さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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オカリナ・シーズン  2 たったひとつのボクのぜんぶ

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 シャンプーのライブが終わると、シーラはメグを送っていくという口実で、打ち上げには加わらずに帰ってゆきました。
ライブにはシャンプーのオッカケファンが数人ずつ、次々にまとまってやって来て、開演時刻前にもう満席、すぐにジンさんの言ったとおり立ち見も出て盛況でした。ファン層は、タイジの見たところ二十代から三十代がいちばん多く、十代も数人混じっているようでしたが、その中には視力障害の子、また軽い知的障害と、あきらかに外貌から察することのできるファンもいて、タイジはシャンプーというユニットに、あらためて違った興味をかきたてられたのでした。
 ジンさんはシーラの来場をさほど吹聴しなかったようで、彼女の知人らしい人物は、久我ビル関係者以外、リハ時に集まった顔ぶれくらいで、それでもそそくさと退去したがるシーラは、ふだんからあまりつきあいのいいタイプではないのでした。
「ミネさん、いっしょにどう? メグの帰る方角とおんなじだから乗ってかない?」
「乗る乗る。ラッキー」
 そんなシーラに気軽に誘われて、タイジはうれしくもあり、また逆につまらないような……でもやっぱりものすごくハッピーな気分になってしまうのでした。
「パパにメールする。シーラさんとタイジさんとご飯食べていくって」
「パパ、家にいるの?」
「たぶんね。今日はお休みか、早く帰ってくる日だと思う」
 メグがメールを出すとすぐに、パパからの返信の着ウタが鳴りました。
「うちに食べに来て、だって」
「でもミネちゃんがいる。彼を途中で降ろしてあげないと」
「俺なら少々遅くなってもいいよ。ジンさんとつきあってたら、終電とかだもん。でも風間さんちまで行って、わざわざ一応都内の俺のアパートまで引き返すのシーラさん面倒でしょ」
「そうでもない。あたしだって家に帰るから」
 ということは、シーラさんの家は……タイジがどきんとしたとき、
「シーラさんの家、どこだっけ?」
 メグが無邪気に代弁してくれました。
「成城学園の近く」
「世田谷区?」
「そう」
(じゃ、俺と近いわけじゃないけど、遠すぎるほどじゃない……)
 こういうのって、どこまでもシンクロニシティと言えば言えるのかなあ、とタイジは首をひねりましたが、とりあえずシーラといっしょにいられる時間が長くなるというので、今夜はもうそれだけでめいっぱい幸福です。
 プジョーの助手席にはメグが乗り、タイジは後部シートです。
「今から急いでも、渋滞ひっかかったらかなり遅くなるかも。メグ、ミネさん、おなか保つ?」
「チョコバーくらいなら、俺常備」
「メグもおやつ持ってる」
「それじゃ大丈夫ね」
 久我ビルの長いつづら折り階段を七階から一階まで歩いて降り、路上駐車場に停めてあるプジョーに近寄りかけて、メグはふと立ち止まりました。一階フロアのいくつかのショップは、その時間もうすべて閉まり、道路側のシャッターも降りていたのですが、地下劇場につづく細長い廊下の非常灯だけは、ほのぼのと灯っていました。つきあたり両側にそれぞれ男女の手洗い、奥は床から天井まで、久我ビル創設当初からの古いタイル張りの幾何学模様の壁画で、白石をベースに赤、黄、黒に青……蜂の巣によく似たカラフルな色石は何十年経ってもさほど褪せずに、いくつかのタイルの剥がれかけたまま残っています。それは、震災にも、空襲からも免れた久我ビルの幸運の象徴でした。
 エントランスを出しなに、メグがなんとなく一階の後方を眺めたとき、さっきコーヒーショップで出合った中年の女性が、壁画の前にうすぼんやりと、メグのほうを向いて立っていました。
 カシミアの上等な、ふんわりとしたセーターの上に、バーバリーのコートの裏地を見せて前をはだけ、折り目のちゃんとついたベージュのスラックス。片手にはおおぶりの角のかっちりと四角い黒のハンドバッグ、同じ色のヒールパンプス。ネックレスとイヤリングはおそろいのクラシカルなグリーンビーズ。
 彼女の姿はさきほどのメグの幻視ほどあざやかではなく、立ち姿の向こうに、久我ビル壁画の幾何学模様が透けて見えるのです。
(待っていたの。さっきは驚かせてごめんなさい)
「待っていたって?」
 メグの洩らした声は小さかったのですが、先に立っていたシーラは敏感にふりかえり、彼女もまた、その女性を見ました。反射的にシーラはその瞬間メグの両肩をつかみ、それは、初めて出合ったころ、安美さんがシーラの前で、険しい顔をしてメグを庇っていたのとよく似た仕草でした。
「メグ、この方はどなた?」
 シーラの声は落ち着いていました。
「節さん」
(あなたが……あなたもこの子と同じね。うれしいわ。わたし、さっき喫茶店でこの子にお願いしたいことがあって)
 節、となのるその女性の言葉は、シーラとメグの頭のなかで聞こえました。礼儀ただしく穏和ですが、どこか一方通行な強引で、シーラとメグに返答のすきまをあたえず、節さんは、くどくどと喋り続けました。
(どうしたらよいのかわからず、わたしは死んでからもずっと迷っているの。怨念にとらわれているわけではないんだけれど、気がかりで、この世から離れられないんです。ただ見守っているだけでは気がすまないで、ついついいろんなおせっかいをしてしまうんですが、それがかえって悪い結果を招いている気がしてきて、そんな矢先に)
(節さん、ゆっくりお話してください)
 ぼんやりとたたずむ相手をじっと見つめたシーラは緊張した表情になり、この迷い霊に語りかけてみました。ですが、無駄だとシーラには直感でわかっていました。節さんの顔はおだやかで、口調も柔らかく、けれども感情のゆらぎや声の抑揚、〈生きている〉魂なら必ず手ごたえをくれるヒーラーとの対話の弾みが、ほとんど感じられなくなっていました。
 硬直し始めている、とシーラは警戒しました。自縛霊。亡くなってから長い間、あてどなく現世を迷っていると、次第次第に霊魂は硬化し、現世に残した未練のことしか考えられなくなるのでした。それは、あたかもひとつの運動しかしなくなった機械と同じでした。もともとはいろんな働きができたのに、ひとつの用途にしか使われなくなると、ほかの機能が錆びつき、衰えてしまうように、です。
それを避けるためには、ひとつには安美さんのように、いったん想いの相手から離れて草木の内部に宿り、この世の息吹を呼吸すること……つまるところ、霊魂だって新陳代謝を続ける必要があるのでした。
 残した未練や執着が強すぎると、樹木に溶けこむことはむつかしくなるのでした。
今も節さんの霊は、シーラの語りかけが聞こえているのかいないのかわからない変化の乏しい顔のまま、
(そんな矢先にあなたがたのお友達が現れてよいきっかけをくれるようだったので、わたしはつい藁をもすがる気持ちで) 
(友達ですって?)
 シーラは節さんの声を無理に遮りました。が、節さんは一方的な口調をすこしも緩めず、
(困っている矢先に、そら、そこの好青年が現れて現れてあらわれて…)
「シーラさん、メグさん、どったのー。遅くなるって言ったじゃんか」
 タイジはわざわざ、いっぺん乗り込んでいたプジョーからしびれをきらして降りてきました。
「早くぅ、ふたりとも何してるの」
(そのかわいい坊やがやって来てやって来て来てくれて)
「ミネちゃん来ないで、あぶない!」
 シーラは叫びましたが、タイジは何にも見えず気づかず、エントランスに入ってきてしまいました。
 ざわっと、節さんのセットしたてのようだった上品な髪が文字どおり総毛立ち、温顔も、ぼんやりとした半透明な影の姿もそのままに、いきなりこちらにやってきたタイジに向かって走り出しました。
「あっ、だめっ」
 とメグは両手をひろげて節さんの前にたちふさがりましたが、節さんはすうっとメグの肉体を突き抜け、同様にメグの後ろに続くシーラも透り抜けて、何も知らずにすたすたと久我ビルに入ってきたタイジに突進しました。
 メグとシーラの眼の前で、節さんとタイジは激突し、両者にはなんの反動も突き抜けもなく、節さんの姿は、タイジの真正面からタイジのなかに吸い込まれるように入ってかき消え、それと同時にタイジは意識を失って、その場にくたくたと膝を折り、前に倒れてしまいました。
 
「……ない?」
「はい、ええと…」
 我にかえったタイジは、すこしふらつく頭をかるく左右に振り、かたわらに立っているシーラに、急に暗闇から抜け出したときのような、眩しさでしょぼしょぼしたまなざしを向けました。
「ミネモトさん、面倒だけど、もう一品作りたいのよね。ちょっと冷蔵庫から長芋出してくださる」
「ああ、ハイハイ」
 タイジは指図されるままキッチンのシンクから離れて冷蔵庫に向き直り、一番下の野菜室から真空パック詰めの長芋を取り出すと、シーラに……
(なわけないぞ)
 どきんとして我にかえると、タイジの眼の前にいるのは、辛子いろのフリースセーターにジーンズ、その上に見覚えのあるELLのエプロンを着けた苑さんでした。
 苑さんは、今日は長いソバージュヘアを後ろでちゃんと束ね、化粧も薄く、呆然と突っ立っているタイジに向かって、いつものようにテキパキとした口調で、
「お父さん、長芋好きなの。ミネモトさん、お芋を剥くのに皮膚アレルギーとかある?」
「ないです。すりおろすんですか?」
「いいえ、皮を剥いてバターソテー」
 タイジはまた混乱し始めました。
(俺、銀座にいたんじゃなかったっけ? ジンさんのギャラリーでシーラさんとシャンプーのパフォーマンス聴いてた。それからシーラさんといっしょにメグの家に晩御飯を食べに寄ろうとしてたのは)
 苑さんはいつになくもたついているタイジの様子に、すこし苛立った様子で、
「あたし、皮を剥くから包丁ください。テーブルの上に、お魚と……ならべて、お父さんの様子を見てきてくださいますか?」
 タイジは腋の下をつめたい汗が流れるのを感じました。自分の姿をかえりみれば、いつもケアワーク時に着ている白いカッターシャツの上に事業所〈豆の木〉の黄緑いろのエプロン。周囲はと見回せば、見覚えのある少しごたごたしたダイニングで、四人掛けのテーブルには、ちゃんと花模様のビニールクロスがかかっていますが、ちょうど半ばまで調味料やらインスタント食品、たぶん苑さん関係の雑誌のバックナンバーだとか、グラム計器、佃煮の陶器の入れ物、コーヒー、紅茶、煎茶の缶などなどが、食器棚にしまわれずにそのまま雑然とひしめいていて、いつも使っている父娘二人の向かい合わせの部分だけ、きちんと拭き清められて空いています。
 ソゴウさんの椅子は、シンク寄りの苑さんの椅子よりすこし幅も手すりも大きめで、ドーナツ型のクッションが敷いてありました。
 そのテーブルの上に、焼きあがったばかりの秋刀魚が櫛型のレモンを添えて皿に乗り、おひたし、大根おろし、箸置きにはもう黒い輪島塗の箸が置かれ……
「お風呂のほう、お願いしますッ」
 苑さんの指図は、きびきびと叱咤する感じになり、タイジはあわてて廊下に飛び出し浴室に向かいました。
(どうなっちゃってるの? どっちが幻想?
なんで苑さんいるの? ああ、介護休業とるって言ってた。でもそれは来年じゃなかったっけ。だとしたらまた早退け有休かな。だとしたら俺は生活介護では入れないはずなんだけど、そんなことないか、急遽なら。入浴見守り? 身体介護も入るんだった、そうだ。食事と入浴。今日は何曜日? 月曜日? 土曜のパフォーマンス終わって、それから俺はシーラさんとそれから後のこと)
 支離滅裂な記憶をたぐるのは、いったん止そう、と浴室の引き戸の前で念じます。脱衣場いっぱいに、もうもうと湯気があふれて、ソゴウさんは、風呂場の戸を閉めずに、ざあざあ体を洗っているのでした。
 そうだ入浴用のエプロンに替えようと、タイジが後戻りしかけると、タイミングよく苑さんがぬっと顔を出し、
「ミネモトさん、これ使うんでしょ?」
 彼女の手には事業所でもらった入浴介助用のビニールエプロン。
「スイマセン。でもよくこれがあるのわかりましたね」
「わかりますとも、あなたのことならだいたいわからせてもらったから」
「え?」
「お父さんの背中を流してくださる? わがままを申し上げて失礼だけれど、あたしもお手伝いしますから」
「娘さん……苑さんの介助はいらないです。俺ひとりでじゅうぶんですから。それより、ソテーは」
「もう出来ました」
 苑さんはジーンズの裾をぐいっとまくりあげ、セーターの袖をめくり、どんどんタイジの先に立って浴室に入ってゆきました。
「お父さん、ヘルパーさんに背中流してもらって。あたしも彼といっしょにやるから」
(いっしょに?)
 洗い場に立ったソゴウさんはシャワーを手に持ち、お湯を出しっぱなしにしているので、湯船からたちのぼる湯気とシャワーのあたらしい湯気とが、その全身を真っ白に覆い、足元さえよく見えないほどです。
「ミネモトさん? 悪いねえ、サンスケさんまでやらせて」
「ハハハ…」 
 タイジは受け流しました。風呂屋のサンスケ。ソゴウさんだけでなく、利用者さんの何気なく口にするユーモアが、ちょっとひっかかるものだったりすることがあるのでした。利用者さんには他意のないヘルパーへの労わりのつもりでも……。とはいえ、介護する側、される側の互いにとって、互いの親しみからうまれる〈潤滑油〉のようなやりとりに、いちいち摩擦の感受性を尖らせていたら、気持ちの良いケアは提供できません。
 タイジが困惑したのは苑さんでした。
 彼女は腕まくり裾あげのラフな格好で風呂場に割り込んでくると、真っ白な湯気をものともせずにソゴウさんの横に立ち、タイジの手にボディシャンプーをたっぷりと着けたアクリル繊維のタオルを渡し、なんとそのままタイジの手をとり、
「あなた、すこし前屈みになってよ」
 とソゴウさんに言いました。
(あなた?)
 タイジは今度は戦慄して苑さんを見ました。
しかし苑さんの顔も湧き上がる湯気に隠れてよく見えません。
(なんだよ、このものすごい煙。風呂桶の蓋を閉めるか、シャワーを止めるかしないと、視界不明でヤバイ)
「背中なんて、俺ひとりで大丈夫スよ」
「そうはいかないの。主人は癖のあるひとだから」
「主人て?」 
 もう苑さんの全身は、ソゴウさんと同様に、足元から白煙に包まれてタイジにはよく見えません。異様なほどぶあつい湯気のなかから、彼女の手だけがこちらに突き出て、そのてのひらがタイジの手に重なり、しきりにソゴウさんの背中らしいあたりを、ゆっくりとこすり始めました。
「苑さん、シャワー停めてください。でないとぼく、ソゴウ先生も、苑さんも全然見えないんです」
「でもねえ、このお湯をとめたら、主人は焼け死んでしまうかもしれない」
「ええ?」
「ほら、床を見て」
 下を見たタイジは仰天しました。ソゴウ先生の足元から、まるで不動明王の火炎のように真っ赤な焔がめらめらと燃え上がっているではありませんか。タイジは反射的に後ずさりしましたが、苑さんの手はいきなり彼の手首をわしづかみに押さえ、
「大丈夫よ。燃えるのはソゴウだけ。だから余計に心配なのよ」
「あなた、苑さんじゃない。誰なんですか」
「わたし、節」
 姿を隠す湯気の向こうで、おっとりとまろやかな返事が聞こえ、かっとなったタイジは逆に、自分の手首を握って放そうとしない相手を、こちらにぐいっとひきよせました。
「スイマセン、乱暴するつもりないけど、わけわかんない」
 相手は他愛なく、ぐらりと傾いて、タイジに重心を預けて来ました。
「わたし、節です」
 どこかしら気抜けの漂う、うわごとのような口調はタイジの耳馴れた〈失認〉のひとの声に似ています。湯気の向こうからタイジの胸によりかかるように上半身を寄せ、すがるような笑いを下ぶくれの丸顔に浮かべた中年女性は苑さんではありません。
「あなた、このままでは夫は焼け死んでしまうのよ」
 タイジのほうに、女性はぐずぐずと力を抜いて倒れ、とっさにタイジが彼女の体重を支えようと身を乗り出した瞬間、ソゴウさんの手からはシャワーのノズルが放れてタイルに落ち、上方からのお湯の鎮火を免れた足元の焔は、いきなり火勢を増し、ごおっと音をたてて、ソゴウさんの全身を包み、目が眩むほどの激しさに燃え上がりました。
 

  会いたい
  会えない
  だけど素直になりたい
  もっと君に叫びたい
  だけど声が見つからない
  君にうたうぼくの心
たったひとつの
  宝石みたいに磨いて
  アイシテルって言ったら
  君はどうするんだろう
  
みんな
  だれも
  傷つきやすいこころを
  未来への夢へあずけて
  今日を走ってる町に
  たったひとつ
  たったひとりの偶然
  でもそれも必然
  神様がくれた愛
  もっと君を受けとめる
  
君を抱きしめたいから
  ぼくはまた羽集めて
  飛ぶことを始めるさ
  君は今
  ぼくじゃない誰かを好き
  でもいつかぼくを好きに
  なるさ
  
愛も傷も魂も夢もうちくだかれた心と孤独そして疲れた肉体もぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ君ならばそれでオッケーそして
  ラッキーついにハッピー

いつか世界を
  ぼくひとりに塗り替えて
  君にあげる宝石
  ぼくのたったひとつの恋
  ぼくのたったひとつの夢
  君に結ぶ天空の羽
  君はどこで飛んでも
  どこまで飛んで落ちても 
  きっとぼくが抱きとめる  
  ぼくが君の住処だよ
  君のすべての住処
 

「あ、気がついた?」
 ガタン、と背中から腰にかるい衝撃があって、急ブレーキと同時にタイジはプジョーの後部シートから足元に転げ落ちそうになりました。
 メグは助手席から後ろに身を乗り出し、気分わるそうに拳で両目をこするタイジの口元にポカリスエットのペットボトルを差し出しました。
「タイジさん、飲めますか?」
「あー。ええ、ナントカ、どうも」
(どっちが夢だ。これは現実か? ここにいるのは僕で、眼の前にいるのは)
「ミネちゃん。気分は?」
 なめらかな、すこし低い、すこしハスキーな声を聴いたとたん、シートから跳ねるように、タイジはがばっと起き上がりました。
「シーラさん、俺どうしてた」
「手っ取り早く言うと、気絶してた」
「気絶? どこで、どこから」
「久我ビルのエントランス。そこらへんの経緯はこちゃごちゃして一言じゃ言えない」
「ここどこですか?」
「首都高を出て一番最初のIC。ミネちゃんが倒れてから、そんなに経ってないの。よかった、こんなに早く正気づいてくれて。どうなることかと思った」
「ごめん、俺重かったでしょ」
 ううん、とメグは首を振りました。
「シーラさんがひとりでタイジさんを担いで車に乗せたんだよ」
「信じらんないね、そっちも」
 タイジはまだぼんやりとした頭のまま、ペットボトルを傾けてポカリをごくんと飲みこみました。どういう状況だったのか、何が起こったのか、今がほんとうに確かな現実なのか、どうなのか……
(夢でもなんでも、こっちのほうがいいや。だってシーラさんがいるもん)
 シーラは、〈節〉と名乗る自縛霊に侵入され、その場に昏倒してしまったタイジを、とりあえず急いで車に積んで銀座を離れ、見咎められて、騒ぎをひろげないようにと考えたのでした。タイジは意識を失っただけで、それ以上の苦痛を示さず、ただ眠ってしまったように見えました。
「命に別状なければ、あとでどうにか、なんとかできるだろうと思ったの」
「てことは、なんかすごいことがあったわけですか?」
 シーラとメグは黙って眼を見合わせました。
「そういうの、よして。ふたりだけで眼で会話して、俺をハブにするのは」
「ハブいてない。さっきも言ったけど、かんたんには説明できないんだ。ミネちゃんこそ、気絶してる間に何か……」
「それそれ。俺ももしかしたらヒーラーかなって、マジ思う幻視もらった」
 タイジはわざと冗談めかして告げましたが、眼の前で、ソゴウさんの全身を包んで燃え上がった紅蓮の焔の記憶は、タイジの全身にあたらしい脂汗をにじませるくらい鮮明で、強烈でした。
「もらって嬉しくなさそうな感じよ、タイジさん」
 メグが下からタイジの顔を見上げ、同情する口ぶりで言いました。
「まあねえ。でもさ、幻影って自分じゃ選べないじゃない、メグさん」
「だよね。メグも今日はね、変な…」
 言いかけたメグをシーラは遮り、
「ともかくメグの家まで飛ばすよ。パパが首を長くして待ってるでしょ。ミネちゃん、食欲ある? なわけないかしら?」
「あるある」
(シーラさん傍にいてくれるならなんだってオッケー)
 とタイジはカラ元気をふりしぼりました。
「あー、そういえば夢の醒めぎわにシャンプーの歌聴いてた気がする。それはよかったなあ。気持ちが救われた」
「どの歌?」
「……歌詞想い出せないけど、ラップぽいの中間に入ってるやつ」
 それもまたウソでした。覚えていたのです。
でもシーラには言えないのでした。あんまり幻影が身に迫るものだったので、タイジの自己防衛本能がシーラへの慕情を仮託する歌を呼び起こして、幻に砕かれそうな心を瓦解から守ったのかもしれないのでした。
(いつか告白できるかなー。でもシーラさん知ってるんだよね。みんなも。ナンダこのざまって感じだ)
 ところが、
「あ、わかった。それ〈ぜんぶ〉って歌でしょ。メグもいいなーって思った」
 メグはまた無邪気に言ってのけ、シーラはタイジには気の毒ながら、ハンドルを握ったまま、さざなみのように、声には出さず笑ったのでした。その笑顔を見たら……あいにくタイジには見えなかったのですが、タイジはもしかしたら嬉しいと思うかもしれない笑顔でした。そうして、自分の顔がバックミラー越しにしても、タイジに見えない位置にあることを、ちゃんと弁えているシーラは、こんなふうに言いました。
「メグ、歌える? それとも歌ってもらいたい?」
「両方」
「じゃ歌って」
「でも歌詞ぜんぶおぼえてない」
「じゃ、いつか歌って」
「シーラさんに?」
「だね」
 シーラはそこでちょうど信号が赤になって停車したので、タイジをふりかえり、頬にふりかかる髪をかきあげ、
「ミネさんとメグでデュオってどう?」
 よせよ、とタイジはシーラを見つめました。
俺、男なんだぜ、シーラさん。ときどき限界来るよ。
 シーラの瞳がきらりと光って、また信号が青に変わり、プジョーは湾岸沿いに、すべるように走り出しました。
「メグさん、歌はいいから、さっき君の言いかけた幻影聞かせてよ」
 いい? とメグはシーラに眼で尋ね、シーラは肯きました。
「シャンプーのライブの前に、コーヒーショップで、シーラさんとケーキ食べてたらね、急に視覚変化が起きて、女のひとが現れたんだ」
「どんな?」
「節さんて名乗ってた。けっこう年かさの、品のいいおばさん。そのひとがメグの腕をつかんで引き寄せようとしたら、いきなり姿が消えて真っ暗闇になって、あたしはその中に転げ落ちそうになった」
 ショックの連打のために、タイジは感情が鈍くなっているのか、あんまりおどろきませんでした。
「そのひと、俺のアタマの中にも現れたよ。節さん」
「そう…。さっきね、久我ビルエントランスで、ミネさんには見えなかったんだけど、その節さん現れて」
「シーラさんとメグさんには見えたの?」
 そう、とシーラは応え、緊迫してきたその場の雰囲気をなだめようと、iPODからカーステレオに音源をつないだフェイバリッドソングを流し始めました。
「ビル・エヴァンズ?」
「マルモのリメイク? かな。いろいろ入ってる」
「落ち着くね、気分が」
「ええ、いつだって音楽はいい」
「シーラさんてつくづくおもしろいひとだね」
「ミネさんにマジに言われるとビクつくよ」
「このマルモのあとに入ってる……何曲目かわかんないけれど、たぶんソーヤ・クリスタルあるでしょ」
「御名答」
「君の心、どこにあるの」
 なぜ、そんな台詞が、よりによって今、自分の口からさらりとこぼれたのかタイジにはわかりませんでした。メグは助手席のシートに深く体をもたれかけて、タイジの問いかけを聴きました。
「たとえば、そのとき聴いている音楽のなかにあるってことにしといてよ」
 ソーヤを聴くのは平気なの? 
 タイジは心でつぶやきました。君がそんなだから、ヒョウと君を見ていても、俺はあきらめられないんだよ。なんだよ君は、怒るぜ…
(タイジさん、ちっとも怒ってないのに、怒ってるって思えるんだなあ。人を好きになるってこういうことかな?)
 とメグは助手席にシートベルトをかけてもまだ隙間の余る細い膝を、椅子の上で両手で抱えこみ、コホンと小さく息を吐きました。
「続きは? メグ?」
「うん。それで、それから節さんはタイジさんの中に突入して消えちゃった」
「うえ…じゃ、俺のなかにその霊魂がいるんだ。俺の見た幻影のなかで、そのひと、俺が今ケアで担当しているひとの亡くなった奥さんだって言ってた」
「ええ……ミネさんにくっついて久我ビルに来たと、わたしたちに言っていたわ。何かの想いがあって、あたしたちを探していたようだった」
 シーラはタイジを気遣って、節が自縛霊だということは黙っていました。
「探していた目標はそっちなのに、俺のなかにいるの? ゲーだね」
「ミネさんの担当のひとのこと、教えてもらえる?」
「うーん。守秘義務ある」
「それじゃ、あとでいいからミネさんの中に入らせてもらうよ」
 シーラは有無を言わさぬ口調で言い切りました。
「ミネさん何も喋んなくっていい。あたしが勝手に覗かせてもらう。そうしないと、またいつ彼女が出てくるかわかんないし」
 彼女が、あなたを乗っ取るかもしれない、その可能性は低い、と思うけど。
 シーラの心のつぶやきはタイジには聞こえず、でもメグには聞こえました。
「節さんて、ほんとに俺のなかにいるの?」
「たぶん」
「ちっとも存在を感じない。今夜、夢に出たりして」
 タイジはやけくそみたいに笑いました。

メグの住む海沿いのマンションの地下駐車場にプジョーを乗り入れると、シーラは、ダークなコートを脱ぎ置いて、後部座席常備の衣装袋のなかから、朱色のベレーと、それと同じ色相の薄手のカシミアマフラーを選び、自分の身なりにアクセントをつけました。ブルーと白の縦縞ストライプのウールワンピのシーラは、そうやってあざやかな赤系統のものを身に付けると、それまでのクールな感じとはまるで違ったかわいい印象になりました。
「わー、かっこいい。その帽子とマフラーおそろい?」
 メグは眼をまるくしました。
「そうよ。だってメグのパパは、明るい色好きでしょ? ずいぶん待たせちゃったし、見て元気の出るシーラを見せてあげたいから」
「シーラさん、洋服いっぱい持ってるけど、どこで買ってるの?」
「母親孝行してるの」
 ただボーッとシーラを眺めていたタイジの耳が、その瞬間いっぺんにダンボ状態になりました。それでつい、彼は早口に
「シーラさんのお母さん、ファッション関係なわけ?俺初めて聞いた」
「まあね」
「いいなあ。どこで?」
 とメグがうらやましそうにシーラのベレを見上げていると、
「これはね、ふつうのベレじゃなくって、バスク風ベレなんだ。中東のバスク地方の民族衣装をアレンジしたの。だからちょっとマニッシュでしょ」
「え、じゃまさか、シーラさんの実家って、そんな」
「違うって。あたしの母親はイタリア人。趣味が高じて、ミラノで個人のブランドやってるだけ」
 そうかあ、とタイジは胸のいくつかのつかえのひとつがスッキリした気がしました。
「へえ、じゃシーラさんの着るものぜんぶ、お母さんの?」
「だいたいね。衣装代にほとんどお金かからないのは助かるわ。あっちに帰るとモデル代わりにこき使われる」
 シーラはベレをはずし、しきりに眼をかがやかせて帽子を見ているメグの頭にちょこんと載せてやりました。
「大きすぎる、そうでもないね」
「シーラさん小顔だもん」
「混血だから、頭蓋骨のかたちがメグとちょっと違うのよ」
「ズガイコツ?」
「西洋と東洋と、骨の形がいくつか違う。頭の骨の縦横の幅」
「ふうん」
 部屋では、駿男さんが食事の準備をすっかり済ませ、きれいにテーブルセッティングまで整えて、待ち構えていました。
「やーひさしぶり。シーラさんいつ見てもかっこいいねえ、君。タイジさんも元気そう?かな。ちょっと疲れてる感じするけど?」
「はあ、激務の日々です。シーラさんに癒されてます」
 なぜか……そのとき、タイジの口からそんな台詞がすらすらと出てきました。ふだんの(それまでの)タイジだったら(たぶん)言えないような台詞でした。
「だろうなあ」
 駿男さんは大きくうなずいて、
「今夜はローストビーフ。あなたたちアレルギーとかなかったよね?」
「ナイナイ」
 とシーラは首を振りました。ベレを脱いでも、首にふわりと巻いた朱色のマフラーは、かるく結んでそのままにしています。
 駿男さんは料理上手な上に、屈託のない話上手で、ひとり暮らしをしているタイジと、男料理の話題でいろいろ盛り上がりました。お肉は市販のものを切り分けたものですが、ミモザサラダやコンソメなど、駿男さんがこしらえて、香辛料や飾り付けもずいぶん凝っていました。ローストビーフですが、主食はパンではなく、伊万里の大皿に、チコリの葉にちょこんと乗せたサフランライスが菊のはなびらのように幾重もの円を描いて盛り付けられています。
「パパがんばったねー。メグだけだったら、こんなご馳走しないのに」
「だって、シーラさん、とタイジ君来るって言うじゃない」
「あ、その言い方、ぼくモロ付録ですね。いい感じ」
 シーラと自分の名前の隙間のわかりやすいクッションに、タイジは笑ってしまいました。駿男さんは澄まして、
「そう言うニュアンスも、女性の自尊心をくすぐる手ですよ、タイジ君。男がメインディッシュでどーするって」
「はあ」
 笑いながら、タイジはふと思わずにはいられませんでした。パパさん、こいびといないんだろうか、と。駿男さんは、メグの父親にしてはかなり年配な方で、タイジの父とあんまり変わりません。
(奥さん、きれいな人だったんだよね。メグの母親だもん。でも、それからずっと一人でいられるのかな。パパさん色男ってわけじゃないけど、ハナシおもしろいし、明るいし、モテそうな感じ)
 メグとパパのふたり暮らしの住まいは、かなりきれいに片付いていますが、どことなくおおざっぱで、リビングのソファに駿男さんのジャケットやパーカーなどが、脱いだときそのままみたいに投げ出してあったり、ダイニングテーブルに飾った花は、いかにも即席らしく、真っ赤なカーネーションと霞草だったり、ここにこまやかな大人の女性の出入りしている気配は、やはり感じられないのでした。
(パパが恋人を連れ込んでいるんだったら、メグはこんなにのびのびしてないだろう)
 とタイジは、メグを眺めて、また考えました。
「パパ、このご飯、お寿司ごはん?」
 メグは、チコリの葉っぱにちいさく盛り付けられたご飯を口に運んで尋ねました。
「そ。チコリの一口サフラン寿司」
「あたし初めていただきました。チコリ寿司ですか?」
「うちのの伝授よ。あのひと、なんかいろいろこまごました料理好きだったのよね。メグも安美さんくらい料理うまくなってくれればいいなあ、と、ぼく機会あるごとに彼女の手料理再現してるんだ」
「チコリの食感とサフランの香り、絶品」
 シーラの感想に、駿男さんは得意そうに
「ありがと。サフラン、ホンモノよ」
「ええ、わかります」
 タイジは相槌をうちながら、手間ひま惜しまないひと、と感心しました。そうして、また、
(こういう駿男パパが再婚って、やっぱむつかしいものがあるかも)
 とも思ったのでした。
 その晩、パパはタイジを気遣ってかシーラをひきとめず、デジカメも持ち出しませんでした。久我ビルでのなりゆきから、メグはまたすぐシーラに会うことになるだろうと予想できましたし、このあとタイジへのシーラのケアがあることもわかっていたので、食後ながながと話し込むこともなく、タイジとシーラは海辺の町から都内へ戻ってゆきました。
 ふたりをマンションの戸口で見送ったパパは、娘に言いました。
「パンのような男って、わかる?」
「わかんない。今夜ご飯だった」
「そうじゃなくて、ぼくやタイジさんみたいな男をフランス語ではそう言うの」
「フランス語?」
「ことわざでね。つまり噛めば噛むほど味が出る、フランスのバゲット自慢だよ」
「日本人だからフランスパンは変じゃない」
「そういうこだわり方ヌキ」
「メグはエクレアのほうが好き、パンより」
「いいよ。女の子って、お菓子みたいなもんだよ。クリームとか、ジュレとかはさんだ。
だけど、いつもお菓子食べるわけじゃないでしょ。こう、身近にいて欠かせない、ぼくらは、地味でもコンスタントに噛みしめる価値のあるヤツってことさ」
「パパしょってるね」
「どこでそんな古風なボキャ覚えたの?」

 助手席に乗ってしまうと、タイジはしばらく無口になりました。
 そしてシーラも黙っていました。カーステレオからは、フェイバリッド・ソングの続きで、ソーヤ・クリスタル。それからまたジャズに戻って、タイジの知らない内外のミュージシャンの歌が、ふたりの沈黙をなめらかに埋めて流れ続けました。
 だいぶたってから、タイジから
「成城に住んでるんですか?」
「そう。お父さんといっしょ」
「お父さん。千手…ええと」
「ほんとはお祖父ちゃんなんだけどね」
 タイジの言いよどみとは違ったリアクションをシーラが返したので、タイジははっとしました。
(訊いてもいいってことか)
 それじゃあ、とタイジは思いきって、
「さっきメグに話してたけど、シーラさんのお母さん、イタリアのミラノ?」
「うん。スミレ・デュランテって小さいアパレルブランド経営してる」
「スミレ?」
「彼女の名前がヴィオレッタだから。日本語だとスミレ」
「シーラさんのお父さんて、鳳凰士朗さん。有名人だよね」
「あたしは直接会ったことないのよ。て言うか、物心ついたときには、ヴィオレッタと彼は離れていて、あたしは十二歳までミラノにいた。彼は夭折したでしょ。ヨーロッパに遊学してた何年かの間に、ヴィオレッタと会って、同棲した。でもヴィオレッタはもう婚約者がいたのよ。彼女と彼が出会ったのはヴッパタール」
「ヴッパタール? じゃバレリーナ?」
「モダンダンサー志望というだけ。もとはクラシックバレエだったんだけど、本人が言うには、〈背が伸びすぎ〉てあきらめたって。でも踊りが好きで、ビナ・バウシュが好きで、それからシロウに惚れこんで、彼が世界一。婚約破棄、子どもを生んで、間もなく士朗は帰国してしまう。鳳凰家では士朗は天才肌の変り種。国際結婚だって経歴に華を添えるかもしれないという、恵まれたキャラクター。だけど、デュランテ家は彼女を絶対に手放さなかった、らしい」
「ややこしい……」
「うん。鬱陶しい。こういうこと考えるの、あたし好きじゃない」
「ごめん」
「喋りたいから喋っただけ」
 ここらでいいかな、とシーラはどこかのパーキングに車を停めました。
「どうするの?」
「手をくれる? ミネさんの中を少しだけ見せてもらう。すぐ済むから」
 タイジの返事を待たずに、シーラはタイジの手を取り、シートに深くもたれて、呼吸を整えました。それからタイジの手の甲を額に軽くおしあてて……
 数秒。
 いいえ数分。
 もしかしたら数時間(ウソ)


  ずっと握っててよ
  このまま夜の真ん中で
  ウソと真実の海に揺られて
  なにも見えなくなって
  難破した船みたいに
  君に寄り添う
  ぼくの心は 折れて
  柱一本にすがって
  君を追ってる だから
  ぼくの心握っててよ
  何も見えない 暗闇
  愛の嵐
  君のぬくもりを
  いつまでも抱いてる

  泣いてるの
  誰のため?
  ウソと真実の波間で
  君は揺られながら
  ぼくの前に流れ着いた
  折れて 濡れて
  凍えそう
  ぼくの温度でよけりゃ
  みんなあげる
  あたためて
  難破した 君
  愛の嵐

  ぼくの心は 折れて
  君への想いにすがって
  君のために生きてる
  ほかにナニが必要だろう?
  人生なんてちっぽけだ
  だから
  ひとりじゃなく
  君とふたりで
  お互いの心を握って
  離れない
  ウソと真実の海に揺られて
  ああ 君を追ってる
  この 夜


 ぱちっ、と睫毛のひらく音が聴こえるような気がして、シーラが瞼を開け、
「わかった。ミネさん?」
「……なに?」
(なにがわかったんだよ)
「今度のケアいつ?」
「月曜日」
 あたしもいっしょに行っていい、とは言えないよね。でもこっそり行くよ。メグを連れて行くかはわからない。でもソゴウさんに会わなくちゃ」
「ソゴウさん、か…」
(俺は彼女に曽郷斗の名前を言ったことがない。でもたしかにシーラさんは俺の心を読んだんだ)
「いいよ。いっしょに来てよ。娘さんがもしかしたらいるかもしれないけれど、基本的に独居ってことになってる。俺のなかに彼の奥さんらしき霊魂がひそんでるんでしょ。だったら、彼のために徐霊してもらわないとね」
「徐霊というか、浄霊というか。節さんの想いはただ御主人に向かっている筈だから、彼女の念が、ミネさんから移り易い状況のほうがいいわ」
「てことは、俺にくっついてるの?」
「憑依というより、利用している感じ。いろんな錯覚や幻視は、節さんのせいよ。月曜まで、また何かあるかもしれないけれど、命をおびやかすことはない」
「ふうん」
 タイジは気のない返事をしました。
「迫力に欠けるね、なんか」
「どうして?」
「俺のなかみ、読んだんでしょ?」
「ええ」
「俺のなかにこういう単語なかった?」
「え?」
 限界、とつぶやいてタイジは助手席から運転席のシーラにかぶさりました。
「逃げないの?」
 シーラはタイジに抱きしめられて、抗いませんでした。
「どこへ?」
 シーラはかすかに笑ったようでした。
「逃げないわよ。オッケーも出さないけど」
 その言葉に、タイジはシーラの両肩をつかんで、座席に押し付け、彼女の顔ぎりぎりまで自分の顔を近づけると、
「ふざけるな、バカ」
 シーラのほそい手首が夕顔の蔓のように伸びて、タイジのうなじに触れ、タイジの顔を自分にひきよせました。そうして、シーラのくちびるは、ほんのすこしタイジのくちびるから逸れて、彼の頬を掠め、耳たぶに動いて、こんなふうにささやいたのでした。
「これからヒョウに逢うと思う。それでいいいの?」
「じゃ、ヒョウに逢うんじゃなかったら君、俺にオッケー出すの?」
「出さない」
 タイジはシーラの顎をつかんで、強引にキスしました。彼女の言い草が頭に来たので、それができたのでした。
 ふたりの顔がはなれたとき、ちょうどシーラの携帯の着ウタが鳴りました。
「ヒョウだろ」
「……」
 タイジはシーラを抱きしめた手をゆるめて、助手席に戻りました。
「出ろよ」
「いいの?」
「たたき殺すぞ、シーラさん。男をなめるな」
 タイジはプジョーのドアを開け、外に出ました。周囲のパーキングには間を置いて数台の駐車。少し離れた道沿いに二十四時間営業のコンビニの灯りだけが、真夜中を皓皓と照らしています。タイジは深呼吸して、コンビニへ向かいました。
 着ウタはしばらく鳴り続け、シーラが出る前に切れてしまったので、あらためてシーラからかけ直しました。もちろんヒョウガ。
―終電よゆうだからそっち行く
「いいけど」
 とシーラはかるく唇を舐めました。タイジの感触が残っています。
「宗雪が来てるかも。週末にお父さんにお稽古つけてもらいたいって言ってた」
―おまえの部屋に泊まるの?
「かもね」
 今のタイジだったらさらに沸騰しそうなニュアンスでした。が、ヒョウガは
―一時間くらい雪を外に出しとけ。
 それで電話は切れました。

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