さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

スポンサーサイト

Posted by 水市夢の on

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スターライトパヴァーヌ 1

Posted by 水市夢の on   0 comments   0 trackback

スターライト・パヴァーヌ 1

夢はいつも、静かな、耳の奥で柔らかくて固い何かがほのかに触れ合うような響きではじまるのでした。
藤塚市民病院に入院中、メグの見た夢うつつの、短い物語です。
前後の経緯をよく思い出せない鹿香霊園の事故からいくらも経たない数日は、大手術の後の麻酔と薬で、ほとんど眠ったままおおかたの時間が過ぎてゆきました。
薄緑と藍色、水色や紺青、プルシアンブルーやセルリアン、ときおり鮮やかなエメラルドグリーンの膜が瞼の裏側にゆらゆら揺れ、その色彩の動きのあわいに、透きとおったいくつもの糸の束のようなほそい触手が流れては消え、まろやかで、快く、またふぞろいな音の粒は、半透明な糸の束が、メグの鼓膜にそっと触れて離れるそのたびに、闇に記されてじきに消えてしまう誰かの足音のように現れるのでした。
(音が鳴っているのに、色彩が揺れているみたい)
 メグは今自分が見ている……聞いているいろんなものや音が夢だとわかっていました。というのも、闇を動いてゆく無数の糸の束の真ん中、透明な澄んだいろいろな緑や青の流れに揺られているメグの手足には、包帯やギプスは全然なく、白っぽく柔らかい寝間着のような布をまとっているだけで、痛みも圧迫も感じないからでした。
(何の糸だろう?)
 メグは自分に戯れかかるように伸びてくる光る触手を捕まえようとするのですが、周囲に数知れず漂う細い糸は、するりとメグの手を逃れてただの一本もつかめず、それでいてまたすぐ傍で、たくさんの糸束の先がそよそよゆらゆらと彼女の手を誘って光り、小さな鈴か、手作りの素朴なガラス風鈴のような音色が、糸が動いてゆくたびに、いくつもいくつも重なり響くのでした。
どうやらここでは、音のひとつぶひとつぶが、一本ずつの糸のかたちをしているらしいのでした。そうとわかるとメグは、不安な気配のないなめらかな暗闇、エメラルドグリーンやコバルトブルーが水流のようにゆったりと流れてゆく空間の向こう側へ、糸の束がそよいでゆくのといっしょに動き始めました。
 歩いてゆくといっても、地面も見えないし、両足で何かを踏みしめている感覚がありません。腕もまた、空を飛んでいるという大気の抵抗を感じないので、メグは、もしかしたら自分もまた、周囲を踊り流れる糸の一本に変化しているのかもしれない、と思いました。
 光る糸の束は、どこかに根をひとつに集めて、メグはいつしかその中心にたどり着いたようです。
 こまかな、幾重にもまつわった糸のかたまりの中に、金いろの四角い箱がありました。
 それは暗闇の中でとても鮮やかに明るく輝き、それでいて半ば以上は透明で、箱の向こうの暗闇や、緑や青の渦が、八つの壁面のどこからも、ぼんやりとほのかに透けて見えたりするのでした。糸の先端は、全部その金いろの箱に結ばれているのです。ひとつぶの種からたくさんの糸が生えているようでもありました。
(あたしも生えているのかな?)
 メグは好奇心のままに、箱のすぐ傍まで近寄りました。箱はそんなに大きくはなく、メグの両腕に一抱えするくらいです。
 箱の傍に来ると、その内側から輝き出ている発光のおかげで、メグは暗闇に紛れていた自分の手足や体がはっきりと見え、自分が糸ではないことがわかりました。
(……鳴らしてよ)
 え? とメグは聞き返しました。
(ぼくを、鳴らしてくれる?)
 金の小箱は、周囲の糸の束をきらきらと、まるで身を揉むように嬉しそうに揺すりながら、メグに話しかけてきました。
「鳴らすって、どうやるの? 話しているあなたは誰?」
(ぼくは君だよ。君の見ている夢の器)
 金いろの小箱は幼いこどもの声で応えました。ぼく、と男の子の一人称で話していましたが、かわいらしい声は、ちいさな女の子のようでもありました。
(レノンかな?)
 とメグはすぐに考えましたが、小箱の声音は素直で単純で、レノンのようなイントネーションの微妙はありませんでした。
「あたしの夢なの?」
(うん。だからね、君の手をぼくの中に入れてみて)
 小箱からかわいい声がひびくたび、周囲の糸の束はチリリン、ロン、とたくさんの小鈴が触れ合うような反響をたて、それは糸筋をじゅんぐりにずうっと周囲に伝わって、音の大きさは、遠くなるにつれて、メグの耳にはだんだんディミニュエンドしながらも、緑や青の揺れ続ける空間のどこまでも滲んでひろがってゆくのでした。
 こう? とメグは、半透明な箱の上の面に自分のてのひらを押し付けるように沈めました。つるつるした金いろの小箱には継ぎ目も蓋もなかったからです。メグの両手は立体の中に、ほんの少しの抵抗もなく、すっと入ってゆき、小箱の中では、ほのかな暖かさが両手を包んで、箱の輝きを享けると、透明ではないメグの両手は、箱そのものよりも明るい黄金いろを反射しました。
(見てごらん、君の音色がひろがっている)
 箱はささやきました。
「見る?」
 メグが視線をあげると、水底のような色彩が揺れていた闇はあとかたもなく、さわやかな真昼の花野と夜空とがいっしょにひらけていました。新緑の草原に、たくさんの野花が微風に揺れて、とりとめもなくいろんな方向に揺れ動き、蜜蜂や蝶々、とんぼや小鳥がのどかに草むらを飛びまわっています。小鳥のさえずりと風のそよぎがいっしょに聞こえ、どこかで小川のせせらぐ気配も。春か、初夏か、水を含んだ土からたちのぼる草いきれと風とがいっしょにあふれて、メグの寝間着のような白い衣をふわりと吹きあげました。
上を見やると、地上の明るさとはうって変わり、紺碧の星夜でした。下のほうがこんなにも明るいのに、そのまばゆさに天上の星明りは圧倒もされずに、無数のきらめき、見たこともない星座や星団が、円天の四方八方すみずみまで奥深く続いているのでした。
(これが君の最初の音)
「あなたを鳴らすって、景色を眺めることなの?」
(君の眼には、何かの風景に見えているかもしれないけれど、ぼくにはこれが音なんだし、君じゃない誰かには、音楽として聞こえてゆくのかもしれないんだよ)
 小箱はあどけない声で、メグにはよくわからないことを言いました。
「それじゃ、あたし以外の誰かが、ここに来てるの?」
 問い返し、小箱の返事を聴き取ろうと、メグが夢の器に少し身をかがめたとき、足元がかるく誰かにすくわれるような感じがして、ふりかえると……瞼を開けるとパパの顔が見えました。
 同時に、全身に麻酔と包帯、点滴やら何やら、いろんな重みや、鈍い痛みがのしかかって来ました。
「あ、眼を開けた。メグ、パパだよ。ぼくが見えるね?」
 白い遮光カーテン越しの希薄な光のなかに見知らぬ人のようながさがさにやつれた顔がありました。駿男さんの両目は充血して腫れあがり、下瞼は幾重にも筋を刻んでたるみ、別人みたいに見えましたが、やっぱりパパなのでした。

藤塚市民病院のメグの病室は四人部屋の窓際でした。ベッドはひとつづつ白いカーテンで仕切られています。窓のほうのカーテンを開けると、棚くらいのスペースの張り出し窓になっていて、窓際ふたりの患者は、ベッドに備え付けの小物入れやテーブルのほかにも、そちらにちょっとした品物を置けるようになっています。廊下側の患者さんのためには、不公平にならないように、簡単な白いスチール製の収納カートが付いているようでした。
「もうじきクリスマスだね、パパ」
 長い昏睡から覚めたばかりの娘の最初の言葉に、駿男さんはちょっと面食らいました。
「え? そうだっけ。そうだね、そうかも」
「鈴の音が聞こえた」
 とてもたくさんの、とメグはつぶやき、また瞼が重くなりかけます。眠っている間はまったく感じなかった苦しさから逃れようとして、麻酔や薬のためだけではなく、自然に体はうとうとと眠りたがるようなのでした。でも駿男さんは娘が意識を取り戻したのが嬉しくて、いそいそと窓際のほうのカーテンを開けて、もういくつか届けられていたお見舞いのあれこれをメグに見せました。
「メグ、こっち向ける? これね、学校のお友達が書いてくれた色紙でしょ、千羽鶴とかね、いっぱい。それに羊子ちゃんも昨日来てくれて、お花活けてってくれたんだよ。それに、それからシーラさん、最初に飛んできてくれたよ」
「シーラさん?」
「君が事故にあった翌日」
 そう、とメグはぼんやりと天井を眺めました。よく思い出せないけれど、お人形のてのひらが、顔の真上で、星みたいにチカチカしていたみたいだった。あれは誰の手だったのかな。お星様の見間違いかしら。あたし眠っていたはずなんだけど、どうして事故になったんだろう。
(鈴の音はどこで聞こえたんだろう。今見ていた夢はどこからはじまったのかしら)
 体の右側は窓のほうで、怪我のない右手や右足は、ゆっくりとですが、なんとか思い通りに動かせました。駿男さんはメグの手の行方を察して色紙を渡してやりました。メグはそこに書きこまれた、クラスメートからの色とりどりの文字やイラストを見ようとしたのですが、あんまりうまく読み取れません。窓には遮光カーテンとは別に、ちゃんと別なカーテンが下がっているのですが、目覚めたばかりの怪我人には、普通の室内光でさえ、まだまぶしすぎるのでした。でも、
「あ、於兜くん書いてくれてる」
 ちいさな、嬉しそうなつぶやきを父親は聞き逃しませんでした。
「だれだれ」
「オトくん。この」
 とメグは色紙をつかんだ右手の親指だけをずらし、駿男さんに示しました。
「ヴァイオリンの上手な子。発表会で、先生と一緒に奏いたの、おぼえてない? パパ」
「おぼえてるおぼえてる。あの利発そうな背の高い子でしょ」
 というのは、ピアノ発表会では、メグしか見ていなかったパパのいい加減なでたらめ返事で、メグはすぐさま口をとがらせ、
「オトくん背高くないもん。メグと同じくらいだよ。でもヴァイオリンすごく上手で、あのときメンデルスゾーン奏いた」
 こんなときによく思い出せるな、と駿男さんはかるいショックを受けてメグの顔を覗きこみました。誰だ、その子。どんな子だっけ?
(トリで先生と共演した子が、そういえばいたような気がするけど、姿かたちが印象にないや。よっぽどうまいんだろうけどなあ)
 色紙を見ると、年齢相応の幼い筆跡は過もなく不可もなく、黒のサインペンで真ん中よりすこし端寄りに、
 お見舞いに行きます。がんばれ
「…メグ、仲いいの? お見舞いに来てくれるって書いてくれた」
「そうでもない。クラスでもあんまり口きいたことないけど、ピアノのお教室にいくと、ときどき会うの。いつも一番最後に先生からお稽古してもらってる。親切なひと。楽譜が読めなかったりすると教えてくれるの」
 どんな男の子なんだ?
 と多少駿男さんは気にかかるのでした。メグの口調や顔つきには屈託がなく、ただ他の友達の書き込み…羊子よりも…うれしそうな声を聞いた、というだけなのですが、それは、まあ、説明不要の男親の微妙でした。
「ほんとにお見舞いにくるかなあ」
「来てほしい?」
「うん」
 とメグがはにかみもせずに返事をしたので、父親は逆にほっとしました。
「それから、シーラさんから封筒来てるけど、読める?」
「もちろん」
 パパと話したり、オトくんのことなど思い出しているうちに、メグの頭はだんだんはっきりしてきました。
 オトくんは、ピアノ教室でかなり特別扱いをされている子なのでした。低学年のころは頻繁に顔を合わせることもあったのですが、このごろは別な先生についていて、ほとんど会えません。ただ、春秋の発表会では、それこそゲスト扱いで、先生と一緒に演奏してくれます。難しい楽曲がすいすい自在に弾けるというのはもちろんのことで、それだけでなく、メグが聞いても、オトくんの奏でるヴァイオリンは心が震えるような、すてきな音色なのでした。噂では、音楽を専門に勉強するためにどこかに転校するとか、もしかしたら外国に留学するとか聞いています。
 それに、パパには黙っていたのですが、彼は五年生になってから、メグとはちがうクラスになっていたのです。だから、学級のお見舞い色紙に、別なクラスの彼がわざわざ書き込んできたのに、メグはかなりびっくりし、またうれしかったのですが、それでも、ピアノ教室で一緒だから、という理由を見つけることはできるのでした。
「パパ、シーラさんからのお手紙見せて」
 うん、と駿男さんはメグよりうれしそうにシーラの封筒をとりだしました。一見してクリスマスカードとわかる大判で、綺麗な切手が貼ってあり、それに普通のありふれた紙ではなく、和紙の鳥の子紙に似た手触りですが、もっと繊維の荒い、それでいてあたたかみのある感触の、メグもパパも見たことがないような紙でした。ほのかな卵いろの地に、こまかな星砂(たぶん沖縄地方のもの)を漉きこみ、その砂でサン・テグジュペリの「星の王子さま」の挿絵のひとつ…スカーフをなびかせたちいさな男の子が、足元に薔薇の生えた惑星の上にぽつんと立っている…が、裏と表を使って大きく描かれています。
「手作りみたいな封筒だけどシーラさんじゃないよね」
 メグに渡す前に駿男さんは封筒の裏表をかわるがわる眺めて感心しきりでした。
「これ、自然の星の砂だろ。メグ知ってるよね。どんな技法かわかんないけど、よく剥げ落ちないないなあ。ところどころに金銀の箔が入ってるし」
「早くちょうだいよ。それパパじゃなくメグに来たんでしょ」
メグに催促された駿男さんは、心のなかでもうひとつ考えました。
(筆もうまいぜ。こどものメグに、きちんと縦書き宛名で書いてきた。イマドキあの年頃の女の子で、ちゃんとオーソドックスな万年筆の先を、こういう書きにくい紙に器用に使える子も、あんまりいないんじゃないか。しかしこれ万年筆かな? 筆や筆ペンじゃないし。お能の家の子だからお習字のたしなみなんかもあるんだろうけど、癖はあるが、相当に習いこんだ達筆だ…ふしぎな子だよ、まったく)
文字などに目が届くのは、駿男さんが管理職で、会社に入ってくる正規雇用やアルバイトやら、いろんなひとの直筆の履歴書をチェックする職掌がら、自然に見覚えた人間観察の手段でした。
 シーラのお習字は日本に来て、祖父の宗雅さんの養子になってから、謡仕舞のお稽古といっしょに、厳しくしつけられたいくつかの薫陶のひとつでした。
 女の子のふりをしようが、学校の成績がまずかろうが、ともかく日本の心を学べ、と宗雅さんは、漢字などろくに読めない孫に、まず筆を持たせました。そうして、シーラがカードに使ったのは、日本の文具ではなく、母親ヴィオレッタからもらってきた羽ペンだったのです。それはヴィオレッタ・デュランテの人生のなかで、だいじな記憶をとどめる品ですが、そのお話は、こことはまた別な流れのなかに入ってゆきます。
「いい匂いがする」
 メグは右手だけで封筒をつかみ、風変わりなその手触りを珍しがっているうちに、封筒の香りに気がつき、くんくんと鼻をちかづけて嗅いでみました。
「なになに。パパわかんなかったぞ」
 駿男さんは娘の手に顔を寄せて封筒の匂いを確かめました。
「ほんとだ。メグ鋭いなあ」
「パパ煙草吸ってるでしょ」
「禁煙してるよ、君が生まれたときから」
「でも、煙草くさい。髪とかすごい」
「う。わかる?」
「めちゃわかる。パパくさい」
「しょうがないだろ。君のせいで、ぼくひどくつらかったんだから」
「じゃ許したげるから、また禁煙ね」
「おっけー」
(女ってのは面倒だよなあ。どうしてどうでもいいことに敏感なんだ。そんなに臭いかね? 一日二日の煙草くらいどうってことないじゃないか。酒びたりよかましだぜ、といってもこの子にはわかんないか)
「このカードは、いったい何の匂いかな? 羊子ちゃんはアロマが趣味だから、きっと詳しくわかるけど…」
「趣味ぃ? 十一歳にして趣味がアロマ! 君ら小学生だろ」
「そういうの偏見だよ。ていうか遅れてる。羊子ちゃんは、嗅覚は、こどものほうが大人より敏感だって言ってたよ。メグにだってこの匂いのベースがラヴェンダーだってわかるもん。それにさらにいろんな香りがまざってる」
「あーもーわかったから、早く開封しよう。前置き長すぎッ」

夜の闇の遠くからまた、ほのかな響きをつれて、透きとおった糸の束が揺れ動いてやって来ます。糸と糸とが触れ合っては離れるそのたびに、横たわったメグの耳に、かるい、かすかな吐息のような気配がつたわり、眼を開けると糸の束は、メグの周囲でかき消えて、どこからか運ばれたちぎれちぎれのひとひらひとひらが、彼女のベッドの上に、白い牡丹雪となって、ふわりふわりと降りてくるのでした。
「初雪だ」
 メグはうれしくて思わず起き上がり、自分の全身に、ギプスも包帯もないのに気づき、そこでまた夢を見ているんだとわかりました。
 メグが仰向けになっていたのは病院ではなく、藤塚の自分の部屋でもなく、上のほうは闇に暗いけれど、どうしたことか、下のほうが薄紫に明るんで、夜の闇からはっきりと四角に区切られた空間のようです。壁は見えません。四方をながめると、白っぽいさらさらした細かな糸の束が、前の夢のときのように、あるかなきかの大気の振動につれて触手のように揺れなびき、メグの周囲…足元が薄紫に明るんで暗がりから浮き上がっているところだけ、糸は筋目を消して、羽根のような、また雪のような淡さと軽さ、かすかな冷たさで訪れてくるのでした。メグの胸や手に触れると、雪片はじきにひんやりと溶けてしまうのですが、天からそっと訪れ、一瞬で消えてしまうはかない定めのために、命あるぬくもりの一瞬を、よりはっきりと感じることができる雪の冷たさでした。
 見上げると、雪の降ってくる夜空のまんなかに、おぼろな満月が昇っていました。
「雪が降っているのに、お月様?」
 メグはふしぎに思いましたが、ほのかな金いろを帯びた円形は、波に揺さぶられるようにゆるやかに左右に動いて、しだいしだいにメグのほうに、雪の降るのと同じくらいの速さで降りてきました。メグに近づくにつれて、雪もよいの薄墨に曇っていた金いろははっきりと濃く強くなり、かたちもまた満月の円ではなく、四角い小箱とわかりました。
「また来てくれた」
 宙を降りてきた小箱はメグの胸前で停止し、
あのかわいい声で話しかけてきました。
「あなたがあたしを呼んだんじゃない?」
「それはそうだけど、呼び声にちゃんと応えて、ここまで来られるひとって、めったにいないんだ」
「でもあなたはあたしなんでしょ?」
「自分に出会うほど難しいことってないんだよ」
小箱はこどもの声で、しみじみとした言葉を言いました。でも、すぐにこんなふうにいい改めました。
「全ての出会いは、どこかにちょっとずつ、自分との出会いを含んでいるんだよ。どんなひととの遭遇も。ぼくは君の見る夢の器だから、まじりっけなしの君だけど」
 ふうん、とメグは返す言葉が見つからないので、ただうなずきました。小箱はきらきらと闇にまばゆく揺れて、また、
「ねえ、ぼくを鳴らして。歌ってよ。今回は君ひとりじゃなくていいから」
「あたしひとりじゃなくていいってどういうこと?」
 小箱はメグの質問には答えず、メグの手のほうに自分から接近し、まるで深海魚のように、何気なくさしだされた彼女の両手を、平面のひとつからぐいと吸い込みこみました。
 痛くもなんともありませんでした。
 小箱のなかで、メグの両手はまた黄金いろに輝きました。手の回りでは、辺りに降りしきる糸屑か、雪のかけらが、金銀の影を散らして動いています。
 メグはなんとなく箱のなかで両手をひらひらと動かしてみました。すると、ちいさな箱の向こう側から、大きな左右の手が伸びてきて、メグの手をつかみました。メグは驚き、手をひっこめようとしたのですが、大人のその手は彼女をしっかりつかんで離さず、メグの手と同じように、小箱のなかで黄金いろに光りました。
「この手は誰?」
 メグはつぶやきました。箱の中に手だけ光って見えて、箱の外にも姿がないのでした。  
あたたかい手でした。ママの手かな? パパの手ではないようです。駿男さんの手なら見ればはっきりわかるはずですが、それとは違っています。安美さんの手の記憶はありません。そうかも、とメグは思いましたが、確信できません。なめらかな感触で、手首から指先まですうっと洗練された曲線のきれいなかたちをして、それでいてしっかりとした骨格のある手でした。
周囲を見回すと、闇の中を訪れた雪と糸は消えて、冬木立の森が延々とひろがっていました。足元の薄紫の明るさがいつのまにか全部の視界にひろがり、葉の落ち尽くした裸木の、深い遠い森と平野が、見渡すかぎり、どこまでもうねうねとはるかでした。下草のない清潔な大地から、森の木々は一本ずつが天を支える無数の白い円柱のようにたかだかとそびえ、頭上を見あげると、ほっそりした小枝や太い幹が、空間に不規則で眼に気持ちの良い自然の編み模様を投げかけ、どこからか冬の陽射しが、立ち尽くす木々の樹皮を洗いあげるかのように無駄のない光線を注いでいます。
ざわざわと風が裸木の森を抜けてゆくと、揺れてぶつかりあった小枝と小枝から、はらはらと、こまかく光るガラスのかけらのようなものがメグに降り注いできました。
 メグの腕や肩にひっかかった半透明の破片はガラスやビーズではなく、薄紅いろをした桜貝でした。いえ、貝ではなく、もしかしたら桜のはなびらかもしれません。
風の匂いは、そういえば冷たくはなやかで、花冷えのころの桜の真下にあるものに似ている気がします。

「…治りかけているんですよ」
 午後一番の診察室に流れこむ陽射しは、クリスマス寒波のあとなだらかに続いた小春日和のまま、初老の副院長先生の白髪混じりの横顔をやわらかく照らしていました。このひとがメグの主治医で、要職にありながら物腰が穏和で、誰に対しても権高な姿勢がないので、患者のみんなから慕われていました。看護師たちの信望も厚い、ということも駿男さんにはすぐにわかりましたので、娘がこのひとの担当になったのは幸運だと思っています。
大晦日までもう何日もない、今年最後のメグの検査結果について、と駿男さんはこの主治医に突然呼び出されたのでした。
「どういうことでしょうか?」
 駿男さんはメグの怪我のどの部分がどういう状態で快方に向かっているのか見当がつかず、率直に尋ねました。
「この画像は」
 と副院長先生は、診察室のパソコンでメグの骨折部位のレントゲン写真を何枚か同時に映し出しました。
「鎖骨、肋骨、大腿骨、肘の…こことここ、はっきり折れていますね?」
「ええ」
 白っぽい陰影のそれぞれをマウスで示されれば、あの新生児だったメグが、いつのまにかこんなしっかりした骨格に育った、と父親は骨折よりも娘の成長の不思議さに、改めて目を驚かされるのでした。周囲をやきもきさせた難産の末に、ようやく手のなかにおそるおそる抱きとった、ほわほわと湯気のたつような甘ったるいかたまりは、骨もなにも感じ取れないような、もろく、また言いようもない、いとしい熱さを伝えて動いていました。ただそれだけのちいさな存在が、いつのまにかこんなにしっかりした〈骨〉を内部に具えている、という神秘に、駿男さんの感情は傾きました。娘の命に別状がないとわかっている心のゆとりが、主治医の説明の意図とは違うところにひっかかったのかもしれないのですが、娘の回復が目に見えて早い、という感触は嬉しいものでした。
「これは事故当時のものです。で、次は昨日撮影したものなんですが」
 主治医はそれぞれの骨折部位に、あたらしいウィンドーを重ね、ふたつの画像を比較してみせました。
「ほら、おわかりでしょう。鎖骨も肋骨も。複雑骨折した大腿骨さえ、もうほとんど癒着しているんです。完治ではないと思いますが、娘さんはおとといから鎮痛剤も要らないとおっしゃっているんですね。痛くないから、と。痛くなくて当たり前です」
「はあ」
「ふつうなら」
 と医師は駿男さんの顔をじっと見つめました。駿男さんも眼鏡の縁を指でおしあげ、眼をそらさずに相手の視線を測りました。市立病院副院長のこのひとは六十歳近いでしょうが、考えようによっては、もうじき五十三歳になる駿男さんも、同じような年頃と言えるのでした。
 主治医の眼は底厚く感情を適切に整えたもので、何一つ内面の不穏な動揺を透かしてはいませんでした。
「全治三ヶ月、と申し上げたとおりです。ですが、これが真実なら、今日明日にでも抜糸して、年明けには退院できます。肝臓のほうは、はっきり完治です。事故からまだ二週間余りですが、こんな前例は知りません」
「真実ならって、ほんとうなんでしょ?」
「はい。娘さんは松葉杖を〈両腕〉に使って歩いていますから。看護師の報告では、それさえ要らないかも知れない、とも」
「ぼく、医学のことはまったく、いえあんまりわかりませんけど、重くなって治らないより、前例がどうであろうと回復が早ければそれで十分です。だっていいことですから」
 副院長先生は、にこっと笑いました。
「そりゃそうです。大人に比べてこどもは回復が早い。その中でもあなたの娘さんの治癒力は驚異的です。なんていうか、その…学会論文に書いても、こんなケースはまず信じてもらえないだろうレベル」
「あ、そうですか」
 駿男さんは〈信じられない〉〈ありえない〉モードにすっかり慣れてしまったので、多少図々しい口調で、
「メグを実験台とかケースとかにするのはおことわりです。驚異的だろうと何だろうと、親にとっては治ってくれればそれでいい。後遺症もないんでしょうね?」
「ありえません」
 主治医と駿男さんは同時に笑い出しました。それぞれの笑いには、微妙なニュアンスの差がありましたが、主治医がメグの垣間見せた驚異に対して、一般の患者に対して以上の好奇心や食指を動かさないだろう、ということは明らかでした。
それでも駿男さんは、きっぱりと言い足しました。
「失礼を承知で申し上げるのですが、うちの娘について、ずべて守秘義務は守っていただけますね。どんなにいいことでも、また医学の進歩に貢献するかもしれないことでも、今、この子をさらしものにするのはお断りです」
「もちろんです。正直興味はありますが、娘さんの健康や幸福と、医学の進歩は、また別物です」
「あなたの良識を信じます、先生」
「……娘さん、間もなく退院許可をお出ししましょう。三が日明けたら、お帰りになって大丈夫。このペースなら、新学期からちゃんと通学できますし、もしかしたら体育なども普通に参加できるでしょう」
「ぼく、今すぐにでも連れて帰りたいです」
「それはご勘弁ください。肝臓完治、と申し上げましたが、周辺の……それも問題ないとは思いますが…こまかな検査数値がまだ出ていないので」
 診察室を出ると、北向きの廊下側にはふっくらとした小春日は届かず、病院特有の平板なあかるさが無表情にフロアと、そこに行き交い集う患者や職員を照らしていました。市立病院の看護師のユニフォームは淡いピンクいろで、そのなかに介護職員や看護補助とおぼしいスタッフは、水色か白を着ています。窓や壁、廊下の折れ曲がりにやたらと角の目立つ設計の、そっけない箱を組み合わせたような建物の中で、職員たちのパステルな色調がきびきびと視野を動いてゆく印象は、駿男さんの心をやすらかにしました。
(驚異的だって?)
 彼は内心つぶやきました。
(あの子がぼくの娘に生まれてきてくれたってことで十分だよ。世界でいちばんかわいいんだ。なんだろうと守ってやるさ)
 

スポンサーサイト

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://donanobispacem717.blog.fc2.com/tb.php/26-2e4c4815
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。