さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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Posted by 水市夢の on

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オカリナ・シーズン 4 クォーツはさよならの数で

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 メグの部屋には、安美さんから譲られた古いアップライトのピアノがあります。ママが亡くなったのはメグが七歳になる少し前なので、安美さんがピアノを弾いていた記憶は幼心にはっきりと残っていないのでした。
 駿男さんは、安美さんが亡くなってから、娘にピアノを習わせ始め、週に一度、近所の音楽教室に通うメグの進歩の具合はというと、学校の成績と似たり寄ったりで、良くも悪くも中位。のらくらしたお稽古事の範囲で、めざましい才能が見えることもないのですが、ピアノの先生は優しくて楽しいし、もともと歌ったり弾いたりするのが好きな性格だから、毎週怠けずに通い続けていました。
 お稽古日は土曜日の午後か、日曜の午前中のどちらかです。だから金曜日の夕方になると、メグは翌日か翌々日かのレッスンめがけて、どうにか辻褄を合わせようと、学校の宿題もテレビもお出かけもさておき、必死で楽譜と鍵盤にかかりきりになる、というのがいつものパターンです。
 今日も学校から戻ると、ピアノの蓋を開けて運指の練習を始め、こまかい連音符が最初から最後までびっしりと連なって、まるで太い黒蛇が五線譜を昇り下りするような譜面の最後まで、まずまず弾きとおせるくらいになったか、という辺りで、時刻はふつうの家だったら夕ご飯の支度を始める時間になっていました。
「わ、もうまっくら」
 一休みしてキッチンに行き、ホットココアを飲みながら、メグは周辺の家々の窓明かりが際立つようになった暗闇を眺めて、今夜の晩御飯はどうしようかなあ、と考えるのでした。
駅前にある大手家電デパート店長のパパの帰宅時間はまちまちでしたが、娘のために晩御飯はなるべく家で食べるようにしているのでした。平日の晩御飯は、去年まで市の子育て支援グループのヘルパーさんが、日代わりで作りに来てくれていましたが、十歳になってからは、木曜日と金曜日の分は、メグが作るようになりました。
「まだ運指の方しか終わっていないのに、こんな時間になっちゃった。課題曲もお稽古しなくちゃならないし、レッスンに行くのはやっぱり日曜日にしようかな…」
 課題曲はメンデルスゾーンの「無言歌集」のなかのひとつでした。メグにとっては、まだちょっとむつかしい曲です。
 忙しいから晩御飯はこの際一品で間に合うシチューにして、サラダを添えて、などと考えていると、いきなり、ポーン、と鍵盤を叩く強い響きが耳に飛び込んできました。
 今、テレビもラジオも点けていません。
 メグはちょっと眉を寄せ、マグカップをテーブルに置くと、特に怖がるふうもなく自分の部屋に戻りました。
(また何かが始まるのかな。誰かの魂や迷い霊が来たのかな)
 夏以来、メグの実生活は、外見の変化なく穏やかに流れてゆきながら、内側では自覚しきれない激しい動揺があるのでした。先日の銀座での体験のように、視覚、聴覚に時折日常を覆す異様がまざまざと見え聞こえするのにも馴れてしまい、こどもらしい無鉄砲と生来の無頓着があいまって、何かが起こるたび、まるでインターネットのゲーム世界に没入する感覚にも似た面白ささえ感じているのです。まだ身心幼い成長期のメグが、きらびやかなパラレルの幻覚に溺れ、現実感を喪失する事態に陥るのを警戒するのは、シーラの役目になっていました。
 シーラだってまだ二十歳そこそこのはずなのですが、どんな経緯でサイコ・ヒーラーとしての冷静な自衛力を身に付けたのか、三次元と異次元とを往還する瀬戸際を、シーラは決して誤りませんでした。メグが加わってからは、彼女の判断と洞察はいっそう鋭くなり、
おっとり育ったメグが臆病ではないという美点も、こんな場合、シーラには危惧の一因でさえありました。
 リビングダイニングから自分の部屋に戻るわずか数分の間に、今度はボーン、と重々しいピアノの低音が響きました。誰もいないはずのメグの部屋で、たしかに誰かが鍵盤を叩いているのです。しかも、今さっき聞こえた二つの音は、扉と廊下を隔てた遠い響きではなく、間近で弾かれる音のように、どちらもはっきりと手に取るように聞こえました。
 部屋の前まで来ると、ドアはキイ、とかすかに鳴いて、手も触れないのに自然と手前にひらきました。ピンクやブルー、クリーム色、白、などなど女の子らしい好みの明るい中間色でいっぱいのメグの部屋の一隅に、古いピアノは黒々と大きな量感を占めていました。
 ピアノに付属の重い椅子も安美さんの形見で、黒塗りのしっかりした背もたれのある、いかにも昭和ふうのものです。その椅子に見知らぬ女の子がうつむき加減に座り、片方の人差し指をまっすぐたてて、肩を上下させる不自然に大きな身振りで鍵盤をでたらめに叩いていました。何度も何度も、不規則に、そして続けざまに休みなく女の子はピアノを叩いているのに、時々しか音が聞こえないのでした。メグは、自分の眼がおかしいのかと思いましたが、女の子がそれこそ力いっぱいピアノを鳴らそうとしているのは明らかで、腕と指をピアノに振り下ろすたび、彼女の小さい体が、椅子の上でぐらぐら前のめりに揺れるのです。でも、ピアノは容易に鳴らないのでした。
 女の子はメグと同じか、すこし年下のようで、メグの覗いている入り口からは、女の子の後ろ姿しか見えません。女の子とわかるのは、彼女が黒っぽいスカートを穿いているからですが、上半身の着物は、椅子の長い背もたれに遮られてよく見えません。彼女の両足は、踵が床に届かないので、ものすごく痩せた足首と爪先が、不安定にふらふらと床すれすれに揺れていました。暖房が入っているとはいえ、足元はずいぶん冷えるのに、彼女は素足です。
「あなた誰?」
 メグが声をかけても女の子は返事もせず、ただ虚空に指一本たてた手を、またばしんと鍵盤に叩きつけました。でも、無音です。
「そんなに強く弾くと、ピアノの音が悪くなっちゃうからやめてよ」
 女の子は相変わらず黙りこくって深々と鍵盤にかがみこみ、やけくそめいた力ずくで打ち叩いています。一回ごとに、女の子は人差し指を宙にまっすぐ伸ばし、自分で叩く回数を数えているようにも見えました。
「返事してったら」
 メグはピアノの椅子にうずくまっているようにも見える女の子の方へ一歩踏み出しました。
(やめろよ) 
 耳の奥で誰かが制止しました。
(だめだ。手を出すな)
(レノン?)
 ひさびさに聴くレノンの声でした。メグの内側のどこかがめくれあがり、そこから少年の〈かたまり〉が溢れてくるような感覚でした。それから心拍がいっきに強く、早くなるのがわかりました。
(レノン? あたし心臓が二つになったみたいな感じがしてる)
(ナイスな言い方だ。ぼく今体がないから君の中に間借りしている)
(体がない? ミカエルは?)
(そのうちわかるよ。今はとにかくピアノに喰いついている餓鬼に触るな)
(餓鬼?)
(妄執の鬼だ。遅かれ早かれこういうモノに付き纏われるようになるのさ、君やシーラみたいな子は。一匹だから、まだたいしたことはないんだが、こいつらはすごく厄介だ。ぼくがいてよかったな。追い出してやるけど、ちょっとグロテスクなもの見るよ。だけど逃げるな。弱腰だとやられるぞ)
(どうするの?)
 レノンが返事をする前に、回転椅子でもないのに、ピアノの椅子がくるりと回り、女の子はメグに向き直りました。がっくりとうなだれ、てのひらを上に向け、痩せた両手首を膝の上に投げ出すように置き、貧乏揺すりというのか、短い黒いアコーディオンスカートから突き出た裸の両足が、時計の振り子さながら、ぶらんぶらんと前後に動き続けています。足が揺れるたび、体全体が揺れ、女の子の顔を覆う前髪と、彼女の頬を覆う黒髪もいっしょに揺れています。女の子が自分の意志で動いているというよりも、誰かがこの子の体をつかんで激しく揺さぶり始めたように見えるのです。ゆらゆら、ぶらぶら…それが黒い重い椅子の脚ごとガタガタと床を鳴らすほどに大きくなったところで、彼女はひとことつぶやきました。
「鳴らないの」
 しわがれた低い声は、こどものものではありません。その声を聴いたとたん、メグは全身が総毛だちました。今までに聴いたことがない、ねっとりと絡みつくような、そのくせ乾いて感情の見えない、冷たい声です。
 女の子は顔をあげました。目鼻だちを見分ける前に、ただ真っ白、という第一印象。それも一瞬で、次の刹那には、彼女の顔の皮膚はずるりと斜めに半分剥がれ、その下の赤錆色の肉と、そこから滲み出る体液が彼女の上半身に拡がり始めました。
「邪魔だよ」
 ガタン、ガタンと椅子ごと大きく揺れながら、女の子はさっきまで鍵盤を叩いていた指を、まっすぐメグにつきつけました。ほそく、尖った指先一本は、またいきなりメグの至近距離まで伸びてきました。
「やだ」
 メグはひょいとその手をかわし、ちょうど手近にあった本を女の子に投げつけました。ハードカヴァーの本は簡単に女の子の顔面を直撃し、女の子は椅子ごと後ろにのけぞって倒れましたが、倒れたとたん、彼女の体は粉々に砕け、破裂し、ものすごい量の肉片と黄色っぽい体液、どす黒い血液とが、アップライトピアノの周辺に飛び散りました。
(レノン、なにこれ)
 レノンの返事はありません。
 破裂した女の子のどろっとした細かい肉片は、いったん壁や床、ピアノの鍵盤に飛び散ったあとすぐに、ずるずる、ぞろぞろ、とそれぞれの分裂が蠢いて蛆のように這い、メグのほうへと群がり寄って来ます。
 悲鳴をあげて部屋から飛び出そうとすると、頭のなかでレノンが怒鳴りました。
(逃げたって無駄だ。怖がるな)
(どうするの)
 メグはがくがく震えました。立ちすくんだ足元から、赤黒い、あるいは濁った黄土色の、いやな臭いのする蛆虫はもうじきメグの両足首へとりつきそうです。
「お前、邪魔だよ」
 というざわめきが一斉に、数知れず聞こえました。蛆虫一匹ずつから、その怨みの呟きが絞り出されてメグに襲いかかり、なにかのきっかけで、蛆どもは小さい蛇みたいに鎌首をもたげ、びゅっと虚空を飛んでメグの皮膚にとりつきました。
 ひっ、とメグは体を硬直させました。小さな蛆虫に、足首や膝の皮膚を食い破られる鋭い痛覚に、メグはとびあがりました。
「痛い、いや」
(殺せ)
 えっ?
(殺せ)
 なに、これは誰の声? とメグに迷う暇はありませんでした。それはメグの声でした。レノンの意志がメグの喉から放たれ、残酷に、冷たく、また一声
(餓鬼どもめ、死ね)
 コロシチャダメ…とメグの奥のほうで、ささやく声がありましたが、無数の蛆虫に皮膚を食い破られる火傷のような痛みに、メグは前後を忘れ、レノンのなすがままにひしがれてしまいました。自分が自分から引き剥がされるみたい……メグはぽっかりと宙に浮いたような、もうひとつの別なまなざしで、レノンの解放された……自分とは別な意志に支配されてしまった自身の姿を眺めていました。
 あたしの眼が青く光ってる。レノンが吼えてる。死ね、殺せ、焼き滅ぼせ、消えろ…コワイ、コワイ言葉。だめだよ、レノン。ヒーラーはそんなことしちゃいけない。たとえ餓鬼でも、それはイケナイんだ。
 でもレノンはメグの制止なんか受け付けませんでした。メグの足首に取り付いた蛆どもは、次々とマッチの火のように小さく燃え上がりました。自己防衛の瀬戸際まで追い詰められ、コムニタス、すなわち生きる意志そのものとなったメグの全身は、鉱物質の銀色に輝き、餓鬼を焼く炎の粒を弾き返し、火は逆流して、部屋じゅうにどろどろと弾けた餓鬼の妄執の破片をことごとく焼き潰してゆくのでした。餓鬼の燃える火は、家具や壁には移らず、ただめらめらと虚空を舐めて、しだいしだいにかき消えてゆきました。
(こうしなけりゃ、連中は永遠にのさばり続けるんだぜ)
(殺してはだめよ)
(どのみち本体はいっぺん死んでる。魂でもない。ただの執念の塊だ。そしてひ弱な精神にとりついて、エネルギーを吸い取る。どうにもなりゃしない。消してしまうのがいちばん良いんだ。ぼくがいなかったら、メグの未完成で柔らかい部分からとりついて、君、食い荒らされてた。シーラは何をもたついてるんだ。餓鬼なんて人間の欲のカスだから、いつだってどこにだって存在して、いつメグの身辺に出没したっておかしくないのに、何も教えてないじゃないか)
(レノン、でもあなただって餓鬼と同じようなことしてたじゃないの)
 なじる声に応えるレノンは、もういませんでした。虚脱してべったり床にしゃがみこんだメグの、さっきまで何十倍もの速度と密度で脈打ち、膨れ上がっていた心臓は、もとどおりすうっと小さくまとまり、ふたたび、コト、コトと日常の規則正しいパルスを刻み始めていました。

 
  あなたじゃないひとと逢うために
  髪を洗い 風景を見つめる
  約束は何時?
  忘れてしまったマニキュアに気づく
  触れることのない別れ
  飾らない指先だけあなたを覚えている
  塗りつぶすことのできない思い出
  きつく握ったのは あなたひとり
  痛いほど

  あなたじゃないひとと逢う
  今 何時?
  そのひともうじき来るわ
  あそこに
  でもここじゃない
  もう来ているかもしれない
  でもここじゃない
  あなたがいつも居たのは
  塗りつぶさない指先で
  そっと崩れる思い出
  もう誰も座ることのない
  陽だまり 風景

  愛しているなんて嘘でも言える
  誰にでも言える
  嘘だから言える
  でもここじゃない
  あそこじゃない
  あなたじゃない

  待っているのは
  あなたじゃなくて すぐに
  マニキュアを塗らなければ
  スパンコールで光らせて
  間に合わせる
  微笑んでみせるほかのひと

  思い出は化粧のうらがわ
  触れたのはうちがわ
  きつく握ったのはあなたひとり
  痛いほど
  風景 見つめて もういちど
  待っているのはあなたじゃなくて
  でも覚えているのは
  あなたの名前
  愛しているなんて嘘でも言える
  痛いほどきつく握ったのは
  ここじゃない
 あそこじゃない 待っているのは
  あなたじゃないけれど
  あなただけがいた
陽だまり 風景


 日曜日の銀座は、もう師走の気配が先走り始め、メトロやデパートのショーウィンドーも、浮き立つばかりに華やかな飾りつけできらきらしています。久我ビルも例外ではなく、晩秋を通り越して気分はもうクリスマス。プレゼントやオーナメントの展示品を扱うギャラリーや、ショップが目立ちました。
 今日はシャワーが来るかもしれないな、と朝眼が覚めて、タイジがいちばん最初に思ったことでした。それから携帯の画面をひらき、いつものようにシーラの画像を眺めました。
 月曜日か、木曜日か、また彼女と会えるんだろうか、とタイジは、逆上するまま、シーラとキスした晩のこと、そのときの感覚をまた思いだすのでした。
(優しい、とか優しすぎるとか言われたって、俺は俺ってとこなんだけどな。俺に言わせりゃ、ヒョウだって十分優しいぜ。優しいっていうか、寛大っていうか)
 シーラをはさんで、別に恋敵とは思っていないし、ヒョウガを過大評価してもいないつもりでした。
(あのまま強引に……しちゃえばどうにかなったのかもしれないけれど、たぶんそれでシーラさんが俺に……てことはないんだ)
 …の部分は、タイジにも名状しがたい何かでした。名状したくないシーラとの間隔かもしれません。
(……したからって、俺の心がおさまるってこともない)
 だけど、心だけでおさまるものでもない、ああ、ホント男はつらいよ、です。
 冬晴れの混雑した日曜日、ギャラリーの客入りは上々でした。開けて早々、タイジのつとめる介護事業所の先輩ヘルパーさん数名が連れ立って覗きに来てくれました。
「ミネちゃん、ミヤモトさんところに行ってるんだって?」
 と尋ねたのは、タイジのお母さんと同じく、もうケアマネで、事業所の役職など歴任しているひとでした。
「ええ。母に押し切られて」
「さすが涼子ちゃんよねえ。噂は聞いてる。けっこうむつかしいケアでしょ?」
「え、そんなこともないです」
 タイジは知らん顔して答えました。
(このケアマネさん、いいひとなんだけど、うっかり乗ったらヤバイこと言うぜ。みんなケア仲間だから、いいけどさ)
ベテラン中のベテランで、みんなの信頼厚く、ケアスキルを十二分に備え、対外的には思慮分別もあるひとですが、気心の知れた仲間うちでは、いくらか口と言葉の軽くなってしまうのは、まあ誰しもあることですが……。
 ひとの噂話は禁句、というより、ケアに限らずタイジ自身がそういう無駄話が嫌いな性格なのでした。自分の眼で確かめなくちゃホントも嘘もないよ、というのが彼の主義でした。だから、
「このビルの最上階に、ちょうど良い展示やってますよ。たぶん今日が最終日じゃないかな。知的障害者作業所のひとたちの、織物作品展です」
 と咲織会の話題に話を逸らしました。
「あら、じゃ寄っていこうよ。どんな感じの展示なの?」
「バッグとか、ショールとか……主に女性の小物が展示販売されてます。手織りだって」
「このビルでもそういう展示あるのねえ」 
 と言いながら、みんなは楽しそうに出てゆきました。介護職のひとが、休日にこうして出かけてきてくれるのはうれしいことでした。祝日も日曜も、デイサービスはともかく、訪問ケアワークは休みなし、というのが原則ですから。
 それからも客入りはまずまずで、午後一時から夕方まで、ほぼひっきりなしに映像を回して、あっという間に五時過ぎになっていました。土曜、日曜は毎週だいたいこんな感じでした。そうして、夕方になると、タイジの眼は、ごく自然に客の出入りにシャワーを探し始めました。
咲織会展示の最終日に、ジンさんが打ち上げをやるのかどうかわかりませんが、シャワーはお母さん主催だから、たぶん顔出しくらいはするはずで、ついでにきっとこちらにも来るだろう、とタイジは、なんとなく彼女を待ちわび、来客の気配がするたび、またそれがシャワーでないたび、ちょっとがっかりするのでした。夕方迫るにつれ、〈ちょっと〉の分量はだんだん増えてゆきました。
「こんばんは」
 かわいらしい、遠慮がちな声が聞こえたとき、タイジは自分でもびっくりするほど、その一瞬でいっきに心が弾んだのでした。もうこれで今日の最終客入りにしようかな、と映像の準備をし終えたところにシャワーはやってきて、ギャラリーの隅に、ひとつふたつ余っていた丸椅子に、ちょこん、という感じで腰を下ろしました。紐つきの白いボンボンが二つ付いたベージュのニット帽子を耳まで深くかぶり、ふっくらとしたロールカラーで首を覆う、ピンクベージュのショートコートに短めのキュロットスカート、ファー付きの黒いロングブーツを穿いています。やはり薄化粧で、初々しい表情も変わらないシャワーは、とても自分より年上とは見えませんでした。
「やあ、どうもぉ」
 とタイジはうまい言葉が見つからず、シャワーが座るやいなや、〈花絵〉のドアを締め切り、いそいそとN版のボタンを押しました。
 上映が終わると、シャワーはタイジの傍に寄ってきて、
「とてもよかったです。この映像とコラボできたらいいなって思いました」
「そしたらシャンプーの姿が見えないじゃない。ファンはがっかりするでしょ」
「ところどころで、この映像と歌とを部分的に組み合わせるって、できますか?」
「それならいける。気に入ってもらえてこっちも良かった。映像は何種類かあるんだ。季節によって画像の組み合わせとか、いろいろ変えてるから。映像時間もね。コラボ画像の内容が気になるんなら、どこかでリンスといっしょに確認選択してくれてもいいよ」
 素直にうなずくシャワーの、すべすべと上気したピンクいろの頬を見ながら、君たちフィーリング合いそう、と無責任なジンさんの台詞が、今あらためてタイジの胸うらを揺さぶり走ってゆくのでした。
「年末忙しい?」
「そうですね。週末はずっとライブです」
「平日はどうしているんですか」
「母の手伝いをしたり、点字書籍の翻訳をしたりしています」
 タイジの視線は、ごく自然にシャワーの手に注がれました。幅の狭い小さな手の甲は、頬とおなじくらいなめらかに見え、それほど長くはないけれど、細く白い指。なるほど、手先をこまかな作業に使うひとらしく、爪は伸ばさず短く切ってあり、透明マニキュアが、シャワーのリップスティックと同じ清潔な淡さで光っていました。指輪は右手中指に、スワロフスキーふうのグラスリングがひとつ。トップの飾りは、ピンククリスタルのイルカでした。
(彼氏いない)
 とシャワーの雰囲気と、イルカの指輪とで何となくタイジが直感したところに、左胸ポケットの携帯着ウタが鳴りました。
 シーラからでした。

 明日の夜、ハトさんと会う予定なんだけど、ミネさんもどう? 今日の午後、上京してきたってメールもらった。

 いいよ。ソゴウさんのケアはどうする?
ハト先生とはどこで会うの?

 タイジが返信メールを打つ間、シャワーは少し横を向き、手にした巾着バッグの中からメモを取り出し、何か書き付けていました。
「ごめん。友人から急ぎのメールで」
 シャワーはにこっと笑って何も言いませんでした。耳が不自由なひとには見えない、とタイジはシャワーと間近に接するにつけ思いました。といってもタイジはまだ視覚や聴覚の障害者ケアを担当したことはなく、知人友人にそうしたひともいないのですが。
「あたし、そろそろこれで…」
「展示の打ち上げ?」
 これで別れてしまうのが惜しいタイジは、シャワーに尋ねてみました。ささいなことにしても、彼のあまりしない詮索でした。シャワーは屈託なく、
「友達の朗読会でオカリナ吹くんです」
「へえ、どんな? どこで?」
「水道橋で。朗読するのは自費出版した詩集からの作品と、彼の好きな何人かの詩人や歌人の作品アンソロジーだって」
「ミニシアター?」
「ううん。喫茶店と本屋さんと、小さいシアターっていうか、パフォーマンスステージのある空間。もとは本屋さんだけだったんだけれど、数年前から多面的な表現スポットに変えたんです。そこのマスターの作品集中心」
 彼、という単語がシャワーの口からこぼれたとき、タイジは自分でも思いがけないほど心が波立ちました。それを表には出さないように平気な声音をとりつくろい、
「へえ、詩人なんですか、そのマスターっていうか本屋の店長さん」
「はい」
 とシャワーは毛糸の帽子のボンボンを軽く左右に揺するように顔を傾け、タイジから眼を離さず、
「ミネモトさんもいらっしゃいますか? 少し遅い開演なので、お酒の席になるかも知れないんですけれど。気持ちのいいサークルだから」
(あ、声より顔色気をつけなけりゃいけなかったっけ、この子には。でもなんで自分はこんなに動揺すんの?)
 シャワーって、かわいいんだから気が動いてアタリマエ、と〈自分〉ののんきな声が頭の中ですぐに返ってきました。だよねー。
(だけど美人のリンスには動かないぜ)
 つべこべ言うな、お前うざい。
 と、わけもなくあわてふためく心を抑えながら、
「行きます。面白そうな空間だから興味ある」
「じゃあ、せかすようで悪いんですけれど」
「わかった、すぐしまう」
 〈花絵〉戸締り確認は一分もあれば足ります。今日の収益だけきちんと整理し、小銭の多いずっしりとした皮袋を無造作にデイバッグに放り込み、お父さんのお下がりの結構センスのよいテーラード仕立てのダウンジャケットをひっかけました。
「ミネモトさんもジンさんもおしゃれ」
「俺はともかく、ジンさんは衣装に凝るね。
俺は時々、親父の不用品もらったり分捕ったりしてるだけだよ。ジンさんとはどこで知り合ったの?」
「ライブに来てくださったの」
 耳の不自由なシャワーとは歩きながらの会話は出来ず、ふたりの対話がそこで中断したところにまたタイジの着ウタが鳴りました。
銀座通りを歩きながら携帯をひらくとシーラです。クリスマスイルミネーションのきらめく大通りを、シャワーと並んで歩くタイジのハートが、また別な彩りでちかちかしました。

 ミネさんのケアには行かない。ハト先生と会う約束をしたのはJR桜木町の改札口に七時。晩御飯どうって?
 
 何事もなければ、なんとか間に合う。シーラさんハーレー?

 たぶん徒歩、たまには飲む。

(タマニハノム、ね、てことはふだん彼女あんまり飲まないの?)
 隣りを歩いているシャワーのことをすっかり忘れてタイジはシーラのメールを見つめました。そうだ、俺は彼女のこんな小さな日常の姿さえよく知らない。銀座の久我ビルで知り合い、直球まっすぐ一目ぼれだ。それからずっと片思い。周囲公認の片思い。どころか彼女筒抜けの横恋慕。まる二年と半。〈花絵〉といっしょに始まったってことだ。
「ミネモトさん、こっち」
 袖をかるくひっぱられて、タイジは我にかえりました。もう新橋駅に着いていました。
 ごめん、と声には出さず、心配そうなシャワーに眼と口パクであやまって、さらにトモダチカラノイソギメール、と付け足しました。


 さよならの数だけ
 こころの襞が増えて
 まるであたしは薔薇の花
 とてもいい匂いがするはず
 みんな大好きだったから
 たくさん笑って
 いっぱい泣いて
 嘘も精一杯 ついて
 たくさん自分の心を傷つけた 

 流した涙のあとに
 のこった傷から
 きれいなはなびら 伸びて
 透きとおった襞 ひらいて
 涙はそのまま蜜になり
 いい匂いがたちのぼる
 まるであたしは薔薇の花
 ローズ・クォーツ・ローズ

 神さまがくれたごほうび
 あなたと出会い
 また 泣くかしら?
 嘘を つくかしら?
 たくさんのはなびら 重ねて
 あなたに微笑む
 笑顔がいいね、とあなたが言った
 いつも笑ってる
 さよなら さよなら
 誰も憎んだりしない だから
 神様のくれたごほうび
 
 あたしはちょっと歪んだ薔薇の花
 ねえ あたしみたいに
傷ついたひとたち
 はなびらみたいに 愛して
 新しい やさしさ
 忘れないで
 あなたもきっと 薔薇の花
 誰かがあなたの前にたちどまり
 そっとキスして さらってゆくわ

 あなたに会えて よかった
 ローズ・クォーツ・ローズ
 ひかる涙は透けるはなびら
 傷からしたたる朝露のように
 あなたは ローズ・クォーツ・ローズ
 愛を 続けて 忘れないで
 ローズ・ローズ・クォーツ

 喫茶店〈ローズ・クォーツ〉は、水道橋駅を下り、東京ドームシティアトラクションズの裏手にありました。すこしごたごたした感じの通りで、小さな飲食店や雑貨屋が、昔のしもた屋ふうに並んだ一角に、アンティークな赤レンガの壁と外に張り出した飾り窓の、こじんまりとした外観でした。雑居ビルの一階で、上の階には、オフィスや美容室が入っているようです。
 おとぎ話みたいな雰囲気の寄木の扉は手動ではなく自動ドアで、間口もかなりひろく、タイジはこの入り口が外部と段差がまったくない、巧みなバリアフリーになっていることに、まず眼をみはりました。
「おはようございます」
 入るなり、タイジの眼の前で、シャワーが店内に向かってペコンと頭をさげると、
「オカリナ姫がやっと来たぞ」
 と陽気なバリトンが、彼女の声に応えて店の奥から飛んで来ました。落とし加減の照明がほのぐらく、香ばしいコーヒーや紅茶の香りの暖かくたちこめた店内のざわめきは、彼のひとことで、一瞬静かになり、次にシャワーを歓迎するいろんな声がそれまでのひそひそ声よりも、ずっと大きくふくらみました。
 タイジが何となく予想していたとおり、お客さまの三分の一くらいは障害者のようで、車椅子のひとも三、四人。ひとりずつヘルパーが付き添い、また車椅子ではない眼の不自由なひとには、ガイドヘルパーが寄り添っていました。〈ローズ・クォーツ〉は相当ひろい、調度やインテリアなどもスタンダードな欧風に凝った贅沢な空間なのに、用意された客椅子の数が少ないのは、ここを車椅子のひとがらくに動けるように、との配慮ではないかとタイジは見て取りました。
書店と喫茶店とパフォーマンスステージといっしょになった空間と言うから、タイジはもっと仰々しいスペースを想像していたのですが、店の半分を、長い木のカウンター席で区別し、向こう側は本屋さん、こちら側は喫茶室、という目立たない仕切りです。あちらで購入した本や雑誌を、お茶をいただきながらこちらで気楽に読めるし、行き来も自由でした。この時間、書店はもう閉まっていて、今のところ客入りは二十人前後です。
 ステージは喫茶室の中央にあり、大人が両手をひろげたほどの広さで、床から二十センチほど高くなった円形舞台で、それはタイジの見たところ、造りつけではなく、取り外しのきく簡易台のようでした。喫茶店のテーブルのあらかたは書店のほうに片付けられ、その円形をぐるりと囲んで、客席になっています。お客はパフォーマーの前後斜め左右どこからでも鑑賞することができるのでした。
「マスター、こちら峰元太地さんです。来年リンスと一緒に歌わせていただく予定の銀座のギャラリーのオーナーです」
 シャワーは帽子を脱いで、にこにこしながらタイジをマスターに紹介しました。
「はじめまして。ぼく詩人でここのマスターのハルバル牛尾です。ハルバルはカタカナね。それに牛のしっぽ。その程度の詩人。でもコーヒーうまいし。君が銀座でギャラリー経営? 若いねえ。見たところ学生みたい。学生企業家? ちょい違うって顔したな。なんでもいいや。仲間が増えたよ。オカリナはめったに人を誘わないからね、彼女の見る眼を信じて、今日から君はぼくらのトモダチ、今日はぼくのオンデマンド詩集の出版会、オカリナのアカンパニュマンで、ぼくが朗読…」
 立て板に滝、という太い声で喋りまくられ、タイジはあっけにとられました。アーティストは奇人変人も多いので、たいして驚きはしませんが、見上げるような大男のハルバル氏のゆったりしたバリトン声にふさわしくない早口と、すぐに目立つ片膝のひっきりなしの貧乏揺すり、顔の彫りは深くて、日本人にはめずらしく眼と眉の間が狭く窪み、がっしりとした顎のさきが、ラテン系西洋人みたいにすこし二つに割れていました。年齢は五十代から六十前、というところでしょうか。髪はここの照明の灯りでは赤茶けて短く縮れた巻き毛で、耳を隠すくらい、もしゃもしゃと重なりながら垂れています。この十一月も下旬という季節に、まっ黄色いアロハ模様の半袖をたった一枚素肌に着て、林檎のようにぷっくりと肥って前にせりだしたお腹を締め付けない黒いサージのズボンを、光沢のある黒皮のサスペンダーで吊っています。片手には青い表紙の、たぶん彼の詩集と、もう片手にはビールか発泡酒のジョッキを握っています。ぶあついガラスのジョッキは明らかにりっぱなドイツ製で、麦穂の貼りついた酒樽のかたちをしていました。
(なかなか衝撃的なキャラクターだ)
 とタイジは余裕を取り戻して、心の中で腕組みしながらハルバルさんを観察しましたが、それはこのひとがシャワーの〈彼〉ではない、という確信を得たからなのでした。
「よろしくお願いします」
 と、タイジはハルバルさんが喉を潤すためにジョッキに口をつけた隙を逃さず、ちゃんと挨拶しました。
 ウシオちゃん、始めてよ、とどこかから声が来て、また店の奥、レジの向こう側に垂れた中世ヨーロッパのタピストリ風の暖簾が割れて、すらりとした細身の若い女性が猫のように現れました。
 顔も眼も鼻もほそく、つややかな腰まで長い黒髪を束ねずにそのまま真ん中で分け、なで肩、柳腰。それでいて胸の大きく開いた黒いドレスに着負けしないゆたかな谷間がくっきりと盛り上がり、タイジは少々眼のやり場に困りました。時間を気にする彼女はタイジに自己紹介せず、ただ心持頭を下げて、赤いルージュの口元を緩めて微笑み、オカリナとハルバルさんに向かって、唇だけで何かを言いました。
「はいはいわかりました。じゃあ、オヒメサマ、始めましょうね」
 と歌うような口調でハルバルさんはオカリナの背中を押し、タイジの傍からステージに連れて行ってしまいました。シャワーはクスクス笑いながら嬉しそうにハルバルさんに従い、ステージの手前で、ようやくコートを脱ぎ、巾着バッグの中から肌色のオカリナをとりだしましたが、ふつうだったら手順悪く見えるところが、なぜかここでは、舞台と日常とがなだらかにつながり、シャワーの仕草やはにかみ、ちょっとしたとまどい、それからハルバルさんの貧乏揺すりや、ひっきりなしに鼻や首筋をこする癖など、雑多なすべてが面白く,異色な、眼に快い、パフォーマンスの流れに凝縮され、まとまっているのに、タイジは感心しました。
(ふたりのキャラが天然だからだ)
 とタイジは眺めました。素朴、天然、気取らない親しみや暖かさ、そこから派生する見た目の快さは、意図して作れるものではないのでした。
(ハルバルさん、もしかして多動性障害かもなあ)
 とタイジは会場を眺め渡して、また考えました。不随意運動のように膝や手が勝手に動いてしまうというケースは、タイジのそれまで携わったケア経験にも、いくつかあったのでした。
 そうしている間にも、来客は次々と増えて、シャワーのオカリナの始まるころには、店内の客入りは立ち見をあわせて、三十五、六人になっていました。
 その晩、シャワーが吹いたのは、シャンプーのオリジナルレパートリーではなく、タイジにも耳馴れた日本の唱歌や、よく知られた内外のポップスや、歌謡曲でした。
 ハルバルさんは貧乏揺すりしながらステージに起ち、ぎりぎりまで握っていたジョッキをようやく放して詩集をひらきましたが、朗読をはじめたとたん、膝の揺れはぴたっとおさまりました。持ち前の張りのあるバリトンが、深々と会場に響きわたりました。彼はオペラ歌手にでもしたいほど声量ゆたかで、マイクなしで読み上げる詩句は、ごく自然に心をひきつける節回しを持ち、水を打ったように静まった店内に、朗読とオカリナは交互に調和して流れ、その絶妙は耳の不自由なシャワーを気遣って、絶えずハルバルさんがシャワーの様子を横目でチラチラと見ながら、読み上げる間合いを測っている姿で、彼がリードしていると察することができたのでした。
 自作と、先人の詩人歌人のアンソロジーと言ったとおり、ハルバルさんの選んだ朗読作品はいろいろでした。その中には二つばかり〈曽郷斗〉の名前もありました。
 四十五分ほどの朗読とオカリナ演奏が終わると、出演者を交えての出版お祝い会になりました。ハルバル氏が堂々とお辞儀をするといっせいに拍手や口笛が沸いて真っ赤な大輪の薔薇の花束贈呈、また拍手。その客席から数人の青年が立ち上がり、会場整備にきびきびと動き始め、ハルバルさんの立っていた丸い舞台をふたりがかりでどこかへ片付けてゆきました。
 デイサービス勤務もしているタイジは、職業がら、車椅子の来客たちが、さりげなくヘルパー介助で順番にトイレに向かったり、またガイドヘルパーの付き添う視覚障害者が、店内のざわつく混乱を避けて、安全な席に移動してゆく、いろいろな段取りの手際よさを感心して見ていました。
 オカリナの周囲には、主宰者のハルバルさんと同じくらいの人が集まり、それぞれが手話や読話で話しかけているようでした。彼女の友人の輪の中に、ふとタイジに向かうきついまなざしを感じると思ったら、先日〈個室〉咲織会の展示ですれちがった痩せぎすの青年でした。黒いラム皮のジャンパーを前開きのままずっと脱がずに着ていて、その下は薄手のコットンシャツ一枚のようです。すこし背中の丸く、首がうなだれ加減の姿勢の悪さがもったいなく思える、集団の中でも個性のはっきり目立つ青年でした。
 ハルバルさんは、朗読が終わるやいなや片膝を揺すり始め、集まってきた周囲の友人たちに向かって、まとめて同時に話しかけ、また同時に返事をする、というちょっとした順不同の離れ業をごく自然にやっています。
「君何飲む? ワイン? ビール? ジョッキとグラス。どっちも値段同じ。多いほうが得だよ。詩はね、ぼくにとってインスピレーションじゃなくって、食欲そのもの。詩を書いてるのとピザつまんでるのと同じレベルでエンドルフィン放出される感じだよ。ピザはマルガリータだけ。シンプルに今晩はね。ぼくの詩はハーフ&ハーフ。食い物は奥に頼んでよ。カナッペとかある。たぶんケーキも。彼女が焼いてくれたやつ。脳みそと胃袋は直結してるんだ。ダイエット詩作ね。痩せたかって? 書いてる間は痩せてる。書き終わったあと喰うから、木阿弥ポエット。ついでに言えばダイエットポエット。喰いたくなると詩作する。そのあとで喰う。元気そうね、○○ちゃん。どこかのビエンナーレ出したって聞いたけど……」
 りっぱなもんだ、とタイジはハルバルさんの、文字通り太っ腹を眺めました。会話のあいまあいまに、ハルバルさんは句読点のように人なつこい笑い声をまじえ、次々とまんべんなく、彼を慕う友人とコミュニケーションをとってゆくのでした。タイジは傍らに車椅子を寄せてきたひとのために、すこし脇にしりぞき、車椅子の扱いにどことなく不慣れな感じのする介添えに手を貸して、車椅子のキャスターをあげ、ちょっとした床の段差移動を手伝ってあげました。店内はほぼ完全なバリアフリーですが、リフォームの痕が少し残り、喫茶店の空間を広げた部分の床と、もとの書店フロアとの境界の高低が、少しだけいびつになっているのでした。
「ありがとうございます」
 いかにも学生らしい若い青年は、こめかみの汗をハンカチで拭いて、緊張気味の顔にほっとした笑顔を浮かべました。
「慣れてるね、君もボランティアですか?」
「いや、本職」
「ええ、じゃヘルパー?」
「そう。君はボランティアなんだ」
「うん。大学のボランティアサークルで今夜は来たんだけど、まだ不慣れで、電車外出とかチョーキンチョー。先輩たちといっしょだし、牛尾さんの詩が好きだから」
「牛尾さんて、有名なの?」
「うーん。突き抜けてるひとだよ。ぼくらの大学のOBらしいってハナシだけど、たまにテレビとか出てる。自分のディサビリティ隠さないとこがいいんだ」 
「タレント?」
「そこまでは行かないと思うけど、とにかくマイペースな人物」
 車椅子のひとが、ボランティアの青年の手に触って、くぐもった声で何かを言いました。
青年は立ったまま、上半身を深く傾け、何度も聴き返しながら、構音の乱れた相手の声をなんとか聞き分けると、もういちどタイジに向かい、
「すみませんけど、一瞬ぼくのかわりに、レバー握っててくれます? 喉が渇いたっておっしゃるので、何かもらってくるから。君の分も運ぶよ。何がいい?」
「何でも。ビールでもチューハイでも、ワインでも」
「ありがとう。よろしく」
 タイジは車椅子のハンドルを握るとその手を離さずに、いつもの習慣で椅子の横に屈みこみ、車椅子に座ったひとと同じ眼の高さに腰を据えました。車椅子のひとは見た感じでは七十歳くらいの女性で、顔の表情の偏りから判断して、重度の左半身麻痺でした。
「こんばんは。ちょっとお手伝いさせていただきます」
 タイジは右側から女性に話しかけると、老婦人の顔がはっと明るくなり、うんうん、と微笑をひろげながらうなずいてくれました。
「初めて……」
「はい」
「会った。来たの?」
「ええ、ここに来たのは初めてです」
 女性は話好きらしく、不自由な口を懸命に動かしながらタイジにカタコトで話しかけるのでした。
「トモダチ?」
「うーん。そう、あのオカリナと知り合い」
「かわいい、良い子、オカリナ」
「ですね」
 ボランティアの学生が戻ってきたので、タイジは彼の握った利用者さん用のオレンジジュースを、やはり仕事の眼で点検し、やんわりと、
「えーと。これってちょっとトロミつけたほうがいいかもね」
「あ、そうか。さすがプロ。すいません、○○さん」
「ぼく行くよ。トロミやったことある? ここのキッチンにあるんでしょ?」
「助かる。いちおー事前研修受けたけど、適切かどうかあんま自信ない」
 頼む、と委ねられて、タイジはオレンジジュースの紙コップを持って、厨房にのこのこ入ってゆくと、奥に向かって、
「すいません」
 と声をかけました。
 はい、と柔らかい声は奥からではなくタイジのうしろから返ってきて、さっきの黒いドレスの細身の美女が入り乱れる客たちの隙間を、体をひねりながら抜けて、こちらへ近寄ってきました。
「あ、いそがしいとこドウモ。ここ、トロミーナとか、あります? お客様、このままだとむせて、ちょっと飲めな…飲みにくいから」
「ありますよ。お待ちください」
 こういうひとって、世の中にはいるんだなあ、とタイジは思わず惚れ惚れと彼女を見つめてしまいました。いまどき珍しい、癖のないロングヘアを肩耳にはさんで、白い胸元から肩に垂れかかる黒髪の曲線、細い顔、細い首、一重瞼に描き眉、どちらかというと小柄で、足首のベルトに光る鋲のついた、すごく高いピンヒールの黒いサンダルをはいています。ウエスト、腰骨、どこの肉付きもなめらかでかぼそく、筋肉らしい面の固さが見えず、それでいて胸元だけしらじらとふくらんだつややかな魅惑は、タイジにとって、まったくレアでした。アクセサリーは何もつけていません。一筆に描いたような全身の曲線美を際立たせるマーメイドラインのシルクサテンドレスだけで。
(シーラさんにもびっくりしたけど、このひともすごい。この胸、ホンモノか?)
「初めての顔。オカリナの友達?」
「はいそうです。峰元です」
「あたしはシトネ。〈詩と音〉って書きます。〈と〉だけ平仮名。牛尾のパートナー。よろしく」
 シトネはタイジの手から紙コップを受け取ると、食器棚からトロミ剤を取り出し、馴れた手つきで溶かし入れ、くるくるとかきまぜました。
 へえ、とタイジはシトネの手のスムーズな動きを観察しました。
「うまいですね」
「ええ。牛尾が喘息だから」
 はいどうぞ、と紙コップを返されたとき、何気なく触れたシトネのマニキュアのなめらかな紅色と、しっとりひんやりした指の感触が、タイジの記憶に、快く突き刺さるようでした。
「あなたは何を召し上がる?」
「じゃ、赤ワイン」
「……はい。グラスでどうぞ。そちらのお連れは?」
「連れ?」
 タイジが横とうしろをきょろきょろ見回しても、誰もいません。
「誰かいました? ぼくあっちのお客様の代理で来たんだけど」
「あら、いつのまにか。あなたのすぐ脇に、女性が待っていたの。あなたの肩に手をかけて」
 タイジは一瞬、絶句しました。すこし間を置いて、できるだけ平静な声で、
「その女性って、五十歳くらいの、落ち着いた感じの……」
「顔や年齢ははっきりわからなかったけれど、雰囲気はあなたのお母さまかな、と思ったわ。手を置いて、寄り添う姿勢だから、お連れって。今さっきまでいらしたのに、変ね」
(ヘン…)
 すくみそうなタイジの、目と鼻の奥が痺れて引き攣れる感覚でした。節さん、やっぱりいるんだ…俺の傍に、どっちの肩に彼女の手があるって?。
(あなたの命にかかわることはしない、と思う)
 シーラの言葉を耳の奥からひっぱりだし、なんとか心を静めようとします。
(とにかくトロミジュースを、あのひとに)
 タイジはごくりと赤ワインを一口含み、喉を転がり落ちるアルコールの熱い勢いを借りて、車椅子のほうにもどりました。
 介添えの青年にオレンジジュースを渡すと、タイジはもうそぞろに落ち着かず、さりとてここを出て、ひとり住まいのアパートに戻るのもいやでした。
(ひとりじゃないんだもんな。俺、節さんしょってんのかよ。ジョーダンきついぜ。何の因果で、彼女俺にまつわりつくの)
 なんだか肩が凝ってきました。この際カラ元気で、とタイジは手にした赤ワインを早飲みし、カナッペのトレンチを持って場内を回っているギャルソンから何種類かもらって、バリバリと食べ始めました。
(あ、うまいや。これもしかしてほんとのキャビアじゃない。スッゲー)
 とりあえず恐怖を食欲に紛らしながら、ギャルソンから赤ワインをお代わりし、黙っていると気が滅入るばかりなので、適当に周りに声をかけ、話しやすい何人かのお客と名刺を交換したりしました。出版関係のひとは少ない集いで、タイジが会話したひとたちは、年齢も職業もまちまちでした。看護師さん、サラリーマン、八百屋さん、タイジと同じく介護士さん、ダンサーにギタリスト、学生、かなり有名な企業を引退した立派な身なりのご隠居さん……つまり喫茶店と書店常連の、いろんな階層、さまざまな世界のお客さまが、今夜のお祝いにやってきたということなのでしょう。中には、某婦人雑誌で紹介されたことがあるタイジのギャラリー〈花絵〉を知っているひともいて、タイジには居心地のよい集まりでした。
 そうこうしているうちに、時刻もだいぶ遅くなり、気が付くと車椅子に乗った障害者さんたちは姿を消し、視覚障害のひとたちも、適度な頃合いを測って帰って行かれたようでした。
(俺も帰るか)
 酔っ払った勢いで電話してつかまえ、シーラの声を聴きたい(本音は逢いたい)と思いました。不安だから? でも彼女に、大丈夫よ、心配しないで、なんて慰められるのも、男の沽券にかかわる、と思うタイジでした。
(彼女じゃないもんなあ。それでもキスしたから友人以上くらいにはなったってワケ)
 わけのわかんない女って厄介だよなまッたく、と支離滅裂にぼやき加減。タイジは居残った客のかたまりの中にシャワーを探し、いつもよりだいぶ強引に、彼女の取り巻き連中をおしのけ、
「ぼくこれで失礼するよ。楽しかった。来年のリサイタル企画とか、また後日連絡しよう」 
 なめらかな頬をふだんよりもいっそう甘い薄紅に染めて、今夜はシャワーも、ほろ酔い気分です。
「あたしもそろそろ帰ります。タイジさんは……」
 すこしシャワーは言葉に詰まりました。ひとつ、ふたつ瞬きしてから、にこっと笑うと
「いつも金曜日から日曜日、あそこにいらっしゃるのね?」
「うん」
 彼女の言葉のはざまの沈黙がタイジの心に、ほんのりとしたうれしさを滲ませました。……の間に、シャワーから「どこに帰るの?」と尋ねられた気がしたからでした。口に出されなかった、言い出しかねた気配が、あっさりと互いの距離を縮められる気安さよりも、柔らかい感情をくれました。タイジの思い違いにしても、それは、シーラへの恋からは感じたことのない、また受けることもできなかったほのぼのとした彩りでした。
「帰るの君。何なら泊まっていってもいいんだよ。雑魚寝、どう? 床暖つき合宿。毛布あるし,明日勤務?」
 そこにいきなりハルバルさんのバリトンが飛んできて、少し遅れて黄色いアロハの巨体がどたどたと床を踏み鳴らしてやってきました。もうすっかり酔って真っ赤なほっぺたをぴかぴか光らせた彼は、やっぱり片手になみなみと注がれたビールのジョッキを握り、もう片方に自分の青表紙本を持ち、それでばんばん、といきなりタイジの背中をたたきました。
「ぼく君に惚れちゃった。だからぼくが君のこと忘れないうちにまた寄ってよ」
「え? なにそれ」
「ぼく惚れっぽくて忘れやすいの。ハラはデカイけど、男の容量狭いからね。惚れた相手はさっさと忘れないと次の恋ができないじゃない」
「はあ」
「つまりあれですよ、なんだっけシトネさん、夏にアナタがぼくに常食させる、酸っぱい半透明な海草食品。竹ざおにいれてつるつると打ち出す本格」
「トコロテンよ」
 ハルバルさんの斜め後ろになまめかしく寄り添った細身の彼女がささやきます。
「それそれ。トコロテン、ココロフト。つぎからつぎへと流動物が穴から出るでしょ。
 
ココロフトキミヲコフノミトコロテン

太くてもかぼそい恋の句。どぉ? 酔うとめちゃくちゃメイクができる」
(あージンさんと良い勝負だ。もしかして知り合いだったりして)
 でも、もう面倒なのでジンさんの話題は出しませんでした。
「メイクはメイワクの始まりってねえ」
 シトネはまたさらに涼しい顔で付け加えました。タイジはもはや条件反射となった冗談反射で、
「んじゃ、ぼく、芸がないからノーメイク。これで帰ります」
「持ってけドロボー、今の一本でぼくの青表紙の価値ありよ」
 グローブみたいなハルバル牛尾のでかい手で思いきり熱い握手をされて、胸元にぐいとおしつけられたハルバルさんの詩集の題は、たぶん偶然もしかしたらこれも必然、『脳迷宮 のーめいく』でした。

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