さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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Posted by 水市夢の on

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オカリナ・シーズン 3 ボクはスキマにのこるジャリ

Posted by 水市夢の on   0 comments   0 trackback

 
 十一月半ばの街の日没は早く、ケア開始時刻の五時前には、もう暮色はだいぶ深くなり、空に残る冬晴れの茜の残照と夕星の澄んだきらめきを圧倒して、地上のクリスマスのイルミネーションがくっきりと冴えて目にあざやかでした。シーラとは駅ビル前のロータリーで待ち合わせました。
待ち合わせの時刻きっかりにプジョーでやって来た彼女は白いダウンジャケットに軽い無地のセーター、デニムパンツというシンプルな服装で、ほとんど素顔。髪もうしろにひとまとめにしてアクセサリもなにもつけてはいません。福祉系専門学校生の見学実習のつもりで、というタイジの提案です。
「うちの事業所のエプロン持ってきたから、それ着てよ。たぶん娘さんいないと思うけど、ケアの終了間際くらいに帰ってくるかもしれないから」
 助手席に乗り込んだタイジは言葉すくなに指示しました。シーラは、洗いたてのようにみずみずしい横顔を見せて軽くうなずきました。なんとなくシーラとちゃんと目を合わせることができずに話しながら、タイジは口紅を塗っていない自然な薄紅いろの彼女の唇に思わず目が行ってしまい、そこからもすぐに視線を逸らしました。
でも、タイジの心にはべつにぎくしゃくした感じもなければ、シーラの態度にわだかまりが残っている気配もありません、というより、そんなものを外見には毛ほども感じさせない〈いつもの〉彼女でした。素顔のシーラは、ティーンエイジャーみたいにあどけない雰囲気でさえあるのでした。
車を発進させる前に、シーラは、
「駐車場ある?」
「ソゴウさんの家のは使えないから、城址公園まで行けば、無料のがあるよ」
「その後変わったことない?」
 シーラに尋ねられ、タイジは、
「ないね。日曜は…」
 とちょっと言いあぐね
「ふつうにギャラリーを営業して、ジンさんとこのシャンプーライブの打ち上げだけ、参加してきた」
「遅くまで?」
「いや、終電前には切り上げたよ。ジンさんは友達とそれからまたどっかに二次会に行った。シャンプーふたり組もちゃんとファンが取り巻いて、どこかに運んでいった」
「運んでいった……ピッタリな言い方」
「だろ? まあ、あのまんまの格好で夜の銀座を歩いたっておかしくはないけど、帰り道はちょっと気がかりだよね、大丈夫?って」
「ミネさん優しすぎるのよ」
「それ、ウラ意味ないよね」
「ないよ。本心」
「優し〈すぎる〉ねえ。嬉しくない、誉め言葉にならない」
「誉めてるつもりない。ありのまま」
「そうだね、そういうキツイ言い方のほうが、俺には楽だ」
 シーラは応えずに、黙ってゆっくり車を回し始めました。
 君はあれから……と心に掠めるのを追い払い、タイジは話を逸らします。
「今日は、夕食作ってソゴウ先生に食べていただくんだけど、支度してる間に、簡単に入浴がある。シーラさん何もしなくていいから、先生とコミュニケーションとって。マダラ認知で、クリアなときは、いろいろ教養ある話もなさるから」
「ジンさん、現代詩人の曽郷斗を知っていたわよ」
「え、ほんと?」
「現代詩人って、思っていたより人口が少ないんですって。だいたい千人くらいじゃないかって。歌や俳句人口とは比較にならない狭い世界みたいね。現代詩のいくつかあるメジャー誌に、彼の詩はときどき掲載されていて、かなり評価も高いひと」
「そういえば書棚にたくさん詩集があるよ。
ジンさんも底のわかんないひとだよね。いろんな人脈持ってる」
「ミネさん、ジンさんも自称詩人なのよ。いえ、自称だけじゃなく、ちゃんとペンネーム持ってどこかの文芸の同人なんだと思う」
「初耳だ」
「ソゴウさんとも、もしかしたら顔見知りかもしれない。ソゴウさんは覚えていないだろうけれど」
 そうかあ、とタイジはぬぼっとしたジンさんの顔を思い浮かべました。ソゴウさんとはずいぶん雰囲気は違うけれど、詩人と言えばそうも思えるか。
 車なので、駅からはすぐに到着しました。
 城址公園の駐車場は、ソゴウさん宅まで、歩いて数分のすぐ裏手でした。
 雨戸の閉まっていない一階の屋内のどこにも電灯は点いていず、ソゴウ先生の居室のカーテンがほんの少し開いて、そこからポツンと小さいデスクライトの光だけこぼれて見えます。
「娘さんいないね」
 タイジは郵便ポストを柵ごしに探って鍵を取り出し、すっかり裸木になった庭の百日紅を横目に見て、玄関に上がりました。手早くエプロンをつけ、シーラにも渡すと、もうあとは彼女に構わず、手順どおりにケアを進めます。そのタイジの後を追うように、シーラもダウンを脱いで、エプロンをかぶり、ソゴウさんの書斎兼寝室に入りました。
「こんばんは、先生、〈豆の木〉のミネモトです。ご気分はいかがですか?」
 ソゴウさんは、いつものように窓に面したデスクの前のどっしりした古風な肘掛椅子に深く座っていました。室内はほんのりとエアコン暖房であたたまり、今日は失禁臭もしません。タイジはほっとしました。
「よくも悪くもないねえ。一日中こうやってると、やたら昔のことばかり思い出すよ」
 クリアだな、とタイジは言葉のイントネーションと、薄暗い照明のなかでも目元のしっかりしたソゴウさんの表情から察し、
「そうですか。お体の具合がわるくなければともかくよかったです。みんな風邪をひきかけてて…。今日は特別ですが、専門学校の実習生がうちの事業所に見学に入ってるんです。紹介させていただいてよろしいですか」
「いいよ。その子?」
「こんばんは。千手と申します。今日だけ、ミネモトさんについて、いろいろ学ばせていただきます。よろしくお願いします」
「フレッシュだねえ。センジュさんもミネモト君も若いのにえらい。福祉職も、君たちみたいな若手の人材が集まるようになったなら、将来は明るい」
「ありがとうございます。お風呂の準備を始めますので、少しお待ちください。それから、もうだいぶ暗いので、電気を点けさせていただいてよろしいでしょうか」
「頼むよ」
 天井の蛍光灯が点くと、ソゴウさんはあらためてシーラの姿を頭のてっぺんからつまさきまで、しげしげと眺め、すこし黄ばんだ歯を見せて、無邪気に笑いました。
「ミネモト君の次はこのきれいなひとがぼくの担当になってくれるのかい。それはラッキーだ。筆も進むよ。締め切りも守れるようになるだろう」
「そうですか。よろしくお願いします。まだいろいろ未経験ですので」
シーラは頭をさげてよどみなく応えました。.時間を惜しむタイジは、書斎にふたりを残して浴室にゆき、床暖房をつけ、からっぽの湯船にお湯を張りはじめました。それからすぐにキッチンに走って、冷蔵庫の食材を点検します。ダイニングのメモを見ると、ヘルパーの手間を考えた苑さんの、あらかじめ作りおいた夕食メニューが何種類か入っている、だから味噌汁だけ作ってほしい、としたためてありました。
「ごはんは炊飯器。おかずは電子レンジでチン。よし、オッケー」
 とつぶやくと、思わず口にした言葉にさそわれて胸がドキンとするタイジではありました。
 タイジが行ってしまうと、ソゴウさんは肘掛け椅子から前かがみにゆっくりたちあがり、すこしよろめく足取りで、南に面した窓とは反対側の壁際の書架へゆき、ずらっと並んだハードカヴァーをぼんやりした目で眺め渡しました。書棚は書き物机同様に、しっかりとした昔風の黒っぽい家具で、床から天井までほとんど隙間なく壁いちめんを占めています。ソゴウさん自身の著作を含めた立派な蔵書は、きちんと整頓されていました。
たちあがるとソゴウさんはずいぶん上背のあるひとで、少し猫背気味の痩せた背中が、網目の太いざっくりしたフィッシャーマンセーターをかぶるように着ていても目立ちますが、手足長く、面長の端正な顔立ちで、青春時代はきっと文字通り白皙の美青年だったのではなかろうか、というシーラの印象です。
「君、これ読んだろ?」
 と書棚から、ソゴウさんは長い中指をかるく伸ばして一冊をひょいと抜き出しシーラに手渡しました。シーラのまったく知らない現代詩人の評論集でした。著者はもちろんソゴウさん。
「今までこういう世界に接したことがほとんどなかったので新鮮でした」
 シーラは半分ほんとうのことを言いました。ソゴウさんは大きな口をあけて、声を出さずに笑い、
「ダダイズムって、君がもう生まれる前のものだろうからね。だけど思想的な裏打ちとか、行動とか、とらわれがなくって、すごく開放的なんだよ。みんな面白い……」
 とソゴウさんは言いながら、顔を傾け、シーラの上に視線を泳がせました。シーラは彼の白濁した瞳孔を見つめ、その向こう側にあるものを覗こうとしました。
 カタン、と遠慮がちな音がして、ソゴウさんの背景の書棚のどこからか、一冊本が落ちてきました。それはソゴウさんの足元近くに落ち、続いて二冊目がまた落ちてきました。そのあと三冊め、四冊、五、六、と次々と書物は落ちてきて、それはあたかも誰かが一冊ずつ一定のリズムで、ソゴウさんの周囲に投げて並べるように彼の足元に輪を描き、シーラの目の前で、ソゴウさんの周囲の本の山は高くなってゆくのでした。
 ソゴウさんは、口をパクパクさせながら、しきりに何か喋っているのですが、彼の声はシーラにはぜんぜん聞こえません。
(節さん)
 シーラは呼びかけてみました。ドミノ倒しのように、なめらかなリズムでこぼれ落ちてきた本の堆積は、どこかから堰をきったようにいっぺんに速度と量を増し、床を埋めましたが、厖大な蔵書の全部が床に置かれたとしても、ソゴウさんの部屋を埋め尽くすのには足りないはずなのに、本はどんどん増え続け、ソゴウさんの脚から膝、腰…と嵩を増してゆきます。少し離れて立つシーラの方に書物は一冊も寄らず、これはさながらシーラとソゴウさんを隔てるために積まれた本の壁のようでもありました。
(いつのまにか彼の幻視に入ったんだろうか?)
 とシーラは首をかしげました。一瞬覗き込んだソゴウさんの内側は、どんよりとしたいくつかの思惟のかたまりが、暗い真空にとりとめもなく揺れている不安定な印象で、そこには際立った攻撃性もなければ関連もなく、鮮明な映像も見つかりませんでした。
 シーラの呼びかけに応える節さんの姿もありません。
 蛍光灯のしらじらとした明るさのなかで、まったく〈自然〉に見えない手で投げ出され、際限なく増えてくる本の山は、まるでソゴウさん自身から沸いてくるように彼を埋めてゆき、ソゴウさん自身は、そのことにぜんぜん気がついていず、うつろな表情のまま、声にならない言葉、聞こえない言葉を、しきりにシーラに向かって喋り続けているのでした。
 シーラのうしろの書斎の扉がノックなしに開いたのでシーラがふりかえると、中肉中背の温厚な丸顔の女性が入ってきました。眺めのタータンチェックの巻きスカートに、モスグリーンのモヘアのゆったりしたセーターを着ています。ちょっと毛さきにウェーブをかけたセミロングの髪を黒いカチューシャでまとめ、赤い縁の眼鏡を鼻先に低めにかけた童顔は、銀座で見た姿よりずっと若いけれど、節さんにちがいありません。彼女はシーラなどまるで眼中にないか、見えていないように、室内にごく普通の足取りで入ってくると、夫の前、シーラのすぐ横にたたずみ、
「苦しくない?」
 とソゴウさんに話しかけました。シーラは彼女が隣りに来てもその場所から退かずに、二人の様子を眺め続けました。ふたりともシーラなんか、もうまったく見えていないようなのでした。
「聞こえない言葉で話さけりゃならないのは退屈だが、苦しくはないよ」
「あなたの声を聞かせて」
「聞こえているじゃないか」
「聴こえている声より,聞こえない言葉のごうが多いの、ずっと。ほら、こんなに」
 節さんは夫の周囲の本の山積みを手で指し示しました。
「こんなにたくさんあって……邪魔だわ。わたしにはあなたの在り処さえわからない」
「ぼくはここにいる」
「もっとわかりやすいあなたのほうがいい」
 節さんはさびしそうにポツンとつぶやき、床にしゃがみこみ、スカートのポケットから百円ライターを取り出すと、すぐそばの本に火を点け始めました。
シーラは目を見張りましたが、節さんを停めませんでした。ライターの小さい火は、じきに古書のどこかを焦がし、ちりちりと煙をあげて燃え始め、それがじりじりに変わり、やがてめらめらと、火は火を生んでソゴウさんのまわりの書籍の壁を這い上がってゆきます。炎がふくらんでゆく力に比例して、天井の蛍光灯の明るさは弱くなり、暗がりがこの部屋にのしかかってきました。どっしりした上からの暗闇の重量さえも節さんの点けた火の餌になり、炎はぐいぐい手足を伸ばし、それはまるで、シーラの目には、スパンコールをこれでもかと散らした派手な衣装をつけ、真っ暗な舞台で自分だけスポットライトを浴び、観客の前で踊り始めたピエロみたいに見えるのでした。
一方キッチンのタイジは、これも苑さんがあらかじめ用意してくれている何種類かの味噌汁の具を簡単に刻んでしまうと、壁の給湯ボタンでお風呂の湯張り状況を確認してから、ソゴウさんの居室に戻りました。
「先生、お風呂の準備できました。シーラさん、ありが」
 ノックと声かけ一緒で、ドアを開けるのもまた同時、という分刻みのせっかちのせいで、タイジは室内に入ったとたん頭を殴られるようなショックを受けました。
(まずった。ふたりっきりにするんじゃなかった)
 と悔やむ余裕もあらばこそ。
 ソゴウさんは、シーラの前に途方に暮れた表情で立っていましたが、タイジがあちらで入浴と食事の準備をしている、さほど長くない間に、すっかり衣服を脱いでしまっていたのでした。かろうじて腰にバスタオル一枚巻いているのは、本人の意思ではなく、たぶんシーラでしょうか。
「君? ありがとう」
 タイジがやっとそれだけシーラに言うと、シーラは、床に散乱したソゴウさんの着衣を眺め、気抜けしたような声で、
「いつのまにか…」
 とだけ。その顔に血の気がほとんどないのに、タイジはもう返す言葉も見つからず、両手をだらんと下げたまま、あらぬ虚空に視線を漂わせているソゴウさんの片方の上腕をそっとつかみ、
「先生、お風呂の支度出来ましたよ、お出でください」
 と声をかけ、さらに
「ご気分はいかがですか」
 と機械的に尋ねました。ソゴウさんは無反応です。タイジはもう一声、
「お手洗い、行きましょうか?」
 自分からは動こうとしないソゴウさんの背中をかるく押すようにして部屋から外へ連れ出しました。ともすると背中に添えた手に余計な力が入るのをこらえ、さりげなく、さりげなく、と念じながらも心の中で彼は、
(頼むからここで洩らさないでくれ、ソゴウさん)  
 と呻くような思いでした。
 シーラは、タイジがソゴウさんを連れて行ってしまうと、床にかがんで、散らばったセーターやスラックスをひろいあげ、一枚ずつたたみ、デスクの肘掛け椅子に重ねました。
 その手の指先がすこし冷たくなっているのをシーラは自覚し、たった今さっきまで、自分が視ていた映像が瞬時に消えた驚きを鎮めようと、呼吸を深くします。
(弾かれた)
 幻覚や幻視に襲われるのに、ここから開始などというわかりやすい線引きなどあろうはずもないのですが……
(あたしの関わる余地が全然なかった。節さんが見せた幻視に呑まれて、他のものはいっさい感覚できなくなっていた。あたしは自分が冷静に彼女を観察しているとさえ思っていたのに)
 これだから自縛霊はこわい。幻視と現実の裂け目を挟んで、現実のソゴウさんに掴みかかられていたとしても、自分にはたぶんわからなかったのではないか?
(それとも、ソゴウさんの著作や厖大な蔵書を燃やすという行為で、彼女は何かを暗示し、あたしに訴えているのかしら?)
 そうかもしれない、そう考えた方がいい。
(でもやっぱり直接コンタクトしてほしいな。
ずいぶん穏やかで……裏を返せば、いろんなものを他人に見せず、抑制したまま逝ったひとのようだから、こんな自己表現が噴出すのかもしれないけど。怨念まみれの餓鬼とはちがう。メグを連れてきても大丈夫みたいだ)
 幻視のこちらがわで、ソゴウさんが全裸になってしまったことも、シーラには苦い感じでした。誰が彼の腰を覆ったのか? シーラではありません。ソゴウさんでもありません。
「シーラさん」
 後ろからタイジに呼びかけられ、シーラは意識して、自分の表情をゆるめてふりかえりました。
「大丈夫だった? その…」
「驚いただけ。何もされてない。先生は?」
「ざっとお風呂済ませて、食事中」
 何もされなかった、という返事に、タイジは全身の緊張がどっとほぐれました。
「驚いたよね。でも、こういうことって認知症にはあんまり珍しくないんだ。本人も行為の目的がわからないまま、すっぱだかになっちまう。別に何するわけじゃない。だけど、施設なんかじゃ、そんな姿で堂々とフロアに出てきたり、あたりを徘徊したりしちゃうこともあるらしい」
 ついつい早口になるタイジに、シーラは、
「そう」
「苑さんから、ぼくはソゴウさんの徘徊症状は聞いていたけど、こういうケースは知らなかった。知っていたら、君だけここに残さなかった」
「わかってる。気遣ってくれてありがとう」

 このような奇妙な経緯ですから、その週の木曜日の午後三時からのソゴウさん宅への訪問は、タイジには気乗りのしない、どころか、はっきり嫌なケアになりかけていました。
 月曜日のケア終了後、シーラにお詫びついでに晩御飯おごるよ、と誘ったのですが、
「ミネさんのせいじゃないもん。勝手についてきたあたしの責任だから気にしないで。それに彼は病人なんだし」
 これからまだ行くところがある、と言う彼女を、それ以上ひきとめることもできませんでした。お茶くらいしたかったのですが、一緒にいればいるほど、今は、彼女の前で何を喋ったらいいのかわからなくなりそうでした。
(でも、ソゴウさんのおかげで、シーラさんと一緒にいられる時間が増えるんだ。これが片付くまでは、まだ何度か……きっと何度も彼女と会えるだろう)


  小枝のように固い道
  ぼくは小石みたいに存在してる
  できるだけ心をちいさくして
  君のどこかに入りこみ
  ずっと君を見つめていたい
  君がどこをさすらっても
  ついてゆけるくらい
  ぼくは小さくなって
  君の中にいる

  ふやけた世界で
  いつかわかる
  君をこんなに
  だいじに思うから
  ぼくは小さく
  小枝みたいに
  君の道を示してるんだと
  石っころ
  蹴飛ばされても
  またいつのまにか
  君の世界にすべりこむ
  
ポケットの空欄
  いつも音信不通
  誰もわからない行方
  誰でもいいおしゃべり
  なまぬるい別れなんて
  ぼくは認めない

  君のこころが破けたとき
  他のすべてがこぼれ落ちたって
  ぼくは
  君のほんのすきまに残って
  ささやく
  ふやけた世界なんか
  捨てちまえ
  小石だって
  残ってる希望がある
  自分をジャリにしたって
  ぼくは君の傍にいる
  心とからだ
  男と女
  都合のいい理窟も
  プライドもいらない
  小枝のような道で
  できるだけ心を小さくして
  君を見守る

  ふざけた世界で引き裂かれ
  君から何がこぼれおちても
  ぼくはすきまにのこるジャリ
  ぼくが希望
  なまぬるい別れなんか認めない
  心とからだ
  男と女

 節さんは、あなたの命にかかわるようなことはしないと思う、確約はできないけれど、とシーラが言ったとおり、木曜日の買い物代行と夕食作りは何事もなく済みました。その日は苑さんがケア終了前に(幻覚ではなく)帰宅してくれたので、タイジは何気ない口調で尋ねてみました。
「ソゴウ先生は、とても奥様を大切にしていらっしゃったんですね」
「あら、父が母のことをそんなふうに言ってるんですか?」
 会社帰りの苑さんは、ちっとも化粧崩れのないつやつやした顔に、意外な表情を浮かべました。
「ええ、たまに、ですが」
「母のことを、どんな風に父が言っているのか疑問だけど、仲は悪くなかったと思う。でも彼は永遠の文学少年だから、母の方でずいぶん彼をカバーしてましたよ」
「そうですか」
 苑さんの口調はあっさりしていて、嘘をついているようには聞こえず、また陰性なニュアンスもありませんでした。
(ソゴウさんが、女性関係でお母さんを泣かせた家庭だったら、苑さんはこんな感じのひとじゃなかったろうな。でもそれじゃいったい節さんはなんで成仏できない自縛霊なんかになって、御主人や俺につきまとっているんだろう?)
 苑さんはタイジに、
「母は、父にダメ出ししたことはほとんどなかったわね。ふたりが喧嘩したこともないし。
ていうか、争っているところを見た記憶がないの。かといってベタベタした感じでもなかった。母が亡くなってから、あたし両親のことを思い出すと、母はずいぶんえらかったって思う。父が母をだいじにしてたのは嘘じゃないだろうけど、ああいうひとだから、どうしても自己中で、母のことほんとにわかってたのかなって思う」
「そうですか」
 ああいうひとだから、と苑さんはタイジにはわからないソゴウさんのキャラクターを、タイジも了解済みという言い方で簡単にまとめたのでしたが、そんな〈自己中〉も、ある意味では屈託のない彼女の明るさを印象付けました。
 思わず知らず肩に力が入っていたのか、木曜日のケアが何事もなく終わったことで、かえってその晩タイジはあまり眠れませんでした。夕暮れに、シーラからメールが来たことも、彼の心の波紋を複雑にした理由でした。

 だいじょうぶだった?

 うん

 近いうちにまたアクセスさせて。メグも連れて行く。いい?

 いいよ(チョキ)

 また連絡する。元気で…

(テンなんか付けんな、バカ)
 最後のシーラからのメールを軽くののしって(誰を?)、タイジはいったん携帯を畳に放り出し、少ししてまたひろいあげ、出もしない鼻水を無理やりかんでから、しぶしぶ胸ポケットにしまいました。
ろくに眠れないまま明けた金曜日、普段よりも早めに銀座へ行き、ギャラリーの掃除を簡単に済ませてからブランチ、という段取りで動くつもりだったのですが、タイジはいらいらと落ち着きませんでした。
 所在ないまま、タイジにはめずらしく、やりかけた仕事の手を途中で止め、ぶらぶらとジンさんの〈個室〉に上がりました。そこにジンさんがいるかどうかわかりませんが、誰でもいいから……いえ、それこそとびきり底意地の悪い、くだらないジンさんのツッコミとピンポンしたほうが、シーラからの連絡ばっかり気にかかる、という本音よりは、はるかにマシな気分になれるか、という低迷した状態だったのでした。
 まだ午前中だったのですが〈個室〉のドアは開いていました。先週いっぱいでもう美人風の展示は終了していて、別な企画展示が始まっているようです。ドアの脇の掲示板には
和紙に朱筆の達筆で、おおらかに「咲織会作品展」とあります。
(あれ、めずらしいな。ジンさんとこにしちゃ、クラシック。さきおり会?)
 開けっ放しと見えた扉には、布の下がり端に小さい鈴をたくさん縫い付けた、草木染らしい木綿の中分け暖簾が下がっています。
「ちわー」
 とタイジが暖簾を両手で掲げるようにしてギャラリーに入ってゆくと、すぐ脇の受付テーブルに座っていた女の子が、にこっと笑ってタイジに目礼しました。ジンさんの姿はありません。かわいい子なので、なんとなくつられてタイジも笑顔になり、頭だけ下げると、彼女は続けて、
「先週はありがとうございます。たびたび見に来てくださって」
「え、え?」
 タイジはそこであらためて、受付の彼女に目を据えました。薄化粧して、ポイントメイクもちゃんとしていますが、どことなくまだ少女っぽくて、十八、九というところでしょうか。どこかの誰かに似ていると思う連想が高校時代の倫子につながり、タイジは
「君、シャワー?」
「はい」
 シャワーはころころと朗らかに笑いました。
「わからなかったんですか?」
「だって、髪黒いじゃない。金髪タテロールどうしたの」
「あれはカツラです」
 へえ、とタイジはもういっぺんシャワーの素顔と地毛を眺めなおします。カツラを脱いだシャワーの地毛は、ごく普通の女の子と変わらず、あかるい茶褐色に染められ、肩にちょっと足りないくらいの短いウェーブヘアでした。前髪はビーズピンの何本かで片側にあげ、目化粧もツケマなしで、淡いマスカラだけですが、もともとの目鼻立ちがきれいなので、タイジとしてはそれで十分でした。
「なんでここにいるの?」
「ジンさんが、今日は遅出なので、代りにギャラリー番してるんです」
「君が?」
「はい。この展示、あたしの母が主催しているから」
「そうだったの」
 タイジはあらためてギャラリーをぐるりと見渡しました。入り口とその脇のスペースを除いた三方の壁にそって、きちんと展示台が整えられ、作品照明はほぼ全開。一方向からの光線で生まれる影を消すために、いくつかの方向からのライトをフル調整して、作品の隅から隅まで見えるようにセットされています。展示品はというと、色合いはわりと地味めのかっちりした手提げバッグ、巾着、暖簾、クッションなどなど、いかにもまじめな主婦の、手の込んだ趣味の手芸品といった小間物が、特に奇をてらう風もなく、ほどよい間隔を置きながらどっさりならんでいます。
「お母さんの作品展?」
 タイジはシャワーに話しかけながらも、注意して彼女の正面に顔を向けるようにしました。先週とはうってかわったあかるい照明の中で、案の定、シャワーの視線は懸命にタイジの口の動きを追っているのがわかるからでした。
「この布は、ぜんぶ手織りなんです」
 シャワーは受付から立ち上がり、壁にかかったタピストリをはずしてタイジに見せました。
「手織り? お母さんの?」
「母だけじゃなくて、母の主催する作業所で働いている知的障害者の方の作品がほとんどです。その方たちが織り上げた布を、またこうしてバッグやクッションカバーに仕上げて販売しています」
 シャワーが受け付けのすぐ横の壁に啓示した展示内容の説明書きを示したので、タイジはようやくそれに気づきました。
「地域作業所、サキオリ…」
「さおり、って読みます。この布は、使い古したいろんな布を細く裂いて、また長く繋いで縒り直し、それを機織しているんです。だからほんとうは裂織りなんですけれど、古い布を裂いて、そこからあたらしい何かが〈咲く〉ようにって、この字にしたんです」
 熱心に説明しながらも、シャワーの両手はともすると、普通のひととは違う動き方をかすかにするのに、タイジは気づいていました。手話かな? それとも空書だろうか、とタイジは思い切って、
「シャワー。失礼だったら、ごめん。最初にあやまっとく。君、たぶん耳が不自由だね」
「はい」
 シャワーは素直にうなずきました。
「ぼくの話、わかります?」
「わかりやすいです。すぐに感じました。ミネモトさんが気を使ってるの」
「安心した。ぼく手話できないから。ライブとてもよかったよ。君たちの名刺もらって、あのあと挨拶メールだそうかなって思っていたんだけれど、いろいろバタバタしてて。ほんとに、君たちのスケジュールの空きがあったら、ぼくのギャラリーでも歌ってほしいって思っています」
 シャワーの笑顔が顔いっぱいにひろがりました。
「ありがとうございます。嬉しいです。年内はちょっと無理ですけど、年明けなら、リンスとスケジュール調整して、ミネモトさんところでもやりたいねって話しているんです」
「みっちゃんとペア組んでどのくらい?」
「二年とちょっとかな」
「オカリナは十年前から始めたって言ってましたよね」
「はい」
 シャワーの声は明快で、癖も歪みもなく、まるで普通の少女と変わらないのでした。
「あのライブのときぼくちょっと驚いたんだけど、途中からぼくの友人がセッションしたでしょ」
「ええ」
「君、すぐに彼のフルートが混じったのに気がついたみたいだったけど、どうして?」
「聞こえたから」
「聞こえた?」
「ヒョウガさんの音で、会場の空気が動いたのでわかったの」
「空気の動き…って。どんな感じなの?」
 シャワーは視線をタイジの顔からはずし、適切な言葉を自分の内部から取り出そうとするかのように伏目がちに小首を傾げました。そうすると、彼女の睫毛の自然な影が、なめらかな頬に長く落ちて、タイジがこれまで何度も何度も息づまるような思いで見つめてきたシーラのある瞬間が、そこに二重写しに見え、タイジはつい横を向いてしまいました。
「わたし、ライブ会場ではたいていどこでも、かなり濃い匂いを蒔きます」
 シャワーは丹念に言葉を選びながら話そうとし、伏せた目をタイジの方に戻し、タイジもまた彼女に視線を据え直しました。
「そうだったね、こないだも」
「お客様が不愉快でないといいなって心配になるんですけど、匂いで会場の空気を染めると、空気の流れが、その匂いの濃淡で皮膚感覚みたいに伝わって、あ、今みんな乗ってるな、とか、じっくり聴いてくれてる、とか、その逆に、なんだか落ち着かない、希薄なざわついた感じがするとか、オカリナを吹いていても感じ取れるの。集中しているときは、自分のオカリナの音が、会場全体の匂いっていうか、空気を動かしている感覚」
「へえ」
「あのとき、ヒョウガさんが混じってきたとき、会場はとても静かで、みんな耳を傾けてくれていたわ。わたしはリンスの声と自分のオカリナがうまく溶け合う気持ちの良い……なんていったらいいのかしら、すべすべしたなめらかな感覚だった。それからいきなり匂いが揺れて、違う波動が伝わってきたら、フルートを構えている彼がいた」
「オドロキ?」
「はい。でもヒョウガさんはよく光る眼で、あたしに大丈夫だから続けて、と言っているようだったので」
 敏感だなあ、このひと、とタイジはシャワーの説明を聞きながら思いました。
「そうなんだよね。彼、眼で喋るだろ?」
「はい。あそこに来てくださってたオーナーのお友達って、眼で喋るひと多かった。だからあたしには逆に楽っていうか、居心地よかったです」
 ということは、たぶんシーラやメグのことだろうとタイジは思いました。ところが、
「ミネモトさんも、眼で伝えてくれるから」
 シャワーの言葉に、
「ぼくも? そうかなあ?」
「はいそうです」
 シャワーはまた笑顔をひろげました。
「いつも香水っていうか、ぼくにはよくわかりませんけれど、いろんな匂いを使うの?」
「できるところでは。でも使えないところもあります。そういうときは、控えめに、ふつうのパルファン程度に自分だけ」
 とシャワーが言いかけたとき、入り口の暖簾がチリン、リン、と涼しく鳴って、お客が入ってきました。
 あ、とシャワーの表情が変わったので、タイジは彼女の知人だろうと察しました。親子らしい二人づれで、母親らしいひとは六十歳そこそこ、キャメルのハーフコートの前をきちんと合わせ、有名ブランドのハンドバッグを提げ、息子は、赤いチェックのネルシャツをブルゾン替わりにタートルネックのセーターの上にがさっと着た、三十にはまだ達していないだろうという痩せぎすの青年。女性はタイジにうっすらと反射的な愛想笑いを浮かべましたが、青年は警戒心を隠さない硬い表情をしています。
「それじゃ、また」
 気まずい空気を察し、タイジがシャワーとの対話をやめてギャラリーを出ようとしたその間際、ふと
「そうだ、シャワー。君の本名何ていうんですか? 差し支えなかったら教えてよ」
「さおり、です」
「この咲織のサオリ?」
「いいえ、早朝の早に、織は同じ」
 きれいな字だ、とタイジは頭の中で〈早織〉という名前を思い浮かべました。
「近いうちにメールします」
「そうしてください」
 と言いかけるシャワーに、入ってきた青年がつかつかと近寄り、タイジとシャワーを隔てるように彼女の肩をつついて自分に注意を促し、手話を始めました。タイジが母親のほうを見ると、彼女は愛想笑いを困惑した微笑に変えましたが、何も言いませんでした。
 作業所の…さんで、とシャワーの小声のフォローをタイジは聞き流し〈個室〉を出てゆきましたが、おそらく軽度の知的障害者に違いない青年の、ぎこちなく、またあからさまな態度は、タイジの心を害することは少しもありませんでした。
 廻廊に出て、何気なく腕時計を見ると、もう午後の二時近くでした。
「やべっ」
 とつぶやいたものの、タイジはたいして急ぎもせず、エレベーターではなく階段を下って〈花絵〉に戻ると、入り口の扉は開いていて、なんとジンさんが居座っていました。
「なんで?」
「君の留守番と、ついでにさしいれ」
 ジンさんはスタバのコーヒーカップを突き出しました。まだ冷めていません。
「ありがとうございます。ここ、開けっ放しだったんだ。今までジンさんのとこにいたんですよ」
「知ってるよ」
「知ってるって?」
 ジンさんはにやにやしました。
「上まで行ったんだけどね、君らフィーリングよさそうだから、邪魔しなかった」
「……」
「いい子でしょ」
「……」
「なんで黙ってるの」
「…眼で喋ってみただけだよ。でもジンさんには通じないからやめた」
「うん、俺って女性の眼の色しか読めないの
アシカラズ」
 ジンさんは舌なめずりするような口調でタイジの顔色を測り、
「シーラさんもときどき読めなくなるけどね」
 と付け加えました。タイジは憮然として言い返しました。
「ぼく、彼女はしょっちゅう読めませんよ」
「けど、このごろ会ってるんでしょ?」
(地獄耳め、コンチクショウ)
 タイジは寝不足のせいもあり、珍しく突っ放すように
「言っとくけど、俺今日機嫌わるいよ」
「ほー」
 ジンさんはへいちゃらでした。
「やっぱりシャワーじゃダメ?」
「心は部品じゃないですからね。なんだよジンさん。シャワーとは、ただ展示のハナシとかしてただけだよ。それにシーラさんとだって、こないだ一度つきあってもらっただけだし、それも仕事っていうか、仕事の延長みたいなものだよ」
「曽郷はつつがなくしてる?」
(キショー。かまされたな、俺)
 タイジはジンさんのくれたコーヒーをぐっと飲み込み、頭に逆流した血液をコーヒーといっしょに肉体に押し戻しました。
「オミゴト、ジンさん。伊達に火宅生きてないね」
「わかる?」
「シーラさんが洩らすはずないもん。曽郷斗で推理したわけ? 彼女はジンさんと彼が面識あるんじゃないかって言ってた」
「まあね」
「なんで気になるの?」
「縁ありきってとこ」
 女性関係か、とタイジはジンさんのへらりとした笑顔を眺めながら考えましたが、
「俺、曽郷のこと何にも知りませんよ。知っているのは担当利用者さんのナントカ氏。ジンさんの聴いて面白いようなエピソード、俺から引き出すのは無理だよ」
「りっぱな節操だ。君が友人でよかった」
「繰り返すけど、俺機嫌悪い」
「んじゃ帰る。トンヅラズラカリアシカラズ」
 ジンさんの、タレ眼をほそめたヘラヘラ顔から、彼の表情を読むのは、今のタイジにはできませんでした。タイジはぼそっと
「たまには捨て台詞なしで消えてよ。こっちまで妙な癖つくよ。トンヅラズラカリドッチラケ」
「その体力あるなら大丈夫だ」
「もちろん」
 ジンさんが退散したあと、タイジはともかくギャラリーを片付け(といってもたいして汚れているわけでも、準備が必要なわけでもないのですが)、すっかり冷めてしまったジンさんのコーヒーを飲みながら、今日はお弁当を持って来なかったことにようやく気がつき、我ながら苦笑いしました。
「体力勝負だ。何か買って来るしかない」
 金曜日の午後で、そろそろフロアを覗く客足も増えてきた矢先ですが、寝不足+朝からろくに食べていない胃に、ミルクコーヒーでも、カフェインがきつく沁みるようでした。
 一番近いコンビニで買出しするのに往復約二十分と計算して、戸口に鍵をかけたところに、
「あれ、もうおしまいなの?」
 廊下の向こうから声が飛んできました。
「みっちゃん来たの。おしまいじゃないよ。ちょっと買い物行こうとしただけ」
 倫子の金髪はカツラではなく、地毛を丁寧にカールして染めたもので、今日彼女はそれをポニーテールに結っていました。化粧もシャワーに比べればずっと濃いし、ふつうサイズのツケマもしています。服装はわりと控えめで、フードと襟の端に、フェイクファーのついたロング丈ダウンコートを着て、つま先のとがったスエードのショートブーツを履いています。カーキ色のブーツには茶色や黒のラメ飾りが、縫い目に添っていっぱいついていて、歩くたびに彼女の脚元がキラキラして見えるだろう、という感じです。
「いいよ、入って。買い物、べつにどうしても必要じゃないんだ」
「そお? これおみやげ」
 と倫子は名店の紙袋を退治に渡しました。
銀座通りにかなり大きな店を構えている洋菓子店の詰め合わせです。
「ミネモト君、甘いものオッケーでしょ」
「うん…オッケー」
 ちょうどよかった、これでしのぐか、とタイジは〈花絵〉に戻り、倫子の眼の前で包みを開けると、無造作にいくつか取り出し、呑みかけのスタバのコーヒーといっしょに、遠慮なく、あっという間に食べてしまいました。
「あーおいしかった。みっちゃんさんきゅ。俺じつは朝から何も食べてなかった」
「マジ? もしかして宿酔?」
「違うよ。いろいろ忙しくてさ。今日はどうしたの」
「どうしたのって……打ち上げのとき約束したじゃない。ミネモト君のギャラリー見せてもらうって。下見と、花緒さんの作品鑑賞」
 そうだった…とタイジははっきり思い出せないくらいに酔っ払った打ち上げパーティーでの倫子との口約束の記憶を、どうにかたぐり寄せました。
「それに、今日〈個室〉にシャワー来てるのよ。お母さんの作業所の作品展で」
「うん、さっき見てきた」
「あらそう。彼女といっしょにこのあと年末ライブ予定のとこにもうひとつ行って、スタッフと打ち合わせるつもりなんだ」
「どこのライブハウス?」
「吉祥寺」
「みっちゃん今どこに住んでるの」
「吉祥寺。ライブハウスの近く」
「それじゃ、実家出たの」
「ええ」 
 タイジはそれ以上は訊かないことにして、ちょうどうまい具合に、続けて〈花絵〉を覗きかけた客を数人招きいれるとウィンドーを遮光し、N版をONにしました。
 上映が終わり、倫子以外の客が出てゆくと
「面白かった。ミネモト君の才能っておばあさん譲りなのね」
「お世辞よして。でもさんきゅ。俺はヌキにして、ばあちゃんよろこぶよ。さっきシャワーに聞いたんだけど、年明けくらいならいけるって?」
「そう。一月末から二月始めくらい」
「どこかの週末でどう? DMはよければこっちで作るから」
「集客は、そんなに心配しなくてもいいと思うわ。このくらいのスペースなら、口コミでも充分埋められる」
「えらいなあ。ちゃんとファン持ってる。ずいぶんパワーあるみたいなのにメジャーデビューしないの?」
「寸前、ちょっと」
 即答するリンスの顔に曇りがないので、タイジはもうすこし踏み込んでみました。
「迷ってる?」
「あたし個人じゃなく、彼氏がね」
 あっけらかんと言う倫子を、タイジは感心して眺めました。
「みっちゃん、変わったねえ。悪い意味じゃなく。高校時代は、こんなに……なんていったらいいかなあ」
「スレてなかった」
「スレてないよ。なんというか、突き抜けた感触」
「そうねえ、いくつかトンネルくぐったわ」
「トンネルか。シャンプーの歌って、みっちゃんが作ってるの?」
「曲だけ。作詞はシャワー」
「ええっ。それかなり驚く。歌詞ずいぶん大人っぽいじゃない」
「でしょ。シャワー、幼く見えるけど、あたしより一コ上なのよ」
「……十代かと思った」
「ハートはね。純粋なまま。顔もだから少女のまんま。不思議な子なのって、あたしもついこんな風に言っちゃう」
「シャワーは、耳が不自由だと」
「ええ。片方の耳は生まれつきで、もう一方は、成長してからの病気だって。どちらかの耳は、ときどき聞こえることもあるみたい」
「君たちのユニット形成も不思議だね。どういうキッカケ」
「インタビューみたい」
「ギャラ弾むから」
「長くなるから、はしょるけどいい?」
「いいよ。言いたいことだけで」
「シャワーは、彼氏の姪なのよ。あたし、音大時代、いろいろスランプの時期に休学してたの、そのころのバイト先で今の彼と知り合って、精神的にも物質的にも助けてもらった。
声楽に転向したけど、自分のやりたいことがわからなくなって、自律神経は狂うし、親とも揉めるし、ぐちゃぐちゃ。彼氏と出合ってほんとに神様のお導きって感じだったの」
「いいね、それ。運命的」
「そう。ひとそれぞれ、運命ってあるなと思える出会い。ここではしょるよ。彼氏のことはさておき、歌えなくなってたし、演奏も限界。真っ暗だったあたしに、彼がシャワーを引き合わせてくれたのよ。ぼくの姪で,詩を書く子がいる、顔もあたしに似てるって」
「顔だけじゃないってこと?」
「いっとき、離人症だったこととか」
 苦しげなアクセントもひずみもなく、さらりとした倫子の言葉に、タイジはすぐさま返すこともできず、二人の間に一瞬ちいさい沈黙がはさまりました。倫子はにこっと笑って
「オドロキ?」
「そりゃあ」
「変わんないね、ミネモト君」
 倫子のほうが、しみじみとした口調に変わりました。
「なんで? どこが?」
「あたしら高校時代、クラスメートっていうだけで、そんなに仲良かったわけでもないでしょ。ふつう一般のトモダチスタンス。なのにあたしのコンフェッションに、マジに反応してくれるんだもん」
「つまり手短に言うとどういう意味だよ」
 タイジは笑い出しました。
「コンフェッションて、告白? 誰だって驚くじゃない、あの優等生で美人のみっちゃんがー?って」
「たいていの子は、ああそうって感じで聞き流すだけよ。心にかけもしない。すごく仲良かった子でも、あたしが神経症だったって言っても、表面は同情してくれたりするけれど、底のほうは無関心だったりする。そういう希薄さって、一回底まで落ちた人間にはかなり見えちゃうのよ。なのにミネモト君はそうじゃない。中学、高校のころから優しい少年だな、って思ってたけど、今も変わんないって感じたの」
 倫子は少年、という言い回しに、いたずらっぽくアクセントを強めました。
「優しい、か」
「あたしは嬉しいわ」
「微妙な気分」
「なぜ?」
「いつのまにかインタビュアーはどっちだよ」
「ギャラ前倒しで……うそウソ。言いにくそうだからやめるわ。優しいって言われて喜ぶ男の人、たしかにあんまり多くないかも」
「だよね」
「でも女にとっては嬉しいってことも事実」
「ほんと?」
「あ、声がはずんだ。わかったぞ、ミネモト君。君のビミョーの理由」
「あー、もうやめる。で,離人症だったみっちゃんが復活したのはシャワーとの出会いのおかげ?」
「それもあるけど、いちばんは、やっぱり彼との関係。だって彼氏いなかったらシャワーと知り合うこともなかったし、もういちど歌って、ここまで進みだせるかわかんなかったもの」
 こんにちは、入ってもいい? とおずおずした声が聞こえ、タイジと倫子が同時に入り口をふりかえると、シャワーが覗き込んでいました。
「あ、ごめんごめん。待ち合わせ時間過ぎちゃったね。今タイジ君にトツゲキインタビューしてたのよ」
 倫子は背もたれのない丸椅子の、上半身をひねってシャワーに向き直りました。
 素顔に近いシャワーと、昼間でもちゃんとメイクした倫子が並ぶと、タイジには倫子の昔と今を同時に目のあたりに眺めるような気がしました。
(ぼくらより一歳上ってことは二十六、七ってことか。お化粧してなかったら、シャワーは十六歳でも通りそうだな)
「リンス、もう三時近いから、そろそろここを出ないとまずいわ」
「そうね。じゃ、ミネモト君、あたしたち今日はこれで失礼します。シャワーはミネモト君のおばあさんの映像見たの?」
「まだ。咲織の展示期間中、何度か来るから、そのとき見せていただきます」
「念のため、ここ開けてるのは週末だけですから」
「それじゃあ、あさってくらいにうかがえたら来ます」
 二人は〈花絵〉を去り際に、タイジにかるく頭を下げて出てゆきました。何気ない折りかがみのすっきりした仕草に、この二人の育ちのよさと、今の生活がちゃんとしていることも見てとれ、新しいきれいな女友達との出会いと再会は、とげとげしくなりかけていたタイジの気持ちを和らげてくれました。

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