さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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中世夢幻 其七 花鏡

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 其七 花鏡

(真似るのではない。仕草や顔つきを真似るのではなく、そのものになる。老人に、天女に、物狂いに、なりおおせて後に身振りや仕草を真似る。そのものになって歩め。歩くことが最初であり、全てだ)
 何度となく教え聞かされた父の言葉が元能の脳裏に蘇った。今、父は舞もせず扇も持たず、ただ歩いている。それも、足踏みがさだかには見えぬほどの緩い動きで。
 手振りもなく、顔もつくろわず、わずかに面を伏せ、腹の底から絞りだす声は、まさしく老年の男のものだった。舞台の前で熱湯を飲む慣わしの世阿弥の喉は、いつからか低くつぶれ、世の常ならず嗄れた。その陰惨な謡声が、今は女のかぼそい悲愁としか聞こえない。
 世阿弥は、その最初の芸道書『風姿花伝』において、「物真似は此の道(猿楽能)の肝要である」と述べている。
  凡そ、何事をも、残さず、よく似せんが 
  本意なり。(中略)先ず、国王・大臣よ 
  り始めたてまつりて、公家の御たたずま 
  ひ、武家の御進退は、及ぶべきことのあ
  らざれば(中略)、その外、上職の品々、
  花鳥風月の事態(ことわざ)、いかにも
  いかにもこまかに似すべし。
 このとき世阿弥は三十代後半から四十代前半。彼自身言うところの「さかりのきわめ」にあった。この花伝書は世阿弥の父観阿弥の教訓筆録であるから、猿楽発生当初の基本姿勢を知ることができる。
 それから二十余年の後、世阿弥は六十路を越えて、彼自身が体得した芸論書『花鏡』を著した。花伝書に基づきながら、芸においての考察はさらに深められ、実践的であると同時に、また凡百の芸人にとっては、たとえ内容が理解できたとしても、舞台でいざ表現するのは至難と思われる叙述が随所にある。
 たとえば、
  「其の物に能く成る」と申したるは、申
  楽(猿楽)の物まねの品々也。尉になら
  ば、老じたる形なれば、腰を折り、足弱
  くて、手をも短か短かと指し引くべし。
  その姿に先づなりて、舞をも舞ひ、立ち
  働きをも、その形の内よりうつすべし。
 世阿弥はここで、外面の物真似を超えて、内心の機微を示唆している。あらゆる所作は、まずその役になりきってから演じ、舞ひ、歩め、と。
彼の壮年時代に書かれた『花伝書』の記述「よく似せよ」は、晩年の『花鏡』において、「能く成る」に深まっている。この相違は大きい。
言葉の瑣末にこだわるのではないが、「なる」は大変不思議な言葉である。成長する、何か神秘的なものが現れるなど、この世ならぬものが立ち現れるような、彼岸と此岸をつなぐ意味深い言葉だった。現代にその痕跡を探すなら、TVの時代劇で「殿様のおなり」
と言う前口上も、起源をたどれば非日常の聖なる存在の現われを告げる言葉、「なる」の名残なのであろう。
 世阿弥は繰り返し強調する。
  一切の物まねの人体、先づ其の物に能く
  成る様を習ふべし。さてその態をすべし。
 物真似は二の次に、まず内面からの変化を要求するこの締めくくりに、世阿弥の冷ややかな眼差しを感じる。内面から「なる」術は、はたして習得することができる「技術」だろうか? 可能かも知れない。だが、それは生まれ持った才能あってのことだろう。ただの物真似なら、身振り仕草の模倣でごまかすこともできようが、「なる」は役者にとって、内面に自分とは異なる人格を創造する営みに違いない。
 世阿弥は、彼の子弟にこうした内的感性の深化を要求したのであろう。
 しかし、それは元能にとって芸への蹉跌に他ならなかった。
(なれない、俺は)
(戒を破ってみとうなります)
 そのものになれ、鬼に、幽魂に、物狂いに、乞食に、雲水に、なりおおせてから舞え…
「父……叔母上!」
 それで寿桂は死んだのか、とずれてゆく意識のなかで妖しい納得があった。この世の桎梏を逃れて、しらじらと輝く月光に紛れて老女は消えた。
(いつのことだ)
 やつれやつれ、こけた頬骨に夜闇を溜めた美女のなれの果てを、俺はたしかに見たが、それはいったいいつだったろう? 元能は震える両手をさしのべ、叔母を父を追い求めた。
俺は気が狂った。なりたくない。物狂いになどなりたくない。
(なれはせぬ)
 またしても空耳に届く冷笑は元重か。俺を嘲いながら、なぜ俺を抱く? 
 束の間の、しかし長い幻影から、脂汗を流して眼を開けると世阿弥が真正面にいた。拳を軽く膝に置き、所作以前の静かな姿が、廻廊を吹きぬけてゆく風に添いながら、伏目に息子の惑乱を見つめていた。その惑いを引き寄せたのは世阿弥だというのに。
 その眼は父親の眼ではなかった。息子を見つめているのではない。何者かが世阿弥の肉体を借りて、くらぐらとこの世にたち現れている。
  恨みは葛の葉の、恨みは葛の葉……
「やめてください」
 元能は後じさった。が、父親を拒む息子の叫びは、ただ今、世阿弥の上に出現したものの力に捻じ曲げられ、はるかに根源的な恐怖となって響いた。
  帰りかねて執心の、面影の、恥づかしや、
  思ひ夫の、二世と契りても、なお…
 二世の契りだと? 誰が、誰と契る。執心の面影。だが宝珠は言ったではないか。
(あたし絡まないわ)
 そうだ、まことの情念を俺はまだ知らぬ。

 憎いか、と質す声は冷たかった。
 感情を消した鋭さで愛憎を問われてもさだかには応えられない。
「御意」
 元重の予測どおり、びしっと夜気を裂いて笞が打ち込まれた。彼はただしくかしこまった姿でそれを受け、わずかに鬱した息の滞りで己の苦痛を相手に知らせた。
「たばかるか」
 義教のはだけた胸元から、うっすらと麝香がなまめいていた。女の名残が彼を苛立たせている。将軍の情を乞い願うと見えて、その実、したたかに快楽を毟り奪ってゆく女ども。受胎というあけすけな営みをお家安泰の大儀に塗り替えて女はからだを開く。
 つがった瞬間から義教はもはや彼ではない。欲望は将軍という種馬の疾走にすりかえられ、肉の交わりという、単純で粗暴な行為だけが、今現在彼に許されている、ほとんど唯一の将軍たる職務であるという認識が義教を苛立たせるのだった。
 こうるさい爺どもめ。
 正室日野重子の腹に一日も早く世継ぎを、と暗に迫る側近の誰彼を、義教は疎んだ。
 重子に感情は動かない。将軍正室相応に接しはしている、それだけだ。それで十分だ。義教が心から睦ましく重子を可愛がるということは、生涯ないだろう。この二十歳に足らぬ美少女のなかには、名門の女らしい欲望が、贅沢な嫁入り道具と等しくぎっしりと詰まっていて、それは日野家の女の遺伝形質となっている権勢欲や奢侈への渇望といった図太い性質に成長してゆくのかも知れない。しかしそれは義教の関心の外である。彼は御台所の言うなりになった兄義持とは違う。重子に嫌気がさしたら、即座に切り捨てるほどの烈しさを彼は持っている。後宮の女たちは、動物的な直感で将軍の苛烈を嗅ぎつけ、義教に服従している。
 義教にとり、苛立たしいかぎりなのは、将軍に籤引き就任する以前の工作で、主だった宿老大名に念書をとられたことだった。すなわち、彼が将軍となっても政治一切は、義持時代と同様、諸大名間の合議を容れること、と。その誓詞なくば、青蓮院門跡の義円が冊立されることはなかったであろう。
 焦ってはならぬ、と彼は歯ぎしりする。宿老大名といっても、実際に彼の力を封じているのは三宝院満済と、山名時煕だけだ。他はこの二人とは比較にならない。気骨のない公家まがいの教養人、または小心翼翼とした日和見、と義教は見切っている。幸いに有力な両人ともに高齢で、早晩この世から消える。その時こそ足利将軍義教の名実備わり、全権を掌握できる。
 重子を下がらせた後、義教は元重を呼んだ。
 深更に急遽召されながら、元重は乱れのない大紋姿で参上した。召し出しを予期していたような隙のなさだ。
 元重のつややかな鬢が精悍な若い皮膚に映え、火影に匂うようだ。
 義教は、この端麗な猿楽者を、手入れの行き届いた庭園を眺めるような快さで眺めた。この男を刈り込み、整斉に馴らしたのは彼だったから。
 まだ稚児の頃に伽に召し、肉の痛苦を快楽に変える術を教えたのは義教であった。少年のみずみずしい肉を貫くためには、生娘を犯すよりも、長い手馴らしが要った。全身に脂汗を滲ませ、なかばで責めあぐねる義円の脈拍に合わせ、少年の腹部は皺を寄せてよじれ、呼吸もたえだえに波打った。こどもの痛みを労わってそのまま放つと思わせて、さらに酷くえぐった刹那、まだ声変わりのない少年は、絞め殺される兎のように痙攣し、細い悲鳴をあげた。
 この男を整え、ならし、今の姿に育てたのは彼だ。元重のどこを開こうと、踏みつけようと、さらには斬り払おうと、絶対に逆らわず、また崩れることもなく、主人の精巧な快楽の器となってしたたかに息を吹き返す。
「御酒を召されましたな」
 にじりよった元重が指をしなやかに義教に添わせながら囁いた。狎れた声音に、義教はいま一つ叱咤を加えようとしたが、その寸前でねっとりした舌の熱さに絡められた。
「血の匂いが」
 応答は粘膜の充血に呑まれる。屈みこんだ元重の肩を義教は荒々しく掴んだが、いたぶる責めにはならず、彼自身の快楽の証となっって両手はわなないた。元重の衣は、打ち込まれたささらの烈しさのままに裂けていた。
その裂けめから素肌に指をすべらせると、元重の背中は、この秋冷にじっとりと汗ばんでいる。それも義教の望みどおりであった。この男は俺に平仄が合いすぎる、と義教はいっそう元重を憎く感じたが、欲望は彼がとりつくろうとする憎悪の箍をはずしてふくれあがっていた。
「ご立腹あそばす」
 主の膝に屈んだ顔をすこし浮かせ、元重は計算した媚を含めて呟いた。
 ふ、と義教はわらい、冴えた白目に彼らしい鋭利を湛えたまま、元重の顎を人差し指一本で持ち上げ、のけぞった首から胸にかけて、その指先をすっと滑らせた。
「将軍は河原乞食風情に心は動かさぬ」
「さようでございました」
 だが義教の手は甘い、と元重は感じ取る。長年の経験で、この主人は、機嫌のよい時にことさら元重を貶めるのだとわかっていた。
義教の声がほぐれ、語尾は弛緩している。手なぶりもまた、常の酷さではなく、慕わしげな誘いに変わっていた。
 受身より微妙な能動を促されている、と元重はひやりとする。突き刺される痛苦は極まりで翻り快楽に変わる。しかし直に進む昂ぶりを行動するのは、下郎の弁えからすれば苦しかった。滅多にないことである。それは薄氷を踏む危うさと隣りあわせだ。
(溺れるならそれも)
 元重は主に見えない片頬だけ歪めた。彼はいつのころからか、顔の左右で違った表情を作ることに馴れた。義教に見せている面と、そのうらの顔。
 ひたひた、と密度の濃い滴りが、血の匂いを含んで男たちの皮膚を濡らす。抜き差しならぬ苦痛を互いに強いながら、虐げる者と虐げられる者とはたやすく逆転する。
 元重は贅肉のない義教の背中が、闇の中で白木の小舟のように揺れ続けるのを見た。揺さぶっているのは、今は元重のほうだ。快楽と、苦痛と、煩悶、すべてないまぜにしてさらにまた快感。義教の背中は美しい。門跡時代から、彼はひそかに武術の鍛錬を怠らず、過不足なく筋肉のついた貝殻骨の陰影が背中に刻まれている。
 曲線と直線の微妙な均衡のうちに壮年の力強さを彫りあげた腰は、広い肩とは対照的にひきしまり、あたかも元重が注ぐ快楽に向かって収斂してゆく扇の要のようだった。あるいは元重のあやつる舵のまま、行方知れないぬばたまの海に揺れる船の艫のようでもある。
 嵐が来て船がくつがえれば、舵をとる元重はおしひしがれる。きりがなく果てのない営み。しかしどこかで肉の絆は限界を踏んで断ち切られる。極まって互いに放つ精はいつも初夏の匂いを閨にたてた。
 五体の物憂さをこらえ、元重は東雲の薄明かりを頼りに身じまいを調える。
 義教は眠っていた。溺死のような眠りの手前で、いつしか忍び寄った傍小姓が夜具をこちらにひき被せたところまで覚えているが、それから元重も眠ってしまったようだ。
 明け烏の声にぞっと目を覚ますと、彼は素裸で板敷きに仰臥していた。ひんやりとした夜明けの大気にもかかわらず、腋と背中にべったりと汗をかいていた。
 見苦しいものを片付け、隣室の小姓を呼ぶ。
 元重の合図から、しばらくして襖がひらき、前髪だちの少年がかしこまって膝行してきた。義教好みの美童だが、元重を上目にちらっと窺った硬い一瞥に、敵意が透けた。少年は元重に言葉をかけなかった。しかるべき武家の子弟であろうから、猿楽者の元重とは身分に雲泥の隔たりがある。
 少年には義教の手がすでについているのかもしれない。それならば壮年に至ってもなお義教の寵を享ける元重への嫉妬は格別であろう。少年の美しさとはさかりの短い花のようなものだ。

 何を泣く、と問われて顔をあげると父は燭台の脇に端座していた。闇の惑わしはあとかたもない。世阿弥の歩みにつれてふくれあがった幻影のうねりはかき消え、板壁を撫でる夜明け前の風もさらさらと穏やかだった。
「わたくしをお見捨てになるのですか」
 兄を捨てるのか、と問おうとして元能は自分でも思いがけない言葉を放った。
 元能の声が聞こえないかのように、世阿弥は無言で、胸の前で両手を上向きに開き、希薄なかはたれの光が、その掌の窪みに刻一刻と溜まってゆくのを見つめていた。そんなこともあるのだろうか、俯き加減に面を伏せた世阿弥の顔は、両手に湛えた有明の青白い光に下からうっすらと照らされていた。朝日にはまだ間があり、室内は退いてゆく夜闇と、満ちてくる朝とが、汀の戯れのように、至るところで揉み合っている。
 あやめ分かたぬ闇に沈んでいる夜から、柱が、壁の穴が、床板の木目が、床の軸が、青磁の香炉が、ひとつひとつひきあげられ、見慣れたものの親しさで昼の記憶と結びついた。名残惜しげな仄闇は、父子の周囲になお漂っていたが、のどかな雀の鳴き声が、夜通し充満していた幻を払いのけた。目覚めの安堵は日常の味気なさで視界を狭めることでもある。
 今日は昨日の続きであり、人生は掬い上げた砂が指のあわいからこぼれるように、静かに音もなく流れてゆく。
 世阿弥は両掌を膝に伏せ、面をあげた。彼が掬いあげていた時間の砂は速やかに消えゆき、斜めに射し入る秋の夜明けの白い影に溶けていった。
「かようの味わいは、決して後の世の者にはわかるまい」
 世阿弥は呟き、元能から顔を背けた。
「最高の奥義は言葉に語れず、書き残すことなど無論かなわぬ。語れぬものにこそ真実があるのだが、その悟りは」
 言いさして父親は息子を見たが、たいらかなまなざしは、元能の上をすべって消えた。何の圧迫もなく、ただ静かに消えた。世阿弥と元能は生きる世界を異にしている親子だった。父親は温和に息子をねぎらった。
「夜通し、冷えたであろう」
 息子はうなだれ、軽く首を振った。声がかすれた。
「さようなことは」
 元能は父のおだやかな労わりを享けて、自室に下がった。しかしその労わりはかえってつらかった。臥所に横たわっても、元能は眠りに就くことができなかった。自分が紡ぐいかなる夢よりも、はるかに濃密な夢幻を見てしまったあと、元能は空虚だった。
(俺は洞のようだ)
 埋めることも遮ることもかなわぬ空漠が、青年の心をさびしくさせた。今夜の父の言葉をどう書きとめようか。
 元能の身心を絡めとった幻が「砧」であったと、元能はそれから数夜を隔てて思い至った。能楽の「砧」を知らぬわけではない。しかし元能の記憶の「砧」と世阿弥のひきよせた幻影とは、全く異質の隔たりがあったのである。

 世阿弥は長命で、八十余年の生涯は、三代義満から七代義勝の治世にまたがっている。
最盛期は言うまでもなく三代義満の頃だが、芸の真を極めたのは、義満没後の義持時代以降であった。義持は父への反発からか猿楽を好まず、田楽の増阿弥を寵愛し、世間での世阿弥の人気は急速に衰えた。さらに義教に至っては義持よりあからさまに世阿弥を排斥。世阿弥の甥音阿弥元重を偏愛し、観世本家の都での興行は元重に圧倒されてしまう。
 世阿弥の運命の浮沈は、室町幕府の命運と偶然にも一致している。世阿弥が義教の圧迫に苦しんだ時代は、また足利家にとっても存亡の秋(とき)であった。それは三代義満が未解決のまま残した諸問題が、義持の無能無策の治世二十余年に助長され、うわべの繁栄の時期を過ぎて、義教の代に至るや、一気に露呈したようなたて続きの災厄であった。
例えば南北朝の問題。これは義満によって決着されたかに見えたが。……。
 室町時代、天皇家は混乱しきっていた。
 後醍醐天皇の建武新制による鎌倉幕府打倒にひき続き、足利尊氏の室町幕府樹立により朝廷は京都と吉野に別れ、紛争を続けた南北朝の騒乱は、三代義満に至ってようやく収拾された。南北両朝迭立(南朝と北朝の天皇が交互に即位すること)を条件に、明徳二年(一三九二)南朝最後の後亀山天皇が、北朝後小松天皇に譲位するに及び、一応の決着がついたのである。
 ところが、義満が吉野南朝に約束した迭立は、義持によって無視され、後小松天皇の後を継いだのは南朝の帝ではなく、引き続き後小松の第一皇子実仁、称光帝であった。
 南北朝の騒乱は、ただ室町幕府創建に係わる天皇後醍醐と武家足利尊氏との争いではなく、その淵源はさらに二百数十年前、後深草、亀山両天皇の高位継承問題に始まる。兄である後深草天皇の系統を持明院統、その同母弟の亀山系を大覚寺統となし、鎌倉幕府までも巻き込んだ皇位継承争いは、後醍醐に至るまで皇室に泥沼化していた。
 建武の中興に失敗した後醍醐は大和吉野に逃れ、地方の有力国人の支援を得て南朝を開き、頑なに幕府に反抗し続けた。後醍醐は大覚寺統である。吉野南朝は執拗に反幕勢力の拡張につとめ、それは皇室に根深く巣食う皇位継承の怨恨であるだけに、容易な解決は見込めなかった。
 義満が南北朝の統一に際して提案した両統交互即位とは、既にあった持明院、大覚寺の迭立を、皇室と幕府の和解のために再利用したまでのことであって、根本的な決着ではなかった。このような妥協策は、そもそもの始めから次代の政権争いを予想させるものであったが、策謀家の義満は例によって二枚舌を使い、幕府に歯向かう吉野朝廷の勢力をなし崩しにする目論見だった。それほど義満の権力は充実しており、後小松天皇の父後円融は、陰に陽に続く義満の圧迫のために、ノイローゼ気味の晩年を余儀なくされ、政治上廃人であった。
 おそらく、後円融時代、義満の胸中には天皇家乗っ取りの構想ができあがっていたのではないか。政権のみならず、朝廷の祭祀権をも奪い、公家たちは内裏への出仕をさしおいて義満の北山第に参上する体制ができあがっている。
 義満が前代未聞の皇権乗っ取りを企てたのは、おそらく中国の影響であろう。名より実を取る彼は明に臣従体裁をとり、貿易によって巨万の富を得たが、同時に大中国の皇帝が、日本のように万世一系ではなく、しばしば異国の覇者によって交代するという事実を、己が野望の根拠にしたのではないだろうか。
 北山第を造営したこの時期、義満としては皇統を当面後小松一流に固めておく必要があった。言わば将来覆す対象を一点に絞って掌中に握り、徐々に弱体化する魂胆であった。
 その計画は半ば以上達成され、義満の愛子義嗣は親王に擬せられ、みずからは上皇でなければ許されぬ繧繝縁の玉座に上った。しかし運命は彼に王手を許さず、応永十五年(一四0八)、権力の絶頂にあった義満は、周囲の誰ひとり、それが命取りとは思わなかった風邪のために、床についてわずか七日の後に卒した。享年五十一歳。
 容態の急変のために後継者の確実な指名さえなされぬあっけない死であった。
 その後の幕府内部の後継争いと宿老大名たちの実権掌握紛争のうちに担ぎ出された義持は、後見の斯波義将に頭が上がらず、義満の体現した足利家の専制体制はあっけなく潰えた。それはこの後、幕府崩壊から戦国時代へ続く、下克上への最初の兆しに他ならない。
 義満の死によって生き長らえた後小松天皇は、さすがに義持の代までは実子称光天皇即位後援の恩もあり、将軍に対して「室町殿様」と最大の敬意をはらい続けたが、酒色に溺れた義持が後継者を定めずに死に、その後に諸大名の籤引き就任というかたちで登場した義教に対しては、脆い政治基盤を見透かして、義持時代とはうってかわった高飛車な態度で皇権を主張しはじめる。もとより誇り高い義教はこれを肯んじず、天皇と将軍の関係は険悪化した。
 後小松上皇と義教のしのぎあいは、永享五年の後小松の崩御まで続く。義持時代に猫を被り続けた上皇の、幕府に対する積年の恨みが義教に対して剥き出しになった体であった。
 義教にとって悪いことに、彼の将軍就任に前後して、後小松の子称光天皇が崩御。称光帝に皇子はなく、父後小松帝は、急遽伏見宮成貞親王の王子彦仁を猶子として立太子、践祚した。後花園天皇である。
 慌しい皇位継承は北朝の系譜を守るための皇幕一体の政治劇であったが、再三違約の憂き目を見た南朝の反発は必定であった。これをきっかけに、南朝後亀山の皇子小倉宮の謀反が起きる。もともと称光天皇は、南北両朝迭立の盟約を破棄し、幕府が無理押しして即位させた北朝後小松の直系であり、義満の約束を守るならば、後小松天皇の後には、称光ではなく、南朝後亀山帝の皇子が即位すべきだった。
 後亀山の皇子小倉宮良泰親王は自己の正当性を主張し、義持から義教への不安な将軍代替わりと、称光天皇崩御という二重の混乱に乗じて、幕政に不満を抱く地方武士と、さらに重税に苦しむ民衆を煽って、各地でゲリラ戦を展開した。日本民衆史上に名高い正長の土一揆をきっかけに、各地で始まった土民蜂起は、南朝の反徒に唆されて広がったふしもあり、将軍就任当初から義教の治世を脅かす。
 後小松の皇権回復画策と、宿老大名連による将軍の傀儡化、反乱、大飢饉と、内憂外患に立ち向かわなければならない義教は、謀反軍に断固武力で応じ、義満のような懐柔策をとらない。ひとつには、舌先三寸で各勢力を操れるほどの政治力が就任早々の義教にはまだなく、武力行使だけが己の現在持てる能力を遺憾なく発揮できると決断したのであった。
 事実、義教は果断であり、軍事能力に優れていた。
 彼は戦場を厭わなかった。公家化して堕落した兄義持の轍を踏むまいと、尚武を率先する義教に、かつての物静かな天台座主の面影はなく、武士団を叱咤采配する的確な侍大将ぶりは、始祖尊氏の再来を思わせる鮮やかさであった。

「大覚寺の御門跡が日向で処刑されたとさ」
 裏土間の竈に群がり、遊女どもは芋や栗を焼きながら世情不穏の噂にしきりだ。まだ夕暮れには間があり、化粧前の女どもは、昼過ぎまでの遅い寝起き姿のしどけなさもそのまま、ぱちぱち爆ぜる竈の火に手をかざし、無遠慮に着物の裾をからげて冷えた脚をあたためようとする。
「子を流すとしんからからだが冷える」
 この夏の終わりにこどもをおろしたひとりの遊女は、竈に向かって膝頭をひらき、あられない姿を憚らず、じっと体の奥まで火の暖かさを通そうとしている。彼女はげっそりと髪の減った頭をがりがりとかきむしり、それから、やはり乾いた頬の皮膚を手荒に撫でた。
それほどの年配とも見えないが、目の周りが黒くなって、健康を損なっているのがはっきりわかるのである。だが周囲の遊女たちは無関心だった。子おろしの酷さを通過しない遊び女は、石女でもなければ、まずいない。だから同情もしない。
 だが、この遊女はまだ若いのに気性が弱いのか、膝を開いたまま、こん、こん、と咳き込み、
「やっぱり若いっていいよねえ。いっときのことなんだけど、強いもんねえ」
 老婆のような言葉を呟いた。彼女の隣りで栗を剥いていた紅鶴は顔をあげ、
「あんた、あたしより若いじゃないの」
 呆れ顔で言う。彼女は今剥きあがった栗をその女にくれてやり、
「弱気になっちゃだめだよ、あんた」
 と優しいことを言った。だが堕胎した女は湿っぽく首を振り、
「あたしもこどもを産んでおけばよかった。女はこどもひとり産んだあとが人生の花だって言うもん。紅鶴さんは、ほんとにいつまでも衰えないねえ」
 最後の台詞は少なからず皮肉が混じった。とたんに紅鶴の顔がきっとなった。
 竈に集まった女どもで、出の前というのに白粉を塗っているのは紅鶴だけだ。もうかなり進んだ水銀白粉に焼けた素肌の衰えを隠すためだった。
 素顔の紅鶴の面貌は、あきらかに黒みやつれているものの、まだそれほど傷んではいない。水銀焼けがひどくなると梅毒のくずれに紛う無惨を呈することもある。
 気位の高い紅鶴は、自分の容色の衰えを朋輩に晒すのが嫌さに、常に化粧を怠らないのだった。
 紅鶴は抑えた声で言った。
「あたしは心がけがいいんでね」
 背中を向け、こちらに伝い歩きしてきた自分の赤ん坊がぐらりとよろけるのを抱え上げ、その口に柔らかく噛み砕いた栗の実を入れてやった。赤子は涎だらけの手で母親の乳房を探る。飢えているのだった。
「可哀想に、ろくな食い物もないから」
 女どもはこどもには甘く、自分の食べ物を赤ん坊に分けてやる。赤ん坊の手足はすこし細くなり、頭の大きさが目立つのである。紅鶴の乳がほとんど出ないのだろう。食糧事情の悪い当時、赤ん坊は三、四歳になるまで主に母乳で養われた。普通の食事が摂れるようになっても、乳はだいじな赤子の栄養源だった。貴族の子に何人もの乳母がついたのはそのためだ。だが庶民のこどもは母親の乳に頼るしかない。でなければ重湯のような栄養価の低い代替物になる。飢饉や貧困で欠乏すれば、弱い赤子はすぐ死んでしまう。
「紅さん、こどもも気の毒だけど、あんたも食べなよ。ずいぶん痩せちゃったろう。お乳にみんな吸いとられてしまったんじゃない」
 紅鶴と同年輩の女がしみじみと呟いた。
 子連れの紅鶴に情を寄せるのは、さかりを過ぎた女だった。若い女は、母親よりも赤ん坊に気を取られる。
 いずれにせよ、気性のいい紅鶴は仲間の湿っぽい情けなどよろこばない。だから起きぬけから顔をつくっているのである。紅鶴は憐れみをはね返すように言った。
「どうだろうね、親子だって殺しあう世じゃないか。大覚寺さまって、将軍家の弟だろ。毎日のおまんまに苦労のない上つ方は、むやみに命を粗末にするよね」
「御門跡は吉野の帝に通じたって話だよ」
「帝は御所にいるじゃない」
「別な帝がまた吉野に朝廷を開かれたって」
 ふん、と紅鶴は鼻を鳴らした。
「どこに何人帝がいたって、まつりごとは将軍家がしているんだろう。聞いた話じゃあ、先々代の帝(後円融)は、朝晩の飯も満足に召し上がれず、将軍のお情けを仰いだとか言うよ。それじゃあ、あたしらとたいして変わらないじゃないの」
 あはは、と遠慮のない笑い声が竈の煙のように沸いた。そうだよね、変わらないねえ。
「罰当たりなことを言いやがる、姐さんたち」
 がらりと表戸が開いて、大きな麻袋をかついだ蝉丸が中に首を突き出した。
「あんた、雲隠れしていたと思ったら」
 紅鶴の声が浮き立つのに、遊女どもは一瞬思わせぶりな目配せをしあった。
「傀儡も喰いっぱぐれそうだから、今度は蔵まわりになった。姐さんがた、身の要りものはおいらに言いつけてくれ」
 と殊勝げに蝉丸は膝を折り、腰を低くかがめ愛想わらいを浮かべた。頭の赤い被り物はそのままだが、地獄厨子に居た自分には、遊女の古着をもらって、ぞろりと着流しただらしなさだったのが、うってかわって地味な小袖をきちんと腰紐で括り、その下の四幅(よつ)袴も、古物には違いないが、こざっぱりとした紺色だった。赤い頭巾がいささか違和だが、それ以外は立ち居姿の整った町衆である。顔つきまでにこにこと温和で、飴色の日焼けまでが、いかにも物売りらしく気安い。
「品物見せて」
 若い遊女で、懐具合の悪くない妓がせかすと、蝉丸は背中の袋をおろし、もったいぶった手つきで、何枚も女の衣装を掴みだした。
「いい染めだろう? やんごとなき辺りのおさがりだ。そっちの櫛は新品だし、この帯は緞子だぞ」
 わっと歓声があがり、女どもは眼の前に繰り出された衣装小間物に飛びついた。
「手垢をつけないでくれよ。これから得意先をまわるんだから」
 と蝉丸は上機嫌で鼻の穴をふくらませ、遊女どもをあしらいながら、すばやく竈の隅に放り出された焼き芋に喰いついた。
 蔵まわりとは、土蔵、すなわち質蔵をまわって質流れ品を買い集め、それらを一般に売りさばく商人のこと。店を固定して構えない行商で、その商い品は衣装から身の回りの日用雑貨全般に渡り、彼らは都大路を「おつかい物、おつかい物」の呼び声とともに歩いた。おつかい物とは、お徳用、お買い得という意味。貨幣経済が発達し、高利貸しが質草をためこんだのはいいが、物品を流しさばく中間商人が必要となった。
 それに応じて現れた蔵まわりは、都の隅々まで、下は民衆から上は天皇の御所まで「おつかい物」を流通させた。将軍家の匙加減に財源を委ねる天皇家の内情は苦しく、身分の低い女官や貧乏公家たちは、しばしば古手屋の世話になり、体裁の維持に努めた。内乱のあげく、常の儀式典礼も滞りがちな内裏では、たまさかの晴れの儀礼の前後にはすぐさま蔵まわりが参上し、今日宮廷女官が儀式に着用した袴を、明日は東西洞院の遊女が穿いて大名の酒宴に侍るという次第も頻繁だった。
「いい品だね、あんた」
 紅鶴は言外に問いを含ませ、遊女の輪の中からそっと外れ、蝉丸の傍に寄った。
 どうしていたの?
 蝉丸はそ知らぬ顔でむしゃむしゃと芋を食べ続けている。
 宝珠が遣り手婆ァと悶着を起こして地獄ガ厨子を飛び出したあと、程なく蝉丸も消えた。
女たちは、おおかたこの二人はしめしあわせたのだろうと噂し、例によって紅鶴は男への未練など見せなかったが、それ以来彼女の風姿から、どことなく精気が抜けていった。
「紅さん、痩せたんじゃないか」
 蝉丸は半分ばかり齧りかけた芋を口から離し、紅鶴の鼻先につきつけた。紅鶴は口許で笑って首を振り、彼女が抱いていた赤ん坊が母親に代わって手を出した。
「話をそらさないで。どこにいたの」
「そらしちゃいない」
 蝉丸は赤ん坊の手に芋を握らせ、腰に手をあて半身を居丈高に反らせた。
「御覧のとおり、素っ堅気の商人よ」
 へえんだ、とまだ小娘の遊女が蝉丸の台詞を耳にして口をとがらせた。
「蔵まわりが堅気だってさ。鬼の喰い残しを商ってるんじゃないの」
 違いない、と蝉丸は怒りもせず、目を剥いてにやりとわらった。
「ね、宝珠ねえさんはどこ? あんたと一緒だと思っていたのよ」
 そうそう、と小間物にたかっていた女どもは一斉に蝉丸をふりかえり、紅鶴だけが逆に顔を伏せた。
 蝉丸は黙って腕組みし、興味津々の遊女たちの顔をぐるりと眺めて愉快そうに、
「天に昇ったか、地に潜ったか」
「そらぞらしいったら。あんた、あの娘の情夫(いろ)だったんだろ。ふたまたかけて」
 と遊女のひとりがすっぱぬくと、紅鶴はすっと目を細め、
「遊び女にふたまたもみつまたもあるものか。あたしたちは千手観音なんだから」
 蝉丸は柳に風と受け流し、
「ほ、一本の手に男一人か。たいした衆生済度の観世音菩薩さまだ。だが、あの姐さんは俺じゃいやだとさ。みごとにふられて」
「じゃあ、観世の若さんと?」
いや、と蝉丸は皆を驚かせる楽しさを満面に浮かべ、
「世俗は捨てて、しんから解脱。尼になったよ」
「そりゃあ、おようの尼かえ?」
 遊女のひとりがまぜ返すと、どっと笑い声があがり、別な誰かがさらに、
「でなけりゃ、すあい」
 女たちの笑い声に取り巻かれて、蝉丸は酸っぱい顔をした。
 おようの尼、とは蔵まわりと同様、古着や小間物を商う尼のことで、特に女の身の回り品全般を調達した。彼女たちが商った品物を挙げてみよう。
  古綿、古小袖、破帷子、布切れ、古帯、
  古糸、絹端(きぬのきれ)、櫛、毛抜き、
  掛け針、古白粉笥(ふるしらこけ)、
  割紅皿、畳紙、解毒、団茶、万病円、
  膏薬、目薬、沈香、三種、合香、笄、
  下げ緒、紙扇……
 彼女たちの立ち寄り先は尼でありながら、いや、尼であるゆえに男の蔵まわり以上に広く、上層公家から諸大名家、寺院、女郎屋、町家と、京の町中、至らぬ隈なく世話して歩いた。
 もうひとつ、すあい、とは、おようの尼と同じく小間物売りだが、行商だけでなく、客の注文に応じて女の斡旋もし、自身も売色した。『七十一番職人歌合せ』は、この時代に制作された歌仙絵形式の歌集だが、ここに描かれているすあいの姿は、背中に袋物を背負っている以外は、立君(街娼)と変わりない。
 おようの尼やすあいには、しばしば容色の衰えた遊女がなった。色香を売ったかつての得意先であれば顔も繋がるし、商売にも有利だからだ。もちろんこうした女は、遊び女としては三流で、身請けされなかった者たちの余生の食いつなぎであった。堕胎や悪病に罹患する率の高い遊女の寿命は短いが、運よく生きながらえたとしても、その末路は形容するまでもない。だから、現役の若い遊女は、おようの尼やすあいを重宝しながらも、内心では見下している。
 蝉丸は宝珠の末を悪しざまに言う地獄厨子の女たちに苦い顔をしたが、すぐに表情をからりと変えて、
「馬鹿言っちゃいけない。この先に由緒ただしい尼寺があるじゃないか。かしこき筋の姫がお入り遊ばす」
 おごそかな声音で遊女どもの詮索を遮り、握りこぶしに親指をたててそちらを指した。

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