さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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星月夜  vol4  東京スタコラーズ

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東京スタコラーズ

 あつかましい、とあつくるしいとは、類音同義語だとわたしは思っている。それも母親の影響だろうか。
 クリスマスイブの前の前の夜に、緋郎が六本木で仲間とライブをやるとメールをよこし、その翌日、わたし宛のINVITATIONが鹿香の店に届いた。招待は亡き水品紗縒へのまちがいではないかと、真っ赤なDMの裏表を確かめたが、シールの宛名はちゃんと水品透姫子に変わっていた。緋郎がお招きをくれるのは初めてだった。
ちょうど詩郎さんが鹿香に一泊して信州に帰っていった次の日くらいだと思う。店にはとりいそぎ二代目主人になったわたしの他に、高校時代のアルバイトから始めて、香枕女子大に通うようになった今年まで、数年勤めてくれている乃菜がいた。管理栄養士になりたいという乃菜はもう学部三年だから、来年には誰かあたらしい子を探さなければならない。くりくりと可愛らしい丸顔の乃菜は、愛想も客受けもよくて、母はこの子を重宝し、だいじにしていた。にわか主人になったわたしも、器量のいいまじめな働き者の雇い人がどんなにありがたいか、あらためてしみじみと理解できた。顔の造作のよしあしでひとを選ぶのではまったくないが、これも誰かを雇おうという立場になると、たとえ短期間のアルバイトを募集するにも、自然と志願者の人相に注意深くなるのだった。
「来年から、新しくバンドを始める、そのプレライブです。友達二、三人連れてきて、だって」
 まったくあつかましい、とわたしは柊の葉緑がほんのすこしカードの端に描かれただけで、あとは強烈な赤一色のダイレクトメールをひらひらと鼻先で振った。手にしているだけで、体感温度が上昇しそうなカードだ。来年は高三でしょうに、この先はどうするんだろう。成績はいいらしいが、全寮制の創造学園の門限破り常習では、進学エスカレーターに乗れるものやら。もっとも降矢木家、もとい心言宗宝谷派の開眼寺では、大学は京都の本家本元へやりたい希望ということだ。成績だけならまず合格可能、と詩郎さんは言っていたが、ちっとも嬉しそうではなかった。父親の未来予測図には、甘えん坊の末息子は、かつての自分同様に僧侶コース逸脱の危険性大、という黄色信号がもう点滅し始めている。 
「どんなバンドなんですか?」
 現役女子大生の乃菜は興味しんしんだ。
「東京スタコラーズ、だって」
「おもしろい」
「正確には東京STARCORABORATIONS。略してすたこらさっさ。よくわからない、なになに、一年の期間限定バンド、だって」
「たった一年?」
「そうみたい」
「なぜでしょうね」
「仏教大学に進学するつもりなのかな」
 あれで緋郎はけっこうまじめだから、とわたしは従弟をひいき目に思い出そうとする。芙蓉さんが亡くなって三年。彼が親元を離れて二年半。東京でどんな友人たちと出合ったのだろう。
「バンドミュージシャン、どんなひと?」
「若手でしょう。聞いたことない、誰ひとり。乃菜ちゃん、ジャズ好き?」
「好きですよ。だけどそんなにくわしくないです」
「お客集めてって泣きついているから、再来週、開いてたらいっしょにどう?」
「わ、いいんですか、いきます」
 乃菜の眼が素直に輝いた。ショートカットの茶髪のあちこちにオニキスビーズがちかちか光るヘアピン。天然石の漆黒が乃菜の赤毛に映える。オニキスが当面彼女のラッキーストーンと言う。まるい目、まるい頬。まだ口紅を塗らない自然なつやのある唇。店にいる間は、サヨリブランドのプルオーヴァーをかぶってくれる。作家手染めの新作藍染と年代物の加賀友禅とを片身代わりに縫い合わせたチュニック。布が上質だと、値段も相応に高価だが、このチュニックはまじめな乃菜への皆勤賞で母が与えた。
友禅にはめずらしく大正浪漫ふうに水の輪模様の中に赤いらんちゅうが描かれている。もしかしたら幼い少女の振袖だったものか、金魚を配した加賀友禅は珍しい。藍染めの半身にまるい大きならんちゅうの泳ぐ衣装は乃菜の明るい雰囲気によく似合っていた。

金銀の鈴ちりばめて雪の訪(と)ふ聖夜の町はみなおもちゃ箱、と六本木の夜空を見上げたが、その晩まだ雪の気配は遠かった。今週の半ば過ぎに関東に前線が停滞し、聖夜前後にはもしかしたら雪も期待できる、という予報は、今のところ当らない。そういえばわたしは母親と二人でクリスマスを祝ったことがない。母は待降節には教会のミサに出かけ、遅くまで帰ってこなかった。きっとミサのあと教会の信者さんたちと会食でもしてくるのだろうと、わたしは勝手に推測していたが、彼女はイヴの夜に出かけて、クリスマスの翌日まで香枕のマンションに戻らないこともあったのだった。
几帳面な半面気まぐれで、私的な行動範囲をいちいち家族に明かさない母に慣れっこになっていたので、どこで何をしていたのか尋ねることもなく、知りたいとも感じなかった。亡くなってから改めてそうした彼女のクリスマスの過ごしかたに疑念が湧いた自分自身に、むしろ驚いた。お母さん、毎年の聖夜をいったい誰と過ごしていたの? 母の恋人ないしは親密な友人、という謎の異性はいまだに名乗り出ては来ない。
鮮やかな色とりどりのイルミネーションが街を飾っている。母の歌どおり、北風のすさぶ十二月の冷たい闇に沈んだ町は、カーニヴァルのように全身満艦飾だ。色彩ときらめきをまとい、赤、青、金いろ銀色、アスタリスクにクレセントムーン、トナカイ、サンタクロース、それから無数の雪の結晶模様をちりばめて、キリスト降誕を口実にした消費と浪費、憂さを吹き飛ばすその場しのぎの喧騒を煽る。
「アマンドの交差点の脇を下って……ずいぶん歩きますね。地図だとすぐそこってあるのに」
 乃菜はDMの線引き地図に文句を言う。ひとふで書きの図面なら、東京とニューヨークの間だって一本の線で済ませられる。
「徒歩七分なら、まず十二分はかかると思ったほうがいいわよ」
 美於さんが笑う。わたしは緋郎のために、乃菜のほかに美於さんを誘った。彼女の趣味にジャズライブがあうかどうか危ぶんだが、御主人が単身赴任して気楽な独り暮らしの美於さんは気軽に乗ってきた。JR鹿香駅の改札でわたしと乃菜を待っていた美於さんが、ロングの黒いレザーコートを着ているのにわたしも乃菜もたまげた。光沢のある皮革で、前身頃と後身頃の両脇に深いスリットがあり、ざくざくした麻の紐が×印を三つ繋げて前とうしろの皮革分離を防いでいる。ベルトはなく、この皮コートはあたまからがぶりと被るトーガタイプのめずらしいデザインだ。丸い襟ぐりとスリットの開きから、美於さんがコートの下に着ている真っ赤なワンピースが見えた。しかも膝上。ワンピースはハイネックで、彼女は毛皮の首巻をしていた。毛皮が何かわからない。フェイクではないが、じつに変わったゴールドの毛色をしていた。
 ライブだから若作りしてきたと言う美於さんの出身は神戸だ。ヅカマダムか、なるほど、とわたしも乃菜も納得する。首巻と同じゴールドのパンプスヒールはやっぱり五センチだが、今夜はちょっとコケットリにピンがとがる。彼女にくらべたら、ありきたりのファッション雑誌のどこかのページを抜き出したようなおしゃれをした乃菜もわたしもきっと地味に見える。ともあれわたしの連れてきた客はふたりとも見場がいいから、緋郎もよろこぶだろう。この不景気に、しかもイベントラッシュの年末に、無名の若手駆け出しジャズバンドが、自力でどれほど集客できるのかおぼつかない。
 メトロを降りて、交差点を渡り、坂を下って角をまがって、いくつか小道を折れて、それからそしてライブハウスは黄色いレンガを建物の前面にランダムに積み上げたようなブティックビルの地下にあった。ブティックに入っているメゾンはフランフランにアナ・スイか。ウィンドーに飾られたドレスの値札を思わずしっかり確認する乃菜とわたし。うちで扱うアンティークの衣類がとても安く感じられる。アナ・スイなど乃菜に似合いそう。クリスマスには特に似合いそう。おもちゃ箱にしまわれているスパンコールいっぱいの着せ替え人形。マゼンタに塗ったあひる口を可愛くゆるめて
「いらっしゃいませ」
 ライブハウスの入り口の女性はダークな、黒に近いルージュを塗っていた。でも魅力的な受け口。ゲンズブール最後の愛人バンブーのようなくちびる。混血かしら。化粧は濃いが禁欲的な白い開襟シャツ、シルクサテンの黒いスラックス。高い腰とヒップのラインがきれいだ。彼女のバストはフェイクでなければバレーボールを並べてふたつ。
 想像していたような劇場型ライブハウスではなく、ここはバールのようだった。寄木細工の古風な厚い扉を入ってすぐに眼に入ったのは、店内一番奥に黒い楕円形のテーブルを半分に切ったカウンター。そこの席は十人くらいで、もう全部埋まっている。光度の低いライトは壁際に並ぶ間接照明で、暖色のあかりが適度に心地よい。バール・キアロスクロ。光と影。それにしてもどこに光源が隠してあるのかわからないが、壁にぽつぽつ灯った照明では、こんな柔らかい明るさは生まれない。壁面ぜんぶがほんのりと発光している不思議な光まわりだ。影が生まれない。黄昏のような夜明けのような光が周囲にひたひたしている。絵描きのわたしはどこに足を運んでも、まずそこの光に注意が行く。インテリアより装飾より、どこからどんな光線が差し込み、物影の姿はどう見えるのか。
 真っ赤なDMをもういちど眺めなおすと、やはりここはライブハウスとある。カウンターからすこし離れた中央には客席もテーブルもなく、止まり木のような、文字通りのバーが互い違いに数本立っている。少しずつ客は入っていたが、皆止まり木の並ぶ中央には行かず、壁際の椅子に腰を下ろし、入場料と一緒に貰ったドリンクを舐めていた。楕円のカウンターの斜め反対側がステージになっていて、そこにグランドピアノ。高い天井からはスポットライトがひとつ、ミュージシャンのまだ登場していないステージを照らしていた。
「あの平均台みたいなバーは何でしょうね」
 受付で赤葡萄酒をもらった乃菜がわたしをつついた。
「だから止まり木でしょう。立ち見原則だけど、疲れたら寄りかかれるように」
「ああそうか」
 バーは金属ではなく、つやつやした樫の一木で、アールデコ風の蔦模様が浮き彫りになって腕全体に絡んでいた。昔の洋館の階段手摺をそのままここに移して、止まり木として再利用したのではないかしら。ミュージシャンは空に向かって歌う鳥、わたしたちはバールに止まって鑑賞する。
 カウンターに座っていた観客のひとりが、こちらを向いて手をあげた。バーの内天井にはピンポイントのライトグリーンと薄紫の明かりがいくつか点いている。十ばかりの席の前にはひとつずつバーミリオンの小さいキャンドルライトがガラスの小瓶の中で揺れていた。手元あかりと上からの照明は、座った客の顔のあたりでほどよく色味をゆるめ、それぞれの風貌をきれいに映していた。
わたしにてのひらを向けたひとは、こちら側からは顔に淡い影がかかる逆光だが、手首のぐにゃりと柔らかく、どこか投げやりな仕草に見覚えがあった。
「よお」
 とジンさんはもうかなり酔いの回った声で合図した。風月堂では落ち武者のようにもしゃもしゃさせていた髪を、今夜は後ろでひとつに束ねている。襟足に束ねた髪が茶筅のようだ。そういえば茶筅髷という髪型が昔あった。ジンさんの頭のてっぺんも月代ほどではないけれどずいぶん薄い。
 顔の脇で振った手のひらを、ジンさんはそのまま前に曲げて、おいでおいでをした。わたしは逆らわず彼の傍に行く。乃菜と美於さんはそのまま壁面に座ったまま。
「奇遇だねえ、またなんで」
「従弟が出演するの」
 ジンさんの呼吸は酒臭かった。ワインではなく、もっと濃い、いろいろな種類のアルコールが混ざった匂いがする。何を飲んでいるのかしらと、彼のグラスを眺めたが、褐色の液体で、ただハイボールとしかわからない。
「従弟ってどいつよ」
 ジンさんはジャケットのポケットからぐしゃっとまるめたフライヤーを取り出した。チラシも撒いたのか。やはり赤一色で、四隅にこれも原色ミドルグリーンの柊の枝がぎざぎざのコンパスのような二股に画かれている。
「ピアノマンの降矢HERO。本名は降矢木緋郎だけどね」
「ふるやヘロイン?」 
 のっけからなぐりたくなった。何よこの親父。でも待て、たしかにHEROという字面はあまりよろしくない、とわたしはなんとか笑顔をとりつくろい、
「気持ちはわかるけれど、ヒーローって読んでやって」
「あいよ。君の従弟っていくつ」
「十七歳と半年」
「へえ若いね。学校行ってるの」
「創造学園の二年。素行はともかく成績はいいって」
「じゃフルートより順調な青春だ」
「え?」
「スタコラーズのフルーティスト、俺の子分なんだ」
 いきなりジンさんの茶筅髷をうしろからぐっとつかんで顔を出したひとがいた。
「聞き捨てならないわね。豹河が聞いたらボトルでぶんなぐるわよ」
 わたしの父親は、どうも人に殴られやすい言動をする人物らしい、という娘にとっては好ましくない情報がインプットされ、わたしの脳内シナプスの繋ぎ目がちかちかと発光する。その上父親の横から現れた顔がびっくりするような美人だったので、シナプスを綱渡りするエンドルフィンの量はいっきに増大した。
博多人形のような上品な顔をしている。これぞ日本女性としか形容しようがないが、巷を歩いていても、こんなに輪郭のはっきりした切れ長の眼、ちんまりとした鼻筋、はなびらのような唇をしたひとには、まずお目にかかれない。化粧は濃く、上瞼には紫のラメ入りシャドー。虹いろの付け睫毛。口紅は上唇だけ朱色で、下は緑がかった暗い臙脂。チークなしの白い肌には皺もしみも見えないが、若い女でないことがはっきりわかる。浮き世離れしたこのひとの雰囲気は、女ざかりと呼べる世代の発散する色気とは異質な感触だ。たとえば七歳か八歳の童女のような。
ジンさんの酒臭さを押し退ける彼女の香水はさわやかに軽い。パルファムには疎いが、これならわかるレール・ジュ・タン。
衣装は総絞りの中振袖。一見では江戸の鮫小紋に見えるけれど、ここの照明ではブルーグレイにしか見えない総絞りだった。青灰色の長着の胸元に朱色の重ね襟のYの字。半襟の厚ぼったい日本刺繍はアンティークとわかる。月夜に蝙蝠。青と紫の蝙蝠が襟の右左に二羽、赤い夕月に舞う。帯は銀の箔置き。黒い五線譜の刺繍に音符が踊る。もしかして全通袋帯に何かの楽譜を写したのなら、特注だろう。帯止めも翡翠の蝙蝠か。あれ、母と好みが似ている。母親も蝙蝠が好きだった。
「ジンさん、この方は」
 わたしは丁寧に尋ねた。素人女性には見えないが、芸能人という物腰ではなかった。
「フルートのセガレのおっかさん」
「その紹介の仕方何?」
 彼女はジンさんの横からたちあがった。わたしと背丈は同じくらい、と思ったが、ふと彼女の足元を見ると鱗模様の銀のヒールは七センチ、ピンはもちろん細かった。和服でハイヒール。それも彼女にはよく似合った。
「吉良ガーネットです。地唄舞とモダンバレエを混ぜた創作舞踊を舞っております」
 やわらかいきれいな声だ。芸名かしら、ガーネットさん? 漆黒の髪は市松人形より短いおかっぱ。白い耳たぶに、たぶん柘榴石のイヤリングが揺れている。彼女の息子のフルーティストはヒョウガ…。豹? 氷河?
 年上の女性にゆったりと挨拶を先取りされて困った。何と自己紹介したらいいのだろう? ジンさんはすかさず、
「こないだ再会した俺の娘」
「お母さまに似たのね」
 少しも驚かずガーネットさんは受けた。揺さぶりをかけたジンさんはあてがはずれ、ぶすっと顔に皺を寄せたが、すぐさま
「君、連れがいるんだろ、こっちに呼んだらどう?」
 とあちらの壁際で固唾を飲んでいる乃菜と美於さんに秋波を送った。
 そうこうするうちに、バールに客が入ってきていた。何人編成のバンドだったかしら、ヴォーカル、ピアノ、フルートにアルトサックス。低音はベースだけ? サウンドが軽いんじゃないか、などとわたしは素人の知ったかぶりで考える。もちろん口には出さない。
それからパーカッション。バンドメンバーが六人なら、それぞれ五人お客を呼べば三十の客席は埋まる。ここはざっと見て五、六十人ですし詰めくらいの空間だった。
 壁面の椅子席がなくなると、それまで誰も止まろうとしなかったフロア中央のバーにも、客は自然に寄りかかり始める。止まり木をこしらえるなんていいアイデアだ。軽い身なりなら、止まり木に腰を載せることもできるし、どちらを向こうと姿勢は自由だ。椅子を動かす耳障りな音も出ない。
「こんばんは」
 乃菜と美於さんがよそゆきの挨拶をするのに、ジンさんは乃菜を無視して、いきなり
「コート、クロークにあずけたら? 暑いんじゃないの」 
 と美於さんにだけ言う。ジンさんは六十がらみだから高飛車な態度も失礼にはあたらない、かもしれないが、酔いのまわった赤ら顔で、初対面の女性の身なりを指図するのはどうだろうか。これがわたしの半分の作者か。
 仕方がないから美於さんと乃菜に、
「わたしのお父さんなの」
 ええ、と育ちのよいふたりは予想の範囲内で適切に驚いてくれた。面と向かってお父さん、とは呼べないジンさん、娘の気持ちを推し量って彼女たちに接してください。
「水品さんの御主人、だったんですか」
 美於さんはまじまじとジンさんの顔を眺める。わたしには彼女の内心の呟きが聞こえる。
(彼女、面食いではなかったのね)
 でもよく見ると造作は整っているのよ。彼女はにっこりとマダムの余裕で笑顔を浮かべ
「これは皮だけれど、ラムスキンでものすごく軽いんです。ほら、裏地は絹ですし」
 ジンさんは遠慮しないで手を伸ばすと、美於さんのトーガの裾をまくり、しきりに撫でさする。好奇心丸出し、片肘張らない愛嬌がある。
 ステージのほうが急に賑やかになったのでそっちを向くと、楽屋口らしい衝立の陰から、豪華な毛皮のコートをすっぽりと着込んだ肥った女性が現れたところだった。スポットライトはまだ動かない。開演三十分前だ。彼女が出演者の一人だとしたら、たぶん紅一点のヴォーカルだろう。遠目にどっしりと大柄で、アフロアメリカンのように重厚な頬と唇をしている。毛皮はミンクだろうか、まるで熊の着ぐるみをかぶって歩いているようだ。ジンさんは垂れ目をさらに崩し、
「今夜のディーヴァだ」
 ジンさあん、と彼女は声は出さず、口パクで笑いかけ、合図に応えてこちらにやってきた。ジンさんの手招きの効果は高い。
「こんばんは」
 赤いヒールは十センチないし十五センチはある。ほとんど爪先立ちの華奢な靴で、彼女はよろめきもせずに上手に客の間をすり抜けてフロアを横切り、足首まで垂れかかる厚い毛皮をゆさゆさ揺すりながらやってくると、わたしたちを見回して、にっこりと笑い、まともな挨拶をくれた。
白目の部分が際立つほど真っ黒な瞳、どんなビューラーで加工したのかわからないが、すばらしくきれいに上下そろって放射状にひらいた濃い睫毛。根元が瞼の粘膜に密着しているので、付け睫毛ではないと思う。つやつやを通り越して、あぶらを塗ったようにぴかぴか光る黒い肌、厚い唇の色はポスターカラーのスカーレットレーキ。ドレスの色もそうかな。真っ黒な縮れ毛はセットの途中でいやになって放り出したみたいな爆発ヘアだった。かつらかもしれない。それに金とグリーンが吹きつけてある。星屑のスパンコールも。顎の短いオデコ顔のバランスは日本人離れして、かなりビリー・ホリディに似ている。
「あたし、マサカアフリカです」
 ジャズシンガーらしくちょっとアルトで、言葉のおしまいに残る余韻がふくよかだった。
彼女の名前はダイレクトメールにもフライヤーにも漢字で真坂溢花、と書いてあった。誰にも正確に読めない名前だ。あふれる花、なるほど納得する。ガーネットさんのレール・ジュ・タンの気品を蹴散らし、彼女の毛皮の全身からむっとたちのぼる甘ったるい香水、なんだろう。
「本名?」
 わたしは思わず尋ねてしまう。
「そう。パパが付けた本物の名前」
 ころころと笑う。
「マミーアフリカ人だからね」
 きれいな日本語だ。近くでアフリカを見ると、メイクもそんなに濃くはなく、とても若い女性のようだ。
「リリって呼んでください。来年からは漢字じゃなくてリリ・アフリカにするから」
 コロン、とグランドピアノが小さく鳴ってわたしたちはステージを見やった。話しこんでいる間に、いつしかフロアの光量は落ちて宵闇のような暗さになり、ひとつだけステージに注がれたスポットの明るさが際立っていた。グランドピアノの前に降矢HERO、緋郎が立って、いくつかの音を叩き始めていた。
 前髪に乳を弾きぬ我を噛む嬰児の奢り舐めて美(うま)きに、と母はこの従弟が生まれたときに歌った。おぼこみ、という風習が信州には…信州だけではないのかもしれないが、長野では、身内の女が赤ん坊を産むと、血縁の女たちがじゅんぐりに誘い合って、産褥を離れたころの母親と赤ん坊を見に行くという習慣があったということだ。
水品紗縒は、妹の身になって生まれた赤ちゃんの様子を歌ったものか。それとも抱き取った赤ん坊が、まだ乳歯も生えない口で、母の指かどこかを甘く噛んだものだろうか。いずれにせよ、乳を弾く、とあるから芙蓉さんの胸からじかに抱き取った瞬間をまとめたのだと思う。前髪は母のだろうか、それとも赤ん坊の緋郎の産毛だろうか? 無造作にピアノの鍵盤をかきまわし始めた緋郎の前髪は、前回あったときよりずっと伸びて、傍目にうっとおしいくらい顔にたれかかっている。その横顔が芙蓉さんに酷似していた。
 芙蓉さん、詩杖、それから夏夜と、毎年立て続けの葬式のときに会っていた緋郎は、そのたびに背丈が伸びていたが、水品の遺伝のせいか、あまり大柄ではなかった。十八歳になりかけた今、きっとわたしと同じくらいだろう。父親の詩郎さんは痩せて背が高い。夏夜も。
「ピアノうまいわ、ドビュッシーの〈沈める寺〉でしょう。あたし好きなのよ」
 美於さんがおっとりと言った。
「小学生の頃は神童だったんです」  
ちょっと自慢したくなる。ちゃんと練習しているんだな、と思う。幻想的な原曲の随所をアゴギグでジャズに捩じっているし、スウィングを狙う指の叩きだす音は乱暴だけれど粒がそろっていた。クリスマスだからオープニングを〈寺〉にしたのかな? 耳慣れたクリスマスソングで始めるより意想外で面白い。客席は静まり返っている 観客の手にしたドリンクグラスの触れ合うかるい音だけが、話し声のやんだフロアに時折響く。フロアの暗い明かりはいつしかペパーミントグリーンに変化している。わたしたちはHEROの叩く音といっしょに、深いみどりの湖の底にいる。
 しいんとピアノソロのリフレインに聞き惚れているわたしたちの、いきなり耳許でヴォリュームのある「きよしこの夜」が始まって驚いた。アフリカだ。
 アフリカはわたしたちから離れて、止まり木が並列しているフロアの真ん中へ、気づかないうちにそっと移動していた。まだピアノはドビュッシーを奏でている。夢うつつの境をジャズふうに酔っ払って漂うピアノの旋律にはおかまいなしに、アフリカはメロウな、すばらしい声量のあるアルトで、素朴な歌を日本語で歌いだした。
「よく音程とれますねえ」
 ため息まじりに乃菜がわたしをつついた。
「ええ、伴奏なし、どころか別な音楽が流れてるのにね」
 アフリカの声とピアノは不協和音にはならなかった。むしろいっそ調和して、まるで百年に一度、湖の底から水面に浮かび上がる寺院の中で唱われている聖歌のような立体聴覚幻想をくれた。神の怒りをこうむって水底に沈んだ寺院は、百年ごとに湖の上に現れる。そしてそれからどうなるんだろう? 救いの御子は御母の胸に……いとやすく。そうか、なるほど。沈める寺はメシアによって救済されるということ? ちょっと抹香臭いわよ、緋郎。
 でもこの奇抜な出だしの演出が、まだこどもの従弟のたくらみかどうかわからない。ダイレクトメールの出演者をもういちど確認する。フルートは吉良豹河。ガーネットさんの息子ね。この子がトップに名前を出しているから、たぶんリーダーだろう。AS(TS)
が次に来て鬱金平八郎、これ本名かしら。ベースはわかりやすい片仮名でアンジー。この子は女の子かも。最後にパーカッション、紅林冬狼、ラノベまがいで読めません、ルビをちょうだい。
「みんなおしゃれなネイミングですよね」
 わたしの視線を追って乃菜がささやく。
「おしゃれ? 平八郎って、すごくない?」
「時代劇みたいです」
「そう。最後のふゆおおかみ、乃菜ちゃん読める?」
「ふゆお、でしょうか」
「とうお、とうろう、とか」
 なんとか言っているうちに、照明がいきなり落ちて暗転、水底から奈落に変わる。もう客席はいっぱいだ。沈める寺の内陣でかわいい聖夜が歌われているうちに、キアロスクロは満員御礼になった。場内の熱気上昇。暗転して観客の期待と高揚はさらに煽られる。
 ピアノが鳴っている。ドビュッシーから変わって……なんだろう。旋律が聞き取れない。フルートが絡んできた。豹河くんだ。聞いたことのない音楽だ。それにアフリカの声がかぶる。歌詞のない、これはシャウト? 歌っているけれど、彼女の歌も、ピアノとフルート同様、旋律の行方が予測できない。そうかといってでたらめなノイズではない。ピアノ、フルート、メゾソプラノのトリオは互いに干渉せずに、一定の音階を選んで付かず離れず共鳴していた。調和ではなく、これは共鳴だ。心地いい。影も光もない。物語がうまれる以前の混沌の原像。
 トリオが止み、沈黙。暗転の中からまっすぐに白い光線がステージ空間の斜め上に走った。キアロスクロの天井はふつうのバールよりずいぶん高いような気がしていたが、フロア全体の光度を低くして、ピアノだけに照明が流れていたために、ステージの上は客席より深い暗がりになっていた。今そこにぱっとあざやかな白い光が射して、アクリルガラスのような透明な板の上に載ったパーカッションが、ドラムセットといっしょに降りてきた。
「こどもじゃないの」
 美於さんが言った。
「うまいだろ、へへ」
 ジンさんがうれしそうに口をはさんだ。
「俺が探してきたんだ、あの子」
「違うでしょ。シーラが連れてきたのよ」
 ガーネットさんだ。ジンさんは、どっちだって同じだよ、俺のギャラリーに来たんだから、と言い返している。
 銀色の平らなゴンドラに吊られて降りてきたパーカッションは、どう見ても十歳は過ぎていない男の子だった。楽器も、大人サイズよりもだいぶちいさい。それでこんな「降誕」パフォーマンスができるのだろう。この子、冬狼の髪は真っ白だった。衣装も白く、背中に羽根はつけていないが、カトリック教会の売店で売られているイタリア製ポストカードに描かれている天使の似姿だった。
 ふゆおおかみはあまりに敏捷にスティックをつかうので、わたしの眼には、突然のスポットライトの眩しさもあって、彼のきっさきの飛ぶ先が見極められない。何拍子なんだろう。いいえ、これは一種の見せびらかし、サーカスの曲芸皿回しのたぐいだ。変則的なビートで繰り出されるドラムとシンバルの怒涛はそれまでのトリオの心地よさを一蹴して、ミニサイズの楽器とは思えない反響でキアロスクロにみなぎる。ふゆおおかみは、スティックを振り回す手を一瞬止めて、中空に浮かんだゴンドラから客席を見下ろし、無邪気に笑った。瞬間、会場から吐息が湧いた。
「眼が、赤い」
 誰かの抑えた声。ライトに反射する彼の両目は、幼児の白い顔に、あたらしいふたつぶの宝石を並べたような深紅だった。

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