さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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中世夢幻 其三 辻が花

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 其三 辻が花

そっちは西のしまじゃないわ、と険しい声にとがめられて、酒の瓶子を捧げ持った宝珠が振り返ると、一目で遊女とわかる派手な小袖を着た数人の、はっきりこちらを見下す視線とぶつかった。
「お座敷に参るのは東と決まっているの。あんたは西の女でしょう」
 裏の階から、酒席のしつらえられている広縁にまわろうとした西洞院地獄が厨子の女どもに向かって、人もなげな口調で言いかかる。
「芸を御所望というので招ばれたんだ。今夜は無礼講だろ」
 地獄が厨子の遊女たちの先頭に立った紅鶴が低い声で言い返した。その落ち着き払った声音に、東洞院の遊女は気圧されたように言葉を呑んだ。
 五条近辺にたむろする遊び女の世界にも厳しい階層があった。中でも、東洞院は「大名高家のほかへは出」ぬ高級娼婦の街である。下克上の時勢、落ちぶれた武士また公家の子女たちは、こうした遊び女になるしかなかった。
 これには足利三代将軍義満の専制も一因をなしており、彼は己が意に従わない臣下を容赦なく断絶した。朝廷貴族に対しても同様で、それどころか武門以上に過酷な処置をとった。義満によって排斥された公家には西園寺実俊、久我具通、葉室長顕など、足利氏など比較にならぬ由緒古い名家の面々もいた。彼らは武家の義満に追従するのを恥とし、彼の逆鱗に触れた。圧倒的な武力財力で天皇を押し退け「日本国王」を自認する義満は、彼の王権に逆らう朝廷貴族が、どれほど名門であろうと粛清に容赦はしなかった。
東洞院には、こうして没落した貴種の末が流れ着き、すぐれた才色によって権門の寵愛を得る者も多かった。義満晩年の愛妾となった高橋殿も東洞院の遊女だったのである。
「あなた紅さん?」
 東の女の一人が、呼びかけた。なれなれしく、それでいて侮蔑のこもる声だった。
「あたしが今参りだった頃、紅さんは東で売れっ妓だったわねえ。まだこどものあたしなんて覚えていないでしょうけれど。今夜は紅さんが歌うのねえ、昔はほんとにいい声だったそうねえ」
 言葉のおしまいをねっちりと伸ばす女は、肉の厚い胸元を反らすように紅鶴を眺め下ろし、意地の悪い笑顔をつくった。が、紅鶴はすこしも怯まない。
「赤松さまは、昔からの御贔屓だ」
 ひくい声で紅鶴は居直った。丹念に塗りこんだ白粉の下で、彼女は怒りに顔をこわばらせているのかもしれない。紅鶴の全盛期を見たという東の遊女は、東から西へ落ちた紅鶴をあからさまにさげすんでいる。この女は見たところ宝珠と同年輩で、だとすると紅鶴はもう三十半ばを過ぎているのかもしれない。遊女ならずとも、古代の女としては、はっきり「さだ過ぎ(盛りを過ぎた)」の年齢である。今夜の仕出しのために、紅鶴は他の遊女たちの倍の時間をかけて化粧した。もとの顔立ちが整っているので、念入りに盛装した紅鶴の容色は東の女に勝るとも劣らない。それが相手の癪にさわるのだろう。
色街の女の年齢は堅気とは違う移り行きをする。肉体の窶れは容色の衰えと一致しない。肌が皺ばみ唇が褪せても色香は残る。だが、その色香はときに無惨なものであるかもしれなかった。この時代の白粉は水銀を原料としていたから、塗れば塗るほど女たちの皮膚は水銀中毒に焼け、ときには醜い爛れとなり、健康を蝕んだ。
「まあ、あなたが有名な紅鶴?」
 紅鶴の前で黙ってしまった朋輩に代って、横から別な女がまた言いかかった。
「先代の大樹(将軍)に可愛がられたとか。あなたが西にいたなんてね。どこぞのお大名に迎えられたとばかり思っていたわ」
 厭味たらたらの台詞を、もう紅鶴は無視し、
後ろに立ちすくむ地獄厨子の仲間たちに向かって顎をしゃくった。
「行こうよ。殿がお待ちかねだ」
 西の女どもは東洞院の剣幕に圧倒され、紅鶴の背中に隠れるように身を縮め、一列に並んでついてゆく。宝珠はひそかに舌打ちした。
(意気地なし、なによ)
 背筋を伸ばし、また両膝を少しかがめて衣装の裾をさばき、作法どおり美しく歩いているのは先頭の紅鶴だけだ。他の女たちはすっかり気後れし、こそこそとした足取りもおぼつかない。なるほど東と西では女たちの容色衣装に格段の相違がある。東洞院の女と張り合えるのは、まず宝珠くらいだろう。しかし彼女も新参で、大名高家の引き立てをいただく出世前ときては衣装がいささか見劣りする。
それでも、ぱっと目立つ宝珠の器量は、東の女の嫉みをそそったらしく、すれ違いさま、これ聞こえよがしに仲間どうしでつつきあい、
「婆と田舎娘が」
 宝珠はすかさずつまづいたふりして、手に捧げ持った酒瓶をかたむけた。どろりとした濁酒は、東の女の派手な辻ガ花の衣装に飛び散り、相手は金切り声をあげかけ、そこは場所柄、血相変えたが、ぐっと喉元で抑えた。
宝珠はぬけぬけと、
「あらまあ、田舎住まいの今参りが、お東の上臈にとんだ粗相をしでかして。堪忍してください」
 べたべたした白粉の額が、一瞬てらっと光って見えるほと相手は逆上したが、ちょうど折りよく、世話役の小姓が女どもの参上をせかしにやってきて、小競り合いは打ち切られた。
「よくやるねえ、あんた」
 西の女のひとりが宝珠の大胆に眼を剥く。
「たいしたもんだよ、若いのに」
「東も西もあるもんか。どのみち地獄、なによお高くとまってさ」
 宝珠はささやき返し、西の女どもはつられて笑った。どのみち地獄、そうねえ。
  地獄極楽紙一重
  主が来る夜はかりょうびん
  天上天下花ぞ降る
  さて花のふるさととなりぬれば
  来ぬ夜あまたのあらかなしや
  さて鬼となりはてて
  牛頭馬頭(ごづめづ)ひしひし
  なうなう 慕はしや、あな憎し
 紅鶴は小声に口ずさみ、なるほど、抑えてはいても節回しの巧みに宝珠は聞き惚れる。
 歌のおしまいに、紅鶴はさらりと括った。
「地獄だって、色男が来れば極楽」

 これは諸国一見の僧にて候。われこの間は都に候ひて、洛陽の名所旧跡残りなく……。
 笛を聴き澄まし、声低く謡い出した元能は、うつそみの自分自身と、演じている一所不在の乞食僧との心境が、ぴたりと重なる快さを感じた。
 今夜の能は、季節にふさわしく「杜若」である。武家で、しかも戦勝祝いとなれば、もっと勇壮なものをと一座は考えたのだが、老境にさしかかった赤松満祐は、
「戦を終えて花の都に戻ったものを、いまさら闘 も鬼もない」
 と優雅な歌舞能を所望した。若き日に彼は義満に近侍し、観世座の棟梁がまだ観阿弥のころから能に親しんでおり、演者にとっては甲斐のある観客、目ききのひとりであった。
 夕々の仮枕……宿はあまたに変はれども、同じ憂き寝の美濃尾張、三河の国に……
 「杜若」は、父世阿弥が若年の頃に作った。「伊勢物語」に因んだ曲で、杜若の名所三河の国八橋にたどり着いた旅の僧の前に、里の女が現れ、自分は杜若の花の精であり、またかつて、在原業平と密通した五条后高子でもあると告げる。女は懐旧の思いに涙を流しながら、恋人業平の形見の冠、さらにかつて宮中でまとった豪華な唐衣を身にかけて舞い、不遇に諸国を流浪した業平こそは歌舞の菩薩、陰陽の神と讃える。女は袖を翻して舞ううちに、自分自身と恋しい業平とを重ねてゆき、花の精でもあり、また后高子の亡霊、さらに在原業平の面影までも、しらしらと明け染める紫の幻影に溶け合う、という幽艶な夢幻能であった。
前シテ里女の元雅が、父祖伝来の面をかけて舞台に現れたとき、見物衆にみなぎった声にならない吐息を、ワキの元能は皮膚にしみるように感じた。宴の観客は既に酔いしれている。能の幽玄、芸の深さなどではなく、座興の快楽を求められている場であった。
襖障子は取りはらわれ、奥の上座には主満祐が、客人とともに女を侍らせて座る。主賓は細川持之に山名持豊。ともに幕府の重臣であるが、持豊は父の代理であった。彼の父時煕は、あいにく赤松氏と不仲であった。この不和の根は深く、足利幕府創建時代までさかのぼる。
 赤松・細川氏は、足利尊氏以来の宿将であった。義満がまだ幼少の、南北朝騒乱時代には、戦火を避けて播磨の赤松氏に匿われ、やがて義満が将軍に任じられると細川氏がこれを補佐した。成長した義満が南北朝を統一し、カリスマ的な専制政治家となると、宿将たちの権力はいったん後退したものの、義満の急死による後継者争いを機に、細川氏は再び発言力を強めた。
嫡子でありながら父に疎外された義持は、宿老大名たちの後押しによって、ようやく将軍職を襲うことができたという有様であった。
このために二十数年に及ぶ義持の治世は、事実上有力大名たちの合議によって成り立ち、この趨勢は義教擁立以後も続いている。このように細川・赤松両氏は幕府と緊密な関係を保ち、主流名門意識が強い。
 一方山名氏は全盛期に日本六十六カ国の内、十一カ国を支配する六分一衆として山陰に蟠居した。彼らは南朝に与して幕府に歯向かい、備中守護の細川氏と険悪な間柄であった。北朝優位となると山名氏の権勢は衰えたが、義満時代にかろうじて幕府に復帰することができた。しかし狡猾な義満は大国山名氏のお家騒動を裏で操作し、このために広大な領国は分裂縮小、昔日の威勢を失った当主時煕は、かろうじて但馬守として残ったのであった。
感情の起伏の激しい時煕は、細川氏への怨恨を忘れず、この気持ちは若い持之が主となっても変わらない。
 若造が、と時煕は息子持豊に吐き捨てるように言った。
「細川の青二才めが、髪の生え際から手の爪先まで親父に似くさる」
 赤松氏の領地播磨騒乱の際にも、時煕は悪意まるだしに罵ったものだ。
「誰が播磨なんぞへ加勢をするか。赤松のくそどもなぞ土民にくびり殺されればよい」
 この老父を持て余し気味の持豊は、当年二十五歳。皮肉なことにこの青年の容貌も若き日の父親をそっくり写し取ったかのような赤ら顔で、違うところといえば、持豊は同じ多血質ながら、母の血を享けて思慮深かった。が、それゆえに父時煕はこの次男を可愛がらず、顔は似ないが性格は自分にそっくりな長男持煕を偏愛している。
痩せがたちの細川持之といかつい山名持豊が赤松氏を挟んで居並んだ様子は、さきほどの将軍御所の似せ絵のようだった。
それこそ舞台さながら、代々の劇的な葛藤を秘めた主賓席だが、男たちはそ知らぬ体で、里女と僧の問答を鑑賞している。
「美しいの」
満祐は満足そうに呟いた。
「ワキ役であっても醜男は見られぬ。あれは本家の子なれば藤若の面影がある」
 赤松満祐は前歯の欠けた歯茎を剥き出しに笑い、両脇に抱え込んだ遊女の腰を揺すった。
彼に酌をするのは東洞院の遊女たち。だが若い山名持豊の傍らに侍るのは宝珠で、細川にしなだれているのは紅鶴だった。上臈気取りの東の遊女とは異なり、衣の裾をはねあげて踊る宝珠の乱れ舞は好色な持豊の気をひいた。また紅鶴の今様の声の素晴らしさに、趣味人の細川持之は感嘆し、召し寄せたのだった。
 赤松満祐に侍する東の女は、内心宝珠と紅鶴が癇に障ってならないのだが、そんな気配はおくびにも出さず、満祐に向かい、甘い声で囁いた。
「若き日の観世太夫、世の語り草になるほどのお美しさと」
おお、と満祐は遠くを見る目になった。
「儂と藤若は年の頃も変わらぬ。儂は尊勝院さまの傍らで、藤若に接したことがいくたびもある。猿楽づれとは見えぬ気品があった」
 満祐は若かりし日の感動そのままに、藤若の名をつぶやいた。少年藤若が成人して元清となり、出家して世阿弥と号するまでの時の流れは、この瞬間満祐の胸に跡をとどめぬようだった。だが、彼はすぐにその感傷を酔いに溶かしこみ、脳裏から消してしまった。
  思ひの色を世に残して……
 舞台の元能は幻影の領域にひたされていた。
目の前にうつむきしおれる美女がいる。賤の女にはふさわしからぬ物腰で、旅僧の問いに応えて伊勢物語のゆかりを語り、いったん言葉をおさめても、なお語り尽くせぬ心残りに、もの言いたげに目を伏せる。
見ず知らずの旅僧に心を許していいのか迷い、迷いながらも姿は崩さず、沈黙、やがてさらなる昔語りをほろほろと紡ぎ出す。その全てを静寂な所作に表現する元雅であった。柔らかく腰を落とした元雅の姿に、大柄な美丈夫の日常は感じられない。昔を恋ふる里女の華奢な息づかいが元能に伝わってくる。
シテを見つめるワキ役者としての元能と、たちあらわれた幻影に踏み込む旅僧とは、原点を同じくする二つの影であった。此岸と彼岸は元能の内部で分かちがたく結ばれている。シテの内面を測るワキの冷静と、まぼろしに引き寄せられる旅僧の揺らぎは相反しているが、役者の内部の夢と、うつつの箍と、両者の拮抗が激しいほど、そこを超越したときに耀きまさるのが芸であった。夢幻に溺れることなく、現実に縛められてもならぬ。夢とうつつと、狂いと正気と、つめたく甘美に凝視してこそ芸の花であった。
……。
旅僧の問いに、里女は応える。
「あの方の形見の品がございます」
「形見、とは?」
 女は草むらを抜けて自分のわび住いへと歩む。水辺に咲き群がる菖蒲の花が暮れゆく夕陽に呑まれ、憂いを帯びた花紫は空よりも濃い藍色に早くも沈んだ。女は戸口でふと足を止め、夕風にざわめく水辺を眺める。
  在原の、跡な隔てそ杜若、沢辺の水の浅
  からず、契りし人も八橋の、蜘蛛手に物
  ぞ思はるる、今とても旅人に……
 女の後に従い、僧はぼんやりとした妖しい心持ちに包まれた。すでに夜の闇は深く、夕星が天上にきらめきこぼれている。が、女の周囲だけほのかな光が滲み、暗闇というのに女の面相がありありと見えるのである。その他は視界ただ茫々と無明。女は旅僧の惑いを察したかのように微笑んだ。
「粗末な宿ではございますが、どうぞ一夜」
  今はとても旅人に、やがて馴れぬる心か  な、やがて馴れぬる心かな……。
 地を、あるいは水面をすべるような地謡が
女の心情をなぞって止むと、シテ元雅は自然
な姿で中央から退き、己が在りし日の華やか
な唐衣をまとう。
 絢爛の衣装は、すべて赤松満祐が若き元清
に与えたものだった。
  なうなうこの冠唐衣御覧候へ
「ほら、御覧あそばせ」
女はゆらりと振り返り、舞の袖を拡げた。
白い額には恋した男の形見の冠が光る。女で
あり男であり、また人の亡魂であって花の精
霊……変身した女は、玲瓏とした面をあげた。  
極楽の歌舞の菩薩の化身なれば、詠みおく和歌の言葉までも 皆法身説法の妙文
  なれば……
恋人業平こそ歌舞の菩薩の化身と告げ、今
こそ昔の舞姿を彷彿とさせようと高揚する女
面が、その瞬間ぱっくりと剥がれ落ち、しと
どの汗にまみれた元雅の顔が露わになった。
う、という声にならない呻きが粘ついた雨音に重なって拡がった。
 紫の長絹(ちょうけん)を翻し、舞扇をかざしかけた姿のまま元雅は静止し、その足元へ女面は無機質な音をたてて落ちた。今の今まで元雅の上に生きていた女人の顔は剥がれ落ち、汗にまみれた男の地顔が蝋燭の灯りに晒されている。元雅、いや杜若の妖精と相対していた元能もまた動きもならず、凝然とワキ座に腰を落としていたが、端正な兄の顔がこれほど忌まわしく見えたことはなかった。
(面をかけてくだされ)
 元能は哀願の凝視を直面の兄に注いだ。だが心の動揺とは無縁に、五体に浸みこんだ芸人根性は、ワキ僧の問いを絞り出すではないか。
  これは末世の奇特かな。まさしき非情の
  草木に、言葉を交わす法の声
 喝、と小鼓が鳴り、応、と大鼓が受ける。
 元雅はまばたきひとつせず、ワキ僧を眺め返し、滞りの片鱗も許さぬ声で応じた。
  仏事をなすや業平の、昔男の舞の姿
 憑、と笛が静寂をつなぐ。
 そのまま元雅は舞いおおせる。

 ことのほか見事なり。
 赤松満祐は上機嫌で扇を振った。千秋楽万歳楽が謡われると舞台は速やかに片付けられ、優艶な情趣も消え、酒を酌み交わすかわらけが打ち鳴らされ、男たちの酔い痴れた笑い声が九間に満ちた。
「藤若はよい後継ぎを得たもの」
 と、御前にかしこまった元雅に、満祐はその場で着ていた素襖を脱ぎ、手づから投げ与えた。ほう、と満座の家臣がどよめいた。従者になかだちさせず、主みずからじかに与えるというのは普通の主従関係でも破格の仕儀であった。
 まして、今なお陰に陽に河原乞食とさげすまれる猿楽風情が、と驚きの声が宴席のそこかしこで囁かれている。当の元雅は冷や汗三斗であった。
 面が落ちたのは隠れない失態である。本来ならば、この場で手打ちにされてもいたしかたのない不首尾だ。落ちる、破れるなど、戦勝祝いの宴にはもってのほかで、実際、面が落ちた後、元雅は死を覚悟して舞った。
 ところが、老練な赤松氏は、凶事を慶事に変えてしまおう、という肝である。芸人どもを処罰してことを荒立て、くちさがない京童の噂話に貶められるよりは、むしろ太夫の名演と称賛し、稀代の見物に一件を塗り替えてしまえば、己の豪気の宣伝にもなろうというものだ。
 計算ずくで満祐はしきりに元雅を褒めちぎるのだが、そのあきらかに過剰な語気を浴びせられ、元雅はひそかに目が眩む思いがする。
(舞台よりこれはよほどこたえる)
 作法どおりに膝行し、投げ与えられた衣を拝する元雅の唇は蒼ざめている。老大名は、元雅の狼狽など知らぬ顔で上機嫌で盃を傾けつつ喋る。
「儂はそのほうの祖父の名演を見た」
 盃を重ねるにつれ、満祐は知らず知らず懐古へ向かう。
「尊勝院さま御臨席であられた。おお、藤若がお側に控えておった。観阿弥は「自然居士」を演じ、あの大男が、そのときは十二、三の少年に見えたぞ。そなたは藤若よりも祖父に似ておるの。見れば堂々たる男ぶりだが、さきには嫋々とした手弱女、さらには水もしたたる貴公子業平と見えた」
「恐れ入りましてござりまする」
 元雅はただ平服する。
 さやさや、となまめいた衣擦れが乱れ、女どもが宴席の中央へ舞い出ると、男たちから喝采が沸いた。肌も透ける上着に紅色の袴をつけ、烏帽子も赤い半男装。これが人気の白拍子曲舞であった。女どもは皆若く、薄い夏衣に透けて見える地肌が豊かに白い。ただちに宴席は、さきほどの能の鑑賞のときとはがらりと異なるなまな歓声で弾んだ。
 しおを測って、元雅は幕屋に退出した。
「紐に、傷が」
 小声で告げる弟を制し、元雅は何食わぬ顔で、ふるまわれた割り子弁当をしたためる。身分低い彼らが宴席につらなることはなく、控え所で酒肴をいただくのが普通であった。鮑、昆布と常の縁起物に加えて、上機嫌を装う満祐の意向で、さらに贅沢な膳部であった。飢饉が続き、都大路に餓死者が重なるこの時節にも将軍始め、傲慢な支配階級は全く下々の苦境をかえりみなかった。観阿弥以来、そうした上流貴族の恩顧を享けることで、観世座は出世を遂げたのであった。
 山海の美味を盛りあげた弁当を口に運びながらも、一座の者は言葉少なく、おそるおそる棟梁の顔色をうかがっている。
 縋りつくような一座の者どもの視線を集めている元雅の顔は晴れやかで、憂い翳りはつゆも見えない。食が進まないのは弟のほうで、元能は懸命に冷静を保とうとしながらも、箸を取る手の震えを鎮めることができない。苦い液が舌根にこみあげ、眩暈さえする。
(裏切り者がいる)
 面は神聖なものである。演者以外は手を触れてはならない。兄が舞台の前に手入れを怠るはずもなく、となれば今宵何者かが人の見えぬ隙を謀って、面の掛け紐に切り込みを入れたのに違いなかった。元能は憤りに喉が詰まり、気がつくと箸を捨てていた。
「何とした、元能」
 兄の声は普段とかわらず鷹揚だった。いや厳しかった。厳しいのは衆目を憚らず、内心の乱れを露わにしている弟の未熟を咎めてのことだ、と元能はやり場のない怒りをさらにふくらませる。この場で裏切り者を探り出すことなぞできない。ならば、太夫にならって、最後まで冷静な面を保つべきだ。
(俺にはできぬ)
「御免」
 袴を蹴立てて立ち上がった。人の熱気のこもる幕屋を出ると、篠つく雨音がいきなり青年を包んだ。ばらばら、ざらざら、と大粒の水滴が庭園の松の枝から軒にしぶき、どうやら遠くで雷も轟いている。
(何のために陥れる?)
 雨脚深くどんよりとわだかまる闇に向かって、元能は声にならない呻き声をあげた。が、このような問いこそ愚かで、また無意味に違いなかった。誰かの退転は他の誰かの出世であった。
 観世一座を猿楽の主流に押し上げたのは祖父と父の天才だが、彼らに圧倒され衰亡していった芸人どもがいた。近くは近江猿楽の岩童(いわとう)。世阿弥に増して晩年の義満に寵愛された歌舞の名手犬王の後継者だ。しかし岩童は師の稟質を継ぐことができず、またたくまに没落していった。また義満の息子義持は田楽の増阿弥を贔屓したが、やはりその芸も一代かぎりであった。
 敗北者たちは観世座の隆盛にどれほどの怨念を抱いていることか。あらたに台頭しようと望む芸能者は絶えることなく、虎視眈々と先行く者の失墜を願い、狙い、企んでいるのに違いなかった。あるいは同じ一座のうちにあっても、シテになれぬ口惜しさ、ワキ役者、裏方に甘んじねばならぬ無念を溜めている者もいよう、と喘いだところで元能はすうっと背筋が寒くなった。
 嫉妬、羨望、如何とも超えられぬ彼我の才能の差を、心の底で常に耐えているのは、誰でもない己ではないか。
(俺は兄者を尊敬している)
 ごまかすな、と囁いてくる声がある。
 長雨にくたされた卯の花が濡れそぼった綿のように重く打ち伏している灯篭のあたりから、皮肉めいた揶揄の声が聞こえる。
 尊敬だと? それは嫉んでいる、恨んでいるということだ、お前の中から、無理やりに何かが奪い取られてゆく、その口惜しさを、尊敬という立派な修辞でごまかすなよ。
 白い花影に雨が撥ね、どうどうと激しさを増す雨音の奥に、ゆらりとたちのぼる姿が見える。聞くまい、目にするまい、と踵を返す前に、元能の感情は雷鳴の轟きさながら彼自身を揺さぶる。
(重兄!)
 俺に逢いたかろう?
 従兄は首をゆらゆらと左右に振り、身体を斜めにひねり、腕組しながらにやりと笑った。
 俺に抱かれたいのだろう? お前は俺を軽蔑しているな、俺が伯父上を裏切った節操のない奴だと蔑んでいる。お前は俺を侮蔑することで気位高く構えているが、他でもない、それゆえに俺を愛することができる。恩知らずの俺はおまえより下等なろくでなしだから、お前は自尊心を傷つけることなく俺に恋着できるんだ……。
 これは幻聴か? 記憶のどこかしらに残っている元重の口癖、言葉尻を、元能の思慕が編んだ台詞だろうか。いずれにしてもこうした仮借ない斬りつけは、必ず返す刃で従兄自身を傷つけるものだった。
(違う!)
 ぐわらぐわら、と轟音が弾け、元能は床に膝をついた。青白い閃光が瞼を閉じる寸前、目の端で燃え上がったのが見えた。耳を塞ぎ、視覚を閉ざしても元能はなお、軋み倒れる松の根の向こうに従兄の幻影を求めていた。
「ちょっと、あんた」 
 遠慮のない言葉といっしょに、やわらかい手が彼の肩に触れた。
「吐いてるの?」
 女…と元能は鳴りをひそめた雨闇に漂う化粧の匂いを嗅いだ。目を開けると、小袖の裾をからげた白い足が見えた。ひきしまった足だ。元能は顔をあげた。顔は足より白い。美人だ。
「あんた、悪酔いしたの? 吐くんなら庭のどこかでやってよ。通れないわ」
 あっけらかんとした声だ。
「酒は飲んでいない」
 元能はふらつきながら柱に寄りかかった。
「苦しいの?」
 女は労わるように元能の背中にてのひらを置いた。
「落雷にすくんだだけだ」
「雷なんぞ鳴りはしなかったわよ。ほら、雲が割れて月明かり」
 ずけずけした口調だが、元能の背を撫でる手は優しかった。
 元能が虚空を仰ぐと、さきほどまで垂れ込めていた暗雲は消え、なごやかな円月が覗いている。月光は雨の名残に潤んでいるが、樹木をつたう水滴がそこかしこの葉先で踊って見えるほど明るい夏の月影だった。
「今夜は立待ち月」
女は月を見上げ、それから元能に顔を向けた。元能の嗅覚に女の汗ばんだ肌の匂いが触れた。化粧の匂いよりも濃い。風が変った。
 元能はうろたえて後じさりした。が、相手は彼の動作よりも大きくこちらに踏み込んで獲物を逃さない。やわらかく腰をおしつけてくる。あしらいに慣れた遊女の所作に違いないが、元能はかわす術を知らない。
女の髪油があまく匂う。母や妹の髪に嗅いだ匂いと同じだ。全てが未知ではないささやかな安心が元能の心を掠める。男の心の緩みをすかさず女はつかまえ、するすると白い手が半透明な袖から伸びて男の首にからんだ。
「何をする」
「知れたこと」  
 ふふ、と女は笑った。
 舌先をかるく噛まれた、と元能が感じたとき、屋敷の奥から、
 山名さまがお探しだぞ、傾城殿。
 従者は足音も高く女を呼び返す。女は元能の口の中で軽く舌打ちし、するりと腕を解いた。
 去り際に女は元能の片手をとり、自分の胸に導き入れた。肌のあまさを男の官能に刻みつけるために、彼女は元能の手の上に自分の手を重ね、数度乳房を握らせた。
「あたし、宝珠」
 きらきらしたまなざしが元能をとらえた。
「西洞院、地獄が厨子にいる。逢いに来て」

  歌へや歌へ うたかたの 
  あはれ昔の恋しさを
  今も遊女の舟遊び
  世を渡る一節を
  歌ひて いざや 遊ばむ
 夜通しの宴も、深更過ぎればひとりふたりと退き、残りは数えるばかりとなった。
 赤松氏は寝所へ入り、山名持豊は宝珠を伴った。
 残ったのは底なしの飲みすけばかり、もはや上下の隔てなくひたすら盃を煽る。
 酒はこの時代、たいへんな貴重品で、ようやく貴賎へだてなく流通しはじめたとはいえ、清酒(すみさけ)はよほど富裕な者にか口にできず、普通には薄濁り、その下は濁り酒で、平侍ならばどぶろく、あるいは水で薄めた粗悪な酒がせいぜいだった。
 赤松氏は大盤振舞で酒蔵からたっぷりと上等の酒を運び出した。これを滅多にいただけぬものぞとばかり、男たちは痛飲した。
「そなた強いのう、いったいどれほど呑めば潰れてみせる」
「さあ」
 紅鶴は醒めた顔で細川持之に酒を注いだ。高麗縁の畳を敷いた主賓席に残っているのは彼ひとり。これも相当呂律があやしくなっているが、傍らにぴったりと吸いついた紅鶴と盃を干し合ううちに、寝所に入るしおを失くしてしまった気色である。
「もう二、三ばかりいただきましたらあやしくもなりましょうか」
 含み声で応え、くいっとかわらけを一息に
空け、紅鶴は艶然と微笑した。身八つ口から肌を探る男の手を、ぐにゃりとした身ごなしでかわし、
「殿があたしを酔いつぶしたらと申し上げたではございませんか」
う、と既にしたたか酔い痴れ、顔を赤く腫らした細川氏が不承不承うなずいた。
「二、三杯か。それならば儂の勝ち目もあろうというもの」
 持之はとろんとしたまなざしを女に向けた。燭台の黒い影に半身をひたした女の姿がぐらぐらと回り始めている。女はこちらをじっと眺めて微笑している。赤い唇がきゅっと小気味よく吊りあがり、鉄漿を塗った口許がぱっくり割れると、ふいに
 あ、は、は、
 聴きなれない無遠慮な女の哄笑が放たれた。細川持之自身の喉からはしょっちゅう漏れる嘲りの声だ。しかしこれまで彼が浴びせられたことはなかった。
(遊女づれが、何とする。儂は幕府の管領ぞ、無礼者)
 持之は女を睨み返すが、夜通しの暴飲にも崩れぬ女の濃い化粧が、こちらの焦点の合わない視線をさらに撹乱するようだ。相手の表情が見えないのである。
「何の」
 紅鶴は歌のように、ひとつずつの言葉をひきのばして言った。
「もう二升、三升ほどいただいたら、あたしは殿のものになりましょう」
 ぐずり、と汗ばんだ衣の捩れる暑苦しい音とともに細川氏は白目を剥いて横に傾いた。
その細川を支えようとはせず、畳の上に倒れるままにほったらかして、紅鶴は生あくびをこらえた。石臼を廻すような鈍い鼾が部屋中に満ちている。酒豪たちもさすがにあちこちに酔い倒れ、中には人目憚らず女に覆いかぶさっている男もいる。
 ふん、いやな奴
 紅鶴は鼻を鳴らして立ち上がり、衣服をはだけて昏倒している持之の顎を、爪先でかるく蹴った。いばりくさって、と紅鶴はそこで初めてはっきりと顔を歪めた。すこしはふらつくが、しっかりと床を踏みしめて縁側へ出る。
 夜は白み始めている。鶏の鳴く声が聞こえるが、もう二番鶏くらいであろう。雨の去った後の透明な空に、東山の青い稜線がすがしく見える。庭園の樹木の高い梢に、昇る朝の光が濃くひろがってゆくのは、そろそろ長雨も終わるしるしだろうか。霞がかるように幾重にも流れる横雲の茜色に女は酒に疲れた眼を細め、美しい色彩に心を遊ばせた。すると、それまで化粧で見えなかった目尻の横皺が、朝のまばゆさにくっきりと浮かび上がった。
「よう、お疲れさん」
 広縁の隅に、いつから独酌を楽しんでいたのか蝉丸がいた。赤い布で頭の火傷を隠している。酔い乱れのない、つやつやしたいい顔色である。
「おつとめはすんだのかい」
 にやにやしながら聞いてくるのに、
「飲み倒しただけよ。めんどうはいやだ」
 紅鶴はそっけなかった。
「めんどう?」
「ああ、もういまさら……いただく銭は変わらないんだから」
「側女に出世するかも知れぬに」
 紅鶴は横を向いた。
「窮屈はもっといやだね」
 ほう、と蝉丸は頷き小鼓を胡坐の膝に挟むと、ぽん、ぽん、と指先だけの手すさびで、鼻唄まじりに拍子を打ち始めた。
  世の中は めぐる因果の小車
  良し悪しともに めぐり果てぬる
 節のすきまで、またぐいっと酒をひっかける。
「そうよねえ」
 紅鶴は真顔になって蝉丸の横に膝を抱えるようにしゃがんだ。
「おいらは、ただの戯れ歌だぜ」
 真顔の紅鶴に、蝉丸は逆に鼻白んだ。
「ふふ、何だっていいよ、今夜はともかく助かった。うまいねえあんた。間合いなんぞ、まるであたしの呼吸をきっちり先読みしてくれて」
「そりゃどうも」
 と蝉丸は頭巾を被ったままの襟足をそろりと撫でた。褒められたが、たいして嬉しそうでもない。
「さて、帰ろうか。赤ん坊が泣いている」
 溜息のように呟いて紅鶴は立ち上がった。
「そっちはよしな」
 紅鶴の行く先を察して蝉丸が制するのに、
「なんで?」
「見苦しいものがあるぜ。用足しならそこらの藪でもかまわないだろ」
 ふうん、と紅鶴は蝉丸の制止をきかず、柱を回って角の厠へ向かった。すぐに彼女の切迫した喘ぎが聞え、蝉丸は、
「それ見たことか」
 と頬を指でぼりぼりと掻いた。紅鶴は壁を隔てた曲がり角から上半身だけ覗かせ、蝉丸に手招きした。
「これ」
「見ればわかるだろう」
 死体だった。厠の戸口にうつぶせに倒れた男の体を、蝉丸は無造作に片足でひっくり返す。男にしては華奢な体だ。蒼脹れの死顔の無惨に、紅鶴は息を呑んだ。紫色の舌が口からはみ出て、顎から喉にだらんと垂れている。
「絞め殺されたな」
 男、とはいえまだ少年に近い死体の喉に、焼き縄を押し付けたような細紐の痕跡があった。身なりは武家ではない。やわらかものの色目は派手で、袖に女の衣装のように亀甲花菱をあしらっている。
「この子は、猿楽の」
 そうだ、と蝉丸は驚きのない顔で頷いた。女装して、古女房役だったっけ。
「なんでこんなことに?」
「さあな。死相はひどいが、ちょいと可愛い顔じゃないか。おおかた、ここに集まった侍衆の誰かが手ごめにしようとしたのじゃないか? 逆らったのか、口封じか、それにしては大袈裟だが、いずれにせよ死人に口なし」
 なんまいだ…。
 蝉丸が手を合わせるのを横目に、紅鶴は黙って庭に下り、厠でしそびれた小用を庭石の陰ですませる。
  めぐる因果の小車や……
 南無阿弥陀仏も一言きりで、また蝉丸が歌いだすのに紅鶴は、
「誰かに知らせないのかい」
「御免だね。庭掃きがそのうち見つける。横死だろうと飢死だろうと同じこと。屍なんぞめずらしくもない。土塀の向こうには、今も三、四人は腐ってるだろう。俺らはめぐり合わせがよくって、昨夜はうまい酒にありついたが、いつ道端にぶったおれるかもわからん。無駄な情は俺にはない。弔い酒でも喰らうさ」
 蝉丸は土瓶の口に吸いつき、わざとらしく喉を鳴らして飲んだ。それからすこししおらしく声を落として、
「お前も若いさかりに気の毒に」
 残りの酒を死体の…乙弥の舌がはみ出た口に注ぎかけた。ふっくらした唇には、いつものように薄紅が着いているが、この期に及んでは青黒い苦悶の無惨を際立てるだけだ。蝉丸の注いだどぶろくは、白い汚濁となって乙弥の頬や顎に飛び散り、弔いどころか却ってひどい形相になった。
「いけねえや」
 蝉丸は渋面になり、首筋にとまった藪蚊を叩いた。
「蚊? それとも…」
 紅鶴は言いかけてやめた。殺された男がさすがに気の毒で。

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