さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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Posted by 水市夢の on

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スウィート・ハニー・スプリット 3

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明くる日の月曜も、駿男さんとメグはいつものとおり早朝散歩に出かけました。小雨のぱらつく天気でしたが、低気圧が来ているのに、どういうわけか湿度の少ない適度な風もあって、ウォーキングにはいい気候でした。その日は山を登る遠回りせず、そのまま織都留浜に抜ける近道を選びました。
住宅街を通り、いくつかの小路、県道を渡ると目の前はひろびろとした遠浅の入り江。三浦半島が左手、星月夜岬は右手に見えます。織都留浜から鹿香にかけて途中から結衣が浜となり、こちらのほうが潮の流れが穏やかなので、夏の海水浴場として賑わい、岩場がちで波の大きい織都留浜にはサーファーが集まる傾向です。
夜明けの空はまだ明るく透明な銀青色なのに、もう海は荒れていて、眼に見える速さで嵩をつのらせる満潮の背びれの刻み目は荒く、やがて始まる悪天候を兆して、海は風音よりもすごくごうごうと、地鳴りのようにとどろいていました。
「昼から本降りだって」
 海岸通りでメグは足を停め、海を眺めて言いました。
「機嫌悪そうな色だね、海は」
「この前線が行っちゃえば梅雨明けらしい。沖縄奄美、関西じゃもう明けてるらしいよ」
「パパ」
「ん?」
「再婚しないの?」
 駿男さんは、昨日買ったサングラスの蔓を片手の親指とひとさし指でつまんでかけなおし、うつむき加減の娘を見直しました。
「なんだいきなり」
「なんとなく」
 そうだなあ……と父親は娘の白い横顔を一分ばかりちゃんと眺め、
「したくなったらする」
 メグは噴出しました。
「ナニソレ」
「何で笑うんだよ。これ以上まじめな答えないよ、メグ。再婚したくなったらする」
「今はしたくないの?」
「そう」
「今までも?」
「くどいぜ、相棒」
 駿男さんはくしゃみをひとつして(わざとじゃありません)すたすたと歩き始めました。メグはそれで、何故かわからない気持ちの凹みが楽になった気がして、パパの後を追いかけました。
 天気予報どおり雨は昼過ぎから大降りになり、湘南独特の部分豪雨もところどころで発生し、駿男さんが仕事を終える時刻も雨脚はまだ続いていました。その晩は遅い帰宅となり、駿男さんは業務の途中であらかじめメグに晩御飯を先にすませるようにメールしていました。帰り際にメールチェックすると、返事が来ていました。
 牛丼作ったよ(絵文字)大?サービスでサラダ付き(ハートの絵文字)外食しなくていいからね~(げんこつグーの絵文字)
(百二十点くらいあげるよ。さんきゅ)
 駿男さんは自分の喉もとにこみあげてきた感情をうまくまとめられずに、内心つぶやきました。単純に嬉しいだけではありませんでした。
(あいつ、なんで突然再婚なんて口走ったんだろ。佐久間さんのせいか? 感じのいいきれいなひとだけど、今までだって)
と彼はそこまでで思考停止し、地下駐車場から雨の篠つく路面に乗り出しました。
 勤務先から自宅までは、空いていれば車で三十分ほどです。その晩は大雨のせいでやや渋滞し、自宅マンション近くまで戻るのに、いつもの倍くらいの時間がかかりました。
 国道から県道へ、それから十字路を折れて……飛沫をあげるヘッドライトの光りに、疲れた眼をぱちぱちさせながら信号待ち、何気なく横を見ると、見覚えのあるマンション村の一角に小さな公園がぽっかりと静かな薄闇をひろげています。
(いつのまにか、こんなところに公園出来た
んだな。ここらのマンションも新築多いし、ついこの間まで土台を打っていたと思ったら、もうこんなに整備された)
 雨の渋滞で、信号待ちが長くなければ、たぶん気がつかなかったかもしれないまあたらしい公園は、ほっそりした外灯がたったひとつ中央にともり、隅に小さい砂場、小さい滑り台、ぶらんこ、パンダと象を模した乳幼児専用シーソー、それに、子供用に丈の低い、カラフルに塗られたジャングルジムの、こじんまりとした遊具でした。
(若い母親が入園前の赤ちゃんを遊ばせるのに手ごろな遊び場だ)
 と駿男さんは考え、そこでちょうど信号が変わったので車を発進させ…あいにくまたじきに赤信号となり、舌打ちして横を見ると、外灯にぼんやりと浮かぶ丸いちいさな公園が見えました。公園の灯りは一本きり、隅に砂場、こぶりの滑り台、あんまり可愛くないパンダと象のシーソー…。鉄のぶらんこ。赤と黄色の小さなジャングルジム。
 ぶらんこはふたつ。それぞれひとり乗りで、さっきは雨にしょんぼりと濡れて動かなかったものが、今はゆっくりとかわりばんこに動いていました。正確には、誰かが遊び終わったあとのように、振幅を遅くしながら揺れていました。
 駿男さんはぐっと生唾を飲みこんで、信号が変わるや否や、すぐにアクセルを踏みました。で、ほどなく信号はまた赤。窓の横にはちいさい公園。
 いつのまにか雨は止んでいました。
 駿男さんは笑い出しました。
「三度目の正直だね、こりゃ。俺にこっち来いって?」
 時刻は十一時少し過ぎています。
(時計に間違いがなけりゃあね)
 駿男さんはぼやき、都合よく割れた車の並びを抜けて、脇道に逸れ、するとさらに好都合なことに、新築マンションの駐車場らしい空き地がありました。
「星へ願いを、でも歌いましょうか。幽霊さん」
 痩せ我慢ではなく、ほとんど恐怖を感じません。雨はあがって、いつしか頭上は天の川皓皓と流れる満天の星空です。
「この星座もホンモノなのかね。それと幻覚なの?」
 車から出ると、まん前に公園入り口です。雨に濡れたアスファルトの匂いと、それから濃い梔子の香りが鼻腔いっぱいにあふれました。
 キイ、キイ、とかぼそい音が鼓膜に聴こえぶらんこを眺めると二人の少女が乗っています。ふたりとも思春期か、ずっと成長している体格で、学校の制服を着ていました。この二人ともきっと幽霊なんだろう、と醒めた気持ちで駿男さんはぶらんこに近づきました。幼児用遊具に彼女たちの腰は大きすぎ、足は長すぎ、なんとも漕ぎにくそうです。二人の少女の中で、まだローティーンと見えるひとりは首を前に突き出すようにうつむき、年嵩のもうひとりは駿男さんから顔を背けて横を向いています。
(よくあるパターンでさ、これ、声かけて顔を見ると、気絶するみたいな爆発ホラー顔なんだぜ)
 とそろそろ恐怖メモリが痩せ我慢の範囲に昇ってきた駿男さんは、この際スプラッタでも血糊でも(同じだってば)どんと来い、とばかりに、ぶらんこの正面にまわって少女たちに話しかけました。
「ぼくに何の用? なんで迷わすの」
「おじさん、こないだあたしといっしょに来てくれたでしょ、だから呼んだの」
 うつむいていたショートカットのほうが顔をあげ、駿男さんに答えました。
「君か」
 つつましく顔の真中に集まった目鼻だちに見覚えがありました。
「自殺しちゃおうかな、死にたいって思っていたら、いつのまにか岬から海に飛んじゃったの。でもおじさん、あたしあの晩ぜんぜん死ぬつもりじゃなかったんだ。星月夜岬に行ったのは彼氏に逢うためだった。あたし少し早く着いたんで、展望台をぶらぶらしてた。月がきれいだった。海が明るくて、見ているうちに何もかもいやになってきちゃったので、ああ、死にたいなってつぶやいたら、あの部屋にいた」
「あの女の子の寝室?」
「うん」
「なんで死にたかったの」
「クラスの中で起きる悪いこと、みんなあたしのせいにされるから」
「どういうこと?」
「誰かが気分悪かったり、腹がたったり、アクシデントが起きて失敗したりすると、あたしに寄ってきて、あたしのことぶったり蹴ったりするんだよ。先生にわかんないように。でも先生もわかってるんだ。わかってても
何もしてくれなかった。無視してた。あたしが試験でいい点とったりすると、友達が来て、返してもらったあたしの答案を破いたりね。すごいよ。みんな見て見ないふりする。おまえなんか死ね、とか平気でささやく。なんで死ななきゃいけないのって言い返すと、いいとこなんか何もないんだから生きていたってしょうがないだろう、バカとか言われる」
 少女の口調は淡々としていました。うらんでいる気配はなく、歎いているでもなく、苦しそうでもありませんでした。
「いいとこなにもないって、それこそバカじゃないか。君化粧とかちゃんと凝れば、かなり美人になるかもだぜ。て言ってももう遅いか。その……死んで…だろ」
「あたし、自殺したから成仏できないみたいなんだ。でも生きているときより気持ちいいよ」
「なんで」
「すごく可愛い子といっしょになれて、みんながちやほやしてくれる」
 ぶらんこを漕ぎながら、少女は駿男さんを見上げて、にっ、と笑いました。
「欲しいものは全部手に入るの。悪いことしても皆あんまり怒らない」
「君、それは」
 キイ、キイ、とぶらんこの振幅が激しくなり、駿男さんの眼は暗い視界を行き来する少女の表情を追うのに疲れてきました。
「ねえ、おじさん。誰も叱らない、とがめないって思うと、なんでもやっちゃえる。何してもいいんだって思うと、誰かを殺したっていいんだよね。だからあたし殺されたんだよね、クラスメートにさあ」
「違うよ」
「じゃなんで、死ね、なんて言うの?」
 駿男さんは返答に詰まりました。
「誰もそんなに悲しんでない。あたしのこと」
「どうしてわかる」
 と叫んだ駿男さん自身、自分の言葉のそらぞらしさにぞっとしました。俺はこの子の水死体を何て言ったか。メグさえ無事ならそれでいい、と高言したじゃないか。
「おじさん正直だから、あたし呼んだの」
「何のために」
 その返事を無視して、ぽーん、と蹴り上げたぶらんこから少女は夜空に飛んでいってしまいました。しばらくして、厚いガラスが叩きつけられるような〈水音〉が響きました。
「あの子はたった今星月夜岬から海に落ちたの」
 そこに残った年長の少女が横向きのままつぶやきました。
「夜明けには香枕天神海岸に、あの子の溺死体が漂着するわ」
「君は…君も幽霊なのか」
「そう」
「自殺したの? なぜ?」
 少女は顔を横に向けたまま、こちらを見ようとはしません。駿男さんは少女の顔を見たいと思いながら、でも直視も怖くて、彼女の肩に手をかけてふりむかせる強引ができませんでした。少女はキイ、とかぼそい音をたてて、長い両足をもてあますようにかかとで地面を擦ってぶらんこを漕ぎながら、つぶやきました。ふうっと、吐息といっしょに
「あたしまだ死に切れてないから…」
 けたたましいクラクションに促され、反射的にアクセルを踏むと、ワイパーが追いつかないほどの土砂降りの真っ只中、信号は青、後ろからの追い上げクラクションは一つではなく、数台の車両が、めいっぱい駿男さんのもたもたに抗議しています。
「やば…」
 と唇をなめてアクセルを踏んだまま、ハンドルを握りなおし、とっさの左右確認ではっきりしたのは周辺に公園などどこにも見えないことでした。冷や汗を拭う暇もあらばこそ、駿男さんは視界を覆う土砂降りの中を、どうにか自宅までたどり着きました。
 地下駐車場に車を入れて腕時計を見れば、今がきっちり十一時。
「てことは信号待ち時間は数分しかなかったんだ」
 幼児公園にひきずりこまれてのぐるぐる回りの時間は、こちらのうつつでは存在しなかった刹那の錯覚だったのでした。
「いや、幻視だ。まちがいない」
 がらんとした地下駐車場には、雨あがりを告げる西からの突風がおおらかに吹きぬけ、そのどこかに、少女が岬から飛んで海面に叩きつけられたときの、硬質で澄んだ水音、まるでガラスの破裂音さながらの衝撃が混じって聴こえそうな記憶の鮮やかさでした。
 首筋、背中、両脇にはべったりと汗。それでいて手足は冷えきって、少し吐き気さえ。
「牛丼、喰えるかな」
(喰えるさ。おまえがメグを守ってるんだぞ。幽霊が怖くてバーゲンができるか)
(そのココロは)
「満員御礼=怨霊。うちの店の売り上げはこの不況にもかかわらず今んとこ上乗」
 胃液をこらえて、かわりにひねり出したカラ元気の勢いで、駿男パパはエレベーターのボタンを押しました。
 
 寝たふりをしていたメグは、パパが帰ってきたのに気づいていました。枕元の時計を見たら十一時もだいぶ過ぎていて、こんな時刻まで起きて待っていたら、かえって心配をかけてしまうことがわかっていたので、部屋から出ませんでした。
 玄関ドアがひらき、フロアを歩く足音、リビングにどさっと荷物を放り出し、キッチンへ、時には洗面所に寄ることもあり、駿男さんのすることは、毎日毎晩だいたい決まっているのでした。
(こんな遅い時間に帰ってきて、朝散歩するなんてキツイんじゃないかな、大丈夫かな)
 とメグは朝の日課を危ぶみ、窓を打つ大粒の雨に、でも明日はお休み、とほっとしました。五時起きするんだから早寝しなさいと言われているので、父親が遅く帰ってきたときに、まだ寝付けないで目が覚めていてもメグは自分の部屋から出てゆきません。
 その晩もメグはエアコンをつけていても寝苦しい蒸し暑さに、パソコンを覗いたり音楽を聴いたり、音を消してピアノを奏いたりしていたのでした。
 だいたい寝付きはいいのに、昨日横浜で会ったシャワーのお母さんが気になって、
(とてもすてきな人だった。パパは千草さんのこと好きになる)
 はっきりわかってしまうのでした。
(もう好きなんだよね。結婚するかどうかはわかんないけれど)
、千草さんのあれこれが気になるあまり、同じ日曜日の朝の幻視の一件をシーラに知らせる、というほうはすっかり後回しになってしまいました。シーラから接近してこないのも後回しの理由なのですが、あちらからメグにアクセスできない、ということを彼女はまだ知らないのでした。
(ママ、パパがママのこと忘れちゃったらかなしい?)
 スマホ画像の安美さんに問いかけてみたりします。答えはありません。
 あれ? キッチンの気配がやんでいます。いつもなら電子レンジのチーン、という音や皿小鉢のガチャガチャ音、テレビ、時にはCDなどが聴こえてくるのに、どこかからぱたっと物音が途絶え、パラパラと雨の音だけがエアコンの振動に混じります。
 メグはがばっとベッドから飛び降りました。
 ドアを開けるより早く、叫び声が自分の喉から漏れました。
「パパ、だめ、戻ってきて!」
 リビングの床に、駿男さんはうつぶせに倒れていました。クールビズのスーツを半分脱ぎかけて、そのまま意識を失ったものか、傍のソファにジャケットだけ放り出してあります。
「パパ、どうしたの」
 駿男さんは顔じゅう、首すじまで、雨粒をそのまま室内に持ち込んだかと見まがうばかりの汗まみれ。メグは、シーラがよくしていたように、父親の額にてのひらを置き、昏睡している彼の内部を〈こじあけ〉ました。
 瞬きが、二つ、三つ。自分の眼の奥で青白い火花が散ったのがわかりました。
(シーラさんっ)
 メグは叫びました。
(応えて! パパが死んじゃう)
(落ち着いて。メグ、駿男さんのオデコにもういっぺん手を置くんだ。あなたを通ってあたしは彼のなかに入る。ちゃんと見たい。相手が何なのか、どこにいるのか)
(どこにいるのかって?)
(今現在彼に浮遊霊が憑依してるんじゃない。だったらもっとダイナミックなアクションがある。説明はあと、言うとおりに、メグ)
 有無を言わさぬ指示でした。メグは心臓が喉から飛び出しそうな不安をおさえて駿男さんの額にそっとてのひらを置きました。
 シーラは肌を合わせている豹河を、かるくおしのけました。
「ン…」
 汗ばんだ二つの人体が離れるかすかな気配
は、当人たちにもはっきりした雫のしたたりさながらの物音となって聴こえました。ヒョウガは眉間に一瞬険しい感情を走らせましたが、シーラはぜんぶ無視しました。
「メグが呼んでる」
 シーラはヒョウガの眼を覗いてささやくと、返事を待たずに瞼を閉ざし、離れきらない体のどこかがまだ重なった姿のまま、こちらがわの意識を失ってしまいました。
 駿男さんは自分の前に敷かれた一本道を必死で歩いていました。道幅は両手をひろげたくらいで、白っぽく平坦でしたが、絶えず曲がりくねり、両側左右は暗闇、街灯ひとつありません。道自体がぼうっと明るんでいて、一筋道だから迷うこともないのですが、視界は手前までしか届かず、少し離れたそちらのほうは、どんよりした闇に吸い込まれて全く見えないのでした。
(今行くぞ、助けるぞ、待ってろよ)
 呪文のように、くりかえしつぶやき続ける自分の言葉の意味さえわからなくなりそうな孤独感が、ずっしりと駿男さんの体にのしかかっているのでした。誰もいない、見えない、自分はどこにゆくのか、何のために歩いているのか、誰を、どう助けるのか、待っている相手は誰なんだっけ、メグかな、メグかも、でも俺のだいじな娘は藤塚のかわいい子供部屋で、いい夢を見ているはずなんだこんな反吐の出そうな得体のしれない九十九折の迷路に放り出されて迷っているはずなんかないんだ俺を呼んでいる君は誰だ誰でもいいけど助けてやらなきゃなんないんだ俺はひどいことしたんだろ何もしないっていうのはひどいことなんだろ君が水死体になる前に俺が俺にどうにかできる状態なのかねおい返事しろどこまで歩かせるんだもしかしてここどうどうめぐりで君なんかどこにもいないんじゃないのふざけるなオヤジをばかにするな心からすまないと思ってるからその弱味につけこんでこんなわけのわからない場所にひっぱりこんだんだろ……
「一緒に行きます、駿男さん」
 肩をうしろからつかまれて駿男さんはようやく足を停めました。
「あ…シーラさん、よかった」
 シーラはさっきまで寝ていたシーツを巻きつけたような白い衣をまとっていました。
「俺を誰かが呼んでるの」
「この道?」
「たぶんね。だけど行けども行けども手ごたえなしだ」
 シーラは脂汗をにじませている駿男さんの首筋を自分の長衣の袖でぬぐい、
「見落としてます」
「何を」
「道の脇」
 え、と駿男さんはきょろきょろしました。
 ほら、とシーラは折れ曲がった道のところどころに、うっすらと浮かんでいる泡のような弱い発光を示しました。道の白っぽさよりそれが暗いので、切羽つまって猛進する駿男さんの視野に入らなかったのでした。二人は一番手前の光に歩みよりました。
 闇の中から、ほっそりとした白い手が菓子箱のような四角いケースを、こちらにさしだしています。二本の手は肘までしか見えず、その手の持ち主が女性なのか男性なのかさえわかりません。すべすべして骨細な華奢だから、きっと若い女性だろうと駿男さんは思いました。顔や体を見せないのは、それもきっと理由があるんだろう。
 駿男さんがその手から小箱をうけとると、薄い、かんたんな紙の箱です。
「かるい…」
「ここではね」
 シーラは小首をかしげ、蓋を開くようにと駿男さんを促しました。
 大きめのホールケーキがまるごとひとつ入るくらいの長方形の箱のなかには、シュレッダーにかけた白い紙屑をクッションにして、蒼白な片足が入っていました。足首からすぱっと切断され、血はひとしずくもこぼれていず、人工のオブジェのようです。
駿男さんはすぐに蓋を閉め、シーラは行く先のところどころに、ぽつぽつと浮かぶ泡影を透かし見、
「まだ先に続いてる」
 駿男さんもシーラも全く感情が動きませんでした。駿男さんは黙って蓋を閉め、闇から差し出されたまま、だらんと指先を垂れている白い手に、小箱を返しました。すると泡の光は消え、どこからともなく濃い闇が空白を塗りつぶして滲んできました。
 次の泡も、同じように正体のない両手から白い小箱が差し出され、駿男さんは受けとり、蓋をひらくと今度はもう片方の足。それも無言で返し、また先へ行くと泡、小箱、その中には手首から切断された片手……次はもう片方の手、その次は膝蓋骨から叩きつぶされた足首までの脛、次はもう片方、それから…
それから、と曲がりくねる道のところどころで、延々と切断された人体小箱の道案内は続きました。
「長いね」
「ずいぶんしつこくばらばらに切ったものだわ」
「これ現実の反映なの。シーラさん」
「もしかしたら」
「誰かがバラバラ死体にされちゃったわけ?その霊がぼくを呼んでるの」
「それにしては単調だ。殺された死体の主があたしたちをひきずるんなら、もっとグロテスクなイメージでしょ。駿男さん、連想しない? こんな風に、餌をところどころに蒔いて、たどる道筋を誘導するストーリイ」
 すぐには返答できない駿男さんに、森の中じゃないけれど、とシーラは付けたし、そこでようやく駿男さんは
「ヘンゼルとグレーテル? まさか、メルヘンもじりなんて」
 シーラは裸の肩からずり落ちた白い布をたぐりよせて腰のところで結び直し、駿男さんはあっと息を呑みました。露わになったなめらかな少年の、いや、すこし厚くなってそれはもう青年の胸。シーラちゃん、君は……。
「皮肉じゃない。血は一滴も流れてない。切断された肉体はもとの重量を失い、模型か…おもちゃみたいにイメージの中に組み込まれてる。罪悪感の翳りもない」
無邪気で、無垢だ、とだけシーラは答えました。
「……まだ、顔がないね」
 駿男さんは唾をごくんと飲みこみ、頭の中に錯綜する思考の中から、一番この場にふさわしい台詞を口にしました。ですが生唾といっしょに飲み下し、言葉にはしなかった台詞もありました。そっちのほうが先に飛び出しかけたのですが、どうにか絞った理性と判断力で別なほうへ気持ちを向けたのでした。頭の中では、口にできなかった台詞が、がんがん谺しています。
(君、少年なの。それとも夢だからなの。ほんとうはどっちなんだよ。天使か、アンドロギュヌスか。こんチクショウ、ここはなんでもアリだよ、わけわからないぞ)
「とりあえず前進しましょう」
 シーラは素っ気ない口調で促し、先に歩き出しました。白い布が彼の体をふうわりと包み、包みきれずに余った長衣は、風もないのにシーラのうしろで白馬のたてがみか、白い羽のように大きくひるがえりました。
「顔…」
 駿男さんは、ぶらんこに残っていた少女が自分に顔を見せなかったことを思い出しました。もういっぺん喉が鳴って、舌の奥が痙攣しましたが、口の中はカラカラに乾いていました。
 小箱の道案内はどこかから途絶え、前方に夜明けのような淡黄の光線が差し昇ってくるのが透かし見えました。
「お菓子の家かね」
「どうでしょう」
 シーラは駿男さんを見下ろす感じで微笑しました。二人の背丈の相違なら当然ですが、低い位置からシーラの微笑を顔に受けた駿男さんは、
(上から目線なんだが、俺はそれでちっとも嫌じゃないんだ。不思議な子だよ。この美しい笑顔は少年なのか少女なのか。君はどこから来て、どこに俺を連れて行くんだ)
 ほら、とシーラは片手をあげて金色の光がどんどんひろがってゆく道の果を示しました。
 空間中央にぽつん、とたった一本きりの外灯。周囲には小さい砂場、ブランコ、パンダと象を模した幼児用シーソー、丈の低いジャングルジム。
「あの公園だ。戻ってきたのか」
 ひとつきりの外灯なのに、その輝きは大きく、今まで暗黒同然の道を進んできたせいもあって、光に慣れない目では柱の先端の光源を見つめることができないくらいでした。
 カラフルな赤と黄色に塗られたジャングルジムの真ん中に、マヤが立っていました。片手にリカちゃん人形を握っています。
「や…」
 駿男さんは何と声をかけたらいいかわかりませんでした。マヤはシーラと駿男さんを見て、にっこりと笑いました。ふっくらした薔薇いろの頬に薄茶色の巻き毛が揺れ、裾にも袖にもフリルのたくさんついたピンクの光沢のある生地の長いドレスを着て、頭の上には金色のティアラまで載せています。
「マヤ、君がぼくを呼んだの?」
 シーラが無言なので、駿男さんが言葉をかけました。
 マヤは応えずに、愛くるしい笑顔のまま、ジャングルジムのてっぺんから紐でぶらさがった小さい人形を、片手の人差し指で、ちょん、とつつきました。
 それは、首だけでした。
 リカちゃん独特のふさふさした金髪はあらかたむしられ、顔はぐるぐる巻きの紐であらっぽく縛られ、吊るされていたのです。
 マヤが、もう片方の手に握っているのは、首のない胴体だけの人形でした。
 ジャングルジムの中のマヤは、二重三重の色鮮やかな鉄の棒に囲まれ、守られているようでもあり、逆に閉じ込められているとも見えるのでした。
「マヤちゃん、なんでお人形をこんなにするんだ」
 駿男さんは、自分が潜るにはちょっと狭すぎるジャングルジムの格子の外から腕を差し入れ、てっぺんからぶらさがった人形の頭を取り出そうとしました。すると、駿男さんの手が人形に届く前に、マヤは荒っぽくその手を叩き、両目を険しく吊り上げ、動物のような唸り声をあげました。
「だめです、駿男さん」
 シーラは駿男さんの肩に手をかけて制し、マヤの眼をじっと凝視しました。マヤは唸り声をおさめると、シーラに向かって、よそゆきの可愛らしい笑顔を浮かべましたが、彼女の媚態にシーラが何も反応しないのがわかると、とたんに眉をしかめ、ぶらさがった人形の頭を片手で乱暴につかみ、幼い力のありったけをこめて、ぎゅっと握りつぶしました。そんなことがあろうはずもないのに、ぶしゅっ、と表皮のうすい果実が潰れる破裂音がしてマヤの手の中で人形の頭は弾け、彼女の握りこぶしほどもないリカちゃんの頭の中に、またどうしてそんな大量の体液があったものか、べとべとした血糊が駿男さんの顔に飛び散り、シーラの白衣をしたたかに汚しました。
 
 喉、渇いたなあ…という駿男さんの喘ぎに応えて、メグはすぐに冷蔵庫からスポーツドリンクを取ってきました。うつぶせのまま床に倒れていた駿男さんは、ゆっくりと手足を伸ばし仰向けになりました。
「眩しいな。ポイントライトにして」
 メグはまた言うとおりにしました。
「シーラさん来てくれた」
「うん、見てた」
「見てた? メグはいなかったぞ」
「シーラさんの眼を借りて。シーラさんはあたしを通ってパパのところへ行ったから、あたしはシーラさんの見たものを全部見ることができたの」
「ぜんぜんわかんないよ。頭痛いな…今何時何分」
「十二時過ぎ。気絶してた時間は十五分くらい」
「たったそれだけか。うそみたい。俺すごい長い曲がり道歩かされたんだぜ」
「うん。でもそっちの時間とこっちとはぜんぜん時間軸が違うんだ、パパ」
「時間軸ね、ムツカシイなあ。マヤがいたよ。自殺した女の子じゃなく、プリンセススタイルのマヤがいた」
「うん。マヤはパパを欲しがってる」
「へえ」
 と駿男さんは、エイヤっと気合を入れて起き上がり、ペットボトルのスポーツドリンクをいっき飲みしました。頭がガンガンします。
「俺も捨てたもんじゃないねえ。六歳児に惚れられるなんて」
「パパ、マヤが欲しい、って思うってことは相手を殺したいってことなんだよ」
 メグは断言してしまいました。駿男さんはシャツの襟元を緩めてはだけ、床にあぐらをかいて座りなおすと、
「パパしぶといから殺されないよ。君を残して死ねるか、メグ。けど、いっぺん逗子の自宅を訪ねてみよう。汗まみれだな、風呂入ろ」
「え~ 大丈夫?」
「風呂出たら牛丼喰うぞ。メグはもう寝ろ」
「パパが安全に眠るまで起きてる」
「よせよ。何か起こるとしたら、こうやって起きてる時間よか、眠ってる間のほうが危険なんだろ。君、夢の中までついてくるの?」
「そうしてもいい。そうだ、パパ、今夜からメグずっとそうする!」
 メグはぱっと顔を輝かせました。そうそう、そうしよう。あたしできるもん。パパの中に入って、マヤが侵入してこないように守るんだ、とけなげな決心もあらわな娘の顔をつくづくと眺め、駿男さんは言いました。
「君の愛はうれしいけど、おことわりだよ。自分の心くらい自分で守る。娘に庇ってもらわなきゃなんないほど、ぼく弱くないぜ?」
「えー」
 メグはたちまち萎れてしまいました。
「さあ、自分の部屋へ戻れよ。ぼく明日ちゃんと起きて仕事に行く。心配しないで。べそかくな。さあ…」
 メグが自室に入るのを見届けて、駿男さんは家具の何かにつかまって、ゆっくり立ちあがりました。
(あの子が超能力者だって? だとしても守ってやるのは俺の役目だ。シーラは、どっかに帰ったのか。サイコ・ヒーラーだかなんだかわからんが、まあ)
 と駿男さんはよろよろとバスルームに向かって歩きながら考えました。ちょっとヘルニア気味の腰をさすりつつ、
(マヤよりなにより、いちばんたまげたのは、彼女におっぱいなかったことだぜ。現実はどうなんだ。実際あの子どっちにも見えるよな。それとも俺の願望か? 俺もしかして隠れホモ? まさか、でも、いや……)
 自分の部屋に戻ったメグは、またシーラに呼びかけました。
(パパは大丈夫だって)
(うん、彼強いね)
(逗子に行くって言ってる。たぶん今週のお休みの日。えっと、木曜日かな)
(あなたも行くの?)
(学校があるから昼間はだめ)
(それじゃ、あたしが行く、いっしょに)
(シーラさん、学校は?)
(もう夏休みだよ。九月までフリー。あとでパパにメール送る。あなたから言わないほうがいいね)
(なんで?)
(……パパは、あなたをとってもだいじに思ってるからなのよ)
(え)
(わかんなくてもしかたない。ぼくから彼にメールする)
 それでシーラの声は切れました。わかんない、シーラさあん…とメグはなお小声で追いかけましたが、返事はありませんでした。
 雨はすっかり止んでいます。
 メグはカーテンを開けて夜空を眺めました。まだ星はひとつぶも見えませんが、街あかりに、どんよりした上空を、低い暗い雲がゆっくりと流れて行くのがわかりました。ぼんやりと白っぽい月影が、雨雲の流れて薄くなった闇に浮かんでいます。
「おつかれさん」
 シーラが閉じていた瞼を開けると、ヒョウガはそのままの姿で窓辺に立っていました。手に柄の長いグラス。都心ではもう明るい月光にきらりと光って、赤いさくらんぼが揺れました。
「何飲んでるの?」
「マンハッタン」
「ぼくにも」
 ヒョウガは飲みかけの自分のグラスを渡しました。何も尋ねません。シーラが手渡されたグラスに唇をつける前に、ヒョウガはぎらっと両目を見開き、シーラの手首ごとグラスを自分のほうにひきもどすと、あっというまに、一滴残らず口に含んでしまいました。
 それから、彼はシーラをおさえつけました。
「マンハッタンは?」
 くちづけの後、シーラはさくらんぼの種を床に吐き出し、ヒョウガは低くわらいました。
「体液交換するんだから同じだ。酒に酔うより俺に酔え」

 仁科円魚記念館は逗子市と葉山町のほぼ境目にありました。自家用車でなければJR逗子駅からのアクセスはちょっと不便でバスを乗り継がなければなりません。木曜日の午後一時半、駿男さんはJR逗子駅前でシーラと待ち合わせました。車を出したのは駿男さんでした。
 早い梅雨明けで、七月半ばというのに酷暑の陽射しが照りつけ、昼前の気温はもう三十度を超えていました。
編みっぱなしの鍔の縁から、ざくざくとふぞろいに繊維が飛び出ているベージュのストローハットに大きめのサングラス、ショートパンツから、長すぎるほど伸びた脚で、大股に改札を出てきたシーラが、ロータリーに停車した駿男さんのポルタを見つけて片手をあげたとき、駿男さんの眼は思わず彼女の胸に吸い付きました。白地にブルーラインのボーダータンクトップはボディラインにぴったりでしたが、胸元がひろくないので、シーラのふくらみが本物かどうかわかりません。
「お待たせしました」
 シーラが長身をかがめてポルタ助手席に乗り込んでくると、メグとは全然違う匂いが駿男さんの嗅覚にあふれ、彼は一瞬くらっとしました。
(香水かな、そういえば安美さんもいろいろ持ってたっけ)
 と駿男さんは、酔いを醒ますようにかるく頭を左右に振りました。濃い香りではないのですが、鼻腔から、暑さでぼうっとなった後頭部までつきぬける爽やかな刺激でした。
(どうも男の匂いじゃないね。まあ、どっちだっていいんだが)
 助手席に座ったシーラの腿も膝も小麦色になめらかで、足首、いいえ爪先まですらりと伸びた曲線は、駿男さんの日常生活圏外の眺めです。それを、目のやり場に困る、と赤面するほどうぶではない五十三歳でした。
「これ、火曜日の夕刊と水曜の朝刊の切り抜き。シーラちゃんとこじゃ載らないでしょ」
「横須賀線人身事故。高校生の飛び込み自殺ですか」
「彼女なんだ。その…溺死した中学生とは別にぼくの幻視に出てきた子だと思う」
「マヤが頭をつぶした子かな」
 シーラが躊躇なく言ってのけたので、駿男さんはぎょっとしました。
「君そう思うの?」
「時刻はぴったりですね。月曜日から火曜日の深夜。終電だから」
(あれ、俺彼女に、そっちの幻覚のこと、話したっけ?)
「そう、死にきってないから顔を見せられないとか言っていた」
「即死なら実際はともかく、感じバラバラでしょ」
 頭も、とまではシーラは言いませんでしたが、駿男さんには、クーラーの風がひんやりときつい瞬間でした。
「この子の自殺もマヤが誘ったのか?」
「わかりません。マヤの中身はきれいでした」
「え?」
「ご一緒したとき、ジャングルジムの中にいたマヤの心を覗いてみたんです」
「それで?」
 シーラは黙りました。道は海沿いに出て、昔からの漁村風景と、シーサイドリゾート風景の混在する、晴れやかな海辺がひろがっています。真上からの直射に、短く濃い物影はいたるところで視界にぎざぎざと鋭角をつくり、道端に咲き群れるカンナの朱色と同じくらい強い刺激でした。
「どう言ったらいいかしら。あの子の心には、ただ鏡のように、あたしと風間さんが映っていました」
「鏡?」
「そう、曇りのない鏡」
「メグはこう言ったんだ。マヤはぼくを欲しがってる。マヤが欲しいと思うことは、殺したいって意味なんだって」
「それも嘘じゃないですが、自殺は結果なので、彼女がたくらんだわけではないと思いますね」
「どういうこと?」
「死に心が傾いている魂が、むしろマヤにひきよせられていくんじゃないかしら。風間さん素敵なサングラス」
「ああ、日曜日に買ったんだ。昔からの知り合いの職人の一点製作でね」
「とてもお似合いです」
「あなたに言われるとうれしいね」
「ほんとです」
 シーラはずっとかけっぱなしだった自分のサングラスを外して微笑しました。きちんと化粧した目の周りが、パールカラーに光っていました。男には見えんなあ、と駿男さんはつられて笑顔になり、何となく逸れた会話そのまま、もう車は円魚記念館の駐車場に乗り入れていました。 
常緑樹の生垣に囲まれた駐車場はこじんまりと自家用車が数台停車できるほどの広さでした。藪椿の植え込みが記念館の庭と駐車場を隔てていて、案内板の矢印に従い、古めかしい竹の枝折戸を入ると、たっぷりと屋根の大きい記念館の入り口が玉砂利の向こうに見えます。それほど大きな庭ではなく、ひとつ、ふたつ、苔の目立つ灯篭が立ち、池は枯れ、その周囲にはイチイや松、梅の古木など、旧居の面影をとどめて枝ぶりよく繁っていました。木の下闇のいたるところに、野性の百合がすいすいと丈高く咲き出て、吹きぬける海風に揺らいでいます。
 改造された一階が展示室で、二階は家族の住まいと見えます。建物の南側がほぼ前面ガラス張りで、エントランスからすぐにギャラリー空間です。庭に向いた入り口近くをギャラリーとは障子で仕切った二畳ほどの小部屋が受付、その隣りのガラス面沿いに、休憩と応接を兼ねた、やはり畳敷のフロア、書画は陽の光の届かない奥を、いくつかに区切って展示されていました。それほど広いギャラリーではありませんが、天井が昔風に高く、ひろい軒の影と、たぶん往時の縁側を休憩室に残したおかげで、館内の奥行きはしいんと深く、心地よく感じられました。古めかしい柱や壁など、つぶさに見ると、今ではめずらしい桜の木を多用してあり、壁もリフォーム部分を含めて、砂壁のままでした。その時刻、どういうわけか受付けに人はいず、御用の方はお呼びください、と簡単にメモ書き付箋の貼られた呼び出しボタンがあります。
「無用心だね」
 駿男さんがボタンを押すと、二階で呼び鈴の鳴る遠い音が聴こえました。
 どこに隠し階段があるのか、しばらくしてトントン、と静かな足音がして、白いTシャツに下だけ藍染めの作務衣という、くつろいだ姿の仁科幻が現れました。
「今日は休館日なんですけれど」
「開いてたものですから」
 と駿男さんは答え、ストローハットを脱いだシーラは、ゲンの日焼けとは無縁な蒼みがかって見える顔を、半ば目を伏せ、長い睫毛ごしに数秒しっかりと見つめました。
「失礼しました。横浜で、佐久間千草さんに御紹介いただいた風間です。こちらインテリアデザイナーもなさると伺ったので。でもあらかじめ御連絡さしあげるべきでした」
「佐久間さん、ああ」
 とゲンは冷ややかな面長を、がらりと人なつこい笑顔に変え、
「それでしたら、どうぞ。休館日でも遠方からわざわざ訪れる方がたまにいらっしゃるので、こうして開けているんです。受付けさんは休んでいただいてますが、木曜日は盗難の心配がない常設展示だけなので」
 そつのないおだやかな口調です。育ちよく角のない人柄が察せられ、横浜の展示で見た荒っぽいコンテンポラリー作品群のイメージとは、ずいぶん違う印象でした。
 受付の隣りの畳敷きの部屋に案内され、仁科幻は折り屈みのよい態度で、冷えた緑茶とおしぼり、朱塗りの小皿に京都の干菓子を載せて持ってきました。二つある応接室の長卓は四隅に手のこんだ浮き彫りのある紫檀でした。
「母の実家をリフォームして、佐久間さんのお宅と同じようなデイサービスに使おうかと考えているんです。こちらは、ぼくのサポートをしてくれる地元ボランティアのひと」
 と、すらすら嘘八百を並べる駿男さんにシーラは感心し、その一方で深閑とひと気のない住居の雰囲気に耳を澄ませ、
(女ッ気がない。娘がいるのに、母親の気配がしない。マヤはどこにいる。学校か、保育園か、この時刻なら)
 シーラの疑念に応じるかのように、誰もいないはずの受付側の障子がからりと開いて、
ぬいぐるみを抱えたマヤが現れました。真っ赤なハイビスカス模様の膝上までのミニドレスに、両足首にはドレスと共布でつくった造花のアンクレット、手首には色んな貝殻をビーズつなぎにしたブレスレット。いつものように飾り立てられたマヤでした。
 う、とマヤは喉の奥で小さく唸って、長卓を挟んで駿男さんと相対している父親の膝にあがりこみました。接客中というのにゲンは娘を叱ろうとはせず、正座をくずし、あぐらのなかに娘を抱え込んでしまいました。
「見苦しいとは存じますが。この子は言葉が通じないのです」
「それは」
 駿男さんはマヤの整った顔立ちをながめて目を剥きました。きりりとした利発そうな目元口許に、くぐもった印象など少しも感じられません。
「脳の機能障害で、医者が言うには、言語機能がないんだそうです。事物や形象を感覚的に理解し、把握し、またぼく以上に敏感に察したりするんですが、言葉はいっさい通じません」
「発達障害?」
「いえ、障害ではなく、できないんです。専門的なことはぼくにもうまく説明できないのですが、脳の言語野が、生まれたときから欠落に近いくらい未熟で、もういっぽうの感覚野は十二分に成長しているんだとか」
 ゲンは娘の茶色い巻き毛を撫でながら、丁寧に言い訳しました。
(てことは、賢いワンニャンと同じってことか)
駿男さんは横のシーラを窺いましたが、シーラはわざとその視線に応じませんでした。
今ここで、ゲンの眼の前で、駿男さんとあからさまな目配せをするのは無礼に決まっていました。それは宗雅さんから、というよりも日常坐臥を優雅な節度で律せよとする鳳凰家と、さらには祖国でも屈指の名家に数えられるデュランテ・スクリヴァの両方から受けついだごく自然な、あえて言うなら、よきアリストクラートの態度でした。上から目線、などという姑息とは違うものでした。
でも無視された駿男さんは少しばかりがっかりしたかもしれません。シーラは、
「それではずっと自宅にいらっしゃるんですか、娘さんは」
 まじめな、優しい口調で尋ねました。ゲンはにこにこして、
「だいたいね。保育園に通わせたり、ベビーシッターを付けたりしたんだけど、この子本能的に相手を見分ける力が鋭くて、なかなかうまくいかないんですよ。保育園も幼稚園も集団生活で、言葉が出来ないと、どうにもならない部分あるし、危ないんで。だから、佐久間さんには、ずいぶんお世話になったんです。千草さんと早織ちゃん、この二人のことは、マヤは割と素直に受け入れるんだよね」
「佐久間さんの?」
「ええ、家内が亡くなったとき、この子まだ二歳ちょっとで、ぼくの母親が来てくれたりしたんですが、どうにもならないときは、千草さんに預かっていただいたんです。言葉が通じない、わからない子だってわかったのも千草さんの観察が最初かな。あのひとも早織ちゃんも失語症の方に接しているから、敏感なんだと思います。ショックでしたけれど、五歳くらいの年には、もうまるっきり話せない、言葉が欠落していることがわかり、スキャンやら何やら、手を尽くしたけれど、治療できないって」
 ゲンは感情をまじえずに、シーラの眼をときどき見ながら言いました。シーラを見ないときは、娘の頭を見たり、窓の外を眺めたり、ちらちら定まらない視線は、それにしても駿男さんのほうへ向くことはほとんどありません。
(佐久間親子を、マヤは欲しがらないってことか? 違うな、あの二人に自己破壊願望なんて全然ないから、マヤの無意識の〈狩〉の対象外なんだろう)
 と駿男さんは考え、首をひねりました。
(てことは俺に自殺願望アリなの? そんなろまんちっく毛ほどもないぜ。メグ残して死ねるかって、俺ただの頑張る父ちゃんだぞ)
 この内心のまっすぐな独白をうっかり聴いて、隣のシーラはこらえきれずぷっと吹き出しました。でも知らん顔してゲンに、
「マヤちゃん、お友達ほしいでしょうね」
「ですね。ぼく母親いないこの子が不憫で、つい猫っかわいがりしちゃうんですが、言葉は通じなくても、意思の疎通はできるんです」
 インテリアデザインの話から、会話がどんどん逸れてゆくのに、ゲンは無頓着でした。ひごろ溜まっていた愁いを吐き出すかのように、彼は抑揚の少ない口調で喋り続けます。視線はひとところに定まらず、気持ちが急いてくるとあちこちにいそがしく揺れ、沈んでくると伏し目に動かなくなるのでした。言葉づかいや物腰がすっきりしているのに、仁科幻は目の落ち着きなさで印象を損している、と駿男さんは(自分の無神経を棚上げにして)思ったりしました。
あう、とマヤは父親の手をひっぱり、退屈したと訴えました。唇をちょっととがらせて父親の二の腕に、小動物が飼い主に額をすりつけるように甘える彼女の仕草に、駿男さんは唖然とし、シーラは、
「おねむかしら」
「よくわかりますね。三時過ぎだから、いつもより遅いんだ。脳に欠陥があると睡眠時間が増えるんでしょうか。疲れるのかなって思うんだけど、この子よく寝るんですよね。おかげでぼく助かるんだけど」
 ちょっと寝かしつけてきます、とゲンはことわり、娘を抱き上げました。小柄とはいえマヤはもう六歳児ですから、乳児だっこではゲンの腕に余る見た目の印象でした。
「声やジェスチュアでコミュニケーションなさるんですか?」
 シーラもゲンに続いて立ち上がり、尋ねました。
「そう。複雑な言葉はわからないけれど、言葉を聞いたときの、その声や話している相手顔つきで、だいたいの内容を理解するんだ。だから同じことを言っても、心がこもっていないと、この子には全然通じないんだよ。自分の名前はわかるんだけど、それもやっぱり心をこの子に向けて呼ぶんじゃないと、聞き入れない」
 ゲンはシーラが自分のあとについてくるのを全く疑問に感じない様子でギャラリーの廻廊をぬけ、襖障子で隠された階段を上ろうとしてまた立ち止まり、
「この襖絵も、円魚の作品なんです」
濃淡巧みに描かれた幽霊の水墨画です。
「円山応挙の模写ですか?」
「まるっきりの模写ではないです。ぼくは円魚の最晩年に養子に入ったんですが、亡くなる前にはこんな幽霊画をときどき描いてました。応挙は幽霊画家の側面のほうが有名ですが、四条円山派の正統派ですから」
円魚を語るゲンの胸にもたれて、マヤはもう、うとうと眠り始めています。
「わたしたち、そろそろ失礼します」
「そうですか、話を聴いてくださってありがとう。なんだか一方的にこっちの悩みをお喋りしてしまいました」
「いいえ、楽しかったです。それに」
 とシーラは少し首を前かがみにしてゲンのふらふらしている視線を、ぎゅっと引き寄せる感じで眼を合わせ、自然な声で、
「またお会いしましょう」
「そうですね、また来てください」
 階段を一つ登りかけてゲンはシーラを見下ろし、何気ない口調で言い残しました。
「千手って、千手観音に関係あるのですか?
あなたの姓は」
 シーラは一瞬瞳を見開きましたが、笑顔を崩さずに、
「いいえ、あたしの父は能役者です」
「ああ、それで。どこかで聴いたことがあると思いました」
 ゲンの声にそれ以上の含みはありませんでした。
 熱気のこもるポルタに乗り込むと、駿男さんはクーラーをかけ、同時にレッド・ツェッペリンを流し始めました。暑いねえ、とぼやきながら、
「いつもながら驚きだよ、シーラちゃん」
「なにが?」
「インテリアデザインの話、ぼくは結構必死であらかじめ台本考えてたのに、なぜだか全く不要だったじゃないか」
「なりゆきで」
「なりゆきねえ、へええ」
 と駿男さんは承服しかねる顔で、ようやく涼しくなりかけたポルタを発進させました。
 海岸通りに出ると、往路では水蒸気に隠れて見えなかった富士山と大島が、西の彼方にあざやかに見えます。海に近い艇庫から、ヨットが何艘か海に出てゆこうとしているのは、夕暮れのクルージングを楽しむためでしょうか。
「絶景だ。海と富士山、伊豆大島プラス」
 駿男さんはつぶやき、
「ぼくの隣りには絶世の美女ときちゃ、もう、満点だ」
「……」
 シーラは駿男さんの、めずらしくもってまわった言い方に、黙ってしまいました。
「ずっと聴きたかったし、いや、聴きたくなかったのかな…でもこの際だから聴いちゃおう…君とかメグとか、超能力者なわけ?」
「サイコ・ヒーラー」
「それ、君の造語でしょ。世間普通の通り名だったら、何なのかな。いや、知りたいのはそういうことじゃない。いったい具体的に君やメグはどういう能力があるんだい。今回、メグはぼくを守るなんて言い出したんだよ。ぼくの中に入って、ぼくの心だか魂だかを、マヤの侵入から守るんだって! 断ったよ。だけど、あの子、ぼくの心にそんなに簡単に入れるの? ぼくの考えや夢とか、もしかして願望とか、全部メグに筒抜けなのかって考えたら…考えたら」
「気味悪い?」
 信号で停まると駿男さんは横のシーラをちゃんと見て、
「うまく言えない。メグはぼくの生き甲斐だし、君は素敵だ。気味悪いとしても離れられないだろう。そうだね、やってらんないぜ、って感じだよ」
「で、どうするんですか」
「君、ぼくの質問に答えてない。メグにも君にもぼくや、ぼく以外の人間の心が全部お見通しなのか?」
「そうしようと念じれば、できます」
「それって、君たちの人生で得なのか損なのか、どっちだ」
 駿男さんはだんだん自分の問いがからまわりしてくるのに、内心地団駄を踏みました。
(俺の聴きたいのはそんなことじゃない。俺は何をシーラに問い詰めたいんだ、俺の聴きたいことは)
「何もかも見抜いてしまうとしたら、色んなSF小説に書かれているみたいに、離人症になるかもね。エスパーって、たいがい孤独でしょ」
「君も? 君は?」
「適度に生きてる。これからもそのつもりです。人間て限界ある生き物でしょ、パパ。見たくないことは見ないし、必要なものを自分で選り分ける」
「限界?」
「人生という限りある時間の中で、こうあろうとする自分の姿を、見失わないってことかしら」
「すごいね」
 駿男さんは海の眩しさに、サングラスをかけた眼をぱちぱちさせ、
「君の年でそんなに達観できるなんて」
「あたしの台詞じゃない」
「誰かの引用?」
「はい」
 黙ってしまったシーラに、駿男さんはそれ以上……シーラにその言葉を教えた人物は誰、と尋ねることを控えました。
(宗雅さんかな。そういうひとなら言いそうな感じ)
 時刻は五時近く、けれども夏の午後は長く陽射しはとろけるばかりに暑く、瞬きのたびに、視界にはあざやかな朱色がよぎり、錯覚にしても、夏時間はどこまでも続くまひるのように感じられるのでした。
「ランボー好きですか、パパ」
「守備圏外、で? 娘よ」
(いいねとシーラは笑いました)
「あたし、だじゃれへただから、こういうシチュエーションの決め台詞は引用で」
「言ってよ、まなむすめ」
「見つかった
 何が
 海と溶け合う永遠が」
「……俺、素直なオスだからね。君が娘じゃなかったらキスしてる」
「ごめん、パパ」



 
 





 

 

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