さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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星月夜 vol6 ペイサージュミラージュ

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   ペイサージュミラージュ

 降誕祭から東日本に押し寄せた前線は雪をどっさりと積んで関東に居座った。ジンさんの訪れたイヴの初雪は晩まで降り続け、街は文字通りホワイトクリスマスに清められたが、湘南には珍しいまとまった積雪に交通機関は悲鳴をあげた。この夜ジンさんは妃翠房には泊まらず、夕方から鹿香のイタリアンリストランテでちょっと贅沢なクリスマスディナーをわたしと乃菜におごってくれ、来春三月の個展の約束をとりつけて、牡丹雪の中をうれしそうに帰っていった。
「たのしいお父さんでいいですね」
 ご馳走してもらった乃菜はすっかりジンさん贔屓なったようだ。なるほど彼は、若い女の子、いや若くなくてもいいのかな、女性をおだてていい気分にさせる対話のツボを心得ていた。ジャズプレイヤーなら、コルトレーンばりに色っぽいサックスを吹きまくるだろう。相手のキャラクターを見極めてほどほどに吹き鳴らす駄法螺。
「突き放して観察してたんですね」
 乃菜は表情を変えた。彼女の乗る最終バスを駅前で待ちながら、わたしたちは厚ぼったく降りしきる初雪の珠をお互いのてのひらに享けて、酔いざましに舐めてみたりした。初雪の味は?
「初恋より味気ないです」
 乃菜は笑う。味気ない、というか味がない。
「空の味がするでしょ」
「無彩色ですからね」
「青じゃなく?」
「人間の思い込みですよ」
 乃菜は赤ワインハーフボトルでかなり酔っ払っていた。恋人いるのかな。したことのない質問を、今彼女に向けたらするすると聞き出してしまえそう。でもしなかった。
「乃菜だってクールよ。空が無だなんてわかるんだもん」
「からっぽですからね」
 うふふ、とまた笑う。どきりとする。なまめいた笑い声だった。乃菜の初恋はもしかしたらずいぶん濃い色彩だったのかな。初雪はおいしいよ。味気なくはない、少なくともわたしに関してはね。
わたしは話を変えた。妖しくなりそうな流れから舵を戻して、ジンさんに進路を向ける。
「ジンさんに対して父親っていうウエットな感情が湧かないもの。なんていうか、母親の昔の恋人のひとりっていう感じ」
「そんなものですか。ジンさんは透姫さんのこと好きみたいなのに」
「嫌いじゃないわよ。でも、実感として親子の情緒は稀薄」
「春には銀座で個展するんでしょ?」
「ひとりじゃなくて、合同展にしようと思う。綴さんか、百合原さんか。三人展もいいかも。彼のギャラリーは結構スペースがたっぷりしているから」
 はい、と乃菜はつぶやいて、それきり黙った。勘のいい子だ。わたしが話を逸らそうとしたのがわかったのだろう。もしかしたら心にこみあげるものがあったのかしら。わたしに話したかったのかしら。間もなく止む雪のかたちは、水分を含んでひとひらごとがほたほたと大きく厚く、童顔の乃菜の髪や肩に舞い降りてもなかなか消えなかった。白いふわふわした雪の実を乃菜はからだじゅうにつけて、バスが来るまで蛍光灯の薄青い光の真ん中に黙って佇んでいた。
 …一夜明けてクリスマス当日の妃翠房の店番は綴さんだった。
「真っ白ぉ」
 朝の九時、綴さんの声が弾んで玄関がからりと開いた。前夜わたしは香枕には戻らず、乃菜と別れたあと、ここに戻って母の部屋で眠った。
綿の厚いどてらを着て、もそもそと階段から降りてきたわたしに、綴さんのほうがびっくりした。
「早いじゃない、透姫さん」
 泊まったの、とわたしは昨日からの出来事を簡単に綴さんに説明した。綴さんは話を半分まで聞き、
「とにかく着替えてよ。風邪ひくわ。雪晴れだけれど、すごく寒いから」
 そう言いつつ綴さんが開けっぱなしの玄関から庭おもてを眺めると、まんべんなく地表を埋めた雪の上に、彼女のつけた長靴の足跡の窪みが青みがかって点々と鮮やかだった。近所に住んでいる綴さんは今日は雪かきをするために早出してきたのだという。
綴さんは痩せて小柄で、オードリー・ヘップバーンのようなショートカット。顎もちいさく、きれいな二重の眼が小顔にくるりと大きいので、ほっそりした体型とあいまって髪だけではなく、オードリーに似ていた。三十三歳。七歳と三歳の二児の母だが、いつまでもティーンエイジャーのような雰囲気だった。
少年めいた容姿の綴さんのこしらえるアクセサリーは、宝石や貴金属以外に、道端にころがっているありふれた石ころを磨いて使ったりする。それこそただの路傍の石が、彼女の知人の工房でカボーションに研磨されると、緑や青、ときには鈍いオパールのような虹彩を帯びて、息を呑むほどつややかに光る。それを彼女は金や合金のワイヤーで結び、ペンダントやブローチに加工していた。知らない人は、彼女の石がほんとにただの石っころだったとは思わない。
「いいですよ」
 三月の合同展の話を持ちかけたら、綴さんは気軽に乗ってきた。ジンさんは割り引くと言っていたが、銀座のど真ん中のギャラリーを一週間借り切るのは安くない。だが何人かの舫いなら、だいぶ気軽に実現できる。
「香寸さんと三人となると、妃翠房のアンテナショップになるわね」
 それもいい。もっとも水品紗縒個人の追悼展はジンさんのギャラリーよりはグレードの高い場所を選ぶけれど。
「ところでね、あたし大晦日にラジオ出演するのよ」
「どこの?」
「FMペイサージュHUIT。知らない?」
「知ってる。荻さんがここにいるとき、いつもBGMにしてるローカルでしょう」
「大晦日の六時くらいから三十分、地元アーティストの新年の抱負、という番組に出るの。香枕とか鹿香、結衣ヶ浜、藤塚あたりって、アーティスト多いでしょ。クラシックも含めて。まあ、大晦日にその時間帯だからどのくらい聴取率があるかわからないけれど」
「じゃ、今年は帰省しない?」 
 綴さんの実家は石川県の金沢だ。
「お姑さんがちょっと具合悪くて」
 荻さんは苦笑した。彼女の御主人は整形外科医。鹿香で代々続く医者の家だった。藤塚行きのバスに乗ると、どこかの停留所では必ず彼女の婚家の医院のコマーシャルアナウンスが流れる。
「急に決まったのよ。やっぱり季節がら、出演予定の誰かのキャンセルでもあったんじゃないかしら。おととい電話があって」
 荻さんは嬉しそうだった。
FMペイサージュは結衣ヶ浜にメインブースがある湘南一帯のローカル局だ。ジャズをメインに一日中音楽を流し続け、時折りまじるニュースソースは地元情報が多い。荻さんが妃翠房にいるときは、ほぼ一日中これをつけていた。
ペイサージュのパーソナリティは女性が多く、このひとたちは過度に自己主張せず、イントネーションもナチュラルで、わたしの耳には聞きやすかった。ときどきいかにも素人の声使いになり、それもまた親しみやすい。二十代から四十代くらいの女性たちは、自分たちをDJではなく「クルーズアテンダント」と称していた。軽音楽の海に遊ぶ水先案内人かしら…。
「弟がここのスタッフやってるの」
「知らなかった」
「シナリオライターになりたいって言って」
「放送作家?」
「今はそんなことしてるらしい。バイト先はペイサージュだけじゃないけれど」
 荻さんの弟って、あたしと同じ年くらいかな、荻さんに似ていたらハンサムだろう。
 荻さんはジャケットの胸元のジッパーをかけなおして裏口へ回った。納戸から雪かき道具を取り出そうとしている。わたしはもういちど二階へあがり、ねんねこ半纏から普段着に替えた。荻さんといっしょに雪の始末をしよう、と厚手のタートルネックをかぶる。たまご色と黄緑、水色。ところどころに赤い毛糸が混じる太畝のセーターは、高校時代にたぶん祖母が編んでくれたものだった。
 ふと母の引き出しから、荻さんあてのクリスマスプレゼントを取り出した。たぶん乃菜と同じ桐細工だろう。荻さんへの包み紙は白い絣がところどころに混じる手触りの厚い鳥の子の萌黄色だった。ガラス窓の向こうにひろがる山桜、染井吉野の雪帽子に小箱をかざすと、さんさんと輝く冬ばれの日光の白さに、和紙の萌黄が際立った。もう新春の彩りだ。
最後に残った百合原さんへの包み紙は紫の薄様で、マーブルを溶かしたように濃い紅の筋が泳ぎ、うっすらと金箔が散っていた。歌はどの箱にも入っていないだろう、と思った。包み紙にそれぞれの女性たちの個性と好意を託した、それだけだろう。
階下からペイサージュのジャズが流れ始めた。クラリネットのブルーノートが冬空に駆けあがる。開け放ったどこかの窓から雪の冷たい匂いがする。凍った大気の結晶の匂い。青空に踊るくだけた光の粒子。その下でゆったりと潤っている大地の気配。

 君の手に波の重さを測らせて珊瑚の森に髪巻き締める、うつくしい修辞に包まれているけれども、水底へと引きよせるシレーヌの歌はこわい。それとも水品紗縒の髪に埋もれていたい、というひとがいたのだろうか、いたのだろう、とわたしは思う。死後に確認してはみたけれど、母のパソコン、携帯のメールボックスはすっかりきれいに掃除されていて、なにひとつみだらがましい痕跡はなかった。徹底した清潔が却って確信を呼ぶ。潔さの向こうに隠されたあなたは誰、どこにいるの?
 晩秋に母が亡くなってからまだ二ヶ月も過ぎてはいない。なのにわたしの中を流れていった時間の密度は、もう一年くらい経ったような気がする。年明けに「琰」の歌会に出席したら、うっかり一周忌の挨拶でもしてしまいそうな気がする。
母のような相愛の恋歌が詠めたら、とわたしは眠れないままに自分の心を探り、母親への嫉妬を見つける。相手を自分に絡めとることができる自信がなければ、どれだけ言葉を飾っても歌は自立しない。珊瑚も森も、陳腐と紙一重のレトロな暗喩だ。
でも、娘の贔屓目また裏をかえしてジェラシーのフィルターをかけても、母の恋歌はすてきだった。死ぬまで容姿の美しさを保っていた、という魅惑とあいまって。
四十代、五十代になっても、うたった恋歌はどれもみずみずしく熱い。口語をほとんど用いず、語彙などむしろ保守的で古風なのに、ひとくだりの歌に流れているピュアな抒情が胸に迫る。人となりはしらじらと孤独で、名前のとおり、水のようないずまいを崩さなかったけれど。
眠れないままベッドサイドのラジオをつける。綴さんが出演するというペイサージュHUITは、深夜十一時半になってもジャズが続く。ときどきハワイアンが混じる。またアジアンポップスなども。今夜はエラ・フィッツジェラルドの特集とか。
周波数をちゃんと合わせても、今夜はひどくノイズが混じり放送が途絶えた。香枕のマンションは鹿香の妃翠房より電波環境は良いはずなのだが、風向きか何かの理由で、ラジオのFMはふいに入らなくなるのだった。
リモコンも利かないのでわたしは布団から片手だけでチャンネルを合わせる。耳障りな雑音に強弱がついて、いじっているうちにどこかで音は澄んだ。無音の沈黙。フィッツジェラルドはやんでパーソナリティのトークが始っていた。
……ひさしぶりにお目にかかります。FMミラージュへようこそ。今夜あなたの心によぎるなつかしい面影、街角、誰かの気配を追いかけて、静かな冬のペイサージュをお送りいたします。物語の主人公はあなた、風景を織りなす追憶の色彩、音楽のはざまに、あなたの逢いたい誰かを、わたしがお連れすることができるかも……
「なんですって?」
 むくりと頭をもたげた。ミラージュそれともペイサージュ? どっちだって? しかもこの声は聞き覚えがある。ほんとにひさしぶりで、なつかしい声だ。
……透姫ちゃん、わたしよ。
「詩杖ちゃん、なんで?」
 スピーカーから死んだ従妹が話しかけてきた。優しい澄んだ声が耳にはっきり聞こえる。
……理由はないのだけれど、これはあの世通信なの。幽霊って、なにかのきっかけがあれば、割合簡単に現世にアクセスできるのよ。たいていの人は気がつかないで通り過ぎてしまうのだけれど、今夜の透姫ちゃんみたいにうまくキャッチしてくれることもあるわ。
「そこに夏夜ちゃんもいるの? お母さんや桔梗さんも?」
 ……お姉ちゃんはいるけど、紗夜さんもおばあちゃんもいない…
 詩杖のあとに、妹よりちょっとアルトな姉の声が続く。
 ……透姫子ちゃん、ずっと紗夜さんのことばっかり考えてるわね。それって死者にはよくないの……
「夏夜ちゃん! 元気?」 
 口癖で言ってしまってから自分の間抜けを悔やんだ。元気も何もあるものか、姉妹はもうこの世のひとではない、というのに。だが夏夜は可愛く笑って応えた。
 ……水蒸気にはまだなってないわ。天にも昇らず土にも還らない。半透明な魂のまま、気ままにふわふわ……
「お母さんは。芙蓉さんは」
 ……クリスチャンだから、きっと復活してキリストの膝元で寛いでいるでしょ……
 夏夜は気楽な調子で返事をした。あの世からのFMミラージュの音声語尾は、まるで音響エコーのように耳の奥に快い余韻を残す。
「適当なこと言わないで。ひとは死んだらどうなるの? わたしお母さんに聞きたいことあるの」
 ……信仰宣言は適当じゃないわ。永遠の命をいただいて、男性でもなく女性でもなく、天使の姿で天の都エルサレムに……
 だが従妹たちの口調には、わたしの狼狽をからかう茶目っ気がまる聞こえだった。わたしはいつのまにか布団を脱け出してベッドの上に起き上がり、ラジオと正対していた。
「じゃあいいわ。あなたたちはクリスチャンではないから、芙蓉さんともお母さんとも擦れ違いということね」
 ……はい……
 姿は見えないが、また詩杖の声。混乱するわたしの脳裏には、もくもくした雲のはざまに薔薇色の天使の装束を着て、背中に白鳥の翼を背負い、楕円の光輪を頭上にストローピンでとめ、おごそかに十字を切っている彼女の姿が浮かんだ。彼女は仏教徒なのに。
「詩杖ちゃん? どうして成仏しないの」
 ……筧さんのそばにいる。あのひとが死ぬまで……
 わたしは絶句した。ばかばか、それじゃなんで死んじゃったのよ、と言いたかったが声が出なかった。
 ……あたしがいると筧さんは開眼寺を出てしまうでしょ……
「還俗したっていいじゃない」
 ……そしたら檀家はもう降矢木に跡をとらせないわ。お父さん、それから筧さんと兄弟そろって…
 ……でもね、あたしもあなたが自死することはないと思ったわよ……
 横から夏夜が抗議した。同感だ。いいじゃないか、今時実家がどうなったって。
 ……でも考えてみてよ。筧さんもう四十なのよ。いまさら現世に戻ったとしても、どうやって……
 それもそうだ。古刹の方丈として皆から尊敬されるひとが、二十歳の姪との色恋で醜聞を拡げたら、どこにもいたたまれない。
「筧さんを忘れることはできなかった?」
 ……忘れたくないの……
「生きることより?」
 ……生きるって、記憶が連続することなのよ……
 ざざざ、とふいに生なノイズがたって、詩杖のかぼそい独白のかわりに、官能的なエラの歌声が割り込んできた。あいらぶゆーふぉーせんちめんたるりーずん。聴き取りやすい英語。ジャズのディーヴァは皆気取らない。そうだよね、相手に伝わらない愛の言葉なんて、ただの独りよがりだもの、わかりやすくなくちゃ。あなたにわたしの心を捧げ…て。

 母のいない大晦日。年賀状もお節料理もない。信州の詩郎おじさんから遊びにこないかと労わられたがことわった。詩郎さん親子はきっと伊那谷の寺に行くはずだ。わたしはまだ筧さんに会いたくなかった。それにしてもよくもまあ、年々歳々葬式が続く。来年はもう十数時間後、いや数時間後に着々と迫っているが、またわたしたちのうちの誰かが鬼籍に入るのかしら。と言っても、おそるべきことに水品降矢木合わせて、女性で生き残っているのはわたししかいない。  
もっとも降矢木詩郎さんの下には妹がいるが、ほとんど面識がない。よそに嫁いで円満な主婦をつとめているひとだった。どうもこの健康な叔母に死の気配は感じられない。でもわたしはまだ死にたくはない。せめて記憶に焼きつくほどの恋愛をひとつくらいはしてみたいなあ、とわたしはくしゃみをひとつして、カマンベールチーズを齧った。
 五時過ぎくらいからわたしはつくねんとマンションのリビングにとぐろをまいて、白葡萄酒を舐め始めていた。六時になったらラジオをつけよう。それまではミケランジェリのエリック・サティでも聞いていよう。
 携帯の着メロが鳴った。ドビュッシーの亜麻色の髪の乙女。そういえばお母さんの着メロもドビュッシーだった。西風のみたもの、だったかしら。
 緋郎からだ。
「こないだのライブよかった」
 ……うちにいるの?
「そうよ。お父さんは?」
 ……寺で働いてる。
「あなたも伊那でしょ?」
 二人もきれいどころを連れていってやったんだぞ、礼くらい言えないのか、とわたしはほろ酔いの勢いで不機嫌を隠せない。
 ……俺こっちにいるんだ。帰らない。
「え、そんなことしていいの?」
 ……どっちみち死ぬまで伊那に住むんだから、今は好きなことやらせてもらう。
「いい度胸ね」
 ということは僧侶になる決意はあるのね、と納得する。それにしても相変わらず我儘だ。優しい芙蓉さんの息子とは思えない。紗夜さんに似ているなあ、とわたしはソーテルヌをこくりと呑む。すかさず、
 ……独り飲み?
「さあね。うん、でもそうよ。あなたは寮にいるの?」
 ……友達のところ。
「ふうん」
 六時まであと十五分弱だ。従弟は何の用なんだろう。あまりアクセスしてくることはなかったのに。
 ……透姫さん、変わらないな。
「何が」
 ……俺の友達、どんなやつとか気にならないの?
「ならない。なんで?」
 ……それだよ。透姫さん彼氏いないでしょ。
 わたしは黙った。この言い草は何。
 ……詩杖も夏夜もそうだったんだ。ママも。どうしてうちの女たちはこうさらさらしてるんだろう。でもそのくせ詩杖は大恋愛してたんだ。
「あなた、酔ってるでしょ」
 ……わかる?
「未成年はまずいんじゃない」
 ……周りの半分未成年だよ。
「それ理由にならない。誰と飲んでるの」
 ……スタコラーズ。
「みんな十代?」
 ……吉良は二十歳。アンジーは七十二歳。あとは九歳、十八、十九。
「若いなあ」
 携帯の向こうで音楽が聴こえ始めた。緋郎は移動しながらかけてきたらしい。ざわめき、話声が混じる。音楽は何だろう。こっちのサティに紛れて…。なんで電話してきたの?
「こないだ、心霊体験したの」
 …え?
「ラジオから詩杖と夏夜がアクセスしてきた。
 ……手間かけるね、姉貴。じかに化けて出てきてもよかったんじゃないか。伊那ではしょっちゅう彼女たちつかまってたみたいだよ。
「ほんと。どんな霊に」
 ……バラエティ。ラジオもネットも、霊魂も、ヴァーチャルって言えば同類じゃないか。
「それもそうね」
 はぐらかされたような気がしたが、深く考えずに同意する。
 ……俺、紗夜さんの恋人知ってるよ。
 こっちのサティが終わった瞬間の絶妙な空白に緋郎の言葉が飛び込んだ。
 ……探しているんでしょ、透姫さん。
「そうよ」
 なぜそれがわかる。
 ……紗夜さん、俺に歌集贈ってくれてたの、ずっと。
「いつから?」
 ……十歳の誕生日から。
「初めて聞いた」
 ということは、『紗女集』を含めて三冊くらい従弟に贈ったのだろう。母は二十七歳から歌集をまとめ始めて、三、四年に一度くらいの割合で上梓していた。全部で七冊ある。歌人としては多いほうではないか。七冊のうちの二冊は、芙蓉さんとの共同制作だった。
 ……だから、彼女が死んじゃったら、絶対透姫さん探し始めるだろうと思った、紗夜の恋人を。
 六時五分前だ。わたしはリモコンでFMペイサージュを探す。雑音、騒音、どうもまたうまく入らない。酔っているせいかな。
「なんでそれを緋郎が知ってるの?」
 ……知ってるって言いたくなったから。
「答えになっていない」
 電波の向こうで従弟が笑った。低い声だ。どきりとする。そういえば、従弟の笑い声を聞いたのは、彼が声変わりする前のことだった。芙蓉さんの死以来、彼とは葬式以外の場で顔を合わせたことがない。変声期過ぎた後の緋郎の話し声の記憶はあったが、耳に残る彼の笑い声は、澄んだこどもの高声しかなかった。
 ペイサージュの番組テーマソングが始まった。けだるいジャズから変えて、ヒーリングサウンドのような軽いピアノが始まっている。
 パーソナリティの挨拶、出演者順次紹介。綴さんの声。ちっとも緊張していないな。
「で、それをあたしに教えてくれるの?」
 ……娘って、母の男関係に興味を持つの?
「…ちょっと」
 こいつ、挑発しているの?
 ……怒った?
「ちょっとね」
 ……紗夜はいやがるよ。詮索されるの。
 はっとした。そうだ、きっといやがるだろう。知られたくないから隠したことを、わたしはいつのまにか好奇心にまかせてほじくり返している。
 ……それっていやらしくない?
「あなたの電話はどうなのよ。思わせぶりに。こどものくせに」
 ……へえ、そう来るの。じゃ次までの宿題ね。
 なんだって?
 そこで通話は切れた。よくわからない電話だ。きっと買い物か何かの帰りがけに歩きながらかけてきたんだろう。大晦日の今夜、東京スタコラーズのメンバーとどこかにたむろして飲み明かすのか。その程度は許容範囲だけれど、その場にはあのグラマラスなマサカアフリカもいるんだろう。他に女の子もいるのかな、いないほうが不思議だが、それがなんだというの? 少年は孤独を喰ひて殻を脱ぐいずれ肉体春を歩めよ、これは緋郎を歌ったものかもしれない。緋郎の反乱をけしかけたのは、もしかして母なのかな。紗夜はいやがるよって、呼び捨てにするな、ばか。
 六時をだいぶ過ぎてしまった。わたしは怒りながら、ラジオに耳を澄ませる。怒っている? だけど従弟がわたしにつけたひっかき傷はほのかな甘さと暖かさを含んでいる。ちいさかった従弟はもう男性の声で笑っている。口惜しい? 笑われて口惜しい? いいえ、わたしは楽しんでいた、楽しんでいる。緋郎は異性だ。弟ではなくて。
 ……で、銀座で来年三月半ばくらいに合同展を予定しているんです。
 あ、荻さんの声が入った。ラジオから聞くと感じがかわる。普段より高くなるみたいだ。それとも緊張しているのかしら。宣伝してくれている。でも三月の半ばなんて言っていないわ。こうやって情報は歪んでゆくんだわ、百合原さんの耳に入るころには、いつのまにか日取りが確定しているか、もしかしたら桜の季節にずれこんでいたりして。でもジンさんだったら、多少のギャップは了解してくれそう。
 わたしはグラスに残ったワインをがぶりと飲み干して、片手でおかわりを注ぐ。ちょっと手元が危うい。毎年大晦日には、お母さんと紅白を見るか、DVDをかけるかしながら、こうやって手酌で飲み明かしたものだ。クリスマスには行方知れずになる母だったが、大晦日は必ず、わたしと過ごしてくれた。
芙蓉さんが元気なころは、芙蓉さん親子が遊びにくることもあった。ただし詩郎さんぬきで。小生意気に育った少年緋郎も、七つ八つのころは可愛くて、高校生のわたしたちは年の離れた弟をお人形にして遊んだ。わたしのお古を着せて正月の町を連れ歩いたのだった。鹿香八幡宮の初詣には、わたしの七五三のときに着た肩上げの振袖と、今は珍しい母譲りの子供用の金襴丸帯を結び、母も芙蓉さんもわたしたちの悪戯をとめるどころか、晴れ着の変装を面白がる緋郎の帯を、ふたりがかりで上手に変わり結びしてくれた。
「みんな無邪気で楽しかったなあ」
 なんてことだ、花の命は短くて、美人姉妹は次々と天に召され、従弟は透明なボーイソプラノからいつしか野太いせせら笑いでわたしをからかう高校生に変貌してしまった。嗚呼、とわたしはせっかくのFMペイサージュのインタビューをあらかた聞き流し、ひたひたと酔っていた。
……水を飲みなさい、二日酔になるわよ。
「あら、夏ちゃん、またアクセスできた」
 今夜は彼女たちの背後にBGMがついている。やっぱりジャズだ。ペイサージュとミラージュが混線しているのかもしれない。でも声と音楽のかぶりかたはちょうどいい。誰?。
……フランク・シナトラ。
 詩杖がささやいた。
……透姫ちゃんの推量どおり、こっちとそっちの電波が絡んでいる。
「いい声ね。今までちゃんと聞いたことなかった」
……わたしたちもたぶん初めて。
「あたしの考えていることわかるの?」
 大風が冬木立を揺さぶるような雑音がざわざわとたって、ふいに交信の邪魔をし、姉妹の声が途切れる。そこにペイサージュのパーソナリティの声音が数瞬飛んできて、またすぐに夏夜が語りかけてくる。
これ、幻聴じゃないわよね。わたしは不安になり、白葡萄酒を思わずジュースのように遠慮なく飲んでしまう。このまま一人でフルボトル空けてしまったら、確実に二日酔だ。夢かうつつかあやしい鼓膜に、夏夜のひんやりした声が響く。
……大晦日とか、水無月祓のころとか、時の節目には、幽明境の隔てが淡くなって、接触しやすくなるのよ。
「そういえば、妖怪は夕暮れとか明け方に出現するんですってね。朝と夜のはざま。雀色どき」
……かはたれどきは逢魔の時刻。
「緋郎から電話があったの」
……とうとうあの子ひとりになっちゃった。
 夏夜は哀しそうな声で言った。
「幽霊って、未来は見えないの」
 わたしは意識して舌を動かし、呂律の確かさをどうにか保とうとする。
「弟はまっとうに住職になる?」
……どうかしら……
……それぞれの道だから……
 詩杖夏夜はさわやかに笑った。降矢木の家名に配慮して筧さんとの恋をあきらめた詩杖の台詞とは思えない。
……天職を強制するなんて出来ないわ……
「住職はあの子の天職じゃないの?」
 詩杖は軽い声で答えた。
……お父さんがそうさせたいだけよ……
「緋郎はいやがってるの? そうでもないみたいだけど」
……まだ自分が見えていないから……
「バンドをやるって」
……自分探しの旅をするのよ……
 今わたしの耳が聞いているのは夏夜と詩杖どちらの声なんだろう。声だけではなくほんとにじかに化けて出てきてほしい。二人だったらぜんぜんこわくない。いっしょにお酒を飲もうよ。

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