さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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中世夢幻  其二 杜若

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其二 杜若
 
 おゆるしなされて…
消え消えの喘ぎは、苦しげでいてねっとりと媚を含んで甘かった。かぼそい女の声ではないことが、この黄昏の縺れあいに息詰まる淫靡な影を深める。
 将軍御所に、義教はいくつも専用の書院をしつらえていた。そのひとつ、もっとも奥まった北向きの一室は、夏のあかるい夕暮れから逃れるように、はやくもひそやかな闇が垂れこめている。男たちの表情は苦しげで、貫きながら肉を重ね、解き放ちながらなお免れぬ己が官能の枷に喘いでいるようだった。彼らの所作は隙間なく、互いに容赦がない。肉を凌ぎ、骨をきしませ、肉感を超えた救済を目がけて攻めぬき、奔りつめるようでもある。
 攻める男も攻められる男も互いの火に灼かれて汗をしたたらせ、性の力を誇示しながら、やがてどちらからともなく崩れ、折りとられ、肌身に飛び散った迸りは、欲望の残滓というにはあまりに潔く、純一な色彩だった。
「酷いことを、あそばす」
 ややあって、元重は首を伸ばした。肉をひしぐ烈しい感覚はなお余波をひいているが、それはこの性愛だけが味わうことのできる痺れるような快楽に変貌している。
元重はうなじを伸ばし、背骨を伸ばし、腕を緩めた。獣のなりで彼は主を受け入れていたのだった。仰臥した義教は、荒く息を吐いたまま無言であった。
傍らの元重は呼吸を静めて義教の心をはかる。一瞬の甘えは速やかに彼から拭われ、解き放たれた快楽の頂点から、一気に彼は地に下り、猿楽芸人の軛をみずからに嵌める。
義教は、ふいと元重を見た。白眼の部分が大きく、青みがかって見える義教のまなざしは、無感動な吐息とは裏腹に情感をたたえて潤っていた。その視線にあやうく溺れそうになるのを抑え、元重は、
「おからだを」
 自分自身は手早く下着をつけ、隙のない動作で義教の身仕舞いを調える。ことのあとには、いつもこうして元重が義教に仕えた。女を伽にしたときには早々に下がらせ、別な女官が手際よく将軍を清めるのである。その女官にも劣らぬこまやかな手つきで、元重は義教の肌を清め帯を結ぶ、義教は元重にすっかり任せきり、西の窓になお漂う宵明かりを凝視するように、心持顔をあげていた。
 採光の悪いこの書院は、仏間を兼ねており、床に奉掛された如来像に、西側の丸障子からその日の最後の光が忍び射すように設計されている。五色の雲に乗った如来は地べたにひざまずく衆生に向かい、温和な微笑を湛えて手をさしのべている。夕靄はいま、そのふくよかな尊顔だけを、滲む円光となって照らし出していた。
装束を着付ける衣擦れの音は、男たちの沈黙を快く埋めた。ふいに義教はひざまずいて主の胸紐を結んでいる元重の首に触れた。
「清滝宮の楽頭職(うたづかさ)を命じる」
 一瞬、元重の手がとまった。さっと顔をあげたが、視線は自分の指先で止まり、主のまなざしには届かなかった。彼は濃紫の胸紐をひたと見つめた。
醍醐寺清滝宮の楽頭職は、観世座棟梁たる世阿弥のものであった。義教はそれを剥奪し元重に賜ると言う。さきほどの仙洞御所での
世阿弥一門演能禁止に続き、この仕儀がどれほど伯父一家に打撃であるか、元重は将軍の命令をひしと噛みしめる。が、伯父を立てて、我が功名を譲る心は微塵もなかった。
そんな元重を義教は快げに尊大な表情で見下ろし、烏帽子を外したままの白い首筋をすうっと撫でおろした。
「余の手にあまるほどに太くなりおった」
 かつては、と義教はひとりごちた。
「この首は、余の指ひとくくりに握るほど、かぼそかったものを」
元重は首に千鈞の錘を掛けられたような気がした。みぞおちを冷たい汗が流れる。声を整え、謹んで答える。
「御意のままでございます。いにしえも今も」
破(は)、と乾いた笑い声が一間に響いた。

五月雨が降りしきると、都大路に投げ出された夥しい死体は目に見えて腐りただれ、痩せさらばえた屍のどこに腐乱する贅肉があるのか、と思われるのだが、辻々いたるところに転がる亡骸は、ぶくぶくと膨張し、破裂し、膿を長雨に垂れ流し、その腐肉を野犬どもが日夜を分けず食いあさるのだった。
「ああ、末世じゃ。下克上じゃ。しかしこのしみったれ雨は止まぬものか」
梅雨寒なのに、むしむしと湿度はこもり、死体の異臭のきつい堀川大路を、びしょびしょと泥水を跳ね上げて歩く蓑笠男は、それほどの大降りではないのに、蓑を深く合わせ、顔も見えないほど笠を深く被っている。男は笠の影から大路の隅の屍をにらんで毒口をたたいた。
「照る日曇る日って言うじゃないのさ。雨が振る時期にはちゃんと降ってくれないと、五穀豊穣ままならぬ」
 男の連れらしい市女笠姿が、若い女の屈託のない声で男の不平を受けた。
 女は一見すると上臈出立ちで、こんな季節には鬱陶しいほど華やかな小袖に細帯を締め、被りものの緋色が目にしみる。着物の裾を泥に汚すまいとくくりあげ、肌理のこまかい白い脛をあらわにしている。
「この分じゃ、秋の実りもどうなるか知れたもんじゃない。今年もおおかた不作だろう。お天道さまは民を見放したか」
 男はなお憎まれ口をたたきながら、やけくそめいて泥水を蹴った。女は舌打ちしてとびのき、
「ちょっと、あたしの鎧を汚さないでおくれよ。まだ出陣前なんだから」
「鎧も鎧、大鎧。侍大将の出立ちだ」
男は鼻を鳴らして女を眺めた。
「図子(づし)の古君も、宝珠御前には御満悦だろ。いったい一夜にどれほど稼ぐ」
「からだあっての物種」
宝珠は笠を小指で持ち上げ、自慢の器量をちらりと見せ、しなをつくって笑う。肌は浅黒いが、くっきりとした目鼻が新鮮だった。白粉も塗っていないのに、顔を覆った紅絹が頬にきれいに映えて見えるのは、女がまだ若く、しんからみずみずしいためだった。
女が商売用の笑顔を笠の端から見せたとき、ちょうどふわりと雲が割れ、通りは俄かに明るくなった。陽光とともに風がさあっとひとつ通って青葉が香りたつと、大路の景色は陰惨を消して夏の息吹に蘇った。
「さ、尼寺の向こうだよ。着いたらあんたに湯漬けの一膳でも頼んでやろう」
「へ、せめて薄濁りの一杯も」
 酒は清酒(すみさけ)な、と男は横を向きうそぶいた。
  極寒極熱、熱き苦もあり寒き苦もあり、
  極熱の照りに照るに、冷やし物の酒を冷やし、一杯は飲み足らず、二杯は数悪し
 これだよ、と女は呆れ顔で高足駄を履いた足を持ち上げて男の膝を蹴るふりをする。と向かいの横辻で切羽詰まった叫びが乱れた。
「お、喧嘩だ」
男はがらりと声を変え、騒ぎのほうへ首を伸ばした。
「追剥だろう、およし」
宝珠が止める前に、もう男は蓑笠のまま泥を蹴って走り出していた。
「ち、物見高い奴め。怪我でもしたらどうする」
 舌打ちしながら宝珠もさらに裾をまくりあげ、むっちりと豊かな腿まで見せて男の後を追った。
ああら、おっかな。
 網目地に菖蒲の模様を散らした小袖ふうの上着を素肌にじかに纏い、かしらを白い被りもので包み、片手に数珠、片手に榊を持った持者が引き連れたような甲高い声をあげ、通りの真ん中で大げさにのけぞっている。
「あら神を恐れよ、おっかな。この罰当たりめが。二所三島の神も御覧ぜよ、この若造の無理無体」
騒ぎを聴きつけて周囲に人だかりが始まると、持者はますます興奮を煽りたてるように地団太を踏んでわめきたてる。どう見ても男の皮膚でしかない肌に、べたべたとまだらに紅白粉をなすりつけている。化粧をしてはいるものの、持者は自分が男であることを隠そうとはせず、口髭をはやし、黒々と眉は太く、あらっぽくかきあわせた衣の胸もとから、見苦しい胸毛がもしゃもしゃと覗いた。
「どうしたの」
野次馬をおしのけ、宝珠が連れの蓑笠男の肩先をつつくと、笠の影から、男は白い歯を見せてにやにや笑う。
「たかりよ。ちょいと見物しようじゃないか。いんちき持者めが、若造から巻き上げようってはらだ。さてどうなるか」
持者、または地者とは女装の巫で、東北出羽三山や鎌倉鶴岡八幡宮などを根拠地に活躍した流れの神人とされる。彼らが何故女装したのか理由はさだかではない。中世民衆群像を描いた『職人歌合せ』に「持者」の風体は、女の衣装をまといながらその容貌は明らかに男性で、彼の詠歌は、
  いかにしてけうとく人の思ふらむ
     我も女のまねかたぞかし
〈どうしてみんなは気味悪がるのかしら。あたしも女の真似なのよ〉とある。
 彼ら男巫は女装することによって、巫女の持つ霊力を我が物にしたいと考えたのかも知れない。直接の神がかりの能力は、古来女性と児童に顕著であって、祭祀の場における男の役割は、おおむね審神としての仲介、巫女の告げる託宣の解釈者であった。
持者は古びた小袖の裾をばたばた振ってぐるりを駆け回った。縄でくくった小袖は、すでにひどく擦り切れ、持者がわざとらしくしなをつくって、ぱっぱっと裾をからげて膝をちらつかせるたび、垢に塗れたがさがさの腿と、さらにその奥の見苦しい赤むくれがぶらぶら揺れ、周囲の野次馬どもはげらげらと笑った。
「な、汚れてしまった、穢れじゃ」
「あんたの面のほうが汚いよ」
 物売り女が笑い転げながらののしると、女
装の持者は哀れっぽく首を振り、気が触れた
ように数珠をさぐり、両手を烈しく上下に揉み合わせた。
「天照らす御神、この無信心者を罰してくだされ、阿弥陀様、この下種女を地獄に突き落として…おい、どこに行く、くそ餓鬼」
 騒ぎのどさくさに紛れて逃げ出そうとした
若者の肘をぐい、と掴み、つくり声からうって変わった男のだみ声で、持者は詰め寄った。
ほう、と蓑笠男は唸った。きれいな面をしていやがる。
 振り返った若者は、群がる群集の中で、はっきり際立つ容貌をしていた。目鼻がひきしまり、肌が白い。顔をしかめてしぶしぶ持者に相対する所作に寛容な落ち着きがあり、一目で土民でないことがわかる。衣装も周りの者より格段に上等だ。麻の葉文様の素襖に、藍染めの短袴をきりっと穿いた身軽は公家とは見えず、さりとて武家でもない。いちいちの動作にたるみがなく、持者の言いがかりにしかめた顔つきさえ、良家の子弟らしくさわやかに明るかった。
 若者は腹を立てた様子もなく、困惑した表情で、
「儂は急いでいる。この先の尼寺に叔母が入道している。病と聞いて見舞いに参じた。儂の訪れを向こうは待っているだろう」
 端切れのよい清潔な声をしている。
「知るものか」
 持者はますます興奮し、鼻毛のぼうぼう伸びた団子鼻をひくつかせ、胸を叩いて青年を罵倒した。
「汝、神を畏れぬ罰当たりめ! お前の縁者なぞ助かるものか」
 わめく鼻先へ、青年は懐から無造作に銭を突き出した。
「もうよかろう。これで新しい衣を買え。儂はほうぼうに参らねばならぬ」
 持者は数珠も榊も放り出し、両手で若者の手から銭をひったくり、その場でちゃらちゃらと音をたてて銭勘定をする。思わず、気前がいいねえ、と野次が飛んだ。それもそのはず、小袖をあつらえてなお余りある額であるばかりか、その銭は、近頃濫造されている国内銭の粗悪な地銭ではなく、大陸渡りの上質な明銭だった。もはや下々にはめったに出回らない、きれいな銭である。
 持者は有頂天で、つかみとった銭を前歯に挟んで硬さを確かめ、空にかざして透かし見、ひひっと口を歪めて笑った。
「あら、おっかなおっかな。ありがたやの明の銭じゃ。天照大神御覧ぜよ」
奪うものを奪った持者は小躍りしながら、小路へ逃げていった。
同時にがやがやと人垣は崩れてゆく。
「なんだ、あっけない」
と蓑笠男は舌打ちしたが、宝珠は首を伸ばして、人込みに紛れてしまった若者の後ろ姿を追っていた。
「なんだ、あいつに気があるのか」
「お世話さま、あの子、どこかで見たことがあるような気がしてさ」
「色男は得だねえ」
雲が切れて夏の光が照りつけるのに男は汗を拭い、厚ぼったい蓑を脱いだが、笠はかぶったままだった。その顔は金褐色の影となって人に見えない。
「昔の世こそ、というわけか」
 即座に飛んできた宝珠のびんたを男はひょい、とかわし、いい声で歌った。
  君と我いかなることを契りけん
    昔の世こそ知らまほしけれ
「うるさいね」
 宝珠はつんと澄まして、すたすたと歩きだした。泥よけに膝上までからげていた裾は、いつのまにか見目よく下ろしている。道すがら、尼寺の低い土塀から、枝を長く伸ばした梔子の花の甘い香りが、湿った陽炎とともに大路に漂ってきた。そこに、かしこに、行き倒れか、うち捨てられた屍が転がる。誰も気にとめない。

橘がほろほろと人待ち顔に咲き散る尼寺の境内は、表の喧騒とは無縁に閑寂だった。門主は皇女で、振り分け髪の幼時から出家入道された。
それほど大きくはない寺には、門主の他、数人の尼僧が仕えている。いずれも出自の良い、見目も人並み以上に整った尼たちが、感情のありかの窺えぬ白い貌で仏道精進に明け暮れ、老いてゆく姿は、現世の煩悩にからめられた者の眼には、清らかに羨ましくも、また侘しくも見え、さらには内奥に秘めているであろう女人ゆえのさまざまな襞を想えば、薄気味わるくも感じられる。
女人は剃髪し、墨染めに窶しても、どこかなまなましく思える。元能の少年時代からの印象だった。彩りを消した衣装をまとっていても、時折ふと、華やかな小袖姿の女よりもなまめいた気配を感じるのだった。だが、それは、この寺に修行する叔母の姿が、幼時の元能の心を強く揺さぶったためかも知れぬ。
俗の名を寿羽と称した叔母は、白拍子某女の腹に生まれた公家の落胤で、何らかのゆかりによって観阿弥の養女として育てられ、成人すると世阿弥の弟四郎の妻となった。寿羽は代々美男美女ぞろいの観世一門の中でも、周囲の眼をひく美しい少女だったという。しかし彼女は、元重を産んでまもなく誰にも告げずに出家してしまったのである。
一門の棟梁となっていた世阿弥は追及することなくこれを認め、仏門に入った義妹に援助を惜しまず、みずから彼女を訪れることはなかったが、一族の者を親しく寺に通わせ、消息を絶やさぬようにはからった。
「よう参られました。以前お出でになったときは、まだ童であったのに」
寿羽、今は寿桂尼は病の見苦しさをすこしも見せず、板の間でじかに甥と対面した。白麻の布で頭を覆い、簡素な袈裟を痩せた肩にひきかけ、水晶の数珠を手まさぐりにしつつ、さりげなく脇息に半身を寄せた寿桂尼の風情は、元能に小野小町を想わせた。
世の男という男を拒みとおし、その果てに落魄流浪の身を巷に晒した伝説の美女。老い衰え、さすらいの姿となっても、絶世の美貌はなお影をとどめ、かそけき色香のほのめきを、声に、所作に、またひっそりとうずくまる姿にさえも漂わせ……それは世阿弥の教えではないか。
(能の老女は…老残の底にもひえびえと光りを失わぬ一枝の花のごとく)
 この叔母こそ、と元能は寿桂尼の姿を眺めた。
五十路に入った彼女の面は、紅白粉につくろわずとも、なお端麗に美しかった。長年の精進、また病のために痩せ、額から頬にかけて、うっすらと皮膚の下の骨が透けそうなほど白い。清らかであるために、いっそうすぐ傍の死が兆し見える、人の気配を離れた白さであった。眉間から次第高にとおる品よい鼻筋と輪郭ただしい口許は、従兄元重と同じもの、と元能はひそかな疼きを抱いて叔母を見つめる。静かに生気の抜けてゆく面には、目立った皺も崩れも見えない。しかしまことに老女の顔なのであった。
「幼かったあなたがご立派になられて」
 昔と変わらない。軽く柔らかい声だった。
「人と成りましてのちは、尼君にお目にかかるのも何かと憚られまして」
 元能がきまじめな口ぶりでありきたりの無沙汰を詫びると、寿桂尼は、ほほ、と口をすぼめて笑い、
「枯れ果てた姥どもに、それはまたつややかなお心遣いですこと。そんなことをおっしゃられては、却って世心を催しそうです」
 いなされて元能は、頬に血が昇った。入道の尼僧にしても、最後まで心身清く素志を全うする者ばかりではない。無防備な若い尼などは、どうかすると賊に踏みにじられ、また略奪の憂き目にあうのだった。いや、若くなくとも、それは。
 この尼寺は由緒ある門跡寺であるから、相応の庇護がある。それゆえに女たちは浮世を離れて、坦々と墨染めの勤めを守ることができる。
寿桂の声はひそやかだったが、他の女人にはついぞ聞き取れぬ艶ななまめきがあった。それは、はなびらを落とした桜の萼に、なお残る紅色のほのめきを見るような心ときめきであった。そのやんわりとした声の輪郭は、どこかで従兄の皮肉を含んだ微笑とつながっていると感じるのである。
「皆さまつつがなくお過ごしですか」
「おおかた変わりなく。こなたさまも便りに伺いましたよりは、御身さわやかにお見受けいたします」
寿羽は、ふと眉をあげ、瞳を開いて元能をみあげた。するとなめらかな額にほそい横皺が数本、すっと昇り、それが彼女の面に初めて見る老いの皺であった。
「さあ、どうでしょうか。もう十分に命永らえましたから、御仏のお招きも恋しいのすが、さりとて、今日のように思いがけずあなたの成人された姿を拝見いたしますと、命はまた伸びるようでございます。兄君妹君も、さぞねびまさられたことでしょう」
はたはた、と庭の橘の枝から鳥が舞い立った。遠く看経(かんぎん)の声が聞こえ、名香(みようごう)のくゆりがどこからともなく漂うと、再びかきくらがった空から、重い雫が軒を叩き始めた。
平氏すなわち武家の台頭以来、皇室公家の権力は地が滑るように崩れ、この時代に入ると、各地の荘園収入も武家の口添えなしには円滑に納まらぬようになっていた。こうした公家皇族の手元不如意をよそに、寺社は独自の権威を主張し、幕府守護大名に服従すると見せて、彼らに対抗すべく勢力を伸ばしつつあった。この尼寺は皇族の門主が、そうした寺社の中でも際立って強大な南都興福寺大乗院門跡と縁を持つために、潤沢な暮らしぶりであった。
寿尼は元能の気持ちをほぐすようにねぎらいの言葉を紡いだ。あたりさわりない言葉であっても、このひとの口からこぼれると、耳に快かった。元能はふと、寿桂が父と結びつかなかったのは何故だろう、と思った。貴種であり、歌舞音曲に優れ、稀な美女であった寿羽は、女曲舞(くせまい)として出たならば、さぞ目覚しい立身を遂げたに違いない。芸能ならずとも、その美貌と才気は、多くの大名の側室に望まれたとも聞く。
そうした華やかさにも係わらず、寿羽が選んだ夫は、世阿弥元清の弟四郎だった。元能が十歳ばかりの頃に亡くなった四郎は、一座の太鼓方、またワキなどを無難につとめる篤実な男であった。おのれの分際をよく弁え、一座の棟梁である兄のシテを過不足なく支えた。寿羽が突然出家した後、彼はふたたび妻帯しなかった。残された元重の才能を育てたのは、この実父と、それにもまして伯父世阿弥であった。
「先日、元重が参りました」
 応えの途絶えた元能の沈黙を測るように、さらりと寿桂尼はささやいた。彼女の声音は、あまりにさりげなかったので、あやうく元能は聞き流してしまうところだった。寿桂は感情を見せない品のよい微笑を浮かべ、
「あの子と会うのは、それが初めて。我ながら不思議でしたよ。あれとは赤子のころ離れて、さぞわたくしを恨んでいるだろうに、今更顔を合わせても、と迷いましたが、それこそ今生の見納めかも知れぬと、対面いたしました」
「左様で」
唐突な尼の吐露に、元能が返すべき言葉はまたしてもなかった。父と自分を捨てた母を、従兄は決して口にしたことがなかった。元重は母を憎んでいるのだろう、と元能は想像しているが、それは皮相な推測かもしれない。
「悪くなりました、と」
 寿桂はつぶやいた。翳りのない優しい声音だった。元能の耳にはあたかも「花が咲きました」と彼女が言ったようにさえ聴こえたのである。
「それは」
「尼殿、元重は悪者に育ちましたと言ったのです。それだけであの子は泣きも笑いもせず、ただわたしの顔をじっと見つめて帰ってゆきました」
寿桂の面は、やはり微笑を浮かべていた。その面の下にどのような心が揺れているのか元能には測りがたかった。いや、測りたくなかった。彼女の微笑の裏にわだかまっているのは、寿桂の歎きではなく、むしろ従兄の屈折であるから。
「兄は、ひとかどの能役者と父は申しております」
 とりつくろった返事のせいで、元能は声がからまってしまった。従兄への感情が噴き上げる。恩義ある観世一門と自身の分水嶺の時期に、母の病床を見舞わずにはいられなかった元重の心は、そのとき弱くなっていたのだろうか。それとも何かへの決別だろうか。
たぶん後者だろう。従兄は自分たちとの縁を心で断ち切ったのだ、と元能は思うことにした。寿桂のしらじらとした面を見つめていると、今、急速に観世一門が分裂してゆく哀しみや動揺がなだめられるような気がする。
(お前は何しにここへ来たのだ)
 元重の揶揄まじりの声が蘇る。こことは尼寺か、俺は兄者に会うかわりに、尼君にまみえたのだ。元重の幻聴には自然な返答がするすると出てきた。
寿桂尼は血の気の失せた顔をゆるゆると庭に向け、長い雨脚に打たれる篠竹あたりに視線を落とした。息子を思い出しているのかもしれない。尼僧の端正な横顔に元重が重なる。その元重は、兄弟の誰よりも世阿弥の貌に似ているのだった。ああ、と元能は肯いたが、ことの真偽など歳月の奥に溶けてしまい、現在から未来への流れに、もはや何の色合いも加えはしないのだった。
簡素な尼寺の庭は、この梅雨の季節に手入れの届かず、草木などの生茂るにまかせ、少し乱れた風情がしめやかな情緒を添えていた。
「一雨ごとに夏草が生いのびるので。それはもう目に見えるような速さ」
 雨にかき消されそうな尼の声は、さっきまでの潤いを失い、ややつらそうだった。夏草のことを言いながら、何か別の情念が彼女の口からこぼれている、と元能は思った。繁茂する雑草の生気に、老女はその瞬間圧倒されてしまいそうな気配だった。寿桂尼は思い出したように言った。
「鹿苑院さまの御愛妾だった高橋殿が、ついにみまかられたそうです」

五条西洞院辺には、六七軒の遊女屋が軒をつらね、賀茂川近い東洞院の遊女街と合わせてこの一帯は遊里として栄え、庶民のみならず武家大名、さらに将軍から公家にいたるまで広汎な客を集めている。これらの遊女屋を「づし」といい、逗子、図子の字をあて、後世には辻君と混同され、巷をさまよう夜鷹、立君の類と見なされたが、室町時代のづし君は、店を構えて売春する女性のことである。
 それぞれの店に元締めの長老、古君は、今の遣り手婆だが、三途川婆などと人は呼び、本人もそのように名乗ってはばからないのは、今昔変わらない、こうした商売の阿漕を思わせる。
「ちょっとあんた、歯を見せな」
 新参の宝珠の容姿を上から下まで仔細なく点検し、姥はその上玉ぶりに満足そうに肯いたが、最後に思い出したように手を叩き、眼をまるくしている宝珠を促した。
「は?」
「はぁ、じゃないよ。あんたの歯を見せておくれ」
 三途川婆、もとい地獄図子の古君は白粉に焼けて渋柿色の顔に、にやりと訳知りの笑みを浮かべた。
「あんたは器量がいいし体も肌も申し分ない。曲舞あがりだから芸もある。あたしはね、あんたみたいな上玉を迎えたときは、最後の駄目押しに、歯を見せてもらうことにしてる。おかしいかね? お口の具合で、あちらのよしあしも、わかることがあるんだよ」
 さていかがなものか? けうとい話だが、この時代、疾病の蔓延はすさまじく、いや、すさまじい、という形容などあらためて必要がないくらい、実はあたりまえだった。古代、美人の基準として、髪と皮膚の美しさが第一とされたのは、多分に健康上の理由があったのではないだろうか。そして表の病は白粉で糊塗できても、粘膜はごまかすことができない。歯を見たい、というのは口腔粘膜の色艶で、商売道具の女の値踏みをしたいということではなかったろうか。
宝珠は素直に口を開けた。古君は口腔をぐいっと顔を傾けて覗き、さらに指で宝珠の唇をめくり、歯茎から喉まで丹念に点検し、最後に前歯をつまんで軽く揺すった。つやのいい前歯は、しっかり歯茎に根付いて揺るがなかった。
「歯並びもいい、上出来だ。器量といい体といい、きっと前世の行いが良かったんだよ、あんた」
「そうなの」
 と宝珠は澄まして肯いた。古君は機嫌よく笑い、
「気性もいいね。どこの生まれ?」
「近江は大津」
「ふうん、ここには近江生まれが多いよ。遊び女に向いてるんだろうかね」
姥は宝珠の口をいじった指を前掛けで拭き「さっそく今夜上つ方の前に出てもらうよ。赤松さまのお屋敷だ。御領地の反乱が収まった祝いだから、たんと稼げる。ちょうど白拍子が足りなかったんだ」
 夕刻までに準備しておくれと、姥は宝珠を女どもの部屋に連れていった。最後に
「いいかい、騒ぎをおこさないでよ、面倒はお断りだ。芸があろうと上玉だろうと、あんたはここでは今参り、新参なんだから」
 女たちの白粉のすっぱいような匂いと、それぞれが抱え込んだ厖大な衣装の黴臭さが籠もる部屋は半ばが板の間、もう半分は土間で、そこはそのまま裏庭につながっていた。雨漏りのする土間の内井戸の周囲で女どもが三人ばかり洗い物をしていたのが、姥の大声にいっせいに振り返り、宝珠に無遠慮な視線を注いだ。
「宝珠と申します。姐さん方よろしく」
 殊勝らしく膝をつくと、板の間の片隅で赤ん坊に乳を含ませていた女が、かるい笑い声をあげた。
「かたくるしいことはおやめ、ここは地獄」
 女は豊満な乳房を赤子の口からもぎはなすと、床をいざるように宝珠ににじり寄った。
「踊れるの? 婆の声が聞こえたよ。あたしは今様歌いの紅鶴」
肥り肉の紅鶴だが、顔は細面で少し頬骨が目立つ。はだけた胸から腹にかけて肌理こまかい脂づきがねっとりと光って見える。子持ちにしても若い女ではない。地獄、と言い捨てた一言は湿り気がなく朗らかだった。切れ長の一重瞼に高い鼻筋。紅鶴はなかなか美しい女だ。
「あいにく鼓打ちが十日ばかり前に死んじまったんだ。飢え死によ。いい子だったのに馬鹿だよね、自分の食いぶちを削って、貧乏公家の親たちに貢いでいた」
 紅鶴の赤子が、乳を慕って泣き始めた。母親は、自分のゆたかな胸を片手で持ち上げ、赤ん坊の口に乳首を押し込んだ。肩の下で皮膚がすこしたるんでいた。赤ん坊は大粒の涙をこぼしながら、母親の乳房に吸い付き、胸を両手でつかんで小動物のように喉を鳴らした。一歳は過ぎているようだ。くりくりと太って丈夫そうだが、この飢饉の時節、子供に十分な授乳をするために、紅鶴はどれほど稼がなければならないだろうか、と宝珠は想像した。路傍には、飢えて死んだ子の屍も多い。それだけでなく、賀茂川には孕んだものの、育てられない嬰児が日々流されているのだ。赤子を流す母親は商売女だけではなかった。紅鶴の赤ん坊にしても、乳の出が悪くなれば、とうてい命をつなぐことは難しいだろう。
「鼓打ちならいるぜ」
 裏庭から蓑笠男が顔を出し、なれなれしい仕草で土間の女どもに頭を下げた。蓑は脱いでいるが、笠はかぶったままである。どこから持ち出したのか、手にはいつのまにか鼓を手にしている。宝珠は目をまるくした。
「あんたどうして」
「婆め、湯水のいっぱいもくれやしないが、俺が傀儡(くぐつ)とわかったら態度を変えた」
「売り込んだの?」
 おう、と男が蓑を土間に放り投げるのに紅鶴は、
「宝珠の男は笠かむり(包茎)かい」
 とあけすけに冷やかした。周囲の女は生気のない笑い声をあげ、男は悪びれずに肩をそびやかした。
「違えねえ。だが、このお上臈は俺なんぞ洟もひっかけない。俺のつらが気に入らないんだ」
「だから、どんなつらなの」 
 紅鶴はくすくす笑った。
男は笠紐を解いた。女どもは訳もなく息を潜め固唾を呑む。宝珠ひとりそっぽを向いて板の間の真ん中の、黒い火鉢にくすぶる埋火を眺めている。
 わ、と誰かが無遠慮な声をあげた。いい男じゃないか、と別な女。が、その声は不自然にひきつれている。もったいないねえ、と低い呟きは紅鶴だった。
 男は三十半ば過ぎ、四十の手前といった頃合だった。顎の大きい顔に太筆で勢いよく描いたような目鼻があざやかだ。まなじりの切れ上がった瞳の光りが日焼けした浅黒い顔に異様に際立ち、まともに視線を交わすのが憚られるほどだ。鼻梁は太くまっすぐで、唇は官能的に厚いが、内奥の意志の強さを刻むようにきりっと引き結ばれ、口角が窪んでいる。肩幅のひろいがっしりした体格と、年齢相応に厚みを加えた顔はよく調和して、粗雑な言葉を使っていても、男の風姿には品格があった。
 が、この男の頭にはいっぽんの髪もなかっった。髪がないだけではなく、眉間のすぐ上から皮膚は焼けて眉もなく、頭皮は炎熱に晒されて乾いた大地さながら皮膚が歪み、こまかな亀裂が走っていた。片耳は根からちぎれ跡形もない。男の焼けた頭皮から、縮れた剛毛がわずかにちらほらと伸びているのが、いっそう無惨だった。
 男の並外れて風格のある容姿が、この火傷をさらに酷く印象付けるのだった。
「気の毒に、いったいどうした訳だよ」
 尋ねながらも紅鶴は、母親の本能で、無意識に赤ん坊を着物のふところに押し込み、男を見せまいとした。彼女の声にはしんからの同情があるのだが。
 男はひややかに応えた。
「がきの時分に家が焼けたんだ。お袋はそれで死んだ」
 女どもは互いに目配せして頷き合った。余計な詮索は無用だ。男の魁偉な風貌と酷い傷の取り合わせは皆をすくませるのに十分で、さだかにわかりはしないが、この人物の秘めた暗い燃焼を眼光に感じ、そろそろと後じさる者さえいた。
「あんた、名前は」
少し押し黙ったあと、また紅鶴が声をかけた。おしなべて蒼白な遊女どもの中で、ただ一人、彼女の顔には血の気が昇っている。男の内面の焔をまざまざと見、火に向かう者が我が身にほむらを赤く反映させるように、紅鶴の瞳にはきらきらと光りが射し、呼吸がはずんでいた。
「そうさな」
 男はふところから赤い布を取り出し頭をぐるぐると巻いた。すると、焔立つ暗い燃焼の印象は消え、眼光も鎮まり、つくねんとした壮年の傀儡が現れた。じたじたと陰鬱な梅雨の気配が軒をつたって夜風が吹くと、路地のどこかで誰かが垂れ流す糞尿の臭気が鼻をついた。
「蝉丸」
 男はぼそりと応え、傍の若い女のしだらない胸元を無遠慮に覗き、姐さんいいからだだな、とはぐらかすように笑った。

角帽子(すみぼうし)、 水衣(しけみづごろも)、無地熨斗目(むじのしめ)の寂然とした僧侶にやつすと、元能の涼しい目鼻だちは、その沈んだ色合いのために、却って冴えた。
 夕暮れ過ぎ、皆に遅れて、五条の尼寺から赤松屋敷に参上した元能は、門を入るや否や賑やかな宴の喧騒に包まれた。領国播磨の反乱鎮圧に巧あった家臣、侍たちがひさびさに上洛し、主の屋敷で羽目をはずすことを許されたどよめきだった。五月闇を押し退けるように篝火松明がそこかしこで燃え、あちこちの遊女宿から集められた女どもが、色っぽい身ごなしてたむろしている。身分の低い侍の宴席は、雨を避けて広縁と外縁に設けられていたが、今宵は無礼講とて、普段なら主従を隔てる障子まいら戸は、屋敷の奥まで開け放たれていた。
「尼君はいかが」
 遅れて入った弟に、着付けの途中、元雅が尋ねた。今夜は略式の座敷能で、狂言と能とがそれぞれ一番ずつ上演される。まだ飲み食いの宴はたけなわであり、座興のしおではない。厨子から参った遊女どもが、今様、曲舞などで座を盛り上げていた。
「よわよわとしておいでですが、急な気配はございません」
 唐織を羽織りかけた兄を弟はまぶしく見上げた。この紅地八橋模様唐織は、父世阿弥が若き日に赤松氏から拝領したもので、何度も水に晒して織り上げられた衣装は、数十年に渡る使用に耐えてなお色褪せず、つい昨日、大舎人織部(おおとねりおりべ)から献上されたばかりのように華麗だった。金糸で流水と橋を織り、極彩色の菖蒲に黒燕の舞う装束は、生身の女がまとうには過剰な美々しさであった。どれほどの美女であっても、この衣装の絢爛には圧倒されてしまうだろう。だが、直面で、紅白粉もつけぬ元雅はなんとこの豪華に調和していることか。背筋に梳きおろし、元結にまとめたつややかな黒髪が、額に締めた紫の蔓帯に冴えている。三十四、五を盛りの極めと説いた世阿弥の言葉どおり、元雅は今、男の肉体の成熟の頂点を迎え、身心ともに充実した魅惑で輝いていた。
(この棟梁あるかぎり、我らの花は失せぬ)
舞台の準備に働く一座の者たちの顔には、元雅を中心に仰ぐ誇らしげな緊張が見えた。将来に予感される暗い影は、今、この若い棟梁の堂々とした居住まいに消されている。
「棟梁、では」
 今夜の狂言をつとめる三郎九郎が膝をついた。彼はもと近江猿楽比叡座に付いていたが、不世出の舞手犬王の死によって衰亡した一座を見切り世阿弥に従っている。もと比叡山の寺小姓だった三郎九郎は、丸顔に下がり目という、なかなか愛嬌のある顔立ちだった。すでに四十も半ばを過ぎたが、腰の軽い飄々とした風体は十歳も若く見える。妻を娶らず、さりとて遊び女に溺れるでもなく、酒だけが楽しみという男だった。彼がしらっとした顔で舞台に上ると、まだひとことも喋らぬうちに、見物衆からくすくす笑う声が聞こえる。目と目の間がひどく離れている上に、ぽってりした口許がなんとも言えずおかしいと皆は言う。たしかに吊り合いのよくない顔だが、決して醜くないのが、笑わせ者としての狂言役者にはうってつけなのだった。
「花子、よろしく頼む」
 元雅の言葉に、へい、と三郎九郎は頭を下げた。半ば禿げ上がった頭に、白髪交じりの茶筅がちょこんと乗っている。小太りの体を丸め、肉の盛り上がった肩に丸顔を埋めるような格好でかしこまった彼は、もうそのまま主にこきつかわれる気の良い太郎冠者だ。
狂言「花子」は、愛妻家の主が妻を騙して遊女花子に逢いに行く間、召使の太郎冠者に身代わりをさせるという筋書きだ。主は妻に、七日間の参禅をするから近寄るなと言いわたし、座禅衾を被って籠もる。実はこの役を太郎冠者に押し付け、妻がやってきたら口をつぐんでかぶりばかり振っていよと言い含め、抜け出そうという肝だ。しぶしぶ身代わりになった太郎冠者は、これが内儀に知られたら、自分の命はあるまいとびくびくしている。
 案の定、夫の精進生活を案じた妻がやってきて、いろいろと話しかける。太郎冠者は主に命じられたとおり、一言も喋らず、必死でかぶりを振って騙そうとするが、結局妻に衾
を引き剥がされてしまう。たばかられたと知った妻は怒り狂い、「おのれ打ち殺すぞ」と太郎冠者を脅す。
進退窮まった太郎冠者は仕方なく主の命令を妻に明かし、どさくさにまぎれて妻に座禅衾をかぶせて逃げる。そのうちに主が帰宅してくる。可愛い花子に名残を惜しみ、ひきかえ家に待ち構える古女房を悪しざまに罵りながら戻った主が、さて太郎冠者の座禅衾をひきあけたとたん、形相険しく妻が浮気者の主にうちかかり、逃げる夫を「やるまいぞ、やるまいぞ」と追い込んで終わる。
三郎九郎が太郎冠者をつとめ、主は古株の何某、妻を演じるのは三郎九郎のまだ若い甥であり、一年ほど前からこの甥は叔父とともに舞台をつとめているが、棟梁の能のモドキ
をつとめるのは初めてだった。
「よろしゅう」
三郎九郎が控えた脇で、甥の乙弥が神妙に深く手をついた。叔父甥の間柄と聞けば、なるほど似通うかもしれぬ柔らかい顔、目じりの下がった乙弥だが、女にしたいような色白餅肌で、やや受け口気味の小さな唇がなんとも云えず可愛らしい。普段の動作もなよなよしている。まだ二十歳そこそこの乙弥を、口さがない一座の者は、三郎九郎の女房であろうと噂していた。乙弥は男色であることを隠さず、女装こそしないが、衣装も男にしては派手なやわらかものを好み、ぽったりした唇をさらに強調するように、常に薄く紅を付けていた。
「お恥になりませぬよう、あい勤めさせていただきます」
 乙弥はすこし小首をかしげ、元雅と元能に媚びた視線を送る。上目づかいに絡む視線に元能は鼻白むが、元雅は鷹揚に構え、
「乙弥の芸達者は三郎九郎殿から聞いている。氏信殿も重宝されている、とか」
いえ、そんな、と乙弥は衣装の袖を両手ですくって顔におしあてた。

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