さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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サイコ・ヒーラー 7 キャッツアイ

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7 キャッツアイ    

ジンさんの知り合いの貸し別荘は、白樺湖から離れ、蓼科湖の近くでした。
「銀座で芸術至上主義ギャラリー開いていると、こういう特典があるんだよねー」
 とポルタの助手席に座ったジンさんは、おとぎ話に描かれた森の一軒家みたいに可愛らしいウッデイなログハウス村の前にさしかかると、自慢しました。
「地方に住みながら、東京でモダンアートや表現やろうって人間は、おおかたそこそこ小金持ちなんだ。もちろん食うや食わずでがんばってるアーティストもいるけどさ。このコテージ経営してるジイチャン、ここらの地主でゆっくり暮らしながら、結構おもしろいオブジェ作ってるの。俺のギャラリー格安で提供してるんで、今回無理聞いてくれた」
「オブジェ、って民芸品みたいな?」
「もっと斬新。いちど観に来てよ。案内出すから」
「ハイ、ぜひ」
 パパは人見知りしないタチなので、ジンさんにもすぐ慣れました。
 蓼科湖畔には何軒か近代的なホテルがあり、庭付きのコテージ群は、さらに奥まった森のあちらこちらに点在していました。彼らがそこに着いたころにはもう日は沈み、一定の間隔を置いて、森のあちこちにたたずむログハウスは似たり寄ったりで、薄暗い灯ともし頃でもあり、どれが目当てなのか、駿男さんはちょっと困ったのですが、ジンさんはさっさと携帯取り出して豹河に連絡し、小道をいくつか折れたあたりの一軒の前で、こちらに向かって手を振る彼を見つけ出しました。
「メグ、着いたぞ、起きなさい、こら」
「寝かしといたら? 寝る子は育つ。疲れたんだろ。メシ時になったら起こせばいいよ」
「それもそうですね」
 後部座席で眠っているメグをだいじそうにお姫様だっこする駿男さんに、ジンさんは、
「宝物ってとこか」
「それほどでもないですよ」
「そお? 俺にも娘いるけど、オヒメサマダッコなんぞしたことないね」
「えっ ジンさんこどもいるの!」
 とヘッドランプを付けたヒョウガが目をまるくして驚きました。
「ウッソ、今まで聞いたことないぜ」
「話したことないんだからトーゼンでしょ」
 とジンさんはすげなくあしらい、それ以上その話はしたくない様子をあらわに、
「俺、火宅のひとだからさー。ところで豹、やけにでっかくなってないか?」
「わかります? 一ヶ月で身長3センチチョイ伸びて、体重5キロ増えた」
「おまえいくつだっけ」
「十九」
「だんだん親父に似てくるな」
「うれしくない。醸はメタボ対策必死だ」
「ナニ、君のオトウサンって、もしかしてマルモ?」
 思わずのけぞる駿男さん。
「ハイ。でも親たち離婚してるんで、ぼくは吉良豹河。ガーネットの末っ子です」
 まいったね、とパパは口の中でつぶやきました。
(末っ子、ってことは、他にもコドモいるのあのひと? 見えないねー。女は魔物だ)
 パパの頭のなかには、ガーネットの艶やかな顔がチカチカし、同時にグラビアやらネットやらでおなじみの、スポットライトを浴びたジャズピアニストが交錯しました。ヒョウガは先にたってすたすたと歩きながら、
「そこ苔生えて滑りやすいから気をつけて。木の根っことか、剥き出しになってる。……東京ではダイエットできるけど、こっちで厨房やってると、どうしたって食べるから。すごい重労働だけど、やっぱ肥る」
「それ肥るって言わないよ。成長だぜ。だいたい育ち盛りのおまえが何でダイエットするんだよ」 
「ラバースーツ着たいから。あれ一点制作の特注なんだ。サイズ変わるといちいちカネかかる」
「おふくろさんに出してもらえ」
「何年つきあってるのジンさん、ガーがそれほど甘いと思う?」
 ヒョウガは呆れたようにジンさんを振りかえりました。
「甘えないおまえもおまえ」
「適当にやってる」
「テキトー」
「適度、とも言う」
「かしこいね、やっぱおとっつぁん譲り」
「ガーのほうがえらいよ」
「そこまでわかるの、十九で?」
「食わせてもらってる相手を尊敬すんの、俺単純だから」
 ヒョウガはさばさばと言い切って、ログハウスの扉の前でたちどまり、
「今夜鉄板焼きね。文句言いっこなし。もう準備できてる。野菜も肉も下ごしらえズミ。後発組が着いたら焼き始めよう」
「おーいいじゃない。この際誰も文句なんか言わないよ。ヒョウガ、ずっとキッチンやってくれるの?」
「おあいにく。明日からマタタビ、ってほどじゃないけれど、諏訪湖に行く」
「諏訪湖って、諏訪ロック?」
 駿男さんが口をはさみました。ヒョウガはにっと笑い、
「そう。好きですか」
 パパさんはウンウンと大きくうなずきました。まだメグを抱いたままです。メグは目をつぶって、くうくう寝息をたてています。パパは娘をリビングの長椅子にそっと下ろすと、居心地よさそうなたっぷりした吹き抜け空間をぐるりと見回し、それからあらためて丸茂醸の息子をしげしげと眺めました。
豹と名乗る少年は、その名のとおり金髪に黒のレオパードヘアをきゅっと後ろひとつに束ね、アメ横で売っているアーミーみたいな迷彩プリントのシャツに、あちこち穴の開いた黒っぽいスリムジーンズを穿いていました。髪だけがよっぽど変わっているほかは、とりたてて崩れたところのない、大柄な胸板の厚い美少年でした。目鼻立ちがおおづくりで、皮膚の浅黒いところなどは、きっと父親に似たんだろう、とパパは思いました。
「眉毛そっくり似てる、マルモに」
「あ、みんなに言われます。眉間までつながってるって」
「フリーダ・カーロの眉だ」
「頑固眉毛」
 これはジンさん。ヒョウガはけらけら笑い、
「だからさ、うっかりすると親父みたいなゴリラ顔になるんじゃないかって、ガーは心配してる」
「ところで、おまえ諏訪湖ロックで何やるの」
「ポスター見せるよ」
 ヒョウガが二階にあがっていったところで、庭で地鳴りのようなハーレーのエンジンと、短いクラクションが聞こえました。
「お、シトロエン・ハーレー組到着だ」
「風間さん、鉄板焼いていただけますか」
 吹き抜けの二階からヒョウガが怒鳴り、パパは
「ハイハイ」
 とけっこう嬉しそうにキッチンに入りました。
 シーラがログハウスの扉を開けると同時にメグはぱちっと目を開けました。ごく自然に
「おかえりなさい」
 と口をついて出て、それを聞いたシーラはふっと心の裏側をやわらかく撫でてゆく、すっかり忘れていた何かの感触が再現されたような気がしました。
「メグー。目覚めたの? パパのお手伝いしてー」
 と駿男さんはすぐさま娘を呼びつけます。
「はぁい」
 台所に飛んでゆくメグの後姿に、シーラは微かに胸のしめつけられる思いでした。
(危ない、危なくない、ワカラナイ)
 ハト医師から聴き取った情報のあらましは、細部はともかく、この一連の首尾を語るのに充分でした。けれども行方知れずの人たちを取り戻す手段は、まだ何もないのです。
(あっちから仕掛けてくるのを待つしかナイということだ。そしてそれにはメグが要る)
 ナイナイ尽くしだけれど、とシーラは汗でべたつく首筋の髪をバレッタで巻き上げ、いつにない判断のわだかまりに自分でオチをつけました。
(ないものねだりじゃナイぞ)
「あら、きれいなポスターじゃナイ?」
 とシーラの物思いにおっかぶせるようにガーネットの可愛らしい歓声が聞こえました。もうダイニングから焼肉の匂いが香ばしくたちこめ、食事前にくつろぐ大家族の明るさが、ハウスいっぱいにあふれています。
「今年はビッグスターがゲストだからね。イベント企画も大だよ」
 得意げに大盤のポスターひろげるヒョウガをみんなで囲んで、まずジンさんが、
「なになに、Rock・MIRAGE・諏訪LAKE…語呂合わせか」
「お盆の花火大会と、例年の諏訪ロックと、それに今年は大震災のチャリティイベントで、何人かの大物がゲスト出演するんだ。それをいっぺんに湖上祭でやっちまおうって、ま、諏訪の町おこしを兼ねての企画」
「オオモノって……へえ、ソーヤ・クリスタルが歌うの? ちがいない、世界のディヴァじゃないか。よく来日するねえ。なに、おまえ彼女と共演すんの?」
 ヒョウガは一瞬の隙も見せず、あっけらかんと明快に、
「モチ、ただのバック」
「ほぉ……クリスタルの」
 急に神妙な顔つきになったジンさんは軽口たたかず、ちらりとガーネットに視線を走らせましたが、ジンさんよりもヒョウガよりもずっとしたたかなガーネットは笑顔のまま、ジンジャーエールのプルタブをプシュッとひねり、ジンさんを見もしませんでした。
「オオモノって、ジンさん、よく御覧なさいよ、ソーヤの歌に特別出演するひと」
「能楽鳳凰流宗家、鳳凰宗典。へええ、もとクラシックにせよ、ソーヤって現行ポップスでしょ。その彼女の歌で、オカタイ伝統芸の能役者が踊るのかい」
「舞う、だよジンさん。能は舞うんだ。踊りじゃない」
 シーラは言いました。
「だからこのポスターに能面がコラージュされてるんだな。これ何の面?」
「月の小面。豊臣秀吉から伝わった、室町時代初期の面打ち龍右衛門作、鳳凰家の家宝」
「シーラさんよく知ってるね。さすが……ていうか、あれっ」
 とジンさんはポスターの文字を目で追い、もういっぺん顔色を変えて黙りました。タイジがジンさんに代わって、ポスターの下方に、すこしちいさい文字で書き込まれた名前を読み上げました。
「鳳凰流シテ方……千手宗雅」
 センジュって。
 喉まで出かかって、言葉に出せないタイジの問いに、シーラはさらりと、
「今年は伯父と祖父も出るの」
「へえ……そう」
 ジンさんのあいづちは、内心の驚きを取り繕おうとして、不自然に無感動で抑圧したイントネーションでした。誰もがそのひらべったいジンさんの声の裏を察したのですが、ちょうどタイミングよく、キッチンから風間親子の、屈託のない歓声が響きました。
「みなさん、イッチョウアガリ焼き上がり、食べごろですよー。どんどん食べましょ」
「シーラさあん、冷蔵庫のなかのスイカ切っていいんだよね」
「いいわよぉ」
 とシーラはポスターから離れてたちあがり、キッチンへゆこうとして、ヒョウガの脇で足をとめ、
「ヒョウガが諏訪湖祭でぶちかますのはいつ?」
「明後日と明々後日の両日。光栄にもシーラのおじいさんとおじさんともセッションできるってわけ」
「ふうん。観に行けるといいんだけど」
「鳳凰さんには何も言ってないの?」
「もちろん。でも祖父は気づいているかも」
「そう。……」
 ヒョウガはシーラの顔をのぞきこんで、何か、もっと言葉をかけたい気がしたのですが、どう言ったらいいかわかりませんでした。
 で、
「来れるんならメールくれよ。チケットなしでも楽屋席なんとか融通する」
 とだけ。
 さんきゅ、とシーラはかるくうけ流して、焼肉のお運びに台所へ入りました。
(ソーヤについて、ひとことも尋ねなかったな、あいつ)
 とヒョウガはシーラのすらりとした背中から膝にかけての曲線を目で追いながら、くやしいような、もどかしいような感情を舐めました。
(俺がソーヤのバックに入ることと、シーラが鳳凰家の直系だってことと、どっちがデカイ地雷だろう?)
「地雷ってほどじゃないか。手持ち花火くらいか」
「こら、愚息、ぶつくさヒトリゴト言ってないで、ワインでも抜いてよ」 
 とガーネットは、すこし見ない間に、ひとまわり逞しくなった息子の腰を、手にした中国扇子で、かるくたたきました。
 みんな疲れていたはずなのに、ずいぶん遅くまで楽しいホームパーティが続きました。
 駿男さんは、諏訪湖ロックのポスターを見てもたいして驚かず、予想外のシーラの出自に、
「タダモノじゃないなあ、シーラちゃんって思ってたけど、やっぱりね。千手宗雅さんが君のおじいさんてことは、もしかして君のお父さんって、しばらく前に亡くなった俳優で演出家の鳳凰士朗さんなわけ?」
「そうです」
「はあ……いい役者ていうか、伝説そのものみたいなひとだよねえ。ヒョウガ君のオトウサンが丸茂醸ってのにも腰が抜けたけどさ。
うちのメグはごらんの通り庶民凡人アブラアゲ(なんだいそりゃ)みたいな子なんだけど、けっこうこれはこれで咬めば咬むほど味が出る何かを持ってるかもね、なぁんちゃったら親ばか?」
 つるつると喋りまくるパパさんの健康なリアクションに、タイジは思わず笑い出しました。
「それいい、風間さん。ぼくもアブラアゲ目指そう。おいしいアブラゲ」
「え、アブラアゲばかにしちゃあいけないよ。煮ても焼いてもオッケーな、便利お助けマルチタレントですってば」
 ビールとワインの混ぜ飲みで、酔っぱらったパパさんの乗りは上々。
「でも、メグあんまり好きじゃないもん」
「お稲荷さん好物でしょう、君」
「あ、そうだった」
「そら見ろ。君はね、まあ、海胆軍艦は高級すぎるから、パパのこしらえる胡麻五目お稲荷さんくらいにパフォーマンスしてればいいよ……」
「けっこう、このひと太っ腹だね」
 とジンさんはにやにやしました。糖尿気味のジンさんはあんまり飲めないので、ずっと煙草を唇に斜にくわえて、ビールのトマトジュース割りか何かを舐めながら、シーラの言うとおり〈オブザーバー〉を決めこんでいます。おしゃぶり状態の煙草は、火を点けてはちょっと吸い、すぐに灰皿に置き、またくわえなおして、吸いこむでもなく、ただぷかぷかと煙を浮かべているのでした。ガーネットはときどき顔をしかめて、ジンさんのチェーンスモークを目で咎めるのですが、ジンさんは知らん顔でした。
(ソーヤ・クリスタルだって? ヒョウガめ、ガキのくせして、おもしろすぎるぜ。シーラちゃんもさ、まあ、相当いいうちの娘だろうと予想してたけど、お能の宗家とはね。それにしてもガーちゃん水くさいよなあ。ヒヨっ子タイジは当然としても、長年つきあってきた俺も、こんなことがなけりゃあ、つんぼさじきだったとはね)
 と、すこしばかりひねくれてしまったので、チェーンスモークの煙も嫌みったらしく、ガーネットのほうに向かって、わざと吹き流すのでした。でも、ガーネットは、ジンさんのいやみなんか相手にせず、吹きつけられるショッポの副流煙をお扇子でぱたぱたとあおぎ、負けずにその都度、しっかりジンさんに返していました。
 迷惑をこうむったのは、ちょうどこの二人の間に挟まれて座ったメグで、お肉や野菜やスイカや、とにかく好きなものを好きなだけ食べたのですが、ジンさんの煙草の副流煙は慣れない彼女を直撃し、そのうち頭がクラクラしてきました。駿男さんは、メグが生まれてからずっと禁煙しているので、メグにとって煙草は文字通り劇薬なのでした。
 ヒョウガは大酒飲みで、ロック好きな駿男さんとウマが合い、そのうち駿男さんがポルタにこっそり積みこんできたギターに、エフェクターまでかけて、けっこう器用にジャンジャン鳴らし始めると、その場はもうカラオケ状態に突入しました。
「なに、豹ちゃん、ドラムとフルートいっしょにやるの? フルートはどんなの吹くの」
「んーとね、ふつうじゃおもしろくないから、俺逆吹きすんの。よくドビュッシーとかしっぽから吹く。ガーの踊りのときなんか」
「逆吹き?」
「楽譜をアタマからじゃなく、終わりから逆に演奏する」
「ゲッ それって、すごい特技」
「そう? 楽器を使うから、歌うより楽なんじゃない」
「……」
 飲みねえ飲みねえ、とヒョウガの酔っぱらいモードはここらでワインからオンザロックの焼酎に変わるのでした。
 どこかでシーラは、
「メグ、ここの空気すごいから、ちょっと外行かない? 顔色わるい。ジンさん、お子様の迷惑考えてスモークしてよ」
「お、悪い悪い。メグちゃん、いい子はお休みって時刻はとっくに過ぎてるな」
「たまには夜更かししたっていいの」
 とメグは言いましたが、気がつかないうちに吸い込んでいた煙草のせいで、たちあがると足がふらつきました。やせ我慢してはいるものの、すこし吐き気もします。シーラが腕をつかんで支え、ふたりでログハウスの階段を登って、二階のベッドルームからベランダに出ました。
 サッシを開けると、すがすがしい高原の夜気が、よどんだ呼吸を清めてくれました。
「すごい星空」
 シーラさんは、丸太を組み合わせたベランダの柵にもたれて、夜空をあおぎました。
「湿度が低いし、排気ガスも少ない、街明かりに邪魔されないから、都会じゃ見えない星座が残らず見える」
 とながい首すじをすっきりとのばして、ログハウスの周囲を覆う樹々のあわいにちりばめられた星々をひとつずつ指差しました。
「まず、夏の大三角形……琴座のベガが光ってる。それから白鳥座のデネブ、鷲座アルタイル、三つの一等星をつないで、あそこ」
 メグは瞳をこらして、シーラの指さす彼方をじっと見つめました。シーラはつぎつぎといろんな星や星座の名前を並べました。それらはメグがもう知っている名前もあり、初めて聞いたものもありました。龍座、蛇座、ヘラクレス、サソリにイルカ、てんびん座、カシオペアに北斗七星、ひときわ赤く光る牛飼い座のアークトゥルス……。
「追っかけきれない、シーラさん」
「うふふ、じつはね、でたらめに指さしてる」
「なあんだ」
「でも、夏の星座の名前は確か」
「シーラさん、いろんなこと知ってるね」
「知っていることしか喋らなければ、たくさん知っているように見えるものよ」
「?」
「銀河鉄道の夜、読んだ?」
「うん。星めぐりのうたでしょ」
「赤いめだまのさそり……アンタレス」
「シーラさん、レノンの眼は、ときどきアンタレスみたいに…もっと赤い。今日、レノンは立ってあたしを見てた。そして、またじきに会えるって」
 シーラは夜空からメグへ視線を移し、ベランダに両肘をついて、
「あたしには見えなかった。怖かった?」
「ぜんぜん。ハト先生の記憶のほうがずっとすごい」
「レノンは自由になりたがっている」
「自由って?」
「それこそむつかしい。彼はもうある意味自由に自分の好きなパラレルを飛びまわれるみたいだしね。他人の脳内に侵入し、夢を侵し、つかまえた魂をあやつり」
「ママもつかまっている。いつも、どこからか、ママの声だけがときどき聞こえる」
「……たぶん、レノンの眼を借りて君を見守っているんだろう。彼女は死んだといっても半ば以上フェアリー化しているから、そういうこともできる」
 ふいに夜風がざわざわと吹き抜け、周囲の森影が暗い大きな生き物のように、ひとつ方角にむかって枝先を揺すり始めると、メグの全身はすうっと冷え、腕や膝に鳥肌がたつようでした。メグはベランダの太い丸太にひょいと腰掛け、両足をぶらぶらさせながら、無意識に星空のなかに〈赤い目玉〉さそり座アンタレスを探しました。
「レノンのママが死んだあと、レノンの傍に残らなかったから、レノンは哀しかったんだと思うよ」
 シーラさん、ちょっと…と遠慮がちな声がうしろから聞こえ、彼女がふりかえると、タイジが片手に缶ビールを握ったまま、立っています。ベッドルームに灯りは点けていなかったので、タイジの姿は闇にほぼひとしく溶け込んで、星明りに動く影法師の姿から、ひかえめな呼びかけがもういちど。
「みんなが、シーラさん呼んでる。どこに行ったかって、俺に探してこいってさ」
 それはウソでした。タイジの声は、すこし震えていたかもしれません。でもシーラはもちろん気づかないふりをしました。
「今戻る。お子様寝かせてから。メグ、お風呂入る? バスルームは、中二階にあったわ。ここおもしろい設計ね」
「明日はどうするの?」
「もういっぺんミカエルに行ってみる。レノンが〈暮らしていた〉環境をよく眺めてみたいの。メグも来るでしょ」
「うん」
「おやすみなさい。大人どものドンチャン騒ぎは、まだしばらく続くから」
「シーラさんもつきあうの?」
「夜更かしは美容の大敵。そのうちガーネットさんが退いたら、あたしも抜ける。あとはほっとく」
 ログハウスの寝室は、三つありました。それぞれ二人部屋で、メグはパパといっしょ。シーラとガーネット、ヒョウガとタイジ、ジンさんは適当で、べつにちゃんとベッドに寝なくっても、どこかで酔いつぶれてリビングに雑魚寝もいいか、というところでした。
 メグはかばんからパジャマと洗面用具を出して、小ぶりのトートバッグに入れ、二階から一階へ降る途中の踊り場から、すこし外に張り出すように設けられている三角形のバスルームに行きました。そこは一階からも二階からも同じくらいの距離にあり、トイレもバスルームの隣でした。
 シンプルながら、バスルームはずいぶんゆったりと大きく作られていて、入り口を除いた二面の壁と天井は強化ガラス張り。銀色のシェルターで覆われているのを、スイッチで操作すると、シェードはするすると縮んで、半分以上ガラス越しながら露天になって、さえざえとした夜景がバスルームの上にひろがりました。
 湯船は大人ふたりがゆっくり手足を伸ばして入れるくらいの楕円形。まだちいさいメグにはちょっとしたひろさの温水プールです。
「わー、ロテンブロだー」
 とうれしくなり、サービスで備え付けの入浴剤を、ポン、と投げ込むと、ピンクの泡がプクプク立って、フローラルの湯気がたちのぼりました。脱衣場までは、リビングの大騒ぎが聞こえていたのですが、バスルームの扉を閉めてしまうと、すっかり静かで、自分のたてる水音以外、何の気配もありません。メグはうっすらと桃色に染まったお湯に仰向けにからだを浮かべ、天井をながめました。湯気でガラスが曇って星空が見えないので、換気扇を回し、片側の窓も開けました。大きな風の動きは消えて、微風がそよそよと流れこみ、曇りの消えたガラス天井に、目をこらすといくつか星の光りもちらついて。
(きっと電気を消すともっとよく見える)
メグは思い、湯船からあがり、入り口の脇のスイッチを消しました。緊急時対応に、どの部屋にも備え付けられている二十四時間消えない常夜灯がほのかな明るさをくれるので、真っ暗闇にはなりません。
 涼風に虫の声。さっきシーラといっしょにながめた銀河と星座、夏の大三角形とが、薄暗闇に目が慣れるにつれて、視界にくっきりときらめきはじめ、ガラスサッシを区切るステンレススチールの窓枠も夜空に溶け込んで、ほとんど気になりません。
 琴座のベガ、白鳥座のデネブ、それから鷲のアルタイル…
(うん、おぼえた)
 もういっぺんお湯につかり、上を向いて、シーラさんの教えてくれた星座を探します。
それからそれから、
 赤い目玉のさそり、
「アンタレス」
 と不意に自分の口から飛び出した単語に、メグ自身がおどろきました。えっ?
(さそり座は、ここからは見えないよ)
(見てよ)
(すぐ会えるって言ったろ)
「レノン!」
 自分の思考にねじこまれた自分とは違う思惟の強烈に、メグは、首をつかんでひきすえられる圧迫を感じ、思わずザブリと浴槽に沈みました。
 必死にもがいてお湯から顔を出し、浴槽のへりに両腕でつかまって、天上をにらみます。
 見えないはずのさそり座アンタレス、赤く輝く一等星が、ゆらゆらとバスタブからの湯気に滲んでふっと二つに分かれると、レノンの赤い瞳が夜空の真ん中に出現しました。
(こんばんは)
(やめてよ、へんたい)
(へんたい?)
(あたしオフロに入ってるの)
(だから?)
(TPOを弁えてってこと)
(それじゃ着て出て来いよ。ぼくどっちだっていいんだけど、君のママが会いたがってるから、連れてきてやったんだ。わざわざ)
(えっ)
(バスタブ見てみろよ)
 メグがお湯に目を落とすと、楕円形の浴槽には、天上の夜景がくっきりと映り、なめらかな波紋が規則正しく、波のあわいにまっしろな顔をした安美さんが浮かんでいました。
「ママ、ママっ」
 とメグがお湯のなかに安美さんを抱きしめようとすると、星宿る水面はたちまち乱れ、安美さんは消えてしまいました。
(ママはどこよ)
 レノンはガラス天井に膝をかがめて乗りかかり、メグの動揺を面白そうに見物しています。
(そこに、柳の木があるだろ)
 レノンは痩せた指でバスルームの窓ガラスの外を示しました。
 暗い夜風にさわさわとなびく枝垂れ柳。たしかにそれはバスルームのガラスに添って枝を伸ばし、葉風をためて、もの言いたげにメグを呼んでいるのでした。
(この木にママが入ってる)
 レノンはガラス天井に両手をついて、ひょいと逆立ちしました。すうっと伸びた両足の爪先が、夏の大三角形に突き刺さるようにまっすぐとんがって見えます。
(レノン、あんたの眼が赤いときは悪いことをたくらんでいるときよ)
(それじゃ、消えようか。ママも連れ帰る)
 メグはくやしくって逆上しそうでした。でもママに会いたいので、いそいで浴槽から飛び出すと、脱衣場に戻り、ろくに体も拭かずにあたふたとパジャマをかぶり、もういっぺんバスルームに駆け戻りました。
「意地悪!」
 天井に張り付いていたレノンは、もう影もかたちもありません。壁の一面のガラス窓が大きくひらき、そこから夜風がどっと吹き込み、メグを包みます。メグはバスタブをまたいで、開いた窓から身を乗り出しました。
 大きな柳の木がありました。小学校の柳よりも大きいかも知れません。ほっそりした枝が何本もメグにむかって、手先枝先をさし伸べて、おいでおいでをしています。
 その一本をつかめば、ママがまた現れてくるのでしょうか。メグは窓枠にまたがり、バランスをうまくとりながら、顔のほうへ吹き寄せられた一枝を片手でつかみました。
「ママ、この木の中にいるの? 出てきて」
 すると柳の枝はメグの手のなかで、ぬるりと感触を変え、瞬時につめたい半透明のプラスティックチューブに変わりました。
 わっ、と叫んでメグがふりほどこうとしても、チューブは白い小蛇のようにメグの手首にからみつき、腕を這いのぼり、パジャマの袖口から胸へすべりぬけ、あっというまに首にたどりつくと、否も応もなく、狙い定めていきなりズブッと、メグの鼻腔に突き刺さったのでした。
 このとき同時に、リビングにいたシーラの、 首筋から眼球の奥にかけて稲妻のような鋭い火花が散って反射的に立ち上がりました。
(何があった? 何かあった!)
「あれー、シーラちゃん、どったの?」 
 とべろべろの上三文字くらいまで酔っ払った駿男さんが、ギター片手ににじり寄るのを、
「ちょっと……」
 と微妙な行く先をつくり笑顔でほのめかして、そのころはソファからずり落ちて泥酔しているジンさんをまたぎ、フロアからまっすぐ玄関へ走りました。
「トイレそっちじゃないぜ、おい」
 とウワバミヒョウガはふらつきもせず、異変に気づいたタイジと目配せし、シーラのあとを追いかけました。タイジは息せききって
ぴったりくっつき、
「どうかした、シーラさん」
「音が聴こえなかった?」
「えっ どろぼう?」
「いや、ちがう」
 どしっ、と、そのときもういっぺんシーラの、今度は全身に重い衝撃が奔り、サンダルを穿きかけたシーラの膝が、あやうくガクンと折れそうになりました。かろうじてその衝撃をこらえ、夜風ざわめく庭先へ。といってもログハウスを一歩出れば、すぐに高原の自然林で、ところどころに遊歩道を示すスポットライトが橙色の灯りを投げかけている他は、月明かり星影だより、何が起こったのか、じつはシーラにもわからないまま、ただならぬ物音の気配を勘に頼って、玄関からぐるりと裏手に回りました。
 中二階バスルームの三角屋根が、まっすぐ軒を伸ばして潅木の繁みに届き、夜の闇がそこだけ浴室からの光に割れている只中に、メグが仰向けに倒れていました。潅木の下は、ぼうぼうと雑草が生い茂っていますが、人ひとり落ちたとして、それを受け止めるには決して柔らかいとは言えない地面です。
「メグ…」
 とシーラは傍らにしゃがみこんで、耳に口を寄せ、何度も呼びかけましたが、かたく目をつぶったメグは無表情に応えなし。
「シーラさん、どしたの、メグさん」
「落ちたらしい、窓から」
「何で?」
「知るか! タイジ、救急車を呼んで。動かさないほうがいい。呼吸はある、出血も見たところないみたい」
(パジャマを着ている、なのに髪がぐしょ濡れ、乾かしてもいない、もしかして)
 とシーラはメグの寝間着の中をさぐり、肌着を着けていないことを確かめると、喉に熱いかたまりのような後悔がこみ上げました。
「おい、シーラ、これ、この子の帽子か?」
 ヒョウガは目ざとく、メグの転がっているところから数歩先の枝に、まるい麦藁帽子がひっかかっているのを発見しました。
「そうよ」
(なぜこれが)
 帽子には真昼、ミカエルの前庭でシーラが摘み取り、帽子のゆるみかけたリボンを締めなおすついでに挟んであげたコスモスが、しおれかかって……
(花が、あたらしい)
「レノン!」
 ピンクと白のコスモスは、たったいま摘んだばかりのように、みずみずしく生気にあふれ、帽子の青いリボンを飾っていました。
「レノンだって? シーラちょっと見てみろよ、この木、ざっくり折れてる、雷でも落ちたみたいだ」
 麦藁帽子がひっかかっていた木は、この地方には珍しいかもしれない大きな柳でした。ヒョウガの肩先よりすこし低い位置でふたつに大きく枝別れした幹の一方が、なまなましく樹皮を割き、うちがわの白い年輪を無惨にぱっくりさらけだし、折れ曲がっていました。
「雷じゃないわ。焦げ臭くない」
「そうか。おい、この柳の枝の先、メグの下敷きになってる。メグは屋根から落ちるとき、この柳にぶつかったのか?」
「わからない」
 ヒョウガの指摘したとおり、折れ伏した柳の枝は、ことさらそろえたように何本も束になって、潅木の根元にころがったメグの体の下にありました。
(メグ、何があった)
 シーラはメグの呼吸にともかく乱れがないのを確認すると、彼女の顎をかるくつかみ、その額に自分の額をくっつけました。
(メグ、君の見たものを見せて)
 ビリッ、とシーラがメグの内側に入った刹那、傍にいたヒョウガにまで、静電気のような刺激が伝わりました。
 次の瞬間シーラは顔をあげ、塗りこめるような森の闇をまなじり吊り上げてぎりりと凝視し、はっきりと憎悪をこめて、
「レノン!」
 とまた一声。
「レノン? レノンって何だよ。何が見えるんだ。シーラ、頼むからひとりだけで自己完結しないでくれ」
 ヒョウガはいらいらしてシーラの華奢な肩をつかんで揺さぶります。
「殺してやる、あいつ」
「おまえ、気でも違ったの? ジョン・レノン、とっくに死んでるぜ」
「離せ」
「落ち着けってば」
「ヤツが来たんだよ」
「だから、誰が」
 揉みあいはじめたところで、救急車のサイレン。タイジもいっしょに戻り、
「ラッキーで早かった。え、ふたりとも何やってんの」
 ここにタイジの嫉妬が挟まる余地はない緊迫。救急車はあわただしくメグを担架で運び、付き添いは、シーラとガーネット。酒気ふんぷんの男どもは締め出されても仕方ないか。
「あんたたち酔いが醒めたら来なさいよ。ヒョウガはリハでしょ。つぶれちゃったジンさんとへべれけパパさんは厄介だから目が覚めるまでほっといて」
 とテキパキと仕切る冷静なガーネットでした。夜更かしにもかかわらず、いっこう崩れない彼女の的確な挙措動作に救急隊員は目を剥き、
「お母さんですか?」
 尋ねるのに、ガーネットは、
「いえ、叔母です。こっちがあたくしの娘」
 とシーラの身元説明まで、すらすら言ってのけました。
 走り出した救急車の受け入れ先は、近辺では、もうここしかない星隷ミカエル記念病院。
 夜明けにはまだ間がある森の中を、サイレンを消して救急車が走りだし、呆然と見送るタイジとヒョウガでした。
 フイフイフイ…とヒグラシの最初の高鳴きが響き、すぐに朝の潮のように時間の経過を告げるヒグラシのユニゾンが森中に満ちて。

「憎悪に心を喰われたらヒーリング……癒しはできないわ」
 中央検査室の待合室の椅子に前かがみ深々と座り、床に視線を落としてじっとしたまま動かないシーラの前に、かるい足音がたちどまりました。病棟の高い天井によく透る声を聴く前から、その足音だけで、シーラにはハト先生とわかっていました。
 幸運、というのか因縁と呼ぶべきか、その晩の当直医はハト医師で、救急車で担ぎこまれたメグは、外傷皆無、呼吸心拍、まったく正常、と診断されました。貧血なし、脳波心電図問題なしで、間もなく覚醒してもいいはずなのに、数時間たっても眠り続けたままの異常に、ハトは首をかしげましたが、シーラは驚きませんでした。
「スキャンの結果はどうなんですか?」
 とシーラは自分の心象に接触しようとするハトの言葉をかわし、即物的に尋ねました。尋ねなくても答えはわかっていました。
「脳に異変はありません」
「なぜ眼が覚めない?」
「精密検査の必要…」
「ないわ」
 ハト先生の言葉尻を、シーラはもぎとるように遮りました。
(失神しているわけじゃない。メグをつかんでいるのはレノンだ。彼が離さないので目覚めない)
「診断するのは医師の仕事ですよ」
「なら、診断だけ告げればいい。なぜここでヒーラーの資格を問うの?」
「……」
「先生は、声だけではなく、足音までさわやかなんですね。遠くから響いてくる足音だけで、看護師ではなくあなたとわかるわ」
「ありがとう。でもそんなに敏感なのは、あなただからよ」
 ハトさんは、うれしそうに目をほそめました。緊急対応に追われ、ついに一睡もしていないので、ほつれた髪が頬にふりかかっているのがかえって若々しく、空色のユニフォームを着ていても、医師というよりも、ふつうのきれいな女性のように見えました。
(憎悪や怒りは癒しの力を損なう。よく〈知って〉いるわ。あたしはこれまでヒーリングの場で感情に捕らわれて乱れたことはなかった。それはきっと今までひとりで行動してきたからだと思う。自分以外の誰かといっしょにケアしたことはない)
(常に冷静でいられた?)
(浮遊霊や自縛霊とは、一定の距離を置かなければ危険よ)
(生霊もね。このレノンも)
(彼は際限なく欲望する)
「そうかしら? 欲望はどこかでカタルシスを求めるものよ」
 と、ハトは声にだして言いました。シーラは顔をあげ、羽戸千香子をあらためて見つめなおしました。
「浄化されたい、と」
「それがヒーリングでしょう? あなたはヒーラーとしてケアすることで、あなた自身が癒されてきたはずだわ。……踏み込みすぎね。もうやめる。ともかくメグは内因外因ここで診察するかぎり大事はありません。意識が戻らないので、とりあえず一般病棟に移っていただくわ。北ウィングの111号室」
「レノンの部屋のまん前か」
「偶然にしてはできすぎ?」
「そうなるよう彼が仕組んだのよ」
「……声がつらそうね、シーラ」
「感情は原始的なエネルギーで、ことに怒りは自分が正しい、と盲信したときに発現するものだからたやすいし、しばしばナルシスティックでさえある。あたしはメグに対して責任があったし、あるわ。だからレノンを憎み、怒り狂えば、自分の罪障感から逃れられる」
「そこまでクールなあなたは魅力的よ」
「せっかくだけど、今は喜べない。ひとつ聴きたいわ」
「どうぞ」
(いつから〈心の声〉を使えるようになったの?)
(……あるきっかけで、カトリック教会の黙想会に参加するようになってから)
(黙想会?)
(泊りがけの座禅みたいなものかしら。浮世から離れて、修道院で数日、誰とも口を聞かずに、瞑想する。神の声を聴く、という)
(先生はクリスチャン?)
(いいえ。洗礼は受けていません)
(最初にハトさんに接触したのは誰?)
(聖霊) 
 ハト医師はぷいと横を向き、曇りのない整った横顔を窓に浮かべました。きちっとした唇の輪郭が普段よりすこし固く結ばれ、それは、自分ではほどけない心の結び目を、誰かにほどいてもらいたいのかもしれない、と感じさせるような唇の表情でした。
夜明けのうっすらとした明るさから、太陽はもう真昼のまぶしさを加え、壁を隔てて聴こえてくるのも、敬虔な祈りのようなヒグラシの斉唱から、鼓膜にじりじりと焼けつく油蝉へと変わっていました。
 踏み込みすぎか、とシーラは立ち上がり、
北ウィングの111号室に向かいます。
「メグはもう病室でしょう?」
「ええ、ガーネットさんが付き添って。あの方が、あなたのお母さま?」
「そうしておきます」
 ハト先生はぷっと吹き出し、
「あなた方とは、初めて会った気がしないわ」
「たぶん、あたしたちもそう感じているはずよ、ハト先生」

 北ウィングの101号室と廊下を隔てて真向かいに111号室。清掃のおばさんがワゴンを押してシーラとすれちがったほかは、ひっそりとして物音もしません。重症患者のホメオスタシス保持と感染症予防のために、窓を開けて風を入れることも避け、エアコンを低めに作動させ続けながら、規則正しく並ぶ各病室には、すくなくとも十人の患者が眠り続ける他は、清潔すぎるほど生き物の気配のないこの建物は、
(夏休みの学校とおんなじだ)
 メグの悪夢や幻視には、たびたび〈学校のような〉四角い建物が現れてきたっけ、とシーラは思い出しました。
 101号室、安宅礼音のネームボードをちらりと横目にながめ、シーラは111号室をノックしました。
 返事がないのでそのまま入ると、新しい患者のために、とりいそぎ振り撒かれたのか、ラヴェンダーの消毒液の匂いがいかにも濃くただよい、白い布団に埋もれて眠っているメグはさておき、窓辺にもたれ腕組みして、豹河がシーラを待っていました。
「おはよう」
「驚かないヤツだな、おまえ」
 ヒョウガは目を光らせ、顎だけで笑ってみせました。
「リハ日でしょ」
「これから行く」
「ガーネットは?」
「部屋が殺風景すぎるって、庭へお花摘み」
「時間かけてたくさん摘んで来いって?」
 皮肉ともつかないシーラの台詞が終わらないうちに、ヒョウガはいきなり腕を伸ばし、シーラの肩をつかみました。
「いい加減にしろよ。レノンって、あのガキのことか。あいつが元凶なんだって? 行方不明も、この子の転落も。ちゃんと言えよ。俺だって一度はパラレルにいっしょに飛んだじゃないか」
「ひっぱったのはメグ。あたしじゃない」
「だから、俺には言わない?」
「隠すつもりじゃなかったけれど、ペラペラ説明して〈理解〉できる世界じゃない」
「信じることはできる」
「そうかしら」
 ぱしん、とかるい音をたててヒョウガのてのひらがシーラの頬を打ちました。痛くないように、そっとヒョウガはシーラのほっぺたを殴る〈フリ〉して。
「俺、タマヨビだろ?」
「いい演奏家はみんなそうよ」
「どこまでも可愛くないヤツだな」
「生まれたときからこの美貌」
「そんなひねくれが、なんでヒーリングできるんだ」
「向うから癒してくれと寄ってくる。ヒーラーってそういう役回り」
 シーラはヒョウガの手をおしのけ、ぶかぶかと大きい病院のベッドに寝息をたてているメグを覗き込みました。
 あどけない、ごく普通のこどもの寝顔でした。濡れていた髪はすっかり乾き、顔色もつやつやとしてほんのり赤らみ、眉も目許も涼しくて、どこにも苦しげな気配などありませんでした。が、シーラは
「七時間は過ぎた。なのに眼が覚めない」
 ヒョウガはものも言わずにうしろからシーラを抱え、彼女の両手を押さえました。
「ひとりで飛ぶつもりだろ」
「メグを連れ戻す」
「俺も連れていけ」
「あいにくだけど、あたしにはそれほど力がない。メグならできるんだ。レノンはすごく頭がいい。わかっていて、一番最初にメグをひっかけた」
 それに、とシーラは首筋におしあてられたヒョウガのくちびるを、体を半回転してひきはがし、真正面に思わずたじろぐヒョウガの顔を両手ではさんで、ふっと笑いました。向かい合うと、まだシーラのほうがいくらか背が高いのです。
「あなた、ずいぶん背が伸びたわ」
「179センチたぶん」
「あとすこしであたしを超える」
 そのままシーラは顔を寄せて軽くヒョウガの下唇を噛みました。それから、
「ヒョウガはビッグステージでしょ?」
「大物はソーヤで、俺じゃない」
 ヒョウガは、離れようとするシーラをつかまえて、もういっぺん、自分からキスしました。小鳥があいさつするように。あるいは餌を分け合うようなくちづけでした。
「観に行けたら行くわ」
「来なくていい。嫉妬してくれ」
 お取り込み中ナンデスガ、とドアの向うからノックと声がいっしょにかかり、野花を片腕に抱えたガーネットがあらわれました。いつ着替えたのか、さっぱりした白いカフタンブラウス、黄色いサブリナパンツです。彼女は、日焼け防止の白い長手袋をちゃんとはめ、もういっぽうの手を、こどものいたずらを発見して叱るときの先生のように腰におしあてて、胸をはり、
「駿男さんが来たわよ。ミネちゃんと。ジンさんは宿酔で居残り」 
 母親の前では、さすがにヒョウガもつつしむのでした。彼はすっと両手をひろげてシーラを離し、
「それじゃ、俺行く。メール出すから。たまには返事くれ」
「タクシー?」
「まさか。エコバイク」
 というのは自転車のことです。
「ったく愚息は、母親にあいさつもなしね」
 さっさと消えてしまったヒョウガに、ガーネットは舌打ちしました。
「あいさつ?」 
 怪訝な顔をするシーラに、ガーネットは、
「ハグくらいして行ってもいいんじゃない? ジャンなんて、毎朝毎晩ちゃんとキスしてくれたわよ」
 そうだった、とシーラはジャン・フランソワの名前から、小舟の上を、鞠のように飛んでいたドミニクを思い出しました。
(ドミもいた。はっちゃんも。アスカさんはもしかして死んでる? 美大のカップルは……。パラレルに入っていなければ、みんなみんな夢の出来事だわ。現実感のない…うつそみの外側をすりぬけてゆく実体のないゆめ)
「ガーネットさん」
「なあに」
 ガーネットはちょっと顎を斜めにひいて、わざとらしい上目遣いとイントネーションで応えました。シーラは苦笑し、
「あたし、これからパラレルに入る。体はこっちに残してゆくから、できればメグのそばに置いてほしいの」
「ええっ?」
「このミカエルにいるうちは、この病室に簡易ベッドか何かで、意識が戻るまで。あたしが戻るときはメグも戻る。パパたちには夏ばてとか過労とか、うまいこと誤魔化して」
「そんな急に」
「急を要するの」
「わかった……なにか欲しいものある?」
 相手の決意を見定めると、対処の機敏なガーネットでした。
「そうね。さしづめコップ一杯の牛乳。一リットルパックでもいいから」
「わかりました。必ず帰ってきて。そして、いざとなったら呼んでちょうだい。できることがあるなら。愚息よりマシでしょ」
 ガーネットが、花束を残して出てゆくと、シーラは庭から摘んできたばかりの野花を、そのままメグの顔の横に置きました。
「レノンの方からも入れるんだろうけど、心が乱れちゃうから、君を通る。なんだってそうだけど、いとしい感情のほうから近寄っていったほうがうまくいくんだ」
 メグの髪が湿っているのは、すこし汗ばんでいるからなのでしょう。シーラはメグの前髪をかきあげると、彼女の上にかがみこみ、昨夜のように額に額をおしあてました。ふと、星の王子様が、砂漠で蛇に噛んでもらって、地球を離れる瞬間が心をよぎりました。
(薔薇に再会するために)
 顔を寄せると、メグの頬や首筋から、ふわっとまろやかなこどもの匂いがたちのぼってシーラの鼻腔にあふれました。いいえ、それは、もうこどもではなく、さりとて大人ともつかない少女特有の……枕元に置いた新鮮な野花の香り、摘まれたばかりの茎からたちのぼる青臭さ、太陽に灼かれたはなびらの匂いが混じった、なつかしく、またほのかに心が浮き立つ香りでした。
ガーネットが売店から紙パックの牛乳とフルーツジュースを買って戻ってきたとき、病室の床にシーラがメグのベッドに向かって横向きに倒れ、そこらじゅうに摘んできたコスモスや百日草、鳳仙花…が散乱していました。

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