さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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オカリナ・シーズン   1 ナチュラル・スカイ

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   オカリナ・シーズン

 ワケありのケアなんだけれど、しばらくの間ひきうけてもらえないかしら、と言いながら、峰元涼子さんはひさびさに帰宅した息子の前に、昼ごはんの炒飯を置きました。
「まぁたイミシンな〈前置き〉つき? なんだよ、あらたまって」
 タイジは眼の前にどしんと押し出された山盛りの五目炒飯と、深刻な台詞のわりには、いつもと変わらず血色のよい涼子さんをかわるがわる眺めました。明るいレモンイエローの地に、薄茶と朱色の細い横縞模様のコットンシャツの袖口から、涼子さんの、いかにも働き者らしく、日焼けした固太りの二の腕がつやつやと覗いています。
 十月半ば、ほぼ一週間おきに大小の台風が日本に押し寄せ、人騒がせに風雨激しいそのたびごとに、季節はあらあらしく塗り替えられ、湿度と残暑は遠くへ押しやられて、傾きかげんの陽の光もさらりと乾いた金褐色の秋が、街に深まっていました。
「月曜日と木曜日、週二回のケアなんだけれど、ヘルパーさんの都合がつかないの」
「曜日を変えて探したら?」
「それで見つかるんなら、よそのセクションのあなたにお願いしませんよ」
「そりゃそうだ。母さんのセクションと俺とじゃ担当地域が違うじゃない。それってそもそもおかしい」
「だから言ったでしょ。ちょっとワケありなんだって」
 涼子さんは冷蔵庫からオレンジジュースを出してコップに注ぎ、息子に渡しました。
「おおー。ブキミな過剰サービス。大盛り炒飯は豚肉たっぷりだし、ドリンクまでつけて何事だよって」
「豚じゃなくて牛肉ですよ。おまえいつから味オンチになったの?」
「ウソー。食べるの恐れ多い。どころかコワイ。ほんとになんで? 食い物で息子釣らなきゃなんないほど、母さんのセクションて人材逼迫してるの?」
「そういうことではないんだけどね」
 と涼子さんは小さくため息をついて、ダイニングテーブルの息子の向かいに座りました。
 タイジと彼の母親の涼子さんは、全国規模の福祉団体に所属していましたが、タイジは親元から離れて隣町に別居しているので、それぞれ仕事の担当区域は異なり、また福祉職ベテランの涼子さんは、所属事業所のサービス担当責任者を任されているのでした。
 母さんにしちゃ珍しいもたつき、とタイジは涼子さんの言い出しかねている様子から、ケア内容を推し量ります。
(なんだろ、重度身体介護かな。それとも精神的にキツイ…ターミナル? でもその程度じゃ訪問ヘルパーが見つからないってこともないはずなんだけれど)
 タイジはスプーンに炒飯をどさっと乗せて食べ始めました。もぐもぐと口を動かしながら、
「はっきり言ってよ。どんなケア?」
「あのねえ、この方はおだやかで、インテリで、しかもダンディないい人なの」
「ウン」
「年齢は六十五歳で、つまり若年性認知症なのね。数年前に発症し、除々に重くなり、この一年くらいで急激に悪化。失認、失見当、記憶障害、徘徊ナドナド。日常生活がかなり危なくなって、半年前から、うちのヘルパーが訪問し始めたの」
「ご家族は?」
「キーパーソンは娘さん。ひとり娘で、三十歳。独身の、たしかどこかの出版社の編集者だったかしら。親子二人ぐらしだけど、娘さんは忙しくて、日中は独居状態。だから生活援助で最初は入って、このごろは入浴介助も始まってる」
「若年性アルツかあ。気の毒に、てのは禁句だよね。奥さんは?」
「一年前に亡くなったの。ずっと御主人を支えてきた奥様の死のショックで、この方いっぺんに重症になっちゃったらしい」
「そういう事情と、ヘルパーが見つからない理由は結びつかないよ。ちゃんと話して」
「そうよねえ、普通のケア依頼なら言わないし、言えないことなんだけどね。この半年で、うちのヘルパーさん、五人替わってるの」
「ええっ。てことは一ヶ月にひとり。たった一ヶ月で討ち死に!」
「そうじゃありませんよ。入浴含めた週二回のケアそれぞれ、別ヘルパーが訪問してましたからね。でもまあ、それにしても二ヶ月もたないというサンザンなケア」
「またなんで」
 涼子さんは、息子に渡したオレンジジュースを自分で一口ゴクリと飲み、
「事故が多いの」
「?」
「それぞれのヘルパーさん、このケアのおかげで怪我したり、アクシデントにあったりしてねえ」
 タイジは炒飯をすくう手をとめて、涼子さんの顔を凝視しました。涼子さんはまたオレンジジュースをぐいっとあおるように飲んで、
「最初のヘルパーは、自転車で転倒骨折。二人目は火傷。このひとは調理の最中の事故だったみたい。三人目は棚から本が…かなりたくさんの蔵書が突然〈降って来た〉ので」
「降って来たァ?」
「そう、雨アラレと降って来たそうよ」
「で、打撲?」
「心の打ち身捻挫。こわくてあの家には行きたくないって」
「ポルターガイストじゃん」
「やめてよ、タイちゃん」
「母さんの話を要約しただけだよ。で、次のヘルパーさんは?」
「子供さんの急病」
「そりゃよかった。いや、よくはないけど、わかりやすいね」
「それも……まあ、なんていうか、いろいろあって、わかりにくいみたい」
「いっそ探偵社に頼んだら?」
 と冗談めかして言ったタイジは、反射的にシーラを思い浮かべていました。涼子さんはまじめに怖い顔をして、
「バカ言わないでよ。娘さんは何も知らないんですからね。娘さんには何にも異変はないんだから。事故はヘルパーだけ」
「偶然が重なった?」
「五人目は長続きしたのよ。このひと男性で、三ヶ月くらい臨時で入ってくれていたんだけれど、十月いっぱいでやめるの。別な企業に正社員再就職決まって」
「ああそうか。男性で、うちみたいな福祉経営だと、ちょっとキツイよね」
「おまえ、ヒトゴトみたいに…。自分の将来も考えなさいよ」
「あ、ヤベー。とにかく話をもとに戻そう。男性ヘルパーは長持ちしたの?」
「そう、無事故、無欠勤。だからこのひとは、他の女性ヘルパーがころころ代わるんで不思議がってたわ」
「セクハラかって?」
「疑われるようなひとばかりじゃないから。ここのケアは肉体的には楽なほうだから、相当な年配さんも担当していたのよ」
「母さんぐらいの?」
 涼子さんは、さっきよりもっと真剣に怖い顔をして、じろっとタイジを睨みました。
「今はね、オンナの花盛りは五十、六十からなんです」
「すいません、母上」
 タイジは両手をテーブルの上にそろえ、三つ指ついて見せました。
「訪問介護に、セクハラの危険はつきものですからね。でもそんなんじゃないのよ。利用者さんは、さっきも言ったとおり、穏和で…娘さんも上品なインテリでねえ……仕事は簡単なのよ。お掃除と、入浴にしても、見守り中心だから、ヘルパー負担は少ないの」
「なのに、原因不明の連発事故」
「そんな経緯は、依頼時にはっきり言うわけにはいかないんだけれど、なんとなくみんなに伝わっちゃって。男性なら大丈夫らしいとはいえ、それこそうちには人材がいない」
「百戦錬磨のタフガイ息子に白羽の矢」
「とりあえずでいいから。お試しでいいから」 
 と涼子さんは、オレンジジュースをいつの間にか全部自分で飲んでしまい、息子に向かって両手を合わせました。

 涼子さんに拝み倒され、タイジは十月の最終月曜日に、その利用者さんの御宅を、それまで無事故無欠勤で入っていた男性職員といっしょに同行訪問することにしました。
新しい訪問介護先へ入る前に一度は必ず、先輩ヘルパー、またはその地域担当コーディネーター役のヘルパーに伴われ、利用者さんとの顔合わせを兼ねて、仕事の手順などを教えてもらうきまりです。
 涼子さんのケア依頼には都合よく、それまでタイジが勤めていた月曜の夕方からのケアは、九月に入ってまもなく利用者さんの容態が悪化して入院され、お休みになっていました。偶然ながらこちらの利用者さんも男性で、タイジをとても可愛がってくださった写真家の先生でした。
 四時三十分、約束の時刻きっかりに、先輩さんもチャリでやってきました。
「鈴木です。お待たせしました。君も自転車? 電動だね、よかった。このお宅、結構急な坂道の上にあるんで、普通の自転車だとキツイです」
「城址公園の近くだって母から聞いています」
「そう、住むにはいいけど、買い物とかちょっと不便。峰元さんの息子さんでしょ。顔も体格もお母さん似ですねえ」
 ヘルパーの鈴木さんは三十ちょっと前くらいで、いかにも福祉職を選びそうな、すこし小柄で優しい顔つきの青年でした。
「よく言われます。母のコピーって」
 日中はまだ暑さの残る陽射しも夕暮れ過ぎると急激に冷えて、いくつもの街角をまがり、傾斜のゆるい坂を登っては降りるたび、風景は集合住宅の多い市街地から、雑木林に日没の残照が秋色を深める郊外へと移り変わってゆきました。
 最後の急な登り坂の中途で横道に逸れ、コンクリートの車寄せに、庭木の落ち葉が早くも乱れたその家は、屋根と壁とがしっかりと大きく、堅実な雰囲気の昭和建築でした。
「郵便受けの裏側に鍵が入っています」
 と鈴木さんは塀の表側から手を伸ばし、隠してある鍵を取り出しました。
「ガムテープで横にかるく貼り付けてあります。娘さん、仕事でお留守でしょ。こういうのは無用心だし、ソゴウさんは出かけたいときには、さっさと出かけちゃうから、あんまり意味ないんだけれど、いちおう」
「ソゴウさん?」
 タイジはケア依頼書に書いてあった名前を思い浮かべ、また表札の姓名を確かめて怪訝な顔をしました。
「ハイ、曽郷さん。峰元さんは君に説明してませんでしたか? こちらの本名は宮本さんですが、御本人が覚えていらっしゃる名前は曽郷斗です。現代詩人のソゴウ、トウって。知ってましたか?」
「いえ」
「ソゴウさん、本名はすっかり、でもないけど、だいたい忘れてしまっているんです。で、ペンネームを自分の名前と思い込んでいて。でもそれも間違いじゃないですよね」
「それはそのとおりです…」
 話しながら玄関扉を開けて入り、それまでとはうってかわった大声で、
「こんばんは、〈豆の木〉の鈴木です」
 上がりかまちの高く、タタキのひろい古風な玄関はしんと薄暗く、誰の返事もありません。勝手知ったる鈴木さんは照明を点けると、手早くジャケットを脱ぎ、荷物を脇にまとめて、身支度を済ませました。
 玄関をあがってすぐ脇に手洗い、浴室、長い廊下の突き当りに台所とリビングダイニング。
「ソゴウさんは、だいたいいつも自分のお部屋にいます。今夜はどうかな」
 玄関の内鍵をきちんと閉めて、鈴木さんは柔和な声で言いました。突き当たりのまっくらな食堂を見て、そちらへはゆかず、ひとつ手前の廊下中ほどのドアをノックしました。
「ソゴウさん、鈴木です。こんばんは」
 返事を待たずに鈴木さんはドアを開け、タイジを引き合わせました。
 居室は八畳ほどの洋間で、ソゴウさんは、壁に向かって据えられたどっしりした黒い机に向かい、照明にスタンドライトをひとつ点したまま、声をかけても、すぐには身動きのないぼんやりした姿で座っていました。しばらくして、うつむき加減の頭が、ゆるり、と持ち上がり、かるく左右に揺れると、回転式の椅子が、キイと小さく鳴いて動き、からだごとこちらへ向きました。
「ソゴウさん、こちらが十一月からぼくの代わりにソゴウさんのケアをさせていただく峰元です。ソゴウさんに紹介したいので,灯りをつけていいですか?」
「どうぞ。すっかり暗くなったね」
「ハイ。秋の陽はつるべ落としって本当ですね。原稿ははかどっていらっしゃいますか」
「あと少しっていうところで、言葉がまとまらないんだ」
 鈴木さんはちらりとタイジを見て、やんわりと、注意を促しました。 
「はじめまして、ソゴウ先生。峰元太地です。いろいろ教えてください」
「教えることなどないよ。君はぼくの介護ヘルパーでしょ。おや、若いねえ。鈴木君より若いじゃないか。それじゃあぼくのほうが、君からいろいろ新しい現代の風を吹き込んでもらわなくちゃ」
 ソゴウさんは猫背の腰をすこし伸ばし、タイジの顔と体に、視点の定まらないまなざしを注ぎました。七三分けの頭髪は半白で、襟足で短くカットされ、顔に無精ひげも見えません。袖を折ってまくりあげたグレイのシャツ、古びて毛玉の目立つ茶色と白のありふれたウールのベスト、カーキ色のズボンの折り目もきちんとしていますが、この時刻ではもう足元の冷える季節というのに、スリッパをはかず、素足のままでした。うつろで、宙に浮いたような表情を除けば、端正な顔立ちのソゴウさんには病みやつれた苦しさも見えません。鈴木さんは歯切れよく、
「お食事はどうなさいますか? お風呂のあとでよろしいですか?」
「風呂のあとがいいよ。きく子は帰ってこないねえ」
「もうじき帰られます。今準備しますから、ここでお待ちください」
 鈴木さんはてきぱきと動いて浴室へゆき、床暖房のスイッチを入れ、湯船にお湯を落とし始めました。
「きく子さんは、娘さん?」
 鈴木さんは首を振りました。
「違うよ。亡くなった奥さんらしいですけど」
(らしい?)
 微妙な困惑を浮かべた鈴木さんの様子には、利用者さんのプライヴァシーに触れたくない、というためらいがはっきり見えました。
「曖昧にしとくと、後でミネモト君困るかなあ……。ソゴウさんね、ときどき違う女のひとの名前呼びますよ。だから驚かないで」
 鈴木さんはお風呂の準備のあと台所へ回り、冷蔵庫の食材を確かめる手を休めて、いかにも意味シンなひそひそ声になりました。
「はあ」
「きく子さんは、次には、別名の誰かさんになるし、その都度いろいろ」
「……いろいろ、ですか」
「娘さんの名前も混じるし、奥さんも混じります。実際にたくさんの女性と関係があったのか、わからないけれど、ソゴウさんの待っている女性は、ひとりじゃないみたい」
「昔の…その女性遍歴とか?」
「さあねえ。教師をされてたようですね。郵便受けに、教え子から、よく手紙や葉書届いてます。いい先生じゃなかったかとぼくは思います。現実はどうか知らないけれど、たぶん詩の世界で、いろんな女性像がおありだったんじゃないですか」
「作話ってことも?」
「認知症にはありがちですから、そうかもしれませんよ」
 タイジはジンさんを連想しました。
(六十四、五なら、同世代だよね。彼よりソゴウさんはずっと品がいい…)
 リリン、とドアチャイムが鳴った気がして、タイジは鈴木さんに台所を任せ、玄関へ行きました。
(あれ、灯りが消えている?)
 たしか鈴木さんは廊下も玄関も電気を点けっぱなしにしたはずなんだけど、とタイジは首をかしげながら玄関に出ると、鈴木さんが内鍵をかけたはずの扉は、三分ほどひらいて、外からのわずかな空気の出入りにつれて、木製の厚い扉が、ゆらゆらと力のない感じで揺れていました。
(誰もいない?)
 タイジはソゴウさんの居室に戻り、そっと覗くと、ソゴウさんは、今度は横向きに机に肘をついて顔を傾け、居眠りをしているように見えました。ここも先ほど点けたはずの天井の蛍光灯は消え、机のスタンドライトの白熱電球だけが、訪問時のままにぼんやりとオレンジ色の輪を滲ませています。周囲の夜闇が深くなったせいで、古い電灯の光は、さっきよりも暖かく豊かに見えました。
ソゴウさんは瞼を閉ざし、タイジが耳を澄ますと、熟睡のかすかな鼾が規則正しく聞こえます。……眠り込んでいる彼の膝は、ふんわりとした厚手の膝掛け毛布ですっぽりと覆われていました。

 木曜日は午後三時から、ソゴウさんのケアに入ることになっています。それまでは水曜日と木曜日の午前午後は、終日デイサービスで働いていたのですが、涼子さんのたっての頼みで、年内いっぱいは、木曜日のデイ勤務を午前中だけにしてもらい、ソゴウさんのケアに入ることにしたのです。
「三時から二時間。一時間半は介護保険、残りの三十分はCSSで記録して」
「長いね。デイサービスの代りに勤めるから、そのくらいまとまったケア時間のほうが、ぼくには都合いいけど」
「この日はお買い物が入るの。娘さんが食材など必要な品のメモ書きを残してくれるから、それを見ながら、駅前のスーパーで買ってね。往復ちょっと時間がかかるんで、介護保険だけだけだと入浴時間が足りないの」
 CSS、コミュニティ・サポート・サービスというのは、タイジや涼子さんの所属する団体の独自サービスで、介護保険で対応しきれない家事全般をひきうけています。CSSの実費は全額利用者負担になるとはいえ、一般の〈便利屋〉だと相当な高額になるはずの生活雑事を、介護保険の利用料とあまり差のない福祉事業として提供していました。
 十一月最初の訪問ケアで、空は低く曇り、たった数日前の同行訪問のときとはがらりと様相を変えて冬の気配を含み、自転車を漕ぐタイジの頬や手に当る風もはっきりと冷たく感じられました。ソゴウさんのお宅に着くと、すぐ裏手にひろがる城址公園一帯の雑木林をつき抜ける風の音が、まだ夕暮れには早い時刻というのに、なんとも言えず寂しく乾いた響きで聞こえてきました。
「もう北風だなあ、この音は」、
 おお寒、と自転車から降りて、手袋なしでかじかんだ指を何回か握ったり開いたりしてから、ブロック塀越しに、爪先立ちで郵便受けの裏側に手を伸ばしたタイジは、ひょいとソゴウさんの家の庭を見ておどろきました。
「ソゴウさん、でしょ? えっ」
 タイジは、それを自分でも奇妙な声だと感じました。手さぐりに郵便受けから取り出すことになっている鍵は二本。一本は門扉、もう一本は玄関扉のもので、腰高ほどの鉄柵は、別に鍵なしでもタイジや鈴木さんなら、らくらくと越えられるものでした。
 ソゴウさんが自室を脱け出し、薄着のまま庭先にぼんやり立っているのを見たタイジは、とっさに鍵探りをあとまわしにして、てっとりばやく柵を跨ぎ越えて、ソゴウさんに走り寄りました。
「どうなさったんですか? 風邪ひいてしまいますよ」
 タイジは相手を驚かさないように、そっと声をかけました。ソゴウさんはその世代にしては上背のある方で、自分の腕をとったタイジを、少し見下ろし加減の無表情に眺め、
「君はどこの編集者?」
「……先生、とにかく中へ入りましょう」
「締め切りが近いんだよ。ぼくはここで担当編集者と待ち合わせしているんだが、仲間がおかしくなってしまってね」
「仲間、ですか?」
「そう、見てくれ、あそこだ」
 ソゴウさんは節高な長い人差し指を伸ばして、庭の真ん中をぼうっと差しました。
 そちらには庭石をいくつか配した芝生の空間があるばかりで、誰の姿もありません。タイジはこうした認知症の幻視にも慣れていましたから、あわてることもなく、どうかしてソゴウさんを室内へ戻そうとまず考え、またもう一方では、ずいぶん爪がのびている、とソゴウさんの手を眺めて思いました。指先から優に一センチは白い部分が伸びて、縦筋が浮き、ところどころに罅が入っています。
(鈴木さん、入浴担当なのに、気が回らなかったのかなあ。鈴木さん以外の女性ヘルパーにしたって、すぐやめちゃうから、こういうところまで目が届かなかったんだな)
「先生、爪を切りましょうね」
「爪なんかどうだっていいよ。それより見てくれ、あの百日紅の下で、ぼくが燃えているから」
「え?」
「ソゴウトウが燃えてるだろう」
 タイジはもう一度庭の中央に目を向け、呼吸を呑みました。さっきは大小の石と枯れ初めた雑草交じりの芝生だけだったのに、今度はその真ん中に、象牙いろの樹皮をして、複雑に曲がりくねった裸木が立っていて、その横に二人の人物が向かい合っていました。
「なんだ、アレ」
 タイジは瞬きに力をこめて凝視しました。
こじんまりとした庭の真ん中、裸木の下に立っているふたりの人物は、最初全身に黒褐色の毛皮をまとっている、と見えたくらい、どちらの顔も、胸も腹も、濃い体毛で覆われ、下半身ははっきり獣の肢をしていました。
(山羊じゃないか)
 胸と腹だけは、かろうじて体毛のない皮膚のいろをした彼らは、黙って向かい合わせにたたずみ、そのうちのひとりがタイジの視線に気がつき、こちらへ顔を向けました。頬ヒゲとつながる顎ヒゲが西洋人のように濃く、眉と髪もこめかみで太くつながり、それでいて秀でた広い額に隆々と高い鼻、上瞼のへこんだ真っ黒な目でタイジを見つめました。
驚きのあまり、タイジは声をあげることもできず、ただ唖然と彼らを眺めるばかりでした。すぐにタイジに気付き、近づいてきたひとりの足先は蹄でした。どう見たって人間ではない異様なモノに違いないのですが、タイジはなぜか少しも怖さを感じず、
「あなた、誰なんですか」 
 と、すらすら尋ねました。
「俺か? 俺はソゴウだ」
 山羊男は、ぶっきらぼうに答えました。かがみこんでタイジの顔を覗いてくる彼の視線は、なるほどソゴウさんの眼とおんなじに、うつろに大きく、光の通らないレンズみたいに空虚でした。
「ソゴウさんって」
「そうだ、ソゴウだ。あれを見ろ」
 山羊男はソゴウさんと同じ仕草で庭の中心を指差しました。
 すると、葉の落ちた百日紅の下で、彼とそっくり同じ半人半獣の人物がいて、その毛皮に火がつき、めらめらと燃え始めていました。
 他でもない、たった今、タイジに話しかけてきた山羊男は瞬時に、その百日紅の木の下に戻っていて、もとどおりもう一人と向かい合い、彼らの背中と腰と頭髪からオレンジ色の炎が立ち昇り、めらめらと燃えているのでした。山羊男たちは、炎に焼かれて苦悶するでもなく、ただ立ちすくみ、燃えるがままに任せています。絶叫も聞こえず、焼かれる肉体の臭気もありません。
炎は、まるでたてがみのように鮮やかで、彼らの首から下を飾っているようにさえ見えるのです。見ているタイジのほうが、次第に胸苦しい不安に圧迫されて来るのでした。
「……円です」
 あのぅ、お支払いを、と催促されてタイジは我にかえりました。
「スミマセン、ボヤッとしてて」
 タイジはあたふたとGジャンのポケットから財布を出しました。
(え、この財布、誰の?)
 まったく見覚えのない黒い上等な二つ折りの女持ちの財布。ぱちんと小銭入れの蓋を開けると、隅を合わせてきっちり折りたたんだメモがあり、ともかくレジの支払いを済ませてから、買い物籠をカウンター脇に寄せ、メモを開くと、きちんとした字で、買い物リストがしたためてあります。混乱を抑えてレジ袋にひとつひとつの品物を入れながら、メモと照らし合わせれば、間違いは一品もなく、今の今まで、指図どおりにタイジは買い物代行を務めている最中なのでした。
(だって…俺、ソゴウ先生の家の中にいつ入ったんだっけ? 燃えていた山羊男とか、百日紅とか…ウソダロ。記憶にない)
 それに……このスーパーにいつ来たんでしょう? 駅前商店街の一角を占めるチェーンストアは、晩の食材を買い求める主婦たちで少し混雑し始めていました。
 その場に立ちすくんでタイジはぐらぐらしました。失見当、失行、失認ナドナド、失という不吉な文字が、瞬きのたびに眼球を飛び交い、喉がひりつきます。
 遠慮がちな誰かの気配に後ろを見ると、店内用の買い物ワゴンを押す子供連れの若い主婦が、タイジの移動を待っていました。
「スミマセン」
 タイジは急いでレジ袋をつかみ、外に飛び出しました。スーパーの前は、ちょっとした駐輪場になっていて、そこにタイジの自転車もありました。
(間違いなく駅前だ。ってことは俺はチャリでちゃんとここに来た。だけど覚えがない。たぶん、ソゴウ先生の自宅からここまで、いったいどうやって?)
 背筋がぞっと寒くなり、もういちどさっきのメモをひらくと、買い物リストと合わせて、簡単な線描きの地図も記されていました。
 とにかく帰ろう、とタイジは財布をしまい、メモだけ手に握りしめて自転車にまたがり、
必死で注意深く自転車を漕ぎました。
(俺の脳みそどうかしちゃったんだろうか)
 不安がこみあげます。商店街からソゴウ先生の自宅までは、まったく見覚えのない道筋な上に、動揺したタイジは、途中何度もチャリを停めて、前後左右を確認しなければなりませんでした。
 どうにかこうにか、先生宅門前まで戻れたときは、安堵と驚愕がいっしょくたにどっと押し寄せ、十一月というのに、タイジの全身は汗まみれでした。
 ……ヘルパーのナントカさん、自転車の転倒事故でこのケアをやめたって……。
 すらすらと聞き流した涼子さんのワケアリ説明が、ずっしり重く蘇った瞬間でした。
 門扉は開いて、玄関だけきちんと鍵がかかっていました。家に入る前に、おずおずと庭を眺めやると、芝生と庭石を組み合わせた簡素なたたずまいに、花の季節を過ぎ、すこし黄ばんだ葉だけを枝に残した、姿のよい百日紅が一本丈高く立っているのは、記憶に残るそのまんま。もちろん山羊男なんてどこにもいません。
「おつかれさまです」
 玄関を入ったとたん、思いがけない明るい声の出迎えに、タイジは逆にぎょっとして、文字通り飛びあがりました。
「え、えっ」
 ぱたぱた、とスリッパの音も軽く、廊下に灯りがつき、すぐに赤い服を着た若い女性が現れました。
「ありがとうございます。いろいろ頼んで重かったでしょう? お店、すぐにわかりましたか?」
 はきはきと矢継ぎ早に質問され、そうでなくても錯乱を我慢していたタイジは、さらに返答に詰まりました。
(だれ、このひと? 顔見知りじゃない、ヘルパー?)
「あの、あなたは?」
「あらヤダ。わたし宮本です」
「ミヤモト…」
 それがソゴウさんの本名だったと思い出すのに、タイジは数秒かかり、眼の前の二十五、六に見える女性が、ソゴウ先生のキーパーソンで、現在同居している娘さんだということに思い当たるまで、一分くらいかかってしまったかもしれません。ですが、タイジがボーっとしているその一分のうちに、娘さんはさっさとタイジの手から買い物袋を奪うように受け取ると、こくんと笑顔で挨拶し、台所へ早足で戻ってしまいました。
「父は今、寝室で横になっています。眠ってるかも。わたし、ごはんの支度しますから、お風呂お願いしますね」
 娘さんは台所のテーブルに、タイジの買ってきた食品を並べ、それを冷蔵庫にしまったり、また別なものを取り出したりし始めました。毛先をわざと無造作な不揃いにパーマをかけたソバージュヘア、ボディラインをぴったり見せる、目にあざやかなバーミリオンのハイネックセーター、それに真っ白な短めの膝上スカート。スカートは左右片身がわりで、半分は光沢のある皮革、もう一方はホワイトデニムを継ぎ合わせ、よく見ると風変わりですが、ぱっと見には、セーターの朱色と純白のスカートの組み合わせだけがひっそりと彩りの少ない家の中では、余計に目立ちました。
「あの、これ……」
 おずおずとタイジは娘さんにお財布を渡しかけ、途中ではっと気持ちと言葉遣いをひきしめて、
「お預かりしたお財布をお返しします。確かめてください。それから、娘さんは、いつお帰りになったんですか?」
「娘さん……」  
 ソゴウ先生のお嬢さんは、自分より年下のタイジが使う、ちょっと独特の言い回しに、くすっと笑いました。笑うと両頬に笑窪が浮いて、ソゴウ先生によく似たクールな細面が、急に人なつこく変わりました。
「私、苑です。ミヤモトソノ。父がお世話になります。新しいヘルパーさんですね」
「ミネモトタイジと申します。よろしくお願いします」
「はい、こちらこそ。ミネモト君、とにかくお風呂の準備をお願い。私はさっき戻ったばっかりです。このテーブルにお財布とメモ書き残して置いたでしょ? 簡単な地図だから、新しいヘルパーさんわかるかしらって気になって。でもあなたみたいに若い子だとは思わなかったわ」
「はあ」
 苑さんは食器棚の縁にかけてあったネイビーブルーと白のELLのロゴ入りエプロンを結び、換気扇を回し始めました。
「このごろ父は、日中失禁するようになったんです。夜だけじゃなく。気になって、今日はたまたま仕事の都合がついたんで午後から有休もらって帰ってきたの。このまま状態が悪化するようなら、来年早々から、少しまとまって介護休暇も考え中です」
「はあ」
 タイジは、見た感じ、タイジとたいして年の差のないような苑さんが、てきぱきとお姉さん口調で話すのを、面白く感じました
(でもたしか三十歳だったかな。ソゴウさんによく似てるなあ。雰囲気ハトさんぽい)
 と、年の頃も似たり寄ったりのハト医師を思い出したりしました。
「あたしが帰ったときもね、床にお漏らししちゃってて」
「えー」
「ミネモト君が買い物に行ったあとでしょ。
だから、とりあえずズボンとパンツ脱がせて、タオルを腰に巻いてベッドに寝かせました。いきなり汚れ物の始末で申し訳ないんですけど、本人をお風呂にいれたあと、簡単でいいから、部屋のお掃除していただけますか」
「わかりました。失禁は、そんなに頻繁ですか?」
「そうでもないですね、まだ。だいたいおトイレは自分でちゃんとできてるんですけど、どこかでスイッチが切れちゃうとわからなくなるみたい。まだ大きいほうは大丈夫ですけど、おしっこは時々。前立腺のほうもそのうちお医者さまに診てもらおうと思ってます」
 失禁という、肉親間でも言いにくい話題なのに、彼女はさばさばとして、調理を始める手順や姿勢、表情に大げさな動揺がなく、それはタイジの眼に快く映りました。苑さんと話しているうちに、タイジはさっきまでの自分の〈幻視〉と〈記憶喪失〉体験の驚愕がやわらいできました。
(じゃ、俺はやっぱりここに入って、食堂のテーブルから財布とメモをとって出かけたんだ。そのとき苑さんはまだいなかった。ソゴウさんは部屋にいたんだろうか。俺が庭で見たあれは……)
 と思い出して、タイジはぶるっとひとつ震え、頭の横をこぶしでごちんとなぐり、今はケアに専念、と心の中で唱えました。
 ソゴウさんのベッドルームは、彼の居室の隣りの四畳半で、ふたつの部屋は、アコーディオンカーテンで仕切ってありました。浴室の準備を手早く済ませてから入ったソゴウさんの書斎にはやはり、じんわりとした失禁の臭気が籠ってはいましたが、初日と同じく適度に片付いていて、カーテンを両脇にちゃんと引いた南向きのガラス窓が細めに開き、そこからひんやりとした風が吹き込んでいました。
「ミネモトです、先生、失礼します」
 アコーディオンカーテンを開く前に声をかけ、ふと床に目を落としたタイジは、また呼吸を抑えました。
(これ…)
 うっかりすると紙くずと見誤るかもしれない幾葉か、ワックスをかけた清潔な床に散っています。拾いあげる前から、タイジにはその葉っぱが、庭の百日紅だとわかっていました。

 翌日の金曜日は朝からひんやりとした雨模様でした。いつもどおり昼近くに銀座に着き、ギャラリー〈花絵〉の点検と掃除をざっとすませて、一時には開けます。
 今日は雨だから客足もイマイチかな、と思いながら、タイジがギャラリーで遅めの昼ごはんを食べ始めたところに、
「よう、おひさ」
 ノックも声かけもなしに、いきなりジンさんが入ってきました。ベージュの太畝タートルネックのセーターに、黒い光沢のある皮ジャケット。すりきれたジーンズを穿き、靴はやはり、お洒落な茶色と白のコンビです。ほさぼさ髪は相変わらず.ぶしょうヒゲの長さもいつもと同じで、ほんとにこのひとは念入りに、粗雑と洗練を自分の気に入るようにたくらんで演出しているのでした。
「あれ、ジンさん。そういえばしばらく顔を見なかった」
「冷たい台詞だねー。ミネちゃん。それって俺の存在を忘れていたってこと?」
「そうじゃないですけど、こっちもいろいろ気にかかることがあって」
「ふーん。何食ってんの? サンドイッチ?
母ちゃんの愛情弁当」
「違いますよ。自分で作ったんです」
「卵にハム?」
 タイジのサンドイッチボックスをじろじろと覗き込むジンさんはタイジの返事なんか聴いていないみたいです。
「ベーコンです」
「これ、さしいれ」
 ジンさんはスタバのコーヒーをタイジに渡しました。
「ありがとうございます。ジンさん、そういえばここ一月ほど、どこかに行ってたんですか? 九月いっぱい〈個室〉は休業でしたよね」
「こっちもいろいろ手のかかることがあったのよ」
 とジンさんは寒さに少し赤らんだ鼻をこすり、にやっと笑いました。なんだ、俺の返事ちゃんと聞いていたのか、とタイジは内心苦笑しましたが、ジンさんの、追求してもらいたそうなそぶり見え見えの「手のかかること」については、厄介なので尋ねませんでした。
 で、さりげなく
「十一月はどんな展示するんですか?」
 とかわすとジンさんはジャケットのポケットからピカピカ光るDMの束を取り出し、一枚をタイジに渡しました。
「今やってるのはこれ。若手二人展。なかなかいいよ。土、日ヒマ? この子たちのライブやるんだけど見に来てくれない?」
「美人風?」
「えへへ、シャンプーって読むんだって」
 ジンさんはうれしそうに相好を崩しました。
 DMは二枚の画像の立体コラージュでした。ブルーグレイの地に作品写真と、作家ふたりの画像とがすこしずれて被さり、手加減でゴスロリ衣装をつけた少女ふたりの手足が動いて見えます。リボンとフリルいっぱいの帽子、白い丸いエプロン、クリノリンが入っていそうな膝上までの真っ赤なスカート。服装のにぎやかさのせいで、肝心の作品や、作家たち本人の顔の印象が薄れてしまいそうな感じです。作品は木やガラス、空き缶や段ボールなどを組み合わせた割合地味めな現代アートのようでした。
 ボーカル/綸子(リンス)
 オカリナ/紗WA(シャワー)
「ずいぶん凝ったDM作りましたね。この子たちが作品展示してパフォーマンス?」
「そう。センシティブでいいよ」 
「とかなんとか…かわいいんでしょ」
「うーん。おとなしい感じの子、ふたりとも。見た目とはマギャク、そのギャップもミリョクなんだよね」
 と言いつつ、ジンさんは手にしたDMをヒラヒラと振って、美少女ユニットシャンプーの手足を動かして見せました。
「ミネちゃん、相変わらず?」
「ナントカ」
「介護とギャラリー番で、これから先も?」
「のつもり」
「自分の制作は?」
「めずらしく突っ込みますね。考えているけれど、模索中です」
「てことは、クリエイティブなアクションなしかい」
 タイジは返事をせず、サンドイッチを食べるのもやめて、ジンさんの顔を見ました。ジンさんはちょっとひるんだような口調で、
「もったいないって思ってさ。だって君まだ若いじゃん。まじめに渋い番人やってるより、今のうちにやりたいことあるんじゃない?」
「ありますよ、モチロン」
 窓ガラスをポツポツと音をたてて雨つぶが叩きはじめました。朝から底冷えする霧雨だったのが、昼過ぎて本格的な雨脚に変わったようです。
照明を抑えたギャラリー〈花絵〉の内部はいっそう仄暗く、タイジは陰気になりがちな雰囲気を避けるために、手元のランプをぽっと点けました。白熱電球たったひとつの光りは、存外明るく暖かくあたりを照らし、向かい合わせに座ったジンさんのくすんだ顔も、急に色よく見えます。
「今、俺が自分のやりたいこと驀進したら、親のスネかじりになるでしょ。それイヤなんです」
「うーん」
「ジンさんと俺って、結構長いつきあいになりますけど、こういう話、したことなかったですよね。ていうか、アートに携わってる人間と、マジで生活感なハナシしたことない」
「生活感な?」
「そう。言いにくいもんね。みんなほとんど持ち出しで制作して、自分だけの作家活動で暮らしている人間なんて、ほんのわずかです。俺、偶然にせよ福祉のシゴト始めてから、〈自立〉ってことをすごく考えるようになった。あたまでっかちになりたくないって」
「ほう」
 ジンさんはふぞろいなヒゲのだいぶ伸びた顎を撫でました。
「今ね、考えているのはとりあえず介護福祉士をとること。一生介護やるかどうか、それはわかんないけれど、どんな表現や創作やるにしても、社会に役立つ……ていうか、ひとによろこばれるもの作りたいし、そういう活動したい。アートにしても。自分の創作意欲から独自な世界を展開して、周囲をひきつけるってのはもちろんすごいし、イイナーって思いますけど、一方通行じゃないアクションをしたい」
「ギブアンドテイク?」
「それってシビア。売買じゃないですけど、アートって道具じゃないでしょ? 道具的な側面もあるけど。生活の本体からは、もしかしたら一番遠いところにある。アートがなくてもこの現実はちゃんと動いていく。でもアートがあったほうが現実はたのしい。そんなたのしさを、発信したい。でも、そうしたいんなら、自分がまずちゃんと喰えるようになんないと、ローテンションの作品やアクションになっちゃいそう」
「おいおい、ミネちゃん、君すごいね。爪の垢もらいたい(たぶん飲まないけど)。でもさ、そういうこと言ったら、すげえまわりの反発食らうぜ。アーティストって、破滅的に周囲を巻き込むタイプ多いからね。俺んとこの常連も、すごいコンセプト持って、活動しているヤツたくさんいるけど、そのバックはお互い不問にしてる。痛いからね」
「俺だって痛いスよ。親に頼ってる部分、ずいぶんありますし、ほんとに全部自力で回すなんて出来るんだろうかって思う。今のところ、バイトとこのギャラリー経営で、それこそトントン」
「トントンなら結構だ。煙草吸っていい?」
「だめです。壁のチップが汚れるから。……
福祉活動とアートの融合って、できるかな、なんて考えてるんです。有志ボランティアの慰問とかだけじゃなく。でも、まだうまく考えがまとまらない。自己満足じゃなく、認知症とか、障害持ってるひととかも、いっしょに参加してカタルシスできるアート」
「壮大なビジョンだ」
「そうスか?」
「安心したよ」
「なんで」
「俺自身ちゃらんぽらんだからだろ。自分と似たような人間好きだけどさ、酒飲んだり遊んだりしてても、やっぱ不安になる。ミネちゃん、プロデューサー向きだ」
「決めないでよ。なんだかんだ言っても親父オフクロにノーワークノーペイを厳命されたからって、それが始まりだもん」
「実行すりゃいいじゃん」
「軽く言われてもね」
「だいじなことはかるく言うんだ」
「はあ」
 タイジは食べ残したサンドイッチを、ぱくりと口に押し込むと、コーヒーでいっきに喉に流し込みました。
「シーラさん、ここに来る?」
「いえ」
 飲み込みかけた卵サンドのかたまりが、気道にまるごとひっかかりそうでした。
「夏以来、ときどきメールでやりとりするくらいです」
「その動揺ぶりだとホントだね。彼女実家に帰っていたらしい」
「実家って?」
「母親のほう」
「シーラさんのお母さんて」
「やっぱ、日本人じゃなかった。あー俺っておしゃべりだなー。ここらで口チャック」
 ジンさんは上目づかいにタイジの顔色を嬉しそうにうかがい、笑ったかたちの唇のまま、言葉を切りました。
(思わせぶりに。ったくもう)
 タイジは少なからずむっとしましたが、
「あ、そうですか」
 とそっけなく返事をしました。すかさずジンさんは、
「土曜ライブ、俺んとこ来てくれるみたいよ」
「えっ」
 タイジの声が正直に1オクターブは舞い上がりました。ジンさんはガタッと音をたてて椅子からたちあがり、そんじゃよろしく、と片手を振って出て行ってしまいました。
 タイジは小さく舌打ちし、
(うまいよなあ。きっとジンさんあれで土日の集客するんだぜ。シーラさん来るって言ったら、けっこう押しかけるひと多いから…。
ホントかなあ。でも会いたいなあ。ソゴウさんのとこで経験した……してること、なにかパラレルな事態なんだろうか? それともただの幻覚なんだろうか。百日紅の落ち葉にしたって、開いた窓から吹き込んだものかも知れないんだ。それに介護のシゴトは、何よりもまず守秘義務があるんだし……)
 とつおいつ迷いながら、でもタイジがこんなふうにシーラに相談したいと考えること自体、会いたさの小さな言い訳なのでした。
 結局その雨の金曜は予想通り客足は少なめでしたが、定刻までには、それでもぱらぱらと間隔を置いて、十人ほどが〈花絵〉を覗きました。一回十五分の作品上映に、スタバのコーヒー一杯くらいの料金をいただいています。映像はN(ノーマル)とR(リピート)二種類あり、R版は、N版に、刺激の濃い部分を再編集して加えていました。こちらは二十五分で、料金も少し高く設定しています。
〈花絵〉の収益は、おおむねそれだけです。ふつうの賃貸マンションだったら、展示も販売もしない、ミニシアターのようなギャラリーを、まっとうに経営できるはずはないのですが、ここはひいおばあさんが健在のころに、彼女が自分の終の住処と決めて購入してあったので、こうした自由な遊び空間が維持できるのでした。
 ジンさんのギャラリーだけでなく、ちょっとした広さのある空間ならたいてい、さまざまなパフォーマンスの場になるように、〈花絵〉もときどきアーティストと映像のコラボを企画していました。ジンさん同様、タイジものんびりと、採算度外視で演奏家や舞踏、モダンダンス、また芝居などの上演をOkしていましたが、壁のアクリルチップを壊さないという条件付きでした。
 ガーネットさんが〈久我ビル〉の地下劇場で定期的に踊るので、いつのまにかそんな縁から、豹河だけは、時折タイジのギャラリーで演奏してくれます。豹河はジンさんとは飲み打ち(買う? それはわかりません)仲間で親しいのですが、どういうわけか、〈個室〉で演奏しようとはしませんでした。
 昼過ぎに降りだした雨が、一日中びしょびしょと銀座を濡らした金曜のおしまいのお客は、ヒョウガでした。
「おはよう、元気?」
 顔の真正面にてのひらを垂直にたて、丈夫そうな白い歯並びを見せて笑う豹河は、タイジの記憶に残る顔よりさらに浅黒く陽焼けした感じで、黒いペーズリーのバンダナで頭を包むように巻き、すべすべした膝までの長い銀色のレザーコートを着ていましたが、その下は、地肌丸見えの、地引網をそのまま上半身に巻きつけたみたいなシャツ一枚、黒いジーンズを穿いていました。八月に信州でいっしょに過ごしてから、ヒョウガとも二ヶ月ぶりくらいの再会です。
「そんな格好で寒くない?」
「ぜんぜん」
「夏以来だね、どうしてた?」
 タイジは、昼間ジンさんが洩らしたシーラの動向をヒョウガから聞き出せるかもしれない、と水を向けました。
「ボランティア。チャリで東北回ってた」
「ほんと! どこに」
「主に福島。お寺の住職さんの手伝いして、放射能の泥を瓶にすくってたよ、九月いっぱい。それからガレキ拾い。ひどかった、現地は。ときどき人里離れた仮設住宅ムラでフルート吹いたり。十月の半ばにこっちに戻ってきたんだ。ちょっと昼メシ喰っていい?」
「いいよ。今昼?」
「朝メシかも」
 がさごそとヒョウガはレザーコートの大きなポケットから、缶コーヒーと細長いホットドッグの紙包みを取り出すと、がぶりと食いちぎりました。
「これから近所で真夜中ライブなんだ。その前に〈花絵〉見たくなって」
「いいよ。Nだろ」
「うん。インスパイアされるんだよなあ。ミネさんのおばあさんの映像。あの化け物のガキが迷ったのもわかる」
「そう? アリガト」
 八月の信州の出来事を想い浮かべると、タイジは頭がぼんやりしてしまうのでした。現実といえばほんとに自分の体験なのでしたし、また夢といえば夢なのでした。
「夢うつつって、言葉あったっけね、ヒョウちゃん」
「あ? ああ」
 ヒョウガは苦いものを噛むように、ほんの少し眉を寄せました。彼の眉毛は眉間で途切れずにつながっているので、縦皺を寄せると、そこに集まる翳がいっそう濃くなり、わずかな感情の揺らぎでも、鋭く、ときには怒ったように見えるのでした。
「ドミは戻ってきた、たしかに」
 ヒョウガは横を向きました。
「どこで見つかったんだっけ」
「自由が丘の路上で泣いてた」
「……」
「今は家族でマルセイユ」
「立ち直った?」
「あらかた忘れてる。いや、覚えてないってさ。何が起こったのか、自分がどうしていたのか、ほとんど記憶がない。迷宮から戻ったアリスだよ。彼女はピンピンして、またバレエに夢中」
「よかったじゃないの」
 フン、とヒョウガは面白くなさそうに、コーヒーを口に含みました。その様子から、タイジは、シーラが彼にあまり詳しい説明はしていないな、と察します。
(シーラさんも冷たいよなあ。俺がヒョウちゃんだったら、めちゃくちゃ腹立つ? いや悲しい? うーん……せいぜい…せつない、てとこかな。俺やヒョウちゃんがどんなに怒ったってシーラさんは平気だもんなあ)
「何ぶつぶつ言ってんの? お客帰っちまったよ」
「え? 客って、ヒョウちゃんしかいないじゃない」
「そこに座ってたじゃないか。女客。気が付かなかったのかよ」
「どこに」
「そこ、窓の傍の丸椅子」
 タイジはヒョウガの指差した方角を見つめました。室内には、映像を鑑賞するお客のために、古道具屋で仕入れた背もたれのない素朴な木の丸椅子が三つ、四つほど置いてあります。そのどれにも、タイジは誰かが座っていたなんて覚えはないのでした。
「どれ、どこ?」
 これだって、とヒョウガはたちあがり、ひとつを持ち上げ、丸い座面を傾けてタイジに見せました。
「ほら、濡れてるだろ。グレイのレインコートを来た、五十がらみのひと、俺が入ってきたときから、ここにいたのに、ミネさんわかんなかったの?」
「そうだよ」
 タイジの膝がぞっと震えました。濡れた座面には、一枚、べったりと木の葉が貼り付いていました。タイジはおっかなびっくりその葉を椅子からつまみあげ、何も知らないヒョウガは、タイジの様子に笑い出しました。
「何だよ、指ブルってる」
 指どころじゃないって、とタイジは内心つぶやきました。どうにか声を整え、
「俺、うっかりしてたかなー……。ヒョウちゃん、女のひと、どんな感じだった?」
「どんなって…。ふつうの奥さん。グレーのコートに、カシミアっぽいセーター着て、スカートはいて、松坂屋とか三越に、たくさんいそうな感じの、きちんとした…」
 ズラズラとそこまでヒョウガは言い、ふいに顔色を変えて口をつぐみ、タイジの眼をしばらくじいっと覗きました。
「ミネさん、ぜんぜん見えなかったんだ」

 恐怖という程ではないにせよ、得体の知れないモノの気味悪さを抱えてアパートに戻ったタイジでしたが、帰宅後焼きそばを作ったり、銭湯に駆け込んだりする日常の雑事に紛れて、その晩もぐっすり眠れました。
「親のスネかじりたくないなんて偉そうなこと言っちゃってるけど、食料品だってほとんど家から送ってもらってるんだもんな、俺」
 とタイジは小さいキッチンで焼きそば用のキャベツを刻みながら、昼間のジンさんとの会話を思い出したりしました。お米やパン、お肉や野菜そのほか、料理上手なお母さんは、一人暮らしの息子のために、宅急便で常備惣菜や、炊き込みご飯などまで冷凍して送ってくれるのでした。タイジはだいそれた啖呵を、いちおう目上と思っているジンさんに向かって切ってしまったような気がしました。
(そういえば、長いつきあいにしては、俺ジンさんの内側ほとんど知らないんだった。噂じゃいろいろ聞くけど、どれもアテにならないもんね。たしか結婚して娘さんいるとか、言ってたっけ…。ジンさんの年齢のひとの娘って言ったら、苑さんくらいだろう)
 ソゴウさんの娘さんの苑さんへの連想から、またギャラリーでの奇異な出来事に考えが戻り、ティッシュペーパーに包んで持ち帰った丸椅子の上にあった濡れ落ち葉一枚、焼きそばをすすりこみながら、もういちど眺めるのでした。
「百日紅、かなあ? でも銀座界隈の街路樹にだって似たような葉っぱはあるし、たしかに見えなかったってのはブキミだけど」
 ヒョウガは蒼ざめたタイジの顔色を眺めると、目を丸くしてにたっと笑い、
「なんてったって、ここ〈久我ビル〉だからねー。迷う女は数知れずってところ」
 それだけで余計な言葉を重ねず、注文どおりN版映像を見終わると、何事もなかったようにシゴトに出てゆきました。
 もしかしたら深刻なことだったにせよ、ヒョウガみたいに平気でどしんと踏み潰してくれると、ほんとに気が楽になる、とタイジはあらためて、ヒョウガは(くやしいけどカッコ)いいヤツだと思いました。正直タスカッタ。でも、自分には見えなかった女のことや、ソゴウ先生宅でのいくつかの経験を思い出すと、頭がもやもやとするのでした。
(何か関係あるのかな?)
 あるに決まってる、と心の奥で誰かがささやきました。
 翌日は、昨夜の雨をぬぐったような青空が朝からひろがりました。
銀座は昼前から混雑し、歩行者天国は人であふれ、銀座の隠れ名所、久我ビルを訪れる観光客もウィークデイとは桁が違い、その余波で〈花絵〉も盛況です。秋から冬にかけて、各ギャラリーそれぞれいい展示が多く、週末はそのほかに、パフォーマンスや演奏会の気配で〈久我ビル〉全体がうきうきとにぎやかでした。
 客の出入りをタイジは注意深くチェックしましたが、ヒョウガの言った簡単な形容だけでは、それらしい女性客を特定するなど不可能でした。〈花絵〉は、一部ですこし伝説化しはじめたタイジのユニークなひいおばあさんへの関心から女性客が多く、それもカルチャースクールで油彩を楽しんでいる、というおっとりしたアマチュアの中高年女性の割合が他のギャラリーよりも高いのでした。
 夕方近くになると、タイジはもう気もそぞろ、携帯を用もないのに取り出しては、そのたびにとっかえひっかえシーラの画像を眺めます。本音は今夜〈個室〉に来るのかどうか、確認のメールを打ちたいところなのですが、適当に口実を作って……という駆け引きなんか、彼にはできないのでした。シーラのことを考えると、幻視も記憶喪失も吹っ飛んでしまいます。もちろん幽霊かもしれない女性のことも。
(なんで俺、こんなどうってことないメールひとつ彼女に送れないんだろう。今夜ジンさんとこ来る? それだけでいいじゃん。シーラさんとも短くはないつきあい、だし)
 とタイジは決心してメールの文字を打ち始めました。
 
今夜、ジンさんとこで、シャンプーのパフォーマンスあるそうだけど、来る?

 でも結局、こんなふうにおしまいをまとめてしまうタイジなのでした。

 昨夜はドモ!(+絵文字) 

 自動的に指が選んでしまったこの送信先は言うまでもなく豹河。
 タイジはため息をつきました。
「あー、俺ってビョーキかも」
 メール送信からしばらくしてメールの着ウタが聞こえましたが、タイジはチェックする気にもなりませんでした。豹河は好きだし、いい友人と思ってはいますが、彼とシーラとを並べて眺めるとなると、ハナシは別でした。
 それからまたすぐ、こんどは電話の呼び出しが来ました。
「タイちゃん? できたら早めにこっち来てよ。客入れの前に、シャンプーの展示観てやって」
 あいさつなしに、ずけずけと用事から物言いが始まるのは、ジンさんでした。
「結構こっちもお客が切れないんです。あと二、三組さばいてから向かいますよ」
「へえ、今ギャラリーにいるの?」
「ハイ」
「そんじゃ、さっきシーラさんメール打ったの気がつかなかったのかい?」
 タイジは即座に通話を切り、シーラのメールに切り替えました。
 いきなり通話を切られ、〈個室〉で、ジンさんは半分以上笑い出し、半分弱は酸っぱい顔をしました。彼の前にはシーラと、それからメグがいました。シーラが尋ねました。
「どう? 彼」
「繁盛してるってさ。シーラさんがメール送ったときは上映中だったみたい」
「まだしばらく来ないの? それじゃメグ、まだ天気もいいし、ふたりでホコテンにアイスクリーム食べにいこうか」
「うん。残念だね」
「まあね」
 ギャラリーの急ごしらえの客席に腰掛けていたシーラは、ジンさんの左右不対称のにやにや笑いを目の端でちらりと見て、メグの手をひっぱって、立ち上がりました。
「待ってやれば」
 とジンさん。
「仕事の邪魔はしない」
「どうせすっとんで来る」
「そうはいかないでしょう」
「気の毒に」
「シャンプーのパフォーマンスで会えるし」
「ミネちゃんは、仕事よりシーラさんを優先させたいだろ」
「……」
 シーラさんが応えないので、メグはジンさんに、
「そういうこと、第三者がいる前で口にするの、よくないと思う」
 とまじめな顔をして、ませた口ぶりで言いました。ジンさんは大袈裟に目を剥き、
「第三者って、君のこと?」
「そうよ。だってジンさん、デリケートな問題でしょ?」
「デリケートはバリケード。崩さなくちゃ進まない一線もあるってサ」

 ホコテンの賑わいは引き潮ながらまだ続いていましたが、北風が吹きつける大通りは、夕暮れ迫ってもう日中ほど暖かくはなく、初冬のビル街の長く深い藍色の影にネオンの灯りが、くっきりと際立ち始めていました。白い毛糸の帽子を目深にかぶりなおしたメグの様子に、シーラは
「寒いね。アイスクリームやめて、温かいもの食べようか」
「うん。チョコパフェ」
 シーラは笑い出し、
「チョコパフェってあったかいの?」
「中で食べるんなら温かいよ」
「ナルホド」
 お茶の時間は過ぎているけれど、晩御飯にはまだ早く、中途半端な時刻でした。それでも、休日はどこもかしこも混んでいて、なかなかちょうどいい空席が見つからず、結局客足の回転の速いコーヒーショップに座りました。運よく禁煙席のテーブル席に向かい合って座ることが出来、隣の席のお客も、落ち着いた雰囲気の中年女性客で、こんなショップでもちゃんとブックカバーをかけた文庫本を眼の前にひらいて、じっくり読むというわけでもなくページをめくっていました。
 パフェはこのお店にないので、メグはモンブランにミルクティを注文し、シーラはホットココアにしました。
 シーラはホワイトとブルーの縦縞のタートルネックのニットワンピースに、ヒールの高くないロングブーツ。白地にブルーの縞模様は片身変わり近いくらいに幅が太く、チュニック仕立のワンピースは袖なしで、ニットの下にヒートテックの黒を着ています。その上にミッドナイトブルーのトレンチコートをひっかけていました。ワンピースが思い切って大胆なデザインなので、シーラは何にもアクセサリーをつけませんでした。
「シーラさん、いつもおしゃれだね」
「客席が華やかなほうが、ジンさんうれしいでしょう?」
「ジンさんのため?」
「一番は自分が楽しむため」
「だよね。いいな、あたしもシーラさんみたいになりたいな」
 メグはモンブランを食べながら、ごく普通の口調で言うのでした。夏の旅のあと、シーラはメグともほとんど会っていなかったのですが、ほんの数ヶ月の間に、メグはまたずいぶん大人びた、とシーラの眼には映りました。
「メグ、また髪が長くなった?」
「そう?」
「背丈も」 
「うん、背は伸びたって、パパも言う」
 こどもの背格好から、十一歳になりかけたメグは顔つきも姿も、そして仕草も、殻から脱け出るように変化しつつあります。肌理が見えないほどなめらかな皮膚と、ふわふわしたサーモンピンクのセーターの首からすこしのぞく襟足の血色、口紅を塗らなくっても自然なつやのある唇。まだぜんぜん揃えていない眉毛は産毛がかってちょっと額で乱れ気味
ですが、それさえメグの自然のままに清楚な目鼻立ちのきれいさを印象付けるのでした。
(ルイス・キャロルが少女たちの時間を停めたいって願ったわけがわかる)
 シーラはどこかで見たアリス・リデルの写真を思い出していました。
(大人になりかけの姿のまま、メグがずっときれいに可愛らしくいてくれたら……)
 と思いかけたシーラは、ふといつものシニカルにたちもどり、
(この子といっしょにいて、あたしはいつまで〈あたし〉でいられるか)
 と、すこし残酷な衝動を、ココアの甘苦さといっしょに舌の先でころがしたりもするのでした。
 メグはケーキを食べながら、何となく店内をぐるりと眺めました。夏の記憶、現実と夢のさかいめのない旅のあと、彼女はそれほどのショックも残さず、また普通の生活に戻れたのでした。シーラは、メグの日常生活を混乱させないために、異常事態がひととおり収拾をつけると、メグに〈心の声〉でアクセスするのをやめていました。まだ成長しきっていない彼女の精神形成をゆがめてはいけない、と考えたのです。だから、連絡しあうときはちゃんと、普通に電話やメールを使っていました。
(サイコヒーラーは妖怪やエスパーじゃないんだ。一般人の身体能力とは違った感受性と運動能力を、もういくつか自己の中に持っているけれど、そのユニークさのために社会から弾かれたり,逆にちやほやされたりしていいものじゃない。ナイショにしておくさ、わからなけりゃ他者にはできるだけ隠しておくのがいい)
 メグは基本的におおらかな性格なので、パパ同様、特に説得も説明もなしに、そぶりからわかるまま、シーラの考えを抵抗なく受け入れていました。
 というわけで、小学生のメグの日常生活に、変化はありません。ですが、身に備わり、いったん発現してしまった異能力は、肉体や精神の成長といっしょに、順調に伸びているのはたしかで、メグの眼は、夏以来、それまでには見えなかったいろいろなものが……それまでには漠然とした気配でしかなかったモノのかたちが、なにかの拍子には、鮮明に景色のなかに現れたり、視野を塗り替えたりするようになったのでした。
 今も、メグがふと視線を眼の前のシーラやケーキから逸らしてウィンドーに移すと、銀座の夕暮れの光景は、また見事に〈逆転〉しはじめていました。
 最初はいつでも、ちょっとした錯覚と思うのでした。立ちくらみか貧血に似て、眼に映る周囲の光景が数瞬揺れ、輪郭があいまいにぼやけ、それからいきなり黒白反転して、〈ウラ側が見え始める〉ときもあれば、じわじわと氷が溶け出すように、三次元のかたちが崩れてゆく場合もあります。今は後者に近く、ガラスの外の夕闇が、またたくまに視野いっぱいに流れこみ、喫茶店の明るさを抑えて紺青にかきくらがると、四角いウィンドーや、ビル群、きらきらと瞬くイルミネーションなどが、ぐにゃりとねじれて角と形を失い、立体は全て糸のように細く引き延ばされながら藍色の空間に呑まれて行きました。
 視界にわだかまる闇の深さは均一ではなく、いろんな絵の具をごちゃまぜに溶かしたパレットのようにむらむらと濁った色味を残し、不安で、不愉快ないくつもの色相がところどころで、とぐろを巻いている蛇の群れみたいに蠢いているのでした。
(また始まった。……これが何なのか、あたしにはよくわからない)
 メグは口の中に残るケーキの味をごくりと飲み込みました。こんな体験を繰り返すことに慣れてしまったので怖くはありませんでした。まして今は傍にシーラもいます。でも、彼女に同じものが見えているのかどうかわかりませんし、この幻視もいつものように、やがておさまるだろうと思いました。
 粘ついた闇のあちこちに、くっきりと人体のかたちだけが見えています。闇を切り抜いて嵌め込んだ凸レンズみたいに立体の名残を見せている誰それは、顔かたちも衣装もさだかではなくなり、明暗とりどりの青や緑、橙色、赤、黄色、または数色の混じりあいだったり、ほとんど漆黒だったり、または水っぽく希薄な白い影のみだったりするのでした。
 たまに、とてもきれいで爽やかな色彩を湛えた姿がよぎることもあります。透きとおるような紅色、紫、ピンク、きんいろ、銀色……彩りこそ違っていても、内部に光そのものを抱えているような人影たち。もっと稀に、ぞっとするほど怖ろしい陰鬱を垣間見ることもありました。それは、きらきら透きとおって揺れる人とは正反対に、黒ずみ、よどみ、見るからに狂おしげで、獰猛な彩りが、ひとつの影のなかで激しくしのぎを削りあっているのでした。幸いなことに、そうした恐ろしいモノ影は、メグの傍ににじりよっても、どこかまで来るとぱっと離れて、暗黒の奥深くへひょうひょうと飛び散ってゆくのが常でした。
 メグは脅えもせずに瞳をまじまじとひらいて、この闇のどこにシーラはいるか、と探しました。眼の前に差し向かいに座っていたはずのシーラの姿はありませんでした。遠近感を失くした泥闇の奥に、チカリと鋭い光りが流れたような気がしましたが、それがシーラなのかどうかはっきりしません。色と光りの混然と混じりあった人体は、三次元空間の仕草を……コーヒーを飲んだり、雑誌をひろげたりする動作をしながら、メグの感覚にはそれらが、たぶん物理的な距離とは全然異なる大きさで感じられるのでした。ひとつの影に、別な影が無遠慮に重なり、その向こうにまた誰かの影がよぎり……。
 あ、とメグは声を漏らしました。自分のすぐ脇で、文庫本をひろげていた中年の女性が、きちんと和布のカバーをかけた本から顔をあげて、自分に向かって、静かに微笑んだからでした。
彼女は輪郭内部に色彩だけ動いている影ではなく、日常の姿をしていました。柔らかそうな感触の、趣味のよいニットセーターにスラックス。控えめなトップスに少し華やぎを添えて粒の大きく長い二重のビーズネックレスはグリーンが基調。蔓の細い縁なし眼鏡もおしゃれで、化粧もきちんと身だしなみに合わせて調えていました。きれいにセットした髪のこめかみから額際にかけて、すこし白髪が目立ち始めた五十代半ば過ぎと見えます。衣装も顔立ちも地味で、どこにも険がなく、目元に笑い皺をゆったりと作って、
「会えてよかったわ」
「あなたは誰?」
「節」
「セツさん。どこかであなたと会ったことあるんでしょうか?」
「いいえ」
「なぜ、会えてよかったっって言うんですか?あたしのこと知ってるの?」
「ええ。だからこうして付いて来たの」
「付いてきたって……」
「あなたのお友達といっしょに」
「え?」
 節さんはすっとたちあがり、静かな笑顔のまま、メグのほうに手を伸ばすとメグの上腕をぎゅっとにぎり、見かけによらない強い力で自分のほうへ引き寄せました。メグの腕をつかんだ途端、節さんの姿はかき消え、墨汁をぶちまけたような闇がひろがり、それでいて引き寄せる力は失せずに、メグは前のめりに、黒い穴にころげこみそうになりました。
メグ、と揺さぶられ、メグははっと正気に返りました。両肩を掴んで揺さぶったのはシーラでした。
「どこに行ってたの?」
「……街や建物が消えて……オーラだけが見えるところ」
 それはパラレルじゃない、とシーラは思いました。メグの中で変化し、成長している感覚野の投影だろう。
(では、何があたしを弾いた?)
シーラの眼には、モンブランを食べていたメグの表情が、ふいに〈浮き上がり〉視線だけはその反対に一点に集中して凝固したかのようでした。それは数瞬続き、当然のようにシーラがメグの心に触れようとしたところ、何かに遮られ、ぎょっとしたのでした。
「それで、そこの女の人だけが」
 とメグは隣りの席を見やると、座っていた女性は、幻覚とそっくり同じ仕草で、和布で丁寧に覆った文庫本を置くと、自分を見つめるメグとシーラの切迫した視線に、不思議そうな眼を向けました。やはり穏やかで洗練された雰囲気の中年女性でしたが、メグに話しかけた節さんとは、服装も顔立ちも、また声音も全然別人でした。
「何か?」
「いいえ。ちょっと妹が貧血起こしたみたいなので」
 シーラにはめずらしく下手な嘘でした。

 ジンさんのギャラリー〈個室〉は七階建ての久我ビルの最上階にあり、タイジの管理する306号室〈花絵〉からは、ちょっと隔たっていました。
 シーラさんから、と聞いた途端、前後不覚になったタイジは仕事もそっちのけに(いえ、もう上映中だったので、メールを覗くくらいは別にかまわなかったのです)携帯をひらきました。
 シーラの送信は、簡潔なものでした。
 
 ミネモト君元気だった?、今夜ジンさんのギャラリーに来る? あたしはメグを連れてく。ひさしぶりに会えるといいね。今〈個室〉にもういるの。

 タイジはじりじりしながらN版の終了を待ち、それを終えると、いったん客入れを停めてしまいました。
「スミマセン、急用なもんで」
 と順番を待っていた次の希望客に平謝りに頭を下げて断り、ちゃんと鍵をかけてから、〈個室〉に駆けつけました。夏以来、タイジは〈花絵〉の戸締りと客の出入りに、それまでよりずっと気を使うようになっています。
 そんな次第ですから、彼が〈個室〉にたどり着いたときには、とっくにシーラはメグを連れていなくなっていて、ジンさんが廊下の受付に座って、にやにやしながら煙草をふかしていました。
「よう、遅かったな。メグといっしょにアイスクリーム食べに行っちゃったよ」
「どこ?」
「サーティワンかなんかじゃない」
「また…。ここらにサーティワンなんかないよ」
「ともかくどっかだ」
「しょうがないな。すぐには来られないですよ。お客がいるもん」
「男はつらいよ」
「性別関係ないっしょ」
「いえ、BGM、ただの。聞こえるなあ、君の周囲の虚空に鳴ってる」
 タイジはさすがにむかっとして、口をヘの字にまげ、
「俺、帰ろっかな」
「まあまあ、待てばカエルの日和ありだぜ。じきに戻るよ、あのふたり」
「ジンさんをたまに尊敬したくなります。よくもまあ、のべつまくなし、日常をダジャレで塗り絵できるなあって」
「いや、君だとテンションあがるのよ。普段はもっと渋い」
「そうは思えない」
 憮然としてタイジは鼻に皺を寄せました。シーラへの想いを露骨にからかわれ、正直不愉快です。夏以来、ジンさんとタイジはいっそう仲良くなったのは確かですが、その反面、ジンさんの突っ込みは、さらに無遠慮になりました。タイジはずいぶん穏やかな性格なのですが、シーラについて直接つつかれると、さすがにむかっ腹が立ちます。
 が、大人コドモを自認し、公認してもらいたいジンさんは、タイジの神経を逆撫でしたって、まあ、たいていは許してもらえるとわかっているせいか、相変わらずのんきなままでした。
「そりゃそうだ。だって君は君といっしょにいる以外の僕の姿を知らない」
「……」
 シーラが言いそうな台詞、とタイジは思いました。ジンさんは次の煙草にマッチで火を点けると、椅子に腰けけたまま、ギャラリーの半開きの扉の内部に向かって、首から上だけをぬっと伸ばすように、
「ちょっと、おもしろい子来たんだけれど、入れていい?」
 とお腹の底から大声をかけました。
「あ、誰かいるの?」
「シャンプーのふたりが来たの。シーラさんと入れ違いに。リハやってるかな」
 どうぞ、と即座に可愛らしい返事が聞こえ、ジンさんに眼で促されると、いったんひきかけたタイジは、女の子のほのかな声に誘われて、〈個室〉のドアをくぐりました。
 窓は全部ブラインドを下ろして外光を遮断し、すっかり室内を暗くしていましたが、足元に転がしの照明がふたつ、それに天井からギャラリー備え付けのライトがいくつか点いています。どちらも最小限に光源を抑えた薄暗い壁際にそって、ぐるりと大小いろんなオブジェが並んでいましたが、タイジの眼は、作品よりもやはり美人風…シャンプー…のふたりに注がれました。DMそのまんま、襟にも裾にも、これでもかとばかりにフリルいっぱいの真っ赤なゴスロリドレスをお揃いで着て、カツラか地毛か、金髪縦ロールを両頬の脇にピンクリボンで結んだベルばらロココヘアスタイル、ぱっちりと見開いた両目から今にも落ちるのではないか、とはらはらしそうな真っ黒ツケマとシャドーたっぷり上瞼には、青や金色のスパンコールがきらめき、人形みたいに濃淡のない白い肌に、赤い唇。なによりも、ギャラリーいっぱいに香水壜をまるごとぶちまけたのではないかと思うほど濃い匂いに、タイジは眉間をかるくこづかれたくらいのショックを受けました。
(すごいなー。俺、こういうの全然わかんないけど、きっと薔薇か百合なんだろうな。生の花とは違う香りだ。もうちょっと軽い匂いでもいいんじゃないかなー。あ、わかった。ジンさんの煙草の匂い消しだ…)
 二人の少女は、ギャラリーの一番奥に向かい合っていました。ひとりは立って、もうひとりは座っています。立っているほうは楽譜か何かを眺めていて、腰掛けた少女がオカリナを握っているところを見ると、こちらがシャワーなのでしょう。
タイジが入ってってゆくと、立ち姿の少女が彼に向かって体ごとふりかえり、その場で丁寧にお辞儀をしました。その仕草は、裾ひろがりの大きな衣装のせいか、壁に飾り付けられたお人形が見えない手で背中を押されたように、ちょっとぎこちなく見えました。彼女はすぐに上半身をあげ、さやさやと襞を重ねた衣擦れの音を響かせて近づいてくると、瞬きしながらしばらくタイジを見つめ、
「もしかして……峰元君」
「ええっ」
 いきなり苗字を呼ばれてタイジはびっくりし、あらためて両眼を見開き、ツケマとお化粧に埋もれた相手の顔を、気恥ずかしい気持ちを抑えて隅々まで点検しました。
「うそ、みっちゃんじゃない?」
「そう、倫子から綸子、でリンス。何年ぶりかなあ」
 シャンプーの二人組みのひとり、リンスはタイジの中学、高校時代の友人でした。特別仲が良かったわけではないけれど、タイジの母親の涼子さんと、倫子の母親とは、たしか今でも交流があるはずでした。
「音大行ったはずじゃない」
「そう。現在は自主的音楽活動」
「プロになったの?」
「だといいんだけどね、なりたいね」
 リンスは屈託なく笑い、タイジは彼女のすっかり様変わりした姿と顔に度肝を抜かれてしまいました。
「歌手になったの? めちゃくちゃピアノうまかったのに、みっちゃん。合唱コンクールのとき、いつも伴奏して」
「音大で専攻変えて声楽に走ったの。そこが運命の分かれ道」
「もったいない」
「そう? 今も充実してるわよ」
 タイジの覚えている倫子は、すごくマジメな音楽ひとすじの少女でした。学業成績もよく、みんなに優しくて美人だから、ずいぶんモテたはずなのですが、タイジとはちょっとフィーリングが違ったので、彼はそれほど彼女にひかれませんでした。
「なんか……高校時代とは雰囲気激変して、別人みたい」
「みんなそう言うわ。でも、今いちばん気持ちいいことしてるかも」
「なんだよ、ふたりとも顔見知り?」
 ジンさんがぬっと割り込んできました。
「幼馴染です」
 はきはきとリンスが喋ると、顔の両脇のピンクリボン縦ロールが、花束みたいにゆらゆら揺れました。
「へえ。奇遇だねえ。ミネちゃんも隅に置けないな。どこでゲットしたって?」
「ちょっ……突然デマかまさないでよジンさん。ゲットもなにも、高校時代のクラスメートですってば」
 タイジは焦って言い返しました。
「油断も隙もありゃしない。みっちゃん、このひとね、こうやって噂話を捏造して、ギャラリーの評判ひろげたがるから気をつけて」
「あはは、ジンさんらしいじゃない」
 あっけらかんと口を大きく開けて笑うリンスの表情と、タイジの覚えているもの静かな優等生の倫子の姿とは、かけ離れていました。
(ジンさんらしい、なんて、もうこのふたりずいぶん仲がいいみたいだけど)
 タイジはシャンプーのもうひとりの少女に目を向けました。タイジとリンスが喋っている最中も、彼女は奥の椅子に座って、両手にそれぞれオカリナを持ち、暗い照明に透かして歌口に唇をそっとあててみたり、かるく吹き鳴らしたりしていましたが、タイジの視線を感じると、すっとたちあがり、こちらにやってきました。タイジのすぐ傍まで、抵抗もなく彼女は近寄り、彼の鼻先でこくんと金髪の頭を下げ、小さな声で、
「おはようございます。紗WAです」
 紗WAとリンスは姉妹みたいに似ていましたが、それは同じようなツケマと化粧のせいかもしれません。でも化粧した顔がこんなに倫子に似ているなら、紗WAの素顔も、きっとずいぶん可愛いに違いない、とタイジには思えました。
 タイジは、目と鼻の先までいきなり近寄ってきた紗WAから、ちょっと後ずさって距離を置き、
「ミネモトタイジといいます。このビルの中のギャラリー〈花絵〉のオーナーです」
「あたしの高校時代の友人なの」
 リンスはタイジと紗WAの間に、押し入るように身を乗り出し、顔をシャワーに向けて言い添えました。
「そうですか。このオブジェ、あたしたちの共同制作なんです。リハ中でかまわなければ、御覧になってください」
 タイジの顔をまっすぐに見つめてすらすらと、その世代の少女にしてはあまり耳に馴染まない言葉でなめらかに敬われて、タイジはむしろうろたえました。
(なんか……日本語覚えたての外人みたいな感じの子。でも発音フツウだし、それにしては……なんか)
「まだパフォーマンスの準備が全部終わったわけじゃないんで、未完成なんですけど、これ、〈マチ〉なんです。まだ〈街〉にならない前の、カタカナの〈マチ〉」
「へえ」
 タイジはあらためてギャラリーの壁沿いを眺めわたしました。
 ジンさんのギャラリーは、間取りの一様ではない久我ビルの部屋のなかでも、〈花絵〉ほどではないにせよ広いほうです。縦の長いかっちりした方形ですが、どういうわけか、窓のあるいちばん突き当たりの壁にむかって、部屋の幅は入り口からすこしずつ狭まってゆき、自然な遠近感よりさらに奥深い印象でした。設計ミスなのか、壁の内部構造になにかが挟まっているのか、よくわかりませんが、この深さの歪みはギャラリー空間としては、もうそれだけで非日常的な面白い効果をくれました。
 ブラインドを下ろした窓意外の壁は、ほとんど半透明のサテンか、ほのかな光沢のあるシフォンの薄布でおおわれています。布の途切れるところどころ、地の壁が覗いていますが、それはどうやら故意にコンクリート打ちっぱなしの壁面を視覚に演出したいためのようでした。布の下方に、DMで見たこまごまとしたオブジェ。ガラス壜や紙屑、ダンボール、お菓子の空き箱、プラスティックの何かのケース……毛糸のかたまりや空き缶。日常茶飯に購入され、用が済むと処分される、家庭のごくありふれた品物が表面のラベルを剥がされ、脱色され、白かベージュ、生成りいろに塗り替えられて、あっちにひとまとまり、またはこちらにころがって、壁の前にざわざわと無秩序に並んでいました。よく見ると、女性の下着らしい衣類も、あちこちにありますが、周囲に囲まれた日用品と並列化して、ちっとも色気を感じません。
(言っちゃなんだけど、周りじゅう漂白されたゴミ捨て場みたいだ)
 たぶん、コンセプトアートなんだろうけれど、これだけじゃ面白味はないな、とタイジは考えました。
 リンスはシャワーに、
「もう吊っていいでしょ?」
「うん。ジンさん、踏み台貨してください」
「やってやるよ。どれ…」
 とジンさんは衣装の重いシャワーに変わってスチール椅子に乗っかると、リンスの差し出した、いくつかの繊維の束をつかみ、天井に打ち込まれたホックに、束の先端の鉤をひょいひょい、とひっかけながら、ギャラリーじゅうを移動しました。
 ジンさんが束をつかんでいた手を離すと、いきなり糸の束はぶわっと膨らみ、厚い蜘蛛の巣のような靄が、天井から床まで放射状にひろがりました。それはちょうど壁沿いのオブジェと客席を隔てる細かい霧雨のような幕をつくり、その幕に床のころがしの照明が当ると、光りの触れるその部分は繊維の反射で何も見えなくなり、その周囲もまた視覚の混乱が起きて、あたかも和紙にしたたった水滴が滲むようにかきくらがり、繊維の向こうのモノの形象はぼやけて、曖昧になりました。
天井からのいくつかのライトも、光源を最小に落としているのですが、繊維の霧雨に触れると、弾かれて乱反射し、暗い部分と、その逆にまぶしい部分と、下方と同じようにモノの姿は、客席から曖昧になりました。光りの影響の少ないところは、ちゃんと壜や箱のかたちが見えるのですが、そうすると壁にはりめぐらした薄布の起伏と、色材を剥ぎ取った無彩色の凹凸が急に陰影を深め、もとは、そこらへんに置いてあるただの雑貨のはずなのに、幾重もの隔たりの向こうで、ひっそりとした、でも確かな表情をつくりはじめたのでした。
シャンプーのふたりは、それからさらに、オブジェの合間に、大小さまざまな鏡の破片を、一見無造作に置いてゆきました。毀れた万華鏡の破片のように、それらの鏡のかけらは、照明の光りと繊維のぼかしをくぐったいろんな光りの深さを反射し、ちかちか、きらきらと、客席で見ているタイジが、ほんのすこし体を動かすたびに、ちがったきらめきを繊細に見せてくれるのでした。ギャラリーの壁際は、ゴミ捨て場から一変して、今ではもう形の定かではないけれど、それゆえにかえってなつかしさをそそる、きれいな光と影の集まりになりました。
「うわー。みっちゃん、この蜘蛛の巣なに?」
「企業ヒミツ」
「触ってもいい?」
「今だけね。切れやすいから、注意して」
 タイジは指先で注意深く、靄の糸の一本ずつを触って、光りに透かしてみました。絹糸よりもさらに細く、光沢があり、見た感じよりずっと硬く、まるで極細のピアノ線に伸縮性を加えたような、見たこともない糸です。その上、かすかに粘着性があり、タイジの指にからむと、もつれてちょっと剥がれにくいところ、まったく蜘蛛の吐く糸に良く似ていました。リンスの言うとおり、固いけれども強度はないようで、随分気をつけて触れていたつもりなのに、タイジはうっかり数本の絡みを切ってしまい、あわてて手を放しました。
ですが、この不思議な糸は、途中で切れても、ところどころで交差する横糸に支えられて、ぶつんと下に沈んでしまうことなく、張りを失いながらも、そのままゆらゆらと中空でそよいでいるのでした。
(なにかの繊維に透明樹脂をコーティングしているようだ。それで光りを反射して、きれいに暈しの影が滲むんだろうな。でもいったい何だろう?)
「タイちゃん、そろそろ音出し始めるって」
 ジンさんの声で、タイジは糸から離れて、客席に戻りました。奥のパフォーマンス空間以外の平土間にスチール椅子を並べただけの簡素な客席は四十席ほど。立ち見が入っても、ぎりぎり五十人くらいで限界というシンプルな舞台でした。
「どのくらい歌うの?」
「そうねえ、十曲くらいかな。トークと演奏で一時間弱。この子たちかなりファン持っててだいたい満席か、たぶん今夜も立ち見になるよ。シーラさんとメグの席、君の傍にキープしといて」
「ヒョウちゃんは?」
「さあね。週末はあいつ忙しいじゃない。いちおう知らせておいたけど、自分のライブかガーちゃんの伴奏か…。それにこのごろ何かまた新しく始めたらしいぜ」
「何か?」
「さあね」
 ジンさんはまたもや、無責任にタイジの好奇心を刺激しておいて途中で放り出しましたが、そういうジンさんのパターンに、タイジはすっかり慣れていたので、怒りもせずポケットから携帯を取り出すと、ヒョウガからの返信メールが届いていないかどうかチェックしました。

 行くよー(+絵文字V)

 それだけ入っていました。タイジはちくんと胸を刺される思いでした。
(似てるよな、シーラさんと彼は。絵文字なんか付くぶん、ヒョウちゃんはカワイイけどさ、なんとなく共通してる)
「ジンさん、ヒョウちゃん来るって」
「あそ。ヤツは立ち見でいいよ」
「なんですか、それ」
「たぶんおしまいまでいられないだろ。土曜の夜は、どっかで仕事入ってるはずだし、でなけりゃ途中入場だろうから」
 ぽうっ……とオカリナがほのかに響き、ジンさんもタイジも口を噤みました。
 舞台空間は大人ふたりが両手をひろげれば、もうめいっぱい、という程度です。そこにコルセットにクリノリンという時代衣装さながらの少女二人が入ったので、さぞ窮屈な舞台かと思われたのですが、天井から吊りさがり、ふわふわと空間を遮る蜘蛛の巣と壁の薄物の陰影、ほんのりとした照明の滲みの効果で、少女たちの背景は、実際よりも奥行きと広さを増して感じられました。
 シャンプーの二人は、舞台に向かい合って立ちました。客席に横顔を見せて、オカリナを吹く紗WAは、じっとリンスのほうを見つめています。彼女の足元には銀色のノートパソコンと、それにつないだ小型のアンプがあるようでした。リンスがシャンプーに眼で合図すると、シャワーはパソコン画面に触れ、そこからピアノとオカリナの前奏が流れ始めました。客席からはPC画面はほとんど見えませんが、最前列右端のタイジの席からは、ちょうどシャワーのうしろに置かれた鏡の反映で、伴奏を流している液晶画面上方で、一定の間隔をおいてチカチカと明滅する青緑の点滅光が見えました。シャワーはその画面をじっとみつめ、ほどなく自分も吹き始めました。録音の伴奏ピアノはたぶんリンス。シャワーのオカリナは,PC内蔵と生演奏の二重奏です。

  あなたの心に空白があるなら
  あなたの心に痛みがあるなら
  さびしさがあるなら
  それを埋めようとしないで
  そのままにして ただ そのまま
  あるがままに 抱きしめていようよ

  もがいたり悲しんだりしたら
  それは傷になってしまうかもしれないけれど
  近くに あるいはそっと抱きしめ
  そっと見つめているなら

  からっぽの心 埋まらない溝は
  手の届かない 誰も あなたでさえ
  触れることのできない あこがれのまま
  透明な空につながるかもしれない
  血を流すより ただ ときどき
  雫のような涙の降りそそぐ
  ナチュラル・スカイ


  かなえられない恋があるなら
  せつなさがあるなら
  ふり向いてもらえないくやしさ
  自分へのもどかしさ
  自分とあの人の距離を
  憎んだりしないで
  ただ やさしく 抱きしめていようよ
  その隔たりの哀しみをいつくしみ
  その人の幸せを願うなら

  からっぽの心 埋まらない溝は
  手の届かない 誰も あなたでさえ
  触れることのできない あこがれのまま
  透明な空につながるかもしれない
  血を流すより ただ ときどき
  雫のような涙の降りそそぐ
  ナチュラル・スカイ

  ……
 ナチュラル・スカイ、と繰り返しながらリンスの声とシャワーのオカリナのハーモニーはディミニュエンドしてゆきました。
 ブラボー、ブラボー、とジンさんは歌が終わるやいなや大喝采しましたが、タイジは手を叩くのも忘れていました。
(これ、まさに俺のマイソング…)
 倫子のピアノも歌も人並みはずれてうまいことは承知していましたが、今のリンスの歌声は、高校生のころの歌い方とは全然違っていました。決して声を張り上げたりせず、ことさらな裏声も使わず、オカリナの素朴な旋律と、ときどき交じり合うように聞こえるくらい〈ナチュラル〉な声でした。心のすきまにそっと寄り添ってくれる音、いつまでも聴いていたいような歌でした。
 そうして、タイジは突然気が付きました。
(もしかしてシャワーは耳が聞こえない?)
 最初、シャンプー二人が、客に正面でなくわざわざ横顔を見せて立つのは、奇抜をねらう演出かと思ったのです。実際、リンスのほうは、歌いながら時折客席を見て、微笑んだり、軽い手振りのジェスチュアをしていましたが、オカリナのシャワーは、一心に吹き鳴らしていたにせよ、また緊張していたにせよ、その視線は、終始リンスの顔、それも唇にぴたりと注がれ、一瞬も離れなかったことに、タイジは気づいたのです。
(読話だ)
 読話、とは聴覚に障害を持つひとたちの対話手段のひとつで、相手の唇の動きから、言葉を読み取るコミュニケーションです。
それと察すると、タイジの心をかすめたそれまでのシャワーの奇異な印象は、ほぼ理解できました。うすぐらいギャラリーの中で、タイジの口の動きを読んで、間違わずに会話するために、シャワーは臆せずに至近距離まで顔を寄せなければならなかったのでしょうし、リンスがシャワーに話しかけるときに、まるで割り込むようにタイジとシャワーの間に顔をはさみ、シャワーに向き合ったこと。そうして、不自然ではないにせよ、シャワーのふつうよりも正確すぎる敬語の発音。
(きっと中途障害なんだな。しゃべっている自分の声も聞こえないから、あんなふうに固かったんだ。それにしてもよく演奏できるなあ。作曲はみっちゃんかな? 歌詞は誰なんだろう。なんだか、俺の心境ずばり言い当てられちゃったみたい)
「タイちゃん、このふたりいいでしょ」
「ええ、すごく」
 シャワーの耳に、ジンさん気づいてるんだろうか、とタイジは隣の様子をあらためて測りました。ジンさんはいつのまにか発泡酒の缶を片手に握り、目をタレ眼にほそめて、嬉しそうに笑っていました。
「わ、いつのまに」
「常備薬だよ。君も飲む?」
「そうですね。いただきます」
「そうこなくちゃねえ。週末くらい」
 ジンさんはジャケットのポケットから、もう一本発泡酒の缶を取り出し、タイジに手渡しました。
「俺のおごりね」
「オオバンブルマイですね」
「君もシニカルが身についたなあ」
「寅次郎にはまだ遠い。木戸銭は後でちゃんと払います」
 こんばんは、と入り口で聴き覚えのあるあどけない声がしてタイジが振り返ると、メグがにこっと笑って彼に手を振り、その後ろにシーラがコートを脱いで、すこし前かがみに立っていました。
 うわ、すごい匂い、とメグはまず、鼻を手で覆いかけましたが、ジンさんの手前がまんしました。メグはまだ香水未経験ですが、ママの……安美さんの遺品のなかには、かなりたくさんパヒュームがあり、ママがなつかしくなると、メグは安美さんが使っていたドレッサーのひきだしに、今もきちんとしまわれている香水壜をとりだし、そっと嗅いでみたりもするのでした。
「よう、早かったんじゃない?」
 ジンさんは、発泡酒を握った片手を持ち上げて、こちらに来るよう二人に合図しました。
「いそいで戻ったのよ。ミネさんが来るって言うから」
 シーラの台詞に、ちょっとしぼみかけたタイジの心に、またあたたかな灯がともりました。
「カボティーヌ? カボシャール? ずいぶん贅沢に使ったわね」
 シーラはメグの様子を察して、小声でさりげなくジンさんに尋ねました。
「わからん。本人たちに聞いて」
 ジンさんはシャンプーの二人に顎を向けたのですが、シーラはリハの流れを妨げたりはせず、シャンプーの強烈な匂いとルックスに少したじろいでいるメグの背中を押して、タイジのすぐ横に、長い膝をそろえて腰掛けました。
 リンスは、客席に突然現れたシーラの薄闇でも際立つくっきりした容貌に、ツケマが落ちそうなくらい、両目をぱっちり見開きましたが、シャワーの表情に変化はありません。
 シーラのささやきが耳に入ったのか、リンスは客席を眺めてちょっと迷った様子ですが、結局、そのまま次の曲を歌い始めました。


  街はたたずむ
  思い出とすれちがいをちりばめ
  あなたにあげたかったぬくもり
  まだ わたしの手のなか
  汚れないまま
  長い時が経って
  ふたりがめぐりあっても
  あなたは 知らない
  わたしを 知らない

  こまかな糸のように
  わたしたちを隔てた 思い出
  雨は銀色に ひかる 思い出

  せつなく 
  時の流れがひかる 手のなかに
  残して はざまを
  あなたのいない すきまを
  街角がひかる
  誰も傷つけないために
  思い出の網をめぐらして
 
  もういちど会えたら
  愛していると 言うわ


  待つこともなく
  窓が開く 追憶
  わたしたちを隔てた 虚栄
  知らなければ もっとすなおに出会えた
  街には
  使い捨てられた 思い出
  時の流れにきよめられ
  光る 揺れて きらめいて
  たたずむ街角
  あなたは知らない
  わたしも知らない
  くちづけの約束

  こまかな糸のように
  わたしたちを隔てた 思い出
  雨は静かに 閉ざす かなしみ

  もういちど会えたら
  愛していると 言うわ


 二曲目の途中でヒョウガがやってきましたが、みんなシャンプーの歌に聞きほれて気がつきませんでした。ヒョウガは、入り口でしばらく歌を聴いていましたが、どうした気持ちの動きなのか、楽器ケースを開け、金のフルートを取り出すと、シャンプーの歌の途中から、いきなりセッションを始めました。
 ヒョウガがオカリナの鳴らす旋律に添って飾るアルペジオは、あまりに自然なハーモニーだったので、最初誰も気付かないほどでした。歌っているリンスさえ、わからない様子でしたが、それまでぴったりリンスだけを注視していたシャワーが、いちばん最初にヒョウガのほうを向きました。
 彼女は一瞬オカリナを口から放し、はっきりと驚きを顔に浮かべました。客席の後ろから、ヒョウガはそんなシャワーに向かって、フルートを構えたまま小首を傾けてあいさつし、演奏を続けるように促しました。
 そこで初めてみんなはヒョウガの飛び入りに気が付いたのでした。
「あれ、おどろいたね、あいつ」
 ジンさんは軽い舌打ちまじりにつぶやきました。
「どういう風の吹き回しだ。今まで拝んだって、ここで吹いてくれたことなんかなかったのにさ」
「彼を拝んだことあるの?」
 とシーラが面白そうにジンさんにささやきました。
「実はない。頼んだことはあるけど」
 ジンさんはしゃあしゃあと言い返しました。
 タイジは、
(ヒョウガのフルート、シャワーには聞こえたのか? じゃあ、聴覚障害は思い違い?)
 ですが、もういちどシャワーを凝視すると、やっぱりシャワーは、いったん外れてしまったリンスの歌声を追って、その口元を懸命になぞり、オカリナを吹いているのがタイジには、もうはっきりそれとわかるのでした。
 シーラは顔をかるくうつむけて後ろのヒョウガの様子を察しましたが、何も言いませんでした。タイジはそんなシーラの一挙一動に胸が締め付けられ、あらためて
(俺、ふだん自覚してるよりずっと、彼女のこと好きなんだな……)
 と噛みしめるのでした。ふられるに決まってるけど、でも好きなんだよな。ヒョウちゃんのことも俺は好きだ。こうしてるの、俺つらいんだろうか?
(そうでもない。つらいとか苦しいとか、そういう感じじゃないけど。だけど、リンスの歌みたいに「アイシテル」なんてたぶん言えないでどこかに行っちゃう感情なんだろう)
 タイジはせつなさを紛らすように、できるだけ自然な口調で、シーラさんに耳打ちしました。
「シャンプー、歌いいでしょう?」
「ええ。プロで通用しそう」
 シーラはタイジのほうに頭を少し傾けてくれたとき、さらりと振りかかる黒髪が揺れて、白い耳たぶと、いつも彼女の耳を飾っている翡翠のティア・ドロップのピアスが覗きました。そうして、こんなにシャンプーの振りまいた香水が濃くたちこめているにもかかわらず、髪と襟足からシーラの匂いや体温もタイジは胸に吸い込み、眩暈がしそうでした。
(俺、ジンチクムガイじゃないぜ、ガーネットさん)
 と、ここでなぜかガーネットが出てきたのは、多分タイジの無意識のアリバイ作りなのでした。
 二曲目を歌いおさめてリハを止め、リンスとシャワーがやってきました。後部座席からヒョウガも来て、ジンさんはさっそく
「ヒョウガ、笛吹いてくれてさんきゅ。初めてだよな、ここでは」
「いい歌と演奏だったんで、ことわりなしでワルイと思ったけれど、入らせてもらったんです。大丈夫でしたか?」
 ヒョウガはジンさんとシャンプー二人組をかわるがわる見て、まじめな顔で尋ねました。膝の抜けたジーンズに、わりと地味めな色の濃い柄シャツを数枚重ね着して、その上にごつい皮ジャンをひっかけ、レッドソックスの野球帽を浅くかぶっている彼は、帽子の端からレオパードヘアが思いきりぼうぼうとはみ出て、さらに金のフルートを持っていなければ、繁華街をうろついている普通の青少年にしか見えません。ですが、言葉づかいと物腰は初対面のシャンプーに気を配って、充分丁寧でした。
「びっくりしたけど、嬉しかったです」
 リンスは答え、シャワーは、さっきタイジに対して示したようにヒョウガに接近すると、
「ありがとうございます」
 とだけ。ヒョウガは人なつこい笑顔をくしゃっといっぱいにひろげ、シャワーに向かって
「すごい素直な音だね。オカリナといっしょに吹いたの初めてですよ」
 シャワーは言葉ではなく、ただ嬉しそうにそして恥ずかしそうに笑い返しました。
「盛り上がりかけのとこ邪魔するけど、客入れしないといけない。ヒョウガ聴いていくの? それともジャムしてくれる、まさか」
「シャンプーさえよければセッションしたいけど、これから六本木ライブに回る。みんな元気かな、と思って顔見に来たんだ」
 とメグに視線を移して、
「背伸びたね」
「みんなそればっかり」
「大人っぽくなった」
 とヒョウガが言ったとき、シーラのほうにちらっとすべらせたその視線に濃い光りがこもったようでした。
「おまえ、ここのあと六本木来る?」
「メグを送っていかなくちゃならないから」
「シーラさん急ぐの? たまにはみんなで晩メシ食おうよ」
 とジンさんが口をはさみました。
「シャンプーライブのあと、打ち上げやるんでしょ? そのあとさらに寄り道するの、メグには厳しいね」
 とジンさんの誘いにシーラさんはあっさりケリをつけました。
「ジンさん、御来場のお客さん入れていいですかー」
 とギャラリー戸口で臨時の受付バイトの女の子が声をかけました。
「いいよ。俺も手伝う」
 ジンさんはワインの栓抜きをポケットから取り出し、ざわつきはじめたギャラリーの入り口へ行ってしまいました。
 タイジは、ヒョウガがシーラに何かさらに言い募りたそうなので、気を利かせてその場を離れました。そんなタイジに、何となくメグも付いてゆきます。
「タイジさん、この糸何ですか?」
「さあ、企業ヒミツだって」
「さっき歌っていた思い出の糸ってこのことでしょう」
「だろうね」
 シーラとヒョウガを後ろにすると、タイジの気分は、ガクンと傾きそうになるのでしたが、隣りにメグを見ていると、彼女の可愛らしさにだいぶ慰められました。そうしてタイジの足は、奥のシャワーへ向き、パソコン画面を覗き込んでいるシャワーの眼の前で止まりました。
 シャワーはドレスの襞をたっぷりと抱えるようにフロアにしゃがみ、二丁のオカリナにかわるがわる指を添え、画面を明滅しながら疾走してゆくブルーグリーンのパルスを数えていましたが、タイジの気配に顔をあげ、こくびを傾げて、何? というおずおずした表情を見せました。
 タイジはケアワークで身に付いた習慣で、自然にその場に膝をおろし、シャワーと同じ顔の高さで、今度は意識して、言葉をはっきりと発音しました。
「いつからオカリナ吹いてるんですか?」
「十年前からです」
 シャワーは、自分の眼の等位置に視線をちゃんと下ろして話しかけたタイジに、一瞬両目を伏せ、またすぐに、きりっと顔をあげました。タイジは彼女の反応にはかまわず、
「よかったら、そのうち、ぼくのギャラリーでもパフォーマンスをお願いします」
 と言ったのでした。

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