さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

スポンサーサイト

Posted by 水市夢の on

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

オカリナ・シーズン  5 寄り添えば淡雪

Posted by 水市夢の on   0 comments   0 trackback

 あたし、喰い荒らされてるの、助けて……
小さい片手がベッドの下から、死にかけた白い蛾のようにもがきながらはたはたと伸びてきて、寝ているメグの掛け布団の端をぎゅっと握りしめました。メグは目をつぶってベッドに横たわっていますが、眠りながらも、半分は目覚めていることがわかっていました。
目をつぶっているのに、誰の一部なのか本体の見えないつるつるした小さな手だけが、しきりにベッドのレールや掛け布団のあちこちを探っている様子が、はっきり見えるのです。手首から向こう側は、べったりした闇。メグの部屋の、ベッド以外のいろんな家具はその闇に塗りこめられて何も見えません。
 片手首は羽根布団の上を、さわさわと五本の指をこまかく動かしながらすり寄ると、メグの胸の上にたどり着きました。胸の上で手はてのひらをメグの顔のほうにむけてたちあがり、中指だけ前のほうにくにゃりと折れ、まるでその先端に目がついているかのように、メグの寝顔を、かるく左右に揺れながら覗き込んで来ました。
 メグの背筋やうなじ、こめかみには、いつのまにかじっとりと汗が滲んでいます。
(コワイ? こわくない……この手、何?
こわくない、気味悪い。喰われるって誰に、誰が? 怖い、いや、来ないで。動けない。動かないほうがいい? それとも逃げ出す?
この手は餓鬼なのかな。それはレノンが退治してくれたんじゃなかったっけ)
 レノンの声は聞こえません。放り出されたような気がしました。
(夢なのかな)
 レノンがメグの力を使って燃やしてしまった蛆どものどろどろした情景が、ひどいショックだったので、このひとりぼっちでさまよう手首くらいなら、恐怖に押さえつけられて金縛りになるほどではなく、メグは闇のなかで意識して瞼をひらき、肘をついてそっと上半身を起こすと、鼻先ににじり寄ってきた幼児のような手を見つめました。
 フラワーリボン模様のキルティング布団の上のほうに這い上がった小さい手は、メグが体をもちあげたので、すすす…と滑って下に落ち、メグの膝の上あたりでとまると、がっかりしたように指をぎゅっと縮め、握りこぶしのかたちになりました。
「あ、ころんじゃった」
 頼りない手の姿が、メグはなんだか気の毒になり、その小さい手をつまむと、自分のてのひらに乗せて、話しかけました。
「あなた、手しかないの?」
(ほかはうまく動かせないから、手だけで来たの)
 小さい手は、メグのてのひらに載せてもらうと、ほっとしたように拳の緊張を緩めて指をひろげ、小指側を下にして、コロンと横向きになりました。
「どこから?」
(それもよくわからない)
「誰の手?」
(迷子なの)
「どうしてここに来たの?」
(灯りが見えた……感じ取れたから。ここにくれば、なんとかしてもらえそう、と思って来たの)
「灯りって?」
(あなた、明るいの、すごく。暗闇の中であたし、動けなくなりそうだった。後ろも前も右も左もわからない。どこへ行ったらいいかわからない。どのくらい時間が過ぎていくのかも感じ取れない。もしかしたらずいぶん長いことぼんやりしていたのかもしれない。寒いなあ、と思っていたら、突然、ふっとあなたの姿が見えて、そこが暖かそうだから)
「片手しか来ないのはなぜ?」
(わからない。他の部分は動けない)
 横になった手の指それぞれが、メグの頭の中に聞こえる声といっしょに微妙な動きをするのでした。メグはてのひらの上のモノをつくづくと見つめました。全体にしなやかで、作りものめいた不自然な固さはなく、あまり大きいとは言えないメグの手にすっぽりとおさまるくらいですから、人にしては小さくて、でも指や爪などしっかりと成長した大人の整いを備えています。
(ねえ、いっしょに来てよ)
 突然、小さい手はメグのてのひらの上でひょいとたちあがるとメグの人差し指をつかみ、 
虚空の中に浮かんで、どこかにひっぱるような力を加えてきました。まるで仔猫か仔犬がじゃれかかって、メグの指をくわえて顎を振るように、ちいさな手首はメグの人差し指につかまって、左右に揺すり、おいでおいでのジェスチュアをするのでした。
 小さい手には全然腕力がないので、メグはちっとも無理やりな感じを受けず、最初は少しばかり感じていた怖さも消えて、
「どこへ、どう行けばいいの?」
 自分からベッドを降りて、小さい手のひっぱる方へ歩き始めました。
(こっち……こっち)
 メグはふわふわと人指し指につかまった手のなすがまま、真闇に入ってゆきました。小さい手は、メグの人指し指を握りながら、時折中指をかすかにもちあげ、メグのほうを向いて、メグの様子を窺っているかのようです。
メグが抵抗せずに、いっしょに素直に歩いてくれるので、指たちは、メグの手の先で、さわわ…とうれしそうに五本指をさざなみのようにひらめかしました。
 こっち、こっち……
 闇の中を寒さも眠気も感じないまま、メグ
はしばらく歩き続けました。
「まだ?」
(もうすこしね)
 甘えかかる手の声は、すこし強くなったようです。もうすこし、もうすこしね、すぐ、そこね……
 ぱあん、といきなりメグの体が空に弾かれ、自動車の急ブレーキの音、眼にまばゆいライトが闇を真っ二つに引き裂きました。
 あ、とメグは路線に突っ込んできた車両の向こう側に、仰向けに飛ぶ自分の体を、すこし離れた中空から見下ろしました。全身の衝撃、次の瞬間、無造作に放り出された抱き人形みたいに、メグはアスファルトにどさっと落ちました。 
落ちた途端に、メグの視覚は肉体にもどって、地面から夜空を見上げると、自分をここへだまして連れて来た、華奢な手首が五本指をひろげて宙に浮かび、てのひらをこちらに傾け、星の瞬きのようにちらちらと指を動かしていました。じきにそれは闇に呑まれ、同時にメグの意識も消えてゆきました。


素直に
こころやさしく 疲れて
  眠る あなたの耳に
  雨音は
  幸せの数だけ 響いて
  あたしのなかで 砕いてゆく
  凍った涙は
  あなたに 触れるとき
  いつしか淡い雪のひとひら

  何のために こころ固く
  体すくめて
  孤独 さらすの?
  どこにも
  行き場がないとき
  世界があなたに背いても
  あたしはあなたのそばにいる
 
  雨音の中で
  こころゆるめて 疲れて
  何もかも投げ出して
  凍えたかけら
  みんな流して
  冬の雨が街を濡らしても
  寄り添えば 淡雪
  
  あたしのなかで 砕いてゆく
  あなたの凍った涙は
  いつかかるい淡雪に変わり
  眠りの枕に触れては 消える
  凍てついたかなしみを
  思い出に変えて
  雨音は 幸せの数だけ響いて
  こころやさしく 疲れて 眠る
  あなたの耳に
  寄り添えば いつか淡雪
  触れては消える 淡雪


 月曜のソゴウさんのケアを、終了時間きっちりに終えて、市電の乗り継ぎも駆け足で、タイジが息せききって桜木町にたどり着いたとき、それでも待ち合わせ時刻の七時はだいぶ過ぎてしまいました。
 この日のケアは、緊張しきって出かけたわりには、まったく何もなく、食材は冷蔵庫に全部そろっているし、ソゴウさんもほぼ穏やかにクリアでした。とはいえ、ソゴウさん宅にいる間じゅう、前夜シトネに見咎められた節さんの気配を探して、タイジは自分の両肩にたえず神経が注がれてしまい、だいぶ気疲れはしたのでしたが、これが終わればシーラに逢えると思うと、たった一時間半の幻影なんかどうってことないぞ、という気になるのでした。さいわいなことに、その日もケア終了間際に苑さんが会社から早めに帰宅してくれたので、タイジは楽な気持ちでソゴウさんと別れることができました。
 昼過ぎたころからどんよりとぐずつきだした空模様は、夕方には雨脚のはっきりとした本降りとなり、ダウンを着ていても冬の雨の重い冷たさが体の芯に届きそうな冷え込みが始まっていました。駅前は人でごったがえしていましたが、駅構内の書店の前に立っている羽戸千香子の姿は、すぐに見つけ出すことができました。
 彼女は始めタイジに気が付かず、手にした雑誌を所在なくめくりながら、アクアブルーのマフラーに、小さな顎を埋めるようにうつむいていました。ライトグレーのトレンチコート、靴は雨支度には見えない、普通のシンプルなヒールパンプスでした。雑誌を持たないもう片方の手には、きちんと羽の留め金をとめた柄の長いスマートな葡萄いろの傘を、少し体の重心を預けるような感じで握っています。
(夏より少し痩せたみたいだ)
 髪も伸びて、頬に垂れかかる部分を彫金のバレッタで頭の片側にとめています。そうすると、耳もあらわになった頬から顎までの影と輪郭が、しらじらとした駅の光線のせいか、やや厳しく見えて、タイジはそのハト先生にすぐさま声をかけることができず、周囲を見渡してシーラの姿を探しましたが、約束の時間を違えることのめったにない彼女の姿がありません。
どこかでふとハトは顔をあげ、タイジを認めると、きれいな歯並びをすこし覗かせて見覚えのあるさわやかな笑顔をくれました。すると、うつむいていたときのものさびしい気配は消えて、なつかしく、いつもすがすがしかった彼女の記憶と、今の姿がぴったりと重なりました。
「元気そうね」
「遅れてスイマセン」
「シーラさんから、たぶんあなたは仕事で遅くなるだろうって連絡もらっていたから、気にしないで。オツカレサマです」
「で、彼女は?」
「あら、メール行ってない? 彼女,今夜遅くなるか、でなければ来られないかもしれないって」
 タイジは返事もせず、携帯をつかんでひらくと、マナーモードの設定のままで気が付かなかったメールサインが点滅していました。

 ごめん。今夜遅れる。行けなかったら連絡します。遅くなっても桜木町駅に着いたら、また電話するね。

 何があったのか、遅れる理由までは明かしてこないのは、いかにもシーラでした。
(ヒョウか?)
 タイジの胸に一瞬きつい感情が走りましたが、先約のあるシーラを強引にむしるヒョウガではないとタイジにはわかっていました。もしそうだとしたら、やむにやまれぬ切迫なのに違いないのでした。
(そんな雰囲気でもないな。いったいどうしたんだろ)
「連絡来てました。ケア中はマナーモードに設定してるんで、そのままだったから」
 ハト先生はタイジの心をほぐすように笑って、どこにいきましょうか、と尋ねました。
「駅近がいいでしょうね。ミナトミライのプロムナードくらいで、適当に」
「いいですよ。ぼくどこでも」
「行きつけのお店とか…ないよね」
 ちらっといたずらっぽい目をしてタイジの表情を測るハトに、タイジはあっさりと
「ぼくシーラさんひとすじですから」
「うわ、いきなり真っ向勝負か。でも、初めから試合にならない」
「ハト先生こそ、なつかしいお店ないの?」
「あったかもしれないけど?」
 ハトは傘をひらくとすたすたとミナトミライのクィーンズスクエアに通じる昇りエスカレーターに向かって歩き始めました。あたかもそこでタイジの質問を遮るように、傘の柄を肩に乗せて背中でくるりとひとつ回し、タイジは眼の前でいきなりはばたいた鮮やかなワインレッドの羽に気圧されて口をつぐみました。
 いくつかのレストランを覗きこみ、ハトはたいして選り好みもせずに、空席の適当なイタリアンに決めました。
「飲める?」
「飲めます」
「いける口?」
「どうかな…ハトさんのほうが強いでしょ」
「気分的には赤でいい?」
「はい」
 料理もお酒も、ハトがさっさと決めました。
「とりあえず、ボトルで頼むわ。一本くらいどうってことない。シーラは来るかしら?」
「わからないけれど、当日ドタキャンするってよっぽどのことだと思う。ハトさんのメールにも、彼女が遅れる理由知らせてこなかったんですね」
「ええ」
 ハトは、お酒が来るなりボトルを握るとタイジのグラスになみなみと注いで、それから自分で自分のグラスに注ぎました。タイジの手をはさむ余地はありません。それでいてすぐには口に含まず、テーブルに肘をついてグラスを傾け、ワインの香りを嗅ぐハトの仕草にタイジはなんとなく、すこし投げやり、すこし危うげな感じを受けました。
コートを脱ぐと、前身ごろの全面に細かいスパンコール刺繍の入ったオフホワイトのチュニックを着ていて、プラチナの二重ロングチェーンをかけています。チェーンは、ピアスとおそろいみたいでした。お化粧は、やはり控えめで、目元口許の色づかいも淡白で、すこし雀斑の見える小麦色の自然な頬の感じが、いまどきのまったりとした塗りこメイクとは違って、かえってこのひとらしいきれいさを印象づけるようにタイジには感じられました。
「どこに泊まっているんですか?」
「実家。横浜なの。上京したのは祖父が危ないって知らせをうけて」
「先生が?」
 タイジの声が思わず大きくなりました。訪問ヘルパーのタイジを可愛がってくださった
写真家の先生は、タイジがソゴウさんのケアに入る少し前に入院なさったのでした。
「やっぱり知らされてなかったんだ」
「うー。介護職の悲しいトコです。ケア以外のプライベートには触れない。個人的な交流は不可っていう。どんなに相性のいい利用者さんとも、依頼が終わればそれっきり」
「あたしを通じてなんだからいいでしょう。祖父はあなたをなつかしがっていたわ。まだすぐさま危篤ってほどではないけれど、もしかしたら今回の面会が、この世で最後になるかもしれない」
「そんなに」
「ええ」
 ハトはそのあとすぐに、
「祖父が言っていたの。ミネモト君はこれからどうするんだろうねって」
「どうするって? 仕事しますよ」
「おじいちゃん、ほとんど無駄な関心を示さない性格のひとなのよ。自分の定めた目標にむかってきっちり計画たてて、突進してゆくっていうか。だから交流はひろかったけれど、ほんとの意味で親しかった人、少ないタイプ。
彼があなたに気持ちを残すのは、それだけあなたのことが好きなんだと思う」
「嬉しいです。お見舞いに行きたいけど」
「あとでこっそり病院教える。暇があったら覗いてよ。ナイショで」
「そうします。でも、どうするって、どういう意味なんだろう」
「あたしもあなたを見ていて感じるの。もともと美大なんでしょう」
「はい。……なんだか、迫るなあ、ハトさん。アートと福祉って、そんなにミスマッチ?」
「全然! これからの医療や介護の場に、ほんとの意味でメンタルケアとしてアートはすごく大切だと思う。平均余命や健康寿命が伸びれば伸びるほど、生きていることの楽しさ、歓びを感じあえる仲間や空間、時間、刺激…ひろい意味でのレクリエーションを持つことが大事になるでしょ」
「ぼくそう思います。だから、ばくぜんと、将来はそんな方向に進みたい」
「舵取りは?」
「霧の中」
「方角も見えない?」
 どんどんハトさんは突っ込んできます。のらりくらりとしたジンさんの口ぶりとは違い、タイジはハトさんのまっすぐな言い方が気持ちよく、むしろそれを通り越して、ものすごく嬉しいと思いました。
(えー、このひとこんなに自分に関心を寄せてくれるの? 正直、意外)
「方角は、全然見えないってこともない。とりあえず、介護福祉士までは取得します。ケアマネまでは、わからない。こっちこそ訊いていいですか?」
 タイジはハトさんに突っ込まれたぶん、気持ちが大きくなり、逆にハトさんに矛先を向けてみました。
「ハトさんこそ、これからどうするんですか? ずっと信州にいるの? 実家は横浜なんでしょう。帰って来いとか親に言われません?」
「あたしは、品行方正な兄がいるから、両親も娘にそれほど期待してないな……我が道を行け、他人に迷惑をかけるな、しっかり働け、というくらいよ」
「品行方正。ハトさんの口から出ると迫力あるなあ」
「なぜ?」
「ハトさんなんて、才色兼備の権化みたいじゃないですか。お世辞じゃなくて。シーラさんとか、ガーネットもそうだけど。ぼくの周辺、凄い女性けっこういるってことか」
 ハトはすっきりした輪郭の喉をそらせて軽く笑い、
「ゴンゲって、何よ。もっとうまい誉め言葉にしてよ。でもさんきゅ」
 酔いが回ったのか、彼女の頬にはっきりと紅色がさし昇ってきました。笑顔のめりはりが普段よりいっそう大きくなり、このお店に入ったころに彼女を曇らせていた投げやりな印象はすっかり消えています。
「信州にずっといるかって? いいえ、いないと思う。来年の五月くらいには、できたら移動するつもり」
「へえ」
 タイジは目をまるくしました。その頃にはタイジもかなり飲んでしまっていたので、口も気持ちもなめらかにするすると動きます。
「じゃ、東京近辺に?」
「いいえ。九州に」
「またどうして」
 ハトさんは、ふふ、と微笑み、テーブルに置いた華奢なワイングラスの下から、タイジの顔をふざけるように斜めに見上げ、
「タイジ君にとって、ふるさとってどこですか?」
「いきなりなんだよ」
「訊いてるの。ふるさとってどこ?」
「自分の生まれ故郷、だと思う、普通は」
「なぜ生まれ故郷がふるさと?」
「そうだねえ。安心できるからだろ」
「心やすらぐところでしょ?」
「うん。ハトさんにとってふるさとって」
 そこではっとタイジは我にかえりました。
「ハトさん」
「なに?」
「九州のどこ行くの?」
「希望は大分。でも思い通りにならなければ周辺のどこか、北九州一帯なら、どこでもいいのよ。長崎、福岡、佐賀……」
「……」
「ミカエルにあたしの代わりの勤務医が見つかったら、決める」
「移動を?」
「ええ」
「ハトさんて、カトリックだっけ」
「いいえ。洗礼受けてない。無神論者です」
「じゃなんで信州のミカエルに行ったの。ごめん。あやまるのも変だけど、俺かなり酔ってるから、突っ込むよ。ミカエルに」
「心がやすらぐ場所だったから」
「移動するのはもう安心できないってことだね」
「そうではないけど、そうかもしれない」
「大分ならいいの」
「しばらくは」
 タイジは言葉を失ってしまいました。ハトさんの眼は酔ってはいず、澄んで、相変わらずさわやかな色をしていました。俺、こんなすっきりした視線持ってるかな、とタイジはふと思いました。
「なんで、ぼくにそれを聞かせたんです?」
「あなたが純粋だから」
「嘘だろ。俺不純だよ。だって純粋だったら、ハトさんのほのめかしなんかわかんないよ、たぶん。誰を追っかけてるの?」
「ゴースト」
「誰の幽霊だって?」
「あたしの」
「いつかつかまる可能性あり? 言いたくないけど、相手のひと転勤族でしょ」
 ククっとハトはほんとの鳩みたいな笑い声をあげました。
「そういえばそうね」
「だから洗礼受けないんだ。そういう問題じゃないか…でもなあ。ハトさん。すごい勿体ない気がする」
「気がすむまで渡り鳥よ。いつかふっと巣におさまるかもしれないし。誰にも迷惑はかけない。ただ見ているだけだから」
(なんだよ、それ)
「笑えないよ、ハトさん」
「あなたもね、あたしから見るとせつないよ、タイジ君」
「俺幸せだよ。彼女に会えて」
 ハトは頬杖をついて、もう片方の手で持ったグラスをぼんやりと揺すり、テーブルごとに灯った食卓ランプの光にワインレッドを透かして見つめ、つぶやきました。
「シーラ、幸せね。そんな言葉めったにもらえるものじゃない」
「そうかな……そうですか?」
「あなた、彼女とセックスした?」
「……」
「ルール違反かしら」
「どっちの言い方もよくわかんないよ。だって幸せとそれって関係あんの?」
 タイジは酔いの勢いで、ちょっとむきになりました。ハトは、グラスを自分の眼の前において、まるでその赤紫の凸レンズに映る膨らんだ自分と、グラスの向こう側のタイジとを二重映しにして眺めているようでした。
「じつはあたしにもよくわかんないの」
 とハトはすこし呂律のあやしくなった声で、またつぶやきました。
(からみ酒かよ。でも目がきれいだ)
 ボトル一本ほとんど飲み干してしまいましたが、ハトは泥酔しているようには見えません。
(したくないわけないけど、したからってどうなるんだ? 彼女が俺のものになるわけじゃないぞ。シーラさんならいっぺんこっきりであとは知らん顔なんて平気だろう。俺が欲しいものってなんなんだ。心か? それじゃキレイゴトすぎるけど、何か違うんだ。うまく言えないけど、何か違うんだ)
「ハトさんはどうなの」
「そう来るか、やはり。あたしはあたしと出会えて幸せって、誰かに言ってもらえたらすごく幸せだよ、タイジ君」
「え、そんな男冥利に尽きるうらやましいひとって……」
「そう? 自分の存在が誰かを幸福にするって実感、かけがえのないものじゃない。そんな風に思ってくれるそのひとのおかげで、自分もまた生かされる、そういう感じよ」
(てことは、そんな風にハトさんはそのひとを追ってるんだなあ。傷つけないように…きっと…)
 そのときテーブルに置いたハトの携帯着ウタが鳴りました。バッハのゴールドベルグ変奏曲の一部分のオルゴール版でした。
「シアワセモノから電話が来たぞ」
 ハトはタイジを横目に見て、男の子みたいににやっと笑い、
「もしもし?」
 タイジはなんだか聞いていられずに、手洗いに立ちました。腕時計を見ると、もう十時過ぎ。シーラがどこにいるのかわかりませんが、彼女が到着するころには、もうラストオーダーでしょう。自分の胸ポケットの着信ではなく、ハトに来た、ということもがっかりでした。それをまた、シーラはわざと狙ってハトにかけたのかもしれないのですが、酔っぱらったタイジにはそこまでの機微はわかりませんでした。
 用を済ませて戻ると、ハトはわずかな時間の間に、手際よく支払いと身支度を済ませていました。
「ミネモト君。シーラが車で桜木町へ来るって。お酒じゃなくて、場所変えてお茶でもどうかって。あなたをきっと家まで送ってくつもりなのよ。ヨロコベ、青年」
 ポン、とまるくなりかけたタイジの背中をハトさんが叱咤するようにたたきました。ついさっきまでの妖しい風情は消えて、いつものきりりしゃんとしたすてきなハト先生が立っていました。
 








  
  
  

スポンサーサイト

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://donanobispacem717.blog.fc2.com/tb.php/23-e82139c5
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。