さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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星月夜 vol7卯咲苑

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   卯咲苑

 百合原さんは鹿香丹階堂に住んでいる。工房とアトリエを兼ねた谷戸の一軒屋で、妃翠房と同じくらい古い日本家屋だった。
 クリスマスの翌日店番に来てくれるはずだった香寸さんはインフルエンザに罹患したためにお休みし、急遽乃菜に代わってもらった。
発熱は年末いっぱい続き、年明け三日からの妃翠房の仕事始めにも出勤できなかった。わたしは母から預かった最後の香寸さんへの贈り物を持って、谷戸にお見舞いにうかがうことにした。
 正月三ヶ日は八幡様への参拝客で、鹿香と、ここに近接する香枕界隈は観光過密状態になる。通交規制がかかる乗用車はもとより、バス・タクシーなどの交通機関も平常どおりにはまわらない。谷戸とはいえ、百合原さんのアトリエ卯咲苑は、丹階堂明神の裏手で、やはり鹿香の観光スポットのひとつだから、満員のバスに乗る面倒を避けて、妃翠房から自転車で行くことにした。  
店は乃菜と綴さんに任せた。乃菜はともかく正月早々家庭持ちの荻さんに来てもらうのは気がひけたが仕方がない。去年までは香寸さんと母だけで正月をきりまわしていた。
意外もしれないが、初詣のお客が妃翠房で散財することは割合少ない。きっとうちで扱う品物が参拝レクレーションのついでに支払う慰めものの額にしては高すぎるのだろう。とはいえ参詣の宮大路がすし詰めになるほどの混雑だから、わたしたちも集客を工夫して、このひとたちの意想にかなう程度の安価でかわいいファンシーを棚に並べていた。
 香寸さんの工房では手縫いの袋物や和紙細工も作っており、うちの商品の何分の一かは卯咲苑から仕入れている。百合原さんの工房で手仕事をするひとたちは、みな軽度の知的障害者または聴覚障害ということだったが、出来上がってくる品々はどれも精巧でセンスがよかった。卯咲苑、これはうさぎと濁って読み、工房のマークは三日月の縁に乗った兎と桔梗の花だ。
 山間の古都鹿香は起伏が多くしかも急坂が多い。丹階堂までもゆるい上り坂で、電動自転車がうれしく感じられる。鎌倉時代に山を人力で切り崩して開いたいにしへの道は、近代に整備舗装を重ねて車道になっていたが、たっぷり二〇分、えんえんと山裾をまがりくねる登り坂サイクリングはかなりきつい。バスの車窓からのんびり眺めるなら、湘南の山間風景は真冬でもゆたかに風雅なのだけれど。
 八幡宮付近の交通規制から出ると、自家用車の渋滞が続く。歩道はぞろぞろと徒歩の観光客。丹階堂までにはいくつかの神社名刹があり、その前を通り過ぎるたびに、人溜りに走行を遮られる。混雑は鹿香の繁栄の保証だ。
 それでも表通りから山道に入り、百合原さんの住まいに近くなると、しいんと静寂が来る。温暖な湘南の山肌は一月の今も緑が残り、湿った黒土や岩の露出に、枯れ果てぬ蔦かづらが鮮やかな朱色に絡んでいる。夏にはこの鬱蒼とした崖に、あふれるほどの山百合が群がり出る。神奈川の県花にされるのも道理、半世紀前には、あちこちの野山に百合の群落が踊るように咲いたそうだ。葛原妙子さんのエッセイからの知識だったろうか。
 百合原さんの苗字も、きっとそんな由来だろうと思う。祖父の代に若狭から神奈川に移住した水品とは違って、彼女は先祖代々の地元民だ。
 鉄の門扉も石を積んだ塀も古く、視界を狭める住宅地周囲のきりぎし同様、赤や黄色の蔦がいたるところに貼りついている。周囲の家はみな真新しく建て直されて、谷戸ながらたっぷりと陽光を浴びている感じなのだが、同じ光を享けていても、井戸のある昔からの庭を樹々深く抱えた卯咲苑はひっそりと、まるで寺社のような古蒼な風情だった。
観光客の中には、お寺さんと勘違いして邸内に入ってくるひともいると香寸さんは笑う。   
門の前で呼び鈴ボタンを押すと、しばらくして扉がひらき、見慣れない女の子が出てきた。開いたドアから、彼女といっしょに屋内のざわめきも聴こえた。正月早々主は風邪で臥せっているはずなのに、一階の工房では作業が始まっているのだろうか。
「妃翠房の水品です」
「どうぞ、お待ちしていました」
 素肌がきれいな彼女は二十歳くらいかしら。栗色に染めて肩までソバージュに揺らせた髪に、乃菜のようなビーズのピンをしている。青、ピンク、赤。屈託のないフェミニン。モヘアのアイボリーセーターに、赤と白の大きめ千鳥格子のミニスカート。すらりとした細い脚にラメを散らした黒と白のモノトーンのペイズリーストッキングは、おとなしい上半身に比べて強い刺激だ。初めて見る顔だが、聴覚障害のひととわたしにはすぐわかった。こちらに向かう視線の張り詰めかたが、耳に不自由のない一般人とは違う。
「お正月から御仕事ですか?」
「いいえ、仕事ではなくて、五月に障害者福祉ビエンナーレが長崎出島であるので、そこに出す作品について、みんなで話し合っているんです」
 彼女はわたしの口許を見つめて応える。耳たぶのピアスはイルカ。クリスタルブルー。
丁寧な発音だ。一語一語の音を確かめるように喋る。つい乃菜の話し方と比べてしまう。きっと同世代だろう。
「染色作品?」
「いえ。先生の染めた布に、みんなで何かを盛り合わせようって」
 先生、と彼女は香寸さんを呼んだ。お弟子さんなの。作業所のひとたちは、ただ香寸さんと呼んでいる。
「百合原さんの具合はいかがですか?」
「今は二階にいます。インフルエンザをみんなに伝染さないように」
 病院で処置されたから、もう伝染の心配はいらないだろうに、香寸さんらしい気遣い。

 ぬばたまの夢な忘れそ別れてもくれなゐ深き匂ひ残らむ、香寸さんへの文箱の包み紙のうらに、母の水茎が記されていた。
 香寸さんは二階の寝室にいた。室内に入るなり、日本のお香と外国の香水のまじった、彼女の体温のような暖かさがふわりと顔にかかった。いろんな匂いが混じっている。白檀とシナモン、それとラベンダー……。
主はまだ寝たり起きたりらしく、厚手の白っぽい寝間着の上に臙脂いろのガウンを羽織り、背もたれのある柔らかい椅子によりかかって、ぼんやりとテレビを見ていた。来客に寝乱れを見せないように、ベッドには萌黄と紫に大柄の絞りを染めぬいた絹のカヴァーがかけられていた。
香寸さんの頬は蒼ざめて、高熱のために痩せてしまったようだ。挨拶もそこそこにわたしが箱を渡すと、早速嬉しそうに包みをひらき、桐の手文庫より先に、紫と紅色の薄様のうらをじっと見つめ、呟いた。
「和歌ね」
「夢を忘れないでって書いてあるわ」
「紅の夢?」
「百合原さんが紅色を好きなの、お母さんわかっていたんでしょう」
「紅色が特に好きなわけじゃないけど」
 香寸さんは言いよどんで、
「感動を呼びやすい色だから。…いいえ、紗縒さんただしい、あたし紅が好きよ。色を忘れるな、そうですか。身にしみる」
「しみる?」
 わたしの疑問符を無視し、香寸さんは眼を伏せて頬だけで笑った。苦笑いのようだった。
「達筆な方だったわ。わたし紗縒さんの筆でいつか着物に書いていただこうと思っていたのに。こんなに早く逝ってしまうなんて。せめてあらかじめ教えてくれていたら」
 口調と話題を変えた香寸さんに、微妙なニュアンスを察して、わたしはそれ以上紅色を追わなかった。
 母は死の寸前まで、ほんとうに当日までわたし以外のひとに報せなかったのだ。もちろん店には出勤できなかったが、雇い人たちには旅行だとか作品制作とか、いろいろ嘘をつきながら、最後の数ヶ月をつくろった。
「百合原さんだってきれいな字じゃないですか」
「筆の色合いが違うの、この方とわたしは」
「色?」
「そう。墨にも色合いがあるの。濃淡とは別にね。まねできないものよ」
 百合原さんは細面のきれいな人だ。三十七歳で、中学生の男の子がひとりいる。御主人とは七年くらい前に離婚し、そのときから妃翠房で働きはじめた。実家は鹿香でも老舗の和菓子舗で、経済的な理由からではなく、気分転換が必要だったのだろう。祖母が亡くなったあと、妃翠房を始めた母は、香寸さんにずいぶん助けられていた。このひとがいなかったら店は無事に軌道に乗らなかったろう。
店頭での接客、作品提供、事務会計、こまごました雑務のほか、百合原さんは和菓子屋の実家のつてを生かして、たくさん顧客をひっぱってくれた。上生を日常に好むようなひとは、母や香寸さん、荻さんの作るものも好んでくれる。
三年前に乃菜が入って、香寸さんは妃翠房からやや離れて、卯咲苑の経営に力を入れるようになった。御主人と別れたあと、それまで趣味だった染色を生活の中心にしていたが、さらに自宅の一階を大幅に改造して社会福祉工房にひろげたのである。
ノックの音がして、こちらの返事を待たずに、さっきの女の子が、お茶の盆を運んできた。お抹茶と生菓子だ。はなびら餅。母の忌みを口実にした不精のために、大晦日の白葡萄酒以外、節句らしい料理を何も口にしていなかったわたしは、萩焼の茶碗にふっくらと調えられたおうすと、白味噌を包んだ半透明のはなびら餅を目にして、ようやく新春を実感できる気持ちになった。
「話はどう?」
「初めにわたしたちが加工して、それを先生に染めていただこうかなんて話しています」
 彼女は笑窪を浮かべて応えた。聴覚障害には見えない。でも視線はやはり香寸さんの顔に貼りついて離れないのだった。
「透姫ちゃん、紹介が遅れたわね、この子あなたと同い年、佐久間早織さん。去年からこっちで仕事を手伝ってもらってるの」
「ずっと年下かと思いました」
 正直に言うと、香寸さんは、
「今はいつもすっぴんだからね。お化粧すると早織ちゃん迫力あるの」
「ええ、そうは見えない」
 早織はあどけなくて、にこにこ笑っている顔つきは、まだ高校生のようだ。
 香寸さんは早織に向き直り、ゆっくりと、
「あなたがたが生地をいじってから染めるのは難しいですよ。あなたたちが苦労した作品に色をかけたら、全体がだいなしになるってこともある」
「そうならないような装飾をしようって」
「でも、それでは結局わたしの染めが目立ってしまって、みんなの共同制作というフルオーケストラにはなりません。コネでまとまった広さの展示ブースを必ずもらうわ。参加者全員小物でソロを主張できるペースはあるから、ひとつは大きなシンフォニーを出しましょうよ」
 堂々とした香寸さんの言葉に、早織はすなおに頷いていた。的確で派手な修辞、とわたしは感心する。そうか、色彩工房卯咲苑オーケストラ。どんな彩りが鳴り響くんだろう。
「わたしも透姫ちゃんたちに新年のご挨拶があるの」
 香寸さんは立ち上がり、窓際の整理箪笥からいくつかの包装を取り出した。ついでに彼女のガウンと同じ臙脂いろの遮光カーテンをひきあけると、南西の腰高窓から午後の光がながく室内に射し込んできた。
彼女の寝室に入ったのは、そういえば初めてだ。昔のままの畳に妃翠房にあるものと同じようなペルシャ絨毯を敷き詰め、つやつやした木の家具の曲線がきれいだ。ところどころの植物文は、アール・ヌーヴォーのレプリカかもしれない。ベッドサイドランプは陶器のエンジェルが百合ランプを肩に抱え、腰をひねっている。
贅沢で、装飾がたくさんあって、絵本の王女さまの部屋みたい、とわたしは眺めた。内装を洋間にせずに、もとの和室のままに手入れを重ねて残しているのが、かえって大正の折衷ロマンチシズムめいて華やかだった。
 漆塗りの整理箪笥から包みを出して、香寸さんは窓の外をまぶしそうに眺めた。ふと所作が止まって、こちらを忘れたように庭に視線を落としている。
「どうなさったんですか?」
 気分が悪くなったのかと声をかけた。
「透姫ちゃん、見える?」
「何が?」
「あの井戸よ」
 香寸さんの肩ごしにそちらを見ると、昔は釣瓶で汲み上げていた古井戸は、今は木の柄のついたポンプになっている。足柄山のどこかの廃校からわざわざもらってきたポンプの赤銅いろは、卯咲苑で使い込まれて金褐色にぴかぴか光っている。ポンプの周囲は染色に使う植物のひろい花壇になっていた。
姿のよい梅林で外壁側の三方を囲んだ敷地は、外からこの家を想像するよりぽかぽかと日当たりがよく、冬でも植物園の半分くらいは青味を残していた。井戸などは裏庭にあることが多いのだろうけれど、ちょうどそこに水質のよい源泉があって、この家を建てた先々代は、植物園のあったところに、井戸を囲むあずまやをこしらえ、夏の夕涼みを楽しんだとか。今この天然水は彼女の染色に使われている。水質は色彩を左右するのだった。
「わたしね、ときどきあの井戸の前に幻を見るの」
 窓を向いたままの香寸さんのつぶやきは早織には聴こえない。早織は自然な微笑を浮かべたまま、香寸さんの背中を眺めている。彼女は先生の独白のなかみをもう知っているのかな。
「どんな幻影なんですか?」
「幻影か幻視かわからないのだけれど、あそこの井戸の傍に、ぼうっとたちのぼる紅色の灯みたいな影が時々見えるの。今も見えた」
 香寸さんは人差し指を向けた。荻さんの指輪を嵌めている。路傍の石を研磨したメインストーンの周囲に、芥子真珠を連ねて白金の台に埋めた指輪。石英の混じる主石は磨かれて、薄青い地肌にラメのような箔をきらきらと散らす。オパールか瑪瑙の一種と皆思うだろう。
 小春の光が井戸の周囲でのどかに踊っている。井戸端にはもうたんぽぽが咲いている。わたしに見えるのはそれだけだ。
「曼荼羅が見えるってことは、よくあるそうですけど」
 わたしは誰かから聴きかじった心理学か神秘学かの知識を頭の中からひっぱりだした。
「チャクラとかチャネリングとか、そういう感じですか?」
 香寸さんは吹きだした。からりとした笑いで、
「そんな大袈裟なものじゃないわよ。でもね、内面の投影なんだろうとは思ったわ。幽霊のようには見えないものね。どうして井戸端なのかわからないけれど、気持ちが煮詰まってくると、庭に紅がたちのぼるのよ。あたしそれ紗縒さんに言ったことなかったのに」
「昔から見えていたんですか?」
 何気なく尋ねたわたしの問いに、香寸さんは笑顔をおさめて、首を振った。
「ある時期から」
 そして香寸さんは包みを差し出した。今年もよろしくお願いしますね。
 やわらかい手触りに手ぬぐいか何かと思ったが、麻のブックカバーだった。ハードカヴァー用と文庫本サイズの二枚。いや、麻じゃない。縒りの太い糸でしっかりと緻密な手織りだけれど、生なりに見えて、微妙に糸の色がところどころで変わる綴れ織りだ。裏表に丁寧な花模様の刺繍がほどこしてある。
「早織ちゃんのお母さんの作品」
「母のじゃないです。母の作業所に来ているひとの織ったものに、別なひとが刺繍して」
 香寸さんの口許を見て早織はいそいで訂正した。彼女のお母さんも、香寸さんと同業らしい。そういう伝手でこのひとは卯咲苑とつながったのか。カバーの間から、ひらりと栞が現れた。鹿香に多い桜の樹皮を長い楕円に薄く剥ぎ、透明樹脂のコーティングがかけてある。この樹脂は何だろう? 仕上げむらがある手触りも手仕事らしくいとおしい。表には卯咲苑のマークが焼いてあった。新年の縁起ものだからカバー二枚にプラスして、陽数にしたの。
「紗縒さん、ここに来たことあるのよ」
 窓のほうを眺め、わたしに端正な横顔を見せて香寸さんはつぶやいた。前髪をゆっくりとかきあげ、額の上で自分の髪をひとつかみ握ったまま、
「そのとき紗縒さん、この窓から外を見て言ったわ、いろいろなものが昇ってくる庭ねって」
「いろいろ昇ってくる?」
「そう。わたしぎょっとしたの。もうそのころは紅色の幻影が頻繁にあの井戸端に立つようになっていたから、彼女にも何か見えたのかしらと思った。でもわたし自分の眼に映るものを彼女に言えなかった。でも聞いてみたわ、何か見える?って」
「お母さんは何て」
「別に具体的なことは何も言わなかった。まだ妃翠房に入ったばかりのわたしに、彼女は遠慮したのかもしれない。あのころすごくわたしは不安定だったの。桂と二人暮らしになってから手芸仲間とスタジオをたちあげようとしていたけれど、心の芯が抜けてしまったようで、へろへろって感じ」
「そんな風には全然見えませんでした」
「あたし外仏だから」
 あっさりと香寸さんは言い、さらに、
「夫婦の破綻をもろに蒙ったのは桂。かわいそうなことをしたわ」
 桂くんは彼女の一人息子。中高一貫の私立中学に通う十四歳。今日はいないのかな。学校は休みのはずだが。
「桂くん、何か困るようなことが?」
 立ち入りすぎかな、と思ったが、香寸さんの雰囲気にひかれて訊いた。いつのまにか早織は消えていた。階下では、何か賑やかな笑い声や、椅子を動かす物音がする。
「七歳だったけど、あの子はいろんなことを、もうちゃんとわかっていたの。何も言わなかったし、わたしたちが別れたとき、責めも泣きもしなかった」
 話の流れがねじれてきた。この突然の独白はいったいどうしたんだろう。今さっき香寸さんの眼に見えた紅の柱が、彼女を動揺させているのかしら。彼女の視線をなぞってみても、やはりわたしには見えない。母には何が見えたのかしら。
「わたしね、今ならわかるの。わたしに見える紅色の幻影は、きっと水品ママにも見えたのよ。紅かどうかはわからないけれど、透姫ちゃんにも、早織ちゃんにも見えない。あなたたちは、ほんとに」
 と言って、香寸さんはわたしを真正面に向き直り、血の気の薄い頬に微笑をひろげた。口紅を塗っていない、いや、蒼白に見えた顔には、うっすらとたしなみの化粧をしていた。当然口紅も。グロスが光線の加減でなまめかしく光る。濡れたようなくちびるだ。
「最後までひとを恋ふる歌をうたっていたわね。そのひと、何色だったのかしら」
「面白い言い方なさいますね。誰か、じゃなくて何色か」
「彼女の人生にどんな着色をしたのか知りたいと思ってるの」
 香寸さんの眼がきらきらと光った。
「歌だけじゃ物足りないですか?」
「ひとって貪欲でしょ。いえ、言い逃れみたいだから、わたしが貪欲なのよ。紗縒さんが好きだから、彼女の人生の軌跡を左右したかもれないひとをしりたいわ」
「わたしもそう思いました。このひと誰なのって。手紙もメールも、母は何も恋愛らしい足跡を残さなかったから、なおさら。恋人は父じゃありません。母が亡くなったあと、実の父親に初めて会いましたけれど、歌の対象には見えませんでした」
 いっきにしゃべってしまって、わたしはほっと息を吐いた。なんだか胸のつかえがとれたみたいな気がした。
 香寸さんはわたしの顔をじっと見て、
「こういう言い方、あなたに理解できるかしら。わたしね、もしも紗縒ママの恋人と出合ったら、そのひととねんごろになりたい、と願っているのよ。彼女がわたしにも誰にも告げずに死んでしまってから」
 何、とごくふつうに絶句する。そこまで複雑な心理はわたしにはわからない。小説ではよくあるじゃないか。母親の恋人を娘がどうとかする。ハーレクインばりの展開だが、わたしは辞退するぞ、考えたこともない、いや嘘かも、え、どうしたんですか百合原さん。
「そんなに目を白黒させなくてもいいんじゃない?」
「とんでもないですよ。返事のしようがないわ」
「あなたって、水品のわりには……ああ、だから紗縒さんの娘なのね。きっとあなたたち母子って、そっくりよ」
 ますますわからないことを言う。ばかにされているような気がする。それでは言葉が過ぎるだろうか、ではもうすこし穏やかに、
「あの、香寸さん、わたしのこと、その、舐めてません? ごめんなさい失礼な言い方」
「舐めたら美味しいでしょうね。わたし水品ママを舐めてみたかったかも」
「……」
 またしても言葉が出ず、完全にうちのめされそう。十年後、わたしは香寸さんのような恐るべきマダムになれるだろうか。ひらりひらりと脳裏に寒牡丹のはなびらが舞う。もちろん深紅いろの。鹿香八幡宮の牡丹園は雪吊りをして、そろそろ見ごろだ。
「透姫ちゃん、あの難しいひとが、そうたくさんの男性に惚れたとは思えないのよ。だから、いったいどんな素敵な男なんだろう、彼女の心を捉えて終世歌の源になった恋人なら、きっとわたしの紅色の幻を駆逐するくらい魅力があるでしょうよ」
「そうはいかないんじゃないですか」
 がんばって一矢は報いる。
「なぜ?」
「だって百合原さん、わたしと母がそっくりなら、母の恋人が出現したら、わたしのほうが有利でしょう」
 その瞬間、自分の口にした台詞のとんちんかんに、顔が赤くなった。言葉はだいじにしなくちゃいけない。わたしこんなこと考えていなかった、はずだ……いえ。もしかしたら。
「ね、そういう願望あるでしょ」
 わたしが放った一本の矢は、スローモーションでマダム百合原の脇をすりぬけ、彼女は優雅にそれを掴んだ。彼女は無傷だ。
「きっと、これから先、たくさんのひとが彼女の恋歌の主人公を探し始めるかも」
「それスキャンダル。パパラッチ的興味」
「エロティシズムの幻影がまつわりつかない女性なんて、魅力がないわよ。男性だってそうだわ。読者はいつもハーレクインを期待するのよ。メロドラマをね」
「お母さんにメロドラマはなかった」
「そういう場合は、捏造するのよ」
「……わたし発熱しそう」
「わたしのインフルエンザが移ったかしら」
「だとしても潜伏期間があるはずです」
 ほほほ、と香寸さんはマリー・アントワネットのように口許に手をあてて笑った。何故アントワネット? 単純に顔が似ているからだと今気がついた。色白面長に受け口、ハプスブルグの顎をしている。
「透姫子さんのおかげで、わたし気分が復活したみたい。一階に下りましょうか」
「はい…」
 しおしおと肩を小さくして百合原さんのうしろについてゆく。香寸さんは背中をすっとのばし、花模様のスリッパを履いた足取りも思いなし軽い。貫禄勝ちの彼女から鼻唄でも聞こえそうな感じ。
 それにしても、母親に歌われた主人公はどんなひとなんだろう、大晦日に緋郎に皮肉られて、恋人探しはやめようと思っていたのに、卯咲苑のマダムにまた煽られてしまった。そういえば、百合原さんは独身だが、交際相手はいないのかしら。母が歌ったとおり、あでやかなくれなゐの似合うこの女性なら、水品紗縒どころではなく、異性をひきつけてやまないだろうに。
 卯咲苑の一階では六、七人ほどが長方形のテーブルを囲んで、楽しそうに話し合っていた。早織以外はみんな顔見知りだ。わたしたちが入ってゆくと、
「起き上がって大丈夫なんですか」
 口々に問うてきた。
「透姫子ちゃんのおかげですっきりしたわ。で、話は進んだ?」
「香寸さんがだめだししたから、また振り出しにもどっちゃった」
 舌たらずな口調で答えたのは、知的障害の女の子。障害といっても、日常の軽易な労働、たとえば簡単なネット操作、裁ち縫い染色もできる。覚えた仕事は普通のひとより時間はかかるが丁寧だ。けれども、彼女はひとつの仕事を終えると、次を自力で始められない。誰津かの指示が必要なのだった。そして指示をするひとは、彼女の心をゆるす相手でなければならなかった。自分を受け入れてくれ、またこちらも好ましく思う相手でなければ、彼女の心は石になった。直感で相手の内面を見抜く繊細さを、ひとは時折病疾と呼んで差別する。
 だが、歌人で画家の水品紗縒に育てられ母親同様、堅固で健全な社会の枠からすこしはみだしている自覚とともに生きているわたしは、母の厖大な詠草の数々が、きっといくらか病疾、と呼ばれる心の偏りから生まれてきたものだろうと思わずにはいられない。健康、健常とは、まったく文字どおり、大地にしっかり立ち上がり、常の領域でたくましく生きていることなのだ。そのためには、彼も彼女も身心において鈍感であることが不可欠だ。健康の秘訣は鈍感ではないのだろうか?
 またこうも言える。鈍感さとは命にたいする思いやりであると。生きることを大切にするなら……自分の命さえ他者とみなして、礼儀正しくふるまおうとするなら、些事や瑣末に鈍くならなくてはならない。自分を生かし、また周囲をも労わるために。
 あれ、では紗縒さんは頑丈だったのかしら。そうかも、そういうしたたかさがあったのかも。堂々めぐりだ。だってお母さんは死ぬまでわたしを哀しませなかったもの。わたしお母さんが余命告知されてからいっしょに過ごした半年間が、お母さんとの時間の中でいちばん愉しかった。
でも、あなたは苦しかったし痛かったのよね。死後彼女の洋服箪笥の奥から、ありとあらゆる飲みかけの鎮痛剤が出てきた。モルヒネは劇薬で、意識混濁を起こす。歌を紡ぐとき、彼女は市販薬でしのいでいたのだ。
 そして恋をしていた。誰に? 時折の外泊先をわたしは尋ねなかった。死の寸前まで歌はうたわれ続けた。あなたは誰? 癌のうねりを我は抑へず死顔も君に逢ふたびつややかにして、逢うたびに死んでいった、死に近づいていた母の前にいたひとはどんなひと。わたしの心はまた動き始めた。もしかして百合原さんも探しているの?
 香寸さんは二間続きの向こう、西側のアトリエに入っていった。まだ寝間着にガウンを羽織ったままだ。暖房しているとはいえ、寒すぎないかしら。
「透姫ちゃん、これどう?」
 香寸さんはアトリエの一角に三つばかりならんだ大甕を見せた。高さはわたしの腰くらいまであり、胴回りはひとかかえもありそうな重厚な素焼きの甕だ。なんだろう。どこの焼き物かしら。
 古屋の中でアトリエの部分だけは大幅に改造して、住居の面影をまったくとどめない。床以外の壁と天井を漆喰で塗り、床板はフロアリングではなく、足柄の校舎から運んできた木材だった。そこに染色の壷や甕などがいくつも置いてある。染料の植物と媒材の匂い。室内の隅には繊維を煮る竈があった。みんなが集まっている隣室とドア一枚隔てただけだが、正月にここは火の気を消して薄暗く、冷たい外気がすうすうと周囲を動いていた。
「何焼きですか?」
「韓国からとりよせたの。もともと染料の甕じゃないのよ。なんだと思う?」
 なるほど見慣れた藍甕にしては風合いが違う。素焼きらしい生地もしっかりしているがこの大きさの割には、同じような日本の焼き物より薄く、中を覗き込むと、土の匂いと、藁の匂い、それにもっと香ばしい、なんとも言えずなつかしい匂いが残っている。
「わからない」
 うふふ、と香寸さんは悪戯っぽく笑った。今度の笑いは無邪気な好奇心でいっぱいだ。
「また恐いもの知らずの試行錯誤なんだけれどね、これ味噌の甕」
「はい」
「韓国味噌、テンジャンって、朝鮮王朝時代は、ほんとにデリケートで美味なものだったのよ。おいしい味噌を発酵させるために、味噌甕は、わざわざ風通しのよい木蔭に置いたの。植物と風邪と光と、大地の湿度が、ゆっくりと麹に作用して、えもいわれない美味を調整したそうよ」
「だから?」
「わたし、これで自分の色を発酵させてみたいの。いろんな素材を重ねて、もうひとつ奥行きというか、深みが欲しい。それから染め上がったあとの耐性も。おいしい味噌ができるなら、きっと極上の色を醸すことだってできるわ」
「すごい飛躍ですけど、成功したらすてき」
「でしょ? 発酵というのは言葉のあやだけれど、この百年以上前に使われた味噌甕に色を寝かせて、葡萄酒のように変化を測ってみるつもり。時間が経てばあらゆる色は褪せるもの。だからこそゆっくり醸成して。風と光と時間と」
「そういえば、何百年経っても褪せない色がありました」
「中世ミニアチュールね。樹脂の魔法。練り上げてから、すくなくとも十年は寝かせて、聖画の彩りを永遠にした」

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