さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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中世夢幻 其五 紅鶴

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 其五 紅鶴


「金をかけろと仰せられてもだな」
 三条坊門の将軍御所に集うた幕府宿老大名たちは、義満三十三回忌のための金策で揉めていた。
 ひときわ大きいだみ声は山名時熙、その隣りに黒衣をまとうた醍醐寺三宝院満済、畠山満家、管領細川持之、斯波義淳らが円座を占める。
「数年不作、飢饉、あまつさえ土民どもの反乱がうち続き、御料所(直轄地)よりの年貢も十分でなし、さりとて臨時に段銭(課税)を強いれば、あの下衆めらは飢えた犬のように歯向かいおる」
 山名は肉の厚い頬を大袈裟に歪めながらまくしたてた。
「関銭・津料のひきあげはいかが」
 渋紙いろに痩せた老人、畠山満家が、喉にからまるような声で提案する。彼は数年前に肺を病んでいたが、気概は衰えず幕政の中枢にあって政策決定にあずかっている。
「無理でござろう。正長の土一揆、播磨の一揆と各地は未だ不穏続き。人馬の行き交いは困難を極め、海賊どもの暴行も抑えがたく、民の憤懣は募っております。この上税金を絞りあげるなら、余計に叛逆のきっかけを与えることとなりましょう」
 細川持之が悠揚迫らぬ美声ですらすらと反対した。
「赤松のまぬけが土民を鎮めぬからよ」
山名は苦々しく、ぼうぼうに伸びた口髭を引き捩じった。高血圧の赤ら顔のせいで髭に混じる白髪が目立った。彼は髭の上で大きな鼻を蠢かし、この若造がとばかりに細川を横目に睨み、
「では我等が領土より献上つかまつるか」
 細川持之は薄目で山名を眺め、眉も動かさずにさらりと山名をいなした。
「いや、飢饉は畿内諸国にとどまらぬ。苦しからぬ者と言えば、例の高利貸しくらいであろう」
 うむ、と諸大名は唸った。
 流通経済が急速に発展した結果、都の酒屋土倉業者はあくどく利子をがめて富を蓄えた。
酒屋とは醸造業の意味で小売ではない。京酒は名物として全国に運ばれ、その利益は貨幣経済の中心となっていた。また、土倉とは質屋だが、質草の品々を保管するための土塗りの倉を設けたことからの呼び名で、物資集散の激しい都市に不可欠な金貸し業であった。酒屋は蓄えた富を基に土倉を閉業し高い利子で貸付け、さらに利益を得た。 
 極端な高利貸しは一揆の原因ともなったが、彼らの納める莫大な税金は幕府の主要な財源ともなっている。幕府は高利貸しの横暴を取り締まりながら、彼らのおかげで収入を確保するという矛盾を抱えており、後には借金棒引きを要求する一揆側と、高利貸しの双方から調停料をまきあげるという腐敗へ陥ってゆく。
「今となっては義持さまが明との貿易を絶ってしまったのが痛いことでございますな。鹿苑院さまは交易を大きな財源にしておられたものを」
 斯波義淳が愚痴めいて昔語りに渋った。義満は明への臣従外交で巨万の銭を得た。それを義持は卑屈と見なして退けたが、政策を決定したのは義持ではなく、彼を押し立てた宿老斯波義将とその息子義重である。彼らは義淳の父と祖父だ。懐古する義淳の口吻には、そこはかとなく無能な将軍義持への軽侮が籠もっている。決定するのは宿老大名たちなのに、愚策をそしられるのは将軍だ。
「ちと、腹が減ったのう」
 山名は手を叩いて小姓に茶菓を運ばせた。
飲水病(糖尿病)の気でもあろうか、山名はしきりに湯茶を飲み、甘い干菓子をかじる。干菓子とは、棗や柿などの果物を干したものである。炙りたての干し柿が運ばれてくると、煮詰まっていた男たちは香ばしい匂いにそそられて、早速手を伸ばした。
 当時干し柿は、天日干しの他に変わった作り方があった。皮を剥いて籠に入れ、火にかけて乾かすのである。促成の干し柿はじっくり太陽に晒されたものより味は落ちたが、季節のはしりとして喜ばれた。食する前に、もういちどさっと火に炙って甘味を増やす。
 男たちの談合はだらだらと続いた。急を要する軍議ではなし、つづめて言うなら、どうやって高利貸し連中から金を巻き上げるか、また自分たちの負担する金額はどれほどかといった妥協策を講じる会談なので、結論らしい結論が出るはずもない。大名たちは皆、我が懐を痛めたくないのだから。
「無い袖は触れぬ、と申すではないか」
 楊枝で歯をせせりながら畠山は締めくくろうとした。幕府の体面を傷つけぬよう、酒屋土倉から金を搾るしかあるまいの。
「上さまの仰せには到底足りるまいが、そこは呑んでいただかねば」 
 老人は咳を堪えながら一同を見渡した。
「さよう、関東の動向も不穏でござる」
 斯波義淳が大きく頷いた。身を切って絞る銭は、少なければ少ないほどよい。
 関東公方足利持氏は、義持時代から幕府に反抗していた。義持が後継者を定めないまま没した後、持氏は京都の将軍職を狙ってさまざまに画策したが、宿老大名たちは、彼を無視して義教の籤引き就任を決めたのだった。
 いったい、室町幕府は統一政権としてはきわめて不安定な政治機構であった。北条氏を倒して足利幕府をひらいた尊氏は、関東を治めるために次男基氏を鎌倉府に置き、関八州に伊豆・甲斐を加え、さらに陸奥と出羽を管轄させたが、代が降るにつれて、室町幕府の東国支部というよりは、独立政権の様相をとりはじめた。
 京都を中心とした幕府は義満に至るまで南北朝の動乱に奔走し、また西国有力大名の反乱に悩まされた。初代尊氏、二代義詮は席の暖まる暇もなく戦闘に明け暮れ、三代義満は強大な権力を握ったが、晩年には公家化し、幕府の集権を体制的にしっかりと整備するより早く皇室乗っ取りをたくらんだ。
義満の野望は彼の急死によって未遂におわり、同時に幕府体制も堅固な統一のないまま宙吊りにされた。不安定な地盤に偉大な父の後を継いだ将軍義持は、歴代父祖とは比較にならぬ器量の小ささゆえに、我が地位の保全のためには有力大名たちの支持を得なければならなかった。法整備を怠った京都室町幕府は、権力の明確な中心が曖昧であった。明に対して「日本国王」を名乗って憚らなかった義満の栄華はただ彼ひとりのカリスマ性によって支えられ、その死とともに崩れたのであった。
崩壊を速めた原因のひとつには、義満が晩年に公家化したこともある。天皇家乗っ取りを企んだ彼は、愛児義嗣を親王に叙し、みずからも準三后に上った。権力の頂点に立った義満は、将軍よりも権威のある天皇に狙いを定め、嫡子義持を将軍に就任させたものの、実権は何一つ渡さなかった。ために将軍の権威は堕ち、義持以後の将軍家は、各国守護大名という小舟の寄せ集めの上に支えられている舞台のように危ういものとなった。
舞台で演じるのは足利将軍だが、彼の一挙一動は、板子一枚下の大名連の思うがままなのである。大波が来て小舟が散れば、室町幕府はあっけなく沈没しかねない。いや、波が来なくとも、小舟が離散する可能性はいくらでもある。
 将軍を戴く幕府体制をかろうじて保っているのは、幕府への忠誠心や、皇室尊崇の念などではない。ただ有力守護大名のエゴイズムであった。どんぐりの背比べ的な大名たちの勢力バランスと、自家安泰の画策の頂点で、足利氏があまり専横にならぬ程度に主権を握っている体裁をとっていてくれれば好都合、というだけのことだった。極論するなら、将軍は飾り物に過ぎない。
 こうした内実拡散の理由には、足利氏が抜きん出た名門ではない、ということもある。宿老大名の中には、足利氏を主と仰ぐどころか、同列意識を抱く者もいる。
 鎌倉府に話を戻そう。
 基氏以来、関東に勢力を振るった鎌倉公方は、四代持氏に至って、義満没後の将軍就任に野心を抱くようになった。彼は義教の将軍宣下に落胆、逆上、ついに兵を催して京都へ攻め上ろうとし、臣下に諫止された。だが幕府への反抗はあからさまで、義教就任による正長から永享への改元を認めず、鎌倉府では今もなお正長を用いている。鋭敏な義教は、こうした鎌倉公方に対して、義持時代のようなことなかれ懐柔策を潔しと考えない。
 今のところ、三宝院満済や、畠山満家といった老臣たちが義教を制し、鎌倉府との全面衝突を回避しているが、新将軍の自負心の強さは明らかだった。僧籍にあったころは、聡明怜悧の評判こそあれ、武張った性格などつゆも見えなかっただけに、将軍就任後に現れた義教の圭角に周囲は驚き、手を焼いた。明晰な義教の主張はことごとく京都足利幕府の立場からすれば正論であり、時宜に適っていないとしても、真っ向からは反対しにくいのである。
「鎌倉不穏、各地飢饉。まことに我等、窮地でござるが」
 低く声量のある声が来た。それまで黙して談合のなりゆきを測っていた三宝院満済であった。
「かかる事態であればこそ、故院の法会を美麗にせねばならぬというものでござろう」
 満済は断定的に言った。張りのある言葉に圧され、一同ははっとひきしまった。
 三宝院満済は義満の猶子であり、懐刀として幕政を動かした。義満没後も、義持、義教の時代を通じて、最も権力を握っている政治家のひとりであった。
 結論を突きつけられても、誰も応諾を答えられない。ひやりとした沈黙が落ち、皆満済の次の言葉を待った。面長の上品な顔に、豊かな白い眉が眼を覆って垂れる満済は、大陸渡来の墨絵に描かれた月下氷人に似ていた。が、温顔の奥、清潔な白い眉に隠れた瞳は厳しく、敏捷に大名どもを凝視している。
「尊勝院さまこそは南北朝の騒乱を鎮め、天下を一手に統一された方。その御法会を華麗に行うことは、新将軍義教さまの後継者としてのかくれない盛儀となりましょう。ここで金を吝しんだ儀礼を行えば、民衆は幕府の弱体を侮り、まして虎視眈々と隙を狙う鎌倉府は言わずもがな」
 それに、仏事に金をかけるのは、軍資金を蓄えているのではない。平和への意志を示すことにもなる、と満済は説いた。
 その逆もある、と細川持之は思ったが、口にはのぼせなかった。仏事に金を傾けた幕府の浪費に、鎌倉がつけこんだらどうする、と。
「鎌倉方は、目下戦う意志はございませぬ」
 と満済は持之の反発を読んだように重ねた。この男は決して声を荒立てないが、声量のたっぷりとした美声で、香のくゆりが室内にたちこめるように、じわり、と一同の耳にしみるのだった。
「関東管領上杉憲実殿が戦に反対なさっています。持氏さまは御気性荒く、武勇に秀でたお方だが、内政は上杉殿の補佐なしにたちゆかれぬ、というのが実情。持氏さまが逸られても、上杉殿の同意を得なければ、家臣団は動きませぬ」
 細川は、斯波義淳が不用意に洩らした冷笑を見逃さなかった。細川も、自分の頬が動くのをこらえた。さっと一同を見渡すと一様に少しずつ表情を動かしていた。それらの面はこう言っていた。都も鎌倉も同じなのだ。公方(将軍)は傀儡、主権を握るのは管領、と。
 頬を緩めていないのは満済だけだった。彼はさらに一同の耳を驚かす情報を明かした。
「義教さまは、すでに御法会のための資金調達の思案をなされておいでです」
「なんだと」
 山名が素直に眼を剥き、問い返した。宿老たちの合議以前に将軍が具体策を講じるなど、義持時代にはなかったことである。
「奈良東大寺、西室の太夫法眼見賢と申す僧が立身いたしましてな」
 満済は長い顎鬚をゆっくりとしごいた。優美な瓜実顔に、彼の唇は魚の腹子のように締まりなく大きく、血色が良かった。白鬚に覆われていなければ、彼は思いのほか若々しい地顔であるかもしれない。
「そやつは近頃大変な羽振りで都、坂本にも土倉の商いをひろげ、繁盛おびただしいかぎりでございます。これが上様にとりいり、御法会の仏事銭として千貫文進納いたすとか」
「上さまはどこでそのような下衆を拾われたのだ?」
 畠山が首をかしげた。満済は白く柔らかい指で数珠をさぐりながら、ゆったりと応じた。
「粟田口の辺に出入りしていた者でございますよ」
 鈍い方よ、と言わぬばかりに満済は微笑した。
 東山粟田口は、鎌倉時代より優れた刀鍛冶が集まり住んで名刀を産出し、音羽山を隔てて近江との流通の拠点でもあった。
 貨幣経済の発展につれて商人の往来が盛んとなり、彼らが巨富を蓄えるようになると、盗賊の強奪や踏み倒しなどから財産を守るために、進んで有力社寺の配下に入るものが多かった。初期の土倉業者のほとんどが「山門気風の土倉」と言われたほどである。山門とは比叡山延暦寺のことである。
 大寺院は荘園などの経済管理をこれらの金融業者に委ね、保護を与えながら、見返りとして多額の納付金を得ていたのである。
 将軍就任以前に東山粟田口青蓮院門跡であり、延暦寺最高位天台座主に上っていた義教は、そうした人事による利点を熟知していた。彼は、素性の知れない大夫法眼見賢なる人物を、幕府の蔵方(倉庫の出納役人)に抜擢することに、何の躊躇もなかった。
 幕臣を驚かせた義教の策は、前例を破る快挙であった。事実、これ以後幕府は都市の金融業者を支配する以外に集金手段を見出せなくなり、数十年後、義教の息子義政の妻日野富子は、みずから高利貸しを営業するに至る。
「聡い方じゃな」
 山名時熙はびしりと首筋を叩いた。下人ふぜいが千貫文寄進したとなれば、諸大名は沽券にかけて出費を惜しむことはできぬ。
「端倪すべからざる…」
 斯波義淳がうかと言いかけて呑みこんだ台詞の後味を、一同は苦く共有した。
 中で、ただひとり晴れやかな笑みを白髯に隠しているのは満済である。彼は、この場に居合わせた大名どもの知らぬ枢密を握っている。義教がなぜこの怪僧に胸襟をひらくのかさだかではない。僧籍にあった自身の過去ゆえだろうか。
 否、おそらくは三宝院満済が、他の守護大名のように固有の領国も、血を分けた子弟もなく、いかに絶大な権力を振るおうとも、それは室町幕府あってのもの、ということを義教が認識していたからであろう。
 足利氏が凋落すれば、確固たる政治的地盤を持たぬ満済も沈む。彼は義満に愛され、子に準じた厚遇を享けたが、諸大名間の勢力バランスの上に身を処さねばならぬ、という危うさにおいて、まことに足利将軍家の近親であった。
 満済は視力の衰えぬ瞳を、長い眉の下から大名どもに注いだ。私利私欲に塗れた男どもめ、と満済は心中で呟いた。強欲という点では満済も同様であったが、彼は自分の栄華が一代かぎりということで潔しとしている。
(かような仕儀はまだ序の口。貴殿らは、これからさらに度肝を抜くのだ。将軍家は尊勝院さまの御法会をきっかけに、明との交易を復活させるおつもりだ)
 義教は満済にだけ、この計画を打ち明けていた。相談ではない。事後承諾であった。義満の猶子という身分柄、宿老大名連の中でも特異な求心力を持つ満済を味方に引き入れておく必要があった。
(義教さまの登場によって、要を欠いた足利幕府は息を吹き返し、寿命は伸びる)
 宿老大名の言いなりになっていれば、遠からず下克上の大波が足利氏を覆すだろう、という程度の先見は、満済ならずとも持っていた。英明であればあるだけ、危機感を強く認識して将軍就任した義教である。
 義教の決断を満済は嘉した。将軍の失墜は彼自身の衰退である。彼は死ぬまで権力の中枢を離れない。子を持たず、後世に託すべき何ものもない彼には、権力への渇望・獲得こそ、生を貫く原動力であった。

 世の中はめぐる因果の小車や……
 頭上の榎の葉鳴りがかさこそと聞こえる。ここ数日抜けるような青空が広がり、樹々は眼に見える速さで乾いてゆく。北風が強くなった、と紅鶴は外板の桁に片手をつき、足元にまるめた少ない洗い物を眺めた。古布を継ぎ合わせた赤子の衣類だった。遊女の衣装の中で柔らかいものを縫い合わせた襤褸は、黒ずんだ古い盥のなかで、朽ちた花弁のように水に揺れている。
「精が出るね」
 へっついの影からぬっと現れた蝉丸は酒気を帯びていた。今日は紅絹ではなく、藍染めの頭巾を被っているために、顔の赤さが目立った。
「ほどほどだよ」
 紅鶴は男を横目に見て盥をかきまわした。洗濯をする女の手つきはいかにもぎこちなく、一枚ずつ丁寧に濯ぐのだが、紅鶴のほっそりした手は水銀焼けした顔より白く、力仕事などろくにしたことがないのは明らかだった。
洗いあがった襤褸を絞っても、手に力がないのかしっかりと水が切れず、干し挙げた洗濯物からぼたぼたと雫が垂れた。
「やれやれ」 
紅鶴は小さな溜息を吐いて、干した洗濯物を、棹にかけたまま両手で一枚ずつ絞りなおした。その手つきは絞るというよりも、筒を掴むような鈍さだった。
 蝉丸は手伝おうとはせず、黙って腰の瓢からちびちびと薄酒を飲んだ。ようやく紅鶴が盥をゆすいでひっくりかえすと、彼女の鼻先へ、自分が飲んでいた瓢を突きつけた。
「いらない」
 紅鶴は唇だけで笑った。素顔の彼女は、目鼻整ってはいるが水銀白粉に蝕まれた皮膚のやつれが目立った。眉を剃っているために表情が消されて、浅黒い仮面のように見えなくもない。手足のほうが顔より白いのである。首の付け根で皮膚ははっきりと色を変えていた。紅鶴の乳房が手よりも白いことを蝉丸は知っている。
 いらない、と言ったが蝉丸は酒を再度突きつけ、紅鶴は今度は口に含んだ。残り少なくなった瓢を傾け、喉を反らせて飲み干すと、二の腕の裏側で瓢の口を拭いた。
 井戸端の榎がかさかさと風に鳴る。うそ寒い秋の風だ。紅鶴は肩をすくめ、眉間をかすかにひそめて、
「もう赤子が眼を覚ます。何もかもあの子が寝ている間にやらなけりゃならないから忙しいよ」
「がきなんざ、乳さえ与えてほっといたらどうだい。しょっちゅう抱いて撫でさすってやることもなかろうに」
「いつ死ぬかわからないじゃないか、あたしらは。もちろんあんたもね。だから生きている間は、せめて可愛がってやりたいんだよ」
 紅鶴は目を細めて笑った。死はそこらじゅうにあふれていた。路を歩けば、築地塀の角ごとに屍がころがる。飢饉に流行り病、飢死行き倒れ。遊女であれば、堅気よりもっと無惨な死に方をするかもしれない。賀茂川の流れには、孕んだものの産んでやれない水子が託される。子をおろすのは遊女だけではないが、子おろし婆がほどこす堕胎のわざは母胎に酷い。そのために命を落とす者は少なくなかった。
「その身なりはどうした」
 蝉丸は紅鶴の返事を無視して訊ねた。
 紅鶴は小袖ではなく、腰を細紐でくくった墨染めの袈裟を着ていた。
「坊さんに貰ったのよ。ざっくりして、小袖より動きやすいからね」
「あの似非坊主か。宝珠に執心だな」
 蝉丸は苦々しげに舌打ちした。紅鶴は、
「変な相手にやきもちを焼くねえ。あの子は売れっ子だし、誰にも分け隔てがない。それにあの坊さん、いい感じだよ。偉ぶらない。あたしたちを菩薩だってさ」
「おべんちゃらもいいところだ。崇め奉るなら金だけ置いていけって」
「出家だって男は男だからそうはいかないんだろ」
「破戒坊主だ」
 蝉丸は唾を吐き捨て、紅鶴の腕をつかんだ。
「よせよ、墨染めなんぞ、せっかくの女がだいなしだぜ」
 男の両手が袈裟の襟をぐい、とひろげると紅鶴は低く唸った。
「何の真似」
「女が、よ」
 男は爬虫類のように眼を細めた。紅鶴は相手の視線を覗いた。こんな眼は、もう何千回も見慣れている。狭めた瞼の間に欲望を隠した眼は黒く見えるのだった。
 が、蝉丸の双眸は乾いていた。へえ、と紅鶴は腹の中で思った。こいつ何者だろう。欲情しながら乾いた目つきで肉体の値踏みをする男は、滅多にいない。情欲に鷲づかみにされた眼は必ず濁る、と紅鶴は思っていた。
(面白いね)
 抱き寄せられながら、紅鶴は北風に揺さぶられる榎の枝を眺めた。
「もっと早くこうしたってよかったんだが」
 蝉丸が呟いた。その台詞も可笑しかった。紅鶴は声をあげて笑った。

 あんた誰なの?
 納戸の板壁を透かして光りが差し込んでくる。黴臭い光線は男と女が体を入れ違えるたび、もつれあうかたちを暗闇から切り取る。
「俺は渡りの傀儡だ」
 蝉丸は手足を拡げて、天井を睨んで応えた。
彼の視線に脅えたように、天井板をがさつかせて鼠鳴きが走っていった。
「うそ」
 うつぶせた紅鶴は顔だけ蝉丸に向け、
「あんたも宝珠も上等すぎる。だけど東洞院の遊び女になるって柄じゃない。得体が知れない」
「あれは孤児、ただの立君だ。好き勝手に生きている」
 あんたはどうなの、と紅鶴は問いたかったがやめた。互いの素性は詮索しない、それがこの稼業のきまりだった。
「お前さんこそ、どこから来た」
 蝉丸は片肘ついて上半身持ち上げ、もういっぽうの手で女の腰を撫でた。脂づいた肉はうすら明かりに白く光って見えるが、男のてのひらに圧されれば、若いとは言えない皮膚と脂はすこし緩んで撓むのだった。紅鶴は商売女の自衛本能で、蝉丸の愛撫が女の衰えを測る手つきに変わる前に、やんわりと腰をひねって逃れた。
「生まれ育ちは隠せない、どうしたって」
 紅鶴は顔を背け、男から離れると身じまいを調え始めた。といっても素肌に墨染めを羽織るだけだが。蝉丸は仰向けに寝そべったままそらとぼけた。
「落ちぶれ公家なんざ都じゅうに掃いて捨てるほどいる」
「公家には見えない。武士でもない。なんだろう。あんたもあの子も」
 腰紐を括りながら紅鶴は上目遣いに薄く笑った。
「生まれがどうであろうと、俺たちはただの馬の骨よ。いや、人間なんて所詮誰もが馬の骨なんじゃないか。人も馬もくたばっちまえば変わらない」
 蝉丸はすっぱだかのまま立ち上がり、その拍子に、入り口近く傾斜して低くなっている納戸の梁に頭をぶつけた。たちまち鼠どもが頭上を騒々しく走り去った。ちくしょうめ、と男は褌を掴んでがらりと勢いよく戸を開けたが、そこを丁度通りかかった小女が、蝉丸の姿を見て黄色い声をあげた。
「おっと、堪忍」
 蝉丸は前を隠そうともせず、にっと笑った。まだ十二、三の小女は首まで真っ赤になり、背中を向けて叫んだ。
「のんきね、一揆が起きてるのに」
「何?」
「福富屋が襲われてるの」
「まっぴるまから物騒な」
 蝉丸はそのまま庭に飛び出し風の音を聴いた。さきほどまでのうら枯れた響きとは異なり、大気にはすぐ近くで大勢のどよめく荒々しい精気がみなぎっていた。蝉丸は手早く褌を締め、嬉しくてたまらないように両手を揉み合せた。
「福富屋といえば、評判の有徳人(富豪の町家)。こいつはいっちょう稼ぎ時」
 口角をちらっと舐め、手近の竹竿をひっつかむと、薪割りの鉈で真ん中から斜めに叩き割り、小脇に挟んだ。
「どうするの、蝉丸さん」
 小女はあっけにとられた。
「おまえに赤いおべべでもくれてやる。俺に初花寄こせよ」 
 言い捨てて、蝉丸は脱兎のごとく。

 押し寄せる怒号とともに砂塵が巻き上がり、二度、三度と土塀を突き崩す地鳴りが沸くと、ぶあつい塗り壁に亀裂が入り、ぐらぐらと崩れ始めた。
「火矢を放て。土民どもに盗られるぐらいなら灰にしてしまえ」 
 あくどい商売で成り上がった高利貸し福富酒屋の主は、顔に満面朱を注ぎ、飢えたどぶ鼠のように蔵をぶち壊しにかかる貧民を眺めて地団駄を踏んだ。
「くそどもめ、金を貸してやった恩義も忘れやがって。ご恩は一生忘れませんと泣きの涙で手を合わせやがったくせに」
「あんた、何ぼっとしてるんだよ」
 母屋から飛び出した内儀はいさましく槍をふりかざし、周囲にごつい用心棒を従えてわめいた。
「愚痴ってる場合じゃないよ。応援が来るまで持ちこたえるんだよ」
 火を放つなんてとんでもない、と内儀は槍を振るって男たちを指図し、土民を撃退するために、あちらこちらへ走らせた。
「応援だと? 腑抜け役人が」
 主は悲鳴まじりに叫んだが、女房の剣幕に圧倒されて、おっとり刀を掴んだ。
「証文を隠せ。質草にかまうな」
 主は声を振り絞って帳場を叱咤する。もうほとんどの蔵は暴かれ、老若男女、餓鬼さながらの土民が米や酒、さまざまな食糧物品をかき集める。柱が傾き板壁が破れ、めりめりべきべきと家居が揺さぶられ、右往左往する人間どもの足の下を鼠が走り、野良犬が吼え
続ける。誰が誰を斬ったのか斬られたのか、血飛沫悲鳴が錯綜して、倒れた者に他の誰かがつまづいて転倒すると、敵か味方かもうさだかではないその背に、めくら滅法とどめの棍棒が打ち下ろされた。
「福富の亡者をたたっ殺せ」
 誰かが叫ぶと、憤懣と鬱屈を一挙に爆発させた者どもは、いっせいに血走った眼をあげ、歯を剥き出した。
「鬼婆ァもやっちまえ。あれは病人の衾だって借金のかたにひっぺがして持って行きやがった。地獄に放り込め」
 おう、とわめき声が揃い、それまで得手勝手に宝を袋にさらいこんでいた土民どもは、とり憑かれたように一斉に一つ方向へ駆け出した。
 敷地の最も奥まった蔵を、福富屋の主人と内儀は残った雇い人とともに死守している。多勢に無勢と知りながら、即席の柵を組み、刃物を構えた必死は、この小さな蔵にこそ周辺の貧民はおろか、近隣大名にまで貸し付けた借金証文がぎっしりしまってあるからだった。これを焼かれてなるまじ、と福富屋は他の蔵の破壊強奪に歯噛みしながら守備を固めた。頼みの綱は幕府の検使役人の到着である。
「殺せ」
 怒声が炎のように貧民どもの間に沸きあがり、蔵を守っている主人たちにひゅうひゅうと石礫が飛んだ。投石は刀剣のない民衆の最もたやすい武器で、女こどもでもその技を磨き、鴨河原で行われた民衆の石合戦では、死者が出ることも珍しくない。
 蔵の土壁にへばりついた福富屋の連中は、投石技術を鍛えた貧民には、格好の標的だった。構えた槍刀の切れ味も試さないうちに、主の手首を握り拳ほどの礫が弾いたのを口切に、雨あられと石が飛ぶ。防御の雇い人どもは悲鳴をあげた。頭を庇えば腹を打たれ、陰部を狙われ、あっというまに蜘蛛の子を散らすように退散してしまった。
 後に残ったのは、顔といわず胸といわず血塗れの福富屋の主夫妻だけだ。とはいえ、主はこめかみを礫に打ち抜かれて既に悶絶していた。その亭主の襟首をひっつかみ、自分も石に割れた額からだらだらと黒い血を流しながら、形相すさまじく踏ん張っているのは、鬼婆内儀ただ一人。
「婆ァ、命が惜しくないのか」
 一揆の土民が罵ると、女房は血鼻を啜って怒鳴り返した。
「命の恩人のあたしらをこんな目にあわせやがって。神仏にかけてと誓った証文は、てめえらが血判押したんじゃないのかい。下衆どもっ。七回生まれ変わっても金貸しはやめないよっ」
 やめないよ、という罵声はびゅっと空を切った礫に断ち切られた。石くれは内儀の大開きの口腔にもろに入り、前歯がいやな音をたてて砕けた。のけぞった内儀に続けざまに礫が集中し、鼻を折り、喉を打ち、頭蓋を割った。婆ァの断末魔の痙攣さえ、乱れ飛ぶ礫弾のうなりにかき消されたのである。
 相手がぐずぐずと地べたに転がり、びくりとも動かなくなると、わっと歓声があがった。土民どもは死体を蹴飛ばして蔵に押し寄せ、長年自分たちの血を吸い上げた借金証文を引きずり出し、引き裂き、踏みにじり、破って捨てた。そればかりか、ぐしゃぐしゃにちぎった紙屑を、惨殺した内儀の口に突っ込んで、笑い飛ばしたものだ。
「閻魔に土産よ」
 地獄の沙汰も金次第。
 ようやく幕府の取り締まり役人が到着した頃、一揆集団は略奪のかぎりを尽くし、とうに四散していた。都中に頻発する一揆打ちこわしに狎れ、疲弊している役人どもだったが、まだ土埃の鎮まらぬ福富酒屋の門口に到着すると、息を呑んで棒立ちになった。
 門は二本の竹槍で十字に封印され、それぞれの先端には、口一杯に借金証文を詰め込まれた金貸し夫婦の生首が、まだ新しい血をどろどろと滴らせながら、濁った白眼で役人どもを眺めおろしていた。

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