さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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オカリナ・シーズン 7 コイン・ラヴァーズ

Posted by 水市夢の on   2 comments   0 trackback

LOVERS
 宙(そら)に投げるコイン
裏と表 
 どちらが君の心 どこかにぼくの愛
 表に君の心 裏には愛
 君には見えない ぼくの想い
 互いに重ならない裏と表
 ぼくと君の愛
 ひとつの出会いに 
背中合わせの裏表
 
 君には見えない ぼく
 ぼくにも探せない 君
 でもぼくは君の背の
 震え 感じる 誰よりも
 はっきりと せつなく 君を
 
 誰にもわからない
 君のHEART
 重ならなくても 
 離れないから 愛
 君の震え 感じて
 暖める LOVERS
 はっきりと せつなく ぼくら
 くっついて
 背中合わせに
 結ばれてる
 コインの裏表

 さよならなんか言わない
 背中合わせに 
 結ばれてる LOVERS

 ぼくは君
 君はぼく
 裏と表
 背中合わせのHEART 
 離れない LOVERS
 さよならなんか言わない
 結ばれてる LOVERS
 

足がしっかりと地面を踏んでいる、という感覚もなく、きっと何度かつまづきながらタイジは機械的に自分の巣にもどり、これも習慣のなすがまま、入り口の郵便受けの蓋をあけると、ばらばらと何通かの印刷物が手から逸れて足元に落ちました。それでようやく、タイジは自分の両手が、ときおりひどく痙攣しているのに気が付きました。
(うー。ショックでドーパミン分泌過多か?
それとも過少か?)
「洒落言えるんだったら大丈夫だよ」
 と、存外のんきな自分の声がつるりと喉から漏れ、それもタイジは誰が喋っているんだろう、と思います。しゃがみこんで配達物をひろうと、あらかたは歳末めがけての広告葉書でしたが、中には、あきらかに手の込んだきれいな彩りのDMが一枚、二枚。
「クリスマスパーティ? 〈 inローズ・クォーツ〉と、こっちは…ガーネットさんで、あれっ」
 沸騰して霞がかっていたタイジの脳みそに、冷たいおしぼりが、とん、と乗せられたくらいの鎮静効果はありました。
 久我ビル地下劇場で、季節恒例の吉良娥網(ガーネット)のダンスパフォーマンスがあり、そのゲストに美人風ユニットが招かれています。もちろんヒョウガも。
 タイジはあらかじめガーネットの公演予定は知っていたのですが、このダイレクトメールはリンスから来たものでした。手書きメッセージが添えられています。

 急な話ですけど、豹河君から誘われて、共演させていただくことになりました、ガーネットさん、すてきな方ですね。今回はシャワーとふたりで歌います。よかったら来てね。

 こちょこちょと小さな横書きの倫子の字は、かつての優等生ぶりをちゃんと示して、几帳面できれいでした。タイジはふと、シャワーはどんな字を書くんだろう、と思いました。
(顔も体つきも、性格も似ているみたいだから、みっちゃんみたいなきちっとした達筆なんだろうな)
 それにしてもヒョウガめ、ぬけめなくシャンプーにアクセスした、とタイジはいつも日焼けしている精悍なヒョウガの顔を、かなりいまいましく(なんで?)思い浮かべ、それからローズ・クォーツで最後に会ったとき、何か言いかけて言葉を呑み込み、ただはにかんで笑っていたシャワーの可憐な姿をくっきりと思い出しました。
 タイジはちょっと気持ちの張りをとりもどし、自分のねぐらに戻ってゆきました。
 翌日の火曜日、水曜日は普段と変わらないスケジュールが無難に過ぎてゆき、また木曜日が来て、ソゴウさん宅への訪問日でしたが、シーラからはあれっきり何の連絡もありません。タイジは毎朝毎晩、携帯にインプットしたシーラの画像を眺めることをやめませんでしたが、その度に携帯といっしょにしまいこんだ紅いタイシルクのハンカチが、月曜日の衝撃を再現して、それこそタイジにはめずらしく、自分の気持ちのありかも行方もわからなくなるのでした。
(どうだっていいじゃんか、あいつが男だって)
 と、もうすでにタイジ自身に言い聞かせる自分がいるのでした。
(だけどさ、そう考えちゃうってことは、俺はどうでもよくないってことなんだろ。俺ホモじゃないんだ。でもシーラはどう見たって男にゃ見えないもん。なんであいつが男じゃだめなんだ? ヒョウガはシーラが……その、つまり、ええと、平気なんだよね)
「ミネさん、ボーっとしてないで○○さんの食前トイレ誘導してよ。どうしたの? 眼の周りにまっさおなクマ作って。健康優良児の君が」
 無難に、とはいえ、こんな心のざわめきはどうかするとやはり挙措に現われて、デイサービス勤務の最中、フロアリーダーに注意されることもあったりするのでした。
木曜日の午後三時、とうとうシーラには連絡せずにソゴウさんのケアに入りました。
 もう十二月の大気が凛とつめたく、それでも枯れ残った庭の百日紅の葉がいくひらか、さびしいほど明るい冬ざれの陽射しに揺れています。涼子さんとの約束では、ソゴウさんのケアにタイジが入るのは今年いっぱい。そのあとはどうなるのか、まだなんの連絡もありません。
(あの百日紅の前で燃えているふたりの山羊男から始まったんだっけ…)
 どうして山羊なんだろう、どうしてソゴウさんが二人いたんだろう? あれは、でもほんとに現実にあったことなんだろうか?
(ゲンジツじゃないんだ。幻覚なんだけど、現実よか真実味があったし、今も記憶に焼きついている) 
タイジが鍵を開けて入ってゆくと、ソゴウさんは西陽射しこむ窓辺の書き物机にいつものように向かい、あまり皺の目立たないすべすべした面長の顔をうつむけて、何か本を読んでいました。
「先生、ミネモトです」
 ゆらり、と上半身が傾いて、ソゴウさんがこちらをふりかえり、
「おや、今日は君ひとりなの?」
「はい、いつものとおり」
「前に新人の女性といっしょだったろう。彼女はどうしたの?」
(よく覚えてるな)
「えー、ちょっと他の仕事を任されていて。野郎が来てスミマセン」
 ソゴウさんは目じりに朗らかな笑い皺をいっぱい作って口を開け、
「ほんとに残念だ。類稀な美人だったから」
「ハイ」
 タイジの胸が締め付けられる瞬間でした。
「やめたわけじゃないでしょ? だったらまた来るかね」
「ええ、いずれまたうかがうと申しておりました」
「それは嬉しい」
 ソゴウさんは、おっとりと返事をして、また机の上の本に視線を戻します。何を読んでいるんだろう、と好奇心にかられたタイジは少し背伸びをして先生の手元を覗きこむと、ひろげているのは書物ではなく、古いアルバムでした。
 昔ふうに写真を貼り着けてゆくアルバムで、ちょうどそのページには、三十年くらい前のソゴウさんと、たぶん奥さんらしい女性の姿が何枚もあります。箱根…芦ノ湖…それに…。
関東近郊の明媚な観光地で、肩を並べて映っている笑顔の夫婦。それと、ところどころには友人らしい男女数人が加わって、どれもいかにも楽しげな表情です。
 あ、とタイジは眼をみはりました。
 どこかわかりませんが、少し色の褪めた紅葉の風景に、ソゴウさん夫妻といっしょに写っている、けっこう顔立ちのよい、鳥打ち帽子をかぶった伊達男。痩せて背の高いソゴウさんと、彼の雰囲気は対照的で、きちんと頭髪を手入れしたソゴウさんにひきかえ、全体に肉付きのしっかりしたもうひとりの彼の髪はいかにも無造作に鳥打帽子からはみ出て、肩幅と同じくらいに両足をひろげ、手を後ろに組み、靴はタイジのいつも見慣れているメッシュでした。
 たれ眼気味に、視線の焦点がつかみどころのない笑顔にも見覚えがあります。
 つつましやかな可愛らしい印象の、ソゴウさんの奥さん節さんを真ん中にはさんで、三人で仲良く写りこんでいるところから察すると、よほどこの夫婦と彼は親しかったのではないでしょうか。
(ジンさんだろ。へえ…。すいぶんイケメンだったんだね。顔つき変わらないや。靴と。
節さんとも知り合いだったってことか)
 縁ありきってとこ……。ジンさんはもしかしたら節さんの消息が知りたかったのかも、とタイジは思いました。タイジは、今自分につきまとってるという節さんの顔かたちはまったくわからないのですが、女ざかりの、ちょうど今の娘の苑さんぐらいの年頃の節さんは、美女という感じではないにせよ、いかにも育ちのよい、見た目に快く、角のない雰囲気の女性でした。
タイジの眼にも、この上品な節さんが、若いころから奔放と火宅をはばからないジンさんとは相容れないというのは、はっきりとわかり、でもそれだけにジンさん自身の性質とは真逆の女性への好みをかきたてたのでは、という憶測が蠢いたりもするのでした。
(ひとってわかんないよね。ジンさんはガーネットさんがどうのって言ってるけど、ふたりとも本気だなんて思えないもんなあ)
 タイジはここでまたシーラを連想し、ちくりと、いいえもっとはっきり熱い感情を押し殺し、顔を背けて部屋を退き、キッチンへまわり、いつもどおりテーブルの上の買い物メモとお財布を取りあげました。

 結衣ヶ浜に寄せる西風は凪いで、小春日和の午後の光は、潮の匂いを含んだその濃い大気といっしょに遠浅の海面をなめらかに渡ってくるのでした。
 シーラは海浜公園近くの地下駐車場にプジョーを停め、人気の少ない冬の海辺へふらりと出てゆきました。スカートではなく、デニムのイージーパンツの気楽なかっこうで、上からはざっくりとカーキ色のモッズコートを着ていました。束ねていない髪が車からおりたとたん、地下駐車場の中までも、どこかから吹き込む海風に乱れ、白い頬にほつれかかりましたが、シーラはバレッタで留めようとはしませんでした。地上に出ると、むしろ風の乱れは静まり、穏やかに一方向に流れてゆくようでした。
 もう冬至も近い太陽は低くなだらか、と言ってもやはり内陸とは濃度の違う海辺のまひる、サングラスをかけていなければ眼が眩みそうな陽の量です。ウィークデイの午後でも、観光地として名高い結衣ヶ浜を散策する観光客、なかんずく若いカップルが目立ち、また遠近の磯にはウィンドサーフィンの透きとおった翼がゆったりとした風を受けて縦横に奔り、低い波のためか、それらの多くはじきに横倒しになり、また飛沫をあげて起き上がり、足元に打ち寄せる規則的な波のざわめきに、サーファーたちの洩らすさまざまな歓声が、遠い風の周囲にふぞろいなリフレインを混ぜてくるのでした。
(面会時間は、まだ余裕あるな)
 とシーラは身軽く防波堤を超え、引き潮ですっかり露わになったテトラの一角に飛び移りました。すぐ傍には鴎が二、三羽。彼らは突然の闖入者に怒ったように両翼を大きくひろげましたが、飛び立とうとはせず、じきに羽をしまって、シーラの存在など気にも留めない無表情に戻りました。
 鳥たちはたいてい、シーラを怖れません。どこでも、どんな鳥でもそうでした。シーラがまだイタリアにいて、よちよち歩きの赤ちゃんのころから……。
 今日彼女は藤塚市民病院に、二度目のメグのお見舞いにやってきたのです。けれども気持ちは重く沈み、包帯とギプスに包まれたメグを見るのがつらくてならず、藤塚の手前で道を逸れ、鹿香の海へ寄り道したのでした。
(あたしのせいだ)
 メグの傍から離れず、半狂乱になって泣いていた駿男さん。
(パパは、あたしを一言もなじらなかったけれど……出来事そのものはあたしのせいじゃないけれど、メグの周囲にいろんなものを引き寄せる原因を作ったのは、あたしなんだ)
 安美さんが、まだ柳の精でこの世にいたとしたらどんなに哀しんだろうか。彼女は娘に平穏な暮らしをしてほしいから、たぶんメグに自分の視力を残して世を去ったんだろう。
(あたしと出会うまで、メグの異能力を鎖したのは、母親なんだ…)
 どういう手段でか、それもなんとなくシーラには察しがつくのです。メグの内部深くに埋もれた記憶の深層まで潜れば、その経緯ははっきり残っているはずですが、そんな暴露は無意味、とシーラは手を触れませんでした。
 そして今、シーラの後悔と苛立ちをさらにじりじりと責めつけるのは、メグに居候したレノンで、霊園で彼に宣告されたとおり、シーラからメグの心に触れ、対話することが叶わなくなってしまったのでした。
 メグの内部に語りかけ、また触れようとすると、あたかもかっちりと冷ややかなブロックが隙間なく降りてシーラの侵入をはばみ、メグ独特のほのぼのとした柔らかさや暖かさの中心までたどりつけないのでした。
(ガキめ)
 とレノンのことを思うと、シーラの思惟は荒々しくなりました。
(たいした縄張り意識だ。男同士でシンクロしたくないと言ってたから、シーラがほんとに女だったら邪魔しないのか? いや、あいつはそんなに寛容じゃない)
 テトラに座り、シーラは親指の爪を噛みました。細長い指とかたちのよい半楕円形の爪先は、さらにきれいに手入れされ、磨かれた小さい十個の窓のように、なめらかな虹いろに光っています。マニキュアにしても、シーラはルージュ以外、自分が紅をあまり好まない理由を自覚していました。
(モンスターめ)
 ゾーリンゲンまで言い当てやがった。いつ、どうやって、〈ぼく〉の記憶に侵入した?
(男は嫌いなはずだろうが)
 ビュッ、と突風が海面からシーラの髪をあおり、いっしょに剃刀のような寒気が首筋を撫でました。レノンの嘲笑が混じっていそうでしたが、風の流れは透明で、気がつけば少しずつ潮の気配を変え始めたテトラの喫水線が自分ににじり寄ってくるので、シーラはたちあがり、同時に鴎たちもはばたいて舞い上がりました。
テトラポットの角と角をとんとんと踏み渡ってゆくと、ついさっきまで水底の石ころや海草が黒々と濡れて剥き出しになっていたのに、もう海水にひたされ、コンクリートの壁面には、粘り気のある泡が無数に浮かんでは消えています。
シーラはそれでもプジョーに戻らず、汐の昇り始めた浜辺へ回りました。
 テトラではオブジェの空洞に反響して、ごうごうと轟いていた水音が、こちらではたいらかで快いさんざめきとなって、一定のリズムで打ち寄せる波音の単調、乳白色に紺青を加えた海の明るさは、誰しもそうであるように、いつまでもいつまでも聴いていたい、眺めていたいものでした。
 冬の陽射しの傾くのは早く、少し離れた岬の崖に太陽が隠れると、際立った藍色のくらさが浜辺に訪れてきます。空の明るさの反映で海のほうはなお明るく、その余光で濡れた海辺の砂地は、視界にいったんかき暗がっても、すぐにまた、余計なまばゆさを消した影のない均一な銀鼠色を浮かべ、まるでポール・デルヴォーの画のどれかにありそうな情景に変化してゆきました。
 傍にいたい…。
 それはこのごろあちらこちらで耳にする想いと言葉でした。
 夫に死ぬまで寄り添い続けたいの、どうにかしてちょうだい。
 穏やかな言い回しでしたが、節さんの懇願はそれだけに頑として退かない強さがあり、これを放り出せばまず間違いなく餓鬼道の修羅、悪くすれば、おそらく今節さんが時々(?)仮住まいしているらしいタイジまでも巻き込むかもしれません。あるいは重傷のメグに向かって暴走するかも、とシーラは考えました。
(植物霊にもなれない。自縛霊もまずい。タイジだっていつまでも宿主ではいられない。メグだったらどうするか?)
 メグをひっぱりだせば簡単だ、と言っていたレノンの声がよみがえり、シーラは砂を踏んで歩きながら、
(ということは、レノンはどうすればいいかわかってるんだ。どうすれば片付くか。メグだったらどうする? だが解答を彼女からじかに引き出すには、コムニタスを呼び起こすしかない、青い眼の……)
 レノンが釘をさしたように、今のメグにとってはコムニタスへのメタモルフォーゼはひどい消耗だろう。
「おい、眉間に縦皺寄せんな」
 突然、ずけずけとうしろから声と手が同時に伸びて力が加わり、シーラはうっかりのけぞりましたが、反射的に肩に置かれたその手をつかみ、うまいことくるりと身をよじり、ヒョウガと斜に向かいあって立ちました。向き合うとシーラのほうが、ヒールのある靴をはいている分、彼の眼線より高くなって、まだ心理的に有利な感じです。
「なんでわかったの?」
「直感、て言いたいけど、実は携帯内蔵GPS」
相変わらず驚かないやつだな、とヒョウガはシーラの頬の冷たさを自分のてのひらに包みながら思い、そのまま顔を近づけてキスしました。シーラは逆らわず、唇が離れると、軽く笑って、
「マジ?」
「だってそうしないと、おまえどこにいるかわかんないもん」
 ヒョウガは悪びれずに応じました。レッドソックスの野球帽を被っていましたが、シーラとは逆に、もうかなり伸びたレオパードヘアを、今日はちゃんと首のうしろで束ねていました。日没の気配と、野球帽の鍔の影に、いつもながら眼の光りが際立っています。
「しょびてんな?」
「そうでもない」
 ヒョウガはシーラの強がりを一蹴する口調で、
「たまには泣きつくくらいが可愛げあるんだよ。智恵貸してくれとかさ。メグ状態悪いんだろ」
「まあね」
「俺じゃ…」
 だめか、というのが口惜しくてヒョウガは口をちょっとつぐみ、
「わかんないよ。おまえいつも何も言わないんだもん。メグの事故って、フツーじゃなかったわけだ、その顔つきだと」
(ほんっとにアタマくるけど、こいつの前だと俺のほうがいつも片肘張る感じになる。なぜなんだ)
 ヒョウガはふくれっつらをして横を向きました。そのストレートなジェスチュアに、シーラは声を出さすにまた笑って、
「あなたに言うとたぶん激怒するから黙ってるだけよ。怒らせたくないという、思いやりだってば」
「どこが?」
 もういっぺんヒョウガはシーラの視線をとらえ、遠慮なく喰いつきました。
「おまえ、俺をなんだと思ってるの? 俺おまえみたいに他者の心読めたり、しょっちゅう霊魂見えるわけじゃないけど、惚れた女の顔つきぐらいわかるぜ」
「……おんな?」
「じゃないの?」
 海風が満ち潮に乗っておしよせ、シーラの髪を陸地のほうへ吹きあげました。シーラは腕時計を見てつぶやきました。
「そろそろ病院行かなくちゃ」
「それとも男って言えばいいのか?」
 ヒョウガは皮肉っぽく付けたし、でもシーラの二の腕をぎゅっとつかんで行かせまいとするかのようでした。
 シーラはその力にもあらがわず、くにゃりとヒョウガの胸に上半身を預けるようにし、ただ黙って砂浜を歩き始めると、つられてヒョウガも歩き出しました。海水を含んだ浜の砂は、踏みしめるたびに踵からめりこみ、満ち退きの海岸線のしるべとなる、すこし粒のあらい小石や貝殻の筋目が、ながい結衣ヶ浜から、たぶん岬へ、またその先の和賀江島まで、湾曲しながら、水の足跡のようにずうっとつながっているのでした。
「桜貝がたくさん落ちている」
 シーラは身をかがめて、眼にとまった淡い薄いはなびらのような幾枚かを指にひろいあげ、これをメグにおみやげにしようか、と考えます。
(こいつのバックレ、名人芸だ)
 ヒョウガは内心舌打ちするのですが、こうやって並んで寄り添っていると、いつだって毒気を抜かれて、彼は気持ちの尖りが消えてしまうのでした。
(だからヒーラーなんだろう。俺、ほかの女とだったらこうはいかない)
「ヒョウガ、〈ぼく〉のどこが好き?」
 ふいにシーラはきっさきを向けました。ヒョウガは一瞬の隙もなく応じました。
「全部」
「ぜんぶ?」
「おまえ、そんなこともわかんないの? ヒーラーなんかやめちまえ」
 シーラの脳裏をタイジの声と姿がスローモーションでよぎってゆきました。
「惚れたって言ってんじゃん。パーツで惚れるわけないよ。俺、フェティッシュで女を抱かない。だったら人形とかのほうが、ずっとマシだ」
 シーラはしばらくヒョウガの顔を眺めました。それから、すこし睫毛を伏せて、
「うれしい」
ひとことだけ。ヒョウガは屈託なく、また照れもせず、口を開けて笑い、眼だけはぎゅっとシーラを見据えて、
「じゃこの話はこれでおしまい。おまえメグの面会にいくんだろ。俺これから茅ヶ崎でセッション。夜通しライブ」
「何時から?」
「ディナーショー仕立てだから、七時くらいだね。シャンソン歌手とピアノで入る。おまえも来いって言いたいけど、インビテーションオンリーなんだ」
「明日は?」
こいつ、マジで疲れてるなとヒョウガが思った瞬間でした。明日は会える? そんな台詞を聞いたことがあったろうか、とヒョウガは考え、
(会いたがるのはいつも俺だった)
「おまえこそ、今夜どうすんの。世田谷帰るんでしょ」
「帰らなくてもいいよ」
「明日明後日の週末、衣笠の山奥にある私設美術館でクリスマスパーティーなんだ。そっちに回るつもりだから、今日明日俺は東京に帰らない」
「パーティ…出てもいいよ」
「その言いかた。いいよ、じゃなくて、いいの? だろうが。だけど俺、そっちではフルートも吹くけど、昼間は料理の助っ人で入るんだ。展示のヴェルニサージュのたびに自前の料理出す、かなりりっぱな厨房のある趣味のギャラリーだよ。ときどき俺そこで働いてるって知ってた?」
「いいえ」
「これだよ。おまえこそ俺のどこが好きなんだ。いいよ、答えなくて。聞くのこわいもん。俺正直だから、いつもってわけじゃないけどおまえには正直だから聴きたくない」
とまくしたてながらも、ヒョウガはとてもうれしそうでした。
 冬の太陽を遮って、厚い藍色の雲が真横に流れ、その縁だけがあざやかな金褐色に輝き始めました。風向きは速度を速めて汐をおしあげ、渚に向かう波頭の高さがはっきりと嵩を増していました。
 イソシギが数羽、シーラとヒョウガの周囲を無心に飛びまわり、またすぐに水色がかった夕べの空に飛んでゆきました。
「プジョーで待ってる。夜明けまで、どこにいるかわかんないけど。別にホテルでなくってもいいでしょ」
「うん」
 ますますヒョウガはうれしそうでした。
 彼はずっと片手でつかんだままのシーラの二の腕をようやく離し、今度は両手を彼女の腰に回すと、モッズコートのフードに顔を埋めるように、シーラの首筋にかるく歯を当てました。シーラはヒョウガのために首をかしげ、そのせいで、まなざしはごく自然に、すぐそこまで海の来ている浜に流れました。
 波は、もう午後の透明から夜のさきがけのような暗青色をたたえ、狭くなった砂地に激しい満ち潮に打ち寄せられ、あるいは引き寄せられる、大小さまざまな藻屑や貝殻の、もうこまかなものは夕闇に紛れて見分けもつかなくなり、大きなものだけが目につきました。
「あれは……」
 シーラは首筋にすがるヒョウガの呼吸を忘れ、波頭に向かって、むずむずと這ってゆくかなり大きな巻貝に眼を吸われました。貝殻、流木、空き缶空き瓶……むなしく寂しい破片のような単語が集まる浜辺に、その巻貝は明らかに生き物の自立したリズムと勢いを持って、そろそろと海へ近寄ってゆくのでした。
「南の国の?」
 ヒョウガは熱っぽい眼をあげて、シーラのささやきの焦点をひろうと、フン、と鼻を鳴らし
「ヤドカリだよ。でかいな。たまにうちあげられるんだ。あれ法螺貝だろ」
「ヤドカリ…」
「知らないわけじゃないだろうが」
「ええ」
(喜んでるとじきにこれだ。もうちょっと俺を見つめてくれ)
 ヒョウガはシーラの顎を少し手荒につかみ、キスしているのか怒っているのかわからない……その両方で、それから、そして。


こころのかなしみ剥がして
 ひとひらずつ きらめきに変え
 贈りたい 粉雪舞う
 この聖夜
 いつわりのない
 傷つきやすい
 PURE HEART
 愛だけが 変えられる奇跡
 あなたに 贈る
 わたしの過ごした日々
 あなたゆえにきらめいた
 木々の声も 風の歌も
あなたがいたから
 すべて愛しく
 輝いた 時間
 誰よりも 深く
 誰よりも せつなく
 激しく そして……
 だからやさしさの起源は
 みんなあなたから
 もらったもの

 ふりむいて、また遠ざかり
 互いの道は逸れ
 あなたのいない 
 聖夜 きらめく無数の星々の
 ひとつぶずつ
 かなしみといとしさ混ぜて
 こころから贈る
 あなたをみつめる時間
 幸せな光りをくれた
 誰よりも 長く
 誰よりも いとしく
 育てた愛
 PURE HEART
 
この手に握る 今
 もう離さない 輝きは
 きっとあなたを幸福にする
 かなしみは 汚れなく
 風に舞う粉雪
 あなたのいない 聖夜を
 いくつ過ごして
 今 わたしの手のなか
 あなたは 微笑む
 わたしの 育てた愛
 PURE HEART
 誰にも測れない
 時間 互いに 分け合い
 こころの哀しみ
 剥がして
 光るはなびら
 淡雪こなゆき
あなたがいなかったから
 木々の歌 風の声
 夜空の深さ 星々のいろ
 眼に映るもの すべて
 あなたへの愛だった日々
 やさしさの起源
 みんなあなたから
 もらったもの……
 いつわりのない
 PURE HEART
 二度と離れない


クリスマスまで、あと十日余りとなった週末の金曜日の午後、シーラはタイジにも知らせず、ひとりでソゴウさんの家を訪ねました。
プジョーでもハーレーでもなく、電車とバスを乗り継ぎ、降り立った駅前で、お土産のケーキと赤い薔薇を買って。
 薔薇は七本。ケーキはたまたま眼にとまったその街のパティシエールのショートケーキを適当に四つ。
 記憶をたどって門扉を探ると郵便受けに鍵があり、娘さんは帰宅しておらず、ソゴウさんの書斎らしい窓のカーテンの隙間から、まだ夕陽の残る窓辺に淡く、電気スタンドの光が漏れて見えました。
 玄関の上がりかまちでシーラはコートを脱ぎ、壁にかかった長楕円形の姿見で、自分の姿を確かめました。
 すこし胸の空いた鮮やかな赤いワンピースを、ことさら選んで着てきたのでした。胸のふくらみは、下着とチーフでカヴァーしています。クラシックというよりもむしろオールドで、同時にワイルドな七十年代ふうの真っ赤なドレスは、ただこの時のためにアメ横で探し出した衣装で、コートなしの姿のまま、日常の街を歩いたら、奇異な視線を向けられるかもしれないほど鮮烈なドレスです。胸まわりの黒いレースの襟飾りはビーズを散らしたデリケートなもので、これだけはシーラが自分でつけ加えました。
 口紅もワンピースと同じくらい濃い赤。
(すごいね)
 鏡に映った自分を、シーラは見知らぬ女のように眺め、心につぶやきました。これほど強烈な色彩をまとってしまうと、髪型も化粧もたぶん相手の印象から消し飛んでしまう、とシーラはセミロングの髪をそのまま垂らして、前髪だけ節さんふうに飾りけのない黒いカチューシャで留めました。
 シーラ本人がどう思おうと、その赤いドレスは彼女によく似合いました。すこし蒼ざめて血の気のひいた頬でさえ、衣装の真紅は凄味を添えるのでした。
 ノックなしで、シーラはドアを開ける音さえたてず、ひそやかな影のようにソゴウさんの部屋に入りました。ノックしてもわからないと思ったからです。ところが、
「待ってたんだ。遅かったじゃないか」
 ソゴウさんは窓に向かったまま、背中ごしにシーラに声をかけてきたのでした。
「なぜわかったの?」
「玄関に君が現れたとき、ここから姿が見えたんだよ。その薔薇はぼくに?」
「そうよ」
「花をもらうなんて久し振りだ。女性からいただくなんて、ましてめったにない」
 それからようやくソゴウさんは後ろをふりかえりました。
失禁の気配や、部屋に染み付いた尿臭はしません。きちんと掃除され、床もワックスをかけたようにつやつやとし、長いこと誰も手を触れない書棚の本たちはうっすらと埃を被り、褪せた背表紙のまま、つつましく並んでいました。
地味だけれど毛並びのよいセーターの上に、セーターと似たような色合いのジャンパーを重ね着し、フリース素材のズボン。足元はスリッパではなく、もこもこした暖かそうな室内履きです。娘さんの趣味なのか、奥さんの節さんが残したものなのか、ソゴウさんの身なりは、どこのブランドかはわかりませんが、一見ありふれていても、着崩れの目立たない上等なものでした。今日は太い黒縁の眼鏡をかけています。
そのせいか、前に会ったときより、彼は若々しく見えました。強めの度の入った眼鏡ごしに、ソゴウさんはシーラをまじまじと見据え、
「君はまったく昔と変わらないねえ」
「そう?」
「いや、昔よりいっそう女っぷりがあがったよ。よくぼくのことなんか思い出してくれたもんだ」
「忘れたことないわ」
 柔らかくシーラはささやき、書き物机に近寄ると、その上に抱えていた花束を、静かに置きました。
「お世辞でもうれしい」
「あたしの名前、おぼえている?」
「もちろん。ええと……」
 ソゴウさんの視線がシーラから逸れ、頼りなげに左から右へ、またその逆にとゆっくり動きました。
「ええと、君は」
「あなたの最後の恋人よ。やっぱり忘れちゃったのね」
「最後の…」
「そうよ。わたしが、あなたの最後のひとりだったのに、あなたは忘れてしまったのね」
「そんなことはない。こんなにはっきり記憶に残っている。君の顔も声も」
「それじゃ、あたしは誰?」
(田舎芝居だ。ごめんね)
 いったい誰に向かって謝っているのか、とシーラは思わず唇をきつく結び、すぐにまたこわばった笑顔を作りました。
 考えた挙句、あまり…うまいとは思えない手段で、無力な相手をたぶらかそうとする自己嫌悪を抑え、作り声でささやきながら、シーラはソゴウさんの視線を全部とらえられる近距離まで顔を近づけました。ソゴウさんは無防備に、呆然と、両手をだらんと肘掛椅子から垂らし、両膝をかすかに揺すり始めました。
 知力を欠いた充血した瞳の真ん中で、さらに淀みを加えた水晶体。その奥に体液を含んだ硝子体。感度の鈍った虹彩の扉に手をかけ、シーラは失認の症状に揺さぶられ始めたソゴウさんの内部に、病人にはむごい、と無理を承知で侵入しようと、視線にこめた自分の意識のきっさきを鋭くしました。
 ソゴウさんの病んだ内面に、いやいや踏みこむ鈍器を振り下ろすような不快な感覚が脳裏を疾走するのと、うしろから節さんがシーラの髪をつかんでひきすえるのとまったく同時でした。
 ……!
 節さんは無言でした。シーラは彼女の姿をかろうじて横を向いた視線のはじでとらえ、予想はしていたものの、ようやく実体を見せた自縛霊の無惨に呼吸を詰めました。
 宿主であるタイジから飛び出すと、焦燥に焼かれ、執着のかたまりとなった節さんは、もともとの穏和な顔を、もはや保てないのでした。
黒目の見えない、ぽっかりと空いた洞のような両眼。半開きの口腔からあえぐように赤茶けた舌がひるがえり、痩せた鼻梁、こけた頬、灰色にばさばさと乱れた髪がその顔にまつわり、生気の失せた顔面に、瞳の抜けたうつろなふたつの眼だけが、ねっとりと低い金いろを帯び……
(泥眼の顔だ)
 シーラは、能面のいくつかを瞬時に連想しました。嫉妬に妬かれ、うらみに、憎悪に心を歪めた女面の数々。般若となれば鋭い角を額に生やしてもはや鬼、そこまで狂い、うらみきれずに苦悩するなら生成、または泥眼、
あるいは蛇(じゃ)……。
 能面の、鬼と女と魔のあわい、いやおうなしのメタモルフォーゼに煩悶するそれらは、怨念にとらえられてなおうつくしい造型を保ち、気韻をたたえ、おぞましさといたわしさを、眺めるこちらにかきたてるのでした。
夫にうらみはない、とつつましく言い切った節さん。だけれども、その言葉には、他人には明かしえぬつらい思いが、刻み込まれた裏また裏のさらにうらが幾重にも畳まれているはずなのでした。
(そうでなければ死に切れぬほどの未練を残すはずないんだ)
 それでも彼女は夫の傍にいたい。仇魔ではなくて……?
 シーラは鬼女になりかけた節さんに髪を鷲づかみにされたまま、逆にこの恐ろしさの反動に勢いつけて、節さんをひきずったまま、ソゴウさんの中に侵入しました。
色彩を崩し、ひとつずつの輪郭のさかいめを失くした認識の欠片、形象の歪み、ぶちまけたペンキか、やくざなラッカーのめちゃくちゃな吹きつけのような、迷彩。半ばは闇。そのなかにいくつかは……いくぶんかはきちんとした首尾のある何かの記憶の断片が、濁りの渦のなかに浮かんでは沈んでいました。
(心象の表面が、もうこんなに混乱してるなんて予想以上だ。どこかクリアな意識は残ってないか?)
 シーラは自分の髪から首へ、痩せた腕を回してしがみついてきた節さんを、こちらから逆に抱え込みました。節さんは眼と鼻と口だけがぽっかりと際立つ木偶人形のように、ソゴウさんの中に飛び込んでしまうと、かえっておとなしく、こわばった顔をうつむけ、両手は何かを捜し求めるように、シーラから離れ、周囲のどろどろした迷彩の溶暗をかきまわし始めました。
(夫はどこ?)
(ここがあなたの御主人の中です)
(何も見えない。どんよりして)
(あたしの言葉がわかる? 節さん。あたしと対話できますか?)
(はい。シーラ。苦しいわ。舌も眼も、がちがちにこわばって、体は骨になってしまうみたい。タイジさんから抜け出すと、わたしは……人らしい〈血肉〉を欠いたモノに堕ちてしまうのね、もう)
(それにしても鬼畜化する進行が早い。それだけにあなたの執念が濃い、ということかしら。あなたが飛んできてくれて良かった。あなたを呼び出すために、あたしは御主人に接近したの。だから今、あたしにアグレッションを向けないでください)
(あたしをここに呼び込むため?)
(そうです。これからさらに深層へ踏み込みます。節さん、あたしと一緒に来て)
 シーラはふと、今の自分が、かつて……の喉を切り裂いた蒼白な刃になったような気がしました。あのとき何歳だったんだろう。幼児の向こう見ずで、原色剥き出しの感情の、猛り奔るそのままのエネルギーで。
(今は違う、だいじな時にこそハートはクール、だ)
 それでもどろりとした認知の歪みをおしのけ、知性の混沌のその奥に、必ず残っている筈のクリアな感情層まで押し入るためには、真っ赤なドレスのゾーリンゲン。
 認知症のひとって、知性が損なわれても、感情はむしろ研ぎ澄まされてピュアになるんだよ……とタイジがどこかで言っていたっけ
それともシーラ自身が直感で洞察していたことかな?
 歪みのない……その感情域まで降りれば、
そこが節さんの居場所になる。
(節さん、あなたの終のすみかは、ソゴウさん自身だよ。他人に仮の宿主を求めたって長居はできない。傍にいたいなら、御主人のなかに、彼が死ぬまで、ひとつになっていればいい、ぼくといっしょに、この迷彩の向こう側へ)
(わたしが夫になるの?)
 節さんのうつろな瞳から、透明な雫が流れました。涙のようでもあり、限界を超えて揺さぶられたときの、感情とは無縁な体液の流出のようでもありました。
(そう。いちばん傍にいたいなら…御主人そのひとを宿主にしてしまうのがいい。誰にも、二度とあなたは邪魔されない。あなたとご主人はひとつだ。溶け合って、彼の肉体がこの世を去るまで、あなたがたは離れない。ただの訪問ヘルパーに心乱すこともないし、もしかしたら、ソゴウさんの表層意識の萎縮と混乱を、いくらかは食いとめられるんじゃないだろうか)
 ……。
 ああ、と深いため息が聞こえました。安堵の呼吸か、それと精根尽きた自縛霊の呻きなのか、聞き分けることの難しい吐息でした。
でも、そのすぐあとに、
(このひとの髪の毛ひとすじ、爪のひとかけらも、誰にも渡さない、離さないわ!)
 朗らかで屈託のない、そして華やかな若い女性の声が、ソゴウさんの混沌を突き抜けようとするシーラの魂を激しく揺さぶりました。

 クリスマス週間に入った土曜の暮れ、ギャラリー〈花絵〉で、タイジはぽつんとした気分で普段どおりの仕事をこなしていました。
 といっても季節がら客入りは上々で、午後早々の開店から夕方まで、毎回客席はいっぱい。親子づれもいれば、カップルもいました。不景気でも天下の銀座の華やぎが沈むという気配は見えず、昼すぎからお茶の時間にかけて、目抜き通りの喫茶店もレストランも、めぼしいところは混雑するせいか、銀座で多少は名の知れた久我ビルの〈花絵〉などは、休みどころを探しあぐねたひとたちの、ちょっとした腰掛けスポットになっています。
 映像を一回転させるたび、タイジは〈花絵〉の外廻廊に出て一服するのですが、ざわざわと観光客の訪れの絶えないフロアの、曲がりくねった薄暗い向こう側に、ともすると視線はさまよい、心はもっとあらぬところに飛んでしまいそうになるのでした。
 あれっきりシーラからは音沙汰なしです。木曜日のソゴウさんのケアはなだらかに終わり、なんだか拍子抜けする気分のまま金曜を過ごしました。なにかあれば、それを口実にシーラにアクセスできる、とアクシデントをひそかに期待していなかったわけではなかったのですが、ほんとにソゴウさんはおとなしく、半分以上眠ったような顔つきで、タイジの誘導のまま、ケア時間は過ぎていったのでした。
(抗精神薬か何か飲ませてるのか?)
 とタイジが憶測したのは、ソゴウさんの手足に、少しですが、はっきりと震えとこわばりが現れてきたからでした。ある種の薬物を使うと、副作用は必ず出現し、タイジには見覚えのある、ソゴウさんの動作のぎこちないそれと、これと、でした。
久我ビルの廊下の天井電気はいまどき珍しいかもしれない、埃をかぶった昭和まっさかりそのままの古くさい蛍光灯で、真昼のほうが夜よりもむしろ、このビルを浮世離れした蒼然たる雰囲気で包むヴェールのようでした。
 その向こう側から、ふらりと…いつものように、何の前触れもなく、水際だったシーラの姿が現れてはくれないか、とタイジは金曜日いちにちをずっと待ちわび、それでいて逢うのが億劫な、どこか噛み合わなくなってしまった自分の感情を、長い〈待ち時間〉のなかで味わい続けたのでした。
(誰かを好きになるって、まともなセックスしたいってことかなあ)
と臆面もなく考えるタイジでしたが、そういうこととも、今回のショックは違う、と思いたい彼です。
「喰う?」
 ぼやっとしているタイジの鼻先に、いきなり突き出された煎餅を、タイジは怒りもせずに受け取り、包装を破って歯をたてました。挨拶はそれから。
「ヒマそうね、ジンさん」
「俺、もう年内〈個室〉閉めてんの。知らなかった?」
「うん……これ、濡れ煎餅だった」
シケてるな、とふたりいっしょに口に出し、でもふたりとも笑いませんでした。
「冗談きかない。客入りいいもん」
「そうじゃなくてさ。君の顔、パンダ一歩手前よ」
「その次の台詞俺予想できる」
「医者と温泉」
「だよね。新味ないよ、だけどふられたわけじゃない」
「そぉ?」
 ジンさんは鼻唄のように茶々を入れました。
「医者っていえば、ポストにこれ入ってたよ」
 とさしだれたのは、長野のハト先生からの書籍郵便でした。宛名はちゃんと〈花絵〉のタイジになっています。
「勝手にポスト開けたのか?」
さすがにタイジはかっとなりました。
「悪いと思ったけど、ポストからはみ出て落っこちそうだったのよ。宅配にしてくれりゃよかったのにね、ハトさん。床に落ちてたら、同じことだろ。誰かがひろって持っていっちまうかもしれなかったよ。だって昨日今日の混雑だもん」
 嘘かほんとかわかりませんが、舌先三寸のジンさんに喰いつくのも今はばからしく、時間のむだでした。
 ばりばりと、濡れ煎餅を噛みくだく勢いで包み紙をやぶると、赤いリボンと金の鈴、素朴なもみの木の描かれた、てのひらサイズのクリスマスカード。絵もメッセージも一目でハト直筆とわかります。
「お手製メッセかあ。イマドキいいねえ」
 ジンさんの横目とやっかみを無視して、タイジは添付カードとは別に、緑と赤のクリスマスラッピングに丁寧に包まれた本体を開けて見ました。
 『奇跡の医療・福祉の町 ベーテル』
 サブタイトルは「心の豊かさを求めて」。帯に「ドイツでは、障害者でも老人でも、一生安心して暮らせる町がある」と書かれているあれこれに、タイジはすばやく目を走らせ、それからハトさんのカードを……ほんとうはジンさんの眼の前で読むのはいやだったのですが…裏返しました。
 とてもあっさりしていました。
 聖夜を飾る灯火ひとつ、ハトからあなたへプレゼント。
(ハトさんらしい)
 裏側にも、たぶん彼女の描いたイラストがあり、蝋燭と鳩。
(飛んで行きたいのは彼女のほうなんだろうに。でも、言ってたとおり、たぶん九州に飛ぶんだろうな)
「いい感じじゃない。いつのまに仲良くなったの?」
 ジンさんはまったく遠慮せずにタイジあてのメッセをいっしょに覗き読みして、悪びれずに言いました。
「こないだ彼女上京したんですよ。御親戚の何かがあって。そのとき横浜でシーラさんと三人で会った」
「そうかい」
「ジンさんこそ、ここしばらく、行方不明だったじゃないですか。どこ行ってたの?」
「そうだっけ?」
 ジンさんはくしゃくしゃと頭をかきました。
「俺、いなかったかなあ。銀座にはしょっちゅう来てたけど、言われてみれば〈個室〉はほったらかしてたかも」
「よくやってけますね。シーラさんも言ってたけど、ジンさんの正体不明もりっぱなもんだ」
「あ、その形容うれしい。正体不明、それいい」
「よくないよ。わかりやすいほうがいいって」
「わかりやすい奴って魅力ないんだ」
「そういうのへそ曲がりとか、屈折してるって言うんじゃない?」
「歪んでるほうが味がある」
 タイジはもうジンさんにはかまわずに、ちょうど時間ぎれになった〈花絵〉の客だしの扉を開けました。がやがやと出て行くお客さまにお愛想したり頭を下げたりしているいつの間にか、ジンさんはいなくなっていて、タイジはほっとしました。シーラに関して、ジンさんの無遠慮な突っ込みはもらいたくない気分です。
タイジはハトさんから贈られた『ベーテル』を、次の客待ちの間までに、ぱらぱら繰っていました。その間にも、デパートや高級ブランドの紙袋を提げたお客はひとり、ふたりと入ってきて、じっくり文字を追うゆとりなどなく、三十分もたたないうちに、少ない椅子は満杯。
 また映像をかけてフロアに出たところで、携帯の着信。心臓が口から飛び出すかと思うくらいの大文字で、どきん、と胸が鳴ったのですが、ときめきはたちまちしぼんで電話の主はお母さんの涼子さん。
……今大丈夫?
「うん。オッケー。ちょうど映像始めたから」
……さっき急に連絡入ったんだけど、宮本さんへの訪問、来週から週イチにしてくれってケアマネから。
「え、なにそれ」
……本人希望だって。もうだいぶ元気になったし、できることは自力でやるから、だんだんケア減らしてほしいって。別にあんたがミスしたとかじゃないっておっしゃってるらしいけど、あたし心配になってさ。いろいろイワクつきで回ってきたケアだし、たぶんずいぶんてこずってるだろうとは思ってたから。もしかして何かあった?
「ないよ、何も。いいひとだよ。娘さんも」
……ならいいけどね。もうあそこも次々とヘルパーとっかえひっかえで、こっちはお手上げで、息子駆りだしたのにって、ちょっとあたしも頭にきちゃった。
「だから何も失礼なことないって。スムーズな日ばかりじゃなかったけど、一昨日なんか、とてもおだやかだったし」
……じゃ、月曜と木曜と、どうせ年内いっぱいだからいくつもないけど、どっちにする?
決めてくれって。急な話よねえ。あんたの都合のいいほうでいいからって。だからメールじゃなくて電話したのよ。
「うーん。それじゃ木曜日キャンセル。そのほうが午後と週末長く俺の自由になる」
……わかった。じゃ年内は、たぶん最終月曜一日だけで。
「ケアマネさんによろしく」
(本人希望?)
 タイジはフロアの椅子に座って首をかしげました。木曜日のソゴウ=宮本さんは、どう見ても、筋道たった自己主張ができる意識状態ではなかった印象だけど、とにかくケアマネから回ってきたんだから、いいや。
(何か……あったのかな。いや、シーラさんが、なにか…)
 ソウニチガイナイ、と小さくささやく声がありました。
(かなり進行している認知症状が、そんな急変…好転するわけないぞ)
 とにかく、これで彼女に連絡する口実ができたってわけだ、とタイジはたちあがり、廻廊の隅までぶらぶら歩いて手洗いにゆき、そこの薄汚れた硝子窓から風景を眺めおろしました。
 午前中は薄日のさしていた天気は、午後もだいぶ遅くなった今、はっきりと下り坂でした。特に汚物が目立つわけではないものの、こまめな掃除のゆきとどかない久我ビルの共同トイレは、たいしたリフォームもしないまま、何十年もの歳月の間に浸み込んだ臭気が漂い、いつ、誰が置き換えるのかわからない消臭剤さえ、すっかり埃まみれで、水道の脇の窓は、磨り硝子ではないはずなのに、これもアンティーク級の時間に煤けて、ぼんやりと曇っていました。
 そこから眼下に見えるのは有名デパートの連なる銀座の裏道の殺風景です。視線を上に向けると、ビル群のひしめく上方わずかにひらけて、曇った冬空の平らな明るみが、表側だけ飾った人工建築の背後のどんよりした暗がりとは異質な、あたらしく切り張りされた白い紙みたいでした。
(午後から雨か、雪だったかな?)
 手洗いを出ると、どこかのギャラリーから耳慣れたクリスマスソングメドレーが聞こえてきました。
     (了)
 


 
 
 

 
 
 


 



 
 

 


  
 
 



 



 

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Comment

やまねこけん says...""
気づきませんでした。写真を見ていたら、あっ!
もしかしたら。mixiで確認で、やっぱり。
ゆっくり最初から読ませて頂きます。
2013.07.02 08:30 | URL | #- [edit]
雪香 says..."遅くなりました~"
コメントありがとうございます。

お忙しいのに、読んでいただけてうれしいですv-22

こちらにはあんまり来ないので、こんなにチェックが遅くなってしまいました。

これから盛夏です。お元気で!
2013.07.29 09:50 | URL | #hzv21hlU [edit]

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