さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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Posted by 水市夢の on

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オカリナ・シーズン 6 何度でもスーパーノヴァ

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   オカリナ・シーズン3

 時間を巻き戻して、その月曜日の午後三時、ちょうど雨脚がはっきりとし始めた頃、シーラは鹿香(しかご)市の霊園にいました。
 その日は成城学園で、シーラの祖父、表向きには養子縁組して父となっている千手宗雅さんの各月ごとの定例お舞台があり、こうしたおおやけの催しごとに顔を出す日は、シーラは千手紫(ゆかり)にもどり、この家の名にふさわしい姿で過ごすことにしていました。
 シーラが住んでいる家というのは、村雨能楽堂、通称成城能舞台と呼ばれる簡素な能舞台があり、宗雅さんの個人宅でもあります。もとは江戸時代の武家文人だった村上玉雨の別宅の一部を明治時代に鳳凰流で譲り受けたもので、玉雨の住まいの大部分は今では公園となっており、お舞台を含む千手家は、もともとの庭園の風情をそこなわないように、さりげない竹垣の仕切りで一隅を占めているのでした。
 一見すると村雨能舞台は、周囲を竹林に囲まれた質素な鉄筋コンクリート三階建ての公園事務所のように見えるのですが、内側はしっかりと伝来の木組みを残した設計で、一階と二階は能舞台、三階が宗雅さんと紫の住まいになっています。十年ほど前に夫人を亡くした宗雅さんは今年八十歳。同居の血縁は紫=シーラだけですが、今もかくしゃくと現役をつとめる鳳凰流の重鎮宗雅さんを慕うお弟子の出入りは日々繁く、ユカリのほかに宗家の末っ子、まだ中学三年の宗雪も、毎週末にはお祖父さんのお稽古をいただくために、時には泊まりがけでやってくるのでした。
ユカリは、十三歳でミラノからここへ移ってから、ずっと宗雅さんの精神的な薫陶を享けて成長しました。そのときすでに少女のアイデンティティを主張していた風変わりを、宗雅さんはあえて正そうとはせず、公私の別だけ厳しく一線をひいて、そのほかは周囲の相当の非難も受け流して、混血の孫の心の赴くままに育てたのでした。
 ですから宗雅さんは、ユカリを能役者に無理強いすることはなく、ただ仕舞と謡、進退作法のひととおりを身につけさせる程度に留めたのですが、厳しくもまた緩やかな日本の父の態度は、自分の性に対して屈曲を加えた心理状態の少年ユカリにとって仕合せなことでした。
この日、早暁から宗雪たちといっしょに、村雨能楽堂お舞台の拭き清めを済ませたあと、紋付袴の正装を調えていたユカリは、ちょうどまだ舞台前、朝の休憩時間ぴったりに携帯に入った駿男さんからのメールに驚愕し、宗雅さんに平伏して欠礼を請い、衣装を変えて、こちらに飛んできたのでした。

朝早くからゴメンネ。昨夜メグが行方不明と交通事故をいっぺんにやった。事故はものすごく奇妙で、警察も首をひねってます。ぼくにはもちろんわかりません。本人の怪我は骨折、打撲。全治一ヶ月くらいで命に別状はないので心配しないで。でもすごくわけがわかりません。メグの意識はある。麻酔で眠っているけれど、だいたい元気です。君に会いたがってます。どこかで都合つくようだったらお見舞いに来てください。

 と、こんなにもほんとのメールの首尾は一貫してはいず、ちぐはぐで、あわてふためいた駿男さんの様子がはっきりと見える文章でした。
 なぜシンクロしなかった?
 雨の中、メグの入院先へと急遽プジョーを走らせながら、シーラは繰り返し揺さぶられるのでした。信州では、体の一部がつながっているように、メグに何かあると直接シーラの五感が共振したのに、今回の一連に入ってから、そうした相身互いのつながりが、ほとんど感じられない、ということに、シーラは苛立ちました。
(声も聞こえなかった。何故だ)
 雨のせいか道路はところどころで渋滞気味で、病院に着いたのはもう昼前でした。病室は五、六人の大部屋で、白いカーテンで仕切られ、連絡どおり、駿男さんが睡眠不足露わのやつれた顔で付き添っていました。
 点滴につながれ、白い布団を胸元まで掛けて、あちこち包帯だらけで目をつぶったメグは蒼ざめ、小さく見えました。
「寝てるよ。ついさっきまで起きてたけれど、また麻酔効いて眠っちゃった」
 これがシーラへの駿男さんの第一声でした。
それから、
「折ったのは鎖骨、肋骨、左肘。左大腿骨。全治三ヶ月」
 メールでは一ヶ月の怪我だって、とシーラが問い返すこともできないくらい父親は落ち込んでいました。彼女は黙ってうなずき、
「どういう状況だったのか、聞かせていただけますか?」
 うーん、と駿男さんはうなって、シーラにパイプ椅子をすすめ、ベッドサイドに置いてあったエビアン水の1リットルボトルを片手でつかみ、ごくごくと飲みました。
「飲む?」
 たった今直か飲みしたボトルを、無造作にシーラに突き出す風間駿男さんの両眼は充血してまっ赤でした。シーラは拒まずに受け取り、さすがにそのまま口には寄せず、
「話してください」
 と駿男さんの眼を見つめ、できるだけ優しく声を抑えて促しました。
「警察から連絡来たのは、昨夜の十一時くらいだった。ぼくはリビングでテレビ見ながら水割り飲んでた。携帯じゃなく家電話で、メグが鹿香霊園で交通事故に遭ったと言われ、そんなばかな、って叫んだよ。だってシーラちゃん、うちは藤塚だぜ? メグが自分の部屋に入ったのはたしか九時過ぎだった。彼女はその後、出かけていない。部屋から出てきた気配なんかない。リビングにいたから、そんなことがあれば、ぼくはすぐに見咎める。
またユータイリダツ? でも事故にあって大怪我だっていうんだ。ぼくはとりあえずメグの部屋を覗いた。いない。窓もちゃんとしまってる。でもベッドはまだ生暖かかった。ちゃんと寝てたんだ。だとしてもどうやって藤塚から鹿香まで行く? しかも山奥の霊園なんて、徒歩で行ったら夜明けまでかかる。第一霊園なんてメグは知らないはずだ。誰かが連れ出したのか!」
「落ち着いて」
 シーラはペットボトルを駿男さんに渡しました。父親はむんずとつかみ、また喉を鳴らして飲みこむと、即座にシーラに突っ返しました。
「どうやって? ぼくはタクシーを呼んで、とるものもとりあえずここに飛んできた。メグは手術中で会えず、そこに居た警察に、ぼくはパトカーで鹿香霊園まで連れて行かれ、現場を見せてもらった。メグをはねたって相手は週末ドライブの夫婦で、遊びに来た鹿香から都内に帰宅途中だったって。彼らも病院にいて、ぼくといっしょにパトカーに乗った。おかしな感じだった。彼らは平謝りだったけど、おかしな顔つきだった……」
「ええ」
「警察も変だった。娘さんは、この御夫婦にはねられたらしいんですが、なんていう。容疑者に敬語なんか使いやがって、とぼくは激怒した。それに、〈らしい〉ってなんだよ、とぼくはパトカーの中で警官に喰ってかかった。警官は、メグは、相当の重傷なのに、事故現場からかなり遠くで発見されたんですって言うんだ。気を失うほどの骨折や打撲なのに、国道から奥まった墓地のなかに仰向けに倒れていたんだと。夫婦から警察に通報があったのは午後十時前。すぐにかけつけたパトカーと救急車に、ようやくメグが発見されたのは十一時。時差は、その中年夫婦がひいたはずのメグが路面にも路肩にもいなくて、辺りを捜索する手間がかかったからだ、と。この一時間の誤差のために、折れた肋骨が刺さった肝臓からの出血が増えた。それでICU入りになった。命に別状ない。でも、シーラ、この落差、君にわかる? メグは誰かにひきずられた形跡もない。道路の両脇は霊園を包む保護樹林だ。その森をジャンプして、彼女は墓地の一角の芝生の上に落ちた。数百メートルも? 自分で歩けるわけもない。誰かが運んだのか? でもメグをはねたと自首した夫婦は自分たちのほか、そこらを歩いている人間なんて、その時刻誰もいなかったと言う。彼らは動転していた。警察も変だった。ぼくはもっとおかしい。メグは九時前まで藤塚の自宅リビングでぼくとテレビ見てたというと、警察も夫婦もこんぐらがった」
「それからずっとここに?」
「そうだよ」
 駿男さんは両手で顔を覆って、男泣きに泣き出しました。うなだれた駿男さんの襟首から、セーターの下に着ているパジャマの襟が見えました。
「ヤメテクレヨ。タノムカラ」
 シーラは混乱してうちひしがれている彼にかける言葉が見つからず、突っ返されたエビアン水のボトルを、彼の手に握らせると、そっとたちあがり、そのフロアのナースセンターに行き、
「……号室の風間さんのお父さん、興奮して疲れきっていらっしゃいます。休憩室か、簡易ベッドか、何か対応をお願いできますか」
 数人の看護師は顔を見合わせ、眼で肯きあうと、その中の年かさのひとりが弁えた笑顔で、わかりました。できるだけのことをいたします、と応えました。
 シーラはそのまま病院を出て、駿男さんの記憶から読み取った鹿香霊園の現場に向かいました。
 霊園は、海沿いに開けた鹿香旧市街をぐるりと囲む源氏山中腹にあり、国道沿いの自然林の中に昔今のさまざまな墓群が静かに点在しています。由緒はふるく、平安・室町までさかのぼることが出来るそうですが、近年に入ってからは、神仏以外の死者も受け入れ、あたらしく森をひらいた区画には、クリスチャン墓地もありました。
 メグが飛んだのは、そのクリスチャン区画で、赤レンガ敷きの道を数歩入った一帯の、冬水仙の芽吹く黒土や枯芝には昨夜の捜査に踏み荒らされた気配が少しばかり残っていましたが、雨振りの月曜の午後、シーラ以外の人気は途絶え、白い十字架や聖像、墓碑は、それぞれほどよい間をとりながら、霧がかった冬の雨を浴びていました。
 警察の残した目印をたどるまでもなく、メグの仰臥していた芝生からは、シーラは濃厚に気配を、まるで実体の見えない彼女の温度のかたまりがそこに盛り上がり、残っているように感じ取りました。手入れはされているものの、この季節ではさすがに枯れいろの目立つ芝生が覆っているのは、両手をひろげた一メートルほどの天使の立像が守っている小さな外国人のお墓で、聖像の前の長方形の大理石に刻まれた碑銘の一部が古風にラテン語で記されているところから察すると、この死者はカトリックで、かなり古いお墓なのかもしれません。少し離れてたたずむ聖像自体は最近のもののようで、墓碑の大理石に比べると、白いけれども、全体に大量生産された製品独得の、肌理のあらい感触でした。
 シーラは片手に傘を手にしたまま、その場にしゃがみこみ、メグの寝ていた芝生の上にもういっぽうの手を重ねました。血は内出血だけだったのか、なまぐさいものは残っていず、メグの苦悶の記憶も漂ってはいません。
「なぜ、あたしを呼ばなかったの?」
 シーラは、そこにメグが寝ているようにつぶやきました。折れた肋骨は左側か? それが肝臓ではなく、もしも心臓に突き刺さっていたら……いや、心臓でなくても、もっと複雑で深い部分まで貫いていたら…。
(それ以前に即死だよ)
「君のしわざか、レノン」
 シーラは芝生に浮かぶメグのまぼろしから眼を離さずに答えました。探さなくても、レノンがそこに、すぐ近くに出現したことは感じ取っていました。
(ぼくが事故を招いたんじゃない)
 レノンの口ぶりは淡々としていました。シーラの傘に降り注ぐ、ぱらぱら、さらさらとした雨音と同じくらいに、何の感情もこもらず、事実だけを告げていました。シーラはようやく顔をあげ、天使の立像の周囲にぼうっと輝く金いろと青の楕円の輪を眺めました。
(ぼく、今実体がないんだ)
「死んだの?、肉体」
(うん。君たちが帰ったすぐ後に、肺炎でぼくの肉体は力尽きた。といってもメグがぼくを食べちゃった時点で、ぼくはもうミカエルにいなかったからね。かろうじて人口栄養で保たれていた生命力が、急激に失われたのは当たり前なんだ。ぼくも、もうあの植物状態の肉体に未練なんかなかった)
「メグの中にいるのね」
(守護天使。シーラ、メグを惑わしたのは、ここに葬られた死者だよ。正確に言えば、生まれる前に死んでしまった子の魂。百年くらい前だろうね。臨月で死産だった。外国から一時日本に来ていた貿易商の両親は悲しんで、我が子のため異国にお墓を立て、自分たちは数年後に帰国した。それきり、この子を弔うひとはいない。この子は神に召されたんだろうか? わからない。わからないことはないな……死への旅立ちが未完成のまま、この子の魂は迷い、さすらい、無力なまま、獰猛な餓鬼に食い散らされ、ずたずただ。そこでメグを見つけた)
「どうして?」
(愚問だぞ、シーラ。ぼくがメグにひかれたように、君がメグを見つけたように、彼女は素直でまっすぐで、暖かい。それでいて強烈で、それなのに無垢だ。遠くからでも一目でわかる。霊の世界に距離なんてないからなおさらだ)
「迷い霊。すがりついたのね」
(うん。でも、この子はもう赤ん坊でさえなかった。すっかり餓鬼に喰い尽くされ、かすかな残像のようなモノ。風に舞う落ち葉のような、寄りどころを失った悲しさだけが、メグにまつわりつき、彼女は疑うテクニックを知らない無防備だから、まんまとここまで連れ出され、事故に遭った)
「偶然?」
(いや…。餓鬼や迷い霊にうっかりかかわると、どうしたって危険だ。こんなことが起こる。連中は相手を自分と同じ境遇に引き込みたがるし、出なければエネルギーを吸い尽くそうとするから。君、よくわかってるはずだろ。ちゃんとメグに教えろよ。ぼくがいなけりゃ、メグは骨折程度で済むもんか。折れたのが左半身に集中してたのが、ただの偶然だったなんて君が思うんだったら、ほんとの間抜けだ)
 雨の中で、青と金の入り混じった天使の光背は、得意げにぷうっと膨らんで輝きを増しました。石膏の天使のあどけない幼な顔が、その輝きに照らされて、厳かな陰影を帯びるくらいに。
「あたしは…」
 シーラは言いあぐね、雨が降っているのにひどい喉の渇きをおぼえてくちびるを舐めました。そして口紅を塗ってこなかったことに気が付きました。
(このごろ違うって)
 レノンの声は、かすかに尻上がりに皮肉っぽくなりました。
(前みたいじゃないって? 思い通りにメグとコンタクトできないって? 壁があって)
「君のせいか」
 シーラのまなじりが吊りあがりました。
「あたしを弾くのは、レノン、あなたね?
わかった。メグの中にいる君が」
(ぼく、勝手に侵入されるのは好きじゃないんだ)
 レノンはぬけぬけと言い放ちました。光背を帯びた幼天使像は、まるでレノンそのひとのように、周囲の光りの伸縮の加減で、その都度表情を変え、今はシーラを嘲っているかのように、ふっくらした頬と、唇の口角のさかいめの影が際立って上向きに深く見えます。
 ひと呼吸おいて、レノンはさらに言い募りました。
(それに、ぼくヘテロだからね)
 う、といつしか立ち上がったシーラは幼天使像に向かって一歩踏み出しました。
(シーラ、君は女になりたがってるけど、女性じゃない。いや、女性にだって、ほんとはなりたいわけじゃないだろう。男もいやだ、女もいやだ。だけどメグを見る君の眼はどうしたって〈少女〉じゃない。メグにはまだわからないだろ。でもぼくにはわかる。ぼくホモじゃないから、君とシンクロするのはやだね、はっきり言って)
「正直だ」
(メグのおかげだよ)
 レノンの声は、ほんのちょっと潤んだようでした。
(彼女のなかは、すごく居心地いい。こんな大事故になるなんて、ぼくは全然予想してなかった。一世紀も前の迷い霊の影なら、まあ、しばらくそこらへん、中有をひっぱりまわされて、それこそおとぎ話じゃないけれど、キツネかタヌキに化かされた程度で、朝になったら、とんでもない場所で我に返るとか…そんな程度に傍観してたら、いきなりだった。この迷い霊だって、最初からたくらんだわけじゃないだろ。でも、どうしても引き寄せちゃうんだ。メグの強烈なエネルギーが、こうした凄い事態を。ぼくはとっさに車に激突した彼女の衝撃を庇った。そして、アスファルトじゃなく、ここに落としこんだ。路面に叩きつけられたら、全身打撲、内臓破裂で即死か、重度の障害を背負う。もしもぼくがシーラとのシンクロを隔てなかったにせよ、君にはメグを助けられなかったろう)
 そのとおり、とシーラは容赦ないレノンの指摘を、全身にしみわたる雨冷えのように味わいました。
(男であり、女であり…男でもなく女でもなく…君こそ自分勝手だ、シーラ。メグを見つけて彼女のコムニタスをヒーリングに〈善用〉する。それは聞こえはいいけど、要するにただの他力本願じゃないか。タイジが泣きついた今度のケースだって、メグを利用すればかんたんだ、らくらくと解決できる。節さんはメグに眼を付けて寄ってくる。ボケナスタイジに霊能なんてからっきしないけど、純朴でのんきだから、自縄自縛に硬直しかけた苦しい霊魂の仮の宿にはもってこいだろ)
「レノン!」
(何だよ。ありのままを言ってるだけだ。君だって本当のところ、自分の心のありかを捉えられず、ちょいちょいタイジをもてあそんでるじゃないか。それともタイジにリビドーを感じる? ヒョウガとは違った琴線にあなたは触れてくれるのよ、って正直に奴にすがって甘えられるほど、君に巣食ったPTSDはかるくない)
「レノン!」
 シーラは傘を取り落としました。苛立ったとき、利き手で髪をかきあげる癖が思わず出現し、冬の雨を忘れさせました。
 レノンの追及は徹底していました。
(ゾーリンゲンの切れ味はよかったろ? でも君はもっと痛かったよな、え?) 
 シーラの右手が無意識に動き、いつしか手にした蒼白な刃で、天使の顎を下から上に、ざっくりと斬りあげていました。
 絶叫。
 のけぞって倒れる男。
 眼球が飛び出したって?
 瞼が裂けた。
 噴水、どす黒い。プルタブひねる前に缶を揺すればサイダーだって飛び出すよ。ただそれだけだ。人殺しなんてさ。
 入り乱れる足音。廻廊に響くせわしない息づかい。
 押さえつけられたのは誰だ?
 ケイドウミャクがどこかなんて子どもでもわかる。だって猫だって鼠やモグラの首を噛むじゃないか。思うさまいためつけてから、生殺しにしてから、ようやく噛むじゃないか。
 こんなの、たいしたことないよ。
 やめて、と叫ぶのは誰?
 ママじゃない、ママはここにいない。遠くで誰かと何かしていて、ぼくいつもひとり。
 また悲鳴。館じゅうの谺や怒号が亡霊みたいだ。
 とりあえずネムラセロ。
 まだこどもだぞ。それにこの家の長男だ。
 ヒトゴロシ。
 ……。
「殺しちゃいない」
 シーラはつぶやき、だらんと片手を顔から離すと、てのひらにはべったりと血痕が貼りついていました。でも、数度瞬きすると、血の滲みは、霙に混じって周囲の保護樹林から舞い落ちた楓の鮮やかな紅のひとひらに変わりました。
(サイコ・ヒーラーの〈破壊力〉もたいしたものじゃないか? シーラ)
 レノンの声はむしろ穏やかで、起伏がありませんでした。石膏天使の周りを包んだ光背はかき消えて、頭上の森を渡る夕方の風に混じってレノンの問いかけが聞こえます。
 シーラの足元に、迷い霊の墓の上に両手を差し伸べていた天使の左側の片羽根片手が、まるでバーナーで焼ききったような焦げ茶の筋をつけてぱっくりと割れ落ち、粉々に砕けていました。ゾーリンゲンの刃のまぼろしは消えています。
(自力でなんとかしろよ。大事な〈ぼく〉を消耗させるな。肝臓からの大出血だぜ…)
 ざあっと一瞬、風に揺さぶられたどこかの大木からの雫が、雨脚に混じってシーラを襲い、シーラは頬に流れる雨だれを、楓の落ち葉を握ったままの拳でぬぐうと、その拳をペロリと舐め、不敵に言い返しました。
「メグは君じゃない」
 ひとりでやるさ、自分が男だろうと女だろうと知ったことか。
 傘をひろい、水からあがった獣のように、首を二、三度左右に振って、浴びせられた雫をはらいのけると、シーラは天使の墓標から立ち去りました。

 
こわれそうなくらい
 ぼくは君が好き
 君の前でぼくは息をとめて
 ただ見つめてる いつも
 こわれそう でも
 ぼくが砕けても
 ひとつひとつの かけら
 ぜんぶ君しかいないから
 君のまわり
 ぼくの想いでいっぱいにできる

 さびしいときも
 哀しみに沈むときも くだけた
 ぼくのどれかが
 君のそばにあるのなら
 君の心を支え なぐさめ
 生きる何度目かの一歩になるなら
 ぼくは 何度でも 自分を砕く
 愛していると
 叫びたいけど
 君はきっと
 信じない
 信じて また
 傷つくことをこわがってる
 だから 何度でも
 ぼくは自分のすべてを
 君に明かすよ
 かたくなな君は自分の
 心のありか 自分にさえ閉ざして
 もろい嘘を守ってるね
 
 ぼくにはわかる
 だってぼくは砕けるのを
 おそれないから
 砕けたって
 その数だけ君への想いの
 数を増して
 砕ければ砕けるほど
 ぼくの想いはスーパーノヴァ
 輝きで君の哀しみ包む
 君の嘘も 君の偽りも
 ぜんぶ 輝きにかえて
 何度でも
 いつまでも
 
君は自分の心のありか
 自分にさえ閉ざして
 もろい明日を待ってる
 何も見えない自分に
 嘘をついて
 でも
 そのままでいい
 ぼくは君が好き
 正直になんてならなくていい
 君が好きなら
 君の嘘だって好きだ
 
 ぜんぶ 輝きに変えて
 何度でも
 いつまでも
 ぼくは
 こわれそうな心 砕いて
 君を見つめてる
 ぼくはスーパーノヴァ
 息をとめて 君を見つめてる
 呼吸するのも惜しいほど
 君が好きだから
 何度でも砕けて スーパーノヴァ


港が見える丘公園近くの瀟洒なブティックの並ぶレンガ敷きの通りは、巷では湘南セレブ御用達ショッピング街などとも呼ばれていて、クリスマスシーズンに入ったこの季節はなおのこと、深夜まで、いたるところに飾り付けられたデコレーションイルミがきららかです。どこのショーウィンドーにも、銀色や白の雪景色、トナカイ、サンタクロース、天使などの可愛らしい吹きつけが目立ちました。
 桜木町駅前でハトとタイジをひろってシーラはこの街の一角に乗りつけ、表通りからひとつ奥まったバールに案内しました。
「そこの階段下りてください。〈ガレリアヴァンカ〉ってある。あたしは車を停めてくるから」
「ヴァンカ? いい名前ね」
「うん。ハトさんなら読んでるでしょ。コレット」
「すっかり忘れてたけど」
 地下につながる細長くひらたいベージュいろの石段には、きざはしのひとつひとつに暖かい橙色の小さいランプが灯っていました。周囲の壁も階段と同じ肌色。ランプは、磨りガラスの卵に包まれた、マッチの火くらいのほのかな足元灯ですが、上からの照明を抑えて、仄闇を導くこの灯りを一歩一歩ゆっくりとたどるだけで、冬の雨のせいだけではなく、いつからか鎖された心のどこかがほっとなごんでゆくような気持ちになりました。
 ヴァンカは小さいバールでした。奥行きが深く、カウンター席が店のほとんど。他には向かい合うふたり掛けのテーブルが、申し訳程度にひとつ。カウンターには白いバーコートに赤いタイを結んだ、五十年配の姿勢のよいオーナーが、にこやかにひとり。
 ハトさんは物怖じせずに、このオーナーにふたりがけのテーブル席にもうひとつ椅子をお願いし、ほどなくシーラが現れると、オーナーはハトやタイジに向けた来客用の微笑よりも、だいぶ深い笑顔を浮かべました。でも言葉は交わしません。シーラもまた、長い睫毛ごしに、静かな礼を返して、ハトとタイジの前に座りました。
「そういうクラシックなワンピース、あなたが着るとは思わなかったけど、似合うわ」
 オーダーの前にハトさんが口をきりました。
ほそい畝の入ったサーモンピンクの地に小花柄、広めの襟ぐりと袖口、裾に白いこまかいフリルのついた長めの着丈のワンピース。首には黒いシルクサテンのリボンチョーカーを結び、その真ん中にゴールデンローズがひとつ揺れていました。少女趣味な服装に合わせたのか、めずらしく髪を横一本の三つ編みにして、片方の肩から垂らしています。
「こどもっぽい?」
「ガーリッシュっていうの? シーラさん、年のわりにはシロクロはっきりしたシンプルな大人っぽいものが多い感じだったから」
 シーラは少し眉をあげ、ハトの衣装や顔つきを眺めましたが、誉められたから相手を誉め返す、ということはしませんでした。
「ハト先生、元気そうね、でもないか」
「どっちなのよ」
 ハトは笑い出しました。タイジはつんぼさじきにされた気がして、まだ残る酔いの勢いで口をはさみ、
「注文どうするの?」
「ここ、カクテル美味しそう」
 ハトは相変わらず、主にシーラを向いて尋ねました。
「ええ」
「じゃローズカクテル。あたし運転しないから」
 ふうん、と吐息のように同時につぶやいたのはシーラと、カウンターの向こう側でグラスを拭いていたオーナーでした。ハトはきらりと目を光らせて、
「地方では、たぶんなかなか飲めない」
「ハト先生、来年ミカエルから九州に転勤するんだってさ」
 どうやらちょっとセレブっぽいカクテルの話題についてゆけなくて、タイジは拗ねた気分になりかけます。
「え、またどうして」
「決まったわけじゃないの」
 ハトさんは言葉すくなにおさめ、
「それよりも、安宅礼音さん、亡くなったのよ」
「……」
 シーラは瞬きを停めてハトの眼を覗き、また視線を逸らせました。
(知ってるの?)
 すぐさまハトの驚きがシーラの胸のまんなかに飛び込んできました。
「え、あの子、死んだんだ。でもあの状態じゃ、本人も苦しかっただろうから」
 とタイジは率直に驚き、そんな彼に合わせてシーラは、
「そうだろうと、思ったの」
 とさりげなくうわべをつくろい、続けて
「今日遅くなったのは、メグが交通事故で」
 と話を逸らせました。
「命に別状はないけれど、かなり重傷。パパから連絡もらって、あたしぎりぎりまで病院にいたのよ。それで遅くなった」
 シーラは、それからこのふたりにわかりやすくメグの事故の経緯を説明しました。それは鹿香霊園を後にしたあと、プジョーの中で、またメグの病室で、繰り返し練り上げたつじつま合せでした。
(ハトがあたしの中を強引に覗くなら嘘はじきにばれるけれど。彼女はたぶんそうしない)
 とシーラは思いました。そして、今、ハトはガレリアヴァンカの快いほの灯りのなかで、陰影の濃いシーラの表情を見つめながら、いつもどおり澄んだ視線をすこしも曇らせることなく、嘘半分のシーラの言葉を黙って聴き、
「その状況で、その程度の怪我で済んだのは奇跡ね」
 とだけつぶやきました。
「天使が…」
 とうっかり口をついて出た言葉に、シーラは唇を噛みました。
「待降節は、天使がそこらじゅうを飛びまわるわ」
 ハトは、丹念にシェイクされた極上のカクテルを、まるでジュースのようにごくんと口に含み、
「よい魂と悪い魂を仕分けて、天の父に報告するのよ。オスカー・ワイルド」
「幸福の王子でしょ。それぐらいならぼくもわかる」
「ツバメの心理に、タイジ君共感する?」
「ちょっ……そりゃハトさんのほうでしょ」
 口をすべらせた瞬間タイジはまずった、と我にかえりましたが、ハトさんは端正な横顔のシルエットをちっとも動かさず、
「ローズカクテル、もうひとついただけます?」
 とダンディなオーナーバーテンダーに声をかけました。
 それから話題は気ままに流れて、ごく自然な感じでヴァンカでの時間はまとまり、まだ今夜のうちにハトを横浜の実家近くまで送りました。彼女の両親はともに開業医で、お兄さんが実家の後を継いでいるそうです。
「ミネさんのアパートに着くころ、もう明日になってる」
「そんなに飲んでないから、平気だよ」
「免許とらないの?」
「持ってますよ。だけど車買うほど金ないの、ぼく」
「あっさり言うね。イヤミ?」
「どうして。シーラさんはシーラさんじゃない。おかげで、俺君の横に座れる」
「あたしだって、親のスネばっかりかじってるわけじゃないよ」
「だろうね。君なら、たぶん何か自分で金稼ぎしてるんだろうって思う。だいたいサイコヒーラーで儲けてるわけじゃないでしょ」
「そうね、だいたいね」
「聞いていい?」
「また改まって、何よ」
 雨はもうほとんど止んでいました。ふとタイジは、プジョーから降りたハトさんが別れ際に雨傘を持っていかなかったような気がして、助手席のシートベルトの端を探ると、案の定ワインレッドのきれいな細身の傘が残されていました。
「あれ、ハト先生、傘置いてった」
「ミネさんへのプレゼントでしょ」
「女物だよ。シーラさんのほうが似合う」
「でもミネさん持ってって」
 なにか変だな、とタイジは思いました。
「聞いていいって聞かれて、やだ、っていったら聞くのやめるの? その程度の疑問なわけ、ミネさん」
 畳みかけてきたのはシーラでした。
「うん。聴きたいこといろいろあるよ。知りたいことも」
「話せることは話すし、やなことは話さない。それでいいでしょ」
「……メグさん、もしかして瀕死?」
「いいえ。それはほんと。三ヶ月くらい」
「ソゴウさんのケースは」
「あたしひとりで片付ける。メグは今安静第一だから」
「木曜日、来る?」
「それは未定。戦略考えないと。ああ、戦うんじゃないわ。癒す方法」
 しゃべりながら、シーラは自分の言葉がいつになく空疎な気がしていました。胸に穴があいたような気持ち。なぜ? ……。
 鹿香霊園でずぶ濡れになった衣装を、病院の地下駐車場で着替えたとき、シーラはめったに着ない柔らかい印象のありふれたワンピースを選んだのですが、それがメグに似合いそうな可愛らしいものだったからかもしれないのでした。もちろんスミレ・デュランテのブランド品ではありません。いつ、どうしてどこで、こんなドレスワンピを自分は買い込んだんだろう、とシーラは我ながら不思議に思いました。
 君は女じゃない、とレノンに突きつけられて、シーラは反抗しませんでした。傷つきもしませんでした。だいたい千手家ではユカリで暮らすほうが多いかもしれないのです。義父の宗雅さんは、孫の行状を、非礼でないかぎり、笑って眺めていました。いずれ落ち着くところに落ち着くだろう、というまなざしは、懐深くもあり、ひやりと厳しいものを含んでいました。信頼しつつ、甘やかさない。
宗雅さんのユカリへの接し方は一貫しています。
 でも、ユカリだって、自分をすっかりほどいて(さらけだすのではなく)甘えたい瞬間だってあるのでした。
 レノンは、シーラ=ユカリの心の奥に隠したそんな揺らぎに鋭く爪をたて、「タイジに…」と突きつけてきたのですが、そこまでシーラを責めつけなければいられないほど、レノンもまた孤独か、と洞察するシーラでした。
(君はそんなにメグが好きか、レノン?)
(そして、ぼくはメグをこれからどうするつもりだ。ぼくに会わないほうが、あの子は平和だった)
 あたし、とは言いませんでした。いまさら離れてはゆけない。メグの中に居座ってしまったレノンをそのままほっといたら、彼はメグをどうするだろう。……。
 黙ってしまったシーラを、何も知らないタイジは、
(こないだ乱暴しかけたから、警戒されてるかな) 
 と、ごく健康的に気がねしていました。タイジはちょっと咳こみました。厳粛な音楽会の演奏のあいまに、客席でかならず漏れる息ぬきの咳払いみたいに、彼はかるく心臓を抑えて息を吐き、
「シーラさん、なんでサイコヒーラーになったの?」
「癒してくれって、いろんなモノが寄ってくる。それが見えるから」
「無視できないの? 気づかないフリ」
「もう無理だわ」
「いつからそうなったの」
 赤信号で、プジョーは荒っぽく急停車し、ベルトをかけていたのにタイジはガクンと前につんのめりました。
「ミネさん、あたしととことん一緒に行く勇気ある?」
「え?」
「覚悟っていうか」
「カクゴ」
「今あなたがあたしに聞いてることって、そのくらいの気力要る疑問よ」
 信号が変わって、今度はなめらかにプジョーは走り出しました。
「この話はやめようよ。ミネさん。ひとりひとりは惑星ほども遠く離れてる。あたしは言いたくない。覚えていない、自分の心の最初に何が起こったのか。ほんとうにね、記憶がない。でもすこし想い出す事もできる。ロマンティックに言えば、現実に適応できない時期があって、夢ばかり見てた。悪夢もあった。
その中に、あるとき天使が現れた。夢のお告げ。彼か彼女かわからないけど、きれいな天使。彼女がこうしなさいと、ぼく(あたし)に指し示したって、言っておく」
「メルヘン」
「なんだっていいわよ。それから、あたしは自分の周囲に寄ってくる精霊やら自縛霊やらに脅えることがなくなった」
 やばいな、俺、この子を追い込んでるな、とタイジは真底後悔しました。シーラの運転は安定していましたが、ひしひしとつらい空気がタイジの肌につたわってくるのでした。
(あー、俺ってバカだ。どうすればいい)
 こんなに彼女のこと好きなのに、俺この子のこともしかして、傷つけた?
 タイジは心の中で鈍感な自分をぶん殴りたい気持ちになり……それから、
「天使になりたかったの? 〈ぼく〉って」
 ふいにタイジの声音が、おっとりとまろやかに変化しました。
 シーラはぎょっとして運転中なのに横を向き、タイジを凝視しました。
 タイジはほのかな……人生の機微を弁えた大人の女性の微笑を浮かべ、かけていない鼻眼鏡を中指でかるく持ち上げる仕草をしながら、
「危ないわ。ちゃんと運転してくださいな。あたしは静かにしていますから。何も悪さはしませんよ。この男の子にも、あなたにも」
「節さん」
「はい」
「ずっとそこにいたんですか?」
「そうよ。ミネモト君のなか」
 タイジは……節さんは、肩を小さくすぼめて、ふうっと息を吐きました。膝頭をちんまりと合せ、膝の上で両手を祈るように組み合わせてささやきました。
「このひとの体を借りると、言葉がなめらかに進むみたい」
「ええ、普通の女性みたい。上品な奥様」
「よしてちょうだい。あたしそれほど優雅じゃありませんよ」
「亡くなったのはいつでしたっけ?」
「一年と半年前。でも二年になるのかしら」
「ずっと迷って?」
「いいえ。迷ってなんかいません。迷えたらいっそ気楽なんだけれど」
 節さんの口調は哀愁を帯びました。タイジの声で聞かされる節さんのメランコリーでした。まったく穏やかな、相当に嗜みも配慮もあることが明白な、女性の沈んだ嘆きのつぶやきでした。
「節さん、どうなさりたいんです?」
 シーラは尋ねました。
「いつまでもミネさんに宿っているわけじゃないでしょう。御主人にうらみでもあるなら、もっとすさまじい事態になっている、とあたしは思います。でもそうじゃない」
「少しは恨んでるわよ。でもあきらめてあの人に寄り添い続けたのだし、後悔もないし、ほどほど幸せでした」
「じゃあ……御主人が心配で」
「そうね。たぶんそうなんでしょう。あたしは自分の体が死んでしまったことはわかっているの。火葬にされて、骨になって納骨されて……あたしはぼんやりとそれを見ていた。どこかに誰かがあたしをひっぱっていく気がしたのだけれど、あたしはいやでした。離れたくないわ」
「ええ」
「だって、夫は認知症なのよ。どんどん進行していく。最後には抜け殻みたいになって……シーラ、あたしはね、でも健康で活躍していたころより、彼の病気が始まってからのほうが、もしかしたらこのひとの傍にいる時間は、妻として確かなものだったかもと思うのよ」
「確かな?」
「詩人として、それから短大の教員として忙しかったころ、夫はあたしをちゃんと見つめてくれたこと、あったかしら。あたしたちはお見合いで一緒になったの。喧嘩らしい喧嘩もせず、夫は相応に家庭人の勤めを守っていたけれど、本当に心の通う会話をしたことなんてなかったと思う。彼は彼の取り巻きや……たぶん隠れた女性もいたんでしょ。そんなひとたちとの交友のほうを、私との時間よりずっと楽しんでいた。いろんなごたごたを家庭に持ちこむことはいっさいなかったから、あたしも目をつぶっていましたよ。でも女ひととおりに嫉妬もあったし、怒りもあった」
「淡々とおっしゃいますね」
「鈍感ね、その言い方」
 節さんはまた鼻眼鏡を中指でもちあげる癖を見せて、シーラを見ました。すこしうつむき加減に、斜めの顔の角度より、眼だけ動かして横を見上げる仕草。両手は膝上で揃えて指先を組み、落ち着かなげに緩やかに握ったりひらいたりしています。
「あたしは控えめに言っているのよ。言葉で言い表せる範囲なんて、人生の、人の心のほんの一部でしかないわ」
「……そうですね」
「病気になってから…あたしは夫を全部自分のものにした、と思った。そう思えたわ。認知だろうと何だろうとよかったの。あたしがいなければ、この人は生きてゆけない。そういうソゴウのほうがいい、と」
「でも、あなたのほうが御主人よりも早く」
「ええ。悲しかったわ。死ぬよりも悲しかった。シーラ、あたしはほんとに夫が好きだったのよ。でも、夫に対して生前それを伝えることもあたしはしなかった。口惜しかったから」
「……今も?」
「口惜しいかって? こんなに失認が進んでしまったひとに口惜しさを感じるのは無理だわ。少なくとも、あたしにはこの半病人をいためつけることはできません。でも、だからこそあたしは夫の傍から離れられないの」
「傍にいたい?」
「ええ、夫が死ぬまで」
 節さんの口調はきっぱりと、そして熱を帯びました。聞きながらシーラはふと、雨雲の吹き払われた眼の前の夜空のどこかに……あちこちに、ほのかに揺れる星粒を見つけました。木枯しにあらかた葉っぱを吹き散らされた街路樹の枝が、ところどころ不規則に大きく揺らいでいます。一方向ではなく乱雑な感じで、たぶん枝と枝とがぴしぴしと重なり響きながら、風を受けているのでしょう。それは大きな低気圧とか、台風とかが過ぎ去ったあと、街に取り残された〈風のこどもたち〉が、名残惜しげに樹木にまたがったり、ぶらさがったりして気ままに道草して遊んでいる感じでした。
でも、シーラはまだ風の精霊に出会ったことはありません。霊魂は草木には宿りやすいらしく、メグの母親の安美さんが柳の妖精になったように、ある性質の人の魂は植物と同化しやすいものを持っているのでした。
シーラはまた、鳳凰家に入って、能楽ひととおりの素養を身に付けたのですが、自分の周囲に覗き見る異界と、伝統芸能の表現する幻想とが一続きであることに、むしろ驚いたくらいでした。能の世界では、死者は往々にして菖蒲、桜、柳、藤、梅……さまざまな植物の精霊となって、夢幻のうちに現れるのでした。
(そういえば、星や月の精霊にも会ったことはないな。能にもない……)
 すぐ傍に出現した節さんの生霊が、あまりにおっとりしているので、シーラはふと緊張を忘れ、険しさを忘れ、心はむしろ緩んで雨後の夜空へ昇ってゆくような錯覚にとらわれました。
「あなた、あぶないわ」
 タイジ=節さんの暖かい手が、シーラのハンドルを握った手にそっと重なり、シーラは我にかえりました。
「はい。御主人の傍にいたい……それがあなたの望みなのね」
「そうよ。でも自縛霊。このひとの認知が進んでやがては廃人になってしまうのと、きっと同じ速度であたしは、魂の弾力を失い、かたくなに、こわばって、感情の潤いを失い、自縛霊となり、自分が誰かさえ思い出せない未練と執着のかたまりに…それから挙句のはてには餓鬼道に堕ちてしまいそうなの」
「そのとおりよ。残酷だけれど。このままあなたが成仏せずにこの世にとどまるなら、いずれは」
「だから、そこをどうにかして欲しいの」
「と言われても……植物に宿るくらいしか」
「ときどき庭の百日紅に腰掛けて、夫を見ていたわ。でもだめなのね。あたし、ヘルパーさんだとわかっていても、誰か女性が夫の体に触れると思うと、何ていうのかしら、魂が荒々しくなって、植物の静けさを保てないの。長く樹のなかにいられないのよ」
「不思議です。こうしてお話している節さんは、あたしの知り合いの中でもまれなくらい穏やかな、お名前のとおり節度のある方なのに」
 ふふ、と節さんはタイジの声で口をすぼめて笑いました。かるく自嘲の気配が、シーラには感じられました。
「節度や穏やかさ、というのは生の感情を抑圧することでしょう? 人間誰しも心ひそかに噴き上げる激しさを持っているわ。それこそが生命だもの。あたしは生きている間、自分を抑えすぎたかもしれないの。でも、それは夫に対してだけじゃなく、たぶん、持って生まれた自分自身の激しさに対して」
「別な生き方がなさりたかったの?」
 節さんは少し黙り、優しい眼をしてシーラを見つめました。
「ああ、あなたと生きているうちに出会って、親友になれたらよかったのにね。うれしいわ。そんな風に思ってくれて」
 それから、
「あたしはあたしなりの人生を全うしたの。別な生き方など考えられない。だけど植物に弾かれるほどの激しさを持っているから、死にきれずに、こうして夫に未練が残り、親切なヘルパーさんたちにまで情けない仕打ちを、ついしてしまうんだわね」
 傍に、いたいの……
 一番最後のほのかな呟きは、深い吐息と同時でした。
「……よ」
 タイジの、うつむいたままの横顔からこぼれた言葉をシーラは節さんの声に聴き重ねました。が、もういちど彼は顔をあげ、彼女のほうを向いてきっぱりと、
「俺、君の傍にいたい。いつまでも、ずっと。
君が何者でどこから来たのか、何をしたいのか、心がどこにあるのか、正直全然わかんない。いやわからないことが多い。でも、とことん来い、っていうんだったら行く。ヒョウガと殺し合いしたっていい」
 ここまでいっきに言ってしまい、こらえかねたように一息吐いてから、タイジは絞りました。
「抱きたいよ」
 タイジの意識には、節さんに憑依されていた時間がまるで存在しなかったのでした。
(知覚できないものは存在しないんだ。節さんはまたタイジの奥深くに去った。あたしに自分の本音を告げて)
 そして今、タイジもまたシーラに迫ろうとしているのでした。いえ、迫っていました。
 シーラは、節さんの出現と消失、そしてタイジの吐露を、路面の傍らを絶えず過ぎてゆく、すれ違う対向車線の車のヘッドライトの軌跡のように、耳に並べていました。
「あたしを抱きたい?」
「ああ」
「それで気がすむ?」
「またそれかよ。シーラさん、俺に自分と一緒に最後まで来れるかって聴いたろう。ぐずぐず能書きたれるのやだよ。君の傍にいて、君がぼろぼろになったときでも、俺は君の傍にいたい。君がそうして欲しいって望むならの話だ。君を抱きたいってのは、それと別だろ? 同じだなんて言うんだったら、ヒョウガとやり合う前に、君を」
「コロス?」
 ぐっとタイジは返事に詰まりました。ふ、とシーラは微笑を含んで小首をかしげ、タイジを横目に見て、
「優しいね」
「アホぬかせ。俺そんなにお人好しじゃないぜ。君がその程度の女だったら、好きにならない」
 と言うのはもちろん苦し紛れの嘘でした。
 シーラはまたガクンと信号直前で急停車し、タイジを前のめりに脅したあと、またなめらかに発進すると、ごく自然な声で、
「ミネさんち、もうそろそろ着くよ。たぶんこの辺でしょ。今夜ひとり?」
「そうだよ」
「じゃ、行く」
「え」
「あなたの部屋に」
 東京と神奈川のさかいめに位置するタイジの住む町まで、さしたる道路混雑もなく、プジョーは順調に流れに乗り、今夜ぎりぎりにタイジのアパート近くに到着しそうです。
 タイジはシーラの返答に気圧されて、呆然としてしまいました。
(来るって? 俺の部屋に? 今夜? これから? マジかよ。マジだ。こいつそんな嘘つく女じゃない)
 ここから先、車停められるとこ、どこかある? と尋ねられてタイジがあわてて窓から外を眺めると、いつのまにかプジョーは国道から逸れ、見慣れた自分のアパート周辺の景色がゆっくりと窓外を動いていました。
「そこのお宮さんの脇に、空き地ある。ほんとはまずいけど、結構みんなやってるから、大丈夫だよ」
 赤い鳥居のこじんまりとした稲荷の社の裏側に、たぶん宮の森だったところをつぶして、何かの建設予定地になっているのでしょう。民家に囲まれてかなり広い更地があり、プジョーが入ったときは、何台か似たような違法駐車が泊まっていました。みんな県外ナンバーです。
駐車スペースは、たっぷりありました。シーラは無遠慮に車を真正面に乗り入れ、いったん停車しました。
「ミネさん、あたしのどこが好き?」
 ハンドルにシーラは上半身を預け、正面の窓ガラス越しに、今はもうすっかり雨雲の消え去り、オリオン座の堂々と輝く冬の夜空を喉を反らすように見上げながら尋ねました。
「顔」
 タイジはまっすぐ、迷いなく即答しました。
「見たことないくらい、君はきれいだもん。心がどうしたなんてウザイリクツこねない。一目ぼれだった」
 いい奴だ、とシーラは思いました。
「それなのに、あたしがボロボロになってもあたしを好きだって断言できるんだ」
「そうだよ。きっとこれから先、君はどんなに崩れても…って言うのは変だけど、どう言ったらわかんないけど、年をとろうが傷つこうが、誰よりきれいだよ。俺ずっと好きだ」
 シーラは黙って車を降りました。タイジも急いで降り立ち、シーラの傍に、ごく自然に近寄りました。なぜか心臓は静かでした。ここに街灯のあかりはなく、頭上には月のない星影だけ。少し離れて宮の森のうすあかい、ふるぼけた常夜灯が、小さく残った木の間ごしにほのめいています。
 シーラはコートを着ていませんでした。薄手のドレスワンピースをさらりと着て、ゆるい北風がその裾を、ほそい膝がしらまで吹きあげています。
(覚悟ってこういうことなんだな)
 とタイジは直感しました。俺、こいつのためなら死ねるって。今すぐにでも。
「シーラ、これ着て」
 タイジは自分の羽織っていたダウンを脱ぐと、シーラの肩にかけようとしました。シーラは差し出されたタイジの手の上に自分のてのひらをそっと乗せました。その手のつめたさに、タイジは自分の手の熱さ……汗ばむほどの熱さを自覚し、なぜだかわかりませんが、その瞬間アクセルかけたみたいに心臓が早鐘を打ち始めました。
 汗ばんだ相手の手を、いきなりわしづかみにしたのはシーラのほうでした。ぐい、との相手の胸にひきよせられ、タイジは反射的に倒れかかった上体を支えようと足を踏ん張ったのですが、驚いたことにシーラの手の力に抗うことができず、どしんとまともに顔から華奢な胸にぶつかり、かあっと逆上しました。
「何だよっ」
 シーラは相変わらず無言で、タイジの手を離さず、もういっぽうの手で襟ぐりをおしひろげると、握ったタイジの手を、そのまま自分の左胸に導きました。
「わたしの心臓」
 ふと、シーラの脳裏に、レノンの心臓を食べ始めた……食べていたメグの姿がよぎりました。あなたの心臓、あなたの心、だったっけ?
 シーラの眼は、タイジの顔が見下ろせる高さでした。
(タカビーだけど、ユルセ、ミネさん)
「好きだよ」
 タイジの瞳孔がめいっぱい見開かれ、今耳で聞いたシーラの囁きと、自分の右手が確かめているシーラの胸の感触の驚愕の間で、宙吊りになっていました。
 シーラが言いました。
「心から好きだ、ミネさん」
「嘘つけ」
 タイジはやっとのことで言い返す台詞を見つけました。
「平常パルスだぞ。ほんのちょっともときめいてないじゃないか」
「だいじなときに、ハートはクールだ」
「よせよ。シーラさん。マジきつい。こんなことってあるか」
 シーラがタイジの手から自分のてのひらを離しても、タイジの手はなおシーラの胸の上から動きませんでした。すこし震えて、タイジは、
「カンケーないよ(ほんとか?)君が」
「バイ」
 つっとシーラは体をよじりタイジの手を体から離しました。そしてすらりと高い半身をかるくかがめて、タイジの片頬、耳たぶの下のやわらかい部分に唇を押し当て、
「バイバイ」
 とん、とタイジの体をかるくおしのけ、シーラはプジョーにすべりこみました。タイジは腑抜けのようにシーラの匂いを風に嗅ぎ、
その左胸に触れていた手に残された、一枚の柔らかな絹のハンカチを眺めました。夜目にもあざやかな紅色で、縁や四隅に手の込んだこまかな刺繍のあるちいさなチーフでした。
 タイジが手にしたハンカチから顔をあげると、もうプジョーは視界から消えていました。発進音も、さよならの挨拶も聞こえず。……でも、それはたぶん、タイジの眼も耳も、なにも聞こえず、見えなくなった数瞬の出来事だったからなのでした。
 タイジはハンカチを握りしめて、鼓膜の遠くを流れてゆく風のどこかにシーラの奔り去る音をたどろうとしながらつぶやきました。
(バイ、だって? アホが。それでもアタシのこと好きかって訊いてくれ)
 洒落になんない、とタイジはハンカチをまるめ、携帯をしまった胸ポケットに、無理やり押し込みました。


LOVERS
 宙(そら)に投げるコイン
裏と表 
 どちらが君の心 どこかにぼくの愛
 表に君の心 裏には愛
 君には見えない ぼくの想い
 互いに重ならない裏と表
 ぼくと君の愛
 ひとつの出会いに 
背中合わせの裏表
 
 君には見えない ぼく
 ぼくにも探せない 君
 でもぼくは君の背の
 震え 感じる 誰よりも
 はっきりと せつなく 君を
 
 誰にもわからない
 君のHEART
 重ならなくても 
 離れないから 愛
 君の震え 感じて
 暖める LOVERS
 はっきりと せつなく ぼくら
 くっついて
 背中合わせに
 結ばれてる
 コインの裏表

 さよならなんか言わない
 背中合わせに 
 結ばれてる LOVERS

 ぼくは君
 君はぼく
 裏と表
 背中合わせのHEART 
 離れない LOVERS
 さよならなんか言わない
 結ばれてる LOVERS
 

足がしっかりと地面を踏んでいる、という感覚もなく、きっと何度かつまづきながらタイジは機械的に自分の巣にもどり、これも習慣のなすがまま、入り口の郵便受けの蓋をあけると、ばらばらと何通かの印刷物が手から逸れて足元に落ちました。それでようやく、タイジは自分の両手が、ときおりひどく痙攣しているのに気が付きました。
(うー。ショックでドーパミン分泌過多か?
それとも過少か?)
「洒落言えるんだったら大丈夫だよ」
 と、存外のんきな自分の声がつるりと喉から漏れ、それもタイジは誰が喋っているんだろう、と思います。しゃがみこんで配達物をひろうと、あらかたは歳末めがけての広告葉書でしたが、中には、あきらかに手の込んだきれいな彩りのDMが一枚、二枚。
「クリスマスパーティ? 〈 inローズ・クォーツ〉と、こっちは…ガーネットさんで、あれっ」
 沸騰して霞がかっていたタイジの脳みそに、冷たいおしぼりが、とん、と乗せられたくらいの鎮静効果はありました。
 久我ビル地下劇場で、季節恒例の吉良娥網(ガーネット)のダンスパフォーマンスがあり、そのゲストに美人風ユニットが招かれています。もちろんヒョウガも。
 タイジはあらかじめガーネットの公演予定は知っていたのですが、このダイレクトメールはリンスから来たものでした。手書きメッセージが添えられています。

 急な話ですけど、豹河君から誘われて、共演させていただくことになりました、ガーネットさん、すてきな方ですね。今回はシャワーとふたりで歌います。よかったら来てね。

 こちょこちょと小さな横書きの倫子の字は、かつての優等生ぶりをちゃんと示して、几帳面できれいでした。タイジはふと、シャワーはどんな字を書くんだろう、と思いました。
(顔も体つきも、性格も似ているみたいだから、みっちゃんみたいなきちっとした達筆なんだろうな)
 それにしてもヒョウガめ、ぬけめなくシャンプーにアクセスした、とタイジはいつも日焼けしている精悍なヒョウガの顔を、かなりいまいましく(なんで?)思い浮かべ、それからローズ・クォーツで最後に会ったとき、何か言いかけて言葉を呑み込み、ただはにかんで笑っていたシャワーの可憐な姿をくっきりと思い出しました。
 タイジはちょっと気持ちの張りをとりもどし、自分のねぐらに戻ってゆきました。
 翌日の火曜日、水曜日は普段と変わらないスケジュールが無難に過ぎてゆき、また木曜日が来て、ソゴウさん宅への訪問日でしたが、シーラからはあれっきり何の連絡もありません。タイジは毎朝毎晩、携帯にインプットしたシーラの画像を眺めることをやめませんでしたが、その度に携帯といっしょにしまいこんだ紅いタイシルクのハンカチが、月曜日の衝撃を再現して、それこそタイジにはめずらしく、自分の気持ちのありかも行方もわからなくなるのでした。
(どうだっていいじゃんか、あいつが男だって)
 と、もうすでにタイジ自身に言い聞かせる自分がいるのでした。
(だけどさ、そう考えちゃうってことは、俺はどうでもよくないってことなんだろ。俺ホモじゃないんだ。でもシーラはどう見たって男にゃ見えないもん。なんであいつが男じゃだめなんだ? ヒョウガはシーラが……その、つまり、ええと、平気なんだよね)
「ミネさん、ボーっとしてないで○○さんの食前トイレ誘導してよ。どうしたの? 眼の周りにまっさおなクマ作って。健康優良児の君が」
 無難に、とはいえ、こんな心のざわめきはどうかするとやはり挙措に現われて、デイサービス勤務の最中、フロアリーダーに注意されることもあったりするのでした。
木曜日の午後三時、とうとうシーラには連絡せずにソゴウさんのケアに入りました。
 もう十二月の大気が凛とつめたく、それでも枯れ残った庭の百日紅の葉がいくひらか、さびしいほど明るい冬ざれの陽射しに揺れています。涼子さんとの約束では、ソゴウさんのケアにタイジが入るのは今年いっぱい。そのあとはどうなるのか、まだなんの連絡もありません。
(あの百日紅の前で燃えているふたりの山羊男から始まったんだっけ…)
 どうして山羊なんだろう、どうしてソゴウさんが二人いたんだろう? あれは、でもほんとに現実にあったことなんだろうか?
(ゲンジツじゃないんだ。幻覚なんだけど、現実よか真実味があったし、今も記憶に焼きついている) 
タイジが鍵を開けて入ってゆくと、ソゴウさんは西陽射しこむ窓辺の書き物机にいつものように向かい、あまり皺の目立たないすべすべした面長の顔をうつむけて、何か本を読んでいました。
「先生、ミネモトです」
 ゆらり、と上半身が傾いて、ソゴウさんがこちらをふりかえり、
「おや、今日は君ひとりなの?」
「はい、いつものとおり」
「前に新人の女性といっしょだったろう。彼女はどうしたの?」
(よく覚えてるな)
「えー、ちょっと他の仕事を任されていて。野郎が来てスミマセン」
 ソゴウさんは目じりに朗らかな笑い皺をいっぱい作って口を開け、
「ほんとに残念だ。類稀な美人だったから」
「ハイ」
 タイジの胸が締め付けられる瞬間でした。
「やめたわけじゃないでしょ? だったらまた来るかね」
「ええ、いずれまたうかがうと申しておりました」
「それは嬉しい」
 ソゴウさんは、おっとりと返事をして、また机の上の本に視線を戻します。何を読んでいるんだろう、と好奇心にかられたタイジは少し背伸びをして先生の手元を覗きこむと、ひろげているのは書物ではなく、古いアルバムでした。
 昔ふうに写真を貼り着けてゆくアルバムで、ちょうどそのページには、三十年くらい前のソゴウさんと、たぶん奥さんらしい女性の姿が何枚もあります。箱根…芦ノ湖…それに…。
関東近郊の明媚な観光地で、肩を並べて映っている笑顔の夫婦。それと、ところどころには友人らしい男女数人が加わって、どれもいかにも楽しげな表情です。
 あ、とタイジは眼をみはりました。
 どこかわかりませんが、少し色の褪めた紅葉の風景に、ソゴウさん夫妻といっしょに写っている、けっこう顔立ちのよい、鳥打ち帽子をかぶった伊達男。痩せて背の高いソゴウさんと、彼の雰囲気は対照的で、きちんと頭髪を手入れしたソゴウさんにひきかえ、全体に肉付きのしっかりしたもうひとりの彼の髪はいかにも無造作に鳥打帽子からはみ出て、肩幅と同じくらいに両足をひろげ、手を後ろに組み、靴はタイジのいつも見慣れているメッシュでした。
 たれ眼気味に、視線の焦点がつかみどころのない笑顔にも見覚えがあります。
 つつましやかな可愛らしい印象の、ソゴウさんの奥さん節さんを真ん中にはさんで、三人で仲良く写りこんでいるところから察すると、よほどこの夫婦と彼は親しかったのではないでしょうか。
(ジンさんだろ。へえ…。すいぶんイケメンだったんだね。顔つき変わらないや。靴と。
節さんとも知り合いだったってことか)
 縁ありきってとこ……。ジンさんはもしかしたら節さんの消息が知りたかったのかも、とタイジは思いました。タイジは、今自分につきまとってるという節さんの顔かたちはまったくわからないのですが、女ざかりの、ちょうど今の娘の苑さんぐらいの年頃の節さんは、美女という感じではないにせよ、いかにも育ちのよい、見た目に快く、角のない雰囲気の女性でした。
タイジの眼にも、この上品な節さんが、若いころから奔放と火宅をはばからないジンさんとは相容れないというのは、はっきりとわかり、でもそれだけにジンさん自身の性質とは真逆の女性への好みをかきたてたのでは、という憶測が蠢いたりもするのでした。
(ひとってわかんないよね。ジンさんはガーネットさんがどうのって言ってるけど、ふたりとも本気だなんて思えないもんなあ)
 タイジはここでまたシーラを連想し、ちくりと、いいえもっとはっきり熱い感情を押し殺し、顔を背けて部屋を退き、キッチンへまわり、いつもどおりテーブルの上の買い物メモとお財布を取りあげました。

 結衣ヶ浜に寄せる西風は凪いで、小春日和の午後の光は、潮の匂いを含んだその濃い大気といっしょに遠浅の海面をなめらかに渡ってくるのでした。
 シーラは海浜公園近くの地下駐車場にプジョーを停め、人気の少ない冬の海辺へふらりと出てゆきました。スカートではなく、デニムのイージーパンツの気楽なかっこうで、上からはざっくりとカーキ色のモッズコートを着ていました。束ねていない髪が車からおりたとたん、地下駐車場の中までも、どこかから吹き込む海風に乱れ、白い頬にほつれかかりましたが、シーラはバレッタで留めようとはしませんでした。地上に出ると、むしろ風の乱れは静まり、穏やかに一方向に流れてゆくようでした。
 もう冬至も近い太陽は低くなだらか、と言ってもやはり内陸とは濃度の違う海辺のまひる、サングラスをかけていなければ眼が眩みそうな陽の量です。ウィークデイの午後でも、観光地として名高い結衣ヶ浜を散策する観光客、なかんずく若いカップルが目立ち、また遠近の磯にはウィンドサーフィンの透きとおった翼がゆったりとした風を受けて縦横に奔り、低い波のためか、それらの多くはじきに横倒しになり、また飛沫をあげて起き上がり、足元に打ち寄せる規則的な波のざわめきに、サーファーたちの洩らすさまざまな歓声が、遠い風の周囲にふぞろいなリフレインを混ぜてくるのでした。
(面会時間は、まだ余裕あるな)
 とシーラは身軽く防波堤を超え、引き潮ですっかり露わになったテトラの一角に飛び移りました。すぐ傍には鴎が二、三羽。彼らは突然の闖入者に怒ったように両翼を大きくひろげましたが、飛び立とうとはせず、じきに羽をしまって、シーラの存在など気にも留めない無表情に戻りました。
 鳥たちはたいてい、シーラを怖れません。どこでも、どんな鳥でもそうでした。シーラがまだイタリアにいて、よちよち歩きの赤ちゃんのころから……。
 今日彼女は藤塚市民病院に、二度目のメグのお見舞いにやってきたのです。けれども気持ちは重く沈み、包帯とギプスに包まれたメグを見るのがつらくてならず、藤塚の手前で道を逸れ、鹿香の海へ寄り道したのでした。
(あたしのせいだ)
 メグの傍から離れず、半狂乱になって泣いていた駿男さん。
(パパは、あたしを一言もなじらなかったけれど……出来事そのものはあたしのせいじゃないけれど、メグの周囲にいろんなものを引き寄せる原因を作ったのは、あたしなんだ)
 安美さんが、まだ柳の精でこの世にいたとしたらどんなに哀しんだろうか。彼女は娘に平穏な暮らしをしてほしいから、たぶんメグに自分の視力を残して世を去ったんだろう。
(あたしと出会うまで、メグの異能力を鎖したのは、母親なんだ…)
 どういう手段でか、それもなんとなくシーラには察しがつくのです。メグの内部深くに埋もれた記憶の深層まで潜れば、その経緯ははっきり残っているはずですが、そんな暴露は無意味、とシーラは手を触れませんでした。
 そして今、シーラの後悔と苛立ちをさらにじりじりと責めつけるのは、メグに居候したレノンで、霊園で彼に宣告されたとおり、シーラからメグの心に触れ、対話することが叶わなくなってしまったのでした。
 メグの内部に語りかけ、また触れようとすると、あたかもかっちりと冷ややかなブロックが隙間なく降りてシーラの侵入をはばみ、メグ独特のほのぼのとした柔らかさや暖かさの中心までたどりつけないのでした。
(ガキめ)
 とレノンのことを思うと、シーラの思惟は荒々しくなりました。
(たいした縄張り意識だ。男同士でシンクロしたくないと言ってたから、シーラがほんとに女だったら邪魔しないのか? いや、あいつはそんなに寛容じゃない)
 テトラに座り、シーラは親指の爪を噛みました。細長い指とかたちのよい半楕円形の爪先は、さらにきれいに手入れされ、磨かれた小さい十個の窓のように、なめらかな虹いろに光っています。マニキュアにしても、シーラはルージュ以外、自分が紅をあまり好まない理由を自覚していました。
(モンスターめ)
 ゾーリンゲンまで言い当てやがった。いつ、どうやって、〈ぼく〉の記憶に侵入した?
(男は嫌いなはずだろうが)
 ビュッ、と突風が海面からシーラの髪をあおり、いっしょに剃刀のような寒気が首筋を撫でました。レノンの嘲笑が混じっていそうでしたが、風の流れは透明で、気がつけば少しずつ潮の気配を変え始めたテトラの喫水線が自分ににじり寄ってくるので、シーラはたちあがり、同時に鴎たちもはばたいて舞い上がりました。
テトラポットの角と角をとんとんと踏み渡ってゆくと、ついさっきまで水底の石ころや海草が黒々と濡れて剥き出しになっていたのに、もう海水にひたされ、コンクリートの壁面には、粘り気のある泡が無数に浮かんでは消えています。
シーラはそれでもプジョーに戻らず、汐の昇り始めた浜辺へ回りました。
 テトラではオブジェの空洞に反響して、ごうごうと轟いていた水音が、こちらではたいらかで快いさんざめきとなって、一定のリズムで打ち寄せる波音の単調、乳白色に紺青を加えた海の明るさは、誰しもそうであるように、いつまでもいつまでも聴いていたい、眺めていたいものでした。
 冬の陽射しの傾くのは早く、少し離れた岬の崖に太陽が隠れると、際立った藍色のくらさが浜辺に訪れてきます。空の明るさの反映で海のほうはなお明るく、その余光で濡れた海辺の砂地は、視界にいったんかき暗がっても、すぐにまた、余計なまばゆさを消した影のない均一な銀鼠色を浮かべ、まるでポール・デルヴォーの画のどれかにありそうな情景に変化してゆきました。
 傍にいたい…。
 それはこのごろあちらこちらで耳にする想いと言葉でした。
 夫に死ぬまで寄り添い続けたいの、どうにかしてちょうだい。
 穏やかな言い回しでしたが、節さんの懇願はそれだけに頑として退かない強さがあり、これを放り出せばまず間違いなく餓鬼道の修羅、悪くすれば、おそらく今節さんが時々(?)仮住まいしているらしいタイジまでも巻き込むかもしれません。あるいは重傷のメグに向かって暴走するかも、とシーラは考えました。
(植物霊にもなれない。自縛霊もまずい。タイジだっていつまでも宿主ではいられない。メグだったらどうするか?)
 メグをひっぱりだせば簡単だ、と言っていたレノンの声がよみがえり、シーラは砂を踏んで歩きながら、
(ということは、レノンはどうすればいいかわかってるんだ。どうすれば片付くか。メグだったらどうする? だが解答を彼女からじかに引き出すには、コムニタスを呼び起こすしかない、青い眼の……)
 レノンが釘をさしたように、今のメグにとってはコムニタスへのメタモルフォーゼはひどい消耗だろう。
「おい、眉間に縦皺寄せんな」
 突然、ずけずけとうしろから声と手が同時に伸びて力が加わり、シーラはうっかりのけぞりましたが、反射的に肩に置かれたその手をつかみ、うまいことくるりと身をよじり、ヒョウガと斜に向かいあって立ちました。向き合うとシーラのほうが、ヒールのある靴をはいている分、彼の眼線より高くなって、まだ心理的に有利な感じです。
「なんでわかったの?」
「直感、て言いたいけど、実は携帯内蔵GPS」
相変わらず驚かないやつだな、とヒョウガはシーラの頬の冷たさを自分のてのひらに包みながら思い、そのまま顔を近づけてキスしました。シーラは逆らわず、唇が離れると、軽く笑って、
「マジ?」
「だってそうしないと、おまえどこにいるかわかんないもん」
 ヒョウガは悪びれずに応じました。レッドソックスの野球帽を被っていましたが、シーラとは逆に、もうかなり伸びたレオパードヘアを、今日はちゃんと首のうしろで束ねていました。日没の気配と、野球帽の鍔の影に、いつもながら眼の光りが際立っています。
「しょびてんな?」
「そうでもない」
 ヒョウガはシーラの強がりを一蹴する口調で、
「たまには泣きつくくらいが可愛げあるんだよ。智恵貸してくれとかさ。メグ状態悪いんだろ」
「まあね」
「俺じゃ…」
 だめか、というのが口惜しくてヒョウガは口をちょっとつぐみ、
「わかんないよ。おまえいつも何も言わないんだもん。メグの事故って、フツーじゃなかったわけだ、その顔つきだと」
(ほんっとにアタマくるけど、こいつの前だと俺のほうがいつも片肘張る感じになる。なぜなんだ)
 ヒョウガはふくれっつらをして横を向きました。そのストレートなジェスチュアに、シーラは声を出さすにまた笑って、
「あなたに言うとたぶん激怒するから黙ってるだけよ。怒らせたくないという、思いやりだってば」
「どこが?」
 もういっぺんヒョウガはシーラの視線をとらえ、遠慮なく喰いつきました。
「おまえ、俺をなんだと思ってるの? 俺おまえみたいに他者の心読めたり、しょっちゅう霊魂見えるわけじゃないけど、惚れた女の顔つきぐらいわかるぜ」
「……おんな?」
「じゃないの?」
 海風が満ち潮に乗っておしよせ、シーラの髪を陸地のほうへ吹きあげました。シーラは腕時計を見てつぶやきました。
「そろそろ病院行かなくちゃ」
「それとも男って言えばいいのか?」
 ヒョウガは皮肉っぽく付けたし、でもシーラの二の腕をぎゅっとつかんで行かせまいとするかのようでした。
 シーラはその力にもあらがわず、くにゃりとヒョウガの胸に上半身を預けるようにし、ただ黙って砂浜を歩き始めると、つられてヒョウガも歩き出しました。海水を含んだ浜の砂は、踏みしめるたびに踵からめりこみ、満ち退きの海岸線のしるべとなる、すこし粒のあらい小石や貝殻の筋目が、ながい結衣ヶ浜から、たぶん岬へ、またその先の和賀江島まで、湾曲しながら、水の足跡のようにずうっとつながっているのでした。
「桜貝がたくさん落ちている」
 シーラは身をかがめて、眼にとまった淡い薄いはなびらのような幾枚かを指にひろいあげ、これをメグにおみやげにしようか、と考えます。
(こいつのバックレ、名人芸だ)
 ヒョウガは内心舌打ちするのですが、こうやって並んで寄り添っていると、いつだって毒気を抜かれて、彼は気持ちの尖りが消えてしまうのでした。
(だからヒーラーなんだろう。俺、ほかの女とだったらこうはいかない)
「ヒョウガ、〈ぼく〉のどこが好き?」
 ふいにシーラはきっさきを向けました。ヒョウガは一瞬の隙もなく応じました。
「全部」
「ぜんぶ?」
「おまえ、そんなこともわかんないの? ヒーラーなんかやめちまえ」
 シーラの脳裏をタイジの声と姿がスローモーションでよぎってゆきました。
「惚れたって言ってんじゃん。パーツで惚れるわけないよ。俺、フェティッシュで女を抱かない。だったら人形とかのほうが、ずっとマシだ」
 シーラはしばらくヒョウガの顔を眺めました。それから、すこし睫毛を伏せて、
「うれしい」
ひとことだけ。ヒョウガは屈託なく、また照れもせず、口を開けて笑い、眼だけはぎゅっとシーラを見据えて、
「じゃこの話はこれでおしまい。おまえメグの面会にいくんだろ。俺これから茅ヶ崎でセッション。夜通しライブ」
「何時から?」
「ディナーショー仕立てだから、七時くらいだね。シャンソン歌手とピアノで入る。おまえも来いって言いたいけど、インビテーションオンリーなんだ」
「明日は?」
こいつ、マジで疲れてるなとヒョウガが思った瞬間でした。明日は会える? そんな台詞を聞いたことがあったろうか、とヒョウガは考え、
(会いたがるのはいつも俺だった)
「おまえこそ、今夜どうすんの。世田谷帰るんでしょ」
「帰らなくてもいいよ」
「明日明後日の週末、衣笠の山奥にある私設美術館でクリスマスパーティーなんだ。そっちに回るつもりだから、今日明日俺は東京に帰らない」
「パーティ…出てもいいよ」
「その言いかた。いいよ、じゃなくて、いいの? だろうが。だけど俺、そっちではフルートも吹くけど、昼間は料理の助っ人で入るんだ。展示のヴェルニサージュのたびに自前の料理出す、かなりりっぱな厨房のある趣味のギャラリーだよ。ときどき俺そこで働いてるって知ってた?」
「いいえ」
「これだよ。おまえこそ俺のどこが好きなんだ。いいよ、答えなくて。聞くのこわいもん。俺正直だから、いつもってわけじゃないけどおまえには正直だから聴きたくない」
とまくしたてながらも、ヒョウガはとてもうれしそうでした。
 冬の太陽を遮って、厚い藍色の雲が真横に流れ、その縁だけがあざやかな金褐色に輝き始めました。風向きは速度を速めて汐をおしあげ、渚に向かう波頭の高さがはっきりと嵩を増していました。
 イソシギが数羽、シーラとヒョウガの周囲を無心に飛びまわり、またすぐに水色がかった夕べの空に飛んでゆきました。
「プジョーで待ってる。夜明けまで、どこにいるかわかんないけど。別にホテルでなくってもいいでしょ」
「うん」
 ますますヒョウガはうれしそうでした。
 彼はずっと片手でつかんだままのシーラの二の腕をようやく離し、今度は両手を彼女の腰に回すと、モッズコートのフードに顔を埋めるように、シーラの首筋にかるく歯を当てました。シーラはヒョウガのために首をかしげ、そのせいで、まなざしはごく自然に、すぐそこまで海の来ている浜に流れました。
 波は、もう午後の透明から夜のさきがけのような暗青色をたたえ、狭くなった砂地に激しい満ち潮に打ち寄せられ、あるいは引き寄せられる、大小さまざまな藻屑や貝殻の、もうこまかなものは夕闇に紛れて見分けもつかなくなり、大きなものだけが目につきました。
「あれは……」
 シーラは首筋にすがるヒョウガの呼吸を忘れ、波頭に向かって、むずむずと這ってゆくかなり大きな巻貝に眼を吸われました。貝殻、流木、空き缶空き瓶……むなしく寂しい破片のような単語が集まる浜辺に、その巻貝は明らかに生き物の自立したリズムと勢いを持って、そろそろと海へ近寄ってゆくのでした。
「南の国の?」
 ヒョウガは熱っぽい眼をあげて、シーラのささやきの焦点をひろうと、フン、と鼻を鳴らし
「ヤドカリだよ。でかいな。たまにうちあげられるんだ。あれ法螺貝だろ」
「ヤドカリ…」
「知らないわけじゃないだろうが」
「ええ」
(喜んでるとじきにこれだ。もうちょっと俺を見つめてくれ)
 ヒョウガはシーラの顎を少し手荒につかみ、キスしているのか怒っているのかわからない……その両方で、それから、そして。


こころのかなしみ剥がして
 ひとひらずつ きらめきに変え
 贈りたい 粉雪舞う
 この聖夜
 いつわりのない
 傷つきやすい
 PURE HEART
 愛だけが 変えられる奇跡
 あなたに 贈る
 わたしの過ごした日々
 あなたゆえにきらめいた
 木々の声も 風の歌も
あなたがいたから
 すべて愛しく
 輝いた 時間
 誰よりも 深く
 誰よりも せつなく
 激しく そして……
 だからやさしさの起源は
 みんなあなたから
 もらったもの

 ふりむいて、また遠ざかり
 互いの道は逸れ
 あなたのいない 
 聖夜 きらめく無数の星々の
 ひとつぶずつ
 かなしみといとしさ混ぜて
 こころから贈る
 あなたをみつめる時間
 幸せな光りをくれた
 誰よりも 長く
 誰よりも いとしく
 育てた愛
 PURE HEART
 
この手に握る 今
 もう離さない 輝きは
 きっとあなたを幸福にする
 かなしみは 汚れなく
 風に舞う粉雪
 あなたのいない 聖夜を
 いくつ過ごして
 今 わたしの手のなか
 あなたは 微笑む
 わたしの 育てた愛
 PURE HEART
 誰にも測れない
 時間 互いに 分け合い
 こころの哀しみ
 剥がして
 光るはなびら
 淡雪こなゆき
あなたがいなかったから
 木々の歌 風の声
 夜空の深さ 星々のいろ
 眼に映るもの すべて
 あなたへの愛だった日々
 やさしさの起源
 みんなあなたから
 もらったもの……
 いつわりのない
 PURE HEART
 二度と離れない


クリスマスまで、あと十日余りとなった週末の金曜日の午後、シーラはタイジにも知らせず、ひとりでソゴウさんの家を訪ねました。
プジョーでもハーレーでもなく、電車とバスを乗り継ぎ、降り立った駅前で、お土産のケーキと赤い薔薇を買って。
 薔薇は七本。ケーキはたまたま眼にとまったその街のパティシエールのショートケーキを適当に四つ。
 記憶をたどって門扉を探ると郵便受けに鍵があり、娘さんは帰宅しておらず、ソゴウさんの書斎らしい窓のカーテンの隙間から、まだ夕陽の残る窓辺に淡く、電気スタンドの光が漏れて見えました。
 玄関の上がりかまちでシーラはコートを脱ぎ、壁にかかった長楕円形の姿見で、自分の姿を確かめました。
 すこし胸の空いた鮮やかな赤いワンピースを、ことさら選んで着てきたのでした。胸のふくらみは、下着とチーフでカヴァーしています。クラシックというよりもむしろオールドで、同時にワイルドな七十年代ふうの真っ赤なドレスは、ただこの時のためにアメ横で探し出した衣装で、コートなしの姿のまま、日常の街を歩いたら、奇異な視線を向けられるかもしれないほど鮮烈なドレスです。胸まわりの黒いレースの襟飾りはビーズを散らしたデリケートなもので、これだけはシーラが自分でつけ加えました。
 口紅もワンピースと同じくらい濃い赤。
(すごいね)
 鏡に映った自分を、シーラは見知らぬ女のように眺め、心につぶやきました。これほど強烈な色彩をまとってしまうと、髪型も化粧もたぶん相手の印象から消し飛んでしまう、とシーラはセミロングの髪をそのまま垂らして、前髪だけ節さんふうに飾りけのない黒いカチューシャで留めました。
 シーラ本人がどう思おうと、その赤いドレスは彼女によく似合いました。すこし蒼ざめて血の気のひいた頬でさえ、衣装の真紅は凄味を添えるのでした。
 ノックなしで、シーラはドアを開ける音さえたてず、ひそやかな影のようにソゴウさんの部屋に入りました。ノックしてもわからないと思ったからです。ところが、
「待ってたんだ。遅かったじゃないか」
 ソゴウさんは窓に向かったまま、背中ごしにシーラに声をかけてきたのでした。
「なぜわかったの?」
「玄関に君が現れたとき、ここから姿が見えたんだよ。その薔薇はぼくに?」
「そうよ」
「花をもらうなんて久し振りだ。女性からいただくなんて、ましてめったにない」
 それからようやくソゴウさんは後ろをふりかえりました。
失禁の気配や、部屋に染み付いた尿臭はしません。きちんと掃除され、床もワックスをかけたようにつやつやとし、長いこと誰も手を触れない書棚の本たちはうっすらと埃を被り、褪せた背表紙のまま、つつましく並んでいました。
地味だけれど毛並びのよいセーターの上に、セーターと似たような色合いのジャンパーを重ね着し、フリース素材のズボン。足元はスリッパではなく、もこもこした暖かそうな室内履きです。娘さんの趣味なのか、奥さんの節さんが残したものなのか、ソゴウさんの身なりは、どこのブランドかはわかりませんが、一見ありふれていても、着崩れの目立たない上等なものでした。今日は太い黒縁の眼鏡をかけています。
そのせいか、前に会ったときより、彼は若々しく見えました。強めの度の入った眼鏡ごしに、ソゴウさんはシーラをまじまじと見据え、
「君はまったく昔と変わらないねえ」
「そう?」
「いや、昔よりいっそう女っぷりがあがったよ。よくぼくのことなんか思い出してくれたもんだ」
「忘れたことないわ」
 柔らかくシーラはささやき、書き物机に近寄ると、その上に抱えていた花束を、静かに置きました。
「お世辞でもうれしい」
「あたしの名前、おぼえている?」
「もちろん。ええと……」
 ソゴウさんの視線がシーラから逸れ、頼りなげに左から右へ、またその逆にとゆっくり動きました。
「ええと、君は」
「あなたの最後の恋人よ。やっぱり忘れちゃったのね」
「最後の…」
「そうよ。わたしが、あなたの最後のひとりだったのに、あなたは忘れてしまったのね」
「そんなことはない。こんなにはっきり記憶に残っている。君の顔も声も」
「それじゃ、あたしは誰?」
(田舎芝居だ。ごめんね)
 いったい誰に向かって謝っているのか、とシーラは思わず唇をきつく結び、すぐにまたこわばった笑顔を作りました。
 考えた挙句、あまり…うまいとは思えない手段で、無力な相手をたぶらかそうとする自己嫌悪を抑え、作り声でささやきながら、シーラはソゴウさんの視線を全部とらえられる近距離まで顔を近づけました。ソゴウさんは無防備に、呆然と、両手をだらんと肘掛椅子から垂らし、両膝をかすかに揺すり始めました。
 知力を欠いた充血した瞳の真ん中で、さらに淀みを加えた水晶体。その奥に体液を含んだ硝子体。感度の鈍った虹彩の扉に手をかけ、シーラは失認の症状に揺さぶられ始めたソゴウさんの内部に、病人にはむごい、と無理を承知で侵入しようと、視線にこめた自分の意識のきっさきを鋭くしました。
 ソゴウさんの病んだ内面に、いやいや踏みこむ鈍器を振り下ろすような不快な感覚が脳裏を疾走するのと、うしろから節さんがシーラの髪をつかんでひきすえるのとまったく同時でした。
 ……!
 節さんは無言でした。シーラは彼女の姿をかろうじて横を向いた視線のはじでとらえ、予想はしていたものの、ようやく実体を見せた自縛霊の無惨に呼吸を詰めました。
 宿主であるタイジから飛び出すと、焦燥に焼かれ、執着のかたまりとなった節さんは、もともとの穏和な顔を、もはや保てないのでした。
黒目の見えない、ぽっかりと空いた洞のような両眼。半開きの口腔からあえぐように赤茶けた舌がひるがえり、痩せた鼻梁、こけた頬、灰色にばさばさと乱れた髪がその顔にまつわり、生気の失せた顔面に、瞳の抜けたうつろなふたつの眼だけが、ねっとりと低い金いろを帯び……
(泥眼の顔だ)
 シーラは、能面のいくつかを瞬時に連想しました。嫉妬に妬かれ、うらみに、憎悪に心を歪めた女面の数々。般若となれば鋭い角を額に生やしてもはや鬼、そこまで狂い、うらみきれずに苦悩するなら生成、または泥眼、
あるいは蛇(じゃ)……。
 能面の、鬼と女と魔のあわい、いやおうなしのメタモルフォーゼに煩悶するそれらは、怨念にとらえられてなおうつくしい造型を保ち、気韻をたたえ、おぞましさといたわしさを、眺めるこちらにかきたてるのでした。
夫にうらみはない、とつつましく言い切った節さん。だけれども、その言葉には、他人には明かしえぬつらい思いが、刻み込まれた裏また裏のさらにうらが幾重にも畳まれているはずなのでした。
(そうでなければ死に切れぬほどの未練を残すはずないんだ)
 それでも彼女は夫の傍にいたい。仇魔ではなくて……?
 シーラは鬼女になりかけた節さんに髪を鷲づかみにされたまま、逆にこの恐ろしさの反動に勢いつけて、節さんをひきずったまま、ソゴウさんの中に侵入しました。
色彩を崩し、ひとつずつの輪郭のさかいめを失くした認識の欠片、形象の歪み、ぶちまけたペンキか、やくざなラッカーのめちゃくちゃな吹きつけのような、迷彩。半ばは闇。そのなかにいくつかは……いくぶんかはきちんとした首尾のある何かの記憶の断片が、濁りの渦のなかに浮かんでは沈んでいました。
(心象の表面が、もうこんなに混乱してるなんて予想以上だ。どこかクリアな意識は残ってないか?)
 シーラは自分の髪から首へ、痩せた腕を回してしがみついてきた節さんを、こちらから逆に抱え込みました。節さんは眼と鼻と口だけがぽっかりと際立つ木偶人形のように、ソゴウさんの中に飛び込んでしまうと、かえっておとなしく、こわばった顔をうつむけ、両手は何かを捜し求めるように、シーラから離れ、周囲のどろどろした迷彩の溶暗をかきまわし始めました。
(夫はどこ?)
(ここがあなたの御主人の中です)
(何も見えない。どんよりして)
(あたしの言葉がわかる? 節さん。あたしと対話できますか?)
(はい。シーラ。苦しいわ。舌も眼も、がちがちにこわばって、体は骨になってしまうみたい。タイジさんから抜け出すと、わたしは……人らしい〈血肉〉を欠いたモノに堕ちてしまうのね、もう)
(それにしても鬼畜化する進行が早い。それだけにあなたの執念が濃い、ということかしら。あなたが飛んできてくれて良かった。あなたを呼び出すために、あたしは御主人に接近したの。だから今、あたしにアグレッションを向けないでください)
(あたしをここに呼び込むため?)
(そうです。これからさらに深層へ踏み込みます。節さん、あたしと一緒に来て)
 シーラはふと、今の自分が、かつて……の喉を切り裂いた蒼白な刃になったような気がしました。あのとき何歳だったんだろう。幼児の向こう見ずで、原色剥き出しの感情の、猛り奔るそのままのエネルギーで。
(今は違う、だいじな時にこそハートはクール、だ)
 それでもどろりとした認知の歪みをおしのけ、知性の混沌のその奥に、必ず残っている筈のクリアな感情層まで押し入るためには、真っ赤なドレスのゾーリンゲン。
 認知症のひとって、知性が損なわれても、感情はむしろ研ぎ澄まされてピュアになるんだよ……とタイジがどこかで言っていたっけ
それともシーラ自身が直感で洞察していたことかな?
 歪みのない……その感情域まで降りれば、
そこが節さんの居場所になる。
(節さん、あなたの終のすみかは、ソゴウさん自身だよ。他人に仮の宿主を求めたって長居はできない。傍にいたいなら、御主人のなかに、彼が死ぬまで、ひとつになっていればいい、ぼくといっしょに、この迷彩の向こう側へ)
(わたしが夫になるの?)
 節さんのうつろな瞳から、透明な雫が流れました。涙のようでもあり、限界を超えて揺さぶられたときの、感情とは無縁な体液の流出のようでもありました。
(そう。いちばん傍にいたいなら…御主人そのひとを宿主にしてしまうのがいい。誰にも、二度とあなたは邪魔されない。あなたとご主人はひとつだ。溶け合って、彼の肉体がこの世を去るまで、あなたがたは離れない。ただの訪問ヘルパーに心乱すこともないし、もしかしたら、ソゴウさんの表層意識の萎縮と混乱を、いくらかは食いとめられるんじゃないだろうか)
 ……。
 ああ、と深いため息が聞こえました。安堵の呼吸か、それと精根尽きた自縛霊の呻きなのか、聞き分けることの難しい吐息でした。
でも、そのすぐあとに、
(このひとの髪の毛ひとすじ、爪のひとかけらも、誰にも渡さない、離さないわ!)
 朗らかで屈託のない、そして華やかな若い女性の声が、ソゴウさんの混沌を突き抜けようとするシーラの魂を激しく揺さぶりました。

 クリスマス週間に入った土曜の暮れ、ギャラリー〈花絵〉で、タイジはぽつんとした気分で普段どおりの仕事をこなしていました。
 といっても季節がら客入りは上々で、午後早々の開店から夕方まで、毎回客席はいっぱい。親子づれもいれば、カップルもいました。不景気でも天下の銀座の華やぎが沈むという気配は見えず、昼すぎからお茶の時間にかけて、目抜き通りの喫茶店もレストランも、めぼしいところは混雑するせいか、銀座で多少は名の知れた久我ビルの〈花絵〉などは、休みどころを探しあぐねたひとたちの、ちょっとした腰掛けスポットになっています。
 映像を一回転させるたび、タイジは〈花絵〉の外廻廊に出て一服するのですが、ざわざわと観光客の訪れの絶えないフロアの、曲がりくねった薄暗い向こう側に、ともすると視線はさまよい、心はもっとあらぬところに飛んでしまいそうになるのでした。
 あれっきりシーラからは音沙汰なしです。木曜日のソゴウさんのケアはなだらかに終わり、なんだか拍子抜けする気分のまま金曜を過ごしました。なにかあれば、それを口実にシーラにアクセスできる、とアクシデントをひそかに期待していなかったわけではなかったのですが、ほんとにソゴウさんはおとなしく、半分以上眠ったような顔つきで、タイジの誘導のまま、ケア時間は過ぎていったのでした。
(抗精神薬か何か飲ませてるのか?)
 とタイジが憶測したのは、ソゴウさんの手足に、少しですが、はっきりと震えとこわばりが現れてきたからでした。ある種の薬物を使うと、副作用は必ず出現し、タイジには見覚えのある、ソゴウさんの動作のぎこちないそれと、これと、でした。
久我ビルの廊下の天井電気はいまどき珍しいかもしれない、埃をかぶった昭和まっさかりそのままの古くさい蛍光灯で、真昼のほうが夜よりもむしろ、このビルを浮世離れした蒼然たる雰囲気で包むヴェールのようでした。
 その向こう側から、ふらりと…いつものように、何の前触れもなく、水際だったシーラの姿が現れてはくれないか、とタイジは金曜日いちにちをずっと待ちわび、それでいて逢うのが億劫な、どこか噛み合わなくなってしまった自分の感情を、長い〈待ち時間〉のなかで味わい続けたのでした。
(誰かを好きになるって、まともなセックスしたいってことかなあ)
と臆面もなく考えるタイジでしたが、そういうこととも、今回のショックは違う、と思いたい彼です。
「喰う?」
 ぼやっとしているタイジの鼻先に、いきなり突き出された煎餅を、タイジは怒りもせずに受け取り、包装を破って歯をたてました。挨拶はそれから。
「ヒマそうね、ジンさん」
「俺、もう年内〈個室〉閉めてんの。知らなかった?」
「うん……これ、濡れ煎餅だった」
シケてるな、とふたりいっしょに口に出し、でもふたりとも笑いませんでした。
「冗談きかない。客入りいいもん」
「そうじゃなくてさ。君の顔、パンダ一歩手前よ」
「その次の台詞俺予想できる」
「医者と温泉」
「だよね。新味ないよ、だけどふられたわけじゃない」
「そぉ?」
 ジンさんは鼻唄のように茶々を入れました。
「医者っていえば、ポストにこれ入ってたよ」
 とさしだれたのは、長野のハト先生からの書籍郵便でした。宛名はちゃんと〈花絵〉のタイジになっています。
「勝手にポスト開けたのか?」
さすがにタイジはかっとなりました。
「悪いと思ったけど、ポストからはみ出て落っこちそうだったのよ。宅配にしてくれりゃよかったのにね、ハトさん。床に落ちてたら、同じことだろ。誰かがひろって持っていっちまうかもしれなかったよ。だって昨日今日の混雑だもん」
 嘘かほんとかわかりませんが、舌先三寸のジンさんに喰いつくのも今はばからしく、時間のむだでした。
 ばりばりと、濡れ煎餅を噛みくだく勢いで包み紙をやぶると、赤いリボンと金の鈴、素朴なもみの木の描かれた、てのひらサイズのクリスマスカード。絵もメッセージも一目でハト直筆とわかります。
「お手製メッセかあ。イマドキいいねえ」
 ジンさんの横目とやっかみを無視して、タイジは添付カードとは別に、緑と赤のクリスマスラッピングに丁寧に包まれた本体を開けて見ました。
 『奇跡の医療・福祉の町 ベーテル』
 サブタイトルは「心の豊かさを求めて」。帯に「ドイツでは、障害者でも老人でも、一生安心して暮らせる町がある」と書かれているあれこれに、タイジはすばやく目を走らせ、それからハトさんのカードを……ほんとうはジンさんの眼の前で読むのはいやだったのですが…裏返しました。
 とてもあっさりしていました。
 聖夜を飾る灯火ひとつ、ハトからあなたへプレゼント。
(ハトさんらしい)
 裏側にも、たぶん彼女の描いたイラストがあり、蝋燭と鳩。
(飛んで行きたいのは彼女のほうなんだろうに。でも、言ってたとおり、たぶん九州に飛ぶんだろうな)
「いい感じじゃない。いつのまに仲良くなったの?」
 ジンさんはまったく遠慮せずにタイジあてのメッセをいっしょに覗き読みして、悪びれずに言いました。
「こないだ彼女上京したんですよ。御親戚の何かがあって。そのとき横浜でシーラさんと三人で会った」
「そうかい」
「ジンさんこそ、ここしばらく、行方不明だったじゃないですか。どこ行ってたの?」
「そうだっけ?」
 ジンさんはくしゃくしゃと頭をかきました。
「俺、いなかったかなあ。銀座にはしょっちゅう来てたけど、言われてみれば〈個室〉はほったらかしてたかも」
「よくやってけますね。シーラさんも言ってたけど、ジンさんの正体不明もりっぱなもんだ」
「あ、その形容うれしい。正体不明、それいい」
「よくないよ。わかりやすいほうがいいって」
「わかりやすい奴って魅力ないんだ」
「そういうのへそ曲がりとか、屈折してるって言うんじゃない?」
「歪んでるほうが味がある」
 タイジはもうジンさんにはかまわずに、ちょうど時間ぎれになった〈花絵〉の客だしの扉を開けました。がやがやと出て行くお客さまにお愛想したり頭を下げたりしているいつの間にか、ジンさんはいなくなっていて、タイジはほっとしました。シーラに関して、ジンさんの無遠慮な突っ込みはもらいたくない気分です。
タイジはハトさんから贈られた『ベーテル』を、次の客待ちの間までに、ぱらぱら繰っていました。その間にも、デパートや高級ブランドの紙袋を提げたお客はひとり、ふたりと入ってきて、じっくり文字を追うゆとりなどなく、三十分もたたないうちに、少ない椅子は満杯。
 また映像をかけてフロアに出たところで、携帯の着信。心臓が口から飛び出すかと思うくらいの大文字で、どきん、と胸が鳴ったのですが、ときめきはたちまちしぼんで電話の主はお母さんの涼子さん。
……今大丈夫?
「うん。オッケー。ちょうど映像始めたから」
……さっき急に連絡入ったんだけど、宮本さんへの訪問、来週から週イチにしてくれってケアマネから。
「え、なにそれ」
……本人希望だって。もうだいぶ元気になったし、できることは自力でやるから、だんだんケア減らしてほしいって。別にあんたがミスしたとかじゃないっておっしゃってるらしいけど、あたし心配になってさ。いろいろイワクつきで回ってきたケアだし、たぶんずいぶんてこずってるだろうとは思ってたから。もしかして何かあった?
「ないよ、何も。いいひとだよ。娘さんも」
……ならいいけどね。もうあそこも次々とヘルパーとっかえひっかえで、こっちはお手上げで、息子駆りだしたのにって、ちょっとあたしも頭にきちゃった。
「だから何も失礼なことないって。スムーズな日ばかりじゃなかったけど、一昨日なんか、とてもおだやかだったし」
……じゃ、月曜と木曜と、どうせ年内いっぱいだからいくつもないけど、どっちにする?
決めてくれって。急な話よねえ。あんたの都合のいいほうでいいからって。だからメールじゃなくて電話したのよ。
「うーん。それじゃ木曜日キャンセル。そのほうが午後と週末長く俺の自由になる」
……わかった。じゃ年内は、たぶん最終月曜一日だけで。
「ケアマネさんによろしく」
(本人希望?)
 タイジはフロアの椅子に座って首をかしげました。木曜日のソゴウ=宮本さんは、どう見ても、筋道たった自己主張ができる意識状態ではなかった印象だけど、とにかくケアマネから回ってきたんだから、いいや。
(何か……あったのかな。いや、シーラさんが、なにか…)
 ソウニチガイナイ、と小さくささやく声がありました。
(かなり進行している認知症状が、そんな急変…好転するわけないぞ)
 とにかく、これで彼女に連絡する口実ができたってわけだ、とタイジはたちあがり、廻廊の隅までぶらぶら歩いて手洗いにゆき、そこの薄汚れた硝子窓から風景を眺めおろしました。
 午前中は薄日のさしていた天気は、午後もだいぶ遅くなった今、はっきりと下り坂でした。特に汚物が目立つわけではないものの、こまめな掃除のゆきとどかない久我ビルの共同トイレは、たいしたリフォームもしないまま、何十年もの歳月の間に浸み込んだ臭気が漂い、いつ、誰が置き換えるのかわからない消臭剤さえ、すっかり埃まみれで、水道の脇の窓は、磨り硝子ではないはずなのに、これもアンティーク級の時間に煤けて、ぼんやりと曇っていました。
 そこから眼下に見えるのは有名デパートの連なる銀座の裏道の殺風景です。視線を上に向けると、ビル群のひしめく上方わずかにひらけて、曇った冬空の平らな明るみが、表側だけ飾った人工建築の背後のどんよりした暗がりとは異質な、あたらしく切り張りされた白い紙みたいでした。
(午後から雨か、雪だったかな?)
 手洗いを出ると、どこかのギャラリーから耳慣れたクリスマスソングメドレーが聞こえてきました。
     (了)
 


 
 
 

 
 
 


 



 
 

 

   オカリナ・シーズン3

 時間を巻き戻して、その月曜日の午後三時、ちょうど雨脚がはっきりとし始めた頃、シーラは鹿香(しかご)市の霊園にいました。
 その日は成城学園で、シーラの祖父、表向きには養子縁組して父となっている千手宗雅さんの各月ごとの定例お舞台があり、こうしたおおやけの催しごとに顔を出す日は、シーラは千手紫(ゆかり)にもどり、この家の名にふさわしい姿で過ごすことにしていました。
 シーラが住んでいる家というのは、村雨能楽堂、通称成城能舞台と呼ばれる簡素な能舞台があり、宗雅さんの個人宅でもあります。もとは江戸時代の武家文人だった村上玉雨の別宅の一部を明治時代に鳳凰流で譲り受けたもので、玉雨の住まいの大部分は今では公園となっており、お舞台を含む千手家は、もともとの庭園の風情をそこなわないように、さりげない竹垣の仕切りで一隅を占めているのでした。
 一見すると村雨能舞台は、周囲を竹林に囲まれた質素な鉄筋コンクリート三階建ての公園事務所のように見えるのですが、内側はしっかりと伝来の木組みを残した設計で、一階と二階は能舞台、三階が宗雅さんと紫の住まいになっています。十年ほど前に夫人を亡くした宗雅さんは今年八十歳。同居の血縁は紫=シーラだけですが、今もかくしゃくと現役をつとめる鳳凰流の重鎮宗雅さんを慕うお弟子の出入りは日々繁く、ユカリのほかに宗家の末っ子、まだ中学三年の宗雪も、毎週末にはお祖父さんのお稽古をいただくために、時には泊まりがけでやってくるのでした。
ユカリは、十三歳でミラノからここへ移ってから、ずっと宗雅さんの精神的な薫陶を享けて成長しました。そのときすでに少女のアイデンティティを主張していた風変わりを、宗雅さんはあえて正そうとはせず、公私の別だけ厳しく一線をひいて、そのほかは周囲の相当の非難も受け流して、混血の孫の心の赴くままに育てたのでした。
 ですから宗雅さんは、ユカリを能役者に無理強いすることはなく、ただ仕舞と謡、進退作法のひととおりを身につけさせる程度に留めたのですが、厳しくもまた緩やかな日本の父の態度は、自分の性に対して屈曲を加えた心理状態の少年ユカリにとって仕合せなことでした。
この日、早暁から宗雪たちといっしょに、村雨能楽堂お舞台の拭き清めを済ませたあと、紋付袴の正装を調えていたユカリは、ちょうどまだ舞台前、朝の休憩時間ぴったりに携帯に入った駿男さんからのメールに驚愕し、宗雅さんに平伏して欠礼を請い、衣装を変えて、こちらに飛んできたのでした。

朝早くからゴメンネ。昨夜メグが行方不明と交通事故をいっぺんにやった。事故はものすごく奇妙で、警察も首をひねってます。ぼくにはもちろんわかりません。本人の怪我は骨折、打撲。全治一ヶ月くらいで命に別状はないので心配しないで。でもすごくわけがわかりません。メグの意識はある。麻酔で眠っているけれど、だいたい元気です。君に会いたがってます。どこかで都合つくようだったらお見舞いに来てください。

 と、こんなにもほんとのメールの首尾は一貫してはいず、ちぐはぐで、あわてふためいた駿男さんの様子がはっきりと見える文章でした。
 なぜシンクロしなかった?
 雨の中、メグの入院先へと急遽プジョーを走らせながら、シーラは繰り返し揺さぶられるのでした。信州では、体の一部がつながっているように、メグに何かあると直接シーラの五感が共振したのに、今回の一連に入ってから、そうした相身互いのつながりが、ほとんど感じられない、ということに、シーラは苛立ちました。
(声も聞こえなかった。何故だ)
 雨のせいか道路はところどころで渋滞気味で、病院に着いたのはもう昼前でした。病室は五、六人の大部屋で、白いカーテンで仕切られ、連絡どおり、駿男さんが睡眠不足露わのやつれた顔で付き添っていました。
 点滴につながれ、白い布団を胸元まで掛けて、あちこち包帯だらけで目をつぶったメグは蒼ざめ、小さく見えました。
「寝てるよ。ついさっきまで起きてたけれど、また麻酔効いて眠っちゃった」
 これがシーラへの駿男さんの第一声でした。
それから、
「折ったのは鎖骨、肋骨、左肘。左大腿骨。全治三ヶ月」
 メールでは一ヶ月の怪我だって、とシーラが問い返すこともできないくらい父親は落ち込んでいました。彼女は黙ってうなずき、
「どういう状況だったのか、聞かせていただけますか?」
 うーん、と駿男さんはうなって、シーラにパイプ椅子をすすめ、ベッドサイドに置いてあったエビアン水の1リットルボトルを片手でつかみ、ごくごくと飲みました。
「飲む?」
 たった今直か飲みしたボトルを、無造作にシーラに突き出す風間駿男さんの両眼は充血してまっ赤でした。シーラは拒まずに受け取り、さすがにそのまま口には寄せず、
「話してください」
 と駿男さんの眼を見つめ、できるだけ優しく声を抑えて促しました。
「警察から連絡来たのは、昨夜の十一時くらいだった。ぼくはリビングでテレビ見ながら水割り飲んでた。携帯じゃなく家電話で、メグが鹿香霊園で交通事故に遭ったと言われ、そんなばかな、って叫んだよ。だってシーラちゃん、うちは藤塚だぜ? メグが自分の部屋に入ったのはたしか九時過ぎだった。彼女はその後、出かけていない。部屋から出てきた気配なんかない。リビングにいたから、そんなことがあれば、ぼくはすぐに見咎める。
またユータイリダツ? でも事故にあって大怪我だっていうんだ。ぼくはとりあえずメグの部屋を覗いた。いない。窓もちゃんとしまってる。でもベッドはまだ生暖かかった。ちゃんと寝てたんだ。だとしてもどうやって藤塚から鹿香まで行く? しかも山奥の霊園なんて、徒歩で行ったら夜明けまでかかる。第一霊園なんてメグは知らないはずだ。誰かが連れ出したのか!」
「落ち着いて」
 シーラはペットボトルを駿男さんに渡しました。父親はむんずとつかみ、また喉を鳴らして飲みこむと、即座にシーラに突っ返しました。
「どうやって? ぼくはタクシーを呼んで、とるものもとりあえずここに飛んできた。メグは手術中で会えず、そこに居た警察に、ぼくはパトカーで鹿香霊園まで連れて行かれ、現場を見せてもらった。メグをはねたって相手は週末ドライブの夫婦で、遊びに来た鹿香から都内に帰宅途中だったって。彼らも病院にいて、ぼくといっしょにパトカーに乗った。おかしな感じだった。彼らは平謝りだったけど、おかしな顔つきだった……」
「ええ」
「警察も変だった。娘さんは、この御夫婦にはねられたらしいんですが、なんていう。容疑者に敬語なんか使いやがって、とぼくは激怒した。それに、〈らしい〉ってなんだよ、とぼくはパトカーの中で警官に喰ってかかった。警官は、メグは、相当の重傷なのに、事故現場からかなり遠くで発見されたんですって言うんだ。気を失うほどの骨折や打撲なのに、国道から奥まった墓地のなかに仰向けに倒れていたんだと。夫婦から警察に通報があったのは午後十時前。すぐにかけつけたパトカーと救急車に、ようやくメグが発見されたのは十一時。時差は、その中年夫婦がひいたはずのメグが路面にも路肩にもいなくて、辺りを捜索する手間がかかったからだ、と。この一時間の誤差のために、折れた肋骨が刺さった肝臓からの出血が増えた。それでICU入りになった。命に別状ない。でも、シーラ、この落差、君にわかる? メグは誰かにひきずられた形跡もない。道路の両脇は霊園を包む保護樹林だ。その森をジャンプして、彼女は墓地の一角の芝生の上に落ちた。数百メートルも? 自分で歩けるわけもない。誰かが運んだのか? でもメグをはねたと自首した夫婦は自分たちのほか、そこらを歩いている人間なんて、その時刻誰もいなかったと言う。彼らは動転していた。警察も変だった。ぼくはもっとおかしい。メグは九時前まで藤塚の自宅リビングでぼくとテレビ見てたというと、警察も夫婦もこんぐらがった」
「それからずっとここに?」
「そうだよ」
 駿男さんは両手で顔を覆って、男泣きに泣き出しました。うなだれた駿男さんの襟首から、セーターの下に着ているパジャマの襟が見えました。
「ヤメテクレヨ。タノムカラ」
 シーラは混乱してうちひしがれている彼にかける言葉が見つからず、突っ返されたエビアン水のボトルを、彼の手に握らせると、そっとたちあがり、そのフロアのナースセンターに行き、
「……号室の風間さんのお父さん、興奮して疲れきっていらっしゃいます。休憩室か、簡易ベッドか、何か対応をお願いできますか」
 数人の看護師は顔を見合わせ、眼で肯きあうと、その中の年かさのひとりが弁えた笑顔で、わかりました。できるだけのことをいたします、と応えました。
 シーラはそのまま病院を出て、駿男さんの記憶から読み取った鹿香霊園の現場に向かいました。
 霊園は、海沿いに開けた鹿香旧市街をぐるりと囲む源氏山中腹にあり、国道沿いの自然林の中に昔今のさまざまな墓群が静かに点在しています。由緒はふるく、平安・室町までさかのぼることが出来るそうですが、近年に入ってからは、神仏以外の死者も受け入れ、あたらしく森をひらいた区画には、クリスチャン墓地もありました。
 メグが飛んだのは、そのクリスチャン区画で、赤レンガ敷きの道を数歩入った一帯の、冬水仙の芽吹く黒土や枯芝には昨夜の捜査に踏み荒らされた気配が少しばかり残っていましたが、雨振りの月曜の午後、シーラ以外の人気は途絶え、白い十字架や聖像、墓碑は、それぞれほどよい間をとりながら、霧がかった冬の雨を浴びていました。
 警察の残した目印をたどるまでもなく、メグの仰臥していた芝生からは、シーラは濃厚に気配を、まるで実体の見えない彼女の温度のかたまりがそこに盛り上がり、残っているように感じ取りました。手入れはされているものの、この季節ではさすがに枯れいろの目立つ芝生が覆っているのは、両手をひろげた一メートルほどの天使の立像が守っている小さな外国人のお墓で、聖像の前の長方形の大理石に刻まれた碑銘の一部が古風にラテン語で記されているところから察すると、この死者はカトリックで、かなり古いお墓なのかもしれません。少し離れてたたずむ聖像自体は最近のもののようで、墓碑の大理石に比べると、白いけれども、全体に大量生産された製品独得の、肌理のあらい感触でした。
 シーラは片手に傘を手にしたまま、その場にしゃがみこみ、メグの寝ていた芝生の上にもういっぽうの手を重ねました。血は内出血だけだったのか、なまぐさいものは残っていず、メグの苦悶の記憶も漂ってはいません。
「なぜ、あたしを呼ばなかったの?」
 シーラは、そこにメグが寝ているようにつぶやきました。折れた肋骨は左側か? それが肝臓ではなく、もしも心臓に突き刺さっていたら……いや、心臓でなくても、もっと複雑で深い部分まで貫いていたら…。
(それ以前に即死だよ)
「君のしわざか、レノン」
 シーラは芝生に浮かぶメグのまぼろしから眼を離さずに答えました。探さなくても、レノンがそこに、すぐ近くに出現したことは感じ取っていました。
(ぼくが事故を招いたんじゃない)
 レノンの口ぶりは淡々としていました。シーラの傘に降り注ぐ、ぱらぱら、さらさらとした雨音と同じくらいに、何の感情もこもらず、事実だけを告げていました。シーラはようやく顔をあげ、天使の立像の周囲にぼうっと輝く金いろと青の楕円の輪を眺めました。
(ぼく、今実体がないんだ)
「死んだの?、肉体」
(うん。君たちが帰ったすぐ後に、肺炎でぼくの肉体は力尽きた。といってもメグがぼくを食べちゃった時点で、ぼくはもうミカエルにいなかったからね。かろうじて人口栄養で保たれていた生命力が、急激に失われたのは当たり前なんだ。ぼくも、もうあの植物状態の肉体に未練なんかなかった)
「メグの中にいるのね」
(守護天使。シーラ、メグを惑わしたのは、ここに葬られた死者だよ。正確に言えば、生まれる前に死んでしまった子の魂。百年くらい前だろうね。臨月で死産だった。外国から一時日本に来ていた貿易商の両親は悲しんで、我が子のため異国にお墓を立て、自分たちは数年後に帰国した。それきり、この子を弔うひとはいない。この子は神に召されたんだろうか? わからない。わからないことはないな……死への旅立ちが未完成のまま、この子の魂は迷い、さすらい、無力なまま、獰猛な餓鬼に食い散らされ、ずたずただ。そこでメグを見つけた)
「どうして?」
(愚問だぞ、シーラ。ぼくがメグにひかれたように、君がメグを見つけたように、彼女は素直でまっすぐで、暖かい。それでいて強烈で、それなのに無垢だ。遠くからでも一目でわかる。霊の世界に距離なんてないからなおさらだ)
「迷い霊。すがりついたのね」
(うん。でも、この子はもう赤ん坊でさえなかった。すっかり餓鬼に喰い尽くされ、かすかな残像のようなモノ。風に舞う落ち葉のような、寄りどころを失った悲しさだけが、メグにまつわりつき、彼女は疑うテクニックを知らない無防備だから、まんまとここまで連れ出され、事故に遭った)
「偶然?」
(いや…。餓鬼や迷い霊にうっかりかかわると、どうしたって危険だ。こんなことが起こる。連中は相手を自分と同じ境遇に引き込みたがるし、出なければエネルギーを吸い尽くそうとするから。君、よくわかってるはずだろ。ちゃんとメグに教えろよ。ぼくがいなけりゃ、メグは骨折程度で済むもんか。折れたのが左半身に集中してたのが、ただの偶然だったなんて君が思うんだったら、ほんとの間抜けだ)
 雨の中で、青と金の入り混じった天使の光背は、得意げにぷうっと膨らんで輝きを増しました。石膏の天使のあどけない幼な顔が、その輝きに照らされて、厳かな陰影を帯びるくらいに。
「あたしは…」
 シーラは言いあぐね、雨が降っているのにひどい喉の渇きをおぼえてくちびるを舐めました。そして口紅を塗ってこなかったことに気が付きました。
(このごろ違うって)
 レノンの声は、かすかに尻上がりに皮肉っぽくなりました。
(前みたいじゃないって? 思い通りにメグとコンタクトできないって? 壁があって)
「君のせいか」
 シーラのまなじりが吊りあがりました。
「あたしを弾くのは、レノン、あなたね?
わかった。メグの中にいる君が」
(ぼく、勝手に侵入されるのは好きじゃないんだ)
 レノンはぬけぬけと言い放ちました。光背を帯びた幼天使像は、まるでレノンそのひとのように、周囲の光りの伸縮の加減で、その都度表情を変え、今はシーラを嘲っているかのように、ふっくらした頬と、唇の口角のさかいめの影が際立って上向きに深く見えます。
 ひと呼吸おいて、レノンはさらに言い募りました。
(それに、ぼくヘテロだからね)
 う、といつしか立ち上がったシーラは幼天使像に向かって一歩踏み出しました。
(シーラ、君は女になりたがってるけど、女性じゃない。いや、女性にだって、ほんとはなりたいわけじゃないだろう。男もいやだ、女もいやだ。だけどメグを見る君の眼はどうしたって〈少女〉じゃない。メグにはまだわからないだろ。でもぼくにはわかる。ぼくホモじゃないから、君とシンクロするのはやだね、はっきり言って)
「正直だ」
(メグのおかげだよ)
 レノンの声は、ほんのちょっと潤んだようでした。
(彼女のなかは、すごく居心地いい。こんな大事故になるなんて、ぼくは全然予想してなかった。一世紀も前の迷い霊の影なら、まあ、しばらくそこらへん、中有をひっぱりまわされて、それこそおとぎ話じゃないけれど、キツネかタヌキに化かされた程度で、朝になったら、とんでもない場所で我に返るとか…そんな程度に傍観してたら、いきなりだった。この迷い霊だって、最初からたくらんだわけじゃないだろ。でも、どうしても引き寄せちゃうんだ。メグの強烈なエネルギーが、こうした凄い事態を。ぼくはとっさに車に激突した彼女の衝撃を庇った。そして、アスファルトじゃなく、ここに落としこんだ。路面に叩きつけられたら、全身打撲、内臓破裂で即死か、重度の障害を背負う。もしもぼくがシーラとのシンクロを隔てなかったにせよ、君にはメグを助けられなかったろう)
 そのとおり、とシーラは容赦ないレノンの指摘を、全身にしみわたる雨冷えのように味わいました。
(男であり、女であり…男でもなく女でもなく…君こそ自分勝手だ、シーラ。メグを見つけて彼女のコムニタスをヒーリングに〈善用〉する。それは聞こえはいいけど、要するにただの他力本願じゃないか。タイジが泣きついた今度のケースだって、メグを利用すればかんたんだ、らくらくと解決できる。節さんはメグに眼を付けて寄ってくる。ボケナスタイジに霊能なんてからっきしないけど、純朴でのんきだから、自縄自縛に硬直しかけた苦しい霊魂の仮の宿にはもってこいだろ)
「レノン!」
(何だよ。ありのままを言ってるだけだ。君だって本当のところ、自分の心のありかを捉えられず、ちょいちょいタイジをもてあそんでるじゃないか。それともタイジにリビドーを感じる? ヒョウガとは違った琴線にあなたは触れてくれるのよ、って正直に奴にすがって甘えられるほど、君に巣食ったPTSDはかるくない)
「レノン!」
 シーラは傘を取り落としました。苛立ったとき、利き手で髪をかきあげる癖が思わず出現し、冬の雨を忘れさせました。
 レノンの追及は徹底していました。
(ゾーリンゲンの切れ味はよかったろ? でも君はもっと痛かったよな、え?) 
 シーラの右手が無意識に動き、いつしか手にした蒼白な刃で、天使の顎を下から上に、ざっくりと斬りあげていました。
 絶叫。
 のけぞって倒れる男。
 眼球が飛び出したって?
 瞼が裂けた。
 噴水、どす黒い。プルタブひねる前に缶を揺すればサイダーだって飛び出すよ。ただそれだけだ。人殺しなんてさ。
 入り乱れる足音。廻廊に響くせわしない息づかい。
 押さえつけられたのは誰だ?
 ケイドウミャクがどこかなんて子どもでもわかる。だって猫だって鼠やモグラの首を噛むじゃないか。思うさまいためつけてから、生殺しにしてから、ようやく噛むじゃないか。
 こんなの、たいしたことないよ。
 やめて、と叫ぶのは誰?
 ママじゃない、ママはここにいない。遠くで誰かと何かしていて、ぼくいつもひとり。
 また悲鳴。館じゅうの谺や怒号が亡霊みたいだ。
 とりあえずネムラセロ。
 まだこどもだぞ。それにこの家の長男だ。
 ヒトゴロシ。
 ……。
「殺しちゃいない」
 シーラはつぶやき、だらんと片手を顔から離すと、てのひらにはべったりと血痕が貼りついていました。でも、数度瞬きすると、血の滲みは、霙に混じって周囲の保護樹林から舞い落ちた楓の鮮やかな紅のひとひらに変わりました。
(サイコ・ヒーラーの〈破壊力〉もたいしたものじゃないか? シーラ)
 レノンの声はむしろ穏やかで、起伏がありませんでした。石膏天使の周りを包んだ光背はかき消えて、頭上の森を渡る夕方の風に混じってレノンの問いかけが聞こえます。
 シーラの足元に、迷い霊の墓の上に両手を差し伸べていた天使の左側の片羽根片手が、まるでバーナーで焼ききったような焦げ茶の筋をつけてぱっくりと割れ落ち、粉々に砕けていました。ゾーリンゲンの刃のまぼろしは消えています。
(自力でなんとかしろよ。大事な〈ぼく〉を消耗させるな。肝臓からの大出血だぜ…)
 ざあっと一瞬、風に揺さぶられたどこかの大木からの雫が、雨脚に混じってシーラを襲い、シーラは頬に流れる雨だれを、楓の落ち葉を握ったままの拳でぬぐうと、その拳をペロリと舐め、不敵に言い返しました。
「メグは君じゃない」
 ひとりでやるさ、自分が男だろうと女だろうと知ったことか。
 傘をひろい、水からあがった獣のように、首を二、三度左右に振って、浴びせられた雫をはらいのけると、シーラは天使の墓標から立ち去りました。

 
こわれそうなくらい
 ぼくは君が好き
 君の前でぼくは息をとめて
 ただ見つめてる いつも
 こわれそう でも
 ぼくが砕けても
 ひとつひとつの かけら
 ぜんぶ君しかいないから
 君のまわり
 ぼくの想いでいっぱいにできる

 さびしいときも
 哀しみに沈むときも くだけた
 ぼくのどれかが
 君のそばにあるのなら
 君の心を支え なぐさめ
 生きる何度目かの一歩になるなら
 ぼくは 何度でも 自分を砕く
 愛していると
 叫びたいけど
 君はきっと
 信じない
 信じて また
 傷つくことをこわがってる
 だから 何度でも
 ぼくは自分のすべてを
 君に明かすよ
 かたくなな君は自分の
 心のありか 自分にさえ閉ざして
 もろい嘘を守ってるね
 
 ぼくにはわかる
 だってぼくは砕けるのを
 おそれないから
 砕けたって
 その数だけ君への想いの
 数を増して
 砕ければ砕けるほど
 ぼくの想いはスーパーノヴァ
 輝きで君の哀しみ包む
 君の嘘も 君の偽りも
 ぜんぶ 輝きにかえて
 何度でも
 いつまでも
 
君は自分の心のありか
 自分にさえ閉ざして
 もろい明日を待ってる
 何も見えない自分に
 嘘をついて
 でも
 そのままでいい
 ぼくは君が好き
 正直になんてならなくていい
 君が好きなら
 君の嘘だって好きだ
 
 ぜんぶ 輝きに変えて
 何度でも
 いつまでも
 ぼくは
 こわれそうな心 砕いて
 君を見つめてる
 ぼくはスーパーノヴァ
 息をとめて 君を見つめてる
 呼吸するのも惜しいほど
 君が好きだから
 何度でも砕けて スーパーノヴァ


港が見える丘公園近くの瀟洒なブティックの並ぶレンガ敷きの通りは、巷では湘南セレブ御用達ショッピング街などとも呼ばれていて、クリスマスシーズンに入ったこの季節はなおのこと、深夜まで、いたるところに飾り付けられたデコレーションイルミがきららかです。どこのショーウィンドーにも、銀色や白の雪景色、トナカイ、サンタクロース、天使などの可愛らしい吹きつけが目立ちました。
 桜木町駅前でハトとタイジをひろってシーラはこの街の一角に乗りつけ、表通りからひとつ奥まったバールに案内しました。
「そこの階段下りてください。〈ガレリアヴァンカ〉ってある。あたしは車を停めてくるから」
「ヴァンカ? いい名前ね」
「うん。ハトさんなら読んでるでしょ。コレット」
「すっかり忘れてたけど」
 地下につながる細長くひらたいベージュいろの石段には、きざはしのひとつひとつに暖かい橙色の小さいランプが灯っていました。周囲の壁も階段と同じ肌色。ランプは、磨りガラスの卵に包まれた、マッチの火くらいのほのかな足元灯ですが、上からの照明を抑えて、仄闇を導くこの灯りを一歩一歩ゆっくりとたどるだけで、冬の雨のせいだけではなく、いつからか鎖された心のどこかがほっとなごんでゆくような気持ちになりました。
 ヴァンカは小さいバールでした。奥行きが深く、カウンター席が店のほとんど。他には向かい合うふたり掛けのテーブルが、申し訳程度にひとつ。カウンターには白いバーコートに赤いタイを結んだ、五十年配の姿勢のよいオーナーが、にこやかにひとり。
 ハトさんは物怖じせずに、このオーナーにふたりがけのテーブル席にもうひとつ椅子をお願いし、ほどなくシーラが現れると、オーナーはハトやタイジに向けた来客用の微笑よりも、だいぶ深い笑顔を浮かべました。でも言葉は交わしません。シーラもまた、長い睫毛ごしに、静かな礼を返して、ハトとタイジの前に座りました。
「そういうクラシックなワンピース、あなたが着るとは思わなかったけど、似合うわ」
 オーダーの前にハトさんが口をきりました。
ほそい畝の入ったサーモンピンクの地に小花柄、広めの襟ぐりと袖口、裾に白いこまかいフリルのついた長めの着丈のワンピース。首には黒いシルクサテンのリボンチョーカーを結び、その真ん中にゴールデンローズがひとつ揺れていました。少女趣味な服装に合わせたのか、めずらしく髪を横一本の三つ編みにして、片方の肩から垂らしています。
「こどもっぽい?」
「ガーリッシュっていうの? シーラさん、年のわりにはシロクロはっきりしたシンプルな大人っぽいものが多い感じだったから」
 シーラは少し眉をあげ、ハトの衣装や顔つきを眺めましたが、誉められたから相手を誉め返す、ということはしませんでした。
「ハト先生、元気そうね、でもないか」
「どっちなのよ」
 ハトは笑い出しました。タイジはつんぼさじきにされた気がして、まだ残る酔いの勢いで口をはさみ、
「注文どうするの?」
「ここ、カクテル美味しそう」
 ハトは相変わらず、主にシーラを向いて尋ねました。
「ええ」
「じゃローズカクテル。あたし運転しないから」
 ふうん、と吐息のように同時につぶやいたのはシーラと、カウンターの向こう側でグラスを拭いていたオーナーでした。ハトはきらりと目を光らせて、
「地方では、たぶんなかなか飲めない」
「ハト先生、来年ミカエルから九州に転勤するんだってさ」
 どうやらちょっとセレブっぽいカクテルの話題についてゆけなくて、タイジは拗ねた気分になりかけます。
「え、またどうして」
「決まったわけじゃないの」
 ハトさんは言葉すくなにおさめ、
「それよりも、安宅礼音さん、亡くなったのよ」
「……」
 シーラは瞬きを停めてハトの眼を覗き、また視線を逸らせました。
(知ってるの?)
 すぐさまハトの驚きがシーラの胸のまんなかに飛び込んできました。
「え、あの子、死んだんだ。でもあの状態じゃ、本人も苦しかっただろうから」
 とタイジは率直に驚き、そんな彼に合わせてシーラは、
「そうだろうと、思ったの」
 とさりげなくうわべをつくろい、続けて
「今日遅くなったのは、メグが交通事故で」
 と話を逸らせました。
「命に別状はないけれど、かなり重傷。パパから連絡もらって、あたしぎりぎりまで病院にいたのよ。それで遅くなった」
 シーラは、それからこのふたりにわかりやすくメグの事故の経緯を説明しました。それは鹿香霊園を後にしたあと、プジョーの中で、またメグの病室で、繰り返し練り上げたつじつま合せでした。
(ハトがあたしの中を強引に覗くなら嘘はじきにばれるけれど。彼女はたぶんそうしない)
 とシーラは思いました。そして、今、ハトはガレリアヴァンカの快いほの灯りのなかで、陰影の濃いシーラの表情を見つめながら、いつもどおり澄んだ視線をすこしも曇らせることなく、嘘半分のシーラの言葉を黙って聴き、
「その状況で、その程度の怪我で済んだのは奇跡ね」
 とだけつぶやきました。
「天使が…」
 とうっかり口をついて出た言葉に、シーラは唇を噛みました。
「待降節は、天使がそこらじゅうを飛びまわるわ」
 ハトは、丹念にシェイクされた極上のカクテルを、まるでジュースのようにごくんと口に含み、
「よい魂と悪い魂を仕分けて、天の父に報告するのよ。オスカー・ワイルド」
「幸福の王子でしょ。それぐらいならぼくもわかる」
「ツバメの心理に、タイジ君共感する?」
「ちょっ……そりゃハトさんのほうでしょ」
 口をすべらせた瞬間タイジはまずった、と我にかえりましたが、ハトさんは端正な横顔のシルエットをちっとも動かさず、
「ローズカクテル、もうひとついただけます?」
 とダンディなオーナーバーテンダーに声をかけました。
 それから話題は気ままに流れて、ごく自然な感じでヴァンカでの時間はまとまり、まだ今夜のうちにハトを横浜の実家近くまで送りました。彼女の両親はともに開業医で、お兄さんが実家の後を継いでいるそうです。
「ミネさんのアパートに着くころ、もう明日になってる」
「そんなに飲んでないから、平気だよ」
「免許とらないの?」
「持ってますよ。だけど車買うほど金ないの、ぼく」
「あっさり言うね。イヤミ?」
「どうして。シーラさんはシーラさんじゃない。おかげで、俺君の横に座れる」
「あたしだって、親のスネばっかりかじってるわけじゃないよ」
「だろうね。君なら、たぶん何か自分で金稼ぎしてるんだろうって思う。だいたいサイコヒーラーで儲けてるわけじゃないでしょ」
「そうね、だいたいね」
「聞いていい?」
「また改まって、何よ」
 雨はもうほとんど止んでいました。ふとタイジは、プジョーから降りたハトさんが別れ際に雨傘を持っていかなかったような気がして、助手席のシートベルトの端を探ると、案の定ワインレッドのきれいな細身の傘が残されていました。
「あれ、ハト先生、傘置いてった」
「ミネさんへのプレゼントでしょ」
「女物だよ。シーラさんのほうが似合う」
「でもミネさん持ってって」
 なにか変だな、とタイジは思いました。
「聞いていいって聞かれて、やだ、っていったら聞くのやめるの? その程度の疑問なわけ、ミネさん」
 畳みかけてきたのはシーラでした。
「うん。聴きたいこといろいろあるよ。知りたいことも」
「話せることは話すし、やなことは話さない。それでいいでしょ」
「……メグさん、もしかして瀕死?」
「いいえ。それはほんと。三ヶ月くらい」
「ソゴウさんのケースは」
「あたしひとりで片付ける。メグは今安静第一だから」
「木曜日、来る?」
「それは未定。戦略考えないと。ああ、戦うんじゃないわ。癒す方法」
 しゃべりながら、シーラは自分の言葉がいつになく空疎な気がしていました。胸に穴があいたような気持ち。なぜ? ……。
 鹿香霊園でずぶ濡れになった衣装を、病院の地下駐車場で着替えたとき、シーラはめったに着ない柔らかい印象のありふれたワンピースを選んだのですが、それがメグに似合いそうな可愛らしいものだったからかもしれないのでした。もちろんスミレ・デュランテのブランド品ではありません。いつ、どうしてどこで、こんなドレスワンピを自分は買い込んだんだろう、とシーラは我ながら不思議に思いました。
 君は女じゃない、とレノンに突きつけられて、シーラは反抗しませんでした。傷つきもしませんでした。だいたい千手家ではユカリで暮らすほうが多いかもしれないのです。義父の宗雅さんは、孫の行状を、非礼でないかぎり、笑って眺めていました。いずれ落ち着くところに落ち着くだろう、というまなざしは、懐深くもあり、ひやりと厳しいものを含んでいました。信頼しつつ、甘やかさない。
宗雅さんのユカリへの接し方は一貫しています。
 でも、ユカリだって、自分をすっかりほどいて(さらけだすのではなく)甘えたい瞬間だってあるのでした。
 レノンは、シーラ=ユカリの心の奥に隠したそんな揺らぎに鋭く爪をたて、「タイジに…」と突きつけてきたのですが、そこまでシーラを責めつけなければいられないほど、レノンもまた孤独か、と洞察するシーラでした。
(君はそんなにメグが好きか、レノン?)
(そして、ぼくはメグをこれからどうするつもりだ。ぼくに会わないほうが、あの子は平和だった)
 あたし、とは言いませんでした。いまさら離れてはゆけない。メグの中に居座ってしまったレノンをそのままほっといたら、彼はメグをどうするだろう。……。
 黙ってしまったシーラを、何も知らないタイジは、
(こないだ乱暴しかけたから、警戒されてるかな) 
 と、ごく健康的に気がねしていました。タイジはちょっと咳こみました。厳粛な音楽会の演奏のあいまに、客席でかならず漏れる息ぬきの咳払いみたいに、彼はかるく心臓を抑えて息を吐き、
「シーラさん、なんでサイコヒーラーになったの?」
「癒してくれって、いろんなモノが寄ってくる。それが見えるから」
「無視できないの? 気づかないフリ」
「もう無理だわ」
「いつからそうなったの」
 赤信号で、プジョーは荒っぽく急停車し、ベルトをかけていたのにタイジはガクンと前につんのめりました。
「ミネさん、あたしととことん一緒に行く勇気ある?」
「え?」
「覚悟っていうか」
「カクゴ」
「今あなたがあたしに聞いてることって、そのくらいの気力要る疑問よ」
 信号が変わって、今度はなめらかにプジョーは走り出しました。
「この話はやめようよ。ミネさん。ひとりひとりは惑星ほども遠く離れてる。あたしは言いたくない。覚えていない、自分の心の最初に何が起こったのか。ほんとうにね、記憶がない。でもすこし想い出す事もできる。ロマンティックに言えば、現実に適応できない時期があって、夢ばかり見てた。悪夢もあった。
その中に、あるとき天使が現れた。夢のお告げ。彼か彼女かわからないけど、きれいな天使。彼女がこうしなさいと、ぼく(あたし)に指し示したって、言っておく」
「メルヘン」
「なんだっていいわよ。それから、あたしは自分の周囲に寄ってくる精霊やら自縛霊やらに脅えることがなくなった」
 やばいな、俺、この子を追い込んでるな、とタイジは真底後悔しました。シーラの運転は安定していましたが、ひしひしとつらい空気がタイジの肌につたわってくるのでした。
(あー、俺ってバカだ。どうすればいい)
 こんなに彼女のこと好きなのに、俺この子のこともしかして、傷つけた?
 タイジは心の中で鈍感な自分をぶん殴りたい気持ちになり……それから、
「天使になりたかったの? 〈ぼく〉って」
 ふいにタイジの声音が、おっとりとまろやかに変化しました。
 シーラはぎょっとして運転中なのに横を向き、タイジを凝視しました。
 タイジはほのかな……人生の機微を弁えた大人の女性の微笑を浮かべ、かけていない鼻眼鏡を中指でかるく持ち上げる仕草をしながら、
「危ないわ。ちゃんと運転してくださいな。あたしは静かにしていますから。何も悪さはしませんよ。この男の子にも、あなたにも」
「節さん」
「はい」
「ずっとそこにいたんですか?」
「そうよ。ミネモト君のなか」
 タイジは……節さんは、肩を小さくすぼめて、ふうっと息を吐きました。膝頭をちんまりと合せ、膝の上で両手を祈るように組み合わせてささやきました。
「このひとの体を借りると、言葉がなめらかに進むみたい」
「ええ、普通の女性みたい。上品な奥様」
「よしてちょうだい。あたしそれほど優雅じゃありませんよ」
「亡くなったのはいつでしたっけ?」
「一年と半年前。でも二年になるのかしら」
「ずっと迷って?」
「いいえ。迷ってなんかいません。迷えたらいっそ気楽なんだけれど」
 節さんの口調は哀愁を帯びました。タイジの声で聞かされる節さんのメランコリーでした。まったく穏やかな、相当に嗜みも配慮もあることが明白な、女性の沈んだ嘆きのつぶやきでした。
「節さん、どうなさりたいんです?」
 シーラは尋ねました。
「いつまでもミネさんに宿っているわけじゃないでしょう。御主人にうらみでもあるなら、もっとすさまじい事態になっている、とあたしは思います。でもそうじゃない」
「少しは恨んでるわよ。でもあきらめてあの人に寄り添い続けたのだし、後悔もないし、ほどほど幸せでした」
「じゃあ……御主人が心配で」
「そうね。たぶんそうなんでしょう。あたしは自分の体が死んでしまったことはわかっているの。火葬にされて、骨になって納骨されて……あたしはぼんやりとそれを見ていた。どこかに誰かがあたしをひっぱっていく気がしたのだけれど、あたしはいやでした。離れたくないわ」
「ええ」
「だって、夫は認知症なのよ。どんどん進行していく。最後には抜け殻みたいになって……シーラ、あたしはね、でも健康で活躍していたころより、彼の病気が始まってからのほうが、もしかしたらこのひとの傍にいる時間は、妻として確かなものだったかもと思うのよ」
「確かな?」
「詩人として、それから短大の教員として忙しかったころ、夫はあたしをちゃんと見つめてくれたこと、あったかしら。あたしたちはお見合いで一緒になったの。喧嘩らしい喧嘩もせず、夫は相応に家庭人の勤めを守っていたけれど、本当に心の通う会話をしたことなんてなかったと思う。彼は彼の取り巻きや……たぶん隠れた女性もいたんでしょ。そんなひとたちとの交友のほうを、私との時間よりずっと楽しんでいた。いろんなごたごたを家庭に持ちこむことはいっさいなかったから、あたしも目をつぶっていましたよ。でも女ひととおりに嫉妬もあったし、怒りもあった」
「淡々とおっしゃいますね」
「鈍感ね、その言い方」
 節さんはまた鼻眼鏡を中指でもちあげる癖を見せて、シーラを見ました。すこしうつむき加減に、斜めの顔の角度より、眼だけ動かして横を見上げる仕草。両手は膝上で揃えて指先を組み、落ち着かなげに緩やかに握ったりひらいたりしています。
「あたしは控えめに言っているのよ。言葉で言い表せる範囲なんて、人生の、人の心のほんの一部でしかないわ」
「……そうですね」
「病気になってから…あたしは夫を全部自分のものにした、と思った。そう思えたわ。認知だろうと何だろうとよかったの。あたしがいなければ、この人は生きてゆけない。そういうソゴウのほうがいい、と」
「でも、あなたのほうが御主人よりも早く」
「ええ。悲しかったわ。死ぬよりも悲しかった。シーラ、あたしはほんとに夫が好きだったのよ。でも、夫に対して生前それを伝えることもあたしはしなかった。口惜しかったから」
「……今も?」
「口惜しいかって? こんなに失認が進んでしまったひとに口惜しさを感じるのは無理だわ。少なくとも、あたしにはこの半病人をいためつけることはできません。でも、だからこそあたしは夫の傍から離れられないの」
「傍にいたい?」
「ええ、夫が死ぬまで」
 節さんの口調はきっぱりと、そして熱を帯びました。聞きながらシーラはふと、雨雲の吹き払われた眼の前の夜空のどこかに……あちこちに、ほのかに揺れる星粒を見つけました。木枯しにあらかた葉っぱを吹き散らされた街路樹の枝が、ところどころ不規則に大きく揺らいでいます。一方向ではなく乱雑な感じで、たぶん枝と枝とがぴしぴしと重なり響きながら、風を受けているのでしょう。それは大きな低気圧とか、台風とかが過ぎ去ったあと、街に取り残された〈風のこどもたち〉が、名残惜しげに樹木にまたがったり、ぶらさがったりして気ままに道草して遊んでいる感じでした。
でも、シーラはまだ風の精霊に出会ったことはありません。霊魂は草木には宿りやすいらしく、メグの母親の安美さんが柳の妖精になったように、ある性質の人の魂は植物と同化しやすいものを持っているのでした。
シーラはまた、鳳凰家に入って、能楽ひととおりの素養を身に付けたのですが、自分の周囲に覗き見る異界と、伝統芸能の表現する幻想とが一続きであることに、むしろ驚いたくらいでした。能の世界では、死者は往々にして菖蒲、桜、柳、藤、梅……さまざまな植物の精霊となって、夢幻のうちに現れるのでした。
(そういえば、星や月の精霊にも会ったことはないな。能にもない……)
 すぐ傍に出現した節さんの生霊が、あまりにおっとりしているので、シーラはふと緊張を忘れ、険しさを忘れ、心はむしろ緩んで雨後の夜空へ昇ってゆくような錯覚にとらわれました。
「あなた、あぶないわ」
 タイジ=節さんの暖かい手が、シーラのハンドルを握った手にそっと重なり、シーラは我にかえりました。
「はい。御主人の傍にいたい……それがあなたの望みなのね」
「そうよ。でも自縛霊。このひとの認知が進んでやがては廃人になってしまうのと、きっと同じ速度であたしは、魂の弾力を失い、かたくなに、こわばって、感情の潤いを失い、自縛霊となり、自分が誰かさえ思い出せない未練と執着のかたまりに…それから挙句のはてには餓鬼道に堕ちてしまいそうなの」
「そのとおりよ。残酷だけれど。このままあなたが成仏せずにこの世にとどまるなら、いずれは」
「だから、そこをどうにかして欲しいの」
「と言われても……植物に宿るくらいしか」
「ときどき庭の百日紅に腰掛けて、夫を見ていたわ。でもだめなのね。あたし、ヘルパーさんだとわかっていても、誰か女性が夫の体に触れると思うと、何ていうのかしら、魂が荒々しくなって、植物の静けさを保てないの。長く樹のなかにいられないのよ」
「不思議です。こうしてお話している節さんは、あたしの知り合いの中でもまれなくらい穏やかな、お名前のとおり節度のある方なのに」
 ふふ、と節さんはタイジの声で口をすぼめて笑いました。かるく自嘲の気配が、シーラには感じられました。
「節度や穏やかさ、というのは生の感情を抑圧することでしょう? 人間誰しも心ひそかに噴き上げる激しさを持っているわ。それこそが生命だもの。あたしは生きている間、自分を抑えすぎたかもしれないの。でも、それは夫に対してだけじゃなく、たぶん、持って生まれた自分自身の激しさに対して」
「別な生き方がなさりたかったの?」
 節さんは少し黙り、優しい眼をしてシーラを見つめました。
「ああ、あなたと生きているうちに出会って、親友になれたらよかったのにね。うれしいわ。そんな風に思ってくれて」
 それから、
「あたしはあたしなりの人生を全うしたの。別な生き方など考えられない。だけど植物に弾かれるほどの激しさを持っているから、死にきれずに、こうして夫に未練が残り、親切なヘルパーさんたちにまで情けない仕打ちを、ついしてしまうんだわね」
 傍に、いたいの……
 一番最後のほのかな呟きは、深い吐息と同時でした。
「……よ」
 タイジの、うつむいたままの横顔からこぼれた言葉をシーラは節さんの声に聴き重ねました。が、もういちど彼は顔をあげ、彼女のほうを向いてきっぱりと、
「俺、君の傍にいたい。いつまでも、ずっと。
君が何者でどこから来たのか、何をしたいのか、心がどこにあるのか、正直全然わかんない。いやわからないことが多い。でも、とことん来い、っていうんだったら行く。ヒョウガと殺し合いしたっていい」
 ここまでいっきに言ってしまい、こらえかねたように一息吐いてから、タイジは絞りました。
「抱きたいよ」
 タイジの意識には、節さんに憑依されていた時間がまるで存在しなかったのでした。
(知覚できないものは存在しないんだ。節さんはまたタイジの奥深くに去った。あたしに自分の本音を告げて)
 そして今、タイジもまたシーラに迫ろうとしているのでした。いえ、迫っていました。
 シーラは、節さんの出現と消失、そしてタイジの吐露を、路面の傍らを絶えず過ぎてゆく、すれ違う対向車線の車のヘッドライトの軌跡のように、耳に並べていました。
「あたしを抱きたい?」
「ああ」
「それで気がすむ?」
「またそれかよ。シーラさん、俺に自分と一緒に最後まで来れるかって聴いたろう。ぐずぐず能書きたれるのやだよ。君の傍にいて、君がぼろぼろになったときでも、俺は君の傍にいたい。君がそうして欲しいって望むならの話だ。君を抱きたいってのは、それと別だろ? 同じだなんて言うんだったら、ヒョウガとやり合う前に、君を」
「コロス?」
 ぐっとタイジは返事に詰まりました。ふ、とシーラは微笑を含んで小首をかしげ、タイジを横目に見て、
「優しいね」
「アホぬかせ。俺そんなにお人好しじゃないぜ。君がその程度の女だったら、好きにならない」
 と言うのはもちろん苦し紛れの嘘でした。
 シーラはまたガクンと信号直前で急停車し、タイジを前のめりに脅したあと、またなめらかに発進すると、ごく自然な声で、
「ミネさんち、もうそろそろ着くよ。たぶんこの辺でしょ。今夜ひとり?」
「そうだよ」
「じゃ、行く」
「え」
「あなたの部屋に」
 東京と神奈川のさかいめに位置するタイジの住む町まで、さしたる道路混雑もなく、プジョーは順調に流れに乗り、今夜ぎりぎりにタイジのアパート近くに到着しそうです。
 タイジはシーラの返答に気圧されて、呆然としてしまいました。
(来るって? 俺の部屋に? 今夜? これから? マジかよ。マジだ。こいつそんな嘘つく女じゃない)
 ここから先、車停められるとこ、どこかある? と尋ねられてタイジがあわてて窓から外を眺めると、いつのまにかプジョーは国道から逸れ、見慣れた自分のアパート周辺の景色がゆっくりと窓外を動いていました。
「そこのお宮さんの脇に、空き地ある。ほんとはまずいけど、結構みんなやってるから、大丈夫だよ」
 赤い鳥居のこじんまりとした稲荷の社の裏側に、たぶん宮の森だったところをつぶして、何かの建設予定地になっているのでしょう。民家に囲まれてかなり広い更地があり、プジョーが入ったときは、何台か似たような違法駐車が泊まっていました。みんな県外ナンバーです。
駐車スペースは、たっぷりありました。シーラは無遠慮に車を真正面に乗り入れ、いったん停車しました。
「ミネさん、あたしのどこが好き?」
 ハンドルにシーラは上半身を預け、正面の窓ガラス越しに、今はもうすっかり雨雲の消え去り、オリオン座の堂々と輝く冬の夜空を喉を反らすように見上げながら尋ねました。
「顔」
 タイジはまっすぐ、迷いなく即答しました。
「見たことないくらい、君はきれいだもん。心がどうしたなんてウザイリクツこねない。一目ぼれだった」
 いい奴だ、とシーラは思いました。
「それなのに、あたしがボロボロになってもあたしを好きだって断言できるんだ」
「そうだよ。きっとこれから先、君はどんなに崩れても…って言うのは変だけど、どう言ったらわかんないけど、年をとろうが傷つこうが、誰よりきれいだよ。俺ずっと好きだ」
 シーラは黙って車を降りました。タイジも急いで降り立ち、シーラの傍に、ごく自然に近寄りました。なぜか心臓は静かでした。ここに街灯のあかりはなく、頭上には月のない星影だけ。少し離れて宮の森のうすあかい、ふるぼけた常夜灯が、小さく残った木の間ごしにほのめいています。
 シーラはコートを着ていませんでした。薄手のドレスワンピースをさらりと着て、ゆるい北風がその裾を、ほそい膝がしらまで吹きあげています。
(覚悟ってこういうことなんだな)
 とタイジは直感しました。俺、こいつのためなら死ねるって。今すぐにでも。
「シーラ、これ着て」
 タイジは自分の羽織っていたダウンを脱ぐと、シーラの肩にかけようとしました。シーラは差し出されたタイジの手の上に自分のてのひらをそっと乗せました。その手のつめたさに、タイジは自分の手の熱さ……汗ばむほどの熱さを自覚し、なぜだかわかりませんが、その瞬間アクセルかけたみたいに心臓が早鐘を打ち始めました。
 汗ばんだ相手の手を、いきなりわしづかみにしたのはシーラのほうでした。ぐい、との相手の胸にひきよせられ、タイジは反射的に倒れかかった上体を支えようと足を踏ん張ったのですが、驚いたことにシーラの手の力に抗うことができず、どしんとまともに顔から華奢な胸にぶつかり、かあっと逆上しました。
「何だよっ」
 シーラは相変わらず無言で、タイジの手を離さず、もういっぽうの手で襟ぐりをおしひろげると、握ったタイジの手を、そのまま自分の左胸に導きました。
「わたしの心臓」
 ふと、シーラの脳裏に、レノンの心臓を食べ始めた……食べていたメグの姿がよぎりました。あなたの心臓、あなたの心、だったっけ?
 シーラの眼は、タイジの顔が見下ろせる高さでした。
(タカビーだけど、ユルセ、ミネさん)
「好きだよ」
 タイジの瞳孔がめいっぱい見開かれ、今耳で聞いたシーラの囁きと、自分の右手が確かめているシーラの胸の感触の驚愕の間で、宙吊りになっていました。
 シーラが言いました。
「心から好きだ、ミネさん」
「嘘つけ」
 タイジはやっとのことで言い返す台詞を見つけました。
「平常パルスだぞ。ほんのちょっともときめいてないじゃないか」
「だいじなときに、ハートはクールだ」
「よせよ。シーラさん。マジきつい。こんなことってあるか」
 シーラがタイジの手から自分のてのひらを離しても、タイジの手はなおシーラの胸の上から動きませんでした。すこし震えて、タイジは、
「カンケーないよ(ほんとか?)君が」
「バイ」
 つっとシーラは体をよじりタイジの手を体から離しました。そしてすらりと高い半身をかるくかがめて、タイジの片頬、耳たぶの下のやわらかい部分に唇を押し当て、
「バイバイ」
 とん、とタイジの体をかるくおしのけ、シーラはプジョーにすべりこみました。タイジは腑抜けのようにシーラの匂いを風に嗅ぎ、
その左胸に触れていた手に残された、一枚の柔らかな絹のハンカチを眺めました。夜目にもあざやかな紅色で、縁や四隅に手の込んだこまかな刺繍のあるちいさなチーフでした。
 タイジが手にしたハンカチから顔をあげると、もうプジョーは視界から消えていました。発進音も、さよならの挨拶も聞こえず。……でも、それはたぶん、タイジの眼も耳も、なにも聞こえず、見えなくなった数瞬の出来事だったからなのでした。
 タイジはハンカチを握りしめて、鼓膜の遠くを流れてゆく風のどこかにシーラの奔り去る音をたどろうとしながらつぶやきました。
(バイ、だって? アホが。それでもアタシのこと好きかって訊いてくれ)
 洒落になんない、とタイジはハンカチをまるめ、携帯をしまった胸ポケットに、無理やり押し込みました。

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