さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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中世夢幻 其六 宝珠

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其六 宝珠

 あたたかい、と男は鼻をひくつかせ、あどけない笑い声がそれに被さった。抑えた笑い声だったが、若い女の喉から漏れた声音は弾む毬のように遊女屋の夜闇にころがった。
「生きものだもの」
 そうだ、と男の声が返る。犬畜生にも劣る人間の中で、これだけが偽りなく、真っ正直に、生きて呼吸をしている。
「犬に劣るって?」
 女は…宝珠は鳩のように喉だけで笑い、自分のひろげた脚の間に顔を伏せて、隠しどころのふわりとした繁りに手を添え、愛撫するともなく包み込んで、ときには髪を掻き分けなかみを開いては、しげしげと眺めている男のうなじを、爪でかるくつねった。
「今夜は説教しないの、坊さん?」
 剃髪した頭から中途半端に剛毛が生えて、いがぐり頭になりかかっている相手は、焦点を定めないゆらゆらした眼差しを宝珠に向けて、にたりと笑った。灯一本きりの閨の暗がりで、宝珠の膝の間に顔を置いた男の面貌ははっきりとは見えない。老人ではないが、若い男でないことはたしかだった。
「御仏のさとしは、お前のここにある」
 視線の一定しない表情とは裏腹に、勢いを強めた真剣な返事に、宝珠はぷっと吹き出し、
太腿で男の頭を挟んだ。
「べべがお経を読むの?」
 べべ、戸戸、とも書く。古代の女陰の俗語だが、淫猥な語感ではなく、美称、愛称に近い。遊女の中には自分の源氏名を「おべべ」とつける者もいた。
 うん、と男は宝珠の膝に首を挟まれ、嬉しそうになめらかな肌に頬を押し付け、にっこり笑った。さっきまでのにたにた笑いとはうってかわった天真爛漫な笑顔が宝珠の膝の間にあった。男の言葉には少し吃音がある。「こ、これが舌じゃ。ずるがしこい上の口などより、は、はるかに正直な、ありがたい、しゅ、衆生済度の入り口」
 どもりが聞き苦しいかというと、彼の場合はそうでもなかった。地の声に張りがあって快い。発音もさわやかで聴きやすく、ときどきつまづく吃音も、小魚が一匹舌の上でぴちぴちと踊っているような印象を受ける。一風変わった魅力となって聞く者の耳を捉えるのだった。
 ほらほら、と男は指一本たてるとぺろりと口に含んで湿らせてから、無造作に宝珠の襞を潜らせた。
「これが、お前の偽らぬ舌じゃ。ありがたい、ぼ、菩薩のくちびる」
「菩薩でつっかえないでよ」
 宝珠はくすくす笑った。男の指いじりにはまったくいやらしさがない。しきりに動かしてそこここを点検するのだが、まるで子供が泥遊びでもするような手つきだ。
「痛くしないでね」
 他の客にはまず言えない注文も、この男には平気だった。
「うん」
 男は素直にうなずき、えへへ、とも、ひひ、ともつかない声で笑った。字だけ眺めていると野卑な笑い声のはずなのだが、彼の声には色事に特有のじめついた粘りが全然ないのである。変な坊さん、と宝珠は彼に対して終始気楽だった。ここ数ヶ月ほど、そう、ちょうど元能が宝珠に通い初めたころ地獄にやってきて、囮玉の宝珠にひっかかり宿にあがりこんだ。閨で待っていたのは例によって違う女だったが、彼は自分の袖を引いた美人を、と譲らなかった。
 以後しばしば遊びに来て、いつも宝珠を指名する。どういう懐具合なのか、玉代もちゃんと払うのである。当然遣り手婆の受けはいい。他の女どもに比べて、宝珠には段違いの値がついている。
「締めるわ、締めるわ」
 男は嬉しがった。宝珠はもっと力を加えて男をぐい、と捕まえてやる。坊主は唸った。
「このまま浄土にひっぱっていってくれい」
「おいでよ。地獄でも、極楽でも、坊さんの望みどおり、連れて行ってあげる」
 宝珠は相手の顔を挟んでいた太腿を開くと、片膝をすい、と伸ばしてその足で男の背中をひきよせた。

 暮れ初めた五条通りを、元能は我が身をもてあますようにさまよった。ここの町家をいくつか過ぎれば脂粉の匂いの籠もる東西の洞院だ。西に行けば宝珠が抱いてくれる。東に足を向けても、一見だからといってつれなくされることもない。観世の次男として都じゅうの舞台、また貴顕の催す宴能に演ている彼の顔は、彼自身思っていた以上に知られている。大名などの宴に出演すれば、露骨な色目を遊女にもらうこともある。
 だが女に溺れるためだけに、彼は今夜ここに来たのではない。
 叔母上、と元能は自分の先を行く小者の掲げた松明を見つめながら想う。かはたれの薄明は速やかに夜に移り、あちこちの寺院から
刻の鐘が鳴る。肝の底までしみわたる鐘だ、と元能は拳を握る。
 尼寺に修行する寿桂尼を見舞ったのはこの夏だったか。梅雨に鬱陶しくぬかるむ路、泥を跳ね上げながら歩いた記憶がふいに蘇った。しかしあの頃、ぬかるみ道を歩く自分の心は今よりよほど直だった。
 今夜、秋の爽やかな大気に澄みのぼる月を眺めながら、彼の心は重かった。兄が疾走した…。一大事のすべてが、若輩の彼にのしかかっている。
 叔母上、と元能は観世元重の母寿羽の面影を胸に描いた。あなたの息子はここまで我等を追い詰めました。
 清滝宮の演能権を奪われ、楽頭職から失墜した元雅は、先日、一座の誰にも告げず、出奔してしまった。行く先は知れている。大和の越智だった。大和は一族発祥の地であり、ことに越智の里人は祖父の時代から観世座と密接な係りがあった。
 元雅は、この山里に隠れ住む、ある貴人の娘を妻にしていた。
 父の許しを受けることなく元雅の結婚は行われ、花嫁が都に出てきたこともない。観世一族はこの結びつきを認めてはいたが、到底喜べることではなかった。娶った相手は南朝ゆかりの者だったのである。義満が南北朝の騒乱を収めたとは言い条、北朝優位の和議を容認しない南朝の不穏分子は都周辺、主に吉野に隠れ住み、今も皇統奪回を狙っている。彼らは自分たちこそ正嫡という自負を持っており、北朝天皇をいただく幕府側にとって、南朝は反徒に他ならない。
 秘密裏に行われた元雅の結婚はしばらく伏せられ、観世一同にようやく知らされたのは、大和に根拠を置く金春氏信を通じて、越智の女が元雅の子を産んでからのことだった。皇統の流れを汲む貴種とはいえ、世間にはばかりある南朝の血筋であれば、母子を都へ迎えることはできなかった。義満に抑圧されて以来、自分たちだけで幕府と対立するだけの勢いを失った南朝の残党は、飢饉と悪政に苦しむ民衆を導き、一揆の中核となっていたのである。
(兄上、我等をお見捨てになるか)
 包容力、指導力備え、暖かい心を持った兄のような人物が、逆境にある誇り高い隠れ里に、どのように迎えられたか元能にも想像できる。兄には多くの縁談があった。周囲の薦める良縁を断り続ける元雅を、皆不思議がらぬはずはなかった。思い定めた相手がいるのか、との推量も当然あった。問われても兄は笑ってはぐらかしていた。しかしまさか世に逆らう南朝の娘を、隠し女として通うのではなく、はっきり正妻と決めるとは。
(それほど愛しいと思われたのか、兄上。我等を、観世棟梁の身を捨ててもよい、と)
 元雅は破滅する、と予言したもうひとりの兄元重の言葉を、元能は思い出す。元重は知っていたのか。
(いや、だとしても兄上が能を捨てるはずがない。観世を離れたとしても、芸能は)
 能は観世でなくとも、と言い聞かせたとたん、ふたたび元重の姿が脳裏を濃く通り過ぎる。元雅と元重と、ふたりながら観世座を離れて行った兄たち。観世座、とは世阿弥だった。世阿弥なしでも能は続く。その決断は元能には厳しかった。理解できても、身を削る厳しさだった。俺は役者であるかぎり、父を離れて立つことはできない、と。
 命には終わりあり、能には果てあるべからず……
 父の声が、耳の奥深くから届いた。十年前に父が著した『花鏡』の句だ。その頃から世阿弥は現世の絆を超えてゆく能の永続を見つめていたのか。言葉はときに未来を告げる。十年後の今、観世存続の危機に瀕して跡取り息子の失踪を世阿弥は黙認し、何の捜索もしない。
(能には果てあるべからず)
 人間ひとりひとりの生を超えて、能の命脈は永遠、と世阿弥は断じた。血肉の恩愛を超えて、能は生き延びる。
 しみじみ世阿弥を酷い、と思う。酷い?
誰に? 
(あなたは人の心を超えている。あなたが凝視しているのは、ただ能だけだ。能とはそもそもあなたにとって何なのです、父上?)
 父上……。父と息子。これほど世阿弥の心境に無縁な単語はないかも知れぬ。能の無限を見つめる世阿弥に対して、愛欲に踏み迷う自分ごときが、何を問うことができるか。
 かつて、『花鏡』を読んだとき、元能は父の声を聞いた、と思った。元能はまだ少年だった。身のまわりには二人の兄がいて、妹がいて、一座に衰退の兆しはまだ見えなかった。義満亡き後将軍義持の嗜好は田楽に向き、猿楽の興隆は抑えられていたが、大名たちの観世座への贔屓は変わらず、一座は青春のさかりへ延びてゆくそれぞれ有能な少年たちを擁して明るかった。
あのころ、自分は無心に元重を慕っていた。しかし思い直せば元重はそれ以前から青蓮院門跡義円の寵童であった。元能は無邪気だったが、元重はすでに鋭利な義円の愛撫に、身心を研がれていたのだ。……。
元能は無心に、素直に父の著作を読んだ。闊達で気迫みなぎる筆だった。うなるような筆づかいは、いたるところで元能の眼を奪った。父が書いた内容よりも雄弁に、父の筆跡は父の心を息子に伝えた。少年は、そうした父を誇らしく思ったのだ。なんと幸福な時代だったろう。命には終わりあり、能には果てあるべからず。この言葉も、人生を未だ知らない少年の心に実感などあるはずもなく、美しい宣言とのみ受け取られた。その言葉が実現された今、まことに自分の命は切実に削がれている思いがする。
(命には)
 世阿弥は、いつからか親子の恩愛を離れたところで命を見つめていると悟った。
 元能の足が滞る。
もしかしたら父は、裏切り者の元重こそ、能を次代へ継ぐ者として心にかけているのではあるまいか。
(観世座を裏切ったとしても、能を裏切ったわけではない、むしろその逆だ。兄は己の能を全うするために俺たちから離れて行った)
 能を永き世に伝える、という果てなき意志に貫かれた世阿弥には、元重の背信など瑣末にすぎない、と元能は悟った。
(だが、父上は苦しんでいらっしゃる、永遠と隔たったところにもお心があるからだ)
 元雅の出奔以来、元能は毎夜、父の思い出を……能に関するものに限られていたが、聞いていた。これほど長く父の身近に居ることは生まれて初めてかもしれぬ。そしてまた父の言葉をこまやかに聞くのも。元重が去り、元雅も消えた観世屋敷の夜は深さを増し、残された人々の身心を覆う。夜の重さを払おうとするのか、世阿弥は次男を夜語りの相手に呼んだ。
「儂はさまざまなものを観た」
 世阿弥は薄くわらった。一瞬、ひややかな微笑と元能は思ったが、過去を見つめる世阿弥の視線がゆらりと動いて自分に注がれたとき、父のまなざしには慈愛が深く籠もっていた。元能はうつむき、目頭に滲む涙をこらえた。父のかような目を見るのも、おそらく初めてなのだった。観世座の滅びは、この父親の慈愛のまなざしにこそ予兆されていた。元能にはそれもわかったのである。
「長い夜語りになろう」
「はい。うれしゅうございます」
 うれしい……。なんと素直に自分は父に慕い寄っていることだろう。幼い子供のころでさえ、父に、母に、まっすぐに「うれしい」と告げたことがあったろうか。元能は第一夜から筆録を心がけ、やがて一巻の書となすつもりであった。
(それでは今夜はなぜ五条へ迷ったのか)
 元能の耳に、意地悪い声が囁く。元能をあばく声は、いつも美貌の元重兄の声で囁く。
(叔母の見舞いか)
 ちがう、と元能は、身にふりかかる火の粉を避けるようにかぶりを振った。
(俺は、今夜父から逃げた)
 父から? 父親だけか?
 さらにまた迫ってくる声。うるさい。
 元能さま、と従者が怪訝な声で質した。いつのまにか元能は立ち止まり、松明だけが夜の闇の向こうへ進んでいた。
「お足元が」
 促されて元能は歩を速めた。その前にひらりと鳥が舞い降りた。白い大きな翼を、わっとひろげて元能のゆく手を遮る。身を翻す間もあらばこそ、夜目に際立つ翼はふわりと元能の顔に被さった。
「どこに行くの」
 元能の腕の中で鳥は女に変じた。宝珠だ。まぼろしか、確かに今の今まで彼女は大鳥だったものを。
 宝珠はあっけにとられる従者を無視して、元能の首に二の腕を巻きつけた。
「お見限りじゃない? もうあたしのこと忘れた?」
「放せ」
 宝珠はしだらなく胸をはだけている。翼と見えた袖は、昼間着る小袖にしては薄く、ゆるやかな単仕立の寝間着で、上質な絹の手触りだ。濃い匂いが浸み込んでいる。嗅ぎなれた匂いだ。白粉と香、汗、それから。
 宝珠の体から、髪から、彼女の匂いとはあきらかに違う、季節はずれの青葉の気配が漂ってくる。元能ではない誰か、男の体臭。
 元能は宝珠を押し退けた。
「戻れ、俺にかまうな」
「それなら何故ここに来たの?」
 宝珠は元能から離れ、見透かしたように笑った。
「意地っぱり。苦しい時には声をあげて泣いたっていいのに。迷ってるならとことん迷って苦しめばいい。迷いの入り口で、出たり引っ込んだりしているから、突き抜けることもできないのよ、あなた」
 自分の心さえ見えないの? 見ないの?
「嘘つき」
 宝珠にしては珍しく、畳み掛けるようになじった。このごろ間遠な元能を恨んでのことだろう。恨んでいるなら、宝珠は元能に心をとられているのだ、と女の感情を読む余裕は彼にはない。
「嘘だと?」
 かっとなった。宝珠の言葉は元能の抑えた迷いを突き刺した。彼女は違う意味で言ったのかもしれない。だが胸に刺さった。
 軽く頬を打ったつもりが、宝珠は元能の手の勢いのままぐらりとよろめき、足をひいて身を支えた。素足だ、と元能はようやく気づく。この夜寒に、宝珠ははだしで地獄が厨子から駆け出してきたのか。
 怒りとは異なる熱が彼の胸に上ったが、眼を丸くして頬を押さえる宝珠に口を聞く前に、元能は一撃を後頭部に喰らった。
 ものも言えずにうずくまる。月光が脳裏に崩れるように、さらなる打撃が続いた。ふりおろされる錫杖の音の涼しさを元能は瞬きの間に数度聞き、濃紺の闇が来た。
「何するの!」
 宝珠は、昏倒した元能を抱きとめようとしたが、相手の体重に負けて男もろとも地べたにしゃがみこんでしまった。それでも柳眉を逆立て語気荒く喰ってかかる。殴ったのはつい先刻まで宝珠にしがみついていた馴染みの破戒坊主、一休宗純である。
「そんなに何度も打つことないじゃない」
「儂は御身を守ったんだ。菩薩を打ち参らすなぞ、罰当たりもは、はなはだしい」
 はなはな、とどもったついでにくさめをして、一休はさらに水っ洟をすすりあげる。
「坊さんには関係ないのに。このひとは」
 宝珠が元能の頭を袖に包み込んで、なお殴りたそうな一休から隠すのに、ぬっと現れた蝉丸は冷やかし顔丸出しで口を挟む。
「ふられたのに庇うのかい」
「ふられたんじゃないわ」
 むきになって言い返す宝珠を、へえ、と蝉丸がせせら笑った辺りで、月夜に野次馬がぞろぞろ集まり始めた。喧嘩か、女の因縁か、と喧しい。
「何だよ、商売の邪魔だ」
 人だかりの真ん中に地獄が厨子の遣り手婆が着物の裾をからげて飛び出し、元能を離さない宝珠をがみがみと怒鳴りつけた。
「ちょっと宝珠御前。今夜は山名さまのお呼びだというのに、いつまでもこんな乞食坊主にかかずらって、その上にどこの若だか知らないが、殴るの蹴るのと月夜の往来で騒ぎを起こして、みっともないったらありゃしない。うちは西の一番、いい妓を揃えてる格の高い厨子だよ。御贔屓にはちゃんとお愛想してくれなけりゃ困るじゃないか」
「乞食だってこの坊さん、ちゃんとお金は払ってるじゃないの」
 よせばいいのに宝珠は婆に言い返してしまった。気のいい娘だから、婆ァの罵詈雑言に反抗して、たった今まで自分がけんつくしていた一休の味方をしているのである。因業婆に逆らったら、その厨子でまともな働きはできぬ。それを知らない道理はないのだが。
 そこへまた蝉丸がしたり顔で、
「こらこら宝珠、我儘ぬかすもんじゃない。ここは三途川のおかみに手をついて平謝り、理不尽な文句だとて、そこはぐっと飲み込んで殊勝なそぶり、このまま地獄厨子一の売れっ妓でいるのが今生のためだぜ」
「ふりってなによ!」
「あたしが理不尽だって? 聞き捨てならないね、蝉丸」
 小馬鹿にした蝉丸の台詞に、宝珠と婆は一緒に怒った。それも蝉丸のたくらみだろう。
婆ァは腰に片手をあて、もう一方の手の人差し指を一休の眉間めがけてにゅっと突き出した。憎さげに口をへの字にひんまげて、
「あたしが何も知らないと思っているんだろう。あんたがうちに払う金の出所は、ここらの女どもをだまして巻き上げたあがりだろ。話じゃ、東の方まで手を伸ばして、がめつく喜捨をむさぼってるそうじゃないか」
「だましてなぞいない。御仏の教えを語っている。愚僧説法の浄財じゃ」
 一休は大真面目で言った。とたんに三途川婆の眼が三角になった。
「何が浄財だよ。その銭であんたは東や西で好き放題に女を買ってるんじゃないか。いや、かまやしないがね、ちゃんと払ってくれりゃあ、文句はないが、うちの売れっ妓に貼りついて、得意筋のひきを邪魔するのはお断りだよ。ええ、しゃら業が沸く坊主だ、女を抱くのにお前が払ってる銭は、当の遊女の稼いだものだよ」
 責めているうちに婆ァの声はだんだん大きくなり、周囲の野次馬がげらげらと笑い声をあげてけしかける。
「いいぞ、もっとやれ」
「どうした一休、得意の頓智で言い返せ」
「負けるな宝珠、何か言え」
 蝉丸は、自分が火をつけた当人なのに、だんだん騒ぎが大きくなるのに顔をしかめ、
「おい、一休、さっさと退散しろよ。どうも雲行きやばいぞ」
「なに、いい月夜だ」
 一休は満月を仰いでうそぶいた。
「儂には菩薩の御加護がある、鬼婆の暴力なんぞ恐れることはない」
「ぬかせ」
 逆上した婆は一休につかみかかった。一休が体をひねって逃れたので、婆の爪が坊主の袈裟にひっかかり、肩から腰へ生地をびりりと引き裂くあたりで、蝉丸はひょいと片足を伸ばして婆をつまづかせた。
「出家の功徳だ、早く逃げろ」
 蝉丸は一休のいがぐり頭をこづいた。だが一休はかぶりを振って視線を忙しく左右に動かし、婆の顔と蝉丸、宝珠、そして周囲の人だかりをぐるりと見回すと、突然背筋を伸ばして地べたに正座し、うってかわった力のある声音で、
「老婆心、賊のために梯を渡す」
 言葉といっしょに一休は懐から金袋をつかみ出すと、婆の顔の真ん中に投げつけた。
 何だこいつ、と蝉丸はあっけにとられ、野次馬も肩すかしを喰らい眼を剥いた。乞食坊主が、鬼婆に銭を投げちまった。
「ぜ、銭など要らぬ」
 見せ場でどもったのは少々まずかったが、一休は鼻の穴をふくらませ、胸をそらせた。
「婆子焼庵という。昔、信仰心の篤い老婆がおった」
「けっ、説教始めやがった」
 蝉丸が舌打ちして踵を返そうとするのを、野次馬に紛れて出てきた紅鶴が、そっと抑えた。
「まあ聞きなよ。おもしろいから」
「紅さんもこの坊主を贔屓するのか。とんでもないね」
 しっ、と紅鶴は唇の前に指を一本立てた。
「老婆はある僧侶を見込んで、庵を建ててやった」 
一休は朗々と声を張り上げた。常の吃音はすっかり消えて澱みない。いい声だ。
「そして二十年もの間世話をし続けた。ある日、老婆はこの僧に美しい女を差し向け、給仕をさせた」
 やっちまったんだろ、と蝉丸がにやにや笑って入れる茶々を、周囲の誰かがまた、しいっと制する。一休は説教する声に力のある男だった。ひとの耳をひきつけて離さない。殺気だっていた婆さえ毒気を抜かれ、片手に金袋をしっかり掴んでいるものの、半ば口を開けたまま棒立ちになって、一休の言葉を待っているのである。紅鶴も、宝珠も。蝉丸は首をひねって一休の風体を眺めた。中高にまとまった顔だが、とりたてて美男とは言えない。年のころは四十前だろう。いがぐり頭に、不精髭がぼうぼう伸びてむさくるしい。
 平安時代の「枕草子」に、説経僧は美男で美声がよい、とある。当時の仏教儀式は、半ば芸能であり娯楽の要素が濃かった。それは四百年後のこの時代も変わらない。道端の説法、念仏、遊行聖たちの宗教活動は、過酷な生活に追われる民衆の慰めであり救いであった。
 この一休もやはり魅力的な男だった。周囲をきょろきょろと窺う視線は落ち着きを欠き、普通なら当人を貧相に見せるのだが、彼の眼はいきいきと輝いて濁りがない。好奇心旺盛な童子の精神が目からあふれて活発に動いている。一休という道号を与えたのは、師の華叟だが、本人は休みなしにちらちらきょろきょろ動き続けてやまないおかしさ。
「女は、僧を、ゆ、誘惑した」
 ここでまたどもる。それから横目で宝珠を見た。宝珠は昏倒した元能を膝に抱えたまま、一休の色目にぷいと横を向いた。一休はくさめをしてばつの悪さを誤魔化し、
「だが、僧は女に言った。枯れ木が冷えた岩に寄りかかったも同然。実にさむざむとした気持ちである、と」
 へ、もったいないじゃないかと蝉丸が口の中で呟く。紅鶴は彼を軽く睨んだ。
 一休は声を硬く張り上げた。
「寒い、と坊主は言って女を返した。ところが女からこの話を聞いた老婆は、僧を庵から
追い出してしまった」
 ええ、なんだって、と周囲から声があがった。
「禁欲を守ったんだから、えらい坊さんじゃないか」
 と野次馬の誰かが尋ねるのに、一休は澄まして返答した。
「戒律を守るなんぞ似非坊主の仕業よ。それこそ逆賊。いい女が、いや美女でなくったっていい、女が儂の所へ来たら、滅法可愛がってやるのだ」
 何だと、気違い乞食め、仏法を汚すか、と怒声が飛んだが、彼は全く表情を崩さず、両眼だけくるりと動かして周囲をまた観察するのだった。しばらくして一休は楽しそうに言った。
「女などは、骸骨に皮袋を被せたものではないか。所詮は朽ち果てる糞袋。そんな代物に迷うも迷わぬもない」
 う、と一同は声を呑んだ。
 女は結句糞袋、皮一枚下は骸骨。いや、女だけではない、男であろうと、さらには人も獣も同じことだった。数年来の飢饉に一揆の続発で、都の内外は屍にこと欠かない。野良の犬猫がそれを喰い荒らし、腐りかけたその後に、真っ黒い烏がけたたましく群がる情景は、常日ごろあちこちで見られる。
 誰も言葉を発しない。蝉丸は顎を撫でながら、一休と周りの様子を眺めているが、あえて口出しをしようとはしなかった。
 一休は立ち上がった。さやさやと秋風の音が急にはっきり聴こえる。肉体いずれ糞袋と喝破されて聴く風音はうらさびしい。しゅんとなった野次馬の間を分けて、一休は飄々と歩き出した。と、見物の中から、ひとりふたりと彼の後を追って、その手に無理やり銭を握らせる者もいる。一休はそれを拒むでもなく、嬉しそうに押し頂き、喜捨した者の前で合掌しむにゃむにゃと経文を唱えている、ようだった。蝉丸は唾を吐いた。
「とんでもない破戒坊主だ」
 月夜に野良犬の遠吠えが響いた。おおかたどこかで死肉を漁っているのか、とこの場に居合わせた誰もが想い至ったろう。
 五条通りにがやがやと散ってゆく町衆を見送り、ぽっかりと夜の闇が広くなった地獄厨子の前に立ち、紅鶴は低い声で歌い始めた。
  けぶり立つ野辺のあはれをいつまでか
    よそに見なして身は残りなむ
「何だって?」
 蝉丸は紅鶴の顔を覗いた。濃化粧に作った面が月明かりにうつくしい。
「一休の歌だよ。自分もいつ死ぬかわからないって歌」
「明日は我が身か糞袋」
 蝉丸がふん、と鼻を鳴らしてまぜかえすのを、紅鶴は真顔で、
「よしてよ。あの坊さん高貴の落胤なんだって。たいした学問を修めてるらしいよ」
「そんな奴は、今時珍しくもない。東の女は、もとをたどればどこそこの姫だの何だの…」
 蝉丸は渋い顔だ。
「もういいだろう。とんだ暇つぶしだよ。いや、あたしらが暇なもんかね。紅鶴、ちゃんと客をとっておくれ、さあさあ」
地獄厨子の遣り手婆がしらけた顔で立ち上がった。蝉丸に足をひっかけられて地べたに倒れたその姿で一休の説教を聞いてしまったのである。
紅鶴を呼んだ婆ァは、蝉丸と宝珠には声をかけなかった。紅鶴はちらりと蝉丸に斜めの視線を残したが、何も言わずに厨子に帰ってゆく。
「望月の欠けては満つる浮世かな、だ」
 蝉丸は憮然として宝珠を振り返った。宝珠は地面に座り、元能を抱えたままである。
「わざと婆を怒らせたでしょ」
「さあな」
「ここに飽きた?」
「潮時にしちゃあ早いが、名残惜しいとも思えない。お前こそどうなんだ。今夜山名の呼び出しを蹴ったから、婆さんの機嫌が悪い。大名の側室に上がれば贅沢三昧。地獄厨子の実入りもでかいものを」
「蹴ったわけじゃないけど、なりゆきでこうなったの」
 宝珠は不平らしく口を尖らせたが、すぐに微笑に変えた。
「あたし、ここを出て行くにしても、まだしばらく都にいたい。辻君に戻ろうかな」
「都じゃなくて、その坊やのせいだろうが」
 蝉丸はあっさりと言ってのけた。宝珠の微笑が深くなり、唇の端にちらりと赤い舌がひらめいた。悪戯っぽい口調で、
「蝉丸おじさん、妬いてるの?」
「嫉妬するほど情があれば、俺は蝉丸じゃないが」
「そうね。でも少しは宝珠が好きでしょう」
「紅鶴姐さんと同じくらいに」
 うん、と宝珠は無邪気に頷いた。
 中天にかかる月は雲を払う夜風に磨かれ、冷たく光る。腕組みしてたたずむ蝉丸の顔に鑿で刻んだような影が濃い。月光は宝珠の膝に眼を閉じている元能の顔を白く浮き上がらせているのに、同じ光を浴びながら蝉丸の顔は深い影に覆われていた。
 蝉丸はその元能に顎をしゃくった。
「坊や、もう気がついているんだろう」
「あの僧は何者だ」
 元能は眼を閉じたまま、宝珠の膝枕から起き上がろうともせず、すらすらと問うた。
「一休宗純。いい坊さんよ」
 宝珠は元能の鼻をつまんだ。元能は眉を寄せて瞼を開け、自分の鼻をつまんでいる宝珠の手首を掴んだ。
「あの男と寝た」
「坊さんとだけじゃない。あたしは遊び女だもの」
 ものも言わずに、元能は宝珠の手首を掴んだ手に力をこめた。
「痛いわ」
 だが宝珠は笑っているのだった。宝珠はその手首をぐいと自分の胸元へ引っ張り、襟の合せ目から乳房に導いた。あたたかい女のふくらみに触れると、元能の硬い手は自然にほどけて、乳房の丸みに重なった。
「あたしたちは菩薩なの。迷う衆生に慈悲の分け隔てはしない。あんたも、あのひとも、誰も、彼も、悪人も善人もみんな好き。みんな一緒に浄土へ連れて行く」

 ほほ、と寿桂尼の柔らかい笑い声が紙燭の影に揺れ、絶え間ない勤行の鐘の音も揺れた。
「ようございましたな。あの方はいみじいお坊さまでございますよ」
 一休は打ち所を心得ていて、気絶するほど殴られたものの、元能は頭にも体にもさほど痛みを感じなかったが、従者に促されて立ち上がったとたん、たらたらと鼻血が流れた。帰路を危ぶんだ従者は、目と鼻の先の寿桂尼の寺を頼った。
「尼君には見苦しい様をお目にかけます」
 元能は恐縮したが、なんの、とおおどかに寿桂は微笑み、
「あなたがお出でになるだけでわたくしは嬉しい。御遠慮なさいますな、おもてなしもなりませぬが」
 従者と宝珠は庫裏で湯漬けをいただいている。宝珠は地獄厨子には戻らず、そのまま元能に付いてきてしまった。
 病に小康を得たものの、寿桂は初夏のころより老いやつれが目立った。内側から水分が抜け、ひとまわりしぼんでしまったようだ。
 女は骸骨の皮かむり、という一休の喝破が蘇った。灯を低く掲げた尼寺の一間、くきやかな月あかりに照らされて座る尼は、墨染めの衣の中身があるかなきかのごとく、ちいさく頼りなかった。面も夏よりさらに痩せほそり、繊細な頬骨と顎のかたちが皮膚に透けて見える。
 青葉のころ面会したとき、出家し、年を重ねてもなお残る色香に、ほのかな心ときめきさえ感じたものを、と元能は寿桂を眺める。
今の彼女は指に触れればもろく崩れてしまう白い灰のような、すでに彼岸に近い命の姿と思えた。
 尼はそのとき、常には口許を隠す袖覆いの嗜みも忘れたのか膝に力なく両手を置いていた。そのため元能は、小町もかくやというしめやかな美貌の果てを、つくづくと見ることになった。老いの見苦しさのない、しずかに冷えて凋んでゆく命の質が蒼白い月光に照らされている。寿桂尼はこのままひっそりと細りゆき、皮膚も骨も透け、しまいには蜘蛛の糸ほどにも痩せ痩せて、風無に帰してしまうのではないか……元能は言い知れぬ寂しさに襲われた。
「あの方は上皇のお胤なのです」
 尼は眼窩の窪みが黒く目立つ瞼をゆるく動かし、瞳を元能に据えた。
「さようでございましたか」
 さきほど宝珠の膝で眼を閉じたまま、周囲の喧騒を聴くともなく聞いていたとき、遊女の誰かが一休の血筋を高貴と言っていたことが思い出された。落胤、また流離の貴種は下克上の当節、もはや珍しくはない。東洞院の遊女の中には、落魄した宮家の姫もいるであろう。元能は、宝珠もまたそのような筋目ではないかと推測している。
 寿桂は続けた。
「後小松院にお仕えしていた某の娘に御手がついて。母御の身分も卑しからぬと聞きます。それなのに、どういう経緯なのでしょうか、宮中を追われたのは。元能殿、一休禅師はまだお若いのに禅の奥義を極めた尊い方でございますよ」
 元能は頷いた。寿桂尼はあの薄汚れた乞食坊主が皇子であると告げている。彼女が断定するならば、一休の貴種の噂はまことなのであろう。尼は薄く笑った。その微笑はまた元重を彷彿とさせた。怜悧にあでやかで、笑みにつれて目尻口許に浮かんだ皺が、銀の地に彫り磨かれた毛彫り細工のように光った。
「時折、この尼寺にもお寄りになり、御門跡とお話しをなさいます。わたくしも仲間とともにその法話を伺いますが、あなたは尊師に杖をいただいたそうでございますね」
「はい。しかし私には一休禅師がどのような人物なのか、まだ測りかねます。そのとき周囲に集まった町衆のおおかたは、師を破戒堕落と罵っておりました」
 元能はことの次第を、適当にかいつまんで語った。宝珠との係りは明かさない。殴られて一瞬気絶してしまったことも。
聞き終えた寿桂尼はかぼそい手に数珠を押し揉みながらゆったりと頷き、呟いた。
「わたくしも戒を破ってみとうなります。あの方とならば」
 寿桂尼はそれからゆるゆると膝を立て、元能にすがるように手をさしのべた。皮膚の下で白い骨が透けそうな指が、元能の顔の前でひらひらと羽ばたいて震え、はっとした元能がその指を握った刹那、立ち上がりかけた尼は、膝からぐらりとよろめいた。ひたひたと周囲に満ちている月明かりの輪の中に、尼は元能に支えられながらゆっくりと崩れた。あたかも全身に降り注ぐ月光の重みに耐えかねたように、元能の腕が抱き取った女人の肉体は軽かった。

 あの夜、寿桂はどのような心で自分をさし招いたのだろう、と元能は考え続けた。病苦に耐えかねてか、死の影に怯えてか、それともただ夜空に玲瓏と輝く月を愛でようとしてなのか…。
 戒を破ってみとうなります、と寿桂はうち伏し、瞳をぼうっと潤ませて喘いだ。それが今生最後の言葉となったが、それこそは彼女の三十数年の精進を覆す破戒の想いであろうものを、庭面に沸きあがる秋の虫の音がいちだんと高鳴った月下の臨終は、なまみの女の死とも見えず、清らかな、この世ならぬ光に迎えられていったとしか思われなかった。
 余人を呼ぶのも忘れ、絶句して亡骸にすがった元能は、眼の前の肉体が速やかにぬばたまの世界へ移ろう有様を見つめ続けた。なんという月光だったことか。真昼の太陽が、けざやかに生と死を隔て、朽ちゆく肉の無惨を見せつけるものならば、濡れしたたる月光は、もののあやめをひんやりと潤し、生死の境界は淡く滲んで暈された。死者と生者のさかいめは、汀の砂に戯れる笹波のようにおぼろに溶け合っていた。波に浮く月光が砂のうねりをなぞりながら寄せては返る水際で、女人の死は元能の生の影に重なり、月下の光と影はつかず離れぬ親しさで寄り添い続けた。
 生と死があれほど親しみあうものだとは!
 元能は寿桂の遺体に添いながら、何故かはわからぬが、今死んでゆくのは他ならぬ自分の一部なのであり、生き残ったのは寿桂のまなざしなのではないかと思った。戒律を破り、己が命の極みを尽くしたいと洩らした女人の臨終は、青年自身の吐露としか思われなかったのだ。
 ……ひらひらと、蛾の羽掻きに似た指の痙攣に、したたるような生の極みの姿を凝縮させながら……
「高橋殿は……」
 世阿弥の声が耳を驚かし、元能は我に返った。そうだ、俺は今は父の夜語りを聴いている。元能は正座の拳を握りしめた。
「鹿苑院さまの側室であられた高橋殿は、じつに行き届いた方であった」
 ほろほろ、と秋の落ち葉が軒を叩く。夜深く冴える風の音に聴き入るのか、その夜世阿弥の昔語りは途切れがちであった。寿桂の死を伝えたのは元能であったが、父の面はやはり揺るがなかった。端麗な面相の裏で、どれほどの澱みや激潭がせめぎあうのか元能は測りかねたし、それ以上に父の内面を覗くのは怖ろしかった。
「あの女性(にょしょう)は東洞院の傾城であられたが、世のさまざまな事情をよくご存知で、院の御寵愛深く、ついに落ち目を見ることなく御出世を遂げられた。常に院の御心をかしこくお察し申し、御酒の勧めようなども、その場にふさわしく心遣いされ、御機嫌に叶うように振舞われた」
 寿桂については露も触れない世阿弥だったが、その晩の語り草は、先年みまかった義満の側室高橋殿であった。東きっての美女は義満晩年の愛妾となり、子は生まなかったものの、義満の心に添い、優遇され続けた。義満没後も彼女は聡明に処世し、恣意に奢った次代将軍義持の正室日野栄子などよりはるかに世間の厚意を集めていた。
「院の御機嫌を測ることに優れた女性であられた。儂もそのような所はことに上手であると、どちらからも御褒美にあずかったものだ」
 十三歳の世阿弥、鬼夜叉の美貌と多芸に最高貴族であった摂政関白二条良基さえ陶然となり、藤若の名前を与えた。これを始めとして、諸大名、公家、貴顕ことごとく彼を賞玩し、当時、謹厳な保守派で知られた押小路内大臣公忠は、
「皆が藤若の機嫌をとるために金品を贈るので、その費えは巨万に上る」
 と苦々しげに記した。……
 元重が離反し、さらに元雅までも観世一座の棟梁の座を捨てた。凋落あきらかな一座を見限り、元重へと走る者が日々後を絶たない。
元重に天下の寵が集まろうとも、元雅あるかぎり本家は安泰、と皆が希望を託していた兄は、今大和でどのように過ごしているのだろう。観世座だけではなく能自体を捨ててしまうのだろうか。南朝の血をひく娘と契り子を生した。北朝を戴く幕府あるかぎり、元雅の結婚は表沙汰にはされぬ。どころか傾きつつある観世本家にとり、義教将軍の決定的な不興をかう醜聞でさえあった。観世座新棟梁の叛意として、一座は潰されてしまうかもしれない。
兄の出奔は、一座に災いをもたらさぬための、やむにやまれぬ選択だったのだろう、と元能は推測できた。元雅を欠いた観世座の動揺を兄が想像しなかった筈はない。
(俺に一座を率いよ、と思われたのか)
 元能は総身が震えるような思いだった。世阿弥の偉業を継ぐほどの器量が自分にあるだろうか。
 父が若輩の次男の迷いや不安を見抜いていない筈はない。観世座が根底から揺らぎ始めている今、ふと口を滑らせた昔話は元能をせつなくさせた。
 世阿弥の芸風はとうに庶民の嗜好を超え、貴族といえど浅薄な精神の者には味わえぬ高みへ到達している。そのような崇高を誰が愛で、誰が楽しむのか。否、崇高な娯楽芸、などそもそも成り立つものだろうか。人のこころの深遠を究めてしまった猿楽が、観る者の愛顧を得られるものだろうか。
 ばらばら、と軒を叩く厚みのある風の気配は柿の落葉でもあろう。
 高橋殿、それから己の若かりし日の思い出をたどった世阿弥は、元能を見やり、ふっと頬を柔らかくゆるめた。優しい声で、
「猿楽とは人の心を和らげるもの。その機微を失えばこの道は行き詰まる時期が来るであろう」
 父上、と元能は世阿弥の温和なまなざしを享けながら心に問うた。父上の成し遂げた能の高み、無文の能を、その機微を、今どなたが鑑賞されまするか。
 観阿弥以後、一座は貴人本位を貫き、最高権力者である将軍の好みを迎えてきた。世阿弥の言葉の「猿楽とは人の心を和らげ…」とは「将軍の心を和らげ、その機微を伺うもの」と言い換えたほうが適切だ。将軍とは言うまでもなく義満である。彼以後の将軍家は世阿弥を愛さなかった。義満への反感・反動ゆえに、義満の愛した世阿弥をことさら排斥したのだ。
 灯火に面の半ばをくらぐらと沈めた世阿弥はすい、と立ち上がった。何かを捜し求めるかのように膝立ちのまま明かり障子に両手をかけ、そこで動きを止めた。
「父上……?」
 元能は静止した父を見つめた。月光に吸い上げられるかと見えて他界した寿桂の姿が、今世阿弥に重なる。父は息子を見ず、そのひそかな呼吸の音だけが元能に聴こえた。
今ここで世阿弥が息絶えたら観世座は終わる、と元能は背筋が冷たくなった。
「あの音を聴け」
 父の声音は片膝立てた姿の整正と同じく、動揺がない。元能は耳を澄ませた。だが風になぶられる落ち葉の音よりほかは聞こえない。
 世阿弥が聴いているのは風の音か。それなら観世屋敷の虚空を吹き渡る秋風ではなくして、彼の内部をどうどうと流れる能の風音なのだ。彼が至りついた至高の芸境、妙花の風だ。
  古里の軒端の松も……
 我知らず元能が立ち上がったのと、世阿弥の謡とは同時であった。
  心せよ、己が枝々に嵐の音を残すなよ
  今の砧の声添へて……
 訴えよう、父の本心を問いたいと元能もまた膝を立てた。だが父の傍には寄れなかった。
  羊の歩み隙の駒……
 謡う世阿弥は、元能の迷いを寄せつけぬ。
  羊の歩み、隙の駒、移りゆくなる、六の
  道の、因果の、小車の、火宅の門を出で
  ざれば……
 父上! とやみくもに叫びあげたい衝動が息子を揺さぶった。何を考えておいでなのです。何故兄上をお呼びかえしになりませぬ。何故元重兄をお咎めにならぬ。あなたはいつも謎、黙って、冷ややかにわたしたち兄弟を 
高みから眺めているあなたは、何を考えていらっしゃるのですか? 
 世阿弥は膝立ちからわずかに腰を伸ばし、ゆるゆると一足踏んだ。
  因果の、小車の、火宅の門を出でざれば
  巡り巡れども、生き死にの海は離るまじ
  や、あじきなの、憂き世や
 夫に忘れられ、恨み死にした女の霊が、いましも巫女の鳴弦にひきよせられて闇から浮かび上がるとしか思われなかった。世阿弥は素顔である。表の感情を消した面はなめらかに深く、世阿弥の個性から離れて砧の女の情念を引き寄せていた。
 はたはた、ほろほろ、と夜風が家居の隅々を渡ってゆく。生にもよれず死に赴くことも叶わぬ女の幽魂そのもののように、風は嫋々とながく、絶え入るかと思えてすすり泣き、恨みのたけを訴え、未練にくずおれる。
 元能は、今この家の隅々に女の霊が息づいていると感じた。天井の梁に、柱隠れに、壁の破れ、戸板の隙間に、世阿弥の呼び起こした女の恨みが、ひしひしと迫っている。
 小夜更けて月は見えず、燭台の明かりはどこからともなく吹き入る夜寒の風に、ともするとかき消されそうだった。炎もまた女の情念に同化している。湯水も喉を通らぬほど思い焦がれ、夫を恨んでは慕い、恋いつつ歎き、煩悶する女の痩せた頬骨が、妖しく伸び縮みする火影の隈にまざまざと見えた。
  あぢきなの憂き世や…
(戒を破ってみとうなる……)
 世阿弥は冥界から揺らぎ出た女の足取りで闇をひきずった。ゆらり、と動いてゆく世阿弥の一歩ごとに夜はひしがれた。元能には父の歩みが闇を穿つのをまざまざと感じる。さながら純白の初雪を最初に踏みしめたくきやかな窪みのように、異界の闇を柔らかくしかも容赦なく捺した。それはまた、元能の内部にひそむ、最も柔らかい部分を静かに踏まれるような感覚でもあった。 
 

 
 





 

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