笑うレノンの存在に、すぐ横で手当てをしている看護師はまったく気がつかないのでした。

「風間さん、長旅お疲れでしょう? もう六時過ぎで、メグちゃんもおなかが空いたと思いますし、ジンさんといっしょに、あたしたちより一足先に、今日の宿泊所にお帰りになって休んでくださいますか?」
 北ウィングから別棟の院長室に向かう手前で、シーラは駿男さんに遠慮がちに提案しました。
「そんなに疲れたわけじゃないから、大丈夫ですよ。久しぶりに、思いきりドライブ満喫できたから」
 駿男さんは気のいい笑顔で答えました。パパさんは本音で、シーラ(やガーネットも)といっしょにいたい様子でした。
「そうおっしゃっていただけるとうれしいです。でも、あたしの私的な身内見舞いまで、こうしてお付き合いいただいて、申し訳ないわ。あたしはまだ、レノンのことでドクターと確認したいことがあるので、ここに残りますけれど、明日からの予定もありますし、それに風間さん、ずいぶんお料理上手でしたよね?」
「え? いやあ。自分で好きにやってるだけで、ウマイか下手か…」
 駿男さんは思いがけず、思いがけないことを突然ほめられて、頭をかきました。
「いえ、メグちゃんからも、日ごろのお料理好きはうかがってますし、いちどごちそうになったお夕飯、とってもおいしかったです。それで、ここでお願いするのも失礼かな、と思うんですけれど、これからしばらく泊まる宿って、ジンさんの知人の貸してくれたコテージなんですよ」
「あ、そうですか、貸し別荘ね。てことは、基本は自炊?」
「ハイ」
「わかった! 晩飯の支度係やれって?」
 シーラは自分の頬にかるく片手の指を添えて小首をかしげ、はにかんで、なんともいえないかわいらしい笑顔をパパに向けました。
「お願いできたらなって。優秀なオブザーバーも、サポーターもいますから」
「ねえねえ、それ俺のこと? オブザーバーって野次馬のことでしょ。サポは誰よ」
 ジンさんが割り込んできました。
「サポーターは豹です」
 とガーネット。
「あの子が食料いろいろ買い込んでくれてるはずよ」
「お、それならシェフがちゃんといるじゃんか」
「シェフはこの方よ。ヒョウガはまだ下働きです」
 じろっとガーネットはジンさんの軽口を制しましたが、ジンさんはへいちゃらで、
「やあ、ヒョウガが来てくれるんなら、うまいもの喰えるなあ。ずっとこっちでバイトしてたんだっけ」
「ヒョウガ?」
 駿男さんが怪訝な顔をするのに、時間を気にするシーラは、ちょっと気がせいた表情になり、風間さんの背中に軽く片手を添え、
「ヒョウガって、うちのバンドメンバーで、調理師免許もってるフルーティスト兼ドラマーです。夏中こっちでバイトしまくり、ワークショップとかやってるって、前にお話した子」
「風間さん、よろしくご指導ねがいますね。あたしの息子です」
「ええっ」
 とパパはガーネットをもういっぺん、頭のてっぺんから爪先まで眺めました。
「アナタサマの御子息デスカ」
「愚息デゴザイマス」
 シーラは立ち話をきりあげたくて、パパの背中を押す手に、また少し力をこめ、膝をかがめて駿男さんの視線を下からつかまえると、ぱちんと瞬きしました。メグはその瞬間、シーラさんの睫毛の奥で静電気のような閃光がきらっとよぎるのがわかりました。パパはすぐに素直にうなずき、
「それじゃあ、ジンさん、ぼくの車のナビお願いしますね。メグ、行くぞ」
「メグもぉ?」
 メグは正直にふくれっつらをしました。
(なんで? ガーネットさんや、タイジさんは残るのに、あたしは?)
(君を残してはパパは帰ってくれないからよ、メグ。だからこの場はパパと行って。車に乗ったら、すぐに眠ったふりをして、意識をあたしに向ける。あたしもあなたをひっぱる。そうすれば、あなたはあたしの脳を通してこっちで見聞きする全部を経験できる。体が離れていようと関係ないんだ。それはもう、経験ずみでしょう)
 そうでした。夏休み直前、下校途中でタチアオイを通ってパラレルに引き寄せられたメグの記憶は、シーラからの電話を切ったあと、自室に戻ったメグの心にシーラが入ってきて、くまなく共有したのでした。
(わかった。眠ったふり?)
(そう。眠ってしまってもいいわ。ひっぱるから)
 シーラは言い聞かせるようにメグの手をとって、
「じゃあ、ジンさんナビよろしく。迷わないでしょうね」
「信用ないなあ。長年の友人宅だから慣れたもんだよ。そっちこそ気をつけてねー」
 森影がひろく東西を覆う大気はあざやかに澄みわたり、まだ茜いろの気配の残る地表からの透明なあかるさと、闇が圧し包む天空の藍色とがなめらかに溶け合い、余光のなかにこまかなシルエットを切り絵のようにくっきりと浮かべた樹々のあわいには、いくつもの星がきらめきはじめていました。ヒグラシは止み、草むらからは早くも秋の先駆けと、コオロギや鈴虫の声が響いています。
「日中は暑いけれど、夜はもう軽いカーディガンが欲しいなって感じるくらい冷える晩もありますよ」
 ハト医師は人なつこい笑顔を一同に向けました。このひとはすっかりみんなの雰囲気に溶け込み、ずっと前からの知り合いのように自然な姿で、シーラの仕切りを待っているのでした。シーラとハト医師が並ぶと、ハトの背丈は、シーラの肩ほど、ちょうどタイジと同じくらいでした。
 院長室は、正面玄関から真向かい、三角屋根の聖堂の横にありました。病棟が建て直されても、創設以来の由緒を誇る大聖堂と付属建築は当時の姿をほぼ保ち、院長室も木造のまま、全体に簡素でありながら、カトリックらしい古雅な装飾性を、柱や窓枠、浮き彫りのほどこされた扉など、随所にとどめ、中庭に面した明りとりの薔薇窓は、色鮮やかなステンドグラスでした。
 花緒さんの絵とそっくりな油絵は、院長の執務机の向かい側の壁に、十字架のイエズス・キリストと、昇天する聖母マリアを描いた二枚の聖画にはさまれて、飾り付けられていました。
「どう?」
 とハト先生に問われて、
「よく似てます。原画はぼくもこまかく見ていないけれど、構図も色使いも、焼却したはずのおばあちゃんの作品そっくり。ですが、これは別人の直筆ですよね?」
 と答えながら、タイジはハト先生の反応を測りました。
「この絵は、安宅君のお母様の作品です」
 ハトは、静かに返答しました。インスタントですが紅茶をどうぞ、と彼女はティーバッグで皆にレモンティを注ぎ、きれいな手つきでそれぞれにすすめました。
「レノンさんのお母さんて」
「三年ほど前に癌で亡くなりました。ちょうどわたしがこっちに勤務する直前だったかしら。ですからわたし自身は、直接の面識はないんです……」
(シーラさん、メグ来たよ)
 そのときシーラの耳の奥に、メグの声が聞こえました。ちょっと興奮気味です。
(目をつぶって、こっちのほうのこと考えたら、すうっと入れた)
(でしょ? そのままあたしに重なって)
(わかった)
 違和感なし、とシーラは、自分の中にちいさい蝶々がひらりと舞いこみ、鼓膜のあたりにちょこんと止まったようなイメージでメグを迎えました。二人の受け答えを知ってか知らずか、ハトは淡々と続けました。
「レノン君のプライヴァシーに触れることになりますが、彼のお母さんは芸大出の画家だったそうです。在学中に学生結婚し、彼を生んで、レノンが三歳のころに離婚されたと」
「相手はミュージシャン?」
 とタイジが尋ねました。
「はい」
「レノンという名前は父親が付けた…」
「さあ、そこまでは。離婚したあと、お母様は実家のある松本に戻り、絵を描きながら、家業を助けておられたようです」
「……」
「実家は、長野でもきっての名家です。たぶん皆さんご存知かもしれない造り酒屋のひとり娘さん。おきれいな方だったそうですよ。だから、レノン君はそこの跡取り息子だったわけですが、生まれつき心臓疾患があり……いろいろ悩まれたようですね」
(旧家の娘が反対を押し切ってデキチャッタ婚。当時じゃまだ非難中傷やかましい。相手の男は気まぐれなアーテイスト志望? 若気の至りでトラブルが重なりあっけなく破綻。跡継ぎが欲しい娘の実家が、母子をひきとるのは勿論だけれど、生まれた赤ん坊に持病があり、健康な長命は望めない上に、母親はまだ若く美しいとしたら、跡継ぎ制作のために、周囲は堅実な相手との再婚を強いるだろう)
 シーラは考えました。シーラだけでなく、その場の誰もが。
「お母様はレノン君がここに入院する事態になるまで独身を通されたそうです。でも」
 とハトは、すこし伏目になって間を置き、ティーカップを手の中に包んでかるく揺すりながら、自分が余計に喋りすぎていないか確かめているようでした。
「……安宅さんのお家は、ほんとに格式のある、名字帯刀を許された、戦国時代から続く家柄で。結局婿養子を迎え、依子さん…レノンのお母様の名前です。彼女は再婚して、新しいご主人との間にお子さんをもうけても、月に一、二度は、こちらに来ていたそうです。あの風景画は、レノンがここに入院してから、彼女がスケッチし、筆を入れて、息子さんの病室にずっと飾っていたんですけれど」
「けれど?」
 シーラの促しに、ハト先生は伏せていた顔をあげ、シーラのまなざしを確かめ、
「お母さんが亡くなったあと、レノンの部屋の壁にかかっていたはずのその絵、誰も手を触れないのに、あちこち動くようになったんです」
 しん、とはさまれた静寂。みんなは見えない力にひきつけられるように、聖母子にはさまれたレノンのお母さんの風景画に目を注ぎました。
「朝になると、前夜掛けてあったいつもの場所ではなく、床に落ちていたり、机や引き出しの上に移っていて……しかもかならず裏返しになって……」
 誰が、何度なおしても、とハトは内面の記憶をなぞるように、ティーカップに揺れる金色の紅茶に視線を落としました。タイジはそんなハト先生の様子をしばらく窺い、居合わせたみんなの顔をひとりずつ見渡してから、おもむろに口をひらきました。
「この風景画はミステリーです。数年前に亡くなったぼくのひいおばあさんて、美大とか出ているわけじゃなく、しろうと趣味がこうじて画家になったひとなんですけれど、彼女が生前描いた一枚は、このレノンさんのお母さんの絵とほぼそっくりです」
「ええ」
 ハト医師は紅茶から視線をタイジに移しました。ハトに見つめられて、タイジの肉付きのよい頬に、ぼっとほのかな血の色がさしました。
「ひいおばあさんの絵、これです」
 とクリヤーファイルからデータのプリントアウトを取り出し、ハト医師に手渡すと、彼女は眉を高く上げていかにも驚き顔になりましたが、ほんとうに動揺していないのは、誰の眼にもはっきりとわかりました。
「まるで模写したみたい。ですが、おばあさまが描いたのはずいぶん昔でしょう」
「たぶん戦前」
「この聖堂と花畑は大正時代からあったと思うけれど、それにしても実写ではないわね」
「おばあさんが旅行か何かで、こちらに来たという可能性もないわけではありませんが、肝心なのは、同じ建物、同じ風景が描かれているってことじゃなく、かけ離れた環境と時代の二人の女性の、心象を託した絵の表現が同一だってことです」
「もし、花緒さんがここに来て、実景を眺めて描いたなら、まったく違った構図や色彩になっていたかもしれない」
 とシーラがつぶやきました。ハト医師は、
「時間や空間をはるかに隔ててシンクロニシティが起る、というのは昔から知られていることですから。透視、幻視、幻聴…こういう言い方は誤解を招きかねないのですが、精神障害者や認知症の患者さんの妄想は、時として、ある出来事の未来を予知したり、特定の人物の誰も知らないはずの過去や内面を、言い当てたりすること、あります」
「アートにも、そういう常識を超えた側面は……ムンクやキリコ、ダリ、マグリット、デュシャンとか。超現実主義のクリエイターたちの作品は、いずれも予兆を含むし、過去現在未来の隠れた何かを探り当てる」
 とタイジにはめずらしく深刻なかたい口調を、シーラはすこしからかい気味に、
「ジンさんなら、あっさりと〈天才とナントカは紙一重〉なんて言うんでしょうね。ミネさんの言う難解な美学的説明でなくても、具体例なら、江戸時代の浮世絵師歌川国芳の作品、〈東都三股図〉は隅田川河畔の光景を描いたものなんだけれど、当時には存在しなかった高層ビル群と、スカイツリーらしき建築が、絵のそれぞれ右と左に、現在そこに立って眺めたときに見える姿とほぼ同じ構図と遠近で描かれている」
「そうそう。スカイツリーの完成が近づくにつれて、ずいぶん話題になった。その時代、江戸城より高い建築はなかった、当然、塔なんて。だからその光景は国芳の想像に決まってるんだけれど、彼のなかに浮かんできたのが、未来図だったって」
「脳感覚が時間や個体を超えるってことはごく自然なのよ。気がつかないだけ、意識できないだけで」
 とシーラは言い切りました。
「現実の枠組みに捕らわれているのは、わたしたちの狭い自我のほう。いろんな既成概念の制約から心を離して自由になれば」
 と言葉をつないだハト医師はシーラに視線を投げました。「ジユウニナッタ!」というレノンの叫び声が、そのときシーラとハトの耳の中に同時によみがえりました。
「花緒さんの幻視に、依子さんのまなざしがオーヴァーラップしたということかしら?」
 それまでもっぱら、聴き役にまわっていたガーネットは、みんなの会話をまとめるようにおっとりと言いました。
「その逆かもしれないですよ。未来の依子さんの絵が、過去の花緒ばあちゃんの絵筆を左右したってことも」
 とタイジは言い、重ねて、
「時間の流れって、直線じゃないような気がしてきます」
「そうね…時間を認識できるのは、人間の知性だけだもの。この世から人類の〈知〉が消えてしまえば、永遠の現在と無が、何の矛盾もなく存在し続ける。現実もないし非現実もない。夢とうつつ、生と死の境もないわ。わたしたちにしたって、心に秘めている夢の記憶も、現実の思い出も、ある意味では等価値ですものね」
ハト医師の台詞にタイジは驚いて彼女を見つめなおし、こちらを向いたハトともろに視線がカチ合うと、また顔を赤らめ、あわてて目を逸らしました。

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