さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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スウィート・ハニー・スプリット 4

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 スウィート・ハニー・スプリット 4

応挙の幽霊画の淡く浮かぶセピア色の襖障子を開けると、踏み板の黒光りする急傾斜の長い階段がありました。
「よく来たね」
 と階上からゲンは声だけでシーラを迎え、
「横に下駄箱がありますけど、スリッパは用意していません。靴を脱いだらそのまま上がってください」
 ぼうっとオレンジ色のランプが頭上に灯りました。階段沿いの壁には、額装された円魚の小品が、びっしりかかっています。ぼんぼりか提灯程度の明かりの下を、一段ずつ階段を登りながら、シーラは壁の絵が面相筆で巧みに描かれた「九相図」であるのを見て取りました。屋外にうち捨てられた死体が、徐々に朽ち腐り、犬猫烏の餌食となり、ついには白骨となるまでの九段階を描いたものです。仏道修行の妨げとなる煩悩を払い、現世の肉体を不浄また無常と悟るための方便として制作されたとか。腐乱してゆく死体は、僧侶の煩悩を鎮めるために、たいていは美女であったといいます。
シーラは日本で本物の「九相図」をまだ見たことがありませんが、イタリアにいたころ、フィレンツェの自然史博物館の一部「La Specola」で、横たわった美少女が胸元から下腹部までざっくり裂かれ、臓器のあれこれがグロテスクに外部にあふれ出ているワックスモデルを見たことがあります。
サド侯爵のお気に入りだったとも伝えられるモデルは、ボッチチェルリの絵画に描かれた女性たちのように繊細な美貌で、ヘレニスムの伝統に叶った官能的なひねりのポーズをとり、またはみ出た臓物は丹念に彩色されていました。内部の無惨を衆目にさらしながら、少女の顔には苦痛の歪みはなく、唇には観るものを惑わす妖しく冷たい微笑を浮かべているようにも見えるのでした。このモデルは内外で人気が高く、日本に来てからも、シーラはあちこちで等身大ポスターを見かけました。
仁科円魚の描いた「九相図」は、その彫像の印象とよく似ている、とシーラは感じました。ポーズは手足を投げ出したただの仰臥ですが、腐敗し、獣にむさぼり喰われながら、屍の顔立ちは最後まで美しさをとどめ、白骨になってからも、どことなく微笑んでいるような描かれかたをしているのでした。
「きれいでしょう」
 天井からまた声が降ってきました。
「モデルは、円魚の妻、ぼくのおばあさんって噂があります」
 階段を上がりきると、ランプの明かりは廊下の先へは届かず、納戸に迷い込んだような紺青の暗がりです。シーラは尋ねました。
「仁科さん、どちら?」
「こっちです、灯りが届かない? すいません、マヤが眠ってるものだから」
 思ったより近くでゲンの返事が聞こえ、シーラはたちどまりました。暗がりに慣れた眼はほどなく、数歩さきの空間に、マヤを胸元に抱いたままあぐらをかいているゲンを認めました。うすぼんやりとした視界は徐々に明るさを増してきて、しばらくすると、その部屋の有様がはっきり見えるようになりました。
 ごたごたした小部屋でした。間取りはかなりひろいのでしょうが、整理整頓とは無縁で、
窓のありかが分からない四方の壁ぜんぶにいろんな資料や描きかけのデッサンが気ままに貼られ、床には画布、クロッキー帳、一隅にデザイン机、あちこちに和洋さまざまの画材、絵筆…そのすきまに数えきれないほどの人形やぬいぐるみ。
 人形ぬいぐるみ。
 シーラは小首をかしげました。
「ここはあなたのアトリエ?」
「ええ」
「いつもマヤといっしょなのね」
「そう。この子がいないと絵が描けない」
「そんなことないでしょう」
「いや、シーラ。君はもうわかってるだろう? ぼくのインスピレーションの源はこの子だってことが」
「あたしの名前、どうしてわかったの。駿男さんはあたしのこときちんと紹介し忘れていたのに」
「マヤを抱っこしてるとね、いろんなものが見えたり聴こえたりする。まるでこの子は望遠鏡か補聴器みたいだよ。補聴器って言い方はおかしいね。特殊なイヤホンとでも言おうか。鈍い普通人の耳には絶対聴こえないはずの、奇妙で不思議な音が聴こえてくる。君のフルネームも、ギャラリーの応接室でマヤがぼくの膝にあがりこんできたとたん、はっきりとわかった。聴覚かな? 視覚かな? どっちとも言えないが、この青年は千手紫で、半分は美少女のシーラだと」
「マヤが感じ取っている〈言葉にならない〉知覚は、父親であるあなたには言語化して伝わるというわけ?」
「言葉だけじゃない、眠っているマヤを抱いていると、それがいついかなるときでも、白昼夢さながら、さまざまなヴィジョンが湧いてくる。ぼくはこの子に触りながら、いそいでそのイメージをクロッキー、あるいはデッサンする。時には描き始めから完成までずっと抱え込んでいたりする。そうやってしあげたのが『MANA幻』だ」
シーラは間を置き、滔々と喋り続ける青年の語気を測りました。ゲンの声には震えも乱れもありません。
「あなたはこれまでマヤが本能的にやっている〈狩〉を知っていたんだ」
「〈狩〉だって? マヤは自分から何かしかけるわけじゃない。思い詰めた少年少女たちは、彼らからマヤのほうにふらふらと寄ってくる。マヤは自分の手の届くところにある欲しいものをがまんしないから、無造作につかまえる。風間さん、あなた方親子に初めて出合った海岸のコンビニで、マヤがつり銭をつかんだようにね」
 シーラが振り返ると、後ろにパジャマ姿の駿男さんがぼんやりした顔で立っていました。
「暑くて眠れない、とじたばたしてたら、どういうわけだかここにいる。シーラちゃん、俺たちはまた幻覚の中なのか」
「はい」
「マヤが俺を呼んだの?」
「あなたがマヤを呼ぶんだよ、風間さん」
 シーラが答えるより早く、ゲンが言いました。抱えている娘を、まるで赤ん坊をあやすようにゆっくりと揺すり始めます。
「係わらなけりゃいいのに、横浜でわざわざぼくに近寄ってきた。マヤの手を握っていたぼくは、あなたの下心がはっきり見えた。マヤに触りたい、抱き上げたい…否定しないでくださいよ。この子かわいいでしょ。大人になったらどんな美人になるんだろうってぼくも想像する。シーラ、君とはタイプが違うけど、心の中に邪悪がいっさいないマヤは、真実、受肉した天使だ」
「邪悪?」
「欲しいから手づかみする。つかんだ霊魂たちがどうなるのかぼくにはわからない。だけどマヤはすぐさま忘れてしまい、この子の中には、何の汚点も翳りも残さないんだ」
「罪悪感がない=善ではない」
「じゃあ、天使は善玉なのか? 天使は幸福だけをもたらすものか?」
 シーラは次第に物狂おしい気配を増してくるゲンの顔をじっと眺め、言葉を閉ざしました。喋っているうちに視線の定まらないゲンの両眼は血走り、口は半開きのまま、肩であえぎ始めました。額にはぷつぷつと脂汗が滲んでいます。
「答えろ、シーラ。サイコ・ヒーラーなんだろう」
「欲しがってるのはマヤじゃない」
 シーラは冷静に応じました。
「あなただ、仁科さん。あなたはマヤの能力を自分の創造の源泉にしている。みずみずしい魂を喰って、クリエイティブな情熱をかきたててきたんだ。マヤのつかんだいくつもの魂の残存エネルギーは、マヤじゃなくあなたのものになったんだろう。あなたは狩人で、マヤは猟犬というわけだ」
「それであちこち娘を連れ歩いてるのか。養護施設にも入れずに? なんだ、ひどい親父だね」
 と横から駿男さんは顎を撫でながら呆れ顔で口をはさみました。
「娘の人見知りがどうしたとか、言い訳なんだな。君、銀座に来たとき、あのビルから中学生の少年が飛び降りたけど、もしかしてマヤの力を、その、利用して君が誘導したんじゃないの?」
「バカオヤジはお互いさまでしょう、風間さん」
 ゲンは全然動揺しませんでした。
「どんなアーティストだって、魅力的な創造のためには手段を惜しまない。ぼくはマヤをそそのかしていないし、自殺した少年に心を向けたわけでもない。マヤの好き嫌いの激しさは本当だし、この子の傍のすべての人間が非業の死を遂げるわけじゃない。佐久間さんたちは平気だ。マヤが少年少女に寄ってって、死ね、とののしったわけでもない。ただこの子がその場に居合わせると死にたがっている人間のある者は、ブレーキを失い、実行してしまう。マヤを連れていると、ぼくにはそれがわかる。そして」
「閃く? 啓示がある?」
 シーラは言葉で飛躍しました。
「満開の桜の下には、いったいどれだけの屍が眠っているだろう」
「いいねえ、安吾ならぼく好き」
 と駿男さん。
「美女にそそのかされて殺し続けた男。だけど安吾の小説とは逆に、マヤが山賊で君が美女役なんだ。マヤを連れまわして餌食を探してたってのは事実じゃないか」
「マヤがこんな力を持ってるからだ。利用しないテはないでしょう? ぼくらは殺人を犯しているわけじゃない。傍に行って、飛び降りようかどうしようか迷っている子の背中を突き飛ばしたわけでもない。マヤを連れ歩くさきざきで、しょっちゅう自殺や事故が起きる。現実には、ただそれだけだ」
 ゲンにも罪悪感はないのでした。シーラは、
「マヤは〈魂(たま)喰い〉だ。喰った自覚がないから、貪欲に際限がないし、満足もしない。彼女に汚点がないとしても、あなたがハイエナであることは否定できない」
「そこまで言うか」
ゲンはシーラの糾弾を、むしろ快さそうに聞いていました。
「桜の森をひきあいに出すのはうまい、風間さん。犠牲の上になりたっていない芸術なんかないよ。階段の〈九相図〉見たろう、シーラ。ぼくの祖母をモデルにしたって言ったが、君は聞き流した。祖父は自分の妻の遺体を葬らずに、骨になるまで密室に隠して、写生したんじゃないかって伝説もある。そうじゃないとしても、あの連作の女性の顔だちは、祖母によく似ている。自分の伴侶を、凄絶なモチーフに使う円魚の正気を疑いたくなるだろう。それだけじゃなく、彼が晩年に描いた幽霊画は、なるほど応挙の模写に近いけれど、顔立ちは祖母に似てる、どれも」
「……ぼく、や駿男さんの前に現れた自殺者たちは同じことを言った、仁科さん。死にたかったのはほんとうだけど、こんなに早くするつもりなんかなかったって」
 シーラはゲンの自分本位な芸術談義への逸脱に乗らず、手綱を絞るようにひき戻しました。が、それにしてもこんな言い争いが解決に結びつかないものであることを自覚し、迷ってもいたのでした。
(糾弾、問い詰め、追い込みはヒーリングには逆効果だ。だが仁科親子の癒着を切り離すこともできないだろう。マヤとゲンの狩は続く。どうしたらいい)
(迷ってる場合か? 手加減無用だ)
聴き覚えのある鋭利な声が、いきなりシーラの心に飛び込んできました。同時に、
「切り離せ」
 ぎょっとして駿男さんは振り返りました。
「メグ、どうして」
 きれいな花模様のネグリジェを着たメグが、どこからともなく現れ、駿男さんの横に立っていました。
「君、ぼくについてきたのか?」
「シーラ、マヤの周囲で自殺が起きるのは、ゲンといっしょのときだぞ。ゲンがいなければ事件は起こらない。親子を離せば済む。永遠に」
メグの声は硬く、独断的で、普段の彼女とは全く違っていました。シーラにはすぐにわかりました。
「眼が青い。レノン、メグを乗っ取ったか」
「彼女がそうしてくれと願ったんだ。だいじなパパが危ないと、メグのほうがちゃんとわかってる。放っておいたらマヤは駿男さんを手に入れるぞ。若くはないが、娘を溺愛するって親バカは、ゲンとどっこいだ。そこにマヤがシンクロするんだろ。いや、それどころかマヤはもしかしたらメグに食指を動かしてるのかもしれない。将ヲ得ントスルナラマズ駒ヲ射ヨ(文字どおり!)駿男さんをやっちまえば、メグはどんなに悲しむだろう。甘ったれだから、死んじゃいたい、なんて泣くかもしれない。そこにつけこんでメグも喰っちまえばいい。メグのエネルギーを吸ったらゲンはさぞユニークな大作をクリエイトするだろう」
「メグ、君、どうしちゃったの」
事情を知らない駿男さんはおろおろし、メグの肩に手をかけようとして、感電したかのように飛びあがりました。
「あ、熱! 寝間着が発熱するなんて、シーラ、この子どうなっちゃったの」
 駿男さんは、メグの着ているゆるいコットンの襟がふわりと指先を掠めるくらいに触れただけなのですが、それは燃えている炎に手を突っ込んだくらい熱かったのでした。
レノンは駿男さんをまるっきり無視しました。シーラだけ見て冷ややかに、
「メグをマヤの餌になんか、ぼくがさせないがね。シーラ、君の手ぬるいやりかたにはいつもながらイラつく。マヤは喉から手が出るほど……マヤじゃない、ゲンは舌なめずりしてメグを欲しがってる。親父の欲望に娘が反応するというわけだ。見ろ」
 ゲンに抱かれていたマヤは、いつのまにかぱっちりと両目を開き、メグ=レノンを見つめていました。もの言いたげに赤い唇をひらきましたが何も喋らず、ぼうっとして、まだ夢を見ているようでした。
「マヤどうする、みんなでぼくたちを責めるよ。何にも悪いことしてないのに、マヤ」
 ゲンの声は嘲笑まじりでした。駿男さんはかっと逆上し、
「悪いことしてないって? ぼくの前に出てきた水死の少女は、はっきり「死ぬつもりはなかった」って言ってたぞ」
「それだけじゃないでしょう。かわいい子といっしょになれて、みんなからちやほやされて、何をしても叱られず、生きてるときよりいい気持ちって彼女は言ったでしょう」
ゲンは娘の顎の下を片手の中指でかるく撫で、
「マヤに惹かれて自殺した子の中には、マヤと同化する霊魂もあるみたいなんだ」
メグ=レノンは、仔猫のように父親に愛撫され、だらんともたれているマヤを眺め、
「そうやって餓鬼は増殖、あるいは増幅してゆく。喰いたいという無限の欲望が餓鬼の本質なんだから、外見がどうであれ、マヤは餓鬼なんだぞ、シーラ」
 マヤは父親の眼をじっと見上げ、にっこりと笑いました。周囲の緊迫した状況が、彼女にはまるで見えていない感じです。数瞬後、ゲンは駿男さんに顔を向けました。それからあんぐりと口を開けました。
「マヤがあなたを欲しいって言ってる」
 がくっとゲンは後頭部をのけぞらせ、マヤを抱いたまま反り返りました。わなわなと上半身が痙攣し、マヤを抱えた腕から力が抜けて、だらんと左右にぶらさがり、父親の膝から滑り落ちるかと見えたマヤは、彼の背中に両腕でしがみつき、クスクスと笑いました。
 ククッと、小鳥のように、無邪気に笑いました。
 ゲンの開いた口から白い泡状の唾液が流れ始め、最初少量だったのが、どこかでどっと量を増し、急性アルコール中毒患者が、がぶ飲みした酒を吐き戻すように、がっと黄色っぽい粘液を噴き上げました。それといっしょにマヤの手が父親の開いた口腔から飛び出て、駿男さんにつかみかかりました。
 駿男さんは驚愕のために凍りついて動けず、マヤは父親の後頭部を突き破って駿男さんに伸ばす手を、とうとう肩までねじ入れてしまい、どろどろした粘液まみれのまま、ぽっちゃりとした幼児の腕が自分に伸びてくる凄さに、駿男さんはその場でとうとう腰を抜かしてしまいました。
マヤは父親の膝から降りて、駿男さんに近づこうと歩き出しました。ゲンの鼻腔と両目からも、泡状の白濁と黄色みがかった液体が
あふれ出ました。シーラはマヤを制止することもせず、その有様を観察し、
(血が出ない、なぜ)
「奴が冷血だからだろ」
 メグの声で、レノンがすげなく言いました。
 ドカラテ
「何だって、マヤ、何か言った?」
 駿男さんがうわずった声で尋ねると、マヤはにこにこしながら、不明瞭な口つきで、
 ノドカラテガ
 マヤの腕には、ゲンの長い舌がからまり、それ自体別な生き物のようにひくひく痙攣していました。マヤが歩き出すと、彼女の腕に後頭部から口腔を貫かれたゲンはのけぞった姿勢でひきずられ、両膝は床を擦りながら、絶えずがくがくと不規則に暴れました。
「マヤ、喋れるのか、おい」
 ノ、ド、カラ、シタナ、メ
 駿男さんの半泣きの問いに答えて、ばらばらな音が、マヤの唇からこぼれます。
「パパ、彼女はあなたをノドカラテガデルホドホシイそうだよ」
 レノンは明らかにこの展開を楽しんでいました。そのふてぶてしい雰囲気に、さすがに駿男さんも気がついて顔色を変えました。
「メグじゃない。そっくりだけどぼくの娘じゃない。シーラ、これは何者だ」
パ、パ
 またマヤがあどけない声を〈出し〉ました。
つぶらな眼は駿男さんをじっと見つめ、ゲンの後頭部を破り、口から突き出したてのひらの五本指を、駿男さんの鼻先でちらちらと動かしました。どろりとした粘液と体液が、マヤの指先、ゲンの口角から絶えず流れ落ちています。
 ひっ、と駿男さんは声にならない悲鳴をあげ、べったりと腰を抜かした姿勢のまま後ずさりしました。
「逃げるのか、パパさん。マヤはあなたのこと気に入ってる。実の父親よりもあなたのほうがいいって言ってるんだぜ」
 メグ=レノンは駿男さんの横で小生意気に腕組みし、片足の爪先をリズミカルに上下させながら言いました。面白くて仕方がない、という顔つきでした。
「レノン、ふざけるな」
シーラが制すると、レノンは向き直り、
「マヤ自身が決着をつけたんだ、シーラ。いや、マヤだけの意志かどうかわからない。マヤの中には、もうずいぶんたくさんの、自殺霊、未完成で現世に無念を残した少年少女の霊が溶け込んでいるから、それらがマヤに、こんなことをさせたのかもしれない。ゲンの欲望が触発しなければ、マヤが彼らを死に誘い込むなんてこともなかったろうから」
「シーラ、メグは何を言っているんだよ」
 駿男さんは叫びました。
「メグじゃない、こいつはメグの皮を被っているが、何者なんだ」
「あなたの娘が、ぼくを吸収したんだ。ぼくはメグの中に潜んでいて、メグのピンチに出現し、彼女を守る天使ですよ、パパ」
「メグが何を吸収したって? 天使? 冗談じゃない、娘を返してくれ」
 レノンはもう駿男さんには眼もくれず、にじりよってくるマヤに相対して、そのどろどろした粘液まみれの手をつかみました。
「メグがぼくを吸ってしまったように、マヤもコムニタスの扉に入れてしまうか。今のぼくならそれができる。マヤは廃人になるが、もともと成長も記憶もできず、生涯感覚の海を浮遊し続ける海月みたいな子なんだ…」
「そんなことは許さない」
 ぱしん、とシーラはレノンの手をマヤからはらいのけました。
「君は以前の君自身、眠り続ける植物状態にこの子をしようとするのか。君自身あれほど苦しがっていたのに」
「だが、マヤの人生に、これから何が起きると思う? ゲンのおもちゃから免れたとしても、誰かの庇護なしには生きてゆけない。この子の美貌は」
 レノンは口を噤みました。嘲りの色は消えて、痛ましげな感情が、コムニタスのコバルト・ブルーの瞳をよぎってゆきました。
「シーラ、いや、ユカリーレ、ジェンティーレ、君よくわかってるんじゃないか。マヤみたいな少女が」
 シーラのまなじりがぎりりと吊りあがり、反射的に彼はレノンの喉を片手でつかんで締め上げました。レノンはわざとよけようとはせず、シーラの手のなかで、苦しげに顔を左右に振ってみせ、
「メグを痛めつけたって〈ぼく〉は平気だ。ユカリーレ、いつまでも隠しておけるわけないじゃないか。メグは君の内部に入る。ぼくも一緒だ。ぼくはメグの見過ごすいろんなことを君について知る、とても興味深い。ドラマチックな王子さまの幼年期だ」
「必ずおまえを削除してやる、レノン」
「ぼくは君が好きだけどね。メグの次の次の次くらいにね」
 レノンは…メグはわらっていました。シーラは呼吸を静めてメグの喉首をつかんだ手を離し、マヤをふりかえると、彼女の腰をうしろから抱えて、ゲンからひき離し、抱き上げました。
「いやだったのか。着せ替え人形みたいに飾られて、連れまわされて、マヤ、君は餓鬼じゃない。何が起きても、何をしでかしても翳りを持たない君はインノチェンツァ、永遠の純白だ」
 帰ろう、ぼくが君を安全なところに連れて行く、とシーラがマヤのべとべとした手を片手に包むと、マヤははにかんだような笑みを浮かべました。足元に転がり、まだ口と鼻から粘液を吐き続けているゲンをシーラは無視し、駿男さんとメグ=レノンに言いました。
「ここの扉はもう閉める。メグ出てこい。レノンを抑えろ、君できるはずだ。駿男さんはちゃんと戻すよ、いや戻る。もう夜明けだろう?」
 薄紫に明るみ、ものの影はすべて淡くなごんでゆき、どこかから曙を歓ぶ夏の鳥の澄んださえずりが響いてきました。

七月半ば過ぎ、もうあと数日でメグの夏休みが始まるという朝、いつものように五時起きし、冷蔵庫のフルーツミックスジュースをグラスに注いで、その朝はレモンではなくグリーンライムを絞り、それを片手にフロアを横切り、メグの部屋のドアをノックして声をかけ、玄関の新聞受けから朝刊を抜き出した駿男さんは、これもいつもの順番で、一面から大活字だけ拾って紙面をざっくり斜め読み、ダイニングのテーブルに戻るころ、湘南版に眼を通すと、
 芸術熱中症? 
太字見出しに続いて、逗子の日本画家急死とありました。
「おはよう、パパ」
紙面から顔をあげない駿男さんのいつもと違う様子に、メグは彼の新聞をひろげた手元を覗きこみ、すこし息づかいを変えました。
「仁科幻さん、亡くなったの」
「七日くらい前らしい。しばらく休館してて、人の出入りがなく、誰も気がつかなかったって…。休み明けに受付の女性が来て、発見された」
「でも、マヤは?」
「書いてない。いや……あった。行方不明で捜索中だって。赤ん坊じゃないから、自分の足でどこへでも行ける」
「仁科さん、なんで亡くなったの」
「ここ一ヶ月くらい二階のアトリエにこもりきりで、秋の公募展にむけて制作してたんだと。ぼくは先々週の木曜日にシーラと円魚記念館を訪ねたけど、元気だった」
「…うん」
メグの声は小さくなりました。また髪が長くなってきたので、今朝は真ん中から二つに分けて前髪はビーズピンで留め、左右二本の短い三つ網みにしています。カラフルなユナイテッド・アローのプリントTシャツ、ジーンズの膝上を自分で切ったショートパンツは、左右の長さをわざと大きく違え、短く切ったほうの膝には、真っ赤な水玉の生地を縫いつけてみました。
「行こうよ、パパ、遅くなっちゃう」
 何と言ったらいいかわからなくて、メグは駿男さんがテーブルに置いたフルーツジュースを全部飲んでしまい、にこっと笑いました。
 木曜日の訪問に続く悪夢で、仁科幻の破綻はわかっていたのでした。あのときゲンの魂は確かに滅びてしまったのです。新聞記事で
読む死因は不明で、心臓麻痺あるいは作品制作に打ち込むあまりの〈熱中症〉による心肺停止か、とシニカルでしたが、あながち外れているとも言えないのでした。
「この酷暑で死後何日も経って発見されたんじゃあ、なあ」
 と駿男さんは口の中でぼそぼそとつぶやきました。記念館の一階から二階へあがる階段部屋の壁に薄暗く展示されていた〈九相図〉の画像が一枚ずつ脳裏をよぎります。しかし、それは現実の生々しさを伴わない、淡い印象でした。心にわだかまっている、ここ数週間の悪夢の残滓のリアルな感触に比べたら、新聞記事から受けた驚きは、実にあっさりしていました。
(腐乱死体のそばに娘がいなかったってのは幸いだが、どこに行ったんだろう)
 ぼくが連れてゆく、と青年の声でシーラが言い、ゲンから離してマヤを抱き上げたのを、駿男さんは覚えています。シーラは、駿男さんの記憶を抑圧し、塗りつぶすことをしませんでした。
(どこからが夢で、どこまでが現実なんだ。メグの体に別な人格が憑依して、傲慢な態度で喋っていた…あれは夢だろう? 現実にはぼくの娘は、ここに、こうしてピンピンしてジュースを飲んでスポーツシューズを穿いているじゃないか。それでいいじゃないか)
 メグの内部に、エイリアンみたいに違う誰かが潜んでいるかもしれない、としても俺のだいじな娘だってことに変わりない。
(統合失調症の患者は精神が裂けて、いくつもの人格に分かれてしまう、とおふくろが言っていたっけ。メグはそんなじゃない。それに近いのかもしれない、としても)
駿男さんの亡くなった母の節子さんは精神保健福祉士で、臨床心理士でもありました。
母親の仕事の影響で、彼は心の病に偏見を持たなかったのでした。
 いずれシーラに問い糾してみようと駿男さんは決め、わずらわしい思考の堂々めぐりを打ち切ったのでした。彼はシーラと出会ったことを後悔はしませんでした。彼自身が、シーラに魅惑されていたからです。ちゃんと自覚していました。
玄関から彼を急きたてるメグの明るい声が聞こえました。小鳥のさえずりを聴くのと同じ快さが駿男さんの耳を打ちました。これが現実、これでいい、これがいい。
「近道通る? 桜山はもう時間オーバー」
「コンビニ周りにしよう」
 住宅街から海近く、夏の太陽は勢いよく駆け足で昇り、まだ車の通行の多くない道路には、イソシギや雀、ツバメが朝の餌探しにのびのびと飛びまわっていました。双眼鏡を当てるまでもなく、小鳥たちは親子に警戒心を持たず、すぐ近くまで寄ってきます。
「このごろ鳥たちはぼくに親切だな」
「パパだけじゃないよ、メグに寄ってくるんだって」
「そう?」
 今も、数歩さきにイソシギが舞い降り、長いモノトーンの尾を小刻みに上下させ、駿男さんを警戒心のない眼でしばらく見つめた後、ぱたぱたと飛んでゆきました。
「ぼくらが顔なじみになったってことか」
「そうだよ、きっと」
 屈託のない声で相槌を打ちながら、メグはパパの健康がずっと心配なのでした。
 マヤとゲンの親子との遭遇は駿男さんをひどく消耗させたはずです。駿男さんは具合が悪くても、殆どこぼさないひとでした。ですが、メグは漠然と覚えていたのです。母親の安美さんが、なぜ早死にしてしまったのか。その明確な記憶がなぜ残っていないのか、思い出せないのか、今のメグには何となくわかるのでした。
(あたしは六つか、七つ、そうだ、マヤと同じくらいの年だ。ママが泣いて、怖い顔で叱って、あたしはもっと大声で泣いて、それからそれから)
 オモイダシチャダメ、と安美さんが言ったのでした。決してこの扉を開けてはいけません。
 そしてママは死んじゃった。ああ、神様、パパは、パパもだんだんあたしの世界に入ってくるみたい。そしたらパパもママみたいに早死にしちゃうの、そんなことになりませんように、お願い!
 でも君にはコントロールできないぞ、と意地悪く囁く声が脳裏を掠めた気がします。
(レノン?)
 返事はありません。
(シーラさん、マヤをどこに連れていったの? 今どこにいるの?)
 こちらも返ってくる声は聞こえないのでした。なぜ? とメグはかなしい気持ちになるのでした。なんだかシーラさん、あたしのこと避けてるみたい、どうして?
 少年から青年へ、また男性と女性のボーダーラインを往還しつつ、みずからの姿をまだ定めがたく揺れ動くシーラの感情は、メグの憶測とは真逆なのですが、幼い彼女にはわかりません。そんなメグは素直に幸せでした。
「おい、どうした暗い顔して」
 どしんと背中を叩かれて、メグは我に返りました。
「暗くない。ミソサザイの声を探してるだけだよ」
「おう、あそこにいるぞ、あ、もしかして降りてきた、メグ見て、あそこ、ハイビスカスの枝に?」
メグはちょっと眩暈がしました。帽子かぶってくるのわすれちゃった。まぶしいな。アスファルトの照り返し、ギラギラする。パパみたいにサングラス買おうかな。ハローキティマークのハート型レンズ。羊子ちゃんが持ってたみたいなの……
「ミソが、地面に降りるって、あんまりないね」
 自分の出した声がどこからか、自分自身に遠く聴こえました。ここを渡れば海は目と鼻の先という住宅街の終わりの一角、ブロック塀ごしに道まで大きく枝を伸ばしたハイビスカス。陽気な南国の赤い花がいくつも咲いて、赤が大好きな駿男さんは感心して見上げています。枝のてっぺんに留まっているという小柄な焦げ茶の鳥影を認めるよりさきに、彼女はくたくたと、陽炎の昇るアスファルトにしゃがみこんでしまいました。
「メグ?」
 おなか、いたいの。
 父親に訴える声が出ませんでした。
「どうしたの、え、貧血か!」
 がくんと自分の胸に倒れこんできた娘の重さに、駿男さんは驚きました。全く自力が入らない重みでした。
(いったん寝かそう、このハイビスカスの蔭でいい、まず何か飲ませて)
 メグのだらんとした両脚を抱え、どっこいしょと木蔭に移そうとした駿男さんは眼を剥きました。
 左右ふぞろいに切り落とし、一方の膝には、真っ赤な水玉模様の布地を縫いつけたブルージーンズのショートパンツ。
 その赤いドットが、メグのひかがみからふくらはぎにかけて、布からこぼれおちたのか、と見えました。真紅の粒はつぅと流れて朝日に一瞬きらりと光り、肉の薄い足首まで。
 冷や汗に混じって渚の気配……鮮やかな満ち潮の寄せてきた娘の膝を冷静に見ることが動揺した父親にはできませんでした。

                 (了) 

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