さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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スウィート・ハニー・スプリット 2

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「やあ、海開き早々、ドザエモンだって」
 朝の五時、日増しに夏の小鳥のさえずりがはっきりと、空にあふれて高くなる七月に入ってすぐの週末、仕事も学校もお休みの風間親子は、いつもどおりウォーキングを欠かしません。最初に目覚まし時計で起きるのは父親で、彼は寝室からキッチンの冷蔵庫に直行して、野菜ジュースにレモンを絞って飲みながら、新聞受けから朝刊をひきぬきます。一面の大文字をざっと眼で追い、ばさばさと音をたてておおざっぱに紙面をめくり、歩きながらメグの部屋をノックして
「メグ~。行くぞぉ」
 とあくびまじりに声をかけて起床を促し(彼はいつからか、眠っている娘の寝室を無造作に開けるということをしなくなっていました)リビングに戻ってくるころ、地元の社会面を眺めます。
 今朝も上々の夏空が東の窓いっぱいにひろがっています。スカイブルーは、まだ明け暮れの淡さに霞んでいますが、じきに強烈な真夏の直射が、じりじりと照りつける濃青に変わってゆくでしょう。今年の梅雨明けは早かったのです。
 湘南のヨモヤマ事件を集めた見開きに、溺死した少女の記事は、その夏の最初の水の事故、ということもあってか、かなり大きくとりあげられていました。
「ドザエモンじゃない。十四歳の女の子。ドラミちゃん、じゃなくてドザミちゃんじゃあ語呂が悪いか」
 と無責任な眠気覚ましをぶつぶつ言いながらスエットに着替える所要時間約十分。そのころにはメグもリビングに出てきます。顔もろくに洗っていない、髪を梳かして束ねただけの起き抜けなのに、十二歳の健康な少女は光るように新鮮な血色を満面に浮かべていて、駿男さんは野菜ジュースよりもレモンよりも、この子を見たとたんに、ぱっちりと眼が開くのでした。彼は世間並みの男親よりは、ちょっと度が過ぎた娘へのこうした愛情を、けっこう自覚していました。
「何文句言ってるの、パパ」
「水の事故だよ、海開きのはなッから」
「近所なの?」
「そう、場所は香枕天神海岸。和賀江島の海水浴場にあがったって」
「じゃ、散歩コースから見えるじゃない」
 いつもは聞き流すメグは、今朝はパパの手元を覗きこみ父親よりもしっかりと記事を追って、
「これ、水の事故じゃないみたいよ。飛び降りたらしいって書いてある」
 声がすこし低くなっていました。
「へえ」
 と駿男さんはぜんぜん気にせず、
「てことはあそこの崖っぷち? 勇気あるなあ」
「そういう言い方、はっきり言ってメグやだね。自殺したんでしょ。勇気じゃないよ」
「だね~。君のそういうとこ好き。ママに似てる」
 メグは返事をせず、ちょっと白眼がちにパパを見上げました。
(ほんっとに、パパ神経太いよね。デリカシーを失くすとこういう大人になるのかな)
「パパは君が無事ならそれでいいんだ。言い訳これでいい?」
 駿男さんはメグの非難がましい顔色を先読みして、にやっと笑いました。
「行こう。遅くなるぜ」
 絶句しているメグの返事を待たずに、駿男さんはくるっと娘に背を向けました。
「ミソとショウユがサザエを焼いて待ってるもんね」
「パパ、苦し紛れにわけわかんないこと言わないでよ。ミソサザイ、イソシギ、ツバメに……」
「君も小鳥に関する知識を増やしたら? 夏休みの自由研究それどう」
「あ、そうしよっかなあ」
 と、親子は例によって言い合ううちに、なんとなくなごみムードにおさまってしまいました。
 メグたちの住むマンションから、海岸へは路地と県道をいくつか抜けてすぐです。海へ直行せず、遠回りして桜山を登ると、葉桜繁る緑深い雑木林の森がしばらく続き、桜山の中腹が、この散歩コースの一番の高みなのでした。急いでいるときは、こちらの迂回コースは通りませんが、今日は二人とも休みなので、ゆっくりと坂道を登り、深山を拓いた中腹のバス停のベンチに座ると、その眼下はるかに和賀江島がもう蒸し暑い真夏の靄の中に浮かび、島の展望台の影が朝日を浴びて薄蒼く光って見えました。
 そのバス停から、手前の桜山の森に隠れて間近の星月夜岬は見えません。
「あの星月夜岬から飛び込んじゃったんだよ」
 休憩のためにバス停のベンチに座り、汗を拭き拭き、水筒からスポーツドリンクを一口含んだメグが、パパに向かって口を開きました。
「気になるの?」
「こないだも銀座で少年の自殺に遭遇したばっかりじゃない」
「偶然でしょ」
「自殺多いね。しかも少年少女」
「いじめだろ」
 メグは、あの晩シーラとともに垣間見た死にゆく少年の霊魂の幻視を思い出していました。細く白い、手花火の終わったあとの薄煙のような影像……。でもそれは駿男さんには伝えられないものでした。言葉でも、感情でも、パパが大好きでも、絶対に共感できない領域の気配。
「あの子は死ぬつもりじゃなかったんだけど、跨いじゃったんだって」
「またいだ?」
「そう。いじめられていたけれど、死ぬつもりなんかなかったの」
「おいおい、新聞にそんなに詳しく書いてあったか。あの子って香枕宮に打ち寄せられた中学生の方?」
「……」
 メグは応えませんでした。
 ベンチに座り、お揃いの野球帽を外して汗を拭う親子の仕草が、どこかでぴったりと停まり、ざわわ、と頭上の葉桜を揺するたっぷりとしたひろい風音と、そのはざまをぬって鳴きしきるいろんな鳥たちの鋭い、無数のさえずりだけが、ふいに鼓膜いっぱいにあふれくる、人間味のない冷たい感覚に、駿男さんは全身が総毛立ちました。
(なんだってんだ、どうしたんだ、これ)
「メグ、もう行こうよ、腹減った……」
 と娘の二の腕をつかもうとして、駿男さんはわっと叫んで飛びのきました。
……ちょーかわいい。この子誰?
 駿男さんは、自分の脳の半ばに響く、聴きなれない声にうろたえました。叫んだのは駿男さんだけでなかったのです。それから数瞬置いて、叫び声に続くその声が自分の声帯から発せられたものだとわかりましたが、それと同時に、自分の手足がほそぼそと華奢な少女のものに変化しているのにも、視線が届きました。後ろへ飛びのいたのは、駿男さんではなく、彼が同一化している少女の驚愕の動作だったのです。
(俺どうなっちゃったの?)
 というオヤジの動揺は、あっというまに少女の主体に圧倒されて散り散りになり、彼女は紺青の暗い室内で、保健室か、病院の救急治療室にあるような、コンパクトで幅の狭いベッドの上に眠っている、小さな女の子の前で、呆然と立ちすくんでいるのでした。
「あたし、なんでここに来てるんだろう」
 夏のセーラー服は、駿男さんも見覚えのある某私立学校のものです。
少女に同化していても、どこかに駿男さんの意識は存在し、少女の感覚をレンズのように透かして、わずかに自分のまなざしを保っています。少女は自分の手足をしげしげと不思議そうに眺め回しました。
「いつ、どうやってここに来たの? これって夢なの? あたしどこにいたんだっけ」
 といいながら少女は眼の前に眠っている幼女の寝顔を覗き込み、ふうっとためいきを吐きました。
「うっそ、人形みたい。髪の毛きれい、天然かな、これ。寝てるの? まさか、死んでるんじゃないよね」
 と不安げな独りごとをつぶやきながら少女は、搬送台のようなベッドに眼をつぶっている六、七歳くらいの女の子の顔に触ってみました。ひゃっ、と少女は無遠慮な声をあげて手をひっこめ、
「やだあ、冷たいじゃんこれ。まさか死体」
 少女は後ずさりしましたが、それでも蝋細工のように生気のない女の子の顔から眼が離せず、
「死体でも、こんなにかわいいと、気味悪さが減る感じ。いいなあ、あたしもこんなだったら、いじめられないのかも」
 と口惜しそうに、うらめしそうに、また苦しげにつぶやきました。この子、そんなにブスなのかね、と駿男さんが少女に同化しながらも内心で首をかしげると、それに呼応するように、寝ている幼児の向こう側の闇が、急に硬さを帯び、ぼんやりした周囲のとりとめのなさから、きっちりと長方形の壁が浮かび現れ、そこに駿男さんが同化している十四、五歳の女の子の姿が映し出されました。どちらかというと痩せがたちの中背で、顔立ちはなるほど美人ではありませんが、ちんまりと平凡に、おとなしげな印象です。なんだ、いい感じじゃないか。こういう地味めな子って、大人になっておしゃれし始めるといきなり激変するタイプだぜ。うちの会社にもいるよ、いっぱい、おい、元気だせ…という駿男さんのエールなど、この状況ではもちろん少女の耳にも心にも届きません。
 少女は自分のショートカットの髪をうっとうしそうにかきあげ、もういちど辺りをぐるりと見回してから、
「ここって、病院とかの死体置き場みたい。あんた、ほんとに死んでるの?」
 とあんまり怖がっている様子もなく、おずおずと眼をつぶっている蒼白い幼児の額に手を置きました。冷蔵庫で冷やしたガラスコップくらいの冷感が駿男さんにも感じられます。
 あれ、と駿男さんは少女が手を載せた小さい女の子の顔に、はっとしました。この子、たしか朝のウォーキングのときに出会った、コンビニでつり銭盗もうとした子じゃないか。たしか銀座の地下劇場でも見かけた親子の…マヤちゃんとか言う子だ……何でここに出てくるんだ? 
 すべすべした陶器のような肌の子は、藤田嗣治の描く女の子によく似て、少しまなじりが吊りあがっています。その顔は、幼児にしても、いえ、幼児ならではの容赦ない、残酷な気配を帯びていて、少女の無造作なマヤへの接触を、駿男さんは彼女と同一化しながら、ふと危ぶみました。触んないほうがいいぞ、君、俺の声、聴こえないの?
 少女は駿男さんの制止など全くわからず、めずらしいオブジェでも撫でるような手つきで、マヤの縮れた薄茶色の髪や、ふっくらとした頬を撫で回しました。仰向けに寝そべったマヤは、少女の手の動きに意識が戻ってきたのか、少し大きな呼吸をしました。
「あ、まだ生きてるんだ」
 と少女がつぶやいたとき、マヤの頭蓋骨の少女側の面がぱくんとひらき、するりと白い軟体生物が這い出てきました。マヤの頭の中は空洞になっていて、そこに巣食っている白くなめらかな、蛇となめくじの合いの子みたいな生物がするすると出てきたのです。それはマヤの皮膚のようにすべすべして、手足はなく、子供の腕くらいの太さで、先端に爬虫類の眼と口がついていました。少女はきゃっと叫んで手をひっこめようとしたのですが、
白い軟体生物は、彼女の指四本をいきなり咥えこむと、ゆらりと体をひねってマヤの頭蓋骨に戻り始めました。
「え、やだ、離して、やだってば!」
 少女は仰天して抗いましたが、軟体生物はそのまま苦もなくマヤの内部にひっこみ、咥えられた指先から、少女もまたずるずるとマヤの頭蓋骨の中に引っ張りこまれてしまいそうです。大変だ、なんとかしなけりゃ!、と駿男さんは少女といっしょに必死になって足をつっぱり、その場に踏みとどまろうとしましたが、少女はなすすべもなくずるずるとひきよせられ、あっという間にマヤの横顔に開いた穴の中に、二の腕までひきずりこまれてしまいました。
そこからは異様な感覚が始まりました。
 たとえ大人であっても、容量のちいさい頭蓋骨の中に十四歳の少女の体がまるごと入るわけもなく、少女はそれからもどんどんマヤの中に入ってしまったのですが、まるで蛇の脱皮みたいに、彼女の手先から衣服ごと皮膚が剥がれて、ふにゃふにゃした中身だけが、マヤの中に吸いこまれてしまったのです。解剖学的な人体ではなく、肉体の皮を全部脱がされた脆い〈中身〉は、あっというまにマヤの内部に吸われてしまうと、マヤの寝ているベッドの下に、空気の抜けた風船か、萎えたフィギュアのような少女の抜け殻が、しわくちゃになってくたくたとずり落ちました。
少女の感覚を共有している駿男さんは、自分の肉体をぶあつく剥かれてゆく言いようのない気味悪さと気持ちよさを同時に味わいました。痛みは全然ありませんでした。ねっとりした肉の重さを離れ、マヤに吸い込まれてゆく少女の意識が駿男さんから遠くなり、再び鼓膜に夏の森を吹きぬける朝風のゆったりとしたざわめきと、無数の鳥のさえずりが聴こえて、それから、
「パパ、パパ、しっかりして、大丈夫?」
(大丈夫なわけないぞ。いや、平気だよ。なんだ、メグじゃないか…)
 真上から駿男さんの顔を覗きこんだメグは、駿男さんの眼鏡をはずし、野球帽のつばで必死になって風を送っているのでした。
「パパ、貧血起こしたんだよ」
「それって俺、初体験、もしかして」
 駿男さんは、バス亭の木のベンチに仰向けに寝ていました。貧血ね、マジかね。
「君なんともないの、メグ?」
「あたし? うん。いきなりパパ倒れた。顔まっさおになって」
「じゃ、ほんとの貧血だ(脳梗塞じゃなくてよかった、ホッ)」
 駿男さんはゆっくりおきあがり、首筋から脇腹にかけてべったりと流れる汗の感覚と、両手両足の感覚がしっかりと戻っているのを確かめ、自分にすがりつくようにして眼を見開いているメグの顔をじっと見つめました。
(俺がひっくりかえったら、貧血なんかじゃなく、脳梗塞か狭心症を疑えって、教えておかなけりゃなんない時期だな)
 とメグの背中をそっと撫でました。まだ成長しきっていない細い肩甲骨の起伏がてのひらに感じられ、駿男さんは、いささかの疚しさもなくそのままメグの腰までの薄い肉付きを手に測り、
(俺に万が一のとき、この幼い娘はどうなるだろう)
 とはっきりと考えたのでした。
「パパ、歩ける?」
「モチよ。まず水分補給」
 駿男さんは、水筒のスポーツドリンクを飲みながら、視線をまた葉桜ごしの海へめぐらしました。朝靄はすっかり消えて、まひるの直射に、和賀江島と、その周囲にとどろく金波銀波のまばゆさが際立っていました。太陽を浴びて海水の光り輝く部分と、くっきりした影の部分とが、波のうねりにつれて島の周囲に乱反射し、彼はふいに、
(サングラス買おう、いいやつ)
 と自分の思考の流れを変えたのでした。
 パパ、とメグは内心で父親に呼びかけました。
(変なもの見せちゃった。そんなつもりなかったのに、あたし、また誰かにつかまれちゃったの。どうしたらいいかわかんなかったの。でも、まさかパパがいっしょに入ってくるなんて思わなかったの……)
 駿男さんが味わった一連は、メグの見ていたものでした。なぜだか今回の幻視はメグに直接つかみかかるのではなく、駿男さんを媒ちにして、メグにコンタクトしてきたのです。
(パパには霊感なんてないってシーラさんは言ってたのに、なんで?)
 とメグは考えましたが、それよりも今は父親の安全の方が先決でした。
(ジャンプはすごく疲れるんだ。パパ顔色悪い、早く戻ろう。それからシーラさんに…)
 とメグなりに思案して、何気ないふうを装い、精一杯笑顔を作ったのでした。

 その時刻、といっても朝の七時過ぎですが、シーラは世田谷能舞台で演能の準備に追われていました。三時半にはもう起床、それから前々日金曜日の夜から泊りがけでお稽古をつけてもらっている宗雪、それに内弟子の数人といっしょにお舞台の内外を拭き清めます。今日は鳳凰流の弟子達で、囃子方地謡を除いて、シテワキ全員中高生だけの番組を上演するのです。大人ではないけれど、子方とも扱われない、将来の能楽界を荷ってゆく少年少女たちが、面をつけない直面(ひためん)の袴能を演じる「宝雛会」の定例舞台でした。この若手育成の企画は、主宰者は宗雅氏という表向きですが、鳳凰流を率いる宗典さんが始めたことです。宗典さんは宗雅さんの次男で、宗雪の父親です。十六歳の宗雪の上には二人の兄がいて、一番上が二十四歳の宗光、次男が紫と同い年の宗風と続きます。光と風と紫は、今日は地謡の役回りです。
芸の老熟をことに尊ぶ能楽の世界では、青春の若さはほとんど評価されず、仕上がりには遠い「こども」に、短い仕舞ではなく、最初から最後まできちんとひとつの番組を演じさせる試みは、毀誉褒貶さまざまでしたが、全部任されて出演する中高生の「こども」達は嬉しくて、ラインやらツィッターやらで宣伝するので、ろくに能など知らない一見さんがやってきたり、普段とは毛色の異なる客入りがあり、いつもなかなかの盛会でした。そんなきっかけから、興味本位で能楽に入ってくる子もいたのでした。
 宗典さんの息子三人は、幸いにどの子もけっこうなショウユ系イケメンですし、ユカリにいたっては、もう今まで言葉を費やしてきたとおりの暮らしぶり、ルックスですので、この子たちが出るだけで、かなり観客動員が期待できるのでした。三兄弟のうち、ユカリにいちばんなついているのは末っ子の雪でした。風と光は将来を嘱望(ムツカシイ字ですね)されている鳳凰家のサラブレッド、だからという理由でもなく、すこし異なる角度から異色の弟を眺めているのでした。これはまた別な物語に入ってしまいそうなので、今はここでやめておきます。
(シーラさん、聴こえる?)
 ひととおりの清めを済ませ、一同そろって
朝食の席についたところでした。焼き魚やおみおつけ、焼き海苔香の物…簡素で明るい食卓は、宗雅さんの末娘の花澄さんが支度してくれたのでした。三十半ばを過ぎてそろそろアラフォー、容姿も人柄も欠けたところなどないのに、花澄さんはまだ独り身で、ユカリの知る限り、恋の噂も聞いたこともなく、鳳凰流のミステリアスな〈隠れ名花〉です。
(聴こえるよ。どうしたの?)
 花澄さんからご飯をよそってもらい、それをいただく仕草を一瞬とめたけれど、ユカリの表情は全く変化がありませんでした。花澄さんは、ご飯茶碗をもらったまま宙ですこし滞ったユカリの手に一、二度かるく瞬きし、
ふっと微笑んですぐに視線を戻し、他の弟子たちのために、またしゃもじを握りなおしました。 
(またつかまれたの)
(餓鬼、じゃないね、その感じだと)
(うん。水の事故、ていうか香枕海岸で自殺した女の子の霊)
(いつ?)
(今朝。それであたしだけじゃなくパパもいっしょにひっぱりこまれた)
(駿男さんも? で、パパの様子は)
(もう家に帰ってきて、パパは貧血っぽいからリビングのソファで寝てる)
(え、ショックで?)
(そうでもない。昔のDVD観てる。ええと、スタンド・バイ・ミーかな)
(いいね。あたしも好き)
 ユカリは何食わぬ顔で、そのままちゃんと朝ごはんをいただきました。メグが心の中に入ってきて、自分とコンタクトできている、というしたたるような嬉しさが、ユカリの表情を柔らかくしていました。もともとそれほど口数の多いほうではないので、皿小鉢に箸を進ませてゆく間の、ユカリの沈黙を、誰も不自然とは思いませんでした。花澄さんを除いては。
(ショック状態じゃないのなら、夜もういっぺんメグからぼ…あたしを呼んでくれる?
今日は丸一日、朝から夜まで世田谷能舞台を離れられない。弟が出る。それに打ち上げよ。遅くなって平気ならメグも観に来る?メグとあんまり変わらないくらいの年齢の子たちの舞台なの。かなりおもしろいし、一般享けしてる)
(パパが心配だから行けない。パパは午後から横浜にサングラス買いに行くって。ついでに映画か何か観ると思う)
(それじゃ今夜でなくてもいい。とりついたのが餓鬼じゃないなら安全、だろう、たぶん。何かあったらぼ…あたしを呼んで。それはいつでもいい。こっちが上演中でもかまわない。独りでジャンプはしないで、できるかぎり)
(……うん)
 そこでメグの心はシーラから離れてゆきました。テン六つか、とシーラは最後に即答できなかったメグの躊躇の間合いを、少し思案しましたが、接触したメグの心の状態なら、それほど難しいケースではなさそうだ、と判断しました。
「ユカリさん、それソースだけど」
「え?」
「大根おろしにソースかけてる」
「ああ、たまにはね、いいじゃない」
 花澄さんはふふ、と口許で笑い、
「うそよ」
 ユカリはあらためて両眼を見開いて、従姉を見据えました。ユカリたちと同じように夜明け前から起きだして忙しくしているのに、いつ身じまいを調えるのか、輪郭のきれいな顔にちゃんと薄化粧していました。
「へえ」
 とユカリは箸を置いて、にやっと笑って見せました。
「お姉さんでも人をからかうんだ」
「だって、ユカリさん、漬物自分の皿にとりわけたときから、ずっと逆箸のまんまよ」
 それはうそではありませんでした。

 午後二時、日中の暑さが極まる時刻には、風間親子は横浜で遊んでいました。
サングラスは、桜木町の駿男さんの友人が開いている眼鏡屋さんで買いました。未だに独身の風変わりな店主は駿男さんの大学時代の友人で、せっかく大企業に就職したのに、一年も経たずに脱サラして職人道に走り、国内のみならず、スイスやイタリアをめぐりながら十年ばかり修行を積んだ後に、故郷で手作りの眼鏡屋を始めたのでした。レンズの精巧もさりながら、この一品ものの眼鏡師の作品は、眼鏡の蔓や蝶番といった細部まで、素材や装飾に独自の細工を凝らし、駿男さんの買った鼈甲と合金のサングラスの蔓には、エジプト象形文字ふうのセミティクな毛彫りがほどこされたものでした。注文販売などではなく、そこそこ収益を上げるために、レンズと蔓は別売です。駿男さんは度なしサングラスなので、当座の品揃えの中から、分相応よりかなり高価な「一生モノ」を思い切って購入してしまいました。
「それって結構派手じゃない?」
 新しいサングラスをかけたパパの顔をしげしげ眺めたメグの感想に、
「目立つ? それとも浮く感じ?」
「両方。でも似合ってないわけじゃないよ。なんていうか、顔だけやたら豪華に見える」
「一点豪華主義ってあったんだよね。君が生まれる前のこと」
「ついてけない、そういう昔話。でもサングラスは、時間がたてば顔に馴染むんじゃない。見慣れないから、それだけギラギラしてる」
「たいていのことは時間が解決するんだよなあ~」
「モロわざとらしい、その言い方」
「だね。問題解決を先送りすると利息がキツイ」
「パパ、それじゃどうするの」
 ぽんぽん言い合いながら、メグはほっとしていました。よかった、パパ元気になった。
「一番だいじなことをちゃんと選んで、即決せよってこと」
「一番だいじなこと?」
「ハラ減ったよ。ぼく、朝からろくに食べてない。君は?」
「パパ眠っている間にコーンフレークと牛乳とバナナ。それだけ、だからお腹すいたよ」
 というわけで、横浜で車を停め、親子はランチタイムをすこし外した時分どきに、某有名デパートのレストランで、またちょっと贅沢な昼ごはんをいただきました。駿男さんは「スタンド・バイ・ミー」一本で、今日はもう十分、映画はいいや、と言い、レストラン街入り口のパネル広告に眼をとめ、
「入場無料、あれ観ていこうか」
そのデパート主宰の美術展でした。
「仁科円魚とその家族、悪くない」
「ニシナエンギョ。知ってるの?」
「うん。地元の日本画家。君知らなかった?
逗子に住居を改造したいい記念館ある。御本人は数年前に亡くなったけどね。あ、没後十年だって。そんなになるんだ。時の経つのは早いねえ」
 レストラン街のすぐ下のフロアでした。そのデパートは私設の大きな美術館も別館としてあるのですが、そちらは主に海外の巨匠クラスの展示で、入場無料のギャラリーは、近現代邦人作家の作品販売を兼ねた小規模なエキジビション、またパフォーマンスや演奏会などが常でした。
 休日なので、風間親子のような気まぐれお客も多いのでしょう、会場入り口はけっこうな人数が出入りしています。仁科円魚の代表作のパネルが入り口に大きくひきのばされ、その前で、彼の親族とおぼしき人物が、出たり入ったりの客筋に、如才なく挨拶しています。
 お、と駿男さんはデパートの中では必要ないのに、ずっと見せびらかしでかけていた購入したてのサングラスを外し、パネルの前に立っている背の高い青年を見つめなおしました。
 あ、とメグは息を呑み、思わず駿男さんの腕を握りました。
 青年の着ている赤と黒のアロハ風開襟シャツに見覚えがありました。いいえ、今間近でよく見ると、それはアロハではなく、紅型模様で、渋い光沢のある薄手のスラックスも、芭蕉布に風合いの良く似た手織りの贅沢品と一目でわかるいでたちでした。青年は、コンビニで、また銀座でそうしていたように、しっかりと小さい娘の手を握っています。マヤは、最初にあったときの印象より、すこし背丈が伸びたようですが、小造りに整った顔は他に間違いようもなく、今日は紺色の地に白い襟飾りのついた大人っぽいワンピースを着せられて立っています。
(あの子だ。てことはマヤの父親のあの青年は円魚の息子か。そういや、似てる)
 円魚の代表作の横に、作家の肖像写真がありました。最晩年の撮影らしく息子のような人目をひく秀麗さは見えませんが、長方形の顔のかたちやまっすぐで中高な目鼻立ちは、確かに似通っていました。何食わぬ顔をして駿男さんはその入り口を通り過ぎましたが、自分の肘をつかんだメグの手の力が、ぐっと強くなったのに気づいていました。
「おぼえてる? メグあの女の子」
「うん、もちろん」
 メグは心臓がどきどきしました。だって、駿男さんの幻視を通じて、今朝マヤと遭遇したばかりなんですから。
(ちゃんと影がある。あのときマヤには影がなかったのに)
 メグは横目で、小さいマヤの全身を見つめ、
父親の肘をぎゅっと握ったまま、そそくさと入場してしまいました。
 仁科円魚の作品は、伝統的な日本の花鳥画で、端正で乱れのない美しいものでした。おおまかに言えば、京都の四条円山派の流れを汲み、しろうとには馴染みのない複雑で微妙な師承筋はさておき、鹿香の旧家に生まれ、東京美術学校を出、いくつもの受賞、入賞の栄誉に飾られ、戦中戦後の波乱を経たのちは、つつがなく逗子で人生を閉じた、という略歴です。息子も画家となり、彼の作品もたくさん並べられていました。が、その絵は父の端正とはうってかわり、アクリルや油彩、コラージュなど、いろんな技法をよく言えば奔放、アナーキーに駆使したコンテンポラリーで、駿男さんの眼にも、父親と同じ路線を歩みながら、自分の個性を懸命に主張する天才二世の模索があきらかでした。
 円魚の穏やかな作品群で心を静めた風間親子は、息子の作品展示のひとつの前で、また棒立ちになりました。
MANA幻―まなむすめー
 と題された、小品の油彩でした。モデルは言うまでもなくマヤ。藍色の闇の中、低いベッドに横向きに眠っているマヤの頬からこめかみにかけて、ぱっくりと大きな洞が開き、そこから幼女自身のものらしい、ぽちゃぽちゃと未熟な手が伸びています。小さくてもその手はいろんなものをつかんでいました。
おもちゃ、人形、小銭(駿男さんは、コンビニで彼女がいきなり横取りしようとしたメグのつり銭を連想しました)、お菓子、洋服、猫や仔犬、小鳥、ハンバーガーや携帯電話、アクセサリー、本…子供のほしがりそうなありとあらゆるものが、しつこいぐらいの丁寧さできちっと描きこまれていて、いちいちの鑑賞が追いつかないほどです。それらはまるで、米粒に七福神を描く程の緻密とも思われ、円魚の息子は幼女の小さい手のなかに、いろんなオブジェをリアルに描き、作家の持つ、あらあらしいコンテンポラリーな試行とは別な側面を窺がわせました。幼女の握った手の指からこぼれたものがいくつか、砂利か、紙屑のように画面に散らばっています。そのひとつ、うっかりすると見過ごしてしまう紙屑めいたものが、今朝方幻視した、少女の抜け殻フィギュアだと、風間親子はじきに気づいたのでした。
「風間さんじゃないですか!」
 と斜め後ろから聴き覚えのある声が聞こえたのと、メグの肩がちょんちょんと軽く叩かれたのは、殆ど同時でした。
「あれ~峰元くん。それにえっと」
「シャワーです」
 涼しげなレモン色の袖なしチュニックをタンクトップに重ねたシャワーの横に、半歩体をひいて、タイジがにこにこしていました。メグの肩先に触って合図したのはシャワーの方でした。
「どうして、すごい偶然じゃない」
 駿男さんは、メイキャップなしでシャワーを目近に見るのは、これが初めてかもしれません。すこしウエーブをかけて、肩先で揺らしたナチュラルな髪がきれいでした。
(うわ、かわいいね。化粧と地顔の落差があんまりないよ、この子。すっぴんじゃないけど、素顔のほうがぼく好み)
 と駿男さんは自然と笑顔になってしまい、タイジのほうへは殆ど視線が向きません。
「たびたびコンサートに来てくださってありがとうございます」
「え、いいよ。ぼく歌好きだしね。美人も。でもまた君たち…」
 どうして、といいかける駿男さんの脇腹を後ろからメグはつつきました。ッタクモォ、とメグは、
「峰元さん画家だもんね」
「ん、そうじゃないんだけど、仁科ゲンは、ぼくの先輩筋なんだよね」
「ゲン?」
「あのひと。入り口にいたでしょ。仁科幻。ぼくの美大の先輩なんだ。直接の面識はないけど、講師でもある。準教授かな。それに」
 とタイジはそこでシャワーに話を譲りました。
「仁科さん、わたしの母の恩師なんです」
「え、え、わかんないぞ。あの青年が、あなたのお母さんの恩師で、峰元君の先輩なわけ?」
「いいえ、ゲン氏は、母の先生の息子さんです」
 シャワーの説明に、駿男さんはようやく、
「そっか。だよね、円魚の息子にしては若すぎると思ったんだ。てことはゲン氏は孫なわけか。でもシャワー、君のお母さんて」
「来てますよ。峰元さんとはちがうんですけど、母も美大卒なんで」
 あそこにいます、とシャワーは入り口で仁科幻を囲んでいる数人の中年女性客を示しました。その一人が、シャワーの視線に応えて顔をこちらに向け、軽く周囲に会釈してからこちらにやってきました。さらりとした風合いの織り目の粗い絣みたいなチュニックを着ています。デザインは娘とおそろいのようですが、彼女の短衣は薄い藍色に水色の絣が飛んだ生地でした。下に着ているものもタンクトップではなく、白くて襟ぐりのゆるい綿シャツです。髪型も似たりよったりですが、母親のほうがはっきりと明るい色に染めていました。眉を高く弓なりに描いたメイクも隙がないし、髪と顔だけならお母さんのほうが派手に見えます。
「お母さん、ほんと」
 と駿男さんは、それこそ正直に眼を剥きました。
(よく似てるねえ。うちのとメグよか、ずっとそっくり親子だ。おっかさんのほうが、多少化粧が濃いのは当然としても、姉妹にしか見えんぞ。いくつなんだ、この母親って)
「佐久間です。娘がお世話になっております」
「とんでもない。ぼくお世話なんか何も…(と少しへどもどする駿男さん)ただのファンです。美人風の歌声に癒されてるから、元気もらってるのはこっちです、むしろ」
「まあ、ありがとうございます」
 シャワーのお母さんは、娘の笑顔と同じように、頬に浅い笑窪をつくり、ぺこんと頭をさげました。そんな、どことなくこどもっぽい所作も母と娘はよく似通っていました。
「お母様も、アーティスト、ですか?」
「いいえ。いちおう美大出なんですけど、今は福祉関係です。手織りの布で、いろんな小物を作ってます」
「でしたね、たしかさきおり…」
「はい。それと自宅でデイサービスもやっていて、今日は日曜でお休みだから」
「ああ、それでタイジさんと?」
 と横からメグが口を挟みました。メグは、どうもパパとシャワーのお母さんのフィーリングがよすぎるので、割り込みたくなったのでした。
「そう、タイジさんにも、一度覗きに来てもらったことあるのよ」
 シャワーのお母さんは、お父さんに向けたのとちっとも変わらない柔和な笑顔のままメグに答えました。シャワーのお母さんは、メグの顔や、すんなりした小麦色の手足をまぶしそうに眺め、
「娘さんですか?」
「はい」
「いいですね」
「そうですか」
 そのあとちょっと会話が途切れました。で、タイジが気を使って
「せっかくだから、どこかでいっしょにお茶しません?」
 と水を向けたのでした。
「それじゃ、ゲンさんにご挨拶してくるわ。ちょっと待ってて下さい」
 シャワーの母親にタイジも続きました。彼に曳かれる感じで、そのまま皆ぞろぞろと仁科幻のほうに近寄っていきました。ギャラリー経営者でもあるタイジは、さっきシャワーのお母さんから作家を紹介され、母校の教職でもある、という二重の縁から、銀座の仕事に有利な筋道をつけられそうです。
 仁科幻は、案の定風間親子のことは忘れていました。父親のそばで退屈しきっているマヤは、メグを見ても顔色ひとつ変えませんし、
駿男さんに対しても無関心でした。けれども駿男さんは、やはりマヤから半透明な蜘蛛の網めいた放射を感じ、今朝がた垣間見た妖しい幻覚も思い合わせ、ただの通りすがりでこの親子から別れてしまうのが惜しくて……なぜ心が残るのか、惜しく感じられるのか、彼は自分に対して不問にしました……さりげなくシャワーの母親を介して青年作家に紹介してもらい、名刺交換にこぎつけたのでした。
 この日は、駿男さんにとって、いろんな意味で、あとあと思い出の深い日のひとつになりました。
シャワーのお母さんは、休日の混雑なのに運よく同じデパートの下の階に空席のあった喫茶店に入ると、ごく普通に名刺を差し出し、あたりさわりなく自己紹介をしました。名刺も、文字は印刷ながら、手漉き和紙のオリジナルと一目でわかりました。
 佐久間千草、と彼女は名乗り、
「自宅で、障害者の作業所とデイサービス両方やっているんです。作業所は主に織物や小物づくりで、デイサービスとは別フロアですが」
「広いんですね、ご自宅」
「そうでもないんですけど、設計した人が個性的な間取りにしてしまったので」
 おや、びみょうな言いかた、と駿男さんは千草さんの語気を察し、話を変えました。
「娘さん、早織さんもお母さんのお手伝いなさってるんですか」
「ときどきね。この子は手先が器用なので、くるみ釦なんか、きれいに作ってくれます」
 と会話の接ぎ穂に、千草さんは籠網のバッグの中からクリヤーファイルを出し、作業所の製品の写真を何枚か見せました。袋物、タピストリ、手染めのTシャツ、手織りの反物、スカーフ……どの品も女性向けで、駿男さんの興味の範囲外でした。ちゃんと承知している千草さんは、じきにファイルをしまい、
「よかったら遊びに来てください。原則日曜日はお休みですが、倫子ちゃんも、月に一度くらい、ボランティアコンサートしてくれるんです。これはデイサービスの利用者さんだけじゃなく、一般の方も歓迎しているサロンなので」
 と笑窪を作り直す感じでおさめると、そのあとはタイジやメグ、娘の早織に会話の流れを運ぶタイミングの手際よさに、
 気持ちを読むなあ…ずいぶん挙措の届いたひとだね、というのが駿男さんの千草さんに対する印象でした。
(いくつなんだろう。早織ちゃんみたいな大きい娘がいるんだから、三十代ってことはないはずなんだが)
 茶は楽しいものでしたが、帰り道、メグは黙りがちでした。車中では駿男さんの好きな彼の青春時代の海外ヒットポップスがメドレーで鳴っていました。
 あえて駿男さんもメグに話しかけようとはせず、流れる音楽といっしょに、ときどき鼻唄をうたっていました

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