さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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サイコ・ヒーラー 10 ブリランテ

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10 ブリランテ

「や、目が開いた。あーよかった。メグ、メグ? パパがわかる」
 パラレルから戻り、瞼を開けてもまだぼんやりとした視覚より早く、耳元に口を寄せてメグを揺さぶるパパの声が聞こえました。
「風間さん、そっと。お気持ちは察しますが、せっかちに揺さぶらないで。脳震盪くらいで済んだと思いますが、まだ万が一ってこともあります」
 看護師らしい女性がやんわりと駿男さんを制しても、パパはメグのほっぺたを中指と薬指でぺたぺた叩くのをやめませんでした。
「メグ、気がついたんならお返事して。君は丸一日眠っていたんだよ」
 気絶していたとか、無意識だったとかいう、オソロシイ単語は駿男さんの口からは出ませんでした。
夜明けの光りが地平線に徐々にひろがるように、ゆっくりと周囲のものがかたちを取り戻してくるメグの眼の前に、ぬっと、ぼさぼさ頭でヒゲだらけの駿男さんの顔がありました。メグは夏掛けから両手をのばしてパパの無精ひげでいっぱいの頬に触り、それから発熱でもしたように真っ赤なふたつの耳たぶをつかみました。
「お顔、ジョリジョリだね、パパ」
 駿男さんはものも言えずに泣き出しました。
メグがまだ赤ん坊だったころ、こんなふうにパパやママの耳たぶをつかむ癖があったことを、ふいに思い出したのです。
ジンさんは彼のうしろにたって、上半身だけちょっとおりまげてメグを覗き、口をへの字に結んで、やっぱり何も言わずに目をしょぼしょぼさせました。
「あ、シーラも帰ってきた」
 とガーネットが言い、ジンさんは親子からくるっと背を向けて、メグのベッドからすこし間を置いて並べられたシーラのベッドにかがみました。
「ようシーラさん。お帰り」
「んー。ジンさん? 宿酔は」
「開口いちばんそれ? さすがねえ」
 とガーネットはほがらかに笑いましたが、このひともたぶんほとんど眠っていないということは、ふだん決して見えない蒼い翳が、下瞼にくっきりと映っているので明らかでした。
「とりあえず、ガーネットさん。牛乳いただける? 飲みそこなった」
「置いてきぼりにしたんでしょうが」
 ガーネットは、嬉しそうにいそいそと無開封のまま冷蔵庫にしまってった牛乳をガラスコップに注ぎ、シーラは彼女の手元からコップにこぼれてゆく白い液体を見つめ、それをつかもうとする自分の手の感覚をたしかめるように、ゆっくりと両手を握ったりひらいたりしました。
「ぼくにもちょうだい、ガーちゃん」
「あ、わたしも」
 と駿男さんは水ッ洟すすりながら言い、続いてタイジも
「ぼくにもください」
「メグもぉ!」
 最後にメグが大きな声で叫んだので、駿男さんは顔をまたくしゃくしゃにしました。
(世界中の神様ホトケさまに、感謝します。この子が死んだらぼく生き甲斐ないです)
 シーラは、そんな駿男さんをちらりと見てからふと視線を遠くして、二秒くらい天井を眺めましたが、三秒目にはもう、牛乳を飲むために、ベッドから上半身を起こしました。
「大丈夫?」
 ガーネットが気遣うのに、
「終わった、と思う。ところで、どのくらいたった?」
「三十時間くらい、かしら。あなたが」
とガーネットさんは駿男さんの様子をうかがい、少し声をひそめて
「眠った昨日の朝から。一昼夜とすこし。今は翌日の午後の三時すぎよ」
「それじゃ、ヒョウガの舞台に間に合う」
「え?」
「諏訪湖ロック・ミラージュ。二晩続きだけれど、やっぱり初日は新鮮でしょう。楽屋席くれるって言ってた。プラチナ・プレミアムシート」
「けどさ、それって要するに立ち見だぜ、たぶん。スタッフ扱いってことだろ」
 とジンさんは茶々を入れます。
「ま、ソーヤを間近で見られるかって」
 うっかり口をすべらせてから、ジンさんはほんの少しバツがわるそうな顔になりましたが、シーラは平気でした。いいえ、平気に見えました。こくんと牛乳を飲んでひとこと、
「邪魔しないわ」
 それからメグの方を向いて、
「メグも行く?」
「うん、もちろん。花火すごいし」
 メグもごそごそと起き上がって牛乳をパパからもらいます。
「あれ、メグさん知ってるの?」
 とタイジが不思議そうに尋ねるのに、
「うん、一晩に三万発でしょ? それに今年はスペシャルゲスト」
 メグは大人びた仕草で、またすこし伸びた前髪をかきあげ、合図のように、シーラに向かってにこっと笑いました。
 肯き返すシーラは、メグのそんな匂いやかな笑顔は、昨日までの彼女には見たことがなかった、と思うのでした。
(少女って生きものは……ある日とつぜん、目で喋れるくらいに、いっきに大人になる)
 そこが少年とは違う、とシーラは自分の頬を撫で、ジンさんや駿男さんのように、見苦しいヒゲづらになっていないことを無意識に確かめました。とはいえやはり、シーラのほそい指先は、自分の皮膚に、男のヒゲ特有のかたいかすかなざらつきをとらえ、リアルワールドの中で、留まることなく成熟してゆく自分の性を自覚するのでした。シーラはちょっと眉をあげ、ちょっとシニカルに心のつぶやきに♪マークをつけました。
(お出かけ前にはスキンケア、と)
ジンさんは余計な気を回してつまづいた分を、逆におおっぴらに流してしまいたいのか、わざと声を高くして、脇からいきなりシーラの返事を先取りし、
「まさにスペシャルだ。ソーヤ・クリスタルって大輪の名花。クラシックからロックまで幅ひろくこなす世界的歌姫。プラスお能の名門役者。しかしいったいどんなコラボになるんだい」
「すてきじゃない? 予想外の舞台幻想を堪能できるでしょう、きっと」
 ガーネットはたいてい、いつでも、そしてどこまでも人生の出来事を楽しむ姿勢を変えません。彼女の眼の周りの隈は消えませんが、シーラとメグが無事現実に戻った安堵で、彼女の小造りな顔は、また生気とハリをとりもどし、つやつやしてきました。孫のドミニクの安否も気にかかっているに違いないのですが、軽快に見えて、ガーネットはその場の空気をそこなう不適切なマイナス発言を口にしない、行き届いた女性のひとりなのでした。
「雷が聴こえる」
 シーラのつぶやきで、みんなはいっせいに窓に視線を向けましたが、夏の長い午後の陽射しは、いくぶん傾きかけているとはいえ、うすいレースのカーテンを金褐色に貫いてまばゆく、ひとりひとり耳を澄ませても、星隷ミカエル病院を包む高原の森の蝉たちの、短い命を尽くして鳴きあげる、すさまじいユニゾンが響くばかりでした。
「ほんとか? ヒグラシがそろそろ始まるみたいだけど、遠雷なんて」
 聴こえない、とジンさんが口をとがらせたとたん、窓が一瞬翳り、地鳴りのような遠い雷鳴がみんなの鼓膜に伝わりました。
「あ、ほんとうだ。もしかしてこれから雨かな。花火大会って雨天順延?」
 気遣うタイジにガーネットは、
「通り雨でしょ。諏訪のあたりじゃ、今驟雨かも。こっちに来るのかしら。それともこっちのほうが早いのかな? でもきっと、夜にはまた晴れるわ」
 彼女の言葉が終わらないうちに、ついさっきまでまぶしく輝いていた夏の陽射しはかき暗がり、皮膚のびりつく振動といっしょに、鋭い稲妻が暗転を走りました。
「おー近いな、じきにウマのケツが抜ける」
「いつもながらジンさんのギャグはわかりやすいです」
 とタイジ。シーラはまるでただの昼寝から醒めたように、かるがると宙に長い脚を放りあげて、床にひょいとたちあがり、
「あたし、ハーレーで行くわ。ヒョウガのプレミアムシートは遠慮しとく」
「え、どうして」
 とタイジは思わず声を高くしました。
「あたしは女王様には会わないほうがいい」
 言葉だけは思わせぶりで……思わせぶりすぎてかえって拍子抜けするくらい、あっさりとしたシーラの声でした。
 シーラの内面を量ってかどうか、ガーネットはいつものようにかるく受け流し、
「女王様って、そのとおりね。あなたが来ないほうが豹はきっと嬉しがるけれど、鳳凰さんのところに行くんでしょ」
「ご名答。顔出しくらいするわ。お父さん来てるから、さもないとあとがうるさい」
「千手宗雅さんかあ。扱いにくそうだよね」
 とジンさんはよく知りもしないくせに、腕組みしてうなずきます。じきにバケツをひっくりかえして、文字通りの豪雨が襲来しました。
 雨あがりを待たずに、みんなは星隷ミカエルをひきはらいました。駿男さんの車に全員乗り切れなかったので、ジンさんとタイジは(つまり野郎だけ)タクシーで戻りました。
 メグは病室から出るとき、もうすっかり元気でした。ただママのことが気がかりでした。メグがコテージの屋根から落ちるとき、柳の木にたのんで、自分の両腕とひきかえにメグを助けてもらった、という安美さんを、とり戻すことはできなかったからです。レノンに尋ねればママの行方もわかるのかもしれない。でも、レノンの魂はコムニタスの流れに還元されて、たぶん、もう二度とメグと交感することはできないのでした。
 メグは北ウィングを去り際、レノンの部屋を覗いてみました。
「気になる?」
 シーラはすぐに、メグの心の動きを察しました。
「うん」
 メグは素直にうなずき、シーラは黙ってメグのうしろから、レノンの部屋を覗きました。激しい雨音に混じって、生命維持装置のモーター音が低く単調に聴こえる薄暗い室内で、痩せた少年が眠っていました。
(もうレノンはいない)
「さよなら、レノン」
 メグはレノンには近寄らず、入り口でつぶやき、バイバイ、とベッドに向かって手を振りました。シーラは何も言わず、何もしませんでした。二人はふりかえらずに、病棟を出てゆきました。
「シーラさん、花火は何時からだっけ?」
「七時から。ヒョウガは花火のラスト三十分に歌姫と共演」
「すごいね」
「すごいわね」
 シーラは陶器のような無表情で応えました。メグはそんなシーラをまじまじと見つめ、
「心の声が聴こえるようになったら、耳の奥がものすごく静かになった感じ」
 シーラは眼だけで笑い、
「雑音と静寂のさかいめが、はっきりしてくる。自分でそれをコントロールする。聴くべき音や声は、静寂の中で響くから」
 早くぅ、と遅いふたりを待ちかねて、駿男さんがミカエルの玄関で叫ぶ声が聞こえました。
「あたしは今夜別行動するけど、いつでもあなたの声を聞ける」
「うん。パパやタイジさんはさみしがる」
 シーラは吹き出し、
「そう単純ではないわよ」
「なぜ?」
「男だから」
 ……。
 みんなが蓼科湖畔のコテージに戻るころには、雨はあがっていました。ほっと一息つく間もなく、またすぐにシーラ以外の全員が、ガーネットのシトロエンとパパのポルタに分乗して行ってしまうと、シーラは手早くもういっぺん着替えました。
「衣装変えればりっぱに男に戻るんだよな」
 とシーラは毛先だけ金髪に染めたセミロングの髪をひっつめに束ね、鏡を眺めてつぶやきました。
 上下シンプルな黒服でキメた182センチの〈彼〉が特設ステージ沿いの楽屋に現れると、そこらに出入りするのは、もう出演者かスタッフに限られているので、かえって誰もあやしみませんでした。湖の周辺は交通規制が敷かれていて一般車両通行止めだったのですが、シーラは要領よく通過し、鳳凰流関係者専用の駐車スペースにハーレーを入れました。諏訪湖畔にも驟雨は襲ったらしく、道は濡れ、雨水をたっぷり吸った樹木の匂いが夕闇に濃く漂っています。六時過ぎ、まもなく花火がはじまろうかという刻限でした。
 ロックステージは湖畔にいくつか分散して設けられ、花火の始まるだいぶ前から、もう他のステージの演奏は始まっています。湖面に電子音はこだまを呼んでがんがん響き、湿度と熱気がその音で増幅されて諏訪盆地いっぱいにふくれあがるようでした。
 鳳凰流の楽屋は、仮設とはいえ、ロックシンガーたちの雑駁なそれより特別扱いで、家紋を染め抜いた白い幕をきっちりと四方にめぐらして区画を隔て、その周囲に盛夏というのに紋付袴の正装姿の能楽師が集まっているだけで、その場に異色でした。
 幕屋の入り口からちょうど現れた五つ紋の何人かの中で、ことに若い、まだ線のほそい少年が、ともすればロックシンガーのひとりと見まがうシーラを目ざとく見つけて、
「兄さん!」
 とうれしそうに声をあげ、駆け寄ってきました。
「紫さんだって?」
 と少年の声を聴いて、周囲はいっせいにざわめきました。
「ユカリ兄さん、来てくれたんだ」
「うん。宗雪は地謡で?」
「そう。今夜は〈羽衣〉。地謡が支えるのは序の舞の出だしだけなんだけど」
 濃くまっすぐな侍眉と切れ長な目元の際立つ顔は、シーラとはまったく似ていないけれど、思わず視線がひきつけられる凛々しい少年です。
「お父さんは、もう鏡の間だろ?」
「そう。お祖父ちゃんは兄さんがたぶん来るだろうって予言していたんだ、当ったよ」
 宗雪は、屈託のない笑顔でシーラを見上げるのでした。
 
 真珠母とゴールドを練り合わせたシャドゥを濃く上瞼に塗り、付け睫毛の先端を燐の混じったブルーで光らせたソーヤは、ヒョウガに触れる前に、一瞬自分の手と指先に視線をはしらせたようでした。ほそく長い先細りの優雅な手は、琥珀いろの皮膚の隅々までしっとりと潤い、イミテーションではなく丹念に磨かれた長い爪は、アイシャドゥと同じく、虹を浮かべた黄金色に光っていました。
 自分の手の完璧な美しさをたしかめてからソーヤは、すいとヒョウガのレオパードヘアに指をからめ、余裕のある微笑で尋ねました。
「いい顔になりつつあるわ」
「もうなってるでしょう」
 ヒョウガは不敵にニヤリと笑ってみせましたが、すこし語尾が震えました。それでも勝気な語気を変えずに、
「ぼくはもうあなたより大きい、ソーヤ」
「体だけは」
 インドとイギリスの混血歌姫ソーヤは、濃い隈どりをした舞台化粧をもう済ませていて、控え室には、ごく短いそのいっとき、数年ぶりに再会した二人だけでした。ヒョウガは自分の髪をからめながら、いたずらっぽく頬に触れてくるソーヤの親指をぎゅっとつかみ、いきなり舌の先端で舐めました。長く光る爪ではなく、彼女の指の腹に、自分の舌をかるくとがらせて。
 ソーヤは表情を変えずにヒョウガを見つめ
「すてきなタンギング」
「独学で」
「ひとり?」
「いや……」
 ヒョウガは悪びれずにソーヤの眼をじっととらえて言いました。
「ひとりじゃない」
「ゴージャスね。美しいわ」
 ソーヤの褐色の瞳は、ヒョウガの直視に耐えられない、というようにふと脇へ揺れましたが、きらりと光ってまた少年に戻り、
「能のコーラスが終わってすぐ、シューベルトのアベ・マリアを歌うの。ア・カペラのつもりだったけれど、気が変わった。能の舞踊は天人の舞と聞いたわ。わたしの歌に、あなたの即興をつけてちょうだい」
「数列音楽でいい?」
「そう。わたしがあなたに贈った黄金のフルートで」
 ヒョウガはうなずきました。急遽変更、でも女王様には誰も逆らえない。
 ふっとヒョウガの気持ちがソーヤから逸れて、今夜の数字譜に泳ぎかけた刹那、やんわりとまろやかに彼はソーヤの胸に顔を埋めて…ひき寄せられていました。
「そのあとは〈涙の流れるままに〉〈なつかしい木蔭〉……最後はいつもおなじ」
 ゆったりとしたソーヤの含み声は、彼女のヴォリュームのある胸の奥から熱い温度といいしょに、じかにヒョウガの鼓膜に伝わってきました。ヒョウガは瞼を閉じ、彼女のゆたかな肌の感触をかつての記憶に重ね、応えました。
「さよならを告げる時」
 どおん、と地表と夜空が同時に轟いて最初の花火が天上高く昇りました。
「黄金のフルートはゴージャスに吹いて。あなたの恋人よりも、もっと華麗に」
 坊や、とつぶやくソーヤの追憶は、花火の爆音に消され(ということにしましょう)数秒よりもっと短い時間でソーヤとヒョウガはそのまま離れ、すぐにどこかのバンドの演奏が嵐のように始まりました。

「だめだこりゃ、渋滞でどうにもならない。プレミアムがプラチナだって、行き着けるかどうか。どうする?」
 ハンドルから手首の力をだらんと抜いて駿男さんは、半ば投げやりに尋ねました。
 ポルタのうしろ、シトロエンにはガーネットさんとジンさん。今夜タイジはポルタの後部座席に乗っています。
「花火始まりますね。あ、あれそうじゃない? たぶん一番最初のごあいさつスターマインだ」
 タイジはぎゅうづめの道なりのはるか向うの夜空に、勢いよくぽーんとあがった金銀の傘を見つけて言いました。
「歩いたらまだ遠いの?」
 メグはうしろを向いて、携帯で道路状況を調べているタイジに言いました。
「そうねえ。まあ、たぶん歩けない距離じゃないけれど、ガーネットさんやジンさんは嫌がるよ。なんとかたどり着いた頃にはラスト水中花火が見れるかどうかってとこ」
「男どもはともかく、マダムは無理でしょ。あの上品なおみ足じゃあ」
 と駿男さん。
「ここで打ち止め車中観覧ですかね。そこらのコンビニでドリンクでも買ってきた方がいいな」
 タイジはきょろきょろと渋滞の前後左右を見回しました。メグはふと、
(みんないっしょにパラレルに連れていっちゃえば?)
 と思いつきました。
(シーラさんが言ってたじゃない。あたしは自分の望むとおりにあちらとこちらを行き来できるって。自分ひとりじゃなく、他の、ふつうの人も、体ごといっしょに飛ばせるって。行く先を決めて飛んだことなかったけど……でもやってみようかな。どうしてもあの花火見たいし、みんなに見せてあげたい……)
「パパ、降りて歩こうよ」
 と言うと、メグはパパのOKを待たずにドアを開け、路面に出てしまいました。むっとする湿度と熱気がいきなり全身を覆いました。
「あっ、こらっ、危ないじゃないか!」
「大丈夫。道路全然動かないもん。タイジさん、降りて早く」
「待て待て、歩くにしても駐車するところを決めなくちゃ」
「あ、そっか」
 メグはぺろりと舌を出して肩をすくめ、もういちどポルタのドアに手を掛けたとき、うしろから軽く肩を叩かれ、ふりむくと
「レノン!」
(車ごと飛ばしちゃえよ)
 夕暮れはとうに過ぎ、あたりには濃い闇がわだかまっているはずが、ふりかえったメグの視界にはどこまでも明るい青い空間がひらけ、縦横無尽にはなびらのような白いこまかい雲が飛び交うなかに、燃え尽きたはずの少年が立って、朗らかに笑っていました。
(どうして?)
(ここは君の内部なのさ。君に食べられたレノンのハートが、君に話しかけている。ぼくは君のなかにいる。コムニタスはつまりメグだ。ぼくどこにも行かない)
(えーっ)
 メグは目をシロクロさせました。
(それ困るんだけど)
(なぜ? 邪念の燃え尽きたレノンは善玉だよ。君のなかに天使を一匹飼っていると…言葉が悪いな、住んでいると思えばいい)
(気味悪い)
(なんだよ。せっかく守護霊になってやるって言ってるんだぜ。だいたい君がぼくの心臓を食べちゃったからこうなったんだ。それじゃぼくの心臓返せ)
(そんなこと言われたって無理よ。あたしだってああしようと思ってやったわけじゃない。コム…ナントカがそうさせたんだもん)
(責任をまる投げするなよ。喜んでくれなくちゃ、やだ。だって君は、ぼくの力を同化させたから、前よりずっと強化されたはずだ)
(?)
(トロいね。つまり欲しい物体をひきよせるときの瞬間移動エネルギーとか、行きたいパラレルへ飛ぶ瞬発力とか)
(二台の自動車ごと飛ばせる?)
(楽勝)
(あたしのなかにいて悪いことしない?)
(君のなかにいるかぎり、ぼくの機能は天使。レノンを使いこなすのはメグの力量によるって、シーラなら言う)
 ほら急いで、とレノンはメグの背中を押しました。
突き出されたメグが前のめりにポルタに上半身倒れこんだ瞬きの間に、コバルトブルーの幻視はかき消え、ぽおん、ぽおん、と花火のあがる音が心を誘って気ぜわしい、もとの真夏の闇夜です。
「メグ、入りなさい」
 ハンドルから上半身よじってメグの手をつかんだパパの顔を、メグはじっと見つめ、
「パパ、この道路のすぐ隣に、抜け道があるの」
「なんだって?」
「そこから行こう。すぐに花火に近づける」
(あたしの言葉、どこから出てくるの?)
 メグは喋りながら、すらすらと口をついて出る自分の台詞に呆れていました。考えてもいない単語。思ってもいない言葉でした。まるで誰かがメグの口を借りて声を出しているみたいな感覚。
(レノンを食べちゃったときもそうだった)
「ほら、そこに」
 とメグが指さすと、渋滞のひしめきはそこからぽかっとふいに幅をひろげ、うすぼんやりとした発光の地面に滲む脇道が浮かび上がりました。それを確かめると、メグはうしろのシトロエンに向かって合図しました。
「ガーネットさん、ここから行く」
 シトロエンの車内にいて、窓も開けていないのに、ガーネットにはメグの声がはっきり聞こえました。さらに、こんなふうにも聞こえました。
(パラレルを通って、花火に行く)
「ジンさん、今メグの声、聞こえた?」
「うーん」
「あの子、あんな遠くにいるのよ。なのに」
「未知との遭遇じゃない? こぉこはどぉこの細道じゃーって。いやー、見たとこほんとに細い未知。周りはこれ見えてないんだろ? ま、いいじゃない、行こうよ。メグのオーラに乗っかってヒョッコリヒョウタン島へ」
「乗りかかった舟?」
「いンや」
 とジンさんはこめかみの汗を拭いて首を振り、唇の端だけで笑って見せました。
「もうちょいテンションあげて、ジョーダンからコマ」
 ……。
(こんな横道どうしてメグは知ってるんだ?)
というタイジの疑問は口には出ませんでした。駿男さんは、メグの誘導に逆らわず、ガクンとハンドルを切り、シトロエンも続きます。地面の中からゆらゆらとほの白い光がたち昇る曲がり道に入ったとたん、窓を開けてもいないのに、打ち上げ花火の響きだけが、いきなり鮮明に聞こえてきました。暑苦しい車のエンジン音、どこかでひっきりなしに鳴らされる渋滞のクラクション……いらついた人間のすし詰めに密集するときの漠然とした不愉快なざわつきなどはいっきに消えて、しいんとした耳の中に、ポン、ポーンと風船が無数に舞い上がるように、静かで軽妙な音がたくさん入りこんでくるのでした。
 車外を覗くと、言うまでもなくまっくらな闇。国道からひとつずれたにせよ、本筋からまだそんなに遠ざかっていないから、街明かりや渋滞の点滅などが、境を隔てる藪影のはざまにぽつぽつと見えて、赤や青、金色、銀色。延々とつながる渋滞車両のヘッドライトが、地上の天の川のように輝いています。
 夜景はまるで銀河、とタイジが思わずつぶやいたあたりで、はっと我に返り、右左を見渡すと、森と見えたのは、それぞれが靄か雲のような気体のひとかたまりで、ヘッドライトの行列は、いきなり背後に無限宇宙の奥行きを備えた星群に変わっていました。
「メグさん、ここは?」
「たぶん諏訪湖の上空」
「うそでしょ」
「下を見て。ほら花火が昇ってくる」
 非現実的に大人び、確信的なメグの声は、どこかシーラに似ていました。うそでしょ、と言いながらタイジは、もうそのメグを疑えませんでした。タイジが窓をあけて身を乗り出し、眼の下はるかを眺めれば、大小とりどりの濃い虹を撒き散らして輝きの輪がくるくると、暗い下界のどこかから、ひっきりなしに開いてくるのでした。
 タイジの嗅覚に触れるのは、諏訪湖を洗いきよめて行ってしまった雨の名残、水の気配、湿度を含んだ大気が動けば光も滲み、多次元の重なる星野は大きな湖の上に、あるいは底に深々とひろがっていました。鼓膜を揺さぶる打ち上げ花火は、夜空という水面に投げ込まれた小石が、そこになめらかな波紋を次々と呼ぶように、青い花、赤い花、黄菊白菊、また金銀しだれて散って、エメラルドグリーンの滝と流れる……目を楽しませ、心躍らせる幻の華たちは、普通なら瞬きを数瞬彩ってじきに消えてしまうはずなのに、どうしたわけか、その夜はいつまでも輝きとどまって消えることがありませんでした。
 それどころか、ポルタとシトロエンの真下にひろがった光の洪水、輝く傘は、幾重にも重なり、光の粒の一滴は、それ自体からさらに新しいきらめきを生んで、深海に揺れるくらげの群れの大発生みたいに、ゆらゆらと空間を覆い、埋め、中空に浮かんで、ひとつずつの華のかたちを崩すことなく、天上の高みへそのまま昇ってゆくのでした。
「きれいでしょ? あれがみんなじきにここまで昇ってくるから」
「うん」
 とタイジは、まじまじとメグを見つめました。下からの光線に映しあげられれば、誰でも少なからずおそろしげに見えるはずなのですが、今のメグは、さっき逸れた横道の地面が内側から発光していたように、体の中に独自の光源を持ち、おぼろに光り始めていました。すぐ傍にいるのに手を触れられない異質な存在の少女。それはタイジの携帯におさめたシーラの映像とおんなじでした。
 駿男さんはとタイジが気遣うと、パパはぼんやりと口をあけて、車窓に反映する無数の花火に目を奪われていました。
「なんてきれいなんだろうねえ、メグ」
「パパ、あれはね、もうじきここへ来て、それからもっと高いところへ昇ってゆくの。この世に生まれる前の、眼に見えない元素のひとつぶになって、誰にもわからないどこかへ還る」
「ひとつひとつが命なのかい? それとも魂ってヤツ? メグにはわかるの?」
「パパ、命があっても魂のないひともいるし、魂だけとどめて、命の尽きてしまったモノもいるの」
「魂ってなんだろう。この光り輝く渦や流れは、どっち? その両方?」
「魂って、たぶん……想いの強さ、かもしれない。レノンって男の子、パパ覚えてる?」
「ああ、眠りから醒めない脳死の美少年、いや青年だっけ」
「あのひとは命と魂両方持っていた。そしてとてもさびしがっていた。自分があんまり不幸だから、みんなも自分と同じように不幸せにしてやろうって、悪い魂に傾いて」
「そうか」
「レノンの夢、レノンの心はうつろで…大きな湖があって、彼はとりこにした命や魂たちをそこに集めた……湖のなかにはレノンが閉じ込めた悲しい苦しい想いがいっぱいだった。あたしね、パラレルでシーラさんといっしょに、その想いを全部天上にあげちゃった。死んでしまったひとは死の世界へ。まだ生き残るひとは、もといた世界へ送り出すために、悲しさや苦悩はいらないから……」
「メグがやった? このキラキラ」
 パパは夢見るような口調で尋ねました。
「そうよ」
「どうして花火の夜に?」
「花火は、たくさんの人の心を集めるでしょ。
感動や、あこがれ、ワクワクしたり、ハッピーになったり…。とてもたくさんのひとの、とてもたくさんのエネルギーがそこでいっしょに昇華され、心に溜まった暗いかたまりを浄化する。そのポジティブなプラスエネルギーを、ヒーリングにいただいたの。そうしないと、レノンが溜め込んだ怨念の浄めはむつかしかったでしょう」
「メグはすごいねえ」
「うん。メグってほんとはすごいのかも」
「でも算数の宿題やるの忘れないように」
 駿さんは眼鏡をはずして、ポロシャツの裾でレンズをごしごし拭きました。
「七十点くらいで妥協してよ」
「せめて八十点ほしいな」
「……」
「パパは、今夢を見てるんだろうな、メグ。夢の中で、これは夢だってわかっている夢を、何度か見たことがある。今メグが話していることは、とてもふだんの、パパの小さいメグのする話とは思えない……」
「……パパ」
「なに」
「これが夢であってほしい?」
「……メグ、うちに帰ったら、チョコパフェ食べに行こう」
「うん」
 あ、ここまで来た、とタイジはささやきました。ゆらゆらふわふわ……きらきらと散る花火の輪、虹彩の傘は、目に近くなると、どれも直視できないくらいまぶしい渦巻きでした。みんなはこらえきれずに目をつぶりました。メグひとり、しっかり瞼を開けていました。まばゆさに視界が眩むということは、もともと目の見えないメグにはなかったからです。シーラの声が心に響いてきました。
(メグ、どこにいる?)
(シーラさん。あたしみんなといっしょにパラレルに乗りこんだ。諏訪湖の上空から花火を見下ろしてる)
(そこでヒョウガのフルートが聴こえる?)
(たぶん……下から花火はどう見えてる?)
(花火が花火を生んで、夜空いっぱいに増殖している。いったんあがった花火がいつまでも消えないから騒ぎになって、消防が緊急出動してるけど、火災が起きているわけじゃないから遠くで静観。どっちみち寿司詰めの会場に入れやしないし、観客はみんな大喜びだ。主宰者側は、あわてふためいてる……直前の豪雨のために生じたミラージュ…ほんとの蜃気楼だろうとかなんとか、ロックのあいまにアナウンスがとりあえず言い訳した)
(喜んでる? みんなが喜べばよろこぶほど、浄化のエネルギーは強くなるね)
(そう。歓声があがるたびに、花火の輪が増えてゆく感じだ)
 メグは窓ガラスを開けました。耳に届くのはりょうりょうとすずしい風の音。下界の雑音は聞こえません。でもヒョウガの吹き鳴らすフルートの旋律と、彼の音いろにつかず離れず、優雅な軌跡を描くソーヤの歌声は、らくらくと聴きわけることができました。
(この数えきれない粒子のなかにドミニクがいて、はっちゃんがいて…ママ、どこにいる?)
 メグはドアを開け、車をとりまく靄のように緻密な輝きのなかにママを探しました。
 メグさあん、とタイジの声が聞こえた気がしましたが、メグはもう車の外でした。
(ママ、メグはここだよ、パパもいるよ。もういちど会いたい)
 下界のシーラに、メグのそのつぶやきは聞こえました。ごめん、と〈彼〉はつぶやきました。
(約束の半分はかなえられなかった。ドミニクもはっちゃんも、たぶん無事に戻る、あるいはもう戻っているかもしれない。美大のカップルも。だけどメグのいちばん恋しいあなたを取り戻すことは…)
 シーラは安美さんに向かって語りかけました。夜を埋める頭上の花火の極彩色は、なお輝き増して夢よりも妖しく。
(シーラさん、いいの)
(メグ? 聞こえたのか)
(そう。前よりずっとシーラさんの声がよく聞こえるようになった)
(……)
(ママはあたしが心配であたしの傍にいてくれた。レノンみたいに、誰かを憎んだり、さびしがったりしていたわけじゃない。そして今度は両手を失くしてまで庇ってくれた。いちど死んじゃったのに、妖精になってまで、痛い思いをさせちゃった。この花火といっしょにママが死の世界へ還るなら、それは幸せなことだと思う。死霊はながく現世にとどまってはいけないんでしょ?)
(そうだよ。彼女は生に執着していたんじゃない。ただ君だけを想っていた)
(だったら、あたしのほうこそ、いつまでもママを追いかけていたら、かえってママの重荷になる。会いたいけれど、会えたとしても。もうひきとめない)
(安美さんは、この昇っていく光りのどこかで君を見てるよ)
(うん。だから、メグはもう悲しまない。悲しみはママの羽を奪っちゃうから)

(了) 

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